水前寺清子 すいぜんじきよこ (1945- ) 歌手

èチーター(週刊女性、1973.5.7)

男っぽい歌い方と野生的な身のこなしで知られている。

 

末次一郎 すえつぐいちろう (19222001) ロビイスト

èミスター北方領土

戦後まもなく旧軍人の戦犯釈放運動に奔走、日本の成長期には沖縄返還運動を展開し実現に導く。故に〈沖縄返還陰の功労者〉との評価を高めた。近年の業績では、ロシアとの北方領土返還交渉が光る。半端な「二島先行返還論」には妥協せず、四島全面返還論を貫き通す。大正生まれの気骨の人、筋金入りの愛国者であった。

 

陶晴賢 すえはるかた (15211555) 武将で、大内義隆の家臣

è西国無双の侍大将

大内氏家臣の出で、その武辺は西国一帯に広まり〈西国無双の侍大将〉と称された。尼子氏討伐のため大内勢が出雲に出陣したさい、自軍は不利で総退却を迫られていた。晴賢は退く時家来に兵糧を与え、自分は雑魚の内臓を食って飢えをしのいだ。家来を大切にした噺はほかにもたくさんある。

 

末広恭雄 すえひろやすお (190488) 魚類学者

è魚博士

魚類学に関しては最高権威で知られ、軽妙洒脱な名随筆でも知られた。〈魚博士〉とは、当然すぎるニックネームである。

 

菅運吉 すがうんきち (180777) 材木商

è今紀文

菅は秋田藩御用達を受け領地の木材を移出、江戸で大商いを繰り返し、傾きかけていた藩財政の建て直しに貢献した。その功績により名字帯刀を許され、派手な遊びでも目立った。江戸の人たちから〈今紀文〉と呼ばれた。

 

菅谷篤二 すがやとくじ (190585) 英仏文代筆業で、恋文代筆者

è恋文横丁の主

戦後、駐留米軍の恋人となった女性らを相手に、東京渋谷で英文ラブレターの代筆業を開く。彼の店周辺は「恋文横丁」とたちまち評判になり、丹羽文雄の小説『恋文』でモデルにもなった。

 

須賀勇介 すがゆうすけ (194290) ヘアデザイナー

èヘア界のプリンス

昭和41(1966)年にニューヨークへ進出し、ビューティサロン「SUGA」を経営。ジャクリーン・オスナシスやフェイ・ダナウェイら世界の有名人を顧客に抱えて美容界を席捲した。

 

菅原都々子 すがわらすずこ (1927- ) 歌手

è哀愁の歌姫

ビブラートを誇張した個性的な歌唱で有名に。『連絡線の唄』などは、その謡いっぷりの最たるもので、聴衆の好き嫌いを二分した。ファンからは〈哀愁の歌姫〉との評価を得ている。

 

菅原通済 すがわらつうさい (18941981) 実業家、「三悪追放」活動家

è①裏切り通済

è②エセ通人

先生いう「三悪」とは性病・売春・麻薬である。晩年これらの撲滅を訴え尽力したが、ご当人は三悪に隣り合わせの道楽人生を送ってきたとかで、エセ人道主義者の売名行為とマスコミに吊るし上げられた。そのさい通済の言い訳がふるっている。「なァに、つまりは、これまでの罪滅ぼしよ」。この分を忘れ、変節した御仁を遊び人どもは〈裏切り通済〉あるいは〈エセ通人〉とせせら笑った。

 

菅原文太 すがわらぶんた (19332014) 俳優

è文太兄い

東映仁侠映画、ヤクザ路線の大スターで、大勢のファン軍団を抱える。長じて大人の風格が出るに及び、〈文太兄い〉と慕われるようになった。平成10年、思うところあってか、菅原一家は岐阜県の過疎の村に移住している。

 

菅原道真 すがわらみちざね (845903) 平安貴族で、漢詩人・政治家

è天神様

稀に見る博学才知の人で、伝説がらみの逸話があまた残されている。今なお大宰府天満宮の御神体である〈天神様〉として祀られ、〈学問の父〉と敬われている。

 

杉下茂 すぎしたしげる (1925- ) プロ野球選手

èフォーボールの杉下

人並み外れの大きな右手を活用し、ボールを掌中にすっぽり収めて放つ魔球フォークボールの元祖。最大40センチ落下の記録を持ち、〈フォークボールの杉下〉の異名を広めた。

 

杉野芳子 すぎのよしこ (1892-1978) ファッションデザイナーで、杉野学園創設者

èドレメ帝国の皇后さま(話、1952.4)

昭和22(1947)年、東京目黒の自宅に木看板を掲げて開校。戦後の洋裁ブームにのって規模を拡大した。昭和31(1956)年、米映画『トロイのヘレン』公募の世界衣装デザインコンクールで15位を独占し、彼地で〈第2のディオール〉と騒がれた。日本国内で掲出に似たような異名に〈ドレメ王国の女王〉というのが広まっている。

 

杉原輝雄 すぎはらてるお (19372011) プロゴルファー

è①フェアウエイの名手

小柄だが負けず嫌いで、小技に妙技を発揮。フェアウエイキープ率の高さは抜群で、常に優勝県内にある成績を残している。

è②プロゴルフ界のドン

長期にわたり選手会会長を務め、後輩の面倒見も良くて、〈プロゴルフ界のドン〉と異名された。

 

杉村春子 すぎむらはるこ (190997) 新劇女優

è泣き虫杉村

文学座を率いる座長的存在であった。しっかり者の印象とは裏腹に、すぐ涙を流すことから〈泣き虫杉村〉と。感性がナイーブ過ぎるのだろう。

 

杉本英世 すぎもとひでよ (1938- ) プロゴルファーで、解説者

èビッグスギ

178センチ、92キロの大型プロでロングヒッター。日本でのパワーゴルフ時代を築いた。

 

杉本茂左衛門 すぎもともざえもん (?-1683) 上州沼田領の義民で、直訴の惣代

è(はりつけ)茂左衛門

幕命で江戸両国橋の架け替え工事を命じられた沼田藩主・真田伊賀守信直は、その費用の負担を領民に課して苦しめた。茂左衛門は177か村の惣代として法度である直訴に及び、天和3(1683)111日、利根の河原で磔に処された。村民らはその勇気と遺徳、それに無念を込め〈磔茂左衛門〉とたたえた。

 

杉本茂十郎 すぎもともじゅうろう (生没年未詳) 江戸商人で、十組問屋中興の祖

è毛充狼(もじゆうろう)

江戸問屋仲間の連合組織である十組問屋の、今でいう理事長役を務めた男。菱垣廻船の再興に尽力するなど力量を示したが、しばしば地位を 誇示して強引な駆け引きを弄したため、名前の当て字をもって〈毛充狼〉と毛嫌いされた。なにやら暴走族のスプレー書きみたいだ。

 

杉山杉風 すぎやまさんぷう (16471732) 俳人

è俳諧奉行

「鯉屋」の屋号を持つ魚屋を営むかたわら、早くから芭蕉に入門。師を経済的な面で支えた功労者で、深川六間掘の芭蕉庵は杉風のてこ入りで運営された。そんな杉風を芭蕉も親身になって指導したが実力は特筆すべきものなく褒め言葉をその人柄に向けて〈東三十三カ国の俳諧奉行〉と冗談交じりに評している。

 

杉山茂丸 すぎやましげまる (18641935) 右翼思想家

è法螺丸

この人の職業分別に苦しむが、今にいうフィクサーといったところか。右翼団体「玄洋社」の親玉頭山満をよく補佐した名物男である。若くしてフランス革命に心酔したかに見え、一方では国粋主義にかぶれる面も示し、友人たちは彼に翻弄されたようだ。〈法螺丸〉はそうした変わり身の早さ、何でも受け入れてしまう雑草性から付けられたものであろう。

 

杉良太郎 すぎりょうたろう (1944- ) 俳優

è金さん

NHKテレビ時代劇『遠山の金さん』に主演したことから。

 

素盞鳴尊 すさのおのみこと 記紀神話伝説上の人物

è牛頭(ごず)天王(てんのう)

 本来の牛頭天王はインド神話に見える祇園精舎の守護神である。わが国の古代地誌『備後国風土記』によると、武塔神(ぶとうのかみ)(牛頭天王に同じ)が一夜の宿を借りたとき「自分はスサノオノミコトである」と述べた、とのこと。尊は八岐(やまたの)大蛇(おろち)退治で知られているが、これとは別に、疫病や魑魅(ちみ)魍魎(もうりよう)の崇りを鎮めてくれる魔除け神〈牛頭天王〉あるいは〈荒ぶる神〉として信仰の対象にされていたようである。

 

鈴木梅太郎 すずきうめたろう (18741943) 農芸化学者

è合成酒生みの親

米不足時代に清酒の代用品を開発した功労者である。理化学研究所において栄養化学製品の工業化を目指し、ビタミンやアミノ酸などの合成物質を研究。その臍下の一環として合成酒を造り上げ、「利休」などブランドで売り出した。

 

鈴木貫太郎 すずきかんたろう (18671948) 海軍大将・侍従長・首相

è①突貫の貫太郎

日露戦争で駆逐艦司令官のとき敵艦スワロフを魚雷で攻撃し戦果を挙げたことから。

è②君側の奸

宮内省侍従長時代の昭和5(1930)年、ロンドン軍縮会議に呼応し、天皇側近として忠実な態度を貫いたため、軍部強硬派から〈君側の奸〉といわれた。

 

鈴木久五郎 すずききゅうごろう (18771943) 相場師

è成金の鈴久

〈明治の紀文〉ともいわれたほどの兜町の相場師。日露戦争が終わる頃までに、鈴木は戦争景気の株相場でぼろ儲けし、数百万円の財を成す。現在の貨幣価値に換算して数千億円は下らない金額だ。今日は新橋、明日は柳橋と花柳の巷で遊び呆ける彼の姿を見て、人は〈成金の鈴久〉とささやき合った。

 

鈴木健二 すずきけんじ (1929- ) アナウンサーで、著述業

è電波怪獣(週刊現代、1982.12.4)

NHK時代にソツのない司会者として名を売る。顔の売れたところで辞職し物書きに転向したが、こちらは押し付けがましさが鼻につき評判はかんばしくない。

 

鈴木澄子 すずきすみこ (190485) 女優

è化け猫女優

昭和12(1937)年「佐賀怪猫伝」に主役を演じヒットしていらい、何本もの怪談映画に出演、とうとう〈化け猫女優〉の異名をとるに至った。

 

鈴木清順 すずきせいじゅん (19232017) 映画監督・脚本家・俳優

è山羊ひげ俳優

自分で映画シナリオを書き、演じ、監督もする器用な人で、特徴ある山羊ひげでスクリーンに登場、人気を集めた。アナウンサー鈴木健二の兄である。

 

鈴木貞一 すずきていいち (18881989) 陸軍軍人で、軍事機関の指導者

è背広を着た軍人

昭和16(1941)年に中将で予備役となり、近衛ならびに東条内閣での企画院総裁に。文民色の濃かった人だけに〈背広を着た軍人〉はピッタリの異名といえる。

 

鈴木茂三郎 すずきもさぶろう (18931970) 政治家で、社会党委員長

è泣き虫モサ

激情に駆られやすく、もらい泣きがしょっちゅうだったので、この渾名が付いた。普段は〈モサさん〉と親しく呼ばれていた。

 

須田清太郎 すだせいたろう (18811969) 茨城県議・治水家

è治水の父

大正10(1921)年に利根川治水協会の結成に参加し、治水を通し県の発展に貢献した。のち霞ヶ浦北浦治水協会会長もつとめている。

 

角倉了以 すみのくらりょうい (15541614) 朱印船交易商

è船通しの父

慶長8(1603)年から10年間、了以は御朱印船の印加を得て安南やトンキンと交易を行い巨利を得た。彼の偉いところはこれを私せず、資本投下して河川の水利や水路の整備に当たったことである。その工事対象も1箇所に留まらず、嵯峨から丹波保津に到る大堰川、駿河岩淵から甲府に到る富士川、遠江掛塚から信濃諏訪に到る天竜川、そして加茂川を二分して高瀬川を通じる大工事を完成させたのである。

 

諏訪博 すわひろし (191589) 東京放送社長

è民法界の帝王

キャスター方式によるニュース番組の充実、広告の個別セールス方式の採用、あるいは視聴率競争に戦術上手を発揮するなど、辣腕を振るった。

 

 せ 

 

清吉 せいきち (?-1805) 盗賊  

è鬼あざみ 

背中一面に派手な鬼坊主((あざみ)の別称)の刺青をしているので二つ名された。文化2 (1805 )6月、30歳のとき小塚原(こづかっぱら)で処刑されたさいの辞世、

 武蔵野にはびこる程の鬼あざみ今日のあつさに枝葉しおるる  

 

関孝和 せきたかかず (16371708) 和算家  

è算聖 

和算に天才的素質をもった人。ざっと列挙しても、代数の表し方、根の変換、級数の和、円の計算法、多元高次連立方程式の解法など、わが国にとって斬新な数学体系を導入。そうした功績により〈算聖〉という偉大な尊称が与えられている。

 

関根金次郎 せきねきんじろう (18681946) 将棋棋士

 è天狗坊

10歳の頃、将棋であまりに強いのを知られ〈天狗坊〉と渾名された。行く末はどんなことになるやら末恐ろしい、との意味も含めて。世間の予想通り、大正10(1921)13世名人となった。名人到達まで時間がかかったのは、「受け」をもっぱらとした棋風の故であろう。

 

関行男 せきゆきお (192144) 海軍軍人で、中佐

è特攻第1号

太平洋戦争下の昭和19(1944)10月、フィリッピンはレイテ島沖海戦で、関はゼロ戦により米空母に体当たりを敢行し戦死。〈特攻第1号〉とたたえられ「軍神」とあがめられた。

 

蝉丸 せみまる (生没年未詳) 平安中期の歌人・琵琶法師

è(せきの)明神(みようじん)

 蝉丸は「小倉百人一首」の入集歌、

 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関

の詠者としてつとに有名。この逢坂の関の坂神と習合し〈関明神〉とうたわれた。蝉丸にはもう一つ、琵琶演奏の達人という顔もある。こちらは琵琶法師の組合・当道座から「流祖」と仰がれている。

 

仙崖義梵 せんがいぎぼん (17501837) 禅僧

è西の一休さん

義梵は俗衆から〈西の一休さん〉と慕われた臨済宗妙心寺派の坊さんである。諸国修業を経て筑前博多の聖福寺住職となり、独自の水墨画で禅の悟りを描いて見せた。機知に富んだ詩歌や垂訓も多く、とかく抽象的になりがちな禅定の世界を、誰もがわかるよう具体的に表現する技に長じていた。見方によっては、先人の一休よりも人間的温かみをそなえた人であったといえよう。

 

千家尊福 せんげたかとみ (18451918) 出雲大社大宮司

è大社の管長さん

見ているだけでありがたくなるような名前である。第八十代出雲大社大宮司として出雲神道の発揚に尽力した人。日本国の祖神(くにつみおや)には天照大神と並んで大国主命を合祀せよ、と主張したが勅裁により退けられた。明治15(1882)神道大社派を結成しその管長に。地元では〈大社の管長さん〉として、それほど出雲の国を愛してきた。ちなみに今なお正月に歌われる「一月一日」は、この人の作詞によるものである。

 

千石興太郎 せんごくこうたろう (18741950) 産業組合指導者・農相

è産組の独裁王

昭和14(1939)年、産業組合(現・農協)会頭のポストに付き、組織を私物化するほどの権力を握った。

 

千石剛賢 せんごくたけよし (19232001) 新興宗教の教祖

è千石イエス

昭和50年代、「イエスの方舟」なる宗教団体を作って教祖におさまり、女性拉致事件を起こすなど社会を敵に回した。

 

千玄室 せんげんしつ (1923- ) 茶人

è国際茶人

現代裏千家の筆頭。茶の湯を世界に広めようと外交手腕を発揮し、100回を超える海外訪問記録を樹立した。

 

千宗旦 せんのそうたん (15781658) 茶人

è乞食宗旦

宗旦は「有の儘」に身を任せることを旨とし、大名家から茶匠召抱えの誘いを受けても生涯仕官せず、侘茶道一筋の求心道を辿るのみであった。金銭にも淡白、庵において無頓着に貧をかこっている姿に、人びとは〈乞食宗旦〉となかば畏敬の目を向けた。

 

 

 

相阿弥 そうあみ (?-1525) 足利家の同朋

è国工相阿(こくこうそうあ)

足利将軍家は「同朋(どうぼう)衆」という各種技芸に長じた侍者集団を召抱えていた。なかでも相阿弥は描画を始め書画鑑定、座敷錺芸、茶道、連歌など諸芸工匠に秀でた異才であった。〈国工相阿〉は水墨画の神技に対し将軍義政あたりが付けた敬称であろう。

 

増賀 ぞうが (9171003) 天台僧

è多武峰聖(とうのみねのひじり)

 若い頃の増賀は諸国遊行の旅に過したが、狂態を演じることが多く、増長慢心が目立った。しかし応和3(963)年老境に達すると、多武峰に登って延暦寺別院に住みつき、自己改造による慈悲の修行に励む。そして臨終のさい極楽往生を促す「聖聚(せいじゆ)来迎(らいごう)」が顕れたとする伝承から、後世〈多武峰聖〉と称されるに到った。

 

相馬愛蔵 そうまあいぞう (18701954) 実業家で、中村屋創業者

èインテリ・パン屋

明治34(1901)年に信濃から妻と上京し本郷で中村屋を開業。モダンなパンやカリーライスを商った才覚から人は〈インテリ・パン屋〉と呼んだ。のち新宿に移転し、ここでも当時有名な「中村屋サロン」を開いて芸術家らの交遊の手助けをした。

 

相馬黒光 そうまこっこう (18761955) 相馬愛蔵夫人

èアンビシャス・ガール

前出、相馬愛三の妻として、新宿中村屋を繁盛させ、中村屋サロンの運営に内助の功を発揮した女性である。士族の子女という育ちの良さをかなぐり捨て、宮城女学校時代にストライキ事件に関与し退学させられるなど、かなりのはねっかえり娘であった。その才気煥発に満ちた態度に〈アンビシャス・ガール〉とのニックネームが付けられた。

 

副島種臣 そえじまたねおみ (18281905) 伯爵で、内務大臣

è世の宿儒 

恰幅や言動に大人(たいじん)の風格があり、詩文にも巧み。四書五経に通じていて、同時代のジャーナリスト福本日南は「副島こそ世の宿儒(講師並みに偉大な人物)」であるとベタ褒めしている。気骨に溢れた正義感で、明治天皇も副島を高く買っていた。

 

