寄席や大道を舞台に口達者らが集い、声色と珍芸で大衆文化の大輪を咲かせる

21 口演芸系 こうえんげいけい

 

〈口演芸〉または〈口演〉は音声による演芸であると同時に宣伝を兼ねている。役者の舞台口上は自己宣伝を含むし、往還商売・露天商から大道芸人に至るまで、賑やかな客寄せの宣伝文句から出発する。派手な鳴物衣装で街頭を練り歩く東西屋・チンドン屋の存在はその最たるものといえよう。

 

 

21 口演芸系の目録(五十音順)

 

阿呆陀羅経

一分線香咄

歌祭文

江戸小咄

応珍問答

御告げ

掛合

活弁の前説

狂言の科白

講釈

口上

口上〔東西屋〕

口上〔露天商〕

口上茶番

猿廻しの唄

仕舞文句

すててこ

啖呵売

ちょぼくれ

ちょんがれ節

トニーングリッシュ

俄狂言

漫談

三河万歳

見世物口上

呼込み詞

落語のオチ

浪曲の語調

 

大衆演芸はちょっとダサイぐらいがイチオシ〔東京都北区十条が誇る篠原演芸場〕

 

阿呆陀羅経 あほだらきょう 

〈阿呆陀羅経〉は、放浪僧が大道や門付で演じる俗謡である。江戸後期に出現、曲詞を変えながらも昭和初期まで、きわめて長い命脈を保った。

阿呆陀羅経では時事関連の「経文尽し」が主流で、これを願人坊主があたかも読経のごとくに節付けで流れるように歌唱した。そのはず、源をただせば〈早物語〉(早口言葉の発祥源)にたどり着く。小さな木魚を叩きながら、時事尽しなど今様の詞のものをいくつも作っては賑々しく歌い、大人よりも子供たちの人気を集めた。もとより不特定多数の者がかかわった門付芸であるから、作者や流行時期などは特定できるものでないし、江戸期の随筆等での表記もまちまちである。

【例】

阿呆陀羅「経尽し」

♪ハーい、はじまり、さてはいよいよ、これからは、三味線弾きが三味線弾くのが、尺八吹くのが早いか、しゃべる私が速いのか、速いくらべのお笑いは、本尊様に真向(まむき)に、むかし習ったお経が真言経に観音経か阿呆陀羅経かぴかん経。ありがたいお経はすっからかんと忘れまして、浮かれたお経、心経迦(しんぎょうか)()大菩薩。あぶく立った、煮い立った、酔っ払ったら(まんま)がこげて、くり皿飯や、持った杓子でかきまわせ、ちょせんがおらんだ港が(しら)んだ。役者がにらみ、お米が高いのにめっぽう食った。丼飯十杯食って、納豆汁十杯食い、秋刀魚(さんま)の干物十枚噛んで、豌豆(えんどう)まめを五合食って、心太(ところてん)を十丁食い、菜食ってしおれて、牛蒡(ごぼう)食って、逆立(さつちよこた)った飯を食って、舌出した茗荷食って馬鹿になった。辛子を飲んでぐっとし、犬食って狸を食って、もぐらを食って馬食って、鹿食いそれでも足りない。&『図説 ことばあそび遊辞苑』第13

仏説阿保多羅経                                         婆訶那(ばかな)国道(こくど)()法師(ぼう)

♪女郎買いたい、一体好色、全体野良、皆これ幼少から、育ちが悪いから、小便垂りや、可哀相に、(ばば)すりや、可憐(いとんぼ)に、(はな)()りや、(ねず)り込み、つまみ食いや、買い食らいは、年中年百(ねんびやく)、商売同然、それから、段々こうじ、小遣(こづかい)(ぜに)や、端銭(はしたぜに)は、常住不断、ひっ掛けちょい掛け、くすね込み、御法度の穴一(あないち)、六道、宝引(ほうびき)、ばっかりして、終いにゃ、喧嘩口論、近所町内、友達が、どやどや出て失せ、おらが(どたま)、叩いたぜ、ど突いたぜ、堪忍ならん、料簡せんぞ、何じゃかんじゃと言ふてうせ、さりとは困りいり、親達も、ほっこりして、寺屋へ追いやれば、手習いは、さらさいで、ど(たま)ばっかり掻いておる、そのくせ、()()で、しゃっ(つら)まで、真っ黒けに、ちぎるような、(あお)(ばな)垂れ、牛のような、(よだれ)()り、さすがの、親衆も愛想も小想(こそう)も、尽き果て、為事(しよこと)なしに、奉公さしや、夜尿(よばり)こき、盗み食いで、三日目や、四日目に、ぽい出され、行先や、さんざん骨灰(こつぱい)、方々遍歴、うろうろするうち、どうやらこうやらありつき、ほどなく、元服して、半年ほど、辛抱すりゃ、味噌汁がすっ天辺(てつぺん)へ、飛び上がり、それから、城の馬場(ばんば)浜々(はまばま)(そう)()夜発(やほつ)(つじ)(ぎみ)様々(さまざま)、修業して、密屋(こそや)へはまり込み、まず最初編笠、梅ケ枝、勝曼坂(しよまんざか)、髭剃り、難波(なんば)新地(じんち)、引っ張り込み、尼寺、馬場先(ばばさき)、茶屋小屋、踏み倒し、彼方(あちや)から催促すりゃ、盆屋(ぼんや)からねだり込み、親方、これを聞いて、おおきに立腹、にわかに、帳面見りゃ、十両ほどだだぼだ、請人を、早々呼んで、右の次第、逐一語れば、請人は、驚き、惣々(そうぞう)顔を見合わして、びっくり、仰天、一言(いちごん)の申し訳、これなく、謝りて、ど()めを、引っ立て帰り、この由、告ぐれば、親さえ愛想尽き、着のままで、勘当する、一家(いつけ)親類、さっぱり義絶、友達の、(とこ)いでも、鼻の先で、挨拶する、(かか)までが、同じように、面付(つらつき)が、とんと()うない、時分でも、茶漬一杯、食わんかと、()かさず、彼方(あつちや)向いて、()イでも大事無い、事ばかり、まごまごして居や、取り付く島さえ、手持ち無くうじうじしおしお、早々(そうそう)、出て、彼方(あつちや)()ても、此方(こちや)()ても、何処(どこ)()てもいっこう益体(やくたい)、さすがのどさ()も、はじめて思い知り、詮方(せんかた)尽き、長町(ながまち)のぐれ宿(やど)い、はまり込み、(かん)のうち、真っ裸で、三日ほど、米踏みや、脚気(かつけ)踏出し、油()めに、()てみりゃ、けんぺき、風邪引いて失せ、揚句にゃ、皮癬(ひぜん)掻いて、おどもりや、(かん)()病んで、骨々(ほねぼね)疼き回り、夜も昼もうんうん、きやきや言うてばっかり、食らい(もん)も、()食らわず、宿銭も無ければ、宿屋から、叩き出す、うろうろきょろきょろ、小便さえ、出かねて、涙ばかり、こぼして、ちんばひいたり、いざったり、みなこれ、心から、五尺の体が、いまさら、邪魔になって、死ぬるのもいやなり、僭上(せんじよう)詰まり、橋の上に、米俵一枚着て、永々煩いました、一銭二銭御報謝(ごほうしや)と、吠え(づら)構えて、御助けなされて、下三貘三、(ぼん)(ない) 

&『仏説阿保多羅経狂作天口斎編撰』

*戯作者が「訳」としてはいるが、きわめて読みづらい。現代表記の必要から、荻生があえて改変。京阪地方の生のままの俗語がたくさん使ってあるのにも注目したい。この例はかなりの長文ではあるが、人一倍記憶力に優れた彼ら盲目の法師ら、この程度の詞章の暗記はまったく苦にしないという。

往時の大道芸人たち

 

一分線香咄 いっぷんせんこうばなし 

〈一分線香咄〉は落の付いた極度に短い笑話の旧称である。「一分線香」は短時間を表す形容で、別に〈一口咄〉〈軽口咄〉など別称もあり、混然模様で分類しにくい。

一般に笑話や小咄は、全体が掌編物語として完成した形をとり、最後でオチを付ける。これに対し一分線香咄では、笑いを誘発する部分に焦点を当て、抜粋の体裁を採る。そのためおかしみが凝縮された効果が出る。一分線香咄の類は、かつて寄席の前座で演じられたこともあった。現代では新聞雑誌等でコントに衣替えして登場しているが、近代に一時的ブームを呼び、たくさんの作品が創作されている。

【例】

「絵入一口咄」より

▽松はとの様へお買い上げ ごようじや

 *殿様の前に五葉松の植木鉢があり、町人が平伏している絵。

▽若狭の助は宵からたくらんで居た、塩谷判官は あさのたくみじや &『絵入一口咄』

 *忠臣蔵狂言、本蔵松切の絵に付けてある。

「物寄せ咄」より

▽つるべがいふて居る→めうとの中が水くさ

▽徳利がいふて居る→さかさま事がない様に

▽そら豆がいふて居る→白歯の時はほめられ

▽こたつがいふて居る→わしが仲人(なかうど)してあげ

雪隠(せんち)(むし)がいふて居る→こちや歴々のおとし子ぢや

&『諸道具寄合ばなし』

*これらの例は咄というより、語りをまとめるヒント集である。

近代作品より

(しは)き男あり、平生扇をば(ふくろ)に入てもちありき、若し(あを)がんと思へば、扇の破れんことを恐れて、扇を開いて己が首もてあをぐ。&『世界遊戯大全』団欒遊戯

▽昨夜衛生幻灯を見に行つたら、天然痘予防の事を映さうとして途中で(ママ)が消えて映らなかった「(その)(はづ)看客(けんぶつ)が種痘済ばかりだったもの」&『世界遊戯大全』一口噺

 

歌祭文 うたざいもん 

〈歌祭文〉は江戸時代に俗謡化した祭文のことで〈祭文節〉〈でれろん祭文〉の別称もある。

祭文は本来が神祭、仏祭のおり山伏が錫杖(しやくじよう)を振り、法螺貝を吹き流しながら、神仏に告げ唱えた宗教儀礼である。それを鎌倉末期、修験僧が副業として大道芸に仕立て始めた。江戸時代にはすっかり俗化され、心中などの事件を材にした音曲芸として広まった。唱文のほうも原祭文の密教色が薄れてしまい、歌いやすい詞と節回しに変わる。

嘉永頃(184854)には女歌祭文まで現れるなど芸能化し、また唱詞も瓦版など摺り物で大量に出回るようになった。

【例】

お七(地歌、三下り端歌)  更紗屋新兵衛詞

♪昔より、恋に浮身を奉るよう、色は様々ある中に、別けて哀れを留めしは、八百屋の娘お七こそ、恋慕の闇の暗がりに、よしなき事をしいだして、親の歎きはいかばかり、お七泣く〳〵申すやう、恋に目も暮れ夜も日も分かず、うつら〳〵と来ぬ人を、待帆の浦の夕凪(ゆふなぎ)に、焼くや藻塩の身を焦がす、わしが迷ひと思ひの種ぢやいな、助け給へや南無妙、法蓮華経、せめて一日わが世帯(せたい)、夫婦といはれ死ぬならば、未来の罪も厭ふまじ、わしは思ひと迷ひの種ぢやいな、助け給へや南無妙、法蓮華経〳〵、羊の歩み程もなく、勇まぬ駒の鈴の森、見る人袖をや絞るらむ &『新大成 糸のしらべ』

 八百屋お七 『古今名婦伝』より

どちらが如来世直しちよぼくれ

♪やんれ、どちらがによらひ、ヤレ〳〵〳〵〳〵ちよぼくれちよんがれそも〳〵かんじん、鹿島にまします神ハ世界の色事でいりで出雲へござったお留守の二日の夜の四つ時、青く、きいろく、ぴつかり光った、どゑらいとび物北から南へ往くをあいづか、めつほうかいな、すつほうかいな、地震のはなしを聞いてもくんねへ、花のお江戸は申すに及バず、関八州から近郷近ざい大地が裂けたり、どろがふいたり、…

