第一話  盗賊、鬼坊主清吉捕らわる

──文化二(1805)年六月、第一より

鬼坊主清吉という盗賊、江戸表から諸国在在までお尋ねございましたが、なかなかに御用とはならず御役人ももてあましておりましたところ、今年になって勢州は津藩領内でやっと捕らえられました。辻堂に隠れていて急に腹痛が起き、弱りはてていたときつかまったそうです。

当人は、「おれの敵は腹の虫だ。腹さえ痛まなければつかまるようなドジは踏まなかった」といっておるそうで。清吉は総身、腕にも彫物を入れ、それを人相書よろしく手配されたため逮捕され、東海道を「鬼坊主清吉」の名入り高札を掲げた唐丸籠(*罪人護送用の竹編み籠)に乗せられて、(*四月二十六日に)江戸表へと送られました。

この一件はたちまち噂になり、道中はもちろんのこと、江戸に着いてからも見物衆が群れ集まったとのこと

清吉は元をただせば非人の出です。取調べのうえ仲間三人共ども引き廻しのあと獄門(*斬首、さらし首の刑)にかけられました。仲間の一人は相生町に住む左官の弟子で、奉公先の家の前を引き廻されたときにも見物人が集まったそうです。

鬼坊主清吉は六月二十九日の引き廻しのさい辞世を詠み、

 武蔵野にはびこる程の鬼あざみ

けふの暑さに枝葉しほるゝ

墓は新鳥越二丁目裏通り千人塚円常寺にあります。(*戒名と墓誌は)

 得実信士 鬼坊主清吉墓

補注

●鬼坊主清吉は仲間と三人で強盗・追剥などを犯した凶賊で、江戸市中を巧みに出没しては犯行を重ね、別に鬼薊清吉の異名もとどろかせた。ほかの仲間とは無宿・左官の粂こと入墨粂次郎、ならびに無宿・上吉こと入墨吉五郎の両名である。

●他の文献『街談文々集成』などにも同様の記述が見られる。彼が死に際に残した辞世は広く知られ、そのため後の世では「鬼薊清吉」のほうが通りがよい。

 

第二話  入牢の飯盛り女は歌詠みの元お姫様

──文化三(1806)年正月~、第一より

御勘定奉行・石川左近将監御担当

御代官・大貫治右衛門支配所/武州荏原郡品川宿/元旅籠屋安右衛門抱え、飯盛り女・無宿 こと 二十五歳

正月十五日に入牢、同二十日出牢。浅草新寺町門前、家主・久蔵にお預けとなり、二月八日に牢へ戻される。

右のこと、じつは日野大納言資枝卿の息女である。母は常世御前。ことは実名を右衛門姫といい、十七歳の時よりこの年まで九年間、歌修行のために諸国遍歴をしたとのことである。(*彼女が詠んだ歌は)

   品川に飯売女と成し時火宅のおもひをなして

 東路の火宅のうちもいつしかに

やがてぞ咲ぬ花ともろとも

   獄中の友ももろこしと思わば、見ぬ人のこゝろなることをおもひて

 もろこしの友も此世に跡たれて

      都の雲をふじの高根に

 君が代を白玉椿八千代まで

      かわらぬ色の末ぞ春けき

   山上遊魚

立雲を波とやおもへゆミや魚

     花とまがゑて友も呼ぬる

  波上深雪

  波立て深山をうづむ白妙の

       はたおり虫のいさごたゝへて

〔以下は候文でないため、訳述を「である」調に変えてある〕

 ことは密かに京都へ帰されたという。彼女を入牢させたのは石川左近将監の不手際であったとして、彼は御勘定奉行命により西丸御留守居へ御役替えになった。

 右衛門姫については、身持ち良からず落ちぶれたのだとか、かどわかされて関東へ流れ着いたのだとか、風説まちまちで真偽は定かでない。

 この一件、翌文化四年四月に松平兵庫頭御役宅において落着しているので、御仕置書に記録のうえ奉行所より提出されている。

補注

●日野大納言(すけ)()(1737~1801)は、従一位の高位公家で、宮廷歌人としても名高い。

●いかなる事情があったにせよ、深窓の姫の零落物語は、人情にもろい江戸っ子の興味と涙をさそう格好の読み物で、かわら板にもよく取り上げられた。

 

第三話  八歳の小娘が男児を出産

──文化一〇(1813)年正月、第三より

酉年の大小

  小娘が(イツ)二か()を酉の年

       八ツで子をなす藤代の四九

    

  小六(コム)すめが(ヤツ)で赤()(ウミ)二四は

       (キハメ)(イエ)(ウルハ)(シモ)(フサ)

補注

●下総の藤代宿(現・茨城県)で八歳の少女が子を産み落とし、近隣はもとより江戸中の評判になった。出所はかわら板だから、与太記事の可能性が高い。次の第四話とも関連する。

●「八つで出三(しゆつさん)()」だからか、数入りの洒落のめしが目立つ。ほかにもかなりの落首や狂句が詠まれたようで、江戸っ子の諧謔(おちよくり)精神を満足させたことだろう。

 

第四話  黒蝶の崇り、恐るべし

──文化十(1813)年六月、第三より

近ごろの世の中、種々(いろいろ)と奇怪な話が絶えません。

去年は藤代宿で八歳の母親が男児を生んで(*第四話)すぐに亡くなり、天に召されて星となった。人の形から位牌の形に、そして「幽霊星」になったのです。この星を見た者はたちどころに死にます。呪いを解くには餅米八合をボタ餅に作り、屋根に供えてから、残りを食べること。こうすると災難にあうことがない、というので江戸中の餅米が売り切れになってしまった、なんてバカバカしい話さえ生まれています。

  当時、ある者が絵図を売り歩きました。ここに描いたような黒蝶の図です。ところが飛ぶところを見た者はだれもおらず、和漢の書をひっはりだしては、ああでもない、こうでもないと喧伝しています。

短歌に、

 天が下の神の御末の人なれば

      行合星のたゝりあるまじ

 千早振神のみすえの人なれば

      行合星のたゝりあるまじ

この黒蝶は夜の十時から夜中二時に北の方角に出るそうで、この絵を見て、さらに黒蝶を見る人に崇りはない。歌は貼り付けておいてよろしいそうです。

補注

●似たような話は全国各地にたくさんあることを民俗資料が教えてくれる。それにつけても黒蝶の下手な絵を売りつけるとは、呪詛に弱い当時の人たちをたぶらかす、あくどい商売をしたものだ。

 

第五話  ホラも飲ませる千住の大酒飲会

──文化一二(1815)年十月二十一日、第三より

千住一丁目の中屋六右衛門宅で還暦祝いの賀酒飲みくらべが催された。

酒三升五合飲む 新吉原仲の町 伊勢屋言慶 六十二歳/同四升余り 馬喰町 大坂屋長兵衛四十歳/同四升五合 千住掃部宿 市兵衛 一升五合入り万寿無量の杯に三杯飲む/同九升一合 千住宿 松勘 五合入りの厳島、七合入りの鎌倉、九合入りの江ノ島、一升五合入りの万寿無量、二升五合入りの緑毛の亀、三升入りの丹頂鶴、すべてを飲む/同七升五合 下野小山宿 佐兵衛/小杯にて数飲み、その後万寿無量で飲む。 吉原仲の町 大野屋茂兵衛/同三升 御蔵前森田町出入 左官正太/万寿で飲む 千住掃部宿 石屋市兵衛/水三升・醤油一升・酢一升・酒一升、大門長次郎 合わせて四升を三味線で拍子をとりながら飲む(*中略)

この席には亀田鵬斎・谷写山などなどが招かれ見物した。これを「新酒戦水鳥記」という。大田蜀山人はこのことを聞き狂歌を詠んだ。詞書(ことばがき)ともども紹介すると、

   地黄坊樽次と池上某と酒の戦ひせしは慶安二年のことニなん、今年千寿の和たり、中六ぬし六十の賀に酒戦を催せしときゝて、

 よろこびのやすきといへる年の名を

      本卦がゑりの酒にこそくめ(*後略)

補注

●史料等で「千住の酒合戦」と喧伝されている催しである。蜀山人自ら著作『一話一言』中で実際に見聞した記事「後水鳥記」を書いている。ほかにも平秩東作らの見聞記がいくつもあり、さらにかわら板等でも伝えられている。しかし、そのいずれもが内容に食い違いが見える。たとえば、蜀山人が出席したかどうかはさておいても、肝心の飲酒成績が、出典によりかなり異なっている。また、主催者・中屋六右衛門は六十賀(還暦)ではなく七十賀(古希)の時、とする異説もあるなど、史料による内容の食い違いが目立つ。したがって、研究者間でこの酒飲会記録に対する信頼性はきわめて低い。

●『酒大学林』(荻生待也編著・おぎぶん工房刊)に関連事項を述べてある。

 

第六話  侍、情婦を射殺し無体な言い訳

──文化元(1804)年七月十四日、第四よ

青山同心町借地の植木屋娘、名はとき、三味線を弾き近所では芸達者ともてはやされていた。植木屋の親父は欲が深く、人々をゆすったりしては金銀をむさぼり貯めていたそうな。

 近くに松平左京太夫の家臣・某がいて一五〇石取り、久しくときを愛していた。が、やがて藩主の知るところとなり、国詰めを申し付けられたので、女に共に国へ帰ろうとしきりに説得する。しかしときは、田舎はなにかと不便だから、と拒んで応じない。

 某は幼いころから鉄砲撃ちが上手で、藩中にも砲術の弟子が多い。七歳にして大筒(*大砲)を操り、評判になったほどだ。彼は弾と石を込めた鉄砲でときを撃ったところ、石だけ筒内にとどまり弾は腹中に止まってしまった。女は苦しみながら死んだという。

 某はただちに捕吏の手で召し取られ、取調べを受けたさい、「なぜ鉄砲を使ったのか」という問いに、「あの女は畜生同様の者ゆえ、刀を用いるのは武士の穢れ。よって鉄砲を使って撃った」

補注

●俗にいう「可愛さ余って憎さ百倍」が動機の犯行であろう。それにしても名射撃手が実弾に石を交えて撃ったとは、なんたる不手際か。話を面白くするための付会ではなかろうか。

 

第七話  蜀山人、天井裏の鼠を狂歌に詠む

──文政二(1819)年四月、第四より

松平大膳太夫 大江斉照

 この殿様、江戸に到着し参勤の御挨拶もすまないのに、居間で鼠に小便をひっかけられて御機嫌斜め。これは居間の天井の掃除が行き届かぬためだ、とのお叱りです。

 御近習衆聞いて困りはて、家中こぞっておとりなしに心をくだきましたが、御機嫌は直りません。そのさい御近習の一人、大田直次郎(*蜀山人、江戸狂歌壇の長老・四方赤良)がいることを思い出し、主君にぜひお会いくだされよと懇願、直次郎にもお越しいただきたいと伝えました。直次郎さっそく長州屋敷に参上、事の次第を聞き及び、その場で一首、

 狂歌                                                                  蜀山人

  鼠めが天上人の真似をして

       したゝれ(直衣)かゝるしゐ(四位)のせう〳〵(少将)

と狂詠申しあげたところ、長州公(*四位少将)たちどころに御機嫌を直されたとか。

 同年十二月、松平大膳太夫斉照は従四位少将に昇進され、大田直次郎を御召しに。御目見得のうえ、御料理ご馳走を賜れ、さらに衣服、銀三〇枚を下されたとのことです。

補注 

●大田直次郎は四方赤良の狂号で知られる自身の本姓名が大田直次郎。狂歌詠みの天才で天明狂壇の長老ではあったが、軽輩の幕臣で、大江斉照とでは家格に雲泥の差があった。

 

第八話  珍しや、双頭の蛇を捕獲

──文政七(1824)年十一月二十四日、第六より

町奉行・榊原主計頭勤め役中御届書

渡し場で両頭の蛇を捕獲した件につき御届け/川浚い掛り 深川六軒堀町源兵衛店 源兵衛召使 卯之助

今夕七時(ななつ)(*午後四時)ごろ、卯之助は本所竪川通町の浚い場で土砂運搬船に乗り、泥浚いに出かけました。同所一の橋より二〇間東の川泥を浚い上げましたさい、浚い(すき)に長さ三尺ほどの両頭の蛇を引き上げました。

  見物人が集まってきましたので、蛇は作業小屋に保管してあります。すでに噂をお聞き及びかと存じますが、とりあえず御届けいたします。

十一月二十四日/町奉行所 榊原主計頭組与力 米倉法右衛門/筒井伊賀守組与力 仕松郎左衛門

長さ三尺ほど、色は薄灰色、背は薄白く筋あり、箱に入れて差し出す。

補注

●胴の途中から首部が分岐した二股の蛇はそれほど珍しくないが、頭尾双頭というのはきわめて稀である。

 

第九話  百姓、馬に男根を食いちぎられる

──文政九(1826)年六月二十八日、第七より

水道町で馬、人の男根を食い切りました一件

平岩右膳御代官所・武州豊島郡下練馬村内字早渕久保にて、百姓孫右衛門の忰 孫四郎 二十七歳

一昨二十八日昼八つ時(*午後二時)ごろ、孫四郎は酒を飲み酔いながら馬を引き、牛込水道町弥吉(たな)の豆腐屋幸助宅に着きました。オカラを買いたいといいましたが品切れとのこと。やむなく留めてあった馬を引き出そうとしたとき、酔っ払っていましたので、手綱で馬を叩いたら、それからが大変です。

孫四郎、ふんどしが外れて落ちたうえ、手綱が足に絡みついた。ひっくり返った場所が馬の口の下、男根にょっきり出ましたところに馬が食いついた。(*頭を)一振りし、四、五本の毛ごと根元から食い切ってしまう。おびただしく血が出ましたが、もとより気丈な男で気絶もせず、その豆腐屋で薬を付けるなど手当てをしてもらいました。

