人名関連文化年表

 

 

以下、年号等に付した「──の頃」という表現は、年代等が特定できないため、出典などにより類推した大雑把な時代把握である。

 

 

大和時代まで

 

*わが国での人名の登場は、『新撰姓氏録』序の記述などにならい、神武天皇東征時に求めるのが一般的である。それまで記紀に現れたものは、「神名」と別している。

▼西紀前一〇〇年の頃、倭に百余国有り、と (漢書・地理志) ▼西紀二三九年、魏の明帝、倭国の卑弥呼を「親魏倭王」の名で金印紫綬等を授ける

記・神武即位前記

▼神武、亀に乗った釣り人に対し「(さお)根津(ねつ)日子(ひこ)」の名を与える(賜名の初見)

紀・神武即位前紀

▼戌午年一〇月、頭八咫(やた)(からす)の行方を追った(ひの)臣命(おみのみこと)は勅命により「(みちの)(おみ)」に改名▼戌午年一〇月、天種子命(あまのたねこのみこと)は勅命により菟狭津媛(うさつひめ)を娶り、中臣氏の遠祖に▼戌午年一二月、天下り神の(くしたま)饒速日命(にぎはやひのみこと)は天皇に臣従し功績をあげた。物部氏の遠祖である▼戌午年一二月、天皇軍が攻略した長髄彦(ながすねひこ)の「長髄」は地名()から転じたもの▼庚申年九月、天皇は媛蹈鞴(ひめたたら)五十鈴媛(いすずひめの)(みこと)を正妃とする

神武天皇元年

▼辛酉年正月一日、天皇は橿原宮で即位し、第一代天皇となる

神武天皇二年

▼二月、珍彦(うずひこ)(やまとの)国造(くにのみやつこ)に任命するなど論功行賞を行う。国造の始め▼弟猾(おとうかし)猛田邑(たけだのむら)を賜い、猛田(あがた)(ぬし)に任じる。県主の始め▼『旧事紀』に記載の国造は一四四国

神武天皇七六年

▼三月一一日、天皇、橿原宮で崩御。御年一二七(紀伝)

孝昭天皇六八年

▼正月一四日、皇后の世襲(よそ)足媛(たらしひめ)天足彦(あまたらしひこ)国押入命(くにおしのみこと)を生む。御子は和珥(わにの)(おみ)(春日氏)の始祖となる

崇神天皇八年

▼一二月、大物(おおもの)(ぬしの)大神(おおかみ)を祭る神主、大田(おおた)()根子(ねこ)に祭事を勅す。彼は三輪(みわの)(きみ)らの始祖である

崇神天皇一〇年

▼九月、大彦命を北陸に派遣するなど、各軍に将軍を設けた始まり

崇神天皇一二年

▼一二月一六日、課役を課すため諸国で初出の戸籍調査が行われる▼この頃に天皇、大和三輪山地方を支配し、ミマキイリヒコイニエの和号をもつ。政治権力の象徴としての崇神系統イリ王朝が成立する

垂仁天皇七年

▼七月七日、出雲出身の力士、野見宿禰(のみすくね)を召して天覧の力比べを行う。宿禰、相手の当麻(たぎまの)蹶速(くえはや)を蹴り殺す。この人、土部(はじの)(むらじ)の始祖に

景行天皇四年

▼二月、日本初出の──子型女子名「(あにの)遠子(とほこ)」が現れる(日本書紀)

景行天皇二七年

▼一二月、皇子の日本童男(やまとおぐな)に対し、熊襲の首長、川上梟帥(たける)は尊号「日本武尊(やまとたけるのみこと)」を贈るとすぐに殺された。自分の名を与えた名付け親の嚆矢であろう

紀・成務即位前紀

▼天皇は生年月日未詳も、紀伝によると竹内宿禰と同じ日に誕生した、と

仲哀天皇四年

(みことのり)して国郡(くにこほり)(をさ)を立て、県邑(あがたむら)を置く

仲哀天皇五年

諸国(くにぐに)(のりごと)して、国郡に(みやつこ)(をさ)を立て、県邑に稲置を置く

仲哀天皇の頃

(きみ)(むらじ)(ひこ)梟帥(たける)など職業的(かばね)を示す下付け呼称が現れる

応神・仁徳天皇の頃

▼難波を本拠とした大阪平野に応神・仁徳王朝を象徴するワケ系王権が進出し、それまでのイリ系王朝に取って代わる

允恭天皇四年 415年

▼九月、勅により氏姓の乱れを正すための神判「盟神探湯(くがたち)」が行われる(初出)

雄略天皇元年 456年

▼三月、誕生した皇子に「白髪(しらかの)武広国(たけひろくに)押稚(おしわか)日本(やまと)根子(ねこの)天皇(すめらみこと)」(後の清寧天皇)という奇異で長い名を付ける

雄略天皇二年 457年

密通者を公開処刑するなど荒っぽい行動が目立つ。人呼んで「大悪の天皇」と。

雄略天皇七年 

▼天皇、田狭(たばさみ)の妻雅姫国色(わかひめこくしよく)の容色を聞いて女御に迎える。略奪結婚であるが、「女御」の始まりとされている

雄略天皇二〇年の頃 

天皇は「大王」として君臨し、国家統一をめざしたが、王権をめぐる骨肉の争いで王統断絶の危機にさらされる

雄略在位年中 

▼この頃に製作されたと見られる「稲荷山古墳出土鉄剣」が埼玉県行田市で出土(昭和五二年)。これの銘に古代将軍「意富比古(オホヒコ)」(大彦)などの刻名が見られる。年代の特定しだいで、人名最古の可能性もある

 

五世紀末~六世紀始

▼中央貴族や地方豪族が、官制の地位・社会の尊卑に応じて、朝廷から氏姓を与えられるようになる▼臣・連の中から新たに大臣・大連といった官名主導型の支配階級がおこる▼大和各地に春日・葛城・巨勢など、地名を氏にとった親朝廷派の豪族が台頭▼百済から渡来の工匠を品部(しなべ)に編成。ここから部曲(かきべ)という私有民らが発生する

安閑天皇以降

▼従来の漢風諡号から和風諡号へと変わる。

欽明天皇元年 539年

▼秦人・漢人などの渡来人を集めて各地国郡に配し、戸籍を登録させる

 

六世紀半ば

▼大連系の(むらじ)伴造(とものみやつこ)百八十部(ももあまりやそべ)の朝廷での権力が高まり、官職を世襲する名負(なおいの)(うじ)制が確立する▼吉備国の白猪屯倉(しろいのみやけ)における百済系住民の「田部丁籍(たべのよぼろのふみた)」のような戸籍作成が各地に散見▼この頃、氏族を統率する氏上の制度が各地に定着しはじめる

用明天皇元年 585年

▼天皇、最高位の称号である真人を皇后に与え、「(あな)穂間人(ほべのまひとの)皇女(ひめみこ)」とする

推古天皇九年 601年

▼聖徳太子は市を開き、蛭子(ひるこ)の神に誓い商売の守護神とする。後に恵美須(えみす)を福神と崇めることの嚆矢(理斎随筆・後)

推古天皇一一年 603年

▼一二月、聖徳太子は冠位十二階制を設け、官人の才能発揮を図る

推古天皇一二年 604年

▼正月、天皇は初めて官位を諸氏に贈る

推古天皇一二年 604年

▼四月、聖徳太子は憲法十七条を定める

推古天皇二八年 629年

▼聖徳太子と蘇我馬子は天皇記・国記を編み、臣・連・国造・百八十部および公民らの本記を記録する

皇極天皇元年 642年

▼八月、大旱魃のため天皇、南淵の川上で祈念し、雨を降らす。人民歓喜して「至徳の天皇」と▼それまでの国造(くにのみやつこ)の呼称を「国司」に改める

 

皇極天皇四年/大化元年 645年

 

▼皇極天皇四月、阿閉倉橋麿を左大臣に任命、左大臣の始めとなる▼六月一九日、即位した孝徳天皇、年号を定め「大化」と称する▼八月、東国に国司を設け、戸籍・田畑を調えさせる▼九月一九日、諸国に役人を派遣し、民の総数を記録させる。また、土地の私有禁止を命ずる▼この頃までに、わが国の氏姓制度社会が成り立つ

大化二年 646年

▼正月一日、改新三条を詔す。その三に、戸籍・計帳・班田収授のために法を造れ、とのたまう

大化三年 647年

▼五月、孝徳天皇は「官位七色十三階」の制を定める

大化五年 649年

▼二月、孝徳天皇は七色十三階制を改め、新たに「官位十九階」の制を定める。同時に「八省百官」制をしく▼これら積極的な人材登用の整備につれ、氏姓と官職とを結びつけた固執的氏姓制度は逆に衰退する

白雉三年 652年

▼戸籍を造る。およそ五〇戸を里とし、長一人を置く。およそ戸は五家相保(あいまも)り、一人を長とする

天智天皇三年 664年

▼二月、官位二十六階の制を定め、氏上(うじのかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)の姓を設ける。いわゆる「甲子の宣」である

天智天皇八年 669年

▼一〇月一五日、重病の床にあった中臣鎌足は「大職冠」(史上、鎌足ただ一人の官位)を授けられ、藤原の姓を賜る

天智天皇九年 670年

▼この年、わが国初の全国戸籍「庚午年籍(こうごねんじやく)」が完成、姿勢の基本台帳となる

天智天皇一〇年 671年

▼正月、大友皇子を初の太政大臣に任ずる

天武天皇九年 681年

▼正月、忌部首首(いんべのおびとこびと)に連姓を賜る

天武天皇一〇年 680年

▼四月、錦織造(にしきおりのみやつこ)小分(おさだ)ら一四人に連姓を賜る

*続く天武年代の数年にわたり、賜姓等褒賞の詔が目立つ。

天武天皇一二年 682年

▼一〇月一日、氏族制度の強化を図った「八色(やくさ)(かばね)」が定められる

天武天皇一三年 683年

▼一一月、大三輪君(おおみわのきみ)ら五二氏に朝臣を賜る。朝臣賜姓では初出

天武天皇一四年 684年

▼正月、爵位号を改め、諸王以下十二階、諸臣四八階に位階を増設する

朱鳥元年 686年

▼七月二〇日、「朱鳥」と建元▼閏八月、諸国の国司に戸籍の編成等を詔す

朱鳥五年 690年

▼九月、全国規模の戸籍「庚寅年籍(こういんねんじやく)」を戸令に基づき作成▼一八氏に詔し、纂記(系図)の作成を命じる

朱鳥七年 692年

▼庚寅年籍をよりどころに班田収授法が実施される

文武天皇二年 698年

▼八月一九日、藤原姓は不比等のみ使用し、ほかの者は中臣に復すべし、との詔が下りる

文武天皇四年 700年

▼六月一七日、「大宝律令」が成り、撰定者に対し賜禄を賜る(施行は翌年三月)

文武天皇五年 701年

▼正月大和の優婆塞(うばそく)行者、(えんの)小角(おづぬ)は「高賀茂」氏を名乗る(扶桑略記)

大宝元年 701年

▼三月二十一日、元号が「大宝」となる。これにともない官名・位号も改正に▼六月一日、初めて内舎人九〇人を採用する▼大宝令により、兵士は太刀と刀子を帯びることに。武士の大小二刀の始めである

*この頃から古来の「(かばね)」の意義が薄れ始め氏名(うじめい)に代わり姓名(せいめい)と呼ぶようになる。

大宝二年 702年

▼詔して、諸国の国造(くにのみやつこ)に氏を定めよ、と

大宝三年 703年

▼天智九年作成の「庚牛年籍(こうごのねんじやく)」をもって、姓を定めるための台帳にする、との詔。

 

