古典から現代まで、文学・文芸が展開した言葉遊びの華麗な世界へ、どうぞ

23 文芸遊戯系 ぶんげいゆうぎけ

 

文学の芸文、という意味での文芸は、言語遊戯とは常に表裏一体の関係を保ちながら発展してきた。どの分野の文芸、どの作者の手になる作品でも、切口には言葉遊びが姿を現わす。遊びの範囲もじつに多様で修辞や弄辞が駆使され、作品に生彩を与えている。

文芸作品はまた、ある種の言語遊戯を生む母体だ。たとえば和歌は〈折句〉を生み出し、狂言は〈早口〉を成らせた。主幹文芸から派生し枝葉となっている各種の遊戯も、多くは文芸を媒介に育った。さらに、原始形態の遊戯を磨いて珠玉となしたのも文芸である。

以上のような視点で〈文芸遊戯〉を見つめなおすことで、鑑賞がより味わい深いものになろう。

 

 

23 文芸遊戯系の目録(五十音順)

 

異風歌

異風歌〔根本歌〕

異風歌〔字余り歌〕

異風歌〔字足らず歌〕

異風歌〔序歌〕

異風歌〔女装歌〕

異風歌〔無心所著歌〕

異風歌〔無濁音歌〕

異風歌〔用外詞歌〕

歌合の遊び

歌歌留多

御伽草子の遊び

街歌

歌舞伎の科白

歌文

漢語爛漫

漢詩迷訳

紀行の遊び

戯詩

偽書

狂歌

狂歌〔三嘆詠〕

狂歌〔題詠〕

狂歌文

狂詩

狂文

形容並べ

戯文

古文擬き

故事譚

滑稽短歌

滑稽道歌

滑稽俳句

滑稽本

狐狸譚

西鶴の節用文学

酒戦記

情痴の連歌

浄瑠璃文

随筆の遊び

絶句の風流

川柳

川柳〔穿ち〕

川柳〔御当地句〕

俗文

大団遊

付合

でたらめ詩

日記の遊び

ネオ・ジャパニーズ

俳画

俳諧の連歌

俳文

履付へなぶり

美文調

百物語

風土記の遊文

文学碑漫歩

文体模写

ぼかし

漫文

道行

問答歌

謡曲の重ネ

柳句画解

緑雨の「新体詩見本」

連句

和讃

 

 

異風歌 いふうか

〈異風歌〉とは、歌道の規範からみて正常でない歌体の和歌をさす。この類は歌学にない用語で、筆者が便宜的に付けた呼称である。

異風歌はいってみれば異端の詠なのだが、むしろ歌人の個性の表れと前向きに解釈したい。歌体も一様でないことから、多分に遊戯性が加わり、「やまとうた」の世界を程よく賑わせている。

異風歌はまた一部の狂歌にも同様傾向が見受けられ、重なり合う部分が少なくないが、追って和歌の主だった異風歌を形態ごとに分けて掲げることにする。

《参考》

藤原(きん)(とう)

上品上/これは言葉たへにして、余りに心さへある也、

  ほの〴〵とあかしの浦のあさ霧にしまがくれ行船をしぞ思ふ

春たつといふばかりにやみよしのゝ山も霞てけさはみゆらん

上品中/ほどうるはしくて、あまりの心あるなり、

  み山にはあられ降らし外山なるまさきのかづら色づきにけり

  あふさかの関のし水にかげみえて今やひくらむ望月の駒

上品下/こゝろふかゝらねども、おもしろき所あるなり、

  世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

  望月のこま引わたす音すなりせたのながみち橋もとゞろに

中品上/心ことばとゞこほらずして、おもしろきなり、

  たちとまり見てを渡らん紅葉ばは雨とふるとも水はまさらじ

  かのをかに草かるおのこなはをなみねるやねりそのくだけてぞ思

中品中/すぐれたることもなく、わろきところもなくて、あるべきさまをしれるなり、

  春きぬと人はいへどもうぐひすのなかぬかぎりはあらじとぞ思

  いにしとしねこじてうへしわが宿の若木の桜はな咲にけり

中品下/すこし思ひたるところあるなり、

  きのふこそさなへとりしかいつのまにいなばそよぎて秋風ぞ吹

  我をもふ人を思はぬむくひにやわがおもふ人の我を思はぬ

下品上/わずかにひとふしある也

  吹からに野べの草木のしほるればむべ山風を嵐といふ覧

  あらしほのみつのしほあひにやくしほのからくも我は老にけるかな

下品中/ことのこゝろむげにしらぬにもあらず

  今よりはうへてだにみじ花すゝきほに出る秋はわびしかり鳧

  わがこまははやくゆきこせ松浦山まつらんいもを行てはやみむ

下品下/ことばとゞこほりて、おかしき所なきなり

  よの中のうきたびごとに身をなげばひとひにちたび我やしにせん

  あづさ弓ひきみひかずみこずばこずこばこそ花をこずばこはいかに

&『九品和歌』

 

異風歌〔根本歌〕 いふうか/こんぽん

和歌の体をなすもののうち、三十一字五句の中で一句だけ読まずに残しておく手法を〈根本歌〉〈混本歌〉という。ただし根本歌そのものの解釈がいくつか異なったものに分かれている。そこで古典から二つの見解を引いて代弁してもらうことにする。

《参考1》

藤原基俊

混本歌といふものあり、例の三十一文字の歌の中に、今一句をよまざる也、証歌云、

  朝顔の夕風またずちりやすき花の名ぞかし

是は、末の七文字をよまざる也、

  岩のうへにねざす松が枝とのみ思ふ心は有物を

これは、中の七もじの、ともじあまりひともじありて、はての七文字の句のなきなり、是もひとつの姿なり、&『悦目抄』巻一

《参考2》

                                           本居宣長

古今真名序に、根本といふ歌の体をあげられたるは、思ふにこれは本に混ずるといふなれば、旋頭歌(和歌で五七七・五七七と片歌のみを反復した六句体)の亦の名なるべし、別にこの体にあるにはあらじ、然るに古今の叙には、別の一体と心得ていへるか、又は長歌短歌といふ四字の対にせむために、旋頭を旋頭根本とかけるか、いづれにまれ別に此体はあるまじくなん、&『玉勝間』巻十四

本居宣長像

 

異風歌〔字余り歌〕 いふうか/じあまりうた 

定型歌で、各句五音であるを六音以上に、七音であるべきを八音以上にするなど、所定音数を超えた作を〈字余り歌〉といっている。

字余り歌では当然、許容限度が問題になるのに、いまだ明確な決まりはない。管見するところ、字余りは韻律美を破壊する第一歩、歌人は力量不足を恥じ自省してしかるべきなのに、意外に無神経に看過されている。ことに現代短歌檀に蔓延する字余り、韻律無視の弊風はなにをかいわんや。

【例】

三十六字歌(五字余り)

二条院讃岐

▽ありそ海の浪まかき分てかづくあまのいきもつきあへず物をこそ思へ &『八雲御抄』

三十五字歌(四字余り)

よみ人しらず

▽我ばかり物思ふ人は又もあらじとおもへば水の下にもありけり &『伊勢物語』

三十四字歌(三字余り)

よみ人しらず

▽わたつうみの奥の塩あひに浮かぶあはの消ぬ物からよる方もなし &『古今和歌集』巻十七

                                                     信明

▽ほの〴〵と有明の月の月影に紅葉吹おろす山おろしの風 &『新古今和歌集』巻六

第一句七字歌(みなし五字「さもあらばあれ」入り)              

経信

▽さもあらばあれ暮行春も雲の上に散る事知らぬ花し匂はゞ &『新古今和歌集』巻十六

定家

▽さもあらばあれなのみながらの橋柱くちずば今の人も忍ばじ &『拾遺愚草』

*この両詠、第一句五字に慣用「さもあらばあれ」を当てた。七音ではあるが五字句として扱う。

 歌聖とうたわれた藤原定家

《参考》

三十六言の歌                                             斉藤彦麿師(本居)宣長翁の常にもいはれ、物にも記されたる、三十一言の歌、一言あまりても耳だち聞きぐるしきを、阿、伊、宇、衣、袁にて、一言にても、変りたるは、聞きぐるしからずとなり、そは喉音の軽きなれば、いづれの音にも、韻は必、阿、伊、宇、衣、袁の五言に限りたれど、その中に衣は、いさゝかおもき故に、歌には六八言にはよみがたし、西行法師の、風になびくふじの烟の空にきえて云々と読みし初句の耳だつ事は更なり、三句も衣は耳だてり、二条院讃岐の、わたつうみの沖つ汐あひにかづくあまのいきも月あへず物をこそ思へ、定家卿の、忘れぬらんうらめしとおもひおもふとても、待つべきにあらずいはんともいはじ、これらは毎句に余りて、三十六言の歌なれど、耳たゝず、聞きぐるしからず、定まりたる格は犯されぬもの也 

&傍廂(かたびさし)』後篇

 

異風歌〔字足らず歌〕 いふうか/じたらずうた 

定型歌で全体が所定の字数に満たないものを〈字足らず歌〉あるいは〈字不足歌〉という。字足らずは論外の禁じ手といってよく、さすがに作例もまれである。

宮 柊二

 群がれる蝌蚪の卵に春日さす生まれたければ生まれてみよ

*結句七文字のところ六字で終わっている。  

《参考》

柴屋軒宗長

宗碩法師(月村斎)歌よみて文にあり、中の七もじふたもじたらず都には三十もじ()一もじの二文字たらぬ歌もありけり

と申のぼせ侍り  &『宗長手記』

 

異風歌〔序歌〕 いふうか/じょか 

和歌において、歌意を導き出すために前置きとして用いるものを「序詞」(ジョシともジョコトバとも)といい、この序詞を取り込んだ歌を〈序歌〉という。序歌に用いられる序詞は三~四句から成り、枕詞の場合の一~二句に比べて長く、この長短で当否を判断する。

なお序歌には、最初に序の役目で詠じるもの、という別義もある。つまり二義にまたがるわけで、どちらに相当するかは位置づけや歌容から判断する。

【例】

序歌二首

持統天皇

▽大伴の美津(みつの)(はま)なる忘れ貝家なる妹を忘れておもへや &『万葉集』巻一

 *下二句の導きに上三句を用いてある。

よみ人しらず

▽ほとゝきす鳴くやさ月のあやめ草あやめもしらぬ恋もするかな &『古今和歌集』巻十一

 *上三句は比喩を踏まえた誘導、下二句への序歌の役割を果たしている。

《参考》            

近藤芳樹

万葉集に、ものゝふのさつやたばさみ立むかひ射るまとかたは見るにさやけし、とあるは、円方は見るにさやけしのみに、うたのこゝろありて、上の十九字は、まとゝいふこといはんがためにつくりかまへたる詞なり、これを序歌といふなり、これのみならず、万葉古今のうちにいとおほし、江戸の仲田顕忠がこひのうたに、すみだ川洲にゐる鳥のしほみてばせんかたもなくたゝうきな哉、結句の七もじばかりにて、、恋の意になれり、めづらしき序歌なれば、ついでにいだしつ、 &寄居歌談(ごうなのうたがたり)』巻二

 

異風歌〔女装歌〕 いふうか/じょそうか

太古は女尊男卑の傾向が強かった。。そうした思想の影響を受け、平安時代には女性崇拝の残影が濃かった。ことに花鳥風月や恋だの情事に明け暮れていた王朝の軟弱な男たちにその傾向が目立つ。

紀貫之などは『土佐日記』において女性仮託の仮名書き歌行脚を書いているほどで、当然、〈女装歌〉と名付けるところの和歌にも女装(をみななり)が現れている。女装歌、とどのつまりは自身を意識的に女に見立て、恋歌等を作るための方便であるともいえる。

紀貫之像

【例】

有名歌人の女装歌

鏡 皇女

▽秋山の樹下隠(このしたがく)りゆく水の(あれ)こそ益さめ御念(みおも)ひよりは &『万葉集』巻四

 *この一首は性転換願望の男某が皇女に仮託して詠んだもの。

貫之

▽都出でて君にあはむとこしものをこしかひもなく別れぬるかな &『土佐日記』承平四年十二月二十六日、初出歌

わづらひ                                                            野鉄幹

▽くちをしく殿(との)の牡丹は葉になりぬ君例ならずおはしけるほど &家集『紫』

 

異風歌〔無心所著歌〕 いふうか/むしんしょじゃくか 

和歌において、一句ごとにとりとめのない言葉をあえて使い、これらを組み合わせわざと意味をなさない歌に作ったものを〈無心所著歌〉という。無心所著(むしんしよじやく)は古語でいう「秘密語(ささめごと)」あるいは「無喘言(あとなしごと)」の意味を含み、そうした歌であることから「心の()く所無き歌」という解釈がとられている。

『万葉集』巻十六には例示二首の無心所著歌が収められているが、詠者の大舎人(おおとねり)安倍(あべの)()臣子(そみのこ)祖父(おじ)は、主君の「意味無き歌を詠んだ者には銭と(きぬ)を取らせよう」という求めに応じ即興で作った。おかげで銭二千文と帛を頂戴したという。この歌は完全に遊戯歌であり、支離滅裂な表現をわざわざ弄して奇矯ぶりを発揮している。

無心所著歌は万葉以後も詠み継がれ、現代なお散見できる。

 耳がなく無心のまま口を大きく開けて歌

を歌っている偶像群 

【例】

万葉歌より     大舎人安倍朝臣子祖父

我妹子(わぎもこ)(ひたひ)()ふる双六(すごろく)(ことひ)の牛の(くら)の上の(かさ)

▽我が背子(せこ)(たふ)(さき)にする(つぶれ)(いし)の吉野の山

 に水魚(ひを)(さが)れる &『万葉集』巻十六

 *犢鼻=「ふんどし」の古語。詞書(ことばがき)に「無心所著(むしんしよじやく)の歌二首」とある。無心所著とは、たがいに無関係の語同士を結び付けて詠み意図的に意味を通じなくする技法をいう。言語遊戯の一種だ。現代語訳で「女房の額に生えた双六盤の牡牛の鞍の上の腫れもの」だが、意味はさっぱりである。おぞましいニュアンスの妖歌、といったところか。西欧でもこれに類するfatrasie(ファトラジー)と称する言語遊戯が存在する。たとえば次の例は、13世紀にフランスで流行した作品である(作者・訳者とも未詳)

   死んだ鮭が/星のめぐりを/罠で捕らえたとき/角笛の音が/雷の心臓を/酢につけて食べた

一見して支離滅裂な語句を意識的に弄し、ナンセンス振りを発揮している。万葉巻十六には戯笑歌はじめいささか不真面目な雑歌が収められ、目を楽しませてくれる。たとえば、

一二の目のみにはあらず五六三四(ごろむさし)さへありけり双六の(さへ) 

奈良時代後期の詠         (ひろ)(たり)

▽春日山峰漕ぐ舟の薬師寺の淡路の島の(からすき)のへら &()経標式(きようひようしき)

『源氏物語』中の贈答歌より 

紫式部

▽草わかみひたちの浦のいかが崎いかであひ見ん田子の浦波/近江の君

▽ひたちなるするがの海の須磨の浦に浪立ち出でよ箱崎の松/常夏 

&『源氏物語』

近代の「擬似無心所著歌」

何方がどう歟解らぬ歌        糸車詠

▽我が家のうしろも前もいしやなりたくみなるかやくす師なるかや

▽此人は猫の好きなる人と云ふ猫をすくのか猫が好くのか 

&『昆石雑録』うち「こゝろの俤」

《参考》

岡西惟中

  我恋は障子のひつて峯の松火打袋に鶯のこゑ

このうたの意は、恋慕の一念あれども、目前の障子の鐶鉤とうちみて、やがて峯の松ときゝ過ぎ、火打袋のこち〳〵を、いかにや〳〵とおもふうちに、そのまゝ鶯のこゑなりけりとうつりし念頭、一点もとゞこほらず、当下一念の狂体なり &『消閑雑記』上

 

異風歌〔無濁音歌〕 いふうか/むだくおんか 

全体を歌体構成上意図的に清音だけで詠んだ歌を〈無濁音歌〉または〈濁る音なき歌〉という。言い換えると、濁点を付けようにも付けられない清音文字だけで詠んだ歌。したがって単に表記上の慣例に従い、濁音を清音のみに変えた旧体歌は無濁音歌とはいわない。

【例】

無濁音歌二首

在原元方

▽音羽山おとにきゝつつ相坂の関のこなたに年をふるかな

よみ人しらず

▽こむ世にもはやなりなゝむむめのまへにつれなき人を昔と思はむ

&『古今和歌集』巻十一

 

異風歌〔用外詞歌〕 いふうか/ようがいことばのうた 

和歌で使われる言葉は原則として和語であり、それも雅語が中心という不文律がある。しかし使用語の乱脈が目立つ現代短歌はいざ知らず、古典においても異端番外に思える詞(忌詞や卑俗語など)を用いて作った歌が少なからずある。

この類に相当する適語はまだないが、仮に〈用外詞歌〉としておく。とりとめのない用語であるが、五首の例を引き、概念想起の一助としたい。

【例】

万葉歌二首

戯嗤僧歌一首                                よみ人しらず

▽法師らがひげのそり(ぐひ)に馬つなぎ痛くな引きそ(ほふし)なからん

よみ人しらず

(だん)(をち)やしかもなひしそてこらわが課役(えだち)はたらば(なれ)もなからん

&『万葉集』巻十六

古今歌一首

題しらず                                     よみ人しらず

▽梅の花見にこそきつれ(うぐひす)のひとくひとくといとひしもをる &『古今和歌集』巻十九

新古今歌一首

比叡山中堂建立の時                             伝教大師

阿耨多羅(あどうたら)三貘三(さんみやくさん)菩提(ぼだい)の仏たち我立そ

 まに冥加あらせたまへ &『新古今和

 歌集』巻二十

明治の歌一首

安房歌 安房の方言を入れて                            服部躬治

▽キシ雲の低く垂れたるあかときをシャンスヤナ行く呼べど答へ(キシ雲は雨雲。シャンスは情人。ヤナは畑の中道) &家集『迦具土』

《参考1》

                                 俊頼口述

うたはかなの物なれば、かゝれざらんこと、ことばのこわからんをばよむまじけれど、ふるきうたにあまたきこゆ、行基菩薩のうたに

  りやうせんのさかのみまへにちぎりしてしんによくちせずあひみつるかな

ばらもんそうじやうの返し、

  かびらえにともにちぎりしかひありてもんずのみかほあひみつるかな(中略)

またたかをかのしんわう、こうぼうだいしによせ給うた、

  いふならくならくのそこにいりぬればせつりもすだもかはらざりけり

お返し大師、

  かくばかりたるまのしれるきみなればたゝきやまてはいたるなりけり

&『俊頼口伝』

《参考2》                            藤原清輔

第四靜慮歌ハ、或人恵亮和尚歌ト云々、而如右大臣(藤原頼宗)集ハ、山ナル僧、

  さくら花第四靜慮にさかせばや風災(フウサイ)なくてちらじとおもへば

返事大臣、

  さくらばな第四靜慮にさけりとも眼識(ゲンシキ)なくていかゞ縁ぜむ

(中略)此歌等ノ心ハ色界ニハ、凡有十八天也、其中ノ上ノ九天ヲ第四静慮トハ云ナリ &『袋草紙』巻四

《参考3》

清岩正徹

ゆふ日かげの残れる山陰に、日ぐらしの鳴つるほど、おもしろきものはなきなり、日ぐらしの鳴ゆふかげのやまとなでしこといひたるやうに転ずる事、大事のものなり、日ぐらしの鳴ゆふかげとあれば、末には雲とも日かげともこそいふべきに、大和なでしこと転じたる事、ちとつかぬやうなれども、おもしろく転じたるなり、定家、

  蘭省の花のにしきの俤にいほりかなしき秋のむら雨

かく転じたるなり、これは蘭省花時錦帳下、盧山雨夜草菴中の詩のこゝろなり、蘭省錦帳は御所などの事也、&『徹書記物語』下

 

歌合の遊び うたあわせのあそび 

歌合は、片人(かたうど)(歌人)が左右に別れ詠じた短歌をそれぞれ一首ずつ(つがい)とし優劣を競い合う催しである。平安貴族社会での社交競技であり、闘牛、競馬(くらべうま)鶯合(うぐいすあわせ)香合(こうたき)などの消閑(ひまつぶし)道楽と同様に、詠歌をとおし集団で愉しんだ娯楽にほかならない。

歌合最古の記録は、在原行平(ゆきひら)(818893、業平の兄)宅で行われた「在民部卿家歌合」(885)とされている。ほかに「寛平御時后宮(きさいのみや)歌合」(九世紀末)、「亭子(ていしの)(いん)歌合」(913)、「天徳内裏歌合」(960)などが有名である。

平安時代の歌合は、各種物合(ものあわせ)からの派生だけに、詠風に遊興気分が濃くにじみ出ている。後の世、連歌を生み出すことになる母胎としての資質が備わっていたといえる

天徳内裏歌合の模様〔村上天皇主催、清涼殿にて

【例】

亭子院女郎花合(をみなへしあはせ)より

▽くさがくれあきすぎぬべきをみなへしにほひゆえにやまづみえぬらむ(左、一番歌)

▽あらかねのつちのしたにてあきへしはけふのうらてをまつをみなへし(右、二番歌)

 *亭子院=宇多上皇。昌泰元(八九八)年の開催。

長久元年五月六日斎宮良子親王貝合より

▽たづねくるはるのしるしやこゝならむむべもかをれる梅のはながひ(十三番歌、梅の花貝)

▽ともすればこひしきかたの名におへるみやこがひをぞまづひろひつる(十五番歌、都貝)

天喜三年五月三日六条斎院禖子内親王物語歌合より

左  打つ墨縄の大将    少将君

▽我ながらいかにまどへるこゝろぞとちぎりむすぶのかみにとはばや(七番歌)

右  淀の沢水          甲 斐

▽しづのをのよどのなりけるあやめぐさおほみやびとのつまとたのむよ(八番歌)

康和四年閏五月二日、同七日内裏艶書歌合より

             右京大夫俊頼

▽数ならで世に住の江のみをつくしいつを待つともなき身成りけり(十五番歌)

返し                    中宮上総

▽ながれてもあせはたえじ(すみ)の江の身をつくしても朽ちはてななむ

さかづき歌合(判者は藤原俊成、建久四年成)

(十三番  三月三日)

                    顕  昭

▽さかづきの流につけて(から)人の船乗(ふなの)りすなるけふをしぞ思

 右          中 宮 権 大 夫

▽ゆく水に(うか)ぶる花のさか月や(なが)れての()のためしなるらん

(十四番) 

 左  勝        定 家 朝 臣

(から)人の跡を(つた)ふるさかづきの浪にしたがふけふも()にけり

 右            家  隆

()へをきし(しづ)(こころ)は桃の花弥生(やよひ)のけふぞ()るべかりける

(十五番)

 左          有 家 朝 臣

▽けふといへば岩()によどむ盃を()たぬ空まで花に()ふらん

 右            寂  蓮

▽花の色は入日を(のこ)す木のもとに春も()れゆく三()月の空

(十六番)

 左  持           季 経 

(なが)()岩間(いはま)をくだる盃はさして誰にと見えずも有るかな

 右           経 家 卿

▽岩()()(なが)れもやらぬさかづきは心ざせどもかひなかりけり 

(十七番)

  勝                 女   房

()る花をけふのまとゐの光にて波()にめぐる春のさか月

 右          隆 信 朝 臣

岩間(いはま)より(なが)れてくだす盃に花の色さヘ(うか)ぶけふかな

&『六百番歌合』春下

 

歌歌留多 うたがるた 

カルタ遊びに用いる遊戯具の一つ。小倉百人一首など古歌を百首集成して作られている。読み札と絵札があり、競技方法が定められていて、今ではあまり見られない正月の風物詩になっている。

よく知られた『小倉百人一首』の場合、嘉禎元 (1235)年に藤原定家が京都嵯峨小倉山の別荘の障子色紙に書き張りしたのが始まり。小倉百人一首は単に歌歌留多にとどまらず、後世幾多の捩り歌が作られるなど言語遊戯の素材でも注目されている。

