開高健 かいこうたけし (193089) 作家

è冒険おじさん(週刊宝石、1981.10.24)

洋酒の寿屋(現サントリー)宣伝部出身の作家で、ルポやエッセイなどを精力的に執筆した。趣味の釣り好きには定評があり、南北両大陸など世界の穴場を求めて歩いた。他に由来は不明だが、〈開口一番〉というもじり言葉的ニックネームをも持つ。

 

貝島太助 かいじまたすけ (18451916) 実業家で、貝島鉱業 創業者

è炭鉱王

明治23(1890)年、井上馨の後援により筑豊で炭鉱事業を発展させ、おりからの日清戦争景気にも乗って財を成した。

 

海北友松 かいほうゆうしょう (15331615) 画家

è友松の袋人物

近江湖北の人で、屏風画「海北派」の流祖。ことに南宋風、袋の烏帽子を着した人物点描障屏画に傑出していたことから。

 

加賀尾秀忍 かがおしゅうにん (190177) 真言宗の僧

èモンテンルパの父

昭和24(1949)年フィリピン国際戦争裁判において戦争犯罪人の教誨師をつとめ、同時に戦争犯罪人の助命嘆願運動を展開。その努力と熱意は内外で広く支持され、なかでも犯罪被疑者の間では法廷所在地の名から〈モンテンルパの父〉と称された。

 

加賀まり子 かがまりこ (1943- ) 女優

è小悪魔(こあくま)

小柄でキュートな印象を与える容貌に加え、映画『月曜日のユカ』テレビドラマ『四十八歳の抵抗』などではまった悪女役を演じた。そんな加賀に〈小悪魔〉はピッタリの異称である。

 

各務鎌吉 かがみけんきち (193089) 実業家で、東京海上保険会社会長

è損保育ての親

東京海上に入社後、ロンドンに派遣され損害保険の仕組みを徹底的に研究。帰国してからその成果を同社発展へと結びつけた。その経営手腕は一社に留まらず、三菱コンツェルン全体に及び、〈三菱の各務〉として敬われた。

 

各務支考 かがみしこう (16651731) 俳人

è不実軽薄坊

支考は美濃の黄雲山大智寺で養子同然に育ち僧形であった。言動に何かと問題を起こし、焦門では放埓な性格の異端者的存在で、そんな彼を同門の許六はうんざりぎみに〈不実軽薄坊〉と評した。

 

香川景樹 かがわかげき (17681843) 歌人

è大天狗

景樹は堂上派歌人の仲間入りをしたが、やがて平易な歌風で桂園一派をなし、諸国に門弟のいない国はなく門人数は千とも二千もいわれるほど隆盛をきわめる。しかし自己顕示欲が強く自信過剰に陥り、彼を知る知る人たちから〈大天狗〉と陰口を叩かれた。

 

鍵田忠三郎 かぎたちゅうさぶろう (192294) 衆議院議員・奈良市

è地震雲市長

奈良市長時代(4)、雲の動きで地震発生を予知して的中、噂が広まって名物市長となった。なぎなたの使い手でもあった。

 

柿本人麻呂 かきのもとのひとまろ (生没年未詳) 万葉歌人

è歌聖(うたのひじり)

 下級官人でありながら皇室を寿(ことほ)ぐおおらかな短歌や長歌を89首も『万葉集』に残している。神道上、卑しい身分にもかかわらず人麻呂を神格化しているほど。さらに平安時代にはこの人物に限りウタノヒジリという大和言葉からカセイという敬称へと呼び名の幅が広がっている。

 

覚快法親王〔円性〕 かくかいほうしんのう (11341181) 法親王

è七宮無品親王

鳥羽天皇の第七皇子(七宮)で、やんごとなき人では珍しく生涯にわたり無官位(無品)であった。世人は彼を半ば同情をまじえ〈七宮無品親王〉と呼んだ。

 

覚山 かくさん (生没年未詳) 鎌倉時代、東慶寺の尼僧

è縁切り寺の開祖

弘安8(1285)年、薄命の婦人救済のため夫との縁切り寺法を幕府に申請して許可され、東慶寺をその目的のために開放した。後に東慶寺は「縁切り寺」または「駈込み寺」といわれるようになった。

 

覚明 かくめい (171886) 御岳山の行者

è御岳講開祖

貧農の子で、餅屋から魚の行商を続けるうち木曽の山々に詳しくなる。寛保元(1741)年に一庵の住持となり、密教祈祷と荒行に励んだ。その後天明5(1785)年木曽に舞い戻り、民俗禁山というしきたりを破って百名近い農民を引き連れ、集団での御岳登りをはじめた。以来在俗信者らによる登山が普及、覚明は〈御岳講開祖〉あるいは〈御岳山神社開祖〉として敬われるようになった。

 

覚猷 かくゆう (10531140) 天台宗の僧

è鳥羽僧正

〈鳥羽僧正〉の別称には二つの意味が重ね合わされている。一つは、鳥羽上皇の護持僧をつとめ鳥羽離宮に住んでいたことから。もう一つは、密教画の画技に長じており、史上名高い鳥羽絵「鳥獣戯画」の作者と見られているため(確証はない)

 

花月亭九里丸 かげつていくりまる (18911962) 上方の落語家

è挽き臼

講座では早口で発音がはっきりせず、噺家として決定的にマイナスであった。〈挽き臼〉は「頭ばかり回ってシタが回らない」の洒落である。

 

賀古公斎 かここうさい (181984) 駿河国浜松井上藩の藩医

èホウソウ医者

嘉永5(1852)年、大坂から江戸へ向かう途中で浜松に住みつき、そのまま藩医となる。当地で天然痘が流行したとき、大坂から牛痘苗を取り寄せ無料で種痘を施し、多くの住民の命を救った。

 

笠置シズ子 かさぎしづこ (191485) 歌手

èブギの女王

戦後、ブギ・シリーズで日本全国を沸かせた。有名な「東京ブギウギ」をはじめ「ヘイヘイブギ」「ジャングルブギ」「買物ブギ」などがヒット。映画『銀座カンカン娘』では主役を演じた。この人、戦時中は持ち歌を歌うときの派手なアクションから〈敵性歌手〉とのレッテルを貼られ、ステージ登場を禁じられていた経歴があった。。

 

笠原和夫 かさはらかずお (19272002) シナリオライター

è任侠ライター

東宝宣伝部で映画の脚本を書くうち、昭和38(1963)年頃から『日本侠客伝』シリーズの執筆を始めた。とくに昭和50年代のヒット『仁義なき戦い』シリーズは観客湧かせのシナリオと評価を高めた。

 

花山天皇 かざんてんのう (9681008) 第六十五代

è物狂い

在帝時は〈物狂い〉といわれ型破りで多情な行動が目立った。とくに弘徽殿(こきでん)の寵妃・忯子(きし)を喪ってからは落ち込んでの異常行動が続く。そして先帝冷泉と自分にはどうやら物の()が取り付いていると思い込むようになり、ついに西国巡礼の旅に向かう。実情は藤原道兼の策謀による体のよい帝位追出しで、臣下に裏切られた帝は出家に先立ち、わが身の不遇を嘆き呪の言葉すら口にした。 

 

鹿島郁夫 かしまいくお (1929- ) 海洋冒険家

è一人ぼっちの冒険野瑯

昭和39(1964)年から翌年にかけ、愛艇のヨット「コラーサ」号で単独航海に出て、日本人初の大西洋15000キロ横断に成功。マスコミは〈一人ぼっちの冒険屋郎〉と賞賛した。掲出はそのときのマスコミによる名付けである。

 

鹿島清兵衛 かしませいべえ (18661924) 近代の写真家

è写真お大尽

写真撮影が商業的に希少価値のあった旧時代、

鹿島は写真館業界に並ぶもの無しの成功を収める。腕が良いうえ商才に長けていた。新橋一の名妓ぽん太を囲うなど、その羽振りのよい生活ぶりが人目を引き、人びとはやっかみ半分に〈写真お大尽〉とか〈今紀文〉と口にした。

 

鹿島とも子 かしまともこ (1950- ) ダンサーで、タレント

èオウムの鬼母

元日劇ダンシングチーム所属の踊り子。平成75月、オウム真理教団の信者らと謀り、あろうことか入信を拒否していた自分の長女を監禁した容疑で逮捕された。出所後に著『オウムの鬼母と呼ばれて』を出版している。

 

梶芽衣子 かじめいこ (1947- ) 女優

èさそり女優

昭和47(1972)年、東映映画「女囚701号さそり」で主演、現代の魔女ともいうべき役どころを見事に演じて見せた。ニヒルな感じの、映像モテする容貌である。

 

梶山季之 かじやまとしゆき (192975) 作家

èモーレツ作家

かつてトップ屋で鍛えた速筆で数多の作品を生み出した超流行作家。いつしか〈モーレツ作家〉野看板が心情となったものの、その多忙さが裏目に出て45歳で他界した。

 

樫山文枝 かしやまふみえ (1941- ) 女優

èおはなはん(サンデー毎日、1966.5.8)

舞台での演じ物、さらに役どころも同名の〈おはなはん〉から、通称のように使われるようになった。

 

柏戸勘太夫 かしわどかんだゆう (176092) 江戸後期の力士で、小結

è片目の柏戸

隻眼ゆえに付けられた渾名である。全盛期の小野川に土をつけたほど実力があった。上位に雷電や谷風がいたため小結にとどまっていたが、力は関脇を超えるといわれた。

 

柏戸剛 かしわどつよし (193896) 力士で、四十七代横綱

è角界のサラブレッド

往時「柏鵬時代」を築いた一方の雄。大鵬の派手な存在に比べ、どちらかというと地味であった。しかし柏戸はなにしろ強く(23歳で横綱に)、男らしさと驕らない人間的魅力に満ちている。こうした彼をファンらは〈角界のサラブレッド〉と呼んだ。

 

柏原瓦全 かしわばらがぜん (17441825) 俳人

è夜の山の瓦全

作品中の白眉とされている、

 鹿鳴てながめられけり夜の山   瓦全

の一句により〈夜の山の瓦全〉と力量感のある句作が広まった。

 

梶原景時 かじわらかげとき (?-1200) 武将

è①浅はかなる(しし)武者(むしや)

è②げじげじ

景時は頼朝の家臣であるとともに義経にも臣従の立場にあった。屋島の合戦に向かうとき、義経と景時はいわゆる「逆櫓(さかろ)の争い」を起こしている。景時が軍船のへさきにも櫓を取り付け、万一の時すばやく進退できるようにすべきだと主張。すると義経は、それは逃げ腰の行為であると曲解し拒否した。あげくに景時を〈浅はかなる猪武者〉とか「命を惜しむ卑怯者」とくさした。この一件は景時に義経への遺恨を抱かせ、ただちに侍大将の頼朝へ讒訴している。結果的に義経は、かの有名な「腰越状」にかかわる手痛いしっぺ返しを食らうことになった。〈げじげじ〉のほうは、カゲトキの発音が転訛したものという。

 

春日一幸 かすがいっこう (191089) 政治家で、民主社会党委員長

è春日節

国会の予算委員会などで胴間声を張り上げてぶつ演説口調は〈春日節〉と称され名物に。

 

春日井梅鴬〔初代〕 かすがいばいおう (19051974) 浪曲師

èアンアン梅鴬

「南部坂雪の別れ」など義士伝が得意。張りのある美声で有名、曲詞の途中に「アアン、アン」の挟み(ことば)を入れるなど個性的な芸が持ち味であった。

 

春日清鶴 かすがせいかく (18941970) 浪曲師

è寄席打ちの名人

「寄席打ち」とは寄席に出演する芸人らの総称である。清鶴はその啖呵の上手で、聴衆は水を打ったようになる、といわれた。

 

春日とよ かすがとよ (18811962) 小唄師匠で、作曲家

è文学芸者

元芸者で、鶴助の源氏名で浅草の座敷に出ていた。「鶴八鶴次郎」など有名小唄の作詞作曲を手がけたり指南書を書くなど、小唄隆盛に貢献。〈文学芸者〉とは贔屓筋か親しい朋輩の付けた異名だろう。

 

春日野八千代 かすがのやちよ (19152012) 宝塚スター

è最後の宝塚スター

越路吹雪、久慈あさみらと一世を風靡し、宝塚とともに50年を生きた。ここでいう「最後の」とは、「最もキャリアを積んだ」という意味である。

 

糟谷磯丸 かすやいそまる (17641848) 渥美半島の歌人

èまじない歌人

伊良子地方を根城に、平易だが一風変った歌を詠んだ在野の歌人。たとえば、

 しき嶋の道一筋をみしめなは心にかけていのめ歌垣

のように、信心色を強く打ち出している。彼が〈まじない歌人〉と呼ばれるゆえんである。また彼は、歌を詠む漁師との評判も立ち、

 明神の石の社段でながむれば沖で漁師が船をこぎます

といった万葉調と現代短歌とをミックスしたような表現を用い、〈漁夫歌人〉との評も得ている。

 

片岡市蔵〔初代〕 かたおかいちぞう (17921862) 歌舞伎役者

è実悪の親玉

舞台では終始、(かたき)役・実悪を演じ通す硬派であった。

 

片岡千恵蔵 かたおかちえぞう (1903-83) 俳優

è①チャンバラ・スター

昭和2(1927)ねんに『万花地獄』でデビュー以来、時代劇路線で活躍。戦後、横溝正史の推理シリーズ映画に出演したが、往年の〈チャンバラ・スター〉としてのイメージはぬぐいきれなかった。

è②コーフン・ボーイ

若いときは片岡千栄蔵名で出ていた。わずかなことでも怒りっぽく、関係者からそんな気性をからかわれ付けられた。

 

片岡敏郎 かたおかとしろう (18821945) 広告作家

èアドライターおじさん

往時のスモカ歯磨の広告といえば、文案家(当時はまだコピーライターなる用語は通用していない)片岡敏郎を抜きには語れない。片岡は大正2(1913)年、広告代理店最大手の日本電報通信社(現電通)の社員として入社。5年後森永製菓に移り、さらに寿屋に転職し宣伝部長に。そして昭和7(1932)、スモカ歯磨へと移った。そのセンスの良さと歯切れのよい文体で〈広告文の開祖〉といわれている。ちなみに片岡は、自らを含め文案家を「アドライター」と呼んでいた。

 

片岡仁左衛門〔初代〕 かたおかにざえもん (16561715) 元禄歌舞伎の上方役

è(かたき)役随一

もっぱら敵役を出番とし、名を売った。殺陣の捌き上手から、別に〈武道の荒事名人〉あるいは〈実悪の名手〉の異名ももつ。

 

片岡仁左衛門〔七代〕 かたおかにざえもん (17551837) 歌舞伎役者

è①肥大なる男前

その見栄えのする恰幅により、上方で付けられた渾名。

è②老巧無頼

天保元(1830)年に京都へ出て、北川芝居『菅原』の舞台で白太夫「時平」役を演じたときの評である。

 

片倉景綱 かたくらかげつな (15561615) 仙台伊達藩士

è天下の名陪臣

伊達政宗に近侍、その()として事あるごとに知恵を授け、軍略を助けた。秀吉の朝鮮出兵でも政宗に随身、戦功ありとして、家臣ながら13000石の高禄を拝領している。

 

片山哲  かたやまてつ (18871978) 政治家で、元社会党連立内閣の首相

èグズ哲

物に動ぜずおっとりとした人柄が、見てくれ判断の連中に〈グズ哲〉といわしめた。白楽天を愛吟する大人の風格をそなえ、政界においても、護憲を貫いた姿勢は凡夫の器でなかった。

 

勝川春章  かつかわしゅんしょう (176292) 浮世絵師で、勝川派の祖

è春章一幅値(いつぷくあたい)千金(せんきん)

 春章、壺形の中に林の文字を刻した印を用いたことから、又の名を壺屋春章と自称。若くして版画・美人画の大家で、役者絵にも個性的な画風を示し、世間から〈春章一幅値千金〉(蘇軾の春夜詩「春宵一刻値千金」のもじり)との評判を得た。枕絵も少なからず残している。

 

勝山 かつやま (生没年未詳) 遊女

è丹前勝山

江戸は神田雉子町の「風呂屋」という売笑窟で名を売った髪洗女。艶姿美声で人気になり、やがて吉原は三浦屋に太夫として引き抜かれた。自分の売り込みに長けた遊女で、風呂女時代から女歌舞伎好みの男装で、袴に大小の木刀まで手挟み、丹前姿で大道を闊歩した。この奴風が評判となり、〈丹前勝山〉の名は江戸中に広まって、俗謡「丹前節」まで生まれた。

 

桂小金治 かつらこきんじ (19262014) 落語家・放送タレント

è怒りの小金治

テレビ局はアフタヌーンショーの司会中、世の中の不条理に表情を変えて噛み付くジェスチャーが話題になり、〈怒りの小金治〉が第2の看板になる。

 

桂太郎 かつらたろう (18471913) 政治家で、日露戦争当時の総理

è巨頭翁

日本の政界を2大政党制へと導いた功労者である。頭が異様に大きく、〈巨頭翁〉のほか〈才槌頭〉〈福助〉といった同類の渾名も付けられている。

 

桂春団治〔初代〕 かつらはるだんじ (18781934) 上方落語家

è爆笑王

芸と人物の珍妙さで〈爆笑王〉の異名をとった人。医療器具商の未亡人とスキャンダルを起こし、あろうことかこれをネタに仕込んだ噺をレコードに吹き込み自己宣伝、〈後家殺し〉の渾名も付けられた。あまりに波乱に富んだ人生だったので、半生の伝記映画が作られている。

 

桂文我〔初代〕 かつらぶんが (18781934) 上方の落語家

è乳母(んば)さん

この渾名の由来は次の4説があり、いずれとも定めがたい。

  その風貌が乳母に似ているから。

  若手の育成上手。

  明治30年版『落語相撲番付』に乳母嵐文我の四股名で登場。

  近隣のオンバさん荒らしで艶聞を広めた。

 

桂文治〔七代〕 かつらぶんじ (18481928) 上方の落語家

è上町のオッサン

大阪上町は徳井町に住み、無愛想ではあったが他人の面倒見がよく、親分肌のところが慕われた。

 

桂文治〔八代〕 かつらぶんじ (18831955) 上方の落語家

è写真の原板

見るからに黒く、長くて四角い顔の持ち主。当時の写真にもっぱら使われた原版を連想させたことから。

 

桂文団治〔四代〕 かつらぶんだんじ (18781960) 上方の落語家

èゴジラ

大きく崩れ荒っぽい幹事の要望が怪獣に見立てられ、こう渾名された。大正時代は杉山文山の高座名で講談も語っている。

 

桂文楽〔四代〕 かつらぶんらく (183884) 落語家

èデコデコの文楽

話の合間に「デコデコ」という弾み詞を入れる癖から。花街での贔屓筋が多く、軽妙な廓噺は豊富な実体験から得たものといわれている。

 

桂文楽〔五代〕 かつらぶんらく (18641925) 落語家

èモリョリョン

前座時代は伝枝を名乗り、千枝(馬楽)と組んで「モリョリョン踊り」という珍芸を演じて見せた。

 

桂文楽〔八代〕 かつらぶんらく (18481928) 落語家

è黒門町の師匠

東京上野は黒門町に居を構えたことから。高座や楽屋では、ことあるごとに「──べけんや」「アバラカベッソン」などとおどけ言葉を口にしていた。

 

