──養 ──かい

古代の氏または名の下付け呼称。

官名にも用いられた。

参考

●続日本紀四十の巻に、典薬頭外従五位下忍海原魚(ムラジ)養等言。謹スルニ古牒葛木(カツラギノ)襲津彦之(ソツヒコノ)第六子熊道宿禰。是魚養等之祖也。と見えしに、宇治拾遺に、西蕃(カラクニ)より魚に(ノリ)て来れるよしいひたるは、魚養といふ字によりて伝会せし也、魚養は宇乎(ウオ)加比(カヒ)(ヨム)べし。紀中に、馬養(ウマカヒ)牛養(ウシカヒ)犬養(イヌカヒ)鷹養(タカカヒ)猪養(イガヒ)鵜養(ウカヒ)、などいふう氏も名もあるをおもふべし。&松屋叢話・一

改号 かいごう

人の名乗りや号を改めること。また、改めた名乗り、号。

別に、年号を改める場合にも改号という。

外国名由来の名 がいこくめいゆらいのな

往古、わが国へ渡来した人が、彼地での人名に用いた名。

『続日本紀』にいくつか例が見える。

「慶雲元年二月乙亥、従五位上村主百済、改賜阿刀連」(続日本紀・三)

改氏 かいし

〈改姓〉とも。氏姓を改めること。また、改めた氏姓。

現代、〈改氏〉は基本的に戸籍の大原則から逸脱することになり、改氏を法的に認めてもらうには、定められた用件に合致する場合に限られている。☟改姓 ☟改氏の要件、現法

改字姓 かいじせい

姓氏を同音の別字のものに改めること。

昔からあった習慣で、より佳字に、より有名な姓氏の文字に改めている。

参考

●吉川広家陥岩石城事/(*天正十六年六月)翌二十六日、壱岐守、於小倉広家ニ饗膳ヲ被勧ケルニ、旨酒酣、興熟シテ後、壱州、広家ニ向、先年某甲ガ氏、森ノ字ヲ改メ、毛利ニ仕候シ事、偏ニ広家御吹挙ニ依テ、輝元、御許容候ツル、此御恩、礼謝センニ難悉言端候、&陰徳太平記・七十四

改氏の要件、現法 かいしのようけん/げんほ

現在、法律でいう〈改氏〉、いわゆる〈改姓〉を認めるかどうかは、家庭裁判所で判定することになっている。

結婚・離婚による改氏や養子縁組など戸籍法で成文化された場合以外に、本人から改氏の申し出があったとき、家裁は次の要件を裁定基準にしている。

  読み方や文字面が珍奇で、社会生活上支障がある場合(珍氏・奇氏)

  字がむずかしくて読み書きに困ったり、音を聞いても文字の見当がつかない場合(難氏)

  外国人と紛らわしい場合。

  戸籍上とは異なる名字を長年用いている場合(通姓化)

  同姓同名の人がいて、そのために社会生活上の支障がある場合。

  神官もしくは僧侶になったとき、またはやめるとき。

  帰化した場合。

  異性と紛らわしい場合。

改称 かいしょう

名称を新しいものに変えること。また、その呼び名。

人名では、苗字と名を包括して改める場合をさす。よって、どちらなのか示したいときは、〈改姓〉あるいは〈改名〉としたほうがわかりやすい。開化期の明治政府は、国民皆姓を視野に入れていたが、相次ぐ改称や改名の申し出に手を焼いていた。こうした背景から、〈改称禁止〉が現実の課題となったのである。

参考

●御布告書写/○自今諸官員、無余儀次第有之、苗字、通称、実名等相改又ハ通称ヲ廃シ、実名而已相用候等、総テ其管轄地方官ヘ願出、聞済之上、其地方官ヨリ本人在職之官庁ヘ可届出事。/但、華族及奏任以上ハ地方官添書ヲ以、太政官ヘ可伺出事。&太政官日誌・明治四年十月十八日●戯場振付花柳寿助忰由次郎なる者、今般俳優に転業して女形となり、瀬川路之助と改名せりと。又故関三郎養子市川八百蔵なる者、久しく北越に修業なせしが、這回帰京の上亡父の名跡を続で関三十郎と改名し、山村座へ出勤の由なり。&東京日日新聞・明治六年一月八日 *すでに改称禁止令が布告ずみだが、本例の場合は役者の単なる芸名改称であるため、違反の対象にはならない。

改称、官号 かいしょう/かんごう

官号を改めること。

官位昇進などで官号も改まるわけだが、太古には別称に名乗り換えることが流行ったようである。

参考

●参議正四位下中務卿藤原朝臣()(たて)ら、(みことのり)を奉けたまわはりて官号を改め()ふ。&続日本紀・天平宝字二年八月一日

改称禁止 かいしょうきんし

明治五年八月二十四日、太政官布告により国民に改称を禁じた定め。ただし、同苗同名で支障が生じるような場合は、申し出により改称を認可する、としている。

開化という近代化に伴い、また徴兵制との関係で、明治政府は実名による「一人一名の原則」を実施した。この新制度を徹底させる前提に、それまで複名習俗により勝手であった改称を禁止する必要があった。個人の特定という目的のもと、すっきりとした形での人名、すなわち〈一人一名主義〉を不可欠としたのである。

参考

●華族より平民にいたるまで、いまより苗字、名ならびに屋号とも改称あいならず候こと。ただし、同苗、同名にて余儀なきさしつかえこれあるものは、管轄庁へ改名願い出ずべきこと。&太政官布告・第二三五号

改姓 かいせい

カイショウとも。また〈改氏〉〈苗字変更〉ともいう。それまでの姓を新しく改めること。また、改めた姓。

改姓のなかには、大義名分を笠に賜姓形式をとったものも目立つ。たとえば、野見宿禰は垂仁天皇から「土師(はじの)宿禰」を賜りこれに改姓。しかしその末裔の土師宿禰古人らは、土師という鄙びた名義が不満であるとして、桓武天皇に上奏して「菅原」を賜姓され、これに改めている。☟改氏

参考

(*和銅七年六月十四日)若帯日子(わかたらしひこ)の姓は、国諱(こくき)に触れる為に、改めて居地(おるところ)に因りて賜ふ。(くにの)造人(みやつこのひと)の姓は、人の字を除く。寺人(てらひと)の姓は、(もと)、是れ物部(もののべ)(うがら)なり。(しか)れども庚午年籍(こうごのねんじやく)に、居地の名に因り、始めて寺人と(なづ)く。賎隷(せんれい)(わた)らんことを(おそ)る。故に寺人を除きて、改めて(もと)の姓に従ふ。(*読み下し)&続日本紀・六・元明天皇●今の世の人の複姓を、心にまかせてきり、又宇を于と改め、藤を滕と改め、或は我が国に無き司馬諸葛などを、姓とする人もあるは、みな児戯の類にて、其の非は論をまたざる事なるを、此の習俗元禄享保の頃より始まりて、今にては久しくなるまゝに、常となりて、此れを怪み思ふ人も無く、軽俊の子弟の少し文筆の趣を解したる者どもは、かゝらでは雅ならずと思ふ人さえ多きは、笑ふに堪へぬ事也、&時文摘紕

改姓、諱避 かいせい/きひ

奇人・主君等の諱、あるいは名の用字を避けて改姓すること。

参考

●大かた名と云物は、貴きも賎しきも、皆其人を美称(ホメタタ)へたる方にて、名を呼は、其人を敬ひ(メヅ)る意なり、然るを後世になりては、人名を呼を無礼として、諱憚ることゝなれるは、漢国の俗にならへるものなり、古の御世々々に、御名代を定置れしは、右に引る書紀の巻々にも見えたる如く、其御名を物に因せて、後世に広くのこし賜らむとての御所為(ミシワザ)なるを、此孝徳天皇の御代に、其御名を軽々しく呼ことを可畏(カシコ)しとして是を罷られしは、漢意にして、古の御意とは(ウラウヘ)なり、&古事記伝・三十五

改姓、古風表記 かいせい/こふうひょうき

時勢に応じ、旧なる姓を新時代に即して改めること。また、改めた姓。

参考

(*宝亀四年五月七日)その天下の氏姓、青衣(せいい)采女(うねめ)とし、耳中(じちう)()とし、阿曽美(あそみ)朝臣(あそみ)とし、足尼(そくに)宿禰(すくね)とす。(これら)(かく)の如き(たぐひ)、必ずしも(いにしへ)に従はざらしむ。(*読み下し)&続日本紀・三十二・光仁天皇

改姓、雑工人 かいせい/ざつこうじん

渡来人を中心とした諸工人らの姓を庶風に改めさせること。また、改めた姓。

技能者だからといって、姓氏の上で旧姓温存という特別扱いはしないという、同和政策の現れであろう。

☟創氏改名

参考

(*養老六年三月十日) 伊賀国金作部(かなつくりべの)東人(あづまひと)、伊勢国金作部()()忍海(おしぬみの)漢人(あやひと)安得(あんとこ)(*中略)紀伊国韓鍛冶(からかぬちの)(くひ)()(よむいつくりの)名床(なとこ)ら、合せて七十一戸、姓雑工(ざふく)に渉ると(いへど)も、本源を尋ね(もと)むるに、元来雑戸(ざふこ)(しき)に預からず、(より)てその()を除きて、並に公戸(くうこ)に従はしむ。(*読み下し)&続日本紀・九・元正天皇

改姓、父の姓へ かいせい/ちちのせいへ

賜姓を父の姓に改めること。また、改めた姓。

不都合などの理由で、改姓を願い出て許された例がある。

参考

(*天平勝宝五年七月十九日)左京の人正八位上石上部(いそのかみべ)()(しま)ら四十七人(まう)さく、「己が親父(おや)登与(とよ)は、去る大宝元年を以て上毛野(かみつけのの)坂本(さかもと)君の姓を賜はる。而るに子孫(こうまご)らの籍帳(じやくちやう)に猶石上部君と(しる)す、(ことわり)に於て安からず、望み請うは、父の姓に(したが)ひて改め正さんことを(ねが)ふ」と。許す。 (*読み下し)&続日本紀・十九・孝謙天皇

改姓、同音異字 かいせい/どうおんいじ

読みが同じ、文字が異なる姓氏に改姓すること。また、その姓氏。

たとえば、占部→卜部、秦→波太、大枝→大江など、ことに古代では目に付く。近代の改姓の場合、画数占いの影響を受けたものも少なくないが、これは事由不適で認められていない。

改姓、渡来人 かいせい/とらいじん

古代、わが国に渡来した中国、韓国(からのくに)の人たちは、紆余屈曲を経て、国風の姓氏に改姓する例がほとんどであった。

ただし、当時はまだ移入文化が全盛で、わが国独自の表記法である仮名も成り立っておらず、改姓は単なる和訓表記替えにとどまっているものが目立つ。例として、

狛→高麗、占部→卜部→吉田、秦→波田、土師→菅原→惟宗、伊→五百木、百済→多→多野→沢野

外姓 がいせい

一般に母方の親戚をさすが、場合によってはその人たちの姓そのものをいう公称の含みある熟語として使われることがある。たとえば「外姓は佐藤と申します」のように使う。

改正戸籍法 かいせいこせきほう

明治三十一年六月二十一日に公布された旧法を〈改正戸籍法〉と。そして昭和三十年に戸籍法が改正されるまで、この法律に基づく戸籍を〈改製原戸籍〉といっていた。

注目すべきは、女性は結婚後に夫の苗字を名乗らなくてはならない、と規定している点。当時は法文化されるまでもなく、これが当然の社会慣習として受け入れられていた。

戒名 かいみょう

〈法名〉〈法号〉とも。〈戒名〉には、次の二義がある。

⑴僧籍にある者が受戒得度したときに名乗る名。

⑵一般人が死亡したとき、寺僧から付けてもらう名。これは位牌や墓地に記される。ただし真宗の場合、無戒を旨とするため〈法名〉と称している。

右⑵の場合、居士がどうの信士がどうのと、物故者の身分や貧富を如実に反映するため、人によってはこれを無視し、俗名のままでよいと遺言する人たちが増えている。☟法名 ☟生前戒名

「かいみやうをば何とか言はましと思ひけるが、……西塔の武蔵坊とぞ申しける」(義経記・三 *⑴の例)

「もし死に居つたらと思ふから、戒名もつけて貰うて、」(東海道四谷怪談・三幕 *⑵の例)

参考

●今日ノ例、人死スレバ、必ズ剃髪シテ、寺僧ヨリ戒ヲ授ケテ弟子トナシ、埋葬スルコトナレバ、(*割注略)生前ノ俗名ニテハ、仏弟子メカヌユヘ、別ニ没後ノ名ヲ製シ、コレヲ戒名トイフナラン。シカシ仏典ニ授戒ノ儀ハアレドモ、名ヲ授ルコトハナシ、故ニ内外ノ二典ニ、戒名ノ字所見ナシ、然レバ戒名トイハンヨリ、俗ニ従テ法名又ハ法号ナド、生前ニ用フル所ノ称ヲ没後ニ移シテ、法名法号トイフノ穏ナルニ如ズ、&善庵随筆・一●芥川竜之介氏の納棺は今暁四時、ふみ子夫人外二、三人の家族ばかりでしめやかに済ませ、棺を玄関突き当りの八畳の客間に移し、すべて仏式でねんごろなる通夜をした。氏の死を悲しむ文壇の人々は菊池寛氏をはじめ久米正雄、山本有三、久保田万太郎、南部修太郎、佐佐木志茂索、小島政次郎、小穴隆一の諸氏、いずれも二階の芥川氏生前の居室に集まり、端座して終夜何人も一語を発するものもなく、ただ黙々として暁を迎えた。殊に菊池氏は時々ひそかに涙を拭い、何人の質問に対しても明瞭に答える事さえ出来なかった。二十七日午後三時から谷中斎場における告別式は既報の通りであるが、墓碑は個人の遺志により極くささやかなものにするはずである。個人は日頃、静岡竜華寺なる高山樗牛氏の墓所などは非常な悪趣味だといっていたので、墓碑は勿論戒名を付けず、ただ「芥川竜之介之墓」と書くに止め、位牌などもすべて俗名にした。二十四日夜は親族一部の人の希望により日蓮宗の僧侶を招いて読経したが、文壇の人々はあまりにこれを喜ばなかった。二十五日は郷里の弔問客踵を継いだが、泉鏡花、里見弴、わざわざ大阪から上京した谷崎潤一郎の諸氏が仏前に座して祈念時を久しうした。&東京日日新聞・昭和二年七月二十六日夕

怪名 かいみょう

カイメイとも。〈奇名〉〈珍名〉にも同じ。

人にいぶかしがられる名。突拍子もない名。

古くに〈忌名〉としての含みのある命名であった。また『類聚名物考』では、「怪名」を奇字や造字を当てた類、と別建に扱っている。☟忌名 ☟異名

()苗字 かいみょうじ

()苗字を改めること。また、改めた()苗字。今では〈改氏〉または〈改姓〉とみなしてよい。☟改氏 ☟改姓

参考

●小西飛騨守ハ元内藤飛騨守ト云テ、太閤秀吉公ノ臣也、博学ナル故ニ、朝鮮陣ノ時、小西行長ニ副ヘテ遣ハサレ、文事ヲ司ドラシム、合戦大明ニ入テ和議トナル時、小西行長、己ガ名ヲ異国ヘ伝ヘン事ヲ量リ、内藤ヲ改メサセテ小西ト名乗ラセ、大明ヘ使者ニ立タリ、是ニ因テ小西ノ名、大明迄トヾロケリ、&明良洪範・十六

()苗字、入道 かいみょうじ/にゅうどう

僧籍に入り剃髪して()苗字を捨てること。

武士が入道すると、苗字帯刀を捨て去るのが常道であった。苗字を失することも広い意味での〈改()苗字〉である。

なかには引例のように例外もあり、世間の顰蹙(ひんしゆく)を買った。

参考

●入道したるものゝ、姓氏を名のることはなき事なり、入道は僧なるゆゑ、官も僧官なり、国初の頃までは、医師の苗字をのぞきたるなり、寛永の頃より、苗字をいひいで、元禄の頃よりは、院号も苗字をつけて名のる、大かたは玄関につめたる、文盲男に問ひつめられたるより、名乗初めたるなるべし、&南留別志・一●僧侶苗字の事/(*明治)六年四月九日教部省第十六号布達/苗字之儀ハ、各其原由モ可有之処、諸宗僧侶之内、往々釈竺浮屠等ヲ以苗字ニ相用候者有之、不都合ニ候条、右等之分、早々改称可為致候事、/(*明治)六年四月十四日教部省第十八号布達/当省第十六号布達、僧侶苗字云々之儀、取消シ候事、&第二 憲法類編・二十三民法

改名 かいめい

カイミョウとも発する。名を改めること。また、改めた名。

〈改名〉には二つの場合がある。

⑴自分で改名する。

⑵他人からすすめられたり強制されて改名する。

このほか、和気清麻呂のように、時の権力者命令で改姓と改名の双方を経験した者もいる。

現代、人名の変更については、戸籍法第一〇七条にこう定められている。

やむをえない事由によって氏を変更しようとするときは、戸籍の筆頭に記載した者及びその配偶者は家庭裁判所の許可を得て、その旨を届けなければならない。

戸籍上の改名にはさまざまな事由を伴うが、改名届出によって生じた紛争の結論は、最高裁判所の判例に従うことが多い。通称・芸名・雅号など私的に付けた便宜上の名は、改名することが少なくないものの、こちらは付加の別称に過ぎないので、変更は自由である。

参考

●去程に竹千代殿御成人之間、今川殿御前にて元服被成、義元一字を付被申、松平平次郎三郎元信と申、弘治二年正月、義元の御妹聟に関口刑部少輔殿と申て、今川御一家御座候、其聟に元信を被仰付、義元の姪聟に御成被成候、御官途有、松平蔵人元康と御改名被成、清康の康の字を御付被成候、&松平記・一●落語史を飾る志ん生の改名記録/筆名や芸名を付けてはみたものの、気に入ったのがなかなかなく、何度も改名を試みた例はかなりある。さて、昭和落語界の長老、古今亭志ん生(一八九〇~一九七三)は、なんと生涯に十六回も芸名を改めているという。名人気質(かたぎ)が芸名一つにも凝り固まったに違いない。&『笑点 円楽のよろずガイダンス』によると、その改名の軌跡は、

 ①三遊亭朝太 ②円菊 ③古今亭馬太郎 ④金亭武生 ⑤吉原朝馬 ⑥隅田川馬石(ばせき) ⑦金原亭馬きん ⑧古今亭志ん馬 ⑨小金井芦風(一時、講釈師となった) ⑩古今亭馬生 ⑪柳屋東三楼 ⑫柳屋ぎん馬 ⑬甚五郎 ⑭(再び)古今亭志ん馬 ⑮金原亭馬生 ⑯古今亭志ん生(五代目を襲名) *以上、荻生記

改名、上意 かいめい/じょうい

主君名により家臣が改名すること。

いろいろな場合が想定できるが、〈賜名〉と同様である。☟賜名

参考

●小栗又一忠政、はじめ庄次郎といひしが、此戦(*姉川役)の往時わづか十六歳なり、敵兵一人御側近く伺よるを見て、御物の信国の槍取てわたりあふ内に、御勢どもあつまり来て、遂に敵を討取りぬ、君(*徳川家康)庄次郎が、年若けれど心きゝたるを賞せられ、今日の功一番槍にも越たりとて、その槍を給はりけり、その後も度々の御陣に、一番槍を入しかば、又一かと仰有て、名を又一と改めしとぞ、&東照宮御実記付録・二

改名改称の禁 かいめいかいしょうのきん

〈改称禁止〉に同じ。☟改称禁止

参考

●改名改称の禁/同年(*明治五年)八月、華族より平民に至る迄、自今苗字名並に家号供改称不相成、但し同苗同名にて差支有之者は、管轄庁へ願出づべき旨達せらる、&明治節用大全

改名披露 かいめいひろう

役者や芸能人らが改名したとき、宴席を設けたり、特別興行を打ち出すなどして披露目すること。

参考

●今度モリ田座ニオヰテ河原サキ権之助ハ九代目団十郎トナリ、岩井紫ヂヤクハ八代目半四郎トナリ、改名披露トシテ、歌舞伎十八番ノ内、助六揚巻ヲ興ギヨウセル由。&東京日日新聞・明治五年二月二十二日

反名 かえしな

訓読みの名を音読みに替え、これに異字を当てて唐風に作り変えた命名法。また、その名。

たとえば、旅人→タビト→多比等、家康→イエヤス→夜押(エヤツ)(スウ)といった例。〈反名〉は言葉(ことのは)占いの縁辺にあるといえよう。

参考

●反名/公卿補任云、大伴宿禰旅人、天平二年十月朔、任大納言、改名談等、今按、名をあらためられしとあるは誤なり、旅人を、淡等とも、多比等ともかゝれたるは、史を不比等とかき、馬飼を宇合など描れたる類にて反名なり、此反名の事、その比はやりたると見ゆ、万葉第五、天平元年十月七日に、大伴淡等謹状とあり、二年と元年の字にも心をつくべし、そのうへ続日本紀聖武紀に、旅人薨とあれば、始終あらためられぬ事明らかなり、反名といふ事を知らぬ人の所為なるべし、又安積覚字覚兵衛より文の次で、中古にも、紀長谷雄を発昭とかき、三善清行を居逸と書申されて候、&年山紀聞・三●古書に、三善清行卿を、起与也寿(キヨヤス)とよみて、反名居易とみゆ、(*中略)橘逸勢を万佐奈理(マサナリ)とよむよし、神鏡抄を引て和漢三才図会にいへるも類せり、常に清行をきよつら、逸勢をはやなりと訓むは非歟、&閑田耕筆・二

替字名 かえじな

名の一部または全部を同じ読みの字に替えること。また、その名。

たとえば正人→雅人、まち子→真知子のように。

代名 かえな

⑴〈替名〉とも書き、〈代称〉ともいう。

本名に代えて用いる名。

一般に〈変名〉と同義で、別号や異称のように、より範囲の広い用法ではない。☟代称

何人(だれ)偽名(カヘナ)したのじやないか知ら」(『良人の自白』前編・十二・二、木下尚江)

別に、遊里で遊女が相手の名の一字をもって呼んだり、客が遊女の源氏名を呼ぶときにも、⑵「代名」という。

「男の名にても、我かへ名にても、片仮名にて書事くるしからず」(『色道大鏡』九)

替紋 かわりもん

代用に用いた家紋。

意匠替えして図案化したものである。

参考

●予(*柳沢里恭)がいとけなきときまでは、(*中略)提灯に変わりたる紋を印とせしが、そのこと流布して、誰も〳〵かはり紋をつけざる者なし、&雲萍雑志・三

花押 かおう

〈華字〉〈花字〉〈花書〉とも。草書体による署名。

〈花押〉は平安中期に出現、独特の図案化により判読不可能なほどに崩される。その意匠によって「草名体」「二合体」「一字体」「別用体」などに分類される。

平安後期には、源頼子のように女子も花押を使いはじめ、次第に普及していく。古文書などによると、法制上は印章よりも花押のほうが優位にあったという。

参考

花押(クハアフ)のことを判と云は、判の字はわるくともわかつともよむ字なり、花押を以て我書たる物、人の書たる物を明にわかつ為なる故判と云也、&貞丈雑記・九

家格 かかく

〈家柄〉とも。家の格式、等級。

〈家格〉は官位の昇進などに大きな影響を与える一因であった。

参考

●ある時秀吉公、(*中略)藤原氏をやのぞみみんと申されしかば、いとたやすき事なりとて、近衛殿(*前久)より其御はからひ有ける時、玖山公(*九条植道)聞召、五摂家ともにいづれも今甲乙はなけれども、氏の長者とせらるゝことは当家にきはまりたる事なり、近衛殿の御まゝにはなるべからずととがめさせ給ふに、&戴恩記・上