小倉百人一首〔現代複製品〕

【例】

小倉百人一首うち十番まで抄出

一 天智天皇         (後撰集)

あきのたの かりほのいほの とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ

二 持統天皇        (新古今)

はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほすてふ あまのかぐやま

三 柿本人麻呂        (後撰集)

あしびきの やまどりのをの しだりをの ながながしよを ひとりかもねむ

四 山部赤人        (新古今集)

たごのうらに うちいでてみれば しろたへの ふじのたかねに ゆきはふりつつ

五 猿丸太夫         (古今集)

おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき

六 中納言家持       (新古今)

かささぎの わたせるはしに おくしもの しろきをみれば よぞふけにける

七 安倍仲麿         (古今集)

あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも

八 喜撰法師         (古今)

わがいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうぢやまと ひとはいふなり

九 小野小町         (古今集)

はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに

十 蝉丸           (後撰集)

これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき

&『練習用 小倉百人一首』田村将軍堂製、昭和五十六年改訂六版より

*小倉百人一首でも、種類によっては歌番の順や表記の異なるものがある。

 

御伽草子の遊び おとぎそうしのあそび 

わが国最古の物語とされている『竹取物語』は平安初期、、9世紀の成立である。

ときすでに王朝文学が蕾を膨らませ、言葉遊びも斬新な遊芸の一つに加えられつつあった。御伽草子においても例外ではない。部分抄出に伴う舌足らずな点は否めないが、御伽草子が語る遊びの一端を垣間見てみよう。

【例】

男達の求婚

世界の(をのこ)、あてなるも、(いやし)しきも、いかでこのかぐや姫を得てしかな、見てしかなと、音に聞きめでて(まど)ふ。そのあたりの垣にも家の()にも、をる人だにたはやすく見るまじきものを、夜は安きいも寝ず、闇の夜に出でても、穴をくじり、垣間見(かいまみ)、惑ひあへり、さる時よりなむ、「よばひ」とはいひける &『竹取物語』

子安貝取り

からうじて、「御心地(みここち)はいかが(おぼ)さる」と(*中納言に)問へば、息の下にて、「物はすこしおぼゆれど、腰なむ動かれぬ。されど、子安(こやす)(がひ)を、ふと握り持たれば、うれしくおぼゆるなり、まづ紙燭(しそく)して()。この貝の顔見む」と()ぐしもたげて、御手を広げたまへるに、(つばくらめ)のまり置ける古糞(ふるくそ)を握りたまへるなりけり、それを見たまひて、「あな、かひなのわざや」とのたまひけるよりぞ、思ふに(たが)ふことをば、「かひなし」といひける &『竹取物語』

浄瑠璃御前と御曹司

ここに真砂の中よりも、黄金作りの御佩刀(みはかせ)石突(いしづき)、少し見えたりけり、浄瑠璃これを頼みにおぼしめし、冷泉殿とただ二人、(かいで)のやうなる御手にて、泣く泣く真砂を掘り給へば、(わら)真菰(まこも)の中よりも、桶と(ひしやく)を掘り出す、いよいよこれに力を得て、なほなほ掘りて見給へば、さもあさましき姿なる御曹司を引き出だし給ひける、いつくしかりける御姿、しぼめる花のごとくにて、見るに涙もどまらず、埋もれたる砂を(きぬ)の褄にて打ち払い、御膝にかきのせたてまつり、天に仰ぎ地に伏して、悲しみ給ふ御有様、あはれといふも愚かなり、「いかに候ふ、都の殿、一夜の契りに馴れそめし、浄瑠璃これまで参りたり、いかなる定業(ぢやふごふ)にてましますとも、みづから是まで参りたる志のほどを受け給ひて、今一度よみがへらせ給へ」と、胸に当て顔に当て、流涕(りうてい)焦がれ給へども、その甲斐さらになかりけり、姫君あまりの悲しさに、潮水にて手水(てうづ)うがひをして、天に仰ぎ、「願はくば日本国六十六か国の大小の御神、そのほか諸神、諸仏、哀愍(あいみん)納受(たふじう)を垂れ給ひて、この冠者定業なりともこの世に返し給へ」と、肝胆をくだき祈り給へば、不思議や、諸神諸仏の御はからひにや、浄瑠璃御前の泣かせ給ふ御涙、御曹司の口の中へ流入り、不死の薬となり、少し息出でさせ給ひける 

&『浄瑠璃十二段草紙』十二段

 

街歌 がいか 

七七七五の二十六字で市井の生活などを吟じる短詩を〈街歌〉といいマチウタとも詠む。

〈都々逸〉と音数は同じだが、都々逸が情念を趣きとしているのに対し、街歌のほうは文字通り市民の健康優良生的な生活をテーマに作る。

街歌の呼び名は昭和、それも戦前に出現した。短詩作者で知られる平山蘆江らが中心に結社を作り、戦後は積極的にかなりの程度まで広めたようである。

例示からもわかるように、都々逸が夜型の艶であるのに対し、街歌は昼型のであり、双方対照の妙がある。が、言葉遊びの愉しさという点では都々逸に軍配が上がる。その点、街歌は半端なのだ。加えて、二十六字歌のリズムこそ都々逸の内容にふさわしいこと、疑う余地がない。

【例】

街歌の代表作品(色紙のもの)                                      平山蘆江

▽酒の仲間に遊びの仲間苦労仕とげて茶の仲間

                                                                                                                                                             作者未詳

▽ずるい利口と人情馬鹿が背中合せで路地に住む &『雑俳諧作法』

▽去年の今夜は知らない人が今年の今夜は内の人

 

歌舞伎の科白 かぶきのせりふ 

歌舞伎は狂言から派生した舞台演劇である。別名を科白劇というように(しぐさ)(せりふ)を中心に演じる。ことに科白は舞台で大きくモノを言い、数多の劇中名科白が、今なお巷間で引き合いや慣用句などに使われていることから人気のほどがわかる

科白には「(つらね)」という独特の様式がある。美文調の詞を弁舌さわやかに長々と朗唱することをいう。なかでも『(しばらく)』の主役が花道で述べる連は白眉とされている。

ともあれ〈歌舞伎の科白〉は言葉遊びの宝庫であるので、その中から色いろな態様の遊び言を見出すのも乙な趣向である。

【例】 

(しばらく)

*歌舞伎十八番の一。正徳四年(元禄十二年説も)初演。上演ごとに改作され筋書、科白等が異なる。主人公の荒事役が「暫く」と声をかけて登場し、悪党どもをやっつける大筋だけは踏襲されている。

照忠「暫く 敵皆々「暫くとは 「暫く、〳〵〳〵、暫くゥ(中略)(さう)()(いはく)北冥(ほくめい)に魚あり、その名を(こん)といふ。(くわ)して大鳥(おほとり)となる、そのつばさ垂天(すゐてん)の雲の如く、一度(ひとたび)南せんと欲する時は、水撃三千里、扶搖(ふえう)(はだつ)つて上る事九万里とかや、柿の素襖(すはう)の羽づくろい、氷らぬ水の(すぢ)(くま)は、根元(こんげん)金剛家(こんごういへ)の株、つよいが自慢負けぬが得手(えて)、そもそも姓は平氏(へいじ)の正統、常陸(ひたち)(ぜう)貞盛が、股肱(ここう)耳目(じもく)とあまやかし、もてあましたる(やつがれ)は、館の金剛丸照忠、当年積つて十八年、…

忠臣蔵〔仮名手本忠臣蔵〕

*浄瑠璃の原作を並木千柳、竹田出雲、三好松洛が台本化、寛延元年初演。赤穂四十七士討入までの顛末をかなり脚色してある。登場人物も多彩で、見得切のヤマ場がいくつもある。

義平「はヽヽヽヽ、(をんな)(わらべ)を責めるやうに、人質取つての御詮議か。天川屋の義平は男でござるぞ。子にほだされて、存ぜぬことを存じたとは得申さぬ。かつて何にも存ぜぬ知らぬ。知らぬと言うたら金輪(こんりん)奈落(ならく)憎しと思わばその忰、わが見る前で殺した〳〵

鈴ケ森幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)精進俎板(しようじんまないた)

*桜田治助作、享和三年、江戸・中村座で初演。

新吉原の場より

閑心「閑心が盃取り上て一つ飲め。四人「よもやそれでは飲まれまい。重三「横に車、引くにひかれぬこの場の難題、盃受けぬも重三が恥辱、四人「飲まねば済まぬ白塚組、重三「とはいへ砕けし、四人「盃受けぬか。重三「サアそれは。四人「サア〳〵〳〵。重三「ムウ。「水の()に照る月波を数ふれば、庭の(をも)今照る月を。この鉢へ一つ注いで下され。みど「アイ。重三「微塵に割つた盃の返盃。閑心「砕いて捨てし盃の、その難題に(はち)(ざかな)を、極楽重三が返盃とは。重三「受けたる盃に映る月、とりも直さずこの盃、心の返盃閑心殿、一つ受けずばなるまいが。

切られ与三与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)

*瀬川如皐作、嘉永六年初演。御存知、切られ与三と木更津の親分赤間源左衛門の囲われ者お富との情話に、赤間別荘での責め場、源氏店でのユスリなど見せ場・濡れ場が飽きさせない。

源氏店(げんじだな)の場

与三しがねへ恋の情が仇、命の切れたのを、どう取り留めてか木更津(きさらづ)から、めぐる月日も()年越(とせごし)、江戸の親には勘当うけ、よんどころなく鎌倉の、谷七(やつしち)(がう)は食詰めても、(つら)へ受けたる看板の(きず)がもつけの幸ひに、切られ与三と異名(いめう)を取り、押借り強請(ゆすり)も習はふより、慣れた時代の源氏店、そのしらばけか黒塀に、格子(かうし)造りの囲ひもの、死んだと思つたお富とは、お釈迦様でも気がつくめへ。

『与話情浮名横櫛』芝居絵。左は八代目市川團十郎演じる向疵の与三、右は四代目尾上梅幸の女形 

新皿屋敷新皿屋舗月雨曇(しんさらやしきつきのあまがさ)

*河竹黙阿弥作、明治十六年五月、東京・市村座で初演。

宗五「え、それぢやあ酒乱で無礼をした、罪をお許し下さりますのか。十左「酒興の罪を許しやるも、当家において手討ちになりし、そちが(いもと)(つた)がためぢや。宗五・はま「何とおしやりまする。十左佞人讒者(ねいじんざんしや)(ぜつ)(たう)に、君の御心(みこころ)荒々しく、無慚(むざん)や蔦は(あえ)ない最期、この事自然と噂となり、(しも)ざまへ流布(るふ)なさば、遂にはお家のためにならず、現在そちは彼が兄及ばぬながらも妹の(かたき)と、殿を恨み(たてまつ)ればこそ酒興の上で口外もなす、それゆゑ(それがし)一命に替え(なむじ)が無礼の執り成し致すも、蔦が恨みを除かんため、この儘助け遣はす時は彼が冥府(めいふ)で悦ばむ。それぢやによつて今日(こんにち)の科は許し遣はす(あひだ)、向後酒に(たましひ)を奪はれぬやうに身を慎み、夫婦睦まじふ致すがよいぞ。宗五流石(さすが)大家(たいけ)の御家老様、事を分けたるそのお(ことば)、すつぱり訳が分かりました、それには引き替へ小さな気で、妹の敵を取らうなどと、酒の威勢であばれ込んだは、実に面目ござりませぬ。

  

歌文 かぶん 

文中に和歌をちりばめ風雅な趣きに仕立てた文章を〈歌文〉といっている。紀行が中心になるが、『伊勢物語』や『大和物語』のような歌物語も含めた総称として中世以来もてはやされてきた。

中世古典よりもむしろ江戸期のものに絵になる遊びの傑作が多い。

【例】

歌も道連れ                                                        宗 久

*作者は南北朝時代の歌人だが伝は未詳。観応頃(135052)の東西行脚記でもある。俳諧歌風の自詠を散らした記述に卒がない。作品は末尾に近い部分、武蔵野で道連れになった旅人とのあいだで土産を贈り、歌をも交歓する場面である。 

今はとて、もとの道へと心ざし侍りしほどに、また武蔵野にもなりぬ、こゝにて思ひのほかに、都の人の敷島(しきしま)の道のことなどたづね申し侍りしに行きあひぬ、そのほか、むかし知れりし一二人(ひとりふたり)ありしかば、折からうれしく覚えてやがて(ともな)ひつゝ、堀兼(ほりかね)の井、こゝかしこ()(めぐ)り侍りしかば、このたびの思ひでなる心地ぞし侍りし、素性法師が宇都(うつ)の山(蔦で知られた駿河の名所(などころ))にて在中将(在原業平)に行きあひけるも、かくやと思ひやられ侍りき、さても末の松山(枕詞、宮城県多賀城市の古跡)はことに名だかき所なるを、たゞ道行(みちゆ)きぶりに見すごさんも(ねん)なきやうに侍りしかば、むかしも長柄(ながら)の橋(大阪市灘波の長柄川架橋の一)鉋屑(かなくず)井出(ゐで)の蛙の()(ぼし)をだにこそ持ち侍れ、忘れ形見(がたみ)にもし侍らむと思ひしかば、松の落葉など()きあつめて侍りし中に、松笠といふ者ありしと、また塩釜(しほがま)の浦にうつせ貝などやうのものを拾ひあつめて侍りしを、この人に取り(いだ)して見せ侍しかば、かく申されし、

  末の松山(まつ)(かさ)は着たれどもなみだに()さればまたや濡れなん

返し、 

  浪()さぬ袖さへ濡れぬ末のまつ山(まつ)(かさ)のかげのたび寝に

さらに朽ちせぬ契りの程も思ひしられて、いとゞ(たび)の衣手もしほたれまさり侍しに、またかの人、

  (ともな)はでひとり行きけん塩がまのうらの塩貝(しほかい)みるかひもなし

返し、

  塩がまのうらみも()ては君がため拾う塩貝(しほがい)かひやなからん 

&『都のつと』

隅田川                                                         津村正恭

*津村正恭(17361806)は江戸の随筆家で紀行作家。この一篇は江戸各所での花見遊山を活写したもの。わかりやすくて土臭さの匂う文章に不思議な魅力があり、随所に折り込んだ賞花一辺倒のご愛敬歌も興を添えている。

「すみだ川にゆかむ」と思へば、うけちといふかたにおもむく、塩がれの小川にそひて柴橋をこゆれば、田づらひとつにつゞきて、かぎりもなう見わたさる、あぜのほそみち、ゆくさきあまたにわかれて、いづち、それともさだめがたし、畑うつ人、あるは里の子どもにとひつゝたどりゆく、あら田のくろ、賎が垣ねなどに、まれ〳〵盛なる花のたてるが、さすがに過がたければ木かげにやすらひつゝみるに、おもえず時もうつりぬ、

  心をきはなにたちよる木の本にゆくべきかたの道やくれまし

とて、またあゆみ行、秋葉権現の森のうしろに出たり、こゝにも晩得といへる人すめり、なにがしの国の守の家司なりしが、仕へを致し、かしらをろして、村の長の家のかたはらに、はつかなる庵をむすびてをれり、をさなきよりなれむつびし友どちなれば、思い出てたづねよるに、門もさしながら、あるじは見えず、長のもとにゆきて、ことゝへば、「ものへまかりて、この二日みか帰りこず」といふ、桃の花の盛なる、二木ばかりぞ庵の前にはたてる、

  たづねよるあるじは春の門さしてこたへぬもゝの花ぞいろこき 

いとかひなき心地す、&『花見の日記』

 

漢語爛漫 かんごらんまん 

幕末から明治期を通し、新しい文物の移入を目指して先進国である西欧文明がもてはやされ、鹿鳴館文化に代表される西欧化が進行した。これはうなずけるところだが、不可解なのは、時を同じくして漢語が爆発的に流行しだしたことである。新聞雑誌はもとより、巷の看板にすら漢語が氾濫した。

西欧へのカルチャーショックがもたらした異文化崇拝のオマケだったのか、まったく首を傾げたくなる「衒学現象」であったように思う。

漢語流行の異常ぶりは他書にも多く紹介されているので省くとして、ここでは〈漢語爛漫〉の一端をのぞくにとどめよう。

和語でこそ味の出る都々逸まで漢語に汚染される〔山々亭有人作『漢語都々逸』〕

【例】

漢紛調の「吉原案内記」   寺門静軒若し夫れ暮靄柳を抹し、黄昏(タンヤ)灯火(アンドウ)(のぼ)すや、各楼の銀燭星の如く、弦声(スガガキ)人を鼓す。四角の鶏卵世未だ之を見ず。此の境の晦夜(かいや)も亦、円月天を開く。娼妓陳列して位に就く。大妓は正面、小妓は壁に籬闌(マガキ)に分れ坐す。遊人魚貫して漸く格子の外に蟻附す。(中略)酔歩浪々として、了鬟(カムロ)前を擁し、幇間(タイコモチ)後を押し、(さわ)ぎて過ぐる者は、大客の楼に上がるなり。(らく)(しん)水を出で、天女空より墜つ。姿()()整斉(せいせい)、厳として()近づくべからず。&『江戸繁昌記』初編「吉原」

寺門(てらかど)(せい)(けん)(17961868)は江戸後期の儒学者・随筆家。この書は退廃的であるとして幕府からにらまれた。結論だけいおう。江戸吉原の表情を描くのに漢文調(読み下し)は似合わない。百千の美辞麗句を並べても和文の敵ではない。江戸の風物詩を書くのに日本人が漢文に事借りるのは衒いすぎで、味がなくなってしまうではないか。同時代、太鼓持が盛んに歌った「大尽舞」の一詞章を紹介しておくので、同じく色里を描写する和漢の味わいの差異を較べてほしい。

  清少納言がよまれたる 春曙とハ面白や なん〳〵たるすががきに かん〳〵たる買い手衆が花を飾りて 初買いによせくる廓ハ どんどめく いづれどんどやさぎのくび 襟を長くしてぞめくにぞ 太夫格子も繁昌に さん茶うむ茶も賑やかに もん〳〵〳〵と呼ぶ子供(筆注=禿(かむろ)) たつきもしらぬ山口三浦の大釣壺 手つつこむちろりのかんばやし 夫ハ角町の名物 ハヽホヽ 大尽舞を見さいなア その次の大じん(筆注=ここで客側別人の詞に代わる) 

&守貞漫稿(もりさだまんこう)』巻二十三

待合茶屋                                         服部誠一

都下待合茶屋の盛なる、亦船宿と多きを争ふ。通街に横坊に、河岸に橋畔に、或は祠地に、或は寺域に。凡そ繁会の所に至つては、此戸竈を開くものあり。按ずるに、昔日待合と称するものは、東郭の人と西街の人と集議するあれば、則ち預め某坊某茶店に会す可の約を為し、相待つて相会す、因つてその名あり、当今客の店に来るもの、その趣向同じからず、事有つて会する者焉れあり、約あつて待つ者焉れあリ、書画の席を催す者焉れあリ、囲棊の会を開くもの焉あり、往て外妾を択ぶもの焉あり。来つて阿娘を説くもの焉あり。媒約を談ずるもの、歌舞を招くもの、或は富士講、或は大山講、何と曰ひ何と云ふ。百般の集会概ね此店に帰す。最も招く可く貴む可き者は則ち酒客と妓客とのみ。名は即ち茶店にして、その実専ら酒肉を売る者もあり、これを呼んで酔茶店と謂ふも亦可なり牟。或は妓と客とを宿し、比翼の枕を貸すものあり、これを呼んで比翼店と謂ふ歟。所在高楼の佳麗なる、侠婦の嬋妍なる、竃を開いて而して大なるものは、比々として比翼店の名を下すべきなり。(中略)士なり。国小戸なりと雖も、皇妃無かるべけん乎。須らく十を減じて二を聘すべし。左手に梅を執り、右手に桜を執り、朕は黄鶯となつて、両花の間に囀ぜん。婢曰く、君命の召すあらば、駕を待たずして来る可き也。春風早く已に香芳を送る。障外忽ち請恕の声を聞く。一花ヲ先んじ一花は後る。翠裙翻って浪を漾はし、碧帯垂れて霞を惹く。靘粧新理、姿儀整斎、剛に似て而かも剛に非らず、柔に似て柔に非らず。(中略)娘輩枕籍を守らんと欲するも、固と能く及ぶ所に非ず。翼区は爨婢となるも、敢えて恩顧を請ふと。箱奴障を隔てゝ曰く、大娘を待つこと久し。香炷既に二本を過ぐ。客曰く、娘は則痴話が命婦、苟区もその帰るを促すものは誰ぞや。曰く箱奴喜八なり、曰く娘愛すべくんば、則ち奴も亦タ愛すべきなり。来れ僧を悪んで、袈裟に及ぼすの一新なり。須らく近(すす)んで三盃を尽すべしと。四銖の纏頭次いで来る。(昇平の恩波、この光頭に及ぶ)汝帰を促がすこと勿れ、十本の玉、百本の玉、尚ほ千金の宝玉に非らず。何ぞその価を論ぜん。余将に長夜の宴を開かんとす。汝の小胆帰を促すこと勿れ。喜んで曰く、大将意あらば、則ち奴諾一諾、一旬を連ぬるも敢て謝せず、二旬に及ぶも、敢て辞せざらん。曰く汝忽ち大胆にして、以て事を謀るに足る、汝聞かずや、余勇気勃々として関羽の如く然り。直ちに一茎の禿鋒を磨して、将に妓(妓の国音魏と通ず)国を破つて、玉門関に入らんとす。汝暫く別室に入つて伏兵となる可きなりと。 奴冷笑して曰く、嗚呼危い哉、大将将に狐窟を陥れんとすと。

&『東京新繁昌記』

 

漢詩迷訳 かんしめいやく 

漢詩をくだけた和文に訳す遊びを〈漢詩迷訳〉と称することにする。

ただし身近に先例が見当たらないので筆者が挑戦してみる。幸い、漢詩の素養がなくても読み下して大意を把握できるやさしい原詩(平声東韻)があるので、これを料理してみたい。

【例】

失題                                佚名氏(作者未詳)

 才子従来多過事 (さいしじゅうらいおおくことをあやまり)  

議論畢竟世無功 (ぎろんひつきょうよにこうなし)

誰知黙黙不言裡 (たれかしるもくもくふげんのうち) 

山自青青花自紅 (やまおのずとせいせいはなおのずとくれないなるを)

   ↓

  失せやがれ(テレビ公開討論会を思い出し)                     荻生作

 あれこれしゃべって威張るな識者

 役にも立たねえ屁理屈野郎

 こちとら不満も黙ンまりの助

 青ッ尻に赤信号がついてるぜ

 

紀行の遊び きこうのあそび 

誰もが書けそうで、相応の評価を得るのに難しいのが紀行文である。たいていの紀行の人気が今一つなのは、単なる旅行案内記的な、平板な記述に終わっているためだ。

優れた紀行に共通しているのが深い洞察力の眼。読者と連れだって見聞きしている、という姿勢である。読者が旅の伴づれであることを常に意識し、読んで楽しく懇切な文章でつづり、退屈させることがない。しかしここは遊び、玉石混交といこう。

【例】

蕪村の名紀行文                              与謝野蕪村

宇治山の南、田原の里の山ふかく、茸狩し侍けるに、わかきどちはえものを貪り先を争ひ、余ははるかに後れて、こゝろ静にくま〴〵さがしもとめけるに、菅の小笠ばかりなる松たけ五本を得たり、あなめざまし、いかに宇治大納言隆国の卿は、ひらたけのあやしきさたはかいとめ給ひて、など松茸のめでたきことはもらし給ひけるにや、/君見よや拾遺の茸の露五本/最高頂上に人家見えて高ノ尾村といふ、汲鮎を業として世わたるたよりとなすよし、茅屋雲に架し、断橋水に臨む、かゝる絶地にも住む人有やと、そゞろに客魂を冷す、/鮎落ていよ〳〵高き尾上かな/米河岸といへるは、宇治河第一の急灘(きふだん)にして、水石相戦奔波激浪雪の飛がごとく、雲のめぐるに似たり、声山谷に響て人語を乱る、銀瓶乍チ破テ水漿迸リ、鉄騎突出シテ刀鎗鳴、四弦一声如裂帛と、白居易が琵琶の妙音を比喩せる絶唱をおもひ出て、/(きぬ)を裂琵琶の流や秋の声

