ファイティング原田 ふぁいてぃんぐはらだ (1943- ) プロボクサー

èチャンピオン中のチャンピオン

昭和58(1983)年にWBC本部から、それまでの20年間に活躍した日本人でただ1人、この栄冠が与えられた。

 

深田祐介 ふかだゆうすけ (19312014) 小説家・評論家

èサロン人間

日本航空社員から作家へ。国際化時代のビジネスマン学を提唱。昭和61 (1986)年に〈サロン人間のすすめ〉を発表、ただ働くだけの仕事人間の時代は終わった、と主張し、ビジネスマン生き残りに賭ける〈サロン人間〉の代名詞になった。

 

深見十左衛門 ふかみじゅうざえもん (?-1730) 侠客

è金銀(じゆう)()

三河武士の末裔から致仕して遊侠の世界へと入った人。かなりのクセ者で、老年期(90歳で大往生とか)に義歯を入れているが、上が総金、下が総銀で拵え、人呼んで〈金銀十左〉と。この人物について伝記類書『近世奇跡考』に次の一文がある。

 深見十左衛門は本姓深溝、名は貞国、寛文の頃、江戸六方(おとこ)(だて)と云ものあまたありし、其徒の頭なり、強きをくじき人の危急を見てすくはずといふことなし、(中略)老年に及で二尺四五寸朱ざや大脇差を離さず、剃髪して自休と称し、菩提所本郷片町竜光寺のうちに菴を作りて住みぬ、云ぬん

 

福井茂兵衛 ふくいもへえ (18601930) 新派劇の俳優

è小兵ビッコの茂平衛

小柄で片足を引きずり歩く自分の欠点を武器に生かし、冴えない男の適役を演じて

見せた関西演劇界の名物男。僧侶から興業主、政治家までの社会経験も豊富に踏ん

でいるので演技も半端ではない。おっペケペーの川上音二郎と組んで今日の新派を

成り立たせた功労者である。

 

福島敏行 ふくしまとしゆき (18951983) 実業家で、日本通運社長

è財界のジキル・ハイド

日通生え抜きの社長で、日本の通運合同化を積極的に推進した。その反面、巨額のリベート贈賄など「日通事件」の火付け役で彼の公私混同ぶりが国会で追及され、裏表の大きな人物から〈財界のジキル・ハイド〉なり、と酷評された。

 

福住道祐 ふくずみどうゆう (生没年未詳) 伝記編者・蒐書家 

è文字知り

道祐は戦国時代を中心にした人物伝や歴史に精通していた。大坂の町医者であったが、家譜・系譜作りの専門家として重宝がられ〈文字知り〉の名が広まった。 この場合の「文字知り」は学識の深さを表したものである。

 

福田英子 ふくだひでこ (18651927) 婦人解放運動家

 è東洋のシャンヌ・ダルク

明治40(1907)年、福田は日本初の婦人社会主義誌『世界婦人』を創刊。生活苦にもめげず資金調達に奔走し、婦人の地位向上と家庭からの解放を訴え闘争を続けた。彼女には大井事件の首魁大井憲太郎との苦い結婚生活の体験があり、その主張に説得力があり多くの女性が賛同、〈東洋のジャンヌダルク〉として尊敬された。

 

福地源一郎〔桜痴〕ふくちげんいちろう/おうち (18411906) ジャーナリスト・作家

è吾曹(ごそう)先生

東京日日新聞で「吾曹」の名のもと健筆をふるううち、いつのまにか仲間が〈吾曹〉と呼ぶようになったという。吾曹(とも)(がら)の意味、たとえば明治9(1876)1113日同紙に「吾曹が今日の雑報中に登録する檄文を見よ」といった記述が見える。

è②吉原通いの優等生

高収入を得る文筆業の身をいいことに、暇さえあれば吉原の妓楼に通っていた。ちなみに「桜痴」のペンネームも、なじみの女郎「桜路」をもじったとされている。軟派の雄、永井荷風は桜痴の門人である。

 

福富太郎 ふくとみたろう (1931- ) 実業家で、キャバレー経営者

èキャバレー太郎

下町のキャバレー「ハリウッド」チェーンのオーナー社長。一時はテレビ出演もして有名人になり、タレントぶりを発揮した。「秦の始皇帝はおばあさんも入れて3千人、こちらは適齢期ばかり5千人」(『週刊宝石』198371日号)との怪気炎を吐いている。ボーイから叩き上げた苦労人だけに、〈水商売の神様〉の話には裏社会ならではの説得力がある。

 

福永健司 ふくながけんじ(191088) 衆議院議員・運輸相

è吉田学校の優等生

東京帝大法学部卒、当時首相の吉田茂に私淑し、若手政治家のうちでも切れ者で通った。自民党の宮沢派に所属してからは、各主要職に起用された。

 

普久原朝喜 ふくはらちょうき (190381) 民謡歌手

èチコンキー・フクバル

沖縄の新民謡を中心に普及に貢献し、「蓄音機の普久原」という意味の琉球方言の渾名を頂戴した。

 

福森久助〔初代〕 ふくもりきゅうすけ (17671818) 歌舞伎作者

è①焼直しの久助

役者から作者へ転向した人。多くは共作に参加しての台本で、並木五兵衛ら上方有名作者の作品の改作も目立ち、人呼んで〈焼直しの久助〉と皮肉を込めたもの。

è②蔵建て久助

三桝屋二三次『妓芸諸録』中の名言に「狂言作者で蔵を建てた者はないが、福森久助は建てた」とある。この人は台本で稼いだうえ金貸しまでして小金を溜め込んだため〈蔵建て久助〉と称された。

 

福家俊一 ふけとしいち (191187) 衆議院議員

è政界の寝業師

自民党福田派の名参謀として、その堂に入った作詞振りが買われての渾名。

 

藤井一興 ふじいかずおき (1955- ) ピアニスト・作曲家

èコンクール荒し

パリ音楽院で本格的にピアノを学び、国際コンクールでいくつもの受賞を果たしている腕達者である。

 

藤井達吉 ふじいたつきち (18811964) 工芸家

è悲運の工芸家

昭和2(1927)年、帝展に第4部工芸部を新設するのに成功したが、これは藤井が社会的栄光をもくろんだがため、との風評が立った。この不本意な誤解に抗し、藤井は生涯同展へ出品することを拒んだのである。

 

藤井丙午 ふじいへいご (190680) 実業家・政治家

è財界政治部長

新日鉄の副社長のかたわら参議院議員だった人。自分の置かれた立場を十二分に利用して、財界と政界とのパイプ役を務めた。

 

藤井康雄 ふじいやすお (193096) 実業家で、龍角散社長

èルネサンスマン

派手な言動でマスコミの話題になった社長さん。たとえば昭和61(1986)年に「同時代うんぬん…」という訳のわかったようでわからない講座を開設、〈ルネサンスマン〉とこちらも意味不明語で呼ばれている。旧連合艦隊ミニチュアのマニアで、なんと640隻保有の司令長官として鼻高々であった。 

 

藤岡屋由蔵 ふじおかやよしぞう (1793-?) 書肆・巷談蒐集家

è御成道(おなりみち)の達磨

江戸各所の巷談(世間話)記録集『藤岡屋日記』全150巻をまとめあげた雑学の大家である。

由蔵は姓は須藤で上野国藤岡の出身、江戸に移り御本丸御成道西側で露天の古書業を開く。そこは足袋屋の軒下を借りたもので、莚に本を並べて売り、その場所からめったに動かないことから〈御成道の達磨〉と異名を付けられた。長い商売で客やなじみの行商人などから巷の噂話などを聞きだし、整理して書き記し、〈御記録本屋〉〈本由〉として晩年はその閲覧料で暮らしていたという。

 本由は人の噂で飯を食ひ        (江戸古川柳)

 

藤蔭静枝〔初代〕 ふじかげしずえ (18801966) 芸妓・舞踊家

è文学芸者

舞踊家の藤間静枝の名取から明治43(1910)年、生活を支えるため八重次の源氏名で芸妓に。美貌なうえ踊りは名取、それに和歌もよく詠むというので、花柳界や芸能界では〈文学芸者〉で通った。

 

藤川八蔵〔三代〕 ふじかわはちぞう (17781805) 上方の歌舞伎役者

è見事なる男ぶり

世襲三代目の立役者。薄雪の妻平、箱根霊験の筆助あるいは菅原の松王など奴や男伊達を得意とし、見物客は〈見事なる男ぶり〉と賛辞を惜しまなかった。

 

富士桜栄守 ふじざくらよしもり (1948- ) 力士で、関脇

è突貫小僧

178センチと力士の中では小柄。しかしダイナミックな突き押しは絶妙で、強い相撲を見せ、数々の栄冠に輝いた。

 

藤沢秀行 ふじさわしゅうこう (19252009) 棋士で、第1期棋聖

èポカの秀行

「ギャンブル好きな天才棋士」「破滅型の棋打ち」「酒で身を持ち崩した棋士」など、この人にはありがたくない世評がいくつも寄せられている。なかでも〈ポカの秀行〉は対戦中にポカの多いことを表し、本人も著作中に「そそっかしい性格なので、それでポカが多い」と述べている。また、序盤戦にめっぽう強く、「50手までなら日本一」と評された。

 

藤沢嵐子 ふじさわらんこ (19252013) タンゴ歌手

 èタンゴの女王 

往年、「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」に所属しタンゴを言語で歌う希少な歌手として名を高めた。『タンゴの女王』は、そのまま実名小説にもなっている。(情報調査・別冊、1956.7.10)

 

富士田音蔵〔二代〕 ふじたおとぞう (17981859) 長唄の家元

è美音の音蔵 

天保12(1841)年に2代目を襲名。当時の長唄三名人の1人で、惚れ惚れするような美声だったため〈美音の音蔵〉ともてはやされた。

 

藤田小女姫 ふじたこととめ (193894) 占い師・経営コンサルタント

è千里眼少女

昭和24(1949)年に占いのよく当る〈千里眼少女〉としてマスコミに登場。個人の運命鑑定から企業コンサルタントまで幅広い運命予想を手がけた。

 

藤田哲也 ふじたてつや (192098) 気象学者

èミスター・トルネード 

米国で多発する竜巻(トルネード)の実態を究明した数少ない日本人として、アメリカの気象学会からこの呼称が贈られた。

 

藤田孫太郎 ふじたまごたろう (18411903) 発明家

è織機発明王

工人を父にもつ利発な子であった。機械いじりが好きで、20代半ばにして紡織枠撚機や大型早撚機を発明。明治18(1885)年には画期的な綿フランネル撚糸機を完成させ、世の注目を浴びる。人呼んで〈織機発明王〉と。

 

藤田まこと ふじたまこと (19332010) 俳優

è馬面の三枚目 

昭和37(1962)年から始まったテレビ番組のシリーズ『てなもんや三度笠』の主役をつとめ、その特異な容貌からこの異名を付けられた。

 

藤田元司 ふじたもとじ (19312006) プロ野球の選手・監督・解説者

è悲運のエース 

慶応大学の学生野球時代にピッチャーをつとめたが、優勝経験が無かったことから〈悲運のエース〉と呼ばれた。

 

不二洋子=和歌浦波子 ふじようこ/わかうらなみこ (192580) 女剣戟役者

è薫風の女剣戟 

彼女が最盛期の頃は浅草公演で「美女剣士和歌浦波子一座」との看板を掲げた。色気たっぷりの殺陣(たて)を見せて大向こうの人気をさらった。

 

藤間勘十郎〔二代〕ふじまかんじゅうろう (17961840) 舞台振付師

è踊りっ子

時代の振付師権踊り手として一流の折紙付き。「共奴」「三社祭」など変化舞踊で絶妙技を披露し、〈踊りっ子〉との親称で通用。江戸茅場町に住み、そこでは〈茅場町の藤間〉でも通っていた。

 

富士正晴 ふじまさはる (191387) 小説家・詩人

è竹林の仙人

漢詩ほかよき時代の詩を愛し、晩年は竹林に囲まれた自宅から外へは出ず、仙人じみた余生を送った。

 

藤村義朗 ふじむらよしろう (18701933) 実業家・政治家

èカマキリ男爵

元男爵で、三井物産の名物取締役だった人。貴族院議員や公正会幹事を兼任し、歴代内閣の外交・経済政策を鋭く批判し続けた。執拗に食い下がる態度から〈カマキリ男爵〉と渾名された。

 

藤本保広 ふじもとやすひろ (192787) ナイフ職人

è百八丁出し

多徳ナイフ造りの名人。〈百八丁出し〉は彼が制作した高級カスタムナイフで、なんと1丁で108もの用途機能を持つ。是が通称として使われるようになった。

 

藤森良蔵 ふじもりりょうぞう (18821946) 数学教育者

è受験の神様 

すう各教育に熱心な人で、幾何学や代数学の各種参考書を出した。また大正3(1914)年、今の予備校に相当する「土曜講習会」を設立、その卓越した指導法が注目された。

 

藤山寛美 ふじやまかんび (192990) 喜劇俳優

 è阿呆の寛美 

藤山は上方喜劇役者として舞台では名演を見せ、観客を愉しませた。晩年は喜劇王とも呼ばれ新喜劇の第一人者に。その反面、派手な私生活が暴かれてゴシップ種になり、私生活でも悲喜劇に満ちた生涯を送った。昭和38(1963)年「日本コメディアン・ベスト10」に選ばれたさい、その天衣無縫な阿呆ぶり、スカタン笑をひっくるめて〈阿呆の寛美〉の異名を冠されている。

 

藤原あき ふじわらあき (18971967) タレント・参議院議員

èタレント議員第1号

テレビのクイズ番組などで広めた顔を利用し、昭和37(1962)年参議院全国区に出馬、最高位当選を果たした。

 

藤原銀次郎 ふじわらぎんじろう (18691960) 実業家で、王子製紙社長

è権現様

〈権現様〉は徳川家康の尊称にあやかったもので、由来は定かでない。おそらくは彼の物事に対する深読みの才と、群小事業を大きく纏め上げる手腕が評価されたものであろう。昭和8(1933)ねん、業界の意向を固めて製紙トラストを実現し、〈製紙王〉とも呼ばれるに至った。

 

藤原咲平 ふじわらさくへい (18841950) 気象学者で、中央気象台長

èお天気博士

中央気象台(現気象庁)において看板の人物で、気象学でわが国ナンバーワンの実績を残している。当時、藤原の天気予報はよく当たることで定評があり、それは独創的な「渦動理論」に基づいていた。

 

藤原顕隆 ふじわらのあきたか (10721129) 廷臣

è夜の関白

顕隆は白河上皇の院司に任ぜられ、 妻・悦子は幼い鳥羽天皇の乳母となる。白河法皇の庇護を受け顕隆は権勢並ぶものない地位を占め、ついに後宮を抱えるなどの行状から〈夜の関白〉と評された。史書『右中記』にも「天下の政、この人の一言に在り」と述べてある。

 

藤原顕光 ふじわらのあきみつ (9441021) 廷臣で、太政大臣に

è①至愚之又至愚

運に恵まれ一族の長老であったので右大臣から太政大臣に出世したが、人柄・政治手腕ともに藤家を汚すほど出来の悪い人物であった。有職故実の典礼などでは過ちや失敗が通例、従弟の道長からも〈至愚之又至愚也〉と痛罵されている。顕光は娘の元子を一条天皇の寵妾に差し出すなど策士の面はあったものの、道長が権力を握ってからは惨憺たる晩年を送っている。

è悪霊(あくりよう)左府(さふ)

 世に執着を残したまま病没した顕光は、やがて後宮入りした道長の娘らに怨霊となって祟ったため、〈悪霊の左府〉と恐れられたという。

 

藤原兼家 ふじわらのかねいえ (92990) 逓信、のちに出家

è()興院(こいんの)大臣(おとど)

