第五一話  西国で大評判、熊童子の見世物

──嘉永三(1850)年七月、第二十八より

七月十五日より向両国右側中程に熊童子の見世物が掛かり、大評判に。正面には大看板、山に流水があり、川端で熊童子が鹿を踏みつけ、大石を差し上げている図。脇には狩人小屋も見え、母熊が小熊に乳を与えている情景も見える。

丹後国、熊童子の図(*図の掲出なし)絵説明

弘化年中、丹後国伽佐郡大江村の山奥一軒家に猟師の金助という者が住んでいました。妻はお倉といい、女子を出産したあとまもなく亡くなり、幼児は金助の男手一つで養育されました。金助はある日、谷川で熊の子一頭が流れ着いたのを発見し、拾い上げて養います。しばらくして、母熊がやってきて家の入り口のそばに立っていると、小熊は駆け出して母熊の乳房にすがりつきました。そのとき金助の娘が泣き出すと、母熊はその子にも乳房を吸わせたではありませんか。母熊がゆっくりと乳を与えると、娘はうれしそうに飲みます。(*こうして時々やってきては娘にも乳を与え)娘や小熊が成長すると、山奥へと戻りました。熊の乳を飲んだ娘は、体全体に熊の毛が生えましたので、熊童子と名付け、皆様方のお目にかけた次第でして、御好評をいただき連日、大入満員でございます。

 見世物小屋では「熊童子」と記した(のぼり)を二本立て、木戸銭二四文、中銭(*中人の木戸銭)はなし、笠預け代四文、豊年大黒舞・囃し連中の余興付き。

(*以下は別報)

七月五日、右の熊童子一行、品川から江戸市中に繰り込んだ。丹後国から付いてきた男一〇人ばかりが、熊の字絞りの浴衣を着ている。母親も付き添う。(*前述では行方不明のはずだが?)興行人三名、「熊童子」と書いた大団扇(うちわ)あおぎながら往還を行く。童子は歳だとのこと。

  いにしへの酒顛童子も大江山

       これも大江に入れる熊童

補注

●落首にもあるように、大江山の酒顛童子か金太郎物語をヤラセに仕立てた見世物である。

 

第五二話  獣欲の果て、雌犬と心中

──嘉永三(1850)年七月十七日、第28より

市谷柳町で一人の中間(ちゆうげん)犬とつるんだものの一物が抜けなくなってしまったため、自身へ駆け込んだ。中間は牛込納戸墓町・本左衛文の雇人だったが、精神異常ためを出されていた者。宿所に追い出されていたが、方々さ迷い歩き、野良犬を捕まえては交合しつど番屋のご厄介になっていた。またまた昼から犬を抱いて寝て、食いつかれてしまう

 曲亭の八犬伝がはやるゆへ

      犬侍をたんとうむきか

ただしその雌犬、まだ春情(さかり)がついていないためしがり食いついた。犬はに、やがて男も死んだ。人間と犬の心中だと、もっぱらの評判である。

補注

●落首の「八犬伝」とは、曲亭(滝沢)馬琴作の長編読本『南総里見八犬伝』をさす。里見家の伏姫が犬の八房とつるみ、やがて身ごもって八人の剣士を生むという面妖な物語である。

 

第五三話  落ちた雷、宝剣を見て「桑原、桑原」

──嘉永三(1850)年八月八日、第二十九より

多町の雷

八月八日の大落雷は、神田多町の長谷川新兵衛方文庫蔵前を直撃したものである。

このとき当主は、次の間で本を読んでいた。忰は店で帳簿付けをしていた。親父いうに、「今の雷は近い」と。そばの嫁は、「内の中ですよ」という。あわてて障子を開いてみると、火の玉がころころところげ歩いているではないか。親父は六尺棒で雷獣を打ち殺そうと火の玉を叩き散らす。この勢いに雷も恐れをなし、蔵の戸前の下板を打ち破り、文庫蔵へと駆け込む。蔵の中には先祖・長谷川勘兵衛が作った新田家四天王の第一人者・篠塚伊賀守盛道の像、義貞(ママ)公下賜の宝剣を帯びたものをこの蔵の守護神として秘蔵してあった。

雷驚いたことに、御厨子(みずし)内から霊像が現れ、「ヤイ曲者、わしを伊賀守と知ってか。義興(ママ)公から命じられ、雷除けに当所を守護している者ぞ。そうとも知らずにうかうかとここに落ちたか、たわけめ」と、宝剣を引き抜き、火の玉めがけて斬りつけた。さすがの雷もどうして敵うはずがあろう、逃げ出そうにもには親父が自信たっぷりに六尺棒に構えているし、中では宝剣がきらめいている。もう進退を失い、雷は「ごめん、ごめんなされ」と泣き出す。これこ喩えにいう「鬼の目にも涙」であろう。

さて、伊賀守にっこり笑い、「間違いと知ったら悔い改めよ、とは古人の金言じゃ。また、鳴り物道具で害を与えること、お主が好きこのんでやることでもあるまい。稲光雷火を遠慮するというなら命だけは許して取らそう。早々に立ち去れ」と、宝剣を持ち直してツと立ち上がり、にらみ据えたその有様の恐ろしさ! 雷はぶるぶると震えだし、「こりゃたまらん、諺じゃないが、桑原、桑原」

やがて落ち着きを取り戻した雷が言うことに、「もし伊賀さん、私はしょせん消えゆく身の上、ただいま冥途の土産に、ふだん好きな三味線を弾きたいのです、お許しを」詫びたところで盛道にっこり笑い、「大津絵の鬼の念仏は聞いたことがあるが、雷の三弦は文化のころ、歌右衛門や三五郎(*坂東三津五郎)(しよ)作事(さごと)で見ただけじゃ。こうして目の前で見るのは初めてのこと、永年の蔵のつれづれにまさに一興。幸いここに三味線がある、一爪弾(つまび)いてごらん」と、三味線を渡せば、雷はさもうれしそうに取上げ構えて、三筋の調子を合わしました、とさ。(*このあと大津絵に付いた雷節の詞が続くが、省略)

補注

●前後の記録から見て、この落雷はかなり大規模で、相当被害が出たらしい。

●「桑原、桑原」は落雷除けの呪文である。雷神は桑畑が苦手で、そこだけ避けて落ちる、という伝承から生じた。

●この一文には、近代の少年に人気のあった「立川文庫」講談物を連想させる調子の良さがうかがえる。

 

第五四話  堪忍を握りかねたか天狗鮓

──嘉永三(1850)年十二月十三日、第二十九より

佐久間町二丁目・弥兵衛店、天狗鮓 与兵衛/同所、紙屑問屋 清次郎/右の家主、白牡丹 弥兵衛

天狗鮓は屑屋に古道具の借りがありましたが、なかなか返しませんでしたので、屑屋が催促に行くと、言った言わぬの口論になってしまいました。天狗鮓はかねてより藤堂家辻番管轄下の長屋ゆえ世話になり、そのため鮓の余りをお茶請けにでもと差し入れ、「揉め事が起きたらよろしく」と頼んでおりました。そこで今日の一件を知らせますと、辻番四人が六尺棒を手に駆けつけ、いつも付け届けしてくれる天狗鮓のこと、理屈抜きに、「ちょいとお騒がせ」と、清次郎を袋叩きに。横丁に逃げ出した清次郎を家まで追いかけました。家では女房までつかまえて殴るしまつ。あいにく身ごもっていた女房、乱暴されて腹の子が流れてしまったと、訴え出た次第です。

 また酒にせふこりもなき辻番も

      とふ〴〵酒を売る仕儀になり

 紙屑をさらつていたか天狗鮓

      はげたところへぬる白牡丹

 片岡も両方ともに大事なり

      御やしきよりもふち米が来る

清次郎夫婦は御月番の南御番所に提訴ましたが、取るに足らぬ事故ということで、取り上げてもらえません。家主が呼び出され、夫婦を引き渡しに。名主の片岡仁左衛門も藤堂家留守居役まで届け出たにもかかわらず、清次郎・女房ともに怪我がないとのことで、天狗鮓に侘証文を出させ、示談で解決になりました。

補注

●この事件、紙屑屋夫婦に暴行被害の事実があったかどうか、女房が暴行を受けたため流産したかどうかが、立件の鍵になる。それをよく調べもせずに、「いさゝかの小事故」(原文)で片付けてしまった。右の落首に見るように、権力体制側に嫌味の一つも皮肉りたくなろう。

 

第五五話  バッチイ金銭拾得の顛末記

──嘉永四(1851)年五月十二日、第三十三より

本郷元町川岸 御普請方勤め、御家人も軽輩とのこと、関谷勘蔵/同人の妻(内妻)

今朝未明に、勘蔵は御茶ノ水河岸で一分銀一〇両、百文銭を四貫文分を拾得しました。ただちに担当の北御番所に届け出たところ、十五日に事情聴取、十六日に辻札で告知をすませました。落とし主はすぐにやってきましたので、拾得金はとりあえず御番所預かりになると告げました。

落とし主というのが練馬の糞付馬、つまり肥担(こえたご)屋で、馬の飼葉に挟んでおいた金と申します。火消屋敷に差しかったとき、鉄砲の音に驚いた馬が駆け出し紛失したとのこと。金は取引の決済資金だそうで、七日に御奉に願い出て金を受け取っています。

 さてうまし是はかん蔵と思ひしに

     こひ取られてはうまらなひしぎ

事情聴取は御小人目付の藤村太一郎が担当。拾得金は御勘定奉行が預かっておいたものを願い出により受領したものです。

経緯を記しておきましょう。

この馬方は練馬の者で、出入りの屋敷に飼い馬を曳き、糞尿の汲み取りを職業にしています。妻はなく忰がいます。忰は放蕩者ですが、ふだんはよく稼いでくるので勘当はしません。しかし、大金を家においておけば見つけて使ってしまうので、紙に包んで飼葉の中に隠しておくことにしました。飼葉には自分だけわかる目印を付けておいたのですが、当日、それを付け替えているとき馬が驚き紛失したそうです。

その日家に帰り、金をしまおうとしてなくなっているのに気づき、あわてながらも、屋敷へ汲み取りに行った間の出来事と考えて、翌早朝にその屋敷へ行き、金を紛失したことを告げ、飼葉の行方をたどりましたが不明なまま。もしや、お茶の水で鉄砲の音に驚いたさい落としたかもしれない、と思いつき、現地へ出向きました。そこで高札を見て胸をなでおろし、役所を訪れて、御勘定奉行の一色丹後守担当役人に申し出ました。

役人から、金は何に包んだかと問われ、「一分銀で一〇両は祭礼の番付に包み、百文銭四貫文は草紙紙に包んだうえ小紋風呂敷に包み、飼葉の間に挟んでおきました。馬が火消屋敷の鉄砲に驚いて駆け出したとき落としたに違いありません」と事情を述べると、事実に相違ないと判定され、紛失金を返してもらうことになりました。

この馬方は谷原村の百姓・政五郎といいます。翌日、そこの名主の長左衛門同伴で拾い主・勘蔵に礼に出かけております。

 

第五六話  人体感覚が乗り移った人形

──嘉永四(1851)年五月十二日、第三十三より

人形の不可解について御届/下谷三ノ輪町、吉兵衛店・市蔵の妹 すて 三十一歳

すては新吉原江戸町一丁目恒次郎店の遊女屋・大黒屋文四郎抱えの元遊女で、「三代春」の源氏名で店に出ていました。

一昨年、三代春は客から身の丈一尺くらい、芥子坊主の上方人形を貰いました。これに縮緬小袖三つ揃い、長襦袢、剣酸漿(つるぎほおずき)の紋付を着せ、とても可愛がっていました。去年七月、三代春はこの人形に衣類を着せたままに包みに入れて、江戸町の質屋・伊勢屋安兵衛方に一分二朱で質入しまその後去年二月に三代春は年季明けとなり、兄の市蔵宅に引き取られました。当時は八丁堀神田塗師町地・平兵衛店の一軒を借り受け、母親ひさと同居していました。

先月二十四日夜のこと、すては夢の中でかの人形が現れ、「あなたは廓を出られたのでよかったでしょうが、私は厚着させられたうえ、布に包まれ、暑くて堪えられません。袖を食い破ってやっと息をしている有様です。一刻も早く請け出してください」と告げました。うなされて目覚め、母親を起こし夢の話をしましたが、その後も気分がすぐれません。どうもおかしい、というので市蔵は質屋の安兵衛を訪ね、事情を話して人形箱を出してもらい、中を開けてみると、すてが夢で見たとおり、人形は袖で口を覆い、袖には一部が食い裂いた跡があるではないですか。両人とも不思議に思い、市蔵は人形を請け出しました。

本件、その筋の調査もしっかり済ませたもので、間違いなく、珍事なのでお知らせいたします。

 

第五七話  「四谷階段」を昇ればなお怖い

──嘉永四(1851)年五月六日、第三十三より

神田富永町二丁目の「皆川」という寄席で、二階の張出し部屋が崩壊し、大勢のけが人が出ました。

座主の中島春五郎は、歌舞伎・浄瑠璃狂言を興行し、評判がよく小屋が手狭になったので、このたび二階を露地上まで張出し拡張しました。当夜も大入りだったのですが、その張出しが重さで崩落し二〇人がけが、内三人は失神、これを翌朝まで気づかなかったとのことです。さらに老婆一人は腕を骨折、手習い師匠は足をくじき、一人の娘は舌を噛み切ってしまい重態とのこと、また五月の初節句祝いに連れて見にきた男の子は落ちて即死してしまいました。

 大仕掛せり出しならで踏落とし

      春五郎つかれかぶるもうせん

 大入で富永町と思ひしに

      皆かわきりで是ぎりになり

当夜の狂言は「四谷怪談」で、お岩を春五郎が演じました。この芝居は昼間興行を谷中で上演し大評判だったので、伝え聞いた観客がどっと押し寄せて来たため、立錐の余地もなくなり、張出しも満員になり、安普請工事とあって惨事を招いたものです。

火事のあおりで四谷の於岩稲荷も焼け出されたままでしたから、ぶらついてどこへ出ようかと迷っていた亡霊が取り憑いたのでしょう。

妖怪が出て二階から落ちたから

     跡でこうくわい末ハやつかひ

補注

●文中「四谷怪談」とは有名な歌舞伎『東海道四谷怪談』(四世・鶴屋南北ほか作、文政八年七月に江戸・中村座で初演)をさすと思うが、どうせ小屋掛けのドサ回り興行で科白はドタバタものに改変していたであろう。