家格、摂家 かかく/せっけ

摂家における家格。

参考

●左府御最後附大和国御嘆事/左大臣殿(*藤原頼長)失セ給ヒテ後ハ、職事弁官モ故実ヲ失ヒ、帝闕モ仙洞モ、朝儀廃レナントス、世以テ惜ミ奉ル、誠ニ累代摂録ノ家ニ生テ、万機内覧ノ宣旨ヲ蒙、器量人ニ超、才芸世ニ聞へ給ヒシガ、如何有ケン、氏長者タリナガラ、神事踈ニシテ威勢ヲ募レバ、我不朋由、春日大明神ノ御託宣有、神慮ノ末コソ恐シケレ、此左府未弱冠ノ御時、仙洞ニテ通憲入道ト御物語ノ次ニ、入道、摂家ノ御身ハ、朝家ノ御鏡ニテ御坐セバ、可有御学文由進メ申ケリ、依之信西ヲ師トシテ読書有テ、蛍雪ノ功ヲゾ励給ケル、&保元物語・二

加冠 かかん

元服した者が冠を着する儀式。また、その役をつとめる人。

これと時をおなじくして烏帽子親による〈一字書き出し〉という命名儀式も行われる。

参考

●近衛信基御元服并信長公御加冠事/同(*天正五年)後ノ七月六日、大臣家(*織田信長)御上洛、二条新造ノ御所御移徒、同月十二日、近衛殿下前久公ノ公達ノ御方御元服、加冠ノ儀、大臣家ヘ御所望ナリ、往古ヨり禁裏ニ於テ御元服、通例ノ事ニ候間、当時最其例然ルベキノ由、大臣家再三御辞退候トイヘドモ、頻並に御所望黙止ガタク、是ニ依テ是非ニ不及、大臣家御加冠ナサレ、公達今日御元服、一字ヲ進ゼラレ、信基ト名付ラレ、其儀式厳重ナリ、&総見記・十七

書印 かきじるし

書判(かきはん)〉ともいう。〈花押〉に同じも、後世に略式化され、木彫印で代用するようになった。☟花押

参考

●いま書判といふものは、花押とも、草名ともいひて、唐朝におこれり、みなみづからかきつけしことなるを、武門にはその書判を木にほりておし、このうへを墨にてぬることになれりしは、本義をうしなひたることなり、&橘窓自語・二

民部 かきべ

部曲(かきべ)〉とも書く。大化改新前、朝廷の部の一つで、豪族の私有民で構成された。蘇我部や大伴部など豪族の氏に部を加えて名字としたものである。

「大連等民部(かきべ)広く大きにして国に充盈(みて)り」(雄略紀・二十三年)

架空人名 かくうじんめい

この語については、広義・狭義の使い分けが必要である。

広義……まったくの架空による、実在しなかった人物名。「かぐや姫」など、物語の主人公に多い。

狭義……伝承を軸に半架空化された実在の人物。「弘法大師」「源義経」など。これらにはなかば創作された人物像をも含まれる。

隠し名 かくしな

作中人物などに創作して仮に付ける名。また、実名を出したくない場合に用いる仮の名。

〈匿名〉の意味もあり、〈変名〉や〈筆名〉も隠し名とみなせる。☟作名(つくりな) ☟匿名 

「あるひは匿名(カクシナ)の書を送りて其様子をしも尋ぬるものから、」(小説神髄・下・脚色の法則、坪内逍遥作)

参考

●秋篠月清 あきしのゝつききよ/後京極良経公のかくし名なり、揚名に書出されしが、あまり面白き名なれば、人もおぼえて、やがて御家集をも、月清集とぞいへりける、&類聚名物考・人物十八●此程浅草田甫の六郷の屋敷に旅宿相成居候勅使上野山内え旅宿替被致度旨にて、官軍方より東叡山え掛合、大砲等引入れられし処、日光宮様御不承知にて其こと遂に止みたり。官軍方上野を囲むこと、十九、二十、二十一日、都合三日なり。其時山下三橋の欄干に、左の張札をはれる者あり。/昨日以来東叡山え官軍と相見へ大砲小銃を以て何か御応接の御模様、右は如何の御主意か相分り兼候得共、(*中略)御法体の御身え迫り奉るは勤王の名を仮りて、国を私するに相当り、有志の徒竊に疑惑をいだき申候。依て此段御忠告申上候。以上/四月二十日/道路盲人&公私雑報・慶応四年閏四月二十九日

隠し苗字 かくしみょうじ

ふつうは戸籍上の苗字とは別に、万一に備えて持っている苗字をいう。

明治開化期の〈国民皆姓〉に伴い、平民の間では、自分の苗字を忘れたため他人の苗字を借用したり、事情で苗字を変えるといった事態が生じた。これらの場合も拡大解釈して〈隠し苗字〉といっている。なかには文字通り、それまでひた隠しにしておいた苗字をもつ者も発見されている。物知りな横丁のご隠居や寺の住職から、二つ三つの苗字を授かったという例もあった。

学籍簿 がくせきぼ

生徒の氏名・生年月日・原籍などを記録した学校保管の帳簿。これは旧称で、昭和二十四(一九四九)年から〈指導要録〉に改称された。

学齢簿 がくれいぼ

市町村・特別区の各教育委員会に義務付けられている備え付け帳簿。管轄区域内の義務教育就学児童、生徒に関する情報資料で、学校教育施行例二条の定めに基づく。

勘解 かげ

〈勘解由〉の下略。

新保勘解人(かげと)といった例。☟勘解由

家系 かけい

家の系統。血筋。

血統のつながりを示す象徴である。新民法の改正いらい〈家系〉の重さは薄れつつある。

家系偽称 かけいぎしょう

家系を偽ること。

「慶安の変」の首謀者由井正雪は楠正成の末裔と系図を演出、偽称し、数多の門弟を集めたことで知られている。〈家系偽称〉が犯罪目的などに使われると「家系詐称」という呼称になる。

蔭の名字 かげのみょうじ

江戸時代以降は〈蔭の苗字〉と表記する。〈(かばね)〉の別称。

本来の氏姓に名字が割り込んできて、用法に混乱をきたした結果、鎌倉時代ないしは室町時代に出来た言葉である。〈蔭の名字〉には、氏姓に比べ「本物でない」という意味あいがうかがえる。その現れであろう、現代では〈苗字〉という用語そのものが死語に向かっている。☟姓

勘解由 かげゆ

平安末期、人事監督の任にあった官職名「勘解由使」が後世、幕吏の通称に取り込まれたもの。

江戸時代に単なる武士の名として、たとえば盗賊改役に任じられた中山勘解由など、かなり広まっている。

仮号 かごう

カリノゴウとも発し、「号」の別称である。

号そのものが仮の名であるため、畳語性のある言葉で、今では死語になっている。

家号 かごう

〈家の号〉とも。正規の氏とは別に、苗字の頭に付けたりして用いる一家の号。

〈家号〉には、志濃夫廼屋(しのぶのや)←橘曙覧(あけみ)、桂園←香川景樹、夾竹桃(きようちくとう)書屋(しよおく)←伊藤左千夫などがある。なお家号については、氏姓系の虚飾性ある用法混同で錯誤を生じる場合が目立ち、左記にその指摘が見える。

参考

●堂上方ノ、近衛、一条、二条、九条、鷹司、花山、徳大寺ナド云ヘル類ヲ氏ト心得テ、藤原定家氏冷泉、藤原房嗣氏近衛、藤原教平氏鷹司ナドヽ書キシ書アリ、是レ藤原ヲ姓ト思ヒ、二条鷹司ノ類ヲ氏ト思ヘルナリ、是俣誤ナリ、アレハ各其家号ナリ、氏ニハアラズ、堂上方ニテハ、今トテモ其義明ラカニテ、御自身ニモ、近衛一条二条ナド云ヘル類ヲ氏トハサラ〳〵心得玉ハズ、只其家ノ号ナリト云コトヲ御存知ナリ、&過庭紀談・三●名字が違ふから同家でないとはいへぬ/大昔にも姓氏といふものは歴然と存して居る、即ち源・藤原といふのが氏であつて、朝臣とか宿禰とかいふのが姓である。是は何れの家に取つても極めて重大なもので、平生は名字で呼んで居る人でも、表向の文書では非礼にならぬ限り之を倶記したものであります。この姓氏といふものが(まさ)しく支那の王とか劉とか、陳とか張とかいふものに当るのであります。唯彼邦では()にも晴にも其姓を使ひ、日本では国柄が単純で姓氏の数が少ないので、弁別の為に起つたのであらうが、平素には家号のみを用ゐて姓氏を称へなかつたのであります。しかもこの家号なるものが極めて頻々に取換られ、殆と屋棟の数や竃の数ほど多くあるのです。随つて今日の名字即ち家号が違つて居るから、同家でないといふ思想は、日本の昔の社会状態とは合せぬ思想であります。/然るに御承知の通り、近代ではなるべく家号を変へない傾きになつたが為に、殊に民法では矢鱈に之を変更することを許さぬことになつた結果、一族一家の家号は、ただ一個に限るかの如き思想を生じたのであります。&『名字の話』

雅号 がごう

文人、学者、画家、書家や風流人らが実名のほかに文雅の趣で付ける名。

中国から伝来の異称命名手法である。〈ペンネーム〉も〈雅号〉のうちに入る。雅号は特定職業的な含みが濃く、たとえば役者や軍人が僭称したり、気取って付けたりしても雅号とはいわない。

有名な人物では、井原西鶴(平山藤五)、松尾芭蕉(松尾宗房)、山東京伝(岩瀬田蔵)、尾崎紅葉(徳太郎)、三島由紀夫(平岡公威)、山本周五郎(清水三十六)、荒木田麗女、井上通女(たま)など。

「だが考へて見たら、一人前の文士にも成らないものが、麗々しく雅号をつけるなんかテレ臭いので到頭本名で通してしまつた。」(「名前の話」萩原朔太郎、日本の名随筆・別巻二十六)

参考

●雅号/文人の雅号を用うること唐の白香山(名居易字楽天)などや始なるべき、宋に至て稍多く元に至ては殆んと文士にして号なきはなきに至る我邦漢儒者の之に倣へりしは、慶長の頃、藤原惺窩(名粛字歛夫)などに始まれるか、&明治節用大全●態々御披露に及ぶほどの事もありませぬが、小生(*堺利彦)は、今後雅号といふものを用ひぬ積りです。即ち、枯川というといふ名を廃します。其の理由はと云つて、別に深い意味もありませぬが、軽薄な少年や、大臣や軍人や金持などまで、それぞれ一つづゝ不熟なキザな俗悪な、号といふものを持つて居るのを見ては、何だか頻りに厭気を催し、それにつけては、我が趣味好尚の俗悪な部分、キザな部分不熟な部分を、鏡に照して見せつけられるやうな気持もして、モウ大分以前から、何となく不快不安を感じて居たのであります。それで、今後は、諸君に於かれても、成るべく此の枯川といふ変な名を、御用ひ下さらぬやう、御願申上ます。&直言・二・第二十三号、明治三十八年七月九日

過去帳 かこちょう

〈鬼籍〉〈点鬼簿〉などともいう。寺や自家に保存している物故者の名寄せ簿。

 故者の俗名、戒名、没年月日など位牌等に記載の事項が記されている。記録とともに故人の冥福を祈る目的がある。家系ルーツを調べる上で、欠かすことの出来ない史料である。しかし、寺の〈過去帳〉は、他檀家のプライバシーにも関わることなので、第三者の直の閲覧は原則として断られる。

参考

●老父夜話記/讃州ニテ、故キ物ノ譬ニハ、島田寺ノ過去帳ノヤウナド雑人ノ口スサビ也、(*中略)此寺ハ綾公世々ノ氏寺ニテ、過去帳ノ伝来久シ、綾氏ノ系図、不分明トキハ、此過去帳ニヨリテ究明ス、故ニ寺ノ恰割トシテ、経論ヨリモ大事ニスル也、&南海治乱記・十七

過去帳俳諧 かこちょうはいかい

物故した人名折込の遊び要素が目立って多い連句。また、その連句の巻。

「人名の多き懐紙を過去帳俳諧として前代より嫌侍るよし、次の付句迄をそこなふ者とぞ、」(毛吹草・一)

花山源氏 かざんげんじ

〈伯家〉〈白川神祇王家〉とも。源氏の一系で花山天皇の曾孫・顕康を祖とする。「神祇伯」なる官職を世襲、〈王号〉の名乗りが許された。

華字 かじ

〈花押〉に同じで、別に〈花字〉とも書く。☟花押

佳字転換 かじてんかん

それまでの姓名の音はそのままとし、文字だけを気に入ったものに変えること。

たとえば斎藤という姓はありきたりすぎるという理由で、「西東」に変える。冷子という名を「麗子」に変えるといった例である。

仮称 かしょう

正式な名称に変わり、一旦仮の名を付けておくこと。また、その名。

佳称 かしょう

〈佳名〉に同じ、〈嘉称〉と当てることもある。よい名。☟佳名

雅称 がしょう

人名の場合、風雅な名前や号をさす。

頭字 かしらじ

人名では、姓名の始めにくる文字。

「お名はこなたさまのかしら字、新左衛門さまをかたどり新太郎さま、」(好色一代女・五・四)

主計 かずえ

律令制下、主計寮長官である主計頭(かずえのかみ)の略。のち大石主計など、通名に転化した。

花族 かぞく

〈花族ノ家〉に同じ。

参考

●澄憲賜血脈事/爰ニ行歩ニ不叶老僧、若ハ花族ノ就学者、此事イカヾ有ベキ、日来は一山の貫首(*天台座主明雲)タリトイヘ共、今ハ流罪ノ宣旨ヲ蒙給ヘリ、横ニ取ノボセ奉ル事、違勅ノ咎難遁カト様々僉議アリ、&源平盛衰記・五

華族 かぞく

〈清華家〉の別称。明治二年に新設された身分称号で、皇族と士族との中間に位した。後に爵号を与えられるなど、四民平等の国是とは裏腹に、いろいろな特権や恩典が与えられた。

参考

●六月中旬御布告写/官武一途上下協力の思召を以て、自今卿諸侯の称被廃、改めて華族と可称旨被仰出候事。但官位は是までの通たるべき事。/六月/行政官&中外新聞・明治二年六月十九日

家族同一苗字 かぞくどういつみょうじ

明治九年、明治政府は家族の姓を戸主と同一苗字にすべし、という布令を出した。これによって、父子兄弟間で異姓を名乗ることは禁じられ、あわせて分家が本家と異なる苗字を名乗ることもできなくなった。このことは、天皇制体制に伴う家父長制の強化という、まさに国家主義思想の反映であった。

花族ノ家 かぞくのいえ

〈清華家〉の別称。

参考

●宗盛補大臣并拝賀事/寿永元年九月四日、前右大将宗盛、大納言ニ成返給テ、ヤガテ十月三日内大臣ニ成給テ、大納言ノ上臈五人ヲ越給ヒキ、中ニモ徳大寺ノ左大臣実定ハ、一ノ大納言ニテ、才学人ニ勝レ、花族ノ家ニ伝リ給ヘリ、被越給ケルコソ不便馴れ、&源平盛衰記・二十八

偏諱 かたいみな

音読みでヘンキとも。〈偏諱〉には、次の二義がある。

⑴貴人の二字名のうちの一字。☟一字

⑵天皇や貴人の諱を憚って、その文字を自分の名に用いないこと。

  ともに、時とともに家父長や目上の者へと、意味範囲が拡大していく。ことに幕閣体制が整った時代は、主君が家臣に偏諱を与えることが流行り、忠誠心固めの手段に利用された。たとえば室町十二代将軍の足利義晴は武田晴信に「晴」の一字を与え、その晴信(信玄)も家臣の小山田信茂に「信」の一字を偏諱している。女子も、たとえば藤原周子(ちかこ)の場合のように、父の名伊周(これちか)から偏諱を受けている。

肩書 かたかたがき

氏名を装飾する地位、身分、称号などの総称。

〈肩書〉の誇示は、人物をかえって小さく見せることが多いで、自称と他称とを問わず、必要以上に用いないほうが賢明である。

「元帥陸軍大将大勲位功四級邦彦王殿下、本日午後零時二十九分、静岡県田方郡熱海町久邇宮邸において薨去あらせらる。/昭和四年一月二十七日/宮内大臣 一木喜徳郎」(宮内省告示)

片名 かたな

二字の名のうちの一字。主君や父祖からもらった〈一字名〉(通し字)をさす。

別に、二字名のうち一字を略して呼ぶときにも〈片名〉という。純一郎という男を、親や友人が「純」と呼んだりする場合である。

〈通し字〉として、皇室の「仁」をはじめ、源氏の「頼」「義」、平家の「正」「盛」がよく知られている。☟偏諱

「汝を鷲尾三郎といふべし、名乗は我が片名に父が片名を取りて経春と付くべし、片岡と同名なれども多き人なれば事かけじ、」(源平盛衰記・鷲尾三郎一谷案内之条)

参考

●かたな/二字有る名の一字を片名といふ、今俗に左衛門といふこと左衛とも或は衛門とも書くをもまた片名といふなり、&類聚名物考・三●取父祖片名以名子孫事/こは延喜天暦の年間(ころ)より、その(きざし)見えたり、しかれども藤氏に、時平、兼平、忠平、仲平の如き、兄弟(はらから)その名に、ひとしく平字を(つけ)玉へるのみ、祖父の片名を取玉ひしにはあらず、平家には、貞盛、繁盛あり、これも兄弟なり、円融花山のおん時に、源氏に、満仲、満季、満快(みつよし)、満重あり、これもまた兄弟なりき、爾後(そののち)、頼信、頼義、義家、義親、平家には、正度、正衡、正盛、忠盛に至て、父祖の片名を取ること、(つね)になりぬ、唐山(からくに)にも、父祖の名を(つぐ)こと、稀にあり、さりとて、その()のごとくにはあらず、(こと)は日知録巻二十三に見えたり、文多ければ載ざるなり、本書に就きて見るべし、しかはいへども、よに人の弟子(をしへこ)たるもの、その師の片名を取ておのが名とし、或は亡師の名号(みやうがう)を受つぐ事、ふるくは和漢に所見なし、(*中略)浄土宗の誉字、日蓮宗の日字は、これらを濫觴(らんしやう)とすべし、それより又おし移て、巫医(ふい)百工、及文人墨客まで、各その師の名号を、一字わが名に受つぐなるべし、&玄同放言・三・人事二

片名()字 かたみょうじ

室町から江戸時代に、苗字や官職名を略して呼んだこと。また、書状などで略称した名()字。たとえば在原業平を「在五中将」としたり、本田伊勢守を「本伊勢」 と称した例である。

参考

●書状に、人の名を片苗字に書くを、うやまふ礼とする事、古はなき事也、近代のはやりことなり、古は貴人の名には、一向苗字をば不書、其次少うやまふ人は、苗字をば二字共 に書て、一体の文言脇付にて、うやまふ礼はなあるなり、&貞丈雑記・九・書札

家長権 かちょうけん

〈家父長権〉とも。かつての家父長制下、家長として家族を統率し、家の財産等を管理する権利。

旧民法では、戸主に対しその権利が与えられていた。

甲子ノ宣 かっしのみことのり

天智天皇三年、甲子の年に天皇が断行した改革令。

氏姓制度も対象になり、律令制ならびに後の〈八色(やくさ)(かばね)〉制定の基礎づくりとなった。

葛城氏 かづらきし

古代姓氏の一で、地名に由来。孝謙天皇の子孫とされ、大和国葛城地方を本拠とした豪族。

本拠地に馬見古墳群の遺跡があり、往時の勢力のほどを物語っている。

家督名 かとくな

父祖代々、長子等に家督継承の念を入れた幼名。同名か類名とすることが多い。

徳川家は〈家督名〉の面でも徹底していて、家康の幼名「竹千代」を中心に、祖父清康が竹千代、父広忠は仙千代、家康の長子信康(のち切腹)も竹千代、第三子の秀忠も竹千代、そして三代家光も竹千代、四代家綱も竹千代である。

門の名 かどのな

〈門院号〉とも。☟──門院

門の礼帳 かどのれいちょう

〈年始帳〉とも。年賀客に名前を記してもらうため、玄関先などに備え付けた帳面。

「門の礼帳 正月門に礼帳出し置て来客の名を記さしむること唐山(もろこし)にもある事也」(俳諧歳時記・上・正月)

カナモジ名 かなもじな

近代、氏名を仮名文字で表記しようという提唱により実践された運動。また、その仮名表記による称号。

明治に端を発した「カナモジカイ運動」から派生した主張で、現実性が薄く、昭和に入ると一顧だにされることなく消滅した。

金偏の字 かねへんのじ

干支による生まれ月日の迷信から、生まれた子に縁起をかつぐために金偏の名を命名する慣わし。また、その名。次の一文が参考になる。

参考

●昔なき事にて、近来世上一統になりしは、庚申日ある月に生れたる小児は、男女ともに金偏ある字の名を付くる事となれり、そは庚申は金なる故の義なるべけれど、甲乙丙丁戌己壬癸などある月に生れたる児の名に、木偏火偏土偏三水などの字を付くるにもあらざれば、金偏のみ用ふるもうきたる事なり、凡一年十二箇月の中に、庚申日ある月は六ケ月也、されば千人のうち五百人金偏の字を付くべきをさもなきは、俗説に迷う人も、欺かれぬ人もまたあるべし、&燕石十種うち「神代余波」中

尸 かばね

字義の解釈について、

⑴尸は〈姓〉の単なる当て字に過ぎず、意味は同じ呼称である。

⑵尸は〈姓〉とは異なる呼称である。

この両説に大別できる。しかし異説紛紛で、語釈は混乱状態にある。

参考

●苗字或問/姓と尸は別歟、答云、性の和訓加婆祢なり、日本紀に見えたり、尸と書は仮字なるべし/亦問 姓をかばねと和訓せし事、その義如何、答云、加婆祢は不易の義にて、加婆良祢歟、亦加婆保祢にて皮骨の義なり、姓氏はなほ父祖の皮骨のごとしと一友人いひけり、今按ずるに、新撰姓氏録の序に、氏骨とあれば、この義ちかし、中葉文脈と唱るも同意歟、&燕石雑志・五下●尸といふ事は、異国にはなき事なり、族といふ心なり、氏族の貴賎を分てるなり、同じき姓にても、朝臣をなのる家もあり、真人をなのる家もあり、宿禰をなのり、連をなのる家もあるなり、&南留別志・三●国史二、カバ子ノコトヲ、尸ノ字モ書キ、姓ノ字ヲモ書キ来レリ、姓ノ字ヲカケバトテ、カバ子ノコトヲ姓氏ノ姓ト思フベカラズ、カバ子ハ爵ノ類ニテ、爵トモ同ジカラズ、段々ノ階級アリテ、首尾ガヨケレバ段々ニ改マリテ上ル、首尾ガ悪シケレバ奪ハレモスル下リモスル、何事ナケレバ代々モナノル、姓氏ノ姓トハ格別ノコトナルヲ、古人謬リテ姓ノ字ヲ用ヒ来リシ故ニ、凡ソノ国史ヲ看ル時、紛ラハシキコトアリ、混ズベカラズ、&過庭紀談・三

姓 かばね

漢音読みでセイとも、呉音読みでショウとも発する。

(かばね)〉と和訓で読む場合は、古代の豪族が権力や地位を誇示するため世襲した称号であることを意味する。その数三十種に近く、権勢の頂点にあった朝廷が与奪権を握っていた。天武天皇が朝臣に与えた「八色(やくさ)(かばね)」はその顕示の典型といえる。これがセイまたはショウと発するときは、士族の官職の格や家柄を象徴する氏つまり〈家ノ名〉をさす意味となり、カバネとは別に使い分けられていた。

しかしその語原や表記については、中国古書にすら確とした由来が見当たらず、わが国においても古典から現代まで、我論百出で決め手になるものはない。たとえば、氏人が氏上を呼ぶときの尊称説、寄合等で席次などが決まる位階象徴説、姓の字を解くと女に生で母系社会の名残りとする説、あるいは氏の身分差に応じ天皇が氏上に授けた序列賜姓説など、など。

よって本書では、古代人名称の性質がはっきりしている場合を除いて、包括的な用語〈氏姓〉か〈姓氏〉を使うことにする。ここでは、いささか長いが、最も丁寧と思える『類聚名物考』の記述を引いてみた。☟氏姓 ☟八色ノ姓

