第一〇一話  なんとも間の悪さが重なった火事

──安政四(1857)年十月二十四日、第六十五より

十月二十四日は雨天、終日終夜降り、十一時ころ浅草福川町で出火

浅草福川町、薪炭商 野本屋

三島門前から清水稲荷へ出る横丁東側、福川町中ほどの薪屋物置から火が出ました。幅二〇間・長さ一町にわたって焼失、三軒町に類焼が及んでいます。

原因は当日、問屋から炭を一〇〇俵送ってきたので、夜までかかって片付けを済まし、一息ついたとき蝋燭の心をうっかり炭団(たどん)の中に落としたため燃え広がった、と供述しています。本当は、雨天に加え冷え込んだので、(*だれが?)片付けがてら炭火を起こし、残り火の始末が悪くて出火に至ったものです。夜八時ころパチパチ音が聞こえましたが、雨の音だろうと思って見逃し、大火になってしまいました。

 真黒な炭団だとても油断すな

      雨の降夜におこりかゑるぞ

 雨のとがふく川町で吹上て

      三軒町で済ぬ大やけ

(*続報として)当日は雨降りだったので、鍛冶屋炭(*燃えると火力が強い)ばかり二五〇俵を駒方からの河岸揚げで受け取り、車で引かずに若者に担がせました。それが火の後始末悪く物置から火が出ました。物置に隣接の研師の家も丸焼け。さらに紙屑屋の武蔵屋久蔵方では紙屑だけで百両も焼けてしまったといいます。この男はしみったれで、盗難を恐れ、金を三両、五両と分散して隠しこんでいたため、急の出火で持ち出しが出来ず五〇両を焼損しています。またこの火事で五、六人が焼死しました。

補注

●俗に「火事と喧嘩は江戸の花」というが、日記においても、この両者の記事の多さが目立つ。

 

第一〇二話  集団の贋金作りは足のつくのが速い

──安政五(1858)年十一月、第七十より

本所業平天神向、料理茶屋 在吾庵

在吾庵は金座指定の下金買い(*金銀の地金を買い取り、これを金座・銀座に買い上げてもらう商売)である地位を利用し、隅田川辺で二朱金の贋金造りが発覚したため、町方に逮捕されました。亭主のほか六、七人の共犯者が逮捕されています。

本件贋金造りの元締は大門通りの下金屋、油店の徳力と判明。在吾庵はその親戚で犯行に加担したもの。共犯者らは毎日大勢して客を装って来店しましたが、肴は判で押したように一板台だけ注文と決まっていて、(*人数のわりに注文が少なすぎると不審を抱いた)魚屋から足がつきました。

鋳造した贋金は八〇〇〇両に達し、そのうち二〇〇〇両は焼銀(*銀貨等を精製して得た純銀)とし、銀座へ持ち込んで通貨と交換しています。在吾庵は贋金作りの本拠に利用され、箱入りにして徳力に運んで保管。捜索中だった目明しの天野幸助子分、湯島天神寄・亀吉が睨みを付けて逮捕に踏み切ったもの。本件の資金提供者は丸の内辺に住む侍で、逃走を図り藤沢の名主方に隠れていましたが、十一月二日に天野幸助が逮捕に向かったそうです。

 金故に斯業平や在吾庵

      江戸見物を馬の上にて

 徳力も大きな損を下金や

      大門通り惣仕舞なり

補注

●昔から贋金造りは逮捕される可能性が高く、犯罪として割に合わないとされている。本件では犯人十数人が一網打尽で、とくに大勢で結託した犯行ほど発覚する確率が高いことを物語っている。それにしても、臭いと睨んだ魚屋はお手柄であった。

 

第一〇三話  大岡裁きが欲しい難事件

──安政五(1858)年十一月九日、第七十より

十一月九日深夜二時ころ、五番組土屋大膳亮輩下の御徒(おかち)三人殺傷事件

御徒の三人は酒癖が悪い上にへそ曲がりです。佐竹壱岐守の辻番所前を通りかかり、水を一杯飲ませろ、と横柄な物言いに、番人らも腹を立て「お前らにやる水などないわ」とやり返しました。三人はずかずか上がりこみ、なんのかのと難癖をつけます。番人らはたまりかね、外へ押し出して戸を閉めました。すると連中、抜き身を引っさげて番人に斬りつけます。番人の一人が屋敷の門番に急を知らせ、家中大勢で六尺棒など持ち出し、三人を袋叩きにし、一人を殺してしまいました。

二人はいったん逃げたものの、一人が殺された恨みでまた引き返し、グダグダ文句をつけます。とうとう表面化し、佐竹側は抜刀相手に六尺棒で対抗は当たり前のこと、と主張。そこで御徒共は主君土屋大膳亮に訴え出たところ、殺人事件として受理され、御用番の若年寄・安藤対馬守に対し正式に提訴に及びました。しかしこの一件、御徒三人が酔いつぶれて仕掛けた喧嘩、示談解決が妥当なところ、と却下されることに。ところが殺された御徒は仲間二人に無理やり引っ張り出されたために死ぬ結果になった、と親が承知せず、関係者内部で揉めているようです。

 

第一〇四話  金竜山浅草寺で怪鳥が大暴れ

──安政六(1859)年六月十五日、第七十二より

金竜山浅草寺の山門箱棟から猛獣が飛び出し昇天した話

このたび浅草寺の山門を改築するので、東叡山の管轄役所から工事を請け負う大工棟梁をはじめ関係工事請負人に入札制の説明がありました。指値は高札が一九〇五両、安札が九五〇両、中札が一五〇〇両余または一四〇〇両余となっています。この中間を取った中札落しが通例になっていますので、一四〇五両で入れた業者・西川若狭が落札しました。入札価格から冥加金(*税金として賦課)二〇〇両を減じ、一二〇五両の実質価格で請け負うよう役人から説明がありこれを承諾、さっそく普請にかかりました。

この若狭は、神田松下町三丁目北側代地に住む大工・常次郎という者です。上野東叡山指定の三業者の一人で、西川若狭の商号を称え、拝領地をも持つ実力者。このたびの改築工事で、まず屋根瓦などを取り除きかたわらに積み重ねて置きました。ところが十五日午後二時ころ、南の大風に加え雨が降り始め、箱棟は腐りかけていましたので、ぐらついて吹き飛ばされかけます。そのとき、この中に数年来住み着いていた三尺四方の大きさ、顔つきが猫に似た怪鳥がけたたましく泣き、黒雲に乗って奥山の方角へと飛び去ったではありませんか。

そのさいの震動で大工らは地震かと思い足場にとりすがったとき、とうとう箱棟が落下。藤八という大工一人が即死、ほかにも三人が重傷を負いました。怪鳥が飛び去った跡には餌に食い散らしたものでしょう、鳩の骨が四斗樽に三杯分も出てきたそうです。近所の鳶の古老の話では、二〇年ほど前にも、山門改築の折に、この怪鳥がやはり飛び出し五重の塔に飛び込み、そこに棲みついた、とのこと。翁はこの目で見届けた話だ、と申していました。

 浅草金竜山の猛獣の図

 補注

●『藤岡屋日記』全一五〇余巻に目を通してみて感じたのは、本条のような愚にもつかないが罪もない話が、幕末の殺伐とした時代に突き進むにつれて、目立って少なくなっている点である。ほかに記録すべき記事が多すぎて、与太話を載せる余裕がなくなってきたせいであろう。

 

第一〇五話  義母(おにばばあ)殺しでも親殺しは(はりつけ)

──安政六(1859)年六月、第七十二より

新乗物町の養母殺し犯、引き廻しに

新乗物町・佐兵衛店、万吉の養子・初三郎 二十三歳

初三郎は義母こうに冷酷な扱いを受け、義父・万吉に対し家業未熟をたびたび告げ口され、無念に思っていたところ、持病がつのり、去年十月四日、こうを出刃包丁で切り殺した事件について、きわめて残忍であるので、引き廻しのうえ、浅草において磔に処する。(*判決文)

     辞世                                                          初三郎

  三味線の糸より細き我命

       ひかれつかるゝ天のばちかは

(*以下は後報)

初三郎は十一月十五日、若林の牢屋で火災のさい脱獄し、神田白壁町の親の自宅に立ち寄って旅費をもらい、出家すれば命が助かると思って、紀州の高野山へ入山した。

 

第一〇六話  外国人には礼節をもって接してください

──安政六(1859)年七月二十三日、第七十三より

外国人の市中遊歩についての心得

外国人が道を歩いているところに石を投げる者がいますが、とんでもない仕業です。その国家のお国ぶりは信義礼節しだいでうかがえると、外国の人たちも思っているはずです。石を投げつけるなど、日本の国体を傷つけることになり、絶対にしてはならないことです。町役人の中にはとかく見過ごすものもいるようですが、このうえは皆さんが注意して、投石を見かけたらただちに止めさせ、従わないようなら大人・子供にかかわらず、最寄の自身番に届け出てください。(*但し書きが続くが、省略)

補注

●市街地の高札に掲げられた「町触」の一節で、原文は横丁の熊八連には読めない、理解できない漢文調である。このような為政者の配慮に欠ける情報伝達が、わが国の発展にどれほど遅れをもたらしたか、想像に余りある。

●開化思想の高まる中で、来日外国人の往来する姿も目立つようになってきた。日記には、こうした啓蒙的で有意義な記録も少なからず載せてある。

 

第一〇七話  河原で落命、しょせん河原乞食の運命か

──安政六(1859)年七月二十七日、第七十三より

七月二十七日夜、中村雀松が向島土手で水死した事件

このたび猿若町市村座において「こはだ小平治」の芝居がかかりましたが、原作では奥州安積沼とあるところを、武蔵の綾瀬川に改作した脚本で上演することになりました。この芝居では毎度、小平治の崇りが話題になります。今度の綾瀬川は隅田川の川続きで上流になるため、崇りが起きても不思議ではありません。

作中、向島の穴の鰻を取り入れて大当たりしたため、当の鰻屋の亭主たいへん喜んで、「お願いに上がりもしなかったのに、こうして芝居に仕立てていただき大評判になりました。千客万来で商売繁盛、まことにお礼の申し上げようもございませんが、ぜひとも粗酒を一献差し上げたいと存じます」との誘いに、当日、権十郎・田之助・花助・三平・吉六・中村(じやく)(まつ)、改名したばかりの市川咲十郎ほか付き人や若者なども一〇人ほど同伴、涼みがてらに船に乗り込み向島の土手へときました。