&『宇治行』

『奥の細道画巻』(部分)与謝蕪村

しらぬひ                                  橘(宮川)南蹊筆

 *作者(17531805)は大坂の医師・随筆家。本作品は天明二(1782)年から三年がかりの西国旅行の模様を寛政七(1795)年から同十年にかけ上梓したもの。同期に出た『東遊記』と共に評判になり、玄人の手になる紀行を印象づけている。

「しらぬ火はいづれに出るや」と問ふに、「嶋々見ゆるあたり」といふ、はじめの程は人里も遠くいとものすごき嶋山なりしが、追々に知らぬ火見物の人々出来(いできた)りて数十人に及ぶ、皆、この近国より二日(ふつか)()三日(みつか)()を来りて見物する人々也、程なくうみの面もやゝ夕煙引渡して、人顔もさだかならねば、所〳〵松どもあかして、酒など取り(いだ)し、思ひ〳〵に、小唄、浄瑠璃、太鼓、三味線、或は、謡、狂言など、(おのおの)芸を尽して戯れ遊ぶ、夜陰の事なれば、誰とは知れず、殊に諸方より集りたる事なれば遠慮はなし、(かの)座に登り、此莚に(つらな)り、へだてなくむつびかたらふ事、有馬、但馬など温泉の場の(まじは)りの如し、今年は例より残暑も強けれど、かゝる海辺の高山に、殊に空は心よく晴たり、小夜風おもむろに吹きていと涼しければ、世の(ふく)るも知らず、はや夜半にもかりしかど、知らぬ火のさたなし、今年はじめて見る人は、「今宵は如何なる事ぞ、知らぬ火は出ざるや」「(ただ)しはそら事也や」などと口々にいふ、予もあやしみ居たりしが、八ツ(*午前二時)近きころに、はるか向ふに波を離れて赤き色の火壱つ見ゆ、しばらくして其火左右にわかれ三つになるやうに見えしが、それより追々に(いづ)る程に、海上わたり四五里ばかりが間に百千の数を知らず、明らかなるあり、(かすか)なるあり、滅るあり、燃ゆるあり、高きあり、低きあり、誠にはなはだ見事にして目をおどろかせたり &西遊記

墨堤 花爛漫

昨十九日は久々の快晴なり殊に日曜日の休業故、墨田堤の桜見物は浅草通り本所方の両路に陸続して、吾妻橋東詰より群集を混じ雲歟山歟はしら雪と見擬ふ花の満開、貴賎老若の雑踏但見(とみ)る堤上の地盤を重ね、衆群に突出したる馬上の貴顕には当府知事芳川君、元老院大書記官森山君と見しはひがめか、その他華族方の女中連、官員方のお手車、墨水の流れに沿いて屋形船には幕打まはし、屋根船の芸妓連艶なる絃声は陸歩の耳を羨ましめ、清楽古楽の合奏船に吉野川のむかしも忍ばれ、海軍生徒は「バツテーラ」に競漕を試み、天伝茶船(テンマチャブネ)の乗合あり、水陸共に土を見ず流れを塞ぎ、三囲の社、牛島神社、長命寺、白髭等の境内は何れも茶店の席を埋め南は枕橋の八百松より北は木母寺の植半まで、その他の料理屋食店は午前十時頃より不意の出前を謝絶するほどにて、桜餅は午後六時頃に売切れたりとぞ、堤下諸社諸寺院の境内に立舞ふ人の多き中に、取分須崎村秋葉神社の広原に掛設けし茶店の内には浄瑠璃の素人連少女の手踊り、壮年輩の相撲取、女太夫の三味線、安房陀羅和尚の木魚の打分、瓢箪酒の歩きのみ、下戸も上戸に鼓舞されて酔ふが如く、図部六(ずぶろく)の生体なきは芝生に倒れて劉伯倫が面影あり、李白擬し墨客は文人党を団結して遙に花の情を譜し、業平もどきのめけ連は、言問団子の雑踏に恐れ遠く梅柳山に退きて実に殺風景、おそれペでゲスと扇子パツチリ、同日は浅草上野公園地も又、こゝにも群衆をなすかと計り驚く程の賑ひにて谷中のわたり団子坂の葵園も訪ふ人多く浅草寺仲見世通りも、ゾロゾロと参詣人を混じ、植六が庭中、万梅の食店、埋地の観物、弁天山の岡田が惣菜いづれも花見帰へりいづこも人の山を成せり。

&今日新聞(こんにちしんぶん)』明治十八年四月二十日

 

戯詩 ぎし 

ここでいう〈戯詩〉は遊戯詩を意味するが、用語上慣用化されているわけではない。漢詩に〈狂詩〉というジャンルがあり、それと一線を画すための便宜的命名である。つまり戯詩とは、日本語の詩で諧謔性の強いもの、という程度に理解してほしい。その諧謔も、どちらかというと〈ブラックユーモア〉に近いものである。当然ながら、近代・現代作品が対象である。

【例】

近代詩より                     萩原朔太郎

きつと可愛いかたい歯で、/草のみどりをかみしめる女よ、/女よ、/このうす青いいんきで、/まんべんなくお前の顔をいろどつて、/おまへの情欲をたかぶらしめ、/しげる草むらでこつそりあそばう、/みたまへ、/ここにはつりがね草がくびをふり、/あそこではりんどうの手がしなしなと動いてゐる、/ああわたしはしつかりとお前の乳房を抱きしめる、/お前はお前で力いつぱいに私のからだを押へつける。/さうしてこの人気のないの原の中で、/わたしたちは蛇のやうなあそびをしよう、/ああ私は私できりきりとお前を可愛がつてやり、/おまへの美しい皮膚の上に青い草の葉の汁をぬりつけてやる。

&自家詩集『月に吠える』愛憐

萩原朔太郎

からかい童歌(徳島県三好郡山城町)

いーに べーに やーけと かーけて はーとの いのすけ ずっきん かむって きんみち チョイ 

&『日本わらべうた全集』22

 

偽書 ぎしょ 

ここでいう〈偽書〉とは、有名な散文文学作品(中・長編)を筋書きに沿ってなぞり、仮託形式で著した書物をさす。捩りでいう〈偽作〉が作品の一部を模写しているのに比べ、〈偽書〉のほうは作品全体を対象にしている。

作者の著作権保護がいい加減だった近代までの現象で、今この手のマガイ物は一部の裏出版(ポルノなど)を除き消滅している。

【例】

『八犬伝』の好色版偽書

  好実(よしざね)玉樟(たまづさ)懸想(けさう)して、八淫婦を化現(けげん)す                 (きよく)(どり)主人作

京都の妾群、鎌倉の売色(いろ)おとろへて奸淫し。()譛光(せんこう)となりし頃。淫を(とう)(かゐ)火気(ほてり)(させ)て。子孫十分に漏精(きをやり)し。里美好実と聞えしは。(書き出し)  &『恋のやつふぢ』うち「男壮(なんさう)里見八犬伝」上

*艶本であることはすぐにわかるが、どこかで読んだような……と思う読者もいよう。そう、曲亭馬琴作の長編読本『南総里見八犬伝』の書き出しの擬文である。原作のほうは、「京都の将軍。鎌倉の副将。武威衰へて偏執し。世は戦国となりし比。難を東海の(ほとり)に避て。土地を(ひら)き。基業(もとい)(おこ)し。子孫十世に及ぶまで。房総(あはかづさ)の国守たる。里見治部(ぢぶ)大夫(たいふ)義実朝臣(あそん)の。事績をつらつら考ふるに」と、最初のうちは原文を忠実になぞらえているが、次第に筆が独り歩きして、怪しくなっていく。好実に生け捕られた玉樟は死罪になるが、怨念の淫霊と化し、(しよう)を畜生に変え、淫乱の霊魂は転生して八人の美女となる。さらに八人の男壮に変身し、同魂異体のまま睦み合い淫楽を貪りあう、という話の展開だ。くわしくは、林美一著『江戸艶本へようこそ』(河出書房新社刊)をどうぞ。備考程度ではとても語りきれない、面食らい保証付きの偽書である。

貫一にポルノやらせの偽書                     尾崎新緑

今月今夜の××を僕の×××で濡らしてみせよう/貫一さん!もう堪忍して/いや、堪忍できぬ。……貫一の××は宮の××へと×××し、あれといふ間もあらばこそ、帯は忽ち(さつ)と解けて脚に(まと)ふを、払ひつつ、貫一は宮に××せんと×××、宮は悦びに打ち震へ尚××は渾々と(ますます)流れて、××せり。/あゝ、堪忍して!早く死にたい! &『新続続 金色夜又』

 

狂歌 きょうか 

狂歌については左ナビゲーターで『花酒爺の新狂歌塾』をクリックしてご覧ください。

                                           

狂歌〔三嘆詠〕 きょうか/さんたんえい

「三嘆詠」とは、上句五七五のなかに感嘆詞を入れ、感動の様子を示す形式の狂歌をいう。松尾芭蕉の名句「松島やああ松島や松島や」がその代表作で、このように句自体が畳語で構成されたものである。

〈狂歌三嘆詠〉は、この三嘆詠を前句とした後句付けの形式をとる狂歌で、作歌が安易なため外道視されることもある。

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三嘆詠新狂歌の三例                         荻生作

▽おつもりだああおつもりだおつもりだ 

酒切らすとは何のつもりだ

▽わからないああわからないわからない  

存在理由(レーゾンデトール)どこにござるや

▽おっかないああおっかないおっかない

おっかない女房(カカ)は稚内産

 

故事譚 こじたん

 物事の故事来歴を昭和や歌に仕立てる遊び。昔に限らずいつの時代でも人気筋で、全国いたるところに面白いネタ話が転がっている。

【例】

売酒郎(ばいしゆろう)

売酒郎は何れのところの事といふことをしらず、将その姓氏をも詳にせず、自称して噲々といへり、あるひは彦四郎と通称す、年三十歳ばかりにして、京師白河の西街に僑居し、書画および篆刻を善くし、常に傭書をもてその母を養ふといへども、生計いと乏しく、賑胆することあたはず、こゝに於て自嘆じておもへらく、文雅はすなはち孝養に礙りあり、我々はもと酒家の子なり、されば酒を售りて産業とし、わが親を養ひ、且安逸ならしむるにはしかじといひて、やがて橐中の書画をこと〴〵く散鬻(さんしゆく)して、陶器酒具を購費求むるに、猶旧癖依然として、その買ふところの器具、みな唐山舶来の品物のみ、ことに酒は洛市の美醞を備へたりしうへに、七重の絹もて七たび漉たれば、その味ひ清芳にして烈ならず、醒意甚だ快く、かつて宿酲せず、かくて門簾に竹酔館の三大字を書し、外に招聘を掲げて、その面に、此肆下物、一則漢書、二則双柑、三則黄鳥一声としるしたり、かゝれば好事の年少つねに往て宴を催す、これによりて来賓たえず、されどもその価は、酒の多寡によりて蠃利を貪らず、毎年春の半にいたりては、桜花の盛開にあたりて、日ごとに大樽酒器を荷担ひて、東山に座を設け、嵐山の江畔に行鬻ぎ、また秋の末になりては、霜葉の紅に染る頃ほひ、東福精舎に席をひらき、臨川禅院のあたりに売りありきつゝ、般若等の三字を記したる酒旗を建たるを、遊人の認て、はじめはあやしみ、さては笑ふものもあり、去れどもその酒の精好にめでゝ、後にはあらそひ就て飲めりとかや、ことに文人才子其風流を愛し、詩を賦し歌を詠じて、これに贈るもの多ければ、その詩歌をあつめて巻となし、賓客の観に備へけるとぞ &『名家略伝』巻一 

*梅酒郎は江戸中期の某絵師、佐竹噲々の別号と伝えられている。

さんしよえ節 

♪お前死んでもノウヤコロリンシヤン、墓へはやらぬ、サンコロリントサンシヨエ、焼いて粉にしてノウヤコロリンシヤン、ヤレ酒で飲む、サンコロリントサンシヨエ &『明治流行歌史』、明治四年頃流行

*江戸初期、京都の豪商灰屋紹益は女房にした吉野太夫が亡くなると、悲嘆のあまり、その骨を粉にし酒とともに飲んだ、という故事にちなんで。

ぞめき

♪ぞめきにごんせ島原へ 小野の道風ぢやあるまいし (かわず)に柳を見て帰る。&『端唄大全』

*小野道風が柳に飛びつく蛙を見て努力の大切さを悟り、一念発起してついに三筆の一人になった、という故事に由来。さあ、島原で遊興(ぞめき)なさい、と誘われたものの、懐具合が心配になり、端女郎すら買わず(かわず=蛙との音通)に帰る仕儀を自嘲した小唄である。気の利いた洒落を効かせて妙。

京都は島原遊郭跡

 

滑稽短歌 こっけいたんか 

 近代以降〈狂歌〉の呼称は衰微し、代わりに〈滑稽短歌〉がもてはやされてきた。現代ではこの裏返し傾向がいっそう強まり、実質〈狂歌〉も呼称上は〈滑稽短歌〉一色に塗り替えられている。ふつう短歌のうち滑稽で卑俗な内容のものを〈滑稽短歌〉と呼んでいるが、その実は当世俳諧歌そのものである。ただこの称は近代になってから現れている。〈滑稽短歌〉は〈狂歌〉に近い存在であるものの、〈狂歌〉のように表現上の技巧を重視したものではなく、内容的に諧謔の短歌をさす。

〈狂歌〉にまだ不慣れな人たちに、〈狂歌〉なのか〈滑稽短歌〉なのか判定は難しい。慣れるにしたがって判別できるようになるが、詠歌の中に卑俗語が入っていたら〈狂歌〉という見分け方も一つの方法である。

【例】

滑稽短歌の作品            

▽今まても老せぬ人のおもかけをとむる鏡もある世なりけり      山田稲子

明治二十六年『千代田歌集』第三編

▽太刀なでて、わが泣くさまを、おもしろと、歌ひし少女、いづちゆきけむ。                    与謝野鉄幹

明治二十九年『東西南北』

▽岡はまさきくてあるか柿の実のあまさともいはずしぶきとも言はず  天田愚庵

明治三十年『愚庵和歌』

▽くろ髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる  与謝野晶子

明治三十四年『みだれ髪』

▽ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな    若山牧水

明治四十一年『海の声』

▽火の消えし灰の窪みにすべり落ちて一寸法師目を(みは)りをり        森 鴎外

明治四十二年『沙羅の木』

▽ろくろ見るろくろが廻るただうれし陶器師(すゑものつくり)はろくろ廻せる         北原白秋

大正十年『雀の卵』

 

滑稽道歌 こっけいどうか 

道歌というと堅苦しい修身的な詠が多く、毛嫌いされるのが普通である。これとて例外が付き、狂歌寄りの作品もある。たとえば『一休ばなし』に収められた一休の諸作品は、分類上道歌に属するが、明らかに狂歌といっていいものが多くを占めている。

ここでぜひ紹介の価値のある類題詠六首をあげておこう。

       老人六歌仙                             仙崖義梵

しわがよるほくろがでける腰曲がる頭がはげるひげ白くなる

手は振るう足はよろつく歯は抜ける耳は聞えず眼はうとくなる

身に添うは頭巾襟巻杖目鏡たんぽおんじやくしゆびん孫の手

聞きたがる死にとむながる淋しがる心は曲がる欲深くなる

くどくなる気短になる愚痴になる出しやばりたがる世話やきたがる

又しても同じ話に子を誉める達者自慢に人はいやがる   

 仙崖義梵(せんがいぎぼん)(17501837)は江戸後期の臨済宗妙心寺派の僧である。

六種の歌は老いの醜さを超時代的な絵になる戯歌に詠んで秀逸。それも態を変えること六度、六首のオムニバス構成とした集だ。老いた者は身につまされる。若い人は、こんな年寄りにはなりたくないと心底思うことであろう。

まず第一歌で老化の特徴を列挙して導入を図り、第二歌へと引き継ぐ。第三歌で老人必携具を歌い、第四歌では老境心理を巧みに描写、その結果の精神的老残を第五歌で表現。そして第六歌、「達者自慢に人はいやがる」などは高齢化社会を皮肉っているような、心憎いばかりの結び。六首のうち一首が欠けても「画竜点睛(がりようてんせい)を欠く」という出来ばえである。

  仙崖義梵は「西の一休さん」と呼ばれた高名な禅師。諸国修行の後筑前博多の聖福寺住持となり、独特の水墨画で禅の悟りを描いてみせた。つまり掲出の戯歌と同様に、抽象的になりがちな内容のものをわかりやすく具体的に表現する技法が得意であった。義梵の作品はいまも同寺に保存されているといわれている。

 

滑稽俳句 こっけいはいく 

諧謔精神を発揮し、俳諧が持つおかしみを増幅させた作句を〈滑稽俳句〉という。近代に称した〈狂句〉も内容はほぼ同類で、切字が用いられているいないの差だけであろう。

俳句はもとより滑稽諧謔を旨とし、初期の発句はおどけが目立った。

面白さ急には見えぬ薄かな         鬼貫

の一句はその典型といえよう。

 この基本姿勢は近代まで崩れることなく踏襲されたが、明治中期に至り、子規あたりが「俳句革新」とやら方向転換の音頭をとり、様相を変えてしまう。その影響は大きく、誰も彼もが付和雷同し、ホトヽギス派の、いうなれば優等生的な句が目立つようになる(内藤(なり)(ゆき)など一部個性派は別として)。この一種の俳諧骨抜き現象は現代に尾を引き、俳壇好みの歳時記俳句が主流を占めるようになってしまった。滑稽諧謔などは川柳にやらせておけばよい、といわんばかりに。

 現代俳句は、よい意味で、もっと不真面目であってしかるべきだと思う。大体「滑稽俳句」などとわざわざ断らなくてはならない情況からして滑稽だ。俳諧の成り立ち自体、滑稽に根ざしているのであるから。

【例】

近世発句より

▽雪折の竹をばなほせ(やぶ)薬師(くすし)         貞徳

 &犬子(えのこ)集』

▽ながむとて花にもいたし首の骨    宗因

 &犬子(えのこ)集』

▽うつつなく草ふく猫のつはり哉    尚白

 &(ひとつ)(まつ)

▽一トかゝへあるも柳はやなぎかな    千代女

 &『俳人百家撰』

近代俳句より

▽おそろしや経を血でかく朧月      漱石

 &『漱石句稿』明治二十九年

▽人間の海鼠となりて冬籠る     寅彦

 &『ホトヽギス』明治三十三年

▽3になり9になり蕨伸びにけり    紅緑

 &『滑稽俳句集』明治三十四年

▽星食ひに揚るきほひの夕雲雀      紅葉

 &『俳諧新潮』明治三十六年

▽水洟や鼻の先だけ暮れ残る     竜之介

 &『澄江堂句集』昭和二年

▽ちんぽこもおそそも湧いてあふれ    山頭火

 &『アノ山越えて』

▽どかと解く夏帯に句を書けとこそ   虚子

 &『五百句』昭和十二年

《参考1》

猿の尻の狂句    

宗長(連歌師で飯尾宗祇の高弟)(むらさき)()に居住の時、延暦寺(えんりやくじ)なる知音(ちいん)の坊より人を(いだ)し、「俳諧の発句望み候。この(ゆふべ)夜咄(よばなし)にたより、われ人案じて遊ばん」といひ送りければ、

  猿の尻木がらし知らぬ紅葉(もみぢ)

使(つかひ)取りて()でしをまたよび戻し、「(ちご)(たち)もゐ給はんや」「なかなか」といふに、猿の(つら)と直されし、/沢庵、堺にて冬の当座、

  猿の尻ぬらすや時雨(しぐれ)松ふぐり

&『醒睡笑』巻八

《参考2》

から井戸へ飛そこないし蛙よな       鬼貫

&大悟(たいご)物狂(ものぐるい)

上島(うえじま)(おに)(つら)(16611738)は江戸中期の俳人、伊丹風の中堅として活躍鬼貫の初期作品集『大悟物狂』が板行された元禄三年に彼はまだ三十歳、芭蕉をしゃにむに追いかけていた。掲出句も芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の捩りである。負う立場の自分を意識し、さらに自身を蛙に見立て、なんと己は空井戸すら飛びそこなった者よ、と自嘲している。のちに「東の芭蕉、西の鬼貫」という世評もうなずけるほど、芭蕉レベルに最も近づいた俳人である。それだけに作品に芭蕉の影響を受けていることは否めないし、この一句もまた、鬼貫の偽りない真情を吐露している。『大悟物狂』は述懐する。

  猶深き奥もやあらんと、延宝九年の比より骨髄にとをりて物みな心にそむく事なく、やゝ五とせを経て貞享二年の春、まことの他に俳諧なしとおもひもうけしより、…

と、二十六歳で早くもまことの道を悟った。その豁然開眼の趣きは禅の道に通じるものがある。

 

滑稽本 こっけいぼん 

古典の滑稽本は、これまた言葉遊びの宝庫である。換言すると、言葉遊びに染まってない滑稽本はない、とすらいえる。

【例】

酒盛(さかもり)(かい)                                  長谷川慶子

梵網経(ぼんもうきやう)に、人に酒をのましむるものは、五百生が其の間、手なきものに生るゝと言へども、いかさま兼好が言ひしごとく、酒を人にのませるものは、あやしく人を責はたり、又しひらるゝ人は、すぶろくに成しうへにも、翌日(あす)おうずいをはくおもいとはず、坪さらにても飲気になるは、酒宴のうへのおさだまり也、されどもぢたいが下戸ばらにて、ほんの付合一ぺんの上戸は、こう言ふ酒宴は大のなんぎ、そつと亭主の目をしのんで、吸物わんへぶちまければ、チトおてもとをはい見と、なか〳〵もつて合点せず、ちよつとおあひと隣へやれば、もめた御盃(ぎよはい)はおあらためと、右へ向ひても左へむひても、ぜひにのまねばならぬいきさつ、いよ〳〵酒もり(たけなわ)になり、みな吸もの露ばかり吸ひ、下戸の眼からは甘そふなる煮もの、酢の物、焼ものなど、箸もつけなひだんになると、どこの合やらおさいやら、上戸はいよ〳〵筋むちうにて、イヤ見ませぬ、ミタお手もと、あいに相生、それおすけ、ちようしのかわり目、コリヤおさかなと、とかく二ぶつの中上戸が、目どにとられてこまりはて、モウ〳〵酒といふものは、子々孫々にも飲ませぬものと、後悔さきに、たつても居ても、叶わぬと云ふ酒盛の場が、一日一夜の間には、いくところもあるもの也、そふ言ふおりから、から樽を(かつ)ひで、 

 酒もりのなんぎかを〳〵

とよびあるく時は、よびこまるゝはひつじやう也、呼びこまれたら、まづその座を見わたし、アノ上戸はモウ二盃でいきつく、此上戸はまだ三盃でたをれぬと、此をばとくとはかり知るべし、是所謂(いわゆる)兵法に、かれを知り、おのれをしれば、百たびのんで、百度かつの道理也、さてその上にて、此なんぎはいくらで買ふと、ねだんをきめ、其座にあり合ふ、みそずを引よせ、あくまで喰ひて下地を拵らへ、なんぎの人のあひおさへ、お手元銚子のかわり目を、すこしもきらはず飲でやるべし、かくする内に、相手もいきつき、(けん)ゑつなどに立しあとにて、むかふにありあふ銚子ならば、かのから樽へそつとあけ、銚子のかわり目〳〵と、随分手ばやくはたらく時は、いかなる上戸の大敵をも、のみふせざることあるべからず、みな〳〵相手のたをれたるとき、きわめの通りのあたへをとり、またぶちまけた酒までを持て帰つて寝酒とは、スコきたなひが、うまひだア &当世(とうせい)杜撰商(こじつけあきない)

