「洒落」の前身。文句の言いかけに妙味を発揮、地口や洒落を生んだ母体である

7 秀句系 しゅうくけい

 

「秀句」には大きく二義がある。一つは一般的に知られている歌俳や詩文の批評用語で、優れた作品そのものをさす。もう一つは、座興をはじめ芸能、あるいは中・近世の咄本(はなしぼん)などで、〈掛詞〉や〈縁語〉を用いて表現する滑稽を秀句といっている。後者のほうが言語遊戯でいう〈秀句〉で、平安時代中期から使われるようになった(くち)(すさ)びの一形態である。

〈秀句〉は鎌倉時代には慣用化し、兼好の『徒然草』にも、「御坊をば寺法師とこそ申しつれど寺はなかりければ、今よりはほうしとこそ申されめといはれけり、いみじき秀句なり」とある。

秀句と掛詞とは修辞上は同じものである。違いは用いる分野が異なるだけ。掛詞が歌学用語であり和歌に限定して用いられるのに対し、秀句のほうは、和歌をも含め通俗的分野(雑俳など)にまで用語範囲が広がっている。

秀句の語は、時代が下がるにつれて、後世語である〈洒落〉の語義が濃くなっていく。はじめは和歌の掛詞と縁語の技法を通俗的諧謔に転用していたのが、室町時代には猿楽の応酬(やりとり)などにみる〈(きよう)(げん)利口(りこう)〉の分野にまで拡張し、言語遊戯性がいっそう強まった。当時、秀句の才ある者は「(くち)(はや)き者」と呼ばれ、また大蔵流狂言の『秀句(からかさ)』では職業的な「秀句(いい)」が登場している。江戸時代に入ると、秀句は咄本を通じていっそう広まり、〈秀句咄〉が巷間の人気をさらった。話の落に秀句が多用され、面白さを演出したのである。

しかし秀句は、縁辺関係にある〈かすり〉や〈こせ言〉などとともに、元禄(16881704)あたりから〈口合〉あるいは〈地口〉といった新語にとって代わられ、徐徐にではあるが半死語化していく。

 

7 秀句系の目録(五十音順)

穿ち     

嘘遊び

絵馬詞

縁語

縁語付

烏滸の沙汰

おどけ

掛詞

かすり

かすり咄

きいたふう

興言

興言利口

口合

地口

秀句言い

秀句〔雑載〕

秀句咄

空言

茶利

でっちあげ

当話

頓作

はったり

ふはとのる

法螺

法螺歌

万八

与太話

利口

 

 江戸紫は「秀句」のイメージ

 

 

穿ち うがち

 文芸用語では、世の中や人物が抱える隠し処を白日のもとにさらけ出すことを〈穿ち〉といっている。いわば暴露行為だ。

 秀句としての穿ちは、人の意表を突くものほど秀作である。すなわち、単なる放言の類ではなく、内容に読み手を納得させるだけの真実が含まれていなければならない。

 古くは狂歌が穿ちの代表としてもてはやされたが、現代なら新聞投書の社会戯評が最たるものである。 

 美しいミーティング日本〔日刊中央通信社「社会戯評まんが」〕 

【例】

エセ人道主義者が急増      荻生作     

東北大震災後「めげずに上を向いて」と、高所に立って偉そうな口をきく有名人が増えた。メディアでも一見人道主義が急増だ。こいつをしつこく繰り返されると、逆に被災者を見下した物言いではないか、と疑いたくなる。自身のお人柄の低さを神棚に上げ、物言う暇もないほど額に汗する人々を見下した、お為ごかしのように思えてならない。

 

嘘遊び うそあそび 

現代社会で嘘をつくということは、真実でないことを言って相手をだます場合をさす。今でこそ嘘つきは悪徳の一つとして戒められているが、往時は嘘に対しはるかに包容力があった。平安時代、嘘は「烏滸(おこ)(ごと)」といって、取るに足りない冗談の意味が強かった。狂言でも嘘を「戯言(ざれごと)」といなし、軽く笑い飛ばす場面がしばしば現れている。太閤の御伽(おとぎ)衆の一人、曽呂利新左衛門は〈空言(そらごと)〉つまりホラ話の名手として引き立てられたし、九州民話「(きつ)四六(ちよむ)(ばなし)」は、いわばホラ話集である。

民話といえば、民俗学の分野でも、庚申講の夜の見えすいた嘘話は、村人達が社交辞令として愉しむ風潮すらあったとしている。江戸神楽でなじみのひょっとこ(火男)面は、嘘つきの権化(ごんげ)でもある。こうした遊び心から、言語遊戯としての〈嘘遊び〉が醸成された。

言葉遊びの嘘は、ばかばかしい嘘にすぎないことを相手にさとらせ、その話題にのせてしまうのがミソである。聞き手も嘘を承知で愉しませてもらう。嘘つきの技量が高いほど、相手も堪能するわけである。

ネタは無尽蔵に転がっているので、あなたも挑戦してみませんか。

 【例】

古典笑話より

明暮、うそに(くわ)をいひまはりたる物の方へ、おもひよらず客あり、常に浅ましき小者二人つかふとて、一人の名をば十人とつけ、一人の名をば五人とつけ置きたりしが、客の聞くやうに声を高々と、「やいやい、十人は山へ(たきぎ)しに行け、五人は藪の竹をきれ」と &『醒睡笑』巻六

*いわゆる「嘘もどきの真実」を材料にした話である。

吉四六(きつちよむ)話」より

昔、吉四六ちう()があったそうな。ある時、自分方に竹の子が出たけん、旦那様方に持っち行たそうな。「ごめんくださいましい」「おお、吉四六か、久しぶりじゃのう。よう来た、よう来た。はい(早く)まあ上がれ」

「へえ、旦那さん、うちィ竹の子ぐでけたん、持っち参りました」「おお、そうか、そりゃありがてえ。まあ上がれ」「へえ、そんなりゃ、上がらしちまらいましう」それかん上っち、ちょうず朝飯頃じゃったけん、朝飯うご馳走になったそうな。吉四六方ァ田舎じゃけん、いつでん、麦飯じゃん(など)うもうねえ汁じゃん食うちょるにィ、米ん飯じゃんうめえ汁じゃんあったけん、大けんこつ食うたそうな。それかん、「旦那さん旦那さん、こん竹の子ァうちん雪隠(せつちん)のそべェでけち、(こやし)うくむときィいつでん肥がかかるけん、こげエ肥ったんじござりまする」ちうと、「何や、雪隠のそべェ生えたんや、そげんもんが食わるるか。そげんもなァいらん。はい持っち帰れ」「へえ、お嫌いなりゃ、仕方ございません。持っち帰りましう」それかん今度ァ、ほかん旦那様方ェ行ち、そん竹の子う持っちち、昼飯うご馳走になっち、それかんまた、雪隠のそべェでけた話をしたりゃ、また持っち帰れち言われたち、それかんあっちこっち行きちご馳走になっち、竹の子ァ自分方ェ持っち帰ったそうな。&『全国昔話資料集成』17大分昔話集

 

絵馬詞 えまことば 

絵馬は俗信の象徴と見られる額絵である。奈良時代、寺社に祈念する善男善女が、生き馬(生贄(いけにえ))の代替に神馬の絵を板に描いて奉納したことに始まる。当時は十二支が画題の中心であった。

室町時代には画題が多様化し、各種の図柄が登場するようになった。つれて描く絵のほうも祈願の内容に沿ったものとなり、絵と願い事との結び付きが、なるほどと思わせるような〈秀句〉のココロとなる。ということは、信心に遊び心が入り込んだ(あかし)である。

以上のことから、絵馬の画題に隠された意味の具体化を〈絵馬詞〉と称することにしよう。花に花言葉があるように、絵馬にも絵馬言葉を添えたことになる。

【例】

絵馬の絵→絵馬詞(根拠)

▽牛→(くさ)よ治れ(牛はクサを食う)

▽狐→五穀豊穣、商売繁盛(稲荷の眷族(けんぞく)で、稲(ナリ)に通じる)

(きり)耳病(みみやみ)よ治れ(音が突き通るように)

石榴(ざくろ)→子授け、育児(鬼子母神の好物)

▽蛸→イボ、腫瘍取り(蛸の吸い出し)

田螺(たにし)→眼病よ治れ(田螺(ツブ)(ツブ)の語呂合わせ)

▽鯰→皮膚病(ナマズ)よ治れ(語呂合わせ)

▽鳩→必勝(八幡様の眷族で、受験合格や仇討成就などの祈願に)

▽蛇→文才成長、開運(弁財天の眷族)

&『小野愚虚字尽』より

 

縁語 えんご 

和歌や詞章のなかで、〈掛詞(かけことば)〉などある仕掛けの単語に照応して意味のつながりを強め、表現効果を高めるため用いる語を〈縁語〉あるいは〈縁の(ことば)〉という。

縁語は本来、和歌の修辞法の一つとして、一首の歌をその主題から離すための技法に使われていた。たとえば(おおし)河内躬(こうちのみ)(つね)が詠んだ次の一首、

 梓弓はるたちしより年月の射るがごとくも思ほゆるかな

 &『古今和歌集』巻一

において、早く過ぎ去る年月が主題である。

  この場合、「はる(春・張る)」を際立たせるために「梓弓」という枕詞(まくらことば)を用い、さらに「梓弓張る」につながる「射るがごとくも」を比喩に照応させている。以上の「 」内の詞は、いわゆる縁語の系を構成し、別の〔たちしより〕〔年月の〕〔思ほゆる〕の語群とは掛詞と被掛詞との関係を生じている。このように掛詞と縁語は、縦糸と横糸のような、密接な関係で語同士を織り結んでいる。藤原基俊(?~1142)の書いた歌学書『悦目抄』にも「縁の字なくば縁の詞を尋ねてをくべし。縁を求めずして歌を先立つることは材木なくして家を造らんが如しといへり」と、縁語を重視した一文がある。

 歌学言葉であった縁語だが、姉妹語の掛詞が〈秀句〉へと呼び名が移行したように、やがて散文や曲詞などにも盛んに用いられるようになり、つれて語義のほうもより曖昧なものへと拡散、拡大解釈されるようになった。

【例】

古歌の掛詞縁語 (傍線・傍点は筆者)                                            紀 貫之

青柳の糸よりかるく春しもぞ乱れてほころびにける &『古今和歌集』巻一

▽うきことを思ひつらねかりがねなきこそわたれ秋のよなよな &『古今和歌集』巻四

 

縁語付 えんごづけ 

掛詞(かけことば)〉と〈縁語〉をわざとらしく結びつけ、おかしみを強調する技法。狂歌の基本的弄辞法であるほか、道歌を一段と卑属化し狂歌仕立にしたり、俗謡などで戯笑化するなど広く用いられている。

【例】

古典狂歌の縁語付                         唐衣橘洲

▽下駄の音もかんらからかさ玉ほこのみちがへ日和さすがはづかし &『万載

 狂歌集』巻十四

 唐衣橘洲像〔狂歌五十人一首・後編〕

                   もとの木あみ

山姥がやまふところにそひふしそだつ一よふたよに竹の子 &『狂歌若葉集』上 

*傍線部(筆者)は隠し言葉抱きの掛詞→縁語系で、それぞれ山姥→乳母、やまふところ→乳母のふところ、臥し→節、一夜→一節、二夜→二節といった複雑な構成をなしている。

新狂歌の縁語付                                          荻生作

    縁台将棋〔軽口折込〕

▽詰められてチョイ待草はやるせなや金花銀花に影も長引く

    禅寺で一発〔地口落入り〕

▽禅師様いっちょ揉もうか屁に理付けけつかくさしで逃げるなよ、喝!