穴の鰻で酒宴の最中のこと、権十郎と雀松の二人はぶら下げ提灯を手に土手に涼みに出ました。あちこち散歩していると、道端の茶屋の葭簾(よしず)の中で、男女がなにやらささやきっている。雀松は見よがしに提灯を差し出し、「オ、乳繰合(しんねこ)かい」とからかってしまったのです

 つは男のほうは近くの(かざり)職人で、博打に負けて家出し、女房を呼び出して縒りを戻そうと話し込んでいところ。間の悪いときの一に、職人大いにを立て、土手でまだ博打に興じていた仲間にからかわれたことを話すと、虫けらのような連中のこと、二〇人ほどが結託してりを待伏せし役者人が現れるやいなや袋叩きにしてしまなにしろ多勢に無勢、叩きのめされて船にることもできず、川の中に飛び込んで難を逃れた……に見えました。雀松のほうは泳ぎが出来な。しかも半殺しの目にあっている。必死川ッ縁に這い上がろうとしたところをで川中へ突き戻され、石を投げつけられ、とうとう一命を落としてしまいました。

 雀松が寂滅とこそなりにけり

      是で崇りも隅田川なり

補注

●「小幡小平治」は四世・鶴屋南北作や河竹黙阿弥作の歌舞伎外題だが、原作は山東京伝の読本『復讐奇談安積(あさか)(ぬま)』である

 

第一〇八話  物騒な世、外人とて寄らば斬るぞ

──安政六(1859)年八月十七日、第七十三より

八月十七日町触

先月七月二十七日暮六時ころ、神奈川横浜町でロシア人水夫一人が殺害され、犯人は逃走し行方がわかりません。そのさいロシア人が持っていた金銀入れのブリキ箱がなくなっていたので捜索した結果、神奈川太田町堤外の海面で銀銭一六枚・金銭一枚入りの箱を発見しました。

なお、殺害現場では次の遺留品も見つかりました。

一、麻鼠色の割羽織   壱

一、刀の折片                   七寸程

一、麻裏草履      片足

本事件の捜索は徹底的に行います。皆さんが不審な者を発見されたら、最寄の奉行所か代官所にただちに知らせてください。/町年寄役所

 

第一〇九話  女太夫ら五人を誘い何もなかった?

──安政六(1859)年十月三日、第七十四より

英人寄宿先に女太夫らが誘い込まれた一件

非人頭・品川松右衛門の手下、下高輪法蓮寺境内、小屋頭久兵衛の妻 やを/同人娘 いち/二本榎上行寺境内、小屋頭権之助の娘 てつ/麻布榎大隈山空地、小屋頭市兵衛の娘 つる/白金樹谷江竜寺境内、小屋頭弁蔵の娘 まき

この五人は女太夫の出稼ぎ人で、今月三日朝九時ころ、高輪上洞庵前通りにさしかかったとき、外人の住まいに呼びかけられ入室、三味線を弾き歌って芸を披露しました。外人は金を二分呉れたので頂戴し、みんなで分けたそうでございます。

本件、改めてお調べになりますよう、お届けいたします。/高輪町名主 権左衛門

補注

●届け出た名主は、近所の噂などから、どうやら犯罪の匂いをかぎつけたようである。しかし実際には、居留外人には治外法権があり、よほどの凶悪犯罪でもない限り幕府の司法権が行使されることはなかった。

●この当時、女子供にイタズラを仕掛けたり、妾をよこせと強要したり、不良外人に関する記事が散見できる。これも時代の反映であろう。

 

第一一〇話  御当地のみ通用の仙台銭を奪った強盗

──安政六(1859)年十一月二十四日、第七十四より

神田紺屋町一丁目、煙草屋・両替商・家主 崎玉屋七郎兵衛

夜中に侍六人が押しかけ格子戸を引き開けますので、「何者だ」と尋ねると、「どろぼう様よ」と答えて、外した格子戸で表戸を打ち破り、揃って抜き身を引っさげ、「金を出せ」と脅かします。「金はない」というと、賊は「金がなくて両替が出来るか」とやり返す。やむなく三両差し出しますと、「もっと出せ」と。主の七郎兵衛はふだんから縁起担ぎ屋で、仙台通宝の五〇両包みを二つ拵え、これを部屋飾りに置いてあります。賊どもこれを見つけて、それを出せといいます。主がこわごわ包み一つを出すと、「太い奴め。二つとも出すんだよ」と要求。二つとも渡すと、賊ども、してやったとこれを持って出て行きました。

 押込や年こそ寄れど七郎兵衛

      仙台銭も百両のかた

賊は仙台包みの一〇〇両を奪いましたが、六人立会いで包みを開けてみますと、仙台通宝角銭の包みだったので、「六人揃ってなんてこった。金を要求したのに、仙台銅脈の包みとは」と無念がります。なんでも、賊のほうから奉行所に訴え出るそうだ、と評判です。

 角銭は通用のなき包ミ金

      是からは能く改て取れといゝ

補注

●仙台通宝=「仙台角銭」ともいい、仙台藩が江戸幕府の許可を得て、天明四年から三年にわたり鋳造した撫で角型の鉄銭。仙台藩領内のみ通用の藩銭であったから、他国では通貨として無価値。これを商家や三業地などでは、「(せん)(だい)」つまり銭が溜まる、という縁起を担いで、包みを床の間など飾り物にした。

 

第一一一話  古井戸から金銀砂が山と出た

──安政七(1860)年三月十二日、第七十七より

井戸に生じた奇瑞

七百石十人扶持、宿本郷御弓町 橘隆庵

橘家は旧家で、先祖代々、徳川家への御薬調合を承っており、薬包は左包みとするのが恒例になっています。毎年正月には屠蘇を献納するのも旧例のこと。

当主は二十歳と年若くして家業に熱心で、貴賎の差別なく人助けを心がけていますから、家内揃って主人の意思を尊重しています。まことに「家業末々までも眼の寄るところへ玉の寄る」という格言のとおり、近所でその美風を知らない人はいません。

さて、当屋敷の台所前に古井戸が一基あります。ここ一、二年は崩落したため放っておかれていますが、湧水は名水なので、井戸を新規に浚い直して以前のように水を利用しようということになり、今年三月十二日の庚申(かのえさる)「おさん母倉種蒔き田」(*新規まき直し事に絶好の日取り)の吉日を選んで、本郷二丁目横町久蔵店・桶屋の徳次郎を呼び井戸修理を頼みました。工事を請け負った徳次郎方では、この井戸が中切側七側半入と堀切が深いため万端の準備を進め、十二日に着工。古側井を徐々に引き揚げ、十四日正午には職人が井戸に入り込みました。

職人が入ると、井戸の底からにわかに突風が巻き上がり、職人は吹き上げられてしまいました。さながら山が崩れるかのような振動の轟音を発し、職人一同驚きあわてて逃げ散ります。やがて落ち着きを取り戻し、どうしたことかと雑談を交わしていると、仕事通の老練職人が言うのに、「こうなった以上、各人が自分の持場で工夫し、柵を下げて修復に取り掛かろう」と提案。工事予算を増やしてもらって、十六日に至り棚下げ作業にかかり、井戸の中に職人を送り込み仕事にかかろうとしたところ、またも前のような震動が起き、水音も激しく底部から霧雨が雲のように吹き上がりました。職人も吹き上げられ、古側材は土柵もろとも上の平地に散乱する始末です。

職人たちは再度の異変にすっかり度肝を抜かれ、そこかしこに身を潜めたまま、口をきく元気もありません。井戸をもう一度修理し直そう、と口にする者も出ないまま、その日は作業を打ち切って引きあげました。橘家の主人も不可解なことと思い、浅草の吉田という易者に家中の者を遣って、井戸での出来事を占わせることにしたのです。

易者が使いの者に言うには、「この井戸には神がお住まいになっていますぞ。屋敷内に何か神様を祭っていませんかな。井戸はその神の住居になっていますから、今後いっさい、手出しをなさらぬないように。もし手を加えたりすると、ただちに怪我をしたり命を失うことになりましょう。よくよくお気をつけくだされや」と。使いの者は屋敷に帰るなり、主人に易者の言葉を伝えました。主人も「心当たりがあるので明朝、その易者を呼んでみよう。その上で結論を出そう」といい、翌朝その易者を呼び招きました。

さっそく易者に井戸の工事現場を見せ状況を話しますと、「まさしく 神の住居に違いありません。ここで吹き上げられた土は金銀の粉が入り混じったものですぞ。御覧なされ、何よりの証拠です」と、のたまう。屋敷内の前庭には築山があり、その頂の祠には弁才天二体が安置してあります。その周りに堀が巡り、中に空井戸があります。吉田はさらに、「神様はこの井戸から台所前の井戸へと移られたのです」と申します。その言葉を受け、主人は神主らも呼んで相談した結果、今では人が近づかないよう、井戸の周囲に矢来を結び、御身体二坐を「宇賀神」として祭ってあります。あたりの土は移し変えず、参詣も禁じました。というのも、山師あたりが評判を聞き及んで、一儲けを企まないともかぎらず、その予防の意味も含めての措置です。

主人は幕府等御殿にも知人・縁者がいるため、この金砂を贈ったといいます。

    立花家の庭の井戸なれば、

 橘の右近の色は御庭に

      黄金花咲く名水の井戸

補注

●時をほぼ同じくして安政七年三月三日朝、大老・井伊直弼が水戸浪士らにより暗殺された大事件「桜田門外の変」が起きている。偶然かどうか、本条は台風一過のように景気の良い話である。

 

第一一二話  殺伐とした世の、目も当てられぬ奇禍

──安政七(1860)年三月二十二日、第七十七より

新橋で地雷爆発の事件

三月二十二日朝十時前、新橋松坂屋の向の橋本屋という駕籠屋に、四、五歳の男児が往来で拾った三合入り徳利を持ってきました。自宅で大人が囲炉裏端に徳利を並べるのを見知っていたのでしょう、その徳利を一箇所に並べ置いたところ、徳利に煙硝が入っていたため引火し響きをたてて爆発しました。

男児は顔一面が焼け爛れ、片方の目を失明、そばにいた駕篭かき二人も大怪我しました。目明しがそこを通りかかり、この噂を聞きこんだため、ただちに町内の自身番に駕籠屋の亭主を呼び出し、事情聴取をしたそうです。

補注

●人の命を奪うのに痛みを感じない、幕末の異常な世相を物語っている事件。今にいうテロ行為の下工作がもたらした惨事であろう。

 

第一一三話  物騒な世に人心を惑わす落書(らくしよ)