おなまみ            左角斎

行とくのサア、湯屋のねずみは、しようわるねずみでナア。おなまみだア〳〵。おまへいとしゆて、もちあげやせぬが、しりのねぶとが、わしや、いとがうざる。おなまみだア〳〵。おなまみ〳〵、おなまみだア &『浮世くらべ』

 化物ら、芸者に年始のご挨拶〔怪物昼寝鼾、国立国会図書館蔵〕

 

狐狸譚 こりたん 

狐狸の類を材とした物語の総称。次の一話は酒の肴に格好の読み物とおすすめし、全文を掲げる。

本編は正式に『拍掌奇談凩草子』という。

【例】

水鳥(すいちやう)山人狸を酒の友とする(こと)                       森島中良作

酒は天の美禄(びろく)にして。帝王天下を頤養(いやう)する所以(ゆゑん)なり。(まつり)(きやう)しては。(さい)はひを神に祈り。衰へたるを(たす)け。老いたるをやしなひ。(ひやく)(ふく)の会も酒にあらざれば行はれず。()に百薬の長として。憂ひを(けす)(たま)(はばき)なり。(さら)陶淵明(たうゑんめい)が。東籬(とうり)の下の菊見酒。蘇東坡(そとうば)が赤壁の月見船も。此物ありて此興ありと。唐の野馬台(やまと)の酒徳を称し。彼()太白(たいはく)が。酒中の仙なりと云ける文字の。(はぶ)き。酒仙の二字を引わりて。自から水鳥山人と呼者あり。

(かつ)鹿(しか)真間(まま)の辺に住所をしめ。左迄(さまで)の田地も持ざれど。生得(せうとく)福分あるおのこにて。衣食に(とも)しからざる故。其身は農業をもいとなまず。一年三百六十日。常に酔て泥の如く。酒を好まざる人は。親族(みうち)といへども。白眼にして見る事他人の如く。酒を嗜む人は。一面識(みしりごし)といへども。青眼にして見る事血属(しんるい)の如し。居間の壁には得意(きにいり)の掛物をならべ懸けたり。一幅は杜子(とし)()が飲中八仙歌のからうたを書かせ。一幅は。大伴の旅人(たびと)卿の酒徳を(ほめ)玉へる十三首の和歌を書せ。吟じては飲。詠じては(くむ)を。日毎の勤とはなしにける。夜に入て(いぬ)る時は。女房五升入の壺に。美酒を湛へて枕もとに置ば。夜中(やちう)に飲尽して一滴をだも残さず。

或夜例の壺を探るに。露ばかりの酒もなし。女房が忘れたるにやと呼起して(たづぬ)れば。女房寝惚(ねほれ)声にて。宵に調へ置たるを。早くも飲干て。ざれ言を(のたま)ふやといへば。いや〳〵今宵に於ては。いまだ一盃も飲ず。扨は壺の漏たるにやと。灯火(ともしび)をかゝげて見てあれば。屏風の外にきたなげなる男。歪形(ゆがみなり)に熟睡し。()(びき)(ふいご)を吹くが如し。女房は大におどろき。やよ〳〵。盗賊(ぬすびと)の入たるぞと声を立るを。山人おしとゞめ。声を立て荒だてなば。手に余す事も有べし。(まづ)々とくと見さだむべしと。伺ひ寄て(よく)()れば。形は人の如くなれども。(まがひ)もあらぬ古狸なり。然も酒に酔たると見へて。其嗅きこと熟柿の如し。扨は酒を飲干たるは。此狸めが所為なるべしといへば。女房今は怖気(こはげ)も抜。袖を口に当て笑を忍べば。山人は古狸が酔臥の(てい)を。つら〳〵と打ながめ。扨も〳〵しほらしや。万物の霊たる人間に。わづか一升の酒を。飲得ざるものさへ有に。畜生の身として。五升の酒を尽したるこそ殊勝なれ。酔醒には風を引ものなるぞと。我()()を手づから打()せ。酒後には渇する物なれば。例の(だし)(ぢや)を用意すべしと妻に云つけ。其身は狸が(かた)()に座し。(ふみ)(ぬぎ)たる夜具を引着せ。はづしたる枕をあてがひ。心を尽して介抱せしが。(やや)ありて彼狸。四足を踏述べ(あくび)をし。目を覚して大に(あはて)。そのの侭立て逃んとす。山人引とめ。汝おどろく事なかれ。座に(かへ)りて(ゆる)々と語るべしといへば。たぬき(うろ)(たへ)のあまり。(ばく)る事をも打わすれ。やはり狸の面体にて。山人が前に(ひざま)付き酒を盗みたる罪を謝する。音声しはがれて爽やかならねども。詞は叮嚀を尽しけり。山人打笑ひて。汝は酒を盗みたる罪を恐れ。我は酒を盗みたる風流を愛す。今より後は。夜毎に来たりて(とも)に酒を酌べし。人に化るも煩らはしき事なれば。其侭にて来るべしといへば。狸あつく恩を謝し。しからば明夕まゐるべしと。(いとま)を乞て出行ぬ。

扨翌日になりければ。山人みづから魚鳥を調理し。珍ら敷酒友を得たる事(さか)(ともだち)に誇に堪たりと。清らかに(むしろ)を開き。盃盤を設て待ほどに。暮に及びて彼狸、初めての見参に無礼(なめげなし)とや思ひけん。何国よりもとめ出たるや。海松(みる)の如くに破れたる布袴を着し。古扇をはら〳〵と遣ひながら。飄々として入り来れば。山人大に悦び。妻もろともに出迎ひ。客位に進めて座に着しめ。(もうけ)の酒肴を取揃へ。人交(ひとまぜ)もせず酌かはすに。狸が酒量水鳥に劣らざりければ。山人大に悦び。此辺の田舎漢(いなかびと)ども。我酒に敵する者なき故。遂に心よく酔たる事も無りしに。天(さいはひ)に酒友を給はり。(よろこび)を尽させ玉ふ事の嬉しけれと。数献(すこん)の盃を傾けしが。酒(たけなは)に及びける時。興に乗じて云けるは。足下(そつか)は数年の功を積て。定て(ばく)る事も妙なるべし。何ぞに変じて。興を添へられよ所望すれば。殆ど迷惑の体にて答へけるは。古来より狐狸と(なら)べ称せられ候へども。狐は千歳を(すぎ)て淫婦となり。百歳を経て美女となり。尾を(うち)て火を出し。髑髏(されかうべ)を戴きて人となる。氷を(きい)て河を渡り。丘を(まくら)として仁を見はす事は。古き書にも記せりとや。智は猛虎の威を仮て百獣を走らしめ。学は群書に(わたり)て。張華(ちやうか)が才を詰る。其霊なる事神に通じて。おほい一つの位に昇り。其(かだまし)き事人を(たぶら)かして。性命を(たつ)に至る。狸は其性痴鈍にして。神に通ずるの徳も無く。人を(そこな)ふの害もなし。狐の古穴を得て巣穴(すみか)とし。着捨ての故衣(ふるぎ)を拾ひ得て。人の形に化れども。もとより其技(つた)なうして。男女の心を(とろ)かすにいたらず。(やや)もすれば夜前の如く。(ばけ)を現はして。青松葉の難をかふむる。唯得たる所の術は。陰囊(いんなう)(のべ)(ちぢみ)すると。腹鼓を打て。古猫の舞を助くるのみなり。陰囊を舒る術は甚雅ならず。我党の腹鼓は

  人すまで鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓打けれ

(じやく)(れん)法師が歌にも詠れてほまれあれば。さらば打て聞せ参らせんといへば。夫婦は珍ら敷事かなとる召つかひの男女をも呼出せば。狸はなはだ自得の体にて。毛は(はげ)(ふくべ)のごとく。(つや)々としたる腹の皮を。撫まはし〳〵。双手(もろて)を上に撃ほどに。其響き(どう)々として。序破の調べとゝのひ。急の拍子(ひようし)(せつ)にあたれば。一座思はず席を進む。中にも水鳥は感に堪かね。投げ頭巾を鼻まで引こみ。黄なる紙に黒き骨をさしたる扇を開き。延上りかゞまり。すぢりもぢり。洩声(ゑいこえ)を出して舞ければ。女房をはじめ座中の男女。阿那(あな)腹いたやと絶倒し其興に入にけり。夫より上下うち混じて飲ければ狸も大に酩酊し。

 夜もいたく更ぬれば。又こそ参り候はんと。暇を乞て立帰りぬ。

是より後は夜毎のやうに来りしが。或夜狸いひけるは。我はからずも君が憐みを蒙り。美酒佳肴を(むさぼ)れども。素より畜生の身なれば。報ひ奉るべき手段もなし。此ころ千年の老孤に(まみ)へて。君に徳づかせ奉るべき事習い得たりと。播種(たねまき)収穫(かりいれ)の秘伝。稲災(いねのわざわひ)を知口訣(くけつ)を。つまびらかに伝へける。

夫より此法に従つて種芸するに。(さく)(とく)他の田地より十倍なるのみならず。あらかじめ風損水難を知て預防(てあて)する故。次第に富有の身となれり。山人生質闊達にして。利欲にかゝはらざる(おのこ)故。富を致すに従ひて。いよ〳〵(やぶさか)なる心なく。乞人(こふひと)あれば乞ふほどあたへ。貧人を救ひ。孤独(ひとりもの)を労はり。扨狸とは親類の如く。年をかさねて深く因み。一日来らざれば。彼が穴へ迎ひの人を遣はして呼び迎へ。かたのごとく酒を楽み。老の至るをも知らざりける。かくて其ころ安房国里見(よし)(ひろ)。相州小田原の。北条氏康(うじやす)と。当国国府(こふの)(だい)にて合戦はじまり。戦国のならひとて。残忍なる雑兵(ざつひやう)(ばら)。豪富の家へ乱入し。金銀を奪ひ取。あるひは(みめ)よき女を犯し。乱妨狼藉いはん方なし。水鳥が家へも押かけ。素手に手を下さんとせし所へ。例の狸。数多の狸をしたがへ来り。石を飛し。(いさご)を踏立。ある日は噛付食倒しければ。雑兵大に廃忘(はいもう)し。散々に逃散けり。扨件の狸ともに此家の家財を引くわへ。又は背に負つれて山手をさして運び退けさせ。水鳥夫婦下部(しもべ)まで一人も残さず引まとめて。人知ぬ深山に伴ひ。心安く乱を避しめ。里見家没落して。(いつ)(こく)静謐(せいひつ)に納りければもとの家居(いへゐ)へ送り帰せしとぞ。

&(こがらし)草子(そうし)』巻三 

 

西鶴の節用文学 さいかくのせつようぶんがく 

井原西鶴(164293)はじつに器用な作家で、好色物から武家物・町人物・説話物など幅広い分野の浮世物語を書き、一昼夜四千句独吟の矢数俳諧でも知られている。しかも発表作は一級品揃い、彼が描いた金銭と色欲の世界はいまなお多くのファンをひきつけている。

天下の台所、大坂で生涯を送っただけあって算盤(そろばん)勘定にも長けた人だった。

市井小説『世間胸算用』『日本永代蔵』の二作では、数字が行間に踊り、随所で彼ならではの算用観が披露されている。うち『世間胸算用』から西鶴の才覚溢れる一篇部分を抜書きしてみた。

つまりての夜市(よいち)

ことさら貧者(ひんじや)大節季(おほぜつき)、何と分別しても済みがたし、ないというてから、(ぜに)が一(もん)、おかぬ(たな)をまぶりてから、出所(でどころ)なし、これを思へば、年中始末をすべし、日に一文づつたばこにてのばしければ、一年に三百六十文、十年に三貫六百なり、このこゝろから算用すれば、茶・(たき)()味噌(みそ)(しほ)・万事に、何ほどの貧家(ひんか)にても、一年に三十六匁の違ひあり、十年に三百六十目、これに、利をもりかけて見るときは、三十年につもれば、八貫目余の(かね)(だか)なり、惣じて、すこしの事とて、ふだん(じやうじゆう)の事には気をつけて見るべし、ことにむかしより、()(ざけ)()むものは貧乏(びんほふ)の花ざかり、といふ事あり

ここに火吹くちからも鳴き、その日過(ひすぎ)(くぎ)鍛冶(かじ)、お()(たき)稲荷(いなり)どのへ進ぜたる、お神酒(みき)徳利(どくり)のちひさきに、八文づつがはした酒、日に三度づつ買はぬといふ事なく、四十五年このかた呑み暮らしける、この酒の(たか)、毎日小半(こなから)(二合五勺)づつにして、四十石五斗なり、毎日二十四文の銭、つもり〳〵、十二匁銭にして、銀に(なほ)し、四貫八百六十目なり、「この男下戸(げこ)ならば、これほどに(ひん)はせまじきもの」と、笑ふ人あれば、この鍛冶、我が(いへ)をさめたる顔つきして、「世の中に下戸の建てたる(くら)もなし」とうたひて、また酒をぞ呑みける、(すで)にその年の晦日(おほつごもり)に、あらましに正月の用意をして、蓬莱(ほうらい)(かざ)りながら、酒小半もとむる銭なくて、ことのたらざる宿さびしく、「四十五年このかた、一日も酒のまぬ事のなきに、日もこそあれ、元日に酒なくては、年をこしたる甲斐(かひ)はなし」など、夫婦さま〴〵内談(ないだん)酒手(さかて)の借りどころなく、質種(しちだね)もなく、やう

 

讃 さん 

「讃」の語義は幅広いが、人物や書画を褒め称えるために添え書きしたものを狭義の〈讃〉と称している(漢文詞章を含む)。気の利いた〈讃〉を物することは江戸文人の誇りとする気風があったし、傑作は床の間に飾られ家宝として珍重されてきた。なお信仰色の濃い〈和讃〉は、遊戯とは別して一線を画する必要がある。

太田記念美術館蔵〔東京都渋谷区〕

【例】

遊女讃                                        大田南畝

(まこと)(うそ)の皮、うそはまことのほね、まよへばうそもまこととなり、さとればまこともうそとなる/うそとまことの中の町、まよふもよし原、さとるもよし原 &『四方のあか』

 

酒戦記 じゅせんき 

 酒合戦の模様を千気風に記述した文学。有名な書冊に『水鳥記』がある。

『水鳥記』は、地黄坊樽次こと茨木春朔著の仮名草子、二巻二冊。寛文七年刊。慶安元年に武州大師河原で催された大酒戦の模様を記した伝記とはいえ、、書誌分類上は一種の戯作かつ偽書である。自述か他述か不明の戦記でしかも偽書まがい、そのうえ正本二冊、巻物一巻、写本の数も多いので、内容の事実の程は大幅に割り引いて考察する必要があろう。

 つれ〴〵なるまゝに日ぐらしさかづきにむかひて 心のうつり行まゝによしなし酒をそこはかとなくのみかはせば あやしうこそ物ぐるほしけれ いでやこり世に生れては 下戸ならぬこそをのこはよけれと兼好がいひおきし とかくのむほどに上戸の名のたつた山 紅葉をばたきて酒をあたゝめけんも いづれわれらが先祖とかや 其子孫として今底深樽次と示現す──池上文庫本『水鳥記』序(書き出し) 

《参考》

樽次大しがはらへ付入の事 付甚鉄坊名のりの事

*『水鳥記』池上文庫本(1941年刊)より、樽次が酒合戦場である大師河原(現川崎市の多摩川下流)へと乗り込む段から転載する。

樽次は池上が引とる勢に(おつ)すがふて大師がはらにおしよせたり その日のしやうぞくいつにすぐれてはなやかなり はだに取てはきぬにかみこを引ちがへ ふるやなの上と下とをはねぬき 桶がは胴と名づけつゝ白綾にて鉢まきし かすけなる馬に白鞍置て打のり 底深が門前につつ立あがり大音声にて そもそも是までよせ来る者をばいかなるすゐきやうしやと思ふらん かたじけなくも武州の大塚に居住して六位の大酒官地黄坊樽次とは我事なり 底深はおはせぬか けんざんせむとなのりたる其骨柄(こつがら)天晴大酒とぞ見えにける 底深もよかりけり 心得たるといふまゝに広敷までおど出 椽の板もさけよ〳〵とふみならし 此翁こそ当地の大蛇池上太郎左衛門尉底深とは我事なり 間近き所まで馬上のていこそ尾籠なれ はや〳〵おりられよ勝負をはじめんとぞ申しける かゝりし所に樽次かたより年のころ五十ばかりなる大入道一騎すゝみ出なのるやうこそおかしけれ そも〳〵こゝもとへあらはれいでたる法師こそ鎌倉の甚鉄坊と申す智者にて候 もとそれがしは鎌倉の山里いき村と申すところに寺をたて 真言の秘密をとなへしかば たうとき御僧とて諸だんなにちさうせられ候しが 或時隣の庭鳥飛きたり餌をひろひてゐたり 折ふし小僧らも見えざれば 天のあたふる所と取ておさへねぢころし 不調法ながらも料理し 日頃の妄念をばはらしけるに 天に眼かべに耳あるうき世にて 彼あるじ早くも聞つけかけり入て申やう そこなるわ入道 御身の心は常〴〵荒磯の 小僧らがあまたもうつせ貝 日だにくるれば何やらかほ〳〵といふからす貝 かやうの貝もやぶるときく 又大酒のみて(おん)(じゆ)(かい)けふ庭鳥をころして殺生戒をやぶるにあらずや 前代未聞の悪僧なれば いかやうにもと思へども かねてなじみし事なればとて いのちばかりはいき村の 寺をば遂に追出され せんかたなみだにむせびつゝ 家をかぞへて鉢をひらきしに 悪事千里をはしるとやらん 鎌倉中にかくれなければ 是こそかの甚鉄坊よ(中略)

甚鉄坊一二の樽をのみやぶる事 付さめやすしゐふせらるゝ事(承前)

やゝあつて池上方よりも年の頃四十ばかりなる髭黒のをのこ一人まかり出、これこそ朝はらにもよくくらふやつとて すなはち朝腹九郎左衛門とかたじけなくも御代官にあざ名つけられし者にて候 わぎみ法師ながら真先に進み給ふやさしさよ すいさんながらも中ざし一つまいらせんといふまゝに 芳野うるしにてためぬりにぬつたる大盞をとり出し 上より下までひとつになれと引うけ しばしたもつてぞ見えにける 甚鉄思ふやういや〳〵きやつめに胴中とほされかなふまじ さしよりて手づめの勝負いたさんと もとより早わざの達者しばしといふより早くとんでいり むかふさまにむずと引くみ 長柄をおつとりなほし 彼が胴なかまでもとほれ〳〵とつきふする これをはじめとして手もとに進む兵をさしうけ引うけ 北からみるめ西からひらめ 蛛手かくなは十もんじやつめさかなといふものに散々にこそはしゐぶする もとより五戒破りの甚鉄坊 早一二の樽どもおし破てぞ見えにける 底深これを見るよりも まづ此坊に引くまんと思ひしが いや〳〵葉武者どもに目をばかくまじ いかにもして樽次にと思ひしかば まつ先にすゝみ大音声にて宵よりも度々けんざむすといへどもいまだ勝負なし 初対面のしるしにすゐさん申さんといふまゝに 鷹の羽を絵がいたる大中わんの大盞とり出し えいやつと引かけ見えければ 樽次ものがれがたしとおぼえける所に うしろの方より年の頃はたちあまりの男すゝみいで これこそ山がの住人喜太郎醒安と申者なり 樽次の御名代に馳向って候と申せば 誰にても相手はきらふまじといふまゝに 手もとをはなつてとばせぬればあやまたず のどぶえより胴なかさしてつつといり いたみなればこらへずして弓手のかたへ倒れ前後もしらず吐ゐたり 事かりそめとは思へども あなたにては桶呑半死半生の体 こなたには醒安存命不定に見えければ 互に哀とおぼしけるにぞ しばしなりともやすめとて 相引にこそ(ひかれ)にけれ

近郷のものども底深にかせい申事 付樽次をりへおとしの事(承前)

すでに時刻もうつりゆけば 樽次人々をめして 一騎当千の醒安もかくなりゆく事のふびんさよ これ以て我恥辱とおぼえれり 面々粉骨をつくし会稽の恥をすゝいでたべとあれば 誰もかうこそ存ずれとて 大勢のどをならしてぞかゝりける 底深このよしはるかに見て 敵ははやさめはだになりてよせくるぞ そこを破らるなと下知あれば うけたまはるとて一騎のものこらずすゝみ出 こゝをせんどともみあひける 大虎目礼 木仏の座などいへる酒宴の道 互にしりたる事なれば はぼねをならし舌つゝみうつて追つまくつのかけあひに 池上方の逃る時もあり 樽次かたの追はるゝ折もあり両方おめきさけぶ声 これぞ誠にしゆ羅道にをちこちの たちはもしらぬ時節なるべき かゝりし所に勝手へさしむけられし毛蔵坊 五体はみな赤うなりて たらり〳〵とたゞ酔 あらくるしや飯嫌よ 大将はいづくにおはします 樽次これを見て あれは赤坂殿か これへ〳〵とあれば やがてかしこまり 扨も底深は両度のもみ合に一二の樽はやぶられたれども 酒は猶池をたゝへて候 此事申さんためひそかに参じて候と申せば 樽次うなづき 神妙なりとぞ申ける これはさておき近郷の水鳥等とうかの宮にはせあつまりて評定しけるは 大塚の地黄坊と当地の大蛇丸牛角のせりあひとは申せども やゝもすれば底深がた引いろに見ゆると聞えたり いざ〳〵後詰してまいらせんと大勢はせ加はりければ 池上かたはいよ〳〵あら手を入かへ そくじにしゐふせんとす 樽次は寄手にしてしかも只十六騎はや半は酔ふしのこる人々も大かたうす茶おもゆの体なれば 今こそみづからがさし出べき時節なりと大勢の中へかけいれば 是こそ大将よあますまじといふまゝに真中におつとりこめ 長柄をそろへてさしかゝる この度の戦には池上の家にかの重代はちりやうと申ける ことにこれをぞめされける されども樽次玉になれたる鳳凰の おどろくけしきはすこしもなく おつかけすかさずくる盃にひらりとまはり さしふせねぢふせ 手もとにすゝむやつばらを六七騎しゐふせ めぐり〳〵て今は又底深にくまんとたくむ所に なにとかしけんをりへをひとつとりおとす 折ふしむかふはひきくして あなたの方へころびゆく されどもこれをば敵に渡さじと はるかの末座におりくだり とらん〳〵とするほどに かたきはこれを見るよりも 長柄にひつかけてゑいやつとあらそへば 味方は声をそろへてすてさせ給へと申けれど 遂にをりへをとりかへし につこと笑てかへりたり その時飯嫌の申やう あらくちおしの御ふるまひやな 南河原にて数呑が申せしもこれにてこそ候へ たとへ千盃入のをりへなりとも 御さかなにはかへ給ふべきかと涙をながし申せば いやとよ盃をおしむにあらず 樽次座興に盃をとつて私なし 然ば此盃をかたきにとられ 樽次は小虵なりといはれんは無念の次第なるべし よしそれ故につかれんは力な 樽次が酒運のきはめと思ふべしとかたりければ 飯嫌さてその外の人までもみなかんなべをぞながめける

樽次さめやすを尋ねさせたまふ事 付さめやす歌よむ事(承前)