蘇我入鹿 そがのいるか (?-645) 廷臣で、仏教学者

è大郎(たろう) 

現代人には〈大郎〉が本名で、「入鹿」が渾名のような印象を受けるが、じつは逆

である。『大職冠伝』によると「吾が堂(私塾)に入る者に宗我大郎に如くものな

し」とあり、僧(みん)の門弟のうちでも切れ者で知られた。〈大郎〉とはそのあたりの偉大な人

物を意味する呼び名なのである。「入鹿」は、尾張国入鹿屯倉(みやけ)にちなんだ氏である。

è②小猿

入鹿は野心家でもあった。一廷臣の身ながら、皇極天皇に変わって政治を左右して

いる。『日本書紀』には入鹿のことを「岩の上に小猿米焼く」と表現。「米焼く」

とは、上宮に火を放ち焼き払う、転じて裏切りの意味を示した言葉である。

 

曾我廼家五郎 そがのやごろう (18771948) 喜劇俳優・劇作家

è松竹新喜劇の始祖 

笑いの本格派「(にわか)」の修行を積んで「曾我廼家喜劇」を打ち上げた人。洋行により見

を広め、帰国後の大正2(1913)年「五郎劇」なる劇団を設け、本格的な喜劇時代の

到来を先駆けた。

 

園田清充 そのだきよみつ (191985) 国土庁長官で、参議院議員

èベトコン議員 

政治活動において容易に正体を現さず、人の意表をついて表に出る隠し技を備えている。参議院選挙戦では補欠選挙で当選、隠れた農政通として知られる。

 

園部刑部 そのべのぎょうぶ (948?-?) 僧で、京都に北辺堂を建立

è(かわの)(ひじり)(ぎよう)(えん)

園部刑部の名をもつ若者は狩に出て1頭の孕み鹿を射た。苦しみながらも牝鹿は子鹿を産み落とし、子鹿の体をなめながら息絶えた。若者はおのれの罪業に恥入り、殺傷を行う武人であることを捨てた。彼は名を行円と改め、死んだ母鹿の皮をはいで身にまとい、鹿への供養と衆生済度のため諸国遍歴の旅に出る。古びてボロボロになった鹿皮まといの僧を見て、人々は〈皮聖行円〉と敬った。のちに建てた北辺堂は別名を「革堂行願寺」ともいう。

 

 

 

待賢門院 たいけんもんいん (110145) 鳥羽天皇の皇后

è奇怪不可思議の女御

藤原忠実の日記『殿歴(てんれき)』によると、同女は淫乱の噂が絶えなかったとある。鳥羽天皇をめぐる追い出し策動を図ったり、男出入りが激しいなどで〈奇怪不可思議の女御〉と陰口された。

 

大松博文 だいまつひろぶみ (192178) バレーボール監督・参議院議員

è鬼の大松

日清紡貝塚バレーボール部監督に就いてから部員にスパルタ式訓練を課し、周囲から〈鬼の大松〉と恐れられた。この猛特訓のおかげで、同チームはやがて「東洋の魔女」の異名を持つ強豪チームに育っている。

 

平敦盛 たいらのあつもり (116884) 武将

è無官太夫

位は五位に叙されたが、官に就くことはなかったので〈無官太夫〉といわれた。というのも、一の谷の合戦で散華したのはわずか17歳のとき。笛の巧みな若武者であった。

 

平惟盛 たいらのこれもり (115784) 武将

è桜梅(おうばい)少将

後白河法皇が五十歳の賀宴を開いたおり、惟盛は祝いに「青海波(せいかいは)」を舞った。その美貌と優雅な立居は並み居る者を魅了したという。おそらく官女あたりからであろう、〈桜梅少将〉の名が付けられ騒がれた。

 

平定文 たいらのさだふみ (?-923) 平公卿で、歌人

è好キ者

定文は色好みで名が知られ〈好キ者〉と渾名された。『古今和歌集』などに入集しているほどの歌人なのに、好色漢の評判のほうが先立っている。女たちからのモテ方も先人の在原業平(なりひら)と並ぶことから〈平中〉(業平の「在中」のもじり)とも称されている。

 

平重盛 たいらのしげもり (113879) 武将

è灯籠大臣

重盛は東山の麓に広壮な精舎を建て、48間の一間ごとに灯籠を一つずつかざし、毎月1415日に灯を点じて祈りを捧げた。現代では「治承のクーデター」と呼んでいる鹿ケ谷事件のあと、自身は滅罪生善の心を示したのである。こうした重盛を人々は〈灯籠大臣〉 と称した。思慮深く温和な性格の人で、野心家の父(清盛)の欠点を埋める補佐役にピッタリであった。

 

平時忠 たいらのときただ (1130?-89) 武将

è(ひら)の関白

時忠は単なる権大納言(大臣級)で関白の地位にない。その彼が権力を欲しいがまま振舞ったため、〈平の関白〉とことさら侮蔑を込めて呼ばれた。彼はまた「この一門(平家)にあらざれば人非人たるべし」(『平家物語』巻一)との暴言も吐いている。

 

平知康 たいらのともやす (生没年未詳) 武将

è鼓判官

鼓打ちの名手であったことから、世に〈鼓判官〉と噂された。木曽義仲もこの異名を知っていて、後白河法皇の使者として知康と面会したおり、「貴殿を鼓判官というは、多くの人に打たれなさったからか、張られなすったからか」とからかったという。

 

平将門 たいらのまさかど (?-940) 武将

è新皇(しんのう)

「新皇」とは新生の天皇」という意味である。東上した将門は天慶211月、関東の国司を次つぎと滅ぼし、勇み足に(たけ)っていた。上野国府に入ったとき、侍らせた遊女が八幡大菩薩の使いと称し、神託にかこつけ将門を〈新皇〉に祭り上げた。本人もその地位と権勢を自覚はしていたが、これは明らかに京の朱雀天皇を意識しての僭称である。

 

田岡一雄 たおかかずお (19131981) 山口組三代目組長

è日本の首領(ドン)

田岡親分は昭和21(1946)年の混乱期に暴力団、山口組組長を襲名、各地で抗争を繰り返しながら勢力圏を拡大。やがて〈日本の首領〉と称され、裏社会に睨みをきかせた。

 

田岡嶺雲 たおかれいうん (18701912) 文芸評論家

è武士的文士

田岡は明治期の新聞・雑誌に筆法鋭い文芸批評を書き、文学嗜好の青年に刺激を与えている。時には檄文と見誤るほど過激な評論を書き、論敵を斬り下げてみせた。そのため文士仲間に〈武士的文士〉と畏敬の言葉を吐かせた。

 

高木兼寛 たかぎかねひろ (18491920) 軍医・教育者

è麦飯男爵

海軍軍医として活躍し、功績が大きいとして男爵位を授けられた。海軍の軍医時代、海軍水兵の脚気(かつけ)を撲滅するため白米食を廃止し麦飯を食わせたことから〈麦飯男爵〉の名が立った。

 

高木徳子 たかぎとくこ (18911919) 女優・バレリーナ

èトーダンスの女王

欧米でミュージカルの舞台に出演。当時の日本人としては珍しいバレエダンスの踊り手として注目された。日本人ではじめてトーシューズを穿いたダンサーとして知られる。

 

高木正年 たかぎまさとし (1856-1934) 漁業振興家

è岩窟王

高木は42歳のときに失明したが、それまでは品川で乗り養殖などを手がけていた。失明とともに事業も躓き、家産を費消し尽くし、老後は岩場の洞で仙人のような身なりの生活を余儀なくされた。昔の彼を知る周囲の人たちは〈岩窟王〉と呼んだ。

 

高島秋帆 たかしましゅうはん (17981866) 砲術家

è火技中興洋兵開基

高島流砲術の始祖で、長崎出島砲台の近代化に貢献した。国防のため効果的な様式砲術の導入に熱心で、掲出のような尊号じみた異称を付けられている。

 

高瀬春奈 たかせはるな (1954- ) 女優

è戦艦ハルナ(週刊現代、1978.3.9)

語呂合わせからの名で、さしたる意味はない。かつて日本海軍の戦艦に「榛名」があったが、彼女のバスト87センチにちなんで付けたものだ。

 

高勢実乗 たかせみのる (18901947) 喜劇俳優

èアノネのオッサン

高勢は新派のドサ回りを転々としてから大正4(1915)年に映画界入りした。珍無類の扮装とドジョウ髭に加え、トボケた表情でファンを獲得した庶民派俳優。彼のトレードギャグ「あのねーおっさん、わしゃかーなわんよ」 は太平洋戦争前に一世を風靡した。とかく暗くなりがちな世相を少しでも明るくした功績は大きく、〈アノネのオッサン〉はとくに子供たちから高勢に進呈した心からの親称であった。

 

高田敏子 たかだとしこ (191489) 詩人

èお母さん詩人

昭和35(1960)年以降、朝日新聞に母親の情感を表現した哀切の詩を連載、この呼び名を付けられた。

 

高田渡 たかだわたる (19492005) フォーク歌手

è日本の吟遊詩人

ライブギターで即興的に自作の詩をうたい、ボヘミアンのように各地を流し歩いた。〈フォークの始祖〉ともいわれている。

 

高野鎮雄 たかのしずお (18751912) 電子機械技術者

èVHS生みの親

日本ビクターの技術者。日立、三菱、松下、シャープをヲ含めた5社から成るVHS開発グループを立ち上げ、ソニーと対抗してVHSの世界企画課を実現した。

 

高野伸二 たかのしんじ (192684) 野鳥研究家

è野鳥識別の神様

どんな野鳥でも種類をたちどころに識別したという。在来の野鳥図鑑に飽き足らず、自分で観察し描いたイラストをもとに識別を集成した図鑑『フィールドガイド 日本の野鳥』を完成し刊行した。

 

貴ノ花利彰 たかのはなとしあき (19502005) 力士で、元大関

è角界のプリンス

軽量のハンディにもめげず特有の粘り腰を発揮、大関在位50場所と息の長い良績を残す。加えて貴公子的な整った容貌とメリハリのきいた言動から、〈角界のプリンス〉 ともてはやされた。

 

高場乱 たかばおさむ (生没年未詳) 幕末・明治期の塾主

è人参畑の婆さん

福岡で「人参畑塾」を主宰し、頭山満、平岡浩太郎といった国粋主義者を育てあげ、のちに「玄洋社」を生み出させた。かつての福岡藩の猛者連も、この女性塾長には頭が上がらなかったという。

 

高橋昭博 たかはしあきひろ (19312011) 原爆資料館長・市民運動家

è語り部集団のリーダー

広島における「語り部集団」とは実体験被爆者らで構成する原水爆禁止運動団体を指し、高橋はその推進役として、修学旅行生徒らに被爆体験を語りかけている。

 

高橋和巳 たかはしかずみ (193171) 作家・中国文学者

è苦悩教の始祖

高橋は文学者としての自己と、中国文学研究者としての自分との相克に悩み続けていた。精神的に行き詰まり、母校京都大学の講義をすっぽかしたり、突如雲隠れするなど、周囲をはらはらさせる行動に出ている。そうした知識階級の苦悩を見て取り、マスコミ等で〈苦悩教の始祖〉と騒がれた。作品も『悲の器』『憂鬱なる党派』『わが解体』といった重苦しいタイトルで埋め尽くされている。

 

高橋照 たかはしあきら (191486) 登山家

èヒマラヤ浪人

ヒマラヤ高峰登山のベテランで、ビッグホワイト・ピークやマナスルなどに登山隊リーダーとして登頂成功した。

 

高橋喜平 たかはしきへい (19102006) 氷雪学者・随筆家

è雪崩の神様

この人在野の研究家だが、雪崩のケ連休にかけては著名な実績を誇っている。雪に関する文化史的雑学にも知識が深く名随筆を残す。別に〈雪博士〉との呼称も得ている。

 

高橋広湖 たかはしこうこ (18751912) 日本画家

è女湯の広湖

広湖は明治日本画壇の重鎮、松本楓湖の一番弟子といわれ、上野を中心に活発な展覧会を開いた(たつみ)画会のメンバーでもあった。おりしも広湖は斬新な画題を模索していたが、湯上り美人を思い立つ。しかし湯上り女の色気に満ちた肌色は想像で生み出せるものでなく、実見にしかず、との結論に到る。さっそく付近の湯屋に事情を打ち明け女湯を覗かせてくれと頼んだが、どこの湯屋でも断わられた。仕方なく23日、密かに覗き見に及んだところ、まもなく見つかってしまう。でも裸女の艶っぽさはしっかり拝ませてもらった。やがて入浴前後の美女裸体画双幅が完成、不名誉な〈女湯の広湖〉の渾名を上回る評価を得たのである。

 

高橋是清 たかはしこれきよ (18541936) 元日銀総裁から蔵相・首相に

èだるま翁

〈だるま宰相〉とも親しまれた。是清の人生は苦難の連続であった。貧乏絵師の息子から

仙台藩足軽の養子に。志を抱いて渡米したが、下僕や牧夫で奴隷並みにこき使われる。帰国後は森有礼の書生。帝大の助教から文部省入りし、以降トントン出世して明治44(1911)年に日銀総裁となる。風貌が達磨に似ているだけでなく、こうした七転び八起きの経歴が〈だるま翁〉との異称に。言い得て妙である。

 

高橋鉄 たかはしてつ (190771) 性科学者

è性科学の先駆者

本来は精神分析医であったが、著作に性科学に関するものが目立つため、セクソロジストとのレッテルを貼られた。著書『あるす・あまとりあ』はベストセラーとなった名著で、他に性技や態位に関する著作・論文も多い。

 

高橋でん たかはしでん (185179) 殺人犯

è毒婦お伝

15歳で結婚したが1年余りで夫に死別。生活に困窮し、24歳のとき小金を持つ古着屋を殺害したため逮捕され、殺人犯として市谷刑場で斬首の刑に。後世の史家は口を揃えて「刑場の露と消えた哀れな女」とか「毒婦」の冠称は重すぎるもの、といっている。

 

高橋尚子 たかはしなおこ (1972- ) マラソン選手

èQチャン

所属したリクルート社の入社歓迎会の席上で、「オバケのQ太郎」を歌って印象を強めたことから。

 

高橋彦次郎 たかはしひこじろう (18641932) 株式仲買商

è押切り将軍

名古屋の株式相場仲間では相手かまわずといった伝説的な男で、強引な商法から〈押切り将軍〉の渾名が付いた。

 

高橋政知 たかはしまさとも (19132000) 実業家で、オリエンタルランド社長

è東京ディズニーランド生みの親 

ディズニープロダクションとの業務提携に成功、「東京ディズニーランド」を誕生させた功労者である。

 

高橋義孝 たかはしよしたか (191395) ドイツ文学者・文芸評論家

èギコウ先生

名前の音読みがだれ言うとなく広まり通称化した。東京神田生まれの江戸っ子で、酒好き、横綱審議会の委員長にもなった相撲通でもあった。

 

高畠式部 たかばたけしきぶ (17851881) 針医・歌人

èねずみ式部

式部は色が黒ずんでシワクチャ婆さんだったから〈ねずみ式部〉と悪口された。跡見花蹊の筆にそう述べてあるが、高齢時の描写でありしかも盲人であったから、見栄えはよかろうはずがなく、割り引いてやらねばなるまい。しかしながら、歌詠の力量においては、かの有名な蓮月尼と並び称されるほどの逸材であった。

 

高原永伍 たかはらえいご (1940- ) 競輪選手

è逃げの神様 

競輪のビッグタイトルをいくつも獲得した競輪最盛期のヒーロー。果敢な逃げと競り合う呼吸の上手さに定評がある。

 

高見順 たかみじゅん (190765) 作家・詩人

è最後の文士

この異名は彼が自身の内なる面への文士道(創作態度)をかたくなに守り続けたことから付けられたもの。私小説作家、日記文学の名手へのはなむけの呼称であり、高見が亡くなったとき『東京新聞』のコラム「大波小波」にも「最後の文士が消えて」のタイトルが見える。この呼称の通り、彼は文壇では古典的な存在に見られていたのは確かである。

 

高峰秀子 たかみねひでこ (19242010) 女優

èデコちゃん

この庶民的な愛称は、もちろんヒデコのつづめ言葉だ。清潔なイメージをもち国民的知名度が高く、つねに大作出演で見せてくれる演技派女優である。

 

高峰三枝子 たかみねみえこ (191890) 歌手・女優  

èゲラ子 

笑い上戸。ちょっとしたことでもゲラゲラと派手に笑うためこの渾名が付けられた。古風な日本的美人で懐メロ時代の歌手でもあった。

 

高見山酉之助 たかみやまとりのすけ (18731924) 力士で、関脇

è鈍州

左四つに組んでジワリと寄る、それの繰り返し。取り口がまっとうすぎて変化に乏しく、地味すぎた。ファンがやきもきして付けた渾名である。

 

高柳健次郎 たかやなぎけんじろう (18991990) エレクトロニクス技術者

èテレビの父

電子工学界では誰一人知らない者はいない存在の人である。NHK技術研究所をへて日本ビクターに入社、電子式受像システムの研究一本に身を投じた。大正15(1926)年に片仮名「イ」の字をブラウン管に映し出し、昭和18(1943)年、世界に先駆け動画の実験受像に成功している。日本のテレビの普及と進歩は、高柳の功績あってこそ語られる。

 

宝井馬琴〔三代〕 たからいばきん (18521928) 講談師

è雪降りの狆ころ

高座生活60年余の講談界の重鎮。軍記物に力を入れ、熱演ぶりで高座を感動の渦に巻き込んだという。剣道は免許皆伝、俳句もたしなんだ。渾名〈雪降りの狆ころ〉は、こまめに動き回ることから。

 

宝とも子 たからともこ (19212001) ラテン歌手

èラテンの女王

〈ラテンの女王〉のニックネームは、往年のラテンファンなら誰もが知っているほど有名であり、歌手宝とも子はタンゴ歌手の藤沢蘭子と双璧の存在であった。一時は一般歌謡でもレパートリーを持ち、セクシーボイスで「セ・シ・ボン」等も歌いこなした。

 

田河水泡 たがわすいほう (18991989) 漫画家

èのらくろ上等兵

年輩者にとって超ベストセラー漫画「のらくろ二等卒」連作は懐かしい限り。野良犬兵卒を主人公とした昭和戦前期のコミックである。

 人気沸騰のあまり、田河がのらくろを二等兵から一等兵に昇進させたときなど、田河宛に「東京市、猛犬連隊第五中隊、のらくろ上等兵殿」というファンレターが舞い込んだ。このはがき、住所が書いてなかったのに田河宅へちゃんと配達されたという。

 

田川鳳朗 たがわほうろう (17621845) 俳人

è花本(はなもとの)(おきな)

