斎号 さいごう

下に「斎」の字をはかせた号。〈斎号〉には有楽斎、無六斎といった例が数多ある。

「此ころ茶話の余、我に斎号を定てよと乞はる。口にまかせて自全斎と名づく、」(鶉衣・拾遺上)

在判 ざいはん

アリハンとも。古文書の原本・書写判定において、判人による花押により原本であることを証明したもの。

一種の署名入り保証文書である。

 図▼足利尊氏像〔京都市・守屋孝蔵氏蔵〕肖像が足利尊氏本人のものであることを息子の義詮(よしあきら)が上記に見える花押で画証をしている。

在名 ざいみょう

鄙びた場所に住んでいる人が、所の地名を取り入れた氏または名。この類は民俗資料を紐解くことで興味ある例が具体的に見出せる。

参考

●庶人は在名を名乗ることをゆるされず、然るを姓を禁ずるといふはしからず、源太郎平次郎皆姓なり、誰も咎められし人なし、秩父熊谷などは在名なり、是には禁あり、今座頭盲目に在名といふ格あるにてもしるべし、&筆のすさび・三●女が名主になった証拠/名といふ文字はいくらも今日の地名となつて残つて居ります。九州方面では、肥前北高来郡などでは、小字には悉く名の字が付いた所もある。東国の地名では妙に聞える公文名(くもんみやう)などいふ地名は、つまり荘園の書記の持つて居る名田の地といふことであります。同じ原野でも薪を刈りに、若しくは狩をしに屡々人の往来する所では、従来の地名がありまして、そこに来住するものは直ちに新宅の家号として之を採用しました。すなわち在名(ざいみやう)であります。併し以前の人口の少なかつた地方では、事に依ると五町七町の小区画では地名のない所がある。斯くの如き場合には変則ではあるが、あべこべに貞季(さだすえ)とか(くに)(とも)とかいふやうな人の実名を、地名につけたのである。併し新名主は何れ金持の子供であるからして、自分で犁鋤を手にする訳でないから、子供もあれば女もあるのであつて、太郎丸とか次郎丸ととかいふ童名を直ちに地名に就けたものもあるのであります。名古屋付近に一女子二女子などゝいふ小字のあるのは、女が名主になつた証拠であります。&名字の話

在苗 ざいみょう

住んでいる地名に由来して付けた苗字。在所の地名を借りた名字。

江戸川、相馬、仙台坂など、明治の国民皆姓化時代に量産された。

斎名 さいみん

〈齋号〉に同じ。サイミンと発する。

「才智のたらざるをばかへりみず、高慢したる体の者、和尚の席に詣でて、しきりに齋名(さいみん)をことふき、」(醒睡笑・二)

サイン sign

訳して〈署名〉。自筆による署名。

デザイン化したものが多く、わが国では〈花押〉がこれに相当する。

──左・右衛門 ──さ/うえもん

律令制官職名にちなんだ下付け名。

江戸時代に目立って増え、武士から庶民までを含め、「──左衛門」「──右衛門」「──兵衛」の三型を合わせると七~八割を占めていたようである。☟──衛門

嵯峨源氏 さがげんじ

光仁五(八一四)年、嵯峨天皇の皇子らのうち臣籍降下に伴い源氏姓を賜った末裔。

後の渡辺、松浦の名乗りが代表的である。なお(みなもと)(せい)は、嵯峨天皇が漢籍に博識で、『魏書』玄が伝中の故事から選んだといわれている。☟源氏

参考

源氏ト云コトハ、嵯峨ノ御門世ノツイエヲオボシメシテ、皇子皇孫ニ(しやう)(たまひ)テ人臣トナシ給。スナハチ御子アマタ源氏ノ姓ヲ給ル、&神皇正統記・村上

さかのぼり系図 さかのぼりけいず

自分を中心に、直系の父→祖父→曽祖父……と、普通の系図とは逆の形式で構成する系図。自分史などで利用できるが、血統に逆らうため客観性は薄れる。

防人 さきもり

古代、中央政府から地方へ派遣された兵士の一般称。

『万葉集』ほかに散見。のち鈴木防人など、通名に転化した。

作者名 さくしゃめい

物語や小説など文学文芸文章家の号。〈筆名〉。☟筆名

「寿門松ノ文章ハ、小宮山杢之進幕下臣カヽレテ、李江晋ト作者名ヲセラレタリ、李ノ字ノ中ニ木ノ字アリ、江ノ字ノ中ニ工ノ字アリ、晋ハ進ノ声ヲカリタリ、甚ダ器用ノ人ナリ、」(文会雑記・一上)

削名字 さくみょうじ

氏長者ら権力者の制裁によって、名字の名乗りを禁止されること。また、削られた苗字。

族長による刑罰を含めての〈奪姓〉とみなせよう。一例として、足利氏の流れをくむ今川貞世(了俊)は、応永の乱に加担したとして三代将軍義満から名字を削られた。そのため流刑地の名を取って堀越姓を名乗ったが、典型的な〈削名字〉の例として語り継がれている。☟奪姓