奈良時代

和銅元年 708年

▼一一月二五日、元明天皇即位のさい、女官の(あがた)犬養(いぬかいの)三千代(みちよ)に「立花宿禰」を賜姓。彼女は橘氏の始祖となる *ただし一代限りの賜姓であったため、これを受けて葛城王(敏達の五世孫)が臣籍に下り橘諸兄(もろえ)を名乗って引き継いだ(天平八年)

和銅三年 710年

▼三月一〇日、平城(なら)京に遷都

和銅四年 711年

▼九月一八日、勅命を受け、大安万侶は稗田阿礼の口承をまとめ『古事記』編纂に着手

和銅年 71

▼五月、元明天皇は畿内七道諸国の郡郷は好字を用いよ、と詔。人名にも好字使用が波及する

和銅年 71

▼二月、氏上による神祭の記事、続紀に初出▼六月一四日、三件の改姓を認める。この年は造籍年に当たるため積極的な措置

霊亀二年 716年

▼九月二一日、工人ら二一人、訴え出て雑戸(特殊技能集団の呼称)を免れ、「(かく)」姓を賜る

養老年 719

▼五月一五日、下級官人の傍系の姓を本系の姓に賜姓し直す

養老年 72

▼五月、古代の通史『日本書紀』完成する▼八月三日、藤原不比等が死去、後に「文忠公」と諡される

養老六年 722年

▼三月一〇日、物作りの匠、いわゆる雑工人らの姓を改め新呼称に

養老七年 723年

▼五月一五日、神社の封戸をもくろみ「神戸(かんべ)籍帳(じやくちよう)」作成が命じられる

神亀元年 724年

▼五月一三日、聖武天皇は渡来系の人たちに賜姓する

天平元年 729年

▼一〇月七日、万葉歌人の大伴旅人は「淡等」「多比等」と反名を用いて書く

天平八年 736年

▼一一月一一日、葛城王ら橘宿禰の賜姓を願い出る▼同一七日、葛城王らに橘宿禰の姓を賜う *始祖、橘三千代への「橘」賜姓は当代限りで、その子孫は対象にならなかった。

天平一一年 739年

▼大野東人ら地方官が「参議」を賜る

天平一五年 743年

▼五月、右大臣の橘諸兄は左大臣に昇進

天平一七年 745年

▼五月二日、無姓であった良民に姓を賜る

天平一九年 747年

▼一〇月三日、賜姓の願い出を、ふさわしからずと却下

▼この頃の家人(いえひと)奴婢(ぬひ)を「既非平民」と呼ぶ(令集解・四)

天平勝宝元年 749年

▼二月二一日、匿名による中傷などが増え、匿名による投書が禁じられる▼この年、奴婢等の戸籍を編んだ「東大寺奴婢帳」成る

天平勝宝三年 751年

▼二月二一日、孝謙天皇は雑戸の再編成を勅する

天平勝宝四年 752年

▼智努王(天武の孫)は「文室(ぶんや)」を賜姓され臣籍に下る

天平勝宝五年 753年

▼七月一九日、左京の人四七名が父方姓への改姓を願い出て許される。

天平勝宝七年 755年

▼和気王・細川王の兄弟(舎人親王の三世孫) は同時に「岡」姓を賜り臣籍に下る

天平勝宝八年 756年

▼五月一九日、孝謙天皇は聖武天皇の出家を理由に諡号を見送る、と勅する

天平宝字元年 757年

▼四月、戸籍に「無姓」と「族」の字を用いることを禁じる。*これは手抜き調査への戒めであろう。

天平宝字二年 758年

▼六月二五日、(ふみ)姓をもつ一二〇〇人余りの改姓願いに、「桑原直」「船直」等の新姓を賜る▼八月に百官と僧綱ら、孝謙天皇と藤原光明子に尊号を奉られたい、と上表する。淳仁天皇、これに報詔し尊号を追上する▼八月、淳仁天皇、草壁皇子に「御宇(あめのしたしらしめしし)天皇(すめらみこと)」の尊号を追崇する▼八月二五日、藤原仲麻呂の功績を称えて、姓に「恵美」の二字を加え名を「押勝」に改めさせるなど褒賞を賜る

天平宝字三年 759年

▼一〇月八日、勅命で国内の君を「公」姓に、伊美(いみ)()を「忌寸」姓に換称させる

天平宝字五年 761年

▼三月一五日、渡来人らに賜姓

天平宝字八年 764年

▼七月、(ます)麻呂(まろ)らに「紀朝臣」を賜る▼九月、弓削道鏡に「大臣禅師」の高位を賜わる▼九月、押勝に改めた仲麻呂の官名を旧に復させる▼一〇月、淳仁天皇を廃し淡路に配流幽閉。孝謙太上天皇が重祚し称徳天皇となる

天平神護二年 766年

▼四月二九日、聖武皇子を私称する者を遠流処分に

神護景雲二年 768年

▼五月三日、姓氏の乱れに、礼典に従い称呼の従礼を取るように、と勅す

神護景雲三年 769年

▼三月一三日、陸奥国人の道嶋嶋足の願いをいれ、同国一〇人に賜姓▼五月、称徳天皇の怒りに触れた和気清麻呂(和気真人姓)は、罰に「別部穢(わけべのきたな)麻呂」へと貶姓され、大隈国へ配流に

宝亀元年 770年

▼八月二一日、皇太子白壁王は道鏡の専横ぶりを責め、下野薬師寺に閉す▼九月三日、白壁王は首・史の姓を旧の「毘登(ひと)」に復すと令旨▼一一月六日、光仁天皇は父の志紀親王に天皇号を追尊

宝亀四年 773年

▼五月七日、采女をあえて「青衣」にするといった古風な表記を改めよ、と▼治部卿の(やす)宿(かへ)巳に「高階(たかはし)真人」の姓を賜う

宝亀一〇年 779年

▼死んだ僧尼の名をかたる(冒称)者は処罰する、と勅する

天応元年 781年

▼五月一七日、桓武天皇、中宮職を置く▼六月二五日、土師(はじの)宿禰古人(ふるひと)らに「菅原朝臣」を賜姓

延暦元年 782年

▼正月六日、藤原朝臣小黒麻呂は弔辞人(しのひこと)を伴い、崩御した光仁天皇に「天宗(あめむね)高紹(たかつがす)天皇」の尊諡を奉る▼土師宿禰安人ら、「秋篠」への改姓願いを出して許される

延暦二年 783年

▼桓武天皇、治部省の建言により、「国司」の定員を改める

延暦四年 785年

▼五月三日、詔を発し光仁・桓武の諱の使用を避けさせる。『続日本紀』のこの一文、「諱」の初見である

延暦九年 790年

▼七月一七日、帰化した百済(くだらの)(こにしき)(じん)(ちやう)らに「菅野朝臣」姓を賜る

延暦一〇年 791年

▼正月八日、(おしぬ)海原(みはら)連魚養ら上言し、「朝野宿禰」姓を賜る

*この年、桓武天皇により大勢の官人への賜姓が目立つ。くわしくは『続日本紀』を。

 

平安時代

延暦一三年 794年

▼一〇月二二日、桓武天皇は新都の平安京に遷都

延暦一七年 798年

▼二月、自称か他称か不明も村岡連悪人が群盗を率いる

延暦一八年 799年

▼一月一八日、清麻呂の姉、和気広虫没す。流刑のうえ還俗に処し「別部狭虫」と罰名されていたもの

延暦一九年 800年

▼一一月、畿外の民が京畿の戸籍を得ることを禁じる

延暦二四年 805年

▼二月一五日、桓武天皇は皇子等一〇二人に臣籍降下を断行、そのおり「清海真人」が一六人も出る▼この頃、氏族を統括していた氏上の呼称が「氏長者」へと代わり、勢力範囲が拡大、百姓も藤原・源・橘・中臣・大伴・高階などほぼ一二氏に淘汰される▼同時に、古代の姓も形骸化が進む

大同二年 807年

▼二月、平城天皇は左右大将の制を新設し、参議の号制を廃す

大同四年 809年

▼九月、崩じた桓武天皇の諱である「賀美能」にふれるため伊予国神野郡を忌諱して「新居郡」に変える

弘仁三年 812年

▼九月三日、嵯峨天皇は陸奥国遠田郡の三九六人に「陸奥磐井臣」など新姓を賜う

弘仁五年 814年

▼五月八日、嵯峨天皇の皇子ら三二人が段階的にではあるが臣籍降下し、「源朝臣」姓を賜う。嵯峨源氏の始まり

弘仁六年 815年

▼嵯峨天皇勅命により古代氏族の系譜集である『新撰(しんせん)(しよう)氏録(じろく)』成る

弘仁一四年 823年

▼四月二八日、淳和天皇の諱である大伴を避け、大伴宿禰を「伴宿禰」に改ためる

天長二年 825年

▼七月六日(閏七月二日説も)、淳和天皇は、桓武天皇の皇子高棟王に平姓を賜る。これにより、いわゆる「源平藤橘」が出揃う

天長三年 826年

阿保親王の表上により、詔して在原朝臣姓を賜る

承和六年 839年

▼七月一三日、仁明天皇、往時の『庚午年籍』(天智天皇九年成)の写しを諸国に提出させる

承和七年 840年

▼一一月九日、橘氏から分家が出て、いくつかの分家はなべて「椿」姓に変えられる。

貞観の頃 859年~

▼この頃、全国に群盗横行し、農民の流浪や籍帳の偽作がはびこる▼伝説化された酒天童子・茨木童子・伊吹童子らが悪行を尽くす

貞観八年 866年

▼三月二二日、清和天皇は、かつて土師宿禰に与えられた大江朝臣姓を「大江」に改め賜う▼七月一四日、最澄と弟子の円仁にそれぞれ「伝教大師」「慈覚大師」と初の大師号を賜わる

貞観一年 87

▼九月、藤原義房没し「忠仁公」と諡される

▼この頃、いわゆる「縁氏取名」という付会命名が流行る

元慶三年 879年

▼五月二三日、伊予国度会郡大神宮神主に荒木田・禰宜・度会(わたらい)の三神主姓が定められる

元慶四年 880年

▼一二月四日、陽成天皇は藤原基経を太政大臣に補任

寛平元年 889年

▼五月一三日、宇多天皇は高望(たかもち)王(桓武天皇の曾孫)らに「平朝臣」姓を賜う

寛平年 89

▼一月一三日、関白藤原基経が没す。宇多天皇は以後関白を置かない親政に踏み切る▼九月一一日、京子の子弟が他国に住むのを禁じる

寛平年 89

▼五月一〇日、勅命により菅原道真は『類聚国史』(三代実録を含む)の撰修にかかる

昌泰四年 901

 一月二五日、醍醐天皇の勅命により、菅原道真は筑紫大宰府へ左遷される

延喜五年 905年

▼八月、藤原時平ら『延喜式』の編纂を命じられる

延喜七年 907年

▼一一月一五日、延喜格一二巻を撰じて奏進する

延喜九年 909年

▼四月四日、左大臣藤原時平没。弟の忠平が藤原氏の氏長者となる

延喜二一年 921年

▼二月五日、醍醐天皇の皇子七名に臣籍降下があり、それぞれ源朝臣姓を賜わる▼この頃、元良親王は艶名で知られ、「一夜めぐりの君」とささやかれる

延喜二三年 923年

▼四月二〇日、醍醐天皇、故菅原道真の怨霊慰撫のため正二位・右大臣に復位させる▼この頃、光孝天皇の皇女源和子が文芸の座を開き、「承香殿の女御」と女御名で呼ばれる

天慶元年 938年

▼空也上人が京の街を念仏を唱えながら歩き、「念仏上人」と有名に▼醍醐天皇を世人は「延喜天暦の治」とし、「聖代」と称し、「延喜聖主」と呼ぶ

天慶二年 939年

▼一二月に平将門、東国の上野国を制圧、往生を建設して「新皇」を私称する

寛和二年 986年

▼一一月二〇日、藤原理兼(まさかね)は氏の長者兼家の荘園内で狼藉を働き放氏の処分に

正暦二年 991年

▼九月一六日、藤原詮子(一条天皇の母)に初の「女院」号が贈られる▼この頃、朝廷官女の候名(さぶらいな)が定着する

正暦四年 993年

▼六月二六日、故右大臣正二位の菅原道真に、さらに追贈があり左大臣正一位に

長和元年 1012年

▼二月一四日、藤原道長の娘、妍子が「中宮」に

長和の頃 1012年~

▼この頃、左大臣藤原道長は、失敗を重ねている藤原彰光(右大臣)を「至愚の又至愚也」と痛罵する

寛仁二年 1018年

▼一〇月一六日、中宮妍子は皇太后になる

万寿三年 1026年

▼一二月四日、栄華を誇った藤原氏の巨頭、道長死す。晩年は法成寺阿弥陀堂を建てて参籠したことから「御堂関白」と呼ばれる。だが彼の身分は関白に至らず、世人が追従した誤称。さらに彼自身の日記を『御堂関白記』としたのも誤り