参考

●骨名 かばね/かばねは人の骨骸にて、一身の本とする所にして、天地の金石有が如く、家屋の柱楹あるに似たり、然るに此事、西土の書には准拠べきものなし、姓氏の字を借りて書たれども、その事やゝ異なり、たとへば今世俗の符券(フテウ)といふが如く、目しるしにするやうの事なり、先祖の功労、我身の勲功によりて賜る事あり、又一等すゝみて升る事も有なり、今公家にて清花羽林名家などいふ様の階級の有如く、江戸にても公家衆と云、両番筋大番筋といひ、又は甲府衆桜田衆などいひ、参河御譜第といふが如き、その筋目によりて、それ〴〵ノ符牒をつけて、人にもしらせ、その家の矩模とも成様の目印にせし事なり、それより立身すれば、宿禰より朝臣にも進み升るなり、御目見以下より以上に進み、地下より殿上人に成といふの類ひなり、さてその加波祢といふ詞の意、しるせしものいまだ見当らず、なにの故なる事を詳にせず、賀茂真淵の説には、阿加馬奈の意にて、阿は発語にて米を婆に通はしいへるならん、馬は呉音め、漢音ばなれば、相通ふ事にて、崇名(あがめな)の事なるべしといへり、是又その由故有ともいふべし、しかれども古書にいまだ出さず、続日本紀第十八に、孝謙天皇の御世に、雀部朝臣真人等が上表して、その先祖のかばねの事をいへる事有、そこに骨名と有、是徴とすべし、加波祢奈の祢奈を約めて、祢とのみいふなり、姓氏はいへば相かねて借字に出たれども、実は骨名にて、あきらかにその故由は志るゝなり、さればこそ続日本紀二十九称徳天皇神護景雲三年五月丙申、宣命に云く、丈部姉女乎波、内、官位与給根可婆祢(ネカバネ)改給治給云々、是根かばねと書しにて、その意いよ〳〵明らかにして、人に骨あるが如くなるにたとへたり、骨の訓は、大根の意なり、或人は人根成べしといへれど、骨は禽獣皆有、人に限らず、&類聚名物考・姓氏九●かばねを廃す/明治四年十月十二日の太政官令にて、位記官記及びいっさいの公文に、姓尸(かばね)を除き、氏名を署せしむることゝなす。姓尸とは朝臣宿禰の類にて、もと、各家の尊否、職掌の源流等を知るべきものなれども、現代は、名のみ存して、実用さるゝこと稀に、たゞ、新年御歌会始の歌を奉献する者が、懐紙に、藤原朝臣誰某、大連誰某など記す者あるに過ぎず、事実上は廃止同様なりしなり。(*後略) &明治事物起原・上  

姓、外国名に由来 かばね/がいこくめいゆらい

渡来人に与えられた外国風の賜姓。

上代から大和時代にかけて、渡来人になじみやすいように、あるいは外国人の出自であることをはっきりさせるために、時の天皇が命名した。古文書に「新良貴(しらき)」「韓国連(からくにのむらじ)」「止美連(とみのむらじ)」などの名が見える。

姓、古代の類型 かばね/こだいのるいけい

古代の氏姓は、それぞれの特徴的な性質によって、次の六類型に分けられる。

  地名にちなむもの

紀朝臣、出雲臣など

  職業にちなむ型

中臣朝臣、土師宿禰など 

  部名にちなむ型

舎人部、神人部など

  下に「人」が付く型

江人、神人など

  下に「族」が付く型

語部君族、県主族など

⑥ その他、動植物等に由来の型

姓、植物名に由来 かばね/しょくぶつめいにゆらい

命名時に植物にゆかりのある物事から姓とした例である。

この類型はさまざまで枚挙にいとまがない。『日本書紀』十二・履中のなかに、履中天皇が花見の遊宴で玉顔うるわしく、その地を稚桜宮と名付けられ、氏上らに「若桜部造」や「稚桜部臣」の賜姓を与えられた話。『新撰姓氏録』左京神別には、景行天皇が田の中に一夜にして生えたきのこを食され、「菌田連」の姓を給わったという話、など。

姓、諸国名に由来 かばね/しょこくめいにゆら

祖人が生まれ育ったなど、地名に由来して姓とした例である。きわめて多彩な類型で、古典文学にも多く見受けられる。

参考

●たけしばのをのこに、いけらん世のかぎり、武蔵の国をあづけとらせて、おほやけごともなさせじ、たゞ宮に、その国をあづけ奉らせ給ふよしの宣旨下りにければ、此家を内裏のごとくつくりて、すませ奉りける家を、宮などうせ給ひにければ寺になしたりけるを、たけしば寺といふなり、その宮のうみ給へるこどもは、やがてむさしといふ姓をえてなん有ける、&更級日記

姓、神名に由来 かばね/しんめいにゆらい 

崇拝する神の名にあやかって姓を命名された例。

普通は畏れ多いとして多くの例は見られないが、『三代実録』には「八多朝臣」「宗我宿禰」など五、六例が載っている。

姓、動物名に由来 かばね/どうぶつにゆらい

動物にちなんだ姓の命名例。

古書に多くの例が見え、なかでも『日本霊異記』の説話はこの類の宝庫である。また『新撰姓氏録』左京神別のなかに、「額田部」という献上馬にちなんだ允恭天皇の賜姓のいきさつが見える。

姓、「非人」 かばね/ひにん

引例に見るように、古代には〈非人〉という姓があった。文章から見て、紛れもない〈罰姓〉である。

参考

●いにしへは、非人という姓さへありたるなり、橘逸勢を伊豆国へ流されたる時、橘氏を改めて、非人の姓となし給ひ、数年の後、其の子を召帰されて、非人の姓を改めて、本姓に復されたること、続日本後記に見えたり、&夏山雑談・五

姓、物名に由来 かばね/ぶつめいにゆらい

物品にちなんだ姓の命名例。

上代、物神崇拝による命名も少なく名かった。『新撰姓氏録』中に多く、右京皇別に「笠朝臣」、河内国神別に「襷多治比宿禰」、和泉国皇別に「大家臣」(大家=大きな家)といった紹介が見える。

姓、苗字兼用 かばね/みょうじけんよう 

苗字が兼用になっている姓。

判別はやっかいで、研究者を除いてこだわる必要はない。

参考

●田中、大石、田口、三枝、巨勢、服部、石川、滋野などの類、苗字なれども、姓なるべし、内藤、斎藤の類もあるなれば、別に姓を求むるは僻事なるべし、&南留別志・一

尸書 かばねがき

人名に尸の呼称を書き記すこと。また、その書き記した呼称。

これも当然のことながら、姓と尸との解釈の相違によって見解が分かれていたため、位階相当の〈尸書〉に乱用があったようである。

参考

●尸書/是尸書トハ、朝臣真人宿禰ナドヽ書コトヲ尸書ト云也、是ハ位署ヲ書時ノ事也、公卿ハ姓ト実名ヲ書載也、四品ノ輩ハ、朝臣真人宿禰ナド書也、&故実拾要・八●正六位上行左衛門少尉平朝臣々々事/六位ながら姓につけて朝臣と尸を書事の不審也、姓に付て尸を書事、昔は六位七位迄も許之、然処後鳥羽院の時代以来禁制也、其比は五位にも堅被制之、四位は書之、右之位署は、古体を摸歟云云、是又子細可請尊意也、&多々良問答・二

姓と氏の相違 かばねとうじのそうい

姓と氏と。

双方の解釈相違は学識者によって見解が微妙に異なる。大局での意味合いは〈姓氏〉にほぼ同じ、と見てよい。

参考

●姓も氏も元一つなり、姓は体にて氏は用なり、しかれどもわかつていへば、源平藤橘は姓なり、姓は万世までかはらず、新田、足利、北条、菊池、楠は氏なり、これは所により代によって、かはることあり、故に源氏、平氏、藤氏、橘氏とはいへども、新田姓、足利姓、北条姓、菊池姓、楠姓などとはいはざるなり、&公益俗説弁・十九・人物并官職●姓氏と云事、姓氏の二字ともに、何れもうじとよむ字なれども、分けて委くいふ時は、姓は朝臣、真人、宿禰、連等也、氏は源平藤橘の類也、其後其子孫、別に名乗る号は、氏をかさねたる也、源氏の内に、新田氏、足利氏、畠山氏、細川氏、其外品々あり、平氏の内にも、伊勢氏、織田氏、相馬氏、有川氏等あり、姓は木の根本の如し、氏は枝葉のごとし、&貞丈雑記・二・人名

姓と苗字の相違 かばねとみょうじのそうい

〈姓〉と〈苗字〉は一般に混用されているのが現実だが、これを明快に比較検証した論文がある。加藤晃「日本の姓氏」(『東アジアにおける社会と風俗』井上光貞ほか編)がそれで、ここでは要点を記すにとどめる。

⑴姓は、為政者が上から制定した。これに対し苗字は、武士社会で自然発生的に下から成り立ったものである。

⑵姓は、天皇によって賜与される公的な命名である。苗字は自ら命名する私称とみなせる。

⑶姓は父系血縁原理によって継承される氏(血族)の名とみなせる。苗字は、家の名であって、血族名ではない。

これらのほかに岡野友彦論によると、一般に「の」の字を付けて呼ぶ源、平、藤原などは姓であり、「の」を付けて呼ばない北条、足利、徳川などは苗字に当る、という見解を示している。

参考

●太古は姓に存否のけじめありて、職に貴賎のわきためある事なかりしなり、太古は職をしも世々に仕奉りて、是れ彼れに転任(うつる)ことは更になく、今世の姓にいとよくかよひたり、故に太古はその職を以て氏とせしものぞ多かりける、&史籍集覧 姓序考・一●何時の間にか家号を名字と言ふ様になつた/名字と言ふ語の本来の意味が今日の用ゐ方とは違つて居つて、家号と通称との二つを包含するものであることは前回にお話した通りであります。此意味に於ける名字を最も豊富に且つ趣味多く見出す事の出来るのは「吾妻鏡」であります。平安朝の始め頃にも既に上田の三郎などゝ言ふ名字のあることは「霊異記」にも見えて居るが、鎌倉時代には此意味に於ける名字が幾らでもある。此時代には未だ妄りに左衛門尉とか右衛門尉とかいふ武家の官名を、与へもしなければ貰ふことも幕府がやかましかつたから、立派な侍が皆次郎三郎で、家号としては悉く居住地の地名を帯びてゐる。/言を換へて言へば、居住地+出生の順序=名字であつたのであります。然るに其中から何時の世にか、家号の部分ばかりを名字と言ふ様になつたために、遂に明治の今日の様に、姓氏といふことも名字といふことも、同一のものになる様になつて仕舞つたのであります。&『名字の話』

姓名 かばねな

姓の名前。姓の種類。〈姓名(かばねな)〉は後世にいうセイメイとは意味が違うので注意する。

〈姓名〉は最盛期に、大臣(おおおみ)大連(おおむらじ)真人(まひと)宿禰(すくね)(おみ)(むらじ)(きみ)(みやつこ)(きみ)(あたい)(おびと)(ふひと)(いみ)()(あがた)(ぬし)村主(すぐり)など合わせて数十種類に達した。発生当初は私的な敬称であったものが、大和朝の権力拡大に伴いその与奪を朝廷が握るようになり、また格差付けが進んだ。姓名の格では、大臣と大連が最高位にあった。

参考

●史文ニ、姓氏ノコトヲ記スコト数万千言、皆姓氏混用スレドモ、其文ノ大抵ニ通シテ非無所考、姓ハ尊卑ヲ褒貶シテ賜レバ、君、真人、寵臣、連、大連、宿禰、忌寸、村主(スグリ)の類ナリ、天武天皇十年ヨリ十四年マデノ記ヲ考ルニ、(ミヤツコ)(アタヒ)(ムラジ)トシ、(キミ)真人(マツト)とし、臣ヲ朝臣トシ、連ヲ宿禰トシテ賜某姓ト云フ、之ニ其人ノ居地行事ニ依テ、称スル石川、宍人(シシント)ノ類ヲバ不改、朝臣、宿禰ノ類バカリ改メ賜ヘリ。氏ハ居地、行事ニ依テ名ゼセラレタレバ、石川、宍人、藤原、土師ノ類ナリ。&仙台間語・第二

姓の字義 かばねのじぎ

古代中国で姓は、血統や家系の由来を著す称号として発達した。

漢字「姓」の語義としては、

⑴苗字と同じ意味で、一家の系統を表す。

⑵氏の家柄を示すのに用いられた。漢代以降、氏と混用されている。

⑶家族、一族。これらを表す総称として用いられた。

⑷人民の別称。たとえば「百姓」。

⑸女が子を産む。その子、生の字義もある。

母字ですらこれだけの複義をもっている。この姓が日本に移入された結果、語義の解釈や用法に混乱をきたすのは、避けがたい事態であった。日本の姓氏論に一本筋が通っていないのは無理もないこと、といえよう。そうしたなか、引用の『大勢三転考』は本居宣長の著作で、考証的に信頼性の高い内容として評価されている。

なお細かいことだが、日本に定着した訓読「(かばね)」が、家柄の尊卑と世襲制官職を示す独自の呼称として用いられた場合、本来の漢字ではなく、「国字」扱いになるので注意したい。このため研究者間の術語として、「カバネ」とカタカな表記していることも付け加えておこう。☟姓

参考

●骨の代/上ツ代の加婆禰てふことは、自なる皇国の制度にして、外国の制度に無き事なれば、文字も姓の字など当たれど当りがたく、職の如くにして職にもあらず、名の如くにして名にもあらぬ制度にはありけり、(*中略)さてその加婆禰てふ語意をいかにと考るに、姓氏録に、氏骨とある(ホネ)の字の義なるべし、崇名(アガマヘナ)などの説もあれど、いと迂遠にして諾ひがたし、骨は凡人倫をはじめ、生としいけるもののみならず、器物の上にもいへる事にて、扇骨鞍骨などのことし、肉も皮もみなこの骨を本とし、成々て身となるがごとく、この加婆禰も同じ義にて、そは鳥取部と云一分ありて、其を主り率ゐて仕奉るを鳥取造といふ、その造なん一部の根本にして、支体にとりては骨の如くなん有ける、かの草木の根を株といふも同じ語意なり、(*中略)よりて考るに、氏てふ言は、生血の義にて、血脈の流を称ふる言、加婆禰は骨にて、一部を統る言なるべし、氏は血脈に付たる唱なれば、同血脈の外に唱る事なく、骨は其部によれる唱なれば、諸氏にわたりて呼来れり、そは紀氏は紀氏、物部氏は物部氏にして其すぢに限りて唱え、骨は紀氏も臣、出雲氏も臣ととなへ、物部も大友も皆連と唱ふるがごとし、そも〳〵この氏と骨の二くさは、人の身にとりて、本とも本たる局なれば、支体にならひて、血と骨ともて称たるは、さる事ならずや、続紀に根加婆禰改給比など、根てふ言を添ても云るは、殊に親しく聞ゆ、又姓の字を書ことは、古く記紀ともに出たれど、此字は当る処もあり、あたらぬ処もありて、そはもと漢国に、此かばねてふことはかつてなきことなれば、親しく当べき字なければなり、此弁は古事記伝に委しく説れたれば、更にいはず、されば仮字おもふ骨の字は正字にして、中々に姓の字なん仮字には有ける、さるをふるく姓の字を書れたるは、大方はこの字にて当る処もあるうへ、骨の字はゆゝしきかたにも見え、笏音忽なるを、忌てさくと訓るをもをもへ、はたよろづ漢様に物せらるゝ手ぶりなれば、つひに姓の字を当られたるにぞありけん、然れども、もとありがたき字なる故に、源平をも姓といひ、朝臣宿禰をも姓といふごとく、紛らわしき事とはなりにたり、&大勢三転考・上

姓の成因、氏派生 かばねのせいいん/うじはせ

上代・古代の氏から派生した姓の類型。

嵯峨、橘、大友など。また、安藤、伊藤、加藤、後藤、藤原など藤の字の付く姓は藤原氏にちなんだものである。ちなみに上代の庶民の姓は、朝廷が任じた地方官らが戸籍(へじゃく)識別の必要上、一方的に付けさせたものが多い。

姓の成因、外来 かばねのせいいん/がいらい

外国から渡来した姓をそのまま日本で用いた類型。

はじめは(リン)のように音読みで通じたが、時とともに外来性であることを忌避する傾向を反映して、これをハヤシと読ませるといった大和言葉への同化が進む。つれて拝師、早志、速司(いずれもハヤシ)といった和語への当て字化も増えた。

姓の成因、嘉祥 かばねのせいいん/かしょう

縁起のよい文字や読みを姓とした類型。

信仰色をも多分に含んだ命名行為である。千家、徳川、福田、三善、和田などがこれに相当する。

姓の成因、古姓 かばねのせいいん/こせい

上代・古代に生じた姓を名乗る類型。

多くが地名由来との合成で成り立っている。荒木、井上、千葉内藤などが該当する。

参考

●田中、大石、三枝、山辺、巨勢、服部、石川、滋野などの類、苗字なれども、姓なるべし、内藤、斎藤の類もあるなれば、別に姓を求むるは僻事なるべし、&南留別志・一

姓の成因、職業 かばねのせいいん/しょくぎょう

職業(多くが官職)に由来した姓を名乗る類型。

大蔵(国子管理)、大伴(皇室警護)、金子(鉄造(たたら)師)、斎藤(伊勢神宮神官)、渡辺(渡船頭)などがこれに該当する。

姓の成因、信仰 かばねのせいいん/しんこう

神仏信仰や俗信に根ざした姓の類型。

鈴木(降神の聖木)・高木(神の宿木)・三浦(神居ます浦)・宮本(神祀る宮)・山本(山岳敬神)などがこれに該当する。

姓の成因、地名 かばねのせいいん/ちめい

地名にちなんだ姓を名乗る類型。

これは圧倒的に多く、古姓との合成型が多い。

現代の統計によると、日本の苗字の八割が地名によるものだという。青木、浅野、足利、岩崎、大友、大久保、織田、狩野、木村、酒井、島津、菅原、武田、中島、野口、橋本、長谷川、北条、村上、松平などがこれに該当する。

姓の成因、複合型 かばねのせいいん/ふくごうがた

姓の類型がいくつか組み合わせて完成したもの。解釈の仕様できわめて数が多くなる。

佐藤(職業+地名)、平(地名+氏姓)、高橋(地名+古姓)、吉田(古姓+嘉祥)など。

加判人 かはんにん

文書等に連判の〈花押〉を書いたり、印判を押す者。連帯責任加担者である。

家苗 かびょう

家名となる苗字。

家譜 かふ

一家の系譜。俗に〈系図〉ともいっている。☟系図

参考

●先日深見新右衛門、故主薩摩ノ太守ノ家来、郭氏家譜、伝来候ヘドモ、読不申候間、和点イタシ呉候ヤウニ申来リ候処、新右衛門老人、目ナドアシク候間、私点付呉候ヘト、無余儀頼マレ候ユヱ、紙百枚バカリ細真ニテ書申モノ、点イタシツカハシ申候、メヅラシキ家譜ニテ候、唐郭氏儀ノ家譜ニテ候、郭氏儀ハ、汾陽王ニ封ゼラレ候テ、郭汾陽トテ汾陽王子孫、薩摩ヘ参リ候テ、只今薩摩殿家来ニ、汾陽庄右衛門ト申モノ嫡流ニテ候、汾陽ト書候テ、カハミナミト読申ヨシ、珍ラシキ苗字ニテ候、御聞キナシオカルベク候、&鳩巣小説・中

かぶろ名 かぶろな

カムロナとも。太夫・遊女といった格上遊女に見習い奉公する少女を「かぶろ」、その子に付けられた呼称を〈かぶろ名〉という。

花咲、園菊、玉梅、もみじ、若葉など花や植物にちなんだ名が目立つ。

仮冒 かぼう

他人の名前をかたること。「偽称」ともいう。

家柄血統の良い源平藤橘の姓は往古に人々の憧れの的であり、創作や系図売りの手を通して、〈仮冒〉が流行した。近世、苗字をもたない農工商の中に、武士に真似てもっともらしい姓を自称したのも、仮冒のあらわれである。

果報名 かほうな

めぐり合わせのよい名。〈あやかり名〉にほぼ同じ。☟あやかり名

鎌倉公方 かまくらくぼう

〈鎌倉殿〉〈鎌倉御所〉とも。室町時代に鎌倉府を開き、関東八か国を支配したことから、足利氏の別称。

「元服して成氏と名く、少将に任じ従四位下に叙す。是を鎌倉公方と称す。」(嘉吉記)

神の子 かみのこ

人が七歳になるまでの通過期間をさす古くからの呼称。

古諺にいう、「七つまでは神のうち」と。この間の人は、人間の形はしていてもまだ人格が形成されておらず、神に近い存在、とする発想からきている。したがって、〈幼名(おさなな)〉も人が仮に付けた未完成の名、ということになる。

神世七世 かむよななよ

『日本書紀』一・神代上では、国常立尊より伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)までの諸神をいう。したがって、人名が登場するのはそれ以後になる。

冠名 かむりな

カンムリナとも。名前に慣習的に付ける接頭字の総称。

先太政大臣某の「(さきの)」、悪源太の「(あく)」など、区分便宜のための呼称をいう。ただし、僧空海の場合の「僧」、(むすめ)千代の場合の「女」などは独立した複合呼称であって冠名ではないので、使い分けに注意したい。

下名 かめい

文書の末尾に書かれた氏名。連名などで「以下に記した名」。別に、自分をへりくだっていう場合にもいう。

「下名は右証書を保管中左の条件を遵守することを誓ふ」((まんじ)」二十六、谷崎潤一郎)

花名 かめい

花押された名。別に、〈佳名〉の類称でもある。☟花押 ☟佳名

仮名 かめい

カミョウとも。〈仮名(かりのな)〉に同じ。カリノナあるいはケミョウと同字同音である。☟仮名(かりのな)

佳名 かめい

〈佳称〉〈嘉称〉とも。〈嘉名〉と当て、、ヨキナと発することも。よい名。好ましい呼び名。

「凡そ諸国部内の郡里等の名は、並びに二字を用ゐ、必ず嘉名(よきな)を取れ(*読み下し)(『延喜式』民部省式・上)

家名 かめい

和訓でイエノナとも。家の名。一家の名称。

芸道の本家の意味もある。

「凡そその当たりに、仮名、実名、家名、何右衛門といふに似たるがありとも、心よからじ」(『好色破邪顕』中)

雅名 がめい

風雅でみやびな名。

平安時代を中心に、女性の命名に用いることの多い用語である。男の場合はふつう〈雅号〉という。〈雅名〉の例として、貴人の場合は(よし)子内親王、源麗子、平徳子など「──子」型が圧倒的で、平民では(みち)子、峰尾、(ともひ)市女(いちめ)、りつ子などがある。

佳名佳字 かめいかじ

よい名にふさわしいよい字体。

本名と別名とを問わず、自分の気に入った名前に〈佳字〉を用いようとする主観的な傾向をさす言葉である。往時、初子の命名式などで、書家に〈佳名佳字〉の墨筆を依頼する例が少なくなかった。

家名相続 かめいそうぞく

〈一家永代〉とも。総領家を中心に、名字を相続すること。

室町時代から、〈家名相続〉に伴い、家督も相続する併行相続が顕著になった。この慣習は神職が代表的である。家名と実質的な地位・財産等を子孫に伝え譲っていく「一家永代」、つまり家名制の強化といえよう。

家門 かもん

一家一門。総じて、一族。

「家門 一家一門の(ヤカラ)。」(新編 大言海)

家紋 かもん

単に〈紋〉〈紋所〉とも。家々で定める紋所のこと。

用法の種別によって、縄文、正門、本文、大門、別門、添門、日門、裏門、無駄門、多田門など諸流に分かれる。

〈家紋〉は衣服はじめ興車をはじめ旗、幔幕、暖簾など標識から生じたもので、これらに掲げて〈家号〉の標識としたものである。氏族意識の高まりに歩調をあわせ、名字とともに発達してきた。