樽次その後赤坂の毛蔵坊をめし 醒やすは夜半の頃底深にわたりあひ 半死半生とは見てあれど かけあひのさいちうなれば言葉をかくる事もなし いかゞおぼつかなし たづねてまゐれとありければ 飯嫌もこれをきゝ けふは人のうへあすは我身の上ぞかし いざや醒安を見つがんと毛蔵坊もろともに たづね行こそあはれなれ かたき味方はしらねども こゝかしこに大勢倒れふしたるはたゞさんをみだせるごとくなり このうちに醒安やはおはする 喜太郎やあるとしづかによびて通りける むざんや醒安は黄羽二重にて頭をつゝみ 小屏風をかたどり前後もしらで居たりしが よばはる声をきゝしより 今こそ目がさめやすとこたふ 二人の人々はしりより あたりなる戸板にのせて先を飯嫌かきぬれば あとをば毛蔵坊ひかへつゝ 樽次の前にすゑておく かくてかへりは来たれども わる酒のわざと見えて五体ものこらずあかくなりたり 体もいたづらになり ぬしもむなしくよはりけるよと樽次ことになげきたり 其時毛蔵坊かれが手をとつて 心地はなにとあるぞ 枕もとはかたじけなくも御大将樽次どの あとは飯嫌 弓手のかなたは佐保田 かく申すは赤坂の毛蔵坊なりといさむれど とかうの返事もなければ 彼に力をつけんとてあらゝかなる声をあげ あらひがひなのありさまや 三浦の新之丞は松原の手合に名主四郎兵衛を組ふせ 黒塗りの大盞を分収してこそ三浦の樽あけとはいはるゝぞかし それほどにこそおはせずとも かほどのことにやみ〳〵とよはり給ふ口おしさよと申せば 醒安いきの下より申やう 何と申ぞ毛蔵坊彼樽明けにさめやすおとるべきにてあらねども 池上殿の大盞はいなかまでもかくれなし はゞ広ふそこふかくものゝ上手が木うすにつくつたる大盞にてたゞなかをとほされ なんぼうくるしいとはしらざるや またさめやすにてあればこそ御前にてかくものは申せと だん〳〵によはりによはりしが

  我しなば酒やの庭の桶の下 われてしずくのもりやせんもし

とはよみけれども 前後もしらぬふぜいなり

*醒安は実名を守屋仙庵という。これを知って右歌(辞世)の面白さがわかる。

底深樽次和睦の事 (承前)

かやうにみなよはりゆけば 今宵の勝負いかがあらんと樽次もいさむ心なし 其ころ池上かたに田中の内徳坊呑久とて 大盞取てのつはもの近郷にかくれなき客僧のありけるが 今度も一番にはせ加はり数度の勲功ならぶものなかりしが 度かさなればよはりけるにや 底深に向て申やう 樽次はきゝしに勝る大酒にていまだよはり給はず 此うへはたてあはんずるものは両将ならで外になし かく申それがしも宵より数度のせりあひにはげしくしゐつけられ 今は前後をぼうじて弓もなき空穂ばかりつけたる体なれば もはや御すけ申す事もなりがたし 此時節をうかゞひ必死の合戦あるべくは 両将の御いのちもあやうく この内徳坊もかへつてないそん坊になるは必定なり たゞ興のつきざるうち双方御和睦しかるべしと申ければ 底深樽次両将も げに尤いみしくも申出けるよ いかま互に今よりは ことぶき長く汲かはすこそめでたかるべけれとて 双方たがひにうちやはらぎ 心のどかにくみかはしけるほど

三日三夜ぞうつりける さて樽次はさらばとて 函谷の関にあらねども鳥をかぎりに大師がはらを立ちいでゝ 南がはらに帰陣せり

あくれば樽次さむらひたちをめして 今度敵におくれをとらざりし事(承前)

御辺たちいつにすぐれてすゝみ給ふ故ぞかし 且は樽次呑運にかなふとおぼえたり もはやめん〳〵も帰宅して このほどのつかれをさまし給へとありければ おの〳〵よろこび在々所々へぞかへりける 樽次はそれよりもついでよければとて菅村に立よりぬれば かの夫婦まゐりむかへ 君ならでと色々の珍物とりそろへさま〴〵にもてなせば あるじのなさけにほだされて こゝにも数日を送りたり すでに六月上旬にもなりしかば 今は大塚にかへらんとものすれば ともかくもとて大くろといふ馬に白くらおいて引立たり 樽次引よせうちのれば 馬はきこふる名馬にて みぞをとび川をこしくが地をはしる事たゞいなづまのごとくなれば さらば今日午の刻ばかりに大塚につきなんとよろこぶ所に この道中にかくれなければ樽次のかへりをさまたげんと 宿々のあぶれものども要害かまへ雲霞のごとく待ゐたり されども夏の日のあつき日影も暮わたりぬ 戌の刻ばかりになりぬれば 酒林おつ立て侍ぬる体には見えけれど 折から空もかきくもり 目ざすともしらぬやみの夜なれば とほるとも知らざりけるにや 誰とがむる者もなし 樽次思ふやう 只今こゝもとを案内なしにとほるならばしゆくのものにおそれて夜逃にしたりなんどゝ 後日のひはん家の疵と存ずれば 名のるべしとてやがて木陰に馬引すゑ大音声にて 大塚に地黄坊すみけるとは兼てきゝてもあるらん 今は目にも見よ 今度池上と合戦し只今こゝもとをとほるなり 我と思うはん人々盃はいでよくまんとよばゝれば しゆくの者ども是をきゝ 愚人夏の虫とんで火にゐるとはこれなるぞ にがすなといふまゝに松火おつとり上を下へとぞさはぎける 中にもさいかし原の大六大八とてをとゝひありけるが 樽次を手取にせんとまつさきかけてはしりよる 樽次これを見て奴原はをこの者なればちかふよせてかなふまじ のみすてにしてくれんとて 例の大盞とつて引うけしばしたもつてとばせたればあやまたず 真先にすゝンだる大六がのどぶえやぶつてつつとぬけ 後ろに皮下へたる大八が胴なかにこそとまりけれ いづれもいたみなればゆんでめてへ倒れふし 前後もしらず見えにける 宿の者どもこれを見て かなふまじといふまゝに村々へさつと引にける そのひまに樽次は駒に鞭をすゝめつゝ 大塚さして帰りたり このたびよりはながく池上大塚の酒名をば四方にあげにける まことに治る御代の国津かぜ 日々夜々に吹つたへ いねうかつごうするほどに 樽にたる 柳にまなかかさなりて双方繁昌したりける 果報のほどこそめでたけれ

そも〳〵此さうしをおもひたちぬる事 ちかくの山里に我をしる人ありて 行かよひ侍る折々に 酒宴にあそべる友どちひとりふたりいざなひてかの里人と敵味方をわかち朝夕あらそひのみしを いかなるつてにや玉たれのうちにきこえしかば そのたはむれのしな〴〵をきかまほしくおぼすよしきこえしかど 人づてならでいふよしのなければ数ならぬ身と思ふ心を種として よしあしのことの葉をもしほ草かきあつめ侍るは 名もなにはの物がたり 人の見るめのよしあしさへもわかたねば げに水鳥のしたやすからぬかも

   慶安三年五月

此一巻を水鳥記と名づけて 世の人もてあそぶことひさし そのもとはかの底深がしるしたる文にて 今も蜂竜の盃とともに遠孫幸仲が家につたへたり そは世につたへしとは同じ趣ながらまたくたがへるふしもすくなからず よてこたび幸仲思ひおこして 底深が筆のあとにまかせて 菫川法眼にそのさま絵がゝせ やつがれにこれが言葉をかきそへてよとこふ やつがれ七十に五のとし波こえて 眼もくらく手もなへて ものかくことも心のまゝならねど かの池上が家は 石上(いそのかみ)ふるきよりのよしみもあれば あながちにいなみがたく 夏ながら霜にかれ〴〵の筆とりて わきいづる泉橋のほとりの高楼に あつさをさくるいとまかきながしぬるは 年のなを嘉永といへる五かへりの五月(さつき)二十日ばかりのことになむ/司直しるす

&水鳥記(すいちようき)』(池上文庫本)▼記録、源司直補筆(嘉永五年成)・中道等編、非売品・昭和十六年刊

*右跋文の源司直(成島司直、17781862)は幕府お抱えの儒者で、徳川家実録『徳川実紀』などの編者として知られる。したがって、『水鳥記』を補筆し仕立て直した文責の信頼性は高いと評価してよかろう。

 慶安代酒戦図〔近世奇跡考〕

 

情痴の連歌 じょうちのれんが 

さして有名ならず尊名は忘れたが、ある近代文学者は「江戸文学は都会文学、都会文学なら軟文学の流行に極りがある」と喝破した。この真理は江戸時代の現象に限らず、現今にも通用する箴言ではないだろうか。

「文芸遊戯」の当該項で記述しているのでここでは触れないが、連歌における宗鑑や宗因は明らかに軟派指向を突破口に連歌の大衆化を実践した。

かの西鶴(俳号は称寿軒)も矢数などで情痴の句をいくつも作った。そして面白いことに、〈情痴の連歌〉を吟ずる段になると、誰もエロチシズムに向けがぜん雄弁になるのである。

【例】

俳諧連歌集の野卑な詠み初め

     

 霞の衣すそはぬれけり

 佐保姫の春立ながら尿(しと)をして &『新撰 (いぬ)筑波(つくば)集』

「佐保姫」松岡映丘画

山崎(やまざき)宗鑑(そうかん)(14661553)は室町末期の俳諧連歌師で、談林俳諧の祖。宗鑑が編んだ『犬筑波集』は、天文頃までに詠まれた俳諧連歌(俳諧発句の付句)集である。その第一歌は、「霞の衣の裾がぬれてるよ、佐保姫(春をつかさどる女神)が立小便をなさったので」の意味である。「霞の衣」「佐保姫」「春立つ」はすべて縁語関係にある歌語。滑稽味のうちに意味深長な付句の妙を漂わせている。さて俳諧連歌は、和歌から分岐した室町期今様の滑稽俳諧を趣きとした短文芸である。『新撰筑波集』撰者で連歌の正統派を任ずる飯尾宗祇らが、連歌を芸術域まで高めようとする機運のあるなかで、宗鑑や荒木田守武らは卑俗語を惜しみなく使いこなし、俳諧の連歌としての独立をめざした。五七五の俳句は、まさにこの両名が基礎作りをしたといってよい。掲出歌を一読してわかるように、平易な表現で卑語や通俗語を巧みに用い、一見して野卑な印象すら与える。しかしながら、お上品に構えた和歌には見られない、新鮮な息吹きが感じられるではないか。

「飛梅千句」より

▽天津乙女雪隠さしてあま下り    西 鶴

 あしだをはいて雲の通ひ路     西 長

さら世帯いくたび袖をはらはま     西 鶴

 是も似合いの蚤の女夫に      西 長

 

浄瑠璃文 じょうるりぶん

浄瑠璃は平曲や謡曲に源を発する語り物・演劇の総称で、いわゆる浄瑠璃語りの詞章を〈浄瑠璃文〉といっている。室町末期の姫浄瑠璃から形を整え、江戸初期には古浄瑠璃と呼ばれる人形芝居が完成をみる。

元禄の頃、近松門左衛門という偉大な浄瑠璃作者が現れ、洗練された浄瑠璃台本が次々と発表された。近松や語りの竹本義太夫の出現で日本の演劇は「情念の表現」を軸とする、いわゆる「新浄瑠璃」の時代を迎えた。しかし浄瑠璃の人気も明和年間あたりまでで、やがて歌舞伎の隆盛に取って代わられる。

浄瑠璃は多くの心中物に見られるように、「泣きの世界」を描いて妙である。浄瑠璃文のほうも、作者の粘っこく連綿と続く美辞麗句を表現するための弄辞に染まっている。よく言えば歯切れよく、悪く言えばガサツな江戸っ子気質に、浄瑠璃はそぐわなかったわけだ。

【例】

饗応の場(浄瑠璃脚本、宝永四年初演)                           近松門左衛門

女房おたねは酒好きにて、オヽこれは気がついた。浪人の親なれば。お肴はなくも、お慰みに一つと言へば。御用もあらんに近頃これはかたじけなし。まづそれより。いやそなたよりお辞宜(じぎ)なし。しからば文六殿よりと言へども。さすが酒好み、手まづさへぎる(さかづき)の、母がひに私から。お燗をみてと引受けて、さらりと干し、文六にぞ差しにける。我らはかつてたべぬとて、ちよつと飲んで。お師匠へ、慮外(りよぐわい)ながらと礼をなす。源右衛門戴きて、もとより上戸の家の者。舌鼓(したつづみ)たん〳〵と打ち、ハツ、ハツ、あつぱれ御酒かな〳〵。拙者も深うは下されぬが、ちと御酒を好む故。方々吟味いたせども。これにはなか〳〵京酒も及びなし。色よし、香よし、風味よし、御亭主様の御心まで。御(なつ)かしう候と酒挨拶の客振(きゃくぶり)の、よきも過ぎては仇となる。先の見えざるうたてさよ。すぐに、これを文六殿。返盞(へんさん)申すと、言ひければ。こゝは母が押へまし。(あひ)をいたしてあげませんと。また引受けて、ついと干し。(ささ)御気(おき)に入つたらば。一つあがつてくださんせと。置かせもあへず杯取り、何がさてくだされんと。たんぶと受けて、一息飲み。文六にぞ戻しける。今度もちよつと口つけて。(はばか)りながら叔母様へ。あげませうと、差すところを。はてさていかに飲まぬとて、あまりすげない。一つ飲みや、(かか)(あひ)をしませうと。たぶ〳〵受けて、つつと干し。母の身でわが子の間。めでたい上のめでたさに。江戸の父御(ててご)の名代にこゝは一つ重ねませう。サア大間(おおあひ)を頼みますと。また源右衛門にぞ差しにける。さては御内儀(ごないぎ)様にはちと御用(おもち)ひと見受けたり。(なれ)しき事ながら、お手元みんと、突戻す。妹は笑止(せうし)がり。いや〳〵深うはたべられず。殊にこの頃あてられて。気色(きしよく)もすぐれぬ折からなれば。姉様もうおかしやんせと。側からたって(とど)むるが、張合ひになる上戸の癖。エイ何言やる、お肴もない(ささ)なれば。飲んであげるが御馳走と、得手かつてより(かへ)銚子(てうし)。客は()(つづみ)一曲の、これでは一つと差(めぐ)る。杯取つてはあつぱれな、剛者(つはもの)の交り。頼みある仲の酒宴かな。

&(ほり)川浪(かわなみの)(つづみ)』中巻

鬼界が島の場 第三      近松門左衛門めでたいといふ言葉が。三々九度ぢやと言ひければ。ハアこのいやしい海士(あま)の身で、()の袴とは親罰(おやばち)かぶること。都人に縁をむすぶが身の大慶。七百年生きる仙人の薬の酒とは菊水(きくすい)の流れ。それを(かたど)り、筒に詰めたも、この島の山水。酒ぞと思ふ心が酒。この(あはび)貝のお盃いただき。今日からいよ〳〵親よ、子よ。(てて)(さま)よ、娘よとむぞうが者とりんによぎやアつてくれめせと。言へば各々(おのおの)うち笑ひ、げに(もつと)もときくの酒盛。鮑は瑠璃(るり)の玉の盃。さいつさゝれつ飲め歌へ。三人四人が身の上をいわうが島も蓬莱(ほうらい)の。島にたとへて、汲めどもつきぬ泉の酒とぞ楽しみける。

&(へい)()(によ)(ごの)(しま)

 式三献神楽獅子(語り物)                                       十寸見(ますみ)河東(かとう)

*作品はいわゆる「河東節」、江戸浄瑠璃の一派である

扨もそののち。  女にあまんのぬのあり。おとこにあまんのあわあり。国家さかんに富み。しやうかこも〴〵たる。かるがゆへにかんろその庭にふり。霊泉そのつゝみに流れ。鳳凰その樹に巣をくひて。きりんその園に至るとは。今此ときや平安城。花の都の花の 春初日かゞやくその光。やぶしわかねばいそのかみ。古きせぞくのたとへにもアイ。一つ星を見付けたらば長者にならふなアイ。なればならるゝ。世の中の。/是ぞ宝の山崎や。淀のわたりに名も高き。淀やこあんがひとり子にアイ。/しもく島ばら新町の。色にうき名は辰五郎。いまを盛と。からなしの。からは小がらな男山。八まんきかぬ色ごのみ。長者のはぎにみそめにし。よめはふしみの大納言実基卿のひとり姫 シテ とらごぜんとて 虎のすむ 竹よりすぐなおしたてに。丸わたぼうし白むくの。きつけ打掛嫁入の。まず初こんには引わたし。ほやくらげうちあはび。大引わたしに略しては。こんぶかちぐりのし。のつし〳〵とねやに入る。とりむとりむ姿はいづれしの。はねをならぶる瓶子の口の。めてふを下にあふのけて。を蝶をうへにうつぶけて。抱合はするはこよひより。夫婦抱合ふしるしの祝儀。陰陽和合を表すなり。 ヲドリ歌 扨かわら家は三つ重花嫁君に二どつぎて 左へ二足立つときは くはへは六足あゆみよる。めをの銚子の口と口 打寄せくわへしやく取は。ひだり〳〵と立まはる。是ぞ契りをむすびのし。ぎしきすみの江高砂の 松もはづかしにゐ枕。まつとしりつゝまたせておゐて まだこぬひとのつらにくや。 

▲市川団十郎出 ウタヒ みきときく。みきと聞く名もことはりやむめがかの。色こそ見へね。丸わたの。内ぞゆかしき。白梅花色なをしとて紅梅の。うすきはいやよ君とわが。心のそこをくらぶ山。やまのかひ有る長ろうか。闇にこゑゆく手とぼしの。しんぞ。此身は雪のむめ。ゆきけし。ならぬさかづきに。ゑふたとさ〳〵 あしは千鳥かうぐゐすか。扨はすゞめのこもち筋かちんのはかま かたぎぬや。かのぎんこうがからごろも。

&十寸声(ますみせい)曲集(きよくしゆう)』上の巻・初段

 

随筆の遊び ずいひつのあそび 

随筆、(きまま)な筆の運びにまかせた文章。それだけに文体や内容も一様ではない。遊興気分に乗りまくって筆を走らせたものもある。その中から掌編ものを拾い出してみた。

【例】

浅草観音堂                                                    戸田茂睡

空の気色(けしき)も薄曇り、今桜咲きぬといはぬばかりなれば、(たちばな)元任(もとたふ)が「こればかりだに人におくれじ」と読みし心も同じきと、駒形堂(こまがただう)()でたるに、貴賎群集(ぐんじゆ)の花見衆、袖をつらねし有様は、咲く花よりも見事なり、(中略) 先程にかはらず、(なる)神門(かみもん)はまだもみ合ひて入りがたければ、中々花も見らるまじ、よき酌もあらばそれを花と見て、酒呑み遊ばんと、ここかしこを見るに虎屋、鼠屋、一文(いちもん)字屋(じや)、沢辺に茂る沢瀉屋(おもだかや)、流れの水は巴屋の、いなにはあらぬ君が名は、おかや様と申せしは、まこと最上(さいじやう)屋の名酒なり、九曜(きうえう)屋、鯉屋、布袋(ほてい)屋のおてい様も見事なり、井筒(ゐづつ)の内の藤の紋、島屋が前を通る時、唐土(もろこし)はしらず、我が(てう)に隠れ御座ない白鼠、福屋のおなつが出て招く、「いざ立ち寄らん」「(もつと)も」と云ふこそ程も久しけれ、手々(てんで)(あみ)(がさ)ひんぬぎひんぬぎ(はい)りける(よそほ)ひ、狂乱人も(おもて)をうぞ向くべきやなき、福屋が所にはおなつ、おはな、お国と云ふあり、それをひとつに読めといへば、遺佚(ゐいつ)がそのまゝよむ、

  花の()(なび)くにつけて春風のふくやかほりのおなつかしやな

奥の中二階(ちうにかい)へ上がりたれば、はや盃を出したり、菓子にとりては何とぞ、まづ日の本の第一番、日本橋の一町目塩瀬(しほせ)が饅頭、小饅頭、(かうぢ)(まち)のふの焼きは助惣(すけそう)よりぞ始まりける、池の端のめりやす煎餅、本所の馬場(ばば)のくず煎餅、芝の陳三官(ちんさんくわん)(から)(あめ)飯田丁(いいだちやう)壺屋が饂飩(うどん)を出し、所の名物なりとて、駒形堂の鯉を高砂屋が味噌にて吸物にし、その外橋場(はしば)(しじみ)、深川の牡蠣(かき)()(しま)川の白魚に、浅草海苔(のり)の吸物あり、酒も所の名物とて隅田川を出し、永代(えいたい)(じま)三笠山(みかさやま)、伊勢の吉兵(きちべい)佐兵(さへい)が蔵の奥の本直(ほんなお)し、合はせ酒まで飲ませたり &(むらさき)一本(ひともと)』巻四

 

(のん)太郎(たろう)が伝              相如(北華)呑太郎は何れの所の産といふを知らず、其母夢に、(しゆ)(せい)懐に入る、其影酒泉に移ると見て(はら)めりとぞ。生れてより其母乳すくなし、酒を以乳に替て育す、やゝ人と成るに及び、ます〳〵酒を好む、明れば飲み暮れば飲む、人(しやう)じてのむ太郎と云ふ、甚だ過ぎたる時は目すはり、色青く、鼻つまり、舌廻らず、同じ事をくり返し言う事幾百遍、歩む時は道いく筋にも見へて、へろ〳〵(ぜん)たり、座せる時は家廻りてころ〳〵然たり、甚だしき時はむさき事折〳〵有り、犬有て是をよろこぶ、また二日酔(ふつかゑい)(あした)は、日たくれ共起きもやらず、(かしら)をかゝえ胸をさすり、或は豆腐(きら)()()、水(ざう)(すい)生気(しやうき)つけども、未だぶら〳〵〳〵としてをくび出で、此時に至って再び盃を手に取るまじと誓ふ事数度(あまたたび)、しかする時に宿(しゆく)(しゆ)の気少し薄らげば、又迎酒(むかへさけ)にいざなはれて、元の生酔(なまゑひ)とは成けり、或人呑太郎に問ふ「過酒(くわしゆ)すれば必ず病を生ずるにあらずや、其病の生ずるを知て、何ぞ過酒をいましめざる」のむ太郎が曰く、「(しか)らず、酒を過す病元来有り、病発して過酒す、過酒して病生るにはあらず、只我が病は酒を過す事を好むのみ」といひて、又七盃 &風俗文集昔之(ふうぞくぶんしゆうむかしの)反古(ほご)

松平伊豆守様、土井大炊守様御不快中の事の由(文化十三年八月)    筆者未詳

貴様達の若狭(老中酒井)出羽(老中格水野)伊豆(老中松平)までも勤まらふが、此様に成つてハ、安部(此度老中備中守)のこれ能登(西丸老中松平)事の大炊(老中土井)場所が勤まるものか、下野(老中青山)までには是非〳〵退役するつもりだが、跡役い加賀(大久保所司代)だと、みんな右京(大阪御城代松平)てんに成つて有馬(若年寄左兵衛佐)せうと思つて、堀田(若年寄摂津守)て尻ヲし待て居たが御差留て、其沙汰も内藤(紀伊守)にして近江(若年寄小笠原)にあてが違ふから、又外を見たを周防(松平)ト駿河(植村若年寄)きうにハ壱岐(若年寄水野)ますまい、&『文化秘事』

*原文中割注を( )内に収めた。

可盃(べくさかづき)                                             笠亭仙果

可盃は底を尖らして、酒を酌て後は下に措事のならぬやうにしたるものにて、酒好む人の一息に飲み乾べくかまへたるものなり、可字は何々すべしと書に、必可某と上に書下には書ぬより、号たるなぞ〳〵なり、雛形為井重草(宝永二年、井上茶全堂新七選の横本)盃の図種々載たる中に其形あり、西鶴続つれ〲(元禄八年印行)一巻に、永代堀のほとりに、町人の若いもの集り夜まで燗鍋たへず、可盃の後みな〳〵気強くなりてとあるは、互に手より手へうけ、酒を頻りに飲で盃も下に置かぬを云、

 古渡集(享保十八年刻)下巻に、菊の発句に、  

 我尻も可盃よきくの頃              素 英

これもところ〴〵に酒宴有て、尻のすわらぬといふ意なり、俳諧雑巾(延宝九年刻)五巻、月の発句に、

 影なれややどりもはせぬ可の月        膳所一葉

此雑巾の句は、盃の事も決がたけれど、月のひさしくとまられぬを、盃になぞらへて読たるとおぼし、小町躍(寛文五年立圃撰)春の下、花の句に、

 つけざしは可さかづきか花の友        重 頼 

此所に余白あれば、上の雛形に出たる形の、手元なる抄録にて見当りたる物の本、並に発句によみたるを、二ツ三ツこゝに摸す、

 崑山集(明暦二年版)