永承六年 1051年~

▼この頃、東夷の郷士族長の安倍頼良は、国主の源頼義と同名訓をはばかり「頼時」に自主改名する▼氏族の一時を襲名する「通字」の刊行がはじまる

天喜二年 1054年

▼一〇月、夫の高階成章が大宰大弐に任命されると、越後弁(紫式部と藤原宣孝の娘)は「(だい)弐三位(にのさんみ)」と候名(さぶらいな)を変え、母を凌ぐ才女とうたわれる

永保元年 1081年

▼二月、備中守で独身の藤原仲実は遊女と馴染になるが、彼女の名は女陰を直裁に表す辟邪名「戸々(べべ)」という

寛治七年 1093年

▼一二月、任大将の除目により左大臣源俊房が左近衛大将を兼ねることに。ここで村上源氏は、左右大臣ならびに左右大将を占めるに至る

永長元年 1096年

▼八月九日、白河上皇が出家し、以後「法皇」の名で君臨する

康和三年 1101年

▼この年、公卿の員数が初めて藤原氏・源氏とも同数となり、藤原貴族を嘆かせる▼この頃、白河法皇の寵愛を受けた祇園某女は、宣旨を受けていないにもかかわらず、権勢によって「女御」と追従名される

康和四年 1102年

▼六月、臨時の除目あり、源氏の公卿数ついに藤原氏のそれを上回る

永久三年 1115年

▼源頼子、史上初出の女子の花押を用い、女子花押慣習の魁となる 

*平安も後期に入ると、社会制度の変革の波で氏長者の権力がめっきり衰える。

元永二年 1119年

▼九月、藤原長実・源師頼ら一行が神崎江口で船遊びし、随伴した遊女五人は名を金寿・小最・弟黒・輪鶴・熊野といった▼この頃、左大臣の藤原実能は妾腹の娘に「夜登利波(やどりは)」という珍奇な童名を付ける

天治の頃 1124年~

▼この年、待賢門院の女房である加賀は、「かねてより思ひしことぞ伏柴のこるばかりなる歎きせんとは」の名歌により、歌にちなんだ渾名「伏柴の加賀」を得る。女房の間で、こうした歌がらみの渾名ごっこが流行る

久安六年 1150年

▼九月二六日、藤原頼長が摂関家の氏長者に。後に不穏な事件が続発したことから「悪左府」と異名される

久寿元年 1154年

▼八月に近衛天皇の内親王に宣下されるまで、妹子(よしこ)内親王には一四年も実名が付けられず、「乙姫宮」のように通名で呼ばれる

保元元年 1156年

▼この頃、源義重(義家の孫)、上野国新田郷に立荘し「新田」と新名字を名乗る▼関白の藤原忠通と同名を理由に、室岡忠通は「貞通」に改名させられる

*この頃、「悪──」の冠称が流行りはじめ鎌倉時代から戦国時代に至るまで長期にわたる。保元物語・平治物語・源平盛衰記など戦記に目立つ。

仁安の頃 1166年~

▼「すべて一門の公卿十六人、殿上人三十余人、諸国の受領、衛府諸司、都合六十余人なり」(平家物語)

嘉応元年 1169年

▼六月一七日、後白河上皇、出家して後は「法皇」と呼ばれる▼晩年の後白河法皇は今様習得のため多くの傀儡子(くぐつ)と交わっていたが、その相手の名は延寿・乙前・青墓・目井・阿古丸・さはの等である

承安元年 1171年

▼一二月、建礼門院(後白河法皇の養女)は「院姫君」の通称で呼ばれていたが、典礼をつかさどる式部大輔藤原永範の撰進によって改めて「徳子」と命名される

治承元年 1177年

▼五月、後白河法皇の忌諱に触れた天台座主の明雲僧正は、還俗のうえ「藤井松枝」と氏名ともに同時改称させられる▼この頃、高倉天皇の寵愛を受けた「葵の前」なる女御、別称に「国母仙院」と仰がれる(平家物語)

治承三年 1179年

▼安置仏像胎内の木札に「倶利(あぐり)」の名(仁科家三女) の銘が発見される

治承四年 1180年

▼五月、後白河法皇の皇子以仁(もちひと)王は、平家打倒の陰謀が発覚、臣籍降下のうえ源姓を賜わり「源以光(もちみつ)」の名で追討を受け、結局は戦死▼八月、源頼朝の挙兵に呼応し伊豆で平氏打倒に向かった三浦介義明一族は、それぞれ異なる地名由来名で呼ばれ、三浦姓が陰に隠れてしまう一系別姓の典型例 (吾妻鏡)

寿永二年 1183年

▼七月、平氏一門は都落ちし事実上滅亡に。これからかつての「官軍」平氏が「賊軍」と呼ばれる

元暦元年 1184年

▼五月二一日、一ノ谷戦勝の余力を駆って源頼朝、京都朝廷に対し源氏一族の範頼ら三名をそれぞれ一州の「国司」に任命するよう要請▼この頃、近衛天皇九条院の雑仕女が源頼朝の寵愛を受け「常磐御前」といわれて女傑ぶりを発揮。のち子供の命乞いのため平清盛になびく 

*源平合戦の頃、刀を交える直前に自分の苗字名を名乗り合う名問の慣習が確立。

 

鎌倉時代

正治元年 1199年

▼正月一三日、源頼朝が他界し「嘯源大禅定門」の戒名が供養される(相州鎌倉松岡過去帳)。初期戒名の典型形式である▼八月二〇日、平政子は頼朝の子頼家に対し、重臣の実名を直称しないように、と諭す▼この頃、源平合戦に勲功あって越後国奥山荘を拝領した高井義茂は、係累のある三浦氏と和田氏をも誇示する「三浦和田高井」なる三重の複合名字を名乗る

正治二年 1200年

▼平基親が撰した『官職秘抄』が成り、中に「四姓」の語が初見▼この頃、藤原定家は古今集歌人の藤原因香(よるか)の名を気に入って、長女に因子(よるこ)、次女に香子(たかこ)のあやかり名を分けて付ける 

*この頃、朝廷の貴人子女に「──子」の称が公式名化する。

建仁三年 1203年

▼一二月八日、朝廷は千幡(愚管抄では「千万」)御前を元服させ源実朝を賜わる宣旨

*この頃、母系性社会から父系性社会へと転換しつつあり、ために姓氏の世襲制が固まる。また、名田の大小を基準に、勢力範囲の謂である「大名」「小名」の呼称が散見しはじめる。

承久七年 1224年

▼閏七月、承久の乱で朝廷に楯ついた北条政子の女傑ぶりに、人々は「尼将軍」の異名を呈する

天承の頃 1131年~

▼三好丈岩(康長)、従四位下に序せられたのを従三位中納言とサバ読んで自称。

建長二年 1250年

▼一二月二七日、執権の北条時頼は幕府近習番の御家人らに、職務を怠ると削名字の上罷免すると警告 

*この頃、畿内を中心にいわゆる「悪党」がはびこり、狼藉の限りを尽くす。

弘安二年 1253年

▼後深草天皇、鎌倉に禅を広めた蘭渓道隆(前年没)に対し、「大覚禅師」の諡号を賜わる。禅諡号の始まり

正嘉元年 1257年

▼二月二六日、北条時頼の嫡子正寿丸は七歳で元服し、烏帽子親の宗尊親王から片名を頂戴して「時宗」を名乗る

弘長元年 1261年

▼五月、幕府は念仏門徒の訴えにより、日蓮に「悪口の科」を科し伊豆へ流罪に

後宇多在位の頃 1274年~

▼城一検校が「城」の一字を賜わり、都名の嚆矢に

*この頃、内裏の女房らの候名(さぶらいな)に「新」や「権」を冠することが流行。

弘安七年 1284

▼九月一五日、藤原兼仲(勘解由(かでゆ)小路(こうじ)流の氏長者)は氏寺である興福寺の横槍入りにより放氏の憂き目にあう(勘仲記)

正応五年 1292年

▼正月一三日、藤原氏の高官職にあった氏人四人が放氏される。力を得た興福寺の僧兵らから有職上の言いがかりを付けられたのが理由である

永仁二年 1294

▼一〇月、東大寺領の荘園に悪党が乱入して狼藉を働き、悪党一味に「河内楠入道」の名(楠正成の父?)がある

正和三年 1314年

▼五月、新日吉(いまひえ)社の神人や延暦寺衆徒ら、かつて後宇多法皇が真言僧(やく)(しん)に「本覚大師号」を諡したことで難癖をつけ、六波羅武士と一戦交える

正和年 131

▼五月二五日、参議の藤原頼定は放氏処分を受けたが、翌六月三日には続氏して元に還る。*これは処罰としての放氏が形骸化しはじめた証拠といえる。

元享の頃 1321~

▼了源が興した仏光寺派は、興正寺を拠点に名帳と絵系図という手段を用い、布教躍進に成功する

正慶二/元弘三年 1333年

▼五月、元弘の乱で幕府軍の将北条高時は自刃して果て、鎌倉幕府は終焉を迎える▼後醍醐天皇、前年における新田義貞軍の軍功を賞し、嫡子の徳寿丸を御前に召して元服させ、「新田左兵衛佐義興」との名を賜わる(太平記)

*この頃、地方豪族の女子名に「──女」型三字名の命名が流行る。

正慶/元弘年 1334年

▼楠正成、勲功大なるにつき摂津・河内・和泉三国の守護職を任命される

 

南北朝時代

建武元年 1334年

▼正慶三/元弘四年一月二九日、後醍醐天皇朝下、「建武」に改号

康永元/興国三年 1342年

▼九月三日、光厳上皇に対して「院と言ったか、はて犬と言ったか」と悪口雑言を吐いた婆沙羅(ばさら)大名の土岐頼遠、やがて捕らえられ斬罪に処せられる

貞和元/興国六年 1345年

▼正月、足利尊氏は自分の娘を「姫君」と呼ぶことの可否について、前左大臣藤原公賢にお伺いをたてる(執柄家以外が称すのはおかしい、分別してほしい、との返事)