──安政七(1860)年三月二十六日、第七十七より

三月二十六日に御届

昨二十五日、金杉橋西側北の方袖柱に建て六寸四分・横五寸三分・厚さ二分ほどの栗の木札に、次に示す書付があるのを浜松町二丁目雇いの警備人・亀次郎が発見し、今夕、月当番人を同道の上提出してまいりましたので受け付けておきました。何者の仕業でしょうか、とりとめもない事とは存じますが、現物を添えて御報告いたします。

芝浜松町二丁目、月当番・惣十郎/同・勘左衛門

(*以下、原文のまま転載)

呈上

国君好仁天下ニ無敵、孟子曰、不仁ニシテ忘身、登城先ニテ騒動アレドモ不猛、然所吟役(ママ)トシテ進物次第権威ヲフルイ、邪道ヲ行ヒ、御奉行ハ御(ママ)道御役人トシテ、下ヲ憐ム仁道サラニナシ、是天道ユルスベキヤ、古来マレナル騒動、正ニ悪人ノナス業ニ不有、天然シムル所也、誠ニ一人之心者千万人ノ心ナリトハ、聖言ムベナルカナ、可恐可人之盛衰アザナヘル縄ノ如ク、日(ママ)神国ト雖モ、異国人ニハ計ラレ、年歳日本衰亡ノ種ヲモウク。

  国君ノ下ヲ哀ム恵ミナク

       上ハ騒動下ノ困窮

 桀紂天下ヲ失フ者、其民ヲ失フ也、是孟子曰(*以下は空白)

補注

●落書中の文言「登城先ニテ騒動」とは旧暦三月三日(新暦で三月二十四日)の桜田門外の変、井伊直弼が登城中に起きた暗殺事件をさす。当時の流行語「天誅」という一方的な思想に肩入れしているのがわかる。

●こういう落書・檄文の類は、自分の思想に相容れないものを敵に回し過激な意見を鼓舞する、独りよがりなタイプが多い。当書もその例に漏れないが、誤字脱字が目立ち文章にも心がこもっていない。たぶん「付け焼刃の教養人」が書いたものであろう。

 

第一一四話  閑話休題(ちよつとみちくさ)──しい年号は「万延(よろずのびた)」に

──万延元(1860)年閏三月朔日(*太陽暦で三月十八日)、第七十七より

今日、年号改元

「万延」の文字は、『()漢書(かんじよ)』にいう「豊千億之子孫歴万載而永延」から採ったもの。

今日、年号改元の日に久世(くぜ)大和守広周(ひろちか)が老中に再任された。寄せて戯れの

                                                                                梶川桂得

  万延と改る時元の役

       久しく世をバ守る関宿

 

第一一五話  上がる、上がる、万物飛び上がる

──万延元(1860)年四月、第七十八より

池袋での怪事件

白山御殿坂上、小普請組三百石 皆川万右衛門

昨日から茶碗や煙管(きせる)が勝手に踊りだし、土瓶(どびん)は天井に吊り上がります。飯を炊くと釜の中からみな飛び出し、銅壺が飛び上がり、大根をっても飛び上がってしまう。どこからか岩が沢山飛び込んできて日間に四斗樽に半分も溜まりました。そこで二日には白山神社の神主に頼んで祈祷してもらいましたところ、それからは怪事が消えました。近隣では大評判になっているそうです。

補注

●私見だが、諸物価高騰で庶民困窮に事寄せた諧謔であろうか。

 

第一一六話  惜別! 銘酒店「内田総本店」店仕舞

──万延元(1860)年五月三日、第七十八より

内田総本店ならびに枡酒屋店/昌平橋外、内田清右衛門

同店地所は「加印」大和屋所有の地所で、地代二六〇両を滞納、このたび涙金(*低利の利息、の意味か)二〇両を加え二八〇両になりましたので、家作・土蔵を債権の一部に充当すべく引き取りたいと申し入れましたが、結論が出ないまま、同店は五月三日より戸を閉じ休業しております。

内田屋はそもそも正徳年中に開業し、当日アヒルが一羽店に飛び込み、以来繁昌しましたから、アヒルを沢山飼っていました。今ではアヒルの姿はありません。

江戸中に「内田屋」の名は知れ渡り、支店や孫店などが点在した大店でしたが、このたびの凋落、江戸の名物が一つ消え、まったく嘆かわしいことです。

当店の銘酒は元「百薬の長」、最近これを「白梅」に換えています。(*このあと別稿での付記が続くが、いい加減な又聞き話なので、内田酒店の名誉のためにも割愛したい)

補注

●以下は拙書『日本の酒文化総合辞典』(柏書房・2005年刊)からの抜書きである。

  内田屋酒店/この店名で有名なのは、江戸に二件あった。一つ、浅草駒形の酒屋で内田甚右衛門操業、自醸銘酒「宮戸川」で名を馳せた。もう一つは神田昌平橋外の内田清左衛門酒屋、下り酒「剣菱」「菊」などを小売の看板商品に扱った。

●文中、冒頭の「清右衛門」が「清左衛門」になっている。文献には双方の表記があり迷うところだが、各史料出典では「清左衛門」のほうが多いことを付記しておく。

 

第一一七話  富士御本尊送迎の華美はまかりならぬ

──万延元(1860)年五月十六日、第七十八より

連絡書/富士山二合目御室本尊の(えんの)行者(ぎようじや)(*奈良時代の山岳修行者で、修験道の開祖)は、来る二十八日から深川永代寺境内において、六〇日間御開帳の段取りとなっています。明後十八日に品川宿を出発し、高輪金杉橋を始め、日本橋から本船町河岸通り、小網町から永代橋・深川佐賀町・相川町・富吉町・北川町・黒江町を経由して永代寺へ到着の予定。すでに連絡してあるように、御迎えということで、大勢して(のぼり)小印(こじるし)手にすることは勿論、飾り衣類など華美な出迎えは控えるよう、世話役の方は気をつけてください。もしこの趣旨に反し派手ないでたちのは、やむを拘留のうえ取調べを受けることになります。過失責任は当人のみならず、町役人にまで追及されますから、すこしでも違反者のないように、早めに徹底させておきましょう。

補注

●江戸時代の山岳信仰、わけても富士講中は人目を引くいでたちを競いあった。しかし、富士山御本尊の道中送迎は純粋な信仰行事であるので、本筋から外れたケバケバしい行為はまかりならぬ、というお達しである。こんな通達は、万事お祭好きで派手好みの江戸っ子に、素直に受け入れられるはずがなかった。

 

第一一八話  役者稼業は生きて花道、死んで極楽

──万延元(1860)年六月二十八日、第七十八より

尾上菊五郎が病死

猿若町二丁目、4代目・尾上菊五郎、俳名 紅芹舎、梅婦 五十三歳/釈菊憧梅磧信士

辞世 数珠をおくおふ義も夏の名残り哉

同人妻、てう 四十九歳/釈妙蝶貞現信女

菊五郎は大阪出身で、中村歌六の門弟。初名は中村辰蔵、改めて中村歌蝶に。天保二年九月、三代目・尾上菊五郎の養子になり、尾上栄三郎と改名。屋号は音羽屋、俳名は栄枝。同年十一月、江戸の市村座での初舞台を踏む。弘化三年正月、尾上梅幸と改め、安政三年九月さらに尾上菊五郎へと改名し、大阪から江戸に移った。安政六年、養子の中村延雀に梅幸の俳名を譲り、自分は改めて梅婦を名乗った。今年万延元年六月、厳しい暑気に当って病の床に臥し、妻のてうが親身になって看病したにもかかわらず、今月二十八日暮れ六時ころ帰らぬ人となった。てうは心から悲しみ嘆き、死に水を取ってやり、自分も水を一杯飲んだままうつぶしてしまった。付き添っていた女たち、きっと看病疲れにちがいないと介抱したが、眠るようにして息を引き取ったという。

 亡き夫婦は一つ棺に入れ、白浅黄の無垢を二枚掛け、浅草で火葬に付されたうえで、今戸の一向宗広楽寺に葬られた。

補注

●日記には、時の花形である歌舞伎役者の動向・人物評などの記事が散見できる。

 

第一一九話  不良外人は斬って捨てるぞ

──万延元(1860)年六月二十九日、第七十八より

三田済海寺に逗留しているフランス公使とやら、今日は彼国国王の誕生日だといって、米英両国の公使を招き一日中飲めや歌えの騒ぎです。書院から房総の景色を眺め、絶景の地だ、と褒めたまではよかった。が、酔いが回るにつれ、高台下の知福寺の庭に下りて遊山しよう、といいだします。警護にあたっていた御徒目付は制止し、「日本で勝手に他所に移動することは許されません」と注意。すると公使、「寺の境など取り壊してしまえ。逆らうと銃弾を打ち込むぞ」と無茶をいう。御徒目付もとうとう堪忍袋の緒を切らし、「いい加減にせんか。お主らを守ってやるのもこれまでだ」と刀の柄へ手をかけ斬って捨てようとしたところに、世話役の武士が止めに入り、双方をなだめてなんとかとりなしましたと。

 風景を三田いさらごハよけれども

      騒ひだ跡が内済海寺

 

第一二〇話  「市中物騒之事」が日常茶飯事に

──万延元(1860)年七月~、第七十九より

七月下旬からというもの、往来でのひったくり・物取り、あるいは市街地での強盗などなどが頻発し、たいへん物騒な世の中になっています。そこで本日、市中の番屋に対し、次の御触書を貼り出すよう命じました。

    此節、市中物騒之事

 ご存知のように近頃、街中にもかかわらず引ったくり・物取りが増えています。このような犯行に出会ったら、ひるまずに声をあげて危険を知らせてください。町内で結束を固め、逮捕できないような場合は、犯人を殺害してもやむをえないでしょう。このこと、町内で漏れなく徹底させてください。

補注

●本条では、続いて二〇件に及ぶ雑報が、いかに物騒な世の中であるか、事件を具体的に列挙している。

 

第一二一話  一人の凶賊狩りに愚民が三〇〇人がかり

──万延元(1860)年十一月六日、第八十より

千葉周作の門人で高弟、中西辰之進

中西は三人連れで水戸を発ち、取手宿で喧嘩のあげく、二人を斬り殺しました。彼は閏三月三日の桜田門外の変にも加担しており、自分も尻と眉間を切られているそうです。以降十月末まで、武州は江戸から一五里、中仙道桶川在、不動岡村の真言宗・総願寺に止宿していました。

そこの和尚は千葉門下の相弟子でしたから、旅費の無心に行ったところ、金などない、と断られました。「では、手負い傷が治るまでここに置いてくれぬか」と。頼まれた和尚は断りきれず、二階へ置いて外科に診せ傷の治療に面倒を見ます。

