第一五一話  末世をあおる上方での異変・事件

──慶応二(1866)年、第百三十四より

上方見聞の話

一 五月二十四日午後二時ころ、東海道二川宿においておびただしい数の星が飛ぶのが見え、まさに蛍が飛び交うよう。みな東方へと消え去った。

一 六月九日、三条通りで会津藩士一人が通行していると、薩摩藩の三人連れにわざと突き当たられ、口論になった。双方抜き合いとなり、薩摩武士二名が討たれる。残る一人は逃げ出し、やがて密かに戻るや、会津武士の不意をついて切りつけ負傷させたが、会津はひるまずに刀を交えその薩摩藩士に重傷を負わせた。しかし彼はその場で切腹。重傷の薩摩藩士は(*誰を?)かついで屋敷にたどり着く。四人とも名前はわからず。

一 同月二十三日より三日間、夜十時ころになると、大坂上空を大きな光る物が西の方へと飛び去った。

一 八月六日夜の大嵐のとき、海上にいくつも火の燃えるのが目撃された。(*なお怪現象等が何項か続くが省略)

 

第一五二話  窮民のウップンは密告(チクリ)で晴らす

──慶応二(1866)年九月、第百三十四より

〔原文のまま転載〕

九月十七日、張札一件

いまどにするがや三左衛門といふ米やあり、せんねんより米にてたいそふばゐとくをとり、ない〳〵しちを取、こおりのかねをかし、ことにいつきじぬしにてありながら、おのれのごうよくニて、此あいだのほどこしニも一文もださず、米を内の物置へつミおき、すこしもなきやうにみせるふらちもの、せけんにるいなし

右前書之通、浅草橋場町、浄土宗法源寺表門ニ、今朝張有之候間、此段申上候、以上/寅九月十七日

右は、今般二合五勺売不行届より之次第ニ而、其夜より右法源寺最寄之者共屯集罷在候由

 

第一五三話  世情不安を反映し諸物価が高騰

──慶応三(1867)年二月、第百三十九より

諸品が値上げ

この春になってからというもの、いろいろなものが高値を呼んでいます。お米は一〇〇文で一合一勺、酒が一合二〇〇文、油が一合一八三文。ほかに燃料の薪が高いから湯銭が三二文、そば屋も段々値上げしてとうとう五〇文に。やりきれずに一首、

十六が三十二になり片付ず

      五〇に成てまだこもり也

御蔵米(*寺社・武家等への知行米・扶持米)についても名目価格は一〇〇俵につき八〇両となってはいますが、四分の一が米の現物支給、四分の三が現金支給でしかも銭貨のお渡しです。これは一両に対し七貫五〇〇文が通用の建前なのに実質相場は六貫九〇〇文であり、一両につき六〇〇文ずつ損をしているわけ。しかも市中の米屋であえて高い米を買って食いつなぐとなると、実質所得の目減りが大きく、御家人(*幕臣)の皆様も御台所は火の車でございましょう。

二月六日、御蔵玉落(*御蔵米の相場変動に伴う実質価格の下落)は四一〇両に達しました。

以上、古来希に見る諸物価高騰の模様です。

補注

●史料や時代小説などを総括してみると、慶応年代の扶持米支給に伴う実勢価格は、ほぼ半減しているようである。つまり五〇石取ならば実質二五石にすぎず、下級武士ほど遣り繰りが大変であった。

●藤岡屋が創ったと思えるこの落首は秀逸だ。何年か前まで「二八そば」つまり一六文のそばを題材に、修辞学でいう逓増法をうまく表現し、「五〇(文・歳)になってもまだこもり(小盛りと子守を掛言葉・縁語同士で洒落のめし)とは」と諧謔している。

 