 è②東三条大臣

 兼家は永祚2(990)年に関白となり望みを果たしたとたん、地位に長く留まることなく潔く出家している。東三条第の西対(にしのたい)に清涼殿造りの豪邸を建て、「法興院」と称し住んでいたことから二つの呼称をもって呼ばれた。権力よりも贅の実を選んだ人で、1邸に9人の妻妾を住まわせたり、馬30頭を贈り物にしたなどの行状が伝えられている。

 

藤原定家 ふじわらのさだいえ (11621241) 廷臣で、歌人

è達磨歌(だるまうた)の定家

勅撰歌集『新古今和歌集』の撰者である定家は、いうまでもなく「歌仙」に恥じない実力をそなえていた。彼が建久9(1199)年に詠じた一首、

 春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空

は、堂上歌壇に斬新な息吹を与えている。しかし、この一首が保守派歌人の目にとまると〈達磨歌の定家〉の風評がたった。手足をもぎ取られたような拙い歌、というのだ。石くれが秘めたる玉の輝きがわからないのは昔も今も変らない。

 

藤原師尹 ふじわらのもろただ (920-69) 廷臣で、左大臣

è(はら)(わろ)き人

安和の変で左遷された源高明の後任として左大臣に就いたものの、7カ月後に死去。安和の変は源満仲の失脚を狙った師尹らが謀った事件で、『今昔物語』では彼を〈腹悪キ人〉と評している。また住んでいた場所から〈小一条左大臣〉とも。

 

藤原頼輔 ふじわらのよりすけ (111287) 廷臣で、刑部卿

è鼻豊後

一時期豊後守に任ぜられた頃、人並み外れて大きな鼻の持ち主であったことから。

 

藤原頼長 ふじわらのよりなが (112056) 廷臣で、左大臣

è悪左府(あくさふ)

大臣・頼長は執政には有能であったが、激情家で酷薄な仕打ちに世間は畏怖を抱き〈悪左府〉と異名した。たとえば、殺害者を捕らえるためわざわざ検非違使を仁和寺に派遣。頼長の家人(けにん)が上賀茂神社境内で流血事件を起したが、頼長がけしかけたことになっている。彼が描いた摂関家再興の夢は、自身の孤立無援という形で跳ね返りあえなく(つい)えた。

 

藤原弘達 ふじわらひろたつ (1921-99) 政治評論家

èガラッ八弘達

戦後の名だたる時局評論家である。威勢のよい口調にガラガラ声で政治の不条理を斬りまくる弁舌から付けられた。世の不条理に対し鋭い洞察力を発揮して批判した。

 

藤原義江 ふじわらよしえ (18981976) テノール歌手

èわれらのテナー

藤原義江はロシー歌劇団のオペラ公演を聞いて感銘を受け、大正7(1918)年に戸山英次郎の名で浅草オペラ入り。その後イタリアに留学、本場オペラの薫陶を受けて昭和9(1934)年に帰国。「藤原歌劇団」を結成し、本格的なグランドオペラの普及に貢献した。藤原自身も針のあるテノール歌手であり、〈われらのテナー〉と熱い視線を浴びた。

 

双葉山定次 ふたばやまさだじ (191268) 力士で、三十五代横綱

è①大仏

優勝12回はともかく、昭和14(1939)115日安芸ノ海に土を付けられるまで69連勝という偉業を成し遂げ、これはいまだ不倒の記録である。〈大仏〉とは彼の柔和な表情がいかにも大仏像に似ていて、カリスマ性があり、

スケールの大きな相撲を見せてくれたことの総合評価と見てよい。〈無双二葉〉との敬称も持っている。

 è②うっちゃりの双葉

また〈うっちゃりの双葉〉といわれたほどうっちゃりに神技を見せ、その手を繰り出す足腰の強さを誇っていた。

 

富貴楼のお倉 ふっきろうのおくら (18361910) 明治の侠婦

è花柳界の女傑

若い頃は江戸新宿で女郎、数年して大坂新地へ移り芸妓に。ここで男を手玉にとって蓄財、横浜尾上町で割烹富貴楼を経営した。闊達で伝法な女将として貴顕の間で知られ、伊藤博文や陸奥宗光らはここで政治の密議や開港株の投資密談によく利用した。溢れんばかりの色気のうちに一筋縄ではいかないしたたかさを秘めていたようだ。

 

船村徹 ふなむらとおる (19322017) 作曲家

è演歌の巡礼師

昭和53(1978)年にコロムビアを退社、自作曲のギター弾き語りによる全国巡礼の旅に出た。

 

古川市兵衛 ふるかわいちべえ (18321903) 実業家で、足尾銅山の経営者

èちょんまげの市

渾名は晩年までちょんまげを結っていたことから。明治初期の断髪令にもかかわらず、自分を押し通した頑固なところがあった。悪評高い足尾銅山のオーナーで、〈銅山王〉とも言われた。

 

古川元久 ふるかわもとひさ (1965- ) 衆議院議員

èふるげん

米国コロンビア大学大学院留学歴のある国際派。名前を音訓でつづめた愛称をもち、「ふるげん未来塾」を主宰。

 

古田織部 ふるたおりべ (15441615) 茶人

è茶の湯名人

織部は利休について茶の湯を学び、千利休の没後は豊臣秀吉の御伽衆仲間に加わる。のち二代将軍徳川秀忠に招かれ茶の湯を指南した。しかしこの人も、先師の利休同様に、旧豊臣に内通したとのあらぬ嫌疑により、切腹に追い込まれた。

 

古橋広之進 ふるはしひろのしん (19282009) 水泳選手・水泳指導者

èフジヤマのトビウオ

昭和25(1950)8月、ロスアンゼルスの全米選手権大会に参加し、400メートル・800メートル・1500メートル各自由形で世界新記録を樹立した。この力泳により古橋の名は〈フジヤマのトビウオ〉の異名と共に世界中に広まった。

 

 

 

別所毅彦 べっしょたけひこ (192299) プロ野球選手・監督

èベーやん

これは姓「別所」の頭出しに関西親称を付けたもの。速球の南海エースとして知られ、一時はわが国最多の勝利(昭和35年、通算302) を上げている。

 

弁慶 べんけい (?-1189) 法体の武士で、源義経の従臣

è西塔(さいとう)の武蔵坊

「西塔」は比叡山延暦寺の東塔・横川と並び称される三塔の一。『義経記(ぎけいき)』に弁慶の名乗り、「熊野の別当弁しやうの嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とぞ申しける」とある。弁慶の父は熊野の別当で、二位大納言の姫を手籠めにして弁慶を孕ませたという。

 

逸見次郎 へんみじろう (1878-1953) 発明家・計算尺設計技師

è計算尺の父

10代で独立。やがて竹製櫛型目盛スライド式のいわゆる「ヘンミ計算尺」を考案製作。これは万人に重宝がられ販売が伸びて、海外へも輸出された。

 

 

 

法印尊長 ほういんそんちょう (-1227) 天台僧

è二位法印

承久の乱の黒幕的存在で、わずかに歴史家に知られる程度の人物。しかし幕府に楯ついた気骨ある人で、そのため彼を煙たがった北条泰時により処刑されてしまった。しかしながら晩年は院近臣として信任が厚く、朝廷から破格ともいえる二位を授かった。

 

北条希功子 ほうじょうきくこ (1943- ) 宗教家・女優

è霊感女優

女優時代から霊能者として知られている。昭和48(1973)年に芸能界から引退、現在は神仏合同庁舎(無宗派)の金鶏山光泉院主管。

 

北条秀司 ほうじょうひでじ (1902-96) 劇作家

è強情天皇

作品に『王将』三部作や『霧の音』などがある。何人(なんぴと)たれども字作品の改変は許さず、という頑固な面をもっていた。そのため北条をもじって「強情」とし、独裁的権勢を示す『天皇』が付け合わされ呼ばれた。

 

北条政子 ほうじょうまさこ (11571225) 源頼朝の妻

è尼将軍

頼家・実朝の母で、頼朝亡きあと剃髪し、父の時政や弟・義時と共に幕政に加わった。男勝りの気性で専断が目立ち、周囲のひんしゅくを買い〈尼将軍〉と渾名される。この言葉には「女だてらに」の意味が込められている。しかし政子がいなかったら、承久の乱とともに源家は一代で消滅したであろう、と見る史家もいる。

 

北条義時 ほうじょうよしとき (11631224) 鎌倉幕府第二代執権

èぎじちやうとう

承久の乱で後鳥羽上皇勢(京方)を打ち破り、鎌倉幕府への道を開いた人物。院と義時との反目は京(わらべ)らにとって格好の落首材料となり、その頃の流行唄で〈ぎじちやうとう〉という文句がしきりに口ずさまれた。これは音読み暗号だが慣用読みに直すと「義時打頭(よしときだとう)」になる。戦火続きでうんざりした庶民の、権力者へのせめてもの抵抗であった。

 

法然 ほうねん (1133-1212) 僧で、浄土宗の開祖

è知恵第一の法然坊

法然は父の漆間(うるま)時国の遺言を受け、その霊を弔うため13歳で出家し、比叡山で修行の道に入った。長じて京都や奈良に遊学、各宗派の比較を主題とした研究成果を発表、人々の注目を集め〈知恵第一の法然坊〉といわれた。この場合の「知恵」は学識の深さを指す。

 

坊屋三郎 ぼうやさぶろう (1910-2002) ボードビリアン

èクイントリックスおじさん

昭和49(1974)年、ナショナルの新ブラウン管方式テレビ「クイントリックス」CMで話題になった人。翌年には「あたいクイントリックス」「あんたなまってるね」という奇天烈なフレーズが流行した。

 

北斗晶 ほくとあきら (1967- ) 女子プロレスラー・タレント

è鬼嫁

リングで鍛えた粗暴な言葉とキャラクターが茶の間では大受けする。

 

星新一 ほししんいち (1926-97) SF作家

èショートショート生みの親

同人雑誌上に発表の『セキストラ』が注目されて以来、1千作を超えるショートショートを発表している。

 

星亨 ほしとおる (18501901) 政党政治家

è公益の巨魁

星は司法省付きの代言人(弁護士)から陸奥宗光の引き立てにより政界入りを果たした。しかし、他の渾名〈押しとおる〉が示すように、強引なやり口で敵を多く作り議員を除名されてしまう。明治33(1900)年、第4次伊藤内閣で逓信大臣に就任したが、あくどい政治資金集めに関連し、東京市会汚職事件が絡み大臣を辞任。〈公益の巨魁〉との汚名を着せられたまま、剣客の手で暗殺された。

 

星野一義 ほしのかずよし (1947- ) レーシングドライバー

è日本一速い男

往時国内最多の富士グランドチャンピオン優勝5回。平成4(1992)年にデイトナで日本車初の総合優勝。平成10年に引退している。現役時代、インタビューに答えて「神経質で憶病だから、誰よりも速く走り続ける」と感心するように言葉を口にしている。

 

星野仙一 ほしのせんいち (1947- ) プロ野球の選手・監督

è燃える男

昭和44(1969)年中日入りの投手。対巨人戦にめっぽう強く、アンチ巨人派の期待にこたえ〈燃える男〉と評された。昭和57年に引退したとき、「戦後生まれの青年監督」と騒がれている。

 

細川重賢 ほほそかわしげかた (172085) 肥後国主

è肥後の鳳凰

肥後熊本の藩政が逼迫し、財政的に落城寸前であった状況を建て直し、健全化を達成させた名君。重賢自ら質素倹約に精励し、臣に後世「宝暦の改革」といわれる英断を示して範を垂れた。

 

細川たかし ほそかわたかし (1950- ) 歌手

è大賞男

昭和50(1975)年、デビュー曲「心のこり」でいきなりレコード大賞最優秀新人賞を受賞。昭和57年「北酒場」、翌58年「矢切の渡し」で2年連続レコード大賞を受賞。自然に〈大賞男〉といわれるようになった。

 

細野晴臣 ほそのはるおみ (1947- ) ベース奏者・作曲家

èテクノポップの教祖

ロックバンドミュージシャンを経て昭和53(1978)年に坂本竜一らと共にYMOを結成。最近はソロ活動、プロデュース、作曲を手がけている。週刊誌上の対談で「いま地球上の音楽がみんな曇っている」と発言している。

 

穂積八束 ほづみやつか (18601912) 憲法学者

è御用学者

この人、帝国大学法科教授の身でありながら、国体護持の狂信者であるといえた。すなわち、明治憲法において、天皇は憲法を越えた存在で、その主権は天皇以外にありえない、とする論理を展開した。当然、この天皇主権説は学界でのせせら笑いの対象になった。またフランス民法が日本で採用されようとしたとき、「民法出でて忠孝滅ぶ」と異論を唱えている。こうしたいきさつから、彼は国家の〈御用学者〉と決め付けられた。

 

堀口恒男 ほりぐちつねお (19241950) プロボクサー

 è①ピストン堀口

元東洋フェザー級チャンピオンで、プロになってからの戦績は176138(82KO)2414引分け。キャリアといい勝率といい、じつに立派なものである。すばやく繰り出される連打はピストンを見るようで、そのため異名がリングネームになった。

è②拳聖

昭和25(1950)10月に列車事故で他界、マスコミもファンも早世を惜しんで〈拳聖〉の惜別を呈した。

 

堀越二郎 ほりこしじろう (19031982) 航空機設計者

è零戦生みの親

昭和14(1939)年に日本海軍の命により零式艦上戦闘機の設計主任となり、これを完成させた。

 

保利茂 ほりしげる (1901-79) 政治家で、自民党の国会議員

è寝業師

福田赳夫総理を手助けするため「三木降し」に奔走。その手段を選ばない策が世間の注視を浴び、〈寝業師〉と陰口された。

 

堀藤十郎 ほりとうじゅうろう (1853-1924) 鉱山事業家

è中国の銅山王

生家は代々鉱山業を営み、藤十郎(世襲名)15代目の当主。畿内から山陽の各地で鉱山を経営、なかんずく銅の生産に見るべき実績を誇っている。

 

本因坊察元 ほんいんぼうさつげん (1734-88) 囲碁棋士で、本因坊第九世

è碁打ち富豪

察元は実力は確かなものがあったが、昇段をめぐる執着心が人一倍強く、坊門でのいざこざが絶えなかった。性格も派手好きで、数多の取り巻きを従え、強者風流に走った。そうした察元を他流の棋士は〈碁打ち富豪〉と称してはばからなかった。坊門はこの察元に続く十世烈元二代の派手な乱費によって、一時は屋台骨が傾きかけたほどである。

 

本因坊算砂 ほんいんぼうさんさ (15581623) 碁会所の始祖で、本因坊第一世

è名手中の名手

日本における碁会所の開祖であり、坊門を体制化した功労者。8歳にして落飾し日海を名乗る。碁技の才を早くから開化させ、海内に敵無し、と称された。噂を聞いた織田信長が彼を招いて師範に就かせ、名人の称号を与えている。信長亡き後、こんどは豊臣秀吉の目に留まり、彼また日海を碁の師と仰いだ。天正11(1583)年、天下の覇者となった徳川家康も本因坊の実力を認め、本因坊の代替わりごとに扶持を与えるとの御朱印認可を発行している。

 

本多貞吉 ほんださだきち (17661819) 加賀九谷焼の名工

è能美九谷

伊予で陶法を修業し、金沢で木米に師事し春日山の窯で製陶。やがて腕を見込まれ能美郡若杉村で染付や赤絵南京、瑠璃など独自の陶器を開発、〈能美九谷〉の開祖となた。

 

本田重次〔作左衛門〕ほんだしげつぐ/さくざえもん (153096) 戦国武将で、徳川家康の家臣

è鬼作左

名うての直言居士で、理屈の通らないなことにはたとえ主君・家康とて曲げずに意見した。いかつい面構えと剛直な物言いによって、周囲から〈鬼作左〉の渾名を付けられた。重次が戦陣から家人へ送ったという「一筆申す、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ、かしく」は簡潔な手紙文の見本とされている。