桂万光〔三代〕 かつらまんこう (18741917) 上方の落語家

è台湾錦魚

「眼が大きいので台湾錦魚という仇名があった。小さい体でチョコチョコと高座に上がり、ヒョイと座ってその大きな眼で客席をひとわたり臆病らしく見廻してから丁寧に頭を下げるという恐ろしく舞台度胸のない人で、……」(四代・桂米団治『近世落語家伝ノ七』より)

 

桂三木助〔三代〕 かつらみきすけ (190261) 落語家

è(はやぶさ)の七

神田花月で小柳枝として襲名披露をした頃は、若さゆえの博打好き、喧嘩っ早く放埓な行状から仇名された。のち真打となってからは大人になり、NHKのラジオ番組「とんち教室」のレギュラーになるなど、芸人として渋味が出てきた。

 

加藤明成 かとうあきなり (15921661) 豊臣秀吉の傘下武将で、会津藩

è一歩(いちぶ)殿(どの)

初代の嘉明の嫡男だが、暗君であったとされている。すくなくとも貪欲横暴の君主で、人民を虐げ、妙に一歩()金を手で弄ぶ癖があった。よって〈一歩殿〉と嘲られている。家臣らも「先君に似ても似つかぬ愚か者」と手厳しい記録が残されている。

 

加藤一郎 かとういちろう (192594) 制御工学者

èロボットの父

制御工学とは平たく言えばロボット工学のこと。加藤は昭和47(1972)年に人間タイプの二足歩行ロボットを開発し、一躍有名になった。

 

加藤清正 かとうきよまさ (15621611) 戦国武将で、、朝鮮戦役に出陣

è地震加藤

慶長元(1596)年、秀吉の命令で清正は朝鮮出兵から呼び戻され、閉門を余儀なくされた。仲の悪い小西行長の讒言によって、である。蟄居の最中、京都に大きな地震が起きた。清正は立場もものかわ、200名ほどの手勢を引き連れて、秀吉救助のため伏見城へと駆けつけた。秀吉は感じ入って閉門を解き、人びとは〈地震加藤〉と賞賛したという。

 

加藤きん かとうきん (18661927) 酌婦

è土手のお金

晩年、吉原土手付近で遊客を相手の乞食淫売に堕ち、〈土手のお金〉と知られた前科72犯の莫蓮(ばくれん)である。本名を加藤きんといい、れっきとした旗本の息女。生れ落ちてすぐに維新となり、家は没落。きんが16歳になったとき、家は赤貧洗うが如き状態にあった。女の転落は早いという例に洩れず、きんは酌婦に売られ、ヤケになって男と酒に溺れ始める。小犯罪を繰り返しながら、色香が失せると食い詰め者となり、エンコ(浅草)に流れ着いてルンペン相手に春をひさぐ身に堕ちた。彼女が野垂れ死にしたのは昭和2(1927)年、62歳であった。

 

加藤登紀子 かとうときこ (1943- ) 歌手

èおとき

名前の登紀子(本姓名は藤本登紀子)を昔風に表現した親称。知る人ぞ知る東大出歌手で、その落ち着いて風格ある人柄からだろう。

 

加藤一二三 かとうひふみ (1940- ) 将棋棋士

è将棋界のキリスト(週刊文春、1982.4.8)

自身がクリスチャンであることから。また「神武以来の天才棋士」と高く評価されたため、二義合体のチグハグな二つ名をもっている。

 

加藤正夫 かとうまさお (19472004) 囲碁棋士

è殺し屋

名人2期、本因坊4期、王座11期の豪勢なタイトルに輝く。名人位を獲得する頃までは、相手を封じ込む強引な攻め手で〈殺し屋〉と恐れられた。

 

加藤芳郎 かとうよしろう (19252006) 漫画家

èナンセンス漫画の大天才

仲間の小島功の寸評。サンデー毎日に連載の「オンボロ人生」、毎日新聞に連載の「まっぴら君」で広く知られた人。

 

金井三笑 かないさんしょう (173197) 歌舞伎作者

è笑わず屋

三笑の筆号にもかかわらず、素顔は常時仏頂面であったと。本読みを終えたあと、何か不足があるかというような面構えで、刀の柄に手を掛け、役者を睨みすえながら作品を納めたこともあるという。

 

金井由輔〔初代〕 かないゆうすけ (生没年未詳) 歌舞伎作者

èふくろ半次

屋号が井筒屋で筒井半次と名乗り京北川の芝居勤めに。頭髪を「ふくろ付きかづら」に結っていたためこの渾名が付いた。

 

金森徳次郎 かなもりとくじろう (18861959) 政治家で、元国務大臣

èあこがれ大臣

新憲法制定の生みの親とされている。国会質問で憲法での天皇の地位を「国民のあこがれの中心でございまして」と答弁し、マスコミから〈あこがれ大臣〉の渾名を呈された。

 

金子信夫 かねこのぶお (192395) 俳優

èネコさん    

姓から付けられた親称。悪役バイプレーヤーで売り出す。料理通でもあり、自店「牡丹亭」を経営した。

 

金子光晴 かねこみつはる (18951975) 詩人

è叛骨怪詩人(週刊読売、1975.7.19)

女好きで、老いてなお妾狂いをやめなかった。四文字言葉も平気で口にしたため、マスコミから〈エロスの老詩人〉とも異称された。

 

兼高かおる かねたかかおる (1928- ) 旅行家

è空飛ぶ親善大使

テレビ番組「兼高かおる・世界の旅」で茶の間の有名人になる。本名は兼高ローズという米国籍二世だから英語は母国語そのもの、これまでに世界150カ国を巡り、マスコミのいう〈空飛ぶ親善大使〉の役割を果たしている。

 

金丸信 かねまるしん (191496) 政治家で、

国務大臣・副総理

è永田町のドン

〈政界のトラブルメーカー〉との声もあるほど、この人は発言するたび政界をゆるがせた。その多くが人を食った問題発言で、日本国発展の足を引っ張るようなことばかりやってのけた。たとえば中途半端な発想により一時問題になった「北方2島返還論」などはその最たるものであろう。〈永田町のドン〉は政界にとってもマフィアのような存在だったのである。

 

叶順子 かのうじゅんこ (1936- ) 女優

èエレガンスガール

ミス資生堂出の女優。昭和32(1957)年に大映映画『朝の口笛』でデビューしたときのマスコットネームである。一言お断り、後にAV女優として知られる同姓同名は別人である。

 

狩野融川 かのうゆうせん (17781815) 画家で、奥絵師

è切腹融川

文化12(1815)年、幕命により融川は朝鮮来聘使(らいへいし)に贈る屏風絵を描いた。近江八景を図柄にしたものだったが、これを見た若年寄、安倍豊後守にケチを付けられた。論争のあと融川はさっさと下城し、浜町の自宅へ帰る途中、駕籠の中で切腹し果てた。絵師にも武士並みの意地のあることを身を賭して訴えたのである。

 

加保茶元成 かぼちゃのもとなり (?-1780) 江戸新吉原の妓楼主で、狂歌師

èかぼちゃ

本名を市兵衛といい、ある時河岸へ出かけて「かぼちゃ」という珍しい瓜をしこたま買い入れて帰った。これを娼妓らの惣菜に振舞っていらい、噂が広まり市兵絵衛を〈かぼちゃ〉 と渾名を付けて呼んだ。低身で丸顔、猿目で愛敬があり、彼自身この渾名は自分にピッタリだと思い、とうとう狂号(狂歌に用いる号)にしてしまった。

 

鎌倉景政 かまくらかげまさ (生没年未詳) 桓武平氏の武将

è片目清水

歌舞伎『(しばらく)』の主人公。景政、16歳で後三年の役に出征。敵の強弓引き手、鳥海弥三郎に射掛けられた矢が右目に命中した。が、景政死にもせず、ひるみもせずに、逆に弓に矢をつがえ弥三郎を返り討ちにする。そして戦場からの帰途に、さる霊泉で目の傷を癒したが、その霊泉にちなんで〈片目清水〉の異名で呼ばれるようになったという。

 

雷門助六〔五代〕 かみなりもんすけろく (18621918) 落語家

èしゃも

明治から大正にかけ、声色が巧みで売り出す。真打になったころは声価を高め、寄席の「白梅亭」の2階が抜け落ちるほどの客を集めた。往時まだ9代目団十郎が世にあったとき、その十八番「助六」を真似て演じ人気を博している。〈しゃも〉の渾名の由来は、残念ながら定かでない。

 

雷門福助 かみなりもんふくすけ (190186) 落語家

è落語界のシーラカンス

昭和58(1983)12月に東宝名人会に出演、そのいかつい容貌はまるで生き残り化石魚のシーラカンスに似ていると評判になった。

 

上村彦之丞 かみむらひこのじょう (18491916) 軍人で、海軍大将

è船乗り将軍

西南戦争で海軍軍艦「雷電」での乗り組みをはじめ、日清・日露戦争など生涯ほとんどを海上勤務で終えたため、〈船乗り将軍〉と呼ばれた。

 

神谷正太郎 かみやしょうたろう (18981980) 実業家で、トヨタ自販社長

è販売の神様

昭和25(1950)年、トヨタ自動車販売の社長に就任。トヨタ自動車の今日あるはこの人のおかげ、といわれている。

 

亀井静香 かめいしずか (1936- ) 政治家で、建設大臣・衆議院議員

èドン亀

かつて自民党若手議員の鷹派として、存在感のある勇名をとどろかせたことから。

亀田鵬斎 かめだほうさい (18861959) 町儒者で、書家

 è(しゆ)徳経(とくきよう)先生

老後は根岸の里に隠棲し、日々酒三昧の暮しを送る。酔いにまかせ、酒徳経なる自作の狂詩を披露しては悦に入る鵬斎を人びとは〈酒徳経先生〉と渾名した。その酒徳経の一、

 吉野(よしの)竜田也(たつたや)(すみ)田川(だがわ)酒賀(さけが)無礼婆(なければ)只之処(ただのとこ)劉伯倫也(りゆうはくりんや)李太白(りたいはく)酒乎飲(さけをのま)()()只之人(ただのひと)酔酔酔酔(よいよいよいよい)酔也薩阿(よいやさあ)

 

亀姫 かめひめ (15601625) 徳川家康の長女で、奥平信昌夫人

è加納御前

夫は三河新城主奥平信昌。慶長6(1601)年、信正の国替えに伴い、美濃国加納に移り

〈加納御前〉と称された。さらにその後下野国宇都宮に転居。ここで史上に残「宇

都宮釣天井事件」に関与し、弟秀忠を動かし本多正純を改易に追いやる。老獪な女

であった。

 

加山雄三 かやまゆうぞう (1937- ) 俳優

è若大将

昭和36(1961)年に始まった映画『若大将』シリーズにより、知らない人はいないく

らい有名な異名。ご本人、最近ではこの看板名を逆に取り、CMに利用している。

 

唐木恵子 からきけいこ (1973- ) タレント

èケイコ先生

日本テレビのバラエティ番組『進め!電波少年』の企画もの「東大一直線」でケイ

コ先生に扮する。自身も東大卒とあってはまさに適役だ。

 

唐十郎 からじゅうろう (1940- ) 演出家で、状況劇場主、作家

è①オカマのストリッパー(潮、1972.12)

さまざまな渾名を集めたら1ダースは超えるであろう。とにかく物書きに豊富なネタを提供してくれる人物ではある。

è②アングラ座長(漫画読本、1968.7)

アングラ演劇の旗手で、いわゆる「赤テント」を看板に海外公演も活発である。

 

唐物屋久兵衛 からものやきゅうべえ (生没年未祥) 江戸中期の唐鋳物の工匠

è唐物を超える名工

泉州堺にあって鋳金の名工との聞こえが高く、唐物をも欺くといわれるほどであった。しかしどんなに貧乏しても気に入らなければ仕事をせず、酒に入り浸っていたという。

 

川内康範 かかわうちこうはん (19202008) 作家・作詞家

è生涯助ッ人

渾名ではなく、自著本のタイトルであり、また戒名代りに遺族が付けた呼称である。川内は、法華宗の熱心な信徒にも似ず、生前から戒名は不要と言い残していたという。戒名の意味も無い不条理に気づいていたのであろう。

 

川上音次郎 かわかみおとじろう (18641911) 寄席芸人・壮士芝居役者

èオッペケ音次郎

時代の一世を風靡した壮士節「オッペケ節」の創始にちなんで付けられた。彼が音頭をとった川上書生芝居はたちまち人気を得て、新派発祥の草分けとなる。しかし個人的にはいい加減な男であったらしく、〈山師の川上〉〈駄ボラ吹き〉といった陰口を叩かれている。女優の貞奴は夫人、共に欧米まで巡業した。 

 

川上宗薫 かわかみそうくん (192485) 小説家

è失神作家 

川上の作品には情事で頂点に達した女が失神する描写が多いことから、〈失神作家〉と渾名される。彼は純文学作家であったが食ってい   けず、昭和41(1966)年頃からエロ作家へと転向する。それから水を得た魚のように書きまくったが、脂ののりきった時に念願の腹上ではなく、自然に極楽往生してしまった。

 

川上哲治 かわかみてつはる (19202013) プロ野球選手 ・監督

èテキサスの哲

所属の巨人軍で首位打者、本塁打王、打点王などを誇った。全盛期には〈打撃の神様〉と恐れられた賀、加齢でパワーが衰える。外野手の手前へ急に落ちるバッティングを放つテキサスヒットが目立つことから、〈テキサスの哲〉とからかわれるようになった。

 

川崎長太郎 かわさきちょうたろう (190185) 作家

èチラさん

散らし寿司が大好きという人手、近くの食堂へ足しげく通ったという。〈チラさん〉はそれにちなんだ愛称。

 

川崎なつ かわさきなつ (18891966) 服飾研究家で、文化学院の創設者

èツバキ姫

文化学院での授業中、熱弁のあまり、しばしば前の席までツバキが飛んできたという。

 

河七庭華 かわしちていか (生没年未詳) 江戸中期の商人

è身請(みうけ)盗人(ぬすつと)

 庭華は俳号で、名は七右衛門といった。江戸は新橋土橋で河内屋という薬種屋を営んでいたが、吉原通いのあげく某女郎を二百両払って身請けすべく、楼主に金を先払いした。ところが河内屋の番頭や手代が遊女上りを女将(おかみ)さんと呼びたくないと騒動になり、やむなく破談にしてしまう。そこで庭華は渡した金が惜しくなり、当の女郎屋へ行って返却を迫ったため評判になり、〈身請盗人〉などとさんざんに悪口をいわれた。

 

川路利良 かわじとしよし (183479) 警察官僚で、警視局大警視

è警察の父

いわば初代警視総監である。大久保利通の懐刀として力を示し、警視局内に薩摩閥を形成していった。また政界内の秘密情報をも牛耳っていたので、これまた立身出世のために利用できた。 

 

川島芳子 かわしまよしこ (19061948) 日中戦争時に暗躍した男装のスパイ

è東洋のマタ・ハリ

大正13(1923)年に日本軍部の要請に応じ、男装の女間諜として特務工作に従事、見事な地下活動を遂げて〈東洋のマタ・ハリ〉と異名された。なおマタ・ハリとは第一次大戦時、

オランダのダンサーで美貌で鳴らしたスパイのこと。

 

河竹黙阿弥 かわたけもくあみ (181693) 歌舞伎台本作者

è趣向の才士

幕末から明治開化期にかけ、360以上もの台本等を書き残している。役者の個性に合った本の書き分けはもとより、言い回しや言葉遊びなど弄辞を駆使した才能にも見るべきものがあつた。狂歌や茶番でも人並みならぬ異才を放った。

 

川手文次郎 かわてぶんじろう (181483) 宗教家で、金光教教祖

è(いき)(がみ)金光(こんこう)大神(だいじん)

 このご大層な名は渾名にあらず。教祖自ら、信者に押し付けた自分への呼び名である。岡山県浅口郡金光町というれっきとした行政自治体になっている。無信心者には住みたくない場所だ。

 

川辺るみ子 かわべるみこ (191789) クラブ経営者

è夜の帝王

昭和23(1948)年、銀座に高級クラブ「エスポワール」を開く。川辺はすらりとした秋田美人、客あしらいが巧みで客筋も有名人揃い。同店はマスコミにもしばしば取上げられてつとに名が知られ、川辺は〈夜の帝王〉なる称号まで貰っている。

 

川本五郎 かわもとごろう (191986) 陶芸家

è瀬戸の鬼才

現代日本陶芸展最高賞、ブリュッセル万国博グランプリなどを受賞。力感溢れた作風で斯界の人気になり、〈瀬戸の鬼才〉と呼ばれた。

 

神吉晴夫 かんきはるお (190177) ジャーナリスト

è①カッパの神吉

è②本づくりの名人(サンデー毎日、1970.5.3)

カッパマークで有名な光文社の出版局長。同社の主力カッパブックスは、「カッパ文化」といわれる独自の出版文化を生み出した。

 

神沢吐口 かんざわとこう (171095) 京都の町与力で、俳人・随筆家

èそのひぐらし

杜口は雅号で、別に俳号に「其蜩庵(きちようあん)」をもつ。其蜩は訓で読むと〈そのひぐらし〉、貧しい本人はこの号がすっかり気に入り、俳諧仲間もはばかることなく訓読のほうを口にしたという。

 

神田愛山〔二代〕 かんだあいざん (1953- ) 講談師

èアル中講談師

 打焼身前までアルコール依存症が昂じ、破門されている。その後立ち直って高座に出たり、『酒とバカの日々』など執筆活動に精を出している。

 

菅直人 かんなおと (1946- ) 政治家で、首相

è①イラ菅

本人は短気で移り気な性格、気に入らない局面に遭遇するとイライラした態度をあからさまに見せる。しかし優柔不断な態度に振り回されている国民にとって、「イライラさせられるのは国民」との思いも募らせている。

è②権力亡者

東日本大震災という未曾有の国難に当たっても、権力に汲々としがみつく無能な総理を批判した国民の声である。

 

菅野すが かんのすが (18811911) 明治の社会主義者

 è爆裂弾の烈女

夫は社会主義指導者の幸徳秋水。明治44(1911)125日、「大逆事件」の首謀者・秋水処刑に続き1日遅れで処刑された。次の辞世を残している。

 終に来ぬ運命(さだめ)の神の黒き征矢(そや)わが(ぬか)に立つ日は終に来ぬ

ちなみに、秋水の辞世も掲げておこう。

 爆弾のとぶよと見てし初夢は千代田の松の雪折れの音

 

観音信則 かんのんのぶのり (1927- ) 北海道占冠(しめかつぷ)村長

èミニ村のアイデア村長

同村役場産業課長から村長を3期つとめた。トマム開発への企業誘致、村営運動公園

の開発など、脱過疎化に向けアイデア行政を実践。ちなみに同村の総人口は1400

余という。

 

冠松次郎 かんむりまつじろう (18831970) 登山家・紀行作家

è黒部の父

わが国の高峰を次々に踏破し、事あるごとに秘境黒部の魅力を紹介してきた。地元

の人々は彼を〈黒部の父〉と称賛している。

 