第一五四話  天狗が行き倒れになったと評判

──慶応三(1867)年四月十九日、第百四十一より

武州豊島郡代々木村、百姓で「字呪金」こと 金五郎

このたび代々木村で天狗の行き倒れがあり、珍しいことなので噂を聞きつけた見物人が大勢集まりました。ふと興味を持ち、近郷の御仁にどんな様子かを尋ねますと、二月上旬ころ、井伊掃部守様の家臣が国許から出府のとき、持参した品を信心深いものに譲りたいと思っていました。(*説明不足でこの間のいきさつが不明)

ときに金五郎の父はかつて天狗にさらわれたことがあり、里に戻ると、道了権現(*室町時代の曹洞宗の怪僧、道了薩埵(どうりようさつた)。天狗に化身したという俗信がある)の再来であると喧伝し、呪術など行い、倅の金五郎にもそれを伝授したそうです。金五郎自身、天狗の身代わりと唱え、注連縄など張り巡らし、信心する者に拝ませていました。

二月下旬から三月節句ころまでおよそ一〇日間、近在から見物人が引きもきらず押しかけ、ある日青山辺の侍も見物に来て、じっくりと観察したところ、じつは大蝙蝠の干乾びたようなもの(*いわゆるカラス天狗を連想させる妖怪)だそうです。実体は蝙蝠にすぎないのだから大騒ぎしないように、と参詣人らに説明し帰らせましたと。

以後、見物人はばったり途絶えたとのことです。

 蝙蝠の鳥なき里に住居して

      天狗になつて人を取けり

 

第一五五話  御茶屋に骸骨入り壺の忘れ物

──慶応三(1867)年五月二十二日、第百四十二より

骸骨壺入りの拾得物御届け

上野北大門町・定吉地借、上野山下の料理茶屋・鴈鍋 伊勢屋万吉

二十一日朝七時ころ、万吉が店の前を掃除しようとしますと、左側方の露地際に差渡し四寸・長さ一尺二寸くらいの今戸焼の壺が置いてあるのを見つけ、役人立会いのもとにこの壺を開けてみました。中には骸骨が入っており、驚いて近所中訊ねましたが、心当たりのある者はいません。

万吉は骸骨壺を持って月当番・井上信濃守様の御番所に届け出ました。なぜこんなものが捨てられたままなのかわかりませんが、そこはさすがに名代の鴈鍋店ゆえ、粗末に扱ってはならないと気を配っているそうでございます。

 こういう品を他人の家の前に置き去るのは、物が物だけに、調査の手が伸びますから、みなさん気をつけてください。

五月二十二日記

世間話によると、これは多分、火葬場帰りの人が鴈鍋に立ち寄ったとき、あまりに混みあっていて包みを中に持ち込むのを遠慮し、露地口に隠し置いたところ、帰りは酩酊してしまい持ち帰るのを忘れたのだろう、と。ですから、火葬場で探せば身元はわかりましょう。

 おまへ死でも寺へハやらぬ

      焼て粉ニして酒で呑でしまつ

 一升の呑納メかは知らねども

      死だ跡まで居残りをする

 

第一五六話  江戸南郊をさまよう歩兵団

──慶応三(1867)年十月、第百四十六より

十月三日早朝五時ころ、品川宿に歩兵団二五〇人ばかりがたどり着きました。うち主だった者四、五人は帯刀し一団を統率。先遣二人が問屋場に向かい、「これから歩兵の一行が通過しますが、けっして乱暴はさせません。ご迷惑でしょうが、池上本門寺まで馬五頭に当座費用を少々貸していただきたい」と頼みました。よんどころなく馬五頭を差し出すと、これに米八俵・薩摩芋五俵・味噌一樽をくくり付け、本門寺に到着。ここで一行の止宿を申し入れましたが、「当寺は恐れ多くも御霊屋(みたまや)ですでな。御浪士方をお泊めするわけにはまいりません」と、役僧らは首を縦に振りません。言葉をいで、「とは申せ、あなた方も大勢路頭に迷うとなれば難儀なことでしょう。境内にお泊めするわけにはきませんが、門前ならよろしい。一休みしてから、早々に立ち去っていただきたいと言い渡し、門前にある空家利用させました。