 

本田宗一郎 ほんだそういちろう (190691) 本田技研の創業者

è日本のエジソン

èオートバイ王

開発指向の高い技術者タイプの経営者で、オートバイや自動車生産に数かずの特許考案をなし、業界の先進化に貢献した。米国ミシガン州にあるAutomotive Hall of Fameに日本人初の殿堂入りを果たした。

 

本多正信 ほんだまさのぶ (15381616) 戦国武将で、徳川家康の家臣

è(はらわた)の腐れ者

è②佐渡の腰抜け 

佐渡守正信は家康側近の中でも知略に長じ、政治手腕にも見るべきものがあった。当然家康に重用される。これが戦陣向き硬派の家臣には気に入らず、能吏風を吹かす正信は彼らから嫌われて〈腸の腐れ者〉とか〈佐渡の腰抜け〉などと悪態を叩かれた。ことわざにいう、出る釘が打たれたわけである。

 

本田良寛 ほんだよしひろ (192585) 医師

è赤ひげ先生

大阪あいりん地区(釜ケ崎)22年もの間、日雇い労働者達への医療活動に献身した。愛称〈りょうかん先生〉とも。

 

本間俊平 ほんましゅんぺい (1837-1948) 宗教家・社会運動家

è秋吉台の聖者

山口県秋吉台で大理石採掘事業に携わりながら、監獄、病院、軍需工場などを訪問伝導して歩いた。

 

本間泰次 ほんまたいじ (1923-2002) 北海道増毛(ましけ)町長

èエネルギー町長

地元の自然環境に合ったエネルギー資源を求め、太陽熱発電、風力発電、波力発電などの実験プラントや科学間建設を手がけた。新エネルギー源を行政に生かした功績は大きい。

 

 

 

前島密 まえじまひそか (18351919) 郵便制度の創設者

è郵便の父

明治開化期に紙幣制度の見聞研究のため、民部省命により渡欧した。帰朝後、駅逓頭(後の逓信大臣)に就任。「郵便」をはじめ「切手」「切符」などの呼称を創設、あわせて在来の飛脚屋を統合し、郵便事業の官業化を実現させた。

 

前田駒次 まえだこまじ (18581945) 政治家・北海道開拓者

è北見開拓の父

明治28(1895)年からクンネップ原野(北見地方)の調査に入り、農界書記として現地開拓の指導に当たる。自身はキリスト教の入信者であり、彼の温情に接した入植者から〈北見開拓の父〉と呼ばれた。

 

前田武彦 まえだたけひこ (19292011) タレント・司会者

 ①毒舌マエタケ

放送作家としてのスタートは早く、昭和28(1953)年NHKテレビが開局したと同時に書き始めている。その後「お昼のゴールデンショー」などでギャグをまじえての言いたい放題が受け〈毒舌マエタケ〉の異名に。

è②泣かせのマエタケ

NHK「夜のヒットスタジオ」などの番組で、一言余計な毒舌で女性出演者をよく泣かせたので、この渾名が付けられた。

 

前田利家 まえだとしいえ (153899) 戦国武将で、加賀藩の開祖

è槍の(また)()

向うっ気の強い武将で、元服後しばらくは名を又左衛門と名乗っている。織田信長傘下の初陣では派手な長槍をひらけかし、敵の首級(しるし)を取って周囲の猛者(もさ)連を驚かせている。これから〈槍の又左〉の異名が付けられた。

 

前田夏蔭 まえだなつかげ (17931864) 国学者・歌人

è百疋(ひやつぴき)大人(たいじん)

 水戸藩の幕臣学者として名を成した実力の持ち主だが、束脩(そくしゆう)(指南料)に加え付け届けを貰わないと容易に人に会わなかった。それも50疋の半端な額ではダメで、100疋を相場としたため〈百疋大人〉の悪名を鳴らした。なお1疋は銭1025文に相当。

 

前田陳爾 まえだのぶあき (190775) 棋士で、囲碁九段

è詰碁の神様

詰碁に卓越した理論と実績を誇る。その強さから若いときは〈鬼童丸〉と渾名された。

 

前田一 まえだはじめ (18951978) 日経連専務理事

èマエピン

姓名のつづめに隠語数詞をオーバーラップさせている。言葉遊び渾名付けの典型であるといえる。

 

前田光世 まえだみつよ (18781941) 柔道家・格闘技師範

èアマゾン開拓の父

柔道をはじめプロレスやボクシングなど異種格闘技において、世界各地で2000勝負け知らずと伝えられている。南米に渡り、ブラジルでは「コンデ・コマ」で知られ、のちアマゾンに入植。面倒見の良い親分肌で、渡来した日本人の面倒を見続け〈アマゾン開拓の父〉と呼ばれた。

 

前野良沢 まえのりょうたく (17231803) 蘭学者・医学者

è和蘭(おらんだ)化物

前野は47歳になってから蘭学を志し、青木昆陽の教えを受けながら長崎に渡り猛勉強をした。そのさい蘭医書『ターヘル・アナトミア』の原書を手に入れている。 明和8(1791)年、千住小塚原で死刑囚の腑分けを観察し、これを参考にしつつ翻訳作業にかかったが、小浜藩医で同僚の杉田玄白名義の『解体新書』を完成させたのである。前野には「蘭化」の別号があるが、これは藩主奥平昌鹿画戯れに彼を「良沢はオランダ人の化物」と評したことに由来している。

 

真壁仁 まかべじん (190784) 詩人・評論家

è野の思想家

地元の山形について風土、農民生活を詩、農民文学に活写した。『野の教育論』『野の文化論』などの著作がある。

 

牧伸二 まきしんじ (19342013) 漫談家

èウクレレ漫談家

昭和35(1960)年、文化放送・ウクレレ週刊誌でデビュー、「ああ、やんなっちゃった、ああ、おどろいた」の時局風刺ウクレレ漫談で爆発的な人気を呼び、いらい〈ウクレレ漫談家〉と親しまれてきた。

 

牧田与一郎 まきたよいちろう (190371) 実業家で、三菱重工業社長

èらしゃめんお牧

三菱グループの総帥として、新生の三菱自動車を強化発展させるべく米クライスラー社との提携にこぎつけたとき、その暗躍ぶりがこの渾名となって呈された。

 

マキノ雅広 まきのまさひろ (190893) 映画監督

 èカツドウ屋

世に〈カツドウ屋〉を名乗る映画関係者は何人かいるが、この称は一人マキノのために存在するようなものである。彼は人間の生き様を映像化する天才であつた。『映画渡世』といった好読物も著している。

 

馬越恭平 まごしきょうへい (18441933) 実業家で、大日本麦酒社長

è東洋のビール王

サッポロビールの前身である大日本麦酒で26年間も社長をつとめた人。同社は戦前のビール業界で市場独占状態を誇り、ビール醸造の造詣の深い馬越は〈東洋のビール王〉と畏敬された。彼はビール業界に留まらず100社を超える会社に関係し、財界の長老的存在でもあった。

 

正岡子規 まさおかしき (18671902) 俳人・歌人

è延暦寺の悪僧

坊主頭に不精髭を生やした子規の横顔写真を見ると、昔付けられた〈延暦寺の悪僧〉という渾名がピッタリはまっているように思える。

 

真咲美岐 まさきみき (192782) 女優

èジプシー女優

宝塚で男役だったが、昭和31(1956)年に退団してから文学座を皮切りに浪漫劇場、NLT、昴と移籍がめまぐるしく、とうとうこの渾名が付いた。

 

まさ女 まさじょ (17641826) 女流狂歌師

è秋風(あきかぜの)女房(にようぼう)

 吉原大文字屋の楼主・村田文楼の姪で、狂号を木綿子(ゆうし)と称していた。たまたま自詠の

   秋風と風がしらすや文月の封じを桐の一葉散らして

 が衆目を引き、〈秋風女房〉といわれるようになり、以降これを狂号にしている。

 

正村竹一 まさむらたけいち (190775) パチンコ製造販売業者

èパチンコの神様

正村は戦後の名古屋付近で農家等に隠匿されていた中古パチンコを買い集め、修理して名古屋のパチンコ店に販売した。やがて旧式台に飽き足らず、研究と改良を重ねて、玉がスピーディに飛び交う正村ゲージを完成させた。その後、オール15、オール20といったヒット機を開発、世人から〈パチこの神様〉〈パチンコ太閤〉と称された。

 

増沢末夫 ますざわすえお (1937- ) 騎手・調教師

èミスター・ハイセイコー

増沢は昭和48(1973) 年、ハイセイコーに初騎乗してからやよい賞など四連勝をあげた。彼は美声の持ち主で、「さらばハイセイコー」をレコードに吹き込んで出すと大ヒットし、たちまちハイセイコーブームを呼び、自身も〈ミスター・ハイセイコー〉と称されるようになった。

 

益田英作 ますだえいさく (1865-?) 実業家で、古美術商

è公園さん

東京芝公園脇に住む益田は、良心的な骨董屋として知られていた。骨董屋にありがちな客の足元を見るような商売はしなかったという。親しく〈公園さん〉と呼ばれ、この渾名を本人も気に入り、語呂合わせした雅号「香艶」を用いたほどである。

 

増田甲子七 ますだかねしち (18981985) 政治家で、労相

èリクツこね七

増田は右翼寄りで知られ、共産主義攻撃の放言を重ねて政界の異端児とされた。弁舌巧みだが何かと理屈っぽい物言いをしたため〈リクツこね七〉と、名前をもじった渾名を付けられた。

 

升田幸三 ますだこうぞう (191891) 棋士

è①攻めの升田

è②将棋界の一刀斎(サンデー毎日、1957.5.19)

タイトル戦に23回臨み、タイトルを7回獲得、新手一生で人気が高かった。この升田の攻めに対し、「受けの大山」も名勝負師として語り草になっている。

 

増穂残口 ますほざんこう (16551742) 国学者・戯作者

è遊里のお遍路さん

国学や俳諧、神道に通じ、かたわら全国の遊里を遍歴した。著作の中に色里事情を足で集めた『艶道通鑑』の一著があることから、世人言うところの〈遊里のお遍路さん〉は確かであろう。

 

町田忠治 まちだちゅうじ (18631946) 政治家で、東洋経済新報社を創設

èノントウ

新聞連載漫画「ノンキなトウサン」を略した渾名。この漫画の主人公に似て温厚で大人風な人柄からの連想である。日本進歩党総裁など政治歴が長く、歴代首相から入閣要請があったにもかかわらず大臣の椅子を蹴り続け、気骨あるところを示した。

 

松井須磨子 まついすまこ (18861919) 女優

èマーちゃん

の字を用いた愛称。島村抱月が須磨子宛に出した恋文(中山晋平が代筆)に「……そして抱きしめて、接吻して、接吻して、死ぬまで接吻している気持ちになりたい。マーちゃんへ、キッス、キッス」とある。それほど恋焦がれた須磨子は、抱月の言葉通り〈生ける芸術品〉であったにちがいない。

 

松江宗徳 まつえそうとく (?-1683) 泉州堺の茶人

è一釜宗徳

宗徳は大徳寺住職で先輩茶人である清嶽宗渭と親交深く、清嶽から自在庵一釜斎なる雅号を与えられた。また清嶽の名句「渇来茶、餓来麦」ならびに「承応二年自笑書」の13文字を釜の表に鋳出した鋳物を作らせた。そして生涯、この釜一つで飯を炊き、湯を沸かして茶を飲んだという。故に人彼を呼んで〈一釜宗徳〉と。いかにも隠士遁茶人の面影を髣髴させる逸話である。

 

松尾和子 まつおかずこ (183592) 歌手

èムード歌謡の女王

日本ビクターの専属歌手で、大人のしっとりと官能的な歌唱を披露。マヒナスターズと唱和した『誰よりも君を愛す』こそ、〈ムード歌謡の女王〉を代表している。

 

松尾多勢子 まつおたせこ (181194) 勤皇婦人で、歌人

 è①信州から来た歌詠み婆さん

信濃国伊那出身の婦人勤皇家。平田門下で歌道を修め、京都へ出て藤本鉄石、品川弥二郎ら勤皇志士のために暗躍し目的達成を幇助した。詠歌は見るべきものはないが、その人柄からこの異名が付けられた。

è②岩倉の周旋老婆

明治元(1868)年、庇護者らとともに上京し、岩倉具視に仕えた。このときも亡命諸士の面倒を見て、〈岩倉の周旋老婆〉という異名を高めた。

 

松方幸次郎 まつかたこうじろう (18651950) 実業家で、川崎造船所社長

è財界ルンペン

松方が道楽仕事で集めた松方コレクションは美術館建設を伴いさらなる出費をもたらし、川崎造船の資金繰りをも圧迫。会社経営が行き詰まって倒産しかけたとき、ジャーナリストからこの渾名が付けられた。

 

松方正義 まつかたまさよし (18351924) 政治家で、大蔵大臣

è後入(ごにゆう)(さい)

 他人の意見によく耳を貸しすぎる、というよりは鵜呑みにして取り入れてしまう悪い癖がある性格で、この時代がかった渾名を付けられた。しかし財政政策では金本位制の確立、日本銀行の設立、兌換銀行券の発行などの実績を残し、明治天皇のご信任も厚かった。一説では50人近い子福者であったともいわれている。

 

松沢哲郎 まつざわてつろう (1950- ) 霊長類学者

èチンパンジー先生

野生のチンパンジーを実験対象に、文字や数の概念を覚えこませ、かなりの知能程度があることを証明して見せた。

 

松沢宥 まつざわゆたか (19222006) 美術家 

 è観念の芸術家

松沢言うところの「不可視の美術」を探求。そして「新感覚絵画」という現実には存在しない画法を提唱した話題をまいた。

 

松下幸之助 まつしたこうのすけ (18941989) 実業家で、松下電器産業の創業者

è経営の神様

裸一貫でスターとし松下グループを育て上げた実業家。その経営手腕と実績から財界ではカリスマ的存在であった。たとえば松下経営塾を設けるなど、この〈経営の神様〉には脱実業の分野で押し付けがましく、やり手のニュアンスもうかがえる。かつての松下電器産業は借用・模倣技術が目立ち、業界では「マネシタ電器」との陰口も通用していた。

 

松島市五郎 まつしまいちごろう (18641918) 人力車夫

è無法松

喧嘩に明け暮れた人力車夫だが、義侠心が強く、他人の面倒見がよかった。昔、坂東妻三郎が主演した映画「無法松の一生」のモデル人物である。

 

松島半弥〔初代〕 まつしまはんや (生没年未詳) 延宝期、大坂の歌舞伎役者

è指切半弥

上方の若女形で評判の色気を振りまいた。感きわまった見物客が小指を切り落とし、紙に包んで「心中(私の気持ち)はこれぞ」と半弥に投げつけた。いらい〈指切半弥〉の異名で呼ばれるようになった。

 

松島寿三郎〔五代〕 まつしまじゅさぶろう (19202007) 長唄三味線方

è黒みす内の舞台師

芝居に良し、役者に良し、呼吸のぴったり合った弾き方で人気があった。「黒みす」とは、芝居で鵬楽を演奏する場所を指す。寿三郎はその黒子役の中でも目立つほどの名演奏で評判だった。

 

松平信綱 まつだいらのぶつな (15961662) 老中

è知恵伊豆

徳川家光・家綱に仕え、参勤交代を始め、島原の乱、慶安の変などを手際よく処理。諸幕政にも手腕を示したことから〈知恵伊豆〉と高く評価された。この人、子孫が権高にならないよう「御書(今にいう辞令・表彰状の類)は焼き捨て、灰を袋に入れて首に掛け棺に入れ置くべし」との遺書を残している。信綱の知恵は浅知恵でなく、深謀遠慮から出ていることを物語っている。

 

松平慶民 まつだいらよしたみ (18821948) 子爵で、宮内大臣

è昭和の殿様

松平侯爵家から分家し、侍従など宮中関係の要職を歴任。今殿様の気品と風格を備え、人々から〈昭和の殿様〉と敬われた。

 