熊本藩士の俳人で、真正芭蕉風を旨とした。文化13(1816)年、江戸へ出て本所亀沢町に結庵し、門下に大名や文化人らを擁した。晩年に二条家から〈花本翁〉の呼称を頂戴したが、以降これが代名詞として広く使われるようになった。

 

武邦彦 たけくにひこ (19382016) 騎手・調教師

èターフの魔術師

騎手時代、巧みなペース配分により長距離重賞レースに輝かしい戦績を残している。〈タケクニ〉の愛称も持つ。

 

竹下登 たけしたのぼる (1938-2000) 首相

è永田町の藤吉郎

政府・自民党内の根回しと気配りに才能を示す。まさに木下藤吉郎(豊臣秀吉の通称)なみのサル知恵を発揮した。

 

武田勝頼 たけだかつより (154682) 戦国武将で、甲斐領主

è伊奈(いな)四郎

信玄の第四子で、伊奈の高遠城に居を構えたことから〈伊奈四郎〉と通称されるようになった。信玄亡き後甲斐国主に就き、徳政を敷くなどして人望は厚かった。

 

武田谷斎 たけだこくさい (?-1895) 彫刻家

è赤羽織の谷斎

谷斎は尾崎紅葉の父で、名を尾崎惣蔵といい谷斎と号した。たいへんな三拍子揃いの遊び人で、金に困り色里で太鼓持ち同様のことまでして糊口をしのいでいた。たとえば、真っ赤な羽織に赤ふんどしを覗かせるいでたち、これで「ステテコ」などを踊っては遊客のご機嫌をとった。紅葉はこの恥ずべき父の姿を友人らにひた隠しにしていたという。

 

武田信玄 たけだしんげん (152173) 戦国武将で、甲斐の国主

è甲斐の虎

虎のごとき勇猛さを全国津々浦々にまでとどろかせた武田軍の総帥であった。川中島で「風林火山」の旗印のもと、上杉謙信軍との一戦は、日本史を飾る名勝負として今なお語り継がれている。

 

武田鉄矢 たけだてつや (1949- ) 歌手・俳優

è①逆説的二枚目 (週刊平凡、1978.11.16)

武田自身は柔道や中国拳法をこなす硬骨漢である。

è②金八先生

昭和54(1979)年に始まったテレビドラマ「3年B組金八先生」の主人公になった由来から。

 

武田不遷〔物外〕 たけだふせん/もつがい (17951867) 禅僧で、武術家

è拳骨和尚

大力の武芸好きな曹洞宗の僧。ある日古道具屋から古碁盤を買い求め、その裏に拳を押し付け拳型の凹みを付けたという。もちろん腕力を誇示した作り話である。また晩年、力で近藤勇を降参させたという逸話もあるものの、和尚すでに60余歳、後世に脚色されたものであろう。

 

武智鉄二 たけちてつじ (191289) 映画監督

èポルノ専科

2004年制作、米軍キャンプ売春宿を扱った映画『黒い雪』や2009年公開のハードコアポルノ『白昼夢』など問題作を世に送り出す。これらの武智作品は、「猥褻とは何か」という問いかけを訴えてもいる。また今では伝説的になっているが、武智は床上手な女がいると耳にすると、万難を排してでも同衾に赴いたという。こうした漁色の一徹さから、〈性技の探求者〉という異名を知容態している。

 

武知杜代子 たけちとよこ (190885) 女優

è女エノケン

昭和7(1932)年浅草松竹座でエノケンこと榎本健一と共演し、喜劇役者として彼の影響を大きく受けたことから。

 

武市半平太 たけちはんぺいた (182965) 幕末の志士で、土佐勤皇党の首領

è(あご)

 顎が人並み外れて長かった。ちなみに坂本竜馬は胸に目立つあざがあったので「痣」と呼ばれた。風雲急な時局下、うっかり本名を口にすると命取りにもなりかねないので、志士らは変名や異名で呼び合ったのである。

 

竹中治 たけなかおさむ (190067) 実業家

 

èニューギニア治

1948年に日東商船を設立し社長に就任。同社の多角経営の一環としてニューギニア開発を手がけた。

 

竹中労 たけなかろう (1930-91) ルポライター

èゲバリスタ(平凡パンチ、1972.9.4)

「聞き書きの名手」であり、反体制派の言論人として注目される。ときには言葉がすべりすぎ、告訴問題も引き起こした。

 

竹久夢二 たけひさゆめじ (18841934) 画家・詩人

è大正の歌麿

挿絵画では近代随一の売れっ子。リリシズムに満ちた「夢二風」美人画などで大衆を魅了したことから〈大正の歌麿〉と。叙情詩の分野でも卓越しており、「宵待ち草」の詞にピッタリの曲が付けられ一世を風靡した。

 

武見太郎 たけみたろう (190483) 医師で、元日本医師会会長

è①喧嘩太郎

医師優遇税制の改正問題で、身勝手な団体エゴの強硬主張に〈喧嘩太郎〉とマスコミから吊るし上げを食う。

è②医師会のドン

昭和32(1957)年から25年間、日本医師会会長を務める。一度ならず強硬なワンマン発言で世間を騒がせ、〈医師会のドン〉と。心ある医師は彼の権勢欲にサジを投げていた。

 

武宮正樹 たけみやまさき (1951- ) 棋士で、囲碁9

è宇宙流

恒星・惑星系列を思わせる、盤面中央に大模様を展開させていく独自の戦法から付けられたもの。

 

竹村健一 たけむらけんいち (1930) 評論家

è電波怪獣

テレビ出演に悪乗りし世相講談を演じ、〈電波怪獣〉と渾名を付けられた。マスコミを手玉に取るさまはモーレツの一語に尽きる。そういえば「モーレツ」も竹村が作った流行語だ。

 

竹本綾之助〔初代〕 たけもとあやのすけ (18751942) 女義太夫語り

è八丁荒らし 

男好きのする美貌と美声で十代すでに評判を高め、娘義太夫全盛時代に君臨した。この場合の〈八丁荒らし〉とは、近隣に向うところ敵なし、の意味である。当時は娘義太夫を「タレギダ」と俗称したことから、〈タレギダ娘〉とも称された。

 

竹本お伝 たけもとおでん (?-1827) 義太夫語り

è塩梅(あんばい)好しの小伝(おでん)

二世竹本芝桝の名取をもつ義太夫語りだが、むしろ淫婦のほうで知られた。美人で男好きとあっては世間が放っておかない。三代坂東三津五郎の妻になってからも、10年ほどの間に間男70人をつくったと伝えられている。上掲の渾名のほかに〈かわらけ小伝〉など下世話な異名から、好色の程が知れる。

 

田崎広助 たざきひろすけ (18981984) 洋画家

è火の山の画家 

昭和17(1942)年に油絵『阿蘇山』を発表してからもっぱら阿蘇を描き続け、山岳画家としての地位を不動のものにした。「火の山」とは阿蘇山を指す別称である。

 

田嶋陽子 たじまようこ (1941- ) 大学教授・参議院議員

èたけし勝り 

北野武のテレビ番組『TVタックル』に常連で出演。多弁で男を屁とも思わない弁舌口調から〈たけし勝り〉と渾名されている。

 

田尻稲次郎 たじりいねじろう (18501923) 官僚で、東京市長

èきたなり先生

大の節約家で、背広は夏冬各1着、これでどこへでも出かけるので〈きたなり先生〉の渾名が付く。この先生、渾名を面白がって「北雷(きたなり)」の雅号を付けたという風流人であった。

 

立花隆 たちばなたかし (1940- ) ジャーナリスト・評論家

è知の巨人 

知性と見識の高さにおいて、立花はこの呼称に恥じない人物である。仕事専一のプロで、祭事に頓着しないのは風体を見てわかる。蓬髪に隠された重量級の脳みそから、鋭い洞察が放射されているのだ。

 

立花北枝 たちばなほくし (?-1718) 俳人で、芭蕉の高弟

 è発句(ほつく)

金沢の俳人。人にどちらへ行かれるのかと尋ねられると、判で押したように「発句を拾いに行く」と答えた。そうした彼を師の芭蕉は「北枝と申すは発句師のつづめならん」とからかったとか。

 

橘屋円喬〔四代〕 たちばなやえんきょう (18651912) 落語家

è代脈 

折り目正しい言動で人に接した、噺家では奇特な存在であった。「代脈」とは医者に代わって診察する代診助手のことで、どこかもったいぶった人を指す言葉になっていた。

 

橘屋円蔵〔四代〕 たちばなやえんぞう (18641922) 落語家

è全身舌

作家の芥川龍之介が「この人は全身舌だ」と、舌を巻いたという噺家。持ち寝たが豊富で語りは流暢、弟子も多かった。

 

橘屋円蔵〔八代〕 たちばなやえんぞう (1934- ) 落語家

èうちのセツコさん 

高座ではもっぱらナンセンスギャグを看板に。テレビにも出演し出るたびに「うちのセツコが」と口にして、とうとうトレードマークにしてしまった。

 

橘屋円太郎〔初代〕 たちばなやえんたろう (?-1871) 落語家

èらくだ 

背中一面にらくだの彫り物を入れていた。芝居咄から音曲咄に転じた人だが、放埓な私生活で生涯パッとしなかった。

 

橘屋円太郎〔四代〕 たちばなやえんたろう (?-1898) 落語家

èラッパの円太郎 

明治時代に珍芸を表看板にした落語家。舞台で乗合馬車の御者が吹くチャルメラ(真鍮ラッパ)を出囃子代わりに物真似して人気が沸騰、〈ラッパの円太郎〉の名を一躍有名にした。本職の噺芸のほうは今一つだったようだ。

 

立花屋橘之助 たちばなやきつのすけ (18681935) 俗謡の音曲師

è公方(くぼう) 

明治・大正を代表する清元の第一人者として鳴らした女芸人である。当時巷間に流行した「浮世節」の作者でもある。

 

太刀山峰右衛門 たちやまみねえもん (18771941) 力士で、二十二代横綱

è四十五日

強力な突きを得意技とし、対戦相手を一突き半で土俵外へ弾き飛ばしたことから、〈四十五日〉つまり1月半の渾名が付いた。

 

辰吉丈一郎 たつよしじょういちろう (1970- ) プロボクサー

è浪速のジョー 

史上最年少の17歳でアマチュアチャンピオンになり、プロに転向した平成元年頃につけられた。当時流行の動画『あしたのジョー』主人公矢吹丈になぞらえての渾名である。

 

立川談志〔五代〕 たてかわだんし (19362011) 落語家

è①ダンシガシンダ(現代、1983.9)

上から読んでもしたかな呼んでも同じ言葉「回文」仕立ての茶化し。はみ出し物言いが過ぎるため、マスコミから話題の餌食にされてきた。

 

è②立川流家元(週刊新潮、1983.12.1)

昭和58(1983)年、上納金制度による落語家集団「立川流」を立ち上げ家元に治まった。

 

伊達綱宗 だてつなむね(16401711) 陸奥国仙台藩主

è品川隠公 

万治3(1660)年不行跡のとがで将軍から隠居を命じられたのが綱宗21歳のとき。若すぎる隠居であり、隠居後は江戸品川邸に移ったことから〈品川隠公〉と通称された。同屋敷跡は近年まで仙台味噌の醸造所があった。

 

伊達政宗 だてまさむね (15671636) 戦国武将で、仙台藩の始祖

è独眼竜

幼時に右目を失明、長じて〈独眼竜〉と渾名されている。には血の気の多いやり手、という人物短評が含まれていよう。そして「独眼竜」にちなみ、後世有る事無い事この人物像を賑やかに脚色している。

 

田中角栄 たなかかくえい (191893) 政治家で、首相

è目白の闇将軍

首相時に日本列島改造論をブチ上げて人気をあおったのはいいが、ロッキード疑惑で腐敗した金権政治にまみれ命取りとなった。山手の一等地、目白に豪邸を構え、いかがわしい政治屋・官僚どもの出入りがひきもきらなかった。〈目白の闇将軍〉のほかに〈コンピュータ付きブルドーザー〉〈今太閤〉〈庶民宰相〉〈よっしゃよっしゃ総理〉〈わかったの角さん〉などの異名も付けられた。

 

田中義一 たなかぎいち (18641929) 政治家で、陸軍大将

èおらが大将 

長州弁で自分を指す「おらが」を連発したことから付けられたニックネーム。当時、これに便乗した「オラガビール」というビールまで商品化されている。

 

田中小実昌 たなかこみまさ (1925-2000) 作家

è正統派香具師(てきや)

 自称だが他人もそう呼んでいると。東大中退後、闇市露天商やストリップ小屋の用心棒などヤバイ商売をを体験した。

 

田中茂樹 たなかしげき (1931- ) マラソンランナー

èアトムボーイ

昭和26(1951)年のボストンマラソンに日本人として初参加し、2時間2745秒で優勝した。その爆発的な走りに、現地マスコミがこの異名を贈っている。

 

田中彰治 たなかしょうじ (190375) 政治家・実業家

è爆弾男

参議院決算委員長の要職にあるとき、造船疑獄事件、グラマン機種選定問題など政府を手厳しく追及し続け、〈爆弾男〉の異名を貰った。

 

田中正造 たなかしょうぞう (18411913) 政治家で、衆議院議員

è栃木鎮台

近代史に残る足尾銅山鉱毒垂れ流しを告発しつづけた闘士。事件の顛末は多くの史書が伝えるところなので省くことにするが、明治34(1901)同士多数が逮捕されるに及んで、田中は抗議のため衆議院議員を辞職し、議会開院式から帰途にあった明治天皇に直訴するという勇断に出た。この郷土愛に満ちた今様の義人に対し、地元の栃木県では〈栃木鎮台〉(鎮台とは地方の守護役)という敬称で応えている。当時の絵入り与太雑誌『東京パック』ですら、彼を〈明治の佐倉惣五郎〉と立てているほどだ。

 

田中久重 たなかひさしげ (17991881) 機械屋で、発明家

èからくり儀右衛門

儀右衛門は通称。発明考案の才能を示し、機械(からくり)万般の製作開発に人生をかけたことから〈からくり儀右衛門〉あるいは〈日本第一細工師〉と称された。蒸気船の模型をはじめ小銃、万年時計、からくり人形など精巧な機械類を作っては人びとを驚かせた。一時、東京銀座に田中製作所を開いている。

 

田中平八 たなかへいはち (183484) 勤皇の志士から明治期は豪商に

è天下の糸平

開港したばかりの横浜で生糸と茶の貿易事業に手を染め、商売を拡張発展させ〈天下の糸平〉の名をとどろかせた。これは自称であるとの説もあり、だとすると、「天下の」と冠したことに実業家としての自信と不遜が除き見える。いっぽう庶民は〈買占め成金〉という侮蔑の言葉を浴びせている。現地に建つ記念碑の銘もまた不遜だ。

 

田中真紀子 たなかまきこ (1944- ) 政治家

èシャモ

父の田中角栄がそう呼んだという。かなりのおてんば娘であったようで、別に〈じゃじゃ馬〉との渾名もある。

 

田中真理 たなかまり (1951- ) ポルノ女優

èポルノの妖精

日活ポルノ映画『恋の狩人』『愛のぬくもり』などでのスター。〈ロマンポルノの星〉との呼称もあるが、これは褒めすぎ。

 

田中康夫 たなかやすお (1956- ) 作家・長野県知事

èヤッシー

本人自身のキャラクター的愛称であるが、通称として用いられている。

 

田中裕子 たなかゆうこ (1955- ) 女優

è①おしん裕子

NHKテレビ朝ドラマ「おしん」で主役のとき付いた。

è②襲われ女優

昭和57(1982)年、東映映画「ザ・レイプ」に主演のとき。

 

田中六助 たなかろくすけ (19231985) 参議院議員で、自民党幹事長

è地獄耳の六さん 

情報収集力の高さを買われ付けられた。鈴木派同僚議員の宮沢喜一と展開した「一・六戦争」は語り草になっている。

 

田辺潔 たなべきよし (19031933) 労働運動家

è煙突男

昭和5(1930)1116日、田辺は労農党てこ入れの富士紡川崎工場従業員組合が突入した争議の応援に向かい、堂工場内約43メートルの煙突によじ登り赤旗を振った。そこで130時間の滞空を記録。この突飛なデモンストレーションにびっくりした世人は彼を〈煙突男〉と称した。

 

谷岡ヤスジ たにおかやすじ (194299) 漫画家

èギャグのド天才

『少年マガジン』を中心に誰にも真似の出来ないナンセンス漫画を発表。別に〈ナンセンスの天才〉とも異称された。描画だけでなく「鼻血ブー」「アサーッ」などという珍妙な流行語も創り出してる。

 

谷譲次 たにじょうじ (190035) 小説家・翻訳家

è文壇のモンスター

別の筆名である林不忘のほうが通りはよい。アメリカで苦学し、帰国してから谷譲次のペンネームで「テキサス無宿」など一連のメリケン・ジャップ物を発表。かと思うと林不忘として「丹下左膳」といったチャンバラ物を、さらには牧逸馬の名で「地上の星座」という家庭小説を発表。その全集の名も『一人三人全集』と風変わりである。常識の枠に収まりきれない鬼才ぶりに〈文壇のモンスター〉と称された。

 

谷ナオミ たになおみ (1948- ) アダルト系女優

èSMの女王

SM趣向を社会風俗として認知させたポルノ女優さん。日活ポルノ路線の1シリーズにSMもランクされ、谷はSMポルノスターとしての特異な実力を発揮した。つまりマニアックなSMから大衆向けSMへの趣向変化を実現させた立役者なのである。出演作『しなやかな獣たち』『残酷 黒薔薇私刑(リンチ)』といったタイトルからゾクッとさせるものがある。

 

谷 豊 たにゆたか (191142) マレー放浪の元軍事諜報員

èマレーのハリマオ

谷は虐殺された妹の復讐を狙ってマレーの盗賊団に加わり、ハリマオ(現地語で「虎」)と呼ばれる首領になる。

太平洋戦争の初期、日本軍の一諜報員として現地で対英ゲリラ活動を展開し敵方に恐れられた。まさに事実は小説よりも奇なり、を地で行く人生であった。

 

谷亮子 たにりょうこ (1975- ) 柔道家

èYAWARAちゃん

オリンピックなどで体重別(最軽量48キロ級)で抜群の強さを発揮。小柄で童顔な点もこの愛称の要素になっている。

 

種田山頭火 たねださんとうか (1882-1940) 俳人

è行乞(ぎようきつ)の旅人

各地を遊行しながら自由律の句を吟じ続けた異色の俳人。草木を枕とし、こよなく酒を愛した。今なお〈酔いどれ俳人〉〈世捨て人〉など、いくつもの異名で呼ばれている。

 