寺では炊出しなど面倒を見て、歩兵団は四日間逗留し、八日の朝当所を引き払って、ここから三〇町先の渡しを越え、平間村の通称「おんぢい酒屋」に着きました。指導者格の八人が先触れにつき、「これから流浪の兵士が大勢やってきます。面倒を見ていただけまいか」と頼み込みます。親仁、「御浪人は泊めてはならない、ときびしいお触れになってはいますがの、大勢で難儀されている様子、一宿一飯ならお世話いたしましょう」と応じてくれました。ところが予想以上の大人数が押しかけ手に負えず、店は混乱状態に陥ります。そこで亭主、有事の合図である早鐘を撞き知らせます。

なにしろ近郷合わせておよそ二万石の御領地、農兵ら約五〇〇人が鉄砲を携えて押しかけてきました。ほかにも川崎近郷から農兵五〇〇人ほどが駆けつけ、一〇〇〇人の総勢が酒屋の前後左右を十重二十重に取り巻き、もし歩兵団が乱暴を働いたら発砲しようと待ち構えます。

つつがなく迎えた翌朝、店では朝飯を食わせ昼食の弁当まで作って持たせようと用意したのに、歩兵団は多人数の鉄砲陣に恐れをなし、早々に立ち去った跡でした。農兵達は後を追って合流、目黒街道へ出て白金台町まで送り出し、農兵はここで別れて帰途につきました。

歩兵の一行は九日に江戸に着いたそうです。(*このあと落首等が続くが、省略)

補注

●どこの歩兵団なのか具体的に記述がないが、薩長討幕軍の兵士らであること間違いあるまい。長旅で疲弊しきった惨めな残兵姿が、寺僧や酒屋親仁の同情を買ったのだろう。

●関連別項の記述によると、「おんぢい酒屋」は一二〇〇石の物持ち、とある。出動した農民らへの手当てを含め、この一件で二〇〇両もの物入りだったという。

 

第一五七話  時局をにらみすえた藤岡屋?の所感

──慶応三(1867)年、第百四十六より

〔日記の本領を発揮し藤岡屋自らの所感を記述したと推測できる一文なので、原文のまま転載する。補注も参照〕

復古勤王

 薩州武備充実、富国強兵、国論一定、皇国救危の柱石也、近来長防之為尽力ナシ、是私ヲ捨テ長ヲ助クルモ、天下ノ危急ヲ憂フルガ故也、既ニ幕会ノ両賊、皇城ヲ東国ニ移シ奉リ、徳川ノ基業ヲ堅タメントノ奸謀有之ヲ、当侯疾ク是ヲ知リ、昼夜禁門ヲ守、終ニ彼ノ逆謀ヲ拒ム、余奸賊今ニ至急意ヲ空フシテ朝廷無事ナル事ヲ皆此藩ノ力ナリ、アヽ感ナルカナ。

一 長州、皇国憂フル事一身ニ在ルガ如シ、癸亥以来賊ノ為ニ、朝敵寛罪ヲ得、自国ニ蟄スルト雖、義気奮然トシテ不撓、天下ニ独立シテ夷幕ノ賊ヲ誅セントシテ、弥君臣ノ大義ヲ国家ニ知シム、皇国の恢復此藩ヲシテ巨魁タラシメバ成功ノ近ニ在。