  影おしき月のおかたや大原椀      (江戸)勝 重

  崑山集(第十一、九月九日の句)

   心あてやおりべに九盃菊の酒      西 民

世話重宝記(元禄八年刻)

今のちひさくうすき盃は、織部殿ものずきなれば、すぐに盃の名として織部といふなり

西鶴置土産(元禄初年印行)九巻に、

  熊谷の大ぶりなる金の盃と、さんごじゆの盃とかさねて、太夫にとらせければ云々

&於路加於比(おろかおい)』巻一

当世すれすれ草(時事早わかり)

尸位素餐(イソロウ)の徒然なる儘に、独り日暮里(ヒグラシ)飛鳥山を風邏行(ブラツキ)、青葉の蔭に立寄らば、大樹の本お払ひ下げの地所に目を配り、よき銭設けの種を蒔かんと、そこら虚狼(キヨロ)々々と眼を配り、往還(ユキキ)の人に世の体裁(サマ)も思ひやられて、彼の蚊鳴(ブンメイ)怪化(カイカ)てふことの、最怪しうこそ、物狂はしけれ。いでや心に移りゆくよしなしごとを一ツ二ツ書き綴らんと、道すがらペンシルに蚯蚓のたらせたりしを打捨んも惜むに足ねど、若填紙(ムメクサ)に加へられなば幸甚幸甚と乞ふ者は、東京向ひの岡なる芦田の原稿なり。(後略) &『横浜毎日新聞』明治八年五月十日

酔太郎冠者の随想より                                         荻生作

駄酒常飲の徒あり。飢美酒党を自称す。時は五月。この男、公園で「豪の雫」というオーストラリア産米で醸した純米酒をチビリやる。DSで一合カップ入り一二〇円のシロモノ。風味は値段に聞いてくれ、といったところだが、好みに合っているので散歩酒に時おり飲んでいる。気楽に飲めるためか、ほどほどに満足。♪青葉繁れる、サクラ居ず… なんて口ずさみながら、惜春のベンチ酒に軽く酔い、ご機嫌だ。

 こんな程度の左党だから、たまさか飲む機会に恵まれたときの美酒の味わいは格別だ。安酒続きで欲求不満の舌は、絶妙にピンと反応してくれる。…

 

絶句の風流 ぜっくのふうりゅう 

漢文には鋳型にはめ込んだような語句の羅列でどうもなじめない、というイメージがある。そんな堅苦しさを吹き飛ばし、愉しみながら遊べるよう工夫された一書がある。

茶釜山人(アラワス)・門人薬鑵子(アツム)蕩子筌枉解(トウシセンワウカイ)』がそれで、既成の五言絶句から一句を選び、風流文句(詞華)で解釈するという異色の試みがなされている。これを〈絶句の風流〉と名付け、同書から何句か解釈連れで引いてみた。

【例】

名月(メイゲツ)満前川(ゼンセンニミツ)

 月中(けつちう)よりきたるがごときかの壁とのが客の目さきへびら〳〵とついてゆくやうにみゆる月と水とてらしあわせてうつゝになりてわれからがつてんがいかぬ

壮志髪衝冠(サウシカミカムリヲツク)

 ぜひぬすみおふせてみましやうもししそんじなばいきては御目にかゝるまいとたちまちかみさかだちあかり三舛(みます)の紋のつきたる頬かふりをつきぬくいきほいあり

陌頭楊柳枝(ハクトウヤウリウノエダ)

 とてのやなぎのえだもそろ〳〵あをみかゝりてくるわがおもふ人もそろ〳〵うわきごゝろが出て来る

登楼万里春(ロウニノホルハンリノハル)

 二かいより見わたせば一めんに春げしきみち〳〵てゐる

愁声不可聞(シウセイキクベカラズ)

蚤蚊があつてもなつがよいあきかぜのひや〳〵がわつちやいや

客心争日月(カクシンジツゲツヲアラソフ)

 ねんあきの女郎をやくそくして一日〳〵一月〳〵とゆびおりまつてゐる

宿昔青雲志(シユクセキセイウンノココロザ)

つね〳〵より内しやうのよい留守居の女ぼうになるかまたはかねもちのむすこの女ほうにならふとおもふてゐたに

美人天井落(ビジンテンジヨウヨリオツ)

 しかるにこのたびえいらくやより女郎がかしへながさるゝは二かいからおつるやうな夢のごとしふびんなことぢや

挙頭望山月(カシラヲアゲテサンゲツヲノゾキ)

もふなんどきてあらふはやくよがあけてくれゝばよいがとしやヤウべんとたばこばかりのんでほつとしてゐる

深坐嚬蛾眉(シンサガヒヲヒソム)

 とこばしらによりかゝりてひごろうつくしいかほをばふきみそをなめたつらしてゐくさる

&『洒落本大成』第五巻「蕩子筌枉解」 

 

川柳 せんりゅう 

〈川柳〉は雑俳と呼ばれる短詩系文芸の代表的存在で、五七五合せ十七文字で作る。

川柳の名は始祖、(から)()八右衛門 (171890)の前句付点者(てんじや)宗匠号「川柳」から名付け。かつての発句が明治以降は「俳句」と呼び換えられているように、往時の〈前句付〉は川柳の呼称に変わったのである。

川柳の来歴などは多くの入門書等で詳述されているので、ここでは省くことにするが、一点だけ指摘しておきたいことがある。

現代川柳は九割方が〈時事川柳〉化していることである。この傾向は、作品内容の恒久評価という点で好ましくない。というのも、時事ものは時代背景をよく知らないと通用しないという、厳然たる事実に基づく。言葉を換えるなら、一過性の作という大きな弱みを抱えていることを意味する。

現今、社会戯評として穿ちを効かせた秀逸な川柳であっても、何十年か後の人が鑑賞して果たして期待どおりに理解してもらえるかどうか。ちなみに、現代人のうち、江戸時代の事件等を反映させた「落書」や「落首」を十分に理解しうる人がどの程度いるか。大学教育を受けた人でも、その点になると意外に低調なのではないか。それと同じことではないかと思う。

 柳は百万人の文芸なのだから、今日性を支えにしないと大衆はついてこられない、と今様宗匠(せんせいども)はおっしゃるかもしれない。果たしてそれでいいのか。川柳は消耗品でよいのか。『誹風 柳多留』など江戸川柳で今も傑作と折紙が付けられている作品は、ほとんど例外なく「汎時代性」に視点を置いたものである。

 作者自身、「作り捨て」の安っぽさを(いと)い、長い目で洞察力を働かせる。その結果、どの時代の人が賞しても味のある作品へと磨きがかかる。現代の川柳子も、脱時事という課題に挑戦すべきではなかろうか。

  では、汎時代性をそなえた川柳とはどんな作品をさすのか、何句か『柳多留』から引いてみよう。

▽取上婆々屏風を出ると取まかれ

  たづねこそすれ〳〵(初篇・三八)

  *この句、職業産婆が消滅している現代では、準時事川柳に該当する。

 ▽役人の子はにぎ〳〵をよく覚え

  うんのよい事〳〵(初篇・七八)

 ▽あら世帯何をやつても嬉しがり

用に立ちけり〳〵(初篇・二二四)

 そして柳祖、川柳が残した辞世の名句、

 ▽木枯や後で芽をふけ川柳(かわやなぎ)

《参考》

曩祖川柳翁柄井氏無名庵と号す、(俗称八右衛門、浅草阿部川町の坊長、同所新堀端に住す)宝暦年間、壇林風及び江戸座の前句付け専ら隆盛に行はるゝ際、或門に入て俳諧を学び達吟抜群たり、遂に師の免許を得て判者に列す、師没後、明和の頃、自ら感ずる所有りて、俳諧発句の陋習を看破し、専ら人情世態に渉り、勧懲譬諭を旨とし、住吉現世を論ぜず、俗談平話の一句立を愛歓し判断せられしかば、名望普く江湖上に鳴り、月次集句一万に下らず、(暦摺り柳樽の出版茲に始る)遂に柳風一派を組織し、川柳狂句の名称を起立せし基礎なり、茲に年あり、寛政二戌年九月二十三日卒す、(齢七十二、新堀瑞竜宝寺に葬) 

&『しげり集』(四世川柳追善集)付言

 

川柳〔穿ち〕 せんりゅう/うがち 

川柳は十七字の中に凝縮させた穿ちを持つ。穿ちとは、斬新な機微をさす抽象的な言葉だ。それだけに、川柳子の穿ちに対するこだわりは深い。江戸川柳の宝典『誹風 柳多留』に、

柄杓売なんにもないを汲んでみせ

 いう絵に描いたような一句がある。(わげ)(もの)売が手振りで実演をして見せ「漏りません」を強調するが、その裏に客にとっては「なんにもないを汲んで見せても本当は漏れるのでは」という疑いがひそんでいる。この落差のおかしみを十七字に示したところに穿ちの真骨頂がある。本句では単に柄杓売りを材料にしただけだが、川柳発想の根源は穿ちのみいってよく、これの応用展開によりすべての川柳が作られている。

 川柳の穿ちの強みは、超時代の次元で通用する点にある。右の江戸時代に生れた一句は、現代人が鑑賞しても通用するおかしみを表している。しかし現代川柳の場合、時事中心の一過性作品が余りにも多すぎる。その句作が生れた時点に生きる人が鑑賞すれば気のきいた穿ちも、やがて時代が隔たれば風化して面白味も薄れてしまう。この一過性は時事を扱った短詩文芸の宿命で、時事に負うところの大きい川柳は、汎時代性という点でハンディキャップを負っていることになる。せっかく滑稽効果を発揮してもすぐにゴミ箱ポイ、の運命にあるのだ。

 現代川柳が飽きられつつあるという現象も、この辺に大きな理由があると思う。さらに川柳は、わずか十七字の中に極度に切り詰めた言葉を圧縮して封じ込む。余裕がないから助詞の使い方一つで、作品を生かしも殺しもする。文法にかなり精通していないと致命的な誤りを起こしかねない。

【例】

古川柳の穿ち 

▽子を抱けば男にものを言ひやすし(柳多留・初篇)

▽野雪隠地蔵しばらく刀番(柳多留・三篇)

▽転んだを安産ののち話すなり(柳多留・一一篇)

▽立ちさうにしてまた(はな)す女客(柳多留・二九篇)

▽不機嫌な日は音のない台所(武玉川・初篇)

近代川柳の穿ち

▽酒といふ後ろ楯あり冬籠り     永里

 &『古今川柳壱万集』

▽早乙女の笠は田毎のひるの月    真米

&『柳風狂句合』

▽福の神見たよに笑ふ去年(こぞ)のおに        喜美のや主人

&団団(まるまる)珍聞』投稿

▽庭の松行儀わるいを誉められる      素亭峨升

 &『狂句の栞』

 

川柳〔御当地句〕 せんりゅう/ごとうちく 

川柳中に地名を入れて作る。多くは洒落の延長である。

【例】   

東京都の御当地三吟                                           荻生作

粋がって貧乏知らずの神保町

大森で街道そばの意地を見せ

朝夕にテレビの御馳走あきる野市

 

俗文 ぞくぶん 

いわゆる通俗的な言葉・内容でつづられた文章。雅文や美文の対応語で俗文体といわれるものである。

【例】

 あん物語より

子どもあつまりて、おあん様むかし物がたりなされませといへば、おれが親父は山田玄暦というて、石田治部少輔殿に奉公し、あふみのひこ根に居られたが、そののち治部どの御謀反の時、美濃の国おほ垣のしろへこもりて、我々みな〳〵一所に、御城にゐておじやつたが、不思議な事がおじやつた、よな〳〵九ツ時分に、たれともなく、男女三十人ほどのこゑにて、田中兵部殿のう、田中兵部殿のうとうめきて、そのあとにて、わつというて泣く声が、よな〳〵しておじやつた、おどましや〳〵、そらおそろしうおじやつた、

 怖うはない、せめてわらわの手で死化粧を

 〔おあむ物語・戦記、山田去暦(むすめ)筆の記録に未伝絵師による挿絵〕

『おあむ物語』は慶長五(1600)年、関ヶ原の役で石田三成軍が籠る大垣城において、おあんという女が体験した見聞記である。おあんは城内で討ち取った敵首を検分し、白歯のままだと鉄漿(おはぐろ)をつけ死化粧を施してやる。当時は女だけでなく武士も鉄漿染めを流行の美粧とし、染めずの首は鉄漿をつけ髪の毛を調えることで、雑兵でも功名が高まったという。物語の文中、おあんは

しら()(くび)は、おはぐろつけて(たま)はれと、たのまれて、おじやつたが、首もこはいものでは、あらない、その首どもの()くさき中に、()たこと おじやつた

と書いている。戦国の世の婦人(たをやめ)の、なんと勇壮であったことよ。

 

大団遊 だいだんゆう 

物語や小説などの筋書きを締めくくる結末部をことさら潤色し、有終の興を飾る遊びを〈大団遊〉と名付けておく。いうまでもなく「大団円」の捩りである。現代小説などでは、よく書き出しの効果がうんぬんされるが、「書き締めの効果」もまた、〈秀句〉の一環として見捨てられないところだ。古典では井原西鶴、米作家ではО・ヘンリーがこれの抜きん出た巧者である。

【例】

浮世草子より                                 井原西鶴

さて又男のたしなみ衣装、産衣(うぶぎ)も数をこしらへ、「これぞ二度(ふたたび)都へ帰るべくも知れがたし、いざ途首(かどいで)の酒よ」と申せば、六人の者おどろき、「ここへもどらぬとは、何国(いづく)へ御供申し上ぐる事ぞ」といふ。「されば、浮世の遊君、白拍子、戯女(たはれめ)、見のこせし事もなし。我をはじめてこの男ども、こゝろに懸る山もなければ、これより女護(によご)の島にわたりて、(つか)み取りの女を見せん」といへば、いづれも(よろこ)び、「譬へば腎虚してそこの土となるべき事、たま〳〵一代男に生れての、それこそ願ひの道なれ」と、恋風にまかせ、伊豆の国より日和(ひより)見すまし、天和(てんわ)二年神無月の末に行方(ゆきがた)しれずになりにけり &『好色一代男』巻八

*長かった物語の主題を見事に総括し、読者に余韻の溜息をつかせる巧みな「大団遊」だ。

 井原西鶴〔国文学名家肖像集〕

 

付合 つけあい 

連歌や俳諧で前句に付ける句(付句)を作ること、また、その付句をさして〈付合〉という。前句が長句(五七五)なら付句は短句(七七)となり、逆に前句が短句だと付句は長句になる。もちろん長短両句は、一貫した意味の詠体となることが要件である。

付合は単なる連歌・俳諧用語を超え、言語遊戯分野をもカバーするほど広い語義をもつ。ちなみに、川柳の古典『誹風 柳多留』は、出題短句を省いても独立句として意味が通じる、いわば完成された付合の集である。

【例】

昔の付合

▽来ぬ君の(とが)を枕にいふは無理      志酒

 前  移り香たゝむあけぼのゝ蚊帳 &『二葉の松』

▽それ殿と具足で逃げる土用ぼし  作者未詳

 前  うろたへにけり〳〵

 &『江戸すゞめ』

▽祈る品(はだか)(まい)りも浮世也           浮草

 前  思ひおもひに〳〵

 &『花畠』

▽染めぬ歯と(ゑがか)ぬ紙の面白し       楓組

 前  たのしみになる〳〵

 &『花畠』

古典笑話より

秀忠作の付合など         

新田秀忠(二代徳川)将軍、江戸の御城にて、大名衆御振舞ひなさるゝに御鷹(おたか)(かり)の汁を(おほせ)付けられし、再進(さいしん)しげかりつるを御覧ぜられ、たはぶれに、

 振舞の汁や度々かへる雁

同じく元和九年の春、

 山々の雪のあたまや春の雨

といふ前句に、

 握りこぶしをいだすさわらび

また、

 高き物をぞ安く売り買う

といふ句に、

 富士の山扇にかきて二三文

また、

 今朝あけて雪を取出す箱根哉

同じくいづれの年の始めにやらん、

 武蔵(あぶみ)ふんばつて立つ霞かな

&『醒睡笑』巻八

 

でたらめ詩 でたらめし 

〈でたらめ詩〉は「ファトラジー」の訳で、十三世紀フランスで発生、ただちに流行した支離滅裂な内容の詩である。

日本ではそれよりもはるか昔の大和時代に、『万葉集』において〈無心(むしん)所著歌(しよじやくか)〉が詠まれている。ファトラジーを軸としたナンセンス詩の系統は、その後に呼び名を変えながら、洋の東西を問わず、今なお生き続けている。

【例】

十三世紀フランスの無題詩

死んだ鮭が/星のめぐりを/罠でとらえたとき/角笛の音が/雷の心臓を/酢につけて食べた &『遊びの百科全書・言語遊戯』

エドワード・リア     W・Hオーデン

 に見捨てられてただ一人、イタリアの白い海辺の朝食のテーブル、/ふいにその肩の背後に、おそろしい悪魔が/身をもたげた。夜はひそかに泣いていたのだ。/おのれの鼻をにくんだ、三文風景画家。&『ナンセンス詩人の肖像』

兵庫のわらべうた(神戸市長田区)

一歳二歳のばあさんが/八十五六の孫つれて/太平洋の山登り/水のない川ジャブジャブと/みみずの骨で足ついた/(*中略)○○の医者の言うことにゃ/やまでとったはまぐりと/うみでとったまつたけを/水で焼いて火で練って/あした食べたら今日治る &『日本わらべうた全集』18

 

日記の遊び にっきのあそび 

日記はもとより、公開を意識することなく個人の私事を記録するものである。ところが書き手がひとたび有名人になると、本人の意思とは別に、たいていは没後にだが、公開されてしまう宿命にある。それら日記からは、公開が目的の随筆や小説などではうかがい知ることのできない、作者の素顔を知るという収穫がある。

当然ながら日記には、生真面目な内容もあれば、オフザケに染まったものもある。例示のものは非常に個性的で、「エッ、あの人が」と言いたくなる古今有名人三人集である。

【例】

紫式部のあけすけ紅気炎                      紫 式部

清少納言(せいしやうなごん)こそ、したり顔にいみじうはべりける人、さばかりさかしだち、真名(まんな)書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり、かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみはべれば、(えん)になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのずからさるあるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし、そのあだになりぬるひとのはて、いかでかはよくはべらむ。

&『紫式部日記』

(むらさき)式部(しきぶ)(9781016)平安後期の女官で女流作家。著作『源氏物語』はあまりにも有名である。同時代に活躍した才女の和泉式部、(大江)匡衡(まさひら)衛門こと赤染衛門(あかぞめえもん)、それに清少納言を評した部分から。前二者に対しては軽いジャブ程度であった批判が、清少納言に及ぶと強烈なパンチに変化している。ライバル意識まる出し、激情の趣くままに筆を走らせている。

 紫式部日記絵巻〔五島美術館蔵〕

 紫式部は『源氏物語』で流麗繊細な文体を用い、「もののあはれ」を描いた。が、清少納言のほうも随筆『枕草子』において、理知的気品にみちた「をかし」の世界を描写している。文章の達者という点では、清少納言のほうに軍配が上がるというのが大方の文学通の見解である。紫女史はその文章上手を「得意になって漢字など書き散らしている」とののしった。もう対抗意識を超えた、憎悪すら感じられる紅い舌鋒である。この一文は彼女の栄光に一抹の翳りを投じてしまった。顔を合わせれば他人の噂話や陰口に時間をつぶす、現代の「フツーのおばさん」となんら変わりない素顔を見せつけてくれた。

一茶の交合記録                               小林一茶

(筆注=文化十三年正月)二十一 晴 墓詣 夜雪 交合

(筆注=文化十三年八月)六 晴 巳刻雨 キク月水 弁天詣/七 晴 

(中略)菊女赤川ニ入/八 晴 菊女帰ル 夜五交合/十二 晴 夜三 

交/十五 晴 婦夫月見 三交/十六 晴 (中略)三交/十七 晴 墓詣 夜三交/十八 晴 夜三交/十九 晴 三交/二十 晴 三交/二十一 晴(中略)四交 &『七番日記』文化十三年 

*文化十三年というと一茶五十四歳の年、それが三十歳の妻と若者も真っ青、爬虫類かと思うような房事ご多忙である。お菊さんが生理で致せずじまいの八月六日から三日ぶりに抱いた夜など、五回戦に及んだと!さすがに九日~十一日の三日間は休戦したものの、十五日からは続けて七日間、日に三交は果たすという性豪ぶりだ。なんとも生臭い匂いのプンプンする日記である。一茶はなぜ女体抱擁に邁進したか。二つの理由が伝えられている。一つ、彼は思春期以降の四〇年間、女体に飢え続けてきた。それが自分の自由にできる妻を得て一挙に爆発した。もう一つは、老いのため早く子宝を得たかった。そこで強精剤のご厄介になるという涙ぐましい努力までしている。二年ほどのち菊女はやっと懐妊する。数撃ちが過ぎ精が薄れてしまったのも確かであろう。この日記を初めて読んだとき、一茶の温和な俳風との差異に、禁断の閨房を覗き見したような感じで失笑がこぼれた。

文豪先生の日記より                          徳富蘆花

六月二十一日 奥に退き浴衣で来たMadamを背から抱き、着物をまくり、肉肉相接、──到頭白蚊帳の外に押倒して温柔的交際。快美にたへずして細君声を出す。(*中略)細君の十七以前に一番槍をつけた男の奴が憎い。無論羨ましいの意味である。/九月三日 Madamの陰毛を撫でゝ居ると、到頭欲を発し、後から犯す。精液がどろ〳〵。快甚(かいはなはだし)。/十月十四日 十時過ぎ寝てから交合をはじめる。下腹の衝撞からはじまり、馬乗りになり、「下から持つ上げりや何の事はない」になり、「座つてしませう」の提議のもとにBedに座はり、最後に両足をもたげ、膝折臀開きの姿勢で充分に射精する。&『蘆花日記』大正五年

徳富(とくとみ)蘆花(ろか)(18681927)は小説家。人間からヒト科動物になった文豪ご夫妻の生々しい記録である。おかげで先生に後背位(おいぬどり)好みのあること、夫人が結婚時に非処女であったことまでわかってしまった。日記の性格から露悪趣味とはいえまいが、ご本人は案外面白がって、エロ話をするぐらいの気持ちで書いた節がある。蘆花の筆まめなこと定評があり、膨大な量の『蘆花日記』にそれがうかがえる。夫人愛子をMadamと呼び、文中にもこの代名詞がうんざりするほど出てくる。もちろん日常の生活記録が主体だが、おりに触れて、Madamとのアケスケな性交渉も散見できる。例を挙げると「早暁交合」「その太腿を枕にして寝る」「ボボがしたいナ」「交合して精に潤ふ夢を見た」といった生臭い表現が随所に見られる。かの俳人一茶も一晩に三交したの四交したのと日記に書いている。歴史上の有名人も、夜の素顔は隣の親仁並み、親しみを感じるではないか。

徳富蘆花

 

ネオ・ジャパニーズ 

国語学者の時枝誠記(もとのり)の一文「国語への関心」によると、〈ネオ・ジャパニーズ〉とは、父君の誠之(もとゆき)(18711934)の命名になる。かねてから国語改良論を唱えていた誠之は、文法だけ日本語の骨格を残し、表記については日本語(漢字・仮名混じり)+ローマ字+英語の三位一体とするネオ・ジャパニーズを提唱した。

例示に見るように、ネオ・ジャパニーズは典型的な混血表記であることが一見してわかる。現今、この提唱が在来日本語表記よりも優れていると本気で信ずる人はいまい。しかし、和英混血の言語遊戯としてなら、なかなかウスッペラポンな作品に化ける。

【例】

ネオ・ジャパニーズの雛形

 ──時枝誠記「国語への関心」より

Wazuka twenty years ago,Constitutional Government no moto ni, first Diet ga hirakareta toki, Prince Ito ga kare no ”Commentaries on Constitution” ni Ministers wa directly niwa Emperor ni mata indirectly niwa people ni “responsible de aru”; mata “Ministers no responsibility wo decide suru power wa Diet kara withheld sarerete aru” to iishi koto wa generally ni acknowledge sarweta.