観応元/正平五年 1350年

▼東寺は寺領の年貢を納めない者は名字を召し放つ、と警告

延文三/正平一三年 1358年

▼四月に亡くなった将軍足利尊氏には「妙義仁山」の法諱が贈られていたが、さらに「等持院」の院殿号が加贈される▼一二月一八日、足利義詮に「征夷大将軍」の宣旨くだる

延文四/正平一四年 1359年

▼一〇月、足利義詮は、大友氏の惣領権を保証する文書で、庶子らが名字を勝手に自称することは許されないこと、と見解を述べる(大友文書)

貞治三/正平一九年 1364年

▼四月一四日、『東大寺執行日記』に手工業技能者をさす「職人」の語が見える▼七月一七日、楠正成の妻久子が他界。河内国南江家で一門の菩提を弔っていたが、その尼号を「敗鏡尼」という

興安八/正平二三年 1368年

▼一一月、いわゆる「霜月騒動」が起こる。内管領の平綱頼は、「安達宗景の曽祖父が頼朝の子と私称し源氏を勝手に名乗っている」と北条貞時に讒訴したのが始まり

*この頃から、往時の単なる丁寧語であった「お」や「於」を女子名に冠する慣習が始まる。

永徳二/弘和二年 138

▼関白藤原(二条)良基が『女房の官しなの事』という朝廷女官の解説書を著す

 

室町時代

 

明徳三/元中九年 1392年

▼閏一〇月二八日、南朝の後亀山天皇と北朝の後小松天皇とが和解し、南北朝合一成る▼両朝合一に刺激され、分裂状態にあった伊予の宮方・土居・得能の三家が合家改姓して新たに「得居」を名乗る(南海治乱記)▼この頃成った『大徳寺文書』中に、女子の止め名「あぐり」が見える

*この頃、諸国に守護が増え、力を貯えて下克上をうかがう。

応永七年 1402年

▼今川貞世(のち了俊)は、応永の乱に連座したかどで今川姓を削られる▼この頃、三代将軍の足利義満、勅許により初の「公方」を名乗る。

*ちなみに公方は院の御所と同等を示す高位をさす。

永享元年 1429年

▼三月一五日、将軍に就任した足利義宣(よしのぶ)(還俗前は義円)は、間もなく自分の名前が「世を忍ぶ」に通じるからと、新に「義教(よしのり)」と改める

永享四年 1432年

▼七月、足利義教は勘合貿易を再開したさい、明国宛の国書に「日本国王臣源義教」と署名

宝徳三年 1451年

▼人名の多様な読みに対応できる『諱訓抄(いくんしょう)』の写本(藤原親長書写)成る

長禄二年 1458

▼『申次記』二月朔日の上に「家」と。公文字での初出か▼室町中期に成った『文正記』に系図買いや偽系図の流行に関する記述が見える▼名主等が偽系図を買い「地下の名字」で身分を偽る者も増える

*この時代、家の出自を自慢する「烏帽子成り」とか「官途成り」といった言葉がささやかれる。

応仁二年 1468年

▼一二月、東軍(細川方)は天皇と将軍を報じたうえで、西軍(山名方)諸将の官爵を剥ぐ

文明三年 1471年

▼八月、西軍は南朝の後裔小倉宮王子を奉じて主上とする

文明の頃 1469年~

▼低い出自からのし上がり将軍義尚の母として権勢をほしいままにした日野冨子は、世の人から「(おさえ)大臣」と別称される

 

戦国期 1491~

▼百姓等の勝手な名字名乗が目につくと、名家間で書簡等により牽制を図る情報交換が目立つ▼諸家で家臣らの動きを牽制すべく「削名字」という手段が用いられる(結城氏新法度、長曽我部氏掟書など)

*戦場での名乗り合いが、大軍勢化にによりなかば遺風になる。

明応九年 1500

▼八月、足利義尹(義材)は渋川刀祢王丸に偏諱を与えて「尹繁」と名乗らせ、鎮西探題に補す

文亀元年 1501

▼閏六月、足利義高は大友親治のこの五郎に偏諱を授け、「義親」を名乗らせる

永正一〇年 1513年

▼九月六日、将軍足利義晴は尼子詮久に一字を賜わり「晴久」に改名(中国治乱記)

永正一年 151

▼五月、近衛尚通は足利義稙の要請を受け、惣領家蔵の「足利家系図」を書写して送る

天文五年 1536年

▼三月、足利義晴は一六歳の武田勝千代に一字を賜わり「晴信」に改名(甲陽軍鑑)

天文六年 1537年

▼九月、足利義晴は日向伊東祐清に偏諱を与え、「義祐」と称させる

天文一〇年 1541年

▼六月、羽柴・毛利が人質交換し、毛利輝元は預かった森兄弟の姓を「毛利」に改めさせる(藩翰譜) *これは音通改姓の洒落とも受け取れる。▼一〇月、足利義晴は尼子詮久に偏諱を与え、「晴久」を名乗らせる

天文一八年 1549年

▼この頃、織田信長は文書に「藤原信長」と自署 *信長の出自は単なる豪族の斎部(いんべ)氏で、藤原名乗は詐称である。

天文二一年 1552年

▼六月、足利義藤(義輝)は朝倉延景に偏諱を与え、「義景」を名乗らせる

弘治二年 1556年

▼正月、松平元信は祖父の清康の一字を頂戴し「元康」に改名(のち徳川家康に)

弘治三年 1557年

▼一一月二五日、毛利元就、三人の息子に対し「十四カ条の教訓状」を与え、「毛利」名字の永続を図る

永禄四年 1561年

▼二月、足利義輝は三好長慶・義興父子ならびに松永久秀に「桐紋」の使用を許す▼五月、将軍足利義輝は、上洛して目見得した上杉景虎に諱の一字を与え、「輝虎」と改名 (相州兵乱記)

*末期の足利将軍家は偏諱を安売りしたことで知られる。

永禄五年 1562年

▼二月、徳川家康は弱体化した今川と縁を切るべく、亡き義元から拝領の元の字を捨て、元康から「家康」へと改名

永禄一二年 1569年

▼八月、木下藤吉郎は古の猛将伊奈三郎義秀の名にあやかり、これを打ち返していったんは秀義とする。しかし将軍足利義昭の諱字に触れるのは憚りありとして、改めて「秀吉」の名に改める

天正五年 1577年

▼七月六日、織田信長が上洛、近衛前久の公達元服に列し、一字を与えて「信基」に改め▼この頃、織田信長の叔母を娶った乙部源次郎という者、信長の命を忘れ逆鱗を恐れていたとき、織田上野介の忠告があって「進藤」に改姓 *ともに覇者への畏怖がなせること。

天正一二年 1584年

▼長久手の陣中で徳川家康の種を流産したのは戦陣用妾で、名を「阿茶の局」と。のち寛永一四年正月に八三歳で没時「霊光院殿従一位尼公」とは侍妾では史上最高位

天正一三年 1585年

▼根来寺を破却した盛重、浜松城下に到り徳川家康に拝謁、「根来」の姓を与えられる

天正一六年 1588年

▼豊臣秀吉は全国に刀狩令を発し、農民の武器所有を禁じる。同時に氏所有者から氏を取り上げる

天正一七年 1589年

▼五月二七日、五三歳になった豊臣秀吉に世継が誕生(鶴松、八月五日に早世)。生まれた子をいったん捨てる、との因習により「(すて)」と名付け「捨君」と呼ばせる

天正一八年 1590年

▼八月一日、板倉重勝は江戸の初代町奉行に任命される▼この年、伊勢与市は銭瓶橋付近で銭湯風呂を初開業。いらい江戸の湯屋は伊勢出身者が多くを占める

*天正の頃、関東で「乱波風間(らつぱふうま)」という異名の強盗団が各地を荒らしまわる(武功年表・一)

文禄二年 1593年

▼八月三日、秀吉の第二子(後の秀頼)が誕生。幼名を儲けものの意味も込めて今度は「(ひろい)」と名付け「拾丸」と呼ばせる

文禄四年 1595年

 七月一五日、伯父の秀吉命により豊臣秀次が切腹▼八月二日、秀次の妻妾ら三〇余人が連座し処刑される。それらの名に「お──」型の名が圧倒的に多く見出せる

慶長元年 1596年

▼閏七月、江戸幕府金改役の後藤庄三郎光次は、家康の許可を得て、鋳造した武蔵小判の表に「光次」と自分の名を墨入れさせる

慶長四年 1599年

▼四月、後陽成天皇は豊臣秀吉の廟に「豊国大明神」の神号を贈る

慶長六年 1601年

▼閏一一月二日、江戸で大火。官命で板葺とする家が被災する中で、滝山弥次兵衛ただ一人、屋根半分を瓦葺にしたため火難を逃れる。いらい人呼んで「半瓦弥次兵衛」と

 

江戸時代

慶長八年 1603年

▼二月一二日、徳川家康は世襲の地位「征夷大将軍、氏長者、淳和・奨学両院別当」に就任する *この三官職は以後代々に徳川将軍家の世襲となる。

慶長九年 1604年

▼この年、幕府は関東および諸国領地の検地を行う

慶長一一年 1606年

▼この年、後に江戸吉原を創始することになる庄司甚内、悪党の名が高い勾坂甚内と同名なのを嫌って「甚右衛門」に改名▼この頃、漢学者の藤原粛が雅号「惺窩」を用い、漢風雅号流行の先鞭をつける

慶長一七年 1612年

▼八月六日、切支丹禁令出る▼侠客の元祖といわれる大島逸平、三〇〇人もの家来共ども処刑される。配下の二つ名も大風嵐之介・天狗魔右衛門・風吹散右衛門など、おどろおどろしいもの

慶長一八年 1613年

▼江戸の大刀では先輩格の向崎甚内、浅草は鳥越神社前の橋で捕縛されたとき、「(おこり)にかかってなかったら捕まらぬものを」とほざく。その後、瘧患者がこの橋を渡ると治ってしまうという噂がたち、人呼んで「甚内橋」と

慶長一年 1614年

▼七月二六日、大阪冬の陣の火種となった徳川家康による京都方広寺大仏殿の鍾銘問題が生じる。豊臣側の「国家安康」「君臣豊楽子孫殷昌」は自分の名ををないがしろにしたものだ、と難クセをつけたのである

慶長二〇年 1615年

▼大阪夏の陣五月、越前軍兵本間八郎兵衛は敵軍の一番首を挙げたが、味方の原兵左衛門から物言いがあり名誉の戦功を諦める仕儀に

慶長の頃 1596年~

▼この頃江戸に現れ始めた浄瑠璃女太夫の名は「六字南無右衛門」とか「左門よしたか」など珍芸名を名乗る

元和二年より 1616年~

▼徳川家康没後に、諡る神号について「権現」を主張する天海と、「明神」にすべきだという崇伝が意見別れする

元和八年 1622年

▼一二月二六日、徳川秀忠は立花宗茂の子千熊麻呂を元服させて一字を与え「忠茂」に▼この年、貢租のための地方戸籍簿「小倉藩人畜改帳」が成る

元和九年 1623年

▼正月五日、神田幡随意院の創設僧寂し、庶人は手書き名号「智与白道幡随意上人」と敬い称える

寛永元年 1624年

▼江戸四谷長善寺境内で府内初めての勧進相撲行われる。勧進元は初代横綱の明石志賀之助

寛永五年 1628年

▼正月二日、無筆者の京橋紀伊国屋又太夫、この日突然に大師河原弘法大師の示現を蒙り、「六号の名号」を書す▼この年、庄司甚右衛門は葭町と堀江町の間に架橋、俗に「親父橋」とか「思案橋」と呼ばれる