しかし、当地の目明しが嗅ぎ出し、医者に続き和尚を尋問して、協力して捕らえてほしい、と要請しました。二人は、「われわれの手に負える相手じゃござらぬ」と、困り果て対策を相談に及びます。そのおり和尚の提案があり、毎年当寺で寺相撲を催すので、この興行に事寄せて捕吏ら大勢を潜入させましたが、当の中西が見物に乗らず失敗。さらに知恵を集め、村内安全祈願の護摩修業を開催する、という名目で逮捕しよう、ということに。こうして関八州御取締りから、羽生領総代の郷左衛門および蔵之助に逮捕命令が下されました。これには捕吏や助手などと共に三〇〇人の者が集まり隙をうかがう。そうとは知らぬ中西、医者へ行き膏薬を貼り替えてもらっている最中に、押しかけた大勢の者により逮捕されています。本件は十一月四日の決着、六日に書面提出された事件です。

補注

●中西辰之進は人物事典に略伝が見えないことから、さほど傑出した人物ではなかったようである。

 

第一二二話  「外国人召捕方規則」制定さる

──万延二(1861)年正月一日、第八十一より

〔アメリカ公使タウンゼント・ハリス宛、久世大和守・安藤対馬守連名による書簡。日記に記載の原文のまま〕

外国人召捕方規則

一 日本役人対し手向ひ致し候者

一 遊猟致し候者

一 猥ニ被放炮致し候者

一 騎馬ニて人を蹴倒し候者

一 市中其外人多之処ニて馬を駆逐し致し候者

一 支那人之騎馬候もの

一 酔狂之上乱妨致し候もの、或は乱妨を企つる者

補注

●外国人ことに西洋人の専横ぶりは目に余るものがあり、幕府としても国民とのトラブルの続発に手を焼いていた。この規則は、既成事実を基にまとめられた裏返し条文であると理解できる。

 

第一二三話  七十五婆ァが「適齢期」に若返り

──文久元(1861)年三月中旬、第八十一より

老婆が娘に化けた

上州新田郡太田由良村、博労・大五郎の母 七十五歳

この老婆、髪が白髪にもかかわらず歯が生え出し、やがて髪の毛が真っ黒になり、皺も伸びて十七歳ほどの娘のようになりました。親類が寄り集まり、嫁入りの相談をいたしましたのに、当人は承知せず、今なお独身ということです。見物人が絶えないそうです。(*落首付きも虫食い記載)

 

第一二四話  佐幕から勤王へ、灰色渡世の末路

──文久元(1861)年六月、第八十三より

神田於玉ケ池・港川隣り角、酒井佐衛門尉の元家臣、浪人で儒者 清川八郎

清川八郎は、剣術の達人で千葉周作の門人、酒に酔い人を斬り殺して逃走した犯人である。川越辺に潜伏との情報を得て、目下、公儀の捕吏が逮捕に出向いている。

清川八郎の弟・清川熊三郎 二十五歳/八郎の女房・れん 二十四歳

清川八郎は酒井左衛門尉の元家来であったことから、酒井屋敷より追手勢を集めたがすでに逃走した後で、行方知れずである。弟と妻は二十三日に捕らえられ町奉行所に拘留、二十四日に収監されている。

 清川を濁し川越へ逃たとて

      先へ揚つて岡で捕える

補注

●清川八郎(1830~1863)出羽出身の尊攘派志士。当初は幕府方「浪士隊」に属したが、京都駐屯中に意を翻し尊攘行動派の「新徴組」に与したため、幕府から付けねらわれ暗殺された。

●日記には名ある幕末浪士の動向なども点描されている。

 

第一二五話  江戸の公衆便所新設・管理の願い出

──文久元(1861)年六月二十六日、第八十三より

公衆便所運営管理の御願い

小網町三丁目、家主 周蔵/長浜町二丁目、栄吉借地 平左衛門

この両人ともに、江戸御府内市街地の公衆便所・共同便所のうち、家主管理の分を除いて、御成街道道筋をはじめ御堀端近辺・御府内往還・横丁・四ツ辻、両国広小路とこれらに準じた広場・高輪通り・大川通り・入川・入堀・橋台・橋際・河岸通り・御蔵前通り・柳原土手通り・寺社門前の空地など、沽券地(*町屋敷・士族屋敷の建つ土地)の有無にかかわらず、これまで随時に公衆便所を設置してまいりました。

このたび、既存・新設を含め右の家主・周蔵ほか一名に独占管理をさせ、二人建便所二五〇〇カ所、小便所五〇〇〇カ所、補理(*小屋掛興行などのため臨時に設置する小用堀)八カ所、管理事務所建物、農家からの下掃除代(*肥汲取りの謝礼金)受取り窓口などの設置に必要な費用を負担いたし、冥加金名目で毎年一〇〇〇両を上納したいと、先月うち両人から北御番所に認可申請がございました。

本件につき、各町内に問題が生じないかどうか現地調査するよう、御担当官より御要望がありましたので、関連する組合や行事当番事務所において設置の有無を御調査・御検討の末、この半紙竪帳(*候補地等を書き記した事業計画書か)を御確認頂き、来月三日までに亀の尾(*通称か、謙称か)に結果を御連絡ください。/六月二十六日 小口世話掛

 両便をたれたる時のこゝろよさ

      屎喰へとハもふいわれまい

補注

●原文では「惣雪隠」とあり、これは大小兼用便所のことをいう。

●近世・近代、家庭の雪隠壺に溜った糞尿は、価値ある商品であった。江戸をはじめ各地町方の大家や出典のような公衆便所管理業者は、店子(たなこ)等利用者の便所を取り仕切り、糞尿汚穢屋(おわいや)・汲取り農家に売った。オワイヤは江戸の場合、葛西あたりの在から馬に肥桶を付け曳いてきたり、掘割を糞舟でやってきたりした大家・業者はオワイヤと契約し、店子の肥代として、現金か野菜の礼物を月極または毎年暮れに一括受け取りする。オワイヤは肥一荷幾らで農家に売り、農家はそれを作物の人肥に使った。フーンと感心するような経済需給の関係だ。本条に登場の江戸の便所業者の場合、便所新設の莫大な建設費のほかに上納金を年間一〇〇〇両も出せるのであるから、「下掃除代」がどれほど巨額に達したか、容易に想像できる。

 

第一二六話  押し入った先が剣術道場、失敗に泣き出す

──文久元(1861)年七月、第八十三より

恥かき強盗犯、引き廻しのうえ死罪に

日本橋左内町角、河内屋栄次郎 二十七歳(革羽織屋で、家作を持ち、土蔵一カ所を所有)

栄次郎は去年の秋、十人衆・河村伝左衛門宅に宵の口に押し入り逮捕されています。

彼は芝居役者の高麗屋よろしく、黒も面を着し、丸ぐけの帯を締め、御高祖頭巾を被り、草鞋を履き、抜き身を引っさげ侵入しました。河村宅の向いには千葉周作門人の剣術道場があり、川村家の若い衆も何人か弟子入りしていたので、「これは面白いことになるぞ」となにやら期待。血気盛んな連中のこと、ここ一番の手柄を立てたい。一人が、「金を用意する間、奥でお待ちを」と奥の間に通します。そこで大勢が竹刀を手に打ちかかりましたが、栄次郎は真剣を持っているという強味があり、竹刀など脅しに過ぎない、とタカをくくっていました。が、彼自身、人など斬ったことがない。結果、大勢に打ちのめされて泣き出す始末。捕らえたものの金の強奪は未遂に終わっています。罪人扱いはなかろうと、伝左衛門は左内町の住まいへ栄次郎を帰してやりました。

しかし、捕吏が事件をかぎつけ、逮捕して入牢させてしまったのです。今日は彼の引き廻しの日で、死罪に処せられます。河村としてはかなりの出費も惜しまずに栄次郎の助命を願い出たそうですが、受け入れられず、犯人は黒装束丸ぐけの帯をつけた姿で投獄されたそうです。

栄次郎所有の刀は村松町の某が一分二朱で買い取り、頭巾は大丸が買い、ほかに一件の買い物、合わせて三件の商取引があったとのこと。

補注

●川村伝左衛門(1822~1885)は幕末・明治の江戸の材木商で、明治四年に洋式製糸機械を導入し、製糸事業を起こした実業家である。和漢の文学にも通じ、迂叟の号をもつ。

●押し入られた河村側の一見して美談に見えるが、法秩序というものは、同情により助命するほどヤワなものではあるまい。大局から見て、一人の助命に伴い犯罪行為に対する軽視意識助成の影響ほうが、司法側にとってより大きな問題であるはずだ。それにしても結びの一文に見る、生き馬の目を抜くような商人どものセコいこと、どうであろう。河村の善意との落差を感じさせるではないか。

 

第一二七話  「(にわか)」の余興か、仮装行列の始まりか

──文久元(1861)年八月十五日、第八十四より

深川八幡宮陰参りにおける中島町中国人囃子について

この祭礼では山車が三本出ます。なにしろ海辺大工町のこと、俄(*補注を参照)で賑わいます。出し物「唐人(からびと)七人」のうち四人は江戸仕立ての装束で、別の三人横浜出向外国人の着物を借りてきたそうな。最初、その仮装のまま娼家に上がり、女郎をびっくりさせるつもりでした。外人気取りで取り巻きなど引きれてやってまいりましたが、おり悪しく役目の向きの娼家に居合わせてい、その場で現行犯逮捕に。身柄は月番北御番所に送検され、取調べのうえ、外人仮装者三名は手鎖預けに、残る四名は町役人預けになりました。

 あつさりとしたら越度も中島町

      工夫深川はまる唐人

補注

●「俄」とは江戸時代に、素人の旦那衆や遊客が、物日などに大道や座敷で演じて見せた即興の寸劇のこと。これの上手・下手で演技者の粋さ加減が測られた。本条の場合、居留外国人をいたずらに刺激するような振舞いが、御法度に触れたのであろう。

 

第一二八話  名前まで盗んで「今鼠小僧」を名乗る

──文久二(1862)年二月、第八十六より

今鼠小僧逮捕の一件

善浅草寺地中善竜院地借り、家主・清五郎店 質屋で「今鼠小僧」を自称 半七 二十八歳

半七は武州神奈川の生まれ、足を踏み入れた十二歳の時から当年まで一六年間にわたり盗賊稼業を続けてきました。四年前、和泉町角で居酒屋を表看板に開業し、仕立屋某の後家と密通しています。安政七年の根津遊廓出火のおり、火宅付近に屋台を出しましたが立ち退きに遭い、浅草馬車道に移り質屋株を買っています。昨年暮に土蔵を建てましたが、大工への支払いが八〇両ほど滞っているとかで、いまだ中塗り状態のままです。