姓氏によって家紋が決まっているわけではなく、また〈拝領家紋〉などがあるように、時代的な消長がはげしい。種類も研究者によって意見が異なり、五、六百種止まり、とするのから三千種程度、あるいは一万種集めたというのまで、どれも信頼が置けない。現代、家紋は人名(家号)の付帯物にすぎない情況であるし、専門書も何冊か出ているので、そちらを参照していただきたい。

参考

●定紋と号し、無貴賎、家々の紋を衣服調度に付る事、近世の事ならんかし、古しへは無尊卑、内衣はみな白小袖白袷白帷子を著せしことなり、(*略註)家紋の事、堂上には車にはじまり、武家は秦幕の紋や始ならん、衣服に定紋と号し付ける事は始をしらず、義満将軍以来の事にやあらん、&見聞諸家紋・後付●家紋の数はあまりたくさんはない/(*中略)諸家の紋帳の中で一番古いのは、群書類従に出ている「見聞諸家紋」であるが、是は其数が甚だ僅かである。徳川時代の「武鑑」や「紋帳」に顕はれて居る紋の数も、其数が五六百を超えないのである。今日でも稀には染物屋の難儀をする様な紋もないではないが、大体紋書きが見たこともないといふ紋は、一生の中に七つか十しかないさうである。&名字の話

図▼江戸時代の諸家家紋〔見聞諸家紋〕

 本紀上代本紀等ノ天ノ忍ノ海人の事をいへり、姓氏録に振婚命の四世天忍人命、掃守姓の始祖なりといへり、旧事本紀には饒速日命三世の孫なるよし侍る、雄略天皇の時、掃守の姓をたまふと史に見え侍る&塩尻・一

家紋の起り かもんのおこり

参考

●ひようもん/家紋の起りは、いつの時なるをしらず、蜻蛉日記に、菊の紋すゑてといふ事見えたれど、今の定紋などの義に非ず、中世武門盛なりしより、幕の紋にて家々を分てば、是より始りて家々の定紋となれる成べし、又秘文あり、又通文といふ事、花にては唐花、葉にては杏葉(イテフ)などをいふ、むだ紋たゞ紋ともいへり、誰が著しても苦しからぬ也といへり、されば西土の花号にあたれり、其幕の紋は、推古紀に、旗に絵くと見えたるが濫觴なるべき、又宗五記といへる書に、公方様御服と申すは織物にて、色御紋不定、白き綾又は綾つむぎを、地を色々に染て、御紋紫などに付ると云々、是は東山義政公時代の事也、御紋不定とあるを見れば、其比は衣服は、家紋に限らず、何の紋にても付し也といへり、&倭訓栞・前編二十五・比

唐名 からな

トウミョウとも発音する。人名に限っていえば、次の二種がある。

⑴中国唐代の人名の総称。

⑵珍奇な名。異名。

「よびにけり馬鹿のから名をりちぎ人」(江戸川柳)

韓奴 からやつこ

帰化して〈奴婢(ぬひ)〉となった韓人の総称。

『日本書紀』雄略九年五月の条などで初見。

借名 かりな

音訓でシャクメイとも。他人の名を借りて当座に用いること。また、その名。

いわゆる〈名義借り〉のことでもある。

「猶以祐成所存をさつしおのれが名をかくし、某が借名をいたし祐成を喰とめ申候刻、」(曽我会稽山・巻五)

仮人別 かりにんべつ

江戸時代、戸籍等の移動に伴い、〈人別帳〉に一時的寄留者として記録した名簿。

仮名 かりのな

カミョウともカメイとも音読する。便宜上、仮に付ける名。

今日では、実名を公表すると支障があるような場合に、仮名である断りを添えるか、「Aさん」「B氏」のように遠回しに用いる。左記引例に的確な解説が載っている。

参考

●仮名 俗名 呼名/今思ふに、仮名はかりの名にて、実名に対ていふことなり、これは古へはなきを、後世の俗の習はしに出たり、故に今も公家堂上の家には、この事なし、武家士庶の間に有事也、たとへば和田小太郎義盛といふが如き、和田は氏、小太郎は仮名、義盛は実名なり、女にもこれに似たる有、或は宣旨などいふも、実名にはあらで呼名也、僧にも有、宰相あるは民部卿などゝいふが如き、官にはあらで、仮名にて、実名は、また別に有也、この外にも工商のたぐひに、長舟石堂なども仮名也、相撲にも鬼勝、または岩鬼といふが如きは、氏に似てみな仮名也、&類聚名物考・八

仮名()字 かりみょうじ

事情で仮に名付ける名()字。一種の変名行為とみなせる。

「以前は仮名字にて御出の由承り候。今度は誠の御名字を御名乗り候へ」(謡曲「粉川寺」)

軽名 かろびな

カロミナとも発する。〈蔑称〉の大和言葉。人を軽んじて呼ぶ名。☟蔑称

変わり名 かわりな

変名(へんめい)〉の訓読。☟変名

官位 かんい

ツカサクライとも。官職と位階の総称。官職等級をも含めた語で、上代から律令制下で人名や家名と深いかかわりをもった。

しかし〈官位〉は、人名ほど注意深く扱われているわけでなく、次の引例に見るように、『古今集』序文ですら誤りが語り草になっているほどである。☟冠位十二階制

参考

●古今集の序に人麿おほき三の位といへる/人麿を正三位といへるをいぶかしみて、世にさま〴〵の説どもあれど、もと人麿は万葉にのみ見えて、国史にも其人を載られず、万葉に、其みまかれるを死と書きたるにて、六位以下の人(*舎人身分で出仕)なりしこと明らかなるにつきて、東麿の古今序考に、三の位とあるは後人の加筆ならむと疑はれたるなど、ことわりさることなれど、今おもふに、これは後人の加筆にもあらざるべし、延喜、天暦の頃は、すべて古の伝うしなはれたる事も多ければ、さしもの貫之(*古今集編者の一人で、序の執筆者)ぬしも、世にいひ伝たる雑説によりて、おほき三の位(*正三位)といはれしにて、古を深く考へざりしなるべし、&織錦舎随筆・上

冠位十二階制 かんいじゅうにかいせい

推古天皇十二年十二月、聖徳太子らが制定した十二段階の位階制度。

十二階は儒教の徳目を反映させ、徳・仁・礼・信・義・知それぞれを大と小とに分け、さらに紫・青・赤・黄・白・黒それぞれ濃淡をもって十二に色分けしている。官人の位階を明確にし、才能や実力で功績ある者を昇進させることで人事の活性化を図ったのである。

参考

●官位/(中略)按ずるに、凡て官に昇るを任という。任に(のぼ)るを叙すという。凡そ位階は升り易く官爵は進み難し、推古天皇の十二年、始めて官位十二階を定む。文武天王の大宝元年、淡海公勅を奉られ律令を撰す。(*読み下し)&和漢三才図会・九

官位双六 かんいすごろく

絵双六の一つで、下位官職から高位へと、賽の目で上りつめていく双六。明治時代、官位知識普及のために考え出された。

閑院御三家 かんいんごさんけ

〈清華家〉うち閑院家、三条西、中院、正親町三条の三家。

かつて藤原北家の流を汲む代表的な名家とされた。

参考

●閑院家の三軒は、三条西、中院、正親町三条也、此内にて三条西は家強し、清花に左のみ不相替、中院は中、正親町三条は一弱く候、三軒ともに、大納言先途に前を懸、大臣の缺を待得て、右大将を兼ずして内大臣に任ずる家也、(*中略)内大臣に任ずる人は、大将を不兼ば、内府に任ぜず、閑院家は、大将を兼ずして、内府に任ずるをこそ規模なれと論所也、(*中略)右の閑院家迄は、様々家々に申立候故、摂家清花大臣家と部わけして申候、此外を諸家と申候、&光台一覧・三

官号 かんごう

〈官職名〉に同じ。☟官職名

(*天平宝字二年八月)参議正四位下中務(ちゆうむ)(きやう)藤原朝臣()(たて)ら、(みことのり)()けたまはりて官号を改め()ふ。(*読み下し)(続日本紀・二十一・淳仁天皇)

喚辞 かんじ

朝廷などで授位任官された人の名を呼ぶこと。やんごとなき筋の儀式である。

参考

●称謂/公式令に喚辞とあるは、天子の御前にて授位任官するものにむかひて、傍よりその人を呼ぶときの称謂也、義解によるに、官省にて授位任官の時も是にならふなり、今こゝに公式令の義解により其例をいはゞ、(*後略)&難波江・二

冠氏通称 かんしつうしょう

武士などの通称の上に置かれた往古称氏の一字。

これから出自を知る手掛りがつかめる。名だたるものをいくつか掲げてみよう。

源   源兵衛、源三郎、源内

平   平太郎、平右衛門、平兵衛

藤原  藤太、藤左衛門、藤市郎

橘   →吉 吉兵衛、吉五郎、吉蔵

菅原  →官・勘 官兵衛、勘三郎、勘平

大江  →郷 江太郎、郷右衛門

  →仲・忠 中太、義仲、忠太郎

紀   →木・喜 紀太夫、木兵衛、喜久内

小野  野大夫、野太郎、野先生

長谷部 長兵衛、長五郎、長輔

冠者 かんじゃ

ンを略音してカジャとも。六位で無官の者をさす代称。

呼び名と合成して〈──冠者〉と、近時にいう「軽輩」の意味にも用いられた。狂言で知られている「太郎冠者(かじや)」は、言動が軽はずみな者をいう蔑称になっている。

「楽府の御論義の番にめされて、七徳のまひを、ふたつわすれたりければ、五徳のくわんじやと異名をつけられ、」(東海道名所記・二)

官称 かんしょう

省庁等、官制で定められた呼称。

「諸門鼓皆応ズ、左右大将、近衛次将、中務省輔及内舎人、左右衛門及門部大舎人、内蔵、大蔵、掃部、主殿等官人、皆其位ニ就キ、諸儀已ニ備ル、」(太政官日誌・六九号、慶応四年八月) *明治天皇即位式の模様を述べた記事の一部。

換称 かんしょう

〈換え名〉とも。名を換えること。名の呼び方を換えること。また、その換えた名。

「女房の二字に代ふるに女宝の二字を以てするも(あし)くはあらざるべき歟。」(六十日記・乙丑。日曜、幸田露伴)

参考

(*天平宝字三年十月八日)天下(あめのした)の諸姓に君の字を着くる者は、()ふるに公の字を(もち)てす。伊美(いみ)()は忌寸と以てす。(*読み下し)&続日本紀・二十二・淳仁天皇

簡称 かんしょう

〈略称〉にほぼ同じも、今ではほとんど用いない。☟略称

官職名 かんしょくめい

〈官名〉〈官称〉とも。官職の名称。

実名を〈官職名〉に置き換えて、「区長がそう命じた」のように使う。明治三年十月、通称に国名と旧官名、官位を用いることが禁じられた。

官牒 かんちょう

〈官僚名簿〉とも。近代、役人の氏名を記した札。

神主 かんぬし

(いわい)(ぬし)〉〈祭主〉〈神主部〉とも。

古代、禰宜(ねぎ)内人(うちびと)等の集団を総称した。以来、公的に神を祀る行事執行の専門職をつかさどる。

参考

神主(カムヌシ)は、神に奉仕る主人(ウシ)たる人を云称なり、書紀に、即似大田田根子、為祭大物主大神之主とあり、又神功巻に、皇后選吉日入斎宮、親為神主云々、とあるを以て、凡て神主の職の重きことを知べし、(*すべて割中略)&古事記伝・二十三

関白 かんぱく

〈一の人〉〈一の所〉〈執柄(しつぺい)〉とも。平安以来、天皇を補佐する官人の最高位にあった役職。

のち、「亭主関白」のように俗化して用いられる。

参考

●按ずるに、陽成帝の元慶四年(*十一月八日)、藤原基経公(忠仁公の男、後に昭宣公と号す、乃ち時平の父なり)摂政を罷め関白と為る。この号、此れに始まる。天子の勅を奉はり、天下の政を執り行はる。人臣の上に坐すを以て、一の人と称す。父公を太閤と号す。法体を全角と号す。(*読み下し)&和漢三才図会・九

関白摂政 かんぱくせっしょう

〈関白〉と〈摂政〉と。

宇多天皇が践祚したおり、源基経が摂政から関白へと就任した例により、後にこの制を〈関白摂政〉と呼ぶ。

「主上(*後三条院)逆鱗ニオヨビテ仰ラレテ曰ク、関白摂政ノオモクオソロシキコトハ、帝ノ外祖ナドナルコソアレ、」(続古事談・一・王道后宮)

神戸の籍帳 かんべのじゃくちょう

大和朝廷で、神祇官を対象にした戸籍帳。

神社の封戸などのために、国司に命じて作らせた。

参考

(*養老七年五月十五日)制すらく、「神戸(かむべ)籍帳(じやくちゆう)を造るに当りては、戸は、増減すること()く、本に依て定むることにせよ。もし増益すること有らば即ち減じ、死損せば即ち加へよ」といふ。(*読み下し)&続日本紀・九・元正天皇

桓武平氏 かんむへいし

桓武天皇の子孫で平姓を贈られた氏。

葛原親王の孫、高望王にはじまり、その流れをくむ良茂流、良文流、国香流、良兼流の四氏が関東で権勢を示した。

官名 かんめい

〈官職名〉に同じ。☟官職名

 また出家の新発意(しんぼち)に俗の官名をよぶ類、」(十善法語・五)

漢名 かんめい

広く、中国の人名。

わが国では、渡来人が〈漢名〉をそのまま踏襲する場合もあった。

参考

●外国より帰化し人々も、其才其功などあれば、官位をもたまひしなり、かく官などたまひて後も、姓名はしも字音にいふべく、続紀に、玄蕃頭従五位下袁晋卿、外従五位下李元環、正六位上沈惟岳、正六位上孟恵芝、六位上張道光などあり、&名字弁

管領 かんれい

カンリョうとも。室町時代、職制に組み込まれた特殊呼称の一。

将軍を補佐して政務をつかさどった。しかし〈管領〉は正規の職名ではなく、政務管掌の長官、程度の意味である。斯波、細川、畠山の三氏が世襲制の〈三管領〉として知られている。また関東にも管領を置き〈関東管領〉と別しており、足利尊氏もこれに就任したことがある。

 

 

帰化族 きかぞく

家系に帰化した先祖をもつ一族。

血統学的に見ても、当然、子孫代々を経るごとに邦人との同化が進むわけであるから、帰化人としての血縁は薄くなっていく。見方を変えるなら、遠祖に帰化人の血が混じっている現世人は、かなりの数に達するということになろう。

帰化名 きかめい

わが国に定住帰化した外国人が付ける和名。

〈帰化名〉では小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が有名である。

「英人重井鉄之助(*ハーンの帰化名)このごろ新聞紙を出したりと聞けり、いまだ見ずといへども定めて奇談珍説あるべし。」(もしほ草・慶応四年閏四月二十八日)

菊桐紋 きくとうもん

〈菊の御紋〉と〈桐の御紋〉と。

ともに併称することで、庶民不可侵の、天皇家など高貴な家柄の御紋を象徴している。

菊の御紋 きくのごもん

略して〈御紋〉〈菊の紋〉とも。皇室の御紋章。

皇室専用の「十六の重弁」はじめ、宮家共通の「裏菊」などがある。

参考

●菊ノ紋之事/当時ハ天皇院宮ヲ初メ奉リテ、親王又ハ近キ源氏ニ至ルマデ、菊ヲ王家ノ紋ト定メテ、衣服ハ云ニ及バズ、宮室器財ノ属マデ、菊花ノ紋ヲ用ヒ給フ、此事中古以前、曾所見ナク、異朝ニモイマダ其類ヲ不聞、或説ニ、承平五年、菊花ノ宴アリテヨリ、特ニ此花ヲ賞セラレテ、朝家ノ花ト為ト云リ、然レドモ花ノ宴ハ菊ニ限レルニハアラズ、桜ニモ有レバ藤ニモ有リ、是タヾ花ノ好ヲ賞セラレタル計ニテ、南殿ノ桜橘、中殿ノ庭ニハ梅萩ノ賞翫ニ異ナラズ、案ズルニ、菊ハ仙洞ノ花ナルベシ、何ニトナレバ、赤色ノ御袍ハ、主上皇太子モ著御シ、一ノ上モ著スル事アレドモ、太上天皇ナラデハ、尋常ニハ著御シ給ハザル事、桃花蘂葉、逍遥院装束抄等ニ見エタリ、此袍ノ文、窠ノ内ニ菊唐草八葉菊ナドナリ、又指貫ノ文モ、仙洞ハ八葉菊ナル事、逍遥院装束抄ニ見エ、小直衣ノ文モ、菊、菊唐草、菊ノ枝、衵モ八葉菊ナル由、無名装束抄ニ見エタリ、総ジテ仙洞ノ菊ノ紋ヲ用ヒ給フ事ハ、十分ノ九ツニ過ギ、自余ノ人ノ菊ヲ用フル事ハ、十分ノ一ツニモ足ラズ、蓋菊ハ爾雅ニモ、搏公、延年ト名ヅケ、費長房ガ災ヲ消シ、酃県ニ寿ヲ得タル類、人口ニサヘ伝ヘテ、古来神仙ノ草花トス、&羽倉考・二

鬼号 きごう

〈戒名〉に同じ。☟戒名

貴号 きごう

学位、爵位など栄誉をあらわす号。

相手を敬い、実名ではなく号で呼ぶ。「博士は、この問題をどうお考えですか」のように、二人称か三人称で使う。

徽号 きごう

天皇が高僧に対し生前に送る号で、「禅師号」「大師号」などがある。

偽号 ぎごう

偽りの称号。とくに帝位の場合をさす。

たとえば、熊沢天皇など、終戦後に乱立した「○○天皇」という〈私称〉もこれに入る。

戯号 ぎごう

戯作者らが戯れに付ける筆名や雅号。現代のペンネームにも少なからず見受けられる。

引例『戯作者小伝』には、江戸時代の戯作者とか狂歌師の列伝が人名の紹介中心にまとめられている。

参考

●恋川春町/政は源、名は格、通称倉橋寿平といふ、狂歌を好みて、その名を酒上(サケノウエ)不埒(ノフラチ)、又寿山人と号す、戯作に恋川春町と名のる、駿州小嶋公の家臣にして、小石川春日町に邸あり、(コヒシ)川といふは、住居する地名によれる也、&戯作者小伝●「外骨」と云ふのは、予の本名(ほんめい)である、然るに世間には、之を本名でなく、戯号だと思つて居る人が多いらしい。&奇想凡想・宮武外骨とは是本名也

后号 きさきごう

皇后への尊号。古くは、天皇の寝所に侍る女官の名にも用いられた。

吉士 きし

〈伎師〉〈吉師〉〈吉志〉とも書く。大和朝廷で、記録文書作成や外交の任に当たった帰化渡来人に対する敬称。

参考

●書紀に吉士某、また某吉士某、など云る名多し、是なり、此はもと新羅国の官、十七等の中の第十四を、吉士と云よし、漢籍北史に見えたれば、皇国にても、其を取て蕃人の品に用ひられたりと見えて、継体巻に、吉士老、敏達巻に、吉士金子、吉士木蓮子(イタヒ)、吉士訳語(ヲサ)彦、また安康巻に、灘波吉士日香(ヒカカ)、雄略巻に日鷹吉士堅磐固安銭、灘波吉士赤目子など、なほ巻巻に多く見えたり、&古事記伝・三十三

偽称 ぎしょう

〈偽名〉とも。氏名などを偽った呼び名。

「偽称 ギシヤウ イチハリトナヘルコト。」(新編 大言海)

戯称 ぎしょう

〈戯笑名〉に同じ。

「実は(さつき)停車場で例の『美人クリイム』(箇は美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。」(尾崎紅葉、金色夜叉・中・一)

希少姓 きしょうせい

めったに見られない姓。〈珍姓〉に同じ。☟珍姓

戯笑名 ぎしょうめい

面白半分に付けた名。

狂歌師・戯作者の号や落語家の芸名などは、伝統的に〈戯笑名〉を踏襲している。

昔の力士の〈四股名〉にもこの類が多く、たとえば馬鹿の勇介、電気灯光之助、猪鍋吉、忍山色助、ヒーロー市松、新憲法源七といった愉快なものもあった。☟戯号

擬人称 ぎじんしょう

〈擬人名〉に同じ。☟擬人名

擬人町名 ぎじんちょうめい

人名もどきの町名。

江戸時代・近代の八百八町は〈擬人町名〉で埋まっていたようなものである。

参考

●府下ノ町名猶従前ノ通リ人名ヲ用ユルコソ可笑シケレ。試ニ其町数ヲ挙グルニ、第一大区、六小区、新右衛門町。同小七区、五郎兵衛町。同八小区、弥左衛門町、同惣十郎町。同小十二区、神田久右衛門町、第二大区二小区、源助町。(*後略)&新聞雑誌・明治七年五月二四日

貴人名 きじんめい

〈貴名〉とも。封建制度下、高貴な人たちに付けられた名。〈貴人名〉は氏姓を含めていうこともある。

擬人名 ぎじんめい

〈擬人称〉とも。

 以外の物や抽象的な物事の性質や形状などを、人名に見立てて命名すること。また、その名。

たとえば利根川を坂東太郎、水死人を土左衛門、融通のきかない人を石部金吉といった類である。(宮武)外骨の著作に『日本擬人名辞書』なる小品があり、擬人名三百余を五十音順に列挙してある。

「女の擬人名で、おりん(悋気深い女)、お金(持参金つきの嫁)、おむく(処女)、……」(日本故事物語・ト・土左衛門、池田弥三郎)

参考

●軽口の擬人名化▽あかん弁慶屁でも(かげ)(きよ)▽うぬぼれ自慢之助▽おっと合点承知之助▽権兵衛八兵衛引っ込んで居郎▽欲の川の深右衛門(*荻生まとめ)●犯罪人隠語集/先年京都府警察部にて編集せし『隠語集覧』に拠りて犯罪人が互に使用する擬人名の隠語を茲に収録す/注解の簡略も原本のマヽなり(五十音順)一等客車 一等客車 お七 放火犯、石油 お 軽 梯子、簪 角兵衛 変装人物 勘平 聟、夜盗 勘太郎 庖丁、小石 風右衛門 巡査 金太郎 詐欺行商(*後略、荻生まとめ)&日本擬人名辞書、(宮武)外骨

貴人名回避 きじんめいかいひ

貴人名を畏れるあまり、その名を自分に命名することを避けること。

参考

●ためあきら(*高階為章)といひし人も、もとはためのりといひけるを、白河院のためあきらとめしたるけるにより、かはりたるとかや、おほちの高大弐は、なりのりといひしかども、このころ、そのすゑは、むねあきらなどいへるは、めしけるより、あらたまりたるとかや、&続世継・四・宇治の河瀬

奇姓 きせい

珍奇な姓。珍しい氏姓。

何を基準に奇とするか、解釈次第で増幅差が大きく生じる。

参考

●『甲陽軍鑑』に、ぢうじ彦四郎いふ名有り、その文字さだかならず、立花家の藩士に十時伝右衛門有り、こを「トヾキ」とも「ジフジ」ともよめり、長州藩に進士(しむし)氏あり、子は宍道(しむぢ)なり、十時も宍道などより誤れる歟、また御宿勘兵衛をミシュクといへり、これもゴシュクといふべきにや、武蔵に布田(ふだ)()宿(しゆく)などいふ所有り、&松屋筆記・九十三

