愛川欽也 あいかわきんや (1934-2015) タレント

èキンキン

也」の重ね言葉で、強意の愛称である。また、ラジオやテレビ番組で司会のとき、金属的な甲高い声で闊達に喋りまくるイメージも含まれている。

 

相生五右衛門 あいおいごえもん (1680-1755) 力士で、関脇

è一本

19歳のとき阿波府中村は(いん)(やく)明神の夜相撲に飛び入り、「一本」と名乗り勝ち続けた。以来「一本」が彼の通称のように用いられる。身長は6尺とまあまあだが怪力無双で、23歳のとき関脇ながら時の大関大森次郎右衛門を力でねじ伏せ名を挙げた。

 

哀川翔 あいかわしょう (1961- ) 俳優

èVシネマの帝王

ストリート・パフォーマンス集団の出身。幅広い役柄をこなし、東映ビデオなどで多数の作品に出演。平成16(2004)年に出演数100本を超えた。

 

相倉久人 あいくらひさと (1931-2015) ジャズ評論家

èダンモの神様

雑誌『ミュージックライフ』などに旺盛にジャズ評論等を執筆し、モダンジャズ評論第一人者の地位を不動にした。週刊誌に〈ロックの哲学者〉との評も見られる。

 

アイ・ジョージ (1933- ) ラテン歌手

è鳥獣男

週刊誌(女性自身、1978.1.24)上で「日本人の祖先は鳥だ」と発言、物議をかもして右翼から命を狙われたりした。ご本人はフィリピン人の母親を持ち、石松譲治という日本人名の国籍を持つことから〈混血の一匹狼〉とも渾名されている。

 

愛染恭子 あいぞめきょうこ (1958- ) ポルノ女優

èハードコア女優 

昭和55(1980)年にポルノ映画「白昼夢」に出演、相手役の佐藤慶との本番演技(真偽はもちろん不明)により名付けられた。後にインターネット上でカウンセラーもこなしているところを見ると、肉体だけが売り物だけではなかったようだ。

 愛知揆一 あいちきいち (1907-73) 政治家で、元蔵相

èボクちゃん

名うての酒好きで知られた。酔い癖で〈ボクちゃん〉を連発したため、飲み仲間が愛称代わりに使ったという。

 

間の川又五郎 あいのかわまたごろう (1815-1875) 幕末・維新期の博徒・旅籠屋経営者。本名は佐山忠輝

è二足わらじの又五郎

実名は安藤粛太郎。関東内外の喧嘩で負け知らずの実績を残し、すっかり名を売る。あるとき某人の説諭に接して改心し、旅籠屋を営みながら目明しとして捕り縄を預かる。この変貌ぶりに、取締りの主客転倒となったかつての仲間は〈二足わらじの又五郎〉とあざけった。

 

青井忠雄 あおいただお (1933- ) 月賦百貨店「丸井」社

è一・五代社長

父の忠治は丸井の初代社長である。忠雄の名は変名で、入社以来、数かずのアイデアと手腕で丸井を庶民感覚の百貨店に育てあげ、昭和47(1972)年に39歳で社長に就任。そのさい過去の実績を自己評価し、自分は二代目ではなく〈一・五代社長〉である、と宣言した。

 

あおい輝彦 あおいてるひこ (1948- ) 歌手・タレント

è28歳の子供

天真爛漫さがもとで、マスコミなどから自分に付けられた渾名であると告白(週刊平凡、1976.12.9) している。

 

葵の前 あおいのまえ (生没年未祥) 平安時代の女童

è葵女御

高倉天皇の女房に仕えた悲運の女童。12歳のとき天皇に目をかけられ寵愛を受ける。他の女房らがやっかみ半分に奉仕する成人女に擬し〈葵女御〉と陰口を叩いた。まもなく妊娠した彼女は、肉体的に幼すぎて予後が思わしくなく、天皇からも疎遠にされ若くして亡くなった。

 

青江三奈 あおえみな (1945-2000) 歌手

èため息三奈

看板歌「伊勢佐木ブルース」や「恍惚のブルース」で披露したため息スキャットが、この渾名をもたらした。思わず歌唱の情景につり込まれてしまうようなムーディなため息ぶりである。

 

青木功 あおきいさお (1942- ) プロゴルファー

è百姓ゴルファー

千葉県出身、多弁なうえインタビューなどで千葉弁を交えて話すことから、このマイナスの渾名が付いた。しかし〈世界の青木〉とも評され、その巧みなテクニックにより、日本人プロゴルファーとしては国際的知名度は抜群である。

 

青木昆陽 あおきこんよう (1698-1769) 儒者・蘭学者

è甘藷(かんしよ)先生

幕府の殖産計画を背景に、かねてから救荒食料として甘藷(さつまいも)に目をつけ、江戸目黒村でこ

れを試作。やがて全国的に普及させた功績で昆陽の名は広く知られ、この親称を付けられるに至った。甘藷栽培の画期的研究書『蕃薯考』を著している。

 

青木茂 あおきしげる (1922- ) 経済評論家で、国会議員

è窓際代表

サラリーマン新党を立ち上げた党首として知られる。クビ宣告におののく窓際族という、彼の世代年齢から見ても同世代の共感を呼ぶ渾名である。

 

青木繁 あおきしげる (1882-1911) 明治の洋画家

è呪われたる天才

日本画壇にロマン主義を導入し、実力があるのに受賞などに恵まれず、28歳の若さで死去した。掲出はそうした彼の生き様を評した長谷川如是閑の人物評(日本および日本人、1913.5.15)である。

 

青木周弼 あおきしゅうすけ (1803-63) 幕末の漢方医で、萩藩医

è牛痘の父

医学校「好生館」 を創設。当時流行し始めた天然痘予防のため長崎に留学し、種痘法を研究した。当時の困難を極める状況の下で種痘の実施普及に努め、さらにコレラの予防と治療にも身を挺して働いた。

 

青木周蔵 あおきしゅうぞう (1844-1914) ドイツ公使・外務大臣

è和製ドイツ人

ドイツ在住が長く、話す言葉も発想もドイツ人そのもの。時の総理伊藤博文と対立関係にあり、伊藤の施策には妥協しなかったので官僚ポストの上でも冷遇された。写真のカイゼル髭が渾名を象徴している。

 

青島幸男 あおしまゆきお (1932-2006) 作家で、東京都知事

è意地悪婆さん

青島は自作のテレビドラマ『意地悪婆さん』に出演、調子に乗りすぎ悪乗りとの評判がたった。しかしテレビを通して大衆の心情を巧みに表し、ズケズケ物言いするシタタカさは〈意地悪婆さん〉に通じるところがあると、妙な評価も得た。

 

青田昇 あおたのぼる (1924-97) プロ野球選手・監督

èジャジャ馬

巨人軍での現役時代は、向こうっ気の強さと強打プレーで知られ、〈ジャジャ馬〉とニックネームされた。ただ、ジャジャ馬の渾名は男の場合は用いないのが普通であるという点で異色。青田の3番と川上哲治の4番は「名コンビ」「日本一の3番・4番」といわれたものである。

 

青柳有美 あおやぎゆうび (1873-1945) ジャーナリスト・牧師

è筆禍本文士

牧師という職業イメージとは裏腹に、軟派文学に手を染めた奇特な人。代表作に『恋愛文学』『性欲哲学』といった性書を書き、その多くが官憲の手で発禁処分されている。そのため出版社は彼を〈筆禍本文士〉としてブラックリストに載せていた。

 

赤井直正 あかいなおまさ (1698-1769) 戦国武将

è悪右衛門

赤井家持て余しの二男坊、通称を右衛門といった。〈悪右衛門〉の渾名の由来には伝説的な二説がある。1つ、幼少にして外舅の萩野を殺害するほどの悪者であった。2つ、7歳のとき怪物を斬って退治したとうわさがたったが、あとで石の仏像であったことが知れわたる。

 

阿嘉犬子 あかいぬこ (生没年未詳) 

古代琉球の詩人で、『琉球万葉集』に入集

è下の世のぬし

大昔、琉球南部は「下の世」と俗称され、阿嘉犬子はそこの領主であったことからの異称。別に〈按司(あじ)(諸侯)の又の按司〉とも呼ばれた。

 

赤井英和 あかいひでかず (1959- ) プロボクサー

è浪速のロッキー

赤井は昭和58(1983)年、大阪府立体育館における大和田正春との対戦で生死を分ける重傷を負った。その後プロの道は断念し、母校でコーチをしながらテレビのバラエティ番組などに顔を出している。つまり、うだつの上がらぬプロボクサーというイメージが、米映画『ロッキー』の主人公とぴったり重なり合ったわけだ。現役当時、リングに上がるときのテーマミュージックも『ロッキー』であった。

 

赤尾敏 あかおびん (1899-1990) 思想家で、大日本愛国党総裁

è反共の鬼将軍

渾名は猪野健治が発信源で広まった。東京の有楽町での街頭演説で熱弁を古い、年輩者には顔なじみの人物であった。この徹底した国粋主義者も、若い時は社会主義者だったというから、人はわからないものである。

 

赤尾好夫 あかおよしお (1907-85) 旺文社社主

è受験の教祖

昭和6(1931) 年に欧文社(現・旺文社)を創立。学生・生徒の受験問題の添削を主路線に、なじみの「豆単」などの刊行で教育出版界の雄となった。

 

赤木圭一郎 あかぎけいいちろう (1939-61) 映画俳優

èトニー

夭折したアイドルスターだけに、没後さまざまな伝説じみた逸話が飛び交っている。〈トニー〉というニックネームの由来もその一つ。これは甘いマスクで知られたハリウッドスター、トニー・カーチスに似ているから、というのがもっぱらの説だが、定かではない。また赤木は〈和製ジェームス・ディーン〉(同様に自動車事故で早世)との別称をもつが、この名付けは赤木に対していささか失礼ではなかろうか。

 

明石志賀之助 あかししがのすけ (生没年未詳) 江戸前期の力士で、初代横綱

è日の下開山

寛永(1624-44)頃勧進相撲を興したと伝えられているが、伝説を伴う不透明な部分が少なくない。ともあれずば抜けて強い相撲取りで、初代横綱に認められ、〈日の下開山〉の畏称を与えられている。この日の下開山はやがて強い相撲取り=横綱の代名詞になった。

 

明石照子 あかしてるこ (1929-85) 宝塚歌劇スター

èテーリー

宝塚では二枚目男役で売り出し、芸名の照子(本名は松見孝子)を洋風にもじった〈テーリー〉の愛称で親しまれた。

 

赤瀬川原平 あかせがわげんぺい (1937-2014) 作家・美術家

è老人力先生

平成10(1998)年に著作『老人力』が毎日出版文学賞を受賞、「老人力」は老後人生との積極的な取り組みを示した流行語になり、この人の代名詞にもなった。

 

赤染衛門 あかぞめえもん (生没年未詳) 平安時代の女流歌人

è匡衡(まさひら)衛門(えもん)

この人、平安の歌詠みとして有名である。男かと見まがう名前だが女である。赤染時用の娘に生まれ、若い頃源雅信の娘倫子に仕えた。貞元元(976)年大江匡衡(まさひら)の妻となった。その良妻賢母ぶりは評判になり、夫を立てる匡衡夫人との意味で〈匡衡衛門〉と呼ばれた。

 

赤塚不二夫 あかつかふじお (1935-2008) 漫画家

èペラ夫

テレビなどマスコミによく顔を出す。天衣無縫なおしゃべりの様子がマスコミで評判になり、〈ペラ夫〉の名を高めた。また昭和42(1967)年『天才バカポン』(『週刊少年マガジン』連載)の大ヒットで〈ギャグまんがの王様〉という異名も貰っている。

 

赤塚行雄 あかつかゆきお (1930-2015) 評論家

è流行語博士

東大生時代から評論活動に入る。「恐るべき子供たち」「ジェスコミ」などを創り出し流行させた。漫画から社会風俗まで幅広く手がけ、著作も多い。

 

赤松満祐 あかまつみつすけ (1373-1441) 室町中期の武将で、中国地方の守護

è三尺入道

満祐は背が低く容貌も醜かった。時の将軍足利義教は会うたびに彼をからかって〈三尺入道〉と呼び、犬や猿をけしかけた。満祐は我慢も限界に達し、嘉吉の乱の原因、酒宴中の将軍殺しを図ったと伝えられている。しかし真因は所領問題のこじれで、事ごとに疑心暗鬼に陥った満祐が思いつめての結果、ということに落着している。

 

阿川弘之 あがわひろゆき (1920-2015) 作家

èアンパン坊や

物書き仲間の遠藤周作によると、阿川は甘いものに目がなく、「狂の字がつくアンパン坊や」という評である。(週刊朝日、1968.3.15)

 

秋川〔立木〕リサ あきかわりさ/たちきりさ (1952- ) 女優

è①変形美人(週刊読売、1971.3.15)

15歳で帝人のモデルになった美少女。結婚後は〔立木リサ〕を芸名にしている。
è②舌 出し天使(週刊読売、1973.7.27)

セクシーポーズをとりながら舌を覗かせることから。

 

あき竹城 あきたけじょう (1947- ) ヌードダンサー

èワダスちゃん 

山形県米沢市出身で、同市の観光親善大使であった。庄内弁丸出しを看板に、「雪まろげ」「ねぶたの女」など郷土色豊かな演し物で売り出した、ヌードダンサーとしては「まじめ組」と評される。後に熟女タレントとしてテレビで活躍。

 

秋田常栄 あきたつねひで (生没年未詳) 江戸中期の銀山師

è一心万金居士

佐渡のいわゆる山師だが、珍しく恬淡で物欲のない人であった。17世紀末の没後にただ1個残された千両箱を開けてみると、中味は石ころがいっぱい詰まっている。これに一首の歌が添えてあり、「千両の小金も石に異ならずただ一心を万金にせよ」とあった。この故事から後世人は彼を〈一心万金居士〉と呼んだというが、どうも話が出来すぎていて、作り話のように思えてならない。

 

秋田実 あきたみのる  (1905-77) コント台本作家

è漫才育ての親

昭和9(1934)年に吉本興業入りし、新作のヒット漫才台本を矢継ぎ早に発表。日常の砕けた言葉で会話を進行させる斬新さによって、漫才を国民演芸のレベルへと高めた。

 

秋の坊 あきのぼう (1698-1769) 江戸中期の俳人

è北越蕉門一の名星

加賀鶴来の人だが、氏は未詳。生涯を清貧に徹し、交友関係においても貧乏にまつわる逸話がいくつも残されている。機知に富んだ句をよくし、『俳諧世説』によると、秋の坊が幻住庵に芭蕉を訪ねたとき、句による問答などが記録されている。

 

秋野暢子 あきのようこ  (1957- ) 女優

èくノ一美女

昭和55(1980) 年頃からテレビ番組で「忍者もの」に連続出演したことから付けられた異名。「くノ一」とは忍者間でいうの分解言葉である。

 

秋山真之 あきやまさねゆき (1868-1918) 軍人で、海軍中将

è智謀如湧(ちぼうわくがごとし)

掲出は東郷元帥が秋山の没後、東京青山墓地に建てられた銅像碑文に献じた一句。彼は日本海海戦において「乙字戦法」「丁字戦法」という作戦を立てて提案、実行して戦火に結びつけた希に見る戦術家であったという。

 

秋山庄太郎 あきやましょうたろう  (1920-2003) 写真家

èスカートのなかのカメラマン

週刊誌広告の女性専科カメラマンとして活躍の実績に対し付けられた(週刊文春、1963.2.4)。エッチかつ大胆な撮り口が話題になった。

 

秋山ちえ子 あきやまちえこ  (1918-2016) 評論家

èしゃべるエッセイスト

TBSラジオの名物番組『秋山ちえ子の談話室』は、とうの昔に1万回をこえるロングランを続けている。秋山自身、「しゃべるエッセイスト」としてラジオ出演では最長のレコードホルダーを誇っている。

 

阿木耀子  あぎようこ (1945- ) 作詞家

è①シャモの美女(半自称、サンデー毎日、1979.1.7)

è②中年の妖精(サンデー毎日、1980.7.6)

山口百恵のヒット曲を多く手がけたが、宇崎竜童夫人時代に映画「四季・奈津子」で35歳のヌードを披露して話題になった。

 

秋吉久美子 あきよしくみこ  (1954- ) 女優

èシラケ女優

強烈な個性派演技で知られている。物怖じしない発言でしばしば物議をかもしたことから「シラケ女優〕というありがたくないニックネームを付けられた。

 

秋竜山 あきりゅうざん  (1942- ) 漫画家

è漫画バカ

『ギャグおじさん』『親バカ天国』といった作品でナンセンスきわまる主人公を登場させた。〈漫画バカ〉はその意味で敬称とも受け取れよう。

 

芥川比呂志 あくたがわひろし (1920-1981) 俳優・演出家

è貴公子ハムレット

文学座で『ハムレット』や『マクベス』を好演しファンを酔わせる。劇団「雲」や「円」を結成。父の作家・竜之介の男前を受け継いだ風貌ともあわせ、〈貴公子ハムレット〉といわれた。

 

芥川竜之介  あくたがわりゅうのすけ (1892-1927) 作家

è自己破滅の天才

作『或阿呆の一生』に死に臨んでの哲理の一端がうかがえるし、俳号の「我鬼」も竜之介という人となりを覗かせている。没後の一口評はほかにも数々あるが、この呼び名が最もふさわしかろう。

 

阿久悠  あくゆう  (1937-2007) 作詞家

èヒット曲製造人

『北の宿から』『津軽海峡冬景色』など数々の大ヒット作を書いた、当代一の売れっ子作家。ニックネームの命名は『女性セブン』1977.10.6日号。

 

明智光秀 あけちみつひで (1526-1582) 戦国武将で、本能寺の変の首謀者

èキンカン頭

頭の格好がキンカンに似ているため、主君信長は〈キンカン頭〉と呼び捨てにしていた。光秀はまれに見る切れ者で、そのキンカン頭の中には緻密な頭脳が詰まっていた。ために主君から事あるごとに毛嫌いされ、誰の目にも主が臣をいびっているのが見てとれたという。ちなみに、光秀の生母は信長に殺されている。

 

朱楽管江 あけらかんこう (1738-98) 狂歌師

è丸ののや

筆跡で「の」の字に丸味を帯びた書きぐせをもつことから。そのところを売りにして「のの字庵」とも号す。朱楽管江は狂号、本職は薄禄の幕臣だが遊興好き。狂歌では天明狂壇三長老の一人であった。

 

阿佐井野宗瑞 あさいのそうずい (-1521) 室町時代の婦人科医

è阿佐井野婦人科

堺出身の町医者だが、『医書大全』という著作がある。当時「婦人科」という言葉は普及しておらず、町の人は診察を受けるのに「野遠屋へ行く」と彼の屋号を用いたという。

 

朝丘雪路 あさおかゆきじ  (1935- ) 女優

è恋の不死鳥 (ヤングレディ、1971.5.24)

夫の津川雅彦と結婚するまでに、いくつか浮名を流したことから。

 

浅丘ルリ子 あさおかるりこ  (1940- ) 女優

è和製ジャンヌ・モロー (週刊言論、1969.7.30)

彼女のキュートな容貌がこの異名を正直に語っている。ジャンヌ・モローは、コケティッシュな退廃ムードを漂わせた世界的に有名なフランス女優。浅丘には別に〈ルリルリ〉との愛称もある。

 

浅尾与六 あさおよろく (1798-1851) 上方の歌舞伎役者

è(たて)の親玉

恰幅がよく見栄えのする芸風をそなえているうえ、立回りにも貫禄のあるところを見せた。立役を中心に、いわゆる親仁形(おやじがた)を器用にこなし、〈立の親玉〉名を高めた。

 