    敬老の日とかに〔縁語リレー〕

▽ご隠居が三人寄ればお茶孫子(まごこ)出がらし話枯れ木に花ぞ

    承前、お目出度いやらご愁傷やら

▽彼岸だのこの世あの世の通いぞめ春は南無阿弥秋に御陀仏 

俳諧の縁語付

▽ふきそゆるやねのくれはやあやめ草

&『毛吹草』巻一

都々逸の縁語付

▽腹に実のない瓢箪さへも胸にくくりはつけてある (江戸伝承)

歌謡詞の縁語付

   改良節(部分)                                             鬼石学人詞

♪開化の空気を吸ひこんで 野蛮の気風

 を払わんせ 自由の権利がありながら

 自由の権利を知らないは 目玉があつ

 ても明めくら 何にもならない節穴だ

 心あっても無き如く 石の地蔵にさも似たり ──明治二十三年頃流行

三朝(みささ)小唄                                                           野口雨情詞

 ♪泣いてわかれりゃ サイショ空までエ/ヨイトヨイト サノサくもる/くもりゃ三朝がヨ ヤレ三朝がヨ 雨となるヨ

 おおせぼうきじゃ 三朝が見えぬ/三朝山陰山の中 三朝湯の神ァ ひとりがおすき/ひとりゃ寝しゃせぬ 帰しゃせぬ 

 ハ 出雲の帰りにゃ またおいで/寄らずに帰るは二心(ふたごころ)/その時ゃわたしが 追っ

 てくよ ──昭和十年新盤 

 

烏滸の沙汰 おこのさた 

俗にも言う〈烏滸の沙汰〉とは、度がすぎてばかばかしいこと、今日で言うナンセンスに相当。古典中にもこういう烏滸の沙汰をもっともらしく打ち出した語り物が散見できる。

【例】

美人(をとめ)の雲古変化(へんげ)変身す

ここに媛女(をとめ)在り、是を神の御子(みこ)といふ、その神の御子といふゆゑは、三島の湟咋(みぞくひ)(むすめ)、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、その容姿(かたち)麗美(うるわ)しければ、美和の(おお)(もの)(ぬしの)(みこと)見感(みめ)でて、その美人(をとめ)大便(くそま)る時に、丹塗(にぬり)()()りて、その大便る溝より流れ下りて、その美人の女陰(ほと)を突きき、しかして、その美人驚きて、立ち走りいすき、すなはち、その矢をもち来て、床の辺に置けば、たちまちに麗はしき壮夫(をとこ)になりぬ。

&『古事記』中巻

大久米彦(おおくめひこの)(みこと)が神武天皇に皇后となるべき少女を

仲介(なかだち)するときに申し上げた言葉で、(かわや)におけるバッチイ(つま)(とい)の話である。美和の大物主命は美人の勢夜陀多良比売を見染め、彼女が大便を垂れる様子を見物に及んだ。ところが雲古は赤い矢に化けて溝を逆流し、比売の大事なところに突き刺さってしまう。びっくりした比売、その矢を持ってきて床に置いたところ、矢はたちどころに見目良い男に変身した、というのだ。この矢こそ女神が憧れてやまない象徴、男根にほかならない。このあと比売は男と一緒になり、子をもうけている。それにしても、美人の糞が男の一物と化し自分の陰部を突き刺す…なんという発想の奇抜さであろう。神々しいばかりのエログロ・ナンセンスではある。こういう与太話を奏上した大久米命もさることながら、面白がって耳を傾けた神武帝も神武帝である。しかし考えるまでもなく、超現実的だからこそ神話なのだ。

 乙女の秘所を射抜く丹塗矢 

弘法母御の霊験あらたか

いかに大師なればとて。父が種を下ろし。母が胎内(はら)を借りてこそ。末世の能化(のうけ)とはなるべけれ。うき世に一人ある母を。いそぎ寺へ上がれとはのうて。里に下れとは情ない。」とて。涙をお流しある。大師そのとき。「不孝にて申すではなし。」七丈の袈裟を脱ぎ下ろし。岩の上に敷きたまひて。「これをお越しあれ。」となり。母御はわが子の袈裟なれば。何の仔細あるべきとて。むんずとお越しあれば。四十一にて止まりし月の障りが。八十三と申すに。けしつぶと落つれば。袈裟は火炎となって天へ上がる。それよりも大師、しやうさい浄土にて。三世の諸仏を集め。両界くそんの曼陀羅(まんだら)を作り。七々四十九日の御弔いあれば。大師の母御。煩悩の人界を離れ。弥勒菩薩(みろくぼさつ)とおなりある。(現代表記に改変) 

&説教節『刈萱(かるかや)

*説教節は中・近世仏教の説教を背景に形を整えた語り物である。(ささら)を鳴らしながらの門付け芸から興行規模に発展した。「刈萱」で語られる弘法大師(空海)の母は、女人禁制の高野へ入山しようとする。大師の困惑に対しこの母は、「わが子のいる山へ、上らぬことの腹立ちや」と駄々をこねるが、結局は大師の機転で入山でき、面妖な結末のオマケまでつく。面妖といえば、超現実的な不思議が次から次へと起こる。母御が腹立ちまぎれに傍の石を(ねじ)ったら、捩り石になった。火の雨が降ったので母をかばったら隠し岩が生じた。四十二年間も閉じていた老婆の月経が回復しポタポタ落ち始めた…。中国四大奇書の一『聊斎志異(りようさいしい)』も顔負けの神通力物語だ。明らかに、弘法大師なる一人の教祖を無知蒙昧な信徒らに絶対視させるために作り上げた虚像である。

継子いじめに失敗                                          作者未詳

北の方(落窪姫君の継母)、鍵を(てん)(やく)(典薬助、北の方の叔父でいじめに加担)に取らせて、「人の寝静まりたらん時に入り給へ」とて寝給ひぬ、皆人々静まりぬる折に、典薬、鍵を取りて来て、さしたる戸あく、(姫君は)いかならむと胸つぶる、錠あけて遣戸(やりど)あくるにいとかたければ、立ち居ひろろぐ程に、あこぎ(姫君を助ける召使い)聞きてすこしとお隠れて見たるに、(典薬が)さぐれどさしたる程をさぐりあてず、「あやしく戸内にさしたるか、翁を苦しめ給ふにこそありけれ、人も皆許し給へる身なれば、え逃れ給ふまじものを」と言へど、誰かはいらへむ、打ち叩き押し引けど、内外(うちと)につめてければ、ゆるぎだにせず、「いまや〳〵」と夜ふくるまで板の上に居て、冬の夜なれば身もすくむ心地す、そのころ腹そこなひたるうへに(きぬ)いと薄し、板の冷えのぼりて腹こぼ〳〵と鳴れば、翁「あなさがな、冷えこそ過ぎにけれ」と言ふに、強ひて(糞が)ごぼめきてひち〳〵と聞ゆるは、いかになるにかあらんと疑はし、かい探りて、「出でやする」とて尻をかゝへて惑ひ出つる心地に、錠をついさして、鍵をば取りて往ぬ、あこぎ、「鍵をおかずなりぬるよ」とあいなく憎く思へど、あかずなりぬるを限りなく嬉しくて、遣戸のもとによりて、「ひりかけして往ぬれば、よもまうで来じ、大殿(おほとの)ごもりね、曹司に帯刀まうで来たれるを君(蔵人の少将)の御返事(かへりごと)も聞え侍らん」といひかけて、(しも)におりぬ &『落窪物語』巻二

呆れた噺                                                       鈴木昆石

昔時、下肥さらひ三四人、道端に(こえ)(たご)をおろし肩休めして、其中の壱人が云ふに、もし(おれ)が公方様になれば肥桶へ蒔絵をするぜと。他の者これを聞て、己だッて公方様になれば、朱塗りの肥桶を担いで見せらアと云へり。彼等、公方になるも肥桶を荷ふ気と見えたり。

昔時、弓術の先生の庭へ一匹の狐来りゐしを、先生弓に矢をつがひ(ねら)ひたるも、狐(のが)ること無し。(いか)にも奇なりと、射ることを()めて内弟子の壱人にその事を話せしに、其弟子再び弓矢をとりて的ふたるに、狐早々迯たり。其後ある人、狐に其故を問いひたれば、師匠の矢は的ひ違はぬ故に、射たる時身をかはして免るゝも、弟子の矢は何所へ来るやら知れず、実に危き故、迯たりと云へり。

&『昆石雑録』なんじゃもんじゃ・三八話

 

おどけ 

言葉のうえでのあまり意味のない戯れを〈おどけ〉と称し、中世に発生。意味するところは広く「ざれごと」「冗談」あるいは「ふざけ」などと深く縁辺関係にある。

【例】

仮名草子より

  一休詩歌を作りて(たこ)をくひ給ふ事

一休和尚は蛸が御好物にて、或日のつれ〴〵にたこを買につかはれけるに、折ふし棚にきれて、彼つかひの者ここかしこと尋て、おそくかへりければ、待わび給ひて一首(はべ)りける、

  此たびはいそぐといふにながそでのたこの入道みちのおそさよ

とあそばしけるところへ、蛸四五盃買もて来りければ、一休喜び給ひて、「此たこむざ〳〵と食ふもむざんの事なり。引導(いんだう)(じゆ)なくては」とて、一首、

 千手観音が蛸の手多し/刺つて柚子をかけて如何とか拝せん/佐 州一味天然別/他の禁戒老尺迦に任す

「やれ、引導はすみけるぞ。火葬にすべきか土葬にせんか。いや〳〵すひさうにせよ」とて、手取り足取り、……『一休ばなし』巻一

明治の新聞記事より

小石川牛天神の境内に軒傾きし古祠あり、何づれいかなる神を勧請せしや詳かならねど、大田神と称へて古来貧乏神の棟梁なりと言ひ伝へられ、疫病神は本所横網なる網米の二階に押込められ貧乏神は牛天神の片隅に封鎖したりとは、三尺の童子もよく知る所なりとの噂あり、しかるに近頃いかなる風の吹き廻しにや、此貧乏神を信仰する者夥しく出来て、社殿も改造せられ、清元延寿太夫等は大に力を入れ、今は地主の牛天神に倍する収入あり、されど如何にして貧乏神がかく繁盛するかは祠掌すら之を知らず、信者の言ふ所に依れば、此神実は貧乏を預り取りて信者を富ませ給ふの御利益あり、この故に貧乏神と名付けて従来人の疎みたるは愚かなりとの事なるが、何にせよ前年迄は天神の縁日に商人等の貧乏神近く店張りするさへ厭ひしに今は貧乏神の為めに縁日も立つ程とはなれり、相者曰く福相の人は乏しき財をも惜しまず使ふが故に心裕かなり、貧相の人は千両の金をも万両に増やさんと吝みひがみてケチ〳〵するが故に心貧なりと、貧乏神の信者もまた此流の理屈なるにや。『読売新聞』明治三十年七月五日