擬男子名 ぎだんしめい

近代以前、女子に対し男子風の仮の名で呼ぶこと。

芸妓や娼婦の異名として通用させた。(宮武)外骨の著作『売春婦異名集』から擬男子名の主なもの(解説は省略)を拾い出してみると、

 牛ン坊、こん吉、五十藏、総右衛門、達磨、二百藏、灰八、八兵衛、百蔵、奴、袁助芸者、和尚

吉字 きちじ

〈吉字〉には、次の二義がある。

⑴めでたい名。よい名。☟佳名

⑵末尾に「吉」の字の付いた名。これには〈源氏名〉も含む。☟源氏名

諱避 きひ

貴人の諱の使用をはばかり避けること。

古代中国の慣行を受けてのことである。

参考

 (*延暦四年五月三日)また、臣子(しんし)の礼は、必ず君の(いみな)を避く。此者(このころ)、先帝(*光仁)御名(みな)()が諱とを、公私に触れ犯せり。猶聞くに忍びず。今より以後(のち)、並びに改め避くべし。 (*読み下し)&続日本紀・三十八・桓武天皇

擬物人名 ぎぶつじんめい

人の性格や状態などから動物や物の名に見立て通称化した命名。

維新後の社会では、人事職業を動物に擬して冷やかす風潮があった。引例の「オッチョコチョイ節」でも、芸者をして猫と称し、流行唄に乗せている。猫と並んで、女郎の擬称は「キツネ」、いつも人をだますから。高級官吏は判で押したようにナマズ髭をたくわえていたので「ナマズ」と蔑称した。木っ端役人のほうはドジョウ髭が象徴(シンボル)だったので「ドジョウ」。時代が下り漱石『坊つちやん』の主人公は、校長を「タヌキ」と呼んでいる。

いずれも庶民階級からいささか離れた世界でノホホンと暮らしている人種への、やっかみを込めた当てこすりであった。

「猫じゃ猫じゃとおっしゃいますが/猫が、猫が下駄はいて/絞りのゆかたでくるものか/オッチョコチョイのチョイ」 (明治二年流行の俗謡)

参考

●丹波太郎/夏炎暑の続きたる頃、必ず西南後瀬山の方に大なる白雲毎日所をたがはず出けるなり、丹波の方にてこれを丹波太郎と云ひ、必ず太旱の象とす、小浜に限らず此の雲出れば、其の国々方角にて信濃太郎の伊勢太郎のと云ふよし、&拾椎雑話・追加●西郷星の出現/明治十年、西郷隆盛が薩州城山で兵を挙げた際、国民の多数は西郷に同情して、彼を反逆者とは見なかつた、それで同年八月上旬より毎夜東方に現れた一つの星を「西郷星」と呼んだ、それが一枚絵にもなつて「毎夜八時頃より大なる一星光々として顕はる、夜更るに随ひ明かなること鏡の如し、識者是を見んと千里鏡を以て写せしが、其形人にして大礼服を着し、右手には新政厚徳の旗を携へ、厳然として馬上にあり、衆人拝して西郷星と称し、信心する者少からず」とある&奇態流行史、(宮武)外骨

帰仏無諡 きぶつむし

生前に出家歴のある貴人が亡くなった場合、没後に〈諡号〉が贈られないこと。

仏に帰した人物に対し、生きている者が〈諡〉するなどかえって非礼なこと、とする思想が背景にある。普通は功績に対し諡が付けられるが、本人のたっての遺志や出家などの事情で、例外的に〈無諡〉の場合もある。

天皇については、『続日本紀』に孝謙天皇や聖武天皇の例が載っている。

参考

●太政大臣兼家のおとゞ、(*中略)正暦元年七月二日うせさせ給ひにき、御年六十二、出家せさせ給ひてしかば、のちの御いみななし、&大鏡・五・太政大臣兼家

公 きみ

上代の姓の一で、継体天皇以降の諸天皇を祖とする十三姓をいう。

八色(やくさ)(かばね)」では第一等に位し、〈真人〉の別称と見てよい。なお〈君〉もほぼ同じ姓と考えてよいが、一説によると、こちらは公に対してやや古い称号で、〈臣〉または〈朝臣〉に相当する。公も君も、天平宝字三年に〈公〉に統一された。☟君 ☟「公」の付く氏姓

君 きみ

音読みしてクンとも。古代に〈実名敬避〉の慣習に根ざした代称であるが、現代では〈親称〉として相手の名に下付けして使うことが多い。

「──君」は男子なの一般的な敬称として付けられる。しかし古代社会では呼称に厳格な男女差がもうけられていない背景もあって、和珥(わに)()童女君(をみなぎみ)(雄略紀)のように女子名にも用いられている。もっとも平安期に至ると、君付けの女子名は大量発生することになるが。

他人の実名を呼ばなくてはならないような場合、たとえ同輩以下の者に対しても、名前だけ呼び捨ては失礼である。そのため親称に近い敬称として「君」を下付けして呼ぶならいに落ち着いている。

参考

●蓋し名を称するは、元幾分か敬意を欠くことなれば、之に敬意を表する君の字を添ふる例のなきは、勿論の事なりと思ひて、已に数年を過ぎたり、然るに或る日王弇州の文集を閲したるに、盧枏伝の中に、謝榛先生と書記したる処あり、謝榛は七才子中の一人にて、弇州より稍後輩なれば、大抵其の字茂秦を称して相当なるべきに、姓名に先生を添へたるは、前の例に合ふといふべし、&酔迷余録・三

君名 きみな

往古、天台宗で用いた特殊な敬称。

卿付けで呼ぶ慣わしがあるが、この類、官職とは関係がない。

参考

●天台宗の寺の僧の名に、民部卿、兵部卿、式部卿などゝ云ふは是れを君名と云ふ也、他人より云ふには民部卿の君、兵部卿の君などゝ云ふ也、畢竟は喚名也、かの僧民部卿、式部卿の官に任じたるにはあらず、狩野家の絵師などの民部卿などゝ云ふも是れに同じ、僧に准じたる也、其の根元を正せば摂政関白の子の僧になりて、法印になりたるをば殿法印と云ふ、摂政関白をば殿と称する故也、左大臣の子の僧正になりたるをば左大臣の僧正と云ふ式部卿の子の法印になりたるをば式部卿の法印という類、皆父の官を以て称する也、後代に至りては父の官に拘らず、百姓商人の子にても天台の僧にだになれば、兵部卿、治部卿などゝよぶ事になりたり、&貞丈雑記・二

「公」の付く氏姓 きみのつくしせい

奈良時代、「公」の付いた特定の氏姓。☟公

参考

安那(アナ) 牟義(ムキ) 岡屋(オカノヤ) 羽咋(ハクヒ) 酒部(サカヘ) (ワケ) (ミハヤシ) 荒々(アララ) 牟佐呉(ムサゴ) 佐自努 市往(イチユキ) 三間名 鋺師(マリシ) 壬生部(ミフヘ) 息長竹原 石辺(イハヘ) 稲城(イナキ) 壬生 車持 軽我孫(カルアピコ) (クレ) 堅井(カタイ) 佐代(サテ) 川俣(カハマタ) 豊階(トヨシナ) 氐良(テラ) 佐々(ササ)貴山(クイノヤマ) 垂水(タルミ) 阿閉(アヘノ)門人(カトフト) 山 広幡(ヒロハタ) 廬原(イホハラ) (オフト) 下養(シモカヒ) 多々良 広()津 川原 榛原(ハイハラ) 壬生(ミフ) 丸子(マリコ) 角山(ツノヤマ) 牟礼(ムレ) () 気多(ケタ) 石生別(イハナスワケ) (コン)&姓名録抄・公

奇名 きめい

〈珍名〉に同じ。

この類は、神沢杜口著『翁草』にたくさん紹介されている。☟珍名

「人は陳腐さ、あるいは珍奇さのため(たとえばある大学に一円一億という姓名の先生がいる)と同様に、その何というか、立派さのためにも自分の姓名に嫌な感じを抱くのであろうか。」(「同姓同名」山田稔、日本の名随筆・別巻二十六に所収)

参考

●正親町院の永禄の比より諸国の武士に奇異なる名多かり、その十が二三をいはば、山中鹿之助幸盛、秋宅庵介、寺本生死介、尤道理介、薮中荊介、小倉鼠介、山上狼右衛門(以上尼子の臣)この余朝倉家の十八村党、河野家の十八森党、大内家の十本杉党、吉見家の八谷党、尼子家の九牛士、里美家の八犬士枚挙に遑あらず、こはみな軍陣に臨みて名告るとき、敵にわが名をおぼえさせん為なりとぞ、戦世には武備あまりありて文備なし、その名の野なる心ざまの猛きさへ推してしらる、&燕石雑志・一

貴名 きめい

〈尊名〉とも。貴人の名。また、相手の名に対する敬称にも使う。☟貴人名

大和時代の例では、応神皇女の八田(やたの)皇女(ひめみこ)、あるいは美女として名を成した衣通郎姫(そとほしのいらつめ)などは、美称に近い〈貴名〉といえよう。

偽名 ぎめい

訓じて〈偽名(にせな)〉ともいう。本名を偽っての名乗り。また、その名。

参考

●高野聖/予(*雀庵長房)総角(あげまき)の頃、竹塚東子(をぢ)に聞きたもちし話あり、是なるべし、元禄年間高野聖と偽名して、弘法大師の護摩の灰なりといへるものをいつはり売りて、なほよからぬわざをせし小賊あり、その徒凡そ十人ばかり、東海道はさらなり、西北の道中を往来して、そのことすでに世に聞こゆるものから、高野山より公に願ひ出て、かの(ともがら)こと〴〵く召捕られたりしとぞ、この高野聖を護摩の灰ともよびたる事がらがもとなるを、これを知らぬ世となりては、かの旅中の小賊の名儀解しがたくなり行くべしと話せられき、&さへづり草・むしの夢

戯名 ぎめい

〈戯号〉に同じ。☟戯号

擬名 ぎめい

ここでは、通称や筆名など、仮の名。

〈偽名〉とはニュアンスが異なり、むしろ便宜的呼称の意味あいが強い。

逆名 ぎゃくみょう

生前に付けておく戒名。

没後、寺での戒名付けに不満をもつ人が、自分で用意しておくわけである。

謔名 ぎゃくめい

仮に付ける〈戯名〉。

旧家 きゅうけ

古くから続いている名門の家。

「藤原の裔」「源氏の末」といった表現で家格の高さを誇る。

旧号 きゅうごう

古い号。改号する前の号。

宮号 きゅうごう

皇子女であることを示す号。いわば皇族の幼称である。

たとえば亀宮(中御門皇女)、美喜宮(桜町皇女) 、和宮(仁孝皇女)など。

旧姓 きゅうせい

元の姓。結婚や養子縁組する前の姓。

九族 きゅうぞく

自分から見た直系血族で、高祖父、曽祖父、父、己、子、孫、曾孫、玄孫をさす。

漢語からの言葉で、現実的な家系上、重視すべき範囲を示している。

旧族 きゅうぞく

古くから続いている氏族。また、その家柄。

明治語である。

旧名 きゅうめい

キュウミョウとも読む。古い名前。改名する前の名。

京家 きょうけ

往時、京都在住の公家・貴族の総称。

「あれよあれよといふ中に、程なく着岸京家の武士の(しるし)を立て、」(浄瑠璃「平家女護島」)

狂号 きょうごう

〈狂名〉とも。狂歌師が用いた〈雅号〉。

たいていが音捩りで傑作が多い。たとえば、朱楽菅江(あけらかんこう)(山崎景貴=本名または通称、以下同じ)加保(かぼ)(ちやの)元成(もとなり)(村田市兵衛)(から)(ころも)(きつ)(しゆう)(小島謙之)子子(こねこの)孫彦(まごびこ)(村岡孫右衛門)鹿(しか)都部(つべの)真顔(まがお)(北川嘉兵衛)浜辺(はまべの)黒人(くろひと)(三河屋半兵衛)四方(よもの)(あか)()(大田直次郎)など。 ☟戯号

擬洋人名 ぎようじんめい

明治時代、西洋人名に擬して付けた〈捩り名〉。

森鴎外はこの点徹底していて、長男を於菟(おと)(Otto)、次男を不律(ふりつ)← (Fritz)、長女を茉莉(まり)←(Marie)など、子の全員に「擬洋人名」を名付けたことで有名である。

兄弟同字名 きょうだいどうじめい

〈系字〉に同じ。☟系字

刑部 ぎょうぶ

律令制下で刑罰行政を担当したのが刑部省で、のちにこの官職名が武士個人の通称に用いられるようになった。金沢刑部左衛門など、通名に転訛した。

「都におはする御弟きやうふのぜう内裏に候ひけるが、」(義経記・四)

 交名 きょうみょう

散状(さんじよう)〉とも。

多くの人名を列挙した文書。

今にいう連名書の類。鎌倉御家人の名は将軍の〈交名〉に登録され、これが武士の資格を証した。別に、〈実名〉に対する〈通称〉をいうこともある。

「討手の交名記いて福原へ参らせらる、」(平家物語・九)

卿名 きょうみょう

(きみ)()〉に同じ。

狂名 きょうめい

キョウミョウとも。〈狂号〉に同じ。

「ゑびす歌も悪凶事に及んでは、皆な連中をまぬがれ、会へも不出して狂名(きやうめい)をけづる」(無駄酸辛甘)

行列字 ぎょうれつじ

兄弟が〈一字〉を名に共有すること。また、その一字。

〈行列字〉は明らかに同族意識の示威である。

たとえば、平安中期下野の豪族、藤原一族は、長兄の秀郷から下って宗郷、永郷、興郷、友郷、時郷、春郷と兄弟全員が「郷」の一字を共有し結束を固めた。☟通字

御璽 ぎょじ

〈玉璽〉〈御印〉とも。天皇の印。

御名 ぎょめい

大御名(おおみな)〉とも。天皇の名。

「御名御璽」のように、公式文書などで用いられる場合が多い。

桐の御紋 きりのごもん

参考

●桐ノ紋之事/是ハ鳳凰ヨリ転ジタルト見エタリ、凡麟凰亀竜ノ四霊ハ、各其類ノ長ナレバ、古来至尊ニ比シ来レリ、故ニ黄櫨染ノ御袍ニモ、鳳凰ヲ織レリ、鳳凰ハ梧桐ニ棲ミ、竹実ヲ食フガ故ニ、桐竹ヲサヘ加ヘタリ、此御袍、必御在位ノ服御ナレバ、其綾ヲ以テ、後世御紋ト為ナルベシ、&羽倉考・二

寄留籍 きりゅうせき

太平洋戦争戦前・戦中に、寄留者が届け出て得た寄留地での戸籍。

「予め自己の懇親なる医師の徴兵検査員となり居る区に寄留籍を定め、」〔朝野新聞、明治二十四(一八七五)年四月二十一日〕

寄留届 きりゅうとどけ

太平洋戦争戦前・戦中に、寄留者が寄留目的・場所などを寄留地の役場に届け出ること。また、その届出書。

寄留簿 きりゅうぼ

太平洋戦争戦前・戦中に、本籍地以外の住所で暮らす人たち、つまり「寄留者」を対象に作成した公簿。

〈寄留簿〉の登記には平民といった文言が入っていて、明らかに身分関係を優先して明示し、本籍地↔現住所という地籍関係を軽視したものであった。

近称 きんしょう

話し手に近いに人称代名詞で、「こちら」「この方」など。

今上 きんじょう

当今(とうきん)〉〈上〉とも。当代の天皇。〈今上天皇〉。

参考

●今上と称し奉ること/史記に漢武帝をさして今上といひしに始る、単に上と称し奉ることも亦司馬遷の史記に起る、&明治節用大全

公達 きんだち

〈君達〉〈公達家〉とも。摂政、関白家に次ぐ家格の家柄。

太政大臣になりうる下限家格である。

参考

●君達は、執柄大臣などの息を申す、華族とも清華ともいへり、近代は中院、閑院、花山院を三家といふ、是清華也、三条、西園寺、徳大寺、これを閑院といふ也、其外菊亭、大炊御門、久我、転法輪等も清華也、但清少の比は、いまだ三家などもさだまらざりし比なるべし、&枕草子春曙抄・十

 

 

盟神探湯 くかだち

〈探湯〉〈誓湯〉とも書く。上代に物事の正邪を決めるため、被疑者は熱湯中に手を入れさせられ、ただれの有無により判定する神判法をいう。

『日本書紀』十三・允恭允恭天皇の条、〈盟神探湯〉の語に割注して、「盟神探湯、ここでは区訶陀(くかだ)()という。或いは(ひぢ)を鍋に()れて煮沸(たぎ)らし、手をかかげて湯の埿を探る。或いは斧を火色に焼き、(てのひら)に置く。」とある。

允恭天皇四年九月(書紀に初出)いらい、姓氏詐称者の多くが、この処置の対象となった。☟詐称

くぐつ名 くぐつな

鎌倉時代、遊び女くぐつの名。

青墓、延寿、迷、阿古丸、たれかはなどの名が文献に見える。後白河法皇は「乙前」という名のくぐつを寵愛したことで知られる。

公家華族 くげかぞく

明治維新後に公家から華族になった家。

「頑固なことの好きな奇行家で公家華族で伯爵だつた。」(武者小路実篤、お目出度き人・七)

公家の系統と家名 くげのけいとうとかめい

平安時代まで、公家は天皇の血縁、姻戚あるいは廷臣への総称であったが、鎌倉幕府いらい京都の廷臣を〈公家〉、武士を〈武家〉と呼び分けるようになった。その数も鎌倉時代には、廃家や仮冒を繰り返しながら、『新撰姓氏録』当初に比べ半数以下に減っている。

公家には〈堂上(とうしよう)家〉と〈地下(じげ)家〉があり、前者のみ昇殿を許された。

公家の本家名を系統別にざっと紹介しておく。多くは屋敷があった所在地名に由来するが、くわしくは専門書にゆだねたい。

〔藤原氏〕

()摂家=近衛(陽明御殿)、鷹司(楊梅御殿)、九条(陶化御殿)、二条(銅駄御殿)、一条(御殿)

○閑院家=三条、正親町三条、三条西、西園寺、今出川、徳大寺ほか

○花山院家=花山院、大炊御門

○中御門家=中御門ほか

○御子左家=御子左、京極

○日野家=日野、烏丸ほか

○勧修寺家=勧修寺(甘露寺)、葉室など

○四条家=四条、六条ほか

○水無瀬家=坊門、水無瀬ほか

○高倉家=高倉、堀河、小野宮、楊梅、世尊寺、室町、高倉南家ほか

〔源氏〕

○清和源家=竹内

○宇多源家=庭田、田向、綾小路ほか

○村上源家=久我、六条、中院ほか

○花山源家=白川

○正親町源家=広幡

〔平氏〕

○桓武平家=西洞院、安居院、烏丸

〔諸氏〕

○菅家=高辻、唐橋

○清家=船橋、伏原ほか

○大中臣家=藤波

○卜部家=吉田、錦織、藤井ほか

○安倍家=土御門、倉橋

○丹波家=錦小路

○大江家=北小路

○橘家=薄

参考

公家(くげ)の称/公家の文字は早く続日本紀(第二及十三)三代実録(巻一)以下の諸書に見えたれど古くは朝廷または天皇をさしていへる称なりし、長禄二年(足利義政の時)以来申次記二月朔日の条に毎年今日千疋宛折紙進上之事公家衆こと〳〵く令懸御目云々とある頃よりして朝家に勤仕する貴紳を称する号とはなりて以て徳川氏に及べる由小中村博士の考あり、&明治節用大全●公卿華族の家名は悉く京都の地名/「尊卑分脈」などを見ても極めて明白であるが、京都でも田舎でも一時に家号の増加したのは此時である。例へば藤原家でも基経時平の頃までは、縦令分れ〳〵に住して居つても皆同じ藤原家の人々であることが明白に現はれてゐるが、それから次になるとだん〳〵と屋敷所在地の地名を家号に用ゐて、二条殿といひ九条殿といひ、それ〴〵家が分れて来ることになる。其以前に於ては是だけ身分の高い貴族になると、他人からは決して藤原殿とも基経殿とも断じていはない。其当時の官名とか屋敷の場所とか何か通称を以て呼んでゐる。(*中略)今日の所謂公卿華族の家の名を見渡せば、直ぐに気のつくことであるが、其殆と全部は京の町或ひは其付近の地名である。氏としては源平藤橘の数姓を出でず、殊に藤原氏は其八割を占めて居るけれども、それが今日の如く多く別れて来たのであります。&名字の話

公家読み くげよみ

公家社会独特の〈(いみな)〉の呼び方。

漢字の正しい音訓通りに従わず、忌み名に因ってなにかと牽強付会しては変わった読みに仕立てた弊習である。〈古典読み〉に対応した用語。

〈公家読み〉の由来ははっきりしないが、鎌倉時代に沈滞した公家社会が、独自に権威を誇示することで活性化を狙ったものと思われる。この習慣はやがて将軍家や武士世界にまで広がり、ただでさえ複雑な命名系統をいっそう混乱に陥れる結果を招いた。

〈公家読み〉の例としては、貞成親王の名はサダフサと読み、源誠子の名はトモコと読む。公家人名録などで洗い出せば、いくらでも発見できよう。

くじ名 くじな

〈鬮名〉とも書く。複数の名称を用意しておき、〈名付け親〉らがくじ引きで命名すること。また、その名。

出産のあった家で名付け祝いの宴を張り、招かれた人たちが幼名を持ち寄って神棚に奉じ、これを父親か名付け親がくじ引きの建前で決める。ほかにも民俗学的に見て各地にいろいろな仕方が散見でき、地域集団社会での運命共同体作業の名残りと見られている。

国栖 くず

クニスとも発する。〈国巣〉とも書き、〈国栖人〉ともいう。

上代、大和国吉野で在来の古俗を守った先住の一族をさす。奈良時代になり、朝廷に仕え風俗歌を奏上するためしとなる。

「国栖/国巣 国主(クニヌシ)ノ、くにし、くにす、と転ジタルニテ、」(新編 大言海)

百済氏 くだらし

百済から渡来した氏族の総称。百済王(こにしき)氏をはじめとする公、朝臣、宿禰、造、伎などの姓をもった。

宮内 くない

朝廷における宮内卿の略称。

のち伊勢島宮内など、通名に転化した。

国名 くにな

平安時代以降、女官の中臈、下臈および僧に対し父兄らの任国地名を付けた呼称をいう。

「丹後、おはり、みまさか、越後、びんご、ぶんご、加賀、これらなどは中程の国名也。大かた国名はこのほかおほし、」(女房の官しなの事)

国造 くにのみやっこ

古代、世襲制による地方官首長を総じて〈国造〉といった。地方豪族が任に当たることが多く、大和朝廷から国造、県主、村主、首、史などの諸姓を与えられた。

参考

●いにしへに国造(クニノミヤツコ)といひしは、今の世のごと、大きにこそあらざりはめ、大かた何事も、大名の如くなる物にて、国々に多く有し也、それが中に、国造、また(キミ)、また(ワケ)、また(アタヘ)、また稲城(イナギ)、また県主(アガタヌシ)などいふ色色の有りて、尊き賎しきけぢめも有つるを、そのけぢめは、さだかに記せる物なければ、いづれ尊く、何れ卑かりけむ、今こと〴〵くはわきまへがたけれど、大方は皆国造と同じさまなる物にて、この色々を一つにすべても、国造といへりき、&玉勝間・六・国造●国造/神武天皇(しい)根津(ひこ)に詔して、汝皇舟を迎引き、績を香山(かぐやま)の嶺に表せり、因て誉めて(やまとの)国造とすといふこと旧事記に見ゆ、但毎国に国造を置きしは成務天皇の四年なり、&明治節用大全

国守 くにもり

諸国の長官である〈国主(こくしゆ)〉の和訓。

のち谷山国守など、通名に転化した。

首帳 くびちょう

戦で討ち取った敵の首とその氏名とを書き記した帳簿。

〈首帳〉は合戦時、戦陣備えに欠かせない記録であった。一番首か否かなど揉め事も生じたので、「首帳の筆」という独特の記帳方法をとることが多かった。

参考

●天正七己卯年七月五日巳刻合戦 討取首注文之事 御馬廻/首一 渡辺兵左衛門 山田次郎左衛門討取太刀下&武者物語

首札 くびふだ

〈首印〉とも。戦場で敵の首を斬った者と斬られた者の氏名を記して、斬り首に掛けておく札。

札にはさらに、合戦場所や年月も書き加える。この札を回収して〈首帳〉に転記する。

公方 くぼう

室町幕府以来、征夷大将軍をさす別称。

これが渾名や異名など変転して、堀越公方といった通名に取り込まれた。

具名 ぐみょう

グメイとも発する。略したり〈異名〉を弄したりしない〈本名〉のままを名乗ること。また、その名。☟本名

内蔵 くら

〈内蔵助〉の下略。

のち渡辺内蔵太、堀内小内蔵(おくら)など、通名に転化した。

位名 くらいな

官位の呼称。

「先祖の大臣として仕え奉りし位名を継がんと(おも)ひて在る人なりというて、」(続日本紀、天平宝字八年九月二十日)