寛永六年 1629年

▼一〇月、徳川家光の乳母、斎藤ふくは伊勢詣のついでに京へ寄って後水尾天皇に拝謁、その場で「春日局」の御局号を賜わる

寛永九年 1632年

▼九月、幕府は旗本法度を定め、うちの一条で末期養子を認めないこととする▼徳川秀忠、勅諡「台徳院殿」を贈られる

寛永一三年 1636年

▼七月六日、徳川家光は水戸の幼君元服のおり、諱の一字を与え「光圀」に▼この頃、女子の愛称に「──ちゃん」付けが現れる

寛永一五年 1638年

▼旧六人衆の幕府職制が改められ「若年寄」という役名に

*この年、大伝馬町道中御伝馬役の馬込勘解由および佐久間善八に四谷新伝馬町・四谷塩町の賜地があり、「四谷伝馬町」の地名に。人名因み町名起立例の典型である。

寛永一七年 1640年

▼近江の鋳物師六右衛門、江戸へ出て芝浜で鍋釜を鋳る。隣に田中七右衛門の釜場があり、名技を盗む。やがて大釜を鋳あげたが、処刑でその釜の中でゆでられたのが天下の大盗石川五右衛門

寛永一八年 1641年

▼この年、切支丹宗徒を摘発するため宗門改め役が設けられる▼この頃、初代の市川団十郎は「成田屋」を名乗り、役者屋号の始まりに

寛永一九年 1641年

▼この年、江戸での「宗門改め」が始まる

寛永二一年 1644年

▼この年、江戸大伝馬町佐久間某の下女お竹が人助けの評判に。没後に「お竹如来」と奉られる

正保の頃 1644年~

▼江戸市中に浅草ざる組・六方組・よしや組・神祇組など男伊達ならず者が横行

慶安年 164

▼二月、幕府は「江戸町人家督相続法」を定める

慶安二年 1649年

▼二月、百姓に対する諸規定「百姓法度」が布告され、名字名乗も禁じられる▼同時に、町方にも五人組制ならびに「町人法度」が定められる▼五月、川崎の大師河原で大酒合戦が開かれる。江戸大塚の地黄坊樽次が攻めの大将、池上村の総大将大蛇丸底深が迎え討つ▼山田迫夢の娘の亀は、後水尾・明正量天皇から才能を愛でられ「今式部」と呼ばれる

慶安四年 1651

▼七月に幕府、江戸市中で「四股名」など異名を付けることを禁じる

承応三年 1654年

▼六月二〇日、江戸で大上水を完成させた玉川庄右衛門・同清右衛門が褒賞され、水道は「玉川上水」と名付けられる▼江戸に唐犬権兵衛、放駒四郎兵衛といった異形異名の(まち)(やつこ)がのさばり、この年末に大挙して捕縛される

明暦三年 1657年

▼七月、その名も唐犬権兵衛、奴頭幡随院長兵衛の仇討に水野十郎左衛門を大勢の見物衆を前にいたぶる

明暦の頃 1655年~

▼江戸に男芸者ともいわれる太鼓持が現れる

万治三年 1660年

▼正月一四日、江戸に大火。火付け犯で逮捕された連中の名が、御存知の角和・夢の市兵衛・張金権兵衛など

寛文一一年 1671年

▼七月、江戸の長者番付である「江戸鑑分限帳」出る▼一〇月、仙台藩で家臣同士の寄子付(よりこづけ)(擬制親子関係)が禁止に

寛文の頃 1661年~

▼野呂松勘兵衛という人形遣いが醜形の人形を名人芸で操って見せ、いらい愚鈍で醜男を「野呂(のろ)()」の異名で呼ぶことに

延宝二年 1674年

▼飢饉続きで非人が激増、幕府は非人調査を命じる

延宝六年 1678年

▼四代目市村竹之丞、本所五つ目自性院において遁世のため舞い納め。この寺を世に「竹之丞寺」と擬人名で呼ぶ

延宝八年 1680年

▼吉原江戸町の七兵衛、同町利右衛門方お抱え女郎「いく世」と馴染だが、興奮のあまり彼女の舌を噛み切り追放刑に。「名前が男殺し」とは吉原雀の評

天和二年 1682年

▼幕府、商人や職人が「天下一」の冠称を濫用するのを禁じる▼因州鳥取城主池田光正没。元和九年に家光の片諱を貰い光政と烏帽子名を得たが、非公式の場では生涯「松平新太郎」の幼名で通す

天和三年 1683年

▼二月二六日、町人すべてに二刀を禁じる

貞享元年 1684年

(いかづち)権兵衛ら一五人の相撲浪人に寺社奉行から興行許可があり、初の「年寄名」を与えられる

元禄元年 1688年

▼将軍綱吉の娘の名が鶴姫であるため、江戸中の「鶴屋」の屋号や鶴の紋の使用が禁止に

元禄年 1689

▼京都の芝居で「野郎改め」という町奉行所の検査を控え、座元に役者の名前と手形を報告せよ、と

元禄三年 1690年

▼一〇月二六日、幕府は捨子を厳禁し、翌月、捨子予防に「子供登録令」を出す

元禄六年 1693年

▼この年に亡くなった俳人の貞閑尼は、俗名を((でん))ステといい、俳号に「すて女」も用いる *「──女」型のハシリといってよい。

元禄七年 1694年

▼正月、江戸の遊女評判記『吉原草摺引』を板行した罪で版木屋が処罰される *当時の吉原遊女の名を知る貴重な資料である。

元禄一〇年 1693年

▼この頃、綱吉の生類憐み令が過熱し、江戸では野犬まで「御犬様」と敬称付きで無難に呼ぶようになる *この綱吉を産んだ桂昌院、じつは京都堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘という、犬も振り向かない出である。

元禄一七年 169

▼両国橋西詰の小松屋喜兵衛、吉原女郎上がりの女房の名「いくよ」を店の餅に付ける。どんな女かと冷やかし客などで繁盛した、と

 宝永二年 1705年

▼三月一二日、伊藤仁斎が享年七九で他界。生前の碩学をしのんで「古学先生」と先生号を諡される

宝永年 1709年

▼正月、俳人の其角は「梅が香や隣は荻生惣右衛門」という全名入りの一句を発す。これは一五年前、師の芭蕉が吟じた「秋深き隣は何をする人ぞ」に応答した作といわれている

宝永年 1710

▼四月、江戸の職人らは流行の「武蔵守」という受領名を称することを禁じられる

正徳三年 1713

▼三月、江戸の正確な人口を把握するため、町々の()()衆(居候)の近郊移住を禁じ、その人数を調べる

享保三年 1718年

▼六月八日、幕府は江戸五里四方拳場内に住む浪人の身元調査を命じる

享保年 1721年

▼一〇月一九日、幕府は江戸町方に対し「人別張」を調製させ、以後毎年四月九日に人口を録上させる *ちなみにこの年の江戸の人口は五〇万一三九四人

享保八年 1723年

▼二月、山内左内という浪人、「三ツ葉葵」の紋付を着て取込詐欺を犯す。幕府、即座にこの紋の使用を厳禁する▼七月七日、幕府は無宿人を捕らえ国許へ送り返すよう命じる▼この頃、新井白石の門人土肥源四郎は、師に私諡を考えたが僭称に過ぎようから止めて「白石勿斎」なる使い慣れた号にする、と書簡で述懐

享保一一年 1726年

▼二月二四日、江戸芝口町河岸に変死者や迷子などの氏名・特徴を記した掲示場が設けられる

享保一七年 173

▼七月一二日、「目安箱」に投げ文する村民は、所氏名を明記すべしとの達し

享保二〇年 1735年

▼将軍吉宗、諸家に奇妙な苗字や名前の者を洗い出して報告せよ、と命じる。その結果の一部が後に『翁草』で紹介されている

元文元年 1736年

▼九月、幕府は服忌令を改め、「離縁した女との間に実子がなければ、女が再婚せずとも夫婦の縁は切れているので、相互に服忌はない」とする

元文二年 1737年

▼二月、松平伊豆守邸では、「天草島原役」の百年目を記念し、天草出身の家臣らに酒肴を振舞う

寛保元年 1741年

▼艶名家の旗本榊原政岑、吉原三浦屋の遊女高尾を身請けし、屋敷内で「御部屋様」と呼ばせる

寛延元年 1748年

▼九月、御家人水野七郎右衛門は、赤の他人を次男と偽称した詐欺行為で、死罪に処せられる

寛延三年 1750年

▼二月、幕府は全国人口調査の結果を発表、総人口は二五九一万七八三〇人

寛延年間 ~1750年

▼初代中村宗十郎が演じた「梅の田兵衛」にちなみ、江戸中に宗十郎頭巾が流行

宝暦五年 1755年

▼正月、二代目市川団十郎は中村座で本所愛染明王の分身「矢の根五郎」を演じて大当たり

宝暦一三年 1763

▼五月、江戸市内で事実無根の名指し密告・門訴・風聞について取締りを開始

明和元年 1764年

▼一二月、江戸時代最大規模の一揆「伝馬騒動」は、本庄宿関村の兵内による音頭取りで関東一円に拡大。当時の俗謡ヤンレエ節に「ここに関村兵衛様は、民の難儀を救わんものと…」と、敬称名入りで歌われる

明和二年 1765年

▼一〇月、全国に赤児の間引き禁止を布告

明和三年 1766年

▼一一月一八日、受領の勅許を持つ商人職人の子孫で、跡目相続を願わず子孫に襲名させること禁じられる

明和六年 1769

▼七月、幕府は全国寺社に対し葵の紋付調度を所有する場合は申告するように指示▼賀茂真淵死す。彼は女流の門下に平安朝好みの雅名を付けるのが好みで、「県門三才女」の号はその典型▼この頃、「明和の三美人」こと笠森お仙・柳屋お藤・蔦谷のおよしが娘評判記などでもてはやされる▼「馬鹿ものゝ事を、十九日とよびしは、牛込赤城の縁日十九日なり」(奴師労之(やつこだこ))と。これ、山猫という名の娼婦が広めた隠名であるそうな

安永年 1775年

▼恋川春町の画文黄表紙『金々先生栄花夢』は、当時江戸で流行した見栄っ張りの異名「金金」から題したもの

安永五年 1776年

▼八月八日、二七歳になった相撲取りの伊達ケ関森衛門、「谷風梶之助」へと改名する▼この頃、杉田玄白は蘭学仲間の桂川甫周から、年よりも老けて見えるため「草葉の陰」と渾名される

安永から天明の頃 788年

収賄の限りを尽くした田沼意次は、江戸の落書・落首中でその悪名が史上最も多く登場した人物となる。

天明二年 1782年

▼四月一七日、江戸隋一の板場名人樽屋三郎兵衛没。呉服橋で「樽三(たるさ)ぶ」と親しまれる

天明四年 1784年

▼九月、百姓が自分名義の宅地のまま御家人・寺社・町人等に内密に売り渡すことを禁ずる

天明七年 1787年

▼七月、文学・軍学・天文術・武芸等の各師範に対し、姓名・住所・流名・年齢等の調査を行う

天明九年 1789年

▼正月、光格天皇は父の閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を奉りたいと幕府に諮ったが、拒否される

天明の頃 ~1789年

▼江戸中期の洒落者大尽集団の名寄せ「十八大通」が喧伝される▼天明末の江戸、町数は一七七〇余町、市中総人口は一二八万五三〇〇人

寛政四年 1792年

▼一一月、幕府は諸大名に相伝の武技・武芸者名簿を提出するよう命じる

寛政六年 1794年

▼春、備中国桧物屋の松という娘は、一夜発熱してから男子に変じ、名も「松之助」と改める(北窻瑣談) ▼通人必見の書といわれる『新吉原細見』成る。江戸最盛期の吉原における花魁の名もおびただしい数が載っている