玉川一郎 たまがわいちろう (190578) 小説家・コント作家

è雑学の大家

『泉筆・万年ペン・万年筆』といった著作は玉川の博識を証明している。祖の滔々として尽きない知識の泉はユーモア小説から紺と、レコードジャケットの解説文に及び、〈雑学の大家〉の誇りを支えている。

 

玉川勝太郎〔三代〕 たまがわかつたろう (19332000) 浪曲師

è関東節の名手

教欠くものを得意とした、現代では数少ない浪曲師。持ち前の気風のよい啖呵が聞かせどころで、関西では関東の師匠の意味でこの呼び名が付けられた。

 

玉椿憲太郎 たまつばきけんたろう (18831928) 力士で、関脇

èダニ

対戦相手に食い下がるしぶとさは天下一品だったので、この渾名が付けられた。彼は身長わずか159センチ体重90キロと角界では特別に小兵。関脇まで上がるには並みの根性では達し得なかったであろう。

 

玉錦三右衛門 たまにしきさんえもん (190338) 力士で、32代横綱

è①ケンカ玉

猛烈に勝気な気性から付けられた渾名。直情径行の人で喧嘩が絶えない。奇行も目立ち、あるときなど百円札(当時は大金)10枚に糊を塗らせて体中に貼り付け、「道をあけい、拝め、百円札のお通りだ」と往還を怒鳴って歩いたという。なお往時の東京言葉に〈ケンカ玉〉そのものがあり、喧嘩腰の偉丈高な態度を示す。渾名はこれと四股名の玉錦のひっかけである。

è②動く錦絵

しかし見た目は華麗な男で、土俵入りの立姿は錦絵にふさわしいものであった。

 

玉乃世履 たまのせいり (182586) 司法官で、大審院長

è今大岡

玉乃は官吏として最高峰の地位を極めたが、人物は清廉潔白で機知に富んだ人格者。裁事を公正に裁く手腕とあわせて、〈今大岡〉〈明治の大岡〉と仰がれた。なお玉乃世履は別号であって、「たま()の整理」を洒落たものである。

 

田宮二郎 たみやじろう (1935-78) 俳優

èナイスガイ

1956年度のみスター・ニッポンに選出。昭和36(1961)年、大映映画「女の勲章」あたりから、冷酷な二枚目役で売り出す。

 

田村泰次郎 たむらたいじろう (191183) 作家

è肉体派文士

昭和22(1947)年、戦後のパンパン風俗を描いた『肉体の門』を発表。一躍戦後派文壇の寵児になった。

 

田谷力三 たやりきぞう (18991988) オペラ歌手

è歌う不死鳥

田谷は亡くなる間近まで現役歌手として歌い続けたバイタリティが称され、〈歌う不死鳥〉と絶賛された。浅草オペラ全盛期の不動のスターでもあった。

 

丹下キヨ子 たんげきよこ (192098) 女優・タレント

è①丹下の姐御

ラジオやテレビで野瑯共敵せずの豪快な女勝りぶりを演じて見せた。

è②女左膳

往年のチャンバラ映画の主人公、丹下左膳に擬した渾名。男どもをバッタバッタとブッた斬る痛快さが彼女のイメージであった。

 

丹後局 たんごのつぼね (?-1216) 後白河法皇の寵妃

è後宮執権

本姓名を高階(たかしな)栄子(えいし)といい、後白河院政に加わった女傑であった。法王の寵愛をいいことに僭越な振舞いが目立ち、ときには政治にまで口出ししたため〈後宮執権〉と陰口された。

 

談州楼燕枝〔二代〕 だんしゅうろうえんし (18691935) 落語家

è西町の御前

東京は下谷西町に住み、万事おっとりした貫禄ある風体から名付けられた。英国人落語家ブラックの弟子であった。

 

檀ふみ だんふみ (1954- ) タレント

èハンガーだん

とにかく食いしん坊であると、自ら面白半分に名付けた自称が他人にも使われている。

 

 

 

筑紫哲也 ちくしてつや (1935-2008) ジャーナリスト

èしゃべるジャーナリスト

元『朝日ジャーナル』編集長で知られているが、最近ではテレビキャスターとして活躍。テレビ朝日の『こちらデスク』などで能弁ひょうろんで有名になり、〈しゃべるジャーナリスト〉という人物形容を与えられている。

 

千葉周作 ちばしゅうさく (1793-1855) 剣客で、江戸の道場主

èお玉が池の達人

幕末に北辰一刀流を究め、神田お玉が池に道場を開いた。周作は天下に名だたる剣の使い手で、幕末史を飾る斉藤弥九郎、桃井可堂らの門下生を輩出している。

 

知花昌一 ちばなしよういち (1948- ) 平和運動家

è沖縄の反戦地主

地元沖縄で在日米軍相手に多角的な反戦活動を展開。用地使用の違憲訴訟などをめぐり、闘士として勇名をとどろかせている。

 

茶川一郎 ちゃがわいちろう (1927-2000) コメディアン

è目玉のチャーさん

人一倍大きな目を持ち女性的な台詞回しでテレビ出演、たとえば「バカみたい」といったギャグで大衆に笑いを売った。

 

茶々 ちゃちゃ (1567-1615) 浅井長政の娘で、豊臣秀吉の側室

è淀君

美女として知られた茶々は、織田信長の姪でもあり、絶世の美女お市の方を母に持ち、秀頼の生母である。加えて秀吉の正室に迎えられたことはなく、側室の身であった。じつは〈淀君〉という呼び名は当人をいやしむための蔑称であった。つまり「淀あたりで春を売る遊女(あそびめ)」の含みを持つ。あえてを付けて呼ぶなら「淀殿」するのが正しい。

 

蝶花楼馬楽〔三代〕 ちようかろうばらく (1864-1914) 落語家

è弥太っぺ馬楽

本名を本間弥太郎といったことから付いた親称である。

 

長者園萩雄 ちょうじゃえんはぎお (1784-1873) 江戸の狂歌師

è猿飴

幕臣の出で石川杢之丞と通称、天明狂壇の親玉大田南畝とも親交の深かった狂歌師。安政の大地震(1855)で被災したため本郷切通猿飴横丁に転居した。以前住んでいた根岸の旧宅が焼け跡になり、そこへ

 やうやうと根岸の里を猿飴のぶっ切通し上の横丁

と大書した高札を立て、悦に入ったという。近所の人、これを見て〈猿飴〉と通称するようになった。

 

千代の富士貢 ちよのふふじみつぐ (1955- ) 力士で、58代横綱

è①ウルフ

狼を思わす精悍な顔つき、鋭い眼光、筋肉質の張のある体格。〈ウルフ〉は天下の通称になり、日本中がウルフ・フィーバーに沸いた。

è②小さな大横綱

183センチ125キロと現代力士としては小柄だが、バネのある足腰で胸のすくような得意技突っ張りを見せてくれた。

 

 

 

司葉子 つかさようこ (1834- ) 女優

è美しき人形(評、1958.2)

デビュー時の寸評。色白の美肌と美貌を和服に包んだたたずまいは、演技など二の次でよい、まさに日本人形のそれであった。これだけの美女になると、演技に伴う喜怒哀楽の表情のメリハリが失せてしまう印象すら与える。

 

塚本幸一 つかもとこういち (192098) 実業家で、ワコール社長

è色男の下着屋(週刊大衆、1973.4.26)

女性用下着メーカーで有名なワコールの二枚目社長。ただではすまないエロチシズムを感じさせる取り合わせだ。

 

津軽為信 つがるためのぶ (1550-1607) 戦国武将

èがっさい帽子の大将

関が原の戦いで家康側に就き、美濃大垣城を攻めて落城させた。彼は戦場で捨て身で戦える野武士軍団を結成し、彼らに雄花(すすき)綴りの軍帽を着けさせたため、〈がっさい帽子の大将〉と渾名された。

 

月岡芳年 つきおかよしとし (183992) 浮世絵師

è(とし)(こう)

芳年は若い時分粋がって博徒の盃を貰い、一家の銘を染め抜いた印半纏(しるしばんてん)を着ていた。このため〈年公〉とあざけられるが、年公は通称「芳年」の戯名であるとともに、年季奉公の略(ネンコウと発する)でもあり、転じて飼い殺しの身をさす。しかし絵師として世に通用するようになると〈明治の浮世絵師〉と評価されている。

 

月形竜之介 つきがたりゅうのすけ (190270) 映画俳優

 

èガタやん

芸名「月形」を崩した愛称。俳優養成所第1期生の出で、生涯出演作品は500本を超えたほど人気をさらった。

 

辻政信 つじまさのぶ (1902-61) 陸軍大佐・政治家

è作戦の神様

満州建国時代から「王道楽土」の理想を掲げ軍部の参謀として働いた。太平洋戦中も、物量では大きなハンデを背負わされた日本軍にあって、作戦戦略に知恵を絞り優位に立たせたこともある功労者。マレー・シンガポール作戦にその功績をうかがい知ることができる。現代における傑出した軍師であった。

 

辻元清美 つじもときよみ (1960- ) 衆議院議員

è市民屋

市民団体「ピースボート」を立ち上げ会長に治まった。世に言うところの「正義を楯にした蛮行の数々」が取りざたされ、〈市民屋〉の称号を与えられている。

 

津田仙 つだせん (18371908) 明治の百芸家

è明治の大平民

〈明治の大平民〉とはこの人のためにある異名であろうことは、すさまじいばかりの経歴を見ればうなずける。山室軍兵著『偉大なる平民津田仙』によると、佐倉藩士時代に剣を学び諸国武者修行に出る。あわせて槍術、馬術、水練、砲術を修め、蘭学者と英学者を名乗り、幕府外交吏に就く。維新時は佐幕に与し官軍と戦う。次に浪人しのち翻訳・通弁を行い、ホテル支配人になる。また農業を営み、西洋野菜の栽培を手がける。次いでオーストリア大博覧会事務官兼審査官に。続いて興農社を設立し社長となり、さらに新聞記者・著述業もつとめる。禁酒会の会長になったり植木屋や動物輸入商、そして本屋を開き…。本人曰く「まだ華族と乞食になっていない」とのたまわっている。

 

堤ツルヨ つつみつるよ (1913- ) 衆議院議員

è未亡人代議士

昭和24(1949)年に初当選。死別した夫との間にもうけた女児を連れて登院し話題になった。〈ドテ・ツルさん〉との珍称も併せ持つ。

 

堤康次郎 つつみやすじろう (18891964) 実業家

èピストル堤

西武コンツェルンの創設者。荒っぽい手段で大規模開発などを推進することで〈ピストル堤〉と恐れられた。軽井沢・箱根の土地開発では東急の「強盗(五島)慶太」と辣腕ぶりを張り合い、庶民をしてどっちもどっち、と呆れさせた。

 

円谷英二 つぶらやえいじ (190170) 映画製作者で、監督

è映画の魔術師

昭和29(1954)年大ヒット映画『ゴジラ』の特撮により、一躍世界的に名を知られた。その独創に満ちた特撮技術は〈映画の魔術師〉にふさわしく、のちの特撮版『ウルトラマン』シリーズに受け継がれている。以上から彼はまた、〈特撮の神様〉とも呼ばれている。

 

坪井正五郎 つぼいしょうごろう (1863-1913) 人類学者

è人類学の鼻祖

考古学・人類学の権威。ことに人類学では、東京大学理学部大学院で人類学を専攻し、院生の身分で「東京人類学会」を創設するなど、終生を斯学の学究に尽くした。海外渡航経験も豊富で、大正2(1913)年、露都ペテルブルグに出張中、同地で客死している。

 

坪内せん つぼうちせん (1864-) 坪内逍遥夫人

è女郎上がり

東京は根津遊廓出の人。大八幡楼の源氏名「花紫」時代に登楼した逍遥と知り合い、口説かれて所帯を持つ。

〈女郎上がり〉とは、もちろん口うるさい近所の評である。せん本人は良妻であろうと心がけ、夫婦仲もむつまじかった。松本清張は著『文豪』中でせんをわがまま女として描いているが、これでは視点が井戸端のカミさん連と同じであり、逍遥もせんもともに浮かばれまい。

 

坪内道則 つぼうちみつのり (191497) プロ野球選手

è球界の生き字引

選手・コーチ・監督の豊富な体験を通し、昭和期戦前戦後を通じて球界動向を的確に把握した人。その知識の広さと深さとを称えて呼ばれた。

妻木松吉 つまきまつきち (1901-?) 強盗犯

 è説教強盗

多くの犯罪者の例がそうであるように、妻木の場合も実名よりも通り名のほうがよく知られている。

大正15(1926)年から2年半の間に、妻木は東京で84件の強窃盗を重ねている。彼は金品を奪ってから家人に「犬を飼え」とか「軒灯を付けよ」など防犯心得を説いたことから〈説教強盗〉の名で有名になつた。

 

津村謙 つむらけん (192361) 歌手

èリルのツムケン

1951年に津村歌う「上海帰りのリル」が大ヒット、これにちなんで〈リルのツムケン〉と異名で通った。あまりにも有名になりすぎ、精神病院から脱出した女性が訪ねて来て「私がリルよ」と言い張り、津村をびっくりさせる一駒もあった。

 

鶴賀新内 つるがしんない (1714-74) 新内節の開祖

è節落しの新内

江戸吉原の遊廓界隈を流して風物詩にまでなった盲人。

新内は惚れ惚れするような美声の持ち主で、それが三味線の爪弾きと共にくすぐるような鼻音「節落し」と相まって、いやがうえにも哀切の情感を盛り上げた。

 

鶴ヶ嶺昭男 つるがみねあきお (19292006) 力士で、関脇

è弟子づくりの名人

引退後の昭和47(1972)年に君ヶ浜部屋を興す。傑出した力士育成の指導力を発揮し、史上初の3兄弟力士を誕生させるなど、実績も豊富である。

 

都留重人 つるしげと (19122006) 経済学者

èリベラル社会主義者

変動著しい現代経済の動向をとらえ、体制を柔軟に変革しうる政治経済理論を発表。体制にくみしない富の再分配平等論で世界的にも注目された。

 

鶴田浩二 つるたこうじ (192487) 映画俳優

èしかめっ(つら)美男

「古い奴でござんすが…」でおなじみ、東映仁侠映画でヤクザ渡世を好演した二枚目。甘いマスクと地味な台詞まわし、ニヒルな雰囲気を匂わせたことからファンに〈しかめっ面美男〉と渾名された。

 

 

 

ディック・ミネ (190891) 歌手

è離婚の神サマ(週刊文春、1977.7.19)

和製ジャズの草分け的存在。愛人とのうわさも多く、離婚を何度も繰り返した経歴から。渾名を巡る噂の与太話の一つににすぎないが、彼の陽根はビッグサイズで並みの婦人には合わず、これが離婚を繰り返す原因だった、とも伝えられている。

しかし真面目にやるべきことはメリハリを付けた男で、日本歌手協会会長も勤めた。

 

出口王仁三郎 でぐちわにさぶろう (1871-1948) 宗教家で、大本教教祖

è日本のラスプーチン

大本教創始者の出口なおの娘婿。二人で力を合わせ信者16万人の大宗教に育てた陰には、黒い噂が絶えなかった。なおラスプーチンは、帝政ロシア時代に宮廷に取り入り権力を握った怪僧。

 

勅使河原霞 てしがわらかすみ (193280) 華道家

è華麗なる色彩派

草月流二代家元。色彩を大胆に駆使した作風で注目された。

 

勅使河原草風 てしがわらそうふう (190079) 華道家で、草月流の創始者

è前衛華道家

草月流による蒼風時代を築き上げた。前衛生花でのカリスマである。しかし戦後草月流を立ち上げたときは、正統派から「夜の女のような生花」などと手厳しい批判を浴びた。

 

手塚治虫 てづかおさむ (192889) 漫画家

è

小学生時代から漫画と虫に熱中したという。手塚の場合〈虫〉は愛称であると同時に人間ブランドでもある。「治虫」のペンネームもオサムシからの命名だという。アニメ制作会社の「虫プロダクション」も代名詞化した「虫」をよりどころにしている。

 

寺内正毅 てらうちまさたけ (18521919) 陸軍軍人・政治家

èビリケン

「ビリケン」は明治時代、東京京橋の菓子司・文明堂の主人がアメリカから取り寄せた招き人形のこと。日本におけるびんずる様よろしく、足裏を掻いて呪文を唱えると願いが叶うというので、模造品が売り出され花柳界などで大流行した。寺内は三角むすび面でその〈ビリケン〉に容貌がよく似ていた。

 

寺山修司 てらやましゅうじ (193583) 文筆家・評論家

è反権力文学者

短歌、俳句、詩、戯曲、小説あるいは文明評論、寸鉄、はては広告コピーから競馬予想まで、多芸の才を示した人。前衛劇団「天井桟敷」を結成し、演劇実験室の成果を世に問いもした。つねに芯の通った気骨を発揮し、権力や体制批判に手を緩めなかったことで〈反権力文学者〉との称号を貰った。

 

照国万蔵 てるくにまんぞう (191977) 力士で、三十八代横綱

è桜色の音楽

桜色を帯びた美肌の持ち主であり、土俵では軽快なリズム感にあふれた取口から、相撲取りに似つかわしくない文学的な形容で評された。

 

天愚孔平 てんぐこうへい (1707?-1817) 出雲松江藩の藩儒

 è千社札の祖

寺社の門など建物の高所に貼り付けてある千社札をはやらせた元祖。東京都墨田区向島の長命寺には、その証とする納札塚があり、この天下の奇人の珍妙な道楽の存在を示している。なお読者はお気づきだろうか、孔平自称の生年を信じると、110歳で没したことになる。

 

天中軒雲月〔二代〕 てんちゅうけんうんげつ (190995) 女流浪曲師

è七色の声

昭和時代に広沢虎造と並んで人気を博した浪曲師で、作中人物になりきった声色の使い分けには定評があった。演じ物は「杉野兵曹長の妻」「出征兵士の妻」「九段の母」など戦時時局にちなんだものが多い。

 

 

 

土井垣武 どいがきたけし (192199) プロ野球選手

è外人キラー

昭和15(1940)年阪神に入団。ポジションは捕手だが、史上まれに見る捕手と評された。バットを寝かせて外人投手の速球を右翼へ長打する技術をモノにし、ファンから〈外人キラー〉と異名をとった。

 

土井たか子 どいたかこ (19282014) 政治家で、日本社会党委員長

èおたかさん

本名は多賀子。通称に音通させ、いつしか〈おたかさん〉が愛称になった。

 