このたび逮捕に至ったのは、他愛のないことがきっかけでした。

大丸呉服店の若者が八丁堀北臨時見廻り役の山本啓助宅に出向いたとき、世間話の出たついでに山本から、「近頃、何か興味深い話はないかね」と訊かれました。若者は、「ございますよ。私どもに買い物に見える御客様の一人が、呉服類を沢山ご注文なさいました。かさばりますので、私どもがお届けにあがりますから、御住所と御名前をお聞かせください、と申しますと、いや自分で持って帰るから、その必要はない、とお答えになりました。お供も見えず、ご身分もわかりません。なんだか妙な感じがいたします」この話に、山本は「今度その人がやってきたら、必ず私に知らせてほしい」と言い置きました。客人すなわち半七がまたもや店に顔を見せたので、山本方に使いを走らせて知らせました。ただちに山本が手先を使って人物を見届け、追跡調査した結果、とうとう今回の逮捕に成功したということです。(*後略)

補注

●犯人が模倣した「鼠小僧」については第一一話を参照。

●このあと具体的な犯行などの記述に及ぶが、ここでは省略する。

 

第一二九話  桜花散る前に、命を散らす

──文久二(1862)年三月、第八十七より

王子で殺人事件

被害者……浅草幸竜寺領・武州豊玉郡王子村、名主電子楼の母 りゑ 三十七歳

加害者……御代官・大竹左馬太郎の助手 松本整一 三十七歳

松本整一は一八日夕刻四時ころ、王子権現脇字桜畠において酒に酔い、りゑに刀で斬りつけ、その場で殺害したものです。かたわらの忰・伝四郎も同様に斬られ負傷しました。動機等は未詳です。

寺社奉行・松平伊豆守から検死医が派遣され、整一は現行犯で逮捕のうえ取調べのため連行されました。

(*落首の三首は省略。後報に稿を改め)

この事件の経緯。男三人・女一人・子供一人の五人連れで花見に出かけたとき、整一は酔って桜を折り取りました。りゑは現地に人が集まり稼ぎになるので茶店を出しており、それを目撃したので、「花を折らないでください。花見の迷惑になるじゃありませんか」と注意を与えました。すると整一は腹を立て、「桜を切って悪いならば、お前を斬る」とりゑを頭から断ち斬り、逃げ出したので、忰の伝四郎が先回りして取り押さえましたが、そのおり負傷しています。

 ある情報によると、りゑは名主の母親なのを笠に着て横柄なため、村中の持て余し者だった、と。その日も整一が花を一本呉れろ、といったところ、悪口雑言を吐き、彼を突き飛ばし泥だらけにしたため、整一やむなく斬ってしまったそうです。この事件、村中が喜ぶ結果になったということです。

 

第一三〇話  「コレラ獣」が焼かれて食われる

──文久二(1862)年八月、第八十八より

大河内鎌蔵知行所、武州多摩郡三ツ木村字残堀組 百姓・粂蔵の妻 とき 

ときは八月十二日ころから、流行のコレラにかかり吐しゃなど煩っていました。十七日には二の腕に瘤のような塊ができ、揉みほぐしたら快くなったのでホッとしていました。ときの弟で隣村の石畑村百姓が見舞いにやってきて接触したことから、弟もコレラに感染してしまいました。彼もまた吐しゃし瘤ができたのでたので、揉みほぐしたら具合がよくなる気配。当日夕刻、イタチに似た成獣が粂蔵宅の裏口から飛び出すのを一度目撃しています。

翌十八日、ときが梨でも食べようと起きだしてみると、昨日見た成獣が現れ彼女の顔をじっと見つめるのです。ときは肌寒くなり追いかけると、薪を積んである下へ逃げ込み、居合わせた猫と噛み合いを始めました。ときが薪で叩くと、獣のちょうど眉間に当たり死んでしまいました。そのさい三ツ木村の百姓で平十郎というものが居合わせ、その場で獣の皮をはぎ肉を火にあぶり食ってみると、なかなかうまい味です。同じ村の百姓・虎市という者が二十日にまたコレラにかかり吐しゃしましたが、例の獣が現れたのを妻のまんが見つけ、追いかけました。そこに出会った隣家の亀吉・妻のまんに手を貸してもらい、二人で打ち殺し、獣の死体はそのまま土を掘って埋めたそうです。(*類話が一件併載してあるが、省略)

 コレラ獣之覚/毛並狐色より余程濃く、目丸く、手足猿の如し、爪、猫之形

 

第一三一話  芋侍三人、職人一人の力に及ばず

──文久三(1862)年五月七日、第九十六より

馬道で駕籠屋が起こした騒動の一件

五月七日夕方五時ころ、浅草北馬道で吉原へ向かう駕籠三挺が続いて通りかかったところ、若侍が三人道をふさいで駕籠の先頭を押し止め、いうことに、「この風雲急な時節もわきまえず駕籠に乗り吉原通いとは、いい気なものよ。不届き者を見逃すわけに参らぬ。出合え」と、駕籠の中の侍を引きずり出し、殴りつけました。駕篭かきが止めてくれと詫びを入れますが、なかなか応じてもらえません。すると大工風の男が一人通りかかり、騒ぎを見て仲に割って入り、三人の武士をなだめにかかりましたが、それでも止めようとしません。駕籠屋は先に逃がしてやり、あとに大工が残り説得をつづけても聞き入れてもらえない。しかも侍は、「下郎の分際で要らざる世話を焼くな。代わりに貴様を討ち捨てるとしよう」との暴言に、職人、「そうかい。なら、その下郎が相手しようじゃねえか」といいざま定木を構えた。侍どもも「小癪な下郎が」と斬りかかる、職人、得たりや応と切っ先を受け流し、三人相手に火花を散らしての大奮闘。手強い相手と若侍一人は逃げ出し、残る二人も打ち殺されかけて血だるま、ひょろついている、やがて職人もこれで十分と見たか、その場から飄然と姿を消しました。

 馬道を駕籠で通るを咎めだて

      いらぬ御世話ハせぬが吉原

 

第一三二話  無法の殺し、外人相手に伸びる

──文久三(1863)年九月三日、第百より

異国人惨殺事件

フランス人三名が東海道の裏街道で戸塚を越し保土ヶ谷宿に差しかかったとき、浪人四、五人が飛び出し、最後尾の馬に乗っていたフランス人めがけて抜刀し斬りつけました。まず手綱を持つ手を二本とも斬り落とし、体を馬から引きずり下ろし、何箇所となくズタズタに斬り裂いて殺害。先を行っていた二人の外国人は、馬を疾駆して横浜にたどり着きました。浪人達は行方知れずです。急を告げられたフランスおよびイギリスの公使らはいきりたち、捜索に手を尽し、不敵な日本人どもを必ず探し出せと厳命を発します。しかし犯人の手がかりすらつかめない。知らせは神奈川奉行所に届き、そこから江戸表へと通達されました。江戸では外国奉行を始め、外交関係者らが横浜に総出で事件に取り組みました。しかしながら、さしたる成果もなく、四日深夜から江戸に引き揚げているそうです。

 アメリカの降夜も通ひイギリスを

      フランス故に手をきられけり

 

第一三三話  身勝手で人騒がせな檄文の見本に

──文久三(1863)年十一月二十一日、第  百二より

十一月二十一日、元四日市町塩物問屋・伊勢治の板塀に次の文面になる張札が掲げられていた。

(*原文のまま)後世可恐とハ報国の有士なり、如今之計制天晴々々、直ニ世上をウタフベキナリ、昔湯放桀武王伐誅アルナリ、今富を討て貧を安ジ、且外夷を討チ内国を安ジ治ント欲スルナリ、彼レハ君を誅して民を安ンズ、是ハ富と外国を討て、貧と内国を安ジ治ント欲ル、意識大ニ似タルナリ、乍然天下の計制ニ於てハ、先後、本末の差別有ものなり、(*中略。以下、勤皇思想、というよりは偏った国粋思想論がグダグダと続く)然而シテ今天下ノ無道改革ナキ時ハ、十年余ナラズシテ此国乱ルヽ事麻ノ如し、実ニ歎ケ敷事也、予ガ唯々後世ノ名君ヲ待ヨり外無而已、乍然今強テ計制ヲ改メ行ハント欲スル有士有テハ、予降テ請命を承テ、天道ヲ守、然而天下ニ腐シ政事行ルヽト雖不□不憚天命ヲ、以テ突キヤブリ、本根をタダシテ、予ガ抜群ノ功ヲ世ニ残サン事ヲ希ノミ。/月日 北国輩

  若此書張置、三日之中ニ取ハナス者有候時ハ、窃ニ穿鑿を致し、天誅を可行ふナリ。

これは四日市町善兵衛地借、乾物問屋・伊勢屋治兵衛の居宅に続く板塀に、半紙を継ぎ足して書いた貼紙で、十一月二十一日朝に発見し届け出たものである。

補注

●はがして塀際の小便溜りへ放り投げたくなるような檄文の落書である。そうされないよう、小悪党らしく脅し文句をつづってあるところが滑稽だ。

 

第一三四話  エレキテル魔法治療で一儲け

──元治元(1864)年四月二十二日、第百五より

エレキテル妖法についての御届

谷中天王寺表門前、新茶屋町甚吉店、仕立職 嘉兵衛 五十六歳(今年三月中に南油町より引越し、妻子を使い呪術の世話を取り持った者)/同人の妻、たき 四十九歳/同人の娘、むめ 二十九歳/同居人、妹 ひさ 四十九歳(呪術を施した者)

ひさは嘉兵衛宅の入口に「和蘭陀諸病治療所」という看板を掲げていて、嘉兵衛の実妹で大阪言葉を使います。ひさはアメリカ式とでもいうのでしょうか、診療に従事。病人が来ると、箱のような物を真ん中に据え置き、向い側に病人を座らせて診ます。助手が二人(*嘉兵衛の妻と娘であろう)いて、患者の痛む部位、肩や腰などに分銅のようなものを押し当てます。ひさは箱の正面に座し、機械車を回しますと、患者の体に影響を与え、体が細かく震えだします。

効能の程はわかりませんが、毎日二〇人ほどの患者がこの呪術を受けに参ります。診療相談にも応じています。治療代は一回につき一〇〇文、重症の場合は二〇〇文だそうです。

女たち三人は木綿の衣類を着てエレキテルを操ります。ほかに不審な点はありませんが、エレキテルの使用で難病の治るわけがなく、愚民を惑わし金銭を貪り奪っているという噂もありますので、委細詳しくお調べいただきたく、書面で御報告いたします。