 なまづの七つ道具かや〔絵草子の挿画「弁慶なまづ道具」、絵師未詳、安政二年〕安政二年十月、安政大地震の直後から江戸では鯰絵が大挙して出回った。かわら版や錦絵で、また大津絵で、ピンからキリまで数え切れないほどの種類だった。由来は地底の大鯰が揺さぶったとの俗信から出たもの。しかし真の原因は、政治の混迷に加えての物価高、追い討ちをかけるような天災で、民衆の欲求不満が創り出した異状流行なのである。鯰絵で目立つのは、悪者や世の中の不公平をやっつける善玉主人公として活躍している姿だ。この武蔵坊弁慶仕立ての鯰も七つ道具を使いワル退治に出陣するおどけ姿を描き庶民の世直しへの切なる願いを描いている。

 

掛詞 かけことば 

日本語において際立つ同音異義の特性を生かし、一語に二つ以上の意味をもたせ語句を飾るものを〈掛詞〉という。平安時代、和歌の修辞に伴い、異質な複数言辞の統合を目的に創案された。掛詞の手法を利用すると、和歌のある一語に両義をもたせることが可能となり、歌容をより複雑かつ優美に仕上げることができる。そのため、掛詞初出の『古今和歌集』いらい、掛詞は歌人が積極的に採用するようになった。たとえば、藤原(よし)(つね)(11691206)作の有名歌、

み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(傍線は筆者)

では、「降り」と「古り」が掛け合う、巻頭歌からして掛詞が使われている。和歌専科の観があった掛詞だが、時代とともに、いつしか和歌以外の散文、戦記もの・道行文、謡曲はては浄瑠璃の詞章へと広がっていく。つれて呼び名のほうも〈秀句〉あるいは「兼句」へと変わった。これらとて、やがて江戸時代に広まった〈洒落〉へと吸収されることになる。

 掛詞はもともと歌学用語であり、言葉遊びに転用するには例外的な場合に限られた。それでも掛詞は遊戯へと指向し、室町末期には秀句即言語遊戯という観念すら生じている。

 さらに江戸時代に移ると、掛詞から〈縁語〉が派生。これが狂歌から雑俳まで幅広く用いられるようになると、もう和歌修辞法から完全に遊離し、典型的な言葉遊び技へと移り変わりをみせたのである。

 【例】

古歌・狂歌の掛詞 

紀 貫之

▽わがせこが衣はる雨ふるごとに野辺の縁ぞ色まさりける &『古今和歌集』巻一

小野小町

▽花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに &『古今和歌集』巻三

                                             在原元方

▽あらたまの年の終りになるごとに雪もわが身もふりまさりつつ &『古今和歌集』巻六

                                         小式部内侍

▽大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立 &『金葉和歌集』雑

伊勢大輔

▽いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな &『詞花和歌集』春

狂歌の掛詞

四方(よもの)(あか)()

▽くれ竹の世の人なみに松たてゝやふれ障子を春は来にけり &『万載狂歌集』巻一

山手(やまての)白人(しろひと)

 ▽春の夜はあんのことくに霞つゝ月の影さへおほうまんちう &『万載狂歌集』巻二 

                                           あけら菅江(かんこう)

▽塩鮭のからき浮世のせめ太鼓うつてやて〳〵舞の一さし &『万載狂歌集』巻四

                                            元木(もとのもく)あみ

▽芋をくひ屁をひるならぬよるの旅雲間の月をすかしてそみる &『万載狂歌集』巻五

大根太木(おおねのふとき)

▽まつよはゝ雪駄(せつた)のかねのかねてよりふみかよひけるうらの細道 &『万載狂歌集』巻十一

川柳の掛詞

▽三助とお三でろくなことはせず

 *三、三→ろく()

▽山の神荒れてお祭りのびるなり

 *山の神=女房の戯称、お祭り=房事

▽丸ビルは四角に建つても丸の内 水泡

 四角が掛詞、二つのにかかる。

《参考》

いいかけ() 言懸  大槻文彦(㈠は省略)㈡歌文ニ、一語ヲ、二語ニ代用セシムル修辞法。異語ナルヲ、同音ナルニ因リテ、兼用スルモノナリ、一語中ノ一部ヲ用イルモアリ。かけことば。秀句(シウク)万葉集九十三「滝ノ上ノ、三船ノ山ユ、秋方(アキツヘ)ニ、来鳴キワタルハ、誰レヨブコ鳥」(誰レヲ呼ブ、呼子鳥)古今集、八、離別、「立チ別レ、いなばノ山ノ、峯ニ生フル、まつトシ聞カバ、今帰リ来ム」(往なば、因幡。松、待つ) &『新編大言海』

 

かすり 

室町時代、後世の地口や語呂合わせに相当する遊びを〈かすり〉と称していた。語義は「言葉の行き交い」である。『醒睡笑』にも「うまれつきてかすり秀句をいふ上手なり」と、この語が出ている。

俳諧の分野では、〈秀句〉の別称として〈言いかけ〉あるいは〈かすり〉を用いていた。かすりのほうは、語の一部の音に他の意義をもたせるための俳諧用語として定着していた。たとえば、「うきこと」に琴の意も兼ねさせるといったように。しかし、秀句とかすりは本来けじめがなく、異なる分野での用語に過ぎなかった。

かすり咄 かすりばなし 

言葉遊びの〈かすり〉を小咄に仕立てたものを〈かすり咄〉というが、主人公はたいていどこかとぼけたところがあり笑いを倍増させる。『醒睡笑』にも「かすり」と題して三二話が収められている。

 醒睡笑の写本〔国立公文書館蔵〕

【例】

古典笑話より

正月二日の朝、にしより針売の来り、東より烏帽子(えぼし)売の行、途中(みち)にてはたと行あひ、烏帽子商人(あきひと)より、「はりの(はじめ)の御(よろこび)」と申したれば、針売とりあへず、「何事もえぼしめすまゝに」と &『醒睡笑』巻八

くらべ

「かかあ、かかあ、(ぜに)百くれやれ、男根(まら)くらべに行く」女房「よさしやんせ、また負けよふと思ふて」亭主「今夜()りだ、どふぞ百くれやれ」女房「ソンナラ、百ぎりで帰らしやんせや」と出してやった。亭主、(よろこん)で出ていつたが、間もなく帰つて戸をたたく、女房、又負けたのであろふと、戸を不承不承にあくれば、「イヤ勝った、勝った」女房「ムウ、おまへのより、ちいさいのがあつたかへ」亭主「聞きやれ、今夜は、きんたまくらべさ」

&『今歳咄』

 是なるお寺のゆかん場なんどは、武田の番匠飛騨ンの内匠(たくみ)が立たる所のゆかんばにて、一本の卒塔婆が一仏一体、誠に因果の守り神、二本のそとばが人面獣心、三本のそとばはおんば三途の川原に譬へンたり、四本のそとばで死かね申せば、五本のそとばでごほりや〳〵と痰が手伝ひ、六本のそとばが六字の名号、七本のそとばが八苦のくるしみ、九本のそとばが苦痛のお仕舞ひ、十本のそとばでじゞいがとふ〳〵ごねられけるは、誠にめでとうなられるん「ウンといふてたえられける、是からそろ〳〵万歳「ハアまんざい〳〵ヤレ万歳

&寂光(しでの)門松後(かどまつご)万歳(まんざい)』鶴屋南北自作の死亡広告(一枚刷り)

 

きいたふう 

物事をよく知りもしないのに粋筋の目の前で通ぶってしゃべることを〈きいたふう〉という。現在も通用する秀句の生き残り。「半可通」ともいい、大きな態度で物言う半端な耳学問を指す。

【例】

袋井の宿で、北八曰く

「エヽさつきからだまつて聞いていりやァ、弥次さん、おめえきいたふうだぜ、女郎(けへ)にいつたこともなくて、人のはなしをききかぢつて、出はうだいばつかり、外聞(げへぶん)のわるい

&『東海道中膝栗毛』三編下

現代的きいたふう                                        荻生作

A「君は古武士のように風格があるね」

B「…でしょうなあ。なにしろ武蔵坊弁慶直系の子孫なもので」

*弁慶は生涯童貞と伝えられているほどで、子孫などいるわけがない。この笑い話のように、きいたふうを抜かすとボロを出すことが多い。

 

興言 きょうげん 

〈興言〉は平安時代にできた言葉で、勢いに乗り口にする滑稽な言葉、聞き捨ての座興の冗談をいった。同時代、和歌の分野で広まった〈掛詞(かけことば)〉の類義語であるが、興言のほうは散文あるいは日常語での呼び名であった。

『源平盛衰記(じようすい)』巻四十一「平家人々の嘆事」の条にも、「当座の興言苦しみ有べからずと申しければ、…」とあるように、当意即妙の秀句をさしている。また次項の〈利口〉と合体し、より広い意味での才智を示す用語になった。

【例】

古典笑話より

さのみなうて、手のきいたるをたのみにし、相撲(すまふ)を好く男あり、また手を取る心はすこしもなくて、ただ力のあるをうでにし、相撲を好む坊主あり、双方(さうほう)名乗りあひ、僧と俗といくたび取れども、力のつよきにより、手を役に立てず、坊主勝ちとほしければ、俗腹を立ち、見物のおほき時、負けて退()きざまに高だかと声をあげ、「いかほどの坊主とも相撲とりたるが、あの入道(にふだう)ほど(すし)くさい(魚臭い、生臭い)奴に会うたことがない」と、悪口ばかりに勝ちしをかしさよ。&『醒睡笑』巻二

 

興言利口 きょうげんりこう 

即興の頓知を働かせ、人を笑わせたり、冗談を口にして人を興に乗せたりする才覚を〈興言利口〉という。平安末、〈興言〉と〈利口〉という似たような言葉同士が合体し、より総括的概念を含む用語になった。

鎌倉時代は建長六 (1254)年に成った説話集『古今(ここん)著聞集(ちよもんじゆう)』巻十六は、なんと「興言利口」の巻名になっていて、これを主題とした逸話があれこれ収められている。さらに同書第二十五巻五〇七条には「興言利口は当座に笑を取り耳を驚かす事」と見出して、いくつも逸話を収載してある。

 「興言利口の才子」とも称された明智光秀は自分を疎んじた織田信長に本能寺で意趣返し

【例】

知足院関白忠実侍を勘当の事

知足院(藤原忠実)殿、大殿とておはしましける時、侍を御勘当ありけるには、千秋(せんず)万歳(まんざい)をもちてはやさせて、その侍を真はらせけり、さる御勘当やはあるべき &『古今著聞集』巻十六・五〇九条

*クビにする侍臣のために送別会を開くとは前代未聞のこと、後世にいう「粋なはからい」である。

南都の一生不犯の尼臨終に念仏(ねぶつ)を唱えざる事

南都(奈良)に、又一生不犯の尼ありけり、つゐにあしざまなる名たちたる事もなくてやみにけり、臨終いかゞあらずらむ、世にありがたきためしに人〴〵いひける程に、病をうけて大事になりければ、(ぜん)知識(ぢしき)のために、小僧を一人講じて、念仏をすゝめければ、念仏をば申さで、「まらのくるぞや〳〵」といひて、つゐにをはりにけり、一()があひだ、ゆゝしくおもひとりては侍れども、心のうちには此事をかけたりければこそ、かくをはりのこと葉にもいひけめ、何事もたゞ心の(ひき)かたが善悪の報をさだむる也、よく〳〵用意あることにこそ &『古今著聞集』五五二条