安積澹泊 あさかたんぱく (1656-1738) 江戸前・中期の儒者

è安積山の覚山坊

覚兵衛を名乗った少年時代は手のつけられない悪戯者だったという。暗闇の夜、木槌で通行人の頭を叩いては一人ほくそえむなど、色いろな逸話が残っている。住んでいた江戸小石川周辺では〈安積山の覚山坊〉と渾名で通っていた。

 

浅草駒太夫  あさくさこまだゆう (生年未詳) ストリッパー

èおいらんストリッパー

1975年度ストリップ第2回ヌードスターコンテスト第1位に輝く実績をもつ。吉原の遊女役や、チャンバラ・ヌードの美女剣士役で鳴らした。

 

麻倉未稀 あさくらみき (1960- ) 歌手

èセクシー・ エレガンス(週刊現代、1982.1.2)

モデル出身の都会的な雰囲気を放つシンガーで、ヤングアダルト中心に広いファン層を擁している。

 

朝汐太郎〔初代〕 あさしおたろう (1864-1920) 力士で、大関

èおこぜ

3代目まで続いている朝汐太郎の初代。高砂部屋を背負って立つ名力士であったが、容貌が怪異なため、 深海の怪魚に似せた渾名で呼ばれた。

 

朝汐太郎〔二代〕 あさしおたろう (1879-1961) 力士で、大関

è右差し五万石 

右を差したらまず負け知らずというほどの得意技であったことから。176センチ、113キロとさほど体格に恵まれなかったが、すさまじい気力をみなぎらせ大関まで昇り詰めた。その大関昇進は35歳のときと遅咲きではあるものの、当時の相撲取りに珍しく83歳の長寿を全うした。

 

朝汐太郎〔三代〕 あさしおたろ(1929-88) 力士で、四十六代横綱

è①毛がに

胴長で肩幅広い体形に胸毛が密生していたことから。

è②大阪太郎

優勝5回のうち大阪場所で4回も勝っていることから。なお朝汐は、大兵のうえ怪異といってよい風貌のため、当時、雨の岩戸を開く神話映画「日本誕生」に出演、豪力で岩戸を開けるタジカラオノミコト役を演じている。

 

浅茅陽子 あさじようこ (1951- ) タレント

èへばちゃん 

料理上手で知られている。著作に『へばちゃんの台所』があることから。また東京六本木に「へばちゃんの居酒屋」を開いている(女性自身、1982.12.9)

 

浅田次郎  あさだじろう (1951- ) 作家

è泣かせの巨匠

鉄道員(ぽつぽや)』で直木賞を受賞以来、『プリズンホテル』『天国までの500マイル』『蒼穹の昴』などで、現代におけるリリシズムを巧みに描いて見せるベストセラー作家である。

 

阿佐田哲也 あさだてつや (1929-85) 作家

è(じやん)(せい)

色川武大(たけお)のペンネームでも有名。阿佐田哲也のほうは「朝だ、徹夜」をもじったもの。麻雀小説ほかギャンブル物を書かせたら右に出る者はなく、実体験でもプロ級ゆえに〈雀聖〉の異名を得た。

 

浅田美代子 あさだみよこ (1956- ) テレビタレント、歌手

 無公害歌手(週刊小説、1973.6.15)

『赤い風船』ではレコード大賞新人賞を受賞、80万枚という超ヒットを飛ばす。他に、若者に人気が集中していることから〈ジャリペット歌手〉とからかわれた。

 

浅田門次郎 あさだもんじろう (1809-79) 小田原藩足軽

è文政曽我

父親を殺害した仇敵の成滝万助を求め、諸国を捜し歩くこと5年。文政7(1824)年に常陸国磯浜村でやっとめぐり遭い、兄弟で討ち果たす。昔の曽我兄弟の故事にちなみ、人呼んで〈文政曽我〉、幕府公認の仇討ちでは最後のケースとされている。

 

浅沼稲次郎 あさぬまいねじろう (1898-1960) 政治家で、社会党委員長

è①人間機関車

身長五尺六寸・体重二十二貫の巨躯を駆けるといった、猪突猛進型の行動力が買われて。類して〈ザトペック委員長〉(チェコのマラソンランナー)とも。

è②マアマア居士

論争などでいきりたつ相手をなだめるのが上手であった。

è③演説百姓

没後に友人が「沼は〈演説百姓〉よ…」と追悼した詩の一節から。ほかに生前、「沼さん」の親称でその人柄が慕われていた。

 

旭国斗雄 あさひくにますお (1947- ) 力士で、大関

èピラニア

174センチ、121キロのアンコ型。人一倍負けず嫌いで、大兵の対戦相手ほど燃え、多彩な攻め技を駆使して〈ピラニア〉のように食い下がった。技能研究に熱心で、同部屋仲間らから〈相撲博士〉とも呼ばれた。

 

朝比奈正二郎 あさひなしょうじろう (1913-2010) 昆虫学者

èトンボ学の父

昆虫学ならびにその分類学での権威。ことにトンボの生態研究では第一人者、日本蜻蛉学会を設立し国際トンボ学会初代会長もつとめた。

 

朝吹英二 あさぶきえいじ (1849-1918) 実業家

 èサンズイ潮吹

朝吹にサンズイを加えると「潮吹」になる。アバタ面の容貌を茶化されて付けられた(名流漫画、明治45)といういわれがある。生糸の直貿易で財を成した人物である。

 

浅利慶太 あさりけいた (1933- ) 演出家、劇団四季代表

è浅利天皇

演技への注文付けが厳しいうえ劇団経営にもワンマン振りを発揮したことから。人ともよくケンカする人で、〈あっさりケンカ〉などと陰口も叩かれた。

 

足利尊氏 あしかがたかうじ (1305-58) 征夷大将軍として室町幕府を創設。 

è①奸賊

è②弓矢の将軍

  は悪い方の評、②は良い方の評である。

伝記などで祥述されているので二番煎じは避けたい。

 

足利義昭 あしかがよしあき (1537-97) 室町幕府第十五代将軍 

è貧乏公方

二条城の戦いで敗れた義昭は、織田信長の命令により河内の若江城に流罪となる。義昭が護送されて赴くとき、おそらく貧相で哀れをもよおす姿を目にしたのだろう、見物の群集は〈貧乏公方〉とあざけった。それは十五代も権勢をほしいままにした足利家の終焉を象徴していた。

 

足利義維 あしかがよしつね (1509-73) 戦国武将

è堺大樹

大永七(1527)年の桂川合戦で、細川春元が政権を握ったのに呼応して義維は堺に進出、勢いに乗じて機内の実権を握った。そうした彼を市井の人々は〈堺大樹〉と呼んでもちあげた。

 

足利義教 あしかがよしのり(1394-1441) 室町幕府第六代将軍

è悪御所

廷臣や諸将のわずかな過ちも見逃さずに処断した。その専制のために強訴するものが絶えず、公武こぞって彼を〈悪御所〉と呼んではばからなかった。

 

足利義政 あしかがよしまさ(1436-90) 室町幕府第八代将軍

è東山殿

応仁の乱たけなわのなかにあって、義政は将軍職を子の義尚(よしひさ)に譲り、自身は京都東山の山荘に籠り風流生活に入る。そこに義満の金閣に擬した銀閣を建て書画、連歌、茶、生花などいわゆる「東山文化」を開花させた。この〈東山殿〉との敬称には奢侈をやっかむ皮肉も含まれている。

 

足利義満 あしかがよしみつ(1358-1408) 室町幕府第三代将軍

è北山殿

応永2(1395)年、太政大臣職を辞して出家した義満は、京都北山第(きたやまてい)を仙洞御所に見立てた御殿を設けた。夫人の日野康子を後小松天皇の准母に仕立て権勢を振るう。造営した金閣はその象徴であり、ここに公家らを呼び集め和歌や管弦の悦楽に日夜を過ごした。いわゆる「北山文化」である。

 

足利義持 あしかがよしもち(1386-1428) 室町幕府第四代将軍

è室町殿

義持は応永16(1409)年、亡父義満時代からの政庁であった北山第を廃し、新たに三条坊門第に移り、室町企図しては最も安定した政務を続けた。人々は義満が構えた室町東の邸宅、花の御所ともあわせ、時の将軍義持の代名詞として〈室町殿〉と称した。

 

芦田伸介  あしだしんすけ (1917-99) 俳優

èほろにがおじさん

昭和52(1977) 年に自伝『ほろにがき日々』を処女出版したのにちなんで。渋い演技と苦味の走った容貌もまた、この異名を支えている。

 

芦原金次郎 あしはらきんじろう(1851-1937) 誇大妄想の精神病患者

è芦原将軍

元櫛飾り職人。明治から昭和に至る56年ものあいだ、東京の精神病治療機関である松沢病院などで知られた名物男。彼は自分を〈芦原将軍〉 と称し、服装・態度ならびに言動まで、すべて将軍に擬した徹底ぶりであった。

 

芦原義重 あしはらよししげ (1901-2003) 実業家で、関西電力社長

è老害の親玉

関西電力の代表権のある社長に居座った期間が28年に及び、椅子から下りたとき85歳になっていた。関西電力にとって〈老害の親玉〉の被害は計り知れないという。この人をよく言う者はおらず、他にも〈関電私物化の鬼〉〈関西のドン〉〈公益の敵〉など風当りは強いものがあった。

 

芦屋雁之助 あしやがんのすけ (1931-2004) 俳優

èやりくりタレント

旅回り一座の子役からコメディアンに。やがて関西演芸界注目のマルチタレント振りを発揮し、舞台をはじめテレビや映画にも数多く出演した。「やりくり」には器用との意味が含まれている。

 

飛鳥田一雄  あすかたかずお (1915-90) 日本社会党委員長

è革新の星(サンデー毎日、1974.10.13)

飛鳥田は公害防止に尽力したり、全国革新市長会を結成するなど、革新政策の地固めを精力的に進めた。

 

梓みちよ あずさみちよ (1943- ) 歌手

è熟れたセクシー姉ゴ(プレイボーイ1974.9.10)

5回日本レコード大賞に浴した『今日は赤ちゃん』で一躍有名に。昭和49(1974)年に『二人でお酒を』を歌い、大人の歌手へとイメージチェンジしている。

 

東てる美 あずまてるみ (1956- ) 女優

è①ポルノ女優監督

昭和53(1978)21歳のとき、日活ロマンポルノ『闇に白き獣たちの感触』に主演、その作品の自主監督までつとめた。

è②前張りクイーン

出演や撮影の際、必ず前張りを着用したことから。

 

東富士謹一 あずまふじきんいち (1921-73) 力士で 、四十代横綱

è江戸っ子横綱

歴代横綱では初の東京都出身者。群を抜く強さとコロッと負ける脆さとが同居した憎めない横綱であった。通算優勝6回、のちプロレスに転向し、リングでも人気を博した。

 

東家楽燕  あずまやらくえん (1887-1950) 浪曲師

è泣き節の楽燕

独特の押さえ泣きするような節まわしを売り物にこの異名をもらう。ただ『乃木将軍伝』『召集令』など国策鼓舞用の戦時浪曲が持ち芸で、聴く者には本来の浪花節には今ひとつの感があった。

 

麻生久 あそうひさし (1891-1940) 社会運動家・政治家

èアホウキュウ

プロレタリア運動に生涯を捧げた人で、ときには過激な言動をとって世間を騒がせた。そうした麻生を論敵らは、姓名をもじって〈アホウキュウ〉と渾名した。彼は「大日本大衆党」といった組織にもアホウがつとめる名誉職、書記長として加わっていた。

 

麻生豊 あそうゆたか (1898-1961) 漫画家

èノントウ

麻生は大正13(1924)年、入社した報知新聞社で漫画「ノンキナトウサン」を連載し一躍有名に。おりから世は不況の真っ只中、略して〈ノントウ〉が描く社会へのマンガチックな皮肉が読者の共感を呼んだ。

 

阿茶局 あちゃのつぼね (1555-1637) 徳川家康の側室

è神尾一位殿

家康の陣中慰撫用として名高い愛妾。徳川家権力に弱かった朝廷はあろうことか局に従一位という途方もない位冠を贈ったのである。

「神尾」とは、最初は武田信玄の家臣である神尾忠重の妻であり、それを後家好みの家康が召し上げたことに由来する名付けである。

 

渥美清 あつみきよし (1928-96) 映画俳優

è①フーテンの寅

昭和39(1964)年以降の松竹映画「男はつらいよ」シリーズでおなじみ。同シリーズは同じ目線にいる日本中の庶民を沸かせ、共感させた。なかんずく渥美は主人公〈フーテンの寅〉になりきって素晴らしい演技を見せてくれたが、平成8(1996)8月、世を去り惜しまれた。

è②張子の寅さん

渥美は首をしきりに上下左右に振る癖があり、その様子から付けられたニックネームである。

 

阿弖流為 あてるい (-802) 陸奥国胆沢(いさわ) 地方の蝦夷族長

è悪路王

「大墓公」を称する蝦夷(えみし)(おさ)である。延暦8(789)年地方部族を統率して朝廷軍の征伐を撃退したが、3年後に征夷大将軍坂上田村麻呂に投降、命により河内国杜山で斬首された。やがて彼は悪霊となり山岳を荒らし回るなど風評が立ち、山岳信仰の祟り名の一つ〈悪路王〉と称されるに至った。

 

姉小路公知 あねがこうじきんとも (1839-63) 公家で、国事御用掛

è黒豆

渾名は色黒だったため。幕府に攘夷を迫った

ときの双璧三条実美(さねとみ)が色白で〈白豆〉と呼ばれたのと好一対をなしている。国事に参加し攘夷に発言権も強かったが、文久3(1863)年に御所から帰る途上、凶漢に襲われ深手を負い、自宅へ辿り着いたところで息絶えた。

 

油屋熊八 あぶらやくまはち (1863-1935) 相場師

è油屋将軍

油屋は別府でしがない油・米を扱う小商人の倅だったが、若くして大坂の米相場で巨利を得た。一説によると、日清戦争当時、一夜で60万円ものあぶく銭を稼いだという。故郷では凱旋将軍のように、肩で風をきってのし歩く彼の姿が評判になり、〈油屋将軍〉の渾名が付けられた。他に、温泉事業に投資して拡張したので〈温泉発明王〉、あるいは40代でつるっ禿になったので〈ピカピカおじさん〉などといわれた。

 

安倍井磐根 あべいいわね (1832-1916) 政治家で、国家団結論者

è内地非雑居の闘士

日本の第1期代議士をつとめた人。右翼政治家で対外に国威を発揚する強硬論者で、「内地非雑居論」(三国人の国外排除)を吐いて同志を募っている。明治31(1898)5月、須崎の料亭「中村楼」で「対外同士化偉大懇親会」を開いて結束を呼びかけたところ、尾崎行雄はじめ280余名が出席する盛会になった。

 

安倍磯雄 あべいそお (1865-1949) 東京専門学校(早稲田大学)教授・社会運動家

è昼夜先生

安倍はつぶれたような左目の変形が目立つ容貌。これを早稲田の学生は、「昼と夜が一緒に来たか安倍先生」とからかい、ついでに〈昼夜先生〉と陰で呼ぶようになった。この昼夜先生、ことのほか社会主義運動に熱心で、〈日本社会主義の父〉と敬われている。

 

安部公房  あべこうぼう (1924-93) 作家・劇作家

è①ムッシュー・ヌーボー(週刊朝日、1973.1.29)

実存主義的な作風でシュールレアル描写に巧みな人。新境地開拓に意欲的な作家、が本義であろう。別に「ヌーボー」は公房の音通駄洒落。

è②箱入り男(現代の眼、1973.10)

こちらは評判作『箱男』から由来している。

 

あべ静江 あべしずえ (1951- ) 歌手、女優

è処女タレント(週刊ポスト、1974. 2.1)

デビュー時に清純派の美人歌手として騒がれたため。のち色気満点の女優に転向した。

 

安倍晋太郎 あべしんたろう (1924-91) 政治家

è政界のプリンス

東京大学法学部卒のインテリなうえ人当たりがよく、血統や人脈にも恵まれていたことから付けられた。実父は阿部寛衆議院議員、洋子夫人は岸信介元首相の長女。叔父の佐藤栄作のてこ入れで選挙区山口1区から立候補して当選。しかし昭和63年、リクルート事件がらみで連座し幹、事長の座を下ろされた。

 

阿部真之助  あべしんのすけ (1884-1864) 

ジャーナリスト・政治評論家・エッセイスト

è恐妻会会長

自他共に認める〈恐妻会会長〉である。彼の随筆を読むと、悪妻に関する主題が多いのは、恐妻や強妻への反動である、と結論したくなる。

 

阿部進  あべすすむ (1930- ) 教育評論

èカバゴン(ヤングレディ、1970.2.9)

テレビの映像でおなじみのカバに似た魁偉。児童文学研究のかたわらマスコミに登場し、独自の現代っ子論を展開してママさんファ ンも多いという。

 

安倍貞任 あべのさだとう (1029-62) 陸奥国奥六郡の領主

è六箇郡の司

「前九年の役」で源頼義軍と戦うが結果は翌年に敗死。この「六箇郡」とは胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波、岩手を指し、この一帯を安倍氏が支配していた。

〈六箇郡の司〉の呼称は古典の百科事典である『群書類従』に拠る。

 

安倍晴明  あべのせいめい (921-1005) 平安時代の陰陽師

è化生(けしよう)の者

神通力を備えた異能の人として、伝説に塗られた謎の多い人物。不治の病を治したり、自分と敵の首をすげ替え蘇生する、など面妖な話が尽きない。

〈化生の者〉とは話を面白くする当を得た表現だ。

 

阿部正弘  あべまさひろ (1819-57) 幕末の老中

è収拾の偉才

勝海舟はじめ有能な人材の発掘と、時の権力者への根回しによる支持の取り付けなど、とにかく時局の切り盛りに秀出ていた。そのため〈収拾の偉才〉という穿った渾名が付けられた。また、酒好きな彼の政策はややもすると八方美人であったため、政敵からは〈瓢箪(ひょうたん)(なまず)〉との渾名を貰っている。

 

安倍泰親 あべのやすちか (1110-83) 陰陽家

è指神御子(さすのみこ)

 この人は陰陽占術に長じ、源頼政の挙兵も予言し的中させている。めったに誤ることなく、その推すところ(てのひら)を指でさすがごとし、ともっぱらの評判であった。安倍晴明の子孫という説もあり、〈指神御子〉といわれた由縁である。『平家物語』に関連した物語がいくつか見える。

 

甘粕正彦 あまかすまさひこ (1891-1945) 憲兵大尉

è満州国夜の帝王(人物往来、1957.2特集)

昭和4(1929)年に満州事変を画策し、陰の実力者として建国に関与した。「夜」とは「影」ほどの意味。

 

天草四郎時貞 あまくさしろうときさだ (1621-38) 天草の乱の少年指導者

è天主(デウス)の生れ変り

寛永14(1637)年、圧制とキリシタン弾圧に坑し、島原・天草で一揆を起こさせた16歳の首領。幕府軍の板倉重昌を敗死させたあと原城にたてこもり幕府軍と対峙したが、翌152月に落城、討ち死した。この勇気と指導力をたたえ、時の人は〈天主の生れ変り〉と称した。しかし伝えられている話の大半は史実上謎に包まれ、信頼のおけるものでない。

 

尼子恒久 あまこつねひさ (1458-1541) 戦国時代の武将

è①十一ケ国太守

è②一世の風雲児

永正十四(1517)年ごろから彼は備後はじめ山陽方面に進行して勢力を拡大。さらに出雲・因幡・壱岐・伯耆もあわせて領有、覇名を西国にとどろかせた。時の人々は彼を〈十一ケ国太守〉と恐れ、後世の歴史家は〈一世の風雲児〉と評している。

 

天知茂  あまちしげる (1931-85) 俳優

èクール・ガイ(週刊小説、1973.3.30)

映画「非情のライセンス」などで主演、冷酷な悪役を見事にこなした。

 