 

第五八話  「遊女大安売り」の破廉恥引札

──嘉永四(1851)年五月、第三十三より

御客様におかれましては御機嫌ますますうるわしいと拝察し、御喜び申し上げます。                                              手前ども万字屋、

御蔭様で以前からつつがなく遊女屋を営業させていただき、心より感謝いたし居ります。

さて最近、当吉原町は日増しに不景気がつのっておりますが、その原因は、寛政の規定である「廓内において引手茶屋を設けてはならない」という御定めを楼主同士が無視し、自分勝手な営業をつづけて、御客様方の不評を買っている点にございます。すなわち、御客様が登楼なさる前に御利用にならざるを得ない茶屋が、遊女の揚代二朱につき三〇〇文、三五〇文あるいは二つ分けなどと称して引手銭を別途に頂戴する悪弊にございます。この旨味に乗じようと新規の茶屋が今や三〇〇軒余りも増えていて、競争激化に伴い、御客様に粗品を差し上げるなどに及んでおります。

そこで当万字屋では、このたび営業方法を一新いたしまして、茶屋・船宿が差し向けた御客様はお断りし、正札通りの現金払い制度を実施することにいたしました。これに伴い、値段を引き下げた御徳用遊女をたくさん揃え、御酒肴や夜具などに至るまで、十分に吟味して提供できるようになりました。

なにとぞ御贔屓様方御誘いのうえ、昼夜を問わず賑々しく御利用くださいますよう、御願い申し上げます。  新吉原角町 万字屋茂吉敬白

(*このあと遊女の割引き値段が続くが、省略)

 現金 遊女大安売り 引手なし

補注

●原文は硬い候文であるため、相応に添削して文体を整えた。さらに仕組みなどが理解できるよう、必要な補筆を施してある。

●「引札」は現代の広告に相当。この手の遊女廉売引札・広告は、近代に至るまで珍しくなかった。

●「引手茶屋」とは、遊客が登楼前に立ち寄る決めになっていた茶屋。楼主と結託し、遊郭内外に置いて茶菓の振舞と案内の名目でかなりの金額を重ね取りしていた。

 

第五九話  悲喜劇に終わった、垂れ流しのマン談

──嘉永四(1851)年五月、第三十三より

橋場における夜鷹のシモがかり話

橋場の精米商 米搗男/御厩(おうまや)河岸 夜鷹

米搗男は、かねてより御厩河岸の夜鷹某女と馴染でした。今月中旬のある日、「今晩は米搗き仲間が出払って留守になる。どうだ、おれの部屋で楽しまないか」と夜鷹を誘いました。夜鷹は馴染客の申し出とあって二つ返事で承知。牛太郎(ぎう)(*夜鷹の目付け役の男)の許しも得て、二人で精米所ヘと行きます。

二階の部屋で夜っぴて濡れ事を楽しみますが、夏の短夜は明けるのが早く、共に寝坊の明烏。親方が店に来たのにあわてましたが、階下へ連れ立って下りるわけにはゆかない。やむなく二階の押入に忍び込ませました。朝飯はむすびにして食わせ、女には「俺がたびたび二階に上がると怪しまれる。ほかに上がってくる者もいないだろうから、おれが上がる音を聞いたら上り口へ手を伸ばせ」といい含め、昼のむすびも上がり口の段で受け取らせました。

昼間の長い季節のこと、米搗男は仕事を早めに終え、明るいうちから湯屋に行きます。押入に残された女はというと、日長に小便も溜まりましたが、下の便所に行くことならず、困り果てて辺りを見回すと、二階に竹の銭筒が置いてあるのが目に付いた。よかった、とさっそく竹筒に小水をほとばしらせます。が、竹筒はことのほか小さく、しかも朝から我慢し続けた大量の小便、とうとう竹筒からどくどくと溢れ出て階下へと流れ出てしまった。

おりしも勝手にいた女房(*親方の、であろう)はびっくりし、鼠の小便にしては量が多すぎる、こんなに二階から垂れてくるなんて不思議なことよと、階段を上がってみると、上の女は夜食の弁当と思い込んでニョッキリ手を出した。女房は肝をつぶしてひっくり返り、とたんに階段の角に頭を打ちつけ、気絶したまま息を引き取ってしまったといいます。

 まつかひなうそをしら〴〵舂米屋

      夜鷹あふたかしたかなんだか

 

第六〇話  御稲荷様と指切りげんまん

──嘉永四(1851)年六月十六日、第三十三より

昼ころ、四日市翁稲荷の社に、一人の女が指を切り離して奉納したそうでございます。

柳原同朋町で十八歳になる女とのこと、社の後ろで指を切り、前の柱に釘で打ち留めたもの。柱に血が滴り落ちましたが、神主もこれを捨てるわけにいかず、女の執念は恐ろしいからとそのままにしておきました。

 中直りせずして置てゆびをきり

      無理な願ひはよしておきなよ

補注

●下世話にいう呪殺しの俗信である。惚れた男が心離れしたため、可愛(いとし)さ余って憎さが百倍したのだろう。

 

第六一話  天下りしてきた珍しい毛亀

──嘉永四(1851)年七月六日~、第三十三より

相州鵠沼村の六左衛門が持参の亀についての御報告

  甲羅の長さは四寸、毛は六寸/雷を伴った降雪の日に鎌倉街道に降ってきた亀の図

現地は私領とのことで地頭の姓名等は不明ですが、相州鎌倉街道小塚村の名主・元右衛門の屋敷内に、七月六日雷雨のおり、川魚類が降ってきて変だと思っていたところ、家亀が這い出てきましたので捕らえ当所に保管しました。亀の持ち主は、かねてよりじっこんの御代官所、高座郡鵠沼村の名主・後見六左衛門に譲り渡したと、このたび届け出てまいりました。

なにぶんにも珍しいものですので、絵図を添えて御届けしたしだいです。生き物のことゆえ、御用がありましたら、早々に御申し付けくださいますよう、御願いいたします。/九月 江川太郎左衛門

補注

●原文には「雷雪之節」とあるが、時期から見て雷雨中に生じた雹交じりの竜巻の仕業であろう。

●江川太郎左衛門は代々の世襲名だが、本条登場の人物(発信人)は第三十六代(1801~1855)の人。幕府江戸外代官で伊豆韮崎を支配、彼は砲術家としても名を知られていた。

 

第六二話  素寒貧侍、うなぎを食い逃げ

──嘉永四(1851)年八月十二日、第三十三より

本郷三丁目で鰻の蒲焼食い逃げの件/本郷三丁目 うなぎや伊勢利

今宵は真光寺薬師の縁日ということで、通りも賑わっていました。

夜八時前から一人の侍客が伊勢利の二階へ上がり、うなぎの蒲焼に酒が付いて一分足らずなのに、腹いっぱい酒食したため三〇〇文ばかりの勘定、しかし金の持ち合わせがなく、やむなく侍は二階から逃げ出しました。屋根伝いに赤大黒という呉服屋の屋根から飛び降りようとしたところ、往来の者に見つけられ、泥棒呼ばわりされてそれもならない。たまたま伊豆蔵の屋根の低い所から下りようとしたとき、往来で「泥棒、泥棒」の声が高まり、家々の屋根にも人が登ってきます。侍は帯刀のまま屋根をひょいひょい飛び渡りましたが、ついに力尽きてか、伊豆蔵の裏手に落ちたところを大勢の人に捕まってしまいました。自身番で調べを受け、ほかに余罪もなかったので、伊勢利にも知らせに人をやった。伊勢利で確認したところ、侍がうろたえ逃走したとき、あとに五〇〇文相当の羽織を忘れ残していたので、これを代物に三〇〇文の勘定を受け取り、残りは損料としました。自信番では侍の屋敷・名前をいっさい尋ねずに放免したそうです。めでたし、めでたし。

 うなぎやの二階ぬる〳〵這い出して

      へびを遣ふと人ニ笑われ

補注

●落首「へびを使う」は江戸語でぬらくら者を遠回しにさす表現。

 

第六三話  老僧と盗賊、狂歌をやりとり

──嘉永五(1852)年二月、第三十七より

大坂御代官所、設楽八三郎支配所、簔面・勝尾寺

右の寺にこの春、盗賊が侵入しました。住持は留守で老僧一人が留守居していますと、盗人は金などを差し出せと脅します。老僧答えて、「あいにくだのう。この寺は見てのとおり貧乏寺、金などない。探してみなされや」盗賊は家探ししたが何もない。「あきれた寺だな。ならば飯を食わせろ」と、迫ります。僧、「飯もなし。待つというなら、これより炊いて遣わそう」盗賊は待つことしばし、飯が炊き上がると、落ち着いて飯を食い終わり、まだ立ち去る様子がありません。

老僧、つれづれに狂歌一首を詠み差し出します。

  浪花には地獄もあれば極楽も

       広ひ世界を我こゝろから

 すると盗賊返歌して、

  極楽の山へ浪花の鬼が来て

       いわれを聞て角が折けり

と詠むなり、百文銭を一枚投げ出して立ち去りましたと。

 この一件、設楽八三郎が役所に届出はしましたが、そのままお構いなしになっています。

補注

●この日記に限ったことではないが、古典には狂歌を競い合う主題の逸話が数多く見られる。話に風流の趣きを添えるうえで、狂歌は格好の材料であった。藤岡屋由蔵もかなり狂歌を嗜んでいたようで、この話が彼の創作だったとしても不思議はない。

 

第六四話  腹上往生(ごくらくゆき)世間のかしましいこと

──嘉永五(1852)年閏二月十六日、第三十七より

吉原京町二丁目、勢喜長屋・(つぼね)()()

中間(ちゆうげん)体の遊客が遊んでいる最中、なんと幸いなこと、女郎の腹の上で頓死した。どの屋敷の男かわから同所の衣紋坂開帳高札場にされた。

 アヽイヽと死か行かは知らね共

      かゑらぬ道をせき長屋なり

この中間というのは、(*その後に判明したところによると)神田明神下御小納戸頭取、朝比奈甲斐守の厩別当(*厩務員)で、金を貯め、副業に高利貸しをやっていた。千住生まれの女房がいたが去年暮れに死去、独身だったので女郎買いに行き女の腹の上で死んだもの。久世松の子分でもあったという。

(*以下は別稿)

朝比奈甲斐守厩別当、清助 四十三歳

去年十二月二十一日に女房のてるが三十三歳で死去した。てるの姪がいて十八歳になるが、同月二八日に(*清助に?)嫁入りしたが今年正月上旬に臍の下部に五、六寸もある腫瘍が出来、命にかかわるとしててるの里である千住在東五反野村へやって治療させていた。その留守中、金には不自由しなかったので、なかばヤケ気味で女郎買いに出かけ、右の奇禍に遭った。

ただし清助の遺体は、当時手掛かりがなかったため、三日間晒されたうえ、三ノ輪土手下の浄閑寺に葬られた。

(*以下は別稿)

本件の清助は、閏二月十四日より行方知れずになったため、屋敷内はじめ子分や親類筋の者が千住の吉田という易者に見てもらった。易者は、「彼は二〇里先にいる。命に別称はない」との託宣。近くよりも遠方を重点的に探したところ、遺体が三日間晒され、取り捨てのさい、身内が見覚えのある、股にオカメの彫り物があるとの文面に思い当たり、清助に間違いないと遺体を引き取った。そして浄閑寺に取り捨てられて後、供養して石塔を立てたということである。

 女菩薩の腹で往生とげられて

      股のおかめで知れて成仏

補注

●腹上死は特異な状況下での往生だから、とかく世間の注目を引く。遊び人に限らず、腹上死こそ男の花道を飾る大往生だとする説を唱える人も少なくない。たとえば、近代の偉大なる奇人にして史家・ジャーナリストの(宮武)外骨(1867~1955)は、腹上死こそ男の死に際を飾る美学だ、と主張した。もっとも彼の場合、八十八歳と長生きしすぎたせいで、臨終のさいに「腹上死したいのに出来なかった」とぼやいたほど、床ずれで臭気プンプンの惨めな最期であったという。

文中の「浄閑寺」とは、南千住にある、江戸時代の投込み寺の一つである。遊女をはじめ刑死者、身元不明の行路死者などを引き取り弔った寺であった。

 

第六五話  ニャンとも、あやかりたい招福猫

──嘉永五(1852)年春、第三十七より

浅草観音猫の由来

浅草は随神門内の三社権現鳥居ぎわに老女が現れ、今戸焼の猫を並べて商っています。これは「丸〆猫」とも「招き猫」ともいわれています。

ここの猫は娼家や茶屋、芸能寄席などで客寄せに霊験あるというので、買い求めて信心する人が増えています。また、頼母子講・取引き無尽等で勝ちを独り占めに出来るといいます。あるいは、難病にかかった人がこの猫を手元に置いて信心すればたちどころに快癒する、と。たとえば膝行(いざり)は腰が立ち親の敵も討てるようになる。盲人は目が見え目明しになれる脚気半身不随(よいよい)にかかった人両足がしゃきっとして、退屈しのぎに小田原まで昼飯の初鰹を食いに出かけた、などと評判です。飛屋が京都へ三日限りの早飛脚を頼まれ、数多の貸し金を丸〆で取り戻したという噂もあります。この欲情の濃い世にあって、われもわれも福を招き、丸、丸

 丸〆に客も宝も招き猫

      浅草内でこれ矢大臣

補注

●嘉永五年の干支は(ねずみ)である。本来なら敵のはずの猫を祭りあげた発想が面白い。

●この一文を今日的な視点で見ると、体のよいパブリシティ、つまり記事風の広告文として捉えることができる。

 

第六六話  そば好きの狸、小僧に化けて騙し買い

──嘉永五(1852)年三月二十七日、第三十七より

高輪で狸がそばを買いに来て打ち殺された一件

高輪仲町・与兵衛店、そば屋 福本雄蔵

今月二四日夜一〇時すぎ、閉店間近に八歳ばかりの小僧が目篭を持ってやってきて、そばを一〇〇文買いましたが、どさくさにまぎれ銭を払わず立ち去りました。翌日も同じ頃買いに来て、うっかり売ってしまいましたが、この時も払わずじまい。その小僧と顔見知りの者は近所にいません。二十五日の夜は大降りなのに傘も差さずにやってきて、みなでおかしい、と気づきます。翌二十六日の夜も雨天、この日も傘を持たずにそばを買いに来ました。当方も用心していましたので、代金はどうしたと怒鳴りつけますと、小僧め逃げ出し、あとを追いましたが、横丁へ逃げ込まれ見失いました。