補注

●「エレキテル」という電気を表す言葉は、江戸中期の博物学者・平賀源内(1727~1779)が初めて用いた。

 

第一三五話  悪評高い水戸侍だったのが運の尽き

──元治元(1864)年七月八日、第百七より

小石川春日町において武士の惨殺死体を発見

水戸家家臣、鈴木万次郎 三十七歳

被害者の鈴木万次郎は、水戸屋敷に出入りできる身分の藩士で、このたび駒込屋敷に勤番していました。七月八日正午ころ、中屋敷・上屋敷からの帰途の富坂で浪人者八名と出会い、揉め事が起き長時間にわたって押し問答を続けていましたが、うまく折り合いがつかず、夕刻六時ころ追いかけられ逃げ出すはめになりました。

春日町の交替寄合・朽木主計助邸の表門にさしかかった鈴木は、「水戸様家臣の者です。八人に追われている。身が危険なので、助けていただけまいか」と頼みましたが、門番は、「水戸家の家来とあっては、入ることまかりならぬ」と、突っぱねます。鈴木はとうとう門外に待ち受けていた八人によってあっさりと斬り殺されてしまいました。

首なし死体は朽木邸門前に残され、首は切り取られて御弓町の御書院番・渡辺半左衛門邸の前に。刀を土に突き立て、髪の毛を柄に結わえ付けて首を晒し置いてあったそうです。

 渡辺の前ニ腕なく首ありて

      胴は朽木となる春日町

補注

●出る釘は打たれる。勤王思想を押し付け振りまき、徒党を組んでは江戸市中を我が物顔で闊歩する水戸侍は、武士同士でも鼻つまみものだったことを、惨殺ぶりを含めてこの一件がよく物語っている。

 

第一三六話  長州勢、陣太鼓で賑やかに進軍

──元治元(1864)年六月二十七日、第百七より

二十七日、鳥羽街道横大路を長州軍が進軍した。総勢五〇〇余人で、五重隊列を連ねて陣太鼓を打ち鳴らし、陣貝を吹き鳴らしながら行進。大将格の三人は騎乗であった。抜身の槍、馬印の白旗は次の図の通り。

 補注

●天狗党の筑波山出兵(次話を参照)に呼応するかのように、長州正規軍と浪士ら連合軍が京都に進行した。いわゆる「禁門の変」であるが、この出兵はただちに制圧され、長州は「朝敵」の汚名を冠せられる。

 

第一三七話  世間を震撼させた「筑波山事件」の断片

──元治元(1864)年七月九日、第百七より

筑波山浮浪の一件

御番医師・吉田梅庵の知行所、常陸国高道祖村の名主より、所轄の地頭・用人宛報告書

一昨日七日午前十時、筑波山本陣に藤田小四郎(*水戸藩士で筑波山事件の首謀者)を総大将とする面々が勢揃いし、酒樽三本の鏡を抜いて出陣の門出を酌み交わします。軍将の小四郎は正面床几に座り、左右に従う者が綺羅星のように並んでいます。やがて各人が旗印や武器を携えて筑波山から西方向、(たか)()()原地まで行進し、当地で上州高城主平右の軍勢(*天狗党討伐の政府軍)と対陣することに。両陣営にらみ合っているおり、浮浪勢(*藤田ら天狗党をさす)から使者がやってきました。

使者は高崎陣に対し、「わしらは下総小金井に向かいたい。しばし陣勢を緩めて通過させていただきたい」とのこと。聞くなり高崎陣は「それはならぬ」と使者に鉄砲を発砲し、双方で銃撃戦が開始されました。しかし浮浪勢の鉄砲は方々から臨時にかき集めたものだったので、どうも統率が悪くて惨敗、浮浪勢の死傷者は数知れず、一行は日暮れに引き揚げてしまいました。高崎陣は陣地に終結して勝どきを上げます。

翌八日、日中は両陣営とも一息入れましたが、月の出を合図に、浮浪勢は高崎陣に対し夜襲を仕掛けます。前口から二〇〇人、後口からは一〇〇人が提灯もともさず、合言葉を掛け合って同時に乱入です。高崎陣は熟睡していましたから、奇襲されて混乱の極み、助勢の百姓も含め二〇〇人が血祭りにあげられました。浮浪勢は勝鬨をあげて筑波山へと帰陣しました。

その後の戦況は不明ですが、わかりしだいお知らせいたします。

このようなことは三〇〇年の御治世このかた未曾有です。私ども近隣の者は残らず筑波山からの呼び出しを受けています。そのうえ武器の調達、あるいは味噌・塩・蝋燭・梅干など日用品などの差し入れを強要され、塗炭の苦しみを味わっています。着の身着のままで夜逃げする百姓すら出ています。このままでは今後が思いやられます。まだまだお知らせしたいこともございますが、とりあえず極秘裏に御報告いたします。/七月九日 高道祖村 名主

御地頭様/御用人様

補注

●元治元年三月、水戸藩の過激派は藤田小四郎を頭とし、天下に尊皇攘夷の志を知らしむるとの趣旨で、筑波山に挙兵し陣営を築いた。結束した同志を「天狗党」と呼び、一連の事件を「筑波山事件」といっている。当初は隊員も一〇〇〇名を超え、倒幕の意気盛んであったが、幕府・連合軍の数の前に旗色は悪くなり、本条のような残党籠城組の態を晒す。いっぽうで、武田耕雲斎を大将とする天狗党の一行は、一橋慶喜に援軍を請うため京都に趣く途中、家族を含む八〇〇人が非業の最期を遂げることになる。

●本条は細部の点で、史実とやや食い違いが見える。加えて本条は、一名主が発した報告書形式の書簡であって、藤岡屋が新たに書き下ろしたものではない。ところが、藤岡屋のアクの強い書き癖が全面に顕れている。よもやデッチ上げとは思わないが、他人の又聞きを捏造したか、既存の文書を我流に書き換えたか、いずれにせよミステリアスである。ちなみに、これに似た筆運びのケースが非常に多いことを付け加えておこう。

 

第一三八話  意趣返しに金玉袋を引き裂く

──元治元(1864)年十一月三日、第百十一より

陰囊引裂き事件

浅草旅籠町二丁目地先、御蔵前土手側・床店場所借受人で、同所鳥越町・又七店 松川屋という駕籠屋 半兵衛/同所同町・住吉店 車夫 伝八

伝八は半兵衛に銭一貫三〇〇文の貸しがありました。半兵衛のほうは、たびたび催促したにもかかわらず、いつも都合がつかないと言い逃れ返済に応じませんでした。

このたび将軍・家茂公の御上洛記念の御祝儀に、町人に六万三〇〇〇両が下賜され、一軒につき銭三貫一三九文ずつの割り当てとなりました。半兵衛・伝八とも管轄名主から銭を渡され、先月二十三日夜、伝八は「貸してある金は、御下賜金が入るのだから、そこから返済してもらいたい」と半兵衛の家に催促に出向きました。ところが口論となり、伝八は半兵衛の(たぶさ)をつかんで引き倒この伝八、車夫だけに腕力があり、とても叶わぬと見た半兵衛は伝金玉袋をつかみ、伝させようと必死。だが半兵衛はなかなかさない。伝八はやむを得ず自分の男根を握り、引っ張れば相手もすだろうと思いましたが、もみっているうち伝の下半身では男根と金玉袋がとうとう寸ほど引きちぎれ、出血多量に。ここで二人ともびっくりし、さっそく最寄の外科医・熱田秋菴に傷を診てもらいました。四針も縫うかなりの重症でしたが、命に別状はない、とのことです。

伝八は訴訟すると騒ぎましたが、仲を取り持つ人がいて、半兵衛から伝八に治療代二両を差し出して、なんとか穏便に済ませたそうです。

なにしろ金銭貸借がらみでは笑いの止まらぬ珍しい事件につき、御報告に及びました。/十一月三日 荒川釜吉

 聊かの銭をいつ迄松川や

      団十郎で皆戻り駕籠

 陰囊(キンタマ)を広げて狸引(サカ)

      きんを取たで跡腹鼓

 

第一三九話  「天狗党」に雇われた小者の一夕話

──元治元(1864)年十一月、第百十一より

野州の一百姓、賊徒に雇われ諸国随行の話

武田耕雲斎(*補注を参照)はすでに七十六歳、白髪の髭は七寸に達し、「諏訪法性之兜」と号している。古くに武田信玄が着用の兜の通り拵えたものを頭に頂き、身には緋の衣をまとって兜の上に着け、今様信玄であると自称。武士たちは彼の手足のように立ち働き、地方の民衆も厚く敬っている。息子を武田伊賀守といい、妻は烏帽子を冠り下げ髪にして、あたかも巴御前を見るよう。伊賀守の子は孫七といって、耕雲斎の配下の一人である。

小松竹彦という者は無鉄砲なな男で、(*天狗党の面々が)上州に脱走のおり一団から離れ、二人の浪士を従えて強盗を働くなど悪行の末、熊谷の先の中関において忍藩士に生け捕られ、首を刎ねられている。所持金は二〇〇両に達していたが、うち九〇両乃至一五〇両は強奪した金であった。この竹彦の乗馬の口を取っていた馬士は越谷在の者で、ひたすら命乞いし忠誠を誓ったので、忍藩士によりまだ首は刎ねられないでいる。

 補注

●武田耕雲斎(1804~1865)は幕末の水戸藩士で、徳川斉昭に仕え家老職の地位にあった。筑波山事件の黒幕的存在で天狗党の総大将を務めたが、全軍を率い中山道沿いに上洛の途中、家族を含む全軍の疲弊により加賀藩に降伏し、越前敦賀で総勢が斬首された。

●原文中、耕雲斎の年齢を「七十六歳」としてあるのは誤り。

 

第一四〇話  道路工事中に九二両を掘り出す

──元治二(1865)年三月、第百十五より

下谷入谷で道路工事中、九二両余を掘り出した一件

上野東叡山の領地・武州豊島郡の俗称入谷、坂本村で道路工事があり、

同村字小沼露地、水谷主水様下屋敷前南通り、浅草中田圃へ出る道筋の中ほどで、十九日昼ごろ、同村の音次郎・伊助が鋤で土を掘り起こしていたところ、四両三分二朱の貨幣が出土しました。ただちに村役人に知らせ、立会いのもとさらに土を掘り返すと、運土の中から古二朱金で合計七〇両三分が現れました。