 *安政大地震(1854年十月二日)の前兆という怪光を発した現象を取りあげたでれろん祭文。地震発生数日後の江戸瓦版より。

祭文踊り(奈良県吉野郡の俚謡)

♪煙草になるなよ、煙草の種に。サイ〳〵、蒔かれて生えるは易いけど、コラサイ、一葉二葉になりたなら、許多の先きから恋しられ、広き畑に植ゑだーされよ、ヤレトコサンセドツコイシヨー、アーヤレー、十七八にとなりたらーよ、サイ〳〵目鼻も腕も掻きもがれ、罪なき私に縄をかけ、サイ〳〵、アーヤレー、天井裏と釣り上げて、少し色けが付きだなーらよー、ヤレトコサンセドツコイシヨー、アーヤレー、元の我が屋へ連れ込んでー、寄りたる皺をば引き延ばし、サイ〳〵、ヤレ〳〵大骨小骨とはなされてー、転り転りと巻き取られてよー、ヤレトコサンセドツコイシヨー、上からぐうと押へ付け、一分二分と刻まれて、サイ〳〵、アーヤレー、白い模様のある着物きて、諸国諸商の店次に、ヨーサイ晒し出されて悲しさは、お客が付いたら買い取られヨー、ヤレトコサンセドツコイシヨー、狭い所に捩ぢこまれ、嫌な男の腰付に、サイ〳〵つもまれつがれ私や飲まれ、灰になるまで苦労をするヨー。ヤレトコサンセ。ドツコイショー。&『日本歌謡集成』巻十二

 

江戸小咄 えどこばなし 

「小咄」には定義がありそうでない。概念上、ときには慣習上使ってはいるが、その語釈の範囲は曖昧で、いまだ特定がみられない。そこでここでは、江戸後期に上方秀句系の〈軽口咄〉に対し江戸で流行したオトシバナシ(落咄、落語、落話などと書く)をもって〈江戸小咄〉とする。

オトシバナシというからには機知に飛んだ(おち)で締めなければならない。つまり後世の落語の枕に使われるような、短い一口話をもって落とすことになる。落語の母体だから、いうまでもなく口演芸系である。現代の落語を形成したのも、かつて星の数ほど存在した古典笑話や小咄である。ただ落語では話の展開が柱になるので全体に長噺になるが、小咄の場合はオトシに重点を置き短く作る必要がある。

江戸後期の平戸藩主で名随筆家の松浦(まつら)静山(せいざん)(17601841)も著作『甲子(かつし)夜話』続編巻十七において、「予が若年の頃、世俗の落し咄といふものは殊に短きを賞したり、今世に行はるゝを聞くに、冗長なることなり、云々」と述べている。

 この種の小咄を集めた書冊は明和末(1772)から安永期(1781)にかけて大流行し、おそらく数百種もの類書が氾濫したろうと推察する。収載咄自体も粗末な作がほとんどで、引例「薪屋」のような傑作にはなかなかお目にかかれない。

 江戸小話が話題になる熊八連 

【例】

薪屋                    山風(木室卯雲)

神田川出水(でみず)に、筋違(すじかい)の薪こと〴〵く流れるを、柳原(やなぎわら)の乞食川端へ出て居て、(とび)(ぐち)にひつかけ、流るゝ薪を引上ぐれば、たちまち乞食が薪屋になり、薪屋が乞食に(なつ)た。&『鹿の子餅』

水打

夏の夕げしき、(かど)へ水をうつている所へ、よい年増が気色(けしき)取ツて来るゆへ、打かゝつた手桶を左へふり廻し撒かんとする所へ、きれいな振袖が来かゝる、是へもかゝつてはとこちらへふりむけば、年増が間近く来る、せんかたなさに、手桶をさしあげて、てまへの頭からざつぷり。&『聞上手』

 

応珍問答 おうちんもんどう 

〈応珍問答〉とは大方のお察しどおり、「応酬話法」を語呂合わせにした造語で問答形式の遊びを意図したもの。妙珍な応酬ぶりが腕の見せどころとなる。

 一般に形式が定型化されていて、「──のとき」というような仮定にたった課題に対し、当意即妙に珍答を出す。課題自体にもひねりが必要である。

 たとえば「お彼岸に墓参代行屋を頼むとき」「宝くじで一億円当てたとき」「人並み大の犬フンをふんづけたとき」など結果に珍答が求められるような展開が欲しい。

【例】

見合で断わった才媛醜女と道で会ったとき                             荻生作

▽思うに、クレオパトラって残酷な女ですね

▽お見合いのとき、万札ばかりで、五円(御縁)玉を持ってなかったもので

▽今、酔っ払ってます。またの機会に

飄々の酒                                                       夏目漱石

広い土間(どま)の真ん中に涼み台の様なものを据ゑて、其周囲(そのまはり)に小さい床几(しやうぎ)が並べてある。台は黒光りに光つてゐる。片隅には四角な膳を前に置いて(ぢい)さんが一人で酒を飲んでゐる。(さかな)は煮しめらしい。/爺さんは酒の加減で中々赤くなつてゐる。其の上顔中沢々(つやつや)して(しわ)と云ふ程のものはどこにも見当らない。只白い(ひげ)をありたけ()やしてゐるから年寄りと云ふ事丈は(わか)る。自分は子供ながら、此の爺さんの年は幾何(いくつ)なんだらうと思つた。所へ裏の(かけひ)から手桶に水を汲んで来た神さんが、前垂(まへだれ)で手を拭きながら、「御爺(おぢい)さんは幾年(いくつ)かね」と聞いた。爺さんは頬張(ほほば)つた煮〆(にしめ)を呑み込んで、「幾年(いくつ)か忘れたよ」と澄ましてゐた。神さんは拭いた手を、細い帯の間に挟んで横から爺さんの顔を見て立ってゐた。爺さんは茶碗の様な大きなもので酒をぐいと飲んで、さうして、ふうと長い息を白い髯の間から吹き出した。すると神さんが、「御爺さんの(うち)何処(どこ)かね」と聞いた。爺さんは長い息を途中で切つて、「(へそ)の奥だよ」と云つた。神さんは手を細い帯の間に突込んだ儘、「どこへ()くかね」と又聞いた。すると爺さんが、又茶碗の様な大きなもので熱い酒をぐいと飲んで、前の様な息をふうと吹いて、「あつちへ行くよ」と云つた。&夢十夜(ゆめじゆうや)』第四夜

 

御告げ おつげ 

〈御告げ〉とは、神仏の意志や予言などを宗教家が承り、布教のために託宣する行為をいう。これはもちろん形式上の儀式であって、事実上は教祖のゴタクにほかならない。

御告げというと多分に宗教色が強く抹香臭いものに感じられるが、案に相違して、たいていのものが想をよく練り表現に工夫を凝らした言語操作の産物である。近代以降の御告げでは、大本教のものなど演出効果と説得力にとみ、かつ文学的、修辞学的にも傑出した例と見てよい。

お告げとは天気予報のようなもの、当たり外れは思召すまま 

【例】

謙信、毘沙門天(びしやもんてん)を狂信

我ある故に毘沙門も用ひらるれ、我なくば毘沙門も何かせん、我毘沙門を再度拝せば、毘沙門も我を五十度か三十度拝せらるべし、我を毘沙門と思うて、我が前にて神文(しんもん)させよ。&『雨窓間話』

上杉(うえすぎ)(けん)(しん)(153078)は戦国時代の武将で、越後の領主。仏教の宇宙観では中央に座する須弥山(しゆみせん)があり、その中腹北方域の守護神が毘沙門天である。財宝を守ってくれる武神で、七福神の一体としてもなじみ深い。謙信は生涯独身を通したが、「毘沙門と結婚した男」と後世に皮肉られている。その帰依ぶりは尋常でなく狂信的といえた。信心つのりついに自ら毘沙門天の化身と信ずるに到った。自分の身を毘沙門天と信じ敬えば、朝廷はじめ幕府、また越後の領地を守護してやろう、とまでのたまわっている。有名な川中島(長野市)の戦いでも、信玄が孫子の句から取った「疾如徐如侵掠如不動如」を旗印としたのに対し、謙信は「毘」一文字の軍旗を立てている。まさに陽と陰との守護神同士の対決であるかのよう。周知の通り、川中島合戦は事実上、武田軍勢の勝利で決着をみた。謙信もし信心などに心を奪われず、現実を踏まえた戦法でのぞんでいたら、あるいは結果は逆転していたかもしれない。

大本(おおもと)(きよう)」祖神の御告げ                                         出口ナオ

三ぜん世界一度に咲く梅の花、(うしとら)の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。日本は神道(しんだう)、神が構はな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、まだ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。是では、国は立ちては行かんから、神が(おもて)に現はれて、三千世界の立直(たてなほ)しを致すぞよ。用意を成されよ。 

&大本(おおもと)神論(しんろん)』明治二十五年旧正月初発、「筆先」

出口(でぐち)ナオ(18361918)は宗教家。娘婿の王仁三郎と共に大本教を開いた。明治二十五年正月京都府綾部で、大工の未亡人であった出口ナオは、突然神懸(かみがか)りに入り「(うしとら)金神(こんしん)」による世の立て直しを教義とする新宗教を開いた。習合(しゆうごう)神道(しんとう)系「大本教」の誕生である。ナオは時を移さず布教活動に必要な教典「筆先」の執筆に懸り、「みろくの世」なる理想世界の到来を予言している。この御告げ、人の心を惹きつける、なかなか達意の文章だ。「梅で開いて松で治める」などは、素人離れした文学的文彩である。外国人をケダモノ扱いした文言も、今日でこそ狂気の沙汰だが、当時の風潮からして暴言とはいいきれない。念意の助詞「ぞよ」の用法も説得効果をあげている。娘婿の王仁三郎また布教に熱心な活動家で、二人が釈伏(しやくぶく)の柱となり大本教を信者十六万人の大宗教に育て上げた。王仁三郎のほうは傍若無人といえる怪祖(カリスマ)で、そうした側面を語るような短歌を残している。

   日地月(につちげつ)合せて作る串団子星の胡麻書け(くら)王仁口(わにぐち)

 

掛合 かけあい 

〈掛合〉はもともと二人または三人で軽口を叩きあい、おかしみを演出する口芸をさす。洒落が言葉のやりとりの軸になり、応酬話術を展開。「掛合(ばなし)」「掛合台詞(せりふ)」「掛合漫才」など諸芸を生み出している。

しかし時代が近代化するにつれ掛合は漫才へと移行し、座興の趣きもしだいに薄れて文芸色が濃くなっていく。

【例】

かけ合のくだ  かみがたもの  江戸ッ子

イヤ〳〵まあのまんせ、そないなこといふたてゝ、酒といふたらトツト、わしひとりぢやがな、そりやまァめつさうな、あまりづゝはないはいな ハテまあのみなせへ、京の酒ときたら、いくらのんでも酔はねへぜ、水をのむやうな酒だものを、そのはずだ、江戸で一升買ふ()ぢやァ、三升も買へるだらう なんぞいふてかいな、あほらしい、京都ぢやてゝ、そないに悪い酒はのませんがな、あれでも一升が壱匁(いちゑ)五分(ごふん)の上酒ぢや それ見たか、江戸ぢやァ一升二百五十の酒はふせうちだ、おいらがのむ酒は三百三十二文だ、おめへがたの二升と、こつちの一升とかけ合ふものを そりやめつさうぢや、シカシあちでもナ、富士見(ふじみ)といふたらゑらいはいな 江戸ッ子が行やァ、ぜひ富士見さ、シカシ壺へいれておいて、ひしくで汲でよこすにやァおそれるよ、なんだかしらねへが、江戸で新酒をのむやうな心もちだ、酔たとおもつてもあたまへのぼるばかりで、のどから下は酔ねへやつさ、それだから、かみがたの酒盛は、酔たとおもつてもぢきにさめるはな、富士見といつた所が、一ッぺん江戸へ来て、又のぼせた酒といふばかり &一盃決綺言(いつぱいきげん)』無益の事をあらそふ酒癖