当夜、といっても早暁の午前四時ころ、またもや戸を叩き「金公、金公」(*使用人に金之助という者がいた)と呼ばわります。急にくぐり戸を開くと、小僧があわてて中に飛びこんできましたので、門口を閉じ、店中の者で叩き殺しました。死骸を外に投げ捨てますと、野犬がくわえて振り回したとたん、狸にかえって逆に犬の頭に食いつき、犬が離したすきに逃げ去ったといいます。

 

第六七話  湯銭払えば馬もお客という屁理屈

──嘉永五(1852)年四月十三日、第三十七より

四月十三日昼前に下谷肴店銭湯で御使番本多主税の中間(ちゆうげん)が馬を入浴させた一件

この中間はいつも無銭入浴する常習犯なので、亭主が今日も入場を断りますと、腹をたてて、「銭さえ出せば何でも入れるか」と怒鳴ります。亭主、「銭さえ払えばお客様、入っていただけますとも」と返事。すると中間は銭八文出して馬を引き入れましたので、とうとう喧嘩になりました。亭主の小左衛門は訴え出ようとしましたが、中間の元締、数寄屋町の越中屋貞七方から湯屋に詫びを入れたので穏便に解決しました。

 湯へ馬をちからを出して引込ば

      虚言か本多の噂下谷だ

 泉(*銭)湯へ八文もつて馬の客

      それは虚言じやと見たが本多と

補注

●常識破りで不埒の限りという事件だが、侘びを入れただけでケリがついてしまった。取締る側としても、よもやこんな事件が起きるとは思わず、判例もないため、法を適用する余地がなかったにちがいない。

 

第六八話  狂犬数頭に百姓六〇〇人が山狩り

──嘉永五(1852)年五月、第三十八より

〔五月に入り連日、新宿で狼じつは狂犬に女子供が食い殺された事件を受けて〕

五月十八日、府中近辺での犬狩り事件

今日、左門町□□□(*数文字分欠落)府中国領まで用事で出向き、途中で見聞した話です。

朝から曇りがちだった天気が八時過ぎに雨となりましたが、府中近辺三五、六カ村に住む者残らず集まり、その多くが百姓で六〇〇人余を数えました。各人が簔笠を着け、手槍・竹槍・鍬・鎌の類を獲物に持ち出しています。が、肝心の犬は一頭も姿を見せず、大勢の者が手持ち無沙汰をかこち、犬と見ると罪もない犬まで突き殺すしまつ。飼い犬にはだれそれの飼い犬、と木札が下がっているはずなのにやられている。野犬の大きいのも突き殺され所々に死体が転がっています。百姓が大勢で蓑笠のいでたちは、まるで百姓一揆を思わせ、穏やかならない光景でした。けっきょく大勢揃ったものの、喧嘩の相手がおらず、みんなで山に入って茸狩りをしたといいます。

 新宿の狼ものを尋ぬれば

      糠をなめし犬としら糸

補注

●徳川幕府の「百姓は生かさず殺さず」という飼い殺し政策は、町方にも「愚昧な百姓」という印象を定着させた。ことに文人(インテリ)階層ほどその思い込みは強く、この一文も百姓らの愚かさを言外にあざ笑っている。

 

第六九話  母犬に金玉袋を食いちぎられ犬死

──嘉永五(1852)年六月二十四日、第三十八より

御蔵前大代地で犬に陰囊を食いきられて死亡した事件

札差(*問屋場における請け荷検査人)の板倉五郎右衛門は、飯炊き男を板倉甚兵衛方に使いに出しました。御蔵前大代地に差しかかったとき、子犬が一頭、可愛らしかったので親犬の見えない間に撫でてやっていました。そこへ母犬がやってきて、子犬を盗られるとでも思ったのでしょう、いきなり飯炊き男の陰囊(ふぐり)へ食いつき噛み切ってしまった。大騒ぎになり、医者に運ぶ途中で亡くなってしまったとのことです。まさに犬死というものでしょう。

 蔵前でさてとんだめに逢ふ代地

      金を喰れて爰にいぬじに

 

第七〇話  鼠の子を育てた博愛主義の母猫

──嘉永五(1852)年六月、第三十八より

猫が鼠の子を育てた一件

神田松枝町弁慶橋際の藍染川端、大工安五郎の娘で手習師匠・松雲堂 八重 十九歳

八重は雌猫を愛玩し飼っていましたところ、六月十日ころ出産し雄猫二匹を産み落としました。この母猫、衰弱したまま二十日ころから患いだし、食も進まないため、マタタビを与えましたが食いません。ある日のこと、八重は竃の下を掃除していて鼠の巣を見つけました。生まれたばかりの子鼠が二匹いたので、捕まえて母猫の餌にと与えますと、母猫は子鼠をしきりになめ、さらにそばのマタタビをかじらせるではありませんか。小鼠は母親と思い込んで雌猫の乳を飲み、母猫もまた子猫と一緒に子鼠にも乳を与えて育てています。ほかの猫が子鼠を狙おうとすると、母猫は怒って相手を噛み伏せる有様です。

子鼠は蜜柑箱の中ですくすくと育てられているそうです。

 其家で見様見真似で猫迄が

      いたづら者を育てあげけり

 

第七一話  火事にぞっこんの愉快犯「ボヤ金」

──嘉永五(1852)年九月七日、第三十八より

〔組同心で三十五歳になる小櫛金之助という男が、江戸内五カ寺に放火した事件を受けて〕

小櫛金之助は病的な火事好きで、些細な火事でも「ソレ、ぼやだ、ぼやだ」と大騒ぎし、「ボヤ金」という渾名を付けられたほどです。

今年四月三日の四谷大火のときは、親類に行き後片付けを手伝って、金を三分とほかに品物などを貰い病み付きになってしまいました。火事が楽しく、出火するとただちに現場へ駆けつけるほど。火事が途切れると待ち遠しくなり、わざわざ親戚宅の近くで放火し、駆けつけては消火活動をしています。

ところが金之助、夜は怖いとかで昼間にかぎって火を付けます。寺の場合、昼間は人気がなく付け火に都合がよいので、寺専門に狙いました。ただ、牛込横寺町の竜門寺の場合は宵の口で、合わせて五カ寺に放火を犯しています。彼の放火が欲得づくでない証拠に、金目のものは拾った鏡一枚を七五〇文で売っただけでした。ただ火をつけて家が燃え盛るのを見るのが面白く、見物しては至極の楽しみを味わっていたのです。

補注

●別稿に金之助が放火した五件の記録が示されている。現代の「放火淫楽症」という偏執癖である。

 

第七二話  身も心も赤恥かいた生酔い侍

──嘉永五(1852)年九月十六日、第三十八より

三文で鼻をそがれた一件

今月十一日から二十一日までは芝神明境内で恒例の生姜市(あまざけ)(まつり)です。今日昼過ぎ、大群衆の中にあって一人の侍、したたか酒に酔い、一把六文の生姜を三文に値切ったうえ銭を払わず立ち去ろうとしたので、商人が文句をいました。侍は「金ならこれだ」と刀を抜きかけたところへ中間(ちゆうげん)がやってきて、その刀を引き抜くと侍の顔めがけて投げつけました。侍は顔に怪我を負います。

中間が立ち去った後に町役人らが来て、侍を自身番に突き出し、屋敷・姓名等を問いただしました。侍も酔いが醒め、相手を逃がしてしまったうえ自分の刀で自損したのは面目ない不覚と後悔し、いざこざでかかった費用を町方に弁償、内聞に済ませてもらった次第です。侍、じつは松平阿波守の家臣でした。

 甘酒に酔ふ神明の生姜市

      京ではじかミ爰ではじかき

 

第七三話  人をつっかけひっかけ猪突猛進

──嘉永五(1852)年十一月十八日、第三十八より

小石川辺に荒れ(いのしし)現れた

十一月一八日夕方五時ころ、小石川馬場寄合の辻番人・市太郎が往来にたたずんでいたところ、背後から猪が駆けてきて投げ飛ばされました。そこから川端、さらに富坂、水戸殿の小石川御守殿へと突き当たり、引き返しざま二、三人を放り投げます。ふたたび富坂を上がり、老婆を衣類を食いちぎりながら二間ほど投げ飛ばす。この人は上富坂町の金塀衛女房・いち、四九歳で、怪我を負いました。

今日は伝通院の大黒天、甲子待ということで、参詣の群衆が群がっているところへ猪が出現。人々が騒いだため猪も興奮し、老若男女の別なく突き進んでまたもや二人を投げ飛ばす。やがて猪は、水戸殿御番所から同所七軒町牛坂を下り、水道端へ出ました。

その後姿を消して足どりは定かでありませんが、多分、牛込矢来・坂井修理太夫下屋敷に飛び込んだ様子です。なおこの猪は、初め松平加賀守板橋下屋敷の丘陵から現れたといわれています。

 五段目にあらねど猪が飛び坂は

      あんどふ坂もならぬきのいね

補注

●江戸地も市中から少し離れると武蔵野の台地・原野が広がり、そこには狐狸が棲み、まれには狼や猪が出没したらしい。

 

第七四話  孝行娘の願い、賊を恐縮させる

──嘉永六(1853)年十月二十八日、第四十二より

本郷元町、家主で八百屋 鉄五郎/同人の妻 その/忰 市太郎/娘 やす 十二歳

深夜二時すぎ一家が寝入ったとき、強盗が三人、表潜り戸の戸板を外して侵入してきました。鉄五郎を叩き起こしたので飛び起きると、金を借りたい、と脅しますから、金などない、と断りました。

娘のやすも目覚め、賊の前に座って、「私のへそくりを出しますから、親は助けてあげてください」と懇願し、銭一貫二〇〇文を持ってきました。すると賊は残らず懐に収めましたので、娘は「すっかり持っていかれては明日の米代がなくなります。少しだけ残していただけませんか」と頼んでました。賊の頭は娘の態度に感心し、「年端もいかないのに親孝行なことよ。お前にそっくり残してあげよう」と、一銭も取らずじまいで家を去りました。母のそのは、幼児を抱いて寝込みまったく気づかなかったとのことです。

 押し込みもやす〳〵帰る孝の徳

同夜、賊は八百屋を出てから五軒目の家に侵入しています。

 

〔第四三は異国船来航の不穏を伝える特集「海防全書・上」〕

『藤岡屋日記』第四十三は「海防全書・上」(第四十四は下)という特集になっており、以下第七七話までこの巻に関連した記事を連続して掲出する。

なお、巻頭には次の三点の挿絵が載せてあるので、それを転載しておこう。それぞれに図説はないが、同巻の記事内容に深く関係したものである。

 

第七五話  ペリー艦隊、浦賀入港で国内騒然

──嘉永六(1853)年六月、第四十三より

〔本文は生のまま史料になりうるものなので、原文のまま転載する〕

北亜墨利加ワスヒントン国法和政事軍船四艘

内蒸気船、長サ四十二三間、横一四五間/伝馬船弐十八艘、宇飛燕船/檣、三十間、三本/蒸気車、五間、厚サ一丈/煙出し筒、高サ七間、同(ママ)壱間/艫大筒、六挺、表大筒、二挺/胴大筒、左右壱挺ヅヽ/合、拾挺/人数、三百人之申口ニ而、四百人余/フレガット二艘長サ二十五六間 横八九間/檣三本、表やり出し、壱本/大筒、面(ママ)・取(ママ)ニ而二十二挺/艫大筒、二挺、人数二百人

右は広東乍甫浦、六月朔日出航、日本浦賀六月三日八ツ時ニ渡来、アメリカ王より江使節使節日本大王之趣、是迄漂流船と違ひ、船役人方は勿論、夫役船抔更ニ寄せ付不申、九日御奉行様、四家様拝謁申上候ニ付、書翰御受取ニ相成、其節上陸人四百人計御坐候間、調練仕候処、一同目を驚し候よし、

 毛唐人抔と茶ニして上喜撰

     夜はうかされてねむられもせず

 安部川は評判程ニうまくなし

     上喜せんにはわるひ御茶うけ

 日本を茶にして来たる上喜撰

     安部川餅へみそをつけたり

 異国船伊豆の軍と皆石見

     浦賀しつたる事にてハなし

 江戸の町女唐人出来た故

     浦賀の沖へアメリカが来る

 唐人ハ早く帰つてよかつたねへ

     又来る迄は御間もあり

補注

●アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーは、四月十九日に艦船四隻を率いて那覇に入港。途中、小笠原諸島に立ち寄るなどして、六月三日には浦賀に到着した。軍船団の威容は日本国民に大きな不安を与え、幕府も必死の思いで外交交渉に当たった。

●落首中の「上喜撰」は京都宇治産の高級銘柄をさし、もちろん蒸気船にひっかけた洒落である。「安部川」は老中の安部正弘の謂で、彼は幕府を代表しアメリカ国書に対する返書を各藩主らに諮問する立場にあり、良いにつけ悪いにつけ注目の時の人であった。

 

第七六話  庶民文芸まで黒船に踊らされる

──嘉永六(1853)年六月、第四十三より

〔原文のまま転載〕

アメリカ道成寺

♪かねにうらミはかず〳〵ござる、知らせの鐘をつく時は、世上めつぽふとひゞくなり、所々のかねをつく時は、世上むしやうと逃ぐるなり、鉄砲のひゞきには、しやうめつめつひ、大筒はじやくめついぞくとひゞくなり、聞ておどろく人ばかり、扨も此頃空はれて、深夜の月を詠めあかさん

♪とてもねられぬ汐風に、乱れし髪の乱るゝも、つれなひは只さぐりきて、どふでもあめりかあくしよもの、書翰〳〵と口々に、どふでも阿部さんおく病もの、かため備へはたしかなものじやヱ〳〵、異国船きて武士は俄ニ具足のしゆふく、はりといきじの御大名、はなのお江戸ハ日々にさはぎし唐人ばなし、勤する身ハたれもふじなものいり

♪ほんの盆まへ、異国島より波をけたてゝ通ひ海路を車仕かけで船の早乗り、それがほんに妙じや、一ヒイ二ツ三イ四ヲ、よそをくろ船浦賀関路も、ともニ海べをかためして、あれもあめりかとむりなこぢつけへんじやへ

 