一 佐土原・大村・平戸・津和野ノ小藩ト雖、大義名分判然ト是ヲ知、薩長二藩ト共ニ恢復ヲ大藩ノ徒ニ恥ルヲ知ラシム。

佐幕勤王

一 越前頻リニ勤王ト称シ、人心ヲ求ム、然レドモ内心不可量、案ズルニ幕府ヲ佐ケ、国政ノ大権ヲ握ラントスル意アランヤ。

一 尾州藩論三ツニ別レ、一日長防ト和解シテ皇国一致セント、二日是ト非小論、幕命ヲ奉ズト、三日苟安待変ニ如シト。

一 因州・備前・肥後・阿州・宇和島・川越、幕府ヲシテ勤王タラシメ、皇国ノ紛乱ヲ生ズル事ナク、富国強兵ノ上、皇国ヲシテ皇国ノ威ヲ海内ニ輝サントノ心力、唯惜ラクハ賊幕ヲ助クル心如何。

一 筑前・対州、元来勤王ノ心ナキニシモアラズ、今賊臣意ヲ恣ニシテ、侯ヲ欺キ正義ノ臣ヲ斃シテ国内奸論一定ス、如斯ニテハ一国廃滅基ナルベシ、主将ノ心如何。

待変蚕食

一 肥前・土集量販、元ヨり尊王ノココロアリシカドモ、第一主トスル所、富国強兵□□(*二文字不明)シテ国ヲ広大ニシテ、其上天下ニ志ヲ立ントス、只国家ノ瓦解ヲ待、忠臣ト言ベシヤ、行ヲ見テケツスベシ。

一 津・久留米・柳川、此三藩モ謀ル所、肥・土ニ近シ、然共着眼少ク異ナランカ、則天下ノ大難ニ当テ、力ヲ不労、待変ハ忠臣ノ道如何。

伏幕

一 水藩元来天下ニ先立テ、勤王攘夷ヲ鳴ス、 然共主トスルトコロ、佐幕勤王ニシテ、真ノ復古ニアラズ、朝廷ヨリ深ク御祐顧再三雖有、勅命一廉モ不奉、空名ノ行ト言ベシ、近来ニ至テハ猶失大義、会津ト合シ、幕威弘張ル、何ヲ以勤王タランヤ。

一 会津・桑名・高松・浜田・雲州・津山・彦根・姫路・小浜・庄内・高田・忍・小倉・中津・松前・白川、是等ノ藩ハ一心佐幕ニシテ、君臣ノ不知大道故、朝廷ヲ蔑如スル事甚シ、天朝ノ藩屏タルヲ不弁、徳川ノ臣タラン事ヲ思フ、アヽ愚ナルカナ、ア々々。

依勢進退

一 加賀・仙台・芸州・佐竹・米沢・盛岡・備前等、右藩何レモ上ニ至テ、天朝ノ有セラルヽ不知ニハ非ザレドモ、至愚両端ニ存スルノ癖アリ、何程論スト雖モ、国家ノ柱石タル事無覚束、且外番ヲ恐レテ更ニ不通形勢、然ルニ好名ノ意アルハ実ニ可笑事ナリ、イカニモ玩愚ノ至リナラズヤ、イカニモ惰弱ノ極メナラズヤ、癸丑以来国事ニ死スル者一人モナシ、就中加仙両藩天下第一二ノ大国ヲ以、蒙願恩山海モ不可比、斯ル国家ノ大事ニ臨ミテハ、寸兵天地モナキ草庵スラ、天頂ノ御為ニハ死ヲ以国恩ヲ報ゼントス、况ヤ大国ノ主トシテ不知国恩ヲ、禽獣ニヒトシ、何ヲ以テ他藩ニ面ヲ合センヤ、看ヨ一瞬ノ機械ヲ得バ可開。/卯ノ年十月十日出

補注

●第百四十六巻末に所収の一条。末尾の「卯ノ十月十日出」をどう解釈したらいいのだろう。他人が告知に掲したものなのか、それとも藤岡屋が自ら巻の締めくくりに所感をしたのか。荻生としては後者であろうと思う。彼が筆写したものならば、出所を示すであろう。いずれにせよ幕末も風雲急を告げつつある時期の、インテリ文人を代表する論説と見てよかろう。

 