母ちやん、ごらんよ                                            作詞者未詳

♪母ちやんご覧よ 向うから/サーベル下げて帽子着て/父ちやんによく似た 小父さんが/沢山たくさんやつてくる/もしや坊やの父ちやんが/帰還(かえ)つて来たのじやあるまいか

昨夜(ゆうべ)も言うて聞かたせたに/はや お忘れか父ちやんは/あんなところに居やしない/あのお座敷の仏壇に/お(まつ)りしてあるあの位牌/あれが坊やの父ちやんさ (明治三十八年(日露戦争直後の)流行歌)

新吉原掛合節                                           江戸と東京作詩部

──一名吉原素通節──

妓太  煙草だけでも『深川』なさい

    話があるなら『駿河台』

    旦那の『女塚』遊んどる

男   何んだ『神田』で欺されて

    質屋通ひが『不人斗』

    『今川町』に無一物

妓太  そんな冗談『吉田町』

    『金助町』がないならば

    私の懐中で『堅川町』

男   お前もよつぽど『横網町』だ

    『真島町』の顔をして

    インチキ『砂町』よすがよい

〔女、出てくる〕

女   『久松町』に来た癖に

    『渋谷町』の顔をして

    喧嘩なんかは『余丁町』

    二階で『落合』話さうよ

男   己れはいつかな『菊屋橋』

    『紺屋町』だけは揚らない

    『本石町』あがらない

女   『京橋』に限つて何故すねる

    あたしあんたを『松山町』よ

    『本郷』にあんたは『無縁坂』

(後略) &『江戸と東京』昭和十一年八月号

 

活弁の前説 かつべんのまえせつ 

わが国に「活動写真」が入ってきた明治三十(1898)年頃から、無声の画面に説明を加える専門職が生まれ、これを「活弁」といった。初期の活弁の説明者を「口上屋」と称し、どこか演説調のこなれきっていない弁舌であった。しかしフィルムの輸入が増えだす三十二(1900)年頃からは、駒田好洋巡業隊といった巡回「弁士」の団体が生まれ、口演技術を磨き、活弁ありとその名も広めた。

最初は短尺で上映時間二~三分間だったフィルムも、劇ものを収容できる十~十五分となり、つれて能弁な弁士を必要とした。同時に常設の活動小屋がいくつか出現する。たとえば当時進歩的といわれた浅草電気館の場合、長岡(大山)孝之という専属弁士を何人も抱えていた。

活動写真の評判は弁士の説明に負うところが大きい。口演力のある弁士は各館から引っ張りだこで、山野一郎、土屋松涛、尾上松之助、染井三郎、松井翠声といった初期の有名弁士が誕生した。

彼らの前説などは今でもいくつか記録に残されている。まず前口上で客の興味をひきつけ、中に二段構えの本説明があり、仕舞口上で笑いや涙を誘う。内容こそ時代がかっているものの、観客を飽きさせない配慮、しかも間をもたせるための工夫のあとが随所にうかがえる。

活弁写真の現代における再上映ポスター 【例】

「ジゴマ」前説より                                                                               山野一郎口演

花の都はパリーかロンドンか、月が啼いたかほととぎす、フランスはパリーの町に今や起る怪事件、或は会社、銀行に、或はオペラ劇場に、或は富豪の邸宅をねらう、風の如き怪盗団、大胆というか、不敵というか、現場に残すはZの一文字、ここに名探偵ポーリン、これなる秘密をば解かんと致しまする。/謎は解けた。Zとは悪漢の団長ジゴマの頭文字であることを発見し彼等一味の捕縛に当らんと致しますが、ジゴマは巧みに変装して探偵の法網をくぐる。負けてはならじと名探偵もよく変装してこれに当たりますが、残念なる哉、名探偵ポーリンは敵の一弾を受けて倒れる。されば、後輩ニック・カーター探偵現れましてポーリンの手をしっかりと握り「御身倒るるとも我ここにあり、御身に代って悪漢を撃滅せん」と誓う。探偵勝つか、虚々実々、火華を散らす知恵くらべ。山雨まさに到らんとして風楼に満つ。果して勝利は正か邪か。前篇はポーりん探偵の巻、後篇はニック・カーターの巻。詳しくは言わぬが花の玉手箱。文明開化はエレキ応用、機械の回転につれまして大車輪申上げますれば、何卒絶大なる拍手ご喝采の内にご高覧願います。

──1946年二月、浅草金竜劇場「映画音楽年史」台本より、&『活弁時代』

 

狂言の科白 きょうげんのせりふ 

能楽の系統であっても狂言は能とは異なり、はるかに遊びの要素が濃い。というのも、狂言自体が庶民寄りの喜劇という性格をそなえているためである。

昔の中国では(たわむ)れ事に「狂」の字を冠していた。漢語としての字義も狂言は滑稽を表し、旧当て字「科白(せりふ)」の(しぐさ)(せりふ)に通俗性を盛り込んでわが国に定着した。江戸時代、演劇の花形である歌舞伎が成ったのも狂言あってのことであり、セリフの絶妙な言い回しも狂言の影響を多分に受けていた。

〈狂言の科白〉には秀句あり、謎なぞあり、譬えあり、畳語あり…と、言葉遊びの尽きるところを知らない。加えて、狂言ならではの独特なセリフ回しも注目したいところだ。

【例】

末広かり(脇狂言)より

*祝言を主題とした脇ものの一。主人の言いつけで都へ末広がり()を買い求めに出た太郎冠者が、都の素破(すつぱ)(だま)され古傘を買わされてしまう。

果報者「ハハア、太郎冠者は都でたらされをつたさうな。何を申す、(うけたまは)らうと存ずる。太郎「さて大方お好みにも合うてござる。まず第一地紙ようとは、この紙のこと。よい天気によい紙を以て張りすまいたによつて、はじけばコンコンと申す。また骨に磨きを当ててといふは、この骨のこと。ものの上手が木賊(とくさ)・椋の葉を以て、七日七夜が間、磨きすまいたによつて、撫づればすべすべ致す。また(かなめ)もとしつととしてといふは、この要のこと。これをかう致いて、何処何方へさいて行かせられうとあつても、ゆすりとも致さぬ。

(たぬきの)腹鼓(はらづつみ)

*井伊直弼(181560、幕末の大老、桜田門外の変で暗殺に)の手になるという復曲もの。眷属(けんぞく)を猟師、喜惣太

 に捕われた古狸が尼に化け、化けの皮をはがされそうになりながらも、無益な殺生を思いとどまらせる。

狸=尼「イヤイヤ月もよし、心静かに戻りませう。喜惣太「申し、まづ待たせられい、申し伯母ぢや人。はやどれへ行かれた。ハテ合点(がてん)行かぬことぢや。この(あた)りで様子を(みよ)うと存ずる。「喜惣太さらば。弓矢八幡、さらばさらば。なうなう嬉しや嬉しや、まんまと意見を申して殺生をやめさせてござる。この喜びに小歌を歌うて、心静かに慰うで参らうと存ずる。「打ちてやさしき物多き、板屋の霰窓の雨、鉦鼓・羯鼓にうちまじへ、今の狸が腹鼓。

木六駄(きろくだ)

*太郎冠者は木と炭六駄を届ける途中、茶屋の亭主の誘いにのり、進上酒を引っかけて気が大きくなってしま

 う。

茶屋「おしやる通り、酒程目出たいものはおりないよ シテ「さても〳〵()みが解くるやうな。両の手がほつかりと暖まつた。とてもの事に足の先まで暖まらう。今一つおつぎやれ 茶屋「まだ飲ましますか シテ「苦しうない。さあ〳〵早うおつぎやれ 茶屋「どぶ〳〵 シテ「おつとある()。最前は雪が赤いやら黒いやら覚えなんだが、俄に機嫌ようなつたれば、山々の雪が真白に見ゆる()。ちとこれをそなたへ差さう 茶屋「忝けなうおりやるが、飲うでも苦しうおりないか シテ「身共が振舞ふに要らぬ辞儀ぢや。早うお飲みやれ 茶屋「それならばたべう。いやなう。何ぞ肴に一さし舞はしまさぬか シテ「何ぢや一さし舞へ 茶屋「なか〳〵 シテ「舞ふとも〳〵。や、扇が無い 茶屋「それは苦々しい事でおりやる シテ「いやよい物がある。これで舞はう。わごりよ囃いておくりやれ 茶屋「心得ておりやる。

 

講釈 こうしゃく 

    近世、軍記物を読み解いて口演する寄席演芸として発達したのが〈講釈〉。のちに演目の範囲が広がり、世事講釈、色講釈まで扱うようになった。

 狂伝和尚の色講釈 この戯作の作者山東京伝自身、吉原の大見世扇屋の新造である菊園(お菊)を女房に迎えた遊び人だ。ゆえに彼は廓内の事情通でもあり、滑稽本や洒落本に見る作品には客や遊女との達引が巧みに描かれている。京伝は画才もあり『小紋雅話』など画集も出した。

口上 こうじょう 

『日本庶民文化史料集成』第八巻、三一書房刊に収載の翻刻版「諸芸口上集」が出典である。同書解題によると、原本は無題の写本で、舌芸遊芸人の口上を集めた内容。総数数十点に及ぶが、うちきわめて個性的な三点を引かせていただいた。

〔十七〕番より

〳〵〳〳〵〳扨〳〵〵〳〵〳〵な、しこ玉、小玉、目玉、ひよつくり玉、ちよふちん玉、金玉、おつと違ふた、夫ではなひが、上なる太夫さん、這辺の岸から向ふ迄、寅の一さん寅走り、走り懸つて向ふ三部、こちら七部、中の一部で、ちよつきりこふととまる、とまれますれバ、七部三部の、つま留めの軽業〳〵

〔三十七〕

おばゝどこへ行きやる、油買に、茶会に、茶かい山から茶に見れバ、見れバ目の毒、こちや目の薬、薬り峠の権現さん、さまハさんど笠、(シヤ)()()の皮、可愛男に逢ふ夜は床し、ゆかし〳〵とあつたとさ、浅草の観音さんな一寸八部、マア八部されても弐部残る

〔四十一〕軽口

凡毛の数もたんとある物、八百八ケ有其中、京都で御公家、水戸で御三家、道中で追分、馬が栗毛で、旦那が乗掛、(ヤツコ)の振のが大鳥毛小鳥毛、山上の山で陀羅助に気付、畑肥を掛、風吹通れバくさけ、大坂で金持鴻の池別家、浦が石がけ伝ふがとかけ、前が蓮池、後がどぶ池、阿弥陀池の御本尊様ハしつけむくけ、歩行(アルク)のが勧化、八百屋で毛の数、梅漬け、らんきよふ漬、かんひよふ漬ではないかひな、山で毛の数、椎茸、こふたけ、松茸、はつ茸、いが茸ではないかひな、内の家から一軒二軒三軒めが竹屋の佐助、商売が桶屋、看板迄ヂヤ樫、番頭が寝とぼけ、丁稚(デツチ)が夜ぼけ、かゝがお繁、茶釜かなけ、前の物が瓦け、亭主の道具がすぼけ、すぼけちんほでも、アリヤ子が出来るじやないかいな

 

口上〔東西屋〕こうじょう/とうざいや

街中を派手な音曲、口上を発しながら委託された商店などを宣伝し歩く商売人(個人または団体)を「東西屋」という。関東では「ちんどん屋」であるが、今では「外宣車」のほうが数多く見うけられるほど風情がなくなってしまった。