内蔵助 くらのすけ

赤穂浪士の大石内蔵助の名で知られた〈内蔵助〉は、古く律令下では中務省(なかつかさのしよう)()()(りよう)の次官の地位にあり、財政管理の役をになった。これがのちに武士の通名化を辿ったという見方が一般的である。

倉人 くらびと

〈椋人〉などとも書く。上代、倉の管理を職掌した官職から出た姓。

『古事記伝』巻四十四に「さて此倉首(クラビト)と云尸は、もと倉の事に仕奉れるより起れり、其起り古語拾遺に見えたり」とある。そして記紀にある次田倉人椹足(ムクタリ)、春日倉首(オユ)、河内蔵人(オビト)麻呂(マロ)などの名を紹介している。

蔵人 くらんど

クラウドとも。務台蔵人といった、古官名からの通名化である。

諸本に日置倉人、河原蔵人、池上椋人などの名が見える。

クリスチャンネーム Christian name 

訳して〈洗礼名〉。往古に〈霊名〉ともいった。

キリスト教徒が宣礼式で受ける名。

明治元年、「浦上四番崩れ」といわれるクリスチャン最後の弾圧では、マリナ・さめ、カタリナ・なか、マタレナ・こま、といった名の人たちが入牢している。

勲爵士 くんしゃくし

勲等と爵位をあわせもつ人。

『群書類従』 ぐんしょるいじゅう

『群書類従』はわが国の古書を集成した叢書で塙保己一編、正編・続編合わせて千六百八十巻に及ぶ大書である。

これの「系譜部」正・続編にわが国の主要氏族の系図が記載されている。現存する系図書の多くは同書に負うところ大である、といってよい。なお検索には「群書類従正続分類総目録・系譜部」を利用すると便利である。

「くん」付け くんづけ

二人称または三人称の一。

原則として、相手が自分より同等か目下の場合、姓名に付けて使う。☟君

 

 

系 けい

人名に関わる〈系〉には次の二義がある。

⑴広義には、血筋のつながり。あるいは仕分けた呼称。「母系」「姓系」「苗字系」など、接辞として用いられる。

⑵狭義には、〈系氏〉に見るように、血統的に同一世代であることを示す集団の呼称。

芸妓名 げいぎめい

一般に〈源氏名〉ともいわれている。芸者や花柳街売芸者(幇間など)に付けられる営業用の名前。

明治の英国からの帰化人文学者、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が〈芸妓名〉の隠れた研究者であったことは、あまり知られていない。彼は芸妓名を次の八種別に分類している。

  若」という接頭語の名(若草、若紫)

  小」という接頭語の名(小艶、小桜)

  竜」という接尾語の名(玉竜、金竜)

  治」という接尾語の名(歌治、〆治)

  助」という接尾語の名(玉助、駒助)

  吉」という接尾語の名(歌吉、玉吉)

  菊」という接尾語の名(三菊、雛菊)

  「鶴」という接尾語の名(駒鶴、糸鶴)

八雲の研究とは別に、近世以降の芸妓名を拾ってその変遷をざっと見ると、

○幕末・明治期

 お金、お百、お梅、お浜、於滝、阿竹、小春、小照 小亀、小蝶、駒吉、浅吉、栄吉、粂八、米八、菊二、金太郎、伊呂波など

○大正期

君太郎、三太郎、喜代松、捨松、秀介、今輔、花奴、〆奴、ぼんた、蝶六、音丸、助六、吉弥、久子、豆子、玉千代など

○昭和期

 愛子、京子、久里子、きく美、君寿、豆華、扇太郎、梨絵、美沙、滝野、鈴てる、千景、小りん、しげる、トンボ、アカネ、月太郎、М奴など

継氏 けいし

〈続氏〉に同じ。

系氏 けいじ

兄弟全員が同じ一字を実名に共有すること。また、その名。

この場合の「系」とは、特定の祖先や父系から血統が同一団塊の世代であることを示している。

系氏は親王家から大臣家、公家、武家まで幅広く事例が見られる。兄弟の血統誇示と結束固めの表れといえよう。

なお、〈片名〉に似ているが、意味が違うので注意を。

系字 けいじ

〈通字〉に同じ。

ふつう二字の嘉字で付ける。

ちなみに〈系字〉の習いは嵯峨天皇が導入したものだといわれ、その皇子ら全員が「良」字を持った。☟通字

敬称 けいしょう

相手に敬意を表すため、人名や官職名に後付けする言葉。「──様」「──君」「──氏」「──先生」「──大兄」など。

また、主君を「殿」と呼んだり、使用人などの前で自分の妻を「奥」と言い切るような場合も広く敬称に入る。

敬称過剰 けいしょうかじょう

敬称用いすぎの誤用をいう。

たいていは畳語法による誤りで、ふだん何気なく使ってしまう。

「聞て呉れ、今日庄屋殿と一所に御家老さまの御屋敷に上つたれば、」(一口剣・上篇、幸田露伴) 

敬称接頭語 けいしょうせつとうご

名前や代名詞の頭に付け、敬意を表す代称。

「御──」「大──」「貴──」などがこれに当る。☟敬称

敬称接尾語 けいしょうせつびご

二人称または三人称として用いる代名詞。

名前などの語尾に付けることによって、その人に敬意をもっていることを示す。一般的な様、さん、君などのほか、どの、上様、御方様、御前様などの合成語も含まれる。

「あなた方」は複数の人に対して使う。

ただし、「先生様」「課長さん」といった類は畳語で誤用である。☟敬称

系図 けいず

広義に、〈系譜〉〈釣書〉ともいう。先祖代々の系統を書き記した図。

〈系図〉に関しては専門書が数多存在するので、ここでの説明は割愛する。ただ、いつの時代にも凡夫の出自誇示の傾向が消え去らないため、近世以降にいわゆる〈系図売り〉や〈贋系図師〉が出没し、真贋鑑別が重要になっている。系図売りは応仁の乱後に大量に出没したらしく、生活に困窮した由緒ある武士が土豪らに系図をしきりに売った、と記録にある。系図を買った百姓が俄武士に変身するなど、日常茶飯事だったらしい。

現代、主要氏姓については出来合いの系図も売っているが、不精してこんなものを手に入れるくらいなら、出自云々の資格はないといえよう。

参考

●けいづ/系図と書り、書法あり、朱を引あり、墨を引あり、また寸法ありて、男子を専に記し、女子は无が如にして、名をだに書ぬものなりといへり、&和訓栞・中編七・計●系図の奇験/予(*宮川政運)次男を従弟なる加藤家を継しめたり、此家の系図は、小身には珍敷委しき系図にて、神代は天児屋根命より引、大職冠の末裔にして、いと細密なる事、筆に尽しがたし、この系図につきて一ツの話あり、予叔父なるもの、至りて貧しき折、出入の町医師高木貞庵といへる者ありしが、文政のはじめ、此医師系図を見て、殊の外懇望にて、金子弐円金にて預りし処、其翌年医師来り、昨年御預の品、まづ返上いたし度よし、叔父がいはく、我家大切の品に候まゝ、何れ其内金子調達の上受取べしと答ければ、医師、金子はいつにても宜敷、御系図は返上いたし度候、其子細は、手前家内の者、昨年より兎角病人勝にて、種々手を尽し、其上愚成る事ながら、家相又は方位にてもあしきにやと、卜者井上東馬といへる者に占はせし処、此卜者はあづま橋にて高名の者也、これは何か有間敷品の障のよし申聞候処、さし当り他所よりの品は、御系図より外に心当りの品も無之鋼間間、右故御返し申度といへるに任せ請取候処、不思議なるかな、其後彼御医師方の病人も善快せし由にて、右の医師礼に来りしと云、叔父方にては、金子返金になれば、此方こそ礼をいふべきを、向方の礼は、おかしと噺されける、&宮川舎漫筆・二

系図改 けいずあらため

江戸幕府が設けた制度で、諸大名・旗本等を対象に系譜の届出を義務化させた。

出自の再確認と、書家統制の憲政誇示が目的であった。『憲教類典』二之四を中心に具体例が紹介されている。

系図家 けいずか

〈系図者〉に同じ。☟系図者

参考

●今世に、其祖の詳ならぬを合さむとして、系図家といふ徒に誂へて、強て祖々の名を作り設け、或は多氏の祖を取り入れて、我が祖となす徒も多在、(*中略)其は真の道を知らず、幽冥の畏き理を知らざる故とは云ながら、甚しくもはかなくおぞましき事なりけり、&古史徴・一・夏

系図買 けいずかい

金の力で良家の系図を買い取ること。また、その人。

系図改写 けいずかいしゃ

事情により、また誤り等の発見で、系図を書き改めること。よこしまな意図での改写も少なくない。

参考

●長州秀就ヲ何トゾ取立、当家往昔ニカヘル後栄モアレカシト、秀元思召、世間ノ目ニモ心有ハ、如三齋見給シニ、秀就数一円此御恩ヲ思不給、結句幕府ヨリ諸家ノ系図可被差出旨、被仰出シ時、秀就数十代伝タル系図ヲ書替差上給シ、是ハ輝元ヨリ秀元、秀元より秀就ト、系図ヲ鉤給シヲ書替テ、輝元より秀就トツリ給シコトハ如何、如此ヘダテ給と云ヘドモ、秀元卿ハ其レニモ構給ハズ、沙汰ノ限ナル儀ハ、サルコトナレドモ、是ヲ云ンハ狂人走レバ、不狂人モ走ナルベシトテオワシマシ、兎ニモ角ニモ毛利ノ家サヘ続ナラバト、此儀ヲ心ニ掛サセ給ヒシ也、&毛利家記・六

系図献上 けいずけんじょう

奉納や主命などにより、家臣が自家の系図を献上すること。

たとえば戦国時代、成り上がりの権力者者等が自分の出自を誇示するため、良家出身の家臣に〈系図献上〉を命ずることもあった。

参考

(*脇坂)路守殿歌人ノ聞ヘ有之候、寛永年中日光ヘ系図献上ノ時分、其身ノ親父ヨリ主マデ二代計リ書申サレ、末ニ一首ノ歌ヲソヘテ納被申候、大猷院様(*徳川家光)殊ノ外御感ナサレ、其通ニテ日光ヘツカワサレ候ヨシ、風流ノコトヽ申伝候由、 &鳩巣小説・下 

系図上戸 けいずじょうご

酔うと自分の家系についてあることないこと自慢したがる人。

系図焼亡 けいずしょうぼう

家の没落などにより、系図を焼いて消滅させること。

家名は絶えるのに、系図だけ残すのは潔しとせず、武家の名折れ、とする思想が背景にあった。

参考 

●古くに栄たりし氏人のいたく衰へたるから、祖の霊に恥見せじとて、系図を焼亡ひたりなど云ことも、をり〳〵聞ゆるは、いとも〳〵あはれなる真心ながら、実の道の理を知らぬ失にて、いと〳〵あぢきなし、&古史徴・一・夏

系図調 けいずしらべ

〈系図改め〉に同じ。

『一話一言』十七などに具体例が見える。

系図知 けいずしり

〈系図者〉に同じ。また、他家の系図を偽作しては売り込む者。

系図吊の賀 けいずつりのが

系図の完成を祝って張る祝宴。

参考

●輝元卿朝鮮ヘ渡ラセ給フベキナレバ、秀元卿ニ系図ヲツラセ給ハントテ、満願寺ノ春盛法印ニ吉日良辰ヲ撰セ給ヒ、(*文禄元年)二月二日ニ系図ヲツラレテ、賀ノ御祝、夥シキアリサマニテゾアリシ、 &毛利家記・二

系図奉納 けいずほうのう

主君命により臣下が自系図を寺社等に奉納すること。〈系図献納〉にほぼ同じである。

参考

(*木村高敦按ずるに)寛永十一年、大猷公(*徳川家光)大小名御旗本の系図を太田備中守資宗、民部卿法印道春に命じ、是を撰ましめ、日光山東照宮へ御奉納の折柄、清泰院(*徳川家光の養女)の御方の御吹挙にや、彼左兵衛(*佐佐木義治の子)名家たるを以て、其系譜を倍臣といへども、是を召寄て御奉納の列に加へらるゝよし、室直清、予に物語す、&続武家閑談・十九

系図者 けいずもの

偽系図作者。

本来〈系図者〉は由緒ある系図の作成・修復を業とする職能者をいったが、中世以降、偽系図作りが氾濫するに及んで、悪名をさす意味へと化けてしまった。一部には落魄した名家の系図を買いあさる者も続出、彼らもまた、系図者といわれた。偽系図作りの系図者では、たとえば浅羽昌儀・沢田源内・多々良玄信といった者が悪名をとどろかせている。

参考

●近世系図者ト云アリテ、多ク諸家ノ系図ヲ妄作シテ、真ヲ乱ルモノアリ、(たとへ)バ紀州ニ保田庄司アリ、何人ノ妄作セルニヤ、新羅三郎義光ノ末、安田三郎義定ノ後胤トス、紀州ノ保田、関東ノ安田、其出自違ヒアルコトヲ不知、或ハ江州ノ人ヲバ、皆佐々木一族トシ、濃州ノ人ヲ土岐ノ族トシ、尾州ノ人ヲ斯波武衛ノ後裔ト妄作ス、想フニ江州ニ、藤、橘、伴、菅原、中原、平有、源氏モ宇多帝ノ後胤ノミナラズ、清和嵯峨の御末モ有、然バ(なん)ゾ佐々木家ニカギランヤ、美濃尾張モ皆同ジ、その妄作可悪(にくむべき)(はなはだし)キモノ也、(*中略)今世ノ人、正史実録ノ正趣ヲ不知、其妄説ヲ信ズルモノ、不明ノ至也、井沢長秀ガ曰、近世ノ系図ハ、子ヨリ親ヲ生ズルトイヘルゾ格言ナルベシ、&本朝姓氏弁

卿大夫 けいだいふ

系と大夫。転じて、政治の執行者。

「列国の卿大夫、入りては庶政を埋め、出でては三軍を(ひきい)る。」(日本詩史・二)

系統仮冒 けいとうかぼう

自身の出自を偽ること。

意味する範囲は広く、家系を偽ったり、偽系図を私したり、流行紋を弄したりすることの総称である。

系譜譲典 けいふじょうてん

一家の後継者に系譜を譲り渡すこと。

ことに明日の命も知れぬ戦乱期の武将間で、簡単な儀式とともに盛んに行われた。

参考

●上杉敗北并竜若最期之事/憲政、景虎ヲ養子ニシテ、上杉重代ノ太刀、天国并系図ヲ渡シ、関東ノ管領ヲ譲リ玉フ、&相州兵乱記・四

系譜調査 けいふちょうさ

〈系図作成〉、今風にいうなら〈ルーツ調べ〉。自分の家系を調べて系図などにまとめあげること。

まれには行きがかりの必要上、あるいは研究対象として、歴史人物の系譜の調査に及ぶこともある。系譜調査の目的は、だいたい次の三点に絞られる。

⑴自家の家系を明確にするため。

⑵史学的研究のため。

⑶趣味、物好きといった好奇心から。

傾名 けいめい

〈源氏名〉に同じ。くだけて〈女郎名〉とも称した。

芸名 げいめい

古くはゲイミョウとも。稽古事の師匠から芸能人までが職業用に使う氏名。

〈芸名〉は印象に残りやすいスタイルの命名が多く、なかには戯号風のものもある。江戸時代の芸妓に文須、豊津ね、文字いま、寅治、色葉などという凝ったものが見られる。今日では、三国連太郎(本名、佐藤政雄)、高倉健(同、小田剛一)、浅丘ルリ子(同、武藤信子)などはもうおなじみである。芸名と本名とを比べてみると、平凡な本名を避けてわざわざ芸名をつけたくなる気もわかろうというものだ。

芸名の由来はいろいろあるが、かつての時代劇スター「月形竜之介」は、月形洗蔵、武市半平太、月形半平太、芥川竜之介の四人からもらって合成し名付けたものという。なかには左記引例のように、古歌から借名するといった、凝った名付けも見える。

参考

●歌舞伎をどりの事/(*出雲の国という)此遊女男舞かぶきと名付て、かみをみじかく切、折わけに結、さや巻を指、きたのつしまのかみと名付、今やうをうたひ、ふぢよのほまれ世にこえ、顔色無双にして、袖をひるがへすよそほひを見る人、心をまどはせり、それを見しよりこのかた、諸国の遊女そのかたちをまなび、一座の役者をそろへ、舞台を立をき、笛、たいこ、つゞみを打ならし、ねずみ戸を立て、是を諸人に見せける、中にも名をえし遊女には、佐渡島正吉、村山左近、岡本織部、北野小太夫、出来島長門守、杉山主殿、幾島丹後守などゝ名付、是等は一座のかしらにて、かぶきの和尚といへるなり、&そゝろ物語

●古歌より拝借名(芸能人)/▽有馬稲子──有馬山いなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする(大弐三位)▽天津乙女──天津風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ(僧正遍昭)▽幾野道子──大江山いくのの道は遠ければまだふみも見ず天の橋立(小式部内侍)▽霧立のぼる──村雨の露もまだひぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮(寂蓮法師)

▽小夜福子──み吉野の山の秋風小夜ふけて古里寒く衣うつなり(参議雅経) *荻生まとめ

外記 げき

律令制下、太政官において詔勅ほか朝廷文書・公文書の作成等を任じた官職名。

のち岸外記、柴田外記など通名に転化した。

戯号 げごう

戯号(ぎごう)〉に同じ。☟戯号 

参考

●風来山人/名は国倫、字は士□、鳩渓と号し、紙鳶堂、又天竺老人と戯号す、通称を平賀源内といふ、初め森羅万象といひしが、後其号を門人森嶋中良(*竹杖為軽)に譲る、又院本に福内鬼外の名あり、&戯作者小伝

下姓 げしょう

姓の格式が低いこと。身分が低劣なこと。

「此の(そう)()曳く()()(そく)を見るに、下姓の人にこそ有るめれ、」(今昔物語・四の十五)

下女名 げじょめい

今様「お手伝いさん」に至るまでに、さまざまな通名で呼ばれてきた。

昔の〈下女名〉は、激しい変転のうちにも、らしさにならって付けるという、それなりの特徴があった。

参考

●或る老人申し候は、我等子供なりし時、下女の名はいと、なべと申す外に名は無きやうに覚えし、中年に及び候頃は、まん、なつ、竹、ふりと云ふと、申したる人もはや五十年前の事、享保の頃さやうの名もまれなり、さて家持の娘も惣領はお市、おはつ、次いでおさん、およつ又は亀の、鶴の、松竹と祝ひての名多し、今はさにあらず、人の名もめづらしきを好むなり、&拾椎雑話・六

血縁 けつえん

〈血筋〉〈血脈〉とも。

人と人とを結びつける血のつながり。

姓名学的見地から、また系譜学的見地から、自身の血統的存在を位置づける上で不可欠な要素である。

欠画 けっかく

〈欠字〉〈欠画名〉とも。

天皇、貴人の名と同じ漢字を用いるとき、敬意を込めて自分の命名には画を省き用いること。

参考

 欠画名 けっかくめい

〈三字欠画〉とも。天皇の御名を文書に用いる場合、その文字の末画を省いて表記すること。また、その文字を用いた呼称そのものをさす。

天皇以外の貴人、たとえば徳川家康らの名に適用した例もいくつか見える。貴人の諱を欠画して用いる習いは、唐の制度「為字不成」からきた由来で、左記引例により古くに根ざしたことがわかる。

この思想は近代に入っても踏襲された。たとえば明治元年十月に発せられた行政官規定には、

 すなわち、仁明天皇の「仁」、孝明天皇の「仁」、今上(明治天皇)の「仁」は畏れ多い実名であるか忌避せよ、という定めであった。近代化の遅れと一笑に付すよりは、貴人への実名忌避の因習がいかに根強かったかを認識したい。

参考

●為字不成/文書の内、御諱の字にあへば、其字を書しながら欠画して、他字に替るに及ばずと云事は、唐の制なり、西土にて、漢の世には、諱に替て行ふべき字を予め定しを、唐に及て斯の如く改しは、尤簡易の法、従べき事なり、是を為字不成と云ふ、六典に見えたり、夫より以来今にいたるまで因循せり、&古今要覧稿・姓氏

欠画名の廃止 けっかくめいのはいし

〈欠画名〉は明治五年四月、時代にそぐわない旧弊との趣旨で廃止と決まった。しかしせっかくの英断にも、引例のようななお節介な垂訓が出ている。

参考

●此迄御諱恵統、当今ノ御名睦ノ三字欠画ニ不及旨、御布令アリタル由。恐レ多クモ御名ハ睦仁様ト申上候、日本人ハ自国ノ帝ノ名ヲモ知ラヌト外国人笑ヒシ由、アタラ戒メテ忘ルルナカレ。&広島新聞・二、明治五年四月

血系 けつけい

血のつながりが認められる家系。直系の親族。

婿取り養子縁組で家を継いだような場合、父系の血は中断されるわけであり、この場合は「血系が断たれた」などと表現する。

貶名 けなしな

貶名(へんみよう)〉の和訓。☟貶名(へんみよ)

仮名 けみょう

和訓でカリノナとも。別に〈通称〉〈呼名〉ともいう。元服した者に烏帽子親などが、実名のほかに仮に付けた名。

狭義にいう〈仮名〉の慣習は実名忌避の思想から生まれた。実名は隠しておき、他人に知られたり呼ばれたりしても神霊に触れないような、あたりさわりのない名を付けて通用させた。たとえば平安王朝女流作家の紫式部も清少納言も和泉式部もみな仮名であって、実名はいまだ知られていない。

広義には、実名以外の人名を一括して〈仮名〉といっている。☟仮名(かりのな)

参考

●名字号/サテ吾国ニアリテモ、縉纓侯伯、スベテ尊貴ノ御上ハ余ガ論ズルトコロニ非ズ、士庶ノ上ニテイハヾ、実名ト云アリ、仮名ト云アリ、実名ヲ名乗トモイフ漢土ノ名ニヤ擬スベキ、仮名ハ俗名トモ俗称トモイフ、漢土ノ字ニヤ擬スベキ、然レドモ邦域異ナルヨリ、称謂モ相違アレバ、トクトハ符合シガタシ、何レニモ学事ニタヅサハラヌ尋常ノ人ハ、右ノ実名ト仮名ト二ツニテ事スメドモ、僅ニ学事ニアヅカル人ハ、右ノ実名仮名ノ外ニ、名字号ノセンギアリテ事多キヲ、詩文ニ用ル名字ヲ以テ、仮名実名ヲカヌル人アリ、此ニ余ガ論説アリ、&授業編・十

玄関帳 げんかんちょう

格式高い家で、訪問客に記帳させるための備え付け帳面。

「頼まれてつけかけをする玄関帳」(柳多留・七十)

 校 けんぎょう

〈建業〉とも。ここでは、盲人最高位の官名をさす。

参考

●当道名字の最初は後宇多院御宇城一検校在名筑紫方、是は菊地某所流にて其頃筑紫に住居たるが故に号す、城一の弟子在名八坂なり、伏見院御宇久我殿の御舎弟にて八坂塔の辺に住居たるにより八坂と号す、一方の初は如一検校、是は城一弟子在名坂東、其頃坂東に住居たる故坂東と号す、一方中興は覚一惣検校、是は如一が弟子在名明石、其頃足利家の庶流にて播磨明石に住居たる故なり、是職役惣検校の始なり云々&嬉遊笑覧・六上