東郷青児 とうごうせいじ (18971978) 洋画家

è二科の総帥

長期にわたり二科会会長の座に居座り同会を牛耳った曲者である。彼は少年時代、貧窮の辛さを痛いほど味わった。そのためセコい世渡り術を身に就け、他人を押しのけてでも金銭欲と名誉欲が強かった。一度つぶれかけた二科会再建のおり、整理委員から会員名簿と会の印鑑等を強引に手に入れ、再興を果たすや会長に治まっている。1点につき500円という当時としては法外な審査料を決めたのも東郷だ。華麗なタッチの女性像に騙されてはいけない。

 

東郷平八郎 とうごうへいはちろう (18471934) 海軍軍人で、元帥

è東洋のネルソン

薩摩藩士で、明治維新後イギリスに留学。日露戦争では連合軍艦隊司令長官としてバルチック艦隊を撃破、戦功を称えて〈東洋のネルソン〉と。ネルソンは英国海軍が誇る名提督の名である。

 

東条英機 とうじょうひでき (18841948) 政治家・陸軍大将・首相

è東条軍曹

石原(かん)()(18891949、陸軍中将で満州建国の推進者)の東条嫌いは徹底していた。時の陸軍大臣で首相、大将の地位にある人物を一挙に降格させ、〈東条軍曹〉と呼んではばからなかった。この人の敵対ぶりは東条の耳にも達し、東条も石原をいびり冷や飯食いの処遇に徹した。

 

東条操 とうじょうみさお (18841966) 国語学者

è方言研究の太陽

方言に関しては日本第一の権威で、ユニークな方言区画論を展開、『全国方言辞典』『標準語引分類方言辞典』などの著作がある。〈方言研究の太陽〉は学習院大学教授時代に付けられた。

 

桃水雲渓 とうすいうんけい (161283) 曹洞宗の僧

è乞食桃水

記録によると、50歳を過ぎる頃から飄然と紙衣縄帯の身なりで頭陀(ずだ)(ぶくろ)を下げつ京・大津界隈の寺々をめぐった。その姿を見た人、〈乞食桃水〉とささやきあった。そして晩年は、京の鷹ケ峰出酢造りに専念し「酢屋道全」の通称を得ていたという。

 

東野英治郎 とうのえいじろう (190794) 俳優

è黄門さま

昭和44(1969)年、TBSテレビドラマ『水戸黄門』シリーズでの主役に扮した。

頭山満 とうやまみつる (18551944) 国士で、玄洋社首領

 è天下の浪人

頭山は右翼中の国粋主義者で伝説的、スケールの大きな人物だが、表には出ずに隠然と采配を振るう存在であった。たとえば、玄洋社を立ち上げたが社長にはならず、蔭で組織の糸を引いている。公職にも就かず、事業に携わることもしない。自らの信念を実践した男で、人呼んで〈天下の浪人〉〈政客浪人〉あるいは〈右翼の巨頭〉と。

 

遠山景元 とおやまかげもと (?-1855) 江戸後期の町奉行

è文身(いれずみ)奉行

遠山は若い自分は名だたる遊蕩児で、酒と女に明け暮れた。そのすさんだ生活体験が後の薬となり、江戸の南北両奉行をつとめ見事な采配を振るっている。腕に桜花の刺青(ほりもの)があるのも放蕩時代の名残りで、人呼んで〈文身奉行〉は、あまりにも有名である。

 

土橋亭里う馬〔三代〕どきょうていりゅうば (生没年未詳) 近代の落語家

è眼パチ

丸顔の庶民的な顔立ちの人で、高座では目をしきりにパチクリさせたことから。

 

徳川家定 とくがわいえさだ (182458) 徳川第十三代将軍

è首振り将軍

 定家は虚弱体質で癇癖が強く、人間嫌いであった。首を絶えず左右に振っていたことから〈首振り将軍〉といわれた。

 

徳川家達 とくがわいえさと (18631940) 公爵で、貴族院議長

è十六代様

徳川外戚・田安家出自で一時は宗家を名乗る。血筋がモノをいって貴族院議長や日本赤十字社長など公職に顔を連ね、華冑界の長老的存在であった。そして家臣と称する取り巻きから、徳川(とくせん)家で慶喜に次ぐ〈十六代様〉と隠称で呼ばれていた。

 

徳川家重 とくがわいえしげ (171161) 徳川第九代将軍

è小便公方

体質が虚弱で言語発声も不明瞭、暗愚であった。成人してからもしばしば小便を洩らしたようなだらしなさから〈小便公方〉と馬鹿にされている。江戸城内に能楽師を呼びつけ演じさせるほど能に凝っていた。

 

徳川家綱 とくがわいえつな (164180) 徳川第四代将軍

èようせいさま

病弱のうえ政務に関心の薄い家綱は、閣老らの進言に対してもよく理解できず、「ようせい」といい加減に答えるばかりであった。

 

徳川家治 とくがわいえはる (173886) 徳川第十代将軍

èそうせい将軍

家綱に似たところはあるが、こちらはヤル気がないだけの話。幕臣が事のお伺いをたてても、きまって「そうせい」と気の乗らない返事を返したという。痴呆かというとそうではなく、たとえば将棋は玄人はだしで『将棋(こう)(かく)』という詰め将棋の教本を書き残している。

 

徳川家康 とくがわいえやす (15421616) 徳川初代将軍

è後家好み

公表されただけで、家康は生涯に2妻・15妾を抱えた。その多くが後家か召し上げた人妻である。彼の〈後家好み〉は後世の語り草になっているほど。裏方では〈ど助平将軍〉の評すらある。

 

徳川綱吉 とくがわつなよし (16461709) 徳川第五代将軍

è犬公方

なんしろ日本史に悪名最たる〈犬公方〉をとどろかせた張本人。発端は生母・桂昌院が帰依する隆光なる坊主から、嗣子が出来ないのは生前の殺傷の報い、生類とくに将軍戌年生まれにちなみ犬を大事に、とたきつけられたことに始まる。この男はただちに「生類憐みの令」を発し、犬を死傷させた者を死罪か遠島に処罰している。人間と畜生との判別もつかなくなった暗君の恐怖政治に庶民は〈犬公方〉と恐れおののいた。

 

徳川無声 とくがわむせい (18941971) 活動弁士・話術家

è雑学博士

人をそらさない話術はもとより、当を得た洞察力と博識で知られた。無類の読書好きなうえ野次馬根性も旺盛なので、知識が無尽蔵に広がっていく。所用で出かけるにもタクシーを使わず電車を利用、その理由は「車内で本が読めるから」と。

 

徳川慶喜 とくがわよしのぶ (18371913) 徳川第十五代、最後の将軍

è二心(にしん)(こう)

先代将軍家茂の後釜にすわった慶喜は、慶応2(1866)年長州征討の音頭をとった。当初、家茂の弔い合戦の号令を掛けたにもかかわらず、小倉城が落ちたと知って彼は休戦に持ち込む。この変節により〈二心公〉と(おくりな)まがいの渾名を付けられた。

 

徳川吉宗 とくがわよしむね (16841751) 徳川第八代将軍

è米将軍

米は政治の要という思想から卓越した産米奨励政策を実施、〈米将軍〉とまでいわれた。徳川歴代将軍のうち数少ない名君の1人である。

 

徳田球一 とくだきゅういち (18941953) 日本共産党の指導者

è①徳球

〈徳球〉いうまでもなく姓名の略称。社会運動で活躍中は〈徳球〉で広く通用した。

è②三等特急

①の語呂合わせに加え「三等」を冠したもの。なぜに「三等」なのかよくわからないが、特急の三等車によく乗るからか、あるいは共産党の親玉としてけむったい存在だからか(国鉄時代の三等特急は運賃は安いがトンネルでは煤塵でけむったく、かなり乗りごごちが悪かった)

 

徳富蘆花 とくとみろか (18681927) 小説家

è千歳(ちとせ)村の百姓

 蘆花は府下千歳村にこもって「自然と人生」を満喫していた。邸は京王電車・下高井戸駅から歩いて5分、当時は神田あたりから往復するにはけっこう時間がかかった。原稿運びの出版社員がなかば冗談に「文豪先生にふさわしく、もっと足の便のよい市内へ移られては」と水を向けても一向に応じない。社員は帰途〈千歳村の百姓〉とぼやきながら田舎臭い駅へ向かい、社へ戻るとこの渾名を吹聴したという。

 

毒蝮三太夫 どくまむしさんだゆう (1936- ) 落語家・パーソナリティ

è下町のインタビュアー

TBSラジオ番組『東食ミュージックプレゼント』でメインをつとめ、100万人以上という下町住民訪問の新記録を打ち立てた。老人に会っても「ジジイ」「ババア」と飾らずに呼ぶ気安さで大受けした。

 

戸栗郁子 とぐりいくこ (1916-?) 日系二世のアナウンサー

è東京ローズ

本名をアイバ・トグリ・ダキノというアメリカ国籍を持っている女性。昭和18(1943)年にNHK海外局である東京放送に勤め、午前0時に始まるゼロ・アワー放送で持ち前のセクシーな声で語りかけた。これを前線の太平洋諸島で聞き入る米兵は望郷の念に駆られ、彼らの戦意を喪失させるのにたいへん効果があったという。いつしか〈東京ローズ〉の名は広まり、謀略放送の女王として一躍有名になったが、戦後米占領軍に逮捕され、その後の状況はわからない。

 

土光敏夫 どこうとしお (189688) 実業家で、経団連会長

èミスター合理化

石川島播磨重工業や東芝の社長を歴任。高度成長期の日本にあって、徹底した合理主義経営により社業を伸ばし、〈ミスター合理化〉と称された。別に〈ミスター臨調〉〈財界総理〉の異称も付けられている。

 

床次竹二郎 とこなみたけじろう (18671935) 政治家

è床の間竹二郎

姓名をもじって〈床の間竹二郎〉といわれた。政治家として手腕が発揮できず、人望も薄かったことから「床の間」は単なる飾り物、と言い換えてよかろう。

 

所ジョージ ところじょーじ (1955- ) テレビタレント

èパロディ人間

有名なテレビ番組「笑っていいとも」などでおなじみの顔と芸名。回転の速い頭脳から繰り出すギャグやパロディは茶の間の人気をあおり、〈パロディ人間〉として不動(ところ)のポストを常時占めている。

 

戸田茂睡 とだもすい (16291706) 国学者・歌人

è隠れ家大人

江戸幕府の御家人であるが、晩年は隠遁生活を送った。彼の没後に友人らは家集『かくれ百首』を編纂。その冒頭の一首は

 人しれぬ身にまかすればおのずから求むときなき隠れ家にして

 

栃錦清隆 とちにしききよたか (192490) 力士で、44代横綱

 è四十八手の見本市

栃錦は100キロ程度の小柄ながら強烈な精神力の持ち主であった。それに四十八手に精通したテクニシャン。十両になってから勝ち星に用いられた技は42種類に及び、図抜けた多彩さである。なにしろ小兵の男が150キロ級の巨漢を倒すのだから見ているファンも痛快で、人気の高まらないはずがなかった。

 

戸塚文子 とづかあやこ (191397) 旅行評論家

èシャボテン夫人

渾名と同名の随筆集を著していることからマスコミに付けられた。

 

都々一坊扇歌〔初代〕 どどいつぼうせんか (180452) 遊芸者で、都々逸節の開祖

è大僧正

江戸牛込藁店(わらだな)で「都々一元祖うかれ節」の看板を掲げた坊扇歌は、旅回りの遊芸で身につけた都々一節や三味線の曲弾き、あるいは謎なぞ解きで江戸っ子に知られていた。彼は坊主頭に法被(はつぴ)姿で(謎なぞ解きでは羽織袴)という高僧の扮装で芸を演じたため、〈大僧正〉と渾名された。

 白鷺が小首かたげて二の足踏んでやつれ姿の水鏡            坊歌

 

都々一坊扇歌〔二代〕 どどいつぼうせんか (?-1867) 女音曲師

 è()(らい)

歌女(かめ)(きち)という芸名から扇歌を襲名。弟子たちに大変口やかましかったという。

 

轟夕起子 とどろきゆきこ (191767) 女優

èトルコ

本名である(西山)都留(つる)子を捩った仲間内での渾名。昭和の大女優で、客寄せ効果の高い看板スターであった。

 

トマス・デ・サン・アウギスチノ(1602?-1637) 江戸初期キリシタンの殉教者

è金鍔(きんつば)()兵衛(へい)

 日本人で、トマス以下は修道名である。俗名は伝兵衛。肥前大村に生まれ、キリシタン殉教者を父母にもつ。マニラで神父の資格を得た次兵衛は帰国して伝道に当たるが、長崎奉行の知るところとなり、手配の人相書きが配られた。ところが彼は神出鬼没、金の十字架を嵌めた刀に向かい呪文を唱えると姿がパッ

と消えるため、この名が付けられたという。

 

戸水寛人 とみずひろんど (18611935) 法学博士で、帝大教授

èバイカル博士

日露戦争時に七博士の一人に数えられた人。日本帝国はシベリアへ侵攻してバイカル湖を占領し日本の領土となすべし、との主張を聞いた世人は〈バイカル博士〉と持ち上げた。

 

富田銀蔵 とみたぎんぞう (1866-?) スリ団首領

è仕立屋銀次

銀蔵は13歳で仕立屋に奉公、21歳で独立後、惚れた相手のお針子が当時スリの親分、清水熊の妾の娘であった。熊が死んでから銀蔵は親分の跡目を継ぐ。箱師つまり乗物内を稼ぎ場とし、銀次(変名) は仲間の人望厚く豪勢な暮らしをしていた。懲役で出所後、昭和四(1929)年頃から消息不明だが、遺恨をもつ者に殺された、との説もある。

 

富本一枝 とみもとかずえ (190170) 婦人運動家・画家・作家

è新しい女

尾形紅吉という男名前のペンネームを使い画文を発表。『青踏』記者時代は平塚らいてうと同性愛関係にあったり、女でありながら吉原へ登楼するなど、とかく話題の多い女傑であった。

なお「新しい女」とは大正時代の流行語であるが、富本のような既成概念打破の女性の出現によって、個人的にも用いられるようになった。

 

外山正一 とやままさかず (18481900) 文学博士で、新体詩の先駆者

è大入道

外山は五尺八寸はある偉丈夫、 巨大なイガ栗頭の持ち主であった。帝大文学部教授になるやいなや異様な容姿が学生間で評判になり、〈大入道〉とか〈赤門天狗〉といった渾名が奉られた。

 

豊竹呂太夫〔初代〕 とよたけろだいゆ (生没年未詳) 義太夫節の浄瑠璃太夫

èチャリチャリ

初代は通称「享保の露太夫」と呼ばれている人。享保10(1725)年に『身替弓張月』で豊田家座へ初出座。元文元年(1736)3月豊田家座で『和田合戦女舞鶴』4段目の口を語る。河内太夫と改名した呂太夫の語り口を特に「阿舎利場」と称え、四の口曲風を彼が楽屋では阿舎利阿舎利と言っていたのが訛っていつしか〈チャリチャリ〉となった。後にこれは、呂太夫をさす隠語のようにも使われるようになった。

 

豊臣秀次 とよとみひでつぐ (156895) 秀吉の甥で、関白

è殺生(せつしよう)関白

秀次は救いようのないほど粗野で残虐、そして好色な人である。生き身の妊婦の腹を割いて胎児を引き出す。鉄砲の稽古の的代わりに畑仕事の農夫を撃ち殺す。夜な夜な京の町に忍び出て辻斬りを愉しむ。その鬼畜のような秀次は文禄4(1595)715日、太閤の命令で幽閉先の高野山青巌寺において切腹させられた。理由は、伯父に謀反を企てたことになっているが、じつは秀吉に実子秀頼が出来たため、わが子可愛さに疎んじられたというのが真相だ。秀吉も悪鬼そのもので、同時に連座の名目で秀次の臣や女たちをことごとく処刑。秀次の妻妾30名は辞世を残しており、これを太田牛一が『大かうさまぐんきのうち』に記録している。ともあれ秀次は〈殺生関白〉の汚名を冠せられ、一統の墓所は「畜生塚」と忌み嫌われることになった。

 

豊臣秀吉 とよとみひでよし (1537-98) 戦国武将で、太閤

è①猿面冠者

出世前の木下藤吉郎時代からの渾名で、顔だちが猿によく似ていたことから。

è②天下様

天下を制覇し大阪城に居を構えたころ、人呼んでの敬称。

 

寅吉 とらきち (生没年未詳) 江戸後期の異能少年

è天狗小僧

文政3(1820)年秋、〈天狗小僧〉寅吉という超能力の噂高い15歳の少年がいた。彼は失せ物探しや富くじ番号などを次々に当て、江戸中の評判になった。国学者の平田篤胤は評判を聞くに及んで興味を持ち、仲間の屋代輪池を伴い山崎美成(よししげ)宅を訪れ、そこで協議の上、ツカイを出して寅吉を呼び出した。そのおりのいきさつが問答集の体裁でまとめられ、『仙境異聞』という書で出版されている。

 

鳥居庄吉 とりいしょうきち (生没年未詳) 元禄時代の歌舞伎役者

è第一たいこ名人

元禄6(1693)に女形の鳥居庄七に養子入り。傾城事の揚屋役、太鼓持ち(幇間)役に迫真の演技を披露し、当代随一の名手の意味で〈第一たいこ名人〉と称された。

 

鳥居耀蔵 とりいようぞう (17961873) 幕臣で、南町奉行

è妖怪

甲斐守忠耀(ただてる)と称した。人々は甲斐および耀3文字を並べ替え、語呂に合わせて〈妖怪〉と称した。天保12(1841)12月、江戸南町奉行矢部定謙(さだのり)を失脚させた鳥居はその後釜に座り、楼忠水野忠邦の参謀役をつとめる。彼の策謀の変幻自在振りが目に付き、人呼んで〈妖怪〉と。

 

鳥尾鶴代 とりおつるよ 1912-91) 鳥尾敬光子爵夫人

è戦後鹿鳴館時代の女王

終戦後にGHQ(連合国軍総司令部)高官が夜ごとに催すパーティでホスト役を勤める。そのうち民生局次長のケーディス大佐に囲われる身となり、彼が離日したあと銀座でバー「鳥尾婦人」を開く。マダム時代も某代議士とのスキャンダルをまき散らすなどマスコミを賑わした。

 

 

 

南阿弥 なあみ (?1381) 南北朝時代の遁世者

è節の上手

能の愛好者で、連歌など諸芸にも堪能。足利義満に仕え、観阿弥を後援するよう口添えしている。作曲まで手がけ、猿楽能や田楽の道の者から〈節の上手〉と賞賛された。別に〈海老名の南阿弥陀仏〉なる変った呼称ももつ。

 