休んでいるうちに痛みも和らぎ、幸助に礼をいい、男根を紙に包んでもらい、馬を引き出して一四、五間も行きましかろうか。そこでどうしたことか孫四郎、千切れた男根を同町内の道端に捨て去った。御町内の者・某、男根を見つけて拾い、アワビの貝殻に入れて自身番所へと持参いたします。

さて、番所当番の源右衛門と申す者、男根を確認して預かると、馬で孫四郎のあとを追いましたが、見つけだせません。しかも名前や住所等もわからず、近辺を尋ねまわって当人が下練馬村百姓・孫右衛門の忰とわかる。途中、「その孫四郎は今朝、牛込五軒町、小普請・稲生左門様の屋敷へ清掃作業に出かけましたよ」との聞き込みを得ます。

翌二十九日、源右衛門は男根を竹皮に包み、孫右衛門宅を訪れました。昨日の出来事を話したところ、父親の孫右衛門は、「そんなことがあったとは忰は話してくれませんでした。当人は今朝、具合が悪いといって寝込んでいますが」との答。(*このやりとりを聞いて)次の間の孫四郎は声をあげ、「昨日、ご町内での不始末、恐れ入ります。昨夜帰宅してから傷が痛み、今朝は床に臥しておりました。失礼ですが、起き上がれません」と。続けて、「一件は夕べ、親父には伝えず、妻にだけ話しました。妻はおどろいて、オチンチンはどうしましたか、聞きますので、酔っ払ったため途中どこかへ落としてしまった、と伝えました。それを聞いた妻はしょげかえり、今も私同様床についています」と話しました。

源右衛門顛末を聞いて、「お気の毒なことで。じつはあなたが捨てた男根をここに持ってきました。いったん町内でお預かりしましたが、町奉行にはまだ届けていません。(*これを保管するとなると)いずれお呼びがかかりましょうし、私ら町内の出費もかかること。困り果てて持参したのですから、とにかく受け取ってください」と申します。孫四郎の妻のほうは、名前は知りませんが、二十三歳くらいの色白な作りの女、髪を櫛巻きにしていましたっけ。いかにも心労の様子で、「夫がご町内でお世話になりました。そのうえ夫のオチンまでお持ちいただき、ありがとう存じます。見たところ相違ないようなので、受け取らせていただきます」と涙を流し、竹皮から一物を取り出し、じっくり見届けます。かの男根は太さ一寸五分ほど、長さは二寸三分。「まさしく夫のソレに違いございません。確かに受け取りました」と、小風呂敷に包み、床の間へ上げ置き、家内一同厚く礼を申し述べたそうです。

あまりにも珍しい事件だと思い、ここに御届けするしだいです。/六月晦日

補注

●なんとも面妖なチン事、としかいいようがない。

 

第一〇話  目出度やめでた、長寿の面々

──天保元(1830)年十一月二十九日、第八より

大坂百寿庵尚歯会

中ノ島住医業 百二歳 谷川寿仙/玉造口与力 九十九歳 湯麻覚五郎/灘波村医師 九十六歳 志摩由哲/川口御舟役所下役 九十六歳 山添松兵衛/江戸堀 九十二歳 村瀬勘左衛門/天王寺村郷士 九十二歳 安道寺長七/天満老松町 九十一歳 町田幸八

右の七老人は、どなたもご壮健なうえ裕福です。子孫を多くお持ちですがここでは省きます。

長寿不老 

豊前国阿彦山中根 百五十余歳 小野兵衛

この翁、常々申しますに、「私が一二、三歳の時、赤穂の義士敵討ちがござったのを覚えておりますじゃ。いやさ、孫の代だったかな。どの道、自分の年は覚えておりませなんだ」と。翁、今なお壮健です。

長寿三夫婦

紀州在田郡海屋瀬村 百姓 百二十七歳 与惣右衛門/同 百十六歳 妻 茂代/同 九十七歳 忰 与次右衛門/同 八十九歳 同人妻 きよ/同 六十九歳 孫 与五兵衛/同 五十二歳 同人妻 さく(*後略)

 

第一一話  盗賊「鼠小僧」御用で獄門に

──天保三(1832)年八月、第九より

浅草で獄門に付す(*調書)

被告は以前十年にわたり武家屋敷二八カ所、延べ三二件の犯行に及んでいた。堀を乗り越え、あるいは通用門より侵入、長局奥向きへと忍び込み、錠前をこじ開け、ときには土蔵の戸を(のこぎり)で切断、金七一五両一分、銭七貫五〇〇文ほどを盗取、自己のため流用した件について、武家屋敷へ侵入し盗みをはたらいた現行犯で逮捕した。

被告はすでに何箇所も窃盗の犯行を重ねたにもかかわらず、これを秘匿し、博打などに入れ込んだと陳述、その罪により入墨に処し追放中のところ、さらにこのたび武家屋敷七一カ所、延べ九〇件の犯行に及び、同様手口で長局奥向きに侵入、錠前などねじ切り、金二三三四両二分、銭三七二文、銀四匁三分を盗取、本件で処罰されるまで窃盗合わせて九九カ所、延べ一二二件のうち、侵入先の屋敷名など失念・忘却もあり、犯行に至らない場合も含め、およそ総計三一二一両二分、銭九貫二六〇文、銀四匁三分のうち、金五両と銭七〇〇両は切り捨て、残る大半を酒色遊興または博打にと、渡世人なみに費消し尽くした。まことに無法な者につき、引き廻しのうえ獄門に処す。(*後略)

補注

●次郎吉は世上に伝えられた「鼠小僧」の二つ名をもつ盗賊で、天保三年五月、浜松の松平宮内大輔屋敷に潜入中を発見され、近習侍に捕らえられるや町奉行所の手の者に引き渡された。同年八月十九日に市中引き廻しのうえ斬首、さらし首にかけられた。

●彼は後年、歌舞伎などで義賊に仕立てられている。しかし実態は、この記録のように、私利私欲を満たすだけの盗っ人にすぎなかった。

 

第一二話  日本一の埋蔵金、取らぬ狸の皮算用

──天保五(1834)年十一月、第九より

野州河内郡本吉田村 百姓・孫右衛門の屋敷内、結城晴朝埋蔵金の一件

申請書

下谷通新町、家主 次左衛門/本郷古庵屋舗、岩次郎店 理平/野州河内郡本吉田村、百姓 孫右衛門/武州葛飾郡須崎村、百姓 幸次郎/同郡寺島新田、百姓 権七

次左衛門ほか一同願い出の件

右の一人、孫右衛門の屋敷は結城晴朝家臣・伊沢佐渡守住居の跡地で、孫右衛門は佐渡守の弟・伊沢平太夫の子孫であります。

昔、晴朝亡くなるさい、佐渡守に家中の金銀什器を土中に埋め隠すよう遺言しました。その後、享保・天明期の二度、掘り出し作業が行われましたが失敗しています。

孫右衛門は次左衛門の遠縁に当たり、埋蔵金掘り出しに関心を寄せておりましたところ、このたび資金を提供しようという者が現れ、地頭所や村方役の皆さんとも相談のうえ、掘り出し願いを届け出たしだいです。

一同検討を重ねたすえ、掘り起こし部は幅一五間四方、深さ四間に及び、内部には六尺四方に高さ三尺の枡一〇カ所を順次組み立てます。枡一基につき水車一挺ずつ据えて水を汲み上げる。作業員一日につき七〇人を要し、およそ一〇〇日の工期ゆえ延べ七〇〇〇人の見積りとなります。湧き水も多いので、蛇腹車を使うなど汲み出しには工夫したとのことです。

掘り出しに成功した場合は、埋蔵金総額のうち二分は上納、二分は地頭所、四厘は孫右衛門、一分は村方に納め、残り四分六厘から諸費用を差し引きます。さらにその剰余金については願い出人・請負人ならびに施工主・金主の間で応分に分配します。埋蔵金が取得できない場合は埋め立てて元に戻します。

工事費用は着工前に村方へ渡します。その内訳は証拠金三〇〇両のうち当座一〇〇両を、残り二〇〇両は地元へ預託。不成功の場合は埋め立て費用の不足も考えられますので、右の証拠金をもって充当することにします。

本件の費用総額は一八〇〇両を見込み、内七五〇両は諸道具手当て・作業員への報酬・堀跡の埋立て整地費に当てます。工事資金の提供は右記、幸次郎ほか一名が引き受けます。別途費用七五〇両と証拠金三〇〇両については、次郎右衛門が金主からすでに融資の応諾を得ています。

工事の結果生じるであろう損得関係は、すでに関係者間で調整ずみで、地頭所でも問題はないようだと申しており、ここに願いの一件御報告いたします。

小普請組・神尾豊後守支配 松前左近家来 砂河宇右衛門

本件、次左衛門ほか四人には、申請願いを私の上司・松前左近あてに稟議にかけることで同意を得ています。

当初、同心組は現場出張を予定していましたが、このたび出張はしなくてよいことになりました。ただし、現場での監督には心を配るように、とのお達しです。また、掘り出し中に何らかの手がかりがあったら、ただちに報告するように、とのことです。その場合、同心組から臨時出張の者を派遣しますので、御承知置きください。

御存知のように、十二月二十七日付で、榊原主計頭より御役宅において業務命令が発せられています。

埋蔵金については、竿金(*補注参照)でじつに九億八万本もあると伝えられ、一本を正金(*純金?それとも金貨の品位?)に直すとおよそ三七〇〇両余になるそうです。現地では年ごとに金気の相(*金気が放つ霊気、としている俗信)が立ちのぼっており、また雪解けなども目立って早まっているそうです。

一、竿金 九億八万本

この総額は三兆三三〇二億九六〇〇万両、ただし竿金一本当たり三七〇〇両の見積り換算。竿金重量は一本当たり約一二貫九五〇匁。

内、二分は上納金、六六六〇億五九二〇万両

内、二分は地頭所へ上納分、金額は右に同じ

  四厘は孫右衛門、一三三二億二九〇六万両

  一分は村方分、三三三〇億二九〇六万両

  四分六厘(諸費用ならびに願い出人・承認・施工主・金主の配当金) 

  一兆五三一九億三六一六万両(*以上金額はいずれも原典記載による)

補注

●「竿金」とは、半割り竹筒に金を流し込んでナマコ型塊に固めたものをいい、これを必要に応じ切断して小判などを鋳造。江戸時代の金貨・銀貨鋳造をつかさどった金座・銀座において、品位決定時の原料として用いた。ほかに「竹流し」とか「竹流金」などの別称をもつ。

●本条は、いかにももっともらしい体裁で記述されている。しかしながら、この埋蔵金総額は、当時の日本国有資産総額をもはるかに超える、とてつもない巨額である。ちなみに日本一の大金持ち・徳川幕府の総資産ですら八〇〇万両からせいぜい一〇〇〇万両止まりとされている。

●もちろん話し半分程度の埋蔵金が発見されたとしても、史上に残る大変な記録になったはずで、こうした山師の話が実行に移されるはずがなかった。話の出所は不明だが、ホラならホラでもっと真実味のある程度でないと、いくら昔のこととはいえ一笑に付されよう。

 

第一三話  超長魔羅の持ち主、見世物に

──天保六(1835)年閏七月、第十より

村上大和守知行所、野州都賀郡池森村/百姓初五郎方に同居、山川検校弟子の按摩(あんま) 長悦 二(茂吉郎の忰、盲人とのこと)/後見人 初五郎、元・次郎兵衛

仁木太郎知行所、同村、百姓 金兵衛/戸田長門守領分、同郡栃木町、百姓伝兵衛店 注次郎/同、喜七店香具師 紋次

長悦は人も知る知恵遅れですが、そのうえ眼病にかかり盲目になりました。同郡鹿沼宿の座頭(*剃髪した盲人をさす一般称)仲間に加わり、按摩の稽古に励み、叔父の初五郎方に寄宿していました。もともと病弱で何かと不自由なのに、陰茎肥大という奇病を患っています。

初五郎も甥を哀れんで村医に診てもらい、薬もあれこれ試しましたが、少しも効果がありません。十五、六歳になると、もう薬も効かないと断念。初五郎ある日、隣村へ用があり出かけたところ、留守中に長悦、男根をいじりますが、ナント引き伸ばすと(ひたい)(ぎわ)まで伸びるではありませんか。長悦自らすっかり仰天してしまい、初五郎が戻るとありのままを打ち明けました。

話におどろくまもなく、またまた長悦、こんどは初五郎の目の前で男根を引き伸ばして見せましたから、よくよく納得。そのときから長悦、たびたび伸ばしては見せびらかすようになりました。初五郎も困りはて、「長悦よ、魔羅延ばしはもういい加減に止めなさい。もし世間に知れたら事だよ。病が進んでお前は死ぬかもしれないし、両親を恥ずかしい目にあわすことになる。親戚付合いもできなくなり、物笑いになるのがオチ、これからは慎みなさい」と言い含めます。

そうこうしているうち、去年二月七日に初五郎は用事で近在へ出向き、三日間滞在して戻りました。が、長悦の姿は見えず、隣家の者に尋ねると、「金兵衛さんと注次郎さんがやってきて、長悦を馬に乗せ連れ出しましたよ」とのこと。初五郎不審に思い、今度は金兵衛を訪ねて問いただしたところ、「紋次のところへ按摩に出かけました」といいます。そこで初五郎は栃木町まで出向き、紋次なる者を訪れますと、彼は香具師が商売で最近、どこぞへ仕事に出かけあいにく留守中。初五郎さらに長悦の行方を探ったところ、七月十六日に栃木町で、大掛かりな菰張り小屋を補修し、仰々しい看板を掲げ、三味線・胡弓・太鼓など鳴り物入り囃子で客寄せし、木戸銭を取る見世物があると知りました。とても評判になっているそうで。