第七七話  ジョン万次郎の漂流体験口述記録

──嘉永六(1853)年八月、第四十三より

〔本条は貴重史料なので、原文通り全文にわたり転載する。なお、ジョン万次郎については補注をも参照されたい〕

嘉永六癸丑年八月

松平土佐守領分土佐国旛多郡中浜、漁師万次郎、先年亜墨利加漂流致し、国許へ帰り居候ニ付、此度御用ニ付、江戸表御呼出しニ付、八月朔日国許出立ニ而、同二十八日江戸着、屋敷へ着、翌二十九日、留守居役御老中方着届致候、九月御勘定奉行本多加賀守御役宅御呼出しニ而、一ト通御尋有之候よし

  土佐国漂流人咄口書

  土佐国宇佐浦、漁師 船頭 伝蔵 五十/弟 乗組 重助/三男 同 五右衛門 二十八/同 虎右衛門 三十八/同、旛多郡中浜 伝蔵召仕 万次郎 二十四

時二天保十一庚子年正月五日、右五人乗り合いにて、土佐国西三崎と申所の沖ニ而、沖鱸(*おきすずき)と申魚をはへ縄ニて釣に出候、此時船中ニ白米二斗程積之、同月七日迄其所に居、縄はへ候処、其日午の刻頃、紅色の雲西ニ立、戌亥の方方より風吹来り、次第ニ烈敷成ニ依て、はへ置きたる縄を手早くくり上ゲ、帰らんとするニ、風つのり地方へよすべき事叶わず、そのまま辰巳の方へ吹流され、いろ〳〵働候得共せん方なく、そのうちに梶も櫓も折れ、或ハあわて櫓五丁之内三丁ハ流れ、残る二丁は折れ、唯辰巳之方へ風と汐とニまかせ吹流され、翌八日ニむろ津沖より東のみさき沖を流され、いかんともせん方なく、風は弥々増はげしく吹、何卒日本の地ニ着度と諸神仏を念ずるのミ、此時白米一斗程残り有之、少しづゝ是を粥ニ焚抔して纔ニ腹をこやし漂流す、船ニハ汐多く入ける故、水をかへすてなどして色々働き、先船のかへらぬ様ニ帆柱を船ばたニ結付、ただ海中ニ死せんことを思ひけれども、何卒して陸ニ上り心能水を呑、死度思ひ、風と汐とにまかせ流れ行、九日夕方頃より十日ニ至りてハ寒気甚敷、はだへを通ふし、其上ぬれたる衣類はかねの如く氷り、手足こゞヘ働き不自由ニて、残りし苫など焚て水をあたゝめ、いさゝかのんどをうるおし、てあしをあたゝめ抔して、十一日ハ風雨烈敷なりて弥増の難儀ニ及び、此頃は数日の働ニつかれ、少しニても早く死度く思ひけれども、せめてハ陸ニ上り死度存念にて死に得ず、一二日ハ雨止ミ、昼頃ニ至り沖を見れバ、トヲクロヲと申鳥多く海上に群れ集り居ルを見て、伝蔵云ニハ、皆〳〵悦び候へ、死べき処も近よると見へて、トヲクロヲ多く居ルうへはもはや近き処ニ島在ニ疑ひなしと、其日の暮頃ニ辰巳の方ニ当りて島ならんと思ふもの幽ニ見へ、扨翌日ニ至りいよ〳〵島成故、皆々悦び近寄見れバ、土州の桂浜の如き所ニて、磯浪荒く打揚、中〳〵船着く様成所見へず、なれ共其儘磯際ニ船着、両人ハ磯に飛上り、残り三人は数日の難舟に飢労れ、其儀叶わずして船ニ居ル内、舟ハくつがへりミぢんとなり、三人とも漸く板ニすがり磯に着、其儘手ニ磯草をにぎり取喰し、是ニてうへたる事を知るべし、よふ〳〵陸ニ上り見れバトヲクロヲ沢山に居る故、石又ハ帆げた抔ニ而四五羽打殺し、引さきて是を喰ふ、扨此島は無人島と云島ニて、山の廻り一里計の小島ニして、竹木ハなく、茅或ハくひミと云物の類少々づゝ在之、扨夫より人家を尋けれ共、人跡絶へてなく寒気甚敷致、食物は勿論水火等もなく、尋廻る中ニ、山の上ニ石くろの墓二つ在、何れも日本の墓に能似たる故、能〳〵思ひ廻せば、前世に土佐国岸本浦の長平、三人乗ニて漂流し、無人島ニ着、五七年経て長平一人帰国し、残り二人は其所ニ病死したりと、人の語りしを思ひ出し、そゞろ涙を流しける、扨此墓をも能く弔ひ、夫より食物を求めんと所々方〳〵廻りし処ニ、辰巳の方に五六人も入るべき岩屋在、此処に五人とも月日を送り、寒さ甚敷節ハ、五人共丸裸ニて背中を合せ寄合て着物を集メかづきて只〳〵ふるい居たりけり、扨五人とも陸に上りし時ハ雨あがり故、岩間より雨のおつるをすくい取呑けれども、一両日ニて此水もなくなり、弥〳〵水にうへ、草の葉抔もみて其しめりをすひ、又折々ハ小便を呑しとなり、彼穴の近辺ニもトヲクロヲの巣あり、子をかゑしたる時節故、親鳥沙魚の類などくわへ子ニ喰せるを追落し、是などを食とし、後ニハ子も取て喰ひ、親も取て喰ひ、四月頃ニ至りてハ子ハ巣を立て、親も地ニよらず、此時ニ至り、五人とも食ものなき故大きニうへ、磯草或ハ茅芽の根、くいみの根又ハ草の葉などで口腹を養ふ、此節喰物ニうへ、五月頃ニ至りてハます〳〵右之通り、此時分重助病気発し、穴より出働事叶わず、穴に打臥、伝蔵も余程つかれ、右重助の介抱計りニて是も働き叶わず、五右衛門、虎右衛門、万次郎計り出て喰ものを拾ひ、病人ニもあたへ月日を送りけるに、六月上旬の頃ニ至り、遥か辰巳之方沖に当りて、大船の帆かげ見付、三人共是を見て大ニ悦び、着ものを帆げたニ結付、是をあげて声を立けれ共、遠方の事故其大船に通ぜず、船は次第に戌亥の方へ乗行、磯をつけ廻りて、三人共帆げたの衣ものをふり、声を立といへども通らず、船ハ三里計戌亥のかた沖に碇を下し、小船二艘下して彼島差て漕来りけれバ、三人とも大ニ悦び、近く来り候故、万次郎穴の方へ招き廻り、船もまた是ニ随ヘ廻り、扨この船一艘に六人ヅヽ乗り、五人は異国人也、一人ハクロンボウ也、二艘にて都合十二人来りけり、五人之者悦び指さして、寐たる者を見せけれバ、異国人打うなづき二人を抱上、船ニ乗せ、三人之者も悦び船に取乗り、本船の方へ乗行けり、

 (*以下の小文は藤岡屋の注記であろう)一説ニ、此船、右帆げたに付たる着物を見付て助けニ来りし共、又一説ニハ、此節、異船ニハ数日無漁故、此島の近辺ハ魚多く居ル故、是を漁せん為ニ来り、はからず五人の者ニ遭ひ助けし共、何レ是なる哉。

夫より右の大船ニ漕付、何レも是ニ乗移りける、此船長サ四五間、外

は赤銅ニて包ミ、誠ニ堅固なる事也、扨五人の者、少々づゝ薩摩芋を持来り呉候故、喰居候処へ、船主と思しき人怒りたる躰ニて出来而、何とか云て右の芋を引とり船の奥へ持行けり、是ニ恐れ居たる処へパンと申餅持来り、是を喰ひ、恐るゝ事は止たれ共、勿論腹ニ足らざる事也、是ニて思ひ合すれバ、日本ニても難破抔に逢しものハ、如此して介抱の事思ひ出し、猶安心ニ及びける、其後食物与へ、怒りたる事無之、暫くして沢山ニ件の餅を呉、是にて始て腹をこやし候、扨翌日頃ニハ豕の干肉あぶりたるをもらい、是とパンにて早く力付候事、此船の中、見れば船の真中ニ大き成桶三ツ重ね、又外に小き桶沢山ニ、又いんげんの如く成小船八艘入有之、彼のクロンバウも沢山に居候、舟の喰ものハ皆パン又ハ薩摩芋等也、

  私ニ曰、パンハ根元麦の粉ニ砂糖を入仕成たるよし、此船ハアメリカの鯨船ニて、日〳〵世界の海原を乗廻り、鯨を見付ては彼小船八艘共下シ追かけ、もりニて突留る、此舟毎ニクロンボウ一人ヅヽ、余の人ハ五人ヅヽ乗、鯨突たる時、クロンボウ船より海中に入てくゝり留、大船ニ引あげ、肉ハ捨て皮まで取、油を取置也、アメリカよりは如此船沢山ニ出居るとなり、此船ハ三五年も油を取集、夫よりワフ国と云処へ持出、交易すると也

扨、同年霜月の頃、ワフ国へ着けるニ、惣而此ワフ国と申ハ、アメリカより六七百里の渡海ニして、人物言語アメリカに同じ、近年此処繁花の地也、日本の大坂川口のごとし、諸国の交易処ニて国〳〵の問屋多し、アメリカより大成問屋を出し、役人抔有之、又茶屋、女郎屋抔も在、此国寒暑なく、春秋とも日本の八九月の如し、米麦等ハなく、琉球芋、田芋等ハ年中能出来候処ニて、こやし等する事なし、田芋ハ一本取バ国人壱荷ニ持得ずとなり、仕成ハ石焼、又ハ餅、又ハ煮たるもあり、喰物ハ芋の類の外なし、尤茄子、きうり抔ハ有よし、家居は日本に能似たるなり、茅葺、近年は板屋根多し、又其国ニへげる石在、是を取て瓦の如くなして屋根にする所も在、此処の人、貴賎老若ニ限らず紫檀、黒たんの杖を突、往来す、又少しニても身持重き輩ハ、刃付筒、又たもと鉄砲等持て往来す、また、けんなしの筒も有、皆火打仕懸ケなり、騎射笠の如く成物を冠り、其笠の真中ニ穴あり、夫より髪を通し居ル也、女ハ髪、天神結の如、衣類男ハ筒袖ニして、是ニ股引の如くなるを着し、沓をはき居ル也、雨具なくして、雨天の時ハ家より出ず、此処の人、食する事朝昼夕と喰もの違ひ、橋茶わんなし、芋の類いろ〳〵と仕成、餅抔幾色も拵ひ様違ひ、風味能、朝ハ先飯台に彼石焼芋抔芋の類いろ〳〵居、腰懸ニ腰をかけ是を喰ふニ、芋なれバ刃の如く成ものニて突立喰ふ、朝の時ハ大豆を黒色ニいりて是をせんじ呑となり、又昼飯の時は水をすくいて呑、夕飯ニハ日本の如き茶を呑、扨又此国死失の時ハ、王ハ、山上ニ蔵の如きもの在、其中ニ大成穴在、是に葬ル、惣而重役人ハ日本の如寐棺、又賎しきものハ火葬なり、又此処へ近年ヲランダより医師来り居て、煎薬は無之、棒薬又ハ散薬を用ゆと云、又針ニて血を取事多し、又日本疾といふて、じゑき有之時ハ、居風呂桶の如く成桶ニ水沢山ニ入、右躰の病人を赤裸ニしていれ、頭計出して熱気をさまするなり、是等の病気快気したるハ壱人もなし、扨着船の処、彼船の水主、ワフの問屋役の者の処へ右五人の者を連行、此問屋役人の名ブチイヱエル、船頭の名ハタブタヂョン、其時船頭、問屋役人へ申ハ、此人何国の人か知れず、無人島と申処ニて数月の間甚難儀致居候を見付、連来り候と申けれバ、彼役人種々の銭を持来りて五人の者へ見せけれバ、其中ニ日本の寛永銭の壱文有之、是ニ指さしければ、扨ハ日本人成べしと、此時よふ〳〵知れけると也、扨、万次郎ハ本の船ニ乗、伝蔵、重助、五右衛門、虎右衛門ハ此処の役人ニ預ケ、手厚く介抱致呉候様頼置、船頭は万次郎を召連、船ニ乗り本国へ帰りける、残り四人之者、長々世話に預りけるを気の毒ニ思ひ、役処へ暇を願、夫より自分〳〵の渡世をし、扨用遣ひ又畑抔手入方、或ハ大船湊入を聞てハ荷上ゲ抔色〳〵の渡世し、漸く言葉も分り出しける、彼国の人よりハ達者ニて、荷持抔は大にはかどり、彼国の調法となり、また道を行ても所の人よりハ早く、二日程ニ往来の所は日帰りニし、所の人もあきれる計りなり、後には余程銭銀など出来て自由に暮らすうち、家など造り安気ニくらしける、此国昼夜刻々ニハ大筒を打、夜分抔は驚きける事、初ニハ度〳〵也、また虎右衛門は大工職も随分手ニ入り、四五年経て後、重助ふと煩い付、次第ニ病重り、終に病死致しける、此者日本人なりとて、其処の役人より寐棺ニして葬式も手重く致し呉候、扨日本の巳の年ニ至り、其処の役人へ暇を乞、日本へ帰り度段申出候処、役人申ニハ、役所へ願出、夫よりセメンへ願出、セメンのゆるしをうけ不申てハ帰る事不叶よし申此処よりアメリカをさしてセメンといふなり、夫より彼問屋へ右の達の願出候義、彼方よりセメンへ願出、此ゆるしを受、鯨船に便舟をこひて、去ル午の年三人の者乗船せんとす、このとき虎右衛門申ニは、此躰ニ而は日本へ帰り候ても打払われ帰着叶わずとて、此もの跡に残り、両人ハ出航して日数経て往中、くらき海上四五日程も通り、此処を経て後、日数経て遠き海原を行、漸〳〵と一島ニ着船ス、是こそ日本成べしと此浜ニ上る、是則ち蝦夷の国也、ヱゾ人皆〳〵恐れ逃散り、漸く家一軒見付参り候処、是もヱゾ人働きニ来り候小屋と見へ、人の住たる躰ニも見へず、又人を見付し故参り候処、皆々逃ちり、此日も程なく日暮ぬれば、浜の手ニ何丁共知れず松明焚燃し、合図の篝火と見へ、なか〳〵可寄様なく、早々船を出し逃帰りしなり、