第一五八話  民草は踊り狂う「よいじゃないか」

──慶応三(1867)年十二月十四日、第百四十九より

御札天降り一件

東海道の沼津宿は先ごろから例の御札が降下しています。どの家も喜んでいるというのに、この宿の小間物屋・豊吉方にはまったく降ってきません。夫婦とも毎日このことを気にかけ、夫は「カカアの性格が良くないからだ」といい、妻は「なによ、亭主の心がけが悪いからよ」と譲らず、喧嘩ばかりしています。

そうこうするうち十二月十一日の朝、豊吉が雨戸を開きますと一陣の風が吹き込み、なにやら飛び込んできた。手に取って見ますと、これが和合神の御札ではありませんか。夫婦して歓喜し、その日のうちに経師屋に頼んで表具替えをしてもらいました。

翌十二日、近所親類を招いて飲めや唄えの大宴会となる。豊吉自身もたいそう酔って、わが娘の緋縮緬の襦袢を裸の身にまとい、絞りはなしのしごきを締め、足袋はだしで踊りだし、横丁から本通りの方へと踊りながら飛び出しました。その折もおり、「松平下総守様御通り、下に、下に」との掛け声のする中に飛び込んでしまった。追いかけてきた身内の者たちはびっくりして、引き留めようとして襦袢の袖をつかんだときは、もう殿様の御駕籠の真ン前。しかも引っ張られて袖が千切れ、弾みで豊吉のからだは駕籠によろよろと倒れかかる。それを駕籠脇に詰めた護衛士が抱え込もうとしたが時すでに遅く、駕籠へどうッと当ってしまいました。見ていた御供頭が二つ三つ殴りつけますと、豊吉ハッと夢から覚めたように、恐縮して平伏です。

御供の武士たちは烈火のごとく怒り、「無礼者、番小屋まで引っ立てい」とわめく。と、殿様は駕籠の中から「何者じゃ」と御尋ね。引き留めた者が、「小間物屋の豊吉と申す者にございます。なんでも御札の降下祝いに大酔し、かくなる御無礼に及んだとのことにござりまする」殿様、重ねて御尋ねになる、「途中、何やら大声で歌っているのが聞こえたが、何と申す歌か」御供、「上方で大流行の歌でございまして、」と小声になり、「恐れ入ります、

 おそゝに紙貼れ、やれたら又貼れ、よいじゃないかよいじゃないか

 入れりや其まゝ、よいじゃないかよいじゃないか

と申す歌にございます」と答えます。聞いて殿様、「苦しゅうない、高い声で申してみよ」と御注文。やむなく大きな声で申し上げると、殿様改めて「オソソとは何のことぞ」との御尋ね。共侍二人、顔を赤らめ恐縮し言いよどんでいると、「早く申し上げなされ」と、御家来衆が面白がってせきたてる。よんどころなく、「婦人の前をさす言葉にござります」すると、上役の一人が、「御前の御面前で、無礼な」と叱りつける。殿様、さらにお尋ねあるに、「御札とは何の札じゃ」家来、「ハッ。和合神の札でございます」下総守様続けて御尋ね、「和合神の札ならば、のう、唄ってみたくもなろうぞ」と、御一笑に付された御言葉。「その者、許してつかわせ」この御意によって豊吉、平伏して御礼申し上げました。

 ここで殿様、御供頭に「先刻余の駕籠に倒れ掛かったおり、留めた弾みに襦袢の袖が切れてしまったの。本人さぞ心面白うはなかろう。直してつかわせ」と仰せになります。おみす番(*衣装係か)の男、反物千疋の目録を下されました。想像もしなかった幸運に豊吉深く御礼申し上げている間に、殿様は御出立になりました、とさ。