参考

●忠節名字跡目名代之事、其身以仕違、成敗在之時、科軽者、名字ヘハ不可懸。於重科者、名字迄、可成敗事。&長宗我部氏掟書・慶長元年十一月十五日

作名 さくめい

サクミョウとも。〈作名(つくりな)〉に同じ。☟作名(つくりな)

参考

●こゝに出せるあざなはそれと異にして、後世にいへるあだ名といふに同じ、その人のかたちありさま、なにくれの事にふれて、外よりあだなにおはするをいふなり、その類ひもいとおほし、かゞやく藤壺、物かはの蔵人などの類ひなり、また是れに似て作名といふ有り、仮名といふ有り、作名は月輪関白殿の揚名に書出されし秋篠月清の如きこれなり、仮名は素性法師をかりそめに良因とよばれし類ひ、おの〳〵すこしのたがひ有り、&類聚名物考・一

左近 さこん

律令制下、左近衛府に勤めた官人の役職略称。これが後に〈右近〉と並んで、武将の通称に付けられるようになった。戦国武将の島左近勝猛が有名である。

詐称 さしょう

〈氏名詐称〉とも。他人の氏名や号を偽って称すること。また、その呼称。

〈詐称〉は上代すでに現れており、有力姓氏をもつ官人が朝廷で厚遇されるのを見て、その者たちの姓氏詐称者が増えたと記録にある。

織田信長、徳川家康といった史上大物ですら大局的見地から見た詐称を働いている。☟盟神探湯(くがたち)

左大将 さだいしょう

〈左将軍〉とも。令外官(りようげのかん)()(こんの)()()の長官。

「御前なる菊を折りて、左大将さしかへ給ふ」(源氏物語・紅葉賀)

左大臣 さだいじん

ヒダリノオトド、ヒダリノオオイモウチギミなどと訓ずる。また、〈(いち)(かみ)〉〈左丞相〉〈左府〉などの別称もある。律令下、太政大臣の次に位する高官として、諸政務の統括の責に任じられた。

これが後世、幕府の長官級の役職となり、またその大臣の名の代称に用いられるようになった。

参考

●左大臣/成務天皇、武内宿禰を以て大臣と為す。此れ大臣号の始めなり。孝徳天皇の大化元年、阿閉倉橋麿を以て左大臣と為す。(大連を止め左右大臣を立つ)諸藩を奉行し、一の上と称す。若し不参の時は次の大臣之に代る。(*読み下し) &和漢三才図会・九

左中 さちゅう

古代官職名の一で、左近衛府の左中将の略。のち藤平左中など、通名に転化した。

雑戸 ざつこ

律令制下で官人に隷属した下級の民。

無姓の帰化人、屯倉(みやけ)の部民などがほとんどで、戸籍(へじやく)編成からも漏れた特殊な階級の人たちの総称である。

里長 さとおさ

村長(むらおさ)〉とも。里の長。今にいう村長のような役。

参考

●前に云へる里坊長令の里長は今世の庄屋、東国に云ふ村名主なり。坊長は今世京坂に云ふ年寄、江戸に云ふ名主なり。&類聚近世風俗誌・四人事

里名 さとな

〈廓名〉とも書く。〈源氏名〉に同じ。

「廓名を梅代といつてゐた細君の妹女郎、」(高浜虚子、俳諧師・五十)

侍 さぶらい

平安時代に親王、公家などに仕え庶務を果たした役職名。多くは五位、六位に叙せられた。

参考

●職原抄に云う、五位、六位の侍と称するは、近自の俗に准じ号する所なり。弘安の比、書札に五位六位の下比面と書かる。又公家に諸氏の官人と称するは是なり。凡そ諸大夫の家では諸大夫を仕さず。乃って世に会せし名家は、殊に重代の侍を撰び仕さす云々。/按ずるに、俗に侍を以て武士の総名となす。而して近代大小等を(たばさ)むこと、自ら分明なり。武士の中にも亦足軽、若等、鑓持等にいたる迠、皆両刀なり。履持(くつもち)中間(ちゆうげん)は一刀なり。&和漢三才図会・九

侍大将 さぶらいだいしょう

サムライタイショウと清音でも発する。また、「士大将」とも書く。侍身分ながら軍兵の総大将。

室町末期に一軍を率い、勇名を馳せたものが多く輩出した。

参考

●延文三年戊戌年十二月十八日の午の刻、勅使として日野時光を以て、(*足利義詮に)征夷大将軍の宣旨あり、同月二十一日、巳刻より禁裡御門とも警固のため参仕の侍大将以上十二人なり、大将一人に隋兵三百騎あて、そのほか精兵の射手五十騎あて、大将一人、つごう三百五十騎にて一門を警固せしなり、侍大将の事、/佐佐木備前守高久 山名伊豆守時氏 土岐伊