《参考》

芥川竜之介

ところが同僚の侍たちとなると、進んで、彼を翻弄(ほんろう)しようとした。年かさの同僚が、彼の振るわない風采を材料にして、古い洒落(しやれ)を聞かせようとするごとく、年下の同僚も、またそれを機会にして、いわゆる狂言(きようげん)()(こう)の練習をしようとしたからである。&『芋粥』

さもありなん        

 荻生作

バーゲンセールで混雑するスーパーでご婦人が割り込んできた。「おい…」と言いかけ、見ると若くてなかなかの別嬪だ。おのれはすかさず「…ると動作が鈍くて。へへ、どうぞ、どうぞ」だと。助平爺め。

 

口合 くちあい 

上方において長らく命脈を保った〈秀句〉も、元禄期(16881704)あたりから上方では〈口合〉に、江戸では〈地口〉に呼称が変わる。口合のほうは「比談」「比言」と当ててクチアヒと読んだ。口合の名称は、秀句と音通が一つに合わさる、の意味で付けられたようである。

 江戸時代の百科全書『守貞(もりさだ)漫稿』には「クチアヒ、ジグチ、一種二名也」とあって、ともに異なるところのないことを示している。この双方は微妙なニュアンスの異なりがあると唱える人もいるが、いまだ用例をもって明快に実証されていない。

口合はもともと連歌、俳諧の用語であった。これが京阪において、五つの音通をもとに子音だけ換えて類音句を作る遊戯として発達した。ことに大坂では、〈(にわか)〉と時期を同じくして姉妹関係を結びながら発達。この辺の事情を、

口合、俄のはね((おち))なり、是はおよそかるくちばなしのおとしの口合になりたるかく多し &『古今俄選』巻一・俄名目例

と、俄の締めくくりが口合である、の説を唱える書も出ている。いずれにせよ、口合は上方民衆の粋興精神の吐け口として、たいへんな流行を見た。たとえば宝暦六年、八幡(はちまん)大名著『穿(せん)(とう)珍話』のごときは口合の指南書として当り版になり、現代でも口合の種本として利用されているほどである。その余勢は雑俳の分野まで食い込み、

口合や松ほどつばき桃はなし

       ↑

   待つほど辛きものはなし

のような戯句が巷間で盛んに作られるようになる。

 ちなみに安永二(1773)年に京都で板行された梅亭ら編著『口合秘事手引草』には「口合心得の事」と六か条を載せ、ここでは割愛するが、口合が何たるかを定義付けている。

 わてにはなによりの口合でんねん

【例】

上方伝承句をもとにしたもの

▽元日雑煮を祝わんせ←毎日そうして拝まんせ

▽年内しばし古なる方へ←めんない千鳥手の鳴る方へ

▽九月朔日、命はおしし←河豚(ふぐ)は食いたし、命は惜しし

▽山の太兵衛しょは和平(わへ)ひとり←お山の大将は我一人

()兵衛()の皮弥右(やよ)か、伊兵衛(いへ)でもないが←上の皮やろか、(いや)でもないが

大坂口合 

▽茶釜てる〳〵すゞかはくもる(諸道具尽)

▽釘抜を持て新しきとす(同右)

▽弓屋ひだりの御長者様(家名尽)

▽革屋の名のみ雁金の(同右)

▽出家師走に此在所(人倫尽)

▽湯女はあらぬいな船の(同右)

▽鯵をいわねば理が聞へぬ(魚尽)

▽雉子と見合す顔とかほ(鳥尽)

▽大象岩ほに腰をかけ(獣尽)

&『穿当珍話』

京の口合

▽あはれな蟹の仇おもひ←あはびの貝の片おもひ(伝承)

▽利足の高も銀次第←地獄の沙汰もかね次第

 &『鸚鵡石』

▽たれがかいたのじゃ、ゑ

&『たのしみ草子』冬

中京の口合

▽年増とぼせば初会からなびく←吉田通れば二階から招く

▽まだうみもせぬまゝの焚立←まだ文も見ず天の橋立

▽下戸にご飯←猫に小判

&『似口鸚鵡がへし』

小咄より

▽五月雨の頃、町方在方洪水して、二階に住居して居るところへ、座頭一人来る、(かす)(いち)、なにしに来たぞ、見舞いにまいりました、目も見えぬなりで、そこがみず見舞いでござる &『口合水』水見舞

▽女郎屋の若い者、金持客と見て、なんでも花をせしめるつもりで、禿(かむろ)に柳を折らせ、きのじやのだいにさしてざしきへ出せば、「どふもいへぬ」とほめるばかりで何の沙汰もなし、若者ぜひせしめる気で、口合に「柳はみどり」といへば、「花はくれない」 &『笑なんし』柳

 

こせ言 こせごと 

同音異義の秀句、ことに俳諧の場合をさす言葉に〈こせ言〉がある。室町時代に発生した言葉らしく、明確な定義は見出せないが、大っぴらに口にできないような冗談をこそこそ言いあうこと、程度の意味である。

和泉流狂言『今参り』の中にも「秀句こせ言を御存じかと申す事でおりやる」との詞が見えるが、この語は江戸時代に消滅している。

【例】

俳諧より(カッコ内は筆者)

▽高野山谷の蛍もひじり哉(聖 ↔ 火尻)

▽よそまでもさぞこゝのかや菊の花(ここの香 ↔ 九日。九月九日は菊の節句。菊は尻穴の隠語でもある)

▽とんくりもかしこかたきになるみかな(堅木に生る実 ↔ 敵になる身) &『毛吹草』巻一

古典笑話より

祇公(飯尾宗祇)、信濃路にて山家の草庵に立ちより、茶を所望ありつるに、湯のぬるかりければ、

 おちゃのぬるきは春のしるしか

すなはち亭坊(ていばう)

 むめ過ぎてわがとがのをの花ざかり

&『醒睡笑』巻八

 

地口 じぐち 

同音異義語を使ったり、一部の語音を変えたりして、元の言葉とよく似た別の言葉に仕立てるものを〈地口〉という。〈洒落〉の先輩格の言葉、とみてよい。

地口では、おもに母音を一致させ、子音だけ変化させて口調を似せる。この曖昧ともいえる音通ですら、当意即妙に洒落てしまう地口の発達のおかげで、秀句系列の言語遊戯の範囲は一段と広まった。

地口は江戸語であり、上方では〈口合〉といった。上方からみて「当合」という命名が理由だとのことだが、じつは諸説があり定かでない。

一通り列挙してみよう。

  口合に対し、江戸という土地の口合の意味である。

  持口、つまり一句で両義をかねるの意。

  (もじ)り口の(つづ)まり語である。

  似口、つまり「似かかりたる詞」をいう。

  下地のに似せた調、つまり内容そのものをさす。

など、いずれも根拠に不確かなところがあり定説とするには足りない。

 地口の特徴は江戸雑俳によく現れている。つまり〈三段謎〉を軸に、中七に同音異義の秀句を仕掛けて上五と下五とを繋ぐ手法であり、

 大夕立みなみがはれたうるしまけ

 とらの皮唐からきたる下駄の音

といった例がその典型。江戸時代の百科全書『守貞(もりさだ)漫稿』も

 「アブリ餅、コガシヤカトナル摩那夫人」焦セバ堅クナルト、児ガ釈迦トナルト、上下ニ通ジタリ。是亦、地口ノ一体也。

と例解している。

口合や地口は、すさまじい勢いで全国的に流行した。ところが〈絵口合〉〈絵地口〉といった射幸心をあおる懸賞付きが流行したため、一時期、幕令で興行が差し止められることもあった。しかし、機知の魅力に惹かれた庶民の遊び心はつのる一方で、祭礼や縁日では地口に絵合わせを試みた〈地口行灯(あんどん)〉が洒脱を競いあう。

江戸後期に入っても地口熱は衰えをみせず、たとえば天保十(1839)年には山田(やまだの)案山子(かかし)選になる『画口合(えくちあい)(たね)(ふくべ)』が巷間で引っ張り(だこ)になっている。

こうした地口の隆盛も幕末に近づくと下降をたどる。地口作法では母音・子音の応変などいくつかの制約があり、これが創作の煩雑さを助長した。

世の中あわただしくなるとわずらわしい仕来りはうとまれる傾向が強まり、地口もその例外ではなかった。やがて文明開化の声を聞くようになると、旧来の地口作法はもとより、地口の名前すら薄らいでいく。

 地口刷物〔江戸後期〕飛んで火に入る夏の虫→とんてゆに入る夏のぶし

【例】

人名の地口

▽酒でしんけん←武田信玄 &『でたらめ地口』

▽包丁とぎまさ←北条時政 &『地口絵合』

串柿(くしがき)升注(ますし)()←楠正成 &『地口絵合』

伝承の地口文句

▽おどけの顔も三馬()←仏の顔も三度

▽噂をすれば禿が来る←噂をすれば影が射す

(りうきやう)は客に売れたといふ←遊女は客に惚れたといふ

 地口刷物〔江戸後期〕

ことわざの地口

▽雪見にでたる三谷船←一富士二鷹三茄子&『皇都午睡』

▽正客はうちに近し←良薬は口に苦し &『でたらめ地口』

▽紫蘇のうまさも七十五日←人の噂も七十五日 &『新板柳樽』付録

▽あぜは造酒づれ菜ははたけ←旅は道連れ世は情け &『神事行灯』

▽画工は寝て松←果報は寝て待つ &『神事行灯』

有名詞章の伝承地口

▽花のおいど←花のお江戸

▽嬶は飲む飲む親父は怒る←坂は照る照る鈴鹿はくもる

▽年の若いのに白髪が見える←沖の暗いのに白帆が見える

▽米はといだか肴はまだかいな←梅は咲いたか桜はまだかいな

雑俳の伝承地口

▽軽い戯れ句も読みようで其角←丸い玉子も切りようで四角

▽花の遅れの四月咲くなり←山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

▽五月雨降らでも傘用意←さぶらひ食はでも高楊枝

俗謡詞章の地口

▽切るに切られぬ我が思ひ←菊枝切られぬ花重い &『麓の塵』

▽可愛がらすのヱヽなんじやら←からい辛子のヱヽ涙やら &『地口二葉草』

物尽くし地口㈠

   掛取り呉服尽くし                     三笑亭可楽

掛取りの財布はおもし大晦日、今日は一ばん結城縞、あらきを出すぢやなけれども、何ぼこつちが恵比寿屋の笑寿のような男でも、またるゝだけは松坂屋、地蔵の顔も桟留ぢや、こちは青梅に見る気でも、そつちやの心が大織縞、一反払ふた上なれば、またなんぼでも柏屋ぢや、たまたま来ても布袋しゆは、内出の槌屋で伊豆蔵ぢや、(中略)長いせりふは縮緬胴、互の心も住吉屋、水口からの出放題、めでたふ笑ふて戻りましやう、とかの呉服屋が出てゆくと、「こりァいゝ〳〵 &『百久の種』地口の取り