感和亭鬼武 かんわていおにたけ (17601818) 戯作者

è鼻欠け

江戸飯田町に住む前野曼助という勘定役の武家であつたが、山東京伝や曲亭馬琴に

師事し戯作を書くようになった。いわば放蕩無頼の生き様がわざわいし、梅毒にか

かり鼻が欠けてしまった。森田座付きで台本を書くこともったが、同輩らから〈鼻

欠け〉とののしられ退座に追い込まれた。

 

 

 

鬼一法眼 きいちほうげん (生没年未詳)  鎌倉時代の陰陽師

è文武二道の達者

鞍馬の天狗が姿を変えたとの伝説もあり実在、があやふやだが、京都一条は堀川に住んだと伝えられている。『義経記(ぎけいき)』巻二に、源義経が秘蔵本を手に入れるため法眼に屁理屈をたてて手渡すよう迫るが、彼ははねつけて追い返すくだりが載っている。かなりの博識で硬骨漢でもあったようだ。

 

祇園南海 ぎおんなんかい (16761751)  監視人・文人画家

è江戸文人画の祖

この呼び名にふさわしく、味のある雅画を描いた。少年時代から詩才をたたえられ、和歌山藩儒官をつとめる傍ら風流な詩と奥行きのある水墨画をたしなむ。藩校「湊講館」を開設し、藩の学政全般をも監査した。

 

菊池章子 きくちあきこ (19242002) 歌手

è社会派歌手

戦後混乱期に街娼の悲哀を歌い上げた『星の流れに』、あるいは抑留引揚者と出迎える母親をテーマとした『岸壁の母』など、社会性の高い主題の歌謡曲を歌い〈社会派歌手〉の名を高めた。

 

菊池寛 きくちひろし(かん) (18881948) 

小説家・劇作家

è①アンパンのへそ

小太りの顔一面にアバタの浮き出た容貌からの名付け。中学時代は〈炭団(たどん)〉という渾名ももっていた。

 è②文壇の大御所

文芸春秋社を設立、菊池寛賞を設け文壇の新人発掘などに貢献した。

 

喜久亭寿楽 きくていじゅらく (18961987) 落語家

è八丁堀の兄イ

八丁堀の指物師の子というチャキチャキの江戸っ子で、気風がよく面倒見もよいので他人に慕われた。周りの人たちから自然発生した通称である。

 

喜志喜太夫 きしきだゆう (生没年未詳)  江戸中期の能楽師

è獅子舞天下一

紀伊和歌山藩は徳川頼宣に召された観世流の能役者で、「石橋(しやくきよう)」で演じる特別な獅子舞を考案した。いわゆる「紀州獅子」と呼ばれるものだが、元禄7(1694)年には大坂道頓堀で勧進能を催し、その堂に入った舞姿に観衆から〈獅子舞天下一〉の声があがったという。

 

岸信介 きしのぶすけ (18961987)  政治家で、首相

è昭和の妖怪

昭和32(1957)年に首相就任後、●インドネシア賠償問題で多くの不透明部分を残す。●日商岩井の航空機疑惑では言を左右しノラリクラリと乗りきる。●昭和37年、政権を福田赳夫に譲ってからも政界の黒幕として利権工作に暗躍した。…等々、週刊誌からも〈昭和の妖怪〉とか「国家を食い物にする巨悪の親玉」などと叩かれた。

 

岸田俊子 きしだとしこ (18631901) 弁護士・民権運動家

è婦人弁士第1

若い頃街頭演説で鍛えた口演は堂に入ったものであった。明治14(1881)年それまでの宮中女官職を辞し、高知に赴き自由民権運動に染まっていく。ここで「政談会」の闘士となり壇上で女権について演説をぶつようになった。時の人は彼女の文金高島田姿でぶつ演説に酔いしれ、〈婦人弁士第1号〉と呼んだ。

 

木島則夫 きじまのりお (192595) テレビキャスター

è泣きの木島

モーニングショーの司会で有名になる。ご対面番組、蒸発行方不明者の探索などの社会問題を、ヒューマンな目を通じて感情込みで捉えたたことから〈泣きの木島〉といわれた。

 

喜多川歌麿 きたがわうたまろ (1753?-1806) 浮世絵師

è青楼の絵師

絵師として売り出した頃の歌麿呂は、江戸吉原を軸とした遊女の錦絵を多作している。つまり青楼(遊女屋の漢語名)で名を売る傾城を半ば宣伝請負の形で描き、これがまたよく売れて江戸っ子遊野郎に受けるところとなった。枕絵も残している。

 

北沢敬二郎 きたざわけいじろう (18891970) 実業家で、大丸百貨店社長

è計画院殿準備万端指図居士

ドの字が付く几帳面な性格をからかって、だれぞが北沢の存命中に冠したと思われる悪戯戒名である。

 

来島又兵衛 きじままたべえ (181764) 幕末の志士

è(らい)(おう)

 憂国の念人一倍に燃ゆる尊攘派であった。剣術は芯陰流の免許皆伝、加えて馬術にも長けていた。志士仲間からは40代にして氏名頭取りで〈来翁〉と呼ばれたが、48歳のとき「禁門の変」で戦い蛤御門で散華した。

 

木曽義仲 きそよしなか (115484) 鎌倉武将で、征夷大将軍

è旭将軍

幼名を駒王丸と称し、元服して木曽次郎義仲を名乗った。『平家物語』でも野生的な剛の者として描かれている。平家討伐に向かったとき27歳、武者勇名を馳せ義仲軍は日を追って大勢に膨らんだ。その勢いの良さは旭日に喩えられ、〈旭将軍〉の異名を取った。

 

北大路魯山人 きたおおじろさんじん (18831959) 料理人ほか

è何でも屋の俗物

驚くほど多芸な人で、思いつくまま挙げてみても料理人、美食家、画家、篆刻家、書家、漆芸家等々が並べられる。いずれも彼独特のあくの強さが形成した道楽世界で、常識的な尺度では付いていけないものがあった。よって世人彼を評していわく、〈何でも屋の俗物〉あるいは〈ハツタリ屋〉と。

 

北野鞠塢 きたのきくう (17621831) 骨董商 ・向島百花園創設者

è花屋敷亭主

文化元(1804)念向島の寺島村に3000坪の地を得て梅などの樹木花卉を植えた。彼の風流の友大田蜀山人はここを「花屋敷」と名づけ、やがて人々は北野を〈花屋敷亭主〉と呼ぶようになった。

 

北の洋昇 きたのなだのぼる (19232002) 力士で、関脇・武隈親方

è白い稲妻

昭和50年代に活躍した名力士。軍配が上がるや、出足鋭く左を差し、相手の体をゆすって右おっつけの速攻で勝負を決める。観客の目には巨体が描く稲妻のような動きであった。角界では珍しい80歳の天寿に恵まれたのも、人徳のなせる業ではなかろうか。

 

北原怜子 きたはらさとこ (192958) 社会事業家

è蟻の町のマリア

リヤカーを引き廃品回収業のかたわら、東京都墨田区の隅田公園内蟻の町に住んで奉仕活動に明け暮れ、近辺の住民から〈蟻の町のマリア〉と慕われた。彼女、大学教授の娘で不自由の無い生活が送れたはずだ。エリザベトの洗礼名を持ち、『蟻の町の子供たち』の著書がある。肺結核を患い夭折した。

 

北原白秋 きたはらはくしゅう (18851942) 近代の詩人・歌人

è①不滅の絶唱詩人(平凡パンチ、1975.9.29)

あまりにも有名な人、今さら伝にふれる必要もなかろう。

è②トンカジョン

「トンカジョン」はオランダ訛語で、総領の坊ちゃんの意味をもつ北九州地方の通称である。白秋は柳川の海産物と酒造家をかねた御用達商人の総領息子だったことから、わがまま一杯に育った〈トンカジョン〉だといわれていた。この渾名から連想できるように、〈南蛮趣味の詩人〉とも異名された。

 

北村サヨ きたむらさよ (190067) 天照皇大神宮教の教祖

 è踊る生き神様

戦後間もなくマスコミを騒がせた俗称「踊る宗教」の女カリスマ。街頭に出て不条理と思うところを糾弾し、「ナッチョラン、ナッチョラン」を口癖に。あげくは入神の踊りまくりを演じて見せ、〈踊る生き神様〉として大衆を酔わせた。ハワイと米大陸へはリュックに日用品を詰め込んで布教に出かけている。

 

喜多村緑郎 きたむらろくろう (18711961) 俳優

è強情王(人物往来、1955.5)

評論家の古谷綱正の評である。新派では押しも押されぬ女形、写実技という特有の台詞回しを考えだした。

 

北杜夫 きたもりお (19272011) 作家

èどくとるマンボウ

昭和35(1960)年、船医の体験談を小説化した「どくとるマンボウ航海記」がベストセラーになり、代称になる。北は大の昆虫好きであることから、2008年に同書中に出てくるすべての昆虫標本を集めた「どくとるマンボウ昆虫展」を開くなど、マスコミ好みの才知に長けていた。

 

北山寒巖 きたやまかんがん (17671801) 蘭画家

è(ハン)泥亀(デイキ)

自分の絵を長崎屋のオランダ人一行に見せたところ、その腕前は本国の有名画家ハン・ディキ(Anthonis van Dyke)並だと評され、巷間の噂になった。これから当て字が作られ、通称化した。

 

木塚忠助 きづかただすけ (192487) プロ野球選手

è①軽業師

è②サーカス遊撃手

昭和23(1948)年に南海入団。168センチの小躯ながら肩が強靭で、迅速な動きで広い守備範囲を誇ったことから、〈軽業師〉とも〈サーカス遊撃手〉ともいわれた。

 

木戸幸一 きどこういち (188977) 政治家で、侯爵

è革新貴族

昭和戦前期の革新政治家。当時の帝国主義色に染まることなく、天皇内府の権限強化など革新運動を展開。侯爵という地位にあり、英国紳士然としたノーブルな立居振舞いに結びつけて〈革新貴族〉と称された。著作『木戸幸一日記』は昭和史の重要史料である。

 

木戸孝允 きどたかよし (18331877) 政治家

 è逃げの小五郎

木戸は尊攘倒幕の志士で、通称を小五郎といった。風雲急を告げる幕末にあって、新撰組に襲われた池田屋事件や禁門の変などで、多くの長州藩士が命を落としていた。そうした中で木戸は逃亡を続け、但馬の商家に潜入し入り婿生活にひたっている。かつての仲間はこうした彼を〈逃げの小五郎〉とさげすんだが、木戸自身はやたら剣を振り回し、命を粗末にする過激行動に批判的であった。

 

衣笠祥雄 きぬがささちお (1947- ) プロ野球選手

è鉄人

昭和40(1965)年に広島入団。昭和62年に引退するまで2215試合連続出場、23年間の実働が評価され〈鉄人〉のニックネームを付けられた。

 

杵屋勝三郎〔二代〕 きねやかつさぶろう (182096) 江戸長唄の三味線方

è馬場の鬼勝

文久2(1862)年、連獅子のうちの一曲『馬場連』を作曲。当時二代目は馬喰町の初音馬場で暮らしていた。三味線を弾くとき、左右両手を使い鬼神のごとく激しい演奏を見せたため、〈馬場の鬼勝〉といって敬われた。

 

木内石亭 きのうちせきてい (17241808) 奇石蒐集家

è石の長者

号からして尋常でない。幼少時から石の魔力に取り憑かれ、珍奇な石集めに一生を費やす。集めた数3000点を超え一通り見終わるのに三日かかるとか。広く〈石の長者〉の名が立つ。探石に関する著作『雲根志』は好事家の必読書といわれている。雲根とは、岩石の間から生じる雲、という石の故事に由来する。

 

紀伊国屋文左衛門 きのくにやぶんざえもん (?-1734) 紀州出身の豪商

è田舎大尽

紀州みかんの海上輸送と材木商いで財を成した富商。彼は私生活で、

  吉原の雪見遊びのさい、たまたま同じく登楼の奈良茂とかち合う。彼は即座に300両をばら撒き、遊女らが競って拾うのを眺めて楽しんだ。つまり奈良茂の雪見を意図的に台無しにした。

  大川(隅田川)で盃流しの風流を行うと宣言し、やらずじまいに。つまり集まった大勢の見物衆を騙したのはまだしも、自宅の庭の小川で独り盃流しを楽しんだ。

という、はなはだ悪趣味な成金であった。江戸の人々はそんな〈紀文大尽〉の行状を「田舎者のべらぼうめ」とののしった。

 

木下恵介 きのしたけいすけ (191298) 映画監督

è木下学校長

昭和8(1933)年に松竹キネマ蒲田撮影所に入ってから数々の松竹文芸作品を手がけた名監督。門下に松山善三、吉田喜重、山田太一ら、俳優では高峰秀子、田村高広らがおり、いうところの「木下学校」を世に知らしめていた。ところが本人は「先生」と呼ばれるのを嫌っているため、周囲いで気を使い「校長」という代名詞を用いていた。

 

紀貫之 きのつらゆき (872-945) 平安初期の歌人

è歌聖(うたのひじり)

 和歌をたしなむ平安貴族が多い中でも、貫之は一段と輝きを放つ職業歌人であった。延喜5(905)年に完成の勅撰歌集『古今和歌集』選者4人の中心人物でもあった。また屏風画の絵合わせ歌を読みこなす実力は抜きん出ており、万葉歌人の柿本人麻呂に比肩しうる歌詠みとして評価されている。

 

紀夏井 きのなつい (生没年未詳) 平安初期の官人

è真書の(ひじり)

 学問に秀で徳の厚い人であった。讃岐守を離任するさい、功績に対し人びとが申し出た贈り物をすべて断わり、帰京後も届け物のうちから紙と筆だけを残し他は返している。書も能筆で、師の小野(たかむら)から〈真書の聖〉と賞賛された。

 

木の実ナナ きのみなな (1946- ) 女優・歌手

èショーガール

劇団四季のミュージカル「アプローズ」で注目されたのを機に、本格的ミュージカルスターへの道をたどる。異称は細川俊之相手の二人芝居「ショーガール」から。

 

木原光知子 きはらみちこ (19482007) 水泳選手・タレント

èミミちゃん

昭和58(1983)年頃、この愛称を看板に「ミミ・スイミングクラブ」を開設した。

 

喜平 きへい (18281895) 陶工

è急火焼(きびしよ)造りの名人

彦根外船町に住む湖東焼の彦根藩窯お抱えの陶工職人。いわゆる袋物専業で、急須造りにかけては右に出る者がいないことから、〈急火焼造りの名人〉との名を馳せた。

 

君原健二 きみはらけんじ (1941- ) 陸上競技選手

è根性の男

昭和43(1968)年メキシコ五輪で、日本人初の銀メダルを獲得したマラソンランナー。君腹の我慢強い走りを見た人たちは〈根性の男〉との賛辞を惜しまなかった。

 

木村兵太郎 きむらへいたろう (18881948) 陸軍軍人で、大将

èビルマの屠殺者

昭和19(1944)年ビルマ方面軍司令官の任にあったとき、インパール作戦を首謀したが失敗。戦後A級戦犯に指名され昭和2112月に刑死した。〈ビルマの屠殺者〉とは、連合軍検察側が木村に対し用いた表現である。

 

鬼面山谷五郎 きめんざんたにごろう (176290) 力士で、小結

 è出っちり鬼面山

飛びぬけて大きな尻に付いた渾名だが、面相のほうは美男で知られた。阿波蜂須賀侯のお抱え力士だったが、夭折した。

 

京唄子 きょううたこ (19272017) 漫才師・司会者

è大口さん

顔に大きく広がる口が特徴である。昭和31(1956)年、鳳啓助と再婚し漫才コンビで売り出した。

 

京極高次 きょうごくたかつぐ (15631609) 戦国武将で、のち大津藩主に

è尻蛍大名

付和雷同ぶりが目立った人。当初、信長の家臣であったが、本能寺の変に乗じ光秀につく。光秀が敗死すると次は若狭の武田元明の許へと走る。ここには妹の竜子が嫁いでいる。主君の元明が秀吉に倒されるや、今度は竜子を秀吉の側室に差し出し身の安泰を図った。そして文禄4(1595)年、秀吉から大津六万石の大名を拝したのである。そうした高次をして世人は〈尻蛍大名〉と渾名した。

 

京塚昌子 きょうづかまさこ (19301994) 女優

è肝っ玉かあさん

小太り、能弁で貫禄あるお母さん役から付けられた愛称。ズバリ〈肝っ玉かあさん〉のタイトルのテレビドラマで主演した。

 

京マチ子 きょうまちこ (1924- ) 女優

èグランプリ女優

昭和25(1950)年、大映映画「羅生門」や「雨月物語」に主演、ベネチア国債映画祭大賞などを受賞し、国際的女優として評価された。

 

桐島洋子 きりしまようこ (1937- ) エッセイスト

èふうてんママ

自身を含め、未婚の母に関する評論やエッセーで注目を集めた。

 

桐野利秋 きりのとしあき (18381877) 薩摩藩士で剣士、明治期は軍人に

è①人斬り半次郎

è(あか)(さや)半次郎

幕末の動乱期は変名の中村半次郎を名乗り、〈人斬り半次郎〉で鳴らす。抜刀術の手練(てだれ)で〈赤鞘半次郎〉は愛刀の赤鞘造が由来である。

 

金原亭馬生〔五代〕 きんげんていばしょう (18641946) 落語家

èおもちゃ屋の馬生

明治18(1885)年から大阪に住み、玩具屋を経営する腰の低い商人でもあった。いわゆる「くすぐり入れ」の名人としても聞こえた。

 

 

 

空也 くうや (903-72) 僧で、空也念仏の祖

è阿弥陀(あみだ)(ひじり)

è(いちの)(ひじり)

空也は口唱念仏に徹し、つねに弥陀の称号を唱え、胸にぶら下げた金鼓(こんく)を叩きつつ市中を巡り歩いては布教した。このため〈阿弥陀聖〉〈市の聖〉ときには〈念仏上人〉などと敬われた。彼は道路・橋梁・灌漑などの建設にも身を投じ働いている。空念仏に終わらず、実践力をもった数少ない名僧であった。

 

久坂玄瑞 くさかげんずい (184064) 萩藩の志士

è防長第一の俊才

吉田松陰教える松下村塾において高杉晋作、入江九一と並んで久坂玄瑞は「三高弟」と認められていた。師は玄瑞を〈防長第一の俊才〉と高く買っていた。

 安政の大獄に連座し処刑された松陰の死は、玄随に衝撃を与え深い虚無感へと引きずり込んだ。禁門の変における長州惨敗で生きる望みを断たれた玄瑞、自ら屠腹して25年の生涯を閉じた。

 

日下部鳴鶴 くさかべめいかく (18381922) 書家

è東海の書聖

幕末から明治・大正にかけての代表的書家といえる人。明治24(1891)年、清国に遊学したさい、彼国の書壇においても雅味に満ちた独自の書風が高く評価され、〈東海の書聖〉と評された。

 

草刈正雄 くさかりまさお (1952- ) 俳優

è和製アンソニー・パーキンス

父は日本駐留の米国軍人。エキゾチックなマスクの二枚目で、アメリカの性格俳優アンソニー・パーキンスに似ているいることから付けられた。

 