天地真理 あまちまり(1951-) 歌手・タレント

è白雪姫

1970年代前半、テレビを中心にお茶の間のスーパーアイドルとして活躍。その後に続くスーパーアイドルのさきがけとなった。出演作品『白雪姫』のタイトルがそのままニックネームになっている。

 

天照大神  あまてらすおおみかみ 神話で、高天原の主神・皇祖

è両娚ノ始メ

中世の神道書である『日諱(じちい)貴本(きほん)()』によると天照は男女二根を備えた「両娚ノ始メ」である、としている。ずいぶんと大胆な仮説を立てたものだ。

 

天野康景  あまのやすかげ (1537-1613) 戦国武将

èどちへんなしの三郎兵衛

徳川家康の近親で、駿河国興国寺城主。性格は慎重居士の人で、世人は時の三武将を評し「仏高力、鬼作左、どちへんなしの三郎兵衛」ちなみに「どとちへんなし」とはどっちつかずの意味、「三郎兵衛」は彼の通名である。

 

雨宮敬次郎 あまみやけいじろう(1846-1911) 実業家で、相場師 

è投機界の魔王

明治三(1870)年に横浜開港場へ移って目先を利かし、洋銀相場と輸出用生糸の投機を手がける。持ち前の先読みの深さと度胸のよさでたちまち成功、大胆な相場師として名を高めた。「魔王」には不労で大金を稼ぎ出す人への畏怖が込められている。

 

雨森三哲 あめのもりさんてつ(1667-1722) 漢学者・学僧 

è三哲講釈

生きた講釈をした人。江戸の聖堂において講釈したとき、大勢の聴衆の間をめぐりながら話を続けた。ときにはその1人を仏に見立て、数珠をかけて拝み倒すという迫真の演技を披露、感泣する老婆もいたという。〈三哲講釈〉をぜひ一度聞きたいと、講釈場はつねに満席であつた。

 

阿米夜 あめや(1846-1911) 陶物師 

è楽焼の元祖

名を「宗慶」俗に「飴爺(あめや)」とよばれ、朝鮮から帰化した人。永正(1504-21)年間に京で軟陶

を作り、やがて楽焼を完成させた。ちなみに呼び名の「アメヤ」とは、南鮮語でお父ちゃんを意味する。

 

綾瀬太夫〔初代〕 あやせだゆう (生没年未詳) 義太夫語り

è難曲の名人

この人はかつて大阪で鶴沢友次郎、長門太夫といった師匠に仕込まれてから上京。ここでも政太夫にみっちり叩き込まれているから半端じゃない。几帳面な語り口で「腰越の五都」とか「日向島」といった玄人受けする曲も難なくこなし、贔屓筋から〈難曲の名人〉と評価された。

 

新井白石 あらいはくせき (1657-1725) 儒学者・政治家

è

朱子学の実践派として知られる白石は、六代将軍徳川家宣の侍講時代、幕府老中にも進言する立場となる。彼は持論とする「礼節を重んじ仁愛の精神を垂れる」理想主義を押し付けたため、反対意見を持つ老閣から〈鬼〉と渾名されるようになった。

 

荒垣秀雄 あらがきひでお (1903-89) ジャーナリスト

èアノガキひでえよ

名文家で知られ、朝日新聞では「天声人語」の執筆を担当。同欄でときには歯に衣を着せぬ鋭い批判を向け、脛に傷もつ筋に煙たがられる。姓名もじりで〈アノガキひでえよ〉などとからかわれた。

 

荒木田守武  あらきだもりたけ(1473-1549) 俳諧師・伊勢内宮の神官

è世の中百首先生

作法だらけの連歌のしきたりを打ち破り、俳諧を興した人物で、いわゆる「俳諧の三神」の1人。彼は50歳の時の大永2(1522)年、「世の中の親に孝ある人はただ何につけても頼もしき哉」と、一首ごとに世の中言葉を入れた歌百首を読んだ。この百首は「伊勢論語」と称され、子どもの修身教本にもなったので、

世に〈世の中百首先生〉と異名された。

 

荒木経惟  あらきのぶよし (1940- ) 写真家

è①アラーキー

知る者が呼ぶ名前もじりの愛称である。

è②さすらいの複写師(週刊大衆1972.8.17)

取材先では飄々とした行動を取りながらも精力的な好奇心を発揮してやまない異端のカメラマン。世相を斜視的映像にとらえ、文章もよく書き、風俗や人物の恥部を抉り出すのがうまい。

 

嵐吉三郎〔二代〕 あらしきちさぶろう (1769-1821) 歌舞伎役者

è大璃(おおり)(かん)

この人の俳名を璃寛という。小柄に似合わず美男で美声の持ち主、京坂の大芝居で頭角を現すと立役一筋に堂々とした演技を見せた。そうした彼を贔屓筋は〈大璃寛〉と呼んでいた。別に〈(おか)(だま)(屋号が岡島屋でその看板役者)とも渾名された。

 

嵐山光三郎  あらしやまこうさぶろ(1942- ) ジャーナリスト

è昭和軽薄体(週刊現代、1982.10.23)

平凡社の特集誌『太陽』の元編集長として知られる。エッセイや著作などで、独特の軽妙にして遊芸的文体を書くことで注目され、この渾名が付けられた。

 

荒畑寒村 あらはたかんそん (1887-1981) 社会主義者

èバタバタキャンソン

労働運動界をあちこち渡り歩く。あるいは労働党・社会党の一つ所にも入党したり離党したり、とかく結社出入りの激しい人であった。

 そうした落ち着きのなさを共産党員らから名号にひっかけ〈バタバタキャンソン〉と渾名された。

 

荒船清十郎 あらふねせいじゅうろう (1907-1980) 自民党国会議員

è①オトコ清十郎

他人の面倒見がよく、浪花節の生き残りのような人柄をからかわれ、芝居の『お夏清十郎』に引っ掛けて渾名された。

è②佐藤内閣の落第生 (週刊大衆、1972.2.3)

運輸大臣時代、選挙区の埼玉県下で急行列車の停車を画策し、世論の非難を浴びて辞任に追い込まれた。

 

新巻淳 あらまきじゅん (1926-1971) プロ野球選手

è火の玉投手

昭和二十五(1950)年に毎日オリオンズ入り。左腕から繰り出す剛速球と落差の大きなドロップボールが注目され、〈火の玉投手〉の名をもらった。

 

有坂成章  ありさかなりあきら(1852-1915) 軍人で、砲兵大佐・火砲研究家

è砲機学の父

砲兵工廠で大砲改良と速射砲研究に当たり、ヨーロッパへも視察に出た人。なかんずく速射野砲の改良は目覚しく、陸軍もこれを全面的に採用、日露戦争の実戦でも威力を発揮した。

 

有栖川宮熾人 ありすがわのみやたるひと (1835-1895) 皇族で、有栖川宮家第九代

è宮さん宮さん

大政奉還のおり京都から江戸へ向かう官軍兵士が歌った、

♪宮さん宮さんお馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな、あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか、トコトンヤレトンヤレナ

という歌の文句で、冴えるところの見られなかった有栖川は当時の江戸っ子から〈宮さん宮さん〉とからかわれた。本稿を書くため取材した都立中央図書館のある有栖川記念公園(宮家の旧邸跡)に彼の乗馬姿の銅像がつ。

 

有馬稲子 ありまいねこ (1932- ) 女優

èネコちゃん

芸名の稲子をつづめ〈ネコちゃん〉の愛称でファンから人気を浴びた。〈おイネ〉との愛称も。

 

有原業平 ありわらのなりひら (825-880) 官吏で、歌人

è在五中将

在原氏の五男、右近衛権中将(官称)を略した通称。六歌仙の一人で、美男としてその名を高めた。「在五」とは阿保親王の五男であることを示している。

 

淡路恵子 あわじけいこ (1933-2014) 女優

èアンバランス美人(週刊明星、1959.3.8)

見事な肢体を誇る人気ダンサーから女優へと転向。フィリピン人歌手ビンボー・ダナオと同棲中にマスコミからどこかファニーな容貌をあげつらわれた。

 

淡谷のり子 あわやのりこ (1907-1999) 歌手

è①ブルースの女王

昭和13(1938)年「雨のブルース」、翌年「東京ブルース」と続いてヒットさせ、〈ブルースの女王〉と呼ばれる。

è②女彦左

近年、若手歌手の芸道凋落ぶりを「今の歌い手は歌屋だ。音程がいつ外れるかハラハラ」などと批判。いつのまにか歌謡界の〈女彦左〉の渾名が付いた。

 

安国寺恵瓊 あんこくじえけい (1537-1600) 毛利家中の臨済宗禅僧

 è鉢ひらき

顔部分よりも頭部が巨大で目立つ容貌から「鉢ひらきのようなる正慶小僧」と悪口を言われた。が彼は禅の修業に専心、京都五山の名物僧に。晩年は従軍僧として天下に勇名を馳せたが、徳川家康に敵対し捕われ京都で斬首された。

 

安西浩  あんざいひろし(1901-90) 実業家で、東京ガス会長

è東京ガスは安西商店

東京ガスの会長職に20年も居座った男。昭和63(1988)年にはトップスリーを安西一族で占め、全社を一族で牛耳った感があった。その頂点に立つ浩の専横ぶりは語り草で、大企業の私物化に世間から「東京ガスは安西商店か」と糾弾された。

 

安藤昌益 あんどうしょうえき (1703-62) 農本主義の思想家で、医師

è守農太神

昌益は「農を興し自給自足こそ経済の根本なり」と主張する『自然真営道』を著す。〈守農大神〉は没後に門人らが建てた石碑の刻文「守農太神確竜堂良中先生」の一部で、彼への生前の賛称ともいわれている。「良中」は彼の字である。 

 

安藤鶴夫 あんどうつるお (1908-69) 作家・演劇評論家

èあんつる

氏名を略した愛称。浅草生まれの下町っ子で、東京を舞台にした名随筆を残している。直木賞作家でもある。

 

安藤照子 あんどうてるこ (1880-1948) 総理大臣桂太郎の愛妾

è桂公のお鯉さん

売れっ子芸者時代の源氏名を「お鯉」といった。写真を見ると小股の切れ上がったいい女で、新橋の名妓として鳴らしたのもうなずける。山県有朋の紹介で知り合い囲うようになったが、桂はお鯉のために官邸内に「お鯉の間」までしつらえ寵愛したという。

 

安藤昇 あんどうのぼる (1926-2015) 暴力団組長で、のち俳優に

èインテリやくざ

戦時中は特攻隊生き残り、昭和21(1946)年に法政大学に入り、翌々年中退し安藤組を興す。昔肌の学に乏しい親分衆と異なり、安藤は教養という異色な点が買われ〈インテリやくざ〉と呼ばれた。度胸がありマスクも締まっており、組を解散させたあと自身の半生を描いた松竹映画「血と掟」に出演するなど、戦後史の一面を飾っている。

 

安東文吉 あんどうぶんきち (1808-71) 駿河国 安東村の侠客

è日本一(くび)(つぎ)親分

遠州一帯を仕切る大柄の博徒で、清水次郎長の後ろ盾に。こわもての実力者で知られたが、箱根関所と浜名湖新居関の通行手形を預かり、いわくありの凶状持ち(たび)(にん)を目こぼし通行させるなど、親分中の親分肌をそなえていた。

 

安藤嶺丸 あんどうれいがん (1870-1943) 真宗の僧

è花祭り和尚

仏教社会奉仕家の一人で、野外伝道に力を入れる。大正5(1916)年に「東京連合花祭り会」を結成、わが国初の大規模花祭りを催し、釈尊降誕を大衆に広めた。

 

アントニオ猪木 あんとにおいのき (1943- ) 元プロレスラー

è①アントン

元妻の賠償美津子が呼ぶときの愛称が巷に広まった。

è②燃える闘魂

すでに彼のトレードマークになっており、説明を加える必要はなかろう。

 

安奈淳  あんなじゅん (1947- ) 宝塚スター

è①べるばら姫

è②オスカルさまが恋する女(ヤングレディ、1978.5.23)

「ベルサイユのバラ」で主演し一躍知名度が上がった。

 

安楽庵策伝 あんらくえんさくでん(1554-11642) 浄土宗の僧で、茶人

è秀句噺(落語)の 始祖

豊臣秀吉に噺御伽衆・茶人として仕えた。諸国の滑稽噺を集めて書き下ろした『醒睡笑』は、時代を超えて長く人気を保っている。1千話を越える噺の大半は落ちのついた笑い話で、策伝の〈秀句噺の始祖〉の地位を不動のものにしている。

 

 

 

飯沢匡  いいざわただす (1909-94) 劇作家

è悪口屋

他人や物事を批判するとき、歯に衣を着せずズケズケ言うため。たとえば「前衛建築は人間を忘れている」(1964)、「生意気な役人」(1979)など。この癖が世間の反感を買い、ありがたくないニックネームが付けられた。

 

飯島滋弥 いいじましげや (1919-1970) 野球選手

è100万ドルの内野手

「強打の一塁手」としても鳴らした人。昭和14(1939)年の慶応大学野球部時代、二塁の宮崎要、三塁の宇野光雄、ショート大館盈六らとダイヤモンドチームを組んで活躍した。昭和30年に第一線を退き野球解説者になった。

 

飯田蝶子 いいだちょうこ (1897-1972) 女優

è女藤吉郎(文芸春秋、1959.12)

晩年、皺のよった容貌が太閤秀吉のそれを連想させるため。芸能界において発言力の強かった長老に対する畏敬を含めた称号でもある。

 

飯田徳治 いいだとくじ (1924-2000) プロ野球選手・監督

è仏の徳さん 

昭和22(1947)年、南海に入団。その後彼は当時の日本記録である1246試合連続出場を樹立も、昭和585月アキレス腱を断裂しストップのやむなきにいたる。彼の試合前後における節制振りは「プロ野球選手の鑑」とまで賞賛された。人柄も円満で、ことに新人育成に熱心であり、〈仏の徳さん〉と慕われた。

 

飯田屋八郎右衛門 いいだやはちろうえもん (1804-52) 九谷焼の絵付師

è九谷の八郎手 

加賀国江沼郡山代の宮本屋窯において、細密な赤絵付から発展させ、二度焼密画金彩の手法を編み出した。世にいう〈九谷の八郎手〉として今も伝承されている。

 

飯塚盈延 いいづかみつのぶ (1902-65) 旧日共幹部で、警察特高の手先

èスパイM 

変名は松村昇。愛媛県出身の元日本共産党幹部で、大正15(1926)年モスクワ大学入学という筋金入り。非合法時の労働活動を地下にもぐって推進させた。この誰もが純血党員と疑わない立場に目をつけた時の特高課長某は、飯塚の赦免を交換条件にスパイ活動を強要。〈スパイM〉のMは盈延のイニシャルである。

 

飯豊青皇女 いいとよあおのひめみこ (記紀伝説時代) 伝では履中天皇の孫姫

è飯豊(いいとよ)天皇

もちろん皇統譜には存在しない天皇である。記紀ともに歴代にない謎の天皇として記述している。伝および経緯は長くなるので略すが、清寧天皇が病没した後、事実上の女帝として政治を摂ったようである。史書『扶桑略記』には〈飯豊天皇〉と明記してある。

 

井伊直政 いいなおまさ (1561-1602) 徳川家康の重臣

è赤鬼 

家康家臣団にあって、武田氏旧家臣団を集め旗本軍を編成したうえで、その兵色を赤備えとした。先陣では名だたる勇猛と統率力で鳴らしたため、直政の軍団には〈赤鬼〉との異名が付いた。

 

飯野吉三郎 いいのきちさぶろう (1867-1944) 神道学者で、新興宗教の教祖

è①穏田の行者

東京都渋谷区穏田の荒れた屋敷に住み、密教色の濃い祈祷やまがまがしい予言で名を高め、多くの信者を集めた。

è②日本のラスプーチン

信者の中には宰相の伊藤博文や山県有朋といった大物も列した。あるいは女傑でとかくよくない噂の絶えない下田歌子といかがわしい結託をし、隠然たる勢力を示したことから〈日本のラスプーチン〉といわれた。

 

家永三郎 いえながさぶろう (1913-2002) 歴史学者

èポルノ証人 

昭和53(1978)年、猥褻か否かで世間をわかせた「愛のコリーダ裁判」(安倍定事件を扱った映画)において、家永が弁護側の証拠物件として春画を持ち出し提出したことから、彼にこの異名が付けられた。

 

井上内親王 いかみないしんのう (717-775) 光仁天皇の皇后で、 のち廃后に

è吉野皇太后 

宝亀元(770)年に立后し2年後、巫蠱(ふこ)(邪道)および厭魅(えんみ)(呪詛)による大逆罪の嫌疑で廃后に処され、毒殺されたとの伝えがある。その後処分関係者に相次ぐ不幸が続いて、亡き后の怨霊の祟りと噂され、復位の形で〈吉野皇太后〉と諡号して弔われた。

 

猪谷千春 いがやちはる (1931-) 元アルペンスキーヤー

è雪のプリンス(女性自身、1959.1.16)

アルペンスキーヤーでは第一人者で、その妙技に日本中が酔った。斯界の指導者としても知られている。

 

五十嵐じゅん(淳子) いがらしじゅん (1952- ) 女優

è①可愛い小悪魔(プレイボーイ、1975.3.4)

è②和製エマニュエル夫人(週刊平凡、1975.4.10)

いずれも彼女のコキュな容貌とエロチシズムの発散を評して。今ではフラワーショップの女主人に収まっている。

 

五十嵐めぐみ いがらしめぐみ (1954-) テレビタレント

èさかなちゃん

昭和51(1976)年、主演したドラマ『さかなちゃん』のタイトルがそのままニックネームになった。

 

井川遥 いがわはるか (1976- ) モデル・タレント

è癒しのアイドル

さわやかで理知的、という印象が深い。さらに優しい笑みが若者を魅了し、ファンも少なくない。東洋紡水着サマーキャンペーンガールに選ばれたほどだから、肢体バッチリのグラビアアイドルである。

 

生沢徹  いくざわてつ (1942- ) レーサー

è世界を駆ける一匹狼(アサヒ芸能、1968.6.2)

ヨーロッパを拠点にF3・F2レースで好成績を収め活躍している。

 

池内淳子  いけうちじゅんこ (1933-2010) 女優

è①よろめきの聖女(週刊現代、1961.8.27)

è②おっきいちゃん

成熟した大人の演技を披露し、女優から明治座の座長になる。大柄ゆえに見栄えのする大女優であることを意味する愛称であった。

 

池上季実子 いけがみきみこ 1959- ) 女優

 èスキャンダラスな良家の子女(週刊現代、1983.9.3)

坂東三津五郎(8)を祖父に持つ役者一家の出身。昭和55(1980)年、テレビドラマ『奈津子』でキューと感覚のヌードを披露し話題に。「お茶代わりにセックス」発言で話題になり、同58年には婚約破棄により週刊誌を賑わせた。

 

池上太郎左衛門 いけがみたろうざえもん 171898) 江戸時代の殖産事業家

è砂糖屋

砂糖はもっぱら輸入に頼っていた時代、国産砂糖の精製ならびに精糖合理化に尽くした人物。ことに甘藷砂糖の普及は池上の手腕に負うところが大きく、〈砂糖王〉との呼称もほしいままにした。

 

池田亀太郎 いけだかめたろう (1874-) 植木職人で、強姦絞殺犯

è()()(かめ)

明治41(1908)3月、湯屋帰りの人妻を犯して殺した犯人。彼はひどい出っ歯であったためはじめは〈出歯亀〉と呼ばれたが、のちに変態男への蔑称として、一般に通用するほど広まった。

 なお明治の画家に同姓同名の「池田亀太郎」がいるが、この人は文久2(1862)年生まれ、泉下では後輩の汚名で肩身の狭い思いをしたことであろう。

 

池田大作  いけだだいさく (1928- ) 宗教家で、創価学会会長

è幻想王国の魔王(アジア、1967.8)