寛政一一年 1799年

▼幕府は幕臣等に対し所有の系図調べを行う▼この頃、江戸湾で獲れるフグの類が「鯛の婿三郎」とか「源八」と擬人名で呼ばれる

享和元年 1801年

▼七月、江戸幕府は御触書を発し、百姓・町人の名字帯刀を禁じる

享和三年 1803年

▼七月、江戸で麻疹(はしか)が流行。茶化した落書中に「薬鍋煎観世音菩薩」「味噌漬沢庵和尚」「寒晒白玉院」などの戯称が見える

文化三年 1806年

▼一〇月二九日、団十卒。曰く「五代目市川白猿、幼名幸蔵、始松本幸四郎、後市川団十郎、又改蝦蔵、寛保改元の年月日、江戸において生誕す、云々」とめまぐるしく紹介(巷街贅説・一)

文化四年 1807年

▼幕府は江戸中の孝子・奇特者の名簿を揃えて提出するように指示

文化六年 1809年

▼正月、戯作者式亭三馬は『浮世風呂』を板行。この書は江戸庶民の名前の宝庫といわれる▼落語家の三笑亭夢楽、師匠可楽の許可なく「夢羅久」に改字。師匠に怒鳴られて開き直り、即座に「朝寝坊むらく」に変えて独立

文化九年 1812年

▼江戸時代の代表的武鑑『寛政重修諸家譜』一五三〇巻が成る

文化一五年 1818年

▼五〇〇日にわたる漂流体験をした督乗丸の重吉は、尾張へ戻ると藩主から苗字帯刀を許され、「小栗重吉」を名乗る

文政五年 1822年

▼六月五日、江戸日本橋掛直しのとき渡り初めしたのは、奥州盛岡の百姓清左衛門・一四二歳、同妻さわ・一三九歳、忰清蔵一一二歳ら一〇名が見える(百草・一)▼一一月二七日、松平刑部定保の娘、俗名つゆが疱瘡で夭折し、「淨観院玉露如泡童女」と写実的な戒名が付けられる

文政七年 1824年

▼五月、長唄・浄瑠璃師匠らが「花会」の名目で派手に名披露目を行うこと禁じられる

文政一〇年 1827年

▼一〇月、松平周防守より幕府に対し、相撲取の四股名と帯刀の是非について伺いを立てる。返答に窮したか、うやむやに▼一一月一日、江戸相撲の行司庄之助が奉行所に対し、苗字帯刀を許してほしいと上申し、許可される

 政末 ~1830年

*この頃、武士ことに浪人の困窮はなはだしく、子の身売りや富商からの養子貰いはもとより、系図を叩き売って命をつなぐものも少なくなかった。

天保二年 1831年

▼四月、幕府は百姓・町人に対し過度の葬式・墓碑・法号を自粛せよ、と

天保三年 1832年

▼三月、盗人の鼠小僧次郎吉が処刑される。このあと同名を私称する何人かが現れ世間を騒がせる

天保一二年 1841年

▼この年、江戸の人口は男三〇万六四五一人、女二五万七二三八人(江戸人口小記)

天保一三年 1842年

▼幕府は天保改革の一環として、商人が符牒を用いることを禁じる

天保一四年 1843年

▼三月、天保改革はいっそう引き締められ、人事面でも人返し令や人別改めが強化される

天保末 ~1843年

▼老中水野忠邦が失脚すると、巷間で名入りの落書・落首・狂句が堰を切ったように噴き出る

弘化元年 1844年

▼五月、江戸城本丸出火のさい、率先して火消しにつとめ表彰された「い組の伊兵衛」の名が天下に知れ渡る▼九月一一日、永代橋架替えの初渡り人名は、三州吉田領小泉村の百姓万平・二四三歳、後妻一三七歳、忰万五郎一九三歳ら六名(百草・一)

弘化二年 1845年

▼三月、江戸市内の夜鷹出没場所や品定めを案内した「東辻君花の名寄」と題した一枚摺り物が出て評判に

弘化四年 1847年

▼一二月一日、後に最後の将軍となる徳川七郎麿、元服して「慶喜」の烏帽子名に

嘉永元年 1848年

▼三月九日、堀ノ内途上の生受院付近の参道に幟立ち、「三途川老婆王」だと▼斉藤幸成の江戸時代通史年表『武江年表』成る。補完版は明治になってからの刊行

嘉永三年 1850年

▼九月四日、高三善右衛門という者が奉行所に対し、始祖の名を襲いたいと願い出るも、結果は未詳(嘉永撰集類集・付録)▼一〇月三〇日、脱獄した高野長英、「沢三伯」と変名して逃走中だったが、捕吏に捕らえられる直前に自裁して果てる▼江戸神田の「形方」主人、湯屋で冗談話に「おめえ公方様か」に「そうだ」と答え、聞き耳立てていた岡っ引きに翌日捕らえられる

嘉永四年 1851年

▼三月、孝明天皇は和気清麻呂に正1位・護王大名神号を追贈▼漂流し異国体験も長かった「ジョン万次郎」こと中浜万次郎らが帰国、たちまち有名人に

安政元年 1854年

▼三月、下田姉崎に寄航中のアメリカ船で密航を企て見つかった吉田松陰ら二人、名を尋ねられ「瓜中万二(変名)、市木公太」と書いて示すと、「日本の字ではない、中国人だろう」と疑われた、と▼この頃、飯田忠彦は一〇二巻に及ぶ大著『系図纂要』を上梓

安政二年 1855年

▼一〇月二日、安政の大地震起こる。江戸では無数の死者が出たため、各地寺寺で戒名をたくさん用意し、運び込まれる死体に順に付けて荼毘に付した。そのため同戒名の仏がたくさん出たという

安政四年 1857年

▼五月二十一日、俗称「唐人お吉」は下田玉泉寺でアメリカ総領事ハリスの侍妾に *明治五年の戸籍謄本に「斎藤きち」の名が載せられている。

安政六年 1859年

▼町奉行所御用聞の鈴木藤吉郎、水戸の斉昭公から「今藤吉郎」と渾名された者だが、汚職が発覚し処罰される

安政七年 1860年

▼正月、水戸脱藩者や流れ者が目立ち、関東全域に取り締まり令が出る

文久元年 1861年

▼黒川春村が『名字指南』という名字の専門書を上梓▼江戸奇妙字の研究書、黒川春村著『名字指南』成る▼この頃、無頼武士の悪名高い水戸藩士を自称し「寄らば斬るぞ」の構えで百姓町人を脅かす手合いが増える

文久二年 1862

▼三月、幕府は江戸における香具師らの人別帳を作るよう命じる▼この頃、天誅と称し敵対者を名指しで高札に掛ける私刑が続出

元治元年 1864

▼三月四日、幕臣川路聖謨の孫嫁、花は夫への手紙の末尾で、自分の名を海棠に寄せて文字絵に描き差し出す

慶応四年 1868年

▼一月七日、徳川慶喜追討令が出され、同二七日に関連する「松平」姓を名乗る不利を布令る *すなわち、朝敵に加担した姓は名乗らないほうが身のため、と暗に忠告している。▼三月一三日、新政府は大坂豪商の鴻池善右衛門らに財政援助を求め、代わりに手代らを含め「御用中苗字帯刀被成御免候事」とする▼六月二二日、徳川亀之助は氏族を捨てたいと願書を出したが、却下される(関東鎮台日誌)▼七月、提灯などに許可なく「御用」と書き入れたり紋所を刷り込むことならず、と太政官布令▼九月八日をもって「明治」と改元

幕末

▼土佐藩の(いぬい)退助は、名字を変えて「板垣退助」とするも、時期は未詳

 

明治時代

元年 1868年

▼一〇月九日、仁孝・孝明・明治天皇三代の諱字の「欠画」使用を布告▼一二月一二日、宮堂上諸侯等の所領内にかぎり苗字を許可するよう布告

二年 1869年

▼一月九日、百姓・町人の名字帯刀を廃止▼一月一九日、旧幕府が許可した平民の苗字特権を廃止▼三月、軍務官判事の森金之丞、通称を廃し実名のみを用いるべし、と建議▼四月、「欠画字」使用の可否について論議が高まる▼六月中旬、卿・諸侯の称を廃止し「華族」に改めると布告▼六月二五日、諸藩の一門以下の臣隷を士族と称し、氏族以下を平民と称せしむ、と布令▼七月二七日、「府県奉職規則」を発し、官員は功労次第で永代または一代の苗字を与える、さらに勤役中苗字帯刀を差し許すと規定▼七月、無名(匿名)の投書は封のまま焼却すると公表▼八月、官位職制が制定され、第一等より第十六等の三まで、官禄が石数で示される▼一二月、新政府の族称制度「華族」「士族」に対し新たに「卒族」および「平民」の別が付け加えられる

*この年、大挙しての華族誕生でらしき創姓・改名が流行る。

三年 1870年

▼七月、弘文・淳仁・仲恭の三天皇に諡号が追贈される▼九月一九日、太政官は平民の苗字公称を許す、いわゆる「苗字許可令」を布告▼一一月一九日、太政官は国名・旧官名による名乗りを禁じる▼一二月、平民の佩刀が禁じられる▼この年、街頭の飴売りが、お多福のつづめ名である「おたさん」を戯れ歌に織り込んで流行させる▼この頃、大阪天王寺林一心寺の辺の花屋、「性爺」と珍苗字を名乗る

四年 1871年

▼三月、太政官は諸県に地理戸籍の取調べを指示▼四月四日、太政官は戸籍法を公布し、翌五年の造籍実施に向け、いわゆる「壬申戸籍」を敷いて戸籍の整備に踏み出す▼七月、太政官は太政官職を改正し、諸官の任免を発表▼五月、太政官は神社の神官名の世襲制を禁じる▼八月、太政官は官制等級の大幅改定を発表▼八月、太政官は穢多・非人等の称呼を戸籍から排除し、この人たちを民籍に編入すると布告▼九月、兵部省は諸隊に兵士等の改姓名禁止を布告▼一〇月、太政官は公文書における姓尸(かばね)の使用を廃止し、氏名(実名)の署名のみを認めると布告▼一〇月、太政官は官員に限り届出により改名を認めると指令

*この頃、法令等の朝令暮改が目立つ。

五年 1872年

▼正月、太政官は卒族のうち世襲によるものを「士族」に昇格、一代限りのものは「平民」に格下げすると布告(すなわち卒族は消滅)▼二月一日、太政官は「戸籍法改正令」を発し、昨年布告の「壬申戸籍」を実施▼四月、太政官は、天皇の諱に用いられていた「欠画文字」の制を廃止すると布告▼五月、太政官は国民すべてに「一名」(登録氏名)のみ用いることを布告▼八月、太政官は苗字・名とともに屋号も改称を禁じると布告▼九月、教部省は僧侶に対し、苗字を設け氏名ともに名乗ることを布達