広目屋(宣伝代理店)の広告〔 鈴木春風画〕

【例】

東西屋の宣伝文句

東西、東西、でけました。うどんやはんがでけました。所は二つ西の辻南へ入って西側のつるつる屋。本日より店開き。うどん・けつね・しっぽく・玉子とじ・けいらん・あんかけ・おだまきに茶碗むし、そのほか玉子丼・けつね丼・うなぎまむし、そのほかいろいろ、開店祝いといたしまして、本日より向こう三日間、かやく物は二割引、丼物は五銭引にて大勉強大売出し、所は二つ西の辻南へ入った西側、つるつる屋、どしどしお運びをねがい上げます。まずはそのための口上、東西、東西。&『大阪ことば事典』

*東西屋=草創期チンドン屋の大阪での呼称。《参考》にも関連記事。

《参考》

立派な東西屋                                            片岡 昇

この顔に道化服は惜しい。モーニングでも着せたら粕谷議長よりも立派かも知れぬ。それで太鼓を叩いて議場を整理したら、などと冗談も出る程、この東西やさんの面相は立派だ。/麻布十番の賑やかな音を一人で引受けるやうな商売。ドンちやんチヤンチヤンネドン、ドン、チヤンドンドンと手振り首振り身体振り、器用なさばきは藤間の許しでも持つて居さう。また一際ドンチヤン〳〵を囃して大勢を集め、夫から口上。『東西〳〵、お馴染末広座あードン〳〵。エー毎度御ひいきを蒙りまするう──若手大歌舞伎一座あ、いよ〳〵明日より芸題替り、ドンドドンドン』/その音声や嚠喨でもあり、亦渋味の太さもある。其声と調子とに聞き惚れて記者はつぎの文句だけをおぼえて了つた。…(大正一四年九月一日)

&『近代庶民生活史』⑦「カメラ社会相」

 

口上〔露天商〕 こうじょう/ろてんしょう 

 呼び歩くものや夜寒のうす煙       杉暁

寒いにつけ熱いにつけ、町々を売り声高らかに商い歩いた物売りは、たしかに風物詩により趣きを添える存在であった。商売とはいえ捻りと遊びをきかせた口上揃いだ。

【例】

いなり(ずし)売り

天清浄、地清浄、六根清浄、はらひ玉へ。清め玉へ。壱本が十六文ヘイ〳〵〳〵ありがたひ。半分が八文ヘイ〳〵〳〵ありがたひ〳〵。一切が四文。サア〳〵あがれ〳〵うまふて大チイ〳〵稲荷様。

&『仕出し商人尽し歌合』

七色唐がらし売り

とん、〳〵〳〵たうがらし、ひりゝとからいはさんしよのこ、すは〳〵からいはこしやうのこ、胡麻の子、陳皮のこ、とん〳〵とうがらし。中デヨイノガ娘の子、イネブリスルノガ禿の子。

&『近世流行商人尽』

 

白酒売り台詞(せりふ)                                                           桜田治助

そも〳〵、富士の白酒といつぱ、昔駿河の国三保の浦に、伯竜といふ漁夫、天人と夫婦になり、その天つ少女(をとめ)の乳房より、流れ落る色を見て、造り初めし酒なれば、第一寿命の薬なり、されば厄払の親方東方朔(とうほうさく)も、此酒を八盃飲んで八千歳の(よはひ)を保ち、浦島太郎は三盃呑んで三千年、三浦の大助下戸なれば、一寸(ちやつと)ちやうつけしたばかりで、つえ、百六ツまで生き延びたり、先づ正月は屠蘇の酒、弥生は雛の白酒に、女中の顔も麗しく、もゝの媚ある桃の酒、端午の節句は菖蒲酒、七夕は一夜酒、重陽は菊の酒、さて仏法にいたつては、釈迦牟(しゃかむ)()如来(にょらい)()はく、如露亦如電を肴にして呑む時は、一升は夢の如し、上戸菩提と説かれたり、されば、酒の上の是呑が、なに上々の上の字の上戸をば、下々の下の字の下戸が(そし)り、これ、大和歌にも載せられたぞ、されば我々が白酒は、事も愚かや、ホヽヽホ、敬つて白酒々々 &助六(すけろく)(くるわ)花見(はなみ)(どき)

おでん屋(大阪松島新地)

こおれ、新玉(しんぎよく)でんさん、お前の出所(でしよう)はどこじやいな、私の出所は是れより東、常陸の国には水戸さんの領分、中山育ち。国の中山出る時は、(わら)着物(べべ)きて縄のおびして、鳥も通わぬ遠江灘(とうみなだ)(中略)べっぴんさんのおでんさんになろうとて、朝から晩まで湯に入つて、湯から上つて化粧して… &『上方』昭和六年十二月号

伊勢名物「赤福もち」(近代伝承)

東西〳〵、世上の下戸様に申し上げまする。そも本朝のならわしにて、めでたき事に鏡餅、金もち、山もち、屋敷もち、廓に座もち、太鼓もち、長持ちうたに名を知られ、維茂(これもち)武勇かくれなし。かようめでたきもちなれば、名のりはずかし赤福もちが、日もち長もち、手頃もち、味もちろんによい〳〵と、永の御贔き、お蔭もちにて三百年、まずはのれんをもちつづけ、有難き気もち心もち…

ガマの油売り

さぁさぁガマの油だ お立会い 御用とお急ぎでない方は ゆっくりと見ておいで 

遠目山越し笠のうち 近寄らざれば ものの()(いろ)理方(りかた)がわからぬ 手前持ちいだしたるは (ひき)蝉噪(せんそう)四六(しろく)のガマだ 四六、五六はどこでわかる 前足の指が四本(しほん) 後足の指が六本 これを名付けて四六のガマ 

このガマの油をとるには 四方に鏡を立て 下に金網を敷き その中にガマを追い込む ガマはおのれの姿が鏡に写るを見ておのれと驚き たらぁり たらりと油汗を流す これを下の金網にて漉き取り 柳の小枝をもって三七二十一日のあいだ とろぉり とろりと煮詰める そうして出来たのが このガマの油だ いつもは一貝で百文だが 今日はひろめのため小貝を添えて二貝で百文だ

さあさあ ガマの油だ! お立会い

 *口上は各地や縁日により異なる。

《参考》

海老蔵「植木売り」の台詞(せりふ)より

(そもそも)ゑ木の効能は、(まず)朝顔の目を覚まし、虫一道の根をきり島、退屈気鬱を保養の松、常盤の楽しみ居ながらに、嵯峨や吉野をせき台へ、うへ野の花と三升の紋、顔に紅葉の竜田川、唐紅(からくれない)の女中方、なびく桟敷のはなやかに、色を呼びつつ物の媚、柳の腰元引連れて、紅梅白梅庭桜、海棠一ぱい見物は、井出の山吹藤波の、かゝるめでたき君が代の、草木国土太平楽、らいでんぼくの、悪魔はらいと、ホホうやまつて申す。&『後はむかし物語』

 

口上茶番 こうじょうちゃばん 

茶番は立茶番と〈口上茶番〉に分けられる。前者は京坂で流行した俄と同類の道化芝居で、(かつら)や衣装を身につけ、立ったまま捩り芸を演じて見せた。

「茶番」とは江戸中期、歌舞伎の楽屋で花形役者やその贔屓筋に挨拶口上を述べながら茶菓の接待をつめる端役者をいった。これが市井言葉に転じ、いつのまにか神社仏閣での祭礼縁日に屋台で演じられる素人寸劇、つまり茶番狂言をさすようになった。口上茶番のほうは〈見立茶番〉とも呼ばれた座芸であり、茶番師はかたわらに七つ道具を出し、それをネタに洒落や滑稽を口演する。そのさい身振りや仕草は行わず台詞(せりふ)だけで聴衆を笑わせる。見方によっては、言葉遊びの職人といえた。

宝暦から明和(175172)にかけて見立の趣向が広まると、花柳街を基点に口上茶番が賑わいを見せるようになる。物の本によると、戯作者の朋誠堂喜(ほうせいどうき)三二(さんじ)や山東京伝、あるいは狂歌師の鹿(しか)都部(つべの)真顔(まがお)らまで茶番の旦那芸を演じたとある。さらに滝亭(りゆうてい)()(じよう)は『花暦八笑人』で茶番を主題に面白おかしく読み物化している。この作は、当時茶番に関する作例が少なかったため貴重な資料でもある。

聴衆はというと、最初のうちは口上茶番が目新しかったので、熱心に聞き入れたようだ。しかし巷間に流行はしたものの、演じ物はいつも二番煎じ、三番煎じで新味に欠けたため、次第に飽きられ廃れてしまう。近代に入ると、アドリブの効いた漫才が現れて、主役の座を取って代わった。

【例】

珍重坊口上                  

へゝゝ御馴染の珍重坊、此度思ひ立そりこぼつた赤同心あたまから丸の裸で生れ、腹に蒲団をつくれば寒さをしらず、酔倒れて蚊のくふもしらねば蚊屋かふすべしらず、呑体より外欲しらず、芸能なんにもしらず恥しらず遠慮しらず、あつかましう出入すれば日本の名人衆しらぬといふ事なく、何の因縁やらしらずに行先で酒を振舞はれ、難波の白梅都の滝の水、東の隅田川三ケ津の酒を呑つくしたれば、とてもの事に日本国中を廻り酒の海をこへ酒の滝にうたれ、難行苦行修行のうへにては酒如来の御厨子建立仕り度き大願にて御座候間、御なじみにあまへ六十六ケ国の酒手を是迄の御芳志に酒ねだり仕る、ごまのはいの一世一代と思召御寄進なし下され候はゞ一升の御恩と有難く奉存候以上

世話人  近松半二

伝へ聞費長房は鶴にのりて万国を廻り、今この珍重坊は樽にむち打て六十余州をめぐる、その楽しむ所いづれかまされるにや

 盃のうちに四季あり酒の春

        六十歳戯吟          竹元近江大掾&一話一言(いちわいちげん)』増訂版・巻三十七

口上茶番のサワリ

*以下、主役の左次郎が役の割り振りと演出について語る部分。傍点は口上。

                                       滝亭鯉丈

「おれと出目助が巡礼のすがたで、そこ(ここ)と花を見ながらたばこを呑んで居る所へ、安波公がのさり〳〵と出かけて来る。これも同じくあちこちと見歩き、成丈(なりたけ)人の目にかゝるやうにして、程(よき)所で、順礼にたばこの火をかりやうとすひつけにかゝる笠の中を覗いて、ヤアめづらしや鳥目百見年寄尋ぬる親の敵、ト是から浮木の亀や優曇華のはななんでも彦兵衛で…」 &『花暦八笑人』

年礼                                                           十返舎一九くげのなりにこしらへ仕丁一人ともにつれてたち出、ねんれいのむだせりふいろ〳〵ありて

くげまだとしだまがあるかこりやねからへらぬな。よい〳〵モノモウほうしやうじにうたうさきのくハんばく大じやう大じん御けい申入ます

 トぶたいをひとまハりくるりとまハる。

仕丁ハイ、これが八ぜうさまのおやかたでござります

くげなんじや、たぬきのきんたまとおなじことじやな

仕丁さやうでござります。ものもふ

くげほうしやうじにうどうさきのくハんばく大じやう大じん御けい申入ます

仕丁これが一じやうさまでこさります

くげこのさきがはんでうどのであらう

仕丁ものもふ

くげほうしやうじにうとうさきのくはんばく大じやう大じん御けい申入ます

仕丁もはや呉れますそえにござります。てうちんのよういいたしませう

 トいへば

くげそらをながめてゆびをおつて「けさからたつた五軒△ハアゝ、日がミじかいなア 

「だんな四文いちごうハどふでござります。さきほどのハミなさめてしまいました。

「まて〳〵。けふハながいさかなでめしをくはせるぞ。

「このつぎは、まつしろやの清こうがばんだから、さぞしやれることであらう。

&串戯狂言一夜付(ちやばんけうげんいちやづけ)』中

《参考1》

                                       中沢常富

明の前に出て、いふ口上、今は其男の姿を見ると、口上と云て先誉るなり、扨其口上を聞く人はなし、口上人は只役割を成たけ早口に紙を()()らはしき様に巻込〳〵、早々によみて入る、是も彼今の人は面倒がりて、早く幕を明させて見たき心なれば其心を察して早く読て仕舞ふ事を善とす宝暦頃までは、左にあらず中にも市村座の口上いふ親仁は、上手なりと云はれ勘三のは下手なり抔評しき、其市村座の親父がよみかたは、東西〳〵と、あたりから云はせて、高うは御座りますれど是より、御断を申上げます、則此所は梅若菜嫩曽我第一番目の三立目役人の次第を、御耳にふれまするやうに御座ります、右大将頼朝公市川新四郎と、如此静に切り〳〵によみたり、わや〳〵したる見物、口上云出れば、しづまりて聞きて居たる事なり、今よりは人がよいといふべし、&『後はむかし物語』