草野心平 くさのしんぺい (190388) 詩人

è蛙の詩人

個性的なアナーキー詩を蛙に託して展開させた異色の詩人。草野の世界における「蛙」は、いわば「しいたげられ階級」の変身である。

 

具志堅用高 ぐしけんようこう (1955- ) プロボクサー

èカンムリワシ

昭和51(1976)年にプロ入りし9戦目でWBAジュニアフライ級王座を獲得。その鋭い目からほとばしるファイト、必殺パンチなどで猛禽を連想させることから、〈カンムリワシ〉のニックネームが付けられた。

 

九条武子 くじょうたけこ (18871928) 歌人

è大正背高美人(女の世界、1915.10)

九条良致男爵夫人。歌詠みだが詠歌のほうよりも大正美人の代表として評判になった。夫と渡英したが夫婦仲が合わず単身帰国。そうしたいきさつから〈憂愁夫人〉とも呼ばれた。

 

楠田枝理子 くすだえりこ (1952- ) 絵本作家・司会者

èマルチ才女

キャリアを除くとアナウンサー、司会者、タレント、サイエンスライター、翻訳家etc。児童絵から科学エッセイまで幅広くこなしうる人。端正な肢体と理知的容貌も彼女に味方している。

 

楠正成 くすのきまさしげ (?-1336) 南北朝初期の武将

è悪党楠兵衛尉(ひようえのじよう)

 忠臣楠正成の伝とは別の顔。元弘元(1331)年正成一党は山城国臨川寺の所領であった和泉国若松荘を急襲し、年貢などの領資を強奪した。『太平記』巻三に記されている評伝である。臨川寺側は兵衛尉の肩書きを持つ正成を非難し、〈悪党楠兵衛尉〉と呼んだ。

 

楠本イネ くすもといね (18271903) 日本最初の洋方産科医

èオランダおいね

長崎出島の有名な医官シーボルトと楠本タキとの間に生まれた娘。母タキは(その)()の源氏名をもつ遊女上がりでシーボルトの愛人であった。混血児は当時珍しくて人目を引く。のち村田蔵六こと大村益次郎と同棲し、村田塾で産科学を教えた。

 

楠本憲吉 くすもとけんきち (192288) 俳人

è①男クスケン

「男クスケン」を口癖のように自称していたため、やがて通称のようになる。

è②俳壇一匹狼(アサヒ芸能、1967.9.10)

型にはまることの嫌いな人であった。

 

工藤行幹 くどうゆきもと (18421904) 地方政治家

è(ちん)急翁(きゆうおう)

津軽出身で、状況の折など、国訛り丸出しの話しぶりから付けられた。これがなぜ〈珍急翁〉に結びつくかは不明である。

 

邦枝完二 くにえだかんじ (1892-1956) 小説家

è最後の戯作者

新聞記者から作家に転身、永井荷風の影響を受ける。「歌麿をめぐる五人の女たち」「お伝地獄」などの作品で江戸情緒と官能美を巧みに描き、洒脱な文体とあいまって〈最後の戯作者〉といわれている。

 

国弘正雄 くにひろまさお (19302014) 参議院議員

è同時通訳の神様

カリフォルニア大学大学院修了、外務省参与、文化人類学者、東京国際大学商学部教授の経歴を持つ英語達者。日本テレビのキャスターもつとめていた。

 

窪園千枝〔絵〕子 くぼぞのちえこ (生年未詳) 窪園秀志夫人

è潮吹き名器(週刊女性、1975.9.23)

暇と金を持て余す富豪夫人で、淫乱を売り物にする。彼女の女性自身は一斗(18)の愛液を吐き出す(アサヒ芸能、1975.7.24)と夫婦で自慢げに公表し話題をさらった。夫人のほうは「日本のデビ夫人」を吹聴して歩いたこともある。

 

久保田万太郎 くぼたまんたろう (18891963) 作家・劇作家・俳人

è江戸っ子文人(サンデー毎日、1963.5.26)

切符のよさといい、口をついて出るせりふといい、江戸っ子を絵に描いたようなメリハリの利いた人物だった。

 

久保亘 くぼわたる (19292003) 政治家で、副総理・参議院議員

èミスター消費税

平成初期、おりから浮かび上がった消費税反対運動を展開し、その主役を演じた。

 

熊谷真美 くまがいまみ (1960- ) 女優

èマー姉ちゃん

昭和54(1979)年、NHKテレビ小説『マー姉ちゃん』の主役に抜擢され、題名がそのまま通称になった。

 

熊谷守一 くまがいもりかず (18801977) 洋画家

è画壇の仙人

晩年の熊谷は白髪を伸びるにまかせ、仙人を思わせる飄々とした風姿であった。束縛されたり人とのしがらみを嫌い、画壇でも無所属で思うがままに政策を続けた。97歳という高齢往生も仙郷に踏み込んだ人らしい。

 

熊沢寛道 くまざわひろみち (18881966) 南朝崇拝の誇大妄想狂

è熊沢天皇

終戦翌年の昭和21(1946)年、熊沢は南朝最後の後亀山天皇から18代目の直系子孫であると名乗り出た。GHQへ直訴し、現天皇はニセ者だから朕を皇位にすえるよう命令してほしい、と。この一件は同年118日、米占領軍機関紙『スターズ・アンド・ストライプス』に掲載され日本のマスコミも報道、センセーションを巻き起こした。

 

雲早山鉄之助 くもさやまてつのすけ (181475) 力士で、前頭二枚目

è待ったなしの雲早山

その相撲人生で、ついに待ったを掛けることのなかった小気味よい取り口が評判になり、この呼称を生んだ。入門前は医者になる修行をしていたとのことで、そのせいか比較的長い寿命を保った。

 

倉本昌弘 くらもとまさひろ (1955- ) プロゴルファー

èポパイの倉本

安定したパワーヒッターでロングドライブを誇る。その体型と力強さとをポパイに模したところは、まさに渾名のイメージどおりである。

 

栗原小巻 くりはらこまき (1945- ) 女優

èコマキストの星

デビュー以来「コマキスト」という熱狂的ファン軍団を擁し、彼女の一挙手一投足が話題になっている。

 

胡桃沢耕史〔清水正二郎〕 くるみざわこうじ/しみずしょうじろう (192594) 小説家

è性豪物の帝王

清水正二郎は本名で、ポルノ小説を量産したことで知られ〈性豪物の帝王〉との異名が付けられている。胡桃沢のペンネームはユーモア・ミステリー用。

 

黒岩涙香 くろいわるいこう (18621920) 翻訳家・作家・評論家

 è(まむし)周六(しゆうろく)

名を周六といった。明治25(1892)年に『(よろず)朝報』を創刊、自己の翻案小説『岩窟王』『噫無情』などを看板に部数を伸ばし江湖の紙価を高める。いっぽう暴露記事を臆面もなく載せるしたたかさを見せ、人を攻撃するときは過激な言辞を弄しトコトン食らいつく性格から、〈蝮の周六〉と異名された。この渾名のの震源はどうやら(宮武)外骨らしい。

 

黒川義太郎 くろかわぎたろう (18661935) 東京上野動物園長

è動物の国のお守り

往時の宮内省所属植野の森「動物の国」に勤務したときの人物評。動物園には通算41年も勤続した大ベテランであった。

 

黒木香 くろきかおる (1965- ) 女優

èメディアの売春婦

大学時代にアダルトビデオに出演。いわゆる「腋毛エロチシズム」を自己演出、渾名の〈メディアの売春婦〉をも自認し、開き直ってマスコミを手玉に取った。

 

黒姫山秀男 くろひめやまひでお (1948- ) 力士で、関脇

 èD51(デコイチ)

均整の取れた182センチ、147キロの鋼のような体躯と強烈なブチカマシの迫力から、SLの呼称がそのままニックネームになった。

 

黒部銑次郎 くろべせんじろう (18471912) 山師で、岩塩開発者

è白い鉱山師

維新後に日本全国を股にかけ、岩塩脈の探索に生涯をかける。その憑かれたような(こころざし)をたたえ〈白い鉱山師〉と呼ばれた。伝でははっきりしないが、姓名が本名だとすると

経歴との対比が皮肉、運命的ともいえる。

 

黒柳徹子 くろやなぎてつこ (1933- ) 女優・タレント・随筆家

èタマネギおばさん(女性自身、1981.1.15)

彼女のトレードマークになっている独特のヘアスタイルからの名付け。最初は「タマネギおねえさん」だったのが加齢とともに「おばさん」に変化した。なお彼女には〈マザー・トット〉というニックネームもあるらしいが、真偽のほどは不確かである。

 

 

 

ケーシー高峰 けーしーたかみね (1934- ) タレント・コメディアン

è①名誉のワーストタレント(ヤングレディ、1975.7.28)

見てくれがよくないうえ、人を小バカにする生意気なところが鼻についた。

è②ダルマオコゼ(女性自身、1981.8.279.3合併号)

 

袈裟御前 けさごぜん (生没年未詳) 鎌倉時代、半伝説的な女性

è貞女の鑑

『源平盛衰記(じようすいき)』に登場の(みなもとの)(わたる)の妻。従兄の遠藤(もり)(とお)(のちの文覚)に言い寄られて懊悩のすえ一策を図り、夫の身代わりとなって袈裟をまとい盛遠に刺殺される。この悲話が後世に浄瑠璃などで語られるに及び、袈裟は〈貞女の鑑〉といわれるようになった。

 

源氏鶏太 げんじけいた(19121985) 作家

è二等半重役

昭和26(1951)年からサンデー毎日に連載の『三等重役』が人気沸騰。大仏は高額所得者に名を連ねるようになったため、巷間で「二等半」に評価しなおされた。

 

源氏山頼五郎 げんじやまらいごろう (18641919) 力士で、関脇

è白無垢鉄火

腕力・足腰とも図抜けており、繰り出す力強い取り口から名付けられた。ただ、性格破綻のところがあり、何度も雲隠れしては休場しては飲む・打つ・買うの三拍子が続いたため出世しなかった。羽織の下には常に白無垢の下着を着けていた。

 

見城三枝子 けんじょうみえこ (1946- ) レポートキャスター・大学教授

èケンケン

TBSアナウンサーからフリーになった才女。著述、対談、講演などで活躍。これは筆者の推測だが、〈ケンケン〉とは見城の姓の1文字と伝上手の合成語ではなかろうか。

 

源信 げんしん (9421017) 天台宗の僧

è日本小釈迦

源信、温厚で目立たぬ人であった。しかし頭の切れる俊英で、修行にも熱心、求心の隠遁生活に終始している。彼また『往生要集』という浄土教の念仏教義と作法を説いた名著を物している。この書は唐の天台山に送られ、並み居る高僧から〈日本小釈迦源信如来〉との賞賛の評価を得た。

 

元政 げんせい (162368) 武家出身の法華宗の在家

è深草上人

京都深草の竹葉庵で生涯ほとんどを送った人で、〈深草上人〉といわれた。詩作はじめ和歌、宗学に深い教養を示している。

 

源田実 げんだみのる (190489) 航空歓待参謀・参議院議員

è政界の空将

太平洋戦争時、「紫電改」部隊を率い、源田サーカスといわれる空中妙技を披露して見せた。昭和34(1959)年に自衛隊の航空幕僚長に就任。その後議員時代、次期主力戦闘機の選定でロッキードF104を選定、晩年は政治まみれになったのはいただけない汚点であった。

 

研ナオコ けんなおこ 1953- ) 歌手・タレント

è①天下の美女

昭和48(1973)年、ミノルタカメラのCМ出「美人しか撮らない」メッセージで人気に。大マケに見ても美人とはいえない、反意語ギャグである。

è②トンデレラガール(ヤングレディ、1977.11.22)

「シンデレラ、トンデレラ」は流行語になった。

 

見仏 けんぶつ (生没年未詳) 鎌倉初期の法華経伝道僧

è月まつしまの(ひじり)

奥州松島の雄島に庵を結んでいた。法華浄土への往生を説いて回ったが、死者の声を精霊として伝達したり、空を飛ぶ超能力を身につけていた不思議の人物であったという。

 

 

 

小池真理子 こいけまりこ (1952- ) フリーライター・作家

è知的悪女さん

かっこよく突っ走る現代女性の生き様を提案した『知的悪女のすすめ』がベストセラーに。この著作のタイトルが彼女の代名詞になった。

 

五井持軒 ごいじけん (16411721) 大坂の儒者

è四書屋(ししよや)加助

加助は通称。朱子学の大家で数十年にわたり大坂で教えた。ところが講釈は『大学』『中庸』『論語』それに『孟子』の四書に限り、他に及ぶことがなかったという。貧に甘んじ、酒を愛し、花月に遊んだ風流の人、〈四書屋加助〉で通っていた。この人、月下独酌の趣向を持ち、興がのれば和歌も詠む風流の人であった

 

小泉純一郎 こいずみじゅんいちろう (1942- ) 首相

è①純ちゃん

è②ライオンハート

後者は小泉内閣の政策PR用メールマガジンのタイトル。彼の髪形がライオンのタテガミに似ているから、とはよく言ったものだ。

 

小泉セツ こいずみせつ (18681931) ラフカディオ・ハーン夫人

è洋妾(ラシヤメン)

23歳のとき、英国から日本へ帰化した文学者ラフカディオ・ハーンの妻に。当時は日本人女性が西洋人初め外国人の妻になったり肉体関係を持ったりすると、目の敵にされ社会の爪弾きにされた。セツの場合も例外でなく、青い目に嫁いだラシャメンというレッテルが貼られたのである。

 

小出長十郎 こいでちょうじゅうろう (17971865) 天文学者・算学者

è天象先生

小出は傑出した理論家であった。若くして学んだ関流の算学をもとに、暦法を修め、日食・月食現象を理論的に考証した。その結果官暦を修正することで新暦の採用を促進させたのである。彼の実績は広く人の知るところとなり、〈天象先生〉として名を高めた。

 

晃円 こうえん (180142) 僧から博徒に

è日光(につこうの)円蔵(えんぞう)

 下野国板橋駅に住む僧であったが、縁あって上野国国定村の博徒親分である忠治の子分になり、盃と共に貰った〈日光円蔵〉を名乗る。才知に富み、忠治の片腕をつとめていた。なお、やくざ者・無為徒食の輩が開眼して僧になる例は少なくないが、円蔵のように逆のケースはきわめて珍しい。

 

国府田敬三郎 こうだけいざぶろう (18821964) 米国移住の農業経営者

èライス・キング

米国カリフォルニア州で米作りを事業化し成功。大農業方式による産毎で米市場を席捲し、〈ライス・キング〉の名を得た。彼地でのライスキングにはもう1人、西原(さいばら)清東(後出)がいる。

 

上月晃 こうづきのぼる (194099) 宝塚スター

èゴンちゃん (週刊平凡、1970.11.5)

男役のトップスターとしてミュージカル等で活躍した。

 

河野一郎 こうのいちろう (18981965) せ維持化で 、建設大臣

è蓄財大臣

政治家の立場を巧みに利用し、死去したときに時価総額100億円もの資産を残した。この財鬼ぶりは鳩山一郎と双璧、政治家はボロ儲けできる、などと悪評紛々であった。

 

高師直 こうのもろなお (?-1351) 武将

è宮巡(みやめぐ)

高師直は足利尊氏の家臣、だが主人以上に悪事で目立つ執事であった。彼は尊氏の地位を利し自ら主であるかのように権勢をふるう。

 策謀に長けているだけでなく、ドの字の付く好色家でもあった。 零落しかけた公家の娘と見ると甘言を弄して片端から手をつけ、ときには皇女にまで慰みの手を伸ばしている。この破廉恥漢を知る人びとは〈師直の宮巡り〉とさげすんだ。

 

高芙蓉 こうふよう (172284) 篆刻家

è印聖(いんせい)

 山ことに富士山にちなんだいくつかの雅号をもち、詩書画を愛した。諸技に異才を発揮したが、なかでも篆刻を得意とし、繊細で装飾的な作品を残し〈印聖〉とうたわれた。

 

光明皇后 こうみょうこうごう (70160) 聖武天皇の后

è十一面観音

皇后はあまりの美しさと慈悲心に後光が輝いて見え、その神々しさに人びとは〈十一面観音〉とあがめたという。

 

河本敏夫 こうもととしお (19112001) 政治家で、通産相

è笑わん殿下(週刊ポスト、1980.2.22)

河本派の領袖として君臨、実業では三光汽船を育て上げたが昭和60(1985)年に倒産。いわれてみればマスコミに顔を出しても、この人が笑っている姿を見たことがなかった。

 

高遊外 こうゆうがい (16751763) 隠棲僧で、茶人

è(ばい)()(おう)

 禅僧から晩年は隠遁生活に入った人。長崎の清人から学んだ煎茶道を広めるため京に入る。花や紅葉の時季になると、茶筒をになって人びとのつどう場所に出向き、筵を敷いて即席茶席をしつらえ侍る。客からの心づけで生活していたことから〈売茶翁〉と呼ばれていた。

 

木暮実千代 こぐれみちよ (191890) 女優

è①機関銃付夫人 

夫の和田日出造を呼ぶとき「パパ、パパ」を連発したことから。

è②ジュジュ・マダム

昭和20年代に「マダム・ジュジュ」クリームの広告も出るとして登場。逆さ言葉の渾名付けとなった。

 

古今亭今輔〔二代〕 ここんていいますけ (18691924) 落語家

èおせっかちの今輔

高座で話し終えないうちから前座にマントを敷かせ、下りるのももどかしげにマントを広げさせ、急いで羽織りながら出て行くのが常。こうしたせっかち振りの逸話がたくさん残されている。

 

古今亭志ん生〔初代〕 ここんていしんしょう (18091856) 江戸の落語家

è八丁荒らし

四谷の忍原亭で看板をあげ、人情話を語らせたら口八丁手八丁で並ぶ者なしとうたわれた。当時の噺家番付で大関に位を付けられた。

 

古今亭志ん生〔二代〕 こんていしんしょう (183289) 落語家

èとばし屋

事アるごとに与太を飛ばし、それが客席を沸かせ名物男に。大兵の肥満体だったので〈お相撲〉という渾名も付けられた。

 

古今亭志ん生〔三代〕 こんていしんしょう (18631918) 落語家

è軍鶏(しやも)の志ん生

「この人の本名が和田岩松ってんです。その時分、新橋に『今松』ってシャモを食わせる家があったから、岩松と今松でよく似ている。それで『軍鶏の志ん生』ってあだ名が付いたそうです」(五代志ん生『びんぼう自慢』より)

 

古今亭志ん生〔五代〕 こんていしんしょう (18901973) 落語家

è江戸っ子の灯(微笑、1973.10.6)

この人は生粋の江戸っ子最後の落語家といわれている。大の酒好きで、抱腹絶倒の逸話が豊富である。

 

古在由直 こざいよしなお (18641934) 農芸化学者で、東大農科大学長

è著書の無い学者

斯界では実績が高く評価され、国内では正三位勲一等を受賞、フランス政府からも表彰されているほど。発表した研究論文も数知れず。しかし如何なるわけか、著作が1冊も無いのであるる。このことは当時、「学会の7不思議」とされていた。

 

越路吹雪 こしじふぶき (192480) 舞台女優・歌手

èコーちゃん

越路を捩った愛称で、広く知られた。シャンソン歌手としても一流であった。

 