初五郎心当たりがあり、とにかく現地へ行って見ますと、その見世物に出ている異形の者は紛れもなく長悦です。聞けば小屋の主人の注次郎、口入屋(*人手の斡旋業者)という話。長悦を引き取らせてほしいと注次郎に掛け合ったものの取りあってもらえず、ぜひもなくいったん村に帰ります。さらに金兵衛や注次郎と交渉しますがラチが明きません。

初五郎としてもこれほど無法はないと思い、紋次・金兵衛・注次郎を村役人預けとし、七月十八日に至って、内藤隼人正に訴え出たところ、願いを受け付けられ、追って沙汰する旨を伝えられ、それまで村に戻り待機するよう申し付けられております。

 補注

●医事に詳しい知人の話では、陰囊肥大症はよくある例だが、陰茎肥大は症例がかなり少ないとのこと。まして額際まで伸びるなど考えられないそうである。

●それにしても「長悦」とは、作為がプンプン臭う名付けをしたものである。

 

第一四話  (ぼし)()()き狐を釣り捕る

──天保九(1838)年六月、第十一より

渋谷笄橋続/堀田備中守様御下屋敷 御隠居様御住居のよし、医師(内科・鍼灸兼業) 三輪元進

(本件は風説です)

医師の元進は、自身のほかに妻と母との三人で医院を開業、しばし奥向きへ治療に出かけておりました。五月十三日夜、いつもどおり御殿に出向くとき、妻に帰りは遅くなろうから、先様泊まりになりますよ、と伝えています。

翌朝、御殿の者が薬を取りにやってきました。(*妻は不審に思い)主人は昨夜十時ころ提灯を下げ御殿へ伺ったはずですが、といいました。門番所に問い合わせてみると、先生のお出入りはなかった、とのこと。驚いてほかの心当たりも尋ねましたが、行方知れずです。そのうち二十一日に見廻りの者が巡回中、異様な悪臭に気づきます。探ってみますと、山内で元進の遺体を発見しました。ただちに家族と役人に知らせました。

堀田様は、すぐさま狐狩りをするよう命じられ、御料地内に住む狐狩り名人を江戸表へ呼び出すことになりました。

下総国印旛郡春ノ村百姓・藤兵衛 五十八歳

藤兵衛が狐を狩った方法を申します。

衣服の両袖に干鰯を入れ、酒を飲んで酔ったふりをし、ブツクサ文句を口にしながら山内を歩き回る。狐を釣り寄せるため、干鰯を一つ二つと道に落としていくと、後を追った狐はそれに食らいつく。酔っ払って倒れたふりを見せるや、油断した狐めは足などをなめ回す。こうしながら落し穴の方へとおびき寄せる。穴の中には鶏を餌に放っておく。狐はとうとう穴にはまって落ちる、というわけです。

 長袖の命短く殺されて

      やどに二人が寐つおきつ待

 三輪くされ定めて場所も藪医者の

      はて珍らしき(クハ)たき討哉

補注

●昔の人は少しでも不審なこと、理にかなわないことが起きると狐狸のせいにした。「狐憑き」といわれる迷信は、今でも所により信じられている。

 

第一五話  飲ン兵衛犬が三日酔い

──天保一〇(1839)年正月、第十二より

正月十六日朝十時ごろ、湯島天神中坂下・手習師匠宅前で、酒を七、八升持った男が転倒し、酒を残らずこぼしてしまいました。犬が一頭やってきて、これをなめます。その犬、十八日の夕方まで酒酔いでフラフラになっていたそうで。犬の三日酔いは珍しいこと、見物衆が多かったそうです。

補注

●第十二の巻頭、「正月元日」と題した雑報集の一つである。

 

第一六話  業病に効くと人の生き胆を奪う

──天保十(1839)年二月十日、第十二よ

甲州で人間の胆を取る珍事

御代官・小林友之助支配地、甲州巨摩郡下山村

百姓・定兵衛……癩病(*今にいうハンセン病)をわずらい、人の生き胆が妙薬と聞いて高価に買い取った者/同村百姓・斧兵衛……太平治と計り同村、米蔵の胆を奪った者/同人女房・ゑん……太平治の依頼で米蔵を連れ出した者/同村百姓・太平治……斧兵衛と共謀し米蔵を殺害、胆の奪取に加担した者/同村百姓・友八の三男、米蔵……斧兵衛ならびに太平治に出刃庖丁で腹をえぐられ生き胆を奪われた者

二月十日夕方、斧兵衛の女房・ゑんが米蔵をあやしながら背負ってきた人気のない場所で、斧兵衛・太平治の二人は米蔵を受け取り、手拭いで口を縛って、定兵衛宅裏竹藪の下、小川のそばへと連れ出しました。

ここで米蔵は全裸にされ、生きながら水中に漬け込まれました。斧兵衛は出刃包丁で米蔵の体をへそ下から胸下まで切り裂き、さらに左右乳下へ一文字に切り開くや、手を差し入れ、胆を引き出したのです。この時点で米蔵はまだ息がありました。

太平治のほうは小刀で米蔵の喉を突きますが、水中で滑りうまくゆかず、五度目にやっと体の裏まで突き通し、息の根を止めます。遺体は衣類に包んで沢付近に捨て置かれました。胆は小さく切り分けられ、定兵衛に差し出すと、彼はすぐに生のまま食べたと自供しております。

この者たちの犯行、人間の仕業とは思えず、斧兵衛夫婦・定兵衛・太平治は入牢し取調べ中です。各人の供述は犯行事実と一致し、ほかに加担したものはございません。

肝の売買など余罪を尋問したところ、太平治は同居の姪が同じ病気持ちで、少し取り分けてやったところ、その娘は全快して欠落(ママ)(駆け落ち?)したそうです。三名のうち斧兵衛はほかにも殺人を犯した疑いのあるかなりの悪者で、他の二人は斧兵衛にすすめられ同意したものと思われます。詳しくは十分に取り調べてから御連絡しますが、あまりの珍事につき、とりあえず御報告します、以上。

付記 米蔵じつは寅年・寅月・寅日・寅刻の出生で、(*このように干支(えと)の寅に縁のあるものは)生き胆が癩病の妙薬とされており、そのため殺害した旨、斧兵衛は供述しておりますので、付記しておきます。

補注

●被害者・米蔵の年齢は明記されていないが、事件が起きたとしている天保十年は亥年、寅年はそれから逆算し十年前の干支に当たるので、すでに十歳の小児だったことになる。とすると、ゑんが「米蔵をすかし背負参り」(原文)の表現部分があやしいものとなり、話の信憑性が一歩遠のく。

 

第一七話  盗人、知らぬが仏のまま御陀仏に

──天保十(1839)年二月二十四日、第十二より

武州多摩群小川村 百姓兼荒物商 吉左衛門

吉左衛門は金持ちで、黄金などの貯えがあることで知られている。

当夜、盗人三人が土蔵の錠前をねじ切って中へと忍び込んだ。松明(たいまつ)でそこら中照らし物色しているうち、一人の(わろ)が、「着物なんか盗ったところで足のつくのが早い。ここは金銀を狙おうやといいざま、板敷きの下から小箱を探り当て、「中に金が入っているに違いない」と松明で照らし覗いたのが運の尽き。

実はこの箱、危険物入りであった。みだりに鉄砲を扱うのは御禁制だから、自分が火薬原料の煙硝を密売していることは内密にしてこの箱に保管していたのである。そうとは夢にも知らない盗人、金なら見つけものよとほくそ笑みながら目を見張って蓋を取り除けた。そのとたん、松明の火が煙硝に引火、爆発すさまじく土蔵の屋根を吹き飛ばした。

轟音に家中のものが目を覚まし、盗賊が侵入したことに気づく。盗人の一人は両眼を飛び出させて即死。あとの二人も焼けただれ、一人はその場から逃げおおせたものの、もう一人は気絶していたところを捕まってしまった。

捕らえられた悪は、小川村から半里ほど離れた金森村字西田の住人、親は百姓兼大工の虎吉、その忰が犯人で、名を孫次郎という。もとより行い良からぬ者で、八年ほど前に親も見限って家から追い出したそうである。

補注

●一読すると奇談に思えるが、起きて不思議のない事件である。

 

第一八話  大きさは犬、面は猫、四つ足猿に似た怪物

──天保十(1839)年七月二十一日、第十二より

岡崎城内怪物のこと

三州岡崎領主・本多上総介仕えの中小姓、十人扶持/狭間弥一兵衛 四十四歳

弥一兵衛は当日、家中で打ち合わせがあって夜八時過ぎに帰宅する途中、城内切通しというところを通行しました。そこには(やぐら)修理の足場が組んであり、歩いていると突然、なんとも知れぬ異形の物が飛び降り、弥一兵衛を背後から羽交い絞めにしました。

弥一兵衛は気丈な男で、とにかく怪物を払いのけて取り押さえようと隙を狙って歩を進めますが、怪物には毛が長く生えていて、滑ってとらえにくい。動作も敏捷です。しかし弥一兵衛、刀を抜いて怪物を一刀の元に斬り捨て、帰宅しました。

翌朝未明、弥一兵衛に言いつけられ下男が現場を見に行くと、怪物は血まみれになって死んでいました。大きさは野良犬ほど、面は猫のごとく、毛は白と赤が入り混じり、尾長く、四つ足猿に似て、五指が揃っていたそうです。

顛末は弥一兵衛が記録し届けてあるそうで、事実でありましょう。

この一件、美作(みまさか)橋修理の現地から七月二八日付書簡で八月六日に至り着いたものである。

補注

●この話、弥一兵衛本人から担当役を経て入手した書簡の送り手が藤岡屋に届けた、いわば孫聞き(又聞きの又聞き)になっている。このような間接入手形式の情報が出典には目立ち、事実関係の信頼性をいちじるしく低下させている。もっとも、話の内容にしても多くが与太話で、まともに取り合うほどのこともないものだが。

●しかし、藤岡屋由蔵の情報源は驚くほど多彩で、全国各地で起きた事件の情報収集力は目を見張るものがある。当然、幕閣はじめ各藩家臣、そして市井にも有力なコネを多く持っていたに違いない。

 

第一九話  花見の妊婦、酒樽を産み落とす

──天保十一(1840)年三月、第十二より

〔本条は比較的読みやすいので、例外として原文を転載する〕

飛鳥山花見の安産

頃ハ弥生の花盛り、王子稲荷の開帳かけて飛鳥山の賑ひ、近頃稀なる人群集なし、殊ニ天気もうらゝかニて、おのがさま〴〵花見の男女、(それ)が中ニ一ト際目立たる美しき町家の年増盛り、年は二十三四と共いふべき衣装から髪のもの迄、いかにも仇にとゝのへ、乍去(さりながら)おしき事ニハ此女腹大きくふくれ、さも心おもたげニ歩行ける、同じ連の女も年恰好も器量もまけぬ美しさ、外に亭主とも思われし三十近き男両人、右連ニて飛鳥山の()き処へござ敷せ、腰に附たる吸筒、わりご(など)取ひろげ楽しミ居けるに、腹ふくれし女、(にわか)ニ腹いたミ絶難く、連の者も大きニ当惑致し、連の女は腹抔さすり遣しけるに、(いよ)〳〵病強く苦しミ、近所の茶屋ニてもかり遣わさんと、色〳〵騒ぎけるに、最早一ト足もあるかれず候由ニて苦しミけるに、群衆の人々、スハ珍しき、山に而産有とて大騒ぎ、殊ニ物見高き花見の〴〵つどひけるニ、男ハ更ニうろつくのミ、折能く山の下通りを薬箱為持ける医師通りけるを、見るより早く右之医者を呼び頼ミ、脈体見せけるニ、只今出候よし、薬を頼ミしニ医者も殊之外迷惑の体ニて、実ハ花見ニでたるニて、屋敷門を出候に間も悪く(しかじかの)ごとしとて、薬箱を開き見せけるニ、中ニハ差身、重詰、色〳〵の肴有けれバ、町人申ニハ、せめて御酒でも上ゲ度候得共、御覧之通り吸筒の酒も先刻呑干、致方なくいかゞせんと申に、懐妊の女程なくうなり産み落したるに、(およそ)三升程もあらん樽を股より出したるに、見物の内より三味線持ちし者飛込ミ、調子を合せ候と、ひとりの女も(いと)出だせバ医者は唄を謡出すと、産婦も踊り出し候故、見物の人々肝をつぶし、あきれはて、大勢群衆の見物、皆々かつがれしも、今年の花見趣向の随一との評判、定めておかしからん、予が友達も其日開帳へ参り、帰りニ飛鳥山ニて右始末落なく見しとの物語也。

 こなからを股から産る花の山

      産出してみれバ気強き男山

補注

●出典中では珍しく整った一文である。現代人でも読んで十分に理解できる、流麗で素直な文章なので、ほとんど手を入れずに紹介することにした。藤岡屋由蔵の書き癖は、失礼ながら生硬で舌足らずであり、比べてこれは書き手が違うと気づく。たぶん「予が友達」か誰かの寄稿が元になっていよう。

●本条は話が出来すぎだ、との批判もあろうが、花見の人々を楽しませる江戸っ子の粋な演出、風流の下拵えと、良いほうに解釈したい。

●狂歌中、「こなから」は小半(二合五勺の酒)、物語の三升の酒を小半枡で振舞ったのであろう。「男山」は江戸っ子が贔屓にした酒の銘柄。

 

第二〇話  古井戸主の大蛙を殺した崇り

──天保十一(1840)年四月二十五日、第十二より

赤坂井戸の怪

赤坂 甲良屋敷、進物番・高五〇〇石 秋田源次郎

秋田屋敷の敷地内に先祖伝来という「汲まずの井戸」があった。当主の源次郎は、この井戸の水を使ってみようと思い、汲み上げてみたら水質がまことによろしい。そこで、日用に使おうと、家来に井戸替えをするよう命じた。