松平慶永 まつだいらよしなが (182890) 子爵で、越前福井藩主

èリンゴの父

机上の空論よりも実学の実践に重きを置いた名君である。たとえば文久2(1862)年に将軍補佐役として幕府政治総裁の職務にあったとき、アメリカからリンゴの苗木を輸入し、これを江戸別邸に植えて栽培。これを生育に適した津軽藩に推奨して、今日の青森リンゴの一大産地となしたのである。

 

松田聖子 まつだせいこ (1962- ) 歌手

èママドル

昭和から平成にかけ、いくつもヒットチャートの第1位を放ってアイドル歌手に。昭和60(1985)6月に俳優の神田正輝と結婚(1997年に離婚)し翌年1子を出産。その後歌手に復帰したが、母親になった松田をマスコミは〈ママドル〉と、言い得て妙なニックネームで呼んでいる。

 

松田竹千代 まつだたけちよ (18881980) 政治家で、大臣・衆議院議長など歴任

èテキサス無宿

ニューヨーク大学卒で、どこかバンカラな雰囲気を漂わせたことから〈テキサス無宿〉と、たいそう勇ましい渾名を付けられた。しかしご本人はリベラルな思想の持ち主で、対話を重視した政治姿勢からもその性向がうかがえる。

 

松永久秀 まつながひさひで (15101577) 戦国武将

è三悪事の久秀

史書などではいわゆる下克上を実践した男として描かれている。久秀の「三悪事」とは、●主筋の三好家を裏切り滅亡に導いたこと。●将軍・海驢義昭を拭殺したこと。●南都(奈良)で大仏殿を焼き払ったこと。──以上だが、一筋縄ではいかない曲者であった。

 

松永安左衛門 まつながやすざえもん (18751971) 実業家で、電力事業経営者

è電力の鬼

昭和財界の最長老で、つねに隠然たる存在感を示していた。戦前は日本列島の電力網普及に尽力。戦後は電気事業再編成審議会会長に就き、民間九電力体制の生みの親である。かつて電力の国家統制という命取りの局面にあって、「官吏は人間のクズである」という極言を吐き、大衆の喝采を浴びたこともある。個人的には美術収集家、茶人として知られた。

 

松野鶴平 まつのつるへい (18831962) 政治家で、政界のフィクサー

è①ズル平

にこやかに談笑しながら相手を丸め込んでしまう策士ぶりから、松野は〈ズル平〉と陰口をいわれた。かつて吉田茂の政治指南役で閣僚まとめに手腕を発揮、〈吉田政治の黒幕〉との批判も出ている。

è②選挙の神様

昭和7 (1932)年の総選挙では、所属の政友会選挙参謀として466議席中304名を当選させるという離れ業をやってのけ、〈選挙の神様〉ともいわれた。

 

松野頼三 まつのらいぞう (19172006) 政治家で、自民党顧問

è黒マントのRAIZO

公の場でも黒マントを身にまとい、頭にはボルサリーノを被り、どこやらレトロ怪人風ないでたちは、まさに〈黒マントのRAIZO〉にふさわしい。人は高齢になるほど不精になり、個性発揮といった粋事もおろそかになるが、この人は別格であった。政治向きのことはさておき、自ら述懐しているように、生来の女好きがダンディと長寿をもたらしたのだろう。

 

松廼家露八 まつのやろはち (18331903) 士族出の幇間

è三宝(さんぽう)荒神(こうじん)

江戸小石川小日向武島町に住み、土肥庄次郎という名のれっきとした一ツ橋家臣の家柄。廓遊びに狂い、酒と女に身を持ち崩す。あげくの果て太鼓持に落ちぶれたのである。三宝荒神は仏・法・僧をを庇護する荒ぶれ神で、怒りの形相がすさまじい。露八の男芸者に不相応な崩れた御面相をからかった渾名で、場違いの意味が込められている。

 è②士族の面汚し

維新で四民平等がうたわれたにもかかわらず、武士の気位を捨てきれない堅物士族は、幇間に成り下がった彼を〈士族の面汚し〉とののしった。

è③ひきがえる

容姿がヒキガエルを連想させるため誰言うとなく付けた渾名で、彼自身ヒキガエルの名入り小唄を座敷で披露し、余興の名物にしたという。

 

松林伯円〔二代〕 まつばやしはくえん (18321905) 明治期の講談師

è泥棒伯円

穏やかでない渾名だが、じつは「鼠小僧」「小猿七之助」など義賊物・悪党物口演ですっかり有名になったことに由来。住んでいた下谷練塀町の家が河内山宗俊の住居跡と聞いて、大作「天保六花撰」を脚本化したという逸話もある。講談界の重鎮でもある本人は汚名のようなこの呼称をたいへん気にして、晩年は解消に躍起であったという。

 

マッハ文朱 まっはふみあけ (1959- ) 女子プロレスラー・タレント

è女子格闘技の女王

柔道初段、空手初段、合気道三段の腕前を持ち、リングだけでなくテレビでも威勢のいいところを見せ付けている。

 

松本小三郎 まつもとこさぶろう (生没年未詳) 歌舞伎役者

è()(うま)

天保年中、松本小三郎を名乗る女形がいた。たいへんな美形で、女装すると男と見破れる者がいなかったという。物の本には、向島の花見客で賑わう茶店で女装のまま立小便をし、言い寄った助平武士どもを手玉に取った武勇伝が見える。とにかく見かけによらずしたたか者、賭博好きで喧嘩も強く、知る人はジャジャ馬の意味をこめて〈野馬〉と渾名した。

 

松本弘子 まつもとひろこ (19352003) ファッションモデル

èオリエンタル・ヒロコ

往時、パリコレクションに出演し、エキゾチックな顔立ちにオカッパ頭、あたかも日本人形のようなイメージで彼地ファッション界の話題をさらった。

 

松本正雄 まつもとまさお (191786) 小矢部市市長

èメルヘン市長

東京大学工学部卒の建設官僚出身。市内公共施設37棟の建築を東大安田講堂やウェストミンスター寺院に擬して建てた。私趣味の濫用、税金の無駄遣いとの市民の声も上がっている。

 

松浦静山 まつらせいざん (17601841) 平戸藩主

è博物大名

これは後世人が付けたものだが、彼の名著『甲子(かつし)夜話(やわ)』全278巻を拾い読みしただけで、十分に納得がいく。生涯に集めた書物の数は33000冊に達し、しかも本人の記憶力は抜群。生活に不自由せず時間もたっぷりあるため、博学の殿様にふさわしい事績を残した。圧巻は蔵書や著作だけにとどまらず。妻妾の間に34人の子をつくり、末子は74歳のときの子であった。

 

丸山明宏 まるやまあきひろ (1935- ) 歌手・タレント

èシスターボーイ

女形の現代版としてマスコミに登場したのが昭和32(1957)年のこと。シャンソン「メケメケ」でシナを作りながら歌うその姿に、昭和1桁生まれ以前の者は大きなショックを受けた。ところが彼は単なる半陰陽的ナヨ助〈シスターボーイ〉ではなかった。5年後に再デビューしたとき、女土方を主題にした「ヨイトマケの唄」が爆発的なヒットになり、この人の硬派的な人物像を強烈に印象付けたのである。

 

丸山千里 まるやまちさと (190192) 医学博士・日本医科大学学長

èワクチン先生

50年代、がんに聞くと評判になった「丸山ワクチン」の開発者。病院の彼の診察室前は、がん患者やその家族が列をなした。

 

丸山鶴吉 まるやまつるきち (18831956) 政治家で、警察官僚

è桜田門の大狸

大正期、内務入省いらい警察畑の要職にあった。戦時中は大政翼賛会事務総長に就任。周りのライバルを蹴落しエリート官僚の出世街道を突っ走った策士で、一筋縄ではいかない人物像から付けられた渾名である。

 

 

 

三浦環 みうらたまき (18841946) オペラ歌手

è恋の歌姫

オペラ「蝶々夫人」でのプリマドンナぶりはあまりにも有名だが、恋多き女でも名を広める。夫持ちの身でありながらいくつも浮名を流し、〈恋の歌姫〉と冷やかされた。無軌道ともいえるはねっかえりぶりを、昭和5(1930)513日『読売新聞』が面白おかしく伝えている。

 

三浦雄一郎 みうらゆういちろう (1932- ) アルペンスキーヤー

èカミカゼ・スキーヤー(週刊新潮1964.8.31)

昭和39(1964)年、イタリアのキロメーターランセで時速172.084kmの世界記録を樹立した。

 

三重野康 みえのやすし (19242012) 銀行家で、日銀総裁 

è日銀のプリンス

平成元年、三重野は第26代日銀総裁に就任、山一證券の経営危機を救うなど手腕発揮した。

 

三笠宮寛仁親王 みかさのみやともひとしんのう (19462012) 皇族

èひげの殿下

皇族のひげなど珍しくもないのに、マスコミ人が〈ひげの殿下〉と名づけて全国的に広まった。

 

三上曇蔵 みかみどんぞう(17781861) 真宗の僧

èやれ怖しの光明坊

長門国萩の光明坊三上氏に養子入りした住職。大柄で容貌魁偉、人に接しても高圧的で傲慢な態度をとるのが常であった。たとえば、あるき檀徒の1人が会釈せずにこの坊主の前を通り過ぎようとした。すると坊主は従者に向かい、「早く犬を追っ払え!」と大喝したという。こうした彼を人は〈やれ怖しの光明坊〉と呼んだ。

 

三木善八 みきぜんぱち (18571931) 新聞人で、報知新聞社主

è新聞経営の神様

直営販売店の創設、色刷り輪転機の導入、ゆうかんはっこうなどで、報知新聞を都下第一の発行部数に引き上げた。

 

三木隆 みきたかし (18921952) 実業家で、日本製鉄社長

è鉄鋼界の大御所

田山鉱山を振り出しに日鉄社長に就くまで、製鉄一筋に歩んだ人。日本鉄鋼連合会長など業界の要職も歴任、財界で〈鉄鋼界の大御所〉と呼ばれた。

 

三木武吉 みきぶきち (18841956) 政治家で、自民党を結成

èヤジ将軍

三木は吉田茂総理の「バカヤロー」発言をとらえ内閣を失脚させた影の軍師である。国会でとばす過激な野次は後世も語り草になっている。法律知識を悪用?しての三百代言ぶりに、彼を知る人は〈ヤジ将軍〉のほかにも〈タヌキ親仁〉〈勝負師〉〈政界の怪物〉などなど、賑にぎしく異名を奉る。すなわち、ヤジられてしかるべきはご本人自身ということになる。

 

三木睦子 みきむつこ (19172012) 三木武夫主相夫人

è女総理

三木内閣時代、夫を支えるのではなく、飛び越して表立ちたがったがために〈女総理〉とニックネームを付けられた。口達者な連中と護憲論を戦わし、日中友好団体で檄を飛ばし、国連婦人会の会長をつとめる。偉い肩書きが目白押しで、昔のバカ男どもが胸に飾ったエセ勲章を見る思いがするのである。〈女総理〉の裏の意味を本人がはたして気づいているかどうか。

 

御木本幸吉 みきもとこうきち (18581954) 真珠養殖家

è世界の真珠王

「ミキモトパール」の名を世界に広めた功労者である。

 

三鬼陽之助 みきようのすけ (19072002) 経営評論家

è財界御意見番

財界の私設機関とまでいわれた財界研究所の所長。紙誌で個性的な健筆を振るい、企業内派閥抗争の語られざる部分を抉り出すなど、財界人・ビジネスマンににらみを利かす。〈財界御意見番〉あるいは〈財界鬼検事〉という肩書的異名の知名度は非常に高かった。

 

汀夏子 みぎわなつこ (1946- ) 宝塚歌劇団の女優

è最後まで女ではなかった女

「ベルサイユのばら」のオスカル役など、昭和55(1980)年に退団するまでもっぱら男役で通したため、いささか長いものの気の利いた異名が付けられた。

 

三島海雲 みしまかいうん (18781974) 実業家で、カルピスの創業者

è宣伝の天才

大正から昭和にかけ、伝書鳩レースや囲碁大会などの開催を主催し、カルピスの名前を全国に浸透させた。このカルピス、三島がモンゴルを訪問したとき、同地の遊牧民が羊乳の乳酸飲料を飲んでいるのにヒンとを得たものという。 

 

三島由紀夫 みしまゆきお (192570) 小説家

è天下のヘソ曲り

三島が割腹し果てたのは、事もあろうに東京市谷の陸上自衛隊東部方面総監室で、見方によっては国家への当て付けといえた。事件の衝撃的な点もさることながら、社会的反響も大きく日本中がわきかえった。三島は生前の昭和34(1959)14日号『週刊朝日』において、「私は天下のヘソ曲り」と自嘲している。この人はこの一言を現実に証明して見せた。誰が見ても、これ以上の〈天下のへそ曲がり〉はいるまい。

 

三島良績 みしまよしつぐ (192197) 金属工学者

è原子力安全の父

日本学術会議会員、日本原子力学会会長などを歴任、原子力の平和利用と安全性確立に尽くした功労者。しかし2011年の福島原発事故以来、この呼称も見直しが迫られているようだ。

 

水野直 みずのなおし (18791929) 男爵の政治家で、貴族院議員

è①陰星

è②政界の影武者

東京帝大法科を出てから政界入りし、貴族院議員に5回当選。しかし表面に立たず、つねに時の権力者を陰で支える黒子役に徹した。水野が関与した内閣は清浦、田中、加藤、若槻に及んでいる。日夜フィクサーとして活動し続けるため、国内に数箇所の別宅と数十箇所の休息所を設け、2台の専用自動車を駆って180マイル以上を走り回ったという。

 

水上達三 みずかみたつぞう (190789) 実業家で、三井物産社長

è(はやぶさ)の達

東京商大(現一橋大学)時代は陸上競技部で快速で鳴らし、〈隼の達〉とのニックネームを付けられている。これが後のちも噂になり、先読みの素早さに反映、物産社内でも尾を引いて用いられたとか。

 

水木しげる みずきしげる (19222015) 漫画家で、妖怪研究家

èお化け先生

妖怪をテーマとしたアニメの元祖である。水木お化けの頭目格「ゲゲゲの鬼太郎」はたいていの人に知られ、画集『妖鬼化(むじやら)』全8巻はヒットセラーである。人呼んで水木を〈お化け先生〉、画伯にはたして二本の足が付いていただろうか。

 

水谷長三郎 みずたにちょうさぶろう (18971960) 政治家で、商工相  

èフンドシ大臣

片山内閣の商工大臣時代、公邸をフンドシ一本で歩いていたのを新聞記者に目撃され、〈フンドシ大臣〉の異名が広がった。この人は民社党のまとめ役としても活躍した。 

 

水の江滝子 みずのえたきこ (19152009) 女優・映画プロジューサー

èターキー

デビュー当時に〈男装の麗人〉と騒がれ、滝子を洋名風に仕立て〈ターキー〉の愛称が流布した。

 

三角寛 みすみかん (190371) 作家

èサンカ博士(週刊朝日、1962.4.13)

小説「山窩血笑記」やレポート「山窩族の社会の研究」でこの分野研究では第一人者であった。

 

水守亀之介 みずもりかめのすけ (18861958) 小説家

è酒盛り亀之介

大酒飲みの作家で、筆名にひっかけ〈酒盛り亀之介〉と呼ばれた。ちなみに亀は酒が好物、酒との相性が良いとされている。

 

美空ひばり みそらひばり (193789) 歌手・女優

èお嬢

多弁を要しない歌謡曲の女王。人柄とたたずまいからファンにより〈お嬢〉の愛称で親しまれる。この愛称の発案者は三人娘の一人、雪村いずみだとか。美空だけは没後に贈られた「国民栄誉賞」も納得が行く。