有力宗教団体として政治力を発揮し組織を拡大、帝王的存在を示す男。周囲がかしましく付けた異称や冠称の類は多すぎて、枚挙にいとまがない。

 

池田輝政 いけだてるまさ 15641613) 戦国武将で、姫路藩初代藩主

è西国の将軍

関が原での戦功により播磨52万石を領す。藩主として姫路城の改修など藩政の基盤を固めつつ、家康からも厚遇された。西国安定に貢献する重鎮として〈西国の将軍〉と別称された。

 

池田勇人 いけだはやと (1899-1965) 政治家で、首相

è①暴言大臣

何度となく暴言を吐いて物議をかもした名物大臣。「3月危機中に中小企業の倒産や税金苦の自殺者が出てもやむをえない」(昭和253月、大蔵大臣時代の所信表明で)「所得の少ない人は麦を食う、多い人は米を食うといった経済原則が云々」(国務大臣時代に国会答弁で)などなど。 

è②エケチット大臣

エチケットを〈エケチット〉と発して日本中から笑われた。

 

池田彦七 いけだひこしち (?-1733) 讃岐国丹生村の庄屋で、義民

è池田義民さん

享保17(1732)年、水害などで凶作に打ちひしがれた村民に代わり、高松藩主松平邸に年貢減免を直訴。直訴は法度(はつと)行為のため、斬罪に処されたとも獄死したとも伝えられるが定かでない。彼の死後に年貢は減免され、村民は祠を建て〈池田義民さん〉と称し、彦七の勇気をたたえた。

 

池田満寿夫 いけだますお 193497) 版画家・作家

è二足わらじのスーパースター(週刊文春、1977.7.28)

小説『エーゲ海に捧ぐ』を発表して芥川賞作家となり、同時に版画制作をも精力的にこなす。さらに映画監督、テレビ評論など多方面で活躍した。

 

池田弥三郎 いけだやさぶろう (1914-82) 国文学者・随筆家で、慶大教授

èタレント教授

洒脱な風刺に歯切れのよい東京弁、面白い話の内容。これでテレビの人気が上がらないほうがおかしい。池田もキャンパスよりこちらを気にいったようで、ことのほか熱心に出演した。

 

池田勇八 いけだゆうはち 18861963) 彫刻家

è馬の勇八

画材はこよなく愛した動物に求め、なかでも馬をモチーフとした作品が目立つ。「彼の作品からは馬への愛情がほとばしっている」のような賛辞も寄せられた。

 

池田理代子  いけだりよこ (1947- ) 漫画家

èベルばら理代子

フランス革命のヒロインを描いた「ベルサイユのばら」が超ヒット。ちなみに彼女の昭和51(1976)年度の所得は16000万円と桁外れの高額であった。

 

池波正太郎 いけなみしょうたろう192390) 小説家 ・劇作家

è時代小説の仕掛人

昭和35(1960)年直木賞を受賞後、同42年発表の『鬼平犯科帳』シリーズで一躍スター作家に。のち『仕掛人藤枝梅安』では、必殺仕掛人を登場させて人気となり、「仕掛人」を流行語たらしめた。これが池波の異名にまで増幅して用いられるようになった。

 

池西言水 いけにしごんすい (1650-1722) 江戸前期の俳人

è木枯しの言水

奈良生まれの人だが江戸へ出て談林派を鼓吹。彼の名句、

  木枯しの果はありけり海の音    言水

の一句が俳壇に広く認められ、以降今日に至まで、〈木枯しの言水〉という敬称が伝えられている。

 

池大雅 いけのたいが (1723-76) 文人画家

 è日本文人画の鑑 

中国渡来の文人画の基調は精神の表現にある。

池大雅はその文人画を芸術の粋にまで高めた職業絵師であった。先駆者柳沢棋園に師事したが、単なる町絵師に留まらず、師を超えるとされる名作を残している。

 

池坊専永  いけのぼうせんえい (1933- ) 華道家元

è花の皇太子(週刊平凡、1959.9.23)

11歳で父親が亡くなり家元を継ぐ。若さゆえ一統になめられてしまい、内ゲバに苦しみながら道統の改革に着手した頃の異名である。

 

生駒雷遊 いこまらいゆう (1895-1964) 活動弁士

è下町派の雷遊

いわゆる活弁士が活躍した短い期間の人気者の1人である。徳川無声とは同時代の人で、「山手派の無声、下町派の雷遊」ともてはやされた。

 

伊佐山ひろ子 いさやまひろこ (1952- ) ポルノ女優

èふーてんべべ

伊佐山はロマンポルノ「白い指の戯れ」などで熱演しファンを魅了。ちなみに「べべ」は関西で女陰をさす方言隠語、言い得て妙なる渾名である。

 

伊沢多喜男 いざわたきお 18691949) 

内務官僚で、政治家

è内閣製造業者

当時の若槻礼次郎首相あるいは浜口雄幸首相の影武者となって人脈作り裏面工作に奔走。その手腕の見事さから人呼んで〈内閣製造業者〉と。また岡田啓介内閣では新官僚運動の音頭をとり、官僚勢力の増強を図ったことから〈和製トロッキー〉の異名ももつ。

 

伊沢蘭奢 いざわらんじゃ (1889-1928) 新劇女優

èマダムX 

山口県生まれ、人妻から新劇女優を目指し上京。華麗な芸風で人気を高める。昭和2(1927)年、新劇協会が帝国ホテル演芸場で上演した洋物翻案劇『マダムX』でヒロイン江藤蘭子役を演じ好評を博した。これから渾名として広まったものである。

 

石井定七 いしいさだしち 18791945) 相場師

è日本一の借金王

大正時代、米相場投機と株式投資で巨財をなす。そうした彼を世間では〈横堀将軍〉(大阪の横堀に居住)と畏敬した。しかし大正11(1922) 年米暴落と深刻な不況に遭遇し、資産価値が激減。大損の穴埋めに銀行から1000億円(現在の100兆円に相当も、誇張した本人談)を借り入れ、返済せずに踏み倒してしまった。ということで、世間から〈日本一の借金王〉と後ろ指を差された。

 

石井宗叔〔初代〕  いしいそうしゅく (-1803) 江戸の医師・狂歌師・咄本作者

è長咄の祖

医者のため剃髪、咄坊主を看板に咄本を書く。ことに長々とくどい筋書き「講釈もの」はこの人独特のもので、ためにこの異名が付けられた。昭和28(1953)年のスターリン暴落を予想したことでも有名に。

 

石井久 いしいひさし (1923-2016) 実業家で、立花証券社長

è石井独眼流

かつて株式新聞などのコラム等で「独眼流」なるペンネームで相場予想などを執筆したことから。

 

石井好子  いしいよしこ (1922-2010) シャンソン歌手・随筆家

èシャンソン女房 (女性自身、1968.9.23)

夫は新聞記者のおしどり夫婦。日本シャンソン会の女王的存在で、『私は私』などを書いたエッセイストとしても知られた。家庭ではオムレツ作りの上手な世話女房タイプであった。

 

石垣純二  いしがきじゅんじ (1912-1976) 放送ドクター

è①反骨教教祖 (平凡パンチ、1973.5.7)

è②医学界の彦左(アサヒ芸能、1976.2.12)

厚生省など官僚体質の改善、農協への批判、田中角栄の糾弾、心臓移植手術批判などで注目を浴びる。ひとたび論敵に回すと怖い人であった。

 

石川五右衛門  いしかわごえもん (-1594) 安土桃山時代の盗賊

è天下の大泥棒

並木五瓶作の歌舞伎脚本『金門(きんもん)五三(ごさんの)(きり)』での名セリフが広く知られている。〈天下の大泥棒〉とは、五右衛門が南禅寺楼上において天下様こと豊臣秀吉を意識してはいた大見得とされている。史実に最も近い記述は、『言経(ときつね)卿記』文禄3(1594)年の条に見える。

 

石川梧堂 いしかわごどう (1778-1852) 書家

è万年橋の親玉 

旗本の出。火消しの頭領でありながら能筆家という変った経歴の持ち主で、門人も少なからずいた。築地万年橋に居を構えていたので〈万年橋の親玉〉といわれた。

 

石川さゆり いしかわさゆり (1958- ) 歌手

è①出遅れ歌手 (週刊サンケイ、1977.12.27)

当時、「花の中3トリオ」にあって人気は3番目、遅咲きであったことから。

è②演歌の星(週刊明星、1978.1.22)

実業家でもあり、歌手以外にカラオケボックス会社を経営している。

 

石川丈山 いしかわじょうざん (1583-1672) 文人

è仙人の友 

徳川家康に仕えたこともある幕臣。長じて武士を捨て、洛北に雅号でもある「詩仙堂」という庵を設け隠遁生活に入った。文人画をよくこなし、漢詩にも長けた。知人に自ら「仙人が友達だち」と嘯くところがあり、いつしか通称のように使われた。

 

石川喬司  いしかわたかし (1930- ) 作家

è馬家先生 (小説サンデー毎日、1973.12)

SFや推理小説が持ち駒だが、総じて競馬評論のほうが知名度を得ている。そうした馬にうるさいことから「馬家」を冠せられた。

 

石川啄木 いしかわたくぼく (1886-1912) 詩人

è誇大妄想狂 

この天才抒情詩人には世評のきれいごとが付いて回るが、同郷岩手の知友、金田一京助は啄木を〈誇大妄想狂〉と評している。これは一面の真実を突いていると思う。天才と狂人とは紙一重なのだ。

 

石川達三 いしかわたつぞう (1905-85) 作家で、ペンクラブ会長

èジミ達

良く言えば合理主義者、悪く評すればケチ、地味ゆえに人呼んで〈ジミ達〉またはズバリ〈ケチ(ぞう)〉。酒一杯飲むにも自分の主張を譲らない。たとえば某出版社編集長にこう言っている。「僕はね、人から誘われたときは、その人のご馳走になることにしているんだ」と。

 

石川理紀之助 いしかわりきのすけ (1845-1915) 近代の農事指導者

è農聖

秋田県庁で勧業行政に従事していた頃から石川の農事指導振りは際立っていた。たとえば県内の篤農家を集め、「歴観農話連」なる農人改良を目的とした組織を立ち上げている。彼の真摯な農本主義は多くの農民の支持を得て、人柄の徳と共に〈農聖〉の名も高めた。

 

石黒敬七  いしぐろけいしち (1897-1974) 随筆家・評論家

è①敬旦那

è②とんちけいしち(放送文化、1956.4)

è③ムシュー・ケイ

恰幅がよく黒メガネを外さない硬骨漢。NHK「とんち教室」のメンバー。骨董品収集にかけてもプロ級の目利きをもっていた。③は10年に及ぶフランス滞在にちなんで。

 

石毛直道 いしげなおみち (1937- ) 文化人類学者

è鉄の胃袋

学術研究調査で世界各地をとび歩いてきた人。食文化の追求でも貪欲さを示し、世界各地のエスニック料理を食べ歩いたため、知る人から〈鉄の胃袋〉というニックネームを付けられている。

 

石坂浩二 いしざかこうじ (1941- ) 俳優・テレビタレント

è男性カワイコチャン(漫画読本、1969.4)

憎めない顔立ちは万人が認めるところ。おっとりしていて、折り目正しい男の印象。年上の女性に大モてのタイプである。

 

石坂泰三 いしざかたいぞう (1886-1975) 財界人で、東芝社長・経団連会長

è財界総理

生命保険畑で活躍した人だが、戦後は東芝社長に就き同社の基盤を固めた。強烈なリーダーシップを発揮、政界にも鋭い批判の眼を向ける。内閣改造や閣僚人事にも影響を与えるなど〈財界総理〉として畏怖された。

 

石坂洋次郎 いしざかようじろう (1900-86) 小説家

è百万人の作家

書いた小説『青い山脈』『石中先生行状記』『陽のあたる坂道』などほとんどがヒットセラーに。中間大衆読者の心情を的確に把握し、人気の高さとあわせて〈百万人の作家〉といわれた。

 

石田博英  いしだひろひで (1914-86) 政治家で、労相

è①未完の大器(週刊文春、1975.7.24)

è②眠れる参謀(宝石、1976.8)

自民党内でも進歩派で通り、やり手と評された。臭いものにも蓋をせず、労組運動への対策にも身を賭し、衆目を集めた。

 

石田三成  いしだみつなり (1560-1600) 戦国武将

èさいかち

兜を冠った顔かたちがサイカチに似ていたことから、武将仲間にこの渾名に定着した。

 

石田礼助  いしだれいすけ (1886-1978) 国鉄総裁

èヤング・ソルジャー

東海道新幹線・山陽新幹線開業の立役者。総裁に就任したさい、「天国へのパスポートだから総裁報酬は返上する」と宣言し、明治男の気骨を示した。

 

石津謙介 いしづけんすけ (1911-2005) メンズファッションデザイナーで 、VAN代表

è亡国のデザイナー(週刊現代、1966.10.13)

VAN製品が流行し始めた当時、にやけたような仕立てに世間の抵抗は強く、石津への評価も手厳しいものがあった。なお「VAN」の語源は、オランダ語で「太郎」に相当するポピュラーな言葉である。

 

石槌島之助 いしづちしまのすけ (生没年未祥) 江戸初期の力士

è叩き殺し

伊予国出身で、64寸余、体重46貫、膂力に優れていた。得意技は「叩き込み」。伊勢の見世相撲で対戦相手の兜山権太右衛門を叩きで撲殺し、恐れられる存在となった。

 

石堂淑郎 いしどうとしろう (1932-2011) シナリオ作家

è無頼派ライター

昭和35(1960)年の助監督時代『青春残酷物語』を皮切りに『非行少女』『無常』『黒い雨』等社会の不条理を抉る作品群を発表してきた。その彼を「無頼派」と形容するのは表面的すぎるようだ。

 

石橋思案  いしばししあん (1867-1927) 小説家

 è乞食蚊士(ぶんし)

明治39(1906)年、石橋は財閥の大倉喜八郎に取り入って、文士保護の名目で500円を個人的に寄贈され、『文芸倶楽部』誌上に大倉を持ち上げる一文を書いた。彼のこうしたへつらいざまを時の『滑稽新聞』宮武外骨が揶揄して付けた渾名である。

 

石橋湛山 いしばしたんざん (1884-1973) 首相

è三日天下の宰相(週刊現代、1965.9.9)

病期療養中の身で、昭和31 (1956)12月から翌年2月まで、2か月余の短命内閣に終わった。

 

石橋政嗣  いしばしまさつぐ (1924- ) 政治家で、日本社会党書記長

è①石橋カミソリ

マスコミでこの名が代名詞的に用いられたほどで、鋭い頭脳の回転を示したことから、党内外での評価は高かった。。

è②ハムレット委員長 (週刊新潮、1977.6.9)

昭和35(1960)年の安保国会での論争で「進むべきか、退くべきか」瀬戸際の奮闘ぶりは印象的だった。

 

石原莞爾 いしはらかんじ (1889-1949) 軍人で、陸軍中将

è満州建国の立役者

昭和6(1931)年、関東軍後宮参謀板垣征四郎らと組んで満州事変を実行し、それを導火線として満州国の建国に奔走した。

 

石原慎太郎 いしはらしんたろう (1932- ) 作家・政治家・東京都知事

è太陽族作家

昭和30(1955)年、芥川賞受賞作『太陽の季節』発表当時に付けられた呼称である。

 

石村近江〔五代・善兵衛〕いしむらおうみ/ぜんべえ (-1708) 三味線工匠

èがっそう善兵衛

善兵衛は通称。この五代目は〈名人古近江(こおうみ)〉とも称されたほどの人で、製作した三味線は名器として珍重された。彼はつねに髪を総髪にしていたため、名前に「兀僧=がっそう」を冠された。

 

牟礼道子 いしむれみちこ (1886-1975) 家

è水俣の語部

昭和43(1968)年、「水俣病市民会議」を結成。さらに『流民の都』などの著作で水俣の公害被害を糾弾している。

 

石本新兵衛 いしもとしんべえ (-1645) 交易商・長崎平戸町乙名

è転びの者

長崎で浄土宗信者だった彼は、キリシタンに改宗。寛永2(1625)年平戸町の乙名に任ぜられると、キリシタンであることを捨て仏教徒に改宗した。そのうえ同町で町人の耶蘇改宗を推し進めたのである。そのため人々から〈転びの者〉と後ろ指を差された。

 

泉吉兵衛〔二代〕 いずみきちべえ (天保頃に活躍) 人形師 

è目玉の吉兵衛

〈目玉の吉兵衛〉をつづめて〈目吉〉とも呼ばれた。江戸の東海道筋大森に評判の化け物細工を見物させる見世が出来、吉兵衛という(あるじ)がいた。なぜ「目玉」なのか定かではないが、化け物人形の一つにお岩の目玉が垂れた仕掛人形があり、それが真に迫る傑作だったから、とも伝えられている。

 

泉鏡花 いずみきょうか (1873-1939) 小説家 

è①ネズミ

渾名の由来について、鏡花と同じく紅葉門下の小栗風葉の次の一文(真山青果編『風葉先生酔中語』)がある。

 泉で思い出したが、紅葉先生御夫婦の間では、彼れをネズミという愛称で呼んでいたらしい。右か左かの額の髪を、長く伸ばすのがあの人の癖で、それが汗などのために、ぴったりと前額に張りつくことがある。全体が額の大きな人だからね。それが縁なしの、厚い大きな近眼鏡と相応して、何となく鼠の額に似た感じを与えるのだ。

 è②オバケの鏡花

鏡花はオバケ大好き人間であった。『高野聖』はじめ『夜叉ケ池』『化銀杏』など

一連の作品は、オバケ好きならではの面妖趣向を表している。

 

和泉宗章  いずみそうしょう (1936-2001) 占い師

è天中殺先生

競馬必勝法の研究家から占術の道に。昭和54(1979)年、著作『天中殺入門』がミリオンセラーとなり、天中殺ブームをひきおこした。

 

泉ピン子 いずみぴんこ (1947- ) タレント

èヘチャ姫(週刊小説、1975.8.29)

常々本人自ら口にしていた呼び名で、それが仲間内へと広がった。

 

泉谷しげる いずみやしげる (1948- ) 歌手

èフォークの野獣(週刊明星、1973.7.15)

昭和48(1973)年、彼がヒットさせた『春夏秋冬』をきっかけに、余にフォークブームをもたらした。

 

泉山三六 いずみやまさんろく (1896-1981) 政治家で、蔵相

èトラ大臣

2次吉田内閣の大蔵大臣時代、泉山は予算審議に泥酔して出席、衆目の中で女性議員に抱きつくスキャンダルをやらかし辞職に追い込まれた。国民はあきれ果て〈トラ大臣〉とさげすんだ。

 

伊勢ノ海裕己茂 いせのうみゆきしげ (1946- ) 力士で、46代横綱

è亀の子

酒豪揃いの関取中でも屈指の大酒家。巡業中の久留米で宮城野宮、錦島と3人で朝酒を飲み始め午後3時頃までに39(正味四斗樽1本の分量)を空けたという記録を持っている。また70日余り酒びたりという伝説もあり、部屋仲間から〈亀の子〉の渾名を呈された。

 

磯田一郎  いそだいちろう (1913-93) 実業家で、住友銀行会長

è住銀のドン

平和相互銀行を吸収合併するなど住友銀行発展の功労者だが、社会的評価は芳しくない。昭和58(1983)年人事権を握ったまま会長に就任、業績拡大に邁進の号令をかけ、不正融資や地上げまで手を染める。その挙句業界から「住友ゼニゲバ商法」と悪口を叩かれたりした。

 

板垣退助  いたがきたいすけ (1837-1919) 政治家で、自由党主宰

è裏面之総理

めぼしい入閣は内務大臣1回だけという、政治的実績からは考えられないほどチャンスに恵まれなかった。しかし自由民権の風雲児らしく、憲政党などの権力争いでも陰の実力者として勢力を誇示した。政界から身を引いてからは、矯風運動などの社会運動に貢献している。