当地はもとより水気の多い低地のこと、わずか二(ママ)か三(ママ)で水位に達し、替え干しが簡単にすんだ。井戸大きさ二、三歳の子供ほどもある大蛙が一匹、ほかに猫ほどの蛙三匹が現れた。源次郎は、こんな化け物の棲家になっているような井戸は使いたくないと思い、用人と相談のうえ、殺してしまおうということになる。こうして大蛙四匹は打ち殺されたのだが……。

当夜、用人は舌を噛み切って死んだ。源次郎のほうは、翌朝夜着にくるまれ臥しているところを発見され、まくって見ると枕元の脇差で喉を突き、こと切れていた。珍しくも恐ろしいことではないか。

補注

●原文にある「(そく)」という長さの単位は、国語辞書等に載っていない。音通で「束」があるが、これは矢の長さを計る単位で、およそ握りこぶし一つ分に相当。いずれにせよ「ごくわずか」であるとの解釈が妥当であろう。

 

第二一話  八つの尾をもつ吸血の妖狐

──天保十一(1840)年六月、第十二より

白面の八尾の狐

六月中旬、尾洲名古屋の三好六左衛門より一通の文が届き、近頃一ノ宮あたりに頭の白い狐が現れ人を襲うよし。身の丈およそ八尺ばかりに見え、尾は八つに裂け、女の姿に化けて、人の血を好むということです。

一宮の庄屋・速水九郎右衛門ほか半七・政七・清吉という者が目撃し、「八尾の狐」と申しております。住民みな恐れて夕方から外出する者一人もなく、人雇いにも差し支えが生じているほどです。

九郎右衛門は陣屋へ出頭のうえ事情を尋ねられ、御勘定所へも通知済みとのことです。

本件、桜井藤四郎の弟、石黒某から六月六日付の手紙で伝えてまいりました。

補注

●この一文だけでも、遠隔地での出来事ゆえか、情報の発信時期や発信者に不整合が生じている。残念なことに、出典の全体にこうした問題点が目立つ。

 

第二二話  両眼は取り外し自在、重し吊りも

──天保十一(1840)年九月、第十二より

「目玉小僧」のこと

本所松坂町一丁目、庄兵衛店・谷五郎方に寄居 長助こと長次郎 十四歳

長次郎は羽州新庄領二間村の百姓、林助の孫で、長八の忰であります。両親ともに先年亡くなり、天保八年七月に羽州河辺郡渋立村百姓の佐助が、長次郎を祖父の林助から貰い受けました。

この長次郎、どういうわけか六、七年前より、両眼を自由に抜き出すことができるため、谷五郎は見世物に出してみようと思い立ちます。そのさい佐助の妻・ちよが付添いとして谷五郎方に同居、長次郎を見世物に出すことになりました。

噂を聞いて(*誰が?主語不明)調べたところ、両眼を自在に出し入れできるだけでなく、一寸余りの眼球の上に細ひもを掛け、銭五貫文(*二〇キロを優に超える重さ)くらいの重量物を吊り上げ、眼力の強靭なこと疑う余地がありません。

長次郎、生まれついての身障者と考えられます。世間に風聞が広まっており、内内にお耳に入れておきたく申し上げたしだいです、以上。/本所松坂町二丁目 名主・長兵衛

補注

●主人公の名が「長助」こと「長次郎」、亡父「長八」まではわかるとして、報告者である名主の名が「長兵衛」だ。単なる偶然が重なったものか、それとも藤岡屋由蔵が「これは万八(ホラ)話なんだよ」とほのめかしたものなのか。

 

第二三話  一昼夜に一八回戦、超絶リンの九二歳医師

     ──天保十二(1841)年正月三日、第十三より──

九十二歳で嫁をとり、精力絶倫のためチン事発生の件

小石川原町 喜八店・三朔坊主こと「天公」法現 九十二歳(武家某の抱え医師、宝暦元年の出生)

法現は元小石川七軒町に住み、三朔と名乗り、四,五年前から頭書の場所に転居、名を三長と改め、号を法現としたそうです。

噂によると、天公を名のる前は「天子」と書いたそうで。これではあまりに恐れ多いと咎められ、天公に直したようです。とにかくハッタリ屋で、法現も「(ほう)(げん)(*盲目の偉人に対する格式敬称)に紛らわしい称名をわざと付けたと申せましょう。

今日、嫁入りしました法現の妻 妙仙 五〇歳(独身で鍼灸師として治療に従事)

法現・妙仙の二人とも独身でしたが、世話する人あって、同業同士ゆえ共稼ぎで都合がよかろう、と話がまとまります。妙仙は神田八軒町の家から引越し、閏正月三日に法現方へ嫁入りしました。

同夜床入りから四日の夜まで一八回も交合に及び、さらに以降も昼夜の別なく十日ほど毎晩、です。とうとう妙仙の陰部は腫れあがり痛んだので、閨事は一時断念。これは非道なんてものではない、と妙仙床責めに堪えがたく、同月十九日にとうとう逃げ帰ってしまいました。妙仙は理由を世話人に打ち明け、身寄りの者と一緒に法現に対し、治療を受け完治するまで養生させ、その後に離縁したいと掛け合います。そのおり妙仙を法現に会わせたところ、その夜またまた淫事に及びましたので、世話人もあきれて彼女を引き取ってしまいました。

 法現はここで、妙仙の身寄りの者へ一札詫び状を入れ、金で解決を計ります。しかし、身寄りの者としてはこのことを他人に話すわけにもいかず、古狸が化けたかなどと苦い冗談をたたく。

法現は元来が精力絶倫、一夜に三度は交わらないと怒張が収まらない、などと申します。これまで妻と定めた者がなかったのは、奉公人の斡旋所へ頼んでおいた月雇いの抱え女に夜伽をさせても、どの女も身が持たず、一月に二、三度は入れ替わったとのこと。

本件、いかがわしい点もございますが、噂が広まり取調べを要するかと存じますので、御報告いたします。(*後略)

補注

●このあと口入屋との交渉結果などの文書が続く。まんざら根も葉もない空話ではないようだ。

 

第二四話  歯の力、百人力が見世物に

──天保十二(1841)年九月、第十三より

両国橋西広小路に、紀州和歌山の生まれで「歯力鬼右衛門」なる見世物が掛かった。

磁器の茶碗をかみ割る。あるいは径六尺の大(たらい)に子供を二人載せて、これをくわえながら踊る。釣鐘の竜頭(りゆうず)を口にくわえ引っ張り上げる。石臼に四斗俵を載せたものを口にくわえ、右へ左へと振りつつ矢を射込ませる、などなど。まことに奇抜で、重さ四,五〇貫なら平気で口にくわえ自在に操るという。

 

第二五話  天保改革の立役者への面当て

──天保十三(1842)年十一月、第十四よ

水野越前守、幕府の御用あって日光山(*徳川家康の霊廟所)へ参り、帰りに水戸へ立ち寄り、水戸公から大きな槍を一振り拝領した。しかし重く大きすぎて扱うのに手に余る。すると水戸様がおっしゃるに、「越前守よ、お主は思いやりがないからこれを遣わす」

また越前守、日光中禅寺の山中で名鳥を捕獲した。「それもよかろう」と鳴く鳥である。この鳥を江戸に持ち帰り将軍に献上した。が、どうしたことか御前ではいっこうに鳴かず、将軍は興ざめする。そして越前守登城のおり鳥をお返しになってしまった。越前守は面目を失い、屋敷に帰ってから鳥に向かってつぶやく。「お前は鳥の分際ながら金銀製の鳥籠に住み、将軍様のお手に触れられるのがどんなにありがたいことかわかっているのか。なのに御前で鳴かぬのはどういうわけか。お前が鳴かないため、わしはこれから切腹せにゃならん」すると鳥は返事に鳴いたのである、「それもよかろう」

補注

●水野越前守忠邦(1794~1851)をからかった笑話二題、おそらく藤岡屋が時の落書から引いたものであろう。

●水野越前守は史上有名な「天保の改革」を断行した幕府老中であった。改革とはいえ過酷なまでの諸事節約令で、庶民の恨みを買った。天保十四年、あまりの評判の悪さが原因で罷免されてしまった。

 

第二六話  化け物より怖い、お上の検閲

──天保十五(1844)年正月十日、第十六より

源頼光「(つち)蜘蛛(ぐも)の絵」のこと

昨年八月、堀江町・伊場屋板元において、歌川国芳画「蜘蛛の巣」の中に薄墨で百鬼夜行を描いた作品を摺った。これは判じ絵仕立、往時に御仕置に処せられた南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・淫売女・女浄瑠璃・女髪結など化け物どもが含まれている。絵はたちまち広まり、頼光は(*徳川の)親玉、四天王はお役人の喩えであると江戸中の評判になったため、板元はいちはやく売った絵を回収し版木も削り去り、板元・絵師ともども事なきを得た。

また同年の冬、堀江町新道に住む摺師の久太郎は、土蜘蛛の絵を小型化し、絵草子板権の割印(*出版独占権)を得て出版。これは化け物を隠し絵に細工、別に元絵どおりの版木を拵え、絵草子屋店頭では化け物抜きの状態に作って陳列し、これを三枚続き三六文で売り出す。お化けの入った絵のほうは店奥に隠匿し、それと知って欲しがる客に三枚続き一〇〇文で売った。これまた評判になり、かえって板元の久太郎は逮捕されてしまった。

処罰は二十日間の手鎖、家主預けに。さらに板元への罰金は三貫文。絵師、貞秀への罰金、右に同じ。

さて、その後またまた芳虎描いた小型一二枚の四つ切り大小絵に仕立てられたものが現れる。これはたとう入り(*畳紙=懐中用折り紙作り)になっていて、別途に差し替えようとして頼光土蜘蛛のわらい(*笑い絵=艶笑画・枕絵の類)をオマケに付け一組銀三匁で売り出した。(*後略)

補注

●およそ発禁書や発禁絵には、賞翫したり秘匿したりする者の好奇本能をくすぐってやまない魅力がある。そのため買い求める者が後を絶たず、かなりの額で密売買される。この一文のように、版元も儲けが大きいから、取締りの目をかいくぐって工夫を凝らし、したたかに商いを続ける次第となる。

●『藤岡屋日記』の内容は、吹けば飛ぶようなオドケ話や与太話ばかりでない。本条のように、史料としても価値のある真面目な話題も少なくないことを、由蔵の名誉のためにも強調しておきたい。

 

第二七話  相撲取り中の巨漢「生月鯨太左衛門」

──弘化元(1844)年十一月二十九日、第十六より

両国回向院において勧進大相撲、今日が初日。

平戸の生月鯨太左衛門が取組みに出場。

生月鯨太左衛門は十八歳で身長七尺五寸、体重四五貫目、古今稀な力士である。

父は肥前国松浦郡平戸の城下から三里離れた生月という島の立浦に住む漁師で、名を要蔵という。妻ははるという。要蔵夫婦はそれまで男の子のないのを残念に思い、浦の氏神・牛神の社(祭神は牛頭天王・スサノオノミコト)ならびに、姫宮の社に祀る稲田姫に二人で願掛けをした。その十七カ月目に男子をもうけた。

幼名を要作と名付けた。四歳のとき、緋縅(ひおどし)(*四股名か)この島を訪れたさい、師弟の盃を交わす。十一歳になると身長五尺となり、宮祠約一四〇貫目を一人で背負い、麓からしらき山神社まで登ったことから「仁王要作」といわれるようになる。

あるとき一四、五間ある威勢のいい鯨を刀で仕留めた。これにより「鯨の要作」といわれたが、いつのまにか「鯨吉」に呼び替えられた。

十七歳で身長七尺になっていた。父の要蔵は信心する讃岐金毘羅への参詣、あるいは氏神・牛神の本社である京都祗園社に御参りしようと鯨吉を連れ、三月に出発した。浪花に着くと、相撲取りの小野川が知人だったので、鯨吉を弟子入りさせ、名前も「生月鯨吉」に改めさせた。

相撲初日の十一月二十九日から、この大男を一目見ようとする客で、場所は大入りの盛況だった。

 大きくて入山もなき武蔵野に

      はらいつぱいにてらす生月

 いにしゑは石となりたる松浦(まつら)

      今は鯨が出来て評判 

(*中略、以下後日に加筆)

嘉永三年七月十六日/生月鯨太左衛門、相模において越後へ旅支度中、脚気にかかり病死した。

 

第二八話  蛙眷属の命を救い火難を免れる

──弘化二(1845)年正月二十四日、第十七より

〔正月二十四日、青山権田原の大岡紀伊組前田左兵衛屋敷の表長屋から出火、西北の風にあおられ一帯が大火を被った件を受け〕

火災のおり、麻布一本松・山崎主税(ちからの)(すけ)屋敷における蛙の珍事

 交代御寄合五千石、備中成羽領主・山崎主税助の屋敷に古い泉水があり、この池には長年、蛙の群れが棲みついていた。

ある夜中、定時巡回中の中間(ちゆうげん)が、蛙どもに池に引き込まれ、殺されてしまった。殿様これを聞いて大いに立腹し、「予の池に長らく棲んでいられる恩を忘れ、中間を殺したとは憎っくき連中よ。明日は池の蛙どもを皆殺しにしてしまえ」とおっしゃる。

その夜、衣冠に身を正した一人の老人が殿の御前にまかり出て、「じつは手前、御池に棲む古蛙でございます。例の中間は、これまでわれら眷属の蛙が生まれるたびに殺してきました。かの中間はわれらが子孫の敵ゆえ、やむなく殺しました。なにとぞ今回の蛙狩りを中止してください。もしお聞き届けくださるなら、今後御当家末代まで、火災の場合、われら蝦蟇(がま)の神通力をもってお屋敷をお守りいたします」と申します。ここで殿様、夢からさめた。そして、これは奇特なことと思い、蛙狩りを止めさせた。