内藤国雄 ないとうくにお (1939- ) 棋士

è王将歌手

「自在流」という独特の戦法を駆使して王座を獲得した人。美声にも恵まれて、昭和51(1976)年「おゆき」を吹き込みヒットをとばしている。

 

内藤誉三郎 ないとうたかさぶろう (1912-86) 文部事務次官 参議員議員

è切られ誉三

内藤は文部省勤めの官僚時代、勤務評定や学習指導要領の改訂などで思いきりのよい行政手腕を発揮。反対する日教組と渡り合って押し切り、その強引さから〈切られ誉三〉の異名を取った。もちろん歌舞伎『切られ与三』になぞらえた渾名である。

 

直木三十五 なおきさんじゅうご (1891-1934) 作家

è一、二、三ンの三十五

直木賞のオナーになったこの作家、頭の回転が速いだけでなく、短くてやさしく、わかりやすい文章を書く。すなわち名文家なのである。彼は作品中に「一、二、三ン」という間投詞を好んで挿入。また31歳で文筆活動に入ったとき、筆名を「三十一」とした。翌年は「三十二」.翌々年は「三十三」に。三十四は飛ばし、5年目の「三十五」から落ち着いた。こんな茶目っ気たっぷりの人物だから付き合う仲間も多く、〈一、二、三ンの三十五〉は人気者であった。

 

永井荷風 ながいかふう (1879-1959) 作家

è荷風大人

大人の風格で遊びまわったことから付けられた。銀座や下町を堂々と遊歩した足跡が著『断腸亭日記』に記されている。

 

中井貴一 なかいきいち (1961- ) 俳優

è中井貴公子

往年の美男俳優、佐田啓二を父にもつ。見るからに貴公子然とした端正なマスクとともに、近頃は演技に渋味が加わってきた。

 

永井隆 ながいたかし (1908-51) 医学者で、放射線技師

è浦上の聖者

昭和20(1945)89日の原爆被爆体験記『長崎の鐘』を書いて世に問い、ベストセラーに。作品の印税や映画化権料は浦上天主堂再建、地元困窮者の救済に寄付。自身は天主堂傍のほッたて小屋に住み免れられない死に向き合い余生を送った。この美挙はマスコミに取り上げられ、〈浦上の聖者〉と称えられた。

 

永井道明 ながいどうめい (1868-1950) 学校体育指導者

è学校体育の父

海外の体育事情視察後、永井は東京高等師範学校教授となり、わが国初の「学校体育教授要目」を完成させ発表した。日本におけるスエーデン体操の権威でもあり、〈学校体育の父〉といわれている。

 

永井道雄 ながいみちお (1923-2000) 教育評論家・文相

è学者文相

アメリカのオハイオ州立大学で教育社会学を学ぶ。昭和49(1974)年三木内閣の文部大臣に就任。彼は官僚上がりのキャリア組でなく、異質の系統出なため〈学者文相〉と注目された。

 

中内功 なかうちいさお (1922-2005) 実業家で、ダイエーグループの総帥

è流通の革命児

戦後の闇市で、中内は「女と麻薬以外は何でも」扱う闇屋から商売を出発させた。目先の利いた商売上手で小金を貯え、昭和32(1957)年大阪の千林に「主婦の店ダイエー」を開く。旺盛な需要に支えられて支店を増やし、10年後の『日本の小売業調査』では売上高5位にランク入りした。同55年に年商1兆円を達成、長期にわたり業界ナンバーワンの地位を保ち続けた。

しかし平成に入るとそのダイエーも経営に綻びを生じ、流通王者の屋台骨を揺るがす結果となったのである。

 

中江藤樹 なかえとうじゅ (160848) 儒者

è近江聖人

近江の出身。朱子学に精通、独学で四書大全を修めている。米子に移り郡奉行に任ぜられる。

時移り、老母の面倒をみたいからと致仕を願い出たが許可されなかったため脱藩、地位を棒にふって故郷に帰り母に孝養を尽した。藤樹は地元の農民とも親密に接し、身分差を超えた徳化という草の根運動によって農民らに慕われ、〈近江聖人〉と敬われた。

 

中尾彬 なかおあきら (1942- ) 俳優

è俳優画伯

画才に恵まれ、パリのル・サロン展でグランプリや国際賞を得たほどの腕前。しばし個展も開いている。

 

長岡良子 ながおかながこ (190383) 新興宗教の教祖

è璽光尊

新興宗教の璽宇教教祖。他人が付けたのではなく自称との説もあるが定かでない。昭和22(1947)年に信者の元横綱・双葉山関が手入れで警官隊と衝突、大立ち回りを演じる事件があった。

 

中川一郎 なかがわいちろう (1925-83) 科学技術庁長官・国会議員

è北海道のヒグマ

往時、行動派の若手閣僚として「青嵐会」の主流派にあった人。豪放磊落、野性味に溢れた人間性から〈北海道のヒグマ〉とのニックネームを付けられた。

 

中川かる なかがわかる (1862?) 自称の民権論者

è女浪人大和家民子

往時の東京府下飾東郡飾磨町で有名だった女傑。海老茶のフランネル服に袴を着し、白木綿に鉢巻(たま)(だすき)といった勇ましい身なり。しかも右手に木刀を引っさげ、人力に乗って町内を流させた。町の辻つじに(くるま)を止めさせ、大音声を張り上げて「わらわこそは女権拡張に熱心なる東洋の〈女浪人大和家民子〉なり、本日○○所で腐敗男子の退治、女目覚ましの大慷慨演説会を開くにつき…云ぬん」とブチ上げた。自称のうち〈女浪人〉のほうは町内の通称渾名を利用したものである。

 

中川金治 なかがわきんじ (18741949) 林業家

è山の御爺

若い頃は東京帝国大学農科の篤志林業夫であった。地元の奥多摩で水源林造成事業に生涯を捧げ、晩年は奥多摩を守る篤志家として敬われた。

 

中川三郎 なかがわさぶろう (19162003) ソーシャルダンサー

è社交ダンスの父

ニューヨークで学び、タップダンスとモダンダンスをマスターする。帰国後はわが国社交ダンスの大衆化を推進し、ダンス界第一人者の地位を不動のものにした。

 

中川虎之助 なかがわとらのすけ (18591926) 政治家・実業家

è砂糖代議士

衆議院議員時代に製糖業者の便宜を図るため、砂糖業界保護行政の強化と輸入砂糖関税の引き上げを主張してきた。

 

中島喜代志 なかじまきよし (191496) 登山ガイド

è谷川岳の主

谷川岳登山口の土合山の小屋を拠点に、登山者の案内、指、救援援助、あるいは登山道の整備に貢献、〈谷川岳の主〉と頼りにされた。

 

中島健三 なかじまけんぞう (190379) 評論家・仏文学者

è行動する知識人

中島は東京大学で28年間も講師を続けた。フランス文学の造詣が深く、なかでもボードレールを語らせたら日本で右に出る者はいない、といわれた。

 

長嶋茂雄 ながしましげお (1936- ) プロ野球の選手・監督

èミスター・ジャイアンツ

昭和49(1974)年に巨人軍から身を引き、翌年堂軍艦特に就く。ジャイアンツと共に生きた男である。世に広く〈長さん〉の愛称で呼ばれている。

 

中島棕隠 なかじまそういん (17791856) 儒者で、好事家の文人

è色道仙人

江戸時代の性典『色道禁秘抄(しきどうきんぴしよう)』は兎鹿斎先生の著、これは宗因が隠し名で書いたものとされている。兎にも角にも色の道の大家。実践面では妾に割烹を営ませ、女出入りは目茶苦茶、この上なく房事ご多忙であったらしく、いつの間にか〈色道仙人〉の名が通ってしまった。この人と並んで『色道大鏡』を書いた畠山箕山、この二人は間違いなく江戸の通人であった。

 

中曽根康弘 なかそねやすひろ (1918- ) 政治家で、首相

è政界風見鶏

昭和58(1983)年の訪米で、いわゆる「ロン・ヤス会談」を強固にした勢いを駆り、「日本列島を浮沈空母にする」との発言を口にした。これがマスコミに批判されると、言わない、いや言った二転三転。サミット会談でも「欧州に中距離核戦略を断固配備せよ」と発言し物議をかもした。括弧たる政治哲学を持たない人と見られ、マスコミから〈政界風見鶏〉というありがたくない異名を貰っている。

 

永田貞雄 ながたさだお (190493) 興行師

è興行界のドン

大正11(1922)年、浪曲師から独立し興行師の看板を掲げた。戦後は新日プロを設立、流行歌主の養成、プロレス興行に力を入れ、斯界での実力者となった。

 

永田敬生 ながたたかお (191198) 実業家で、日立造船社長

è電気掃除機

日立造船社長時代、ギリシャから大型タンカーを根こそぎ受注、永田の歩いた後には何も残らないという意味で業界他社から〈電気掃除機〉 といわれた。

 

永田雅一 ながたまさいち (190685) 映画プロデューサー

è永田ラッパ

松竹社長時代のワンマン経営者。弁舌に長けひとたびしゃべり始めると長広舌をとどろかせたことから〈永田ラッパ〉と渾名された。プロ野球チームのオーナーになったり馬主になったりと、とかく話題を振りまいた。

 

中野浩一 なかのこういち (1955- ) 競輪選手

è①ミスター競輪

è1億円の脚

競輪王戦や日本選手権などビッグプライズを総ナメ。海外でも名選手として聞こえが高い。

 

永野重雄 ながのしげお (190084) 富士製鉄社長・ 日本商工会議所会頭

è財界のドン

日商会頭時代のゆるぎない異名。目を見張るような積極的財界活動を展開し、時の政権にも多大の影響を与えた。

 

長野主膳〔義言〕ながのしゅぜん/よしとき (181562) 国学者

è義言大老

彦根藩主の井伊直弼(なおすけ)に仕えていたが、嘉永5(1852)年直弼が大老になると補佐役に就いた義言も権力をふるい、その態度はあたかも義言自身が大老であるかのようだったという。この渾名はそれを反映して付けられた。

 

中林梧竹 なかばやしごちく (18271913) 書家

è銀座の書聖

六朝(りくちよう)(中国六朝時代にはやった書風)にかけて梧竹はわが国第一人者で、当時の書道界に大きな影響を及ぼした。彼は中国遊学後、東京銀座の紳士服店・伊勢幸の二階に30年間も寄寓、〈銀座の書聖〉としてあまねく知られていた。

 

中原淳一 なかはらじゅんいち (1913-83) イラストレーター、人形作家

èニョロリスト

レトロな美少女イラストで一世を風靡した人。彼が描いた得は多くの少女雑誌の表紙を飾り、ロリコン趣味の親父に目の保養をさせた。〈ニョロリスト〉というニックネームは、そうした描画のイメージをファンが勝手に押し付けたものである。しかし中原自身は「抒情画家」と呼ばれるのを嫌い、本性はたくましい男性的な絵を志向していたようだ。

 

中原ひとみ なかはらひとみ (1936- ) 女優

èバンビちゃん

芸能界にデビュー当時、大きくてつぶらな瞳が小鹿のバンビを連想させると評判になった。 この愛称にちなんで、東京・六本木にアクセサリーショップ「バンビーナ」を経営している。

 

中部銀次郎 なかべぎんじろう (19422001) アマチュアゴルファー

èプロより強いアマチュア

昭和42(1967)年、中部は西日本サーキットで並み居るプロゴルファーを尻目に優勝、メディアから〈プロより強いアマチュア〉と絶賛された。中部の知人でゴルフ評論家の杉山通敬は、中部の告別式に臨んで〈ゴルフの(ひじり)〉との弔辞を贈っている。

 

那珂道世 なかみちよ (18511908) 東洋史学者

è自転車博士

博士号を持つ那珂にとって学問を離れた唯一の道楽が、当時流行の自転車乗りであった。彼は愛輪ピアス号にまたがり、日本全土から朝鮮半島、果ては満州まで周遊し、〈自転車博士〉と世人の注目を集めた。

 

長嶺ヤス子 ながみねやすこ (1936- ) スペイン舞踏家

èフラメンコの女王

若い頃NHKホール等で公演、つねに満席になるほど人気を集めた。大のペット好きでも知られている。

 

中村敦夫 なかむらあつお (1940- ) 俳優・レポーター

è中村紋次郎

昭和47(1972)年、TBSテレビ時代劇『木枯し紋次郎』でニヒルな主役をつとめ全国的に人気を高めた。これにあやかり、世間は〈中村紋次郎〉と二つ名で洒落た。

 

中村吉兵衛 なかむらきちべえ (?-1765) 歌舞伎役者・幇間

è二朱判吉兵衛

役者時代の吉兵衛は、小柄だが小回りのきくピリッとした脇役で売り出す。俗に「小粒」という二朱金貨に擬して、人呼んで〈二朱判吉兵衛〉と。

彼はまた〈鶯〉と異名されるほど美声の持ち主で、小唄もよくした。晩年は役者を退き、吉原の男芸者に転向した。

 

中村七三郎〔初代〕 なかむらしちさぶろう (16621708) 歌舞伎役者

èわたもちの今業平

江戸和事(わごと)の祖ともいわれた七三郎は、女形の立役で天下に名をとどろかせ、当代随一の演技力のある美男の意味を込め〈わたもちの今業平〉と評された。

なお「わたもち=腸持」とは、見てくれだけでなく中身も備えた人物をいう江戸の俗称である。

 

中村玉緒 なかむらたまお (1939- ) 女優

è悪妻役の良妻

俳優勝新太郎の妻。若い頃マスゴミにあれこれ騒がれながらも不良亭主の勝新太郎を支え尽くしたことで知られる。一般的ではないが、床での具合がよい女を指す〈こつまなんきん〉という隠れた渾名ももっている。

 

中村寅吉 なかむらとらきち (19152008) プロゴルファー

èパットの神様

現役活躍の頃、パッティングのうまさには定評があり、数々のトーナメントで優勝している。昭和32(1957)年には国際試合カナダカップで優勝し、日本のゴルフブームの口火を切った。

 

中森明菜 なかもりあきな (1965- ) 歌手

èツッパリちゃん

現役時代、実力はあるが生意気、がもっぱらの評価だった。彼女自身の言い分は、「つっぱってなんかいない、自分の心に素直でいたいだけ」(週刊明星、1982.12.1623合併号)

2010年、長期休養を宣言している。

 

中谷宇吉郎 なかやうきちろう (190062) 物理学者・随筆家

 è雪の博士

雪の研究において第一人者。雪の結晶形を分類整理した「中谷ダイヤグラム」を発表、随筆でも文章の冴えを見せている。

 

中山晋平 なかやましんぺい (18871952) 作曲家

è日本のフォスター

中山は昭和4(1929)年「東京行進曲」を作曲し、空前の大ヒットをとばしている。彼のレパートリーは歌謡曲にとどまらず、民謡から童謡まで多彩で、旋律も日本民族の伝統をうたいあげたことから〈日本のフォスター〉と呼ばれた。

 

中山富三郎〔初代〕 なかやまとみさぶろう (17601819) 歌舞伎役者

èぐにゃ富

女形にふさわしく、役の上だけでなく普段も身のこなしまで嫋じょうとしていたため〈ぐにゃ富〉と。世話物を得意とした。

 

中山文七 なかやまぶんしち (175598) 歌舞伎役者

è鬢付(びんづけ)

小柄で美貌、大歌舞伎にも出たことのある人気中どころの役者。晩年は稼業を油屋に転じたので〈鬢付屋〉の屋号代わりで呼ばれた。

 

中山みき なかやまみき (17981887) 宗教家で、天理教の教組

è①天理王命

è②天の将軍

è③おやまさま

開眼するまでみきは不幸な人生を辿ったという。天保9(1838)年、突然神がかりに入り、天理教の経典『みかぐらうた』を作成。明治二年には『おふでさき』なる歌集をまとめ、いわゆる「陽気ぐらし」を通して布教に努めた。〈天理王命〉〈天の将軍〉ともにみきの自称であり、確とした教祖位置付けを示している。教義に基づくこれらの尊称は、やがて信者のつねに口にするところとなった。

 

永山盛輝 ながやまもりてる (18261902) 文部官僚

è教育権令(ごんれい)

永山は筑摩県(現福岡県の一部)権令を任じてから県下の230余校を視察、子弟の就学を熱心に説いて回り、その熱意に〈教育権令〉とたたえられた。なお「権令」とは明治新政府が定めた権知事を改称した官吏役職名である。

 

仲吉良光 なかよしりょうこう (18871974) ジャーナリスト・政治家

è沖縄復帰の父

戦後アメリカの施政権下にあった沖縄の本土復帰に全力を尽くした人。復帰は表面上、時の総理佐藤栄作の手柄になっているが、実際は仲吉が展開させた草の根運動によるところが大きい。

 

名越南渓 なごえなんけい (16991777) 水戸の儒者

èボロ十蔵

通称は十蔵。ケタ外れの酒好きで、昌平黌に学んでいた自分から学問そっちのけで酒に溺れていた。酒代に困って弊衣をまとい、それでも徳利は放さなかった。

 

梨本勝 なしもとまさる (19442010) 芸能レポーター

è①突撃レポーター

è②スキャンダル屋

芸能界にスキャンダルの匂いを嗅ぎつけると、この人持ち前の強心臓をもってトコトン食い下がる。この度胸は「激迫」といわれ、〈ゴシップ料理人〉とも称されている。ただでさえ派手でいかがわしい芸能界の尻を追い回すのだから、バッチイ異名がたくさん付きまとったのもいたしかたなかろう。

 

夏樹静子 なつきしずこ (1938- ) 作家

èミステリーの女王

NHKテレビで『私だけが知っている』の台本を3年間も書き続けた人気の兼業主婦作家。『蒸発』など社会性の強い作品を発表、本もよく売れて〈ミステリーの女王〉の座を不動のものにしている。

 

七海又三郎 ななうみまちさぶろう (18831972) 新聞経営者

è販売の鬼

東京日日新聞の販売部長時代、定期購読者の獲得に邁進し、同紙を100万部達成に導いた。

 

鍋沢ワカルパ なべさわわかるぱ (18631913) ユーカラ語り部

èアイヌのホメロス

紫雲古津コタンの首長、ウトムリウクの弟で、家は代々語り部をつとめている。記憶力に秀で、数々の昔話を伝承し、金田一京助から〈アイヌのホメロス〉と賞賛された。

 

浪野東助 なみのとうすけ (183689) 力自慢

è天下の力持ち

日本橋本町に住んだ伝説の力持ち。浅草公園あたりへ出向いては、酒樽、米俵、挽臼などの重量物を差し上げるなど力芸を披露に及んだ。両国中村楼での書画会での余興に、俵にくくりつけた大筆を両手に持ち、「書画小集」の文字を書いた。噂はたちまち広がり、〈天下の力持ち〉と異名された。