 まったく、珍しいこともあるものでございますな。こんな世の中、あの唄でも唄って豊年踊りを楽しみながら、上方まで流行らせましょうぞ。

  降込し仕合夫婦和合神

       内もおさまり豊にて吉 

  其夜さはおそゝヘ紙も張らずして 

       重り合て能じやなひかへ〳〵

 御威光に免じ、礼状は略させていただきます。

一二月十四日 松崎旦那様/沼津宿・旅籠屋 与兵衛 

補注

●慶応三年から翌年春にかけ、東海地方を中心に民衆の乱舞狂躁行動が広がった。最初は名古屋辺で、天から伊勢神宮の御符が降ってくるという噂が流れた。それを拾うと吉事が起るというので、神符を示しながら踊り狂う。すると周りの者も次つぎとつられて踊に加わり、ときには万余の群集が神がかりにあつたように路上を練り歩いたと。たいていが異様な格好でエエジャナイカの唱え詞を合唱。あるときは詞に女陰の方言名が入り、それを女子供まで唱和したという。この状況は一種の集団ヒステリーであろう。勤王か佐幕かで殺し合いが日常化している世情のもと、人心の不安が昂じて巨大なストレスを生み、些細なきっかけで全国規模で一挙に爆発したようだ。

 

第一五九話  「芋侍」と呼ばれるのもあとわずかですよ

──慶応四(1868)年正月、第百五十より

〔本条は間違いなく藤岡屋の書き下ろしである。敬意を表し、原文のまま転載する〕

薩州落し咄し/古本翁著述

将軍家征夷御辞職に付、薩州京都へ乗込、禁裏守護と称し大内を(ほしいまま)致し、生得女好の国風なれバ、家来ども御所ニ於て官女を捕へ、奸婬・強婬を犯し侯悪逆ハ、いにしへ三国の乱ニ大帥董卓が暴悪ニも増りし故、主上も宮中ニ御安座被遊難く、尾張大納言ニ共奉為致、比叡山へ迂幸まし〳〵候由街の風聞故、関東ニ而も是を被召、軍職は薩賊を追討すべしと、早速人数を選ミ給ふ、斯て大広間ヘ出御まし〳〵、諸侯之面々列を正して、仰せ如何と相待処ニ、此度の先手ハ市中番太郎へ可申付との上意なれバ、列座の面々肝を潰し、其為の歩兵・奇兵を差置、番太郎とは如何の訳合ニ御座候哉と相尋られけれバ、抑奥州征罰源頼義、前九年の戦ひニ不覚を取しが、その子八幡太郎義家、後三年の戦ひニ勝利得て、奥羽を平げ治メたり、八幡太郎、番太郎とて、義家ニも劣らぬ剛者也、此者どもを先手ニ見用る時ハ勝利疑ひなしと決定致しけれバ、正月十四日、町々木戸番人、抱番人惣体ニ而人数千七百十五人、町兵として先手の仰を蒙りけり

斯而薩州より入置候間者、この評定を承り、飛が如くに上京し、右の趣三郎へ知らせければ、三郎胆を潰し、然バ早速京都を引払、帰国致ベしと申けれバ、家来皆々申けるハ、平常ものニ恐れぬ剛気の薩蝋公がなぜに其様ニ汗が流れてとろけ給ふぞといへバ、番太郎を先手として向ふ時ハ中々京都ニ一日も持こたへ難し、平常薩摩を切こなす事芥の如し、毎日〳〵切たり、焼たり、ほうろくむしニ致し、或ハ塩を付て丸焼ニされて、どふして是が叶ふものか、

 手討して振舞いますときそばなら

      出しに遣わんさつま土佐ぶし

 

第一六〇話  大久保利通、新生日本への建白書

──慶応四(1868)年三月、第百五十二より

〔史料に有用と思えるので、原文のまま転載する〕

薩藩・大久保市蔵建白

今日の如き大変態ハ開闢已来未だ曾て有らざる処なり、然ルニ尋常定格を以、豈是ニ応ずベけんや、今一戦官軍勝利と成、巨賊東走す雖、巣元鎮定ニ至らず、各国交際永続之法未だ立ず、列藩離叛し、方向定らず、人□□(*二字分不明)百年紛々として復古の鴻業未だ其半ニ至らず、纔ニ其路を開きたる者と謂ふべし、然レバ調停に於而、一時之永久治安の策をなさざる時は、則北条の後ニ足利を生じ、前姦去りて後奸来もの、覆轍を踏ぜられ候も必然なるべし、