小侍従 こじじゅう (1121?-1202) 歌人

è待宵の小侍従

石清水に隠棲したおり、『平家物語』月見の段にある一首、

 待つ宵に更けゆく鐘の声聞けば帰るあしたの鳥はものかは

により、〈待宵の小侍従〉と称されるようになった。

 

児島明子 こじまあきこ (1936- ) ミス・ユニバース

è世界一の美女

美女選びでは最も権威のあるミス・ユニバース世界コンテスト1959年大会で第一位

の栄冠に輝いた。

 

小島功 こじまこお (19282015) 漫画家

èカッパの功さん

伸びやかなエロチシズムを描いて第一人者、清酒「黄桜」の広告漫画ですっかりおなじみになった。

 

児島惟謙 こじまこれたか (18371908) 裁判官で、大審院長

è護法の神

明治という社会体制が未成熟な混乱期にあって、児島は司法権の尊厳と独立を守り抜いた信念の人物であった。たとえば明治24(1891)5月、滋賀県大津でロシア皇帝ニコラス2世が日本刀で斬りつけられる事件が起きた。このときの犯人津田三蔵の不敬罪に寄る死刑を主張する政府に対抗し、児島は「司法は国家に介入されるべきでない崇高なものである」とする主張を展開し、法の精神を守り通したのである。

 

御所ケ浦平太夫 ごしょがうらへいだゆう (1718-?) 力士で、大関

è①御所殿の牛首

小兵ではあるが、力が強く、向う付けの押しは牛の押すようだった、と。

è②相撲仙

最盛期に大関までたどり着いた実力は高く評価され、「相撲にかけて仙なり」の評判をつづめて〈相撲仙〉と呼ばれた。

 

後白河天皇 ごしらかわてんのう (112792) 第七十七代

è日本第一の大天狗

今様歌集『梁塵秘抄(りようじんひしよう)』の編纂など一流文化人である反面、源頼朝・義経兄弟の離反を画策する策士の表情をも併せもつ帝であった。後白河の権謀術数に踊らされたうえ兄弟仲を裂かれたと知った頼朝は、怒り心頭に発し、法皇を〈日本第一の大天狗〉と罵倒してはばからず、その剣幕で相手を震えあがらせた。

 

古関裕而 こせきゆうじ (1905-89) 作曲家

è日本の行進曲王

戦前の作曲作品は『暁に祈る』『露営の歌』など、戦中は「若鷲の歌」ほか、さらに戦後は『東京オリンピックマーチ』などを残している。

 

後醍醐天皇 ごだいごてんのう (1288-1339) 第九十六代

è北面の天子

天皇親政を目指し建武新政を実施、吉野に南朝を開く。しかし世の流れは天皇に味方せず、4年目に失意のうち病で崩御された。その遺言中に「魂魄は常に(ほつけつ)の天を望まんと思う」との一節が見える。この遺志を受けて、吉野蔵王堂の林中に都へ向け北向きに葬られた由来から〈北面の天子〉と称されるに至った。

 

小谷三志 こたにさんし (17651841) 宗教家で、結社「富士道」創始者

è富士道の祖

小谷は地元(武蔵国足立郡鳩ヶ谷宿)における富士講の主催者であったが、単なる行楽としての富士登山を否定し、これに徳育的実践を反映させた「富士道」を広めた。たとえば富士道の賛同者を結集して、世の中に役立つ土木工事やごみ拾いなど社会奉仕に当たらせている。地方へも巡回して富士道への参加を呼びかけ、結束の輪を広げた。

 

児玉誉士夫 こだまよしお (191184) 右翼活動家

è①フィクサーの親玉

è②ロッキードのドン

è③ピーナッツ野郎(週刊朝日、1976.3.5、赤尾敏の評)

児玉は名だたる右翼で超国家主義者であった。もと社会主義者であつたというから、180度の転向である。昭和33(1958)年に米航空機製造ロッキード社の秘密代理人として国内で暗躍。田中角栄内閣を失脚させた「ロッキード事件」を仕掛けた張本人とされている。

 

後藤伊左衛門 ごとういざえもん (1828-1915) 地主・造林事業家

è日向の山林王

嘉永6(1853)年造林事業に着手、船材のイチイガシや高級建材のヒノキ造林で成功し、〈日向の山林王〉と称される。明治開化期における彼の持ち山面積は約200ヘクタールに及び、樹木数約160万本に達していたという。

 

五島慶太 ごとうけいた (18721959) 実業家で、東急グループの創始者

è強盗慶太

持ち前である乗っ取りの強引さに、世間が姓名をもじって付けた渾名。貪欲な事業欲の持ち主で、目蒲電鉄を創業いらい百貨店・ホテル・映画館・自動車交通へと買収を進め傘下に収める。多角経営の先駆者である反面、汚職疑惑に絡んだり運輸事業に暗躍するなど、つねに黒いイメージも膨らませた。

 

後藤象二郎 ことうしょうじろう (183897) 政治家で、農商務相

èかじりつきの後藤

万事に大雑把で優柔不断、決断の鈍いところがあった。時の流れに身をまかせるタイプなのである。たとえば明治9(1876)年、自由党結成に加わったものの翌日辞任している。裏に中傷か脅しがあったようだが、本人は抗弁一つせずに辞めている。頼まれれば断わりきれない性格らしく、いくつもの公職に就いているが、いずれも長続きしなかった。

 

後藤新平 ごとうしんぺい (1857-1929) 政治家で、内相・東京市長

è蛮爵(ばんしやく)

 明治39(1964)4月、教育の普及や産業発展に勲功ありと賞され男爵を特綬された。だがかつての台湾統治の親玉だった地位を利し、関係方面に根回しして自分の生前銅像を建てさせた。これは常識外れの蛮挙であるとの悪評が立ち、〈蛮爵〉とか〈大風呂敷〉の渾名を呈された。

 

五島勉 ごとうべん (1929- ) ルポライター

è破滅教教祖

昭和48(1973)年、五島の書いた『ノストラダムスの大予言』は100万部を超える大ベストセラーに。大衆の怖いもの見たさの心情に便乗し、危機感を煽り〈破壊教教祖〉と騒がれた。書く内容に毒があるとの意味で、〈サソリの勉〉とも。

 

琴ケ浜貞雄 ことがはまさだお (1927-81) 力士で 、大関

è南海の黒豹

色浅黒く胴長の体躯、しかし迅速なみ身のこなしが渾名のイメージを呼んだ。往年の名大関で、別に〈内掛けの名人〉ともいわれた。

 

後鳥羽天皇 ごとばてんのう (1180-1239) 第八十二代

è水無瀬(みなせ)殿(どの)

有職故実から蹴鞠まで、遊芸において実に多才な帝であった。多趣味の中でも蹴鞠には傑出しており、〈蹴鞠の長者〉ともいわれた。院になっても派手な性格は治まらず、造営した御所・離宮は18箇所に達し、なかでも「水無瀬離宮」はことのほか御意に召し、日ごと夜ごとに管弦やら乱痴気騒ぎの嬌声が聞こえたらしい。この辺から〈水無瀬殿〉の異称が定着したようだ。

 

小西行長 こにしゆきなが (?-1600) 安土桃山時代の武士用で、耶蘇教信者

èアグスチノ・ツノカミ(津守)殿

耶蘇教に入信した大名(摂津国主)として知られ、西洋人信者からはクリスチャン名を交えて呼ばれた。

 

小西六右衛門 こにしろくえもん (18471921) 実業家で、小西写真専門学校の創設者

è写真工業の父

今にいう小西六の創業者。日本橋本町の写真材料店から身を起こし、写真機材の開発と石版印刷の普及につとめた。彼の偉いところは単なる商人に終わらず、専門学校を設けて写真技術の学究、それに伴う技術者の養成に力を注いだ点にある。

 

小早川秀秋 こばやかわひであき (15821602) 戦国武将

è寝返り武将

関が原の合戦で西の豊臣軍から東の徳川軍へと直前に寝返り、西側敗退の原因を作ったとされる頭目。この怪我の功名で家康から50万石岡山城主に登用されたが、世間からは日和見の卑怯者とさげすまられ、失意の酒びたりの日々を送り、21歳で若死した。

 

小林旭 こばやしあきら (1937- ) 映画俳優

è無国籍アクションスター

西部劇風アクションあり、渡り鳥のかき鳴らすギターあり、流れ者歌う演歌ありで、あっちへ行ったりこっちへ出たり、風来坊渡世の俳優である。〈無国籍アクションスター〉のまがまがしさがまた若者受けし、小林を時代の寵児に押し上げた。〈マイトガイ〉という宣伝用の二つ名もよく知られている。

 

小林亜星 こばやしあせい (1932- ) 作曲家

è大ピ連会長

丸顔で肥満体を看板にして歩いた。「大ピ連」は大日本肥満者連盟の略。女権団体「中ピ連」にひっかけたもの。

 

小林如泥 こばやしじょでい (17531813) 木工家

è 出雲の甚五郎

江戸品川の高台・御殿山に出雲松江藩の下屋敷があった。藩主は松平(はる)(さと)で致仕後この下屋敷に隠居、お気に入りの指物師が如泥である。如泥は出雲出身の大酒徒、つねに泥酔するまで飲むので主人から如泥の号を授けられた。木彫にかけては名人芸で、〈出雲の甚五郎〉の名を汚すことはなかったという。

 

小林武治 こばやしたけじ (18991988) 官僚・政治家

è屎尿(しによう)大臣

池田内閣で厚生大臣をつとめたとき、屎尿問題に首を突っ込んだことから〈屎尿大臣〉の臭い名が付けられた。

 

小堀遠州 こぼりえんしゅう (15791647) 茶人

è綺麗さび

利休や織部の正統派系統を受け継ぎ大名茶人(将軍家茶湯指南)として名声を博した。王朝文化の美意識に基づいた(みやび)の心を茶の湯に生かし開化させた功労者。これを遠州の〈綺麗さび〉と称し、茶の湯の世界による風流文化を形成した。

 

小松左京 こまつさきょう (19312011) 小説家

è ミスターSF

昭和48(1973)年『日本沈没』は超ロング・ベストセラーとなり、2年間で300万部突破を記録した。小松は下積み時代に辛酸をなめてきただけに、スケールの大きな売れっ子となって、〈ミスターSF〉の面目躍如たるものがあったろう。

 

五味康祐 ごみこうすけ (1921-80) 作家

è①五味一刀斎

一刀流の剣聖を描いた小説『柳生石舟斎』にちなんで。

è②ペン豪 (サンデー毎日、1955.12.25)

著作は売れまくり、波に乗って書きまくった。

 

小村雪岱 こむらせったい (18871940) 日本画家

è昭和の春信

その艶美な画風から、江戸時代の風俗錦絵師鈴木春信の再来といわれた。ほかにも本の装丁や挿絵、舞台の美術装置等を手がけるといった器用な人であった。

 

小森和子 こもりかずこ (19092005) 映画評論家

è小森のオバチャマ

口癖になっている一人称。独特の語り口で映画を語り、〈小森のオバチャマ〉ファンを広めた。

 

小森卓朗 こもりたくろう (17981866) 俳人

è ヨコサンドウ、ブッタクロウ

江戸下町に住む名もないような俳人、住居を「孤山堂」と名付けていた。名だたるケチで、金の蓄えがかなりあるのに知友に酒など振舞うことがなかったため、その通称と庵号から珍妙な拵え渾名で呼ばれるようになった。

 

是川銀蔵 れかわぎんぞう (18971992) 投資家

è最後の相場師

ここで言う「最後の」には不世出の、という意味が含まれている。彼は単なる拝金主義者でなく、昭和54(1979)年、大阪に「是川奨学財団」を設けるなど社会事業にも貢献した。

 

金地院崇伝 こんちいんすうでん (15691633) 徳川家康の相談役の禅僧

è 黒衣の宰相

時代の人たちは彼に〈大慾山気根院僭上寺悪国師〉と生前擬戒名を付けていることから、極め付きのワル坊主だったと知れる。人格者の沢庵和尚ですら彼を名指して〈天魔(てんま)外道(げどう)〉と評し忌み嫌っていた。崇伝は博識と弁舌の巧みさを武器に家康に取り入り、偽装敵であった豊臣側根絶のために、あれこれ悪知恵を授けている。市場名高い慶長19年の方広寺大仏殿「鐘銘事件」もこの坊主の提案によるものだった。

 

近藤荒樹 こんどうあらき (18891986) 金融事業家

 è丸ビル将軍

三菱系の近藤商事のオーナー。旧・新丸ビル運営に君臨し采配を振るったことから〈丸ビル将軍〉と称された。

 

今東光 こんとうこう (189877) 天台宗僧侶・作家・参議院議員

è毒舌和尚

「自衛隊は人殺しをしてもかまわない」などと人騒がせな言動が目立った。毒舌を売り物にする破戒僧でもあり、〈毒舌和尚〉のニックネームはあまねく鳴り響いていた。

 

近藤宗悦 こんどうそうえつ (生没年未詳) 幕末の尺八演奏家

èチャルメラ宗悦

中崎で尺八を流して歩いた芸人。チャルメラ(渡来したポルトガル人が普及させた)をよく吹いて町の名物男になったようである。

 

近藤日出造 こんどうひでぞう (190879) 漫画家

è恐妻クラブ会長

政治漫画の名手として有名。恐妻家としても有名。こんなエピソードがある。ある知人、日出造に恐妻クラブの会長にならないか、ともちかけた。すると彼は「女房の許可がなければ受けられない」と、いったんは断わったという。

 

権兵衛 ごんべえ (?-1655) 町奴副頭領

è(とう)(けん)権兵衛

首領の幡随院長兵衛が旗本奴頭の水野太郎左衛門に殺害されてから水野を追い続け、喧嘩で力のあるところを発揮した。「唐犬」の名のいわれは、旗本奴の大道寺権内が飼っていた獰猛な2頭の唐犬が襲ってきたのを素足で苦もなく踏み殺したから、とされている。

 

 

 

西園寺公経 さいおんじきんつね (11711244) 政治家

è 巴の大将

没落しかけた西園寺家中興の人。紋は車文に巴をもっぱら用いたので〈巴の大将〉と。琵琶の名手でもあった。

 

西園寺公望 さいおんじきんもち (18491940) 政治家

èお寺さん

閑雅の人で遊び好き、花柳の巷へもよく足を運んだ。芸妓らから〈お寺さん〉という陰称で呼ばれていたが、これは西園寺から出たものであろう。

 

西郷隆盛 さいごうたかもり (182777) 幕末・維新期の薩摩藩武士・政治家

è 上野の銅像さん

東京の上野公園入口にこの人の銅像がデンと控えている。渾名はもちろんご後世人が付けたもの。ときに西郷の晩年をたどると、西南の役をはじめ内憂の絶えなかったことがわかる。彼を知る人が〈大いなる闇の人〉と評したのも、むべなるかな。

 

西郷従道 さいごうつぐみち (1843-1902) 政治家で、軍人、侯爵

èアルコール侯

西郷隆盛の実弟。時知らず、所嫌わずの大酒飲みであった。

 

西国兵五郎〔初代〕 さいごくひょうごろう (16561705) 歌舞伎役者

èいの上上

元禄7(1694)年発行の『役者番付』によると、格付けは「いの上上」の最高位にあり、名演は人々の口に上がるほどであった。江戸四座名人の一人にも数えられている。

 

税所敦子 さいしょあつこ(1825-1900) 宮廷女官で、歌人

è明治の紫式部

宮廷警護職の家に生まれ、幼いときから和歌に異才を発揮。宮内省に出仕し、皇后の詠歌お相手をつとめ、太田垣蓮月尼や高畠式部らとも交友が深かった。

 

西城正三 さいじょうしょうぞう (1947- ) プロボクサーで、元世界フェザー級チャンピオン

è シンデレラ・ボーイ

昭和 (1968)9月、米国ロサンゼルスで世界フェザー級チャンピオンだったラウル・ロハスを破って、日本人で初めて海外での世界タイトルを獲得。その勝利は世界に名を売るラッキーチャンスになったと〈シンデレラ・ボーイ〉の異名を冠せられた。

 

斎藤斎藤 さいとうさいとう (生年等未詳) 歌人

èネット歌人

読んだ歌の発表媒体にインターネットを使い注目を浴びている。この氏名は本名とのこと。

 

西東三鬼 さいとうさんき

 (190062) 俳人

è俳句の魔術師

言語遊戯志向のモダン俳句や無季句による新しい表現を試みて、〈俳句の魔術師〉と呼ばれた。著作権者所在不明のためやむなく無断転載させていただくが、その作の1つに

 パラシウト天地ノ機銃フト黙ル   三鬼

 

斉藤昌三 さいとうしょうぞう (18831961) 文筆家・書誌研究家・装丁家

è 書痴狂人

書物ことに装丁に関する好事家。書誌に異常な性癖を示し、語り草も少なくない。たとえば、本ケースの代わりに女体の陰毛を植え付けた白いズロースを本にはかせている。『書痴の散歩』『性的神の三千年』といった著作もある。人をして〈書痴狂人〉あるいは「書痴・酒痴・女痴」といわしめた。

 

斎藤隆夫 さいとうたかお (18701949) 政治家で、国務相

è ネズミの殿様

日本の憲政を死守したわりに知名度の低い政治家。地味な性格で交友も少なく、戸口の政治家を目指したようだ。〈ネズミの殿様〉は相した彼の人となりを映し出した評で、ネコ(権力)に抵抗する謂と見た。

 

斉藤伝鬼坊 さいとうでんきぼう (生没年未詳) 戦国時代の剣術家

è天狗剣士

刀槍の奥義を窮めた人。つねに羽衣をまとい修験者のいでたちで諸国をめぐる。「天流」「天道流」を自称し、道場破りなどで糊口をしのいだ。塚原卜伝の門人真壁氏幹入道と試合して斬り殺し、意趣返しの闇討ちで斃された。

 

斉藤道三 さいとうどうさん (14941556) 戦国武将で、美濃国主

è まむし

法蓮坊という名の坊主から還俗して油売りになった。長井長弘に認められて家臣となり、やがて土岐頼芸に鞍替えする。のち讒言を弄して旧主君の長弘夫妻を殺害させてしまう。

 また道三の子息の義竜との親子争いも悪名をとどろかせたが、息子に首を打たれる結果になる。〈まむし〉とは、相手かまわず鎌首をもたげ襲いかかる悪性をさしている。

 

斎藤博 さいとうひろし (18861939) 外交官

èスモール大使

小柄な人で、駐米大使だった頃に付けられた。人格円満でエスプリを効かせた話術で相手を魅了。米国で客死したが、遺骨は米艦によって丁重に日本に送還されている。

 

サイトウマコト (1952- ) グラフィックデザイナー

èコンクール荒らし

広告デザインの本場ニューヨークADC5度に及ぶ金賞を受賞するなど、国際賞をいくつも獲得。広告に限らず商品デザインなども手がけ、売れっ子である。

 

斉藤実 さいとうまこと (1858-1936) 子爵で、政治家・海軍大将

è午前(ごぜん)(さん)

 昭和戦前期、「挙国一致内閣」の名目を掲げた男。めっぽう酒好きで、深夜から明け方まで長酒するため〈午前三〉。飲み始めると「帰りはいつも午前3時におよぶ」と尾崎行雄も回想している。

 