 

三田村鳶魚 みたむらえんぎょ (18701952) 考証家・随筆家

è江戸の生き字引

江戸学の造詣の深さではこの人をおいて抜き出る者はなく、〈江戸の生き字引〉の評も誇張に思えない。江戸考証に対する幅の広さと奥行きの深さは、公共図書館書架に何種類も並ぶ鳶魚全集から推し量れよう。

 

満川亀太郎 みつかわかめたろう (18881936) 国家主義者で、東亜問題研究家

è天神さん

右翼思想家、軍人らの結社切っての理論家だが、温厚で世話好きなことから、北一輝らは〈天神さん〉と呼んでいた。

 

光永星郎 みつながほしお (18661945) 実業家で、日本電報通信社社主

è電通生みの親

〈電通生みの親〉というよりは「日本近代広告の祖」という呼び方のほうがぴったりだろう。明治末、広告取扱高において、すでに日本一の座を占めていた。

 

三ツ矢歌子 みつやうたこ (19362004) 女優

è昼メロの女王

昼メロ「女の爪痕」やCMで人気、清潔がイメージが売りであった。

 

緑川洋一 みどりかわよういち (19152001) 写真家

è色の魔術師

昭和37(1962)年に緑川が出した写真集『瀬戸内海』では、多重露光撮影による色彩表現の妙技に〈色の魔術師〉の称が与えられた。

 

緑魔子 みどりまこ (1944- ) 女優

èジーパン女優(週刊現代、1965.10.14)

気さくな性格、演技力が高く評価され、悪女ものをよくこなす。

 

美土呂昌一 みどろまさいち (18861973) ジャーナリスト・朝日新聞社長

è血みどろ昌一

姓名に1文字を加えもじりの渾名とした。なにが「血みどろ」なのか不明だが、記者あたりが付けたようだ。美土呂は昭和5(1930)年に『明治大正史・言論篇』を著していて、その言論の自由を標榜した闘士の姿勢が買われたのかもしれない。

 

南方熊楠 みなかたくまくす (18671941) 博物学者

è万学の士(読書人、1971.4.12)

まれに見る記憶力を活かし博識を修めた。エコロジーの大家としても名が高い。

 

三波春夫 みなみはるお (19232001) 歌手

è浪曲上等兵

浪花節語りの南条文若の名で芸能界にデビュー。昭和19(1944)年に召集され満州へ出征。戦地での三波は、夕食後戦友らのねぎらいに浪曲を公演することも少なくなかった。階級は上等兵だが、隊内での人気者であった。

 

源 定 みなもとのさだむ (81563) 廷臣で、嵯峨天皇の皇子

è二父母の定

定にとって嵯峨天皇と百済慶(くだらのけい)(みよう)(百済王教俊の娘)は生みの父母。しかし彼は、幼児の時淳和天皇の猶子になっており、天皇の寵姫永原女を養母としたため、こりふたりはそだてのふぼとなる。こうして二組の父母をもつ身であったことから、〈二父母の定〉と呼ばれた。

 

源 信 みなもとのまこと (810868) 廷臣で、嵯峨天皇の皇子・左大臣

è北辺(きたのべ) の左大臣

前出、源定は異母弟。この人は天安2(858)年、猟に出て落馬しその怪我がもとで亡くなっている。生前の療治中に、一室を左京北山下に設けて自分の遺骸は用意の棺に納め四壁を閉鎖し、人畜に触れさせないようにすべし、と遺命した。この遺志は実行に移されたが、このあたりの事情からことさら〈北辺の左大臣〉と称されたのであろう。

 

源義家 みなもとのよしいえ (10391106) 武将

 è八幡(はちまん)太郎

は岩清水八幡で元服したことから終生の通称になった。

è②天下第一武勇之士

戦記などで〈天下第一武勇之士也〉と記されている。一方、義家は中央に刃向かう賊徒や僧兵らを徹底討伐したため、〈朝廷の番犬〉という悪評も貰っている。

 

源義仲 みなもとのよしなか (115484) 武将

è木曾(きその)冠者(かんじや)

 〈木曾冠者〉は異名ではなく自ら号したもの。ほかにも「木曾義仲」「木曾次郎」などと自他共に称していて、源姓を名乗る通称以上に通用している。従兄弟の頼朝との不仲、家来たちの都における掠奪暴行、平家との戦いでの敗北、後白河法皇の幽閉など、義仲の経歴は褒められたものではない。ただ一つ、倶梨伽羅(くりから)峠での平氏との合戦は見事で、義仲の名声をかろうじて支えている。

 

源義平 みなもとのよしひら (114160) 武将

è鎌倉悪源太

義平には東国の兵からやや畏怖の意味を込め「悪源太義平」と呼ばれていた。ところが久寿2(1155)8月、武蔵国大蔵館(おおくらのたち)で叔父の義賢を攻略し殺害したことで、畏怖が悪罵に変りスケールもより大きな〈鎌倉悪源太〉と通称されるようになった。

 

源頼朝 みなもとのよりとも (114797) 鎌倉幕府初代将軍

è巨頭公

鎌倉幕府を開き武家政治の始祖となった頼朝は、人並み外れた大頭の持主であった。ここから人呼んで〈巨頭公〉と。人々の頂点に立つ大者、という見方もあるが、由来付けに無理があるようだ。

 

美濃部亮吉 みのべりょうきち (191184) 経済学者・東京都知事

èスマイル美濃部

つねに微笑を絶やさず、ソフトムードで人に対応することから〈スマイル美濃部〉がトレードマークになった。昭和42(1967)年都知事になったものの、「革新都政」が裏目に出て財政難にあえぐ結果となった。都庁職員中には「あの人は外面菩薩内面夜叉」といった批判が絶えなかった。

 

三原脩 みはらおむ (191184) プロ野球選手・監督

è魔術師

昭和9(1934)年にプロ野球の契約第1号選手。昭和22年から各球団監督を歴任、日本シリーズで西鉄の3連覇、大洋の初制覇などを達成し、〈魔術師〉と絶賛された。理論家肌で、〈球界の知将〉という別称もある。

 

三船久蔵 みふねきゅうぞう (18841966) 柔道かで、講道館師範

è空気投げ

小柄だが強靭な腰の持主、稽古熱心で、大車や隅落しなど投げ技を得意とした。なかでも三船が独自に創案した〈空気投げ〉は空気をも投げ飛ばす形の目を見張る妙技で、技の呼称がそのまま三船の代名詞のようになった。

 

三船敏郎 みふねとしろう (192097) 俳優

è①グランプリ社長(週刊現代、1967.4.27)

è②ザ・サムライ

黒沢明監督の大映映画『羅生門』東宝映画『七人の侍』など主役で出演、国際的にも有名になった。

 

三益愛子 みますあいこ (191082) 女優

èママ

戦後30本を超える母物映画に主演し、母物スターの地位を不動のものにした。こうしたいきさつから芸能界では〈ママ〉が彼女の通称になった。

 

三枡亭小勝〔四代〕 みますていこかつ (18561906) 落語家

è狸の小勝

持ち噺に狸のネタが多かったことから。新派名優だった石井寛の実父。

 

三枡松五郎 みますまつごろう (生没年未詳) 歌舞伎役者

èオランダ

京坂で鳴らした世話物役者で、俳名を「蘭陀」と号した。しかし他人はまともに呼んではくれず、〈オランダ〉 となじみのあるほうを口にした。

 

宮城千賀子 みやぎちかこ (192296) 女優

èベコちゃん

牛を見て故郷の宮城弁で「ベコ」と口をすべらせていらい、〈ベコちゃん〉が愛称になった。

 

宮城まり子 みやぎまりこ (1927- ) 歌手・社会事業家

è園長さん

昭和43(1968)年、私費で静岡県に「ねむの木学園」を創設。そこの絵地耀として肢体不自由児の面倒を見ている。並の〈園長さん〉にはない重みである。

 

三宅尚斎 みやけしょうさい (16621741) 儒者

è血書先生

山崎闇斎門下の3傑の1人。将軍綱吉も尚斎から『論語』を受講している。武蔵忍藩主の安倍正武に10年間仕えたが、志すところあって三度致仕を申し出た。これが主君の逆鱗に触れ、宝永4(1707)年に幽閉されてしまう。尚斎、獄中にあっても向学の志留まるところを知らず。しかし不自由な身で筆紙が無い。やむをえず厠の粗悪な拭い紙を節約し、その裏表に書く。手に入れた古釘で体を刺し、滴り出る血潮を墨代わりに、古釘を筆として時間をかけ書き溜める。そうして完成させたのが『狼寔録(ろうちろく)3巻である。

 

三宅石庵 みやけせきあん (16651730) 儒者

è (ぬえ)学者

石庵は在来の朱子学に自分で手を加えて派生させた「程朱学」を唱え、これを教えるため学舎を設け、かなりの門弟を集めた。先生資質は素朴を旨とし、和歌や俳諧にも通じ、能書家であり、人気が高かった。こうした人柄を医者の香川太沖曰く、「世人は石庵の学は鵺学問で、首は朱子、尾は陽明、声は仁斎に似ている」と報告している。この一文が公にされるや、石庵に〈鵺学者〉との異名が付けられた。

 

都はるみ みやこはるみ (1948- ) 歌手

èフツーのオバサン

同棲問題とかでマスコミが騒ぎたてたとき、「フツーのオバサンになりたいので、あまり騒がないで」とこぼしたという。するとこの〈フツーのオバサン〉がたちまち都を意識した流行語になってしまった。が、彼女独特の「うなり節」は、フツーのオバサンにとても発せられるものでなく、身辺がかしましいのは有名税とあきらめるしかないようだ。

 

宮崎滔天 みやざきとうてん (18711922) 中国革命運動家

è大陸浪人

浪曲師出という異色の人物。のち孫文の革命運動を助けながら、中国を渡り歩いた。「余や先天的自由民権家なり」(三十三年の夢)を自負していた。

 

 (宮武)外骨 (みやたけ)がいこつ (18671955) ジャーナリスト・新聞史家

è奇人中の奇人

外骨は切れる天資のうえ博覧強記、加えてツムジ曲りが目立つから、凡人の器には収まりきれない。やることなすこと俗物には〈奇人中の奇人〉 に映った。著作にしても『筆禍史』『明治密偵史』『売春婦異名集』などテーマが型破り。論説も「政教文芸の起源はことごとく猥褻なり」と断ずるなど耳目を引いた。外骨は奇人といっても「偉大なる」という形容付きの人物であった。なおこの人は後年、廃姓宣言して「外骨」とだけ名乗っている。

 

妙法 みょうほう (10261107) 尼僧

è五十三石念仏尼

若くして夫に死別し、空閨を守るため髪を下ろし尼となった。40歳から毎日、念仏一万遍と決めて経を唱え続けた。その唱経方法が奇特で、小豆を数えながら唱えること生涯に五十三石三斗に達したという。〈五十三石念仏尼〉といわれたゆえんである。

 

三好京三 みよしきょうぞう (19312007) 作家

èゲンコの鬼教師(週刊文春、1977.2.3)

岩手県で僻地教育に携わりながら、『子育てごっこ』を書いて直木賞を受賞した。

 

美輪明宏 みわあきひろ (1935- ) 歌手

女装美を誇るシャンソン歌手として、さまざまな異名や二つ名が付けられている。「丸山明宏」の項も参照。

è①メケメケ

è②アキヒロ様

è③ブラウスを着た男

è④女より女らしい男

è⑤神武以来の美少年

 

 

 

向井去来 むかいきょらい (16511704) 俳人

è①西三十三カ国の俳諧奉行

芭蕉は弟子・去来の威勢を感じ入り、〈西三十三カ国の俳諧奉行〉と呼んだそうである。去来は落柿舎という庵を建てたが、芭蕉もよく顔を見せた。去来、生来篤実の人だったという。

è②かたや

これは「お宅」と「堅物」というほどの意味を兼ねた昔言葉。あるとき会合の席で、俳諧仲間の丈草が去来に長崎流行の唐人歌を所望したところ、気安く引き受け踊り歌った。丈草は思わず「ずいぶん、かたやも又をかしみの通ずる男」と褒めたという。

 

武蔵潟伊之助 むさしがたいのすけ (184190) 力士で、関脇

è提灯だたみ

2メートルを超える偉丈夫で、看板力士もつとめた。得意技は、強引に廻しを取るや引きつけ巨体を浴びせ倒す。と、相手は提灯をたたむように潰れた。

 

武蔵山武 むさしやまたけし (190969) 力士で、三十三代横綱

è飛行機

185センチ、116キロの体は飛べるほど軽くはない。序二段→三段目→幕下2場所→十両と全勝が5回、短期間で昇進していくスピードから付けられた渾名である。別に〈悲劇の横綱〉ともいわれた。角界スキャンダル「春秋園事件」に図らずも巻き込まれ、体調を崩して程なく引退を余儀なくされたからである。

 

陸奥宗光 むつむねみつ (184497) 外交官で、伯爵

èカミソリ陸奥

一を聞いて十を知る、の喩えどおり陸奥は切れ者で通った。頭の回転が速いため、他人が鈍重に見えることが間々あり、その意味では不満分子であり、外交官失格といえよう。しかしながら卓越した外交手腕を発揮し、交渉相手と積極的に問題解決を図る能力があり、明治維新政府にとってかけがえの無い人材であった。

 

陸奥亮子 むつりょうこ (18561900) 陸奥宗光夫人

 è鹿鳴館の華

新橋の名妓小鈴が宗光に落籍され、夫人の座に収まった。美人で聡明、しかも人当たりがよく、外交官夫人に申し分がなかった。明治を象徴する社交場「鹿鳴館」でも西洋婦人に見劣りせず、亮子はつねに人目を引く存在であった。

 

棟方志功 むなかたしこう (190375) 版画家

è天衣の人(文芸春秋、1975.11)

歌人、稲田春英の人物評である。

 

無能 むのう (16831719) 浄土僧

è地蔵菩薩の化身

無能若かりしときはたいへんな美男子で、一泊を乞うた宿で多情な女から恋慕されるなど女難が続いた。さらに女難で身を滅ぼすやも知れぬと予期、31歳で男根を断ち常坐不臥の修行をする。そうした無能の姿を知る人々は〈地蔵菩薩の化身〉と呼んだという。

 

村井仁 むらいじん (1937- ) 衆議院議

è村井バー

通産官僚出で、役人時代は酒豪との評判を高め、この渾名をもらっている。

 

村井勉 むらいつとむ (19182008) 実業家

è①住友マッカーサー

住友銀行の知り志麻利益時代、強烈なリーダーシップを発揮して人望を集めた。かつて連合軍最高司令官D.マッカーサーは戦後占領期の日本にあって事実上の最高権力者として君臨。その名前の謂である。

è②再建男

昭和51(1976)年、経営危機に陥った東洋工業に招聘され、副社長のポストで同社を立ち直らせた。

 

村上鬼城 むらかみきじょう (18651938) 俳人

è現代の一茶

ホトトギス系日本派の重鎮として知られ、終生、自然を友に在野人としての句作にいそしんだ。

 

村上隆 むらかみたかし (1944- ) プロゴルファー・ゴルフ解説者

è日本のビッグワン

昭和50(1975)年、日本オープン、日本プロ、日本プロマッチ、日本シリーズの4大タイトルを獲得し、無敵の強さを誇った。後にも先にも、この記録は破られていない。

 

村田嘉久子 むらたかくこ (18931969) 女優で、東宝芸能学校教員

è生ける帝劇史

明治42(1909)年、帝国女優養成所第1期生を振り出しに、帝劇の生え抜き的存在で、帝劇閉鎖後は新派女優となった。

 

村田珠光 むらたじゅこう (14231502) 茶人

è茶道の祖

半伝説的人物。若くして奈良茶つまり闘茶遊びに耽溺。一休宗純の庵にも参禅し、ときには禅院における(ちゃ)(とう)所作(しよさ)あるいは点茶を極めた。茶道具鑑定の眼力も一流であった。