(以下、同右より引用)                       時枝誠記筆

父は又言語の性質から見て、国語に対する漢語の融和性よりも寧ろ英語の融和性の方が濃厚であると断じて、当時ニューヨークで流行した”Every body’s doing it now“といふRag time調の俗謡のコーラスにカッポレ調を付けて次のやうなものを作って示した。これも云はゞNeo Japaneseの一つの試みと見ることが出来る。

     Champagne Kappore’

⑴カッポレ カッポレ Champagneでカッポレ/Rag timeでカッポレ ヨイトナ ヨイ〳〵/夜明け近いのに danceが盛る/これがNew Yorkgay life /ヤッチョルネ ヤッチョルネ/ドイツモ コイツモ ヤッチョルネ

⑵豊年じゃ 満作じゃ

See that rag time couple over there

Whatch them now their shoulders in the air

小腰をフワリと一寸抱いた 

 

俳画 はいが 

 俳諧と共に書き込む絵。自作のものも他人が付けたものもある。

 辰巳(深川)芸者の粋は巨象をも律する 〔式亭三馬『石場妓談』うち「辰巳婦言」の挿絵、喜多川歌麿画・寛政十年〕 たかが蒟蒻(こんにやく)本(洒落本)などと侮るなかれ。三馬の著作で歌麿の挿画、関東(かんとう)(べい)の序文、三遊亭馬笑の跋文と当代人気四先生の傑作、たいへん高価な秘蔵版である。歌麿は巨象に提灯を持たせその背中で悠然と書見する普賢菩薩を描いた。菩薩様にしては随分と小股の切れ上がったいい女。そのはず、江戸では粋な遊里として知られた深川は辰巳芸者に擬した菩薩さんゆえ。三馬の賛が風流だ。

 手折りしは 花の誓や 普賢像

だと。普賢様と出来ちゃったなんてのは男冥利に尽きるだろうぜ、この象野郎! ちなみに題名の「石場」とは深川花街七場所の一廓を指す。

 

俳諧の連歌 はいかいのれんが 

和歌に誹諧(ひかい)歌が生じたように、連歌にも誹諧体のものが現れ、これを〈俳諧の連歌〉という。人によっては〈片歌〉と呼ぶこともある。近代以降では俳諧(発句)と区別するため〈連句〉と呼ぶならいになっている。

連歌の起源は遠く『古事記』にさかのぼり、次の問答歌が嚆矢とされている。                                                                  (やまと)(たけるの)(みこ)

 新張(にひばり) 筑波(つくば)を過ぎて 幾夜か寝つる

    返し                                                              御火(みひ)(たき)老人(おき)

 日々(かが)()べて ()には九夜(ここのよ) 日には十日(とおか)

この二人詠の短連歌に由来して連歌を「菟玖波(つくば)集」と呼ぶようになり、延文元 (1356)年には二条良基と救済(きゆうせい)共撰の準勅撰『菟玖波(つくば)集』が成った。しかし当時の連歌は、歌人の歌道外の余興として、たいてい詠み捨てにされる存在でしかなかった。その連歌は、短歌を長句と短句とに二分し、原則として二人以上(独吟の例外がある)で合作、これを長ながと連ねたものを「長連歌」といっている。

平安末期に流行のきざしをみせた長連歌は、鎌倉時代に入り、和歌寄りの「有心(うしん)連歌=柿本(かきのもと)衆」と、滑稽を旨とする「無心(むしん)連歌=栗本(くりのもと)衆」とに別れ、やがて有心衆が無心衆を制するようになる。しかし室町時代後期、各流派が乱立し始めたところに飯尾宗祇(いのおそうぎ)(14211502)という傑出した連歌師が現れて斯界を統合、連歌を文学の一分野に引き上げる快挙を成し遂げた。だが連歌界は伝統を重んじる余り保守性が強く、作法も煩雑かつ厳格である。加えて宗祇が物故すると、連歌界は一時、糸の切れた凧さながらに宙に浮いてしまった。そこに登場したのが山崎宗鑑(?~1540)ならびに荒木田守武(14731549)の二人。彼らは作品の発表を通して俳諧の連歌を(おこ)し、江戸時代の発句・雑俳誕生の基盤を固めたのである。

話は前後するが、すでに明応八(1499)年には、わが国初の本格的な俳諧の連歌集『竹馬(ちくば)狂吟集』十巻が編まれ世に出ている。題名は『菟玖波集』の捩り、編者は序文言うところの屁を落しているだけの足腰も立たぬような老人とあるだけで未詳、収載句も作者名が記されていない。それでも邪道扱いされてきた俳諧の連歌に集が成ったのは、画期的なことであった。それから約半世紀後、俳諧の連歌中興の祖といわれる宗鑑の手で『新撰 犬筑波集』が世に出た。これは一巻のみだが、所期の俳諧発句付句集で希少価値が高い。また時をほぼ同じくし、荒木田守武は独吟集『守武千句』を成しこれまた気を吐いた。この宗鑑・守武両人の手で、発句十七字を連歌から独立しうる機運が生じた。

ここで連歌と俳諧の連歌との相違を大雑把に記しておこう。双方とも形式上の差異はほとんどない。が、連歌が堂上寄り貴族趣向にあり句材・用語の点で伝統を重んじるのに対し、俳諧の連歌は栗本衆の流れを汲んで庶民階級寄り、風も斬新かつ解放的である。後者はとくに用語において俗語を存分に使い、句風も奔放を看板としている。

いきさつに戻ろう。

江戸時代に入って間もなく、梅翁(ばいおう)こと西山宗因(そういん)(160582)という人物が出て談林一派を率い、俳諧の連歌そのものの特色をいっそう色濃く打ち出した。宗因は著『阿蘭陀(おらんだ)(まる)二番船』で、

古風、当風、中昔、上手は上手、下手は下手、いずれを是と(わきま)へず、すいた事してあそぶにはしかじ、夢幻の戯言也

と喝破。当時、門閥固めに汲きゅうとし、後進性すら見せていた貞門(松永貞徳=15711653が率いる主力派) に鋭い批判を向け、俳諧の連歌を遊戯と割り切っての開放を宣言している。

 ともあれ、江戸初期に現れた貞徳・宗因という宗匠の双璧は、連歌から俳諧を切り離すことに成功した貢献者であることに違いはない。かくして俳諧の連歌における発句は、のちに「俳句」という独立した短文芸へと脱皮していくのである。

 文芸の若手として登場した俳諧の連歌は、旧連歌に比べ句風がはるかに砕け、卑俗性を吸収しつつたくましく成長していった。

その庶民性がまた、連歌の沈滞を横目に、斬新な表現を求める人たちの支持を得た。つれて作品に言葉遊びが積極的に取り入れられるようになる。その一端として、たとえば延宝の頃(16731681)には、〈前句付〉など付合にみられる遊戯性濃厚な文芸が形作られていった。俳諧の連歌と呼び名こそ変われ、連歌の形式を踏襲していることに変わりはない。

初期の俳諧の連歌もまた、ややこしい規則で縛られていた。

そうした形式的制約等については専門書に譲るとして、これら規範も時とともに形骸化し、現代の連句ではもう骨格のみにとどまっている、といってよかろう。

【例】

『竹馬狂吟集』より発句・付句

  げす女房もまゆをひらけり

▽さやかなるかどの柳の桶とりて(巻五、春部・柳)

  つぶるるもありつぶれぬもあり

▽秋風に木ずゑの熟柿また落ちて(巻七、秋部・秋風)

  よろひ毛は振り分け髪のはじめにて

▽恋の病ぞおへものとなる(巻九、恋部・恋の病)

  連歌師のかつうることはなきものを

▽いづくへゆくと五句(ごくく)はありなん(巻十、雑部)

  出家のそばに寝たる女房

遍照(へんぜう)にかくす小町が歌枕(うたまくら)(巻十、雑部)

『新撰 犬筑波集』より

  夏の夜の空を(きつね)にばかされて

▽山ほととぎす穴に鳴く声(夏・時鳥)

  寒き()はこそ人丸(ひとまる)になれ

▽うす(ふすま)引きかぶりたるかきのもと(冬・衾)

  屏風越しなる恋は届かず

▽聞くやいかにつがひつがひの恨み(ごと)(恋・恨み)

  ふぐり程世をへつらはぬ物はなし

▽たがかくるにもおなじはかり目()

  これや末世(まつせ)大師(だいし)なるらん

▽うゐ穴をあくる人こそ(たふと)けれ()

犬子(えのこ)集』巻一(寛永十年、松江重頼編)より

  春 上

   (ぐわん) (にち)

(はる)(たつ)やにほんめでたき(かど)の松          徳元

ありたつたひとりたつたる今年哉       貞徳

礼義とてかざりわらにもはかまかな   愚道

古年に雨ふりければ

去年(こぞ)は雨日本晴(につぽんばれ)やけふの春            春可

申のとしに至りて

去年よりもまさる目出度今年哉      慶友

年も人もそだつはじめはむ月哉      宗恕

うたひ(ぞめ)は人より先かとりの年        道職

春のくる時を(つぐ)るやとりの年          休音

あら玉の年の(かしら)(とり)(かぶと)                  興之

年もけふあら玉うてる子共かな      春益

むかひみる餅は(しろ)みゞみ哉             親重

四方(よも)に春(たち)はだかれる日足(ひあし)かな         利清

(さる)(みの)集』巻一(元禄四年、去来・凡兆共編)より 

 冬

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也          芭蕉

あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声        其角

時雨きや並びかねたる(いさざ)ぶね        千那

幾人かしぐれかけぬく勢田の橋       丈艸

鑓持の猶(ふり)たつるしぐれ哉             正秀

広沢やひとり時雨るゝ沼太良         史邦

舟人にぬかれて乗りし時雨かな       尚白

伊賀の境に入りて

なつかしや奈良の隣の一時雨         曾良

時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり         凡兆

馬かりて武田の里や(ゆく)しぐれ           乙刀

だまされし星の光や小夜しぐれ       羽紅

新田(しんでん)(ひえ)(から)煙るしぐれ哉                昌房

《参考1》                              文暁

素堂云、我翁(芭蕉)にはじめて対面せし時、俳諧と連歌と心得いかゞすべきと問しに、翁云、連歌はやさしく歌の上下を分てり、一句々々にことゝとのひたるをもつて、百韵千句も心をつらぬる也、故に聯の字義也、俳諧は俚言にたはむれて、たゞに今日世俗の上なり、この一言にて、我翁の俳諧を思ふに、翁の俳諧は心を用ゆる所さらにひとしからず、是を以一家の一体とす、格はともにひとし、連歌をかろめて去嫌をやすくす、其心連歌は前句を放タず、その理にこたへ、そのものにこたへて、さらに離れず、ばせをの俳諧は、前句の心を知て、ねばりを放つ、一句の物に感合す、ものゝ情をさぐり知て付れば、これを魂ともいはんか &『俳諧芭蕉談』

《参考2》

法楽俳諧序                  横井也有そも俳諧は連歌に出、連歌はもとより和歌の流れにして、皆伯仲の風雅なれば、枝こそわかれたれ、根はおなじ柿の本の、何ぞ白眼し給はむやと、いま一巻の俳諧をつらねて法楽に供へんとす、連衆已に定りて、予が老たるを以て小序の求あり、&(うずら)(ごろも)』続編上

《参考3》

連歌その心自然に顕わるゝ事                         松浦(まつら)静山古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、恐れながら神君御参会のとき、卯月のころ、いまだ郭公を聞かずとの物語いでけるに、信長、

 鳴かずんば殺してしまえ時鳥

とありしに秀吉、

 なかずともなかせて聞こう時鳥

とありしに、

なかぬならなく時聞こう時鳥

とあそばされしは神君の由。自然とその御徳化の温順なる、また残忍、広量なる所、その自然をあらわしたるが、紹巴(じようは)(*里村氏、連歌師)もその席にありて、

なかぬなら鳴かぬのもよし郭公

と吟じけるとや &甲子(かつし)夜話』巻八

 

俳文 はいぶん 

芭蕉が造った言葉として知られている〈俳文〉は、〈俳諧の文〉とも称され、俳人が自他の俳諧作品を中心に叙述する散文(俳論を含む)をさしている。

俳文の心は「虚の世界に遊ぶ」ことにあり、遊び心にみちた達意の名文が披露されることも少なくない。

 例】

味ある風体、去来の俳文                      向井去来

 梅の花あかいハ〳〵あかいハな         惟 然

去来曰、惟然坊が今の風大かた是の類也、是等は句とハ見えず、先師迁化の歳の夏、惟然坊が俳諧導びき給ふに、其秀たる口質の処よりすゝめて、磯際にざぶり〳〵と浪うちて、或は杉の木にすう〳〵と風の吹わたりなどゝいふを賞し給ふ、又俳諧ハ季先を以て無分別に作すべしとの給ひ、又この後いよ〳〵風体かろからんなど、の給ひける事聞まどひ、我が得手にひきかけ、自の集の歌仙に侍る、妻呼雉子、あくるがごとくの雪の句などに評し給ひける句ノ勢、句の姿などゝいふ事の物語しどもハ、皆忘却セると見たり、

 行ずして見五湖いりがきの音をきく   素堂

 なき人の小袖も今や土用ぼし   はせを&『去来抄』

徳利の名の説                               横井也有

つくねんと静なる時、泥塑人のごとしとは、賢徳の姿をほめて、此物にはあらざれども、したしめば一団の和気あたゝかに、雪の夜あらしも身にしまざるは、これがためのたとへにもいふべかりける、まして備前の名産にして、六升ばかりを入るゝときけば、たとへ八仙の客にはとぼしくとも、虎渓の禁足は忘るゝにたりぬべし、なを此物の徳を思ふに、斗樽は座敷に場をとれば、これがたぐひにはいふべからず、あるはちろりといひ、燗鍋とといひ、前後左右のむつかしみありて、弦によそほひ袴をかけて、実は心のとけざるかたもあるべきに、たゞ此物の口をそらざまになして、なみ居る人の中に出ても、いづれに向ふともなく、たれにそむくともなき姿をもそなふなるべし、此ぬしこれに名を呼む事を求む、むかし子猷が竹は、見ぬ日ありともさやみぬべし、此ぬしの此物における、一日もなくてはあらざるべく、つねに膝下に召まつはさるれば、かの此君の名の古きを尋て、此童とよばんにいかゞ有べき、されば世の近侍の童は、立居に尻のかろきをほむれども、此童の奉公振はたゞいつまでも、いつまで草の根づよく尻の重からむこそ、主人の心には叶ふなるべけれ

 月に雪に花に徳利の四方面

&鶉衣(うずらころも)』前編下 

*也有は名文家で有名。本作品は徳利に仮託し、の字を一度も使わない賛酒の佳編である。

残酷を昇華させた一茶の俳文                   小林一茶

(ここ)らの子どもの(たはむれ)に、蛙を生きながら土に埋めて、(うた)ふていはく、ひきどのゝお死なった。おんばくもつてとぶらひに〳〵〳〵と、口〳〵にはやして、芣苡の葉を(かの)うづめたる上に打かぶせて帰りぬ。しかるに本草綱目、車前艸の異名を蝦蟇衣(かぼい)といふ。此国の俗、がいろつ葉とよぶ。おのづからに和漢心をおなじくすといふべし。むかしは、かばかりのざれごとさへいはれあるにや。

 卯の花もほろり〳〵や(ひき)(つか)        一茶

&『おらが春』うち「蛙の野送り」

小林(こばやし)一茶(いつさ)(1763~1827)は江戸後期の俳人。庶民派の朴訥な作風で知られる。子供の遊びは人間のもつ残酷な一面を仮借なくさらけ出す。この「蛙の野送り」も、遊材には欠かせない野遊びの一つで、絵に描いたような殺生だ。小動物を生き埋めにする遊びは信州にかぎらず、全国各地に散見できる。そこで「お墓ごっこ」を思い出した。昭和十二、三年頃の東京の下町には、未舗装の露地横丁がいたるところに残っていた。その隅で子供らは、茶碗のかけらで小穴を掘り、羽根をむしったトンボや死んだ金魚などを入れ、土をかぶせて割り箸を立て、ナンマンダブと拝む。死んだ金魚が手に入らないと、親の目を盗んで金魚鉢や防火用水槽から生きたまんまをすくい出し生き埋めにしてしまう。幼童の遊びとはいえ褒められない素材を拾って、一茶はさわやかな俳文の小品に仕上げてみせた。「絵になる文章」の達人横井也有と並んで、一茶の活写ぶりも見事なものである。詩心を備えた人の文章は、汚れたイメージすら美化してしまうのだろう。

自己破壊を見つめる山頭火の文

種田山頭火

酒と句、この二つは私を今日まで生かしてくれたものである。もし酒がなかったならば私はすでに自殺してしまつたであらう、そして若し句がなかつたならば、たとへ自殺しなかつても、私は痴呆となつてゐたであらう、まことに、まことに、南無酒菩薩であり、南無句如来である。&『山頭火日記』メモ書き

 種田山頭火

 

履付へなぶり はきつけへなぶり 

流布し周知された七音句を沓句(下句下の七音)に履かせ、夷曲(へなぶり)つまり〈狂歌〉に詠む。

単独詠でもよいが、何種か連ね詠みすることで珍妙なリズム感が得られ、全体に類題狂歌として風流に仕上がる。明治期とくに開化期に流行った。

【例】

古今の名歌「二ツ三ツ四ツ」                    古井蛙麿

▽漢文の交る布告は戸長にもわからぬ文字が二ツ三ツ四ツ

▽泥棒は浜の真砂で絶ぬなり一夜にきつと二ツ三ツ四ツ

▽礼服の帽子をとれどあたま数ちょん髷野郎二ツ三ツ四ツ

▽兵隊はサーブル巡査棒ちぎりあたまに瘤が二ツ三ツ四ツ

▽電信の蔓はびこりてどの局も平凡(ヘボ)官員が二ツ三ツ四ツ

『横浜毎日新聞』明治八(1875)年二月九日

 

美文調 びぶんちょう 

美文に対する思い入れは人それぞれ異なろう。Aさんは流麗な文体、Bさんはリズム感ある新鮮な文章、そしてCさんはわかりやすくも格調高い文、というように。美文自体が観念的な語で定義も定かでないし、とらえどころのない概念ともいえる。

そんな美文そのものではなくて、らしさを添えて仕上げる文章を仮に〈美文調〉としておこう。調の字付きなら、少しばかり見当違いでもゴマカシがきくし、選んだり作ったりするにも冒険ができる。

【例】

古典美文中の名文

 精舎(しようじや)の鐘のこゑ、諸行無常のひびきあり。沙羅(しやら)双樹(そうじゆ)の花の色、盛者(じようじや)必衰のことわりをあらわす。おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。&『平家物語』巻一

「明治美文」の典型                          坪内逍遥

○咲乱れたる桜の木陰に。建連ねたる葭簀(よしず)張も。ゆふぐれつぐる郡鳥(むらとり)と共に散りゆく花見客。休らふ人も漸々(やうやう)に。稀なる程の(ながめ)こそ。また一層(ひとしほ)ぞと打つぶやく。しづ心ある風流男(みやびを)あれば。あたりかまはぬ高吟放歌。相撲綱引鬼ごっこ。飲みつ食ひつ此時まで。興に乗じて暮初(くれそむ)る。春日(はるひ)わすれし一団(ひとくみ)あり。人数(ひとかず)およそ十人あまり。皆十二分に(えひ)どれたる。(かほ)斜陽(ゆふひ)(てり)そふれば。さるに似たれど。去りかねて。臥転(ふしまろ)ぶ人。(たす)くる人共によろめく千鳥足。あしたの課業の邪魔になる。起たまへとの一言にて。いよ〳〵書生の花見ぞとは。いと(あきらか)にぞ知られける。

&当世書生気質(とうせいしよせいかたぎ)』第一回 

迷文中の迷文                               坂本四方太

吾輩は子供の方なら随分有望だが生憎出世の見込みが立たないには弱る。つまり貧乏の上塗りといふものだ。などゝ又しても不平をこぼすやうだが、こぼすのでない自然にこぼれるのだから仕方がない。マア蒲鉾にあやかって兎角世の中は斯うしたものだと生悟りでも開くとせう。蒲鉾も吾輩のやうな甲斐性なしに惚れられてはめいわくだらうが、これも何かの約束事と諦めて貰ひたい、其代りに吾輩もいよ〳〵世の中の生存競争に敗れた暁には、恋しいそなたと情死しやうとまで覚悟を決めて居る。好きな蒲鉾を喰つて喰つて喰ひ死んで仕舞へば吾輩もそれで本望だ。四方太と蒲鉾の道行などは存外意気かも知れぬ。コレお蒲、斯うおじやと来るも嬉しいではないか。&『蒲鉾の賛』、『ホトゝギス』明治三十八年四月

美文詞章

人を恋うる歌                          与謝野寛詞

♪妻をめとらば才たけて (みめ)うるわしくなさけある/友をえらばば書を読んで 六分(りくぶ)の侠気四分の熱

♪恋のいのちをたづぬれば 名を惜しむかなをとこゆえ/友のなさけをたづぬれば 義のあるところ火をも踏むな 

──明治三十四年発表

 

百物語 ひゃくものがたり 

いわゆる怪談話を江戸時代は〈百物語〉といった。昔、物好きが集まって一晩に蝋燭を百本とぼし、怪談に打ち興じたのが始まり。話自体がでっちあげであるから、文芸遊戯色がきわめて濃い。

百物語〔杉浦日向子画〕

箱根山幽霊酒屋                          鳥飼酔雅

(ひよう)(さい)といふ隠士あり、ふとおもひたちみちのくの名所見んとて都より東海道にかゝりくだりしに、はこねの山中にておもわず日くれたり、みちをふみまどひて人のかよはぬ所へ出でたり、されども酒店あり、まづひとつ酒をのみて道をもたづね行くべしとおもひ店に入りて「酒をのむべし」といへば、一人の女うちへ入り、しばらくしてもち出でてあたふ、其色はなはだ(あか)くして味はひ甘美なり、すでに酒を皆のみて、「今一てうしもち来るべし」といふに、女泣いていはく、「又酒をもとめ給ふまじ、われ世にありしときはなはだおごりて、日々に酒を飲み世のついへを知らざりし、此ゆへに死して今此むくひをうく、酒を買ふ人あれば、我が身のうちの血をしぼりてこれをうる、其くるしさをあわれみたまへ」といふに、瓢斎おどろきおそれてはしり出して、やう〱本道に出でたれば、まだ日はたかし、人に此事をかたるに、其所を知るものなかりしとなり &『近代百物語』

 

風土記の遊文 ふどきのゆうぶん 

和銅六(713)年に元明天皇の勅命により諸国で地誌、つまり風土記が編纂された。

案外なことに、風土記は読んでみると楽しめるのである。単なる地誌に止まらず、紀行でもなく、作者(官人)の思い入れがにじみ出た物語的側面を表している。とくに当地名(山川原野の名)の命名については、同音異義の由来語りが目立ち興をそそるし、後に解明された古代擬漢文の字義の和訓も多彩である。

例示では、伝承者に遊興の気なくしては書き得ないような部分を三篇載せてみた。

【例】

*出典は、いずれも『日本古典文学大系2・風土記』掲出の読み下し文より(振り仮名は一部省略)