斉藤了英 さいとうりょうえい (191696) 実業家

è 東海の暴れん坊

静岡県出身で、大昭和製紙のオーナー社長。平成5年、ゴルフ場建設に絡み贈収賄容疑で逮捕された。その経営振りは無謀なほどの横紙破りで、知る人から〈東海の暴れん坊〉と称された。

 

斉藤緑雨 さいとうりょくう (18671904) 作家・評論家

è つむじ曲り緑雨

 僕本月本日を以て目出度死去仕間此段広告仕候也/四月十三日/緑雨斉藤賢

明治37(1904)414日、緑雨は死亡翌日、『(よろず)朝報』紙上にこの自作広告を掲出した。死期の間近いことを悟り、友人の馬場弧蝶らに託した黒枠(死亡)広告である。生前箴言家(アフオリスト)としてつとに知られ、型破りな発想と実行力をもち毒舌を吐き続けた緑雨は、明治文壇で異端視されたちまち〈つむじ曲り緑雨〉の渾名を進呈された。この皮肉屋は茶目気質の中に自分の死まで茶化し込んでしまった。

 

西原清東 さいばらせいとう (18611939) 代言人(弁護士)で、政治家

è ライス・キング

大志の人で、明治35(1902)年それまで築いてきた地位を投げうち渡米、テキサス州に西原農場を開いて米作に着手。日本から農業移民を招き南部一帯に事業を拡大、現地の人たちから〈ライス・キング〉と呼ばれた。

 

斉明天皇 さいめいてんのう (594661) 第三十七代 (女帝で、皇極天皇の重祚)

è 至徳天皇

斉明天皇元(655)年は大旱魃であったため、8月に天皇は南淵河上に行幸、雨乞いの記念を奉った。その後諸穀は良く稔り、百姓らは万歳を唱えて女帝を〈至徳天皇〉と異称したという。

 

佐伯今毛人 さえきのいまえみし (71950) 官人で、東大寺造営の監督

è 東の大居士

聖武天皇は今毛人を事あるごとに〈東の大居士〉と呼んで寵を遇したと。「大居士」は仏教語であり、誠実な人柄と仏教帰依の深さから名付けられたものであろう。大仏造立をはじめ長岡京への遷都にも有能な廷吏として活躍した。

 

坂井三郎 さかいさぶろう (19162000) 海軍軍人で、戦闘機乗り

èゼロ・ファイターの坂井

太平洋戦争ではゼロ戦乗りとして活躍、敵機を64機も撃墜して〈ゼロ・ファイターの坂井〉と米軍将兵から恐れられた。 近時、対戦記『大空のサムライ』などの著作を出していて、〈撃墜王〉と畏敬された。

 

酒井忠清 さかいただきよ (162481) 上野厩橋城主で大老

è下馬将軍

江戸城大手の下馬札前に屋敷を構えていたことから〈下馬将軍〉といわれた。大老であって将軍ではなかったが、38年という長期間にわたり幕府内で威権をふるっていたことによる。老中の阿部忠秋を力ずくで座から追い落とすなど独裁的手段を用いた。

 

堺利彦 さかいとしひこ (18711933) 社会主義者

è堺ボケ彦

社会主義活動家としての堺は切れ味鋭く、〈ボケ彦〉どころでない。この由来ははっきりしない。単なる語呂合わせか。それとも明治43(1910)年の赤旗事件に伴う連座入獄、社会主義運動の凍結時代をじっと耐えたからか。

 

酒井抱一 さかいほういつ (17611828) 画家・俳人

è 大名絵師

播州姫路城主、酒井雅楽頭忠仰の次男。この身分から〈大名絵師〉と呼ばれた。画俳に吉原の廓風情を描くことが多く、とうとう病鴻毛に至って遊女春篠(のちの妙華尼)を侍妾に入れる始末であった。

 

坂井泰子 さかいよしこ (1934- ) 実業家で、アンネの創業者

èアンネの女王

往時の月経帯に代わり画期的な生理用品の発明者。その製品を製造するオーナー経営者として〈アンネの女王〉と呼ばれ久しい。

 

坂口安吾 さかぐちあんご (1906-55) 作家

è戦後無頼派

敗戦後に台頭した異色作家で、すさんだ青年像の照魔鏡といえる評論『堕落論』や、人間洞察に富んだ『白痴』など、衝撃的作品を発表した。

 

坂口謹一郎 さかぐちきんいちろう (18971994) 発酵微生物学者

è酒学博士

日本酒造りにおいて、酒母を得るのに発酵微生物つまり酵母菌の知識は不可欠である。坂口博士はその道の権威で、生き字引である。世にいう「酒学」を用いたのは、この人が嚆矢であろう。

 

坂田栄男 さかたえいお (19202010) 囲碁棋士で、名誉本因坊

è①カミソリ坂田

è②なまくら四つ

変化自在、臨機応変の変化に富んだ棋風で、〈カミソリ坂田〉といわれたかと思うと、次は〈なまくら四つ〉と呼ばれる始末。攻防にせめぎあう局面の多い人であった。

 

坂田鉄安 さかたかねやす (1820-90) 宗教家で、(みそぎ)教の布教者

è(しん)殿(どの)

 禊教教祖の井上鉄正や門人から〈信殿〉と愛称された。熱心な布教態度に皆が全幅の信頼を置いたからだという。

 

阪谷芳郎 さかたによしろう (18631941) 政治家・財政家

è 百会長

幾多の団体・会社に関係し要職肩書を持つことから〈百会長〉と。便利屋に近い特技があったのであろう。

 

坂上田村麻呂 さかのうえのたむらまろ (758811) 武将で、蝦夷征討大将

è 毘沙門の化身

身長58寸の偉丈夫で、黄金色のあごひげをたくわえ、蝦夷での戦いでは縦横無尽の荒武者ぶりを示す。そのため人々から、〈毘沙門の化身〉(毘沙門は北方の守護神)と怖れられた。

 

相模屋政五郎 さがみやまさごろう (生没年未詳) 江戸後期の侠客

è 火消しの(あい)(まさ)

土佐藩お抱えの火消し頭領で、江戸を舞台に豪儀で鳴らした。伝によると口入(奉公人等の斡旋)も稼業にしていたらしい。山内容堂に気に入られ、彼も常々「土州様のためなら命捨てても惜しからず」と口にしていたという。

 

坂本九 さかもときゅう (1941-85) 歌手

è坂本さんちの九ちゃん

「九ちゃん」は通称的な愛称。夫人・柏木由紀子との間にできた娘は「坂本さんちの花子ちゃん」のようにシリーズスタイルで呼ばれ、親しまれていた。

 

坂本慶二郎 さかもとけいじろう (?-1899) 連続強盗殺人犯 

è稲妻強盗

明治31(1898)年から翌年、東京・埼玉・千葉を股にかけ殺人8件、傷害17件、強窃盗136件をはたらいた凶悪犯である。稲妻が光るように刃物を振るい神出鬼没の犯行に、世の人びとは恐怖を込めて〈稲妻強盗〉の異名を冠した。

 

坂本直行 さかもとなおゆき (1906-82) 山岳画家・自然保護活動家

è日高のヌシ

1930年に北海道広尾町に入植、1960年に離農し山岳絵画に没頭。世界各地の山々を描き続けるとともに、東京での個展などを通して自然保護の大切さを訴え続けてきた。

 

坂本長利 さかもとながとし (1929- ) 舞台俳優

è出前芝居の座長

小劇場芝居の先駆者で、1942年に1人芝居『土佐源氏で名を知られ、以来〈出前芝居の座長〉の呼び名で国内外での公演活動をよくしている。

 

坂本竜一 さかもとりゅういち (1952- ) シンガーソングライター・作曲家

è教授

東京藝術大学で作曲を学びその修士課程を修了している理論派で、教授職にはないが〈教授〉と呼ばれている。

 

坂本竜馬 さかもとりょうま (183667) 幕末の土佐藩士

è 融通変化の人

これは陸奥宗光の竜馬評だ。竜馬は薩長連合で立役者ぶりを示しているように、状況に応じ立身を判断し、世の中を泳ぎ渡る要領に長けた人。テレビドラマなどのきれいごとでは描ききれない人物の影の部分である。

 

相良総三 さがらそうぞう (1839-68) 幕末の尊攘派志士

è偽官軍

慶応3(1867)西郷隆盛の命令により浪士を集め、江戸で赤報隊を結成しその隊長になる。東山道を進軍の途中、一行は偽官軍として政府軍に捕縛され、処刑された。事件の顛末は長谷川伸『相良総三と祖の同志』に詳しい。

 

佐川清 さがわきよし (1922-2002) 実業家で、佐川急便創業者

è日本一のタニマチ

宅配事業で得た潤沢な資金を政界はもとより官界・芸能界・スポーツ界などにばらまき、気前のいいところを誇示した。政治スキャンダルにも関わり不祥事露見という失態も演じた。

 

桜井秀勲 さくらいひでのり (1931- ) 文芸評論家・婦人問題評論家

è女性誌作りの名人

光文社で『女性自身』の編集長を経て1970年に祥伝社を創設。『微笑』『新鮮』の販売を手がける。これらの部数を順調に伸ばし、〈女性誌作りの名人〉と評されている。

 

桜木左久男 さくらぎさくお (1913-) 福島県 下郷町町長

è三日町長

昭和59(1984)9月に汚職の容疑で逮捕され、住民からリコール運動が起きた。リコール選挙直前に辞表を提出、出直し選挙戦に出馬して同61年に当選。ところが3日後の12日に任期切れになり、〈三日町長〉に終わった。

 

桜田(津打)治助〔初代〕 さくらだじすけ (17341806) 歌舞伎狂言作者

è① 花の江戸の桜だ

初代の脚本は華やかな演出と科白(せりふ)まわし、洒落た見立で、天明ぶりの思うさまを表現。「御摂(ごひいき)勧進帳(かんじんちよう)」に見受けられる江戸歌舞伎の歯切れよさとあわせ、〈花の江戸の桜だ〉と洒落をいわしめた。

è②柳井隣

晩年、浅草花川戸は「柳の井」の隣接地に住んでいたことから。

 

佐倉常七 さくらつねしち (1835-99) 西陣織工匠

è織界の陰士

京都西陣のふじ屋久兵衛に弟子入りし、西陣織布を学ぶ。明治5(1872)年渡仏、リヨンで研鑽を重ね、製織法を会得した。帰国後は洋式織機を導入して注目を浴びる。関西織物界に陰の影響力を持つことから〈織界の陰士〉とうたわれた。

 

酒匂常明 さこうつねあき (1861-1909) 農政家

è米博士

米作改良につき国家的見地で研究に取り組む。明治24(1891)年、農科大学教授ならびに農商務省技師となり、『米作新論』を著す。ことに北海道など寒冷地での米作りに大きく貢献した。 

 

笹川良一 ささがわりょういち (18991995) 政界フィクサー・競艇運営者

è競艇のドン

昭和26 (1951)年に全国モーターボート競走界連合会会長に就任、巨億の流動資金を牛耳り、別に〈政界のフィクサー〉ともいわれたように、つねに身辺に黒い噂が付きまとっていた。

 

佐々木主浩 ささきかずひろ (1968- ) プロ野球選手

èハマの大魔神

平成期に5回、最優秀救援投手に選ばれ、史上最高年俸5億円を獲得。そのころ付けられた異名である。

 

佐々木千里 ささきせんり (18911961) 興行師で、新宿ムーラン・ルージュを創業

 

è千里のラッパ

 

往時の軍楽隊養成所の名物男で、彼にラッパを吹かせたら千里に響く、と実名にひっかけ異称された。

 

佐々木道誉 ささきどうよ (12961373) 武将

 è婆裟羅(ばさら)大名

「婆裟羅」とは、派手で異形の風体をなし常識破りな言動をもって世間を騒がせる(やから)に対する、時代の言葉である。江戸時代にはカブキ者といわれ、現代なら「フーテン」といったところ。道誉は近江の守護大名であるにもかかわらず婆裟羅に傾倒し、ついに〈婆裟羅大名〉とまで呼ばれている。史書『太平記』につぶさに描写されている。 

 

佐々木文山 ささきぶんざん (16491725) 書家

è此所小便無用佐文山

姓と号をつづめ、ふだんは「佐文山」と呼ばれていた人。向島のさる花街にお大尽の供で遊んだとき、揚屋の亭主から揮毫を乞われた。文山そこで屏風に「此所小便無用」と書く。亭主見て不快を示す。すると連れの一人其角(俳人)が「花の山」と書き足した。此所小便無用花の山…亭主喜んで家宝にしたという。この風流に吾妻雀は〈此所小便無用佐文山〉と、もじって面白がったそうな。

 

佐々木安五郎 ささきやすごろう (18751934) 政治家

è 蒙古王

明治37(1904)年志を抱いて内蒙古を探訪した安五郎は、ある知人から〈蒙古王〉という大層な二つ名を貰う。これは国民党や浪人会など右翼団体で睨みを利かせるのに役立ち、事あるごとに口にして、自称のように用いた。

 

佐々木累 ささきるい (生没年未詳) 江戸初期の女侠客

è男装(おとこなり)の女親分

父は下総古河で剣術指南の道場主、累はその薫陶を受け武術が達者、幼いときから男勝りの女子であった。父の没後、塁は江戸へ出て浅草聖天町に道場を構える。外出時は紋付羽織姿、両刀を差し挟み、肩で風を切りつつ歩いた。この異装を見るにつけ、町の人々は彼女を〈男装の女親分〉とささやきあった。

 

笹沢佐保 ささざわさほ (1930-2002) 作家

è三日月村名誉村長

昭和46(1971)年、ニヒルな無宿渡世人を主人公にした『木枯し紋次郎』シリーズで人気作家に。小説の舞台を上州新田郡三日月村として設定したため、同時代の同村から名誉村長の称を贈られた。

 

佐治敬三 さじけいぞう (1919-99) 実業家で、サントリー社長

è熊襲社長

昭和63(1988)2月、TBSテレビ番組『東京をどうする』に出た佐治は、東北に住む人たちを「熊襲」呼ばわりし社会問題煮まで発展。この大失言で、佐治は物を知らない無教養振りをさらし、なおかつサントリー製品は一時、東北の人たちからボイコットされ市場から姿を消す事態に進展した。

 

佐多稲子 さたいねこ (190498) 作家

è 座敷女中の才媛

若くして母を亡くした佐田は、家が貧しく父の命令で上野池之端の料亭「清凌亭」へ座敷女中に出された。ここで働く彼女の姿は芥川竜之介ら文士の目にとまる。文学について話を交わすうち彼女の才能も認められ、〈座敷女中の才媛〉と評されるようになった。文学少女が開眼する第1ステップであった。

 

佐竹噲々 さたけかいかい (173890) 南画家

è 売酒郎

書画・篆刻をよくした人だが、気ままな風流の酒徒であったため懐ろはいつも乏しかった。京の路上で小酒を売っていたので〈売酒郎〉といわれていた。彼は持っていた書画を売り払い、その代価で唐渡りの高価な酒道具を買い揃える。そして京都白河西街の自家に「酔竹館」の看板を掲げ、露天の売り酒屋を始めた。酒道具に凝り上酒を飲ませるという評判がたち、ほどほどに繁盛した。

 

貞保親王 さだやすしんのう (870-924) 清和天皇の皇子

è管弦長者

音楽の才能に恵まれ、琵琶をはじめ和琴、尺八など諸楽器の名演奏家であったことから〈管弦長者〉と呼ばれた。『南宮横笛譜』『南宮琵琶譜』等の著作があり、美男子で多くの官女に騒がれたとの記録もある。

 

五月みどり さつきみどり (1939- ) タレント・歌手

èかまきり夫人

昭和51(1976)年に映画『かまきり夫人』に主演し、脱ぎっぷりの見事なことでファンに強烈な印象を与え〈かまきり夫人〉が代名詞化した。男性週刊誌でもヌードを披露、助平な雄かまきりらの眼を充血させると評判であった。

 

薩摩浄雲 さつまじょううん (15951672) 浄瑠璃太夫

è 天下一薩摩太夫

寛永から寛文(1624-73)にかけ江戸で息の長い人気を博した古浄瑠璃の太夫。演目『義氏』に見る重厚な硬派の芸風は次第に人気を呼び、江戸節の根源であるとして、「薩摩節」あるいは「浄雲節」ともてはやされた。「天下一」という彼の芸への冠称は大げさではなかったのである。

 

薩摩治郎八 さつまじろはち (190176) エッセイストで、遊蕩の士 

è バロン・サツマ

大正期、パリ社交界で花形に君臨。千代子夫人を純銀製の自動車に乗せ、カンヌの自動車エレガントレースに優勝するなど、やることが派手で日本人離れしていた。薩摩出身の貴族ということで〈バロン・サツマ〉と内外で称されていた。

 

佐藤栄作 さとうえいさく (1901-975) 政治家で、首相

è早耳の栄作

官僚時代から長期政権の確立まで、政治と事業は情報先取り優先との信念を持つ。シンパや側近を通して常にアンテナを張り巡らせ、大きな耳とあいまって〈早耳の栄作〉を自他共に任じていた。

 

佐藤義詮 さとうぎせん (1899-1985) 政治家で、大阪府知事

è万博知事

千里・泉北ニュータウンの建設をはじめ、1970年には「大阪万国博覧会」を誘致した功績を称えられて。ほかに〈坊さん知事〉の異名もあるが、これは僧侶出身から。

 

佐藤垢石 さとうこうせき (18881956) 随筆家・ジャーナリスト

èタヌキ酒仙

文壇有数の愛酒家で知られた。タヌキの毛皮の頭巾に毛皮のチャンチャンコを身にまとい、おまけに尻尾二本の剥製までぶら下げて悠然と闊歩した。風体はどう見てもタヌキのそれ、おまけに『タヌキ汁』という随筆集まで出している。

 

佐藤継信 さとうつぐのぶ (1158-85) 武将で、源義経の臣

 è湯庄治

「庄治」とは中世荘園の管理人を指す。父は奥州信夫庄治で、継信はそれを継いだ。「湯」は湯の里の略。義経四天王の1人で、屋島の戦いでは義経の命を救うため、自ら戦死した。

 

佐藤信淵  さとうしんえん (17691850) 蘭学者・博物学者

è 佐藤の狂漢(ばかおやじ)

 博識だがアクの強い奇人。調子外れな高吟放歌でのし歩き、人を平気でののしり、ホラを吹きまくってはニヤリとし、一人で天下を取ったように振舞った。他人の自説や文章も剽窃する。こんな男だから、〈佐藤の狂漢〉とささやかれても動じなかった。とはいえ、彼の頭の中には百科事典が詰まっていた、とする史家もいる。

 

佐藤美子 さとうよしこ (190382) 声楽家

è はなのお(よし)

ゾソプラノ歌手として「カルメン」など多くのオペラ出演で知られた。「高い鼻」の持ち主で、「花のように」あでやかな姿の双方を音通させ〈はなのお美〉の愛称を貰っている。別に〈カルメンお美〉のニックネームも持つ。

 

佐藤和三郎 さとうわさぶろう (190280) 相場師

èギューちゃん

獅子文六の兜町小説『大番』で、和三郎は主人公〈ギューちゃん〉の愛称をもつ仕手戦のモデルとして登場。小説のネタにされたほどの男、俗物の塊りのような興味津々の生活ぶりであった。