 

伊谷純一郎  いたにじゅんいちろう (1926-2001) 霊長類・人類学者

èガリ・ラ・モシ(蒸気機関車)

アフリカはタンザニア地方トングウエ部族では伊谷を〈ガリ・ラ・モシ〉と呼んでいた。必要とあらば山道を数10キロも突き進む健脚のためだ。もちろん研究対象である霊長類の観察のフィールドワークのために、である。1986年、伊谷は念願の「アフリカ地域研究センター」を設立している。

 

伊丹十三  いたみじゅうぞう (1933-1997) 俳優・監督で、エッセセィスト

è現代の光源氏 (婦人公論、1965.12)

毎日テレビドラマ「源氏物語」で光源氏役に 。この頃テレビのワイドショーやルポ番組でも引っ張りだこであった。

 

市川九女八 いちかわくめはち (1847-1913) 女役者

è女団州

彼女は寄席芝居から九代目市川団十郎に入門。やや大仰だが熱のこもった演技で人気になり、〈女団州〉 とか〈女団十郎〉とささやかれた。

 

市川崑 いちかわこん (1915-2008) 映画監督

èコン・コクトー

シリアスな文芸路線物を多く手がけた映画人。映画ファンらから往時フランスの名監督ジャン・コクトーにひっかけ駄洒落で〈コン・コクトー〉と呼ばれた。

 

市川団十郎〔初代〕 いちかわだんじゅうろう (1660-1704) 歌舞伎役者

è濡れの男

市川家の開祖、実事から濡れ事まで巧みにこなした。俳名・屋号共に「市川団十郎」の祖である。

 

市川団十郎〔二代〕(1688-1758) 歌舞伎役者

 

è千両役者

 

史上初、給金が壱千両となった役者。市川家の基礎を築く。

 市川団十郎〔四代〕(1711-78) 歌舞伎役者

è木場の親玉

女役から立の実悪に転じ手演技に一段と磨きがかかり、悪七兵衛景清などの当たり役を披露した。安永5(1776)年惜しまれつつ深川木場に隠棲し、〈木場の親玉〉の名で呼ばれた。

 

市川団十郎〔五代〕(1741-1806) 歌舞伎役者

è花道つらね

名優にふさわしい渾名と間違えやすいが、じつは狂号である。老いて芸に艶無しと自覚するや、引退して狂歌師に身を転じ、味のある狂歌を詠んだ。

 

市川団十郎〔七代〕(1791-1859) 歌舞伎役者

è目玉の団十

ぎょろりと大きな目玉で親しまれ、幅広い役をこなした。

 

市川団十郎〔八代〕(1823-1854) 歌舞伎役者

è蘇生の団十

出演中に舞台で昏倒。回復してから「市川団十郎蘇生の次第」なる刷り物を売り出し人気のほうも回復をあおった。

 

市川団十郎〔九代〕(1838-1903) 歌舞伎役者

è劇聖

風姿容貌に恵まれ、音調弁舌こころよく、如何なる役をもこなし〈劇聖〉の名を高めた。加えて「活歴」の演出法を考案、常に歌舞伎の改良と役者の地位向上に眼を向けた。当時、市川左団次、尾上菊五郎と並んで明治の三大名優と称されている。別に〈権ちゃん〉の愛称も持つ。

 

市川房枝  いちかわふさえ (1893-1981) 政治家・社会運動家

è永遠の老嬢 

含みのある曖昧な表現である。が、ご本人は「今ごろ美人といわれても遅すぎる」(週刊朝日、1974.10.18)と述懐している。

 

市川雷蔵  いちかわらいぞう (1931-1969) 俳優

è雷さま

ファンクラブではこう呼ぶのが普通だったとか。それにしても夭折した彼に対し、万感胸にこもる愛称である。

 

市毛良枝  いちげよしえ (1950- ) 女優

è①昼メロ女優

è②花嫁候補ナンバーワン (女性自身、1982.1.21)

清純な印象は群を抜き、昼メロ「小さくとも命の花は」でヒロインに。理想的な若妻役を演じた。

 

一条兼良 いちじょうかねら (1402-81) 太政大臣・関白で、国学者

è無双の才人

生まれついての学者で博識。有職故実から古典文学・神道・仏教など幅広い分野を修め、果ては狂歌作りにまで並々ならぬ才能を示している。こうした兼良に世人は〈無双の才人〉とか〈五百年来の学者〉(菅原道真から数えて)などの賛辞を惜しまなかった。なお関白まで任官した出世は、兼良にほれ込んだ将軍足利義教とその夫人日野重子の支援があってのことである。

 

一条さゆり〔初代〕  いちじょうさゆり (1929-97) ストリッパー

è①ストリッパー日本一

è②性演の女

è③特出し女王

è④ポルノ被告

 新潟県出身、本名を池田和子という。昭和ストリップ界の女王として、あまりにも有名なダンサー。彼女がはやらせた「ローソクショー」はたちまち全国を席捲し、場末のストリップ小屋での亜流を生んだ。昭和47(1972)年、大阪において引退興行のさい「特出しサービス」に及び、公然猥褻罪で懲役6月に処せられた。

 

一条さゆり〔二代〕 いちじょうさゆり (生年未公表- ) バーレスクダンサー

èインテリ・ストリッパー

日大芸術学部出身という異色のキャリアから〈インテリ・ストリッパー〉なる称号を誇っている。元は「萩尾なおみ」の本名でロマンポルノに出演。昭和61 (1986)9月、二代目一条さゆりを襲名しストリッパーとして舞台に立つ。彼女の日記風随筆集『ストリッパー』を読むと、豊満な肉体美からは連想できない知性のひらめきが見てとれる。

 

一万田尚登 いちまだひさと (1893-1984) 政治家で、日銀総裁

è一万田法王

昭和21(1946)年日銀総裁に就任してから8年半に及ぶ在任中、絶大といってよい権勢をふるい、銀行・大蔵省・産業界から〈一万田法王〉と畏怖された。世のひんしゅくを買った「日銀の前を通る時はお礼心を持て」との暴言に、法王ぶりの一端がうかがえる。

 

一柳斎貞鳳 いちりゅうさいていほう(1926- ) 講談師で、国会議員

è寄席次官

今泉良夫の名でタレント候補から議員に。この異称は昭和49(1974)年、北海道庁次官になったときのもの。

 

五木寛之 いつきひろゆき(1932- ) 作家

è休筆屋

きわめて精力的な書き手だが、少なくとも3度は「休筆宣言」をして出版界を手こずらせている。

 

一休宗純 いっきゅうそうじゅん (1394-1481) 

è頓知の一休

自ら唱えた「風狂」の姿勢をとおし、全に言う悟道の真髄を極めた人。一方、民間への布教も怠らず、諸国めぐりで機知に富んだ数々の逸話を残し、その多くは『一休話』に残されている。……というのは表の顔で、関連古典を読むと、女犯、肉食、遊女遊び、大酒くらいと、世の俗物の欲望を一手に引き受けたような素顔が見えてくる。

 

五ッ島奈良夫 いつしまならお (1912-73) 力士で、大関

è稽古場横綱

重心を低く取り腕力にものを言わせて相手をねじ伏せる。所属する出羽ノ海部屋の稽古相撲では無類の強さを示した。69連勝した時の横綱双葉山にも2勝の金星を挙げている。

 

一遍 いっぺん (1239-89) 鎌倉中期の僧で、時宗の開祖

è(すて)(ひじり)

一遍は正応2(1289)8月、和田岬の観音堂で入寂する直前、「一代聖教みな尽きて南無阿弥陀仏に成り果てん」と述べた。そして誦経しながら携えていた書籍・経典すべてを焼き捨て、さらに門弟たちに「没後わが身は葬礼の儀をせず、野に打ち捨ててけだものに施せ」と遺言した。一切を放棄することで弥陀に近づいた生涯は〈捨聖〉の敬称にふさわしい。

è遊行(ゆうこう)上人

一遍は在命中、弟子の聖戒を連れて諸国遊行の旅に出た。彼の「一所不在」という布教の信念に基づくもので、これから〈遊行上人〉とも呼ばれている。

 五輪真弓 いつわまゆみ (1951- ) シンガーソングライター

èフオーク聖少女(プレイボーイ、1976.4.20)

ポップシンガーとして情感溢れる真面目な歌唱ぶりで若者の支持を得た。

 

伊東絹子  いとうきぬこ (1932- ) ミス・ユニバース日本代表

è八頭身美人

この語はしばらくのあいだ、彼女の代名詞として通用した。

 

伊藤若冲  いとうじゃくちゅう (1716-1800) 市井の絵師

è面白き物好き

有名流派の画風に染まることなく、自分の描きたい対象を独自の筆法で描き続けた。たとえば実家が京都錦小路の八百屋のためか、横臥する釈迦を大根に見立てそれを野菜が取り囲む面白画『釈迦涅槃図』のごときは、並みの発想で描けるものではない。人は若冲をして〈面白き物好き〉というからかい半分、褒め言葉半分の野次を飛ばした。

 

伊藤仁斎 いとうじんさい (1627-1705) 儒学者

è古学先生

仁斎は日本朱子学の大家で、古学(古義学)を創始。京都の古義堂では門弟三千人を擁した。〈古学先生〉は没後の贈り名であるものの、生前から通称されていた。

 

伊藤整  いとうせい(1905-1969) 作家・翻訳家

èミスター・チャタレー

昭和25(1950)年、ローレンスの『チャタレー夫人の恋人』を訳し、猥褻文書頒布罪の容疑で起訴され、いわゆる猥褻裁判渦中の人となった。

 

伊藤晴雨 いとうせいう (1882-1962) 風俗画家・風俗考証家

è責め絵師

女体の責め絵といえば晴雨を連想するほど近代大和絵では有名な存在で、その原画は好事家垂涎の的になっている。彼は16歳の時に責め道具で悶え苦しむ女体美に開眼、お葉らモデルと実地でのいたぶりを通して切磋琢磨の末、責め絵・縛り絵を次つぎと描いている。〈責め絵師〉の渾名は、自他ともに遺憾なく認めるところであろう。

 

伊藤宗看 いとうそうかん (1706-61) 将棋棋士で、七世将棋名人

è鬼宗看

当時向うところ敵なしの強さに畏怖を感じた対戦者が付けた渾名。別に、〈名人中の名人〉との異名もある。

 

伊藤痴遊 いとうちゆう (1867-1938) 政治家・講談師

è話術の神様

明治時代、壮士出身の反政府運動家。当局からの弾圧を意識し、政治演説を改良した「新講談」を看板に、独自の座談風講談を創案した。痴遊の絶妙な語り口から〈話術の神様〉と評され、晩年は「話術倶楽部」を創設、会長に就任し話術の普及に尽力した。

 

伊藤東涯 いとうとうがい (1670-1736) 儒学者

è紹述(しようじゆつ)先生

「紹述」とは、前人の後を引き継いで記述を行う、との意味である。いわば「二番煎じ」だ。東涯は父の仁斎の志を継ぎ2代目学主として古学を教えた。ところが父が偉大すぎたため、薫陶もかすんで見えたことが〈紹述先生〉の表現に見え隠れしている。もちろん単なる紹述でなく、自著『孟子古義』に見るように、仁斎の道徳論をより客観的立場から修正する試みに成功している。

 

伊藤博邦 いとうひろくに (1870-1931) 伊藤博文の養嗣子で、公爵

è大内山の主

宮内省入りして39年間、その長すぎるキャリアを買われ〈大内山の主〉と称された。

 

伊藤博文 いとうひろぶみ (1841-1909) 政治家で、初代総理

è好色宰相

吉田松陰教える松下村塾時代の博文は秀才の多い中で今ひとつパッとしない存在であった。

ただし女にかけては当時から凄腕で、左手で書を閉じると右手はもう女の裾にかかっている、と噂がたつ。明治の元勲になってからの色豪談の数かずは、改めて触れるまでもあるまい。

 

糸川英夫  いとかわひでお (1912-99) 航空工学者

èロケット博士

昭和30(1955)年、チームを率い国産初の固体燃料推進「ペンシルロケット」の発射実験に成功した。

 

井戸平左衛門 いどへいざえもん (1672-1733) 石見国大森の代官

è芋代官

享保17(1732)年、井戸は薩摩から種芋100斤を取り寄せ救荒食糧として農民に試作させた。芋にとどまらず米を買い入れては貧農に施したり、大凶作の年は年貢減免に奔走するなど広く徳政をしき、村民から〈芋代官〉と親しまれた。

 

糸山英太郎 いとやまえいたろう (1942- ) 実業家・参議院議員

è親の十四光り

「親の七光り」をダブらせ強調した渾名である。昭和49(1974)年参議院議員に当選。その際多くの選挙違反好意が明るみに出て、議員としての姿勢が問われた。なお義父は笹川良平(競艇界のドン)で、その甥に当たる。つまり親の七光りに伯父の七光りが加わった、との意味である。

 

稲垣足穂 いながきたるほ (1900-1977) 小説家・評論家

è①渾名付けの名人

 (本書「はじめに」承前)稲垣は一時師事していた佐藤春夫を「類推の名人」と評しているが、その薫陶を受けたのだろう、本人もまた〈渾名付けの名人〉との評判を得ている。彼は大酒飲みでもあり、若くして酒精中毒者であった。

è(すい)(とん)

風姿は、蛸入道のような顔に寸胴の体形であることから、文士仲間は〈酔豚〉(飢饉食の水団(すいとん)にちなむ)なる渾名を呈し溜飲を下げた。

 

稲佐お栄 いなさおえい (1860-1900) 長崎のラシャメン

è靴磨きお栄

本名を道永エイといった。長崎のオロシヤ租界でロシア水兵の高級洋妾となった婦人。35歳のとき、ロシア東洋艦隊マカロフ提督との間に男児をもうけている。「靴磨き」とは長崎ラシャメンに対する呼称で、「磨けば磨くほどよい玉になる」の謂である。

 

稲山嘉寛 いなやまよしひろ (1904-87) 八幡製鉄社長で、経団連会長

èミスター・カルテル

昭和45(1970)年、富士製鉄を八幡製鉄に合併させ、新日本製鉄を発足させた中心人物。その後業界の競合調整に奔走、秩序作りの貢献に対し〈ミスター・カルテル〉の称号を呈された。「鉄は国家なり」(ナポレオン「朕は国家なり」のもじり)との言葉も残している。

 

犬養毅 いぬかいつよき (1855-1932) 政党政治家

è憲政の神様

明治21(1888)年憲政党の結成に参加し、その後明治43(1910)年に自ら立憲国民党を結成。欧米諸国の憲政に明るく旧態依然の藩閥主義に対決、〈憲政の神様〉と敬われた。

 

井上円了 いのうええんりょう (1858-1919) 仏教学者

 è妖怪博士

仏教の改革を唱えるかたわら、余技に妖怪の研究で名を成したことから〈妖怪博士〉と渾名される。つれて、「妖怪また科学の延長線上にあり」とするユニークな論文『妖怪学論義』を発表し注目を浴びた。

 

井上馨 いのうえかおる (1835-1915) 政治家・実業家

è三井の大番頭

政治家としては外務大臣経験者で、西欧での見聞を通して日本の近代化を推進。しかし三井財閥の商売発展に肩入れし、西郷隆盛から「おはんは三井の番頭か」とからかわれたことから、この渾名が広まったという。明治33(1900)年制定の「三井家憲」において、井上は三井家の終身顧問にすると保証され、文言上でも番頭役を与えられている。

 

井上角五郎 いのうえかくごろう(1860-1938) 政治家・実業家

è(かに)(こう)

伝記などではかなり荒削りな性格でクセの強い人。しかもアバタ面で角ばった容貌、そして武張った名前。こんな人物像から〈蟹甲〉と渾名された。

 

井上玄徹 いのうえげんてつ (1602-86) 医師

è神医

正保4(1647)年、300俵の碌で将軍家光の侍医になった。のち家綱付となり、ここで宮人や公家、大名等を診察治療。名医と評判になり、一度の診立て料は銀3000枚といわれた。

 

井上真改 いのうえしんかい (1631-82) 浪華の刀工

è大坂正宗

泉州における新刀鍛冶中でも傑出した腕前の名工。鎌倉時代の名匠正宗にあやかって〈大坂正宗〉あるいは〈新刀正宗〉と称された。

 

井上井月 いのうえせいげつ (1822-87) 俳人

è乞食井月

越後長岡に生まれるも、主として信濃で漂泊生活を送る。ぼろを身にまとうも一向に気にせず、酒を唯一の楽しみにさすらい続けた。年老いて行き倒れの彼を村人が見つけ、養生所に担ぎ込んだことも再三あったらしい。

 

井上内親王 いのかみないしんのう(717-775) 光仁天皇の皇后で、のち廃后に

è吉野皇太后

宝亀元(770)年に立后し2年後、巫蠱(ふこ)厭魅(えんみ)(呪詛)による大逆罪の疑いで廃后となり、さらに毒殺されたと伝えられている。その後処分関係者に不幸が続き、亡后の怨霊によるものと恐れられ、没後復位の形で〈吉野皇太后〉と諡し弔われた。

 

井上ひさし いのうえひさし (1934-2010) 作家・劇作家

è昭和の戯作者

自作『吉里吉里人』『モッキンポット氏の後始末』などで、現代的な弄辞の面白さを作品に反映させた。

 

井上陽水 いのうえようすい (1948- ) シンガーソングライター

è①フォーク界の巨人

è②億万長者歌手

日本レコード大賞作曲賞などを受賞。当第一の売れっ子に、他にもいくつか異名が与えられている。

 

伊庭八郎 いばはちろう (1843-69) 幕臣で、剣客

è伊庭の小天狗

父は講武所剣術師範の伊庭軍兵衛、八郎も武術に秀で、箱根戦争や箱館戦争で新政府軍を相手によく戦った。その獅子奮迅ぶりは〈伊庭の小天狗〉と評されたが、五稜郭の戦陣において銃創がもとで没した。

 

井原西鶴 いはらさいかく (1642-93) 浮世草子作者・俳人

è(すい)法師

『好色一代男』 を皮切りに一連の好色物を書いて、世間から〈粋法師〉と称される。上方でいうには(つや)っぽい、の含みがある。西鶴は妻子に先立たれ、中年以降は独身生活を送り、俳諧の宗匠に没入するなど、超俗的雰囲気をそなえた「法師」とみなされていた。

 

今出川兼季 いまでがわかねすえ (1281-1339) 公卿

è菊亭入道

京都今出川の邸内に菊を数多植えたため自身も「菊亭」と称し、知る人から〈菊亭入道〉といわれた。別に官位から〈菊亭右大臣〉とも。

 

今村紫紅 いまむらしこう (1880-1916) 日本画家

è目黒の貸元

画家として脂の乗った時期目黒に住み、速水(はやみず)御舟ら若手を率いて「赤曜会」を結成。酒好きで豪放磊落(らいらく)、親分肌で、屋敷にはいつも若い食客がたむろしていたという。〈目黒の貸元〉とは紫紅の画家らしからぬ大様な人物像に迫った評でもある。

 

今村昌平  いまむらしょうへい (1926-2006) 映画監督

è今様助平

「今村昌平」をそっくり捩った渾名。「豚と軍艦」「にっぽん戦後史」「にっぽん昆虫記」など、彼が手がけた一連の性風俗活写映画を見れば、渾名の由来も納得がいく。

 

今村均 いまむらひとし (1886-1968) 軍人で、陸軍大将

èラバウルの名将

昭和17(1942)年、今村は第八方面軍司令官としてパプア・ニューギニアのラバウルに転任。ここは日本の南方戦線最前線で、日本軍10万の将兵はアメリカ軍に占領されたソロモン群島から連日空爆の恐怖にさらされていた。しかも輸送路を断ち切られ飢餓状態に入っている。ここで今村は強靭な統率力を発揮して、難関にあっても士気を高め、無い無い尽くしの中で敵の上陸を待ち受けた。この布陣に米軍のほうがかえって上陸を牽制され、今村郡は終戦までラバウルを死守したのである。見事な精神戦術が奏功したことから、やがて今村は〈ラバウルの名将〉との聞こえを高めた。