六年 1873年

▼一月、太政官は私生児の戸籍上取り扱いについて指令▼三月、明治天皇は自ら断髪の範を垂れ、元服儀式の廃絶を玉体をもって示される▼同月、静岡県庁は匿名により他人を誹謗してはならないと布達▼四月、太政官は歴代天皇の諱・御名の使用文字を一般の者も使ってよい(「二字御名」の使用は禁止のまま)、と布告▼四月、教部省は昨年九月の僧侶苗字の新設に関する布達を取り消す(その後再び、苗字新設制に戻る)▼六月、太政官は世襲名において改名の結果、支障が生じる場合は届出により許可されると指令▼八月、「ぐわんにん坊」の称呼を戸籍から抹消(教部省令?)▼八月、太政官は「隠居名」に改名できない場合の支障発生についても、改名を認めると指令▼一〇月、太政官は出家または還俗した者の法名または俗名への改名を認めると布告▼一一月、太政官は大蔵省からの「難読や難書の名の改姓可否伺い」に対し、改姓は認められないと返答している *これは際限のない適否判定の難しさを考慮してのことであろう。▼一一月、太政官は大蔵省からの「俳優・娼妓らの旧(営業用)名への改名可否伺い」に対し、旧呼称への復帰を認めてよいとする指令を出す

七年 1874年

▼三月二四日、「全国戸籍表」を編成する旨の官令が発せられる▼一二月八日、太政官は士族の帰農・商業従事に際しても改名は認められない、との見解を指令▼この年、「旧戸籍寮」は内務省に編入となる▼この頃、政府の同化政策に基づき、アイヌ民族に日本人名同化が強制される

八年 1875年

▼一月、太政官新職制を発表、布告▼二月一三日、太政官により、いわゆる「国民苗字必称令」が布達される。同時に「祖先以来苗字不分明ノ向ハ」新苗字を設けてよいと▼三月、太政官は「人民著名肩書の義、自今、何府県華士族平民と記載可致」と氏名の記載要領を布告▼三月一五日、『東京日日新聞』記事に「宮ちゃん」なる官員蔑称が登場▼四月、内務省は同苗異名・異苗同名であっても改称はならない、と指令▼五月、兼松成言は三条実実に対し、「太政大臣」の名号を廃止すべきである、と提議して世論を高める▼六月、内務省は「同名者」の定義を適用範囲を含めて指令▼一〇月、太政官は家を再興する場合の襲名について、これを可とする見解を指令▼一二月、太政官は婚姻や養子縁組など戸籍移動に伴う場合にも、新苗字を名乗ってよいと布達

九年 1876年

▼一月、太政官は同苗・同名等で差し支えある者は改名願いを出すこと、と布告▼三月、太政官は、妻は夫婦いずれの姓にするかという石川県の伺いに答えて、「所生ノ氏」つまり実家の姓を用いてよい、と指令▼八月、内務省は父子や家族の姓が異なる場合に、同一苗字に改めるべしと指令

一〇年 1877年

▼九月二一日『読売新聞』記事は、賊軍の雄西郷隆盛を「西郷様」と称し続け、暗にからかっている

一二年 1879年

▼六月一二日『読売新聞』記事に、芸者の異名「猫」の名付け元は成島柳北である、と

一四年 1881年

▼五月刊『身辺東京繁昌記』初篇に、腰弁当を擬人名化して「腰庖膝馬先生(コシベンタイアルキセンセイ)」と

一五年 1882年

▼大阪下町の忠臣蔵長屋では、四六軒の長屋に『仮名手本忠臣蔵』にあやかった四十七士の名をつける▼七月、高知県下に自由太郎・自由吉・自治之助・お自由・お自治などの命名が流行

一六年 1883年

▼二月三日号『団団(まるまる)珍聞』記事中に「抜作(ポンタ)」なる与太名が見える▼六月二三日『東京経済雑誌』中に「官棒」とあり、数ある巡査の異名のうち初期の一つ

一七年 1884年

▼この頃、落語家の円太郎が高座でガタ馬車のラッパを物真似して流行らせ、自分の芸名を「鉄道(えんたろう)馬車」と代名詞に仕立てる

一八年 1885年

▼この頃、流行歌「ヤッツケロ節」の歌詞に「それでも足らずに高利借り/アイスクリームに攻められて/首も廻らず蒼くなる」と、アイスクリームを高利貸しの異名に仕立てている

一九年 1886年

▼一〇月一六日、俗に明治一九年戸籍法といわれている内務省令「戸籍取扱手続」が発令される

二〇年 1887年

▼一〇月八日『女学雑誌』に越後屋三越得右衛門が半面広告を出し、(ロン)(ドン)巴里(パリ)で洋服を仕入れて売り出す、と

二一年 1888年

▼七月六日『国民之友』中で、流行語「じれったい」にのって作家の石橋思案が「自劣亭主人」を号したと▼某新聞紙、男名もどきの芸妓名の流行に横ヤリを入れ、こうした傾向は法律で禁止せよ、といきまく

二二年 1889年

▼栗田寛は上代人名の研究書『古人名称考』を上梓

二三年 1890年

▼一一月に発表の『ねやの月』で作者の天外居士は下女の代名詞「鍋どん」「三どん」を用いる

二四年 1891年

▼九月、活版一枚刷『江戸紫色の染分=美人娘競』に出ている三九〇人のきれいどころのうち三字名は七人だけ、残るはすべて平仮名二字名▼一一月五日の『小公子』書籍広告に翻訳者の若松賎子(しずこ)の名が見えず、代わりに「巌本善治妻訳」とある

二五年 1892年

▼一月九日『東京経済雑誌』雑録に『日本紳士録』が交詢社から出たとあり、ついでにいわく、「今まで一向に尊名を聞かなかつた紳士が沢山にまします」と▼六月二五日号『団団(まるまる)珍聞』に福沢諭吉一派を冷評して「拝金宗」と

二六年 1893年

▼一〇月二六日『東京朝日新聞』記事、入谷の真源寺本堂で新結成しゃれ会を披露、その兼題の一つが「しゃれの内のお祖師様」

二七年 1894

▼二月、『福沢諭吉全集』成る。うち「田舎議員」という狂詩中で、田地を売って議員になりたがる連中を「阿房の頂上」と痛罵▼五月二十六日号『風俗画報』で柴山道人は「流行言語」の題のもと「別品」について薀蓄を傾ける

二八年 1895

▼四月一三日『東京経済雑誌』中「夫婦の尊称」と題し月旦子はいう、「下女はいつも更なり、出入りの髪結い、八百屋、魚屋などまでに、奥様の称号を使わせるようにする」と

二九年 1896

四月二五日『東京経済雑誌』中に、浅草松葉町の家に疱瘡除けのまじない文句「樺山将軍在宿」と。樺山将軍とは時の大将、樺山資紀(すけのり)のこと

三一年 1898年

▼四月一八日『読売』中「劇界片々」に、壮士芝居の伊井蓉峰は安っぽくなった先生称につむじを曲げ、座員に以降自分のことを「大先生」と呼べと命じた、と▼六月二一日公布の「改正戸籍法」では戸籍再製の徹底を盛り込む。また結婚した妻は夫の苗字を名乗らなくてはならない、と定める

三三年 1900年

▼六月二日『東京経済雑誌』の記事に、山本権兵衛海軍大将が、軍艦の進水式で自分の名を古風に「ゴンビョウエ」と読んだら、毎日新聞に気取りすぎだ、と評されたとある▼一〇月一八日『読売新聞』中の「思ひつき」に、先生・貴公・大将の三称を挙げて「嘲弄語の三幅対」と断じる

三四年 1901年

▼七月、堺利彦は論「言文一致普通文」において「ハイカラ党は、近来都市に発生したる一種の有毒黴菌であつて、」と攻撃

三五年 1902年

▼元英国人から帰化した小泉八雲は、好著Japanese Female Names(日本の女性の名)を上梓し、文学以外の隠れた才能を発揮

*この頃、「広目屋」こと俗称チンドン屋が新時代の職業として注目される

三六年 1903

▼二月一一日、尾崎紅葉は『病間記』において、女学生を「海老茶式部」と表現

三七年 1904年

▼この年物故した箴言家の斉藤緑雨は自身で生前に死亡広告を用意したほどの変わり者、その戒名も居士・大居士等の俗物性を嫌い「春暁院緑雨醒客」とする

三八年 1905年

▼この頃、堺利彦は文士間に流行っている雅号の廃止に疑問を投げかける(明治事物起原)

三九年 1906年

▼四月『机の塵』に、時の後藤民生長官は男爵を授けられたとき、宴席の芸者らに対し、自分は華族になったのだから「御前様」と呼べと命じた、と▼一二月三〇日、石川啄木は前日に長女出産の通知が届くと、即座に「京」と命名し、早手回しに友人等にはがきで知らせる

四一年 1908年

▼八月二九日『読売新聞』は、自社広告で「三面記者」募集と銘打つ

四三年 1910

▼六月四日『万朝報』の「はなしのたね」に、秋田県の某は飼っている金魚七匹に東京の新橋芸者七人組の名を付けた、と▼この頃、一青年画家は本名の茂次郎を嫌い、師の藤島武二の名からヒントを得て「竹久夢二」の雅号をもつ

*明治末に、女子名「──子」方が圧倒的に増え、上流社会から降下流行したことが明らかになる。

 

大正時代

元年 1912年

▼八月、明治天皇と諱決定と同時に、「明治」を諱み避けるべきかどうか世論が沸騰

二年 1913年

▼四月二三日、神戸市内で現金宝石類を強奪し放火して捕らえられた少年、「天神小僧徳之助」と名乗る

三年 1914年

▼一月一一日、「女ならぬ女、男ならぬ男」の見出しのもと、若水美登里・橘小百合らの近況を記事に(都新聞)▼「大正ジゴマ団」という紳士集団を装った秘密結社の動きを知らせる(国民新聞)▼五月二一日、鹿島清兵衛が恋女房「ぽん太」との間にもうけた鶴子が新橋芸妓入りし、その芸名を「小ぽん太」に▼「改正戸籍法」が成り、身分登記簿という呼称も「戸籍簿」に改められる。族称欄に華族か士族か該当する場合のみ記入すればよいことに(平民記載の廃止)

四年 1915年

▼九月、故乃木将軍への贈位は時期尚早との理由で見送りに。本音は、殉死に近い自裁を英雄行為視する向きの増加を恐れてのこと▼一一月一九日、大阪千日前に出演した東京歌舞伎役者高麗三郎ら一行は、勝手きわまる背反行為だとして東京俳優組合から除名処分に

六年 1917年

▼三月、銅像ブームに乗り、演歌師の故川上音次郎の銅像建設が決まる▼一一月一八日、宮内省は国家功労者への贈位を発表、織田信長に正一位を贈る▼天皇即位御大典にちなんで、当時生まれた子に「典」の字名が目立って多いと京橋区役所が発表▼新橋倶楽部の建物一階に簡易食堂「平民食堂」を、同二階に寄席「平民演芸場」を開設

七年 1918年

▼二月、警視庁保安部は府下に一三万名もの貧民がいるため「貧民台帳」を作る計画と発表 *しかしその後、台帳が成ったという結果は見えず、庁内用㊙名簿にでも化けたか。▼四月、国勢調査局は第一回国勢調査の構想案を発表、そのなかで無筆者には係員が代筆すると約束

九年 1920年

▼五月、宮内省は現行華族令の改正案を発表、これに伴い有爵者の淘汰整理が実施される▼六月六日、東京神田で婦人向上会の発会式行われる。講演で某氏()は「女偏の漢字には女を侮辱した文字が多い。云々」ゆえにそれらはことごとく人偏に改めるべきだ、という理屈を述べる▼六月八日、記事に「自分の名前も描けない者が都下に数十万人も居る」と(国民新聞)▼八月一二日、大本教教祖二世の出口純女を信者は「お二世様」と呼んでいる記事が(東京日日新聞)▼一〇月一日、国勢調査局により第一回国勢調査が実施される▼この頃、東京某高等学校の英語教授は、子息に訳有りの「珍太郎」という名を付ける(珍太郎日記・佐々木邦著)