物尽くし地口㈡

源氏巻名尽くし夫婦喧嘩

亭主 もう縁を「桐壺(きりつぼ)」々々と思うて居れど「(ははき)()」が「蜻蛉(かげろう)」になり日なたになりて「澪標(みおつくし)」、「早蕨(さわらび)」の手を「絵合(えあわせ)」て「乙女(おとめ)」なさるゆえ、そのままに「須磨(すま)」しておけば、むかいの「(ばし)(ひめ)」とわけがある。「明石(あかし)」ていえと、いらざることに気を『紅葉賀(もみじのが)』、もう堪忍がなら坂や、この手「柏木(かしわぎ)」この「真木柱(まきばしら)」で「空蝉(うつせみ)」にするぞ 女房 いかに「(さか)()」げんでもいいかげんに「夕顔(ゆうがお)」、「(はなの)(えん)」のあればこそ「末摘(すえつむ)(はな)」をたのしみに、まだ「若紫(わかむらさき)」のころよりも、人目「(せき)()」の「雲隠(ぐもがくれ)」、心の「(たけ)(かわ)」いいもせで、…  &『古典落語大系』

だらけ地口

結構毛だらけ猫灰だらけ、けつのまわりは糞だらけ──的屋のタンカバイ口上 松竹映画『男はつらいよ』

《参考1》

西沢一鳳斎

東都にて、口合を地口と云ふ、近世出でたる三養雑記に、地口は土地の口合と云ふ事にて仮令ば地酒、地卵など云ふ類にて、地とは江戸をさしていへる詞なりとはあたらず、是れ似口にて、似かゝりたる詞を云ふがゆゑなり、扨て似口、口合に種々のわかち有り、三養雑記に出でたるは、天神の姿にて口をおさへたる絵に、「だまりの天神、(鈴の天神)団子3串書けるに、団子十五、(三五十五)」今は四文銭にて商ふがゆゑに、四つざしなれど、以前五つざしにて、五文に売りし頃なれば、百年跡の口調也、&『皇都午睡』初編上

《参考2》

酒に関する地口集                                              荻生まとめ

(あぜ)御酒(みき)連れ()は畑〔神事行灯〕←旅は道連れ世は情け★甘酒屋四銭(しせん)飲みます〔駝洒落早指南〕←山崎屋紫扇の三升★いいのを五合(ごんごう)酒呑には少ない〔同右〕←神功皇后武内宿禰★お酒の勘定〔地口絵手本〕←お釈迦の誕生★お酒の(かん)もちやんと〔同右〕←仏の顔も三度★面白機嫌の茶碗酒〔同右〕←落とした煙管のたたみざん★(かか)は飲む飲む親父は怒る〔行灯地口語呂合〕←坂は照る照る鈴鹿(すずか)は曇る★垣の外の四斗樽〔皇都午睡〕←柿本人麻呂★燗酒六合借り()よ〔地口図会〕←楱沢六郎成清★仰山飲まずに押さへます〔駝洒落早指南〕←瓢箪鯰でおさへましよ★金平うまい燗つけて〔行灯地口語呂合〕←金毘羅様へ願かけて★愚図が酒七合やり〔駝洒落早指南〕←賎が嶽七本槍●蔵前で酒呑みましよ〔地口絵手本〕←とらまえて酒呑みましよ★下戸に御飯〔同右〕←猫に小判★下戸を承知でおすもじを〔同右〕←回向しやうとてお姿を★()うた瓢箪(ひやうたん)よく呑んだな〔地口図会〕←太田道灌よく詠んだなあ★ごた煮にから汁酒に鳥〔行灯地口語呂合〕←牡丹に唐獅子唆竹に虎★これは(しゆ)たり〔地口行灯〕←これはしたり★酒屋七右衛門穂はつまず〔鸚鵡盃〕←鷹は死すとも穂はつまず★酒に(するめ)は程よく呑める〔地口図会〕←竹に雀は品よくとまる★酒呑みのこみあげ〔地口絵手本〕←竹門の胡麻あげ★酒八升〔同右〕←土手八丁★三合酒盛り〔行灯地口語呂合〕←西郷隆盛★三人酔えば文句の声〔素人狂言紋切形・下〕←三人寄れば文殊の智恵★地味も酒乱も酔ふ酒の癖〔地口絵手本〕←知るも知らぬも逢坂の関★三味(しやみ)は弾きづめ酔はぬ酒〔鸚鵡盃〕←旅は道づれ世は情け★生得大酒様〔和合人初中〕←聖徳太子様★船頭酔つて船出さず〔駝洒落早指南〕←勘定合って銭足らず★年取りの冷酒(ひやざけ)〔地口絵手本〕←年寄りの冷や水★呑み大酒三升五合〔新版柳樽・付録〕←南無大師遍昭金剛★呑んだもう酒はねへ〔駝洒落早指南〕←なんだしやうわけはねへ★花見の頃は機嫌酒〔麓の塵〕←霞のころも衣紋(えもん)坂★一つ呑んでは菊眺め〔同右〕←一つ積んでは父のため★冷酒で徳利かたげて美濃(みの)(ぼし)噛んで〔鸚鵡盃〕←白鷺(しらさぎ)が小首かたげて二の足踏んで★貧乏酒で目がさめず〔行灯地口語呂合〕←沈香(ぢんかう)焚かず屁もひらず★反吐長酒でぐずぐずと〔地口通段袋〕←江戸長崎や国々へ★安い酒飲みや一合で二百〔駝洒落早指南〕←丸い玉子も切りよで四角★酔つて普段の如し〔魂胆夢輔譚・巻三〕←仍而如件(よつてくだんのごとし) 

&『酒大学林』2章

 

地口行燈

 地口を書いた行灯。戯画を描き添えて何の地口なのか理解を助けた。祭礼のときや物日などに軒先に掛け通行人を楽しませた。

この行燈は江戸中期ごろから流行し、近代になってもかなりの期間縁日などで残影をとどめた。

 現代風にアレンジした恒例の公募作品祭り「三島宿・地口行灯(あんどん)

 

秀句言い

〈秀句〉を使ってしゃべったりメッセージを伝えたりすることを〈秀句言い〉と呼ぶ。実例で解説してみよう。作者は卑語云々にこだわらない下町育ちの八熊族、バッチイネタだがお許しを。

【例】

ウンともスンとも                                           荻生作

自然が呼ぶがまま、あわてて飛び込んだ

…まではよかったが、やややッ

トイレットペーパーが切れていた!

「ああ、苦しいときの紙だのみ」なんて

ぼやくことしきり。結果は?

ウンともスンとも言わずにおこう。

 誰もが一度は体験したことがあるであろう、密室での切ない思い。「苦しいときの紙だのみ」および「ウンともスンとも言わない」は古くから伝わる洒落言葉だ。紙だのみとは「神頼み」という同音異義言葉を言い掛けた秀句であること、言うまでもない。ウンともスンとものほうは言わないに懸かる慣用句で下ネタ、〈無駄言葉〉をも兼ね文体にちょいと弾みをつけている。

 さて、この秀句という言い掛けの滑稽を用いて描写をにぎわす手法を〈秀句言い〉と称す。文彩としては擬古文や歴史小説等によく登場し、現代の時代小説にも少なからず使われている。現代語メッセージであっても、使いどころのTPOさえわきまえておけば、秀句は内容の濃い表現に仕立てられよう。

 

秀句〔雑載〕 しゅうく/ざっさい 

〈秀句〉の代表的な伝承例句をいくつか掲げてみよう。

【例】

秀句の単語

▽七つ屋←質屋(シチ=七つ)

▽十三屋←櫛屋(九と四=十三)

▽十三里←焼芋(九里(くり)四里(より)うまい)

▽ひょっとこ←火男(ひおとこ)(訛言)

▽おあし←金(よく出て行く)

能楽・咄本の詞章より(傍線は筆者)

▽今を始めの旅衣ひも行末日ぞ久しき…〔高砂〕

▽捨つる身になきの里、今ぞ憂き世を離れ坂、墨のいの碓氷川…〔木〕

▽汐ならぬ海にこがれゆく、身をうき舟浮き沈み……ゆきかふ人に近江路や〔太平記〕

秀句(ことば)

▽薬缶の章魚(たこ)で 手も出ない

▽師走の蛙で 考える(寒蛙)

▽北国の雷で 着たなり(北鳴り)

▽唐人のお尻で 空ッけつ(唐ッ尻)

▽小塚原の犬で 人を食ってる

▽料理屋の土瓶で 口が悪い

▽雪隠の火事で 糞自棄(やけ)

地名がらみの秀句(傍線等は筆者)

▽湯島の変人様(←天神様)

▽何だ神田のお玉が池(())

▽とんだ目に王子の稲荷(()うた)

▽恐れ入谷の鬼子母神(←入る)

▽ぴいぴいどんどん神楽(弾み詞)

(なさけ)有馬の水天宮(←有り)

▽嘘を築地の御門跡(←つく)

▽その手は桑名の焼蛤(←食わぬ)

俳諧の秀句(傍線は筆者)

▽恙なく咲くやうつ木の穴かしこ

▽厚氷はつたと音や忘水

▽蛸の手やきりか八なる桜いり

&『毛吹草』巻一

狂言の詞章より

ツレ して又新発意(しんぼつち)は何を秀句と云ふぞ

シテ おれは、つぶりだけで草木で秀句を言ふ

ツレ よからふ、まあ我から言へ(と盃を出す)

シテ 合点ぢや、橘の諸兄(もろえ)、柿の本の人丸、山辺の赤草、と呑まふ

ツレ 出来た、大友の真鴨、藤原のにかた、入鹿の大臣、石持ちのやま丸、さかな上の田村丸と呑まふ

シテ 猿若の猿すべり、藍の仲丸、在原の椰平、文屋のやす稗、木のつらゆき、おうち柑子(かうじ)のみつね、海松(みる)の忠峯、坂上のこけのり(と呑む)

レ 相馬の鱒門、米かみを俵藤太、ただのまんぢう、渡辺の源吾鮒、さかなの金時、葛井の定光、卜部の椎たけ……

&中村座家狂言『新発意(しんぼつち)

 新発意〔寿狂言之内、二代喜多川国貞画〕

《参考1》          

松浦静山

徠門(荻生徂徠門下)ニハ放達不羈ノ人多シ、行検ヲ以テ取ルベカラズト以ヘドモ、其気象快活、近世ノ腐儒ニハ優ルベシ、筑波山人(石中緑)又夏納涼シテ市街ヲ歩ス、西瓜ヲ切リテ売ル者アリ、掛灯ヲ赤紙ニテ張レバ、ソノ光売人ノ顔ニ移リテ赤シ、頻リニ西瓜ヲ買ベシト勧ム、山人笑テ曰、何ゾ被酒酩酊ナルヤ、売人怒テ酒ヲ飲ミシコトナシト云、山人大ニ笑テ、其顔ノ赤サニテ、尚酒ヲ飲マズト陳ズルハ如何ト云、売人此灯光顔に移リテ赤キナリト云、ソノトキ山人益々笑テ、然ラバ其西瓜ノ赤キモ、灯火ノ映ズルナラン、サアルトキハ、其西瓜買ウニ足ラズトテ去ル、路人傍聴一哄ス、売人怒レドモセン方ナシ、其滑稽亦此如シ &『甲子夜話』巻十三

《参考2》

民衆の世界で発達                      綿谷 (きよし)

世に軽口と云い洒落というもの、(例えば近松の『心中天の網島』に「あはうの癖にかるくちだて……」、『俄歌留多』に「女中なかまは仮りそめの、しゃれも男の噂なり」云々)其の意義の一半は、此の秀句を包含しているのである。即ち古来知識階級のみに享有せられていた秀句の世界が、徳川泰平の時代には民衆の世界にまで拡張さるるに至った事は否めない事実であった。当時の小咄の大半も亦、此の軽口であり洒落であった。大体、小咄・軽口の下げには、考え落ちと秀句落ちの二種類があるのであるが、後世駄洒落気分の増加は、追々秀句落ちをして考え落ちを撃退せしむるの勢いに至らしめた。落語の下げに付ても同様のことが言い得られる。/山崎美成曰く、