 

入江たか子  いりえたかこ (1911-95) 女優

è怪猫女優

昭和28(1953)年、日活映画「怪談佐賀屋敷」で主演。おっかない演技で〈化け猫女優〉のレッテルが貼られた。

 

磐井 いわい (-528) 西国の土豪

è筑紫の君

筑紫国造(くにのみやつこ)として君臨。継体天皇21(527)年朝廷が朝鮮へ出兵のおり、磐井は帝の力を侮り、新羅と結託して反乱を起こした。その権勢振りから〈筑紫の君〉と称されたが、翌22年に朝廷側の物部(もののべの)(あら)鹿()()軍と一戦を交え敗死している。

 

岩井粂八 いわいくめはち (生没年未詳) 明治時代の女役者

è女団州

明治中期、神田の女芝居専門の見世「三崎座」で興行した一座の中心人物。芸良し面良しの人気役者であった。元狂言師だったことから客をわかせるツボも心得ていた。ことさら荒っぽい男役を得意とし〈女団州〉の異名を高めた。

 

岩井半四郎〔四代〕いわいはんしろう (1747-1800) 歌舞伎役者

èお多福半四郎

四代目はその福福しく丸い顔立ちから〈お多福半四郎〉と渾名された。ほかに所有する別荘の地名から〈目黒の太夫〉〈白金太夫〉ともいわれた。

 

岩井半四郎〔五代〕いわいはんしろう (1776-1847) 歌舞伎役者

è(まなこ)千両

美貌の名女形(おやま)で、どこへ姿を見せても引っ張りだこ。目のあたりにただよう男殺しの色気から〈眼千両〉と評された。

 

岩倉具視 いわくらともみ (1825-83) 明治維新の功臣

è政治公卿

倒幕の強力な推進者であり、傍ら薩摩藩御用の政略引き受けてであった。西郷隆盛や大久保利通らとの人脈も深く、維新後は新政府での参与、副総裁、右大臣などをもつとめている。

 

岩下志麻 いわしたしま (1941-1847) 女優

è①駆けずの志麻(週刊大衆、1966.8.4)

è②恍惚女優

昭和44(1969)年、松竹映画『心中天綱島』において、女の情念のすさまじさを見事に演じきる。以来松竹映画のドル箱スターになる。他との一連の異名に、岩下演技に酔わされた観衆の思いが込められている。

 

岩田専太郎 いわたせんたろう (1901-1974) 画家

è①イワセン

名前をつづめた愛称である。

è②溺女先生

昭和36(1961)年から『週刊読売』に連載の「溺女伝」から付けられた又の名。

 

岩波茂雄 いわなみしげお (1881-1946) 出版人で、岩波書店の創立者

è鬼の押出し

岩波の容貌は岩石だらけの荒地を連想させるもので、かつて、浅間高原に別荘を構えていたこととあわせ〈鬼の押出し〉と渾名された。「文覚(もんがく)上人の画像を髣髴(ほうふつ)させる」という評もあるくらい、尋常な面構えではなかったらしい。悠々迫らざるものがあり、〈鈍牛〉ともささやかれていた。

 

岩野泡鳴 いわのほうめい (1873-1920) 作家

è宇宙の帝王

故郷札幌の中学に招かれ講演をしたさい、「おれは宇宙の帝王だ」と口を滑らせた。絶叫したというから、おそらく一杯きこしめしていたのだろう。失笑を買った上、「あれ、宇宙の帝王がやってくるぞ」などと生徒にからかわれるしだいとなった。

 

岩堀喜之助 いわぼりきのすけ (1910-82) 出版人で、凡人社(平凡出版→マガジンハウス)創業者

èオラんちのやつ(逆呼び)

岩堀には凡人の枠からはみ出した人物らしいエピソードがいくつも残されている。自社の社員を〈オラんちのやつ〉と出身地の小田原弁で渾名のように呼んでいたのもその一つ。本書では渾名を付けられたほうが主役なのだが、例外として載せてみた。

 

巌谷小波 いわやさざなみ (1870-1933) 作家

è文士ハイカラ(東京パック、1907年の評)

巌谷はドイツに留学し、帰国後も生涯ハイカラスタイルで通した。『東京パック』誌上で、論敵とハイカラ論などを戦わせている。また、少年少女の純愛物語を多く書いたことから、〈小波おじさん〉〈文壇の少年屋〉などとも異名された。

 

岩谷松平 いわやまつへい (1849-1920) 近代のタバコ製造販売業者

è国益の親玉

タバコの専売制以前、日本では寡占状態だった民営タバコの製造販売を手がけた人物。

銀座で自社製タバコ店を創業。派手な言動で話題になった人で、ライバルの村井商会との熾烈な宣伝合戦を展開。免囚や物乞いを雇い入れたり、多額納税を宣伝して見せたり、常に自分が〈国益の親玉〉であると喧伝、世間もこの一語で岩谷を連想するまでになった。

 

 

 

植木玉厓 うえきぎょくがい (1781-1839) 漢詩人

è阿呆(あほう)の鏡

名前はそれほど知られていないが、狂詩を作らせたら右に出る者無しといわれた実力者。狂詩号を「半可山人」と称し、文政2(1819)3月に忠臣蔵を主題にした狂詩「日本一安房鏡」を発表。これを読んだ人たちから〈阿呆の鏡〉と渾名されている。その一人、大田蜀山人のごときは、作品の全文を写し取って保存したほどのほれ込みようであった。

 

植木等 うえきひとし (1926-2007) 歌手・俳優

è無責任男

昭和33(1958)年東宝映画『ニッポン無責任時代』に主演し、大ヒットを飛ばす。以来無責任シリーズ30本に出演、〈無責任男〉の看板スターに。実像は渾名のイメージに反し、いたって真面目人間である、とは彼を知る人の評である。

 

植草甚一 うえくさじんいち (1908-79) エッセイスト

èポップ・カルチャーの先生

映画評論からタウンスタイルまで、幅広い知識を栄養にした若者文化の前衛化を標榜、その実践的指導でカリスマ的存在感があった。別にコラムでの筆名「JJ」を用い〈JJ氏〉との呼称も知られている。

 

上島鬼貫 うえじまおにつら (1661-1738) 俳人

 è生得の達人

鬼貫は初期作品集『大悟物狂』が板行された元禄3(1690)年にまだ30歳、芭蕉をしゃにむに追いかけていた。当時の作句、

  から井戸へとびそこなひし蛙よな  鬼貫

も、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の捩りである。追う立場の自分を意識し、さらに自身を蛙に見立て、なんと己は空井戸すら飛びそこなったものよ、と自嘲している。のちに「東の芭蕉、西の鬼貫」「芭蕉は習得の達人、鬼貫は生得の達人」という世評もうなずけるほど、生まれついての俳人であった。

 

上杉謙信 うえすぎけんしん (1530-1578) 戦国時代の武将で、越後の領主

è毘沙門と結婚した男

謙信は生涯独身を通したが、毘沙門天への狂信が目立ち、ついには自ら毘沙門の化身と信ずるに到った。こうした彼を人びとは〈毘沙門と結婚した男〉と評し、程ほどの距離を置いて接したという。

 

上田秋成 うえだあきなり (1734-1809) 国学者・読本作者・歌人

èこじき伝兵衛

通称を伝兵衛といった。秋成が『古事記』を中心とした古代音韻をめぐって本居宣長と激しい論争を展開したことはよく知られている。秋成は5歳のとき重い疱瘡にかかり顔面が醜くなった。そのうえ風采のあがらぬ身形(みなり)、遁世に近いなりふりかまわぬ生活態度などから、〈こじき伝兵衛〉と称された。

 

上田右馬之允 うえだうまのすけ (生没年未詳) 幕末の剣士

è桃井(もものい)の小天狗

右馬之允は京橋あさり河岸に道場「士学館」をもつ桃井(もものい)左右(そう)八郎(はちろう)門下の高弟であった。風雲急迫のあるとき、蕎麦屋の梯子段の下で、上から襲ってきた二人の暴漢(天童藩士)を天狗が舞うようにして一瞬に斬り伏せてしまったのを見た人たちは、〈桃井の小天狗〉と畏怖したという。

 

植田小太郎 うえだこたろう (1851-1919) 染料業

è神田の慈善翁

東京神田で織物の染料を手広く商った人。大日本織物協会の理事を長年つとめ、人徳とみに高かった。困った人を見るにつけ手を差し伸べて救ったので、自身は傍目ほど裕福ではなかった。〈神田の慈善翁〉といわれたゆえんである。

 

上野千鶴子 うえのちづこ (1948- ) 評論家・社会学者

è女性セクソロジスト

東大大学院教授に似つかわず、ヒト♀の下半身の研究に熱心で、女性器にかけての権威でもある。その方面での著作も多く、口の悪いのが〈おまんこ女史〉などとからかっている。

 

上野俊之丞 うえのとしのじょう (1790-1851) 機械(からくり)細工師

è写真術の開祖

江戸後期に知る人ぞ知るの科学技術者。蘭学を修め化学に造詣が深く、鹿児島藩に抱えられ銃砲の火薬に使う硝煙製造に携わった時期もあつた。オランダ人から写真機を入手し、いわゆる銀版写真法をマスター、藩主島津斉彬の真影を写したりした。

 

上羽秀 うえばひで (1923-2012) クラブ経営者

è空飛ぶマダム

芸者上がりのクラブ・ママで、銀座と京都の店を飛行機で往復し〈空飛ぶマダム〉と話題をさらう。銀座店「おそめ」は最高級クラブで有名も、昭和54(1979)年に閉店している。

 

上原正吉 うえはらしょうきち (1897-1983) 実業家で、大正製薬社長

è遺産王(週刊現代、1983.12.24)

昭和39(1964)年度から連続3年間、自社株配当金により長者番付トップを維持。年収10(現価70)から20億というから、遺産額のほうも押して知れる。

 

植松自謙 うえまつじけん (1750-1810) 信濃の名主・心学者

è①仏五左衛門

è②赤坂菩薩

è③出雲屋菩薩

信濃から江戸赤坂に来て貸本屋を営み、出雲屋和助と通称する。深い人間愛に開眼し、文盲の人にはいとわず本を読んでやった。かたわら神学者として、わかりやすく慈愛に富んだ道話で人々を教導。諸国巡礼の期間が長く教化した人の数知れず。

 

植村甲午郎 うえむらこうごろう (1894-1978) 実業家で、経団連会長

è財界総理

昭和43(1968)年、経団連会長に就任以来、政財界間の調整役として手腕を発揮した。

 

植村直己 うえむらなおみ (1941-84) 冒険家

è①冒険野郎

è②社会人失格者(文芸春秋デラックス、1978.10)

昭和45(1970)年、日本人として初めてエベレスト登頂に成功。同59年、マッキンリーとうき単独登頂に成功したが、下山途上連絡を絶つ。②は自称で、人間社会からはみ出した自身の姿を述懐している。

 

宇垣一成 うがきかずしげ (1868-1956) 軍人で、陸軍大臣 

è政界の惑星

陸軍大臣在任時は軍縮を励行し、陸軍の近代化に努めた。昭和28(1953)年、参議院議員に立候補し、51万票の全国区最高得票数を得て当選。政界では表面だ他図、もっぱら影武者役に徹して実力を発揮した。

 

右近源左衛門 うこんげんざえもん (1622-) 初期歌舞伎の女形役者

è女形(おやま)の始祖

歌舞伎狂言がまだ野良歌舞伎の時代、女形を演じて新風を吹き込み評判をとった。もちろん〈女形の始祖〉とは後世の名付けである。

 

宇佐美毅 うさみたけし (1903-91) 宮内庁長官 

è天皇家の防人(さきもり) (週刊現代、1978.5.25)

昭和28(1953)年に宮内庁長官となり、昭和天皇の天皇家一家に名執事役として仕えた。

 

宇田川玄随 うだがわげんずい (1756-98) 蘭方医

è東海夫人

東海は雅号。女のように色白で、診察などでの仕草も柔和だったため〈東海夫人〉と呼ばれた。

 

歌川豊国 うたがわとよくに (1769-1825) 浮世絵師

è似顔絵師

美人風俗画に一派をなした人。寛政6(1794)年に板行の『役者舞台之姿絵』が評判になり大売れしてから、もっぱら役者絵に専念。役者顔立ちの特性がよく描かれていることから〈似顔絵師〉と呼ばれるようになった。

 

歌川芳艶〔初代〕ううたがわよしつや (1822-66) 浮世絵師

è刺青の下絵師

最初武者絵を描いていたが、女道楽が過ぎて師匠から破門される経歴をもつ。後に刺青の下絵師に転向し、入れ墨用の化膿止め薬などの販売も手がけた。

 

歌川芳藤 うたがわよしふじ (1828-87) 浮世絵師

èおもちゃ芳藤

歌川国芳の弟子で、錦絵を描く。ことに見栄えのするおもちゃ絵に才能を示し、〈おもちゃ芳藤〉の名を広めた。

 

宇多天皇 うだてんのう (867-931) 第五十九代

è王侍従

一時期、光孝天皇(第五十八代)の侍従を勤めた経歴から〈王侍従〉と評された。ほかに〈亭子院帝〉の異名、権勢欲が強かったことから〈寛平法皇〉の別称をもつ。

 

内田信也 うちだしんや (1880-1971) 海運業者で、内田汽船の創業者

è珍品の主

いわゆる船成金で財をなした人。儲けるためには手段を選ばなかった男で、普通選挙による民主化は海運に不利と見るや、政界に根回しして阻止すべく、贈賄金5万円をばら撒いた。このとき表現したのが「珍品5万円」で、この一件から世間では彼をして〈珍品の主〉と評するようになった。のちロッキード事件で田中角栄が賄賂1億円をピーナッツ1粒に喩えたのと同じ伝である。

 

内田百閒 うちだひゃっけん (1889-1971) 随筆家 

è①百閒天皇

評論家、高橋義孝の評である。百閒は近・現代の名随筆家とうたわれたが、私生活では頑固でわがままなところが目立っていた。

è②百閒入道

辰野隆博士の評で、百閒は一時坊主刈りの頭をトレードマークにしていた。

 

内山賀邸〔椿軒〕 うちやまがてい/ちんけん (-1788) 江戸の国学者

è江戸狂歌壇の開祖

牛込に住み、和歌や狂歌を教授していた。門弟にのち狂歌の三名手と歌われることになる唐衣橘洲、大田南畝、朱楽菅江らを抱え、自邸に招いて添削などの指導をした。やがて狂歌に興味を持つ門弟が増え、屋敷はいつしか江戸狂歌サロンの様相を呈するようになった。

 

内山七郎右衛門〔良久〕うちやましちろうえもん (1806-1881) 越前大野藩の執政家老 

èそろばん侍

80万両もの負債を抱えた藩財政を17年かけて立て直した功労者。そろばん上手で計数に明るいうえ、大坂の富商に店者(たなもの)として雇われ浪花商法を身に付ける。やがて藩直営の特産販売店「大野屋」を各地に設け、藩地産業も振興させるなど近代商法で巨額の利潤を上げて借金を返済しきった。藩内では反対派との確執も生じ、「士道を忘れたそろばん侍」などと陰口をきかれた。

 

宇都宮公綱 うつのみやきんつな (1302-56) 中世の関東武将 

è坂東一の弓矢取

関東は下野の豪族長で、大坂四天王寺の戦に出陣し楠正成軍と対戦。のち足利尊氏を武州豊島河原で破り、新田義貞・赤松則村連合軍の播磨白旗城を攻略するなど、果敢なミサ振りを発揮し〈坂東一の弓矢取〉の名を高めた。

 

宇都宮徳馬 うつのみやとくま (1906-2000) 政治家・実業家 

è政界の一匹狼

所属の進歩等から自民党入党まで、一貫して進歩派を辞任し、党略に走らず独立路線を歩み続けた。昭和55(1980)年、党派を完全離脱して無所属の参議院議員に。その軌跡はまさに〈政界の一匹狼〉にふさわしいものであった。

 

宇都宮遯庵 ううつのみやとんあん (1633-1707) 儒学者

èしらみ先生

博学で知られた岩国の学者である。渾名〈しらみ先生〉は、この人が不潔だったからではない。入門者のために書き添える注記の文字が異常に細かく、目を凝らさなくてはとらえられない、という意味からこの渾名が付けられた。

 

うつみ宮土里 うつみみどり (1943- ) タレント・司会者 

èケロンパねえさん

昭和41(1966)年、日本テレビ「ロンパールーム」の二代・先生役に。目の大きな表情と明るい声で子供たちに人気であった。

 

烏亭焉馬 うていえんば (1743-1822) 幕府御用の工匠 ・茶番師

è落語中興の祖

幕府お抱え大工のかたわら、茶番に長けていた。茶番とは、即興で演じるおどけのことである。芝居見物にはまり茶番特有の滑稽に魅せられ、自己研鑽を重ねた。やがて座持ちで人に芸を披露するようになった。安楽庵策伝を落語の開祖とすると、焉馬は〈落語中興の祖〉ということになる。

 

宇野亜喜良 うのあきら (1934- ) イラストレーター 

è魔法のイラストレーター(平凡パンチ、1967.8.28)

サロメ連作画等で知られたビアズリーの描画を現代風にアレンジしたような、ファンタジックな画風で人気を高めた。

 

宇野浩二 うのこうじ (1891-1961) 作家

è枯葉の人

作品に行き詰まり神経衰弱にかかって一時休筆したが、昭和8(1933)年に復帰して発表したのが『枯木のある風景』。続いて『枯野の夢』といった、病み上がりの痛ましさを髣髴させる作品を世に問い、この渾名を付けられた。

 

宇野重吉 うのじゅうきち (1914-88) 俳優・演出家 

èデコ

広めのおでこにちなんで団員らに付けられた渾名。飾らない性格で人から好かれ、民衆演劇を心から愛した人であった。

 

宇野千代 うのちよ (1897-1996) 作家

è本郷のクイーン

本郷のレストランでウェイトレスをしていた時代の渾名。男好きのする顔立ちだったので本郷を拠点とする芥川龍之介ら文士にもてた。ちなみにこの人、人妻を4回も経験、今風に表現するなら「バツ4」ということになろう。

 

宇野信夫 うののぶお (1904-91) 劇作家・演出家

è昭和の黙阿弥

『講談宵雨宮』など新作歌舞伎脚本の第一人者。ことにしっとりとした江戸情緒と面妖な人情話に異才を発揮、〈昭和の黙阿弥〉と称されている。

 

梅ケ谷藤太郎〔初代〕 うめがたにとうたろう (1845-1928) 力士で、十五代横綱

 è大雷(おおいかづち)

1885年に引退、(いかづち)親方を襲名し相撲の発展に尽力する。優れた人格者で、雷部屋を大部屋に育て上げた功績により〈大雷〉と尊敬された。伊藤博文から贔屓を受け、贈られた羽織袴を着て土俵入りした話が語り草になっている。

 

梅沢富美男 うめざわとみお (1950- ) 大衆演劇役者 

è①赤羽線の玉三郎 (週刊読売、1981.8.16) 

è②下町玉三郎 (週刊新潮、1982.9.16)

26歳で始めた女形踊りが大ウケ。さらに昭和58(1983)年に「夢芝居」(小椋佳作氏・作曲)を歌ってヒットした。なお「赤羽線」とは、十条あたりの某芝居小屋をさしている。

 