このたびの大火に遭い、お屋敷は風下に位置していたにもかかわらず無事であった。当然、火の粉が飛んできて難は逃れようがないのに、蝦蟇が通力を発揮して、池の水を巻き揚げ、屋敷全体に霧や雨を降らせたため、この屋敷だけは火災にあわずにすんだのである。なんとも珍しいことである。

 山崎に住し蛙のちからにて

      無難に残るひあふぎのもん

 

第二九話  眼に銀光二筋を光らせる白亀

──弘化二(1845)年三月十五日、第十七より

 町の鼈甲(べつこう)屋が上野不忍池(しのばずのいけ)に白亀を奉納した。見物人が大勢集まり、初めは池の中に垣で仕切りその中に入れて見物させた。大評判になり、絵草子屋が一枚絵にして売り出したり、かわら板に摺って江戸中に広まるほどであった。

白亀は淡路国で捕獲したものだという。大きさ一尺九寸、眼中に銀光二筋を放つ。

池水に千とせの松の蔭うきて

げに面白き亀の遊哉

 池の水悪く、まもなく死んでしまったという。

 

第三〇話  両国辻君の品定め番付が人気に

──弘化二(1845)年四月、第十七より

東方(ひがしかた)、辻君花の名寄せ

そもそも「傾城」と申しますは、昔から高貴な方々が御忍びで遊興に出かけたときの相手女をいったのです。これを京都では「辻君」と称し、大坂では「(そう)()と申し、江戸では「夜鷹」といっています。通じて街娼のことです。

今では下賎の男が相手にする売女(ばいた)でして。江戸では古来、御持院ガ原・石町河岸床見世後ろ・数寄屋河岸・浅草御門内物干場空地・柳原床見世後ろ・下谷広小路・木挽町采女(うねめ)ケ原など、いかがわしい小屋を拵えて、夜になると稼ぎ場にしています。最近は本所吉田町・鮫ケ橋・下山崎町にも夜鷹抱えの業者が出没。女と同居の男も事あらば現場に顔を出し、これを「ぎゆう」と呼んでいます。

夜鷹の相場は一回二四文。ところが天保十三年中に、江戸市内いたるところに料理茶屋や水茶屋の名目で密淫売する者たち、いっせいに吉原の一角に集められ、ここで商売するように定められます。天保十五年八、九月ころには、ここから東両国広小路の床見世(*売春窟)に三名、木挽町采女ケ原へ三名の女が派遣されるなど、こうした岡場所が次第に増えていきます。

しばらく遠ざかっていた夜鷹の存在が珍しかったせいか、貴賎を問わず、岡場所には見物人がどっと押し寄せました。そのため付近には夜鷹そば・茶飯・あんかけ豆腐・寿司・おでん・濁燗酒などが店開きして繁盛します。

そしてとうとう、夜鷹出没の場所案内をもくろんで、「東方・辻君花の名寄せ」と題する半紙二枚摺りの案内番付を出板する業者が現れました。番付には「本所や日本橋あたり、そこかしこに夜な夜な古今の珍鳥が出現するのをぜひとも御覧なさい」と書付け、さらに女の年齢・玉としての良し悪しを○上等、◑中等、●下等と品定めして売り歩くと、こいつは珍しいと大評判で大売れし、三日ほどで売り切れて絶版になってしまいましたとさ。(*掲出の狂歌等は後略)

 補注

●番付は相撲の番付に見立てて真似した一種の人気投票媒体で、江戸時代に各種各様の番付が流行した。多くは他愛のないものだが、娯楽の少なかった当時は人気を呼び、現在これのコレクションを趣味にしている人も少なくない。

●夜鷹の相場二四文は、岡場所で屋台の夜鷹そば一杯が一六文だったのに比べてみても、きわめて安価であった。したがって女たちは数で商売し、達者な者になると日に五、六〇人もの男を相手にしたという。

 

第三一話  あの世の鬼ども、奥方をこの世に追い帰す

──弘化二(1845)年四月七日、第十七より

生き返った奥方

牛込原町続き・根来(ねごろ)組屋敷、松平内匠頭組同心・久保田吉蔵の妻 とき 四三歳

ときは婦人病を患い病床に就き、先月下旬から重態にありましたが、今月七日夜十時ころ病死しました。遺体は菩提所の牛込馬場下横町・浄土宗誓閑寺へと移しました。当夜は同寺納所(なつしよ)で法要僧・天順と親戚一同が集まり通夜を執行。翌八日午後四時に葬式の段取り。先祖の墓所脇に一丈余りの穴を掘り、会葬客数百人分の応対の準備もませました。

同日午後三時ころ、身内のもの沐浴して身を清め、さて納棺しようと遺体を抱き起こしかけると、なんと唸りだして両眼を開けたではありませんか。みなびっくりし逃げ出すものも出る始末。とにかく十七、八歳くらいのときの娘を呼んで、親戚らが見守る中、寒いと訴えるときの体に衣類を着せ、寝所へと連れ戻しました。

さっそく手当てが始まり、薬を与えようとしたものの飲みません。それよりも何か食べたいといいますので、娘が仏壇にあった今坂餅(*江戸時代の七五三用祝い餅)を持ってきて食べさせますと、五つ六つと平らげます。そのうえ茶漬けもほしいといい、二寸五分径の茶碗に五、六杯も食べてしまいました。

ときは居合わせた者に、「もし、皆様」と口を開きます。「昨夜一〇時ころでしたか、極楽へ参るつもりでおりましたところ、途中で鬼が四、五名火の車を引いて迫り、車に乗せられて怖い思いをしました。やがて大きな門に到着し、その先の浄土に差しかかりますと、御坊様が一人姿を現し、あなたはこんなところへ来るのはまだ早い、元のところへ帰りなさい、と申されます。火の車はと見れば、もう跡形もありません。そこで元来た道を戻り、家にたどり着いて見ますと、ことのほか寒いのに気づきました」と語り終えました。

奥方はその後、容態はふだんと変わりありません。皆さん、不思議なこともあるものだ、狐狸の仕業かもしれないと厄払いの行事を執り行いましたが、どうなのでしょうか。

とにかく幸いに、ときは蘇生したわけで、御棺など葬具は売り先へ引き取ってもらいました。しかしながら、ときはとりとめなく人騒がせなことを口にするなど、異常な点もうかがえるため、目下座敷牢に入れてあるそうでございます。

補注

●この奥方は、現代にいう「臨死体験」という稀有の経験をした。ところが、民俗学資料などによると、このようなケースや「いたこがえり」した蘇生者は、周囲から気味悪がられ、何かと理由をつけては座敷牢などに幽閉されることが多かったようである。

 

第三二話  松の花咲き、商いも繁盛

──弘化二(1845)年十月、第十七より

音羽町護国寺前西青柳町/音次郎地借、田安殿小普請方元締め 渡辺造酒多(みきた) 

造酒多の父親は隠居して寿楽という七十四歳になる方です。以前は御鷹部屋の門番を勤め、今は退職しています。

 六十年前といいますから寿楽翁がまだ幼少のとき、播州に親類がおり、同地産「高砂の松の実」を貰い植え付けておき、成長を楽しみに待ちました。造酒多は田安家の軽輩だったのですが、御家人の養子になり、しだいに出世して、小普請方元締めの役を仰せつかっています。

 三年ほどたったとき、西青柳町に引っ越してきました。そのころ松の木はすっかり成木になり、これを庭に移植したところ、このたび珍しく花が咲きました。やがて近辺から見物に来る人たちが増えます。造酒多は松の木の絵を描いて摺り、希望者に頒布しました。

 松の絵図(*省略)には、こう添え書きしてあります。(*以下原文)

  夫松の花は百年に壱度、千年に十度咲故に、十帰りの花となん言、稀に見る人は自から百年の齢ひを経るとかや、文政の度、予が庭上の松にこの花開く、其後又青山甲斐組なる斉藤が許の松にも咲しが、其花は一ト房なりしが、ことせ又予が庭前の松に再度咲事、五房ニ及べり、其花の色妙にして、百日の余をふれども始にかわらず、見る人其形を画て家産にせん事を願ふに任せ、かくハ写しぬ。/弘化二乙巳年初冬、青柳西の郷 七十四翁 渡辺寿楽誌

 

第三三話  火難の護り神、神農像

──弘化三(1846)年正月、第十八より

本郷三丁目西角、兼安幽玄の屋根は破風に拵えてある。そこに掲げられた神農の図を描いてみた。

  神農は火元の方向をにらんでいる。 

伝えるところによると、この神農像は油石灰で塗り込めてあり、ある名人による入魂の作、まるで生きているようだ、という。この像を創作するとき、眼を玉眼(ぎよくがん)にしようかどうか迷っていると、子供がやってきて、眼は(はまぐり)がよい、と教えてくれた。この(たくみ)は名工だったから、心を込めて作り上げた。近くにたびたび火事があったが、焼失を免れている。しかも左官の腕が確かだったから、白壁はたびたび塗り替えたものの、像そのものを修復することはなかった。

ある人の話では、先ごろ像の手に欠損が生じたので補修したところ、すぐに剥がれ落ちてしまったという。最近の大火(*弘化三年正月十五日に小石川片町から出火、一里四方、五三〇町余が焼失)でも家は焼け落ちたのに、この像だけは灰燼の中で厳然と姿を現し、まさに生きているかのようだったとか。後日談になるが、またまた手が欠落したという。

補注

●神農、元は中国神話の農業神で、本草医学の祖神とされている。また、「炎帝」の異称をもつように、火難厄除けの祭神としても有名で、わが国でも火除けにまつわる俗信伝説が多数存在する。

●藤岡屋由蔵は、この日記全般にこまめに手書きの挿絵を披露している。上手だと褒めるわけにはいかない画筆だが、それがかえって日記自体に生き生きした印象を与える演出効果を生じている。

 

第三四話  鬼子を殺したと、夫婦で届け出     

──弘化三(1846)年閏五月、第十八より

閏五月二十三日に出産/赤坂田町五丁目五人組店・春吉方に同居、屋根職人・政治郎の妻 十八歳

同人、十二カ月目に出産したのが鬼子で、頭部の窪みに角が二本生え、牙をむき出し、生れ落ちてすぐに這い回った。両親、その子を殺したので届け出た。

(*右一件の後報として改稿か)

閏五月二一(ママ)日/鬼子の次第

赤坂新町五丁目五人組店、屋根職人・春吉方に同居、屋根職人・政五郎(ママ)

二十七歳/政五郎の妻・たみ 十八歳/同所五丁目・正兵衛店、万吉の妻・まん 四十八歳/同人店、町医 玄道の妻・ます 三十六歳

政五郎の妻・たみは、髪結い職人・友吉の元妻であったときから、政五郎と密通していました。友吉はこれを知り、四月に離婚しています。政五郎は髪結床をたたんで、同町四丁目の五人組店・春吉方に寄居しています。政五郎は妊娠中のたみを嫁に迎えたわけです。

今月二十一日正午ころ、たみは十二カ月目にして男児を産みましたが、この児は次に記すように、小児の体ではありませんでした。

一、頭頂、脳天部分が左右に開き、中ほどが窪んでいて、穴があるように見える。

一、頬は並よりも小さく、顔は土気色。

一、頭髪はまったく見えず、襟元から上にかけ毛が生えている。

一、口は並よりはるかに大きく、すでに歯が生えている。

一、頭部に一寸ほどの角のようなものが左右に二本ある。

一、(えな)全体に鱗のようなものが付いている。

 このように異常な体で生まれました。出産時はことのほか難産で、十二カ月という異常出産でした。

 赤子はよく太っていていました。助産婦まんと玄道の妻ますの二人は、政五郎からこの児の密殺を依託され、初め顔面に濡れ紙を貼り付けましたが、暴れてなかなか息絶えなかったため、喉を指で締め付け、やっと殺害し終えたそうです。

 この一件は風聞にすぎず、その筋から調査を進めてくださいますよう、支配名主よりお願いかたがた御届がございました。

補注

たみの後夫が「政郎」なのか「政郎」なのか、わからない。また、赤児の父親(タネ)が友吉なのか政五郎なのかも明記されておらずわからない。

●俗世間でいう「鬼子」とは、鬼に似た異様な顔かたちに生まれた赤児をいい、たいていは歯が生えていたり、髪の毛がふさふさして生まれついている。昔はそんな場合、わが子可愛さよりも不気味さのほうが勝り、ただちに密殺された例が多かったようだ。有名な武蔵坊弁慶も、母親の胎内に一八カ月とか居すわった鬼子で、あやうく父親に殺されかけた、と物の本に書いてある。

 

第三五話  珍しいこと、亭主が亡妻に(みさお)立て     

──弘化四(1847)年二月、第十九より

北品川宿馬場(ばんば)町/庄次郎店・大和屋菊次郎こと餅菓子商、清兵衛 二一歳/同人女房・くめ 八歳/防臭小港誕生時末寺、白金、日蓮宗・覚林寺(清兵衛の菩提所)

清兵衛は、嫉妬深いところがありましたが妻くめとは、仲むつまじかったということです。くめは昨年十一月、難産のため亡くなりました。清兵衛は落胆しきって商売に身が入らず、家財などを処分して親類に引き取られました。

今年二月、清兵衛は菩提所の覚林寺に行ったとき、住職に「くめが毎晩夢枕に立ち、『現世のあなたが忘れられない』と告げられています」と述懐。続けて、「かの亡霊は、『このままだと私は成仏できません。あなたに出家していただきたいのです』と申します。ぜひとも、御坊の弟子にしてください」と打ち明けました。親類も連れ立って見え、本人の希望を叶えてほしいと頼みます。住職も剃髪の身を預かることにしました。

今月二十六日の夜のこと、清兵衛はひそかに起きだし、墓地からくめの遺体を掘り出しました。そして自分の男根を剃刀で切り落とし、くめの手に握らせてから、元どおり土をかぶせて埋め立てました。