 

村田英雄 むらたひでお (19292002) 歌手

èムッチー

「村田」のつづめ、ファンら親しい者が口にする愛称である。

 

村松きみ むらまつきみ (18741947) 社会事業家

è遁れ家の母

明治42(1909)年に救世軍の婦人ホーム主任に就き、15年間にここに逃げ込んできた娼婦2万人の面倒を見た。

 

村山富一 むらやまとみいち (1924- ) 政治家で、第81代首相

èトンチャン

ゲジゲジ眉で破顔一笑されると、とても〈能無し総理〉などと悪口は言えなくなる。不思議な魅力を持った親父総理で、〈トンチャン〉と話しかけても怒られる心配は無い。政治と国民との間の距離を縮めてくれた功績は大きい。

 

村山リウ むらやまりゅう (190394) 社会評論家・源氏物語の語り部

è村山源氏

昭和24(1949)年からNHKラジオで源氏物語を語り始め、その口演はたちまち評判になり〈村山源氏〉の異名を取った。口演集『源氏物語』3巻の著作にまとめられている。

 

 

 

明兆 めいちょう (13521431) 画僧

è兆殿司(ちようでんす)

 わが国における南宋禅林の水墨画を広め、高雅な画風で知られる。東福寺に入り仏殿をつつかさどる殿司に就いたので、法号と合わせ〈兆殿司〉と呼ばれるようになった。将軍足利義持も明兆について画技を学んでいる。

 

(め組の)辰五郎 めぐみのたつごろう (生没年未詳) 江戸町火消しめ組の頭領 、新門辰五郎と同一人物

è豆辰

からだが小柄なため〈豆辰〉といわれたが、有名なめ組の喧嘩では肝っ玉の太いところを見せている。

 

 

 

茂木草介 もぎそうすけ (191080) テレビドラマ脚本家

 芸術祭男

テレビ放送の開始以来2000本のどらまをかき続けた。その1作『釜が崎』で昭和36年度芸術祭文部大臣賞を受賞するなど、例年大型賞を獲得し名声を高めた。

 

木米 もくべえ (17671833) 京都の陶工・画家

è百六散人

木米は雅号が欲しくなり、儒者の中島棕隠(そういん)を訪ね相談した。棕隠は「号を付けるなら、木の字の十八に米の字の八十八と合わせ、百六としたらどうか」と知恵を授ける。いらい木米は〈百六散人〉を号したという。

 

望月カズ もちづきかず (192783) 福祉活動家で、韓国孤児の保護者

è38度線のマリア

ソウルの在韓日本人で理髪業を営んでいたが、朝鮮戦争後に韓国の戦災孤児ら133人の母代りとなり親身に育てた。彼女の業績は映画化され、日本からの支援も高まった。

 

望月金鳳 もちづききんぽう (18461915) 画家

è狸の金鳳

文部省美術展覧会の審査員をつとめた人手、動物画を特異とした。なかでも狸にこり、庭に狸小屋を設けて飼育し、つねに観察を怠らなかった。画筆なども狸を描くのに都合がよいタイプのものを特別誂で揃えていたほどである。

 

望月優子 もちづきゆうこ (191777) 女優

èカアさん女優

そのイメージにより母親役に徹した。昭和46(1971)年、タレントから参議院議員になった。

 

桃井かおり ももいかおり (1952- ) 女優

èとんでる女

「シラケ世代の結婚宣言」「添い寝してくれる男がほしいね」「丸くなれない女のひとり言」「飛んでる女をさりげなく演じる」「ポルノ女優なんかより私のほうがすごいんだ!」──週刊誌諸冊1980年代初期の桃井かおりに関する見出しより。〈とんでる女〉はそんな桃井への、なかば通称化した渾名である。

 

森敦 もりあつし (19121989) 作家

è文学老年(週刊大衆、1974.2.7)

昭和49(1974)年、61歳で『月山』を発表、芥川賞を得た。新人扱いされたことへの裏返しの異名である。

 

森有礼 もりありのり (184789) 政治家で、文部大臣

èハイカラ大臣

新種の人ではあるが、西洋通を鼻にかけていたところがあり、〈西洋かぶれ〉と社会の反目を買うことも少なくなかった。結婚式は派手な洋式で行い、日本語表記はローマ字に切り替えよ、など見当外れな提案もしている。世間は〈ハイカラ大臣〉と半ば揶揄し、のちに彼は国粋主義者の手にかかり暗殺された。

 

森一鳳 もりいっぽう (17981872) 大坂の画家

èもうかるいっぽう

一鳳は人物・花鳥画に長じていたが、よく描きよく稼いでいたので、人からやっかみ半分に〈もうかるいっぽう〉と駄洒落られた。作品の中で藻刈船図は秀逸の作品、浪花商人のあいだで評判になり贋物まで出たという。

 

森雞二 もりけいじ (1946- ) 棋士で、将棋九段

è終盤の魔術師

強気な攻撃的棋風を発揮し、終盤になって形勢逆転をはかる戦法が目立ったことから付いたニックネームである。

 

森進一 もりしんいち (1947- ) 歌手

è泣き節進一

その歌唱のうっとうしいフィーリングから、〈泣き節進一〉とか〈泣きべそ歌手〉と陰口を叩かれた。

 

森田一義 もりたかずよし (1945) タレント

èタモリ

姓「森田」のアナグラム、つまり音の組替え倒語を看板とした。今ではすっかり通称かつ芸名になっている。

 

森泰吉郎 もりたいきちろう (190493) 実業家で、森ビル経営者

è貸ビル王 

森は横浜市立大学教授から事業を起こした異色の不動産業者。一代でオフィスビルの森ビルなど貸しビル業の大手にのし上がり、〈貸ビル王〉の異称に輝いた。

 

森滝市郎 もりたきいちろう (190194) 倫理学者で、原水禁運動家

è被爆者のシンボル

核大国への抗議訪問は6回に及ぶ。世界各地で核実験が行われるつど出かけ、被爆地の原爆慰霊碑前に座り込みをすること500回に達した。

 

森田健作 もりたけんさく (1949- ) 俳優・歌手・政治家

è青春の巨匠

すがすがしいイメージの人。自身が若いにも似合わず、ラジオ深夜番組で悩める若者に親身に相談にのったり、自宅の庭にがん検診所を設けるなど、社会活動に対した各評価されている。

 

森田三郎 もりたさぶろう (1945- ) 自然保護運動家

è走る図鑑

千葉県議で、干潟の保護など環境保護活動に熱心な人。干潟の生き物を描いた自家用軽自動車で走り回ることから、地元では親しみを込めたこの異称で呼ぶこともある。

 

森田思軒 もりたしけん (186197) 新聞記者・翻訳者

è翻訳王

森田は黒岩涙香が経営している万朝報社に入り、ジュール・ベルヌ原作『冒険奇談十五少年』など、若者の血をたぎらせるような名訳で鳴らした。

 

守田治兵衛 もりたじへい (18411912) 実業家で、売薬業

è宝丹翁

〈宝丹翁〉の異名は彼の家業の売薬「宝丹」から由来する。幕末から維新期にかけ販路を拡張、宝丹の名は広範囲に知られるところとなった。翁は財布に必ず小銭を用意し、酔うと貧乏人に施す癖があったという。

 

森毅 もりつよし (19282010) 評論家

è一刀斎先生

京都大学教授として教鞭をとりながら、鋭敏な社会評論で知られる。数学者でもあり、くだけた読み物など著作も多い。

 

森永太一郎 もりながたいちろう (18651937) 実業家で、森永製菓社長

è洋菓子の伝導師

エンゼルマークですっかりおなじみの森永製菓創業者。往時は楽隊を連ね街頭を行進、社名を全国に行き渡らせた。そうした背景もあって、森永は〈洋菓子の伝道者〉と呼ばれた。

 

森秀太郎 もりひでたろう (1939- ) こけし職人

è温湯こけし生みの親

素朴な顔にねぶた模様などをデザインした創作こけしを製作。版画家の棟方志功はこのこけしを「津軽美人の原点」と劇評した。

 

森光子 もりみつこ (19202012) 女優

è芸能界のゴッドマザー

映画に舞台にとお歳を忘れ八方美人の大活躍。ひよっ子女優など近寄るだけでヒビッてしまうという貫禄は、まさにまさに〈芸能界のゴッドマザー〉にふさわしい。

 

森村誠一 もりむらせいいち (1933- ) 作家

è殺人事件製造機(週刊朝日、1973.4.20)

超人気作家で、推理小説の量産で知られている。

 

森脇将光 もりわきまさみつ (190091) 実業家で、金融業

è①街のヤミ金融王

è②脱税帝王

10日に1割の利、いわゆるトイチ金融で財をなす(昭和23年度長者番付第1)。加えて恐喝未遂、脱税常習犯と手の付けられない巨悪漢であった。

 

モルガンお雪 もるがんおゆき (18811963) モルガン財閥主の夫人

è明治のシンデレラ

明治33(1900)年、日本に観光旅行に来ていたアメリカのモルガン財閥子息G.D.モルガンが京都で見初め、婦人に迎る。旧姓を加藤ユキといった。しかしアメリカ社会や欧米社交界でユキは容易に受け入れてもらえず、精神的な苦痛を味わった。やがて夫妻はパリに住み、フランス社交界でユキは花形マドンナになっていく。1915年、夫モルガンはパリで急逝、未亡人暮らしに耐え切れず、翌年フランス陸軍士官と再婚した。〈明治のシンデレラ〉という表現は、後世人が遊び半分に名付けたものである。

 

 

 

柳生博 やぎゅうひろし (1937- ) 俳優

èナイスミドル

今でこそ一般化したニックネームだが、柳生が最も活躍した1980年頃は、この人のためにあるような代名詞であった。清潔感のある用紙、落ち着いた話しぶりは〈ナイスミドル〉〈女性キラー〉の名に恥じない雰囲気をそなえている。愛鳥家としても知られる。生家は忍者の名門柳生一族につながる旧家。

 

薬師丸ひろ子 やくしまるひろこ (1964- ) 女優

èキャンパス・ギャル

昭和56(1981)年、学園映画『セーラー服と機関銃』で主役を好演、本人出身の玉川大学までマスコミに喧伝された。

 

弥五郎 やごろう (生没年未詳) 江戸の非人

è抱つき弥五郎

美しく着飾り、ツンとすまして乞食風情は眼中にないといった体で往来を行く女どもを見るにつけ、弥五郎は虫の居所が悪くなる。つと立ち上がるや、そんな女房や娘達にいきなり抱きつく。そしてすえたような臭い息で「銭○文呉れたら離してやる」とささやく。容易なことでは離さず、女のほうでまいってしまう。こうして小銭をせしめたため〈抱つき弥五郎〉の異名がたった。

 

八代亜紀 やしろあき (1950- ) 歌手

è①演歌の女王

彼女が演歌を歌えば必ずヒットするといわれ、有線放送のドル箱スターに。

è②ヤキさん

芸名ヤシロアキの中抜き言葉で「ヤキ+さん」、音通も似せた。愛称であるにしても、人気商売にとって芳しい名とはいえない。

 

安本亀八〔初代〕 やすもとかめはち (生没年未詳) 明治期の人形細工師

è生人形の名人

生人形は明治時代に最もはやった見世物で、細工師・亀八が手がけた人形は「本物そっくり」と評判、〈生人形の細工師〉の名が高まった。もっともこの人、本職は木彫り専門の仏師で、生人形作りは余技である。しかし役者の団十郎・菊五郎などは自宅へ出向き形と寸を取って仕上げたというから、どうしてどうして片手間仕事ではない。

 

柳川忠蔵 やながわちゅうぞう (?-1810) 歌舞伎狂言作者・幇間

èト賀ト賀

江戸中村座で三枚目狂言作者をつとめたが、筆が遅く、書を読まず、仕事は投げやり、遊里に居続けで遊び呆けたため、作者廃業となった。ところがこの人、人を遊ばせることにかけては古今の名人といわれた特技を持ち、とうとう吉原の太鼓持ちになった。物書き時代の俳名を「ト賀」と称したことから、〈ト賀ト賀〉と声をかけられ、引く手数多であったという。

 

柳原良平 やなぎはらりょうへい (19312015) イラストレーター・海事評論家

è船キチ

個性的なイラストを描くので有名だが、人も知る〈船キチ〉で、わが国外国航路はすべて乗りつくし、各船会社から名誉船長の栄誉を与えられている。 

 

柳の家井月 やなぎのやいげつ (18561887) 信州伊那の俳人

è①シラミ千両

è②乞食井月

諸国放浪俳人で、伊那谷に後半生を埋めた人。学識教養があったがいつも乞食そのものの風体で、徹底した一処不在。シラミは湧くにまかせた。行く先ざきの軒下や納屋に一宿を借り、時たま好物の濁酒を振舞われると「千両、千両」が口ぐせ、人呼んで〈シラミ千両〉とか〈乞食井月〉と称した。種田山頭火の先輩格といえよう。

 山笑ふ日や放れ家の小酒盛      井月

 

柳屋お藤 やなぎやおふじ (生没年未詳) 明和頃実在の商家娘

è銀杏(いちよう)

江戸は浅草奥山の楊枝見世柳屋の看板娘。お藤は、有名な笠森お仙、二十軒茶屋蔦谷のおよしと並ぶ明和三美人の一人である。見世が奥山の銀杏下にあったことから〈銀杏娘〉とか〈銀杏お藤〉と通称された。

明和6(1769)年、彼女は神隠しにあい、突如として姿を消している。男が放っておかないほどの評判娘、さもありなん。

 

柳家金語楼 やなぎやきんごろう (190172) コメディアン

è光頭師匠

自分でも「停電しても平気。頭で照らすから」と自慢していた。ハゲを看板にしたり話のネタに取り入れるなど、憎めない人物であった。

 

柳家小せん〔二代〕 やなぎやこせん (18941959) 落語家 

èおたきあげ

「研究会の前座時代からあたくしと一緒でしたが、どうも声が騒々しくて、おたきあげの時のお経というか御祈祷というか、あのがやがやという声に似ているというので、『おたきあげ』というあだ名がありました」(六代・三遊亭円生『寄席育ち』より)

 

柳家三亀松 やなぎやみきまつ (190168) 三味線漫談家

èラジオ太鼓持

東京下町の棟割長屋。ラジオで三亀松が三味線を掻き鳴らし始めると、向う三軒両隣いっせいに音量を上げる…。〈ラジオ太鼓持〉こと三亀松の芸はそれほど庶民に大モテであった。なにしろ貫禄ある男っぷり、座敷芸ピッタリの渋味ある美声、そして達者な芸であるから、人気を独り占めにした。元をただせば木場勤めの若い衆、放蕩の限りを尽したあげくの芸だから磨きがかかっていた。

 

山岡荘八 やまおかそうはち (1907-78) 作家

è山岡チョビひげ

あまり見栄えのしないチョビ髭をたくわえていたことから。昭和42(167)年発表の長編小説『徳川家康』は述べ800万部の超ベストセラーに。文壇から〈山岡家康〉との声も聞こえた。

 

山県有朋 やまがたありとも (18381922) 政治家・軍人

 è国軍の祖

明治政府では西郷隆盛とともに軍制改革を実施し、徴兵制を敷いた。西南の役ではかつての盟友西郷と戦うハメになり、相手を打破して官軍に勝利をもたらした。戦略上手な策士で〈国軍の祖〉の別名を高め、官僚制を築いてその頂点に立った(2度の総理)

 

山口喜三郎 やまぐちきさぶろう (1874-1947) 東芝の初代社長

è電球王

東芝の旧称である東京芝浦電気時代の経営者で、同社の看板製品「マツダランプ」は当時、日本の電球生産の8割を占めた。その東芝のトップに立つ山口は、まさに〈電球王〉の名にふさわしいものであつた。

 