梅津はぎ子 うめづはぎこ (1904-1989) 労働運動家

èかたはら女史

かつては労働運動の世界においてすら目立った男女差別があったが、 梅津は富士紡保土ヶ谷工場の女工時代に、「工場で働く女のことは働く女でなければわかりっこない。婦人部隊は絶対必要だ。反対の所論を聞くにかたはら痛い」とゲキをとばした。これにちなんで〈かたはら女史〉と称された。

 

梅津某女 うめづぼうじょ (生没年未詳) 室町時代の堺の遊び女

è地獄太夫

娘の頃山賊にかどわかされ、如意山中で弄ばれたすえ遊女に売られた。美貌だったことで泉州堺高須町珠名長者の抱え女に。遊女時代は身の不幸は前世の報いであると達観し、自ら「地獄」と称し地獄変相の図柄の衣を身にまとい、唱名しながら客をとったという。そこから〈地獄太夫〉と呼ばれるようになった、と。

 

梅原北明 うめはらほくめい (1901-1946) ジャーナリスト・出版人

è猥褻博士

昭和初期、エログロ・ナンセンス時代の波にのった人物。『変態十二史』をはじめ『秘儀指南』などキワモノを出版。当局から要注意人物として狙われ、出版物の発禁処分、罰金、入獄を繰り返した「懲りない男」でもあった。彼が逮捕されるたび裏世界での販売は伸び、この〈猥褻博士〉は獄中でほくそ笑んだという。

 

浦ノ浜栄治郎 ううらのはまえいじろう (1889-1945) 力士で、関脇 

è浦さま

女性好みのする役者風容貌のため、この名が付いた。最盛期の花柳界では共寝したい相手の筆頭、大モテだったという。

 

上坂仙吉 うわさかせんきち (生没年未詳) 幕末・明治期の侠客 

è会津(あいづの)小鉄(こてつ)

 生国や生没年未詳の人。京都守護職の任にあり会津藩主でもある松平容保(かたもり)が上京したおり、仙吉は部屋住みの用心棒として仕えた。小柄だが人一倍度胸があり、全身70箇所に刀傷を残す。のちに博徒の親分として一家を構えた。

 

 

 

永六輔 えいろくすけ (1933-2016) 放送タレント 

è昭和生まれの明治人(アサヒ芸能、1968.2.4)

昭和8年生まれ。よくいえば気骨の人、悪くいえば頑固の塊。徹底したテレビ嫌いで、尺貫法の信奉者としても知られている。

 

江川太郎左衛門 えがわたろうざえもん (1801-55) 伊豆韮山代官で、砲術家

è世直し大明神

代官らしからぬ質素な生活を心がけ、民生を良くし人材の登用に心をくだく。地域がら海防にも怠りなく、砲術家の高島秋帆に洋式砲術を学び皆伝を得た。品川台場築造の監督官でもあった。〈世直し大明神〉はこの人への総合評価であり、世人の期待が込められていた。

 

江坂与兵衛 えざかよへえ (1823-69) 村上藩側用人

è豚犬

有能な藩行政手腕を発揮し、治水のため土木事業を監督したり、藩に西洋式兵術を導入したりした。しかしこれが旧弊な藩士らの反感を買い、〈豚犬〉と悪し様にののしられた。こうした侮辱にも江坂はよく耐え、目的を成し遂げたのである。

 

江崎悌三 えざきていぞう (1899-1957) 昆虫学者

è(むし)(ひじり)

 虫に取り憑かれた斯界の研究第一人者。〈虫聖〉とはご本人も満足のいく最高の渾名であろう。

 

慧春尼 えしゅんに (-1411) 曹洞宗の尼僧

è底無しの尼御

出家を志したとき兄に反対され、美貌の顔に焼け火箸を縦横に当てがって火傷を負い怪異な容貌に変えてしまった。そのくらい気の強い婦人である。剃髪してから某寺へ使いに出向いたとき、男僧の1人が陽根を立て、「どうだ三尺に及ぶ見事な逸物だろう!」と見せびらかすので、慧春尼はただちに裳裾を広げ、「この尼の物は底無し」とやり込めた。この逸話が話題になり、以来寺僧らは彼女を〈底無しの尼御〉と呼ぶようになったという。

 

江田三郎 えださぶろう (1907-77) 日本社会党書記長 

è老いすぎたハムレット(週刊文春、1977.3.17)

昭和52(1977)3月に「江田新党」を旗揚げるべく、社会党を離党したとき付けられた。残念なことに、体調を急に崩し522日に急死した。

 

江藤慎一 えとうしんいち (1937-2008) プロ野球選手・監督

èエイトマン

昭和34(1959)年に中日入団、昭和54年ロッテに移籍。ここで首位打者となって頭角を現し、背番号8番に。ライバルの王貞治らも〈エイトマン〉という苗字音通の畏敬を呈した。

 

江藤新平 えとうしんぺい (1834-74) 明治期の政治家

èさらし首司法卿

江藤は佐賀藩出身の士族で、維新後に司法卿(今いう法務大臣)や参議にまで出世。

 しかし征韓論を強硬に主張、賊党の巨魁とみなされて敗退し佐賀へ下野した。そして板垣退助らと密かに民撰議院設立を建白、ついに「佐賀の乱」を起こすに到り、逆賊のそしりを受けて処刑された。彼のさらし首写真はいまなお史書の材料にされており、後世人から〈さらし首司法卿〉と彼岸渾名を付けられている。

 

江戸川乱歩 えどがわらんぽ (1894-1965) 探偵小説作家

è探偵小説の父

江戸川乱歩の筆名は米国の推理作家エドガー・アラン・ポーから借用しもじったもの。作品は『パノラマ島奇譚』『一寸法師』など猟奇ロマンチシズム趣向が目立つ。戦後「探偵作家クラブ」を設立、また冠称の「江戸川乱歩賞」を設けている。

 

江戸太郎重長 えどたろうしげなが (生没年未詳) 鎌倉初期の江戸地土豪の頭領

è関東の大福長者

江戸太郎の支配地は武蔵野一帯に及び、源頼朝の軍勢を苦しめた。治承4(1180)10月、態勢を立て直した頼朝軍勢の猛攻に遭い、ついに降伏。当時重長の豪勢さは目を奪うもので、敵方から〈関東の大福長者〉と形容された。なお「江戸」という地名はこの人物の苗字によるとの説もある。

 

江戸英雄 えどひでお (1903-1997) 実業家で、三井不動産社長

è東京ディズニーランド誘致屋

東京ディズニーランドの誘致に奔走、それを実現させた立役者である。

 

江夏豊 えなつゆたか (1948- ) プロ野球選手

è優勝請負人

左腕の速球投手で鳴らし、超人的新記録続出で大活躍。日本一の救援ピッチャーとして197080年に広島カープ、81年に日本ハムを優勝に導き〈優勝請負人〉の異名をとどろかせた。

 

榎美沙子 えのきみさこ (1945-) 中ピ連会長

è①美しき猛女(週刊ポスト、1974.11.15)

è②女性復興教教祖(週刊女性、1976.7.13)

女権拡張運動団体「中ピ連」軍団の総帥を勤めた女傑。

 

榎本健一 えのもとけんいち (1904-1970) 喜劇俳優

è日本の喜劇王

年配者で彼の愛称〈エノケン〉を知らない人はいまい。大正11(1922)年、浅草オペラを振り出しに、続いて「カジノ・フォーリー」に加わる。鼻にかかった「百万両のダミ声」で独自のギャグを発し、たちまち喜劇界の寵児に。映画に舞台に残した〈日本の喜劇王〉の実績は今なお語り継がれている。

 

榎本昇治 えのもとしょうじ (1922- ) ジャーナリスト

è文壇陰の葬儀委員長

勤め先の講談社で「パーティ屋」役が仕事のようになっていた。物故した作家らの葬儀にもこまめに顔を出し巧みに取り仕切ったことから付けられた呼称。

 

榎本三恵子 えのもとみえこ (1948- ) 田中角栄総理の秘書官榎本敏夫氏の元夫人

èハチの一刺し

昭和56(1981)年ロッキード事件裁判で検察側証人として出廷、田中の有罪を裏付けた。その爆弾証言のさい、「ハチは一度刺すと死ぬといわれますが、私はその覚悟はしています」と述べてマスコミを沸かせ、〈ハチの一刺し〉は彼女の代名詞になった。

 

江畑謙介 えばたけんすけ (1949-2009) 軍事評論家

èエバタリアン

現代平気やハイテク戦略を生かしたショッキングなシュミレーションを解説したりして、今日的注目を集めた。渾名の由来はいくつかあり、特定できない。

 

江原啓之 えはらひろゆき (1964- ) 精神カウンセラー

è癒しのカウンセラー

英国で心理学を修めた異色の人で、理感謝の心を安らぎの世界へと導く霊視スタイルで評判になった。

 

円空 えんくう (1632-95) 布教僧

è①今釈迦

円空は東北から蝦夷(北海道)まで渡って広大に布教してきた。土地の人びとは彼の余徳をしのび〈今釈迦〉とうやまった。

è(いわや)上人

円空が長期にわたり滞在した美濃や飛騨あたりでは、かつて窟に隠棲していたことがあり、〈窟上人〉と呼ばれた。

 

遠藤周作 えんどうしゅうさく (1923-96) 作家

èホラ吹き遠藤

ヒットセラーの著作『狐狸庵閑話』(コリャアカンワのもじり)を始め軽妙タッチの随筆で名を高める。なかには現実離れした話もあり、〈ホラ吹き遠藤〉とか〈うそつき周作〉と、なかば親称化していたものもある。

 

遠藤盛遠〔文覚〕 えんどうもりとお/もんがく (11391204) 平安後期の武将で、のち仏僧に

èやいばの験者(けんじや)

幼少時から〈(めん)(ちよう)牛皮(ぎゆうひ)〉と渾名されていた乱暴者。長じても粗暴なこと直らず、18歳にして本書「袈裟御前」の条に見るような狼藉を働く。この一件のあと自己改造のため出家し吉野へ入山、すさまじいばかりの荒行に明け暮れ、修行僧らから〈やいばの験者〉と称された。この「やいば」には、袈裟を刺殺した刀と、見ていて怖気(おじけ)たつような厳しい修行ぶりの二つの意味が含まれている。

 

役行者 えんのぎょうじゃ (生没年未詳) 7世紀の呪術宗教家

è山上(やまのかみ)(さま)

わが国修験道の開祖である。『日本霊異記』によると、「()優婆塞(うばそく)」の名で荒行を修め、特異な秘法を用いる神仙として紹介されている。行者は韓国連(からくにのむらじ)讒言(ざんげん)により伊豆へ流されたとき、昼間は島内で荒行を修め、夜は富士山に登り朝になると戻る行を三年続けたといい、人びとから〈山上様〉と恐れられたという。

 

 

 

応其 おうご (15361608) 木食僧

è木食(もくじき)上人

一般に五穀断ちの修行を行う僧を「木食僧」と呼んでいるが、特定人物の別称として〈木食上人〉を用いる場合は必ず応其をさす。彼は〈木食応其〉ともいわれ、さらに高野山に興山寺を開創したことから「興山上人」の号も贈られている。

 

王貞治  おうさだはる (1940- ) プロ野球選手で、監督

è①一本足

打法改造が実り「一本足打法」のわざをひろめた。これが半ば通称に使われた。

è②本塁打王

昭和52(1977) 95日、王はホームラン756号を放って世界の〈本塁打王〉の栄誉に輝いた。それまでの記録保持者であるハンク・アーロンの記録を追い越したもので、時の福田首相から国民栄誉賞を贈られている。

 

応神天皇 おうじんてんのう 記紀上の天皇 

è胎中(はらなか)天皇

天皇の母・神功皇后は仲哀天皇の妃で、わが国初めて朝鮮半島へ出兵し新羅国を討征した。皇后が彼地へ渡ったとき、すでに応神天皇を懐胎していた。しかも討征の最中に陣痛になったため、皇后は石を腰に巻いてこらえ、筑紫に帰ってから天皇を出産したと伝えられている。この逸話にちなみ応神帝は〈胎中天皇〉と異称されている。

 

応蘭芳 オウランファン (1941- ) 元女優で飲食店経営者

è失神女優

グラマラスな肢体とお色気で売り出した。昭和43(1968)3月、某女性週刊誌のインタビューに応じ、「週2回セックスし、そのたびに失神するの」と衝撃発言を吐いて注目され、たちまち〈失神女優〉の渾名が付けられた。

 

大石ヨシエ おおいしよしえ (1897-1971) 政治家で、婦人運動家

è(ともえ)御前(ごぜん)

男勝りの言動で政界に名を広め〈巴御前〉の異名が付く。婦人参政権運動の草分けとされている。

 

大石良雄 おおいしよしお (1659-1703) 赤穂藩家老で、四十七士の指導者

 赤穂の昼行灯(ひるあんどん)

主君・浅野内匠頭の仇討ち事件で、大石は同志の結束をないがしろにするかのように、妻子と離縁したうえ、日夜京都の伏見や島原で遊興にふけっていた。そうした大石を人びとは〈赤穂の昼行灯〉とあざ笑った。これは吉良側や世間の目を欺くための深謀遠慮で、ウツケ者としてとぼけとおした。しかし、彼は好色な遊び人気質の人物で、その実はこの世の名残りに心底遊び呆けていた、と見る史家もいる。

 

大内盛見 おおうちもりみ (1377-1431) 室町時代の武将

è犬死名将

勇猛で鳴らした武将で、家督争いに勝ち残り豊前・筑前の守護になるなど、一時は権勢を誇った。しかし永享3(1431)6月、少弐・大友の両氏と筑前深江で戦ったが敗北、無残な敗死を遂げた。そうした彼を世人は〈犬死名将〉と形容した。経緯は長くなるので省く。

 

大江弁治郎 おおえべんじろう (生没年未詳) 明治期最後の人形細工師

è天狗弁

番付最盛期の明治時代、文楽人形番付に「人形細工人天狗弁」との通称が載せてある。人に会うたび人形細工の腕を自慢することから、〈天狗弁〉と渾名された。

 

大江美智子〔二代〕 おおえみちこ(1919-2005) 女優

è女剣劇の女王

初代の名跡を継いで、女剣劇「大江美智子一座」を旗揚げ。芝居小屋の剣劇と親しまれた。座長の彼女は〈女剣劇の女王〉の名を高め、ファンも絶えなかった。舞台姿に感極まった客が〈女大統領!〉と叫ぶシーンも見られたのである。

 

大川周明 おおかわしゅうめい (1886-1957) 思想家

è亜細亜の論客

東大哲学科を出てから右翼理論家に。語学に堪能で数ヶ国語を操り、サンスクリット語まで学んで亜細亜の解放とインド独立に視線を向ける。その広大な東洋思想を日本に回帰させる独自の論評から〈亜細亜の論客〉と評価された。

 

大久保忠実 おおくぼただざね (1781-1837) 小田原城主で、老中

è霞の侍従

京都所司代を務めていたとき、御所へ召され御園を拝観、唐製の端渓硯を賜わる。そのおり庭園の景観に感じ入り、「にぎはへる都の民の夕けぶり冬ものどかに霞立つ見ゆ」の一首を詠んだ。後にその和歌に接した堂上からお褒めの言葉をもらい、〈霞の侍従〉と呼ばれるようになった。

 

大久保利通 おおくぼとしみち (1830-78) 薩摩藩士で、のち政治家、初代内務卿

è閻魔王

出世栄達と権力の座を得るためには、平気で盟友や同輩を切って捨てた男。西郷隆盛は大久保の手で失脚させられ、木戸孝允は大阪会議で彼に裏切られている。立ち回りの実に巧みな男であり、その冷徹さから〈閻魔王〉とか〈鉄人〉と後ろ指を指されることも少なくなかった。彼の故郷鹿児島には銅像が立てられているが、地元での人物評価は西郷に遠く及ばない。 

 

大久保彦左衛門 おおくぼひこざえもん (1560-1639) 旗本

è天下の御意見番

寛永9(1632)年に旗奉行に就いてから徳川三代に仕える。真面目な性格の人だったがかなり強情張りで、徳川家康とも旗のことで舌戦を交わしたことが『三河物語』に書かれている。権勢に媚びない彼の態度は庶民にも大受けし、〈天下の御意見番〉と奉られた。

 

大隈重信 おおくましげのぶ (1838-1922) 政治家で、早稲田大学の創設者

è早稲田の大風呂敷

大言壮語癖のあることが周りからうとまれ〈早稲田の大風呂敷〉とか〈虚飾大言の士〉と批判されたが、本人は意に介さなかったようだ。この人の場合、実績がそうした小さな物言いを帳消しにしているのである。

 

大倉喜八郎 おおくらきはちろう (1837-1928) 実業家で、大倉財閥の祖

è金口を吸うグロテスクな(なまず)

喜八郎はやることなすことのスケールが大きかった。カツブシ屋の丁稚(でつち)小僧から叩き上げ一代で大倉財閥を築き上げたのだから只者でない。当然、人物評価も振幅が大きくなる。激賞組の旗頭は幸田露伴で、「木に喩えるなら四千年の大樹」と。嘲笑組の代表は高村光太郎で〈金口を吸うグロテスクな鯰〉と評した。

 

大蔵貢 おおくらみつぎ (1899-1978) 実業家で、大蔵映画社長 

è詭弁の天才

昭和34(1959)年、大蔵は看板女優を妾にしたのが発覚しマスコミに騒がれたとき、「女優を二号にしたのではない、二号を女優にしたのだ」と詭弁を弄した。

 

大河内伝次郎 おおこうちでんじろう (1898-1962) 映画俳優

èヤブの神様

京都太秦(うずまき)村の藪の中に住まいがあり、そこで風格ある身に似合わず、神信心に明け暮れる生活を送っていた。そうした彼を銀幕雀はからかい気味に〈ヤブの神様〉と呼んでいた。

 

大島渚 おおしまなぎさ (1932-2013) 映画監督 

è「愛」の加工屋

「愛のコリーダ」「愛の亡霊」といった愛を冠称にした作品、あるいは「実録お定」など愛欲ものを手がけたことから。

 

大空武左衛門 おおぞらぶざえもん (1796-1832) 肥後の看板力士

è牛股

相撲取り中でも図抜けた大男で、身長227センチ、体重130キロ、掌36センチ、足は41センチあったという(松浦静山の随筆『甲子夜話』中に実測値が尺貫法で紹介されている)。牛すらまたげる巨人ぶりが錦絵に描かれ現存している。客寄せのための看板力士(取組はしない)にピッタリの人物であった。

 

太田薫 おおたかおる (1912-98) 労働運動家

è太田ラッパ

昭和33(1958)年総評議長に就任すると、持ち前の胴間大声を発して指揮をとり、〈太田ラッパ〉と、渾名のほうも高鳴らせた。

 

大田南畝 おおたなんぽ (1749-1823) 江戸後期の文人

è気まぐれ先生

頭の回転はすばやく学識も深いが、血の気が多すぎて移り気なところがある。性格もマメで、誘われればどこへでも顔を出す。好奇心が旺盛なのだろう。これらの性格的な裏付けは南畝が自ら付けた雅号の多きに現れている。知られた号だけで20以上、これらは江戸文人でもトップクラスである(読本作家の滝沢馬琴も双璧)。一時期は作品が変るたびに号も替え、あまりのせわしなさに狂歌仲間は〈気まぐれ先生〉との渾名を呈したほどである。

 

大谷竹次郎 おおたにたけじろう (1877-1969) 演劇・映画の興業主

èミイラの手

晩年の大谷は極度の痩躯で、骨ばった手が目立ち〈ミイラの手〉と陰口された。京都出身、松竹の創立者で、のち東西の演劇界を統一した手腕は忘れられていない。

 

大槻文彦 おおつきふみひこ (1847-1928) 国語学者

è大嘘槻(おおうそつき)先生

大槻博士の大著『大言海』は完成まで17年を要した。予定を大幅に超えたもので、いちずに丁寧で几帳面な仕事振りのためである。その間出版社の冨山書房には、予約購読者から不安混じりの督促や苦情がひきもきらず寄せられ、せっかち者から〈大嘘槻先生〉と皮肉をとされたと述懐している。