《参考2》

臨終も茶番で                                             珉斎閑人近江屋佐平次隠居に、景舎といふ人有り、至つて茶番の名人にて、ある時の茶番に題はしらねど、道成寺の口上有りて、しめし籠を釣鐘にして、此の内より景物の十能、味噌こし、さゝら、さいばしなどを出して、(さて)こそ世帯はあらはれたりといふ、茶番名代のものにして、この隠居老年に及びて病の床に付きて、殊のほかむづかしく、今臨終と一家親類はいふに及ばず、娘子供孫をならべて涙ながら介抱瀬し時、はや〳〵臨終際に、重き枕を上げて、たつた一言「しにぬるをはか」といふてをはりぬ、扨々しやれた隠居といふ &『十八大通』

 

猿廻しの唄 さるまわしのうた

往時の大道芸で猿廻しが猿の曲芸に合わせて歌う〈猿廻しの唄〉。珍しいので引いておく。

 阿蘇猿まわし劇場 

【例】

猿廻し「おしゆん伝兵衛」   

                                    竹本八重太夫こと泉屋平兵衛語り

♪おさるはめでたやな、むこいりすがたの、のつしりと〳〵、コレさりとは〳〵、ノホンホヨホ〳〵、あろかいな、さんなまたあろかいな、合の手コレ〳〵〳〵、いたゞくものじやさかづきを、さんなまたあろかいな、そこでおはつがいたゞく物じや、コレいたゞくのふ盃を、さんなまたあろかいな、コレよめ子のひるねは、ころりとせ〳〵、ナアコレ、ノホンホヨホ〳〵、あろかいな、(中略)、あろかいな、さんなまたあろかいな、ひより見たらば、おきてたも〳〵、かうじや〳〵、おさるめてたや〳〵、&『俗耳鼓吹』

 

仕舞文句 しまいもんく

 講談や浪花節などの終わりを告げる紋切り型文句。有名芸人になるとお決まりの仕舞文句を披露して客への挨拶とした。

【例】

広沢虎造(二代目) の仕舞文句        

♪丁度時間となりました ちょいと一ト息願いまして 又のご縁とお預かりイ

 

すててこ 

東京の落語家が寄席で演じた馬鹿踊り歌謡。

はやらせたのは三遊亭円遊で、甚陣羽織に半股引姿で演じたことからこの命名に。すでに大人気であった三遊亭万橘演じる「へらへら踊り」の向うを張り、明治十三年に異様ないでたちで卑俗な踊りを披露した。

【例】

すててこ                                             すてゝこ円遊詞

♪さても酒席の大一座、小意気な男の振事や、端唄に大津絵字余り都々逸甚句にかつぽれ賑やかで、芸者に浮れて皆様御愉快、お酌のステテコ、太鼓を叩いて、三味線枕で、ゴロニヤンゴロニヤン──踊り唄、明治十三年頃流行、『明治流行歌史』

♪ゆうべふろのあがりばで このはらおび

 をかゝさんが とつつけさんして さつてもよいことをしてくれたと ゆうべのおはらだち

♪あいたさに 云たさに したさにきたので「れそ〳〵〳〵 うにやにやのパア

──踊り唄、明治十五年頃流行、&『当世はやり諸げいの大みせ』

 

 『国民新聞』明治三十三年八月  円遊は特有の大仰な身振りで観客を沸かせた。

すててこ〔雑載〕

♪向う横丁のお稲荷さんへ、一銭あげて、ざつと拝んでお仙が茶屋へ、腰をかけたら渋茶を出して、渋茶よこ〳〵横目で見たらば、米の団子か土の団子か、団子で〳〵此奴は又いけねへ、ウントサノドツコイサ、ヨイトサノドツコイサ、ウントサノドツコイサ、ヨイトサノドツコイサ、せつせとお遣りよ。

♪昨夜見たよな大きな夢を、威海衛を背に負ひ、濟遠定遼下駄にはき、其又帆柱杖につき、ほうかん山に腰をかけ、四百余週を一またぎ、あんまり咽喉(のんど)がかわくゆゑ、黄河の水を一二三口(ひふみくち)に飲み干せば、何やら咽喉にたつたやう、えへん〳〵と咳ばらひ、唾液(つばき)を吐き出しよく見れば、万里の長城がとんで出た。──踊り唄、明治二十八年頃流行、&『明治年間流行唄』

♪山崎の渡し場で チラと見初めし五十両 先へトポトポ与市兵衛 跡からつけ行く定九郎 おとつさん待ちな 勘平が鉄砲でアイタタ アンヨをたたいても一つおやりよ ウントコサノドツコイサ ヨイトサノドツコイサ ウントコサノドツコイサ ヨイトサノドツコイサ シツカリおやりよ。──踊り唄、明治二十八年頃流行、&『日本近代歌謡史』上

*円遊すててこの二番煎じ雑載。落語家の桂分如らが上方で広めたものも含まれる。

 

啖呵売 たんかばい 

香具師言葉で大道商売のさい唱える口上を〈啖呵売〉(タンカバイとも表記)という。

市街地での大道商い、縁日での露天商い、また盛り場での見世物呼び込みなどで、彼らは口先ひとつで野次馬を酔わせ、いつのまにやら財布の紐を緩めさせる。まさに啖呵売のプロである。昔の口上には言葉遊びのエッセンスがいっぱいに詰まっていた。しかし時代の流れで、最近は気の利いた啖呵売を耳にする機会もなくなってしまった。

【例】

(がま)とろ

サア〳〵御用とお急ぎのないお方は(ゆる)りと見て行きなさい。手前業とするは蟇仙(ひきせん)(そう)、四六の(がま)の油だ。こういうと今の人のようにそのような蛙なら、俺の家の縁の下や流しの下に沢山いるから、獲って来てやろうかと言う方があるが、しかしお立会(たちあい)。貴君方の裏口にいるのはお玉蛙、(ひき)(がえる)、オンビキといって薬力と効能にはならぬ。手前の商うは四六の蟇、四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本に後足の指が六本、これを名付けて四六の蟇という。この蟇の住める所は、江州は伊吹山の麓で、車前草(おんばこ)という露草を食らって育ったるもの。この蟇の油を取るには、叩いて取るかベシャゲて取るか。叩いたりベシャゲては姿形が崩れてしまう。どうして取るかというに、四方に鏡を立て、下には金網を貼り、その中へ蟇を追い込む時は、己れの姿が四方に(うつ)る。己れが姿に己れが驚き、やれ恐ろしや恐ろしやと、タラリ〳〵と脂汗を流す。その油に三つの薬を調合して、柳の古木をもって七日七夜の間、トロリ〳〵煮詰めたのが、この蟇の油だ。何に効くかとお尋ねの方がある。効能は()()(いぼ)()、横根、(がん)(かさ)(よう)(ばい)(そう)(きん)(そう)には切疵。効能はそればかりでない。切れ物の切れ味をとめる。と言っただけではお疑いであろう。薬の効目(ききめ)をお目にかけよう。…(以降実演を伴った口上が続く)&『上方演芸辞典』

 

*関東で知られる「陣中膏ガマの油」と並ぶ上方での古典的口上である。ガマの採取地は筑波山、伊吹山、祖母山など口演当地に近い場所に差し替えて述べる。

筑波神社境内での蟇の油売り口上

洋傘(コウモリ)の露天売り

さあお客さん。昔はこう云ふた名文が、我々の仲間にありましたぜ。天下の名文です。わたしなぞ、暗記してしまいましたぜ、しかし、自慢になりませんや。あたりまへでさねえ。えへん『アイヤ、お立合、御用とお急ぎでない方は、ゆつくりと御覧、下さい。遠音山越、傘の中、見た許りでは、物のあいても、理方もわからぬ。山寺の鐘ゴーン、ゴーンと鳴るといへども、童子一人来つて、鐘に撞木をあてなければ、鐘鳴るのか、撞木が鳴るのか、とんと音色がわからぬ…』ていふたさうだ。まあ、しかし、お客さん、私はそんな、名文に用はないが、良かつたら、安かつたら、買つていつて下さい。これから暖かくなりや、一本や二本は必要だ。夕立でもあってみなされ、来客に帰りに貸すのがないなんて、ことになると、御客さん、御家の子孫代々までの恥ですよ。ハハツゝゝゝ。さ、上等の所からしようか。普通の所にしようかね。お客さん、始めつから買つてくれぬと気持ちが悪いから、安くうんと勉強しませうね。さあ、この洋傘はどうです。開けてスグこはれる品とはチガイますよ。開ければ開けるほど丈夫になる品だ。ねえ(掌を打つ)、どうだ、いくら不景気だって、一円はどこでも、とるだらふ。 (以降、売り値下げの啖呵がしばらく続き)

全く、これが買へなくちや、お客さん、お客さんのポケツトマネーがわかってしまふよ。マネー・イズ・モーネーなんてねえ、えへん、これでも僕は支那へ洋行しましてね、英語を十三年研究して来ましたよ。あちらへゆくと、マンジュが美味しくてねえ、それのことを英語でオスト・アンデルと教はつたものだ。ハハゝゝゝゝ。いや早く商売をしよう。有難う存じます。有難う存じます。サア、元気が出たぞ、これでオマンマが食べられる。今度は上等品にしませうかねえ。さあこれはどうだ。今売つたのは、家へ持って帰ればすぐにこはれてしまふのだ。買つたお客さんまだ見ていらしたのですか。どうもすみません(頭を冗談に下げる)。何です。それは大形ですよ。インチもたつぷりだ。ツボめたり開いたりすると扇風器になる、まわせばセドの風車、いやあれは… &『露天研究』