山口シヅエ やまぐちしずえ (1917-2012) 衆議院議員

è社会党の看板娘

社会党所属時代に付いた呼び名。彼女は前人未踏の連続13回の当選実績を誇り、国連における婦人の地位向上活動でも指導的役割を果たしている。

 

山口鶴男 やまぐちつるお (19252015) 衆議院議員・社会党書記長

è議運のツルさん

昭和47(1972)年から衆議院の議院運営委員会理事をつとめた。10年間の功労に対し同院から表彰されている。

 

山口瞳 やまぐちひとみ (192695) 作家

è宿六作家

飲む、打つ、買うをテーマにした作品が多く、三拍子揃った道楽作家と見られがちだが、ふだんの素顔はマジメな人であった。

 

山口洋子 やまぐちようこ (19372014) 小説家

 

 èオトコ料理人

 

銀座のクラブ「姫」のママから作詞や小説の執筆稼業に。昭和56(1981)年頃週刊誌に「山口洋子のオトコ料理講座」を掲載して話題をさらい〈オトコ料理人〉と。

 

山崎覚太郎 やまざきかくたろう (18991984) 漆芸家

èヤマカク天皇

昭和49(1974)年日展の会長になり、漆工芸界での偉大な長老という意味で〈ヤマカク天皇〉と呼ばれた。

 

山崎種二 やまざきたねじ (1893-1983) 投資家で、山種証券創設者

è相場の神様

他にも渾名や異名をたくさん持つ人で、〈兜町の常勝将軍〉〈ケチ種〉〈冷血漢〉など。相場の必勝法を人に聞かれると、こう答えている。「相場というものは絶対にバクチではない。しっかりしたソロバンさえあれば、絶対に勝てるものである」

 

山崎豊子 やまざきとよこ (19242013) 小説家

èカワラケ豊子

褒められた渾名でないが、これは山崎の有名作品『不毛地帯』からの類推で出来たもの。あえて説明の必要はあるまい。

 

山崎吉一 やまざきよしいち (1929- ) 富山県山田村村長

è電脳村長

同村全世帯の7割にパソコンを配り、生活の活性化を図る。そして同村の二つ名を「電脳村」とした。

 

山下亀三郎 やましたかめさぶろう (1867-1944) 実業家で、山下汽船創業者

è不定期船王

大正6(1917)年に山下汽船を創業。海軍との関係を強化し、不定期海運を手がけ、いわゆる船成金にのし上がった。立派な異名とは裏腹に、その泥臭い人間性から〈ドロ亀〉〈ヤマ亀〉などの悪口も付けられた。

 

山下清 やましたきよし (192271) 精薄の放浪画家

è日本のゴッホ

「兵隊の位で言えば」を口癖に、国内国外を旅して絵を制作しては旅行記を書く。その作品のうち1点「長岡の花火」はバーナード・リーチから絶賛されたという。戦後、東京でゴッホ展が開催された頃、作風がゴッホによく似ていると評判になり、気の早いマスコミから〈日本のゴッホ〉と称された。「ぼ、ぼくはルンペンが好きです」という飾らない人柄が多くの人に愛された。その天衣無縫な半生は『裸の大将』のタイトルで映画化された。

 

山下太郎 やましたたろう (18891967) アラビア石油の創業者・社長

è①アラビア太郎

1960年、ペルシャ湾で石油を掘り当て、アラビア石油を創って脚光を浴びた。

è②ハッタリ太郎

投機的な石油採掘・利権取得という事業で成功した山下への陰口。

 

山田五十鈴 やまだいすず (19172012) 女優

èベル

芸名の五十鈴(本名は美津)を英語に直し、〈ベル〉が愛称に用いられるようになった。

 

山田歌子 やまだうたこ (181059) 歌人

è婦道の歌詠み

夫の京都薩摩屋敷留守居役山田一郎左衛門は香川景樹門下の歌人であったことから、歌子も薫陶を受け女流歌詠みの道へと進んだ。その貞節を尽くす妻の心構えを「糸」に託して詠んだ二首が、

 一筋のみさほの糸のみだれなば後の世かけてくるしからまし

 一筋の道に年ふる青柳の糸は風にも乱れざりけり

 

山田一雄 やまだかずお (1912-91) 識者・作曲家

è万年音楽青年

高齢になっても前身からほとばしるような大きなアクションで指揮をとったので、このニックネームが付いた。

 

山田耕三郎 やまだこうざぶろう (1917-2012) 参議院議員・大津市長

è福祉の山耕

革新派の大津市長時代、市民私邸の修学旅行全額公費負担など、思い切った「大津方式福祉」を打ち出し注目された。

 

山田順子 やまだじゅんこ (1901-61) 作家

è生ける芸術品

理想に近い女性として徳田秋声が表現した。彼女は一時師事した秋声と同棲し、秋声は作品『仮想人物』中にモデルとして彼女を描いている。

 

山田美妙 やまだびみょう (18681910) 小説家・詩人

 è①東洋のシェクスピア

言文一致体を実践、新体詩や戯曲も手がけて文学改良主義を唱える。それにしても〈東洋のシェクスピア〉は褒め過ぎ。

è②軽薄漢

何の分野にも首を突っ込み半端で終わる、との辛辣な評から付けられた。役者的風貌で女性関係も派手であった。

 

山田風太郎 やまだふうたろう (1922-2001) 作家

è忍法作家

『甲賀忍法帖』はじめ多数の忍法使用説を書き、時代小説の寵児となった。荒唐無稽だが面白さは抜群、という視点で選べる大衆小説作家である。

 

山田道美 やまだみちよし (1933-70) 将棋棋士で、九段

èシューベルト

クラシック音楽好きで、シューベルトを髣髴させる容貌から付けられた渾名。『速攻山田式定石』など好書を残したが、早世した。

 

山中貞則 やまなかさだのり (19212004) 政治家で、衆議院議員

è税調のドン

自民党きってのの税制通で、同党税制会長もつとめた。世論の反対を押し切っての、消費税導入の立役者でもあった。

 

山名持豊〔宗全〕やまなもちとよ/そうぜん (14041473) 武将で、守護職

è赤入道

酒好きで血色もよく〈赤入道〉と異名された。応仁の乱の西方侍大将となり、東方の細川勝元に対決。この時宗全は64歳、すでに髪を下ろしており、入道の貫禄があったようだ。史書によると傍若無人な風雲児として描かれている。

 

山内豊信〔容堂〕やまのうちとよしげ/ようどう (182792) 土佐藩主

è鯨海酔侯(げいかいすいこう)

 大酒徒で底無し、〈鯨海酔侯〉は自称でもあり、家臣や志士らからの愛称でもあった。風月雪を友とし、酒宴謡舞を好んで逸話もたくさん残っている。明治2(1869)年すでに病魔に冒され官職を辞していたが、それでも大酒を控えることなく飲み続けた。

 

山彦八重子 やまびこやえこ (1879-1946) 加東節三味線方・荻枝節唄方

è下谷のお八重さん

名古屋から東京下谷に移り住み、三味線の名手、小唄の上手と名をはせた。〈下谷のお八重さん〉とは花柳の巷に遊ぶ旦那方が付けた呼名である。

 

山藤章二 やまふじしょうじ (1937- ) イラストレーター

èブラック氏(週刊朝日、1980.1.25)

独特の線の太いタッチで、ブラックな人物世界を描く。

 

山部俊郎 やまべとしろう (1926-2000) 棋士で、囲碁九段

è変幻山部

戦後の囲碁界で活躍。盤上での変化に富んだ打ち方で対戦者を惑わす術に長けていた。

 

山本嘉次郎 やまもとかじろう (190274) 映画監督・俳優・脚本家・随筆家

èなんでもかじろう

手を染めた仕事の分野が広いのはもちろんのこと、手がけた映画のレパートリーも驚くほど広く、文芸者、戦争者、歴史者から喜劇に到るまで多岐にわたっている。自ら「カツドウ屋」を任じていた山本は、映画監督という名の職人だったに違いない。

 

山本菊子 やまもときくこ (18841923) 馬賊の女頭目・日本軍諜報員

 è①満洲お菊

è②シベリアお菊

è③兵隊婆さん

熊本で女衒の手にかかり、7歳で朝鮮は京城の料理屋に売り飛ばされ、朝鮮からゆきに。高官の妾づとめを経て、満洲・シベリヤの料理屋を売笑しながら渡り歩く。その頃満洲馬賊の大頭目・孫花亭が日本軍警備隊に殺されかけたところを救い、馬賊の頭目に任命された。また、料理屋で知り合った日本軍高官から密偵仕事の依頼もあったという。③は、むつけき男どもを率いて荒野を駆け巡った姿のもの。これら二つ名は、当時の馬賊間で知らないものはないほど有名であった。

 

山本猛夫 やまもとたけお (192191) 実業家で、山善創業者

èモーやん

名前を崩した愛称である。機械器具商である山善を操業した逸話は、テレビドラマ「どてらい男」でも紹介されている。

 

山本唯三郎 やまもとたださぶろう (18731927) 実業家で、松昌洋行店主

èトラ大臣

山本は第一次世界大戦の戦争景気の波に乗り大もうけした船成金である。商売柄、大陸との間を何度も往復している。某年、有り余るあぶく銭の使い道に困り、帝国ホテルで豪勢な「トラ肉試食会」を催した。朝鮮で仕留めた2頭のトラを調理し、各界の名士を呼んでその肉料理を振舞ったのである。ホテルの待合室から食堂に通じる回廊には竹林をしつらえ剥製のトラが陳列された。この悪趣味の極みともいえる大宴会に由来し、世の人は彼を〈トラ大臣〉と蔑み呼んだ。

 

 

 

由比正雪 ゆいしょうせつ (160551) 軍学者

è幻術者(人物往来、1958.9)

小説家・沙羅双樹の評。倒幕を図った事件「由比正雪の乱」の首謀者であった。〈万人に優れた化物〉という表現も古典に見える。

 

悠玄亭玉介 ゆうげんていたますけ (190794) 落語家から幇間に

è最後の幇間

玉介はチャキチャキの浅草っ子。芝居が三度の飯より好き、歌舞伎声色(こわいろ)で芸人の道へ。高座で落語を話したが、評判は今ひとつだった。昭和10(1935)年、浅草旧見から桜川玉七の弟子入りで太鼓を持つ。昭和も終りを告げる頃、まだ現役のまま、政財界に贔屓が多く〈最後の幇間〉と折紙が付けられた。

 

湯川秀樹 ゆかわひでき (19071981) 理論物理学者

èお公卿さん

渾名の由来未詳も、端正でおっとりした印象を与える容貌から付けられたものであろう。日本人で初めてのノーベル賞受賞者、のちに平和運動家としても名を知られているが、知名度の高さから担ぎ出された印象がないでもない。

 

夢野久作 ゆめのきゅうさく (18891936) 作家

è夢野久蔵

本名は杉山泰道。出身地の福岡地方ではバカ野郎・ウツケ者のことを「ゆめのきゅうさく」「ゆめのきゅうぞう」などと呼ぶことがあり、その一方をペンネームに用いた。

 

夢枕獏 ゆめまくらばく (1951- ) 作家

èバイオレンスSF作家

『魔獣狩り』『上弦の月を喰べる獅子』など、新しいSF分野を開拓した作家として知られる。

 

 

 

陽成天皇 ようぜいてんのう (868949) 第五十七代

è(すず)殿(どのの)皇子(みこ)

è物狂(ものぐるいの)(みかど)

 陽成天皇は『扶桑略記』という史書などでは「暴悪無双」の廃帝として描かれている。また『三代実録』では闘犬・闘鶏など殺傷を見ることが好き、と。実像はそれほど悪辣ではなかったらしい。ただ、政治には無関心で、もっぱら遊興や学芸に身を入れていた。女御達から〈物狂帝〉とか〈(すず)殿(どの)()()(由来は不明)と異名を奉られているのを見ると、何やら大人のイタズラ者というイメージが浮かんでくる。さらにまた、小倉百人一首に御詠が収められている。まつたく不可思議な天皇だ。

 

養徳院 ようとくいん (15151608) 戦国武将・池田政秀の娘

è(おお)御乳(おち)(さま)

 天文5(1536)年に池田恒興を出産、間もなく織田信長の乳母に。のち養徳院は〈大御乳様〉と敬われ、池田恒興は信長から厚遇された。

 

横井小楠 よこいしょうなん (180969) 儒学者・維新の政治家

è耶蘇蔓延の元凶

小楠は在来の儒学から洋学の良いとこ取りをして「実学派」を興した。さらに開国貿易や殖産興業、国防強化の実績を上げており、耶蘇(キリスト教)を信奉していたわけではない。しかし彼をして〈耶蘇蔓延の元凶〉とみなす者が少なからずおり、京都寺町で襲われ暗殺された。

 

横井英樹 よこいひでき (191398) 実業家

è①貧乏エビス

小柄でせせっこましい面がまえ、それがふてくされ気味にニタニタ笑う姿を評して付けられた渾名である。世間を騒がせたホテル・ニュージャパンの火災でも、遺族への補償額をトコトン値切り、〈貧乏エビス〉顔の中身にドケチ根性が詰まっていることを知らしめたのである。

è②のっとり屋

往時、白木屋買収などで見せた悪辣な〈のっとり屋〉ぶりも、事業鬼の印象をより深めている。〈ぼろもうけの神様〉という評も当を得たものだ。

 

横尾忠則 よこおただのり (1936- ) イラストレーター

è美術与太

横紙破りなサイケ調前衛デザインで注目されている。人間的にも好き・嫌いをはっきり分かつ評価である。

 

横山やすし よこやまやすし (194496) 漫才師・テレビタレント

è天才漫才人間

秋田実門下で人気を集め、「漫才のために生まれてきた男」とも評された。慢心が昂じて不祥事続発し、吉本興業もサジを投げて解雇した。

 

与謝野晶子 よさのあきこ (18781942) 鉄幹の妻で、歌人

è白○の君(○に梅、藤、萩などの1文字を当て季節に応じて使い分け)

夫の鉄幹は歌詠み仲間の山川登美子を「白百合」と称した。この浮気の兆候とも取れる事柄を受け、「明星」仲間は与謝野夫人を連想転化して〈白○の君〉と呼んだのである。

 

吉井勇 よしいいさむ (18861960) 元男爵の歌人・劇作家

èタンク

超の字の付く愛酒家で、常人を超えた酒量から入れ物の〈タンク〉の意味に。また、飲む目的のためには万難を排して突っ走ることから戦車の〈タンク〉の意味にと、二股掛けた渾名である。酒と女を詠んだ作品が柱になっている歌集『酒ほがひ』に、吉井の年季の入った酒仙としての足跡を見ることができる。

 

吉岡隆徳 よしおかたかのり (190984) 陸上の短距離選手

è暁の超特急

昭和7(1932)年ロサンゼルス五輪100メートル競技で予想を超える6位入賞。当時、〈深夜の超特急〉といわれた米国人のメトカーフにきわどいところで追い抜かれ、残念がる日本国民からタイミングが一歩遅れてしまったの意味で〈暁の超特急〉と異称された。吉岡のスタートダッシュは世界一との定評があり、こちらは〈ロケットスタート〉と称された。

 

吉雄耕牛 よしおこうぎゅう (17261800) 蘭医

èオランダ耕牛

オランダ通詞の家に生まれオランダ語に通じ、外科医として活躍。〈オランダ耕牛〉はごく自然に付けられた異名であろう。

 

慶滋保胤 よししげのやすたね (931?1002) 平安中期の占術者、のち出家

èありありの主

詩文が『本朝文粋(もんずい)』に納められているほどの文人。才知では好敵手の藤原有国と漢学について張り合ったとき、有国は慶滋の力試しにいくつか架空の詩文を示したら、慶滋は「そうある、そうある」と答えたため、有国は〈ありありの主〉と渾名をつけた。『江談抄(ごうだんしよう)』故事談に出ている由来である。