 

里見弴 さとみとん(1888-1983) 作家

èまごころ哲学士

告白自伝小説の名手。仏心帰依に基づくヒューマニズムを掲げた小説『多情仏心』にその姿勢がうかがえる。

 

佐野善左衛門 さのぜんざえもん (175784) 幕臣

è世直し大明神

天明4(1784)324日、江戸城中において新番士佐野善左衛門は老中田沼意知に「覚えがあろう」と叫ぶなり斬りつけた。佐野は意知に猟官運動を働きかけ、多額の贈賄をしたにもかかわらずなしのつぶてで、怨み骨髄に達していたのである。斬られた意知は翌々日に息絶えた。幕府は佐野に対し切腹を申し付けたのである。常々、意知の仕放題ともいえる悪政を快く思わなかった民衆は、この刀傷事件に拍手喝采を送り、田沼ザマアミロを叫んではやし立てた。佐野の方は悪い奴をやっつけた〈世直し大明神〉とあがめられ、この異名を記した幟が市中の至る所に掲げられたという。

 

佐野常民 さのつねたみ (1822-1902) 伯爵で、日本赤十字社初代社長

è赤十字社

佐野は人と会うと必ず日本赤十字社を話題にしたため、「赤十字社がやって来る」などと陰口を言われるようになった。話し相手は赤十字社の話に入らせないよう、他の話題作りに気を回したという。

 

佐野経彦 さのつねひこ (18341906) 神道家

è天津神理誠乃道知部経彦命

経彦は今にいう誇大妄想症で、長ずるに及び医学を通して衆生救済の大役を遂行しうるのは自分しか無いと自覚し、「明星大神」を自称してはばからなかった。これの喧伝にもつとめ、高杉晋作、平野國臣といった幕末の志士・学者らとも親交を結んでいる。明治に入ると惟神の大道を説いて国体を宣揚し、門下生の数を増やしていった。明治27(1894)年「神理教」を立ち上げて教祖に就き、「人類の福祉」を教義に掲げた。その没後、何名かの信徒らは彼に対し掲出のご大層な敬称(正式な読みは不明)を贈ったのである。

 

佐野藤右衛門 さのとうえもん(?-1981) 造園家

èサクラ博士

昭和5(1930)年にサクラの新種を発見して、牧野富太郎博士により「佐野ザクラ」と命名された。公園でのサクラ造成、さ倉の品種保存等にも尽力し〈サクラ博士〉と親しまれた。

 

左門米造 さもんよねぞう (18731944) 歯科医・科学者

è街の発明家

動力消防ポンプの考案改良をはじめ服用飛行機モデルの政策など、当時としては画期的な新技術を披露。地元奈良市では発明家として名が通っていた。

 

佐山聡 さやまさとる (1957- ) プロレスラー

è謎の虎戦士・タイガーマスク

プロレス界の大御所アントニオ猪木の付人としてプロレス修行。氏ス序は明かさずに、このリングネームまがいの呼称で新日本プロレスのマットに登場した。

 

狙引甚兵衛 さるひきじんべえ (生没年未詳) 猿廻し芸の頭領

è 貴志の甚兵衛猿

『賎者考』という遊芸人等の列伝を記した古典に、次の一節が見える。「狙公(さるまはし)も諸国にあり。本国には(紀州の)那須郡喜志社より出て、府下に来たり、正月には藩中などを経歴す。其はじめ甚兵衛といふもの名高くて、その住所の辺を猿垣内といふ」この一団は古代のくぐつの系統を引くもので、紀伊での神事のさい顔を出し芸を披露してきた。

 

沢木興道 さわきこうどう  (1880-1965) 曹洞宗の僧

è宿無し興道

生涯住職に就くことなく、各地で一匹狼の参禅布教を通した。いわば宿無し遊行の禅僧である。

 

沢田研二 さわだけんじ (1948- ) 歌手

èジュリー

昭和41(1966)年、グループサウンズ「ザ・タイガース」でのリードボーカリストとしてつけられたニックネーム。

 

沢たまき さわたまき (19372003) 歌手・参議院議員

è姐御

ジャズ歌手から芸能界入りし、昭和44(1969)年テレビドラマ『プレイガール』で大胆な〈姐御〉振りを発揮した。

 

沢田美喜 さわだみき (19011980) 社会事業家

è混血児の聖母

神奈川県大磯に混血児の家、エリザベス・サンダース・ホームを創設。ここで2000人を超える混血孤児を育て、社会へ送り出した。

 

沢地久枝 さわちひさえ (1930- ) 作家

è昭和の語り部

昭和47(1972)年『妻たちの二・二六事件』を発表。昭和史のダークスポットに焦点を当てた丹念な取材により、ルポルタージュ作家にとって名誉な〈昭和の語り部〉という呼称を得ている。

 

沢野忠庵 さわのちゅうあん (?-1650) 転び伴天連

è 目明し忠庵

本名をクリストヴァオ・フェレイラというポルトガルのイエズス会士。慶長14(1609)年長崎に渡来、有馬セミナリョで日本語を習得した。時の耶蘇教迫害のもと各地を転々とし、寛永9(1632)年大坂で日本司教代行兼イエズス会区長に就く。ここで幕府捕吏に要注意人物として捕らえられ、孔つるしの拷問にかけられた。ついに堪えきれず耶蘇を棄教、名も沢野忠庵とし、宗門明かしの手先になった。こうして、かつての仲間を裏切る〈目明し忠庵〉〈転び伴天連忠庵〉が誕生したのである。

 

沢村貞子 さわむらさだこ (190896) 女優

èおていちゃん

由来はの字の音読み愛称。昭和53(1978)年に彼女の半世記がテレビドラマ化されたが、そのタイトルが『おていちゃん』であった。いうまでもなく彼女の音読みニックネームである。  

 

沢村忠 さわむらただし (1943- ) キックボクサー

è キックの鬼

日大芸術学部で空手同好会に入り、全日本大会でも連勝の逸材。やがてキックボクシング界に入り、連敗を味わってから奮起、猛トレを開始した。

本場タイの一流選手を相手に天下に名だたる「真空飛び回し蹴り」を編み出し、ついに念願の東洋ミドル級チャンピオンの座を獲得した。

 

沢村訥子〔七代・宗十郎〕さわむらとつし (18751949) 歌舞伎役者

è猛優

和事が得意で、小山や舞踏剣をよくした。動きの大きな立ち回りを見せ場とし、その派手な動作に〈猛優〉の渾名が付いた。

 

三笑亭可楽〔四代〕 さんしょうていからく (?-1869) 落語家

è爆弾可楽

落語家ながら幕臣の子である。戊辰戦争で薩長軍が東京入りするのを阻止しようと、彼は市中に爆弾を仕掛けたが事前に発覚、追われる身となる。弟子の立川金馬宅に立ち寄ったとき逮捕され、佃島の獄舎で死亡した。

 

三光坊 さんこうぼう (生没年未詳) 室町時代の能面作者

è 片仮名イセキ

卓越した能面打ちの匠で、ことに強面(こわおもて)を得意としていた。三光坊と続く門下三代(備中掾)までは比叡山に住んでいたので、地名を取り「近江井関」と呼ばれた。いずれも製作した面裏に「イセキ」と仮名書きしたので〈片仮名イセキ〉と総称されている。

 

三条西実隆 さんじょうにしさねたか (14551537) 室町後期の公家・学者

è御所伝授の祖

学識とみに高く、有職故実に精通しているため〈御所伝授の祖〉と敬われた。若や連歌の造詣も深く、公家仲間はじめ庶民に至るまで師と仰ぐ者が絶えなかった。

 

山東京伝 さんとうきょうでん (17611816) 江戸後期の戯作者・浮世絵師

 京伝流

江戸で名だたる流行作家だが、江戸っ子らしからぬしみったれであった。吉原へ悪友と連れ立って出かけても費用はすべて割り勘で、他人におごるということをしない人だった。仲間内では〈京伝流〉をケチの代名詞に使っていた。

 

三宝院賢俊 さんぽういんけんしゅん (12991357)鎌倉時代の政僧

è将軍門跡

将軍足利尊氏の下で黒子の宰相役をつとめた僧。古来、僧侶が政治に参画したり口出ししたりの例は枚挙にいとまないが、賢俊また醍醐寺や根来寺の座主の座にありながら尊氏を助け信任が厚かった。相した彼を人々は〈将軍門跡〉つまり将軍の贔屓筋であると称した。

 

三遊亭円歌〔二代〕 さんゆうていえんか (18911964) 落語家

è電話の円歌

新作落語シリーズ『取次ぎ電話』『空き巣の電話』『社長の電話』などで、当時珍しかった電話を通し、時局噺をヒットさせた。

 

三遊亭円橘〔三代〕 さんゆうていえんきつ (18671916) 落語家

è枕草紙の殿様

父は紀州藩の武士の出自。その影響であろう、おっとりとした性格、加えて色白の好男子だったから、こんなとんでもない渾名を付けられてしまった。

 

三遊亭円左〔二代〕 さんゆうていえんさ(18811928) 落語家

è とばしや

たびかさねて大言壮語し、相手や客席をケムに巻いたことから。また寄席の座持ちになったり、料理屋を開いてみたりと、かなり移り気でもあった。

 

三遊亭円生〔初代〕 さんゆうていえんしょう (17681838) 落語家

è堂前の師匠

江戸は神田生まれ生粋の江戸っ子で、浅く作動前に住んでいたことから〈堂前の師匠〉で通った。座芸が巧みで、時の役者の身振りを鳴り物入りで真似しながら噺を進めた。また、顧客への正月ご祝儀に『東都噺者師弟系図』という参考刷物まで配っている。

 

三遊亭円生〔二代〕 さんゆうていえんしょう (180662) 落語家

è よつもく

一時江戸の四谷に住み、頭の形が木魚に似ていたため、「四谷の木魚」をつづめての渾名に。武張り噺は苦手、もっぱら軟派をいった。

 

三遊亭円生〔三代〕 さんゆうていえんしょう (183981) 落語家

èのしん

通称を野本新兵衛といったことから、つづめて〈のしん〉が渾名になった。初代に目をかけられ、芝居噺道具をそっくり譲ってもらった。

 

三遊亭円朝 さんゆうていえんちょう (18381900) 落語家

è無舌居士

人情話と怪談の名人。落語家というと珍奇ブリッコが多いが、円朝は穏やかで律儀な人であった。弟子を叱るにしても、けっして声を荒げず、じっくり諭したという。だから弟子たちにも尊敬され慕われた。こうした人となりは畏怖を込めて〈無舌居士〉、しんみりとした渾名に化けた。

 

三遊亭円遊 さんゆうていえんゆう (18491907) 落語家

èステテコの円遊

高座で話のあとの余興に、独自に創案した「ステテコ踊り」を披露したことから寄席で評判になり、続いて全国的に有名になった。そのさい、雄大な鼻を指でつまんで捨てる滑稽な仕草を二番の看板芸とし、高座を沸かせた。

 

三遊亭円楽〔五代〕 さんゆうていえんらく (19332009) 落語家

è落語界の貴公子

言動はいささかキザだが、風貌に崩れがなく品があり、しっかりシットリの語り口が大うけ。マスコミの寵児となり、〈落語界の貴公子〉はこの人の表看板として通用した。

 

三遊亭金馬〔二代〕 さんゆうていきんば (17681838) 落語家

èお盆屋

少年時代、本所亀沢町一丁目の「戸川」というお盆屋に丁稚奉公していた。後年これをネタに織り交ぜて披露したらしく、面白がられて広まった。

 

三遊亭小円遊〔四代〕 さんゆうていこえんゆう (193780) 落語家

èキザな小円遊

高座ではことあるごとにキザを売り物にしていたが、堂に入った演技であった。ロングラン日本テレビ系『笑点』大喜利のレギュラーで桂歌丸とは作りライバルの間柄、共に客席を湧かす名人であつた。

 

三遊亭志ん蔵〔初代〕 さんゆうていしんぞう (18871964) 落語家

è冷やし飴

怪談話を看板にしていた、つまり夏だけ売れる冷やし飴のようだ、との洒落。別に〈幽霊志ん蔵〉とも称された。

 

三遊亭万橘 さんゆうていまんきつ (生没年未詳) 落語家

è ヘラヘラ坊万橘

今でいうなら能天気な寄席芸人で、本名を岸田長右衛門といった。席では噺よりも異様な格好と身振りで客を笑わせた。ふだんは赤羽織で赤い手拭い鉢巻をし、赤の軍扇で羽目板を叩きながら、太鼓拍子に合わせて、「太鼓が鳴ったら賑やかだ、大根(だいこ)が煮えたら柔らかだ、ヘラヘッタラヘラヘラヘ、ハラハッタラハラハラハ…」などと歌い踊る。〈ヘラヘラの万橘〉の名はいやがうえにも広まった。

 

三遊亭遊輔〔初代〕 さんゆうていゆうすけ (生没年未詳) 近代の落語家

è泥棒遊輔

「泥棒」の冠称は穏やかでないが、高座で泥棒噺をたくさん手がけただけのことである。

 

 

 

塩月桃甫 しおつきとうほ (1886-1954) 画家

èフォービズムの異才

大胆な色彩と筆捌きで前衛的な洋画作品を描き残した。「木兆」の号で水墨画も描くといった、器用なところもあった。

 

汐ノ海運右衛門 しおのうみうんえもん (1918-83) 力士で、大関

è出羽海部屋の赤鬼

怪力で強引な取り口、全身が播磨灘の潮風で鍛えられ赤銅色を呈していたため、対戦者を威圧したという。

 

志賀重昂 しがしげたか (1863-1927) 思想家・地理学者

è国粋の親玉

滋賀は慈悲で海軍の軍艦に乗り込み南洋諸島を歴訪。列強諸国による日本の植民地化の恐れが大きいとして、軍備増強と立国化の必要性を説いて回る。明治21(1881)年には「国粋保存主義」を唱え、周囲から〈国粋の親玉〉といわれた。

 

志貴親王 しきしんのう (?-716) 天智天皇の第七皇子

è田原天皇

子息の白壁(しらかべの)皇子が光仁天皇に即位したさい〈田原天皇〉と追尊され、通称のように用いられた。かの弓削道鏡の父であるとの俗説もある。

 

式守伊之助〔十九代〕 しきもりいのすけ (1886-1966) 行司

è①カナリヤ行司

呼び出しで小柄な体躯をふり絞るかのような甲高い声をあげた。

è②ヒゲの伊之助

年とともに見事なあごひげを生やし、土俵上での人気になった。

 

重野安繹 しげのやすつぐ (1827-1910) 歴史学者・漢学者

è抹殺博士

明治4(1871)年頃文部省に出仕、『大日本編年史』の編纂を主宰した。この中で、楠正成など史実に疑問のある史話は記録にとどめるに及ばず、と論証。この甲生にして厳格な実証主義者は周囲で煙たがれ、〈抹殺博士〉と陰口を叩かれた。

 

重光葵 しげみつまもる (1887-1957) 政治家で、外交官

è改憲の親玉

昭和20(1945)9月二日、米戦艦ミズーリ号上でポツダム宣言降伏文書に調印した外交官である。重光は新しく制定された日本国憲法について、「連合国から与えられた憲法である」とし、改憲の必要を訴え続けてきた。その気骨ある態度で〈改憲の親玉〉と称された。

 

宍戸錠 ししどじょう (1933- ) 映画俳優

èエースのジョー

日活アクション映画に出演時代に付けられたとぼけたところのある二つ名。「ろくでなし稼業」などで憎めないろくでなし役をやらせたら天下一品であった。

 

獅子飛岸右衛門 ししとびきしえもん (生没年未詳) 力士で勧進元、番付未詳

è岸右衛門が踏ん張り

江戸中期の力士で、粘り越しの踏ん張りは「大木のよう」と絶賛された。宝暦8(1758)年に大坂で勧進元をつとめたのを機に、それまでの8日間を10日間に改めた。

 

自然軒鈍全 しぜんけんどんぜん (生没年未詳) 江戸中期の上方狂歌師

è市井狂歌師の始祖

京都甘露寺家の諸太夫で、寺田宮内と通称された。それまで狂歌が武家や僧侶の諷詠対象だったのを庶民か詠み始めたという特異性が注目され、のちに〈市井狂歌師の始祖〉といわれた。彼の作品を一首、

    としのくれに

 目に見えて鬼神ならぬ掛乞(借金取り)のなどやはらがぬ敷島の道

 

設楽清嗣 したらきよつぐ (1941- ) 労働運動家

èしたら教祖

肩書きは東京管理職ユニオン書記長、つまり中間管理職のためのフリー加入制度の労働組合をまとめている。当然ながら財界人からは毛嫌いされ、また、ブルーカラーの労働者からは〈したら教祖〉と一歩冷めた目で見られている。

 

紫檀楼古喜 したんろうふるき (17671832) 狂歌師

è乞食狂歌師

内神田で大工だったが世渡りが下手で生計が立たず、煙管の羅宇すげ替えで飢えをしのいでいた。赤貧洗うが如く、着の身着のまま、人から〈乞食狂歌師〉と呼ばれようが一行に気にせず、強化詠みに身を挺していた。その作品の一首、

 (いか)のぼり長き糸巻きさるきらばさぞや子共のなきやあかさん

 

七里恒順 しちりこうじゅん (18351900) 真宗本願寺派の僧で、博多の住職

è寝ても覚めても

この和尚は真宗の和賛である「弥陀大慈悲の誓願を、深く信ぜん人はみな、寝ても覚めても隔てなく、南無阿弥陀仏を唱うべし」をつねに口にし、実践した。会う人ごとに垂訓して歩いたため、〈寝ても覚めても〉の異称が付けられた。

 

品川弥次郎 しながわやじろう (18431900) 政治家

èトンヤレ弥次郎

大政奉還時に官軍が隊列を組んで歌い士気を鼓舞した「トコトンヤレ節」を作詞した(「有栖川宮熾仁」の条参照)。萩藩出身で吉田松陰の松下村塾に学んだほどで、漢詩に長ずるなど文才があった。のちに与太新聞で知られる『団団(まるまる)珍聞(ちんぶん)』は、明治政府で損な役回りを引き受ける品川のことを〈やじろべえ〉と称してからかっている。

 

信濃前司行長 しなののぜんじゆきなが (生没年未詳) 平安末期の漢学者

è五徳の冠者

朝廷に召され得意の舞を披露に及んだとき、本来の「七徳の舞」のうち2曲を失念してしまった。廷臣らは以来行長を〈五徳の冠者〉と異名した。行長自身はこの屈辱にいたたまれず出家。そのおり慈円上人が哀れんで扶持の手を差し伸べたと伝えられている。

 

篠原勝之 しのはらかつゆき (1942- ) 造形芸術家

è鉄のゲージュツ家

職業遍歴の後、「銭湯的浴場画家」という触れ込みで湯屋の壁画を描く。昭和61(1986)年、自家工房において鉄を素材にしたオブジェの制作に取り組み、一風変った芸術家として名をはせた。

 

信夫恕軒 しのぶじょけん (1835-1910) 旧鳥取藩士で、漢学者

è()(けん) 

 狷介な性格の人で、論争相手を軽がるしく許さず激怒することがたびたびあったため、恕軒でなく〈怒軒〉だと陰口された。しかし帝大などでの「文章規範」の講義は堂に入ったもので、語義究明のときなど古文書から丁寧に引用して説いたという。