源家 げんけ

〈源氏〉に同じ。

「源家に二の剣あり、膝丸鬚切と申しけり」(平家物語・十一・剣の巻下)

元元 げんげん

漢籍より、人民。国民。庶民。

軒号 けんごう

住居や寺院あるいは文人・芸人などに用いる雅号、ときには商号をいう。「──軒」のように接尾辞として用いる。

〈軒号〉には、たとえば観滝(住居)、紅葉(文人)、来々(商号)などがある。

参考

●法体の人、剣豪院号之事/大かたの人をば軒号院号斟酌候事也、讃州(*細川持常)を慈雲院と申候し事は、発心の体にて、然も其仁体一かどの儀にて候つる間、院号常に申したる儀也、軒号も同前ながらも、院号よりはあさく候はん哉、乃て両号の候事、常式は憚可在之、諸人なき跡に、寺院号を称する事、其例数多在之、&常照愚草・一

現在帳 げんざいちょう

平安時代の用語で、現世に生きる人々の略歴を記録した帳面。

〈過去帳〉に対応したもので、寺社が管理保管していた。。現代では死語化している。

源氏 げんじ

(みなもと)〉の姓をもつ、十数代にわたる士族の総称。

弘仁五年五月、嵯峨天皇はいまだ親王籍にない皇子・皇女ら三二人に臣籍降下を命じ、あわせて源姓を賜った。源氏発生の嚆矢、〈嵯峨源氏〉の誕生である。

背景には五十人といわれる御子らすべてに親王家を立てさせるほどの財政的余裕がない、という事情があった。

源氏には、嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、正親町源氏(以上十七流)を含め総じて二十一流がある。

参考

●源氏の姓/是は嵯峨天皇弘仁五年に、男女の皇子三十余人に、始て源氏の姓をくだされてよりはじまる、其前は源氏の姓はないぞ、其前は皇子も凡人にくだるとては、色々の姓があつたぞ、源の性が出来てからは、皇子の前の姓になる事は又ないぞ、それによつて帝王のみこの臣下にくだるをば、一世の源氏と云、親王宣下あれば親王なり、臣下になる時の事なり、又親王の子の臣下になるを、二世の源氏といふ、天使御孫なり、嵯峨天皇より後は、別の姓に成給はぬゆゑに、天子の子又孫をば、みな源氏と云ぞ、但近代は、天子のまごひこも、御猶子にて親王に成給ふ事あり、天子の彦其子までも、三世の源氏、四世の源氏とも云べきぞ、&珉江入楚・一・桐壺●源氏は、嵯峨天皇よりこなた、文徳、清和、光孝、宇多、村上、花山、三条の数流あり、しかれども中葉(なかごろ)より、清和の一流(ふん)(いん)たり、これも亦、おのづからなる威徳(いきほひ)なるべし、源氏は、与天子同源といふ義を取て、命ぜられたりとおもほゆ、(*中略)清和に(つぎ)て、嵯峨、宇多、村上の三源も、()に知られたる多かり、こは渡辺、佐々木、赤松等、(あまた)群書に(あらは)れたればなり、源氏は、皇子に、必命ぜらるゝ氏なれば、花山、三条以後なるも、なほ多からん、考ふべし、&玄同放言・三・人事二

源氏名 げんじな

〈源氏名〉には、次の二義がある。

⑴古くに、『源氏物語』五十四条の巻名を借りた朝廷女官らの優雅な名。

⑵新しく、遊女、芸妓、女給らが用いた営業用の仮名。

江戸時代にどんな〈源氏名〉があったかを知るには、洒落本を見るにかぎる。これらの本は、吉原から岡場所まで、まさに遊女の名の宝庫である。今では源氏名は⑵に転化し、独走状態で通用している。そしてユカリ、ナオミ、市丸などといった今日的なものは、本来の源氏そのものの呼称とはなんら関係がなくなっている。 ☟芸妓名

源氏二字氏名 げんじにじしめい

嵯峨天皇は皇子を臣籍降下させたとき、唐に倣って〈一字名〉を賜った。皇子らは親王の身分では正良、秀良、業良と「良」の〈系字〉をもつ〈二字名〉であったが、降下とともにそれぞれ信、弘、常といった〈一字〉になった。すなわち信ら兄弟は、源信、源寛、源明、源定、源鎮、源生、源融など、それぞれの氏名合わせて二字の特徴ある命名形式となったのである。

謙称 けんしょう

自身をへりくだっていう一人称。

小生とか愚生など。男が使う「おれ」も〈謙称〉の転化したものである。

別に、身内の者について謙遜した称え、たとえば愚弟・荊妻など。

原姓 げんせい

〈原理の改姓〉ともいう。元の姓。改姓の原理となった元の姓。☟原姓の改姓

原姓の改姓 げんせいのかいせい

原姓を基にした改姓。

大和時代以前に存在した姓が、今様の風を求めて、あるいは何らかの事情により、しだいに新しい姓に改められる場合が少なくなかった。次の例に見るように、この改姓は、不即(つかず)不離(はなれず)のものから一新したものまで、幅広い改変が見られる。

 石上→物部、大伴→伴、藤原→恵美、大中臣→中臣、土師→菅原、物部→高原、服部→清原、宇佐→和気、酒部→鴨部、百済→

()

紀→越智(おち)、高階→高、卜部(うらべ)→吉田

還俗名 げんぞくめい

〈法師還り名〉〈復飾名〉とも。ひとたび出家したものが再び俗人に帰り就ける名。〈還俗〉に伴い、再び俗名が得られるわけである。

参考

●さすながしの事/治承元年五月五日の日、天台ざす明雲大そうじやう、公請をちやうじせらるゝうへ、蔵人を御つかひにて、如意輪の御本そんをめしかへいて、御ぢそうを改易せらる、(*中略)そうをつみする習とて、度縁を召返し、げんぞくせさせ奉り、大納言の大輔藤井の松枝と云、ぞく名をこそつけられけれ、&平家物語・二

見丁簿 げんていちょう

令制で、課役対象の正丁を記入した帳簿。『続日本紀』養老元年五月の条などに見える。

玄蕃 げんば

律令制下、寺社管理や外交接待等の任に当たったのが玄蕃寮で、そこに勤める属官を〈玄蕃〉といった。

江戸時代には武士の通称として用いられた。 

元服親 げんぷくおや

〈烏帽子親〉に同じ。

「北条が事は、助長がためにも元服親にて候へば、某も書を以申べく候」(曽我物語・二)

元服子 げんぷくこ

烏帽子子(えぼしこ)〉とも。元服した子。〈元服名〉の命名対象となる子。

☟元服名

元服名 げんぷくな

〈烏帽子名〉とも。

武家の子息が元服時に幼名を改め付けた名。格式張った〈命名式〉のもとに執り行われた。☟烏帽子名

参考

●一元服以前は実名(ナノリ)なし、元服の日、加官の人の名のり字を申受て、家の通り字ある人は、その通り字と、とり合せて実名をつく也、又主君の御一字を拝領して、名乗る事も有、(*中略)/一主君へ御字の儀、願ひ置たらば、主君の御館へ出仕して、御字御腰物等給る也、公方様より御字拝領の事、折紙に被遊候て、御太刀又は御腰物にそへられ候て、御盃頂戴の時に、直に被下候を、一ツに取ていたゞき、御字をば左の手に持退出候、御腰物そへられ候事は、まれの儀に候、先御太刀計に候、御腰物そひ候時は、太刀のおびとりの間にとりそへ退出候、/一公方様へ御字申請る事、兼日申上候時、下の字、何と申字と申上、二字ともに御筆を染られ被下候事も有之、只御一字計御筆を染られ被下候事通法にて候、御字の折紙は引合也、御字を上におき、下の字は、我家々に定る字を付く事勿論也、&元服法式・元服次第

源平 げんぺい

源氏と平氏。転じて、敵と見方に別れること。

「源平と人をわくるとき(くじ)(とり)にすることもあり、」(古今香鑑・三)

参考

●宮の御さいごの事/足利が其日のしやうぞくには、(*中略)大おん声をあげて、むかしてうてき将門を亡ぼして、けんしやうかうぶつて、名を後代にあげたりし、俵藤太ひで郷に十代のこうゐん、下野国の住人あしかがの太郎としなが子、又太郎たゞつな、生年十七さいにまかりなる、かやうにむくはんむゐなる者の、宮に向参らせて、弓を引矢をはなつ事は、天の恐れすくなからず候へ共、たゞし弓も矢もみやうがの程も平家の御上にこそとゞまり候はめ、三位入道殿(*源頼政)の御方に、我と思はん人々は、より合や、げん参せんとて、平等院の門のうちへ責入々々戦けり、&平家物語・四

源平藤橘 げんぺいとうきつ

〈四姓〉とも。〈源平藤橘〉は源氏・平氏・藤原氏・橘氏の総称。

奈良時代以降、その一門が名をなした有数の氏姓である。

なお源平藤橘の順序は、始祖の成立順ではなく、語呂の良さのつづりでしかない。これを古い順に並べ替えると、藤(天智八年=六六九)→橘(和銅元年=七〇八)→源(弘仁五年=八一四)→平(天長二年=八二五)となる。

引例は、源平藤橘を引き合いに、〈(かばね)〉が姓なのか氏なのかを論じた一文である。☟四姓

参考

●姓氏ノ事/本朝ニ、イニシヘヨリ尸ト云コトアリ、朝臣、真人、宿禰、忌寸、県主ナドアマタアリ、中国ニハコノ事見エズ、本朝ニテ、所ニヨリマギラハシキコトアリ、公式令ノ内ニ、中務大輔位臣姓名トアルハ、コノ姓ハ源平藤橘ノ類ナリ、又同例ニ、凡授位任官之日喚辞、三位以上先名後姓、注云、仮令喚云秦万呂宿禰之類也、又五位先姓後名、注云、喚云秦宿禰万呂之類也ト、コノ姓ハ尸ノコトナリ、朝臣真人ノ類ヲサシテ云、又処ニ因テ、尸ヲ氏ト云コト国史ニ見ハル、シカレバ尸ヲスグニ姓トモ氏トモ云ナリ、&制度通・巻十

懸名 けんめい

〈根本私領〉とも。中世、武士の所有地で地名を苗字にしたもの。

原名 げんめい

おおもとの人名。別名・異名などを付ける前の名。必ずしも本名であるとは限らない。

原名簿 げんめいぼ

改変する前の、元の人名簿。

監物 けんもつ

律令制下、中務(なかつかさ)省に属し財政の出納に当った官職名の一。

のち三橋監物など、通名に転化した。

権利名義 けんりめいぎ

権利者としての名義。権利条の利害関係を生じる名義。 

 

 

小── こ──

「小」の一字を冠した人名。

平安貴族の間で発祥し、〈小〉の字を付けることで親しみを表したものである。ことに女官名に侍従、宰相、式部など〈小──〉が目立つ。後に男子でも、太郎、次郎など輩行に冠して用いている。

参考

●人の名に小の字をつくる事/春塘(しゆんたう)故実に云、禁中にては君の御寵愛なさるゝ者には、小の字をつけ給ふとなり、小宰相、小侍従、小左衛門など有、これ大宰相、大侍従、大左衛門と云ありて、それに対するの小にてはなし、小とは親愛し玉ふの意なりと云、又武門にては本妻腹にてなき子に小の字をつくる事有、小太郎、小次郎などの類なり、仁田小太郎も妾腹の一番の子なりと云、按に、後太平記、二条大宮二度合戦の段に、山名小次郎討死の処に、これは先年和泉国土丸(つちまる)の城にて討死し玉ひし山名右馬頭の子息、陸奥守の甥なり、母は妾人(おもひもの)の腹に出来玉ひしを、父討死の後、取立申人もなくて、母の養育にて、但馬国に坐しけるを、氏清これを憐みて呼出し、猶子に定め置きたると云、&它山石・一

──子、男名 ──こ/おとこな

末尾に「子」の字のある男子の名。

今でこそ女子名専用のようになっている「子」の付く名も、古代には男女を問わず愛称として用いられた。有名なところでは、藤原鎌足(鎌子)、蘇我馬子、小野妹子がいるが、引例のように詳しく例示した文献もある。

参考

●中昔よりこなた、女名に某子といふこと、なべての例なり、いにしへにもをり〳〵見えたり、さていにしへは、男の名にも、子といへる多し、まづ神武天皇の御世に、石押分(イハオシワケ)之子(ノコ)贄持(ニヘモツ)之子(ノコ)といふあり、古事記仁徳天皇御段に、丸邇(ワニノ)口子(クチコ)、書紀応神御巻に、壱岐直真根子(マネコ)、仁徳御巻に、茨田連衫子(コロモノコ)、又佐伯直阿俄(アカ)能胡(ノコ)、履中御巻に、阿曇連浜子、雄略御巻に、佐伯部仲子(ナカチコ)、又難波吉士(アカ)目子(メコ)、又倭子(山とコ)連、又水江浦嶋子、継体御巻に、筑紫君葛子(クズコ)、又()(ヅラ)()、安閑御巻に、稚子直、欽明御巻に、中臣連鎌子、又葛城山田直瑞子(ミヅコ)、敏達御巻に、吉士金子、又大伴糠手子(糠テコ)連、又物部贄子(ニヘコノ)連、推古御莒巻に、小野妹子など見えたり、さて右の名どもの中に、石押分之子、贄持之子、古事記書紀ともに、之字あり、仁徳御巻の衫子の訓注に、莒呂母能古(コロモノコ)と見え、又阿俄能胡(アガノコ)、復浦嶋子、又中臣系図に、鎌足公の祖父の名、方子とも、加多能胡(カタノコ)とも書ける、これらによらば、すべて皆某之子と、之をそへてよむべきかと思はるれど、又継体御巻なる目頬子の、歌に梅豆羅古(メヅラコ)とあれば、なべて之といふべきにもあらず、さて推古御巻に、安部臣鳥といふ人を、鳥子ともあり、又敏達御巻なる糠手子連を、崇峻御巻には糠手連と見え、舒明御巻に、中臣連弥気(ミケ)とある人を、家系図には、御食子(ミケコノ)大連公と見え、又皇極御巻に、巨勢臣徳太(トコダ)とある人を、孝徳御巻には、徳陀古(トコダコ)ともある、これらをもて見れば、子といふことを、はぶきてもそへてもいへるも有りしにや、&玉勝間・八

戸 

人名関係の〈戸〉には、次の三義がある。

⑴家と、そこに住む家族。

⑵人別。戸籍。☟戸籍

⑶律令制で、行政区分上の家。戸主と大家族で構成する「()」。

──公 こう

古くに、貴人や大臣の雅号に下付けした尊称。

(*天平宝字四年八月七日、藤原不比等に対し)(せい)の大公の故事に依りて、追ひて近江(ちかつあふみ)国十二郡を(もち)て封して淡海公(たむかいこう)とすべし。(*読み下し)(続日本紀・二十三・淳仁天皇)

号 ごう

〈別号〉〈雅号〉とも。近代に文人、学者、禅僧らが実名や(あざな)のほかに付けた風雅な名。広義には、〈筆名〉〈ペンネーム〉も号のなかに入る。

号は身辺にいくらでも見出せるので、例示までもあるまい。漢の習俗を踏襲しているため、ほとんどが漢風である。また号は、左記引例のように、美称でもあるので、同輩以上の人に対しては〈自号〉を使うべきでない、と諭している。いずれにせよ、号付けの慣習は日本の姓氏制度をより複雑化させている。☟別号 ☟雅号

参考

●号 別号/号は人君の成徳を表し、いさをしをあらはし、臣庶に号令し示すものなり、白虎通、上代に伏義、神農、燧人といひ、(*中略)皇朝にても、文字に携はる人は、号ある人もあり、然るに後世のことにて、古には所見なし、その号は美称なればにや、人に対していふは倨傲に近ければ、卑賤に対するは別なり、同輩以上の人には憚るべきことなり、&古今要覧稿・姓氏

更衣 こうい

朝廷後宮の女官〈召名〉の一。

のち野村更衣など、通名に転化した。

「いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひ給ひける中に」(源氏物語・桐壺)

庚午年籍 こうごのねんじやく

天智九年、庚午の年に作成された戸籍。

参考

(*大宝三年七月五日)詔して曰はく、「籍帳(じやくちやう)(まうけ)は、国家の大いる(まこと)なり。時を()ひて変更()へば、(いつは)(かく)すこと必ず起らん。庚午(かうごの)年籍(ねんじやく)(もち)て定とし、更に改め()ふること無かるべし」とのたまふ。(*読み下し)&続日本紀・三・文武天皇

公戸 こうこ

令制で、良民すなわち一般人の戸籍をさす。『続日本紀』養老五年七月の条などに見える。

鴻号 こうごう

漢称で、偉大な名前。帝王号。

皇嗣 こうし

〈皇儲〉とも。天皇の世継ぎ。皇位継承の第一順位者、つまり皇太子。

「皇嗣 マウケノキミ。天子ノ御世継。皇継。皇儲」(新編 大言海)

好字 こうじ

よい字。名付けなどに好ましい文字。文字通り好をはじめ良、義、善、佳、嘉、和、福、幸、美、富など。

一般に人名に多用される文字は、時の流行反映などをも含め〈好字〉であるとみなせる。

小路名 こうじな

〈小路名〉には、次の二義がある。

  院や禁中の女房の名に京都の小路の名を借辞したもの。春日、高倉、京極など。

「我くらゐあさく候ゆゑに、おほぢが子にまゐり候ひぬるうへは、こうち名をつくべきにあらず候ふ」(とはずがたり・巻一)

  貴人に敬意を表し、書簡表書に実名や官職名を避け住所の名のみを書いたもの。宇治殿、京極殿、一条殿、冷泉殿、知足院殿の類。

同じ姓氏の父子でも住む所が違えば別々の小路名を名乗ったし、住所が変わるにつれて小路名も変わるのが普通であった。

孔子名 こうしめい

コウシナとも読む。わが国で用いた漢土風に真似た通称。

他人から実名を直称されるのを避けるため別称として用意された。古代中国の思想家孔子は、実名を「丘」、字を「仲尼」、そして通称を「孔子」と称した。このうち孔子に相当する通称を敷衍して、わが国儒者らの間で、〈孔子名〉と呼ぶ習わしになった。

公称 こうしょう

人名では、おおやけの名。

貴人や武家のように、名乗りを示す機会の多い者は、実名を隠し、いわば公用の名字をもっぱら用いた。たとえば『吾妻鏡』には、豊三家康・藤内光澄・志賀九郎・熊谷四郎・与野太郎・平太男・佐藤左衛門尉忠信といった〈公称〉が見える。

広義には、「源」「平」「藤」「橘」もまた、公称である。たとえば執権北条氏の場合、朝廷への上奏文書には北条の氏を出さず、「平」で通したことで知られている。同様に徳川家では、朝廷に対し「源」を表に出している。

公人 こうじん

〈公人〉には、次の二義がある。

⑴公職にある者。広くは役人。公務員。〈私人〉に対応する法制上の言葉である。

⑵その名が世間に通っている人。現代、この意味で使われることは少ない。

高姓と下姓 こうせいとげせい

〈内階と外階の姓〉と言い換えてもよい。

位階制で、従五位下以上を内階=高姓、これに至らない冠位を外階=下姓といった。位階に伴う姓の呼称に尊卑を適用したものである。

参考

●貞丈云、内位、内階トモ云、外位、外階トモ云、多モ狛モ楽人ノ氏也、多氏ハ朝臣ノ姓ニテ貴シ、狛氏ハ宿禰ノ姓ニテ賎シキ也、サレバ多ハ内位ニ叙シ、狛ハ外位ニ叙シタル也、&貞丈雑記・四・官位

公籍 こうせき

公式手続きを経て登録された戸籍。

「人民尽く公籍に帰し、諸従僕は尊卑に従ひ」(公議所日誌・明治二年五月)

皇祖 こうそ

天皇の始祖。天照大神から神武天皇までの代々の神。

皇祚 こうそ

天皇位。

詔勅の類によく見える。

皇宗 こうそう

天皇代々の先祖。

具体的には、(すい)(ぜい)(第二代)に始まり当代に至る天皇の総称。

皇帝号 こうていごう

帝王・君主への尊称。

中国、秦の始皇帝が初めて称したが、わが国では故実上の特例として、聖武天皇のみこれに該当する(ほかは天皇号)

皇統譜 こうとうふ

天皇と皇族の身分や主要事項について記した戸籍簿。

最新のものは昭和二十二年制定の「皇族の身分を離れた者及び皇族となった者の戸籍に関する法律」に基づいて作成され、「大統譜」ならびに「皇族譜」から成っている。

参考

●久邇宮良子女王殿下(*のちに昭和天皇の皇后)が、立派に皇太子妃として立たせられてから、すでに二週間を経たにも拘らず、未だ光輝ある皇統譜に「良子女王」の御名を列記し奉ることが出来ないと云ふ一大問題が宮内省に起つて居る。それは皇統譜に記入すべき事項、字句の様式に就てである。(*後略)&万朝報・大正十三年二月九日

皇別 こうべつ

『新撰姓氏録』での分類で、天皇家から別れ臣籍降下した氏。

「源氏」「平氏」「橘氏」など。

高名 こうめい

〈御高名〉とも。相手を敬ってその名を挙げること。

「ハハア御高名うけたまはりおよびました。十返舎先生でござりますか。」(東海道中膝栗毛・五下)

誤記名 ごきめい

人名を誤って記すこと。

音通は当て字誤りが多い。たとえば大伴馬来多→大伴望多()、藤原(ふひと)→藤原不比等()、藤原馬合→藤原馬養()など〈誤記名〉が、『日本書紀』や『続日本紀』においてすら何例か散見できる。

国司 こくし

もと〈国造(くにのみやつこ)〉といった。分割地方の統治者を指す。☟国造

参考

●国司/皇極天皇の時、国造を国司と改む、後頼朝自ら総追捕使となりて、国毎に守護を置きし時より、一国に二人の国守あり、その公家より置くを国司といひ武家より置くを守護といふ、&明治節用大全

国師号 こくしごう

〈国師〉とも。朝廷から禅宗、律宗、浄土宗の高僧に賜わる号。

国称 こくしょう

江戸時代、許されて庶民が苗字を名乗ること。また、その苗字。

「屡県監の褒賞を拝して氏の国称を許さる。」(北越雪譜・二・凡例)

国民皆姓 こくみんかいせい

国民すべてが姓を持つこと。

明治三年九月、太政官令により、「自今平民苗字被差許候事」と、すべての国民が姓を名乗ることを義務付けられた。徴税と徴兵の手前、個人の識別をはっきりさせる必要が生じたためである。四民平等などという建前は後からとってつけた思想に過ぎなかった。明治の社会戯評のなかには、新設の華族、士族、卒族、平民という厳然たる身分差を「四民不平等」と揶揄しているものもある。

それまで無苗無氏に慣れた庶民にとって、〈国民皆姓〉は青天の霹靂のような事態で、国中に混乱が生じた。数年たっても姓を名乗らないものが絶えなかった。業を煮やした明治新政府は、引例のように再度の官令「平民苗字強制令」を発している。☟明治新姓

参考

●平民苗字被差許候旨明治三年九月布告候処今自必苗字相唱可申 尤祖先以来苗字不分明ノ向新タニ苗字ヲ設ケ候様可致此旨布告候事&太政官令・布告二二号、明治八年二月十三日布告

国民籍 こくみんせき

いわゆる国籍。

国際法上、特定国家の国民であるための資格となる。

戸口調査 ここうちょうさ

近代語で、戸別訪問による戸籍等の調査。

居士 こじ

〈居士号〉とも。男性の死去に伴い、戒名に付ける称号の一。

後字名 ごじな

〈後字〉とも略す。天皇の追号に「後」の字を冠らせること。また、その追号。

深草や醍醐などの例。左記引例のように有職故実上は「のちの」と大和訓で読むが、今では通じて「ゴ」と音読みが慣例になっている。

参考

●貞丈曰、後深草院ヲ、ノチノフカクサノ院ト読ム習い也、ゴフカクサト読ミテハ御フカウト云フヤウニキコエテワロキユエ、ノチノフカクサトヨム也、&貞丈雑記・二

戸籍 こじゃく

古訓でヘノフミタ、ヘフムタ。〈戸籍(こせき)〉の昔読み。 

律令下、戸を単位に人民一人ずつについて登録集計し、五十戸ごとに一巻にまとめた帳簿。課役や平定などに備えて、良賎身分の掌握や氏姓の確定を目的に作成された。古代吉備国での「田部帳籍(たべのよぼろのふみた)」、大化元年の「大化の戸籍」、初の全国戸籍「大宝令」、天智天皇九年の「庚午年籍」や持統天皇四年の「庚寅年籍」などが知られている。☟戸籍(こせき)