 

吉田石松 よしだいしまつ (18791963) 冤罪を晴らした被疑者

è昭和の岩窟王

この人、大正2(1913)年に名古屋で発生した強盗殺人事件の主犯と疑いをかけられ、翌年無期懲役が確定。昭和11(1936)年に仮出獄し、再審請求を繰り返す。昭和36(1961)年、5度にわたる再審請求が認められ、翌々1963年に無罪が確定。吉田はこの間なんと50年間も罪を被ったわけで、無念覚めやらぬまま同年帰らぬ人となった。

 

吉田健一 よしだけんいち (191277) 英文学者・評論家

è穴ぼこ

吉田元総理の子息。底なしの飲み助で、飲み仲間が象徴的に〈穴ぼこ〉 との渾名を付けた。お堅い文芸評論だけでなく、『私の食物誌』のような軽妙な随筆も書いている。

 

吉田茂 よしだしげる (18781967) 政治家で、元首相

è白足袋宰相

和服の着こなしが板につき、白足袋を好んだことからこのニックネームが付けられた。別に〈ワンマン首相〉の渾名も。有名な「バカヤロー解散」の例に見るように、しばしば強気の放言でマスコミを賑わす。しかし、そうしたマイナスイメージをカバーして余りある、スケールの大きな名宰相であった。

 

吉田東伍 よしだとうご (18641918) 歴史学者・地理学者

 è在野の巨人

元東京読売の新聞記者が、一念発起、13年かけて大仕事を成し遂げた。図書館通いのうえ5000ページ、1200万字の『大日本地名辞典』を完成させたのである。上野精養軒で出版祝賀会が開かれたとき、参列者は5メートル近くに山積みされた原稿に驚嘆ひとしおだったという。独力独学での偉業だけに、人々は彼を〈在野の巨人〉と称えた。

 

吉永小百合 よしながさゆり (1845- ) 女優

èサユリストの星

映画『青い山脈』『青春の門』テレビドラマ『夢千代日記』などで主演。理知的だが温かみのある顔立ちで、層の厚いファンを抱えている。吉永にあこがれるファンを含め「サユリスト」なるグループ称を生み出している。

 

吉葉山潤之輔 よしばやまじゅんのすけ (19201977) 43代横綱

è胃袋吉葉

初相撲は昭和13(1938)年。太平洋戦争では応召し、戦後帰還したときはガリガリに瘠せていた。細くなった体を回復するため、周りがびっくりするほど食いまくったという。腕力に恵まれ、昭和29年に全勝優勝して横綱を張る。

 

芳村真理 よしむらまり (1935- ) 女優・司会者

èナマズのおばさん(サンデー毎日、1969.6.22)

イメージの連想がぴったりしないが、なぜか以前から「ナマズ」といわれていた。

 

吉村道明 よしむらみちあき (19222003) プロレスラー

 

è火の玉の闘魂

力道山、坂口政治らと組んで日本のプロレス回を暴れまわった選手。彼独特の回転えび固め必殺技はいやがうえにも国民を沸き立たせた。

 

吉行淳之介 よしゆきじゅんのすけ (192494) 作家

è非処女専科

そういわれれば、この人の書いた軟派文学は数えきれないが、清純な乙女が登場した作にはめったにお目にかかれない。

 

淀川長治 よどがわながはる (190998) 映画評論家

èさよならおじさん

口演や書き物の結辞が「さよなら、さよなら、さよなら」なのはよく知られている。出演のテレビ「日曜洋画劇場」で名解説を披露し、〈歩く映画館〉ともいわれた。「憎めない人柄」を看板にするシタタカサも持ち合わせていた人である。

 

米沢富美子 よねざわふみこ (1938- ) 物理学者

è子連れ狼

学生結婚で出産した子供を国際会議などに連れて姿を現し、子の別称が付けられた。「狼」とは女性には珍しい理論物理学者への畏称でもある。

 

 

頼賢 らいけん (11961274) 真言僧

è蔵人阿闍(くろうどあじや)()

 京都の醍醐寺で伝法灌頂(かんじよう)を受け、のちに「意教流」を開く。晩年は四代将軍・九条頼常に招かれ、〈蔵人阿闍梨〉と通称された。

 

雷電為右衛門 らいでんためえもん (17671825) 力士で、大関在位16

è無類力士

現役中は大関止りであったが、歴代横綱をものともしない実力を備えていた。身長65寸、体重45貫、あまりに強く、土俵外へ放り出され死んだ者がいるし、雷電だけに課せられた禁じてが三手もあったという。東京深川の富岡八幡宮には横綱力士碑が立っているが、雷電のそれには「無類力士雷電為右衛門」との添刻が施されている。

 

 

 

隆光 りゅうこう (16491724) 真言僧で、将軍綱吉の護持僧

è妖僧隆光

「犬公方」こと徳川綱吉と生母桂昌院に生類憐みの令をたきつけた張本人。将軍家の庇護により異例の昇進をなした隆光は、東大寺の復興援助を盾に全国の寺社に命令できる地位を獲得、宗教界に君臨する存在となった。果ては憐み令に見るように、人心の教化にまで手を伸ばしたのである。まさに〈妖僧隆光〉は徳川家専制時代が生んだ途方もない怪物であった。

 

柳亭〔談州楼〕燕枝 りゅうていえんし (18381900) 落語家

è二葉町の大師匠

三遊亭円朝と当時の高座人気を分け合ったほどの人。『島鵆(しまちどり)沖津白波』を看板に、江戸前の人情噺を得意とした。つねに薩摩大絣の法被をまとい、角ばった顔に力みの口元、洒落や即席座談をポンポンはじいては客席を湧かせた。本所割下水の南二葉町に門構えの住居を持っていたので、〈二葉町の大師匠〉で通った。

 

柳亭左楽〔二代〕 りゅうていさらく(生没年未詳) 落語家

è歯ッ欠け

歯の欠けた愛嬌のある顔が逆に高座での人気になった。評判機や見立て番付にも名前がし様解されているほどで、寄席で彼の出番は満席になったという。

 

柳亭左楽〔四代〕 りゅうていさらく(18561911) 落語家

èオットセイ

風貌から付けられた渾名。柳派の名物男で、数ある珍話を残している。

 

笠智衆 りゅうちしゅう (190493) 俳優

è御前様

松竹映画「男はつらいよ」シリーズで柴又の帝釈帝を祀る寺(日蓮宗経栄山題経寺)の住職に扮し、寅さんたちから「御前様」と呼ばれていた。これが本人の代称になった。

 

良寛 りょうかん (17581831) 江戸中・後期の僧で、歌人・書家

è無為の乞食坊主

良寛は子供好きで人柄もよい禅宗坊主とされている。しかしその姿は書物に伝えられたものである。実際には生計をもっぱら托鉢や喜捨に頼り、日がな書を読んだり、子供と遊んだり、気ままな生活に明け暮れている。これらは汗水たらして牛馬のように働かなくてはならない百姓達には目障りに映ることでもあった。良寛の生き様を冷めた目で見た人たちもいたわけで、彼らは本に書かれることのない〈無為の乞食坊主〉と陰口を叩いていた。

 

良源 りょうげん (91285) 天台僧

è濁世の弥陀

良源は藤原一族との宗論において、天台宗学ともいい得る教義を開陳している。体裁はよいが他宗排除の論だ。また一般には比叡中興の祖と仰がれているが、実像は血の気の多い怪僧であった。たとえば天元三年、弟子の明普は一度死にかけたが蘇生、地獄で閻魔王に遭ったとき師(良源)のことを〈濁世の弥陀〉と申していたと、人びとに語らしめている。弟子をそそのかし威勢をでっちあげたのである。自己宣伝にも抜け目のない、したたかな坊主であった。

 

 

 

呂宋助左衛門 るそんすけざえもん (生没年未詳) 桃山時代の交易商人

 è 呂宋壷左

和泉堺の商人で納屋衆に所属した。商才に富み、目を南洋交易に向け、呂宋(ルソン)との取引きで珍奇な壷や香炉等を輸入して財を成した。当時の茶の湯流行にはまり、〈呂宋壷左〉の壷が珍重されたのである。しかし屋敷を金銀や七宝で飾り、豪奢きわまる暮らしぶりは豊臣秀吉のねたみを買うところとなり、僭上の沙汰の罪をかむせられ、一家は没落した。

 

 

鈴々舎馬風 れいれいしゃばふう (190463) 落語家

è①鬼馬風

本名は色川清太郎というのに、色気は微塵もなくいかつい顔つき、それが高座で客席を睨みつけるから、とうとう〈鬼馬風〉の渾名が付けられてしまった。

è②お帰りよ馬風

マクラ代わりの憎まれ口で鳴らした。開口一番、「よく来てくれたナ。どっから来るか知らねェが、よく遊んでいられるなァ。お帰りよ」で、客がドッと沸く。こいつがバカ受けして〈お帰りよ馬風〉は馬風の代名詞として流行した。

è③トルコ道の真打ち(プレイボーイ、1976.6.15)

 

 

 

良弁 ろうべん (689-773) 法華僧で、東大寺の開基

è金鐘(こんしゆ)行者

奈良大仏の造営のさい、良弁は辛国(かのとこく)行者と法力比べを行った。辛国は呪術で数万の大蜂を寄せ良弁を襲わせたが、良弁の念力で金鐘(金属製の大鉢)が飛来し割れ鐘のような大響音をとどろかせ、蜂どもを残らず打ち落とした、と。似たような伝説がいくつか故事に見え、そこから「金鐘行者」とか〈(きん)(わし)菩薩〉の異名で呼ばれた。高僧・上人などといわれた坊主の多くは、こうした面妖な話をでっちあげては、蒙昧(もうまい)無辜(むこ)な民衆を信徒に篭絡したのである。

  

 

 

若狭季兼 わかさすえかね (生没年未詳) 南北朝の地頭

è悪党大将軍

元弘3(1333)年、季兼は北条氏に奪われた父の所領を取り戻そうと、徒党を組んで若狭太良(たらの)(しよう)に乱入、そこで狼藉の限りを尽くした。里人は季兼を後の世まで〈悪党大将軍〉と称し疎んじた。

 

若狭得治 わかさとくじ (19142005) 全日空社長

è航空界のドン

官僚上がりの経営者で、人脈を利用して地位を得た。ロッキード事件でも外為法違反・偽証罪が糾弾され、陰のある策士として航空業界に君臨した。

 

若嶋津六夫 わかしまづむつお(1957- ) 力士で、大関

è南海の黒豹

締まった筋肉質の体躯は、黒光りして精悍な陰士耀を与えた。加えてすばやい動きから〈南海の黒豹〉と。ちなみに出身は鹿児島県。

 

若乃花幹士〔初代〕 わかのはなかんじ (1928- ) 力士で、45代横綱

è①土俵の鬼

è②異能力士

軽量のハンディを克服するため、足腰を鍛える猛稽古をこなしたことで有名。右四つから繰り出す呼び戻しの大技を見せるなど、〈土俵の鬼〉〈異能力士〉の呼称を堪能させてくれたのである。

 

若羽黒朋明 わかはぐろともあき (19341969) 力士で、元大関

èドライ坊や

稽古嫌い。派手なアロハシャツ姿で闊歩する。付合い酒は飲まない。魚のチャンコが大嫌いでビフテキが好物。(とり)(てき)を引き連れては温泉でドンちゃん騒ぎに打ち興ずる。自分のことをワシではなくボクという…。そのくせ土俵ではめっぽう強いこの異端児は、角界で〈ドライ坊や〉と渾名を付けられるや言ってくれたのである、「家がドライクリーニング屋だからドライなのさ」と。

 

若松岩之助 わかまついわのすけ(172966) 力士で、前頭

è若松がチョンがけ

大坂は曽根崎新地出身の相撲取り。小兵で前頭上位どまりであったが、足腰が強靭な技巧派。ことに絡み投げといった足技を得意とした。

 

若山牧水 わかやまぼくすい (18851928) 近代歌人

è電留(でんりゆう)()(そん)

酒好きな牧水は、酔うと向こう見ずになることでも有名。東京・巣鴨の天神山に居を構えていた頃、酔い潰れて東京市電の線路の真ん中にひっくり返ってしまった。仲間が助け起こそうとしたがテコでも動かない。電車は立ち止まるわ、警官が駆けつけるわの大騒ぎとなり、以来仲間からこの渾名を頂戴した。

 

鷲津名都江 わしづなつえ(1948- ) 歌手

è歌のお姉さん

幼児期「小鳩くるみ」の芸名をもつ童謡歌手。長じて〈歌のお姉さん〉に。目白大学で教育学を教える教授でもある。

 

輪島功一 わじまこういち(1943- ) プロボクサー

è炎の男

現役の頃は力強いチャンピオンであった。ファイターとしての不屈の闘志が大勢のファンから称えられた。

 

輪島大士 わじまひろし (1948- ) 五十四代横綱

è蔵前の星

学生横綱のタイトルを引っさげて角界入りしたときの異称。戦績は期待を裏切らず、186センチ・132キロの筋肉質に恵まれた体を生かし、異例のスピード出世を遂げた。

 

和田アキ子 わだあきこ(1950- ) 歌手・タレント

èゴッドねえちゃん

「ゴッドファザー」のパロディ呼称。男勝りのいかつい言動をトレードマークにした。「結婚したくない女」の筆頭とされている。

 

渡部お糸〔初代〕 わたなべおいと (1876-1954) 民謡歌手で、安来節家元

è安来節座長

生涯をかけ、安来節を日本有数の民謡に高め、知名度づくりに貢献した。民謡座中「お糸座」を立ち上げ、座長として東京・大阪などの巡業で活躍した。

 

渡辺邦雄 わたなべくにお(18991981) 映画監督

è早撮りの名人

戦後「エノケン」こと榎本健一の喜劇を手がけるなど、新東宝で娯楽作品の撮影を監督した。数撮りを得意とし〈早撮りの名人〉と称された。

 

渡辺はま子 わたなべはまこ (191099) 歌手

èチャイナ・メロディの女王

全盛時に「支那の夜」「蘇州夜曲」などチャイナ物でヒットをとばした。

 

渡辺文雄 わたなべふみお (19292004) 俳優

èくいしん坊

自他共に認める食通で、『美味は海にあり』『渡辺文雄のおいしい魚の話』等の著作もある。

 

渡辺美佐 わたなべみさ (1928- ) 芸能プロデューサー

èロカビリー・マダム

若い頃ジャズや流行のロカビリーに傾倒。夫はシックス・ジョーズの渡辺晋、こんな人物背景から〈ロカビリー・マダム〉と。

 

渡辺美智雄 わたなべみちお (192395) 政治家で、大蔵大臣

èミッチー

栃木弁丸出しの飾らない人間性で〈ミッチー〉と親しまれた。オッチョコチョイな面もあり、こんな迷言を口にしている。「野党支持者は毛ばりにかかる魚で、知能指数は高くない」

 

èピッカピカ(週刊朝日、1980.12.26)

渡辺義雄 わたなべよしお (19072000) 写真家

è写真界の論説委員

建築写真の大御所で、撮影技術についても理論派で通る。日本写真家協会長を23年間もつとめた。

 

度会園女 わたらいそのめ (16641726) 俳人

è歌仙桜

園女は風流な女流俳人として知られ、富岡八幡宮の境内の桜は、この人が植えたと伝承されている。ここから発句仲間は〈歌仙桜〉と呼んだという。和歌詠みならともかく、俳諧師に「歌仙」は今一ぴったりしないが、これ以上の事情はどうだったのか不明である。

 

渡哲也 わたりてつや (19412017) 俳優で、石原プロ社長

è哲あにい(週刊明星、1981.7.30)

日活ニューアクションの旗手として、生きのいい演技で売り出す。石原プロの社長になってからは〈哲あにい〉などと気安く呼べないほど貫禄をつけてきた。

男が惚れる「男の顔」の代表である。