 

名寄岩静男 なよろいわしずお (191471) 力士で、大関

è怒り金時

気が短く、気に入らないとすぐにカットする。その時の立居振舞は金時そのものであった、と。その土俵人生は『涙の敢闘賞』というドラマに仕立てられている。

 

奈良林祥 ならばやしやすし (1919-2002) 医事評論家

èSEXドクター  

昭和35(1960)年に『間違いだらけの性生活』が、同46年には『HOW TO SEX』がベストセラーになった。

 

成田知巳 ななりたともみ (191279) 政治家で、日本社会党委員長

è寝酒委員長

超の字が付く愛酒家で、つねに多忙なため寝酒をたしなむのが習慣になった。遊説旅行のおりなど、地方公務員の共済宿舎に泊まり、ポケット瓶のウィスキーを楽しんだという。

 

成田狸庵 なりたりあん (17591833) 売卜者

è狸の易者

こよなく狸を愛したがため、〈狸の易者〉といわれた。易のほうはあまり的中しなかったようだが、狸に彩られた生涯は知る人ぞ知る。「狸庵」の号はもとより、著作に『狸説』とか『狸事類聚』など、また没後に建てられた墓碑には「狸庵翁墓」とあり、下に鈴ケ森の筆塚の狸を刻写、碑の裏面には狸庵の像が彫られた。

 

名和靖 なわやすし (18571926) 昆虫学者

è昆虫翁

岐阜県大宮町に名和昆虫研究所を創設。月刊誌『昆虫世界』を主宰し、「ギフチヨウ」の発見・命名者としても知られる。関連著作はおびただしい数で、生涯を在野での根治有権急にささげた。

 

 

新納忠元 にいろただもと (15261610) 戦国武将で、島津家家臣・大口城主

è鬼武蔵

通称を刑部太輔武蔵守といった。島津家重臣で、九州統一制覇などで数々の武勲をたてた猛将。面構えと戦陣での働きぶりで〈鬼武蔵〉といわれた。しかし和歌や歌謡作詞をたしなむ風雅な面も持ち合わせていた。

 

仁木悦子 にきえつこ (192886) 作家

è日本のクリスティ

推理小説界で活躍した女性。世界に知られたアガサ・クリスティに擬してこう呼ばれた。処女作『猫は知っていた』の登場人物名がそのままペンネームとなった。

 

西川文子 にしかわふみこ (18821960) 社会運動家。

è台所方

岐阜県の資産家の家に生まれたのに、「人に貧富の差があるのは一部が親譲りの私有財産を持つため」と主張し、自らは社会運動に身を投じた女傑。平民社に参加時代、同志の身の回りの世話を焼き、仲間にはこの異名で慕われた。

 

西沢潤一 にしざわじゅんいち (1926- ) 電子工学者

èミスター半導体

半導体やトランジスタの実用化に貢献、数々の受賞歴をもつ。光通信分野でも発明・開発の実績があり、〈光通信のパイオニア〉とも称されている。

 

西島麦南 にしじまばくなん (18951981) 俳人・校正者

è校正の神様

大正13(1924)年に岩波書店に勤務し、以来約40年にわたり校正を担当した。出版業界では彼の業績を称え、〈校正の神様〉と敬っている。

 

西田幾多郎 にしだきたろう (18701945) 哲学者

è日本哲学界の父

『善の研究』などの著作や論文発表で、西田哲学という独自の哲学思想体系を打ち立てた。あるいは『働くものから見るものへ』のように、哲学という難解な分野を一般人にもなじめるよう記述した名著も残している。わが国哲学会の現在あるは西田の功績に負うところが大きく、まさに〈日本哲学界の父〉そのものである。

 

西田時子 にしだときこ (1928-?) 街娼姐御

èラクチョウのお時

終戦直後、有楽町界隈で名を売ったパンパンの姐御。当時、女親分といわれた総元締め、夜嵐あけみの妹分としてにらみを利かした。物故したとの風評がある。

 

西本幸雄 にしもとゆきお (19202011) プロ野球の選手・監督・解説者

è悲運の闘将

オリックス監督20年のキャリアでパ・リーグ優勝は8回を数えるのに、日本シリーズでは1回も勝てなかったことから付けられた。

 

西山登志雄 にしやまとしお (19292006) 動物園園長

èカバ園長

上野動物園時代、下働きからカバの飼育係に。遠地耀になるまで20年のキャリアがあり、『河馬的文明論』などの好著もある。

 

二条 にじょう (12581306) 後深草上皇の女院

è女西行

「後深草院二条」が正しい呼称。後深草上皇の寵愛を受けたあと、何人かの男との間で恋にもてあそばれた。31歳のとき出家。西行にならい諸国遍歴の旅に出る。こうした彼女に〈女西行〉の異名が付いた。

 

二谷英明 にたにひであき (19302012) 映画俳優

èダンプ・ガイ

日活のアクション映画「ガイ路線」に乗った男優の一人。石原裕次郎(タフ・ガイ) 、小林旭(マイト・ガイ)と並んで二谷は〈ダンプ・ガイ〉の二つ名的ニックネームを付けられている。

 

日親 にっしん (14071488) 法華僧

è(なべ)(かむり)

 上総国から京へ出て折伏(しやくぶく)教化のかたわら、国主諫興(かんぎよう)の研究に入っている。これは国主が道を外すことのないよう、法華宗の正法をもって(いさ)めるという布教法である。その集大成である著『立正治国(りつしようちこく)論』を書いて永享11年に発表すると、将軍・足利義教は立腹はなはだしく、日親を捕らえて数かずの拷問を加えた。そのなかで真っ赤に焼けた鉄鍋を頭にかぶせるという極刑に処し、そのため後の日進の頭皮は終生引きつったままだったという。日親の異名〈鍋冠〉の由来である。

 

新田次郎 にったじろう (191280) 作家

è野人作家

富士山観測所の職員出身という異色の作家で、『怒る富士』『アラスカ物語』など山岳小説、冒険小説の分野で活躍した。

 

蜷川虎三 にながわとらぞう (18971981) 京都府知事・統計学者

è喧嘩のトラ

昭和25(1950)年中小企業庁長官時代に吉田茂首相と衝突、大喧嘩に至る。同年京都府知事になってからも教員の勤務評定反対、あるいは農家の減反政策反対などに強行に喧嘩腰で及んだため、周囲に〈喧嘩のトラ〉という勇名をはせた。

 

二宮忠八 にのみやちゅうはち (18661936) 飛行機研究家

 è飛行機神主

大阪製薬社長という実業家のかたわら、民間人として有人飛行機の研究発明に生涯をささげた人。

一説によると、ライト兄弟以前に二宮は有人飛行機の設計図を軍部に提出していたという(結果は却下)。会社から退職後、彼は飛行機操縦で散った犠牲者の例話弔いたいと真剣に考えるようになる。その結果、磐船神社の分霊として自宅の敷地内に社殿を建立し、世界の航空殉教者を慰霊したのである。朝に夕べに拍手を打つ彼を知る人々は〈飛行機神主〉と呼んだ。

 

忍性 にんしょう (12171303) 戒律宗僧

è生身(いきみ)如来(によらい)

è②医王如来

忍性はさほど有名ではないが、数かずの偉業を成し遂げた名僧である。永仁元年に蒙古軍襲来のおり、調伏(ちようぶく)祈祷で敵を退散させた、とされている。数多の弟子を育成し、寺院の建設・修繕に力を入れ、貧民救済の社会事業にも熱心であった。そうした姿は〈生身如来〉あるいは〈医王如来〉と称され広く敬われた。

 

 

 

沼田曜一 ぬまたよういち (1924-2006) 俳優で、沼田民話座主宰

è民話の語り部

脱俳優組の1人で、民話を軸に研究と実践活動に全力投入。近年は東京で「民話劇場」を開くなどして注目された。

 

 

 

猫田勝敏 ねこたかつとし (194483) バレーボール選手・監督

è小さな大セッター

正確な鳥栖ワークが定評の選手で17年間セッターをつとめた。世界選手権ベストセッター使用などを受賞。

 

根津嘉一郎 ねづかいちろう (1860-1940) 実業家で、東武鉄道社長

è鉄道王 

「根津のボロ買い」といわれながら、業績不振の会社に目をつけては再建を成し遂げた経営手腕を持つ人物。東武鉄道も再建対象の1つで、昔は乗客数が極度に少なく、「東武鉄道から引き会社」と揶揄されていたほどであった。

根津は社内改革の断行と路線延長を果敢に果たし、この斜陽会社を見事に立ち直らせたのである。

 

根津甚八 ねづじんはち (1947-2010) 俳優

èネッツイー(女性自身、1983.6.2) 

根津のどこかニヒルで近づきがたい雰囲気がたまらない、という老嬢が増えているそうだ。英国ネス湖の魔獣「ネッシー」をもじった愛称である。

 

 

 

乃木希典 のぎまれすけ (1849-1912) 軍人で、陸軍大将

è日本帝国の軍神

呼称のいわれは伝記等を読めば十分に納得がいく。

 

野際陽子 のぎわようこ (1936- ) 女優

èミスべらんめえ(人物評論、1969.8)

小またの切れ上がった都会的な容貌に切れの良い口調で「女を上げて」いる。

 

野口英世 のぐちひでよ (1876-1928) 細菌学者

è待ったの名人

アメリカで研究を続けていた時代、仕事の合間に将棋を指すため日本人クラブに通った。形勢不利だとすぐに「待った」をかけた。

 

野坂昭如 のさかあきゆき (19302015) 作家

è何でも屋

ざっとこの人の足跡を辿ってみよう。作家はもちろんエッセイスト、コラムニスト、CMソングライター、エロ事研究家、歌手、キックボクサー、代議士立候補師、そして黒眼鏡の太鼓持ち…と、どれも半端だが、逆説的に言えば何でもアリの男だ。

 

野末陳平 のずえちんぺい (1932- ) タレント・参議院議員

è黒メガネの毒舌家

おなじみ黒メガネ・タレントで毒舌を吐いては世間をケムに巻き、すっかり名の売れたところで議員様に御成りあそばした。税金党を立ち上げ、著作『頭のいい税金の本』はベストセラーに。たちまちマスコミの寵児となる。

 

野平祐二 のひらゆうじ (1928-2001) 騎手・調教師

èミスター競馬 

けれんの無い見事な騎乗振りと通算1339勝の実績から、競馬界で〈ミスター競馬〉と敬われた人。「ファンあっての競馬」という信条を貫き通し、競馬をメジャースポーツに向け橋渡しをつとめた気骨の人であった。

 

野呂松勘兵衛 のろまつかんべえ (生没年未詳) 江戸中期の人形遣い

èのろま人形の元祖

元禄歌舞伎が隆盛になる少し前、江戸の人形浄瑠璃座で、勘兵衛は「のろま」という異形の人形を操り、評判になった。早くから古浄瑠璃の節付け語りにつれて人形はひょうきんな芸を披露し観客を沸かせた。この人形ののろまは野呂松の転化したもの、とする説が有力である。

 

 

倍賞千恵子 ばいしょうちえこ (1941- ) 女優

èチコちゃん

親しい人たちからの愛称。妹の美津子は「ミッコちゃん」とニックネームまで姉妹お揃いである。松竹映画『男はつらいよ』知りー出で寅さんの妹さくら役をこなし好演、下町のおかみさんを遺憾なく発揮している。

 

灰屋紹益 はいやしょうえき (161091) 京都の富商

è灰屋の灰喰(はいくら)

紹益は島原ピカ一の傾城・吉野を見そめ、金力に物をいわせて身請けし、洛北に居を構えて夫婦になった。二人ははたもうらやむ仲だったが、吉野は病で急逝してしまう。紹益の悲嘆ぶりはひとかたでなく、

 都をば花なき里となしにけり吉野を死出の山に移して

という悼歌を詠み、吉野の(しかばね)を火葬にして骨灰を食い尽くしたという。後世、曲亭馬琴が随筆集『羇旅漫録(きりよまんろく)』でこの話を紹介するや、物好きな江戸っ子は紹益に〈灰屋の灰喰い〉と後の渾名を呈した。

 

萩本欽一 はぎもときんいち (1941- ) コメディアン

è欽ちやン/欽ドン

バカバカしいお笑いの発信源とは思いながらも、日本全国、すっかりおなじみの愛称で恐れ入るばかり。チャンネル奪いの〈視聴率男〉との評もある。

 

萩原吉太郎 はぎわらきちたろう (19022001) 実業家で、炭鉱経営者

è北炭の顔

北海道炭鉱汽船の社長。政界に幅広い人脈を築き、大きな商売人としたたかな政商振りを発揮した。

 

萩原健一 はぎわらけんいち (1950- ) 俳優

èショーケン

マスコミをにぎわすニックネームだか、はっきりした由来はわからない。

 

萩原朔美 はぎわらさくみ (1946- ) 映画作家・演出家

èマルチメディア人間

舞台演出、映画製作、写真撮影、版画制作、ビデオアート・雑誌編集などにめまぐるしく手を染めていることから。女名前かと間違えそうだがれっきとした男で、詩人萩原朔太郎の孫である。

 

橋本宇太郎 はしもとうたろう (190794) 囲碁棋士

è火の玉宇太郎

青少年時は「天才宇太郎」といわれたほどの力量の持ち主。戦後、日本棋院をあっさりと脱退し棋士仲間の抵抗にあいながら関西棋院を設立、奔放な性格と言動から〈火の玉宇太郎〉といわれた。文才があり作品は『橋本卯太郎全集』全6巻に納められている。

 

長谷川一夫〔林長次郎〕 はせがわかずお/はやしちょうじろう (1908-84) 俳優

è①万年二枚目

è②百万ドルの流し目

戦後、大映で「地獄変」「近松門左衛門」など200本以上に出演。往年の二枚目スターの代名詞であった。

 

長谷川権六 はせがわごんろく (生没年未詳) 江戸初期の長崎奉行

è将軍の買物奉行

長崎や平戸で渡来品・舶来品など将軍家入用品の輸入を担当する。抜け目ない商才を発揮して私腹も肥やし、〈将軍の買物奉行〉と噂された。

 

長谷川伸 はせがわしん (18841963) 作家

è瞼のオヤジ

昭和初期、侠気と人情の世界を描いた戯曲『瞼の母』が大衆に大受けした。そのタイトルをパロディ化したもの。

 

長谷川泰 はせがわたい (1842-1912) 医学者

èドクトル・ベランメエ 

明治9(1876)年、東京本郷に「済生学舎」を設立し、医学生の養成に本腰を入れた。政府に功績を認められ医学博士の学位を贈るとの話が出たとき、「そんなものはおれの3歳の子にやってくれ」とはねつけたという。話し方も江戸っ子口調で、周囲から〈ドクトル・ベランメエ〉〈老壮士〉と親しまれていた。

 

長谷川テル はせがわてる (191247) 反戦運動家 ・エスペランチスト

è平和の鳩=ヴェルダ・マーヨ

〈ヴェルダ・マーヨ〉はエスペラント語。日中戦争のさなか中国に渡り、漢口で対日反戦闘争を開始、彼地で〈平和の鳩〉の異名を贈られた。

 

長谷川如是閑 はせがわにょぜかん (1875-1969) 作家

è文筆やくざ(犯罪公論、1933.6)

天下の不条理に対し、つねに斜に構えた毒舌を吐き続けた。洞察力に優れ、物事の本質を見抜く目は半端でなかった。そのためか誤解も多い人だった。

 

長谷川巳之吉 はせがわみのきち (18931973) ジャーナリスト・詩人

è本作りの名人

昭和戦前期に活躍した出版人。高等小学校卒業だが上京して文才を発揮し、大正12(1923)年に第一書房を設立。その後21年間に全集135点、単行本859点を出版した。

 

長谷百合子 はせわゆりこ (1947- ) 映画評論家・衆議院議員

èお竜さん

長谷川は小またの切れ上がった美人で、映画女優の藤純子に似ている。藤純子は『緋牡丹』シリーズのヒロイン「緋牡丹お竜」で人気を得ていた。この渾名そのものがあやかり物である。

 

畠山箕山 はたけやまきざん (16261704) 京都の好事家

è色道先生

色の道の大家で知られた人。13歳にして遊里に足を踏み入れていらい、色道専科の人生を送る。全国の遊里を探訪し尽くし、艶福家として実践主義を貫いている。大著『色道大鏡』はそれらの集大成であり、人呼んで〈色道先生〉。さらにこの人、古筆鑑定の指南書といえる『顕伝明名録』15巻も著しているからは、ただの遊び人ではない。

 

秦野章 はたのあきら (1911-2002) 法相

è警察官僚の親玉

警察官僚上がりで中曽根内閣の法務大臣になった。「政治家に正直や清潔を求めるのは、八百屋で魚をくれというのに等しい」と、批判とも自己弁護ともつかないやさぐれ迷言を残している。

 

畑正憲 はたまさのり (1935- ) 動物文学者

èムツゴロウ

一家揃って北海道霧多布沖の無人島に移り住み、近くの浜中町に「ムツゴロウ動物王国」を開設。畑は〈ムツゴロウ〉が通り名になっている。

 

八角楯之助 はっかくたてのすけ (生没年未詳) 江戸初期の力士

è待ったの元祖

大坂境の出身で、紀州藩お抱え力士。せがひくく大きく角張った顔であった。立会いで少しでも気が入らないと待ったをかけ、いつまでも突っ立っていたという。

 

服部金太郎 はっとりきんたろう (1860-1934) 実業家で 、服部時計店創業者

è時計王

明治14(1881)年に服部時計店を開業し、時計製作のため精工舎を設立。事業と時計作りに生涯をかけ、〈時計王〉とうたわれた。

 

鳩山一郎 はとやまいちろう (1883-1959) 首相

è音羽の殿様

政治力で手にした巨富により、東京・文京区音羽に園遊会が開けるほどの大邸宅を構えた。権勢全盛の時、議員らの「音羽詣で」がマスコミを賑わしたものである。各方面からの袖の下だけで、孫子何代にもわたり左団扇で暮らせるアブク資産を築いた。

 

花井才三郎 はないさいさぶろう (-1694) 歌舞伎役者

è浮世の人目を覚ます名人

花井家の祖で、立役実方をつとめる。美なんで、声が朗々と大きかったことから。元禄6(1693)年板行『古今四場射色百人一首』に、

 すみ衣きてもよき芸よい知略ゆめのうき世の人めよくらん

の狂歌が見え、客に居眠りをさせない役者と評判になった。

 

花井正八 はないまさや (191295) 実業家で、トヨタ自工の経営者

èトヨタ銀行頭取

トヨタ自工は自動車メーカーではあるが、金融収益率がきわだって高い実績を続けているため、巷間ではトップの花井をさして〈トヨタ銀行頭取〉と異称した。別に畏怖の念をこめ〈合理化の鬼〉の異名も。