二十日に至り同村の百姓代表の由兵衛・年寄の治郎右衛門、名主の五左衛門の連盟で田村権右衛門様役所に届け出ました。その後二十一日にも土中から五両を掘り出しましたので、役人の方々が鑑定を済ませ規定どおり収納しました。珍しい話なので記しておきます。

 

第一四一話  貨幣材料がなくなり経済混乱に

──慶応元(1865)年閏五月、第百十八より

〔史料としての利用を配慮し、原文のまま転載する〕

銭払底ニ付、町触之事

近来諸国共、銭払底差支候由、右は銅直段高直ニ相成、銅銭との釣合不宜故と相聞候間、真鍮銭・文久銭・銅小銭共、夫々天然之相場ニ任せ、一枚に付相応之歩増通用可致候、百文銭・鉄銭之儀は是迄之通ニ候間、何れも無差支通用可致。

右は世上融通之御趣意ニ候条、其旨相心得、万一両替屋共等利徳之為、不都合之取引致ニおゐては、可為曲事候。

但、銅小銭之内、(みみ)(じろ)(ぜに)(*江戸で正徳年中に鋳造した古銭)は引替ニ可相成間、両替屋共方へ可差出、代りの義は相当之相場を以、可相渡間、不貯置差出し可申候。

右之通、御料は御代官、私領は領主地頭へ、不洩様早々可相触候。

右之趣可被相触候。/閏五月

右之通御書付出候間、町中不洩様、早々可相触

慶応元乙丑閏五月六日/町年寄/役所

〔次は承前、藤岡屋の書下しと思われる一文である。原文のまま〕

閏五月十日 古本翁著述

  この節百銭計ニ而、釣銭ニ困り難渋致ければ両替屋共相談之上、四文銭が六文ニ致し候との評判なりければ、当四文直上ゲ咄し

御成道石川の見世ニ而、短か夜ニて寐心も能く一睡の夢を結び、目覚て聞ニ、何歟見世ニて高らかに咄し声致しける故、耳をすまして是を聞ば、百銭と四文銭と咄しなり。

なんと、大御所様時分は世柄はよし、御老中は水野出羽守で、強きな威勢で有た、其頃は薬売迄が、いせひが能かつた、蛇の目の紋を付て、扇をひろげて、藤八五文奇妙と言てあるいた、今は当百五文、引ていかなひで八文引て通用だ、又神楽坂の本多様は、元は御大名だと云事だが、引下ゲて御旗本の頭と成て居た所が、御神楽坂の拾二銅おひねりをたして御大名となり、御屋敷も本多に修理して立派になつた、また御本家の四文ぜニ、本多様も今度位が高く成て、六文銭となるそふだ、成程六文膳所と、本多に主膳なら、苗字も改メずばなるまひ、そふさ大方苗字は真田と信濃守だろふ。

 天保も当百なしに通用し

      四文六文浪風もなし

補注

●材料不足などで貨幣原料の実勢価格が高騰すれば、当然額面価格との間に価値の差が生じ、流通混乱を招くことになる。明治政府が実施した金貨の金本位制(額面での政府引取り保証)などは、その対策の一環である。

●本条が藤岡屋の書き下ろし文と仮定しての話だが、平仮名が比較的多く、まとまりがよく読みやすい。どうやらこの人、漢文調の硬い文章よりも、通俗的な砕けた文章のほうが筆に合っているようだ。

 

第一四二話  どこかが似ている、蛇と鳶との争い

──慶応元(1865)年閏六月十七日、第百十九より

六月十七日夕方五時前、一ツ橋土の裏門の向い、三ノ丸石垣の間に、灰吹きほどの頭の蛇が首を出しました。そこに鳶が飛んできてつかみかかります。蛇のほうも鳶を締めようと足に絡みつき、石垣に引き込もうとします。鳶は羽ばたきして中へ入らず、蛇の頭をついて食おうとしますが、うまくいかない。

争いたけなわになるにつれ、毎日見物の群衆がお堀へ石を投げ込む、見附から棒を突き出すなど大騒ぎ。これを制し咎めた役人、姓名を尋ねると、「今日は二十日で四日目になるというのに両者決着がつきません」なんて、とぼけている。やむをえず翌二十一日の朝十時、目付立会いのもと、鳶に薬を与えて放つ。蛇は平気で穴へ入り込みましたとさ。

 昼鳶もさらわれもせず巻付れ

      蛇ものらくらしても居られず

 一橋呑気で蛇を遣つても

      すでにおのれがさらわれる処

補注

●一読すれば、書き手が何を暗示した物語か見当がつく。石垣の蛇は徳川の化身、飛来して蛇を葬り去ろうというのが朝廷つまり官軍の化身である。この寓話、おそらく藤岡屋の創作であろう。

 

第一四三話  新門親分、ご苦労様でござんす

──慶応元(1865)年閏六月二十五日、第百十九より

六月二十五日に聞いた新門一家の噂(藤丸籠に青網簾を掛け、東海道を下って本日江戸到着、ただちに収監)

浅草の新門鳶頭、通称 辰五郎、本名 仁三右衛門

新門辰五郎は一橋(*徳川慶喜)家の御用の向きで、大工・鳶の者など大勢を連れて京都に出かけていました。公方様(*家茂)も時を同じくして京都ににお発ちになり、京都御殿の御座敷に入られるさい、(*新門の手の者によって)釣天井が仕掛けられていたため、入室することができません。犯行計画が発覚したため、頭以下一八人の者が青い網簾を掛けた藤丸籠で江戸へと送り込まれてただちに入牢、残った者は京都で入牢させられました。

一橋殿も東海道を下り、今月中に江戸入りの予定です。

新門の頭は去年八月二十一日に江戸を出発、これは鳶二五〇人・大工も相当数を引き連れたものものしい一行。当日は神田橋御門外広場に勢揃い、各人が印襟に「新門」の文字染め抜き揃いの職人紺半纏を着て、「旭」印の丸幟を立て威勢よく繰り出した様子が、人々の目を見張らせたものでした。

新門の忰・松五郎も昨年九月初め、鳶六〇人を連れて後を追い出立しています。

    神文

 新門をしたので先へたつ五郎

補注

●本条は慶喜を警護するため辰五郎が京都へ向かったさいの事件を記述している。ただし、文中にあるような釣天井云々が事実かどうかは定かでない。ちなみに辰五郎は、一橋家警衛の立場をうまく立ち回り富裕で、京都の河原町と大坂堂島に妾宅を構え、羽振りのよさを誇示していた。

 

第一四四話  狂歌をぶつけて強盗被害なし

──慶応元(1865)年八月二十六日、第百二十一より

盗賊に狂歌を詠んで撃退

神田久右衛門町二丁目代地、利吉店 薪炭商・川崎屋 又右衛門

今月二十四日夜中二時ころ、又右衛門方に侍風の顔を包み隠した強盗が押し入りました。白刃をちらつかせ、「金を出せ。声をあげると斬り殺す」と、おどします。又右衛門が有り金の一両二分を差し出すと、「たったこれだけか。もっとあるだろう、残らず出せ」と語気を荒げます。又右衛門、「ならばあるかどうか、家捜ししてみなされ。無いものは致し方ない」と応答。なおもグダグダ言う強盗を尻目に、又右衛門は硯箱を取り出し、次の一首を白紙にしたためて強盗に差し出しました。

 あるならば金で命をこふものを

      なきは涙の雨に降りける

 強盗はしばらく歌を読み返し、感じ入った様子。やがていったん懐に入れた一両二分を又右衛門に返すなり、姿を消しました。

 又右衛門は、平素から歌を詠み発句を嗜む身です。たいていの者は強盗に凄まれたら震えあがるのに、彼はたじろぎませんでした。狂歌一首で強盗を追い返すとは珍しいこと、と噂が立つに及び、ここにお知らせすることにしました。

補注

●日記には藤岡屋自作と見られる落首・狂歌が少なからず載っているが、はっきりいって、彼の作品はなべて下手である。この一首もいわゆる「腰折れ歌」で褒められたものではない。また、落首(狂歌)なのに原文では、「一句読」と助数詞用法を間違えているのも迂闊だ。落手や強化では「首」を用いるべきで、「句」は俳句や川柳の助数詞である。

 

第一四五話  墓守提灯から青竹が芽を吹く怪奇

──慶応二(1866)年正月~、第百二十六より

野辺送りの白張り墓守提灯から青竹が生え出た一件

木村董平御代官所 山王権現別当・観理院領入会(いりあい)、武州豊島郡代々木村 百姓・仙右衛門

仙右衛門方に土佐出身の喜助という者が、農業奉公に従事していましたが、一昨年三月四日に病死したため、仙右衛門の檀那寺である同村天台宗・福泉寺に葬送し、仙右衛門の墓地内に埋葬しました。そのおり白張りの野辺提灯を据付けておいたそうです。

今年正月四日には、仙右衛門の母・きんが病死しましたので、同様に墓所へ埋葬したときに、喜助の墓に添えた提灯から七、八寸の青竹が三枚葉をつけ生育しているのが見つかりました。

この不思議が噂になって広がり、見物人が多数押しかけてくるようになります。そこで仙右衛門は墓地に高さ一尺四、五寸、幅三尺ほどの塀を囲い、賽箱も設けないでおきました。ところが同村から線香を立ち売りする者が三、四人も現れているそうです。

この代々木の墓所は内藤新宿からおよそ一里半だそうです。青竹は芽吹いてから三年たつわけです。野辺送りの提灯に青竹が生えるなど聞いたことがなく、まさに珍事ですので、同所をお訪ねになり、事実かどうかご自分の目で確かめられてはいかがですか。

 補注

●原文に「右代々木場所迄は内藤新宿より凡一里半程有之候由」とあるのは誤り。

 

第一四六話  小銭ねだりの常習犯、じつは発句詠み

──慶応二(1866)年正月~、第百二十六より

尾張町虎屋で俳諧師が逮捕された事件

犯行を重ねたのは弥吉という名の浪人で、俳諧を嗜み、「浪月」という俳号をもっています。

 名も色もきろふ人なし福寿草                                           浪月

昨年まで、弥吉はこの一句を短冊にしたため、方々で小銭をねだり取っていたそうです。被害は一〇〇件にも及ぶといいます。外神田の榛原酒店では二朱を呉れてやり短冊は返したそうな。紀伊国屋源四郎は一朱出し、短冊を受領。中橋通りから伝馬町にかけては、南伝馬町二丁目の宇治屋万吉・むら田万右衛門が一朱ずつ出し、短冊は受け取らず。