 抑々此落ばなしといふものの起源をおもふに、昔の秀句など、その初めなりけむ。(金杉日記)

斯うした歴史的過程の後にこそ、実に秀句の勢いは、どうしても此処に一つの遊戯として独立するの徹底味をさえ見せるに至るのである。&『言語遊戯考』

 

秀句咄 しゅうくばなし 

秀句の言語遊戯化を一歩押し進め小咄(こばなし)形式で独立させたものが〈秀句咄〉である。

江戸初期に成った『醒睡笑』は著名な笑話集で、秀句咄の宝庫でもある。採録編集した安楽(あんらく)(あん)策伝(さくでん)(1554~一1642)は咄に落を付け、笑話の締めくくりとする技法を固め、単なる秀句をより洗練された文芸の域にまで引き上げた。

大蔵流の大名狂言『秀句(からかさ)』でも、秀句を習いたいという大名(シテ)を通じて秀句咄風の面白いやりとりが描かれ、この時代に秀句咄が庶民にも広く普及していたことを裏付けている。

 狂言「秀句傘」 シテ 野村萬斎

【例】

古典笑話㈠

京にて、傍輩(ほうばい)の中間行合ひ、「そちは今、誰のもとに奉公をするぞ」「三条のお奈良屋(ならや)にゐるは」おの字をつけていふを憎み、「おならやはの、くさい事をいふ」「それならば、そちは何とて、わがゐどころ((いどころ)と居所の秀句)を問ふたぞよ」 &『醒睡笑』巻八

古典笑話㈡

旅人、敦賀にて、「一夜の宿を貸し給へ」といふ、亭の答へに、「春か秋冬ならば易き事なり、夏月に泊り事なるまい」「いかなれば」と問ふ。「こゝは処をつるがとて、鶴ほどの蚊ありて食らふものを」旅人いふ、「それならば宿かし給へ、毛頭苦しからず、生得(しようとく)我が住む(かた)山家(やまが)なれば、山ほどの蚊に食はれ付けた身じや」と &『醒睡笑』巻八

 

空言 そらごと 

話の内容が現実に起こりえないことや、事実を超越した作り話の類を〈空言〉という。ときには「絵空言」「嘘話」「法螺話」「偽り」「大言」などの別称を用いることもあるが、どれも中身は似たようなものである。ただ、単純な〈嘘〉と比べると、内容がいくぶん手の込んだものになっている。

【例】

古典笑話㈠

天台・禅宗・時衆(時宗)、僧三人座を同じうし、「いざ、大いなる歌よみて遊ばん」「(もつとも)なり」「然らば、時衆は歌道に心がけの家なり、まず詠み給へ」といはれ、/唐土より日本にひよつと躍り出て須弥(しゆみ)(あたり)を遊行する人/また天台沙門、/須弥山(しゆみせん)に腰うちかけて大空を笠にきたれど耳も隠れず/禅宗/押し廻し虚空をぐつとのみこめど須弥の中骨(のど)にさはらず/天台のいふ、「汝が在所何処(いづこ)なれば虚空をばのむぞ」時に禅、「()そ〳〵、腹の中にて物いふは」 

&『醒酔笑』巻七

古典笑話㈡

うなぎ                                                          田中道麿

鰻を買ふと、あれこれと見て、大鰻を手に取れば、ぬら〳〵と上へ抜けるから、左の手で握れば又抜ける。左右の手にて段々と、その上を握り〳〵、とふ〳〵足が大地をはなれ、段々空へあがり、影も形も見へず。日数経れども、音もなし。はや一周忌とて、近所一家を呼集め、法事(ねんご)ろに営む折節、天より何か、ちら〳〵と落ちる。皆々、縁先へ立出で見れば、短冊なり。取上げて見れば、一首の歌に、「去年(こぞ)の今日鰻について登りけり今に絶へせず登りこそすれ 他筆御免」 &『畔の落穂』

古典笑話㈢

 向上極意風筝(たこ)にて雷をとる                       古川珺璋

風筝は雨ふり仕立にして、うらへもちを能ぬり、中ほとへすばしりのへそを結び付、雲立して雷の起らんとする時、風にまかせて雨雲の内へ入る様に糸をやるなり、やかてかみなり其へそをとらんと左の手を出す、もちに付、其もちをとらむと右の手を出す、又もちに付、左の足にてとらんとす、又付、右の足にてとらんとす、又付く、口にてとらんとす、また付く所をよくかんがへて速にたくりおろす、あゝ奇術といふべし/或人問て曰、足下此術を工夫したまへるか、答曰、予いとけなき時より風筝の術に心をつくし、戦争にのそみて奇功を施し、勝利をうることあけてかぞうへからすといへとも、いまだ雷を捕るの術にはいたらさりき、然るにある時一すひのうちに、たこやくし如来出現したまひて、ねはん経をさつけ給ふとみてゆめはさめたり、夫より彼経を読事久しうして、終に此術を考えへ侍るにいたれり

&『風筝全書』前篇

昔話より「空ごとばなし」

八十になる一人娘が、豆腐の角で怪我をし、こんにゃくのそべら(削りくず)がのどに立ったので医者にいくと「千里山奥のはまぐりと千里浜辺のこうたけを取ってきて、水で焼いて日で溶かし、明日の朝付ければ今日治る」と言った。

&『日本昔話通観』19岡山

《参考》

そらごとをうそといふ事                      本居宣長

万葉四の巻に、 

  逢見ては月もへなくにこふといはゞをそろと我をおもはさむかも

又十四の巻に、

  からすとふおほをそ鳥のまさてにも来まさぬ君をころくとぞなく

この歌の意は、そのごとくまさしく()もし給はぬ君なる物を、烏といふ大虚言(オホオソ)(ドリ)の、()(ロク)〳〵と鳴ことよといへる也、ころくは、ろは例のやすめ辞にて、こは此にて、此処へ()といふことなり、子等来(コロク)にはあらず、すべて子には、古故などの字を書る例なるに、これは許字を書きたり、そのうへ()まさぬ君とは、女の男をさしていへる言なるに、そを子等(コラ)といふべきにあらず、さて清輔の朝臣の奥等抄に、或人云、ひむかしの国の者は、そらごとをば、をそごとゝいふ也とあり、上件の万葉四の巻なるは、東人(アヅマビト)の歌にあらざれば、いにしへは、をそといふ言、京人もいひし也、かくてをそは、すなはち今の世にうそをいふ言これ也、をとうとは、殊にしたしく通ふ音也 

&『玉勝間』巻十一

 

茶利 ちゃり 

剽軽(ひようきん)な言葉や動作の古語を〈茶利〉といった。また、舞台で滑稽な場面や動作を「茶利場」と称しているように、歌舞伎や浄瑠璃の台詞にも茶利の言葉が使われている。

言葉の発祥はたぶん室町末、遅くとも江戸初期に発生した言葉と思われる。

 現代も「爆笑!茶利坊主団!」という御一行さんが結成され、ギャグとばしが人気になっているとか。傍らにチャリ(自転車)ペアになっているのもご愛嬌だ。

【例】

古典詞章等より

▽京の得意衆の坊さまにちやつと愛想にやるのぢやに依つてちやりな奴がよいぢやわい &歌舞伎『けいせい廓源氏』四段目

▽ハアアこりやおふくどん、泣くか泣くか、ちやりより愁ひ場がこうしやぢやの

 &『当世阿多福仮面』

樋口一葉

▽これは()うにもならぬ其やうに茶利(ちやり)ばかり言はで少し真実(しん)の処を聞かしてくれ、

 &『にごりえ』

《参考1》

   奇行の雪山、(さん)(まら)大写の弁

馬鹿どもに一茎づゝかつがせたり。

&『近世名家書画談』北島雪山

北島(きたじま)雪山(せつざん)(16361697)は江戸前期の書家・文人画家・儒学者。雪山、長崎で富貴だがいささか嬌奢ぶりの家に、即席の揮毫(きごう)を求められ赴いた。美酒佳肴の宴席が設けられたうえ、慰み女まで相伴している。席上、亭主から早速ながら一筆をと促された。先生、主客は三名いるから三紙を()べよと申し入れ。やおら大筆を墨にひたし、一紙ごとに陰茎を一器ずつ大写して三名に与えた。その屋敷からの帰途、天潴(てんき)先生なる知人に行き会い、掲出の言を吐いて大笑したという。雪山は江戸時代に唐風書道の礎を築いた人で、門人に細井広沢らがおり、この逸話も広沢が天潴先生から聞いた仕立てになっている。雪山とにかく名うての奇行の人で、かねてから贅好みの富者に一矢酬いんと思っていたおりの、降って湧いたような機会に乗じての悪戯であった。展紙というから相当大きな紙にデカデカと一物を描いたわけだ。馬鹿どもも、また先生の悪趣味(ひとかつぎ)が、と知ってのうえで押し戴いた。相手も風流でなかったら演じられない芸当である。

《参考2》

                    筆者未詳

世に物真似をして、様々の口をきく豆蔵といふ者あり、町々小路々々にて人寄せをし、角々に徘徊して、人のいやがるさし食をせりふに言ひまじへ、むだ口をきく。往還の者急ぎの用を打ち忘れ、気をとられて見物すといへども、銭を取らせねば腹を立て、これよりして放下を始めんと言ひもあへず、腰より竹を抜き出し、鉢の底におしあて差しあげつゝ、きりきりと廻して、鼻の下に立てて曲をする、或はささら、玉の曲、脇差しを抜き出し、切先を額にあて、あそこやここにとび廻し、一生そのうちは袖乞ひをこそいたしける 

&『このごろ草』

おやまかちやんりん

♪おやまかちやんりん、蕎麦屋の風鈴、おとすと罰金(または「ひつくりかへしちや罰金」) 

 &『明治流行歌史』、明治十年頃流行

*「ちゃんりん」は道化た言動、つまり茶利の転化したものである。右の詞はすべて無意味な弾み言葉でつづられており、この類を「無駄口唄」ともいう。

 

でっちあげ 

〈でっちあげ〉は、事実無根の事をあたかもあるかのごとくに作りあげること、捏造することをさす。

もちろん、言葉遊びでのでっちあげは、あくまでも遊戯であるから、他人を(かた)るなど迷惑をかけることがあってはならない。最初からでっちあげた物事であると相手に認識させる必要がある。この辺の呼吸を一歩誤ると、とんでもない結果をひき起こすことになる。例示のジャパン・タイムズのケースはその好見本である。

【例】

異能少年の見た女島                                            平田篤胤録

○問いていわく 女島はここよりいずれの方にある国にて、その国のありさまはいかにありしぞ/寅吉いわく 女島は日本より海上四百里ばかりの東方にあり。(中略)さて女ばかりの国ゆえに男を欲しがり、もし漂着する男あれば、みなみな内寄りて食うよしなり。懐妊するには、笹葉を束ねたるをおのおの手に持ちて、西の方に向い拝し、女同士互に夫婦の如く抱きあいて(はら)むよしなり。ただし、たいていそのときはきまりありとぞ。この国に十日ばかりも隠れいて様子を見たりしなり。