《参考》

どぜうともつれる足                    添田啞蝉坊

薄暗いところで十人余りの人が馬鹿にくツつき合つて(かこ)まつている。覗いて見ると、真ン中の一人の男が、ソワ〳〵と首をのべては四方をうかゞひながら、何かコソコソと話してゐる。/「……春は花、人の心もそゞろ浮き立つ(おぼ)ろの()に、しつかりと手を取つて、もつれ合つて、こつそりとくゞる待合の格子(かうし)軒灯(けんとう)の色も(なま)めかしい、ねエあなたやの()んのかのと、四畳半の痴話(ちわ)口説(くぜつ)揚句(あげく)()てが、白魚のやうな指先に、電灯をちよいとひねつて、あとは真の闇、さてそれからは、言はずと知れた、言はぬこそ花、……あとは此の本をお持ち帰りになつて、誰にも見せずに、こつそりと、一人でお楽しみ下さい、それ、此の通り、真つ赤な……ね、分るでせう。」チラッと彼が見せる物には、明らかに赤いものともつれる白い足。と一人の男。/「エヘヘ、一つ貰つて行かう。」/それに続いて、無言の儘金を差し出す者が幾人もある。中には周りの人が居なくなるのを待つて、買つて行く者もある。いゝ事には誰もその場で開けて見るやうな不心得者はゐない。みんな(うち)へ帰つてコツソリ一人で楽しむつもりで大事にしまつて行く。/後で木の葉になるか否かは知らず、其場では確かに「アレ」に違ひなかつた。しかく彼の弁舌は、態度は、巧妙であつた。/(しか)し、彼等の此の艶麗(えんれい)無比(むひ)雄弁(いうべん)を取り囲む一群(ひとむれ)の背後には、/「フン、又やつてるな。夜中の花だらう、うれしいね。」/などゝ、(かつ)ては彼も一本を求めたのであらう、嘲笑的な言辞(ことば)を洩らしてゐる者もあつて、定めし商売がし(にく)からうとも察せられるが、群集の波は限りない。新らしい顧客がいつも彼の前にある。/「それに此の本は大変面白いです。これを買つたからつてけつして後悔することはないのです。だからギリカヘシ(買つたものを返して来ること)なんかありません」と。彼等の(うち)の一人は、其の本の内容に就いて吹聴していた。思ふに、その本を、只管(ひたすら)に「アレ」だと思ひ込んで買つたといふ周章(しうせう)さを差引けば、至極泰平な、当然な「書籍購入」といふ結果になるのであらう。&『浅草底流記』香具師の群れ

 

ちょぼくれ 

〈ちょぼくれ〉そのものは、江戸後期に願人坊主が二個の木魚を叩きながら早口で歌った幕政・時局批判の俗謡である。「ちょぼくれ」「ちょんがれ」の囃子(ことば)が挿入され、各種のちょぼくれを生み出し、庶民の共感を得ながら広まった。

【例】

願人坊主のおどけ詞章                    二世 桜田治助詞

♪ヤレどらが如来 やれ ヨウヤレ〳〵〳〵〳〵 ちよぼくれちよんがれ そも〳〵私ちが すつぺらぽんの のつぺらぽんの すつぺらぼんと ぼうずになつたいわれ因縁 聞いてもくんねえ しかも十四のその春初めて 一軒隣のそのまた隣の いつちくたつちく太右衛門どんの おんばさんとちよぼくれ 色のいの字の味を覚えて 裏のかみさん 向こうのおばさん お松さんにお竹さん 椎茸さんに干瓢さんと 触り次第に おててん枕でやつた揚句が 女郎と出かけて ヤレ〳〵畜生め そこらでやらかせ… &常磐津「うかれ坊主」

 中村富十郎演じる歌舞伎「うかれ坊主」

桜田(さくらだ)()(すけ)〔二世〕(17681829)は江戸後期の歌舞伎台本作者。「うかれ坊主」の原曲は文化八年三月、市村座で三代目坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)大切所(おおぎりしよ)作事(さごと)「七枚続花の絵姿」の七変化一場面として踊ったもの。後世、昭和四年六月に六代目尾上菊五郎が歌舞伎座公演のため清元に直している。舞台は江戸の賑わう往来。薄物を身にまとっただけの願人坊主が門前の天水桶の陰から現れ、手桶片手に踊りだす。そのとき掲出詞を口ずさむ。(しも)がかった詞を早口でまくしたて、人だかりから銭を恵んでもらう。珍妙なこの詞は、当時流行の「チョボクレ」と「まぜこぜ節」という二つの俗謡を一緒にした滑稽語りである。坊主の瓢軽(ひようきん)な踊りとあいまって、集った見物人を哄笑にさそう。往時の願人坊主や門付け芸人などは、若い時分にさんざん道楽したあげく身を持ち崩したものが少なくなかった。乞食坊主に身を落としても俗ッ気は旺盛。「うかれ坊主」は、そうした下層社会に生活する者の体臭をよく伝えている。

時務策チョホクレ        

                   上州館林在茂林寺客僧 守鶴

♪やんれやんれ抑々近来、世情の有様、語存なれども、聞いてもくんねえ、安倍が政事を行う間に、天下の凶変、三つ恐れは、嘉永年中八月八日の、大雷此方、西丸消失、禁裏炎上、神代此方、聞きも及ばぬあめりか大船、浦賀へ乗込、不幸が有やら、おろしゃか長崎、カラフト海岸、台湾を築きて、こまったもんだよ、又々凶変、いくらもありやす、宝蔵火付に、金蔵どろぼう、駿河が地震で、下田が津浪で、十月二日は、お江戸の地震で、間も無く大あれ、大坂雷火にイギリス又来て、かようの事共、有るのは尤、小人集り国家を治めりゃ災害ならんで、いたるという事昔の御人が云たじやないかい、これ〳〵安倍さん、天下を泰平、国家をゆたかに、するのは目のまえ、ぞうさもない事、御存じなければ、教えてあげよう、(中略)かような奴らが、段々くたばりゃ、天下泰平、国家は豊に、成のは目の前、今にはい勢どん並役人、天下の政事に預る小人、慈僧が土中に、古く住みたる狸じゃなけれど、終には尻尾をだすであるだろ ヤンレ引 &『旧幕府』2号

 

ちょんがれ節 ちょんがれぶし 

〈ちょんがれ節〉別に〈ちょぼくれちょんがれ〉は近世音曲の一分野の源をなす。

江戸後期に江戸で流行った〈ちょんがれ〉は、俗にワザクレ(ごと)という他愛のない口演芸であった。ちょんがれ節のほうは幕末に上方へと移り、明治に入り、三味線伴奏を付けた歌物語「浪花節」へと変身、庶民愛好の音曲となる。

その流行に刺激されて新生の東京へ逆移入。浪花節はここでも庶民演芸の人気を占めるようになる。江戸生まれちょんがれ節の、本家(ほんけ)帰りだ。例には詞の比較的短い演目「因幡小ぞう」から、さらに抄出して引くことにする。

【例】

因幡小ぞう

♪きめうてうらいどちらがによらい、てんめい六年ひのへむまとし、おゑどの町と水と大くはでらんがさはぎ、そのとき見なされ、こめのさうばをきいたら、百に三合五勺、あふら一升七百五十文で、きもがつぶれる、上から下まで御かんりやくのおふれがまはつて、大みやうかたには七五三が八はいどうふ、にじう五さいがちやつけとな、おうばのさしたる、ぎんのかんざしなつめりとなる、しゆぬりのくしがしら木となる、(中略) 其ときみなされ、いなば小ぞうは十二のおりから、人の物をただ取りたがるくまでこゝろで、かきこむしあんが、おやのてまへはかんどでござる、十四のおりにしゆざやの大小こもにつゝんで、めぐり〳〵てわが身にむくうて、ほうこうするにもうけ人ンなし、あきないするにはもとではなし、ぜひなくてぜいをあつめてどろぼうするとふけ〳〵てきりどりがうとう、金ができば上しゆうふかやか、ほうぜうしん町あたりでぢよろうかうては下ではどんちやん上ではひんしやんなけさかづきて、さゝがすぎればなんとていしゆ、よいさかなはないか、(中略)いなば小ぞうはにつこりわらひ、かづさほうしう、ひたちしもをさおうしう五十四ぐんのとうぞく、五十や七十取ッてだしてもお上のさほどにおためにもなるまい、とうぞくはくにのねづね、なんぼう取てもつきしはござらぬ、しよ万ン人さま一へんなりとも御ゑかうおたのみ申、はつつけはしらもくはんとなぞらへ、ぬき身のやりをば、しゆじやうとなぞらへ、につほんくはい国六十六ぶ、いなば小ぞうは此よをすてゝみらいのたひ立さりとはみな様あはれの物た &泥棒物浪花節冊子『因幡小ぞう』

 

トニーングリッシュ 

レディース、アンド、ジェントルマン、アンド、おとっつあん、おっかさん。グッド、イブニング、おこんばんは。ジス、イズ、ミスター、トニー谷ざんす。

昭和二十年代後半、民放ラジオ等の定番自己紹介。トニー(たに)こと大谷(おおたに)正太郎(しようたろう)(191787)はボードビリアン・司会者。キザな逆三角形の眼鏡、付けホクロにちょび髭、タキシードを身につけ、マラカスよろしく算盤を打ち振り、日本語との混血(あいのこ)英語を使って挨拶、日本中を爆笑の渦に巻き込んだ漫談家である。

彼の口をついて出る珍妙な英語は〈トニーングリッシュ〉と愛称され、はてまた「家庭の事情でありつれ」「さいざんす」「…はべれけれ」「バッカじゃなかろか」「お黙り、シャラップ」「ネチョリンコン」など面白日本語を流行させて放送界の寵児となった。

 

俄狂言 にわかきょうげん 

〈俄狂言〉とは、素人が花街の座敷や大同で演じる即席の滑稽寸劇の事、略して〈俄〉ともいう。

俄狂言は京都の花街、島原から起きたとされている。のちに「茶番」(〈口上茶番〉とは別のもの)の名で江戸吉原に移り、太鼓持らが演じ見せてから、素人芸の一角を占める。また地方にも飛び火し、博多俄のように全国的に有名になった風俗もある。

俄狂言のなかには頭にボテ(かつら)を冠り仮装しておどける「流し俄」や「乞食芝居」といった門付芸人によるものもあって、そのうち人寄せの口上もいくつか残っている。さらに、俄狂言の主流である「座敷俄」については、次の見聞記が伝えている。

女房のこしらへにて、(かん)徳利(どつくり)と猪口を持つて酒に酔うたる()入れにて、ひよろ〳〵して出て、又酒をつぎ、がぶ〳〵と呑みながらへげたれた風ざまをかし、「エエイ、アゝうまい事じや、わしやモウ何より()より酒さへ呑んでいたら御きげんで、一寸(ちよつと)出るのも銚子と盃を持つて歩くが、これを人が見ると、アゝ嫁々(かか)ははつも酔てゐる、エライ甲斐性(もん)ぢや気性者ぢや()生門(しやうもん)ぢやというてほめてくれるが、外の二つはわかつて有るけれど羅生門がかいらんテ、アゝ分つた、これが又酒(ワタナべ)(ツナ)といふのか」 &『粋の懐』

【例】

大阪俄より                                 一輪亭花咲

神社の境内であやしげなるふるまいの男女二人、神主さんが見つけよりました。これこれ、そんなところで何しとる。ハイ、氏子を増やしております。うーん、氏子を増やすのはええが、カミをそまつにするでないぞ。&『大阪俄』

博多俄より                                  井上精二

博多どんたくの三福神なア、お昼になんバ食いござるじゃろうかいと、のぞいて見たら、恵比寿さまは鯛の塩焼で、福神さまは福神漬のお茶かけ、大黒様は生大根バかじりござるとじゃもん、可愛想にそげェなもん食わんでも、ていうたら、大黒様のいわっしゃることいにゃァ、あたきゃァかまわん、大根食うて。&『博多にわか』

《参考1》

大田南畝

俄と茶番とは似て非なるもの也、俄は大坂より始まる、今曽我祭に役者のする是俄なり、ナンダ〳〵と問はれて、思ひ付の事をいふ是なり、茶番は江戸の戯場より起る、もと楽屋の三階にて茶番にあたりし役者は、いろ〳〵の工夫を思ひ付、景物をいだせしを、茶番々々といひしより、いつとなく今の戯場になれり、独狂言の身ぶりありて、その思ひ付によりて景物を出すを、茶番といふなり、今専ら都下に盛也、&俗耳(ぞくじ)鼓吹(こすい)

《参考2》

すたすた坊主                         二世 瀬川(じよ)(こう)

今も折ふし見受る者ながら、明和の初迄は数多ありて、町々をあるきものせる、そのさまあか裸にして、しでさげたる注連の如き者を腰の程に巻、大注連の如く拵たる藁の鉢巻しめ、やれ扇錫杖を持、さもいまいましくおどりものして、「すた〳〵やすた〳〵坊主の来る時は、世の中よいと申ます、とこまかせてよひとこなり、お見世も繁昌でよひとこ也、旦那もおまめでよひとこなり、とこまかせでよいとこ也」其他にもよいとこ尽しをしやべりものして、門々をおどりあるけり 