  私ニ曰、三国通覧図ニ、蝦夷人ハ狩するに、七八里も行きてハ其処

 ニ家を造り、一両年居、外里ヘ出、如右造候と在

彼万次郎義、共〳〵北アメリカへ連帰り、無人島より日本人を連れ参り候よし以前の如く次第を咄し、此処に留置、手習学問等致し、年たけるに随ひ、天文等ならひ、彼是覚へ込、寵愛に預りける、扨此国ハ彼ワフ国と違ふて、時候日本と同じく寒暑有之、家居抔ハワフと同じ也、能家ハ障子硝子抔ニて張有之、惣じて家は広く美々敷造作したり、又作物ハ専ら麦多く、米も少々作り有之、然共米を食するは賎敷とす、麦を上品とする、喰ものは彼是、多分ワフと同じ事也、人物男女ともニワフと同様也、此国に王七人在、此王四年ヅヽニて替ル、次の王は人をゑらミて是を王とす、又故有て八年持も有、王を八年持時ハ、名もなき夥しき金持と成よし、万次郎数年居候内、この王様とおぼしき人を見ず、又日本の如き狼煙し抔も有之、其中に、袋へ火を燃し候へバ自らうへにあがり候も有、此時は男女多く見物ニ行、男女共馬ニ乗り、又ハ車抔ニ乗て行、此車ハ一ツニ三十人計乗、焼たる鉄を入候而、火気ニ而自ら廻り往よし、如何の工風ニや知らず、多分蒸気船の類成べし、又王の往来ニハ一僕のよし、又貴人の往来ハ剣付の筒を持、剣無もあり、又たもと鉄砲も有之、是ニワフニ同じ、此処の人、貞実ニして悪心を知らず、言語ワフニ同じ、衣類等も同様也、羅紗抔ハ至而沢山に出来ル処なり、

  説に曰、羊を家毎ニ多く飼置、秋の節に至りて其毛を取て羅紗ニ織といふ

扨又此国、毎月七日ニは、先祖祭りとて家毎に祭之、其日ハ家の戸をたてゝ内ニハ家内慎ミ居ル也、又組合ハ、日本にて熨斗の取替せの処ハ、聟嫁寄合て互ニ一礼し、又パン抔喰て、是より睦敷交り有と雖未ダ夫婦の交りハせず、車抔ニ乗、所々遊楽ニ行事ハあり、扨婚礼の時ハ、双方今日より夫婦と成りしとて、処々の神〳〵ヘ詣なり、都て盃の儀式は無之、酒は気荒く成もの故、不呑といふ、平生は呑事も有、葬式の事は多分ワフと同じ事也、又此国より王城をさしてセメン(*=セツルメント)といふ、

  考るニ、日本にて府、或ハ都、又ハ表抔といふ言葉なるべし

万次郎は次第ニ天文之事ニ上達して、所々是ニ雇われ、又桶屋抔習ふて色々渡世向多く、此節は金銀抔多く出来、天文の道具、あるは書物など求めて処々の調法となり、又右の鯨舟抔に雇われ、此鯨舟は天文者一人無之候てハ海上広く乗ル故、方角も立ざるよしニて、舟の具は桶已前のごとく、大筒も多く仕込有之、是は海賊船ニ行逢時の為也、他国を打立る事にあらずといふ、万次郎、此船に三四年も乗り居候内ニ、日本の沖も四五度通り候て、イギリス国へも本唐ヘも連られ行、扨又氷の海と申在、此処は海氷りて、上ニ雪多く積りて、大き成島の如し、此処にて氷薄き処を見合せてそこに至り大大、此処はたして鯨こゞへ居る故、氷破り、此鯨手安く取故、此処へ諸国より多く取ニ来ルよし、又クロボウ国へも往、此処の人何レも裸ニて、衣類等はなし喰物ハシオ計喰ひ候よし びろふの葉を腰ニ当居り、色ハなべの尻の如くつやハなし、夫より鬼国といふ有、又裸国共云ふ、此島人右之通裸ニて、女は腰ニ柴の葉をあて居ル也、

  私に曰、鬼国の人、食物は肉類を専とし、死たるを歓んで喰と云、又犬猫の類、死たるが流れ来ルを、是又歓んで喰ふといふ

此所は遊女共在、アヘン、タバコ又ハパン抔遣しければ悦んで船ニ来ルト云、又日本奥州の沖にて釣舟ニ行逢、万次郎小舟をおろして此舟ニ至り、土佐の方ハ何方に当ル哉と尋候事ありとなり、

  考るニ、此四五年跡ニ、奥州より公儀へ御届ニ成りし書写し有て、引合せ見ルニ、異国船より小舟をおろし漁舟に近付、字引節用は所持不致哉と尋ね、又土佐国ハ何方へ当り候哉と尋ね、実は丑寅ニ当レ共、日本の地方実ニ不申、辰巳の方と云しよし、くわし

扨夫より諸国遍環して、四五年を経てワフニ行、日本人を尋ね見れバ寅右衛門一人ありて出逢し、扨彼重助、伝蔵、五右衛門の事を問ひしニ、重助は死し、残り二人は日本へ帰り候と申万次郎四人と別レてより六ケ年目なり、其傍に聞居候偉人、其両人も帰ル事不叶、夜前其船、湊迄帰り居候と申、悦び湊へ尋行候処、両人に逢ひ、彼是以前の通りの物語承り、とにかく帰朝の事ハ四人とも申合せ、万次郎ハ右之船ニ乗、北アメリカへ帰り、夫から万次郎ハ色〳〵道具、寄物抔買求メ働候内、南アメリカの境ニ、キヤラホネと申す処在、此処の島は日本の浅間山ニ似たる所ニて、火中に火気立て金抔自然とわきて、右の如く土中ニ多くあり、其辺の泉水火色の如くと云、万次郎此処へ金堀ニ行度旨を以、暇を願ひ、数日の間に余程金堀集メ、尤是ニも善悪多くあるよし、アメリカに帰り来りて物語し、日を経て又キヤラホネに行、金堀来ルと偽り、此時酉の年之頃ニ、ワフニ来りて帰朝を申合せ、本唐へ行売船ニ頼入の所、日本へハ未ダ渡海不致国ニ付、連行事不叶、尤小舟一艘求メ此舟へ乗置、日本近き所より其船ニ乗せ渡すべしと申、小船一艘求め此船へ入、然ルニ万次郎義、先船の船頭ダブヂョン寵愛して養子の約束相済、以前ニ申すごとくパン又茶抔呑て有之けれ共、未だ神参り等は不致故、夫婦と申ニ而は無之、此時万次郎、右之ヂョンも養女へも書状を以、彼約束断りの紙面遣し候、夫より出船して日数経て、同年、琉球沖にて右の小船をおろし、是に乗て琉球へ打渡る、此大船ニ乗参り候中の御恩ハぼふじ難しと申ければ、彼の人其心遣ひ無用也、存の通り世界中乗廻る程の事故、若や難風に逢て日本の地にも流行事も有候時ハ、筒抔打懸ずして船をかけさせられ度、外ニ望なし抔申候、さて万次郎、小船に乗り移り候時、一通之書状認め虎右衛門ハ此時ニ以前のごとく申、壱人残り、右書状ニ、此度首尾能日本へ帰り候ニ付、能便り次第早々帰り候へと認メ、大船へ頼ミ遣し、伝蔵、五右衛門、万次郎三人ハ琉球国へ着船ス、され共琉球人大ニあやしミ、多くアメリカなまり也、言葉もはか〴〵不通、早く日本の髪ニせん事を思ひ、三人共やつとこ成、是ニて漸く日本人と知れニける、此処ニ而もいろ〳〵詮議に逢ひ、然レ共、髪已前の如く致し不申候ては薩州へ渡し候義不相成と申事ニより、又元の如く髪はへるまで彼国に留られ、一年程経て薩州へ御懸合ニ相成、御渡しニ成、又此処ニて段〳〵御詮議の上、大に御介抱ニ預り、扨又着服も薩摩がすり抔三人共拝領して、彼筒袖の羅紗、沓の類も止メ、此処にてまたやつこに剃立、夫より御役人方、万次郎所持の本類、又天文道具類、衣類抔も此処へ置候へ、此方より土州へ廻し可遣候と被仰渡、是より長崎へ持行候てハ御取上の程も難計と申され候、万次郎申すにハ、難有仕合に奉存候得共、万一其義露顕有之候てハ、御当国は申ニ不及、土州ニ而も御首尾ニ拘り候而ハ甚以恐多く、私共身の上之事も如何ニ奉存候間、

此段ハ御断申上度、長崎ニ而御取上ゲ之義ハ詮方無御坐、其儘所持致し、長崎表御渡しニ相成、おしむべし、長崎ニ而万次郎所持之本類、天文道具并ニ母へ之土産の心ざしニて彼掘たる金、一寸四方程の上品の金二ツ、是も共ニ長崎にて御取上ゲニ成、御返しニ成たるものハ三人の衣類外ニ壱枚書たる物有しよし文明不成、三人共長持壱ツヅヽもち帰国致し候、長崎より御渡しの時、御役人より請取の役人被申候ハ、先此度ハ御渡しニ相成候得共、当地召抱候て調法之者故とて、其段土州へ御望之よし、右三人之もの、嘉永五壬子年七月上旬、目出度帰国に及びける、また長崎へ御渡しニ相成候哉不知、追々知れべし

(*このあと「アメリカ言葉」「重助墓の図」および「堀部安之助江万次郎より之書状」と、いずれも模写したものが続くが、省略)

補注

●この第七七話本文は、万次郎を江戸に召喚し身柄を預かった勘定奉行・本多加賀守臣下の役人が口述を聞き書きし、さらにそれを藤岡屋が書き写したものである。別に口述刊本として流布している『漂流万次郎帰朝談』も時をほぼ同じくして出ていることから、役向き筆記録が底になっていると見てさしつかえない。嘉永四年の帰国時からしばらく、万次郎は一〇年に及ぶ長い異国生活で日本語を話すのにも苦労したことであろう。まして十四歳で鳥島に漂着した彼が文字で体験記をまとめるなど、思いも寄らないことだったにちがいない。その意味で、この聞き書きは価値ある記録文書といえよう。

●ジョン万次郎こと中浜万次郎(1827~1898)は土佐の鰹舟に初めて乗組み、運悪く遭難、仲間四人と共に、本文中の「無人島」すなわち鳥島に漂着した。この思わぬハプニングが彼の一生を大きく変えるきっかけになった。彼に関する伝記など文献は数多あるので、あえて多言は要しないであろう。

●ただ当記録は、いわば官製の文書であり、記述に生硬さが目立つ。そこで、手軽に読める文庫本『ジョン万次郎 アメリカを発見した日本人』(成田和夫著、河出書房新社・1990年刊)の併読をおすすめしたい。得るところがあると思う。

 

第七八話  大江戸花の相撲取りの寂しい千秋楽

──嘉永七(1854)年四月、第五十より

四月十日、いよいよ相撲の初太鼓が響く。

両国回向院において、春相撲の興行/東大関・小柳、勧進元・二十山要右衛門/西大関・鏡岩、差添・粂川新右衛門

四月十一日、取組の初日に当りますが、今月六日の皇居火災をはばかり、今日から三日間は開催を中止し、十五日に二日目取組となります。二十日の五日目には六津ケ峰・雲竜の対戦があり、これは去年秋の敵討ち相撲であります。

昨秋四日目の十一月二十二日、同じ対戦同士の取組では、雲竜が向付を取ったのに対し、六津ケ峰は引倒を仕掛けました。結果、同時に共倒れとなり、六津ケ峰は肋骨をくじいて負け。その後の相撲も取れずに休場していました。

そして今日は、その決着がつく敵討ち相撲の日。双方立会いのすえ、雲竜は土俵外へと突き出され、負けを喫しました。

 雲竜も秋には峰を荒しても

      春は峰より突て落され

(*以下、後日記の別稿)

今度の相撲は、六津ケ峰の敵討ちという前評判で大入りに。ほかに小柳も七日間出場のうち三日が黒星。雲竜は九日間の取組で三勝・二分・四敗の番狂わせ。六津ケ峰は体調が絶好調、九日間全勝です。この春相撲は五月十日が千秋楽となります。

閑話休題(それはさておき)、今場所初日を迎える前のことですが、猪名川政右衛門は五〇両の金を手にできず困っていました。じつはこの金、イカサマ相撲に加担した報酬といういわく付きで、その筋に訴えるわけにはいかず、仲間にうっかり相談もできない。とうとう金に行き詰まって、四月六日に部屋を飛び出してしまいました。部屋は本所御船蔵前の、西二段目の関取宅。主は厳島関右衛門という元幕内力士で丸亀藩のお抱え、前頭六枚目まで番付された力士です。

関係者は行方を追って方々調べましたが、足取りがつかめません。そのうち、鉄砲町稲荷橋下に水死人が揚がったという情報を得ます。十五日に詳しい話を聞くと、投身したもので、身元は猪名川であることが確認できたので、引き取って弔ったそうです。

猪名川は以前、女房の伝手(つて)で、興行主のために北野屋七兵衛(*江戸の大手両替商)のところで緊急の資金調達を買って出たことがあります。大切(おおぎり)相撲で鉄ケ峰との取組で、二〇〇両もの花(*勝者に贈られる祝儀)をかけ末代まで名を残す相撲ぶりで勝をおさめています。(やぐら)太鼓の名手・鶴沢才治の鳴物入りで土俵入りして観客をわかせ、贔屓の料理屋を繁昌させて亭主を喜ばせたりもしました。

それがこのたび、わずか五〇両の工面で北野屋も応じてくれないとは、摩利支天(*力士など勝負師に勝利をもたらすとされている女神)に見放され、力士冥加も尽きた、ということでしょう。

 出た先ハいつくしまぞと尋れバ

      いなりの橋の下にいながわ

補注

●スポーツ娯楽の少なかった昔、国技の相撲興行は庶民が大きな楽しみとするものであった。当然、花形力士の人気は今日の比でない。この話など、人気に溺れた派手な生活のあげく、四股名を土左衛門と変えることになってしまった一人の男の哀話である。

●近代まで、大関は相撲番付の最高位にあり、今日にいう横綱に相当した。

 

第七九話  「三度分込み」という廓遊びの新商法

──嘉永七(1854)年七月晦日、第五十一より

細見/正札付 遊女大安売り

  (*以下、引札)