『常陸国風土記』うち「行方郡(なめかたのこほり)」より

(ここ)に、国栖(くず)、名は夜尺斯(やさかし)夜筑斯(やつくし)といふもの二人あり。自ら首帥(ひとこのかみ)となりて、穴を掘り(をき)を造りて、常に居住()めり。官軍(みいくさ)覘伺(うかがい)ひて、伏し(まも)拒抗(ふせ)ぐ。建借間命(たけかしまのみこと)(神武天皇の皇子)(いくさ)を縦ちて駈追(おひや)らふに、(あた)(ことごと)()(かへ)り、(むろ)を閉ぢて固く禁へき。(にはか)にして、建借間命、大きに権議(はかりごと)を起こし、敢死(みをす)つる(いくさびと)校閲(かとりえ)りて、山の(くま)に伏せ隠し、賊を滅さる(つはもの)を造り備へて、(いか)しく海渚(なぎさ)(よそほ)ひ、舟を連ね、(いかだ)を編み、(きぬがさ)(くもと)(ひるが)へし、(はた)張虹(にじとは)り、(あめ)(とり)(ごと)・天の(とり)(ぶえ)は、波に(したが)ひ、(うしほ)()ひて、()(しま)唱曲(うたぶり)七日(なぬか)七夜(ななよ)遊び楽み歌ひ舞ひき。時に、賊の(ともがら)(さかり)なる音楽(うたまひ)を聞きて、房挙(いへこぞ)りて、男も女も悉尽(ことごと)に出で来、浜傾(はまかぶ)して歓咲(ゑら)ぎけり。建借間命と、騎士(うまいくさ)をして(をき)を閉ぢしめ、(しりへ)より襲ひ撃ちて、(ことごと)種属(やから)(とら)へ、一時(もろとも)()き滅ぼしき。此の時、痛く殺すと言ひし所は、今、()多久(たく)(さと)(現、潮来(いたこ))()ひ、臨斬(ふつにき)ると言ひし所は、今、布都奈(ふつな)の村(潮来市東北の古高(ふつたか))と謂ひ、安く()ると言ひし所は、今、安伐(やすきり)の里(同地区、阿波(あば)(だい))と謂ひ、吉く殺くと言ひし所は、今、吉前(えさき)の邑(潮来市江崎)という。

『出雲国風土記』うち「意宇郡(おふのこほり)」より

意宇(おう)(なづ)くる所以(ゆゑ)は、国引きましし八束(やつか)(みづ)(おみ)津野(つのの)(みこと)(大国主命の祖父)()りたまひしく、「八雲(やくも)立つ出雲の国は、狭布(きぬ)の稚国なるかも。初国小さく作らせり。(かれ)、作り()はな」と詔りたまひて、「たく(ふすま)志羅紀(しらぎ)三崎(みさき)(朝鮮半島をさす)を、国の(あまり)ありやと見れば、国の余あり」と詔りたまひて、童女(をとめ)胸鉏(むなすき)取らして、大魚(をふお)のきだ()き別けて、はたすすき穂振り別けて、(みつ)()(つな)うち()けて、(しも)黒葛(つづら)くるやくるやに、(かは)(ふね)のもそろもそろに、国来々々(くにこくにこ)と引き来()へる国は、去豆(こづ)折絶(をりたへ)(現、平田市小津の湾入部)より、八穂爾支豆支(やほにきづき)(大社町日御碕(ひのみさき))なり。()くて、(かた)め立てし加志は、石見(いはみ)の国と出雲の国との(さかひ)なる、名は佐比売山(三瓶山)(これ)なり。(また)、持ち引ける綱は、(その)の長浜(神門郡の北部海岸丘陵地)、是なり。

『播磨国風土記』うち「神崎郡(かむざきのこほり)」より

(はに)(をか)の里(所書き略) 堲岡と(なづ)くる所以(ゆゑ)は、昔、大汝(おほなむちの)(みこと)(すくな)()古尼(こねの)(みこと)と相争ひて、のりたまひしく、「(はに)の荷を担ひて遠く行くと、(くそ)()らずして遠く行くと、此二つの事、何れか()()む」とのりたまひき。大汝命のりたまひしく、「()は屎下らずして行かむ」とのりたまひき。小比古尼命のりたまひしく、「()は堲の荷を持ちて行かむ」とのりたまひき。かく相争ひて()でましき。数日(ひかず)()て、大汝命のりたまひしく、「我は行きあへず」とのりたまひて、(やが)()て、屎下りたまひき。その時、小比古尼命、(わら)ひてのりたまひしく、「然苦(しかくる)し」とのりたまひて、亦、其の堲を此の岡に(なげう)ちましき。(かれ)、堲岡(郡の中央部、埴岡一帯)と号く。又、屎下りたまひし時、小竹(ささ)、其の屎を(はじ)き上げて、(みぞ)()ねき。故、波自賀(はじか)の村(神崎町の初鹿野(はじかの))と号く。其の堲と屎とは、石と成りて今に()せず。一家(あるひと)いへらく、(ほむ)()天皇(すめらみこと)(応神)(めぐ)()でましし時、宮を此の岡に造りて、()りたまひしく、「此の土は堲たるのみ」とのりたまひき。故、堲岡といふ。

 

文体模写

〈文体模写〉は書き出しが勝負であり、最初の一、二行で偽作であることを読者に理解させる必要がある。模写部分が牽引役となり、読者の興味を後続の文章へと引き付けていくのである。したがって真似る対象とするのは、必ず誰もがよく知っている文章であることが条件。後続文は必ずしも模写原文をなぞらなくともよろしい。

 一部借用の文体模写であれば常識通念の範囲として認められるが、原典の全文を模写すると不名誉な「偽作」とみなされてしまう。

【例】

戯作小説『雪見ぬ雪国』                       荻生作

国境の長いトンネルを抜けると雪国あった。

昔はスキー天国で、一面の白が広がっていた。

今、地球温暖化の影響により雪が無く、ゲレンデは見渡す限りぺんぺん草が生えている。

あたかも「雪がほしいよ」と雪の無い山々が泣いているような風景であった。…… 

*川端康成の名作『雪国』のパロデイで、書き出しが文体模写になっている。有名な文句を借辞(下線部のみ改変)することで、自作に箔を付けてみた。

 

文学碑漫歩 ぶんがくひまんぽ 

文学碑といわれる多くの碑文は、よく言って優等生的、悪く言うと没個性的なものが目立つ。もっともほとんどは後世人の建てた碑であるから、物故したご本人にも不満はあろう。本項の例示には、いささか毛色の変わった、生前の人となりを印象づけるようなものを選んでみた。

【例】  

*以下、出典はすべて&『文学碑辞典』

天田(あまだ)()(あん)(18541904)

ちゝのみの父に似たりと人がいひし 我眉の毛も白くなりにき ──福島県いわき市平・松が丘公園平城跡

*吟遊詩人の晩年を彷彿させるペーソスに満ちた一首である。

巌谷(いわや)小波(さざなみ)(18701933)

ブンブク〳〵音がする/夜なかに何だか音がする/屑やもむくむく起き出して/のぞいてみたらおどろいた/見れば狸にちがいなく/さては化けたなこいつめと/うとうとしたらこれ待った/わたしゃわるさをいたしません/かわりにいろんな芸をして/お目にかけますこの通り/たたく尾太鼓腹つづみ/屑やもかんしんするばかり/今も名だかい茂林寺の/文福茶釜のお話は/たれも知らないものはない/たれも知らないものはない ──群馬県館林市・茂林寺境内参道右

*童謡「文福茶釜」より。格好のご当地宣伝詞でもある。

直木三十五(さんじゆうご)(18911934)

芸術は短く 貧乏は長し

*短く辛辣な寸鉄の手本。多くの埋もれた文学青年の共感を呼び起こして久しい。

添田啞(そえだあ)蝉坊(ぜんぼう)(18721944)

突き出す鐘は上野か浅草か/行き来も絶えて/月にふけゆく吾妻橋/誰を待つやら恨むやら/身を欄干に投げ島田/チョイトネ ──東京都台東区浅草・弁天山

*作品「紫節」の一節を刻んだもの。名代の演歌師は浅草をこよなく愛した。

高群逸(たかむれいつ)()(18941964)

おとま帰ろ熊本に帰ろ/恥も外聞(げぶん)もち忘れて/おどんが帰ったちゅうて 誰がきてくりゅか/益木原山風ばかり/風じゃござらぬ汽笛でござる/汽笛なるなよ思いだす/おとんがこまかときゃ寄田の家で/朝もはよから汽車みてた/汽車は一番汽車八代くだり/乗っていきたやあの汽車に… ──熊本県下益城郡松橋町・寄田神社境内

*詞は尻取の(つぎ)が連なり、折り込まれた肥後弁がまた(ひな)ぶりを添えている。

《参考》

記念碑の始                                  石井研堂

明治二年の事、福沢諭吉氏、広沢参議の依頼により、西洋各国の警察法(市中取締法)を纂集訳述して、参考に出せり。其中、仏国の部の取締箇条注に「記念の為に建てたる石碑を守る事」の一ケ条あり、記念碑の三字始て用ひ出さる。/本邦記念碑建設の始めは、明治十二年、江州三井寺に建てし、西南役第九連隊戦死者の記念碑なり、湘南博交社出版の〔記念集〕は、同碑に関する詩文和歌の集録にて、山県有朋の序文及び、早田満卿の祭文の冒頭にて、年月を徴すべし。/明治十五年頃は、記念碑を建てるといふことが、一種の流行らしく〔絵入自由〕に屡その集纂あり、即ち十月十四日の広告に、松田道之の記念碑、十月二十八日の紙上に、井伊直弼の記念碑、十六年一月大阪桜宮公園に明治記念碑、同三月平等院に頼政の記念碑、大和泥川に樽井藤吉の日本社会党記念碑を建てんと企てある記事あり。&『明治事物起原』第一編

 

ぼかし 

文意がことさら曖昧としたものになるよう、広義・多義の含みを持つ語句を意図的に用いる文彩技法をいう。できるだけ歯切れのよくない表現に仕立てるのがコツである。

なぜ曖昧な表現にするかはいくつか別々の目的があるので、一概に言いきれない。

【例】

明治期新聞記事より

大和国桂城山ではなけれど、同じ国高取の旧城より十町ばかり南に当る山中にて珍しき大蜘蛛を見たりとて、猟夫数人が申し合せ是非生捕て見せ物にせんと、此頃日々その栖家をさがし居るより、其(からだ)の大きさは凡そ十八畳敷ばかりもあらんといへるは、ちと大層すぎてうそらしけれど、非常に大きなものにちがひないとのしらせあり。

&『東京絵入新聞』明治十三年七月二四日

近代小説より                                 泉 鏡花

浮世は今を盛の色。艶麗(あでやか)(をんな)俳優(やくしや)が、子役を連れて居るやうな。年齢(とし)は、然れば、その児の母親とすれば、少くとも四五であるが、姉とすれば、九でも二十(はたち)でも差へはない。

&(おんな)系図』後篇

 

漫文 まんぶん

滑稽かつ、とりとめのない表現でつづった文章を〈漫文〉あるいは〈戯文〉という。絵画に漫画があるように、文章にも漫文があっておかしくない。まっとうな画文の戯笑化という点で相通ずる趣きがあるわけだ。江戸中期以降、とみに目立つ存在になっている。漫文は〈狂文〉と姉妹関係にあるが、性格はいささか異なる。遊びの濃さでは漫文に軍配が上がる。

【例】

おいらんだ文字                              式亭三馬

おらんだは牛のよだりを見て文字を製すとかや。おいらんだは、しん象の寝姿を見て文字をつくるといへり。ゆえに字行(じぎやう)は行儀悪く、中にも金釘の芯をもつて書くものあり。余国の人に通じがたし。また一説に蚯蚓(みみず)ののたくるを見て作りしともいう、云々 

&小野愚嘘字尽(おののばかむらうそばつかり)』名頭字尽・前書

天下むちやくちやをちやくり文句      

幕末の江戸落書

慶応三年十月二十一日迄の書付見ねへな、抑々天下は権現様より照徳様迄、連めんつたはりきたりし天下を、今の悪玉なま物知恵めが、あつちこすり、こつちこすり、とふ〳〵天下になりはなつたが、京都は勿論、大名迄も言ふ事聞ない、老中を始役人めら迄、ほへつらかゝへて、恐れいつたの、なみだが出るのと、そんな書付見たくもねへに、どふだ一殿には遠大しんりよがあるのなんのと、野州の軍を手本にならい、詰りしまいは外国頼んで、天子へ手向ひ、悪玉大将ちつとはいたいが、ちんぼをきられよ、まごまごめされるとはらをやぶつて、ぞふふを出して、とふしんさして、おあかりあげて、下々よつて、諸神をまつるぞ、末社につながるおべつかづかいの、手前勝手な馬鹿様そだちの、喰ふ事知らない高取役人、今に見ろ〳〵おこもになるぞよ、其ときや下々喰ふ事かせぎも知つたる御家人、末々迄もおなかをたゝいて、おもしろだぬきのぽんぽこ〳〵

道楽文学のすすめ                             三文字屋金平

棚から落ちる牡丹餅(ぼたもち)を待つものよ、唐様(からやう)に巧みなる三代目よ、浮木(ふぼく)をさがす盲目(めくら)の亀よ、人参呑んで首くくらんとする白痴漢(たはけもの)よ、鰯の頭を信心するお悧巧(りこう)連よ、雲に登るを願う蚯蚓(みみず)(ともがら)よ、水に(うつ)る月を奪はんとする山猿よ、無芸無能食も垂れ総身(そうみ)に知恵の廻りかぬる男よ、木によりて魚を求め草を打て蛇に驚く狼狽者(うろたへもの)よ、白粉(おしろい)(むせ)て成仏せん事を願ふ(えん)治郎(じろう)よ、鏡と(にら)(くら)をして(あご)をなでる唐琴屋(からことや)よ、惣て世間一切の善男子若し遊んで暮すが御執心ならば直ちにお宗旨を変へて文学者となれ&『為文学者経』

*金平先生、世に言う落ちこぼれ、半端野郎を相手に、食い詰めたら文士になれ、とけしかけている。文中挙例のような、救いようのない連中尽しに仕立てた。『為文学者経』は別題を『文学者となる法』ともいい、内田()(あん)(一八六八~一九二九)が三文字屋金平なる匿名戯号を使い明治二十四年四月に発表。弄辞と譬えたっぷりのこの一文(掲出は書き出し)に対する反響は大きく、文学青年らは喝采を送り文士連中は顔をしかめた。文豪を自認する某長老は、ふざけるのもいい加減にしろと、頭に湯気を立てて怒ったという。が、戯文は戯文なのだ。そのところを忘れてカッカするようでは、金平先生言うところの狼狽者(うろたへもの)と変わりないのではないか。

花見酒序破急                                荻生筆

時は朝。花があくびした、眠りから覚めて。

花ぼらけ、という。

人の来ぬ間に花茣蓙敷いて。朱塗り杯で、まず一献。

「敷島の大和こころを人とはば

朝日ににほふ山さくら花

頃は昼。花もおどるよ、振袖まいて。

姫ぼらけ、という。

人々つどう、お目の保養に。春は手にした、グイッといこう。

「サイタ、サイタ、サクラ ガ サイタ。

うたげは尽きず、陽もかたぶき。落花狼藉これまた愉し。

酔ぼらけ、という。

花見の衆よ、な、寄りやんせ。

……車座だ、壜だ、茶碗だ、ソレ注げ、ヤレ飲め、サア歌え。

「酔ってうれしい花一匁、酔わなきゃさみしい夜の山、ッてね。

からすがカア、カカア、カッカ、くわばら、般若に化けたかア

 

道行 みちゆき 

〈道行〉は単に〈道行〉ともいい、相愛の男女などが旅をして目的地に着くまでの道程を〈秀句〉や〈縁語〉、あるいは「引歌(ひきうた)」などの修辞を駆使しながらつづる、華麗な七五調文体をいう。

道行は、古くは記紀歌謡などにも見られるように、文学を柱にしている。これが中世、舞楽や能狂言あるいは民俗芸能まで広い分野に根を下ろした。

江戸時代、近松門左衛門が世話浄瑠璃で道行を開拓すると、その旅情を誘う独特の詞章が人々を魅了した。たとえば『曽根崎心中』を皮切りに、男女の駆落ちから心中までの過程が道行文で語られ、哀婉切々たる詞が、あたかも道行の代名詞であるかのような強烈な印象を与えている。

道行の適用分野は、紀行文としてもとらえることができるように、本来より広範囲なものである。しかし言語遊戯の視点では、やはり浄瑠璃や歌舞伎音曲での道行文が中心になろう。

【例】

貴船(歌舞伎「貴船道行」詞章)                   谷立静詞

蜘蛛の()に、荒れたる駒は繋ぐも、二道(ふたみち)かくるその人を、いかで頼まん仇し野の、仇し好みの儘にはならぬ、月日程経て昔のわけを、思ふも濡るゝ我が袖の、港に耐えぬ仇波の、夜々(よるよる)ごとに立ち立ちでゝ、振りさけ見れば大原や、御室(おむろ)に近き小塩山(をしほやま)(ただす)の森の木の間分け、通ひ車の黄昏(たそがれ)見れば、車の〳〵黄昏見れば、包む(つら)さの袂に余る、わけを友禅(ゆうぜん)左の(かひな)、股にすけさま命と彫りし、その睦言もいつしかに、変る淵瀬と歎いた、海女(あま)の捨舟われ一人、こがれ〳〵て行く水の、影さへ清き加茂川や「やつれ果てたよ我が顔かたち、かくは見捨ててそよしなやな、三尺袖も年が寄りなば、何振らうぞしやうがいな「振れや振れ〳〵古妻いとし、我れ古妻はあとに御菩薩(みぞろ)が池波に、ひよ〳〵〳〵と、なくは(ひよどり)、小池に住むは鴛鴦(おしどり)「浜千鳥が、ちりゝんな〳〵、ちりゝや〳〵りゝとして、さてまたゑりくりゑんじよの、岩間岩間を伝ふ、足や千鳥足、西は田の(あぜ)あぶない〳〵〳〵、あぶのてならぬえ、細道畦道を、くゞりくゞつて、松の風に颯々(さつさつ)と、(みなぎ)り落つる鞍馬川「恋の淵瀬と身は辿(たど)れども、なほも思ひは丑の時、つき出す鐘ともろともに、貴船の社に着き給ふ。(地歌、本調子長唄) &琴線(きんせん)和歌の糸』

時雨(しぐれ)の松                                            さんし詞

♪暮れてゆく、あやめも分かぬ五月(さつき)(やみ)、今宵一夜(いちや)千年(ちとせ)とも、本の夫婦と思ひ川、渡りかねたる川竹の、身は儘ならぬ身なれども、死ぬる覚悟で遠近(をちこち)の、道の案内(あない)は知らねども、あと見返らぬ死出の旅、果てし長町裏伝ひ、心細道ゆく野辺に、月も見えねば恋の闇、互に手に手を取り交はし、歩み習はぬ二人が所体(しよてい)(とり)(なり)どけ泣く〳〵も、つひ(かか)へ帯引き締めて、水も洩らさぬ鴛鴦(をしどり)の、(つが)ひ離れぬ憂き思ひ、あれ〳〵向ふに今宮の、広田の森と眺めやる、身にしみ〴〵と小夜嵐、浮名所と名も高く、世字も歌ひし藻塩草、女の袖の縫紋も、もとゝいふ字を三文字(みつもんじ)(やつ)れ姿のほら〳〵と、男も同じ振袖の、年も相生(あひおひ)鶴と亀、松竹縫ひの上着の模様、契りは千年(ちとせ)百年(ももとせ)に、変り果てたる身の上と、互に寄り添ひ抱き付き、人の見ぬ間の私語(ささめごと)、涙のあやや五月雨(さみだれ)に、袖打ち(おほ)ひ「急ぎ行く、心も足も飛田の墓、(ひと)(ふた)村打ち過ぎて、此方(こなた)を見れば大江の岸、岸の姫松幾代かも、忍び逢うたる恋草の、結ぶ(えにし)勝間(こつま)の里、早や思はずも天下茶屋、東雲(しののめ)近くなる鐘は、げに住吉や浅沢(あさざは)の、(たつと)き寺と聞くからに、浅沢ならぬ親々の深き恵も水の泡、死んだらさぞや悲しかろ、許してたべと口説き泣く、(かはず)の声も哀れ添ふ、思ひは尽きぬ(くや)(ごと)、空に横雲、空に横雲ほの〴〵と、見交はせば、顔は涙に目も腫れて、飽かぬこの世の別れ鳥、声せい〳〵と聞こえけり、最早この世の見納めに、成らうも知れぬ憂き命、仇な契りと(ゆふ)(からす)、かはい〳〵と告げてゆく、安立(あんりふ)(まち)をぶら〳〵と、身の憂き事の数々が、積もり積もりて大和橋、渡る川瀬は(みつ)瀬川(せがわ)、夢か(うつつ)で北野橋、この世あの世の堺町、夜はしら〴〵とぞ開けにけり。──本調子端歌、&『新大成 糸のしらべ』

*心中行の亀松とおもと(ともに十九歳)は明和二年五月、住吉辺で見咎められ未遂におおせた。

 

問答歌 もんどうか 

短歌などの一形態で、一方が歌で問うと相手も歌で答える形式のものを〈問答歌〉という。問答者が別人同士はもちろん、一人が人物を仮託して応酬させる場合も含まれる。互いに連想を働かせてやりとりのおかしみを演出する。一種の歌合せとも見なせる。古くは『万葉集』にこれを部建てとした何首かが収められている。

〈問答歌〉は中世に入ると次第に技巧を競い合うようになり、たとえば『拾遺和歌集』が編まれた寛弘二(1005)年には、〈秀句〉を踏まえ滑稽味を盛り込み、言語遊戯化した作品がみられるようになる。また、〈道歌〉であるものの、後の《参考》に示す一休と智蘊の頓知問答歌はよく知られている。江戸時代に〈狂歌〉は隆盛の極みを示すが、〈問答歌〉になると作品例は極めて少ないので、筆者が詠んだ〈新狂歌〉による〈問答歌〉をついでに披露しておこう。

【例】

新狂歌「合歓(ねむの)往来(やりとり)」三態                               荻生作

亭主、女房に

ン十年起き()がり小法師(こぼし)で鍛えたる押しかけ女房の(けつ)のでかさよ

女房、返して

よくもまあ(やわ)亭主殿言わしゃるわ三日目にしてお(いど)向けたに

ひょっとこ、おかめに

▽おい、おかめ ひょっとこ様が情かけた祭りの晩の泣き忘れたか

おかめ、返して

おきァがれ女(たら)しのすっとこめ ころがしといて尻でテレツク

*祭り=情事の婉曲表現でもある。

トウちゃん、カアちゃんに

▽ラクしたい家カー付いてババ子抜き五欲ばかりで一礼もなし

     カアちゃん、返して

ずうずしい不精で臭く声でかい腹ボテ屁ぴりこれさ宿六

 

謡曲の重ネ ようきょくのかさね 

謡曲の詞章の表現方法に〈重ネ〉という〈畳句〉の典型がある。〈掛詞〉を連綿と続けたうえ洗練された韻律の、つづれ折のような文体をなす言語操作である。たとえば世阿弥元清作『養老』では、「君は舟、臣は水。」で始まる地謡(じうたい)の詞を受けて、「…返す返すも、よき御代なれや、よき御代なれや。」と、重ネ重ネで謡い継ぐ。この重ネは畳句の態をとり、詞自体の強調という目的とあわせ、流麗ときには夢幻の情景を詞章により演出するのである。

ともあれ謡曲詞をじっくり読むと、到るところ、修辞を駆使した美文になっていることに気づく。そのはず、後世の浄瑠璃や歌舞伎の台本は、この謡曲詞を手本とするところ大であったのだから。

【例】

 

謎の翁ども                          (はたの)(うじ)(やす)作(観世)

「およそせんねんの鶴は、万歳(まんざい)(らく)と謡ふたり。また万代(ばんだい)の池の亀は、甲に三極を備へたり。(なぎさ)(いさご)、さくさくとして(あした)の日の色を朗じ、滝の水、れいれいとして夜の月あざやかに浮かんだり。天下泰平国土安穏(あんのん)。今日の御祈祷なり。ありはらや、なぞの、翁ども。「あれはなぞの翁ども。そやいづくの翁とうとう。&脇能物『翁』より

()(ふで)の名こそ(たえ)なれや           

                  世阿弥元清作(宝生)

地「名をとめし(あるじ)は花の(かげ)(すゑ)の、主は花の景季の、末の世かけて生田川(いくたがわ)の、身を捨ててこそ名は久しけれ武士(もののふ)の、やたけ心の花にひく、()(ふで)の名こそ妙なれや弓筆の名こそ妙なれや

&修羅物『(えびら)』より 

よも尽きじ、万代までの                          作者未詳(金春)

   名ノリ笛