&只今御笑(ただいまのおわらい)(ぐさ)

《参考3》

乞食芝居                              喜田川守貞種々芝居ノ扮ヲ真似テ、大道ヲ行キ、別ニ一二人、銭ヲ乞フアリ。或ハ、一人ニテ芝居ヲシ、帰ニゼニ銭ヲ乞ヒ、一町限如此スルモアリ。又、大坂ニハ数人連レ来リ、巨戸ノ需ニ応ジテ、芝居一段ヲナス。狂言ハ、扮ニヨリ、其日ノ定アリ。一段ヲ為スモノ、其家ヨリ白一升銭二三百文ヲ与ウ。隣家准之テ、少ク与フ。&守貞(もりさだ)漫稿』巻六

 

漫談 まんだん 

大勢の聴衆を相手に聞かせる滑稽な口演芸。近代に入ってから発生、大道での〈啖呵売〉から発祥、やがて徳川無声、大辻司郎ら話術の達人が、、舞台やラジオなどを通して普及させた。

その全盛時を知るのには、明治のはやり唄世界で大活躍した演歌師啞蝉坊の記述が参考になる。

 異色演出による一人漫談も 

【例】

大ジメ師の漫談                             添田啞蝉坊

香具師(やし)(うち)の大ジメ師と称するもの。これは円陣に人を集める、かのコマ廻し松井源水(げんすい)の流れ只管(ひたすら)弁舌を以て商売をする。/これにはリツ(法律書) キンケン(統計表) カリス(まじなひの本) ゴエイ(英会話速修書) ノードク(処方、薬草類の表) スリク(薬類(くすりるい)) ミンサイ(催眠術、護身(ごしん)(えい)極意) バンソロ(算盤熟達法) 記憶術、行者ウチ(韓法(かんぱふ)薬草書)などがある。/一流の大ジメ師は、実に(すぐ)れた漫談家である。大きく集めた円陣の人たちを、彼の終極の目的である商品を売ってしまふ迄、決して立ち去らせる様な事をしない。/実に穿(うが)つ。其日の新聞記事でも、目の前の出来事でも、(ただ)ちにタンカ(説明、シャベルの意)の材料に消化してしまふ。笑はせる。憤慨させる。ハラハラさせる。泣かせる。感心させる。揚句の果てが(がま)(ぐち)を開けさせるのである。彼等の大道雄弁には、到底近頃の出来星漫談家の遠く及ばないところがある。/先づリツのタンカの一部を引いて見やう。伝法(でんぱふ)院の仏教伝道会堂の前の広場で、日本一の民衆法律家と自称する片岡呑海が、浅黒い頑健な相貌に、片方の耳をおさへ、太いステツキで大地を叩きつけながらやつている。

「……こないだ、本所のある工場(こうば)の職工が、腕を一本取られた。機械に食われたのだ。すぐに近所の医者に行つたがその医者が藪で手に合わん。そこで厩橋を渡つて楽山堂まで持つて来た、届く限りの手当をしたが、何しろ遠路だから途中での出血が甚だしかった為に、到頭(たうとう)気の毒にその晩死んでしまつた。泣く〳〵お通夜をしてゐるお内儀(かみ)さんの処へ工場から人がやってきた。(此の度はどうもとんだことで、()とも申し上げやうもありません。就ては後は又色々何とでもご相談申す事として、(とり)(あへ)(これ)を葬儀の費用として頂きたい。)といつて三百円持つて来た。そして紙キレを出して(之に一寸(ちよつと)受取の(はん)を押して下さい。)お内儀さんは何にも知らないからベタベタ押しちやつた。何にも知らんといふ事は情けないもんだ、到頭三百円で誤魔化されてしまつたじやないか。エヽおい、人間一匹が三百円とは何事だい。花屋敷のブルドッグだつて一頭五百円するじやアねえか。しっかりして呉れ、(いやしく)も人間一匹、黙つてたツて千円以下ツて事はないんだ。だから剣劇の看板なんか阿呆(あほ)(づら)して見上げるヒマにやア工場法でも一通り眼を通して置けといふんだよ、俺は。(と此のところ群集をニラミつける。)……法律は権利の上に眠るものを保護せず、てンだぜ。ぼんやりしてゐないで、どうして自分の当然得られる権利を獲得しないんだ。」

斯様(かやう)な文句は幾ら並べてもキリがない。そして又文字ではとうてい実感は出ない。節を付けてうたはなければいけない。音調と身振りとが必要だ。/あらゆる具体事象を捉へて面白可笑しく述べたケツを、民法刑法第××条へ持つて行つて、さて、

「大きな事を言ふ様だが我輩は民衆法律家を以て任じている。分らん事は何でも聞きたまへ。必ず諸君のお役に立つて見せる。(もつと)もここに平易に書いた我輩の法律書がある。六法全書なンてものは素人が見たつてわかりやあしない。無味乾燥だ。この本は一々実例を示して、此の場合には()うしたらいゝといふ事が教へてある。これさへあれば……。」

といふ事に落ちるのだが、古くから鳴らした呑海の法律書も、近頃は(とみ)に売行きが減じたといふ。あまりに顔が売れすぎてしまつたからだといふ。悩みは意外なところにあるものではないか。&『浅草底流記』香具師の群れ

 

三河万歳 みかわまんざい 

旧三河国(愛知県西尾市・安城市)で発祥した掛合い万歳。毎年正月になると屋敷の門前や商家の店先などで滑稽な恵方祝言を演じて見せ、鳥目を得ていた。

三河万歳の台詞(せりふ)

あら楽しやな、鶴は千年の名鳥なり。亀は万年の(よわい)を保つ。鶴にも優れ、亀にも()す、千代を経て、千代万代までも栄えくる。御年始めの(あした)には、水も若やぎ、木の芽も生く、栄ゆる富がしきりに来る、祝の者と候ひける。

 才 頭の長いオホホのホイ、エヘオホエヘオホ、誰だどなただ、ほくろくさまではないか

 太 そのお次は誰なれば

 才 お色の白い目ばちやか、グンニャリグンニャリ、誰だ、どなただ、弁財天ではないか

 太 そこで毘沙門、悋気して

 才 七福神の其の中で、弁財天を誰がほめた、オヤ、誰がほめたと一杯きげんで申す

 太 受けて悦ぶ御代なれば、歌い初めの、舞い納め、エヘ、オホ、エへオホ、ワ、ハ、ハー

 才 笑う角には福来る、遠江には富の蔵

 太 南風には、なみなみと

 才・太 千秋万々楽までも

&愛知県知多郡文化財資料『近世出かせぎの郷』より

 【例】

淫猥見世物のおどろ囃子(ばやし)

ヤレフク〳〵、それふく〳〵〳〵、ドジコ〳〵、〳〵コ。&玉晁(ぎよくちよう)叢書』早稲田大学図書館編、『見世物雑誌』うち「金玉娘」

小寺玉晁(こでらぎよくちよう)(180079)は尾張藩士。全国見世物の蒐集で好事家に知られる。見世物といえばいかがわしいものと相場がきまっているが、なかでも出典に載った「金玉娘」にいたっては、古今東西エログロ度ナンバーワンといってよい。文政六年十一月、名古屋城下大須山門の小屋に金玉娘なる見世物がかかった。右金玉の下に玉門の付いた、半陰陽(ふたなり)人間である。客に見物させるだけでなく、趣向を凝らしたオマケまで付いている。以下、出典から引いてみよう。

  女根を火吹き竹にて、見物に吹かせる見世物あり。木戸代四文にて入り、不笑(わらわず)真顔にて吹けば、何やらくるゝとやら。其囃子に、──右しばらくの内有之(これあり)候処、御停止(ごちようじ)に相成る。

その女根なるものには、火吹き竹で吹くと失笑せずにはいられない仕掛けがある。どんな仕掛けか見当は付くがここに書けない。

覗きからくり「地獄極楽」詞章より

最初はえんまの御殿なり 娑婆より落くる亡者奴がえんまの前で手をつかえ 御通しくだされえんまさん 頼めどえんまは聞き入れず 娑婆で悪事をした人は両張(りょうばり)(かがみ)に写されて 地獄のむかいは火の車(中略) 信州信濃の善光寺 屋根は八ツ(むね)作りにて 今は蓮花(れんげ)の花盛り 娑婆より落くる罪人は はすれんげの其の上で はるか向うを見渡せば 五色の雲に(うち)()りて 二十五菩薩付きそいで 正七(しようしち)(りき)や音楽で 極楽参りを致される &『今世の誠』

見世物「鳥娘」の呼込み

あれ、あの通り、顔は可愛い女の子。可愛いよ。家は代々狩人で、あまたの鳥を無慈悲にも殺生しては売り飛ばした。親の因果が子に報い、生まれもつかぬ片輪者、両手両足が鳥そっくり、英国はロンドン大学のジョージ博士も驚いた鳥娘だ。見るは法楽。見られるはあの子の因果、さあ、ただいまがいいところだ。&『東京故事物語』

見世物「一寸法師」の自分口上

もとわたしは難波の(うまれ)、住吉大明神のまをし子で、生れついての小男、やれ豆ッ粒が動くの、それ帽子が歩いて居るのと皆様から冷評(ひやか)され、(たう)(たう)家庭(うち)を勘当され、御椀(おわん)を舟に御箸(おはし)(かい)難波(なには)の浦を船出して、(中略)京の宰相(さいしやう)に抱えられ、お姫様の御気に入り、清水寺(きよみづじ)御参詣の節、大きな鬼を打つて(かか)り、鵜呑(うの)みにされたを幸ひ、御腹(おなか)の中で、腰にさしたる針の刀で、御腹中を突き廻ったので、鬼が痛くて(せき)をすると、ヒョツクリ外へ()び出した…。&『世界遊戯法大全』

 男どもで大入、昔の淫猥見世物〔蛇つかいの見世物「因果娘」絵妻表紙、歌川豊国画、文化三年〕 厚化粧した女が大きな蛇を自在に操るとのこと、好奇心もあらわに男客が入ってくる。だが、それだけではないらしい。噂によると、内股へもぐりこんだ蛇をつかみ出すため、女は裾をチラッと開き、まさぐる演出をして見せる。見物衆の卑猥な歓声が上がる……。加えて、高張り提灯に「開帳」とあるではないか。これ、女の淫行を示す俗語でもある。しかも同じ提灯に「石山寺」との文字が見える。この見世物、じつは寺の境内で興行しているのだ。拝金主義の寺では、昔からいかがわしい見世物はじめ博打場に、密会場所にと境内を貸した

《参考》

見世物                                 鴬亭金升

昔は人を馬鹿にした見世物が多くあつた。板に紅を流したのを飾つて「サア大イタチだ大イタチだ」と言ふので鼬かと思つて入つて見れば板血であつたり、又は「目が三つ有つて大きな歯の二枚有る化物だ」と言ふから何んな怪物かと覗けば下駄が置いてあるのを見て「オヤオヤ又担がれた、ひどい事をしやがる」と笑ふもあり、「うまく考へたな」と誉める人もあり、見物もノンキなもの。&『明治のおもかげ』下町と山の手

 

呼込み詞 よびこみことば 

興行場や商店などが通行人を誘致するため呼びかける文句を〈呼込み詞〉といい、これを仕事にする者を「河童(かつぱ)」と称した。

街頭商売は一にも二にも呼び込みから始まる。昔は縁日や見世物が盛んで、河童も場を得て、嘘八百や場当たりのハッタリを並べ立てる。聞いているだけで十分楽しめたものだ。今はどうだろうか。地方都市ではたまにスーパーの特売はじめパチンコ屋、ストリップ小屋などの街宣車がやってくるが、定番のテープ文句を拡声器で流すだけで、じつに味気ない。これだけはアドリブで、いささか不真面目にやらなくては様にならない。