 

大砲万右衛門 おおづつまんえもん (1869-1918) 力士で、十八代横綱

è分け綱

引退前の明治40(1907)年五月場所において、9日間すべて引き分けという信じられないような珍記録を残している。このため大筒は横綱ではなく〈分け綱〉だと冷やかされた。

 

鳳谷五郎 おおとりたにごろう (1887-1956) 力士で、二十四代横綱

è鳳のケンケン

容姿端麗であでやかな土俵入りは、さながら妍々(ケンケン)をきそう雉子(ケンケン)のようだ、という評判での渾名。しかし幕内勝率は68分にすぎず、歴代横綱では見劣りし、どうやら人気先行であったようだ。

 

大野伴睦 おおのばんぼく (1890-1964) 政治家で、国務大臣 

è浪曲伴

浪曲が趣味とも、浪花節的人柄だからともいわれている。 

è政治駅

 元選挙民への点数稼ぎに、東海道新幹線の岐阜羽島駅を強引に設けたことで悪名をとどろかせた。

 

大原呑舟 おおはらどんしゅう (-1857) 書家

è大腹呑酒

大の酒好き。実家は阿波で回船問屋を営んでいたが、彼の大酒が禍してついに産を傾けてしまった。ここから「呑舟」を号にしたという。しかし地元の人たちは、その姓名を巧みにもじり〈大腹呑酒〉と陰口を叩いたとか。

 

大原麗子 おおはられいこ (1946-2009) 女優 

è童貞殺し (プレイボーイ、1974.1.1522合併号)

舞台・テレビ・映画にと八方美人の出演。バツ2を経験して色気にますます磨きがかかり、童貞ならずと男殺しだ。

 

大平正芳 おおひらまさよし (1910-1980) 政治家で・元首相

èお父ちゃん

朴訥で慈父のような人当たりの良さから〈お父ちゃん〉あるいは〈おとっつあん〉と慕われた。口の回りが不器用な人で、そのため〈政界の鈍牛〉というニックネームも付けられている。

 

大前田英五郎 おおまえだえいごろう (1793-1874) 侠客で、賭場の親分

è火の玉小僧

上州質勢多郡大前田(前橋市)の産。一人前になるまでは手の付けられない暴れん坊で、〈火の玉小僧〉と近所から除け者にされた。25歳のとき、人殺しも犯している。長じて界隈切っての大親分になり異名をとどろかせた。

 

大町桂月 おおまちけいげつ (1869-1925) 詩人・評論家

è馬鹿(ばか)(ちん)

桂月の渾名ではなく、この人が口癖のように吐いた言葉。この〈馬鹿珍〉は出身地の土佐弁で、彼によると「馬鹿は馬鹿なるが、普通の馬鹿の為し得ざる事を為す。しかして常人の着想外に出ずる者」と説明している。そして長宗我部盛親ら、アクの強い郷土の人物を集めた『馬鹿珍伝』なる書冊を書いている。

 

大宅壮一 おおやそういち (1900-70) ジャーナリスト・評論家

èマスコミ四冠王

数かずの至言や寸鉄を吐き、最も現代的なジャーナリストとして寵児に。とうとう新聞・雑誌・ラジオ・テレビを総なめで登場、マスコミ自体から〈マスコミ四冠王〉とか〈マスコミ帝王〉の異名を呈された。

 

大山巌 おおやまいわお (1900-70) 陸軍元帥・公爵

èガマガエル

明治維新の元勲だなどと持ち上げられてはいるが、見た目や風体とも体重が95キロを超える〈ガマガエル〉そのものである。人間、最高の権力と富と名声を手中に収めるとこうなる、という見本のような男である。

 

大山倍達 おおやまばいたつ (1923-1994) 空手家で、極真会館館長

è神の手(ゴツド・ハンド)

大山の空手の強さは国際的に知られている。昭和27(1952)年に渡米し、彼地のプロレスラーと試合をしたが連戦連勝の目覚ましさ。ついにFBI(連邦捜査局)から指導を要請されるに到り、そのさいキレの良い「牛殺し」の手刀に接した同局員から〈ゴッド・ハンド〉と称されたという。

 

岡田以蔵 おかだいぞう (1838-65) 土佐藩郷士で、勤皇の志士

è人斬り以蔵

剣の腕が立ち、文久2(1862)年に入京してから佐幕派への天誅行動に入り、その先鋒をになう。ちなみに幕末に「人斬り」を冠された人物は4人いる。土佐の岡田以蔵と田中新兵衛、薩摩の中村半次郎(桐野利秋)と河上彦斎である。

 

岡田茉莉子 おかだまりこ (1933- ) 女優 

èゴム茉莉 (週刊女性、1976.10.12)

若いときは目鼻立ちの整った丸顔であった。なお、父の俳優・岡田時彦ともども、彼女の芸名も谷崎潤一郎が付けた。

 

岡田有希子 おかだゆきこ (1967-86) 歌手

è永遠のアイドル

わずか2年の歌手生活に青春を凝縮したような歌手であった。芸能界で、夭折が惜しまれてならない1人である。

 

岡田嘉子 おかだよしこ (1902-92) 女優 

è①女ドンファン (人の噂、1932.1)

è②愛の越境者 (新女苑、1956.10)

昭和13(1938)年、彼女は演出家・杉本良吉と樺太(玄・サハリン)国境からソ連領に入る。官憲からスパイ容疑で拘束を受けたが、ソ連市民権を得た後たびたび日本に帰っている。

 

岡本綾子 おかもとあやこ (1951- ) 女子プロゴルファー 

è女ポパイ (週刊現代、1981.9.17)

往時、女子プロ中実力ナンバーワンといわれた。力感あふれるパワーショットでファンの注目を集めた。

 

岡本かの子 おかもとかのこ (1889-1939) 小説家・歌人

è①ひいさま

実家は多摩川河畔の大地主で、そこの10人兄弟姉妹の長女に生まれ、両親の溺愛を受けた。乳母から〈ひいさま〉と呼び、夫の一平はかの子を〈お嬢様〉と呼んではばからなかった。

è②かわず

容貌はあたかも蛙のように、目と目のあいだが離れていたから。跡見女学校時代の渾名である。

 

小川芋銭 おがわうせん (1868-1938) 文人画家

è河童の芋銭

院展を中心に挿絵や漫画を描く。なかでも河童の絵はよく知られ、世人から〈河童の芋銭〉と親しまれた。

 

小川鼎三 おがわていぞう (1904-89) 解剖学者・歴史家

è鯨博士

専門である動物の脳の解剖比較研究や医学的研究以外に、鯨の生態・生理学に関して博識である。著作中にも「鯨の話」頻繁に出てきて、いつしか〈鯨博士〉の異名が通用するようになった。

 

小川宏 おがわひろし (1926-2016) 司会者

è春の小川(文芸春秋、1982.4)

フジテレビ「小川宏ショー」の司会は実に4451回に達し、空前のロングランを記録。小川はまさに「わが世の春」を謳歌していた。

 

小川真由美 おがわまゆみ (1939- ) 女優

è悪女スター

整った容姿、締まった演技をする個性派。油の乗った一時期、テレビドラマ『浮世絵・女ねずみ小僧』などで悪女役を好演。〈悪女スター〉のレッテルがすっかり身に付いた。

 

小川未明 おがわみめい (1882-1961) 童話作家

è日本のアンデルセン

この人が残した作品を見ればピッタリの表現で、あえて説明するまでもない。

 

沖田総司 おきたそうじ (1868-1938) 新撰組一番隊隊長

è白皙(はくせき)の天才的美剣士

整った顔立ちのうえ労咳(肺結核)病みであったため、色の白さは女形のようであったという。それが剣技の鋭さとあいまって、畏怖を込め凄絶な印象を与えた。

 

翁屋さん馬〔五代〕 おきなやさんば(1847-1914) 落語家

è呑楽亭

大酒飲みで知られた彼に贔屓筋が贈った仮の芸号である。東京の人情話を大阪の寄席に出て広めた功労者であった。

 

荻野沢之丞 おぎのさわのじょう (1656-1704) 元禄歌舞伎の女形(おやま)役者

è女形隋一

俳名を袖香(しゆうか)といった(わか)女形(おやま)で、(よめ)鑑物(かがみもの)(手本となる嫁振りを描いた狂言)で鳴らす。美貌なうえ愛敬もたっぷり、しかも美声であったという。 

 

荻昌弘 おぎまさひろ (1925-89) 映画評論家

è食いしんぼ教教祖(平凡パンチ、1973.7.16)

幅広い趣味を持つ人だが、なかでも料理の腕前は傑出していた。『男のだいどこ』など随筆集も出し、食通でも知られた。

 

荻村伊智朗 おぎむらいちろう (1932-94) 卓球選手で、世界チャンピオン

èピンポン外交官

国際卓球連盟の元会長で、世界をまたに外交手腕を発揮。米中国交回復の橋渡し役までつとめた。

 

荻生徂徠 おぎゅうそらい (1666-1728) 儒者で、徂徠学の開祖

è(かや)の炒豆

徂徠若かりし頃は貧窮を極め、きらら(おから)を食って飢えをしのいだ。功成り儒者として大成しても、その苦労を忘れまいと炒豆を噛んでは学究にいそしみ、時には人物評定を行った。「蘐」(蘐園)とは、徂徠ならびに一門を指す通称である。

 

奥むめお おくむめお (1895-1997) 婦人運動家

èオシャモジ連会長

昭和23(1948)年に主婦連合会を結成し会長に就任。同会は世の人たちから「オシャモジ連」との俗称があったことから、奥は〈オシャモジ連会長〉と呼ばれた。

 

小倉清三郎 おぐらせいざぶろう (1882-1941) 哲学者・性科学者 

è相対会の親玉

東京帝国大学哲学かを卒業した人物で、性欲のメカニズムを解明した特異な思想家。世評の高まりに勢いを得て、大正4(1915)年上野精養軒において性に関する研究団体「相対会」を立ち上げた。メンバーには芥川龍之介や平塚らいてうも混じっていた。

 

小倉昌男 おぐらまさお (1924-2005) 実業家で、ヤマト運輸社長

è宅急便の父

「クロネコヤマトの宅急便」を全国網に育てあげた。時の郵政省が「ゆうパック」で追従したほど、その成功は見事であった。

 

尾崎士郎 おざきしろう (1898-1964) 作家・社会主義者

èドモ士郎

しゃべるとど盛ることがおおく、冷やかし半分に付けられた。次の引用文は、7年間同棲したことのある宇野千代の著作『生きていく私』上より。

「ぼ、ぼくが、そ、その二等賞の尾崎士郎です」(尾崎の短編『逃避行』が時事新報の懸賞に入選したとき、一等の宇野千代に発言)

 

尾崎将司 おざきまさし (1947~ ) プロゴルファー

èジャンボ

野球選手出身のプロゴルファーで、恵まれた体躯から放つ豪快なショットで〈ジャンボ〉とニックネームされる。やがて「ジャンボ」はゴルフ用品のブランドにも登録され人気になった。

 

尾崎行雄 おざきゆきお (1858-1954) 政党政治家で、立憲改進党を結成

è憲政の神様

立憲政友会や憲政会など護憲政党に所属、名うての立憲政治家として〈憲政の神様〉と評された。

 

小佐野賢治 おさのけんじ (1917-86) 実業家で、国際興業社主

è①財界の今太閤(現代、1972.10)

è②怪物政商

田中角栄元首相の「フンケイの友」で、ロッキード事件の仕掛け人としてともに有罪判決を受けた。戦後の混乱に乗じ、政治屋らと手を組み財を成した1人である。

 

大仏次郎 おさらぎじろう (1897-1973) 作家 

è大仏ケンネル

人も知る飼い犬・飼い猫好きで、随筆など作品のいたるところにペットらが顔を出す。最盛期には犬を10匹以上飼っていたという。

 

小沢一郎 おざわいちろう (1942- ) 衆議院議員・民主党元代表 

è民主党の牢名主

国会における陰の実力者で、政辞資金問題で元秘書らが有罪判決を受けている。自身は検察相手に白を切りとおし、政治悪にまみれたしたたかさを発揮。民主党内での一大勢力小沢派を率い、菅内閣に対抗意識を燃やす派閥争いも国民には腹立たしい記憶。〈民主党の牢名主〉との人物評は言い得て妙だ。

 

小沢栄太郎 おざわえいたろう (1909-88) 俳優・演出家 

è恍惚の花婿 (週刊大衆、1974.1.10)

64歳のとき37歳も年下の女子学生とテニスを介して再婚、話題を集めた。「恍惚」は当時、高齢者の謂であった。

 

小沢昭一 おざわしょういち (1929-2012) 俳優 

èまじめなエロ事師 (毎日グラフ、1968.9.15)

昭和41(1966)年、毎日映画『エロ事師たちより・人類学入門』で衝撃的デビューを果たす。以降『豚と軍艦』『にっぽん昆虫記』などの話題作で性格俳優として評価されてきた。渾名は酒も飲まず真面目な生活態度から。伝統民俗関係の著作もある、優れた文化人である。

 

小沢征爾 おざわせいじ (1935- ) 指揮者 

è世界の棒振り (週刊朝日、1975.2.21)

海外オーケストラの指揮活動などで世界的に名が知られている。

 

お新 おしん (生没年未詳) 幕末の毒婦

è(かみなり)お新

è入墨お新

二つ名の由来は、生母お勝が江戸府内亀戸は旗本醒ヶ井家に奉公、当主の落胤であるお新を産んだとき、家宝の名刀・雷神丸を与えられたことから。長じてお新は伝法の世界で名をとどろかす。色白な肌にびっしりと各種の刺青を施し、諸肌脱ぎで強請(ゆすり)の啖呵を切ったりした。明治7 (1874)年に捕えられ大阪松屋町の監獄入りをしたが、入獄脱獄を繰り返し妖婦ぶりを発揮した。

 

お仙 おせん (1751-1827) 江戸中期、江戸掛茶屋の看板娘 

è笠森お仙

お仙は田端村の百姓の出で、その評判の美貌が買われ、感応寺仲門前町にある笠森稲荷傍の掛茶屋かぎ屋の看板娘になった。明和の大黒舞等では、水も滴るいい女と喧伝され、市村座の芝居でも演じられている。このお仙を見初めた将軍家お庭番倉地政之助に口説かれ所帯を持つ。これには江戸中の男どもが拍子抜けした、と。

 

織田信長 おだのぶなが (1534-82) 戦国武将で、中部日本の覇者 

è大うつけ

〈大うつけ〉とは、信長の奇矯で粗暴な言動によるもの。うつけ振りにまつわる逸話は山ほどある。しかし一見たわけた行動も、じつは信長が緻密な計算でとったものとの解釈がもっぱらである。

 

小田実 おだまこと (1932-2007) 作家 

èミスター「べ平連」

往時、ベトナム反戦運動の活動家としてべ平連運動に尽力した。〈ペ平連の親玉〉という異名もつけられている。

 

小田稔 おだみのる (1923-2001) 宇宙物理学者 

è星のお爺さま (imidas2002)

Ⅹ線天文学の専門家。乗鞍山上での素粒子実験や地下トンネル内宇宙船観測などで注目された。

 

落合恵子 おちあいけいこ (1945- ) 作家

èレモンちゃん

民放局アナウンサーを経て執筆活動に入る。文化放送の深夜番組『セイ! ヤング』出演時に〈レモンちゃん〉のニックネームが付いたが、そのいわれは幾説かある。ともあれ、本人はこの渾名が気に入らないと述懐しているそうだ。

 

小津安二郎 おづやすじろう (1903-63) 映画監督

è①おっちゃん

小津の発音をもじった愛称で、「小津おじさん」の意味。『秋刀魚の味』シリーズなどで小市民生活を描きたくみであり、その印象をオーバーラップさせた言葉。

è②小津組

参加には笠智衆、東山千栄子、原節子ら演技達者がおり、製作スタッフも小津映画の要領をこなしうる人材が揃っていた。このグループを松竹の人々は〈小津組〉と呼んでいた。

 

乙羽信子 おとわのぶこ (1924-94) 女優

è百万ドルのえくぼ

宝塚歌劇団出身。若い頃は可憐なイメージの女優として売り出し、〈百万ドルのえくぼ〉が看板になった。

 

尾上梅幸〔七世〕 おのえばいこう (1915-95) 歌舞伎役者

èラグビーボール

七世は女形向きとはいえない円形卵形の顔形から、この渾名を付けられた。

 

尾上松之助 おのえまつのすけ (1857-1926) 映画俳優

è目玉の松ちゃん

出演第3作「石山軍記」において、大きな目玉をぎょろりとさせ、客席にズ、ズーッと睨みをきかせ評判をとる。「自来也」「荒木又右衛門」など忍術映画の大スターとして大人から子どもまで人気をさらった。

 

小野田寛郎 おのだひろお (19222014) 太平洋戦争時の軍人

è①ルバングさん

è②密林の帝国軍人

昭和49(1974)年、フィリピンのルバング島で未帰還兵として発見された。帰国後話題になり、週刊誌が名づけた似たようなニックネームは他にもたくさんある。

 

小野小町 おののこまち (生没年未詳) 女流歌人で、三十六歌仙の一人

è穴無し小町

藤原清輔が書いた歌学書『袋草紙』上巻に、

小野小町/秋風の打ふくごとにあなめあなめをのとはいはじすすき生ひけり/人夢ニ野途に目より(すすき)生ひたる人有。小野小町ト称ス。此詠歌。夢覚て尋見、髑髏(どくろ)一ツ有。目より薄出たり。其髑髏取閑所へ置、云々。小野(しかばね)ト知、云々。

とある。このあたりが〈穴無し小町〉という巷説伝播の震源と思われる。次いで、深草少将が九十九夜通ったという悲恋の小町伝説をもとに観阿弥が謡曲「通い小町」を作った。よくよく穴に縁の深い女として、古川柳も彼女をからかっている。

 百夜目は何をかくさう穴がなし

 野ざらしで見れば小町も穴だらけ

 

小野篁 おののたかむら (802-852) 官人・学者・詩人

 

è野相(やしよう)(こう)

後世〈日本の白楽天〉と評されるほど詩才に恵まれ、博学の能吏でもあった。しかし気むづかしく、やんごとなき人びとや上司に平気で物言いをした。この直情径行のため出世できず、〈野相公〉〈野狂〉などと批判される。この場合のとは野放図とか型破りの意味だ。

 

於松 おまつ (生没年未詳) 江戸中期の岡場所女郎

è①はきだめ於松

è②塵塚於松

江戸は三田の三角(さんかく)という岡場所にいた美女。某日、権高な若侍が客につき、和歌詠みで知られた於松に〈はきだめ於松〉を詠み込んだ一首を所望。於松すかさず

 塵塚のちりにまじわる松虫も声はすずしきものと知らずや

と詠んで若侍をうならせた、という。

 

お由 およし (生没年未詳) 江戸新宿の遊女屋豊倉の抱え女郎

èうわばみお由

本名未詳。女だてらに二の腕にとぐろを巻いたうわばみの刺青が合ったことから〈うわばみのお由〉と二つ名が付いた。三代瀬川如皐はこの伝法肌に目を付け、歌舞伎狂言『(うわばみ)()(よし)浮名(うきなの)仇討(あだうち)』を台本に書いた。

 

飲光〔慈雲〕おんこう/じうん (1718-1805) 真言宗の僧

è日本の小釈迦

延享元(1744)年、釈迦の足跡にならい、河内国長栄寺で成律法の修業を実践。宝暦8(1758)年生駒山中に隠棲して壱千巻の大著『梵学津(ぼんがくしん)(りよう)』を完成させた。布教活動でも釈迦の正戒律を忠実に踏襲、まさしく〈日本の小釈迦〉にふさわしい歴程を歩んでいる。