翌日、清兵衛は住職に、「くめはまたも夢枕に立ち、『清兵衛殿にオチンが付いているうちは、出家なさったところで、私の気が休まるはずがありません。ぜひに切り取りなされませ』と申しますので、こんな結果になりました」と話します。住職はおどろいて、こんなありさまでは寺に預かっていてもろくなことにならない、と結論。清兵衛の身柄は、親類の手はずによって品川三丁目の水茶屋・つねというものに引き取ってもらい、芝田町三丁目の医師・村越宗玄のところへ治療に通わせているそうです。

補注

●浄瑠璃作者の近松門左衛門がこの時代に生きていて自作に仕立て直したら、さぞ大当たりするであろう、艶冶で猟奇的な物語である。

 

第三六話  閻魔、目玉くり抜きの盗賊にお目玉     

──弘化四(1847)年三月六日夜、第十九より

〔本条は比較的わかりやすくまとまった文章なので、原文のまま転載する〕

四ツ谷内藤新宿浄土宗大宗寺閻魔大王像の目の玉を盗賊抜取候次第

右之一件大評判ニ相成、江戸中絵草子やへ右閻魔の一枚絵出候、其文ニ曰、

四ツ谷内藤新宿大宗寺閻魔大王像ハ運慶(*鎌倉初期の高名な仏師)作也、

目之玉は八寸之水晶也、これを盗ミ取んと、当三月六日夜、盗賊忍び入、目玉を操抜んとせしニ、(たちま)ち御目より光明をはなしける故ニ盗人気絶なし、片目を操抜持候まゝ倒レ伏たり、此者は親の目を抜、主人の目をぬき、(あまつさえ)地獄の大王の目をぬかんとなせしニ、目前の御罰を、世の人是ニこりて主の目をぬす謹しミ玉へと、教の端ニもなれかしとひろむるにこそ。

 亦閻魔と盗人と坊主、三人拳之画出ル。

  ♪さても閻魔の目を取ニ、這入る人こそひよこ〳〵と、夜るそろ〳〵目抜ニ参りましよ、しやん〳〵かん〳〵念仏堂、坊さまニどろ坊がしかられた、玉ハ返しましよ、おいてきなせへ人のめを、抜て閻魔の目をぬひて腰がぬけたで、きもと気がぬけ

(*このあと落首二首に続いて、「閻魔の目を抜候錦絵一件」と題した別文が続くが、省略する)

 

第三七話  三人娘が心中の真相、霧の中     

──弘化四(1847)年五月十日、第十九より

三人娘心中の一件/検死の調書は左記の通り。

水死 新和泉町南側、又兵衛店、久助の娘 よね 十八歳/水死 神田鍛冶町一丁目家主市右衛門の娘 ひさ 十九歳/水死 同所同町二丁目、喜兵衛店、安兵衛の娘 ちか 十八歳

この三人は五月五日正午ころ行動を共にし、両国から浅草へと足を伸ばしたまま帰宅しません。(*だれが?主語不明)心当たりを調べているうち、昨九日、永代橋際に女子(*三人の)水死体が見つかったとの噂を聞き込み、もしやと思い駆けつけてみたところ、本人たちに違いないと確認されました。

三人は無理心中したもので、腰紐を用いて互いの腕を縛りあい、投身したものと見えます。どの場所で入水したかは不明です。(*その後に判明したところでは)昨夜、霊岸島の向井将監様御番所前の(いかり)(づな)に、この人の死体が漂着したのを見つけ、(*だれが?主語不明)ただちに柳原岩井町地先の柳原土手、いわゆる稲荷川岸へと(*船で引いて?)移動させたそうでございます。詳細は追って御報告することにいたします。

(原本の挿絵)

 本石町二丁目定吉店、利兵衛方に同居 儀兵衛 二十四歳(三人の娘を手玉に取った情夫(まぶ))

儀兵衛は本町一丁目伊豆蔵の通い番頭・某の忰で、普段から女や娘たちの家に入り浸っていました。新和泉町久助は酒屋、鍛冶町一丁目の市右衛門は八百屋で、両家は親類関係にあります。儀兵衛は幼名を定吉といい、両家に出入りして酒を振舞われたり、娘たちを芝居見物に連れ出すなどして、三夜交替で泊り込むこともたびたびだったといいます。

今月五月五日、儀兵衛はよねひさを連れて両国から浅草へと出かけました。鍛冶町二丁目の安兵衛娘のちかは、向島の町年寄・喜多村彦右衛門隠居方に奉公しています。友達で近くに居ることから、儀兵衛と二人の娘に誘われ、四人で猿若町へ出向いて芝居見物、その夜は宵のうち各人の家に帰りました。

翌六日昼ころ、儀兵衛は鍛冶町の市右衛門宅へ行きますと、ひさは先ほど外へ遊びに出たとのこと。次に新和泉町の久助方を訪れましたがよねも外出で留守。そこへ一人の男が訪れ、手紙を差し出しながら、「じつは私、鍛冶町の市右衛門様を訪れましたところ、(*儀兵衛さんが)こちらにお越しと伺いました。市右衛門様は追いかけてみたら、と申されました。詳しいことはこの手紙に」とのこと。手紙は儀兵衛あてによね・ひさ・ちか三名の連名で出したもので、文面には「亀井戸吾妻森手前の塩橋の茶屋でお待ち申しています。どうかこの方と一緒にお越しください」とあります。儀兵衛はこれを急助にも見せ、「ちょっと遠いですし、あいにく雨も降り出したので、勘弁させててもらいます」と気がのりません。聞いて久助、「私は今日支払いなどに追われ迎えに行けません。あんた、駕籠で行ってくださらんか」といって、駕籠を用意。儀兵衛もやむをえないことと、男と一緒に駕籠に乗って出かけました。

塩橋の茶屋では三人の娘が待ち構えていました。よねひさは向島でちかと合流し、連れ立ってやってきました。それから四人で、飲めや歌えやの騒ぎが始まります。酔いも回ってきて、当夜は茶屋に泊まることに。翌朝、いつまでも居続けられないと、十時ころ茶屋を出て四人こんどは屋形船に乗り込んでの遊興です。七日夕刻には両国に船を着け、船宿で酒食に時を過しました。その晩どこに泊ったかは不明です。

八日夕方には、灘波町の千代本という手打ちそば屋兼料理屋の座敷へ上り、ここでも酒食をしています。ここで儀兵衛、「二、三日続けてだから遊び疲れたろう。もうお開きにして自分の家に帰りなさい。それにしてもいきなりは帰りづらかろう。ここは私がみんなの親御さんを巡り歩いて言い含めておきますから、戻るまで三人でここに居なさい」と伝えます。

そう言い残して儀兵衛、久助と市右衛門宅を訪れ事の次第を話しました。両家では儀兵衛が娘たちを連れて遊び歩くのにもう慣れていましたから、そのまま放っておきました。安兵衛宅では、「ちかが出たまま戻らないので私らは心配し、久助さん、市右衛門さんそれぞれに様子をうかがったところ、もう慣れっこだから、と落ち着いたもの。これは馴れ合いで平静を装っているな、と感じ、私としては訴え出るところだった」とのこと。そこへ儀兵衛が現れたわけで、その場で身柄を拘束されてしまいました。

安兵衛はさっそく難波町のそば屋へ駆けつけましたが、三人の姿が見えません。それから三軒とも大騒ぎになり、親類・長屋・近所の者が動員され手分けして行方を追っていた折もおり、永代橋下の女たちの水死の噂が耳に入った。現地でよね・ちか・ひさの三人に違いないことが確認されます。互いの体を腰紐で結び合わせ、離ればなれにならないようにし、片手を握り合っている。三人は相談のうえでの無理心中と断定されました。検視のさい、互に組んだ手が離れなかったそうで、なんとも不思議なことです。動機については、

一、関係者の推定によると、三人の娘各人が儀兵衛の女房になる心づもりでいたが、誰一人として女房にはなれる義理合いにないことがわかり、相談のうえ入水を図った、などなど。

一、後日、六月上旬の評判では、三人それぞれが強姦されたうえ殺されたのだ、と取沙汰されている。

 後者の説だと、船頭のほかに一二人の男示し合わせて、船に連れ出し輪姦した、としている。そのとき、娘の一人が大声で泣き叫んだため手拭いで口をふさぐと、息を止め気絶してしまった。残る二人も後難をおそれ助けるわけにはいかず、一緒に殺してしまった。解いた帯は値打ちものだったので売り払ったところ、(*どの?)娘の親がこの帯を古着屋で発見し、それを手がかりに犯人一人を逮捕したところ白状したので、六人まで捕らえることができ、残る六人は捜索中とのことです。

また、浅草広小路の()(めし)茶屋で酒飲みたちしていたことに人の身投げは女ばかりで、男っ気がなくつまらない、と軽口を叩きました。すると脇から足軽体の男が口を出し、「あれは身投げなんかじゃない」と余計なことを洩らまいます聞いていた人が密告し、足軽はただちに捕らえられ、強姦したことを追及されました。この男も連中に加わっていたことを白状したので入牢になっ。ほかにも似たような噂が出ています

補注

●事件の真相は示されていないが、克明な内容から一件は事実であろう。かわら板などでも報じられたにちがいない。

●由蔵が書きとどめた記録は膨大な量に達し、史料価値も高い。しかしながら、彼の文章が稚拙かつ乱暴なのには辟易で、読んでいて疲れてくる。急いで書きなぐる癖がついていたのだろう、叙述が乱れ、構成に矛盾が目立ち、しかもろくに推敲もしていないのだ。そのため直截な現代語訳など及びもつかず、あれこれ添削を加えながら現代文に整える必要がある。

●なかでも目立つのが文彩(修辞学)でいう主辞内顕という、主語省略技法の濫用である。主語省略は日本語文の大きな特徴だが、これを用いてよいのは隠されている主語が文意から容易に類推できる場合に限られる。その点、藤岡屋の書いたものは、本条でも*印付きで触れたように、ルールなど度外視して禁則を破っている。複数考えられるうちでどの主語を当てはめたらよいのか、見当も付かないケースが多々あるのだ。一言お断りしておきたい。

 

第三八話  厄年で寅年生まれ、異形の寅次郎     

──弘化四(1847)年八月二十七日、第十九より

御代官・北条雄之助の手代・斎藤兼四郎、関東御取締出役廻村先で噂を聞き、佐原新田に出向き見聞したこと

異形の小児・寅次郎の図 

   この小児の母は、常州河内郡古渡村の百姓・久右衛門の娘で、同村の百姓・半兵衛に嫁入りした者です。懐妊中に事情があって離婚し、そのあと下総国香取郡佐原新田の百姓・長吉と再婚しました。名をわかといい、当時三十三歳(*女の厄年)でした。

六年以前の天保十三年の寅年に男子を出産。寅次郎と名付けられたこの子は年とともに、図のように異形に育ちました。頭は蛸のようで、眼は黒眼凹んで白眼が覆い、歯は上下とも二枚ずつ。背中中に産毛が渦巻き、手足は赤子のように小さく薄毛が生えています。全身が鼠色を帯び、胴体は六、七歳程度で青膨れのありさま、近寄ると臭気を発しているのがわかります。近くの者の言うことはわかるらしく、聾唖ではありますまい。ときおり笑い、食べ物は団子が好きだそうです。

補注

●昔の人が忌み嫌った、母親が三十三歳女の厄年の出産、生まれた年が干支で寅年、しかも名前が「寅次郎」と、胡散臭い鬼子話である。

 

第三九話  小僧盗人が巻き起こした珍騒動     

──嘉永元(1848)年八月、第二十一より

横大工町の糸屋・中西の丁稚(でつち)小僧、二歳で主人の金を盗み、駕籠に乗り新吉原へ女郎買いに行った件

神田横大工町に中西三郎兵衛という糸屋があり、ここは三河町の紙屋・中西半三郎の出店です。この店に去年十月、丁稚小僧に出された者、親は外神田須田町代地裏に住む御作事方下働きで、六十歳くらいの男です。昨年四十を越える女房を持ちましたが、この女の連れ子が当の小僧に出された者です。親父のほうはいま根津に引っ越しています。

八月七日朝のこと、中西三郎兵衛の女房は小僧を供に連れて寺参りに出かけるため、小僧を蔵へ着換えにやりました。蔵の中で小僧、ふと出来心を発し、箪笥から八両二分の金を盗み出す。着換えてからその金を懐に蔵の中に隠れ居りました。内儀のほうは支度を済ませ、小僧を探しますが姿が見えず、やむなくほかの小僧を供連れに仏事に参りました。

小僧はその夜、土蔵に忍び込んで一夜を明かし、翌朝明るくなると隙をうかがって逃げ去ります。あちこちさ迷い歩き、夕方、浅草雷門を出たり入ったり。三人の駕籠屋がその姿を見つけ、吉原の覗き見に行くなら乗せていくよ、と誘う。小僧、駕籠賃を聞いたところ、五〇〇文との答。急いでほしい、というと、それなら三枚だという。三枚とはいくらだと尋ねると、二朱だよ、と。小僧は二朱でも一分でもいいから、急いでやってくれとせかします。この一言を聞いた駕籠屋、小僧から金をふんだくってしまおうと、吉原へは行かず小塚ッ原の御仕置場へと乗せていきました。

やがて人気のない所につくと、駕籠屋、小僧に三両だと吹っかける。小僧が三両出すと、帰りの酒代にもう二分よこせ、と。その二分も与えると、この事ほかに洩らすなよと口止めし、やっと吉原に向かいました。それから伏見町の山本屋くまの店に連れて行く。山本屋の若い者は、小僧が金を持っていると聞き及んで、女郎を出し、芸者を揚げ、酒肴を出して金をむさぼり取ったのです。