御客様方にはますます御機嫌うるわしくお喜び申し上げます。弊店も御蔭様で長年にわたりつつがなく遊女屋を営業いたしてまいりました。

 さて最近、吉原も日増しに不景気に見舞われ、御客様への御奉仕のため廓内でもあれこれ工夫いたしておりますが、どうやら「枯木に花」の始末です。遊廓の繁盛は、ひとえにお客様の御満足をおいてほかにございません。まして小さな弊店のこと、何かと思案を重ねましたが、どれもこれも今一つ、といったところでした。

そこでよくよく考えましたところ、お客様が御遊興になるのはただ一つの目的のため、という点を痛感いたしました。すなわち、「御持て成しの安売り」という原点に立ち返ることでございます。その結果、御満足いただけるような「お徳用向きの遊女」を取り揃え、彼女らには御客様御歓楽を第一とするべく徹底して教育いたしおります。

ここに、遊女との和合は一登楼につき三度まで同一料金という御奉仕制を設けました。しかも、右のほか余分のおまけ付き、こちらは遊女当人と御相談のうえでの御奉仕、といたしましたので、足繁く御利用くださいませ。なお御年寄の方、精力に自信のないお客様は、通常の一度ないし二度でお遊びいただくこともできます。三度計算での残りは、お申し付けにより遊女が切手を差し上げます。切手を次回に御運びのとき持参していただければ、合歓(ねむねむ)の埋め合わせに改めてご利用になれます。この新制度は昼夜を問わず適用させていただきますので、皆様方お誘いあわせのうえ、又またよろしく御喧伝の程、お願い申し上げます。

新吉原角町入口 松田屋寿 敬白 

追記  敵娼(あいかた)が御気に入らない場合は、お申し出により取り替えます。

 家寿売に度数をまけて助兵衛へな

      客の来るのを今はまつ田や

補注

●第五八話に類する引札だが、こちらは「抱き得」を明確にセールスポイントとした点で、世の好色家に対し説得力がある。

 

第八〇話  「御医者ごっこ」から「破瓜ごっこ」へ

──嘉永七(1854)年九月二十四日、第五十二より

十一歳の男児、戯れた女児の陰部を傷つけた一件

小石川指ケ谷町、八兵衛店・駕籠屋 重三郎の忰 政吉 十一歳/同店・砂糖屋 近江屋弥助の娘 いち 六歳

今日、二人の子供は仲良く遊んでいましたが、昼ころ「夫婦(めおと)ごっこ」をしている最中、政吉はいちの陰部を破ったため治療させました。長屋総がかりで、重三郎から一両二分を差し出させ示談にもっていったそうですよ。

 戯れにこひしかわひとさすがい町

      割ていちらしいもあらひざか

 

 

第八一話  野暮な雷神、ヘソ取らずに達磨を置く

──嘉永七(1854)年九月二十五日、第五十二より

夜中二時ころ、天台宗谷中光雲山法蔵院(浅草東光院の末寺)での出来事でございます。

  寺の境内土蔵の上に落雷し、なんと石造りの小達磨が屋根を打ち抜き二階に留まりました。音響に驚いた住職は盗賊でも這入ったかと思い、物音に驚いて所化(しよけ)(*修行僧をさす古称)一同も目覚めて二階へと上がりました。そこで屋根が一尺ほど丸く打ち抜かれ、達磨像を発見、本寺に知らせました。同月二十七日に寺社奉行から調査があったそうです。

  此節はほふそう院のはやる故

       石の達磨の降りやしつらん

  達磨さんなんぼおあしがほしひとて

       宝蔵院へ忍び込むとは

 

第八二話  子供じみた乞食坊主どもの暴走

──安政二(1855)年三月十九日、第五十四巻より

浅草奥山の軽業興行で坊主ども喧嘩の事件

二月十八日からの浅草観音開帳に伴い、大坂の新下り軽業・玉本勝代「綱渡り乱柱渡り」が大評判で、連日大入りの盛況です。開帳というので別当(*寺務の開催寺)の伝法院に関係方面から坊主どもが大勢集まってきました。中の二、三人が軽業の只見に来たので、木戸番が満員だから、と入場を断ったところ、「伝法院からやって来たのだぞ」と、坊主。重ねて断ったため口論になり、木戸番は、「お主ら、伝法院なんかじゃない、伝坊(*無銭飲食や無銭見物を常習とする無法な坊主への蔑称)の乞食坊主だろう」と、悪口を滑らせました。

風来坊主の悪評判もある悪僧どもは腹を立てて帰り、仲間の僧達にウップンをぶちまけます。なにしろ血気盛んな若僧揃い、「こいつは面白いことになってきた」と、数十人で徒党を組んで例の軽業小屋へと入り込む。近辺の若い衆も神輿を一担ぎし終えて祭り酒を楽しんでいましたが、坊主らの乱暴を聞きつけ、「人に迷惑をかける生意気坊主どもめ、ぶちのめしちまえ」と大勢して駆けつけた。とうとう新門の大親分(*新門辰五郎。江戸随一といわれた侠客)まで乗り出そうとしたが、「伝法院の坊主では相手が悪い、かかわりあうな」と手下どもを制止して、坊主連中をなだめ和解をとりなしました。

この騒ぎで、奥山の各見世物はいうにおよばず、茶屋なども休業せざるをえませんでした。

 軽業に唯見せ物と這入のは

      伝法院の坊主なるゆへ

 

第八三話  女の生首を質入れ、スハ一大事?

──安政二(1855)年四月二十三日、第五十五より

夜八時ころ、花川戸の質屋に生首を持ち込んだ強盗が侵入

浅草花川戸町 質店 (かみき)定次郎

同店で番頭はじめ若い者が帳簿付けをしていると、脇差を差した軽輩武士の身形(みなり)の男が包みを抱えて店にやってきました。出てきた番頭に、「百両の金が要り申す。質草を持参したゆえ、検められよ」といって風呂敷を解くと、中から出てきたのは女の生首。これを目の前に差し出された番頭、よく見ると首から血がどくどくと吹き出ている。番頭肝をつぶしましたが、気を鎮めるとそ知らぬ顔をして、「ご用立ては致しますが、なにぶん大金ゆえ今ここにございません。奥から持ってまいりますので、しばらくお待ちを」といい置き、奥に行くとけ、身づくろいを整え六尺棒を持ち出しました。戻って強盗に金を渡した隙に、力づくでも金を奪い返そうと六尺棒を振り回し打ちかかりましたので、賊も不意をつかれて気後れしたところ、若い衆が外へ飛び出し「火事だ、火事だ」と大声で叫ぶ、そのに近所中が総出で駆けつけた。なにしろ賊は孤立無援、首をほうっておき金も奪わずに逃走しました。

質屋では残された首の具合を確かめようと横にすると、ひょっこり立ち直る。そのたび生血があふれ出るではありませんか。みんな驚きあわてて、名主の三田三郎左衛門方に急を知らせますと、「明朝役向きに御届けを出しましょう。それまで箱に入れ保管させてもらいますよ」とのことです。

翌二十四日に北御番所に事件を訴え出ました。一通り尋問がすんで御役人が首実検いたしますと、なんと首は達磨の細工物、中に煎蘇枋(せんそほう)(蟾酥(せんそ)=漢方薬で赤色の染料にもなる)をどろどろに溶かし入れてありました。これが首を横にしたとき自然に起きかえり血が出てくる仕掛け。まるで生きているかのような見事な細工です。

これは怪談物の細工人、目吉(*江戸後期、蝋細工の生き人形造りの名人)の細工に違いない、と評判になりました。榊質屋の番頭は俳諧をもたしなみ俳名を文路といいますが、剣術の心得もあり、そのため賊を六尺棒で撃退できました。彼、じつは痰咳(*ぜんそく)持ちなのですが、強盗を追っ払ってすっかり気分がよくなり、快方にむかっているとのことです。

 長兵衛や助六のいる花川戸

      生首抔になに恐るべき

補注

●別稿によると、仕掛けは達磨の人形にかつらをかむせ、紅がらを用いて血染めに見せかけた細工物だったとある。

〔『藤岡屋日記』では「江戸大地震」として上下二巻を別巻扱いで最終巻本に編んでいる。すなわち安政二年十月二日に関東地方を襲った、俗にいう「安政の大地震」に関する記録集である。そのうち一部をここに抄訳・抄出した〕

別巻・上の冒頭に掲出、被災後の仮小屋

 *別巻・上の書き始めに、地震発生から一〇月晦日までのほぼ一カ月間に起きた大小八〇回の揺れを記録、日時と揺れの大きさを丸印で示してある。

 

第八四話  「安政の大地震」の概況

──安政二(1855)年十月二日、別巻・上より

〔本条は江戸における震災の模様が比較的要領よくまとめてあるので、原文のまま転載する。独自の書き癖が出ていることから、おそらく藤岡屋自身が書き起こしたものであろう〕

乙卯年十月安政二十二日夜四ツ時(*午後十時)/大地震の次第

雷鳴之如き(ドロ)々と響も等敷、夥敷地震ひ出ス、是ハ如何ニと衆人驚く間もなく、大地震見る〳〵家蔵の震動する事、宛も浪の打来る如く、其上土蔵高塀或ハ御大名方、御旗本、并町家共、器物道具の崩破るゝ音、千万之雷頭上ニ落懸るが如く、往来の人は大道ニ蹲踞(ウヅクマリ)、家ニ有る者畳ニひれふし、今や棟梁の為ニ圧死するかと胆を消し、人々生たる心地なかりしが、たゞ一度地震に而有之、少々穏ニなりし処ニ、八方よりの出火、凡四十二口有之見受、途を失ふ者在、中に家毎ニ畳を大道へ投出し、互に引連手、我一と是ニ逃出〳〵、誰言合となく須臾之町々家の内ニ残る者稀ニして、老若男女貴賎高卑の差別なく、皆々大道に膝をつらねしハ、元禄一六年十一月二十二(*関東中心に起きた大地震で、死者は全国で一五万人を超えた)ハいざ知らず、百五十三年来珍らしき事也、扨江戸の人家或ハ倒れ、又柱ゆるみ、天井落、或ハ竃の壊崩たる尤多く、土蔵ハ殊更に当り強く、矢庭に震崩仕たるハ多く、其外壁落、大輪砕而是が為ニ即死怪我人数多有之、尤梁ニ打れ、其儘相果、又は所々よりの火事に焼死之者も有之、或ハ往来之者ニ助けられ、又は梁の下より掘出し候者数多ニ而、中ニは往還に而両側の家倒れ、即死致候もあり、或ハ土蔵震ひ候下へ相成、即死、怪我致候者、幾万人といふ数を知らず、又ハ天窓をうたれ足を折、腰をうたれ危き命を助り候者も有之、子出て親をなくし、親逃て子を殺し、右之死骸夫々寺へ遣し候と雖、入物無之、無処酒樽、天水桶へ入、其上を又ハ水桶を蓋に致しかつぎ寺々遣し候処、寺ニ而も沢山ニ而困り、其儘埋も不致、積重積候由、古今之天災ニして、主人の安危もわかたず、老若男女之泣きさけぶ声天地ニ響き、目も当られぬ有様ハ、前代未聞の事共ハ、筆紙ニも述べ難く、凡江戸中の土蔵ニ一ケ所として満足なるハなく、去共、誰か是を補わんといふものなく、取除んと思ふ者もなくて、只大道に平伏し、神仏名号を唱ふ、たま〳〵其家又は近辺の縁者の安否を問ふ者も稀にして、只々狂気之如くにて有之、此夜は家々の大挑灯、弓張をともして大道ニ夜を明す、翌三日昼之内は穏なれども、夜に入候へば何時ニハ大地震有之、或は震返し有之と、街之風聞ニ驚き、此夕方より同今宵も大道ニ夜を明さんとて、畳をつらね屏風を引、上ニは雨覆ニ戸障子を町幅狭き所に而向ひより互ニ縄を張、竹を渡し、上ニハ莚又ハ合羽抔を引覆ひ、皆々前夜の如く夜を守ると雖も、少々宛之地震は有之、又恐怖之甚敷ハ、市中に居るは浮雲とて、馬場、原、河岸ニ席をかまへ、食器を運び出て難をさくる人も夥し、翌夜も大道に出ると雖、悪党共抜身ニて歩行といふ噂ニ恐れ、中には端に寐転び、厳しからんにハ大道へ逃出さん用意也、是より日々震ふ事数少なく、八九日頃ニハ一二度ニ及ぶ、扨江戸諸侯方ハ扨置、市中の人家、大小共破損せざるなけれバ、急々其修理をなさんとすれども、大工左官ハ元より、手伝人歩ニ至迄、迚も家々にあてる事かたければ、数度呼、使ニ及べ共、容易ニ出来らず、たま〳〵来ると雖、一日来れバ二日来らず、二日かゝれば五日休むが故、修理も全からず、板材木、金を積と雖、品無之、平生板、両に七八十枚位之品を、両に拾一二枚ニ而も一向に品無之由ニ而、難儀ニ及ぶ、漸々竹、材木を以て仮ニ突張し、或ハ縄ニ而つなぎ置も在、又は一向ニ人寄来らざるハ、止事を得ず其儘になし置、或ハ手当出来兼、途方に暮居り候者も有之、家土蔵めり込、穀類、諸道具埋有之といへども掘出ス手当無之、国々へ立去候者も有之、一日雨降候処、家蔵残り候者共は安心致し候得共、雨湿通て又も土蔵崩れ傾き、或は残たる大輪落るハ多し、故ニ人心何となく恐怖止ず、日夜安き心もあらずして、只安全を而已願日しニ、元より泰平の大御代、ことさら公にも諸社諸山に御祈を命じ給ふ、其上窮民共ニは、市中五ケ所の御救小屋迄た被下置候ハ、いと難有聖代と、万民こぞって歓びをなし侍る

補注

●安政の大地震は江戸市街に壊滅的被害を与え、郊外まで含めると家屋倒壊一万四千戸、死者は七千とも一万とも数えるに至った。水戸藩士で漢詩人としても有名な藤田東湖もこの地震で圧死した。

 

第八五話  安政の大地震による吉原遊廓の被災

──安政二(1855)年十月二日、別巻・下より

新吉原

江戸町一丁目・二丁目、京町一丁目・二丁目、西河岸□町・角町・揚屋町・伏見町と、総じて中の町から四方の廓は残るところなく類焼した。大門外の高札付近は焼け残ったが、日本堤を結ぶ往来は地割れを生じ、死人やけが人が出ている。