一〇年 1921年

▼勅令第三八号により、華族・士族の称が廃止に▼六月、命名届けの拒否事件に伴い、「○は文字か符号か」という問題が討議される▼この頃、穂積陳重(のぶしげ)著『実名敬避俗研究』が斯界の注目を浴びる

一一年 1922年

▼四月発表の『一癖随筆』上で、異色のジャーナリスト(宮武)外骨は「廃姓広告」の題で宮武の姓を廃止する、と宣言▼作家の竹林無想庵は、妻仲平文子との間にもうけた娘にイヴォンヌと名付ける

一二年 1923年

▼三月一七日、旧桑成藩士ら元士族が「士族敬称廃止反対同志会」を結成し、全国有志に檄を飛ばす▼八月、宮内省は女官制度を改正、以降女官は自由に結婚できるようになる

一三年 1924年

▼二月二八日、芸者に徴兵検査の通知が届く。東京芝の木村敏子は名を「敏」とのみ書いて届けてあったため、芝区役所で男と間違えたもの

一四年 1925年

▼三月、「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助が京都府に奨学資金として一万円を寄付▼一一月六日、文部省内臨時国語調査会は「常用漢字」一九六二字を発表。うち一五四字は慣用を配慮して整理字体としている▼零落した実業家鹿島清兵衛の妻ゑつが他界。この人、一世を風靡した新橋芸者「ぽん太」その人である

*昭和初期に迎えることになるエログロ・ナンセンス時代の前兆か、大正社交嬢の社交名もマキ・リリー・ローズ・エマ・チェリーといったカタカナ名が目立つ。

一五年 1926年

▼この年、日本人名学の名書、穂積陳重著『実名敬避研究』刊行に 

 

昭和時代

二年 1927年

▼自ら命を絶った芥川竜之介は、遺志により戒名を付けず、墓碑も俗名とすることに遺族が発表

三年 1928年

東京神田巌松堂の少年店員四二人が丁稚奉公制度に抗議して争議に突入。要求の一つが「名前にどんを付けないこと」

四年 1929年

▼荒木良造は姓名研究を集成した労作『姓名の研究』を世に出す

五年の頃 1930年

▼世を挙げてエログロ・ナンセンス時代が頂点に。「ルンペン」「OKガール」「オーライ女史」など異名がもてあそばれる

六年  1931年

▼一月、漫画家の高見沢仲太郎は漫画『のらくろ』の雑誌連載を機に、雅号を田河水(たかみ)(さわ)としたが、まもなくタガワスイホウと読ませることにする

八年 1933年

▼九月、資生堂は第一期「ミス・シセイドー」九人を選考、ミス・コンテストの魁に

一一年 1936年

▼外務省は国号を「大日本帝国」に統一、天皇の称号を「大日本帝国天皇」にすると発表▼五月、カナモジカイの指導者である平生釟(ひらおはち)三郎(さぶろう)は第六十九帝国議会で「漢字廃止説を唱える理由」を述べる。この人、現職の文部大臣だったというから驚きである

一四年 1939年

▼一二月、朝鮮総督府は朝鮮人の氏名を日本式に改める「創始改名」を実施▼英国人I・Vギリスは『日本の姓氏』Japanese Surnamesという著作を出し、斯界の評判になる

一五年 1940年

▼三月、内務省は不敬に相当する芸名、外国風カタカナ芸名を改名するよう通達▼衆議院は戦争政策を批判した斉藤隆夫議員を除名処分に▼一一月三日、厚生省は一〇人以上の子持ち家庭の親一万三三六人を「優良多子家庭」として表彰▼この年は皇紀二六〇〇年にあたり、挙国祝賀の雰囲気のなか、新生児に「紀」の字を付けた命名が激増

一六年 1941年

▼情報局では「土民=ネーティブ」の語を抹殺することに決定。別称のため、というよりも敵性語排除のため▼一二月、俳優の芸名は軟風との理由で禁止となり、たとえば阪東妻三郎は本名「田村伝吉」に

一七年 1942年

▼二月六日、貴族院は隣組内での会員を勝手に除名したり、配給停止にする行為を自粛させると発表▼三月六日、海軍省はハワイ真珠湾攻撃で戦死した特殊潜航艇五隻の乗組員を「九軍神」にすると発表▼六月一七日、国語審議会は標準漢字は二五二八字が妥当と答申し、文部省はこれを二六六九字に修正して発表

*この頃、男子名に「勝」「勇」「忠」など時局を反映した漢字が盛んに用いられる。

一九年 1944年

▼四月一四日、防空総本部は都市居住者に対し、空襲被災に備えての「身元票」を身に付けるよう通牒

二一年 1946年

▼一月一八日、南朝の後裔を私称する「熊沢天皇」名古屋に現れる。きっかけで自称「○○天皇」が各地に続出▼一一月、政府は当用漢字一八五〇字を発表

二二年 1947年

▼九月、政府は「皇族の身分を離れた者及び皇族となった者の戸籍に関する法律」を公布▼一〇月一〇日、台風にアメリカ軍気象部命名の彼地女性名を用いよ、と指令。これも二十八年六月までで、以降は日本の気象台自主決定の発生順号数で呼ぶことに▼一〇月、三直宮家を除く一一宮家の五一人が皇籍を離れる▼一二月二二日、新民法が公布され、家父長中心の家族制度が廃止となる。また夫婦の苗字は夫婦どちらのものとしてもよいが、夫婦別姓は禁じられる▼同二九日、全面改正された「戸籍法」が公布に。戸籍法に付帯の施行規則も施行▼この頃、東京青山の某石屋に、忠霊塔に刻まれている建設賛同者名から自分の名を除去してほしいとの連絡が殺到

二三年 1948年

▼五月一八日、東京の浅草寺で二人の外国人僧侶に天台宗の僧正と偏僧正の位が贈られる▼七月一一日、政府は人口動態の把握に苦慮し、「常住人口調」を中心に調査を進めると発表

二五年 1950年

▼四月二七日、法務不眠時局は「新国籍法」法案を提出、七月一日から施行に▼元皇族の東久邇稔彦教祖の「ひがしくに教」に対し、法務府は認可を拒否、名称を変更して「法皇教」に

二六年 1951年

▼一月一五日、「全面講和愛国運動全国協議会」が結成され、九月三〇日までに史上空前の四八〇万人署名を達成▼五月、戸籍法の一部改正に伴い、「人名用漢字別表」として当用漢字に九二字が追加される

二七年 1952年

▼春、菊田一夫作「君の名は」は空前のヒットとなったラジオドラマで、ヒロインの氏家真知子にあやかって新生児に真知子の名が大流行

二八年 1953年

▼この年に生まれた京都市の某女、父親から「男女子(おめこ)」と名付けられる。彼女は後になってもあえて変名申請書を出さず、男女(みな)子と私称し通しているという

三二年 1958年

▼この年、女子名「──子」離れ現象が起きはじめ、かわりに「朱実」が年々ベストテン入り

三三年 1958年

▼一一月、正田美智子さん(元皇后)が皇太子妃に決定、いわゆるミッチーブームで「美智子」命名が激増

三五年 1960年

▼女子名「──子」型の普及率五割を占める

三九年 1964年

▼春、日本コットンセンターは新聞広告で姓に「綿」字の付く人を公募、綿鳥・綿邨・綿奈辺・綿児・綿古里など珍姓も含め九一姓の応募を得る

四二年 1967年

▼三月三一日、住民登録に基づく人口が一億人を突破する▼お名前博士の異名をもつ渡辺三男博士の『日本人の名前』が上梓される

四四年 1969年

▼この年の一二月から翌年にかけ、「○○為五郎」の表札がしきりに盗まれる。テレビでハナ肇が「あっと驚くタメゴロー」とやった大流行語の影響

四六年 1971年

▼三月二九日、青島幸男参議院議員の発言「佐藤首相は財界の男メカケ」に庶民は拍手を送り、自民党は懲罰動議を提出

四八年 1973年

▼年四月、違法の赤ちゃん斡旋事件で菊田のぼる医師は「養子を実子として戸籍記載できるようにせよ」と主張

五一年 1976年

▼五月、民法七六七条の改正で、離婚後の復姓は本人の意思にまかされる

五四年 1979年

▼五月七日、東京銀座で画材商を営む「月光荘㈱のおじいちゃん」は、六〇余年間も名前を隠し続け、やつと八四歳になる橋本平蔵さんとわかる

五六年 1981年

四月、歌道家統の冷泉家では、二四代目当主まですべて「為」字を襲ってきたことが判明▼一〇月、人名に使える漢字が増え、常用漢字一九四五字に人名用漢字一六六字を加えた計二一一一字に▼この年、ロッキード事件が起こり、子供にあやかり名「角栄」をつけていた田中某さん、学校でいじめにあっているという理由で改名を申請 *結果は未詳である。

五九年 1984年

▼九月一二日、グリコ事件の犯人が「かい人21面相」と名乗、森永製菓をも脅迫

六〇年 1985年

▼某人形メーカーが当年生まれの女子名を調査したところ、「──子」型は四人に一人の割合へと低下

六一年 1986年

▼第一生命は一一〇〇万名に達する同社契約者の苗字と名前を集計分析した調査結果を発表。

 

平成

二年 1990年

▼人名用漢字が増え二八四字となる▼一〇月、法務省は戸籍人名文字五二〇〇号通達「氏又は名の記載に用いる文字の取扱いに関する通達等の整理について」を発し、浴年一月一日から運用開始に

五年 1993年

▼八月、俗にいう「悪魔ちゃん事件」の端緒となる命名問題が発生

六年 1994年

▼二月、悪魔ちゃんの両親は「亜駆」への改名で一件落着に

九年 1997年

▼六月六日、神戸新聞社宛に男児切断事件の犯人と名乗る「酒鬼薔薇聖斗」なる者から犯行声明文が届く

一一年 1999年

▼七月一六日、略称「地方分権一括法」が公布され、地方自治法や戸籍法等が一部改正となる。戸籍事務の管掌は市町村長に移る

一三年 2001年

▼八月、内閣府の世論調査で、夫婦別姓に賛成する人は四二%余りと、しだいに増加傾向にある

一四年 2002年

▼いわゆる「平成一四年改正戸籍法」成る

一六年 2004年

▼七月、法制審議会は不評の人名用漢字の手直しに着手▼一〇月一三日、川崎市の一女性が亡くなった子の名を戸籍に残してほしい旨、「除籍者省略」という現行戸籍制度の改訂を訴える

一八年 2006年

▼九月二〇日、名を知られ始めたフリーター歌人が、「斉藤(さいとう)斉藤(さいとう)は一応、本名です」とのこと(朝日新聞)▼一〇月六日、橋本聖子参議院議員は、子供にオリンピックにちなんだ名付けをしている。シドニー五輪の年に生まれた女の子は「せいか」、アテネ五輪の年の男の子は「亘利翔(ぎりしや)」、そして先月二八日に誕生の男の子には「とりの」と命名(同日付の朝日新聞より要約)

一九年 2007年

▼二月一五日、本籍地が山形市の一男性(二〇歳)、戸籍が二〇年間も「長女」になっていたのを姉の長女が発見、市側は謝罪して誤りを訂正 

二一年 2009年

▼この年、世に「──くん」付け呼称がはやり始める。芸人の松元ヒロは、自ら憲法になりきるネタ「憲法くん」をかざし公演。

二二年 2010年

▼女優の由美かおるら寅年生まれが一〇三四万人に。干支の縁起担ぎが遠のいた証拠である。▼十二月、幻の絶滅魚とされていたクニマスが山梨県の西湖で見つかる。発見したのは東京海洋大客員准教授で、通称「さかなクン」なる青年。