翌朝、駕籠屋が小僧を迎えに来ましたが、小僧は乗せずに芝居見物に連れ出します。九日のことです。翌十日も物見遊山、その日は町内のてんぷら屋の忰が、隣の桟敷で芝居見物していました。その観察によると、小僧の着物は松坂縞の単物(ひとえもの)、帯は琥珀(こはく)(おり)、守袋を吊り下げ、矢立を二本持っていたそうです。後に小僧の話では、鍛冶町の糸屋で宿下り(*小正月などに店の奉公人が数日暇をもらって実家へ帰る休暇をいう)のとき、三日も芝居見物したほど好きだったとか。

さて、その夜は田町の伯母の家に泊まりこみます。ここで一両二分残っていた金を三分使い、三分だけ残ったそうで。上物の菓子や梨など水菓子を食い散らして乱費、これでスッカラカンにならないほうがおかしい。それどころか駕籠屋に三両二分をむしり取られ、山本の若い者に五両むさぼり取られたのであれば、一文も手元に残らない計算です。

つまり、別に一両二分も持参していたということは、ほかで盗んで持参していたことになる。案の定、吉原で探索の者どもがこのことをかぎだし、番屋へ引っ張って白状させました。山本の若い者も断罪です。

それから小僧の親父の所へ知らせに人をやると、親父がいうことに、「たしかに忰を去年奉公に出しましたが、まだ十二歳の子供、女郎買いなんてできやしません」と。使いの者は、「だといいですがね。どっちみち、今のうちに盗んだ分を耳を揃えて返してくれるなら、事を内密に済ませましょう。さもないとお子さんを番所へ差し出すことになりますよ」と、掛け合います。親父は事情をよく聞くと、忰も無事の様子、そこで金を工面し、忰を引き取りに出かけました。しかし忰はすでに引き払い、行方も知れません。そこで連中は考えました、今ここで小僧を帰したなら駕籠屋を捕まえることができない。そこで小僧を首実検させて、雷門前で駕籠屋三人を逮捕することができました。すなわちグルの五人が入牢したわけです。

さて小僧の母親は、連れ子の引け目もあることだし、亭主は正直者で六十歳になるまで番所へ顔を出したこともない人。亭主に心配かけてはと、着物などを質に入れて一両の金を都合つけます。新地の道具屋・安というものに同行を頼み、中西に慈悲を請うため出頭、さしあたって一両の手持ちを頭に入れ、残る金額は一分ずつの月賦にしていただきたい、と。しかし、なかなか応じてもらえず、相手いうことに、「なんせ八両二分の大金だよ。まず四両を入れ、残りは二分ずつ月払にしてもらわないと、承知できない」と言い張ります。これはできぬ相談と、母親と道具屋は仕方なく帰りました。

しかしながら、駕籠屋の仕業とて追剥並み、ということできつい取り調べはさけられない。まして三両奪ったとはいえず、内内三人で一分ずつ、足すことの三分で話をつけることになったそうです。

 

第四〇話  大損した両替屋め、ざまあみろ     

──嘉永元(1848)年八月、第二十一より

芝、「乞食松屋」の話

この盆ごろもっぱらの話題に、芝金杉の比沙門横町角に「乞食松屋」という両替屋がいて、室町の竹原と親類で富豪だといいます。彼は上方での銭相場が目の付け所だとし、竹原と示し合わせ両家の銭を樽詰めにして上方へ船積みしたとのこと。約一万両の銭を、百銭(*百文銭「天保通宝」)は醤油樽に詰め、四文銭(*通称(びた)、「寛永通宝」四文銭など)は油樽に詰めて積み出しました。そのおり浦賀奉行・浅野中務少輔御役所において船荷検査を受け、この一件は表沙汰になってしまいました。松屋は危うく財産没収になるところ、奉行所の配慮により、油樽に入れ置いた四文銭は油の値段換算で一樽につき三両、百銭が入った醤油樽は醤油の値段の一樽一〇匁ずつで買い上げということになりました。

さて、一万両の銭で二千両を儲けるつもりが、およそ八千両も損をしたともっぱらの噂で、この話マユツバでありましょうが、興味を引かれることなのでご紹介しておきます。その節の落首に、

 あしき銭を乞食のやふに溜置て

      上りをまつやわるい評判

補注

●因業な商法で肥え太る両替商をしがない庶民が戯評した作り話である。なぜかというと、取締る側が特定の受益者に対しこうした半端な温情をかけるなど考えられないことで、自ら法の番人としての責務を放棄することになるからである。

●もう一つ、両替商が貨幣相場の変動に乗じて公の流動資産である銭貨を自己の利益のために悪用することは法度であった。本文中には「上方銭相場宜敷とて」とあるように、江戸時代の金・銀・銭貨については地域により相場差益を生じることが珍しくなく、ことに幕末維新のような世情動乱の時期には両替商が銀相場に便乗しあくどく儲けた例も記録されている。

 

第四一話  提灯の火に弱かった紙屑屋の強盗     

──嘉永二(1849)年正月二十日、第二十四より

二十日夜十時前、本町四丁目の柏屋孫右衛門方に一人の侍が押借り(*金銭借用の体を装った強盗)に侵入しました。旅装束で大小両刀を帯び、頭に熊の皮を被り、同じ皮の腹巻をまとわせています。

男は店へ上りこみ、「主家のためにどうしても百両入用だから用立ててほしい。声をあげるな。わしも命がけなんだからな」と、だんびら(*段平、刀身の幅広いもの)を抜き放ち強要します。店の若い者共ぶるぶる震えながら前に出る者もありません。やっと年かさの一人が一歩進み出て、「今日は支配人が外出中でして。金庫の鍵がありませんからな、百両ものご用立てはできません」といって、若い衆の懐金と店の小金をかき集め、これで勘弁してくだされ、と一五両を差し出す。そうこうするうち、勝手の方で車曳きや飯炊きらが集まり、弓張提灯を四〇張も点灯しました。侍これには閉口し、一五両でもよいと承知、金を懐に外へ出たとたん、騒ぎを聞きつけた近辺の者が協力しあい、門口に四人が待ち伏せして、ただちに取り押さえました。

番屋で男を取り調べたところ、下谷山崎町の紙屑買で、侍姿で脅しに出たもの。

 百両を丸かしわとはふといやつ

      親でも子でも孫左衛門でも

 

第四二話  「人面蜘蛛の図」の史実がらみの由来     

──嘉永二(1849)年四月、第二十四より

小型で、色は青い。頭部は普通の蜘蛛だが背中に人面を示す。色青白く、眼・鼻・口・眉毛は鮮やか。瞳があり、口の中に赤い段が見える。口を閉じると髭のようなものが黒く見える。毛髪が生え、芥子(けし)に似て、大将(まげ)のようだ。顔面しく、あたかも勇猛な武将に見える。

麻布十番の侍の林田某、ある農夫が持参したこの蜘蛛を珍重なものと見て貰い受け、飼うことにした。どこの産かはわからない。

伝えられるところだと、信州佐久郡大久保村の土中から武田信玄の弟の佐馬介信繁が、川中島の戦で戦死した首級を掘り出された。(*人面蜘蛛はその成れの果てだろう)近くの樹などに棲みついているそうだが、島村蟹・平家蟹の類だろうか。ことに鼻・眼・口はくっきりと鮮明で、まるで人面のようだという。飼う餌は蚊・蝿・蜻蛉などで、貪り食うこと並みの蜘蛛に十倍すると。実物を見たので記しておく。

 人面蜘蛛の図

   別報の件で改めてご報告します。(*情報提供者がどこの誰か明記なし)

当地から一里余り離れた、牧野遠江守殿御領地・信州佐久郡大久保村という所、畑地内に古塚が一基あります。年々周囲を少しずつ掘り崩したせいで、元から比べだいぶ小さくなっています。このたびまた掘り崩され、地ならしにかかったところ、塚の中に鍋のような形をした、差し渡し一尺一寸四分、深さ七寸余の鉄器が切石の上に伏せ置いてありました。中に髑髏が入っていたので作業員らは驚き、何か発見の手がかりになるものはないかと探しました。まもなく五輪の塔の火袋が添えてあり、四方が膨らんだ角石も見つかります。これらの泥土をよく洗い流してみると、表に「永禄四年九月九日、松操院殿鶴山巣月大居士」とあり、裏には「同六年亥二月建之信勝」と刻まれている。これは捨て置けないと、さっそく領主に報告しました。領主は、とりあえず元通りに埋め直して、大切に保管するよう申し付けたとのことです。

どなたの首かわかりませんが、川中島合戦は永禄四年九月十日のことと記憶しています。その日前後にも小競り合いがあり、武田典厩信繁の首ではないか、と推測する者もいます。というのも、川中島で越後上杉勢の松本杢助が鉄砲で戦死したことにちなんで、川中島に典厩寺という信繁の菩提寺があり、そこで弔ってくれるよう頼まれましたが、そこは戦場の習い、敵方に首を切り取られるのを嫌い、味方が前もって首を打ち落とす例も間々あったということです。そして典厩寺に葬られたのは首なし遺体だけで、首のほうは既述の大久保村の畑中に隠して埋めた、とも考えられます。ことに「信勝」の名が記してある以上、武田信繁の首と称してももっともらしく聞こえます。

ちなみに信繁は信玄の弟で、信勝は勝頼の子息です。勝頼は諏訪家の後裔ですから、信勝をして武田家の世継に立てた、ということができます。珍しい話ですので、お知らせいたします。

なお人面蜘蛛の持ち主は、麻布十番御能松御用達・林田小右衛門といい、かなり富裕な方です。近頃いくつかの御役宅にも蜘蛛を持参してお目にかけていますが、蜘蛛は正真正銘(ほんもの)で、まだ生きています。

補注

●本条は挿絵を挟んで前半部と後半部とで書き手が異なっていることから、情報寄せ集めの雑報であることが一読してわかる。『藤岡屋日記』では、同一事件を扱ってもこのような多角収集スタイルの記事が少なくない。これにより史書として客観的評価が高まるとともに、由蔵の情報収集ルートがいかに多様であったかを物語っている。

 

第四三話  一見御利益、後光さす人魚の図     

──嘉永二(1849)年閏四月、第二十四より

越後福島潟の人魚のこと

越後国蒲原郡新発田城下の脇に、福島潟という大沼がある。いつの頃よりか、夜な夜な女の人を呼ぶ声が聞えるが、誰一人として姿を見届ける者はなかった。

ところがある夜、柴田忠三郎という侍がこれを見届け、「お主は何者だ」と尋ねると、あたり一面光明を放ちながら、「私はこの池底に棲むものです。今後五年間はどの国ということなしに、豊年になります。ただし、十一月ころから流行り病のため六分通りの人が死ぬことになりましょう。しかし私の姿、あるいは絵を眺める者はそんな心配がありません。すぐ世の人々に知らせなさい」というと、水中に姿を消してしまった。

 人魚を喰へば長寿を保つべし

      見てさへ死する気遣ひはなし

こう書いた図を町中に売り広めたそうである。

 越後福島方に住む人魚の全姿、念写した図

 

第四四話  親孝行で罪科は帳消しに     

──嘉永二(1849)年六月、第二十四巻より

 唐人船絵の売子姿

    このたび橋本町一丁目の善八店・団十郎惣次の忰・政吉は、十一歳だが親孝行により五貫文の褒美をいただきました。その経緯を書きます。

今年の春、異国船がまたもや豆州下田に到来したときのこと。この件を西久保砂政ほか一名が半紙一枚半に摺って板行し、八文で売り歩きましたところ、閏四月二十日に市中の売り子五人が逮捕されました。そのさい政吉も唐人船の絵を売ったため、馬喰町で町方巡邏の者に番屋に連行されました。

ここで調べを受けたとき、政吉は中気の親を抱え、養生させるため商いしたものと判明。役人も同情して何か他の商売をするようさとし、絵の買い上げ代として二〇〇文を渡します。それと知った助手の者たちも黙っていられなくなり、二〇〇文出して残りの唐人船絵を買い取ることに。合わせて四〇〇文を差し出し、これを元手にほかの商売で稼ぐように言い含めたうえで、善八に引き渡したそうです。

 橋本町一丁目・家主善八店、団十郎惣次の借家住いの図

  忰の政吉、家業に精を出し、病中の父に好きな酒を飲ませている情景。それを密偵が見届けた図である。

(*このあと褒美に五貫文を下賜する記述が続くが、省略)

補注

●江戸時代は庶民生活においても儒教精神が密着しており、「親に孝行」は基本的な美徳とされていた。『藤岡屋日記』にも出来過ぎと思えるような、親孝行を賞賛する記事がいくつか見え、本条はそのうち絵入りの一つである。

●嘉永あたりから、外国船の来航を誇張したり批判したりする文書画報類は、人心をみだりに騒乱するという理由で禁制になっていた。しかし表向きは取締られても、多くのかわら板や落書などに見るように、庶民はこういう報道を歓迎し、隠密出版が跋扈した。

 

第四五話  平穏の世か、蛙合戦まで「御届け」に     

──嘉永三(1850)年正月二十二日、第二十八より

麻布古川「蛙合戦」に関する御届書

昨二十一日朝から、麻布古川通肥後橋続き、青木駿河国守様御屋敷前、古川端の道筋にどこから集まったのか、数千匹の蝦蟇(がま)が密集し、合戦が始まる模様になりました。

伝え聞いて近隣はいうに及ばず、見物に出かけて来た者大勢あり、数千匹の蛙がうごめき食い合う様子を見せております。昨二十一日はたびたび集まっては消え去る仕草を見せました。なんでも隣接する青木様御屋敷内古池から移ったという噂もあります。今日も寄り集まりそうだというので、たかが蛙合戦とはいうものの、群集することに変わりございませんので、とりあえずお届け申し上げます。

補注

●蛙合戦という名前は仰々しいが、交尾期を迎えた早春、群集する蛙の発情行動にすぎない。こうした取るに足りない一件すら話題になり、報告書が提出されるのだから、黒船来航前の、寸時の泰平を垣間見せたのかもしれない。