&仙境(せんきよう)異聞(いぶん)』上・二巻

*文政三年秋、天狗小僧寅吉という超能力を持つ十五歳の少年が江戸中の評判になった。寅吉は失せ物探しや富くじの番号を次つぎに当てて注目された。(あつ)(たね)はじめ山崎美成(よししげ)・佐藤信淵(のぶひろ)といった学識者までが並ならぬ興味を抱いた。篤胤は国学仲間の屋代(やしろ)(りん)()に誘われ美成の住いを訪れ、使いを出して評判の寅吉を呼び出した。そのおりの問答記録集が『仙境異聞』である。内容は俗界を離れた感霊異境の見聞という触れ込み。たとえば女の霊の行方、仙人の年齢の数え方、金毘羅様の実名、夜の国の事などについて質問し、寅吉が丁寧に答えている。この本をざっと拾い読みしてみたが、言っていることは荒唐無稽の域を出ない。ただし、十五歳の少年とは思えない体験知識が少なからず盛り込まれている。その異能(オカルト)ぶりに当代のインテリ連が振り回され、感じ入って記録にとどめている点が今一つ納得いかず、創られた神がかりの感を強めた。

左甚五郎の京人形

甚五郎 おゝ この人形は誰が出した ハハア判つた さては嬶めが 俺を喜ばそうと思つてぢやな これいぢつてくれるな 手垢がつくわえ 〽登りつめては命さえ 〽あらぬ限りと身をつくし 魂籠めて銘作の 不思議や人形 生けるが如く

甚五 やアやア この人形は歩くわ 歩くわ

 「心ならずも立ち寄つて

甚五 やつぱり木に違いない さつても不思議な こりやどうぢや 

 「呆れてしばし詞なし

甚五 ハハア どうぞ太夫に生写しにしようと一心籠めて彫り上げたれば 魂入つて動くのか 「訝しさよと 立ちつ坐りつ面影の 「変らで年は百年に なりぬるとも朽ぬ造り花 ──常磐津「京人形」

*歌舞伎舞踊歌常磐津「京人形」から詞と唄の抄出である。かの左甚五郎が作った京人形に精魂が乗り移り踊りだす筋書きで、日本版「ピノキオ」といったところだ。左甚五郎については、架空の人物とする説が有力である。日光東照宮の「眠り猫」をはじめ各地に伝説が多く、さらに伝承の時代が一個人の生涯年齢をはるかに超えている。同時に各地に何人もの甚五郎が輩出している、と史家は指摘する。いったいに刀工正宗 や甚五郎など名匠には、超現実的な逸話が多く付きまとう。中・近世に「職人歌合」の催しが開かれているように、職人の地位が比較的高く、その世界での英雄を求めた風潮が伝説を生んだのではなかろうか。甚五郎といえば、飲み助にとって見逃せない江戸川柳がある。

   甚五郎酒が好きかと御用聞き

もちろん「左利き」から左党にかけた(いい)である。

ソ連爆撃機羽田に

Russian Multi-Jet Bomber Lands at Haneda Airport

&『ジャパン・タイムズ』昭和三十年四月一日

*ソ連ジェット爆撃機羽田に着陸──昭和三十年四月一日、ジャパンタイムズ紙の一面にこの大見出し(ヘツドライン)が載った。時に、東西冷戦は雪解けしたわけでなく、国民はいつ起るともわからない核戦争の不安におののいていた。折もおり、このショッキングニュースの登場である。これは茶目っ気を通り越しタチの悪い騒乱だ、として他紙がJТ叩きに乗り出した。

 行きすぎた?「四月馬鹿(エープリルフール)」/「ソ廉爆撃機、羽田へ」/日本タイムズ報道/内外読者を驚かす(『朝日新聞』昭和三十年四月一日夕刊の見出し)

 ジャパンタイムスの四月バカ問題記

*だいたい「四月馬鹿」なる弊習を、やみくもに日本に定着させようとする発想に無理がある。日本人は元来生真面目(テンシヨン)民族で、あちら風のギャグだのユーモアになじみが薄い。心底に儒教精神が根付いているからだ。戦後アメリカ文化礼賛が昂じ「うそつきコンテスト」まで開かれたが、大衆はのらなかった。

 

当話 とうわ 

当意即妙に、気のきいた応答をする話法をさして〈当話〉といった。室町時代に流布した言葉で、すでになじんでいた〈興言利口〉の改称といったところである。古典笑話集『醒睡笑』巻八にも、「雪中の扇になんの役かあらん、僧しばらくありて、扇をつかひ、当話に汗が干てざふよ」とある。

【例】

古典笑話より

普光院(足利義教)御所(ごしよ)へ、重宝(ちようはう)の剣を進上す、すなはち科人(とがにん)を召出し、きりて見んと引き据ゑたるを、「あなたへなほして斬れ」とある、その時かの科人、「しばらく待たせられよ、存ずる旨をもうさん」と、

  洗ひ()(しづ)襤褸(つづり)のさをずくみ引き直さねばきられざりれり

これを聞こしめされ、「やさしき者の心や」とて、いのちを許されけるとなん &『醒睡笑』巻五

仮名草子より

一休和尚五百羅かんの名をこたへ給ふ事

或寺に五百羅かんを作りて堂供養しければ、貴賎群集のけんぶつ有けり。法事やみて後、其寺の僧、羅かんの前に香華(かうげ)などとりてゐけるに、こびたる世俗二三人らかんを見物し、みな〳〵人されども、此もの共つく〴〵と見居りて、(さて)かの僧に問けるは、「此五百らかんに一々名こそおはすらん。御坊は定めて御存知あらん。うけ給りたし」と申しければ、此僧三尊の外は一人も名をしらざりければ、何共物はいはずして方丈へにげ入りける。/折節一休その寺に居給ひて、「何事なる」と問給へば、しか〴〵と申さるる。一久のたまひけるは、「いらざる俗のとがめごとや。かくて芸にもならざること、誰かは覚え侍らん。われもしらね共、いで〳〵云てきかすべし」とて、羅漢堂へすすみ出て、「こなたへ物申さん、らかん達の名の御のぞみか」と仰せられければ、「おそれ

 一休像

ながらうけ給りたし」と申ける。「さらば一々とひ給へ」「(まづ)真中なるは」「しやかむに」「左なるは」「かしやう」「右なるは」「あなん」「さて次は」と問ば、「南無さたんど」「其次は」ととへば、「すぎやとや」「其次は」ととへば「おらこち」と、一々しり給はねば、れんげじゆにて答給へば、五百らかんのことは置き、百貫羅漢をとへども、なにかはつまり給はんや。かの俗こと〴〵くとひて、「扨もよき御覚えかな」と申ければ、「さもなく候。いにしへは一巻ばかりは(ちう)に覚て候へども」と仰られければ、笑ひてかへりけると也。/されば時にとって頓作なる御心入と、人みな感じけると也。問て用にたたず、覚えても用にたたぬことをば、いはざるにまさる、めでたし。よしなきことをすこびて問、あやつられける。すべて羅かんのみにもあるべからず

&一休ばなし』巻

*問に対して一休は釈迦の弟子の名や経文中の語を挙げて答えている。頓作というよりは、問答の当意即応を買って「当話」とすべきであろう。同じ一休話でも後出「難句付け」は明らかに頓作である。

《参考》      

荻生まとめ

「太閤殿下の太鼓持」として知られた御伽衆頭目の曽呂利新左衛門は、腐るほど逸話を残している。その徹底したゴマスリぶりは当話にも現れている。

太閤あるとき、近侍らに問うた。「余の顔が猿に似ているというが本当か」と。侍臣一同、恐縮して(だんま)りを決め込んだとき、ソロリと新左衛門しゃしゃり出て、「左様なことはござりませぬ。猿めの顔が殿下に似申したのでござる」

 

頓作 とんさく 

臨機応変に、その場の状況にぴったり合う頓知の利いた応答をさして古くに〈頓作〉といい、そうした表現または態様をも指す。頓作は〈当話〉とは姉妹語の関係にあるが、頓作のほうが時代はやや下がり室町後期にできた言葉のようである。歴史物語『栄華物語』の中に、「そくせきのとんさくおどろき入たる詠歌ぞ」の詞が見える。

【例】

古典笑話より

尾州熱田大明神の祭礼に、貴賎(きせん)参詣の袖をつらぬる、かしこも伊勢両宮の如く、禰宜(ねぎ)あつまり(たもと)にむすぼほれ、銭を貰ふことかまびすしき程なり、さるまゝ百姓あまたつれだち下向(げこう)するに、「さても、熱田の禰宜どもは人でないぞ」といひつゝ、きっと後を見れば、白張(しらはり)装束(しやうぞく)烏帽子(えぼし)きて、金みがきの(あふぎ)(すゑ)ひろがりをもちたるあり、大いに驚き、そのまゝ「ただ神半分の人よ」 &『醒睡笑』巻八

《参考》

佐文山戯書        山東京伝佐々木氏。名は(しう)(あざな)(えん)(りやう)文山(ぶんざん)と号し。墨花堂と称す。俗称百助。玄竜□□の弟也。西窪(にしのくぼ)に住す。(こころざし)風流に熱く。兄玄竜とゝもに。書を以て名高し。ゆゑに都鄙(とひ)神社仏閣の匾額皆書を文山にもとむ。(せい)(はなはだ)酒を好み。酔裏筆をふるへば殊に絶妙也。世に酔竜の後身と云。榎本其角は玄竜に書を学ぶ。ゆゑに文山としたしく酒友の交りふかし。一日(あるひ)文山。当家の主人および其角と花街(くわがい)に遊び。酒たけなはなる時。揚屋の主人文山が書名高きを知りて。春山桜花を画ける。屏風を出して賛辞を乞。文山筆をとりて此所小便無用と書す。主人これを見て(すこぶる)不興の色あり。其角筆をとり。これにつぎて花の山と書く。つひに俳諧の句となる

 此所小便無用花の山

主人大に喜び。つひに家宝とす。其頃あづま(わらべ)の口さがなきが。此所小便無用佐文山とたはふれいひけるとが。此事世に伝へて風流の話柄とす。

&『近世奇跡考』

 

はったり 

事実でない事柄をいかにも本当らしく大仰に話し、相手を煙に巻いてしまうことを〈はったり〉といっている。

もとは上方言葉、ブン回し・サイコロ賭博などで胴が「張ったり〳〵」と声を掛けることから、いい加減なことをさす総称のように用いられている。

【例】

洒落本より                                             泥郎子作

せきコレ高尾どの。皆まできくに及びませぬ。それは(すい)虚気(こけ)にするといふ言まはし。(はなし)のやうな事ながら、毎夜壱貫五六百は、端目(はめ)なしに売こなす此せきでごんすぞへ。其様なしら〴〵しい、直魯意(ちよろい)くるめで、今時の人がかゝるものでは御ざんせぬ。白化(しらばけ)の今の世の中に、中〳〵二人の衆のやうな、青ひ事ではいけませぬ。(それ)も道理、わづか三町四方足らずの廓のうちで、客衆の五人や十人取りさばかんす心で、わたしらをくるめさんすは、ほんに天水桶の孑孑(ぼうふり)とやらん、大門の外の事はしらぬ()(せば)き衆の口からは慮外で御ざんせう。わたしらが(つとめ)といふは、こな(さん)方の(ふた)月分ほどの客衆は、夜食前に勤ます。そふして色も情も粋も野暮もしりさんせぬ心で、いやしいやうにおもはんせうが、… &(せき)婦人伝(ふじんでん)