廓では土蔵で無事だったものは一カ所もなく、倒壊した下敷きになったり、火災にあったりした死者・けが人多数を出した。町方への届では、

「死者六三一人、うち男一〇四人・女五二七人、けが人二七人で男女の別は不明」となっている。

ただしこの数字は公式上のもの、実数は、遊女八三一人が即死、ひやかしを含む客四五四人が即死、茶屋の男女や禿(かむろ)・若い衆ならびに諸商人など一四一五人が即死、死者合わせて二七〇〇人に達している。

一、吉原では当初、四カ所から同時に出火したため、九割の人が亡くなったという。死者はおよそ七〇〇〇人とも六〇〇〇人ともいわれ、死体運搬車一二台、あるいは一六台が連日稼動。一〇月四日の書面では三七〇〇人、京町の岡本楼だけで七〇人が死んだ。

 一、京町から出火のとき、岡本屋長兵衛方では地震で逃げるのに大門(おおもん)には遠く、裏口に回って反橋(そりばし)を下ろし、田圃に避難しようとした。家中の者残らず外へ出ようとしたとき、運悪く土蔵が二棟とも崩壊し、夫婦二組・孫五人・遊女三四人とも残らず圧死または焼死した。「岡本楼の大難」といわれている惨事である。

(*中略)

 一、京町一丁目の杵屋清吉は遊女五〇人ほどを抱えた楼主だが、地震のさい七〇〇両ばかり財布に入れ、首に吊って逃げ出した。途中で財布が破れて一部が散乱し、手元に三〇〇両ほど残った。途中、大門外の土手の地割れに落ち込んでしまい、出ようとしてもがいているところに廓内の若いのが通りかかったので、呼び止めていった、「どうか引き上げて助けてくれ。そうしたら、財布の有金半分を差し上げよう」と頼む。若者は立ち止まり、清吉を引き上げ助けてやった。清吉が財布から半金を出そうとしたところ、若者は財布ごとひったくって逃げ去った。十八日になって、大嵐の夜、犯人は捕まり入牢したという。

補注

●この条には、吉原の罹災に関する逸話・雑報の類が数多く集めて記録されている。

 

第八六話  震災の後遺症で、人心まだ大揺れ

──安政二(1855)年十月二十九日、第五十七より

新大橋での投身事件

御成街道の平永町代地、砂糖屋・万屋徳兵衛の娘・おつね 十六歳/若者の寅吉 十六歳

万屋は地震の被害で家が大破し戸締りも悪いので、徹夜で警戒を怠りませんでした。ある夜、おつねと若者が当番になりましたが、夜長の退屈にまぎれて乳繰り合いが始まります。それをきっかけに、二人は店でも見よがしの振舞いに及ぶようになり、近所での評判が立ってしまう。とうとう母親の耳にも入り、今後逢ってはならないと、娘はきつく注意されました。

しかし若気の至り、おつねは姉の家に行くという口実で寅吉を連れ出し、芝居見物やら飲み食いで時のたつのをを忘れてしまいます。さて、家に帰るに帰れず、かといって駆け落ちする金もない。ままよ、「いっそ死んでしまおう」と、おつねは安藤邸の前から川に入水してしまいた。女は泥だらけになり、水を飲んで青膨れに成っている。寅吉は見ていられず、後追い身投げをします。しかし寅吉に死ぬ気などなかったから、「助けてくれ」と叫んだ。時刻は十一時ころのこと、声を聞きつけ安藤家の中間(ちゆうげん)たちが飛び込んで二人を救いあげ、泥だらけの体を御成街道まで担ぎ運んだそうで。

 

第八七話  酩酊茶番で鼻と顎の食い切り喧嘩

──安政三(1856)年正月十四日、第五十八より

牛込安養寺門前、経師屋・古沢鍋次郎/同所白銀町、薬湯・花屋長兵衛

この両人は、近くの内田屋という料理屋の二階へ上がり、初めはともに機嫌よく酒を飲みあっていました。が、ひょんな事から酔っての口論となり、長兵衛は鍋次郎の鼻に食いつき小鼻を噛み取ったのです。と、鍋次郎も負けずに長兵衛の顎に食いつき、一部を食い切ってしまいました。二人ともかなりの傷を負いましたが、酒の上でのこととはいえ、まだ仲直りに至っていないとのこと。

 

第八八話  桜の植樹にまつわる逸話

──安政三(1856)年二月、第五十八より

内藤新宿の桜植樹に関する一件

この二月十三日から、新宿の南裏側・玉川上水の土手通り三町ほどの間に、桜の苗木大小合わせて七五本が植えられ、樹下に芝を張り丸太で駒寄せを囲い、こんな木札も立てられました。

 御用木につき折り取るべからず

  江戸近郊での桜植樹のいわれをたどると、昔、玉川上水は小金井村の川端に端を発します。時の代官・川崎平右衛門は、桜花には上水等の水質を向上させる解毒作用があるとの思い入れで、小金井川の左右に松と桜の樹木を植えたおかげで、今では名所となり、春に「小金井の桜」を見ようと見物衆が集まります。

今度の新宿植樹の趣向は、上野の花、浅草の群衆、向島の見物、深川開帳火宅の賑わいと、これらの長所を総合し反映させた点にあります。

じつは先年来、新宿の女郎屋街には逸話があります。

廓では諸雑費の支出に備えて積立を行ってきましたが、近年は平穏無事な年が続き、たいした支出もありませんでした。そこで相当額に溜まった積立金を有効に使おうというので、小金井にならい、上水の土手に桜を植樹し、さらに三光稲荷の池を広げ杜若(かきつばた)込みを造れば、上野の桜、堀切の花菖蒲にもらぬ名所になりましょう。ことわざに「紫から紅を奪う」といいますが、吉原の火宅などではない四谷新宿の心意気を発揮し、まさに馬糞の中に菖蒲花の咲くしおらしさ、数多の物見客を引き付けようとの企てです。(*後略。後日談が続くが、紙面の都合で割愛する)

補注

●日記には本条のような紙価を高める情報も織り込んである。

●「吉原の火宅」とは、天下公認の遊廓である吉原が火災等で営業不能になった場合、その補助的存在として幕府から指定を受けた公娼街をいう。江戸では深川や新宿などが吉原の火宅に定められていた。

●往時、牛込辺から内藤新宿を通る往還は、別名を「馬糞街道」といわれたほど牛馬の往来が激しく、排泄した糞が塵や匂いとなって一里四方に広がった、と伝えられている。

 

第八九話  人猫対話の舞台で、堀田の殿様を揶揄

──安政三(1856)年二月十八日、第五十八巻より

老中・堀田備中守、西丸下屋敷へ転居を機に猫狩りの一件

この殿様の小川町御屋敷が去年の大地震で壊滅したため、移転先の渋谷下(こうがい)橋の下屋敷に転居中同月九日に老中に就任されました。西丸下屋敷の松平伊賀守・松平玄蕃守の屋敷もまた震災で罹災、再築工事に取りかり今年二月に竣工しましたので、早速に御役宅へと引越しになりました。その引き払った跡に堀田様が移られたわけです。

この屋敷は、古くより秋葉社があり、老猫どもが住み着いています。この猫眷属を崇めるため祠が建てられ、あたりに猫共が沢山棲みつくようになったのです。屋敷一同、もし猫に逆らうと報復があるというので頭を悩ませていました。たとえば家伝により、崇りの原因になる犬を入れるようなことはいたしません。

皆が猫を持て余していたわけですが、堀田殿は猫に対しこう述べました。「このたび当屋敷を拝領になった。お主らをこれまで通り気ままに飼いおくことは出来なくなった。祠は別途に寺へ移す。皆々もそこへ移り住むように。もっともわしらが他の屋敷に移転したなら、また元の巣に戻るがよい。今から万一、一匹たりと跡に居残るなら、猫狩りをいたす」と。(猫共の移る気配がなかったので)翌日猫狩りをして多数を撲殺し、中間(ちゆうげん)どもに食わしたといいます

ねこ〳〵や猫じや〳〵も皆堀田

     あとはとてつるてんとたまらず

猫に立ち退きを言い渡してから、その夜にもう崇りが出ました。翌日は猫狩りを実施。中間らの慰労に酒を出し猫の肉を吸い物にして振舞ったところ、「おじやまの吸物がうまいうまい」と食ったとか。猫の残りは俵に入れ、なかには二つ尾の猫もいましたが、殿様所領の佐倉へ送ったとのことです。

補注

●一見真面目風な記述に騙されないように。これは佐倉藩主で老中の堀田正睦(まさよし)(1810~1864)ヘのあてつけ落書である。彼は自藩に西洋砲術の道場を開設したり、アメリカ使節のハリスと通商条約を締結(安政五年)した。この開明的行動は反尊王思想であると批判され、庶民から化け猫扱いされたのだ。老猫連は即、老中との見方もできる。落首・落書などは民草の声の照魔鏡で、日記中にも数多紹介されている。

 

第九〇話  新門親分も持て余した水戸の喧嘩相手

──安政三(1856)年二月二十五日、第五十八より

浅草奥山の生人形見世物で水戸の中間連が喧嘩した事件

中納言・水戸斉昭公の御父子が御鷹狩りの途中、小梅の下屋敷にお立ち寄りになりました。侍と中間(ちゆうげん)ら七八人(*随伴者全員なのか一部の者なのかは言葉不足で不明)が御供をし、ただいま大評判の生人形を無銭見物しました。ほかには六四文払って入場した客が沢山いて、興行主としては事故に備えて客止めしたいほどです。伝法(*今にいう無頼漢)など入れるわけにはいかず、木戸で断りました。

すると軽輩者の悪いくせで、肩を小突いたのなんのと難癖をつけ乱暴を働きましたので、大勢で相手になります。中に一人悪質なのがいたので、ぐるぐる巻きに縛り付けておきました。この興行は新門辰五郎親分が取り仕切っていましたが、仲介人を立て、乱暴を働いた中間共にあやまらせて、いったんは事を収めました。

しかし水戸家の下役目付(*事件の監察役人)は、「大掛かりで金のかかっている人形を無銭で見物したのはよろしくないが、軽輩とはいえ水戸公の手下、それを届け出もなく勝手に縄をかけたとなるとただではすまない。小屋側の責任も糾明すべきだ」と権力を笠に押しかけてきます。この勢いに悪乗りし、水戸下屋敷からも加勢が奥山へと押しかけました。

いっぽう新門側も仕返しを覚悟し、各所に散っていた鳶の者を召集、防備を固めます。目付はここに至り、「小屋内部はただ乱暴に打ち壊してはならぬ。見せしめに入口付近に止めよ」と命令を下します。けっきょく水戸勢は、招き人形(*入場に迷っている客を呼び込むために作られた看板用人形)の「近江のおかね」だけを壊しましたが、見物人はこの騒ぎで尻尾を巻いて逃げ去りました。後に、入場にさいし目付の監督の下に見物させるようになったそうです。

 みともなく生き人形をこわされて

      どふしんもんもかくあたまな

 入り口のおかね計が目に逢ふミ

      中にハ生きた人形もあり

補注

●新門辰五郎(1800~1875)は幕末維新期に江戸の鳶を取締った大親分。徳川慶喜の親衛隊長を務めたほどの人物で、泣く子も黙る侠客であった。

 

第九一話  人騒がせな水戸衆、江戸の嫌われ者に

──安政三(1856)年五月~、第五十九より

〔江戸市中に水戸の上屋敷で大名行列の幽霊が出る、という噂の流布を受けて〕

これを見た者たちは、夜中の大名行列とは珍しく、水戸家では人を大勢殺したためその怨念の幽霊が行列した、と恐怖心もあらわに語っています。

夜中に水戸上屋敷(*小石川後楽園)に入るさい、途中まで提灯が万灯のように明るく照らしますが、ひとたび門内へ入ると全部消えうせ真っ暗になってしまう、とも。また五月二十六、七日のこと、市谷牛込辺から、地上三、四尺の空中におぼろげな大名行列が見え、先挟箱・二本道具・駕籠・曳馬まではっきり見ることが出来た(もっとも合羽駕籠はありませんでしたが)、といっています。あるいは六月十八、九日、牛天神下から百軒長屋に曲がる所の辻番所で、これまた目撃者が駆け込んだとたん気絶したそうです。(*前後に関連記事)

補注

●当時の江戸で、水戸侍にかかわるとろくなことにならないから敬遠したほうがよい、という黒い噂がたち、それが幽霊話にまで発展した。維新期に近づくと薩・長・土州の勢力が江戸で目立つようになるわけだが、それまでは勤王を錦の御旗に掲げた水戸侍の横暴ぶりが目につき、江戸市民との間でイザコザが絶えなかった。彼らは「水戸ッポ」と鼻つまみにされ、尾鰭付きの嫌味な話が蔓延した。やがて安政七年三月、桜田門外の変での水戸浪士らの暴挙に伴い、江戸っ子の水戸嫌いはエスカレートし、水戸ッポは落首・落書・川柳でしきりにからかわれるようになる。

 

第九二話  安政大地震後の追跡情報

──安政三(1856)年五月、第五十九より

地震後、当年四月まで/喧嘩 二六四度、御帳付(*検挙の前科者) 三七五〇余人

地震があってからというもの、大工その他の職人や鳶の者は大稼ぎできて増長し、たとえば喧嘩で人を殺しても金さえ出せば解決し、そのうえ男が上がるなどと三下(さんした)根性で天下人心をないがしろにしています。家など威勢ブッ壊すのが江戸子だと、心得違いしている。鉄火場で真剣勝負も出来ない者が、大勢集まるとやたらに騒ぎ立てては、気分しだいで仲直りしてしまう。こんなことがあってはならぬと、日にとうとう条例が出されました。

仮宅住まいに関しては、取り込み詐欺や持ち逃げなど事件が多発しており、御番所はどこも喧嘩や仮宅紛争の訴えで手一杯になっていて、そのため仮宅期限も短縮ということになりました。

 