依之深く皇国を注目し、触視する処の形跡ニ拘らず、広く宇大の大勢を洞察し玉ひ、数百年来一□□□(*数字分不明)たる因循の弊を一新し、国内同心合体、一天の主と申ものは斯道頼母敷ものと、上下一環天下万民感動泣涕致候程の御実行を挙行されん事、今日急務の最急なるべし、

是迄の通り、主上と申奉候ものは玉簾の内ニ在し〳〵、人間ニ替らせ玉ふ様ニ、僅ニ限りある公卿方之外、拝し奉る事も出来ざる様成御有様ニ而は、民の父母たる天賦の御職掌ニハ□(*一字不明)戻したる訳なれば、此御根本道理適当し、御職掌定まり、初めて内国事務の一法起るべし、

右の根本を推究して、大変革せらるべきは、遷都の典を挙らるゝに在べし、何となれば弊習と云へるハ理ニ非ずして勢ニ在り、勢は触視する処の形跡に帰すべし、今其形跡上之一二を論ぜんニ、主上の在す処は雲上と言ひ、公卿方を雲上人と唱ひ、竜眼は拝し難き物ニ譬へ、玉体ハ寸地も踏玉ハざるものと、余りニ推尊し奉りて、自ら分外ニ尊大高きなる物の様に思召され、終上下□□(二字分不明)給して其形今日の弊習となりし物なり、敬上愛下は人倫の大綱ニして論なき事ながら、誤れバ君道を失ハしめ、臣道を失ハしむるの害在べし、仁徳帝の時を天下万世称讃し奉るハ外ならず、即今国々ニ於ても帝王従者一二を卒して国中を歩行き、万民を撫育するは、実に君道を行ふ者と云べし、

然バ更始一新、復古の今日ニ当り本朝の□□(二字分不明)らせ、外国美政を□(*不明)するの大英断を以、挙行わせ玉ふべきは遷都ニ在るべし、是を一新の機会として、易簡軽便を本として数種の大弊を抜き、民の父母たる天職の君道を履行せられ、命令一たび下りて天下慄動する処の大基礎を立推及し玉ふニあれバ、皇威を海外ニ輝し万国に御対立あらせられ候事不可叶、

一 遷都の地は浪華ニ如く可からず、暫く行在を定められ、治安之体を一途に居へ、大ニ成す事有べし、外国交際之道、富国強兵之術攻守の大権を取る事、陸海軍を起す事に於而地形□□(*二字分不明)当なるべし、尚其向々の論あるべけれバ贅せず、

 右、国内事勢の大根本ニして、今日寸刻も怠るべからざるの急務と奉存候、此義行はれて内政之軸立、基本始て挙行ふべし、若し眼前些少の故障を懸念し、他処ニ移り甲ハバ、行ハるべき機を失ひし皇国の大事終ニ去ルべし、仰ぎ願わくハ大活眼を以、一新して急卒御旅行あらん事を、千祈万祷し奉り候、死罪(*所感の結辞。死罪に値するような勝手を書きました、の謙譲を表す。「頓首」に相当)

辰の三月 大久保市蔵

補注

●大久保利通(1830~1878)は薩摩藩士から身を起こし、公武合体を推進し、明治政権の重鎮になった人物である。

●藤岡屋は当時、このような重要文書を、たとえ写しであっても、如何にして手に入れたのか。彼の人脈の厚さ、情報網の多様さに改めて感心させられる。

●『藤岡屋日記』はこのあと一条を残し巻を閉じている。そして慶応四年九月八日をもって、徳川幕府三〇〇年の幕も閉じるのである。