*巧言を弄し吉原の女郎にならぬかと誘う高尾に、せきがはったりをかませた台詞を述べる。夜鷹の莚代は二十四文が相場、せきの言う日に千五百文も稼ぐには、六十人の男を機械のようにこなさなくてはならない計算。

浮世草子より

綱吉は声を低くして、オヤあのお方は、おっかァ、婦多川で時々見かけるよ、とはつたりをかける &『春色雪の梅』初編上

 

ふはとのる 

〈ふはとのる〉は中世末から近世初期の古語で、現代表記に直すと「ふわっと乗る」、つまり、相手のおだてにうかうかと乗ってしまう、オッチョコチョイな様子をさす。

江戸末期には死語になったこの言葉も、笑話集『醒睡笑』巻一には「ふはとのる」として立項、十話が収められている。いずれも他愛ない話だが、おどけ咄にしては鑑賞に値する古典。うち二話を引いてみた。

【例】

ふはとのる㈠

人物らしき男、(あふご)の前後に鯛を入れて(にな)ひ、「鯛は、鯛は」と売りけるを、ある家の主呼び入れて、「けしからず寒き日なり、まづちと火にもあたり、茶を飲みてお通りあれ。ちらと一目見しより、これはただならぬ、いにしへはさもありし御身なりしが、思わずも世におちぶれて、かかるわざをもし給ふにやと、涙をこぼし候ひぬ」と、云ひければ、静かに火にあたり、茶など飲みて、立ちざまに大いなる鯛を一つ、亭が前に差出したり、「こは、何としたる事をし給ふ」と斟酌(しんしやく)しければ、「いや、けふは心ざす先祖の頼朝の日なり」

&『醒睡笑』巻一

 *商人を調子に乗せ、まさに一服で鯛を釣ってしまった滑稽咄。乗せられ者、史実上居るはずがない頼朝の子孫だなどと口を滑らせたところが、可笑しさを倍加している。

ふはとのる㈡

(ぼく)(いち)検校、叡山(えいざん)にて大衆(たいしゆ)集会(しふゑ)のみぎり、平家(琵琶の演奏)ありし。「山法師をりのべ衣うすくして、恥をばえこそかくさざりけれ」とあるを、「いかに心の涼しかるらん」となほして語りけり、そのとき大衆、あつと感じ平家すぎて同音にほめつるを、大いに慢じ山を下りたるが、思ひのほか(にはか)に日の暮れぬるまま、灯のあるをたより宿をかりぬ、亭出てあいさつし、すなはち一句所望せしをあなどりて、あそこここ落し語り(端折って演じ)ける時、亭主、

  うぐひすの声ばかりして一の谷平家

 は落ちて聞かれざりけり

このうたを(ぎん)ずる間に、もとの如く天地あきらけし、これはこの検校自慢の心より、天狗(てんぐ)の所為なりとぞ

&『醒睡笑』巻一

 

法螺 ほら 

〈嘘〉の俗言を〈法螺〉という。

真実に事寄せてもっともらしく吐く大言壮語のほかに、荒唐無稽な(もどき)の遊びも含まれる。

画像は中国発信ウエブサイトからパクリました。法螺じゃありません。

【例】

法螺(ほら)咄㈠

大太刀

せんだい座頭を呼んで浄瑠璃を語らせけるに「九寸五分の大太刀をするりと抜いて指しかさぜし、ばらり〳〵となぎたをす」と語る。聞く人、腹をかゝへ「九寸五分の大太刀とは可笑しい」ととへば、座頭、扇をたゝいて「幅が〳〵」&『聞上手』三篇

法螺話㈡

置き去り首                                              十返舎一九「上の首が坊主だから、これで我らも坊主だと、てうど供へが一座(ひとすは)りできたといふものだ」しかるに奴太(やつた)は人に会ふても気遣ひなしと、遊山(ゆさん)し歩きけるが、この男至つて酒が好きなる故、酒屋の前を通るたびに飲みたく思へど、笠を取りて上の首を取()け、我が首を懐の内より出さねば飲まれぬ故、ちよつと飲むにも億劫(おつこう)なれば(こら)へていたるが、たまらず堪へがたく、ひそかなる酒屋へはいり、葦簀(よしず)の陰にて笠をとり、猪熊(いのくま)の首をそつとおろして隠し持ち、襟の中より我が首を出して、思ひのまゝに酒をたらふく飲み、少し生酔(なまゑ)ひとなりて、帰りがけに猪熊の首を忘れて出で行きけるが、猪熊の首は奴太の袖の下にありて、とろ〳〵と眠くなりて、一寝入りせしうちの事にて、捨てられたるも知らず寝ているを、酒屋の者ども見つけて(きも)を潰し、「これは今のお客が首を忘れてござつた、しかし今のお方が出てござるに首が付いてあつたやうであつたが、貴様達は見なんだか」といへば「イヤ〳〵笠を被つてござった故、首はあつたかなかつたか、気がつきませぬ」と評議最中、猪熊の首目を覚まし「これはしたり、おらが親方は俺を忘れて行つたそふな」と、そのまゝ飛び出し、ヲヽイ〳〵と追つかけいで行きけり

&串戯(じようだん)しつこなし』続編巻一

 

法螺歌 ほらうた 

とてつもない法螺を戯笑歌・狂歌仕立にした作品を〈法螺歌〉という。

安土桃山時代に生きた曽呂利新左衛門の作と伝えられるものが何首か残っていることから、かなり古くに発祥したようである。〈空言(そらごと)〉の例示でも㈢宗派の僧侶が法螺歌を競作する話を掲げた。ともあれ一過性の笑いだけで内容のないものが多く、熱を入れて作る者もいなかったようである。

【例】

極大の詠み                                                  よみ人しらず

▽富士の()をしぜん枕にせし人の足をば伸ばす武蔵野の原 &『堀川狂歌集』下

                                                       伝 曽呂利新左衛門

▽天と地を団子に丸めて飲む人を鼻毛の先で突きとばしけり &『古今夷曲集』巻九

極微の詠み                                                 普阿弥

▽ケシ粒の中くりあけて堂を建て一間かこうて手習いをせん &『理斉随筆』巻四

 

万八 まんぱち 

〈万八〉は江戸語で「嘘・偽り」をさす。『物類称呼』という辞典に「いつはり、うそ、江戸・尾張辺及び上野にて万八ともいふ、近年のはやりことばなり」の一文がある。

江戸は両国柳橋の北角店に「万屋(まんや)八郎兵衛」なる板場腕自慢の料理屋があった。人びとはここを「万八」と略して呼び、書画会や句会、ときには大飲酒会などを催すのに利用。だが長屋連には敷居が高く、その様子の描写いかにも大げさで現実離れしたため、嘘ッ八の意味で通用するようになった。

 書画会は万八息子どこか行き

  柳橋角に大きな嘘をつき 

 満八楼(明治初期?)

【例】

胸に穴のある安南(あんなん)                             風来山人作

この国は穿胸国とて、男女とも押しなべて、皆胸に穴あり。貴人他所へ行くにも、竹輿乗物はなくして、其胸の穴へ棒を通して、かきありけどもいたまず、辻〳〵には賎者(いやしきもの)ども棒をたづさへて、通りを待ち人を見れば「棒やろふ〳〵」となんいへる事、日本の「かごやらふ」といふがごとし。

&風流(ふうりゆう)()(どう)軒伝(けんでん)』巻四

風来(ふうらい)山人(さんじん)こと平賀源内(ひらがげんない)(1728~79)は江戸中期の博物学者、文人。浅草在住の深井志道軒という談義僧の見識に惚れ込んだ風来山人が、伝に仮託し自らの世界観を開陳した珍書である。浅之進(志道軒)は、夢に現れた風来山人のお告げで飛行自在な羽扇を与えられる。これに乗り大人国、小人国、長足国、穿胸国といった未知の地を旅するくだりが巻四。いわば『西遊記』と『ガリバー旅行記』とを足し二で割ったような奇天烈な作品で、源内世界の異端ぶりを遺憾なく発揮している。当時は安南国(現ベトナム)人の胸には穴が開いているという風説が流布。浅之進は穿胸国で国王の姫君の婿に選ばれるが、胸が穴なしとバレて国外追放に…というオチまで付いている。

文化十三子年八月

京都御所司代大久保加賀守様江御目見之上、行年御尋被成候ニ付申上候

二百十五歳 小泉村百姓 万平/百九十二歳 同人妻 千代/百七十四歳 忰 亀蔵/百弐十三歳 総領孫 長松/此他忰孫共大勢御坐候得共、未百歳不満候、常々之咄しニ長命の伝受他ニなし、(後略)

&『藤岡屋日記』第五(文化十三年)

 やや、狐の千金玉かや〔金玉ちからもち、歌川国芳画、江戸後期〕 なんと狸も真っ青という八百畳敷だ。化かしあいライバルの万八狐の持ち物としたところが笑いを誘う。

 

与太話 よたばなし 

抜けたところのある主人公演じるおどけ小話の類を〈与太話〉という。後世、高座で語られる駄法螺話の掌篇といったところだ。

与太話は近世以降の小話や民話にたくさん収められ、庶民の人気筋として語り継がれてきた。

【例】

古典笑話より                

いはんかたなき(どん)なる弟子あり、檀那(だんな)のあつまりて、茶うけなどある座敷に、年讃嘆(さんだん)のあるは、常のならひなり、しかるにかの弟子、ややもすれば、いまだ三十の者をば四十と見損じ、五十ばかりの者をば、六十余りと見そこなうて笑るるを、坊主聞きかねて、「うつけに薬がないとはまことや、われも人も、年の寄りたきはなし、誰をも若いといはんこそ本意ならめ、あなかしこ、粗忽(そこつ)に人を年寄といふな」と教えられ、明けの日、かの弟子使僧に行き、女房の子を抱きゐるを見つけ、「このご子息はいくつにてありや」「これは、ことし生れ、片子でおいりある」とこたへけり、弟子、「さて、かた子には若く御座あるよ」と。

&『醒睡笑』巻一

他行

「旦那様、向ふの隠居様から呼びに参りました」「エエまた来たか、他行したといふてやれ」「ハイ、旦那は他行致しました、と言ふて下さい」といへば、使いの者が、「モシ、他行とは何の事でござります」「ハテ、()(たつ)に寝ころんで居さつしやる事さ」 

&『聞上手』三編

 

利口 りこう 

文芸用語として狭義に使われる〈利口〉は、冗談口をきいたり、口先だけ上手な者の言行をさす。

語そのものの引例を示すと、『古今(ここん)著聞集(ちよもんじゆう)』巻十六・五七五条に「本鳥(もとどり)切れて、それにもこりず、猶利口しありける程に、…」とあり、格好をつけるという意味をもち、利口するのように動詞としても用いられた。

利口もまた、〈興言〉と並んで平安時代ほぼ同時期に慣用された言葉で、やがて両方が一つになり〈興言利口〉という複合名詞で使われるようになる。

《参考》                                       貝原好古筆

利口とは口きゝて、是を非に云ひなし、非をこれに云ひなすやうの人をいふ、今俗に才有者をば、すべて利口なりと云ひて、称誉の詞とするは其意違へり &(ことわざ)(ぐさ)』巻二

飼い主の派手により今様の「興言利口」で着飾ったワンちゃんたち