しかしながら市中は近頃物騒、十八日からしっかりと自警するようお達しがあり、店番など大勢が巡回するようになりました。弥吉も手持ち無沙汰になり相手を物色していますと、今月二十日のこと、尾張町一丁目の虎屋に顔を出し、短冊を出して二朱ねだります。ところが御触があったせいか、呉れる気配がありません。弥吉は痺れを切らし、「これほどご協力をお願いしているのに、しわいことじゃ」などとののしっていると、巡回当番の一団が通りかかり、弥吉を大勢して袋叩きの目にあわせ、がんじからめに縛り上げたそうです。

 

第一四七話  詭弁と誤魔化しで一騒動の米入札

──慶応二(1866)年六月九日、第百三十一より

町会所(まちがいしよ)(*今日の公民館)での騒動記

先月二十五日、今摺(いまずり)白米(*籾のまま貯えておき必要に応じて精白する米)一七二〇俵、玄米七七七〇俵が町会所において入札払い下げということになりました。これは米屋を除いて生活困窮者に払い下げられるもので、今月一日より町会所で頒布するとの通達がありました。当日入札に応じるため江戸中の飯屋が集まり指値を開いてみたところ、一両につき二斗五升の価格でしたから、役人が立腹し、あまりにも安すぎるから入札し直すように、と注文をつけます。今度は飯屋たちが承知せず、「御救い(*貧困層救済のため無料またはそれに近い値段で払い下げる米)同様の米を高い値段で売りつけるとは見下げはてた役人どもだ」と、なかば投げやりになり、一両で一斗四升と札を入れ直しただちに落札しますと、飯屋連中は急遽寝返りを打ち、「一斗四升の札は間違いでございました。先ほど二斗五升と入れましたのは、このたび御救い同様に困窮人たちを御助けくださることになろうと存じます」ととりつくろい、言葉を繋いで、「ことに当節町方の落首に、

 五斗米を二つに割れば二斗五升

      下ゲて下さる米の相場を

というのが流行っています。ここは御奉行様が御救いに下げてくださることと存じ二斗五升と入れましたら、目の玉の抜けるほどの御叱りでございますから、一生懸命に一升上げまして、二斗四升と入れました。よろしくお見積りなされませ、町の相場が一斗三升五合でございますよ、五合では車力が上がりませんがね」とからかう。それやこれやで会場は大騒ぎになり、町会所なんかぶち壊してしまえッてんで、黒山の群衆が騒ぎ立て、さて、今日の入札はお預け、お預けー。

 施さず欲が深いで町会処

      儲けたひので気をバもみぐら

補注

●できるだけ高値で入れさせようとする横柄な役人と、買い叩いてボロ儲けをたくらむがめくり飯屋連との駆け引きが秀逸。藤岡屋お得意の軽妙な創作であろう。ともあれ、幕末は諸物価値上がりに加えて慢性的に米不足の年が続き、いたる所で米騒動がもちあがった。

●原文「五合でハ車力が揚りません」のくだりは、登山車力を雇っても五合目止まりの規定を洒落ていったもの。

 

第一四八話  イモリの化け物、じつは淀君の化身だと!

──慶応二(1866)年六月九日、第百三十一より

大坂金城(*秀吉が建てた堅固な城、の意味の大坂城)御堀で化け物が上がった。前身が鼠色、ウコン色の毛が交じり、身長七尺一寸、胴回り六尺九寸、口をあけた径は一尺二寸、舌の色は赤・白・黒が入り混じり、眼は三寸五分、前脚の長さ一尺八寸、後脚も同様、尾の長さ四尺八寸、全体が一丈一尺九寸ほど。城内筋禁門の内堀より出現。この怪獣は、年を古く経たイモリであるという。

 (*以下は関連した藤岡屋の書き下ろし。素直な文章なので原文のまま)

抑々摂州大坂城は、往古親鸞上人宗門弘通之霊地ニして、石山本願寺と号し、其後織田右府信長、西国押へとして城地縄張致し、其後太閤秀吉、城郭を築き大坂城と号し、これ日本隋一の名城也、其頃御愛妾淀君淫婦なれば、平生守宮(やもり)(*イモリの意味で用いたのか。イモリならふつう「井守」を当てる)を愛し給ひ、つがひを飼い置きて持て遊び給ひし処ニ、其後三〇〇有余年の星霜を経て、今こそ名数尽きて此度死し、浮ミ出たるとの評判故に、

 大坂の堀より出し化ものは

      これ淀殿の焼た守宮か

補注

●挿絵を見るかぎり、イモリというよりカワウソに似ている。なお、奥御殿の女中の中には、性の無聊を慰めるため、イモリや蛇といった両棲類を弄ったということをどこかで読んだ記憶があるが、藤岡屋もその辺を根拠にこの話を伝えたのであろう。蛇足だが、淀君は夫の朝鮮役での留守中、大野修理治長とねんごろの仲になったなど後世にいわれているように、男に飢えていたようである。

 

第一四九話  芋に勝る人糞の価値

──慶応二(1866)年八月十四日、第百三十三より

雑司が谷在の百姓、土芋を小便桶に入れ駿河台に捨てた件

八月十四日の朝、百姓某が土芋(*サトイモの一品種でヤツガシラと呼ばれるもの)を一荷、他人の畑から掘り出しました。全部で五貫文程度にはなりますが、駿河台鈴木町辻番所に置かしてもらいました。辻番は休みだろうと油断していたのが間違い、後からどこぞの親仁がやってきて、「コレはお前の芋かい」「いいや、ちがうで」「なら、なぜそんなにまごまごしている」「わしは糞を汲取りに来ただが、御屋敷の場所がわかんねえだ」

この芋は盗み掘りして駿河台辺で売り捌くつもりでした。が、親仁が後からのそのそついてくる。見つかったかと、ほったらかしにしておいた。この件で辻番がこんな貼り札を。

 土芋一荷捨て去った者がいます。心当たりの方は、早く届け出てください。

 土芋の子が沢山に困り果て

      (すて)て安堵を駿河台なり

  月見よといもが子供の寐入しを

       おこして捨てどふ駿河台

補注

●一見、何の変哲もないような話であるが、ヤツガシラは子沢山で知られた芋。この視点から、時下の貧しい百姓は子沢山の間引きに子を置き去りにしかねない、と本条を寓話として解釈したら、うがちすぎだろうか。

 

第一五〇話  民草の声よ届け、御救い米に

──慶応二(1866)年九月、第百三十四より

貧困階級の御救い米事件

目下、米の価格が予想外に高騰し、貧困階級があえいでいます。(*奉行所では)穀倉の玄米を江戸市中の精米屋に卸し、白米に精白のうえ、当分の間は一〇〇文につき二合五勺の割合で小売するように、と辻札等で告知しています。

今年の夏の臨時御救いのとき、三七万三八七人もの困窮者がへだてなく買い求められるようになるというので、お上の御仁慈はありがたいものよと感激したものですが、極貧者の場合、飢渇も底をつきすでに限界に達しているため、名主らがしっかり見極めて至急知らせるようにと、町奉行・井上信濃守様じきじきに仰せになりました。当座は市中でも騒動になることがなく、側近が「これで一安心でございますな」と申し上げると、奉行は「もってのほかのこと、窮民らはいつ直談に及ぶやも知れず、油断はならぬ」と状況を深刻に受け止めておられます。

官米保有はあるものの、当年は関西・美濃地方が去る七月の天候不順で不作、関東も二の舞にならぬとも限らず、そうなれば米価高騰は避けようがない。餓死者の出る恐れもある。そんなときに救いの手を差し伸べなくてどうする、というお考えです。たしかに米穀確保の予算は膨らんでいるが、今の内手当てしておけばまだ間に合う。これが、いざ深刻化してからでは遅すぎるのだ。西国では討伐事件でお上も莫大な出費が続き、米の手当など手が廻らぬ状態にある。現実をしっかり見極めて対策を講じよ、というのが御奉行の御教示であります。

(*以下、筆致が一変し、藤岡屋の主張に移る)  

明日にでも餓死しかねない者に、先のことなど見えやせぬ。極貧といっても上・中・下がある。このうち下の最下層は、住いの畳・建具にも欠ける。締戸もろくになく内部は丸見えだ。竃すら無い者もいる。腐りかけ臭気紛々の食物を中るもかまわず食っている。不潔で汚らしく、見るだに哀れなこと、筆舌に尽しがたい。

こうした人たちが、目立った場合だけで七万八七四一人もいると報告されている。目立った場合とは、竃に鍋・釜・を持たず、破壊したままの戸棚、屑籠・古箪笥の一つくらいはあっても中に入れる品物がない。食事は薩摩芋の類、かゆの中にかて(*増量のために入れる芋・菜っ葉類)を入れるなどして、それも半量で、二食だ。もう想像を絶する惨めさ、涙がこぼれるのを隠して見学しなければならない。この人たちを引除き(*幕政の一環で、環境浄化を趣旨とした強制立退き)させるなど、胸に針を突き立てられる思いがする。御役目がらそれをなさねばならぬ役人の辛さも察して余りある。屋根の漏れは屋根から見ては知ることができない下から仰向かなければわからない、が道理である。上に立つ人が貧困の暮らし向きを知ることができないのはもっとものことだが、少しは察しなければなるまい。

お救い米も凶作年に備え町々に備蓄して置くものであるから、(*最下層にも恵みが分たれるよう)無料が大原則である。同じ困窮者でも上の部類は、畳・建具・鍋釜・造作もかなり所有しているが、この人たちとて米価が一〇〇文につき一合不足(*実質的に高騰)となれば、三度に二度はかゆ・かてを食い、その日暮らしなことに変わりはないのである。

こうした上位貧困民が二九万一六〇〇余人もいる。彼らの多くは常識をもたず弁もたたないから、とかく差別化施策と思うだろう。有料配給する前から難癖をつけては騒ぎ立てるやからがいると聞き及んでいる。

奉行の方針に騒ぎ立てるような事態を招くのは、通達の不徹底が原因だからだ。反抗するような者に対しては、今後とも、方針を周知徹底させなくてはならない。なかなかそううまくはいかない、など早まって米を売り急ぎしないよう、穏便かつ知恵ある処置をとるべきである。

補注

●第百三十四冒頭の一文で、成り行きまかせに書きつづったらしく、候文が途中で論文調に一変している。しかし、「窮民売米一件」と題する主題に沿って、論旨もしっかりしていて無難にまとめてある。

●『東京の下層社会』(紀田順一郎著、筑摩書房・2000年刊)によると、明治・大正の近代社会になっても、東京の最下層階級では自家用の鍋釜すら持てず、細民窟の同居人同士が順番を決め、煮炊きに回し使いした