第九三話  根もない巨きなウソ、ここに極まれり

──安政三(1856)年七月二十日、第六十より

娘の玉門をこわされたと親が訴え出た一件

筋違御門外広小路仲町、質両替店・玉屋鉄五郎/同人の娘 やす 二十二歳/聟 吉兵衛 二十八歳

玉屋は元大通八軒町で古着屋をしていましたが、当所に移って質両替商を営んでいます。

娘のやすは聟を二度貰いともに離婚、今度は旧宅時代の家主・善兵衛の世話で南鍛冶町の質屋・山形屋の二男を聟に取りました。

玉屋は御成道の石川屋に下質(*質流れ品を金融商品として買い取ってもらう取引)に出すなど石川には何かと世話になっていました。その夜、石川屋の番頭が玉屋に顔を見せますと、なにやら取り込んでいる様子。番頭がやすの母親に尋ねたところ、娘が今夜聟を取る、との返事です。番頭はこう申します、「それはおめでとうございます。ですが、手前共もっと早く気づきましたら、格好の若い者が一人店におり、お世話できましたものを。いささか残念でした」と。それを聞いて母娘とも欲心がわき、石川屋から聟を貰えば万事都合がいいのに、まったく残念なことと、今度の聟が嫌になってしまいました。

やすは当夜、気分が優れないと言い訳し、夫婦の杯事も床入りも避けます。その後も親子で聟につらく当り、出て行けといわぬばかりの仕打ちが続きます。聟もとうとう居たたまれず、実家へ帰ってしまいました。

母親は仲人の善兵衛に、「吉兵衛はどうも家風に合いません。お返しさせていただきます」と伝えます。善兵衛返して、「吉兵衛は律義者ですよ。なにが不満で家風に合わないのか、理由をしっかりうかがって先様に伝えないことには」聞いて母親、とっさに「じつは吉兵衛の一物、大きすぎて娘の前が傷つけられてしまいました。腫れて傷みますので、娘も相手をしかねています。和合の出来ない婿ですから、お断りしてください」とウソをつく。善兵衛はさっそく婿の家に行きこの話をしますと、親父はしぶしぶ承知しながらも、「子供の時分はそんな不具には見えませなんだ。大人になってからはわかりませんが。いずれにせよ確かめたうえで、改めて御挨拶いたします」といって仲人を帰しました。

このあと忰を二階に上げ、体を改めてみると並と変わるところがない。親父は腹を立て、「さては言いがかりで難題を吹っかけおったな。離縁される理由などないではないか。忰よ、帰ってくることなどなかった、戻るのだ」と追い返します。

玉屋のほうでもあわて、親類二人を付添い人にし、三両の手切れ金を持たせた。口上に、「吉兵衛が鍛冶町へ婿入りしたものの家風に合わず、どうか無かったことと御引取り下され。些少ですがこれはお騒がせ代、どうぞお受け取りください」と金を差し出せば、親父かえって立腹し、「お前さん方は玉屋の何なのか」「親類でございます」「親類ならば婚礼のおり御近付きになったはずなのに、まだ面識もない。雇われ者だな。そんなお主らから、こうした無礼な金など受け取れぬ。こちらからその筋へ申し出て御裁定を仰ぐことにする」と金を叩き返しました。両人すごすご引き返し、七月二十日に、吉兵衛親元から月当番の南町奉行所に訴えが出されました。(*後略)

補注

●このあと奉行所で、でかすぎて娘が怪我をした、いや床入りも済ませてない、と双方主張の泥仕合が続くが、あまりにもバカバカしいので省略する。奉行所で吉兵衛の実物検査をするくだりが描写されるに至って、不肖、とうとう吹き出してしまった。

 

第九四話  娑婆ッ気が多すぎ、法悦心中ならず

──安政三(1856)年九月十六日、第六十より

九月十六日昼ころ、道心坊主と比丘尼の心中事件

本郷元町伝次郎店、清吉の後家で産婆のお早・忰、道心者(どうしんしや)(*世俗を離れ仏法に帰依した者) 亀坊主徳浄 二十五歳/同所丸山台町、比丘尼 やだちうのおぎん 十八歳

亀坊主は足りないところがあるものの、性質が素直で誰にでも可愛がられている。昼飯は毎日、金持ちの笹屋で済ます。お銀も似たような者、お経は知らないが、にこにこ笑いながら歩くので彼女も人に可愛がられている。(*托鉢で)毎日二、三〇〇文の銭は稼いでいるらしい。

世に「牛は牛連れ」とか「よまんどしにかゝんどし」と言っているように、この二人、愚か者同士で、いつの間にやら乳繰り合う仲になっていた。仲人要らずの夫婦約束だよ、と長屋内の噂好(かなぼうひ)きが頼みもしないのにお早婆にブチまけてしまったものだ。婆さん怒るまいことか、「この馬鹿めが。一人口も食えないに女房だとか。いい加減にせいと叱りつける。

亀坊主は叱られたことをお銀に話し、「どうせこの世では添い遂げられぬ二人の身。冥途で夫婦になろう」と連れ立ってさまよい歩く。着いた所が水道橋、井筒屋の船伝いに、ここが二人の死に場所と、揃って帯に手拭い結び合わせ、石を拾って袂の奥に差し入れ、手と手を取り合って飛び込んだ。ところがドッコイ、水の深さはたったの一尺ばかり。拍子抜けしてうろついてたところに船頭が駆けつけ二人を引き揚げ、「とんだ手間をかける奴らだ」と、亀坊主は(のう)天頂(てつぺん)をゴツンとやられてしまった。

やがて二人とも腹が減ってきた。銭はと懐中をまさぐれば、各々二〇〇文ずつ持ち合わせている。やっと落ち着いてきた。石坂下の池田屋に飛び込み、そばを三枚食い、腹も出来た。

♪長き旅路も旅籠町、無理な願ひも金沢町、酒ハ玉川五合(ごんごう)店よ……

と、飲む間ももどかしく昌平橋の上からドッボーンと飛び込んでしまった。

♪ここは首丈ケあっぷかわ、橋ハ大勢行来ニて、忽ち引上ゲ助かりて、冥途行しこゝちして、妻夫(みようと)となりて楽しにけり……

 添われずバ此世に居るもやたちうと

      いつそ冥途へ行が徳浄

補注

●由蔵先生、義太夫語りか道行きか、乗った気分ですっかり遊んでいる。原文もすらすら訳せるほどまとまっている。こういう文章ばかりだと現代語訳も楽なのだが。

 

第九五話  くどくは書けない血生臭い話

──安政三(1856)年十月、第六十より

一、九月中旬の駒込で、夜中に女の尻を襲って突くいたづらが流行っている。魔道というべきか、切支丹が妖術を用いてか、千人の生血を奪い取る、と。一説に、外科医者が難病の奇薬に用いるからだとか、もっぱらの評判だ。

一、九月十九日夜、駒込竹町の長唄三味線師匠・杵屋小六が被害にあった。おなじく二十四、五日ころ、白山下の畳屋・市郎兵衛の十八歳になる娘が、白山浄心寺坂下で、尻から前まで突き抜かれ、治療不能の重態。十月十日夜、すばやく逃げて浅く突かれたため着物はいくらか破れたが、傷口から多量に出血。一連の事件で、夜分女湯に出かける者がいなくなった。(*後略)

 

第九六話  男の嫉妬の深さ、思い知ったか

──安政四(1857)年正月十一日、第六十二より

昨年十二月上旬の風説です。

芝馬場、松平薩摩守西向屋敷の留守居役・西筑右衛門の妾に、国許から連れてきた中間(ちゆうげん)の一人が横恋慕して口説きかけました。女が首を縦に振らないのでしきりにき口説きますが、女のほうがわずらわしく感じ筑右衛門に事情を話しました。

ある日のこと、筑右衛門はその中間と若党をを共に連れ菩提所の大円寺へ墓参に出かけます。墓地で中間に穴を掘らせ、若党にも手伝わせてかなり深く掘ったところで、中間に不義を仕掛けたことを問い責めました。そして抜き打ちに首を打ち、死骸もろとも穴の中に蹴落とし、跡に土をかけて埋めてしまったそうです。

 烏呼いゝと云玉門へ為不入

     極楽の東門に入れとハ是いかに

 玉門の代りに深く穴掘らせ

     西へ行けとハ虚言を筑右衛門

補注

●別稿によると、話の主人公の西邸は、台所の火の不始末により年明けに焼失した。また本条には藤岡屋の付記が添えてあり、この話は空言かもしれないが、右の事件が絡んで不審火の原因になったとも考えられる、と注釈している。

 

第九七話  空手形で強盗を追い返した機転

──安政四(1857)年正月二十

  四日、第六十二より

木挽町五丁目、塩問屋兼紙商 伊勢屋五郎兵衛

伊勢屋は商売が繁昌し、二間半に四間の土蔵を持っています。このたび地震の被害のため壁を修理し直すことになりました。

この二十四日に、その足場を伝って二階裏口から強盗が侵入したのです。物音を聞きつけた女房が眼を覚まし、とっさに身支度して子供を抱きかかえますと、侍小袖を着て、腰の大小から二尺七、八寸の抜身をちらつかせ、障子を開けて部屋に入ってきました。亭主のほうはというと、寝たふりをして床の中で震えています。

賊は金を出せと要求しました。女房が「昨日、塩代金を支払ったばかりでお金はなく、脇で寸借りしている始末です」というと、賊は鍵を出せと要求。賊が鍵で戸棚を開くと、金はありませんが五貫文の銭束(*重くて逃走に不利)が一把あります。ほかには店に銭箱があるというので、提灯の火を付け銭箱を開けると、中には一分銀一つが転がっているだけ。女房が「お(あし)と着物をお持ちなさい」というと、強盗は「金よりほかのものは要らぬ」と答。女房、「では、今月二八日に無尽が取れます。それを差し上げますから、その時にまたお越しくださいなと落ち着いて話しました。賊は亭主を起こすと、「おれが這入ったことはだれにも言うな。おれ入ったことを口外しない」と言い残し、表のくぐり戸から立ち去りましたと。

 無尽金取れた時にハ御座れとは

      借金取に言訳のやふ

 骨折てたつた壱分のかすめとは

      最早爰へハ木挽町なり

補注

●強盗自ら「我も爰へ入り候事ハ他言致まじ」(原文)というくだりなど、ユーモラスでさえある。日記には犯罪事件が数多く記されているが、なかにはこういう間の抜けた記述で殺伐さを和らげているものもある。

 

第九八話  地震、一軒だけを狙い揺らし

──安政四(1857)年二月五日、第六十二より

南伝馬町でただ一軒だけ、三晩続いて地震が起きたこと

南伝馬町三丁目、餅菓子屋・奥田屋 吉兵衛

二月五日午後十時ころ、大地震が置き、棚の上の物が揺り落とされました。家族全員が外へ飛び出しましたが、近所には地震の様子がありません。我が家一軒だけ地震とは、と不審に思いながらも家に戻ります。一ト安心した翌日、昼間は何事もなかったのに、夜の十時ころ、またもや前夜のように揺れたではありませんか。続く七日もまた、昼間はなんともないのに、夜になって揺れました。

吉兵衛はいったいどうしたことかと不安になり、八日になると、次第を書面にしたためて、家主を通し名主・小宮善右衛門に届出ました。

 持ち上げる地震もちょうど三丁目

      今夜は小宮へ届けておく田

補注

●バカバカしいことと笑いとばす前に、安静大地震の後遺症状であろうかと、被災者の立場で事を見つめてみたい。

 

第九九話  金玉も縮み上がるキナ臭い事件

──安政四(1857)年四月二日、第六十三より

「本所の陰囊焼事件」一件落着

加害者……市原十兵衛、本所松倉町の名主/被害者……久次郎、喜三郎店

〔申渡書=判決書〕

加害者・市原十兵衛は、先月二十八日夜、支配内三郎兵衛店の清吉宅で、南本所馬場町、家持やまの母かねを連れて酒を飲んだ。そこで知人の本所松倉町喜三郎店に住む久次郎を誘ったが同人は来ない。その間も次郎八(*十兵衛の飲酒仲間)と飲酒し、「久次郎め、もし顔を出さなけりゃもう名主として面倒見てやらん」とまでいい出し、とうとう二人を清吉の所へ連れて来させた。

揃って酒宴を続けるも、かなり酔った十兵衛は、調子に乗って次郎八の肩を箸で叩き、そのうえ久次郎に魔羅比べを申し込んだところ、応じてもらえない。そこで十兵衛は久次郎を強引に押し倒し、陰茎を引き出して見たところ、いじくられて勃起しているので、気色悪くなってきた。しかし、この毛を燃やしたら面白かろうと、蝋燭の火をつきつけ、陰部を焼き焦がした。そのため久次郎は一時気絶している。

以上、まことに非道なこととはいえ、加害者が名主と言う身分を配慮し、江戸払い(*江戸に住むことを禁じた追放刑)に処すことに。

 

第一〇〇話  鬼の目に涙、狐の目に目薬

──安政四(1857)年五月十二日、第六十三より

牛込宗参寺境内の狐の一件

雲居山宗参寺は弁天町にあり、寺領は一〇石、吉祥寺の末寺である。天文十三年、曹洞宗開山の宥栄禅師(俗名・牛込勝行)が父・重行の菩提のために建立した。そのおり四〇石の美田を寄贈している。

「雲居院殿前大胡太守実翁宗参」は大胡重行の法号で、号から山寺号をとっている。この重行は藤原秀郷(*平安中期の下野豪族で、生没年は未詳)の後胤で、上野国大胡城主・大胡太郎重俊六代目の孫で、武州牛込の城に住んだ。その嫡孫が勝行で、小田原の北条氏に臣従し、牛込・今井・桜田・日比谷、ほかに下総の掘切・千葉を領し、牛込に住まいを構えた。天文二十四年、宮内少輔勝行は十五位下に任官され、そのおり大胡を牛込と改めている。勝行は七十五歳で他界、当所に牛込氏代々の墓がある。

(*以下、文体は候文に変り)

宗参寺の墓所には狐が棲みついています。子が産まれ、住持は親子狐を可愛がって、毎日餌を与えて飼育しました。

某日、切支丹の坂上星野という眼科医の許に前髪姿の小僧がやってきて、二日分の目薬をいただきたいと一朱を取り出し、目薬を受け取ると、「明日にでも宗参寺まで診察に来ていただきたいのです」と言い残し立ち去りました。翌朝、星野が診察に宗参寺へ行きますと、住持は使いを出した覚えはないが、と申します。おかしいこともあるなと首をかしげていると、住持ハッとひらめき、墓場へ行って狐を呼び出して見れば、そこには目を患った子狐が二匹いて、母狐が目薬を塗り与えているではありませんか。

 目ニ星野出来て治療にきつねなり

      あすは見舞ニ宗参寺ます