 

第四六話  「切られ三次」が喧嘩でまた切られた事件     

──嘉永三(1850)年二月七日、第二十八より

初午の日、上野山下で「切られ三治」が喧嘩で切られた事件

下谷御切手町、切られ三治 三十七、八歳/下谷山崎町二丁目花又亀子分 花又勘次

切られ三治は、以前は谷中の麹屋鉄太郎の子分で、町方召捕り役人の配下を勤めていました。生来の悪者で、顔に数箇所の切り傷があるのを自慢にし、こわもてなことから人呼んで「切られ三次」と異名しました。あまりに悪党だったので、二代目鉄はこの男を破門しています。

三次は人の女房に言い寄っては寝取ることもしばしば、という無法ぶりでも知られていました。当時の三次の女房は、近くに住む飾り職人の妻で、元は吉原の女郎だった、それを盗み取ったのです。

正月二十日は上野御仏参で人で賑わっていました。三次は山下の慶運寺脇でチョボイチドッコイドッコイ(*賽一個を使った出目博打)の張見世を出し、頬の傷を看板に人を怖がらせてはゆすり・たかりの難題を吹っかけ、喧嘩を仕掛けるなどやりたい放題。悪事を重ねスネに傷持つ身、近所でも鼻つまみのワルです。

谷中・麹屋の子分たち、当日夕方に三次をひっ捕らえようとやってきました。が三次は悪口雑言を並べ立て、もう兄弟分の義理もないはずだ、とののしります。子分たちも負けておらず、「前の兄弟分は私事だ。今日は御用の筋でやってきたのさ」と、三次に縄をかけ、番屋へとしょっ引きます。ここで仲を介す人あって放免されますが、こんないざこざを起こす三次の評判は落ちるばかり、山下の賭場へは張に来る客もいなくなりました。

その近く袴越には花又勘次が定見世を出し、相応に繁盛していました。三次はかねてからそんな勘次をねたんでいましたが、初午だというのに商売敵の店は繁昌、それに引き換え自分のところは客の姿も見えない。そこで勘次の店へ行き、俺にもここへ店を出させろ、と談判しますが勘次は承知せず、「ここにいられては迷惑だ。帰ってくれ」とやり返す。三次ヤケになり悪口雑言を吐いて喧嘩を吹っかけますが、ほかにも同業仲間が多くいて、何とか取りなしてくれました。でも三次は心おだやかならない様子。子分が後を付けると、三次が山下の古道具屋で出刃包丁を買い、懐へ忍ばせたところを目撃してしまった。彼は一足先に勘次のもとへ駆けつけ、しかじかと知らせると、勘次や子分度もみな裸になって、棒切れなどを手にし、道端に待ち受けます。そうとは知らず三次がやってきた。商売に夢中のときに不意に切り込もうとしたが、待ち受けた勘次大声で、「なんだ三次、おれを切ろうとやってきたか。なら切ってもらおうじゃねえか。さあ、さっさと切りやがれ」と怒鳴る。さすがの三次も先手を取られ後手に廻ったしくじり、それでも庖丁を振り上げきりつけるが、勘次は木刀で庖丁を叩き落し、すばやく庖丁を奪い取って滅多切りに切りつけました。これで三次は一一カ所もの手負い傷を受け、叩きのめされ、一同が引き上げた後も惨めな姿をさらします。怪我を負った三次は悪党だったから、身柄を引き取るものもないまま三日三晩放置されました。が、そのままいつまでもというわけにもいかず、近所の者が仲に入り、山下茶店の株を一軒三次に与え、治療をさせ、立ち直らせる結果になりました。

 評判の切られ三次が又きられ

 振あげし庖丁取られ逆さまに 

     すれバ向うのちようほふになり

補注

●とにかく有名な事件で、歌舞伎『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)(三世・瀬川如皐作の世話物)は、この事件にヒントを得て翻案、脚本化されたという。三年後の嘉永六年に初演となり、評判が高まった。

●原文では、当初「三治」がいつのまにか「三次」になっている。こうした軽率な表記化けが日記のいたるところに目立ち、しかも推敲の跡もないのは残念なことである。

 

第四七話  大蛇の子、見世物に、似せ物に     

──嘉永三(1850)年三月二十一日、第二十八巻より

大蛇の子の見世物は今日が初日で、向両国の左側筋、あわ雪(*茶店?菓子舗?)の前門に開いた。

小屋は従前よりも大型になり、「日本一大蛇の子」という大幟を立て、一間四方の大看板の絵が掲げてある。これは滝の下で狼三頭を手取りにした絵で、一頭は足で踏みつけ、一頭は滝壺へ叩き込もうとしている図、一頭は手で差し上げている。上空雲の中には竜が顔をのぞかせているが、母竜が驚いて止めている絵柄である。脇に口上を書いた立看板があり、「奥州牡鹿郡反鼻多山麓蛇田村の旧家・里長何某の孫、母親は大蛇に魅入られ解任して産み落とした男の子の名が金太郎、山中で猛獣も恐れず、水中にしばらくいても溺れることがない」と書いてある。

木戸銭は一人二四文、多入り大当たりである。しかし興行主はこの大蛇の子を一〇〇両で買取り、七月までの期限で、売り手には当座に二〇両だけ支払ったそうである。

 大蛇の子・金太郎、水を好み飲んでいる図

 (*中略。続いて候文の別記事で記述)

大蛇の子・金太郎(*別記事によると、当年七歳)を買い取るさい、興行主は二〇〇両まで出そうといいましたが、甚兵衛(*奥州安達郡二本松百目木村の百姓で、金太郎の養父)は腹を立て、江戸へは金太郎を治療に連れて来たので、見世物にするつもりはない、と連れ帰ってしまったそうです。仕方なく右の似せ物を拵えて(*前述の金太郎)出し物にしました。

また四月二十一日が初日の触れ込みで、大橋加賀町左側・吉岡という場所に見世を出しましたが、これは両国で悶着が置き場所換えしたとのこと。こちらの金太郎は両国のとは大違い、大ぶりで元気がない。「蛇小僧」なる幟を立て、一人二〇文で、二階を暗くして見せたもの。後に両国で用いた看板を使い二四文に値上げしましたが、ニセモノと知ってか見物人もなく、店仕舞したそうです。

補注

●悪質板元が見てきたようなデタラメな一枚絵草子を売りさばき詮議を受けた話など、関連記事も記述されている。

●この手の異形の見世物は、例外なく、と表現していいほどインチキで、見物客もそれを承知で「騙される」楽しみを買ったわけである。

 

第四八話  悪評高い破戒坊主、とうとう獄門に     

──嘉永三(1850)年三月五日、第二十八より

四谷伊賀町の殺人事件、三月五日に解決

即死跡無構 (*遺体処分放任)……四谷北伊賀町、支配勘定役 脇田平左衛門 四十二歳/獄門(*斬首・さらし首)……同所左門町、小川鍬太郎方借地人・御本丸御時計坊主 有田栄務 二十七歳

十二月一日甲子(きのえね)の夜、脇田家は裕福でしたから、手持ちの金銀を枡に入れ、大黒様にお供えすることを慣例にしていました。

このことを知っていた盗賊一人、夜中に便所の汲取り口から忍び込み、糞壺に板で蓋をし、桐油(とうゆ)合羽(かつぱ)けて侵入しました。そのときは平左衛門まだ目覚めていて、犬でも動き回っているのだろうと思い、追い払おうと立ち上がりました。便所の戸を開けて見ると、中の賊は脇差を抜いて兵左衛門を刺し貫き、太刀で頭にりつけ、をえぐって死に至らしめます。物音に驚いた女房が逃げようとするところをこれまた斬りつける。騒ぎに姿を見せた女中達にも刀を振るう。逃げ出した女たちが「人殺し、人殺し」とわめくのを聞きつけ、近所の者が大勢駆けつけたため、賊は金を奪うこともできず、塀を乗り越えて逃走しました。

後によく調べてわかったことですが、板塀には黒の八丈頭巾に博多帯が引っかかっていました。頭巾には油気がありません。博多帯には大小刀の鞘ズレが見当たりません。これは医者か坊主のもの、と気がつき、役向きの者が脇田家出入りの関係者を調べに取りかかりました。すると、親戚に有田栄務という坊主がいる。無法な男で、妻子持ちながら新宿の悪所通いを続けていると判明。そこで鮫橋の奴貞という御用手先の者が、栄務の馴染女だという新宿八幡屋抱えのおなミを尋ね、慰留の二品を見せて告げます。「この客は今夜もここへ来るはずだ。その証拠品かどうか見届けてほしい」と、おなミ手に取ってみて、「たしかに栄務様の品です。でも、今夜は見えないでしょうね」という。奴貞がどうしてだと聞くと、「先ごろ来たときに、あの方は『おれは評判が悪くなっているから、当分来られない。足は遠のくが、お前に二心はないから、悪く思うなよ』とおっしゃいましたから」ここで奴貞、してやられた、と気づきます。

それでも執拗に行方を追ったところ、同月八日の勤務明けに仲間七人の協力を得て、八人で四谷御門外で栄務を待ち伏せ、彼の姿を見かけるや、いっせいに飛びかかり、一人が脇差をもぎ取ります。栄務も抵抗しましたが、大勢の相手に手足を取られ、伝馬町一丁目の名主・高島孫右衛門方に連行され、正式に逮捕されました。

 大黒へ供ふる家にわきた金

      敵となりて難がきのへね

さて、栄務は脇田平左衛門の先妻の連れ子、一〇〇両の持参金付きで御本丸御時計坊主(*江戸城本丸の土圭の間で時報掛を勤めた役僧)に養子に出されました。つまり平左衛門は、大恩ある義理の父親に当たるわけです。母親は先年、精神異常になり、七〇両の手切れ金で離縁され、栄務に引き取らせます。栄務は相変わらず脇田家に出入りしていました。子供までいる身なのに新宿の女郎にはまり込み、身上(しんしよう)を入れあげていました二月一日にも脇田家に顔を出し、枡の金を見て犯意を生じ、「この金があれば面白おかしく遊びまわれる」とんだのです。同時に、母親が追い出されたことを恨んで、脇田を殺す決意を固めた、と思います。以前彼は剣術を習っていたそうで、逮捕のときも手先の何人かが投げ飛ばされたとのことです。(*この後栄務に対する獄門の判決文が続くが、省略)

 

第四九話  尻子(しりこ)(だま)抜いた男色漢(カツパ)を突き出す     

──嘉永三(1850)年三月二十五日、第二十八より

四谷新宿田村における肛門強姦の事件

四谷伝馬町三丁目、松島屋喜右衛門方の年期小僧 徳次 十六歳

今日(ママ)、店では徳次を千駄ヶ谷に使いに出したところ、昼過ぎに世田谷から中野へ抜ける道で、四谷新町の博徒・礒吉という悪者に出会いました。礒吉は徳次を蹴倒すと肛門を姦淫し、所持していた四六四文の銭を奪い取って逃げ去りました。徳次はしょげ返り、カッパに尻子玉を抜かれたと思ってあきらめ、すごすごと帰り道をたどります

考えてみると、釜を掘られただけなら親方に話してみっともない思いをするよりは無念だが黙ってもいられようが、銭まで奪われたとなると、親方に申し訳ない、かといって自分に立て替える当てもない。やむなく親方に被害を打ち明けたところ、喜右衛門は予想外に立腹し、翌日(ママ)徳治を連れて被害現場に差し掛かったところ、たまたま例の悪党に出遭いました。徳次は喜右衛門にあいつだと知らせ、二人して礒吉を捕まえようとしたとき、急を聞いた御用の者が捕らえました。礒吉は盗賊改役、水野甲子次郎組同心・伊藤喜作の捕吏に逮捕されました。彼はこの犯行のほかにも博打場のイカサマで有罪の前科があり、名目は賭博幇助の罪で起訴されることになりました

肛門強姦事件の落首

 片岡も徳次も出たる狂言に

      釜が割れたでどつと吹出し

 手入らずのかな気も取らぬ新釜を

      割るは島屋のうわめとりなり

 いにしへハ月夜に釜を抜たれど

      今は昼中割て銭とり

補注

●日記のなかでは、下世話な事件の多くに関連した落首・狂句の類が掲げられている。これらが巷間から拾い集めたものなのか、それとも由蔵自身が詠んだものなのか、定かでない。そのいずれでもある可能性が高い、と見ているのだが。

 

第五〇話  異国船来航の捩り絵、発禁に     

──嘉永三(1850)年六月、第二十八より

六月十七日ころ配られたもの

  芝神明前和泉屋市兵衛板元ニて、芳虎画六枚続き、赤松水責の図大評判ニて、同二五日に引込ス也(*原文のまま)

この絵は『太閤記』中の備中高松城水責めを描いたものです。城一面が水浸しとなり、あたかも大海を見るよう、船から三重の櫓に向け石火矢を打ち込んだ攻勢がすさまじく、さながらイギリスが浦賀へ押し寄せたらこんな状態になる、ということを捩って描いたものでしょう。

初めは、担当の名主が監査したときには三枚続き二つ折で、石火矢も立ち上る煙もなく、それほどすさまじいものではありませんでした。名主もうっかり認可したわけですが、絵が仕上がってみると彩色されて煙も立ち上り、見るからに恐ろしい有様に変っています。唐人が御城(*江戸城をさす)を攻めるのに異ならないという理由で、この絵をひとまず発禁とし、石火矢を外して出すように命じられました。

補注

●原文に「イギリスが浦賀へ押寄候得ば」とあるのは、嘉永二年閏四月八日、英国測量船マリーナ号が浦賀に来航し、十二日には伊豆の下田港に姿を現した事件をさす。このころすでに、異国船の近海往来が目立ち、幕府はもとより庶民も騒然としていた。

●第四四話の補注と同様の理由で手入れになった。