 

信夫山治貞 しのぶやまはるさだ (192577) 力士で、関脇

è双差(リヤンコ)の信夫

双差(もろざし)を取ると抜群の強さを発揮したため、この名が付けられた。

 

篠山紀信 しのやまきしん (1940- ) 写真家

è脱がせ屋

「ご婦人ヌード専科」で知られるカメラマン。彼のファインダーの前でヌードを撮ってもらいたいという有名無名の女優がひきも切らないという。映像を美意識に訴える技能が図抜けて高い。

 

柴田勝家 しばたかついえ (?-1583) 戦国武将

è(かめ)割り柴田

元亀元(1570)年、勝家軍は六角軍の猛攻に遭い近江長江寺城に立て籠る。その不利な状況下、勝家は飲料水の入った瓶を惜しげもなく割って見せ、根城に戻らぬ決意を示した。一軍忍耐をもって結果的に敵を打ち破っており、敵味方ともども、この猛将を敬意を持って〈瓶割り柴田〉〈鬼柴田〉と呼んだ。

 

柴田忠次郎 しばたちゅうじろう (?-1909) 横浜の貿易商

è活動写真屋

明治29(1896)年アメリカで開発されたばかりのキネマスコープ(シネマトグラフ)を初めて日本に輸入した。これの上映にあたり、泳者技師のシックを連れて帰朝した。柴田は東京歌舞伎座で杮落としの映写を行ったところ、高名な歌舞伎役者らから猛烈な反対にあい、神田錦輝館に移して興業した。この人、後年はアメリカに再び渡り帰化している。

 

柴田錬三郎 しばたれんざぶろう (1917-78) 作家

è東洋のデュマ(週刊文春、1971.9.20)

「デュマ」は『岩窟王』の小説で知られたアレクサンドラ・デュマをさす。この大衆人気作家には、ほかに「柴錬」「錬さん」といった愛称が付けられている。

 

渋江抽斎 しぶえちゅうさい (180558) 医師・ 儒者・書誌学者

è古書先生

桁外れな愛書家にして蔵書家で、最高35000部を所有していたと。「攷古博渉(こうこはくしよう)」の自訓を掲げ、善き本を求め自己を聖人の道に近づけようとした人物であった。

 

ジプシー・ローズ(193467) ストリッパー

èストリップの女王

戦後に活躍した名ストリッパーで、本名を志水敏子という。日本人離れした彫りの深い美貌で、豊満な肉体美を惜しげもなくさらし、いわゆるグラインドという官能踊りを披露して多くの男性ファンを悩殺した。残念なことに、アルコール中毒が昂じ夭折している。

 

島崎藤村 しまざきとうそん (18721943) 小説家・詩人

è石炭ガラ

一時在籍したことのある明治女学院での教師時代、女性徒から〈石炭ガラ〉と渾名された。授業はどこか投げやりで、熱を入れなかったからだといわれている。

 

島田左内 しまださない (172584) 狂歌師

è酒上(さかのうえの)(じゆく)()è(ひさごの)(から)(ざけ)(ともに狂号)

江戸四谷市谷左内坂に屋敷を構える代々名主の家柄。こよなく酒を好み、狂歌師の仲間入りをし酒上熟寝という狂号で活躍した。飲むとすぐ横になり、鼾をかく自身をおどけて付けたもの。安永2(1773)年、風流催事の寄合「宝合(たからあわせ)」を主催したことでよく知られている。しかし晩年、禁酒して狂号を「瓢空酒」と改めてしまった。渾名ではないが、呼称の極端な移行が注目されるところである。

 

島田三郎 しまださぶろう (18521923) ジャーナリスト・政治家

è島田しゃべろう

東京横浜毎日新聞社などを舞台に記者として活躍し、やがて社長になった人。弁舌巧みで演説に秀で、加えてジャーナリストとしての批判精神が加わり〈島田しゃべろう〉と気者になった。明治33(1900)年に東京市会で汚職事件が明るみに出るや、首謀の時の逓信大臣(ほし)(とおる)を「公盗の巨魁」と決め付けて糾弾、公職から引きずり下ろしている。

 

島田紳助 しまだしんすけ (1956- ) タレント

èバラエティの帝王

チンピラ上がりの芸人から、テレビのバラエティ番組を8本も取り仕切る司会者に出世。物怖じしない出演者捌きで押しも押されぬ〈バラエティの帝王〉になった。……まではよかったが、平成238月、過去にヤクザとのつながりがあったことが発覚し、自主的にすべての番組を降板することになった。しかし責任を取った引け際は見事で、時の総理の椅子にしがみつく菅さんに紳助の爪の垢でも煎じて飲ませたい、との声も上がった。

 

島田陽子 しまだようこ (1953- ) 女優èMARIKO

昭和55(1980)年、島田は米国映画『SHOGUN』でマリコ役に扮し、国際スターの仲間入りをした。

 

島津玄仲 しまづげんちゅう (生没年未詳) 江戸中期、駿府の医師・儒者

è轆轤(ろくろ)

読書バカが昂じて洗うが如き赤貧をかこち、身に着ける衣類とて乏しかった時期のこと、客が尋ね来ると低い屏風を置き、その上から顔だけ出して応対した。人はいやでも首から上だけ目に付くので、〈轆轤首〉とあざ笑った。

 

島津貴子 しまづたかこ (1939- ) 今上の妹御で、清宮(すがのみや)

èおスタちゃん

いわれははっきりしないが、清宮貴子の約めだろうか。とにかく国民に根を張った親称。鷹司家に嫁入りしたときはマスコミに追っかけで騒がれた。

 

島津久光 しまづひさみつ (181787) 薩摩藩主の父で、後見役

è薩摩幕府将軍

兄の(なり)(あきら)が没すると、久光はただちに実子の忠義を藩主の座に据えて藩政の実権を握った。次いで京都「寺田屋事件」に見るように、藩内の尊攘派志士を弾圧。公武合体運動を推し進めるべく江戸入りし、勅使として幕政改革案を幕府に認めさせた。この影には、徳川幕府が崩壊するのを見越した久光が、新たに薩摩幕府を樹立し、自身がその将軍になる目論見があった。しかし王政復古後に、その目論見が久光の一人相撲だったと知った庶民は、〈薩摩幕府将軍〉とからかったのである。

 

島津義弘 しまづよしひろ (15351619) 戦国武将

è追腹(おいばら)殿様

幕令・藩令などで殉死が禁じられる以前、島津家は代々殉死者を出すことで知られていた。なかでも義弘の場合、85歳で天寿を全うしたのに家臣13名が追腹を切っている。この不名誉な名誉をもって義弘は後世、悪弊の最たるものとして〈追腹殿様〉と評されている。

 

島村みつ しまむらみつ (18311904) 連門教教祖

è淫祠連門教の教祖

明治時代に信徒数十万を擁した新興宗教の女教祖である。法華神道系の教義を導入し、「()の妙法」を崇拝することで「神水」をもって諸病たちどころに治癒する、と布教した。明治27(1894)年、『万朝報』が連門教に「淫祠」という冠名をつけて攻撃したことで連門教の評判はがた落ちになり、やがて姿を消した。

 

清水市代 しみずいちよ (1969- ) 女流棋士

èクイーン四冠王

平成12年、彼女は女流王将位を獲得。すでに持っている女流名人、女流王位、倉敷藤花と合わせて史上初の〈クイーン四冠王〉を達成した。

 

志水燕十 しみずえんじゅう (17471810) 幕臣で、戯作者

è馬乎人(ばかんど)

三道楽に身を持ち崩したあげく武士を捨て町人になった人物。往時、根岸権現近くの長屋住いに甘んじ、さして評判にもならない洒落本を書き細々と暮らしていた。そんな己に自嘲を込め自ら「奈蒔野(なまけの)馬乎人(ばかんど)」と戯号していた。やがて〈馬乎人〉は知人らから通称のように用いられたという。

 

清水脩 しみずおさむ (191186) 作曲家

è合唱の父

作曲活動以外にもアマチュア合唱運動の輪を広げるのに貢献した。清水は生涯に『月光とピエロ』はじめ400曲近くも合唱曲を発表しており、文字通りその道の第一人者であった。

 

清水金一 しみずきんいち (191266) 喜劇俳優

èシミキン

浅草を拠点に活躍した芸人。昭和17(1942)年に「真性喜劇座」を旗揚げ。生涯を通じ〈シミキン〉の愛称で親しまれた。

 

淳仁天皇 じゅんにんてんのう (73365) 天武天皇の孫帝

è淡路廃帝

 天平宝字4(760)年、光明皇太后が亡くなり、弓削道鏡の処遇をめぐって帝と孝謙天皇は不仲になる。同8年女帝の命によりに淡路へと流されそこで客死した。このいきさつから〈淡路廃帝〉とか〈淡路公〉と称されている。

 

春風亭小朝 しゅんぷうていこあさ (1955- ) 落語家

è①横丁の若様(アサヒ芸能、1980.3.13)

è②落語界のプリンス(主婦の友、1980.9)

銀座でジャズマンとのジョイントコンサートを旗揚げしたり、ロック三味線の家元になったり、話題づくりが巧みな芸人である。

 

春風亭年枝 しゅんぷうていねんし (18431901) 落語家

èクシャクシャ年枝

話の余興に「独俄(ひとりにわか)阿呆陀羅経」を創作し、クシャクシャッとした滑稽な身振りを演じ評判になった。

 

春風亭柳枝〔四代〕 しゅんぷうていりゅうし (18681927) 落語家

èネズミの殿様

小柄で小作りな顔立ち、ややおちょぼ口、どこと鳴くネズミを思わせる、という印象から付けられた。

 

春風亭柳枝〔六代〕 しゅんぷうていりゅうし (18811932) 落語家

èゴミ六の柳枝

「ゴミ六」とは父親に付けられた渾名で、横浜で居留地のゴミ清掃事業を引き受けていた由来による。その忰の六代目は、じつは商館勤めから落語界入りしたインテリであった。

 

春風亭柳枝〔七代〕しゅんぷうていりゅうし (18931941) 落語家

èエヘヘの柳枝

噺の間を取るのに「エッヘ」「エヘヘ」を連発した。小柄で出っ歯であったことから、「エヘヘ」はそのトレードマークを逆手にとって見せびらかすための演出であった。

 

春風亭柳枝〔八代〕しゅんぷうていりゅうし (18811932) 落語家

èお結構の勝ちゃん

本名を島田勝己といい、人当たりのよい物腰で温厚な人物。人をそらさない態度は彼を知る人に「噺家においておくのはもったいない」とまで言わしめた。

 

松旭斎天一 しょうきょくさいてんいち (18531912) 奇術師

è幻技つかい

若くして仏門に入り阿波安楽寺の徒弟に。同寺で真言密教の秘法剣渡り、火渡りの術を修めた。さらに腕を磨くこと長きにわたり、長崎へ出て奇術師となる。おりしも来日中の米人某に誘われ、アメリカへ渡航し彼の地での公演で好評を得た。帰国後の明治21(1888)年東京浅草の文楽座において興業、名声の高まり留まるところを知らず、見物者は彼をして〈幻技つかい〉と称してはばからなかった。

 

松旭斎天勝 しょうきょくさいてんかつ (18841944) 女奇術師

è①泣かずの勝

東京神田の質店の娘で、名前はかつ。12歳で弟子入りした奇術修業で師の天一から厳しくしごかれても、けっして泣きを入れなかった。

è②奇術の女王

この人は一倍の負けん気で修業を重ねたすえ、明治45(1912)年に松旭斎天勝一座を結成、大胆なマジックショーを演出するなど女奇術団の第一人者になった。

 

性空 しょうくう (9101007) 天台僧 

è 書写上人

若い頃に師の慈恵僧正に従って受戒。日向国に出向き諸山巡歴生活を送ったのち、播磨国書写山において円教寺を開く。このとき誰いうとなく〈書写上人〉との別称が付けられた。円融天皇の招請を無視した話はよく知られている。晩年は通宝山弥勒寺を建て98歳の長寿を全う。「法華経読経の聖人」ともいわれた。

 

正田篠枝 しょうだしのえ (191065) 歌人

è原爆歌人

広島での被爆者。被爆体験を通して悲惨な三十一文字で歌い上げた家集『が話題になった。

 

城達也 じょうたつや (193195) 声優

è午前零時の男

FM東京の深夜番組『ジェット・ストリーム』において、深みのあるナレーションを放ち〈午前零時の男〉との異名を貰う。洋画では米俳優グレゴリーペッ句の吹き替えで知られた。

 

聖徳太子 しょうとくたいし (574622) 飛鳥時代の皇族

è①法大王

è②聖徳王

è上宮聖王(うえのみやのひじりおう)

 ここでは割愛するが、いずれも存命時の高徳をたたえての敬称である。贈り名なのか敬称か不明なものもある。

 

笑福亭円笑〔三代〕 しょうふくていえんしょう(18681927) 上方の落語家

èがまん亀

本名は河合亀太郎、前座時代は「盆亀」の芸名を持つ盆回し曲芸師であった。全身に見事な刺青を彫ってあったのでこの名が付いた。

 

笑福亭松鶴〔初代〕 しょうふくていしょかく (?-1864) 上方の落語家

è火消壺

難波は新町の楊弓屋の主人を兼ね、頭の形が火消壺を思わせることから。

 

笑福亭鶴光 しょうふくていつるこう (1948- ) 落語家・タレント

èナンチャッテおじさん(女性セブン、1978.3.16)

昭和49(1974)年、ニッポン放送深夜番組『オールナイトニッポン』でパーソナリティをつとめた。そのときの口癖ギャグから付けられた。

 

正力松太郎 しょうりきまつたろう (18851969) 読売新聞社社長

è読売のワンマン

警視庁出身の正力は傲岸な男で、社長に就任するや販売網拡張へ豪腕を振るった。正力のワンマンぶりは伝説的で、拡張員にヤクザまがいの若いのを雇ったり、気に入らない社員や記者の首を平然と切ったりした。〈読売の帝王〉ともいわれ、その存在が煙たがられた。 

 

松林伯円〔二代〕しょうりんはくえん (18321905) 講談師

 è泥棒伯円

この渾名、じつは『鼠小僧』『小猿七之助』など義賊物、白浪物の口演に由来。住んでいた下谷練塀町の家が河内山宗俊の住居跡と聞いて、大作『天保六花撰』を脚本化したという逸話も残っている。講談界の銃鎮である本人は汚名ともいえるこの呼称をたいへん気にしていて、風評被害の打ち消しにやっきだったという

 

白石和子 しらいしかずこ (1931- ) 詩人

è男根詩人

(セックス)と聖(セイント)をごちゃ混ぜにしたような個性的な現代詩を書く。作品中のかなりのものが男根への思い入れを象徴し〈男根詩人〉の異名を付けられた時代もあった。

 

白石ハル しらいしはる (18991981) 社会事業家

è死刑囚の母

霜と福岡市の刑務所や厚生施設を歴訪し、死刑確定囚らに温情ある支援をつづけた。犯罪者や死刑囚と交わした「心の便り」は2500通に達するという。

 

白井鉄造 しらいてつぞう (1900-83) 実業家で、興行主

èレビューの王様

昭和27(1952)年、宝塚歌劇団の専務理事に就任。翌28年、東京楽天地監査役に。昭和初期すでに宝塚のダンサーとして活躍し、本格的なショー・レビューへの脱皮を図る。戦後は運営面で手腕を発揮し、文字通り宝塚育ての親となった。他界する花道を飾ることになったミュージカル「シェルブールの雨傘」(東京博品館劇場で公演)のヒットは、まだ記憶に新しい。

 

白河院女御 しらかわいんのにょうご (生没年未詳) 白河院の寵妾

è祇園女御

本名・出自・生没年など未詳。祇園社脇の水汲み女であったといわれる。初めは下級官女だったが、美貌が院の目に付き寵愛を受けた。〈(ひがしの)御方(おんかた)〉ともいわれ、本名そっちのけで通称が定着してしまった典型的な例である。

 

白川和子 しらかわかずこ (1947- ) ポルノ女優

èポルノの女王

日活ロマンポルノで200本以上の映画に出演している。

 

白河天皇 しらかわてんのう (10531129) 第七十二代

è ①六条帝

院に退いたのち一時住んだ六条宮から〈六条帝〉と。

è②治天の君

57年間の治世で国を治め、天子として存分に権力を振るえたため〈治天の君〉と。在位中「鴨水と双六の賽と山法師はままにならない」との「天下三不如意」を表明したことでもしられている。 

 

白洲次郎 しらすじろう (190285) 政治家・実業家

èシラスプーチン

首相時代の吉田茂を陰で糸引き操った人物。ロンドンでの商社員時代、全権大使で赴任してきた吉田と親しくなる。〈シラスプーチン〉は姓を帝政ロシアの怪僧ラスプーチンにひっかけた合成もじりで、白洲の策略家としての手腕を言い得ている。

 

神彰 じんあきら (1922-98) 芸能プロモーター

è呼び屋

神は戦後日本が高度成長期にさしかかった頃から、海外の芸術家招聘をプロモートした。なかでも圧巻なのは当時至難とされたレニーングラード交響楽団招聘の実現であった。鉄のカーテンの向こう側との交渉を重ね、ソ連文化省を動かしたのである。その実績はボリシヨイ・バレエ、ボリショイ・サーカスと続く。ところが実現したのは対ソ連だけで、西欧諸国での誘致はことごとく失敗。そんないきさつからマスコミは彼を〈赤い呼び屋〉とからかった。

 

陣内孝雄 しんないたかお (1933- ) 参議院議員

è河川屋

昭和33(1958)年に建設省に入省以来、河川行政一筋に歩んできた。〈ダム興し屋〉の別称もある。

 

神八三郎 じんはちさぶろう (18661955) 実業家で、馬曳業者

è馬の神様

北海道釧路に入植してから曳き馬産業の育成に手を染める。地元の人はその業績に対し、誇張ともいえる呼称を贈っている。

 

陣幕久五郎 じんまくきゅうごろう (18291903) 力士で、十二代横綱

è①負けず屋

入幕いらい立合112回のうち負けたのはわずかに5回という超強豪力士で、〈負けず屋〉の異名をほしいままにした。政治好きで、西郷隆盛とも親交があったという。

è②建碑狂

晩年、土俵から退くと大阪相撲の復興に尽力、同時に相撲関係者の建碑事業に力を入れた。

 

新門辰五郎 しんもんたつごろう (180075) 侠客・火消し頭領

è新門の頭

「新門」は号でも通称でもない。江戸下谷で時の輪王寺宮が浅草寺に隠居するおり、新たに通用門(新門)を作って余人を通さず、宮を守り抜いたので〈新門の頭〉といわれた。江戸幕府最後の将軍徳慶喜の親衛隊長でもあったが、慶喜からは「親父」と呼ばれていたという。

 

新呂太夫 しんろたゆう (生没年未詳) 義太夫語り

è新呂の(ども)(また)

 明治中期、高座に上がるより流しで人気を取った新内太夫。十八番は『反魂丹(はんごんたん)』であり、その主人公の吃又を演ずるときは顔面はもとより五体まで震わす名演。花柳界などから〈新呂の吃又〉と贔屓にされた。