 

花登筐 はなとこばこ (1928-83) 劇作家・放送作家

èどてらい男

『どてらい男』は花登の大兵ヒット作品の題名で、ときには彼の通称として用いられた。なにしろテレビドラマ6000本、芝居台本500本を描いたのだから、どてらい男に違いない。

 

ハナ肇 はなはじめ (1930-1993) 俳優・コメディアン

èアッと驚くハナ肇

テレビ番組などで連発した「アッと驚く為五郎」の捩りが異称に。

 

花森安治 はなもりやすじ(1911-78) ジャーナリストで、『暮しの手帖』編集長

è女装自身

髪形など装いの一部をつねに女装して自身を目立たせた。もちろん女性週刊誌『女性自身』のもじり命名である。

 

花柳幻舟 はなやぎげんしゅう (1941- ) 前衛舞踊家

è①妖怪幻舟

旅役者の子として大阪で出生。昭和43(1941)年、大阪で「ヌード舞踊」を披露して除名処分を受けた。

è②うらみ節教祖(平凡パンチ、1973.5.21)

昭和55年、家元制度に憤懣をぶつけ、花柳流三代家元・寿輔を庖丁で襲い、懲役8月の処分に。

 

浜口雄幸 はまぐちおさち (18701931) 政治家で、元総理

èライオン宰相

総理時代の昭和5(1930)年、国粋主義に凝り固まった軍部の強硬な反対を押し切ってロンドン軍縮条約に調印した。そのさいの強固な意志の発露と、四方を睥睨する尋常らぬ面構えから〈ライオン宰相〉と称された。しかし東京駅で右翼青年に狙撃され、その傷がもとで他界した。

 

浜崎真二 はまざきしんじ (1901-81) プロ野球の選手・監督

è球界の彦左

慶応大学野球部の出身で、のちに各球団の監督を歴任し、球界では御意見番的な存在であった。投手現役時代は小柄だったことから、〈小さな大投手〉といわれた。

 

浜田幸一 はまだこういち (19282012) 自民党代議士

è①ハマコウ先生

è②議員バッジを付けたヤクザ者

昭和53(1978)2月、衆議院予算委員会で社会党の安宅常彦代議士が米の生産調整の方法は農業基本法違反ではないかと質問したとき、〈ハマコウ先生〉は安宅の女性問題に触れ、与太者もどきの声を荒げ食ってかかった。社会党の別の委員がオウム返しに「このヤロウとは何事か」 と色めいたところ、浜田はさらに激昂し、「このヤロウと言って何が悪い。こんなヤロウをのさばらせておいて!アンマを強姦するようなヤツが法律違反だなんて生意気だ」と返した。

 

浜美枝 はまみえ (1943- ) 女優

èボンドガール

昭和42(1967)年に英国映画「007は二度死ぬ」でボンドガールに抜擢された。

 

浜村美智子 はまむらみちこ (1938- ) 歌手

èカリプソ娘

昭和32(1957)年に「バナナ・ボート」でデビューいらい、長い髪とエキゾチックな半裸スタイル、「デーオ、デーエオオー」の勇ましい掛け声をもって旋風を巻き起こす。〈カリプソ娘〉は浜村にピッタリの形容である。

 

浜森辰雄 はまもりたつお (1916-2009) 稚内市長

 

è稚内の天皇

道議会議員を経て、昭和34(1959)年に思潮初当選以来8期をつとめた。ここでいう天皇とは、「いろいろある古狸市長」が真意である。

 

早川種三 はやかわたねぞう (1898-1991) 財界人で、企業経営コンサルタント

è再建の神様

自身の会社倒産体験から得た事業経営哲学により、昭和39(1964)年に日本特殊鋼、46年に佐藤造機、さらに50年には興人など、数多くの倒産企業を手がけ立ち直らせた。現行の会社更生法には早川具申の意見が多く反映されている。

 

早川貞水 はやかわていすい (1861-1917) 講談師

èお相撲貞水

彼の演目中「力士伝」が白眉であったため。また彼は真面目な性格から「教育講談師」を自称していた。

 

早坂太吉 はやさかたきち (1935-84) 不動産仲介業者

è地上げの帝王

「地上げ」とはバブル期の流行語で、転売で売りをむさぼるための土地買占めのこと。早さかはあまたの地上げに手を染め巨利を得た。関連する早坂グループのホテルやゴルフ場での法人所得は186億円、全国第3位であった。

 

林歌子 はやしうたこ (1864-1946) 社会事業家

 è募金の天才

昭和13(1938)年、日本キリスト教婦人矯正会の第5代会頭に就任。持ち前の説得力と押しの強さを武器に募金活動に邁進し、同会の財政を潤沢に支えた。

 

林きむ子 はやしきむこ (1884-1967) 代議士日向輝武夫人 、舞踊家

è蛇を愛ずる美女 

きむ子は豊満な肢体で西洋美女を思わせる顔立ち、「大正三美人」農地の1人である。明治の富豪代議士日向が一目ぼれし、金力に物を言わせて妻に迎えた。東京田端の広大な屋敷は蛇が出没する「蛇御殿」であり、そこの女主人きむ子は〈蛇を愛ずる美女〉とささやかれた。もちろんやっかみ半分の根拠のない噂である。亭主の照武はやがて狂死し、きむ子38歳のとき薬剤師の林柳波と再婚した。

 

林田亀太郎 はやしだかめたろう (1863-1927) 官僚・政治家

è粋翰長

明治末期参議院書記官長のとき、連日のように花柳界に通いつめ、芸者衆からこの渾名を付けられた。「翰長」とは当時の内閣書記官長のことで、現在の内閣官房長官に相当する。

 

林田十郎 はやしだじゅうろう (1900-67) 漫才師

èサエラ

上方芸人。元は役者だったが白粉の鉛毒に冒されたため、化粧の必要のない漫才師に転向。その後遺症で顔色が異常に青白かったため、サンマを意味する〈サエラ〉といわれた。

 

林葉直子 はやしばなおこ (1968- ) 将棋棋士 ・タレント

è天才少女棋士

昭和57(1982)年のとき史上最年少(中学3)で第四期女流王将、女流名人となっている。

 

林真理子 はやしまりこ (1954-) 作家

è広告界の大屋政子(週刊読売、1982.10.24)

コピーライターから文壇に登場した頃の評である。〈しゃしゃり出女史〉とも。

 

林家木久蔵 はやしやきくぞう (1937- ) 落語家

è全国ラーメン党首

全国ラーメン党を立ち上げ、その会長におさまる。また、木久蔵ラーメンのチェーン店を経営するなど、芸よりもしたたかな商売人である。

 

林家三平 はやしやさんぺい (192580) 落語家

èスイマセン師匠

高座やテレビで口癖の「どうもスイマセン」を連発アドリブとギャグを盛り込んだ「リズム落語」の開発者である。その型破りで人を笑わせずにはおかない話しぶりから、〈昭和の爆笑王〉とも呼ばれた。

 

林家正蔵〔五代〕 はやしやしょうぞう (1824-1923) 落語家

è百歳正蔵

隠居中100歳にして亡くなったことから、親しい者が贈り名のように名づけた。90代でもかくしゃくとして高座に上がっていたという。

 

林家正蔵〔六代〕 はやしやしょうぞう (18881929) 落語家

è①飴細工の高島屋

è②マンガの左団次

いずれも個性的でアクの強い容貌・仕草から付けられた。「噺家の制服をつくろう」と言い出すなど、新しがり屋でもあった。

 

林家正楽 はやしやしょうらく (1895-1966) 落語家

è紙切り屋

噺家というよりは紙切りの名人芸で天下に名を広めた。その至芸は本人言うところの「紙工芸」で開化した。

 

林家染語楼〔三代〕 はやしやそめごろう (191875) 上方の落語家

èピンピンさん

昭和30(1955)年に、小染という芸名を「(かず)(はじめ)」に改め、司会や漫談を演じた。この舞台名は符牒読みでピンピン、仲間内はこれで通った。

 

林家染丸〔三代〕 はやしやそめまる (1906-68) 上方落語家

èオンビキ

「オンビキ」は関西言葉でヒキガエルのこと。彼は口の大きなおむすび顔形をしていた。

 

早野寿郎 はやのとしろう (1927-83) 演出家・俳優

èタレント促成栽培の名人

俳優養成のベテランで、芸能人の短期育成指導に実績を残した。門下に大竹しのぶ、樋口可南子、草刈正雄ら名実ともに一流を輩出している。

 

速水宗達 はやみずそうたつ (1727-1809) 京都の茶人

è大日本茶博士

速水竜茶道の開祖。市井の人だが堂上に知己が少なくなかった。聖護院宮(えい)(じん)親王(後桃園天皇の養子)から〈大日本茶博士〉という称号を送られている。

 

原節子 はらせつこ (19202015) 女優

è永遠の処女

映画「青い山脈」主演で一躍有名になり、その清純なイメージから〈永遠の処女〉あるいは〈銀幕の処女〉と喧伝された。

 

はらたいら (1943-2006) 漫画家・タレント

è和製ドロン

容貌イメージが似ているとのことで、広く知られるところとなっているが、ホンモノドロンのように悪役ピッタリの凄みに欠ける。

 

原 敬 はらたかし (18561921) 政党政治家で、首相

 ①白頭宰相

原の50代の写真を見ると頭髪はすでに真っ白、この風姿から〈白頭宰相〉とか〈白髪鬼〉と渾名された。

è②平民宰相

明治開化いらい初の非藩閥、非華族出身の総理。自身も虚飾を嫌い生涯授爵を断り続けている。

 

原田キヌ はらだきぬ (184472) 妾奉公先の主人殺し犯人

è夜嵐お絹

明治4(1871)年、ケチなうえ女いたぶりの悪癖のある金貸業である小林金平を、お絹は情人の人気役者と共謀して毒殺してしまう。やがて捕らえられたお絹は、明治52月に小塚原(こづかつぱら)刑場で斬首のうえ晒し首にされた。そのとき詠んだ辞世の句が、彼女の二つ名のいわれとなる。

 夜嵐にさめてあとなし花の夢

 

原田大六 はらだだいろく (1917-85) 考古学者

è古代学の父

当時、在野の考古学者としてトップクラスの実績を示した。昭和44(1969)年、日本のルーツをめぐる「邪馬台国論争」で一躍脚光を浴びた。

 

伴淳三郎 ばんじゅんざぶろう (1908-81) 喜劇役者

èアジャパー

昭和26(1951)年、喜劇映画『吃七(どもしち)捕物帖一番手柄』中で口にした「アジャパー」がたちまち大流行し、この人の渾名代わりに全国で通用した。

 

坂東秀調〔二代〕 ばんどうしゅうちょう (18481901) 歌舞伎役者

è逆さ瓢箪

時代物・世話物に適し、なかでも女房役では無類と評された。ただ風姿や口跡に難があったので、口さがない連中から〈逆さ瓢箪〉と呼ばれた。

 

坂東大吉〔初代〕 ばんどうだいきち (1767-1843) 歌舞伎役者

èまじめおどけ

道化方で本領を発揮した。文化6(1809)11月、森田座で『奥州牧雪驪』に出演、四代目松本幸四郎の声色で幡随院長兵衛のせりふ「ハテようござへす」を真似た。これが大当たりし、市井の間でも真似られはやり言葉に。こうした事情から〈まじめおどけ〉という珍妙な異名が付けられた。

 

坂東玉三郎〔五代〕 ばんどうたまさぶろう (1950- ) 女形役者

èついてる美女

美形に恵まれ周りからチヤホヤされる様をやっかんで、一部の人から「ついている」、つまり一物がちゃんとついている女形、と陰口を叩かれている。

 

坂東妻三郎 ばんどうつまさぶろう (1901-53) 映画俳優

èチャンバラ王 

名まえをつづめた〈バンツマ〉で通った往時の人気役者。近代、チャンバラ物だけで200本近くの映画に主演している。戦後も『王将』や『破れ太鼓』など義侠物で公演した。

 

坂東三津五郎〔八代〕 ばんどうみつごろう (1906-75) 歌舞伎役者

è大当たり

二重の意味をもつ洒落から出たニックネームである。一つ、当代人気の当たり役者。二つ、昭和50年に料理屋で食った河豚に当たり、中毒死した。

 

 

 

比嘉和子 ひかかずこ (192474) 南島移住の女性

èアナタハンの女王

比嘉はサイパン諸島中のアナタハン島に移住。そこで30名余りの男性に混じりただ1人の女として生活した。猟奇的な話題が喧伝され〈アナタハンの女王〉とか〈女王蜂〉といった異名が付けられた。

 

桧垣与左衛門 ひがきよざえもん (150680) 能太鼓打ち

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 この人は似我与左衛門ともいわれた。〈似我〉は将軍・足利義輝が付けた渾名で、与左衛門の容姿が自分に似ていたためであろう。

 

引田天功〔初代〕 ひきたてんこう (1934-79) マジシャン

è脱出王

大掛かりなトリックで「大脱出」シリーズを見世物にするなど、アイデアと機知に優れた魔術師であった。

 

樋口一葉 ひぐちいちよう (1872-96) 作家

è今式部 

明治きっての才媛で、小説『たけくらべ』は不朽の名作と絶賛された。一葉自身に対する〈今式部〉はじめ〈神の筆〉〈日本一の閨秀女史〉といった賛辞は今なお色あせていない。

 

樋口久子 ひぐちひさこ (1900-67) 女子プロゴルファー

èチャコ

ひさこをつづめたあいしょう。かずかずの傑出した戦績により〈女子プロゴルファーの女王〉と称されている。

 

彦坂郁雄 ひこさかいくお (1941- ) 競艇選手

èカミナリ・ヒコ

ボートの勝負を決するスタートの良さが抜群で、勝率ナンバーワンを17回も重ねている。現役時代〈艇王〉の栄冠に輝き、競艇界の名だたる1億円選手でもある。

 

久松喜世子 ひさまつきよこ (1886-1977) 舞台俳優

è新国劇の母

沢田正二郎が率いる「新国劇」に所属し、沢田亡き後の同劇団を背負って立つ。島田正吾や辰巳竜太郎らを育てた人でもある。

 

常陸嶽理一 ひたちだけりいち (18991958) 力士で、前頭二枚目

èベーブ常陸嶽

本職の相撲のほか趣味の野球となると強打は堂に入ったもので、力のこもった長打をかっ飛ばした。この渾名は、いうまでもなく往年のホームラン王、ベーブ・ルースから拝借したもの。

 

常陸宮 ひたちのみや (1935- ) 今上の弟

è火星ちゃん

若かりし頃のニックネーム。容貌から連想したもので、名づけ元はおそらくマスコミ界であろう。

 

常陸山谷右衛門 ひたちやまたにえもん (1874-1922) 力士で、19代横綱

è角聖

常陸山の弟子に対する面倒見のよさは定評があり、数多くの幕内力士を育て上げた。人徳ことに高く、〈角聖〉の名に恥じないものがあった。彼は「力士は芸人にあらず。武士なり」との名言も残している。

知る人ぞ知るの艶福家だった一面もあり、認知した子どもは数十人に達し、相撲取がいかにモテ商売か、しばしば引き合いに出されている。

 

響舛市太郎 ひびきますいちたろう (1859-1903) 力士で、関脇

è待った博士

数えきれないほど待ったをかけた戦歴から付けられた。怪力だが技能面で荒っぽさが目立ち、関脇止まりに終わった。

 

百人一首源三郎 ひゃくにんいっしゅげんざぶろう (生没年未詳) 元禄期あたりに活躍の歌舞伎役者

è前代未聞の御外道

俳名からして役者らしからず異様である。長崎は丸山育ち、芸事好きで上方へ出て役者に。生涯を外道方として軽妙な芸を披露し、〈前代未聞の御外道〉と異称された。

 

平賀源内 ひらがげんない (172879) 博物学者・文人

è日本のダ・ヴィンチ

源内は博覧強記なうえ学究心も旺盛な人。朱子学を修めたほか本草学、医学、物理学さらには国学にも才を発揮。当時の天才的な物知り学者であったことから後世、イタリアはルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチにたとえられた。

 

平賀元義 ひらがもとよし (180065) 歌人

è沖津の片足袋(かたたび)

備前沖津の出身で、片足に障害があり、悪いほうの足には夏でも白足袋を着けていた。そこから〈沖津の片足袋〉と渾名されている。たいへんな潔癖症に加え大の坊主嫌いで、某日、佩刀の鞘が誤って僧衣に触れたのを知り、汚らわしいと漆の剥げ落ちるまで鞘を磨いたという。

 

平川唯一 ひらかわただいち (190293) NHK国際部の元アナウンサー

èカムカムおじさん

ワシントン大学演劇科卒業というユニークなキャリアを生かし、戦後NHKラジオ番組 「カムカム英語」の講師となる。ユーモラスで的確な指導ぶりでたちまち全国にファンができ、〈カムカムおじさん〉の人気はいやがうえにも高まった。

 

平瀬亀之輔 ひらせかめのすけ (18391908) 実業家で、好事家

è蝙蝠(こうもり)大尽

亀之輔は大阪の富豪・平瀬家の第7代当主であった。晩年の彼は寝床の中で書見する癖があり、それもたいてい明け方まで続く。朝になると数種の新聞を丹念に読んで、それから眠る。目覚めるのは夕方近くになる。まるで蝙蝠のようだと、この渾名を付けられた。

 

平塚八兵衛 ひらつかはちべえ (191379) 警視庁刑事

è①最後の岡っ引き

昭和19(1944)年に警視庁捜査第一課に配属されてから捜査畑で活躍した根っからの刑事である。警視総監賞など表彰100回以上、古風な名前も手伝って〈最後の岡っ引き〉と称された。

è②オトシの八兵衛

昭和38(1963)3月の吉展ちゃん誘拐殺人事件では、シラを切り続ける犯人を自白させ話題になる。情実味と粘りのある説得術で〈オトシの八兵衛〉ともいわれた。

 

広川広禅 ひろかわこうぜん (190267) 政治家で、農林大臣

è快諾院実行弘祥居士

もちろん正式な戒名ではなく、生涯僧籍にあったことから知人がからかい半分に付けた生前戒名。この人は言うことと為すことがチグハグ、チャランポランで選挙民の受けが悪く、晩年は総選挙で落選続きであった。

 

弘田三枝子 ひろたみえこ (1947- ) ジャズ歌手

èダイナマイト・ミコ

ボリュームたっぷりの体躯に声量、歌唱力のほうもダイナミックなジャズか主としてデビュー。一時は天才少女とうたわれた。「ミコ」は名前中抜きの愛称である。