【例】

「お千代舟」の呼び込み                    二世 瀬川如犀(せがわじよこう)

エンお千代ォ、寄つていきねいなァ、こう、ぽちや〳〵のお千代ォ、だによォ、こう、そこに立つてると、辻番から棒が出るによォ、こう、雨が降るか風が吹けばの、永久橋の下へ付けるわなァ、こう、寄つていきねいなァ、こう、ぽちや〳〵のお千代ォ &只今御笑(ただいまおわらい)(ぐさ)

*この世の地獄に身を沈めた女の絶唱を聞くようである。肌から異様な臭気が立ち上り、鼻が梅毒で欠けはじめた「ぽちや〳〵のお千代ォ」に、業を負った娼婦の必死の叫びが込められている。江戸は大川(隅田川)筋。饅頭(まんじゆう)を売る名目で小舟に乗り、その実相手の船に乗り移って春をひさぐ「(ふな)饅頭(まんじゆう)」という私娼がいた。その一群の中にお千代という美女がいて有名になり、彼女の名が舟売女(ふなばいた)の総称にまでなった。明和頃お千代舟の相場は三二文程度、夜鷹よりいくらかましな下饅頭売りの、最下級娼婦であった。古川柳に、

  お千代舟沖までこぐは馴染なり

とあり、商売気質を示している。大川は中洲脇の永久橋 (永代橋)辺から客を拾い、中州一周で事を済ますのが定番コース。これも馴染客だと船頭に沖までこがせて時間延長し、たっぷりサービスしたという。

  お千代舟苫をしき寝のかぢ枕

両国のさんざめき                              丹波助之丞

▲舟か〳〵塩どめ新ばし五百らかんのり合イ▲めく〳〵めくらには何もごせうとおぼしめし▲こふばしいあめ〳〵▲一ト山八もん〳〵▲おごしやうに壱せん下さりませう▲南無妙法れんげきやう〳〵きでもかねでもみゝかきが壱文▲はなしうなぎ〳〵▲さんげ〳〵六こん大せうふどう明王▲おかけなさい両国名物よねまんぢうやき立さとうもち〳〵▲名代の(ばい)(やう)(かう)ばいはむめやうははやしのふかうはにおうとかきまして御ぞんじのお茶ぐわし壱袋が代が四文▲本山瓜〳〵▲とうもろこしやき立〳〵▲今が日高川じや此次はすがはらひやうばんのわ是じや〳〵太鼓三味せんちやるめら入レかるわざのはやしあり▲伊勢大神宮さまの御利生の次第 &『両国栞』

其の声雀に似たり                               松崎天民

其十二階下に来た最初の夜、彼は私娼窟の関門と云ふべき八百屋横丁から、広い通りの貝殻横丁に出て、更に国技新道桜新道を経て、五区の芸妓屋新道に近い都新道を一周し、懐中寒いのに金自由新道の狭い暗路を辿って、十字街の猿之助横丁に立つた。/同じ十二階下と云つても、上中下の別は家にもある、雇女(でかた)にもある、これだけ歩くに二時間を要して、呼ばれた家の前には立止まりもし、中に入つて茶を飲んだりもした。「新聞縦覧所」とした街頭は、道行く人にも夫と判る、梅村、秋元、春の家など。

「ちよいと君、寄り給へ、洋服君」

「あら、おまはりさんの萩原さん」

「お髭さん、お髭の旦那、ちよいとウ」

「眼鏡の方、ビールの看板、広告の看板」

「貴君、お入りなさいよ、達磨さん」

「高帽の方、丸い方、すました方よウ」

「お遊びなさいよ、ちよいと、洋杖(ステツキ)の方」

「親分、あら親分、大丸組の親分てば」

 (中略)

「お寄んなさいな、ちよいと、ラブしてよ」

「ちよいと、ちよいと、ジゴマの旦那」

彼は十二階下を一周している間に、白粉の女からこんな風に呼止められた。制服の巡査を嫌って、其の佩剣の響と靴の音とを、何ものより怯ぢ恐れて居る癖に、普通の男と見れば、彼等は安心して、こんな言葉を妙な語調(アクセント)で浴びせ掛ける。其の声、宛然(さながら)雀の如う。

&『淪落の女』

 

落語のオチ らくごのおち 

落語ではたいてい、話の結末に思わずニヤリとさせられる締めくくりが用意されている。これを〈落語の落〉とか「サゲ」とも称し、安楽庵策伝の著『醒睡笑』に源を発している。

落語の落は言葉遊びである。そして落の設定しだいで、咄全体を活かしも殺しもする。

 浅草演芸ホール 

古典落語では次の一二種類の落が使われたといわれている。もっとも現代落語では七~八種類、というのが定説だが。

  地口落──ことばの御通性で洒落たもので、すぐにそれとわかる。全体に占める割合も大きい。

  考え落──いわゆる考え物を採り入れた落で、おかしみがジワリとやってくる。

  廻り落──話が一巡りしてから振り出しに戻る。独特の面白味が発揮できる。

  逆さ落──話の筋がドンデン返しになって結びに到る。意外性にものをいわせる。

  とたん落──サゲの一言で咄をまとめてしまう。文字通り「仕舞落」ともいう。

  ぶっつけ落──対話形式の咄で、お互いに相手の言う意味を取り違えながら、双方の意見が衝突するおかしみを演出。

  見立落──物事(ネタ)をガラリ異なったものに見立てたり、見立違いにより生じるおかしさを伝える。

  トントン落──話の筋を調子よくトントン拍子に運び、あっさり終わらせてしまうもの。

  梯子(はしご)落──噺の順序を段々に数を踏みながらジンワリ終わらせてゆく。

  仕込落──前もってネタを出しておき、こじ付けなどを使って落とす。

  仕草落──口で落とさずに、格好や仕草で結ぶ。寄席かテレビでないと伝わらない。

  間抜落──あえて間の抜けた落を使い、たわけぶりを誇張させる。

【例】

荻生まとめ

たがや(地口落)

花火見物でごった返す両国橋で、武士とたがや(桶屋)が斬り合いを始めた。たがやの一振りでさむらいの首が中天へ飛ぶと、野次馬が「上がった上がった、たがやーッ」

*花火師への見物人の掛声「玉屋ッ」に引っ掛けて落としてある。

疝気の虫(考え落)

疝気持ちの主人、夢に見た疝気の虫が「唐辛子が嫌い」というのを聞く。亭主に替わって女房がそばを食べると、疝気の虫は女房の腹の中へ。そこへ唐辛子水が入り、虫は「それ逃げろ。いつもの所(亭主の金玉)へ隠れろ」とおりると、体内から外へピョいと出てしまった。

*下ネタを巧みに使い笑いを誘導。

粗忽(そこつ)長屋(間抜落)

無精で粗忽者の熊さん、自分の死骸を引き取りに行って首をかしげてしまう。「ハテこの死人は俺に違ェねえが、抱いてる俺はいったい誰だろう」

初天神(仕込落)

金坊連れで天神詣での親父、計略にかかってアメ、凧、団子を買わされる。凧揚げに夢中の親父が傍から叱られると、金坊「堪忍してやってください。なにぶん大人のやったことですから」

落のつかない咄も

「黄金餅」のように「…黄金餅由来の一席でございます」と講談よろしく、落なしの構えで結ぶものもある。

春団治の臨終(トリ)の一席

これでイガン免職や。

&『にっぽん奇行・奇才逸話事典』

(かつら)春団(はるだん)()(1881~1934)は大阪の落語家。平成八年「上方演芸の殿堂」入り。春団治五十四歳、胃がんで死す。落語家らしく極め付きのオチで成仏した。落語家という仕事師、人を笑わせるのが商売である。突拍子もない迷言漫語が付いて回り、それをまたネタに飯を食っている。言わせてもらえば、どこまでが本音なのか皆目わからない。が、春団治の死に際の一言は駄洒落なんてものではない。オチも通り越し、プロとしての鬼気迫る気迫すら感じる。つつしんで頂戴に及んだ。この人、芸達者なのはもちろんだが、無茶のほうでも鳴らした。寄席をサボって女と待合にシケこんだり、喧嘩の相手がよく見たら師匠(桂文治)だったなんて失敗もやらかしている。大正五年、妻子を捨ててさる金満家の後家のもとに走った。その一件がスキャンダルになると、(くだり)(にわか)噺に仕立ててレコードに吹き込みヒットさせている。憎めないしたたかさをもった芸人であった。

《参考1》

むかしは講釈を太平記読と云、又落語を軽口おどけばなしといへり、此二種多くは野田あるひは、葭簀張似て人を招きたり、又聴衆は腰掛台を据、みな此台に掛て聞たり、席料座料とはいはず、入口に茶代八文、または拾文、莨盆は四文なり、茶は何盃にても無代なり、若土瓶をとれば代六文といふ、&『宝暦見聞集』

《参考2》

鹿野武左衛門仕形話                         山東京伝元禄の頃、江戸に座敷仕方ばなしといふ事おこなはる、長谷川町の鹿野武左衛門といふ者上手也、鹿の巻筆といふ笑話本五冊をあらはす、横山町三丁目休慶、中橋伽羅小左衛門、同所伽羅四郎斎など、みな其事に名あり &『近世奇跡考』巻二

 

浪曲の語調 ろうきょくのごちょう 

浪曲または浪花節(なにわぶし)は、テレビが茶の間に普及するまでの時代、大衆演芸の花形であった。

浪曲師は「一(こえ)、二(ふし)、三啖呵(たんか)」の三拍子が揃わないと専業としてやっていけない。以下に例示の師匠たちは、その点三拍子揃いの名人といわれた一流芸人であったし、「米若の佐渡情話」「三門(みかど)の観音経」のように、ピッタリ決まった持ち芸(看板演目(だしもの))をもっていた。

肉声を聞くことがかなわなくなった今日、かつての名調子、個性的な語調は、CDの曲詞や台詞でしか偲べないのが残念である。

 往時の名浪曲師、天中軒雲右衛門の音盤広告 雲右衛門は往時の名浪花節語りとして天下に名を知らしめた。

【例】

浮れ節(浪花節の旧称で、演目は未詳)

コリヤヤイ鈍太郎、汝は全体義理知らず、いつぞや内へ来た時に、旦那一生の御願ひでござります、二三升御米を貸して下さらば、直に算用致しますと、四升らしう云ふ故に、貸してやつたら五升にもならうかと、貸してやつたら六升な目に逢はしたなあ、七八置いても今九升、全体汝は一斗頃まで待すのぢや、此様に(わせ)をかゝして、催促させる銭ぢやない、中手も入れず奥手らしく、ぬかす奴と催促しられて是非もなく(からだ)一面五体づくめの断にて、申し米屋の旦那さま、貴君の様にサウ天窓(あたま)からガミ〳〵トおつしやらいでも、(わげ)の分つた噺ぢや者額や眉毛の借りではなし、現在眼の先に見えました借銭の義でござります、… &『西京繁昌記』

神崎東下り                                桃中軒雲右衛門

♪内蔵に別れて神崎は/先ず山科を後にみて/東路さして下る(みち)/しばし休ろう逢坂の/関の戸ざしもいつしかに/明けゆく雲に霞む山/都路遠くはなれ行く/身は気散じな独り旅/変る名所が話の友よ…

&CD解説『浪花節の黄金時代』上、日本コロムビア

佐倉義民伝                                初代・京山小円

喜右衛門のうしろへ廻る甚兵衛が 櫂振り上げて打ちおろせば 喜右衛門ドット雪中へ 直ぐに親父はかけ寄って、宗吾の手を獲り引き起こし/「旦那様」/「おゝ親爺か」/「旦那様 大丈夫でござりますか あとかまわんとはようおいでなさりませ」/♪両の手 合わし よう〳〵と/雪打ち払い行く姿/のび上がりたる甚兵衛が…