戸主 こしゅ

〈戸主〉には、次の二義がある。

  律令制で、〈戸〉の長。

  一戸を統括し一家を督養する長。昭和二十二年の戸籍法公布に伴い、家父長制は廃止となり、戸主に代わるものとして〈戸籍筆頭者〉が用いられている。

呼称 こしょう

呼び名。

われわれは普通、〈呼称〉とか〈呼び名〉あるいは〈名称〉〈名前〉などと同義にとらえ用いている。「命名」が行為としての意味合いが強いのに比べ、「呼称」は命名済みの物事そのものをさす言葉である。したがって「呼称」が成立するには、〈命名行為〉が前提となる。たとえばソメイヨシノという呼称の以前に、桜木の特定種目に対する命名がなされていなければならない。また吉野という姓が成立するには、よりどころとなる地名が必要なのである。

これとは別に、「呼称」には呼び称えること、つまり命名行為の意味もあるが、こちらの意味合いは薄れている。よって、「命名行為」と「呼称」とは用法上の使い分けが必要である。

呼称敬避 こしょうけいひ

〈実名敬避〉に意味はほぼ同じ。☟実名敬避

呼称の機能 こしょうのきのう

〈呼称〉は命名行為の始まりであると同時に帰結である。命名行為を具体化したものが呼称である。物の存在は名付けされて始めて実態をもつ。その呼称には、

  被呼称の象徴化

  被呼称の識別化

という二大機能がそなわっている。①は名付けのシンボルとしての存在を示し、②は他との識別として存在する。そして①と②とは互に求心しあう存在である。さらに人や競走馬などの呼称の場合、

  家系、血統など血縁の顕示

という機能が付け加えられる。

時系列を通じての血縁関係を知るには、人なら系図や姓氏、競走馬なら血統書が決め手となる。①②が横軸の象徴・識別なのに対し、③は縦軸の特徴を示している。

ことわざに「名は体をあらわす」というのがある。名付けには対象にそなわったらしさが不可欠で、実体との間に不即(つかず)不離(はなれず)の関係が保たれていなければならない。人名でも物名(とくに商品名)でも、連想イメージからかけ離れた名付けは摩擦を生じ、呼称機能が十分に発揮されたとはいえないのである。命名の場合、言葉の選択がきわめて重要なわけである。

小/阿の字 こ/おのじ

「小」または「阿」の字の付いた女子名。

「小」の場合は、朝廷女官の役職名が通称化したものがほとんどである。

参考

●今婦人ノ名ニ、阿ノ字ヲ冠ラシムルコトハ、タトヘバ政子ト云フヲ、おまさト云フガゴトシ、太平記ニ、高師秋ガ菊亭殿ニ在リシ阿才ト云フ女ヲ奪ヒシ事アレバ、四五百年以降ノコトヽ見エタリ、今ノ(カラ)ニテモ女ヲ呼ブニ()ヲ付クルト云フ、&撈海一得・下

御新造様 ごしんぞさま

〈御新造〉とも。武家・上流商人の妻への尊敬語。

江戸時代には用法範囲が広まり、現代の奥様に匹敵するほど一般化した。

参考

●しかるに二、三十年以来、用人・渡り用人の類の妻女、町人も相応にくらす者の妻は、御新造様と云ふ。(*中略)大名の嫡子の室を御新造様と称することを知らずして、僭上無礼なること(にく)むべし。&類聚近世風俗誌・四人事

個人の識別表示 こじんのしきべつひょうじ

現代社会では、個人個人が異なった〈氏名〉をもち、互いの識別を容易にしている。そして氏名は戸籍に公式に登録され、みだりな改変は許されないようになっている。

個人の識別表示といっても、機能重視によるものは限界がある。たとえば納税者番号のように、何桁もの数字の羅列だけで個人を特定されたら、社会混乱を招いてしまう。

文字や音声の組み合せというソフトな命名があって、初めて本来の識別機能が発揮される。

故姓 こせい

〈廃姓〉とも。すでに廃絶した姓氏。☟廃姓

古姓氏音訓 こせいしおんくん

〈古姓氏〉を音訓読みした場合の類別を、古典『姓名録抄』がまとめている。この手法は現代の姓氏分析にも応用できよう。

⑴一字訓姓七十二氏……源、橘、平、笠、船、伴、(つね)(やまと)ほか

⑵一字音姓七氏……紀、金、鄭、陳、戸、丁、

⑶二字訓姓五百六十八氏……藤原、菅原、清原、大原、朝原、家原、井原、中原ほか

⑷二字音姓八十三氏……当麻、丹墀、佐伯、加茂、依地、志斐、支岐、讃岐、志紀、多岐、阿岐ほか

⑸上音下訓姓十四氏……南淵、(ハン)()、伊部、丸部、佐井、珍別(チンワケ)、伯根、阿那ほ

⑹上訓下音声八氏……公使(クラム)、国覔、毛乃、多布、下耳(シモニ)、土師、大師

⑺三字訓姓五十六氏……中臣部、栗田部、三枝部、額田部、飛鳥部、日下部、日下部ほか

⑻三字音姓七氏……甘南備、多治比、阿須波、牟偈都、宇自可、阿佐波、阿刀岐

⑼上二字音下一字訓姓十二氏……伊香原、宗我部、蘇宜部、品治部、伊福部、許世部、為奈部ほか

⑽上下訓中一字音姓一氏……馬師部

⑾上一字訓下二字音姓二氏……(やまと)恵師(えし)(ハタ)(カガ)()

⑿上二字訓下一字音姓一氏……(ワカ)湯気(ユケ)

⒀四字訓姓四氏……五百木部、高安漢人、小椅(マハ)(シメ)辛島(カラシマ)(ハタ)(カツ)

 

⒁四字音姓三氏……安倍志斐、巨勢飛騨、秦加々牟

⒂五字訓姓三氏……大神(オホミワ)真神田、中臣高良比(タカラヒ)、佐々岐山公

戸籍 こせき

古語でコジャク、ヘジャク、ヘミフタなどと称した。近世、関西では〈水帳〉ともいった。一戸ごとに戸主をはじめ家族の続柄・氏名・生年月日・性別などを記録した公文書。

わが国での戸籍の始まりは、崇神天皇十二年とされている。その後、律令下で全国規模の整備が行われたが、やがて衰退した。明治維新後、戸籍法の施行で復活した。

現行の戸籍は、国民個人の身分関係を時系列順に明確化することに重点を置いた記載になっている。その機能上の要点をまとめると、

①個人の身分関係の登録公証となる。

②本人が日本国籍を有することを間接的に証明する。

③市町村の同一区域内に本籍を置く一夫婦とその子ごとに編成される。

④戸籍が記載された戸籍簿は、地番号もしくは街区符号の順につづって保存される。

  筆頭者氏名は、いろは順か五十音順で整理されている。

⑥戸籍は原則公開性で、誰でも謄本、抄本の交付申請ができる。ただし、「必要とする理由」に相当することが条件である。

以上のほか、戸籍は正本と副本とを設ける、戸籍が滅失したときの再製、除籍するときの規定などが戸籍法により規定されている。☟戸籍(こじやく)

参考

●江戸戸籍は、各上に生国某国某郡某村、戸主には某町何町目家持某、某町幾町目家主某店某、妻は妻某、男女子ともに子某、娘某、童僕、妾婢は男女ともに召仕某と署す。また戸主等疾病あるひは幼稚あるひは女主には(もり)を付し、あるひは代人を用ふ。代判と云はず、某煩に付後見某と云ふ。(*割注は略)&類聚近世風俗誌・四人事

戸籍原本 こせきげんぽん

戸籍事務を管掌する市町村、特別区の長が最初に作成した基となる戸籍。

戸籍再製 こせきさいせい

戸籍は役所において厳重に取り扱い、保管するよう義務付けられているが、火災・天災や事変などで滅失する恐れもある。また、長い間には、虫食いやかびの発生による汚損も考えられる。このような滅失、破損の事態は戸籍制度に支障をきたすため、法務大臣はその再製または補完について必要な処分を指示することができる(戸籍法第十一条)

以上のように、戸籍の滅失に備え元通りに復元することを〈戸籍再製〉といっている。

戸籍再製の経緯 こせきさいせいのけいい

戸籍法の改変は〈戸籍再製〉の歴史でもある。その流れを大雑把に見てみよう。

⑴明治四年戸籍法

原初の戸籍法で、戸籍再製という概念はまだ見られず、用語上は「戸籍の改正」で通っていた。

  治五年戸籍法

戸籍編成後六か年ごとに戸籍を改製する旨が明文化してあるが、実施されることのないまま明治十九年に至る 

  治十九年戸籍法

明治十九年十月十六日内務省令第二十二号「戸籍取扱手続」のことで、規定により戸籍簿の焼亡紛失に備え副本をもって編成しなおすという、戸籍再製の概念がはじめて打ち出された。

  治三十一年戸籍法

司法大臣に戸籍再製命令の権限を付与し、戸籍再製の徹底を図るようになった。また、滅失した場合は、その旨を告示するという制度化が明示されている。

⑸大正三年戸籍法

明治いらい引き継いできた身分登記簿という呼称が、ここに初めて「戸籍簿」へと改められた。あわせて、「滅失の恐れのある」戸籍の再製という、予防措置の概念が拡大したことも注目に値する。

  行戸籍法

戦後間もない昭和二十二年に、全面改正となった現行戸籍法。

○昭和三十三年九月十五日に法務省民事局長の通達「用紙が粗悪のため滅失の虞がある戸籍の再製について」。これは戦後混乱期の劣悪な用紙事情を反映しての措置である。

⑺平成十四年改正戸籍法

戸籍実務のうち、不正な戸籍の届出がなされた場合について、その取扱い等に関し、条文の一部を改正した。これに伴い、「申出による再製」という再製事由が新たに組み込まれた。

戸籍事務の管掌 こせきじむのかんしょう

戸籍の届出の受理、戸籍の記載及び戸籍の公開などの事務処理は、戸籍法に基いて市区町村が管掌する。

旧来は国から委託された市区町村長が代行する形で処理していた。しかし平成十一年七月に「地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律」(略して「地方分権一括法」)が施行されるに及んで、戸籍事務も市区町村が処理するべき法定受託業務に区分され、その執行機関として市区町村長が管掌することになった。

戸籍抄本 こせきしょうほん

〈個人事項証明書〉とも。

戸籍簿における本人のみの写し。

これに対し筆頭者以下全員の写しが「戸籍謄本」であり、また「全部事項証明書」といっている。

戸籍謄本 こせきとうほん

〈全部事項証明書〉とも。

筆頭者をはじめとする一戸全員の戸籍の写し。これにより本籍地、筆頭者氏名、戸籍事項、身分事項、父母名、父母との続柄、配偶者、出生年月日が判明する。

結婚などで戸籍の異動があるとき、海外旅行の手続きのとき、自動車免許など公的資格を取得するときなど、謄本または抄本が必要である。なお謄本、抄本の有効期限は、提出先において三カ月と定めているのが普通である。

戸籍の基本 こせきのきほん

明治四年四月の戸籍法法改正に先だち、その布告の書写が『太政官日誌』に見えるので転載しておく。わが国の戸籍史を知るうえで、基本となる史料である。

参考

●御布告書写/○今般府藩県一般戸籍ノ法、別紙ノ通改正被仰出候条、管内普ク布告致シ可申事。戸籍検査編製ハ、来申年二月一日ヨリ以後ノ事ニ候得共、右ニ関係スル諸藩ノ事ハ今ヨリ処置致ス可ク、尤三都府及各開港場ハ、人民輻湊ノ地ニテ、取締向速ニ不相立候テハ難相成ニ付、送籍入籍並旅行寄留ノ者ヘ鑑札渡方、寄留表取調方等、当六月二十九日ヨリ後ルベカラザル事。但、不審ノ廉ハ民部省ヘ可承合事。/右之通被仰出候事。/寄留、職分、戸籍、三表有リ、略之。/○人生始終ヲ詳ニスルハ切要ノ事務ニ候、故ニ自今人民天然ヲ以テ終リ候者、又ハ非命ニ死シ候者等埋葬ノ処ニ於テ、其時々其由ヲ記録シ、名前書員数トモ、毎歳十一月中、其管轄庁又ハ支配所ヘ差出サセ、十二月中弁官ヘ可差出候事/右之通、管内社寺ヘ可触達候事。/○戸籍(いへかず)人員(ひとかず)を詳かにして猥りならざらしむるは、政務の最も(まつりごとのつとめ)先じ重ずる所なり、夫れ全国(こくない)人民(ひとびと)の保護(たもちまもる)大政(ことおふひなるまつりごと)本務(もといつとめ)なること、素よりいふを待ず、然るに其保護すべき人民を詳にせず、何を以て其保護すべきことを施すを得んや、これ政府戸籍(にんべつちよう)を詳にせざるべからざる儀なり、又人民の各安康を得て、其生を遂る所為のものは、政府保護の庇蔭(おかげ)によらざるはなし、されば其籍(にんべつ)に逃れ、其(かづ)に漏るゝものは、其保護を受けざる理にて自ら国民(くにたみ)の外たるに近し、此れ民戸籍を納めざるを得ざるの儀なり、中古(なかごろのむかし)以来(このかた)各方(くにぐに)民治(たみのおさめかた)、趣を異にせしより、僅に東西を隔つれば忽ち情態(こころばせ)を殊にし、聊か遠近(とほきちかき)あれば、即ち(こころざし)(おこなひ)を同ふせず、随て戸籍の法も、遂に錯雑(いりまじり)(ついえ)を免れず、或は此籍(にんべつ)を逃れ、或は彼籍(にんべつ)を欺き、去就(ではいり)こゝろに任せ往来規(ゆききのり)によらず、沿襲(しきたり)の習、人々自ら度外(かまわぬこと)に付するに至る、故に今般全国総体の戸籍法を定らるゝを以て、普く城下の通義(なすべきすじ)を弁へ、宜しく粗略のことなかるべし。(*左ルビを右ルビに、以下の各則略)&太政官日誌・明治四年四月五日

戸籍の編成原理 こせきのへんせいげんり

戸籍には筆頭者、その配偶者、筆頭者と氏が同じ未婚の子が記載されていて、この一括編成を〈戸籍の編成原理〉といっている。

戸籍筆頭者 こせきひっとうしゃ

戸籍を代表する者。

〈戸籍筆頭者〉は戸籍の冒頭に記されるが、法律上の特別な権限が与えられているわけではない。夫婦の場合、話し合いによりどちらが筆頭者になってもよい。

よく〈世帯主〉と混同されがただが、こちらは世帯の代表者であって、世帯員の法的届出を代行しうる資格が与えられている。

戸籍表の編製 こせきひょうのへんせい

明治七年、〈全国戸籍表〉を編製した旨の太政大臣告示。

参考

●官令 第三十七号/今般戸籍寮ニ於テ全国戸籍表編製候条、此旨以心得相達候事。明治七年三月二十四日 太政大臣 三条実美&日新真事誌・明治七年三月二十七日

戸籍簿 こせきぼ

同一市区町村の住民の戸籍の原簿をとじた帳簿で、市区町村役所でこれを保管する。

〈戸籍簿〉は、国民の親族法上の身分関係を証する重要な帳簿で、「戸籍謄本」や「戸籍抄本」交付のよりどころになっている。そのため全国統一の規格や基準に従って登録、記載され、かつ、長期の保存にたえるよう用紙の規格と様式が定められている(法務省令)。また、戸籍簿と除籍簿は、滅失してはならない重要書類であるため、その取り扱いや保存について、細心の注意が促されている。

戸籍法 こせきほう

戸籍制度に関する諸規定を定めた法律。

明治四年に太政官令により初めて制定された。現行法は、昭和二十二年十二月二十二日に旧法を全面改正した法二二四(第一~六章)を施行している。

参考

●戸籍法の始/明治二年三月八日、戸籍改正を以て、東京府下に無籍者を留宿するを禁じ、同四月十五日、重ねて府藩県に令して、戸籍を釐正し、逃亡者を復帰せしめ、其犯罪逃籍の者、大辟を除くの外、悉く之を宥せり、四月十九日、戸籍改正を以て、東京府令して、久離牒外の称を停め、其放逸亡頼(ぶらい)、及び亡命者は、府庁に稟告せしむ、四年四月二十四日、戸籍法を改正し、其規則三十三則を頒ち、且つ告諭を発す、『今般、全国総体の戸籍法を改めらるゝを以て、普く上下の通義を弁へ、宜しく粗略のこと無かるべし』と。/各人の戸口に、本貫族籍、戸主の氏名、及家族男女の員数を掲出せしめしは、この四月の布告に始る。/五年二月より検査編製せしむ、〔珍奇競〕に『家族何人の門口札、六()ハヤク カル』とあるは、家族数を門口に表出せしめし地方ありしをいふ。/全国、維新当時の戸籍は、甚だ粗笨のものに過ぎず、故に、たとへば、小学校を建設し、教科書を製出せんとしても、拠るべき児童数明かならず、又徴兵制を創めんにも、壮丁の概数を知るべき由なく、何事を為さんにも、この有様なれば、その不便想ふべし。&明治事物起原・上

戸籍法施行規則 こせきほうせこうきそく

戸籍法に付帯の施行規則(昭和二十二年十二月二十九日施行、司九四)で、全五章から成る。

これの付表第二に〈人名用漢字〉が掲げてある。

戸籍名 こせきめい

戸籍上の名。〈登録名〉とも。

〈本名〉あるいは〈実名〉とみなせる。

戸籍上の命名については、戸籍法などでいくつか制約が設けられており、その範囲で良識に基づいた名付けが必要である。

官制の用語についても見直しが試みられ、次の記事のように、それまで人別張に記載された「願人坊主」の呼称が不当であるとして外されている。

参考

●橋本町芝新網町下谷豊住町等居住、従来の道楽僧(ぐわんにんぼうず)と云へる者、更に其称を廃し、銘々渡世に応じたる肩書に戸籍面を改めべく指令ありたるよし。&郵便報知新聞・明治六年八月三十日

戸籍文字 こせきもじ

戸籍に使う人名用文字。☟人名用漢字

御前 ごぜん

複義があるが、一般に男子を含めた貴人に対する尊称、または呼びかけに用いる。

狭義には中世、貴人の女子名の通常的な尊称(この場合はゴゼとも)に用いられた。勇名を馳せた巴御前がその代表である。また、藤原定家の姉妹を引き合いに出すと、候名(さぶらいな)と〈御前〉の呼名とは次のように結びつく。

 六角殿=祇王御前、前斎院大納言=竜寿

 前、承明門院中納言=愛寿御前、上西門院五条=閉王御前、民部大輔=延寿御前、建春門院中納言=健御前

参考

●御前 俗に貴人の御座所をもいひ、直に貴人の御事をもいへり、(*中略)源氏物語横笛巻に、大将こそ宮いだき奉りて、あなたへゐておはせとみづからかしこまりて、いとしどけなげに給へば云々、今昔物語に父こそ、宇治拾遺に地蔵こそ、大和物語に西こそといへるこそも、御前の転じたる詞なるべし、俗には姫ごぜ、尼ごぜとも云へり、皆同じ、&勇魚鳥・二編

小僧号 こぞうごう

江戸時代、名の下に「──小僧」の形で付けて呼ぶ異名。

たとえば「鼠小僧」「弁天小僧」など。

古典読み こてんよみ

漢字諱の読み方の一つで、古来の漢音をなぞって読むこと。

たとえば孝をタカ、真をサネ、卿をサトと訓むもので、公家社会での〈公家読み〉に対応した言葉である。

五等親 ことうしん 

自己から見て傍系親までを含め、五等までの親族を言う古称。

〈令義解〉など法制史料に載っているが、現行戸籍上の親等は、昔とやや異なる点がある。☟人名レファレンス資料親族系統と親等

「寿」名 ことぶきな

名の中に〈寿の一字〉を用いたもの。

寿太郎、寿彦、袈裟寿、女子で寿(ことぶき)寿(とし)子など長寿と目出度い人生を送れるよう願っての命名である。

このかみ 

上代語で、〈氏長(うじのおさ)〉をいう。

参考

●うぢのをさ/天智紀に、氏上をこのかみとよみ、天武紀に氏長と見ゆ、今の氏長者なり、宇文周の時の宗長に近し、&倭訓栞・前編四・宇

「子」 離れ現象 こばなれげんしょう

女子名の〈──子〉命名形式が時代とともに少なくなっている現象。

「東京のある人形メーカーが昭和六十年生れの女の子の名前を調査した結果によると、子のついた名前は四人に一人しかなく〝子離れ現象〟は顕著だという。」(「名前」外山滋比古、日本の名随筆・別巻二十六)

御芳名 ごほうめい

相手の氏名に対する尊称。

ただし、これは慣用上の誤用だ。〈芳名〉だけで尊称として十分なのに、御を付けるのは余分である。

古名 こめい

コミョウとも読む。〈古称〉とも。古い名。かつて使用した名。

たとえば『日本書紀』から大和時代の女子名を拾い出してみると狭穂姫(景行紀)、国依媛(仁徳紀)、玉造別鮒女(仁賢紀)、忍坂大中姫命(允恭紀)、難波吉士(きし)赤目子 (雄略紀)など、あまり枠にはまらない奔放な命名が見受けられる。

呼名 こめい

〈呼び名〉に同じ。

御紋の禁制 ごもんのきんせい

皇室や徳川家などの紋所、つまり菊花や葵の使用を禁ずる制度。

参考

●明治元年三月二十八日/一、提灯又ハ陶器、其外売物等エ御紋ヲ画キ候事共、如何ノ儀ニ候、以来右之類御紋ヲ私ニ附ケ候事、屹度可禁止旨被仰出候事、/但御用ニ付、是迄被免之分モ、一応伺出可申事、/右之通被仰出候条、末々迄不洩様申達事、&法令全書・第百九十五

御料 ごりょう

〈御寮〉とも書く。貴人や貴人の子女に対する尊称。

この言葉は鎌倉時代に発生したと見られ、男女ともに用いられた。中原師守のように、兄の娘、つまり姪に対しても〈御料〉と呼んだが、この場合は敬称というよりは愛称に近いと見るべきだ。

「万寿御料ヲモ五大院右衛門宗繁ガ具足シマイラセ候ツルヲ」(太平記・十)

権── ごん──

官称の一で、定員外の権の位をもつ官職に冠らせた接頭語。

大納言と中納言が上位である。

参考

●権大納言/淳和天皇天長五年三月十九日、従三位京野を以て権大納言とす、是権官の始なりと園大暦に見ゆ、&明治節用大全●権中納言/孝謙天皇天平勝宝八年五月十九日、始て権中納言を置く、&明治節用大全

権兵衛太郎兵衛 ごんべえたろべえ

人名に仮託し、「いずれにせよ同じようなこと」の意味。

つまり権兵衛と名乗ろうが太郎兵衛と名乗ろうが大差ない、として人名でからかっている。

権兵衛名 ごんべえな

女役者や芸者が付ける男じみた名。

──吉、──太、──八など性的に倒錯した命名の類である。 

明治時代の芸者はわざと無粋な漢字を使った例が多く、しかも〈権兵衛名〉が目立った。たとえば真佐芳、弥八、権助、蝶衛、花乃太などで、これは一種の三業銘の働きをし、かえってきれいどころの粋名としてもてはやされた。

混名 こんめい

渾名(あだな)〉に同じ。これの音読みコンメイの当て字である。☟渾名

渾名 こんめい

渾名(あだな)〉の音読み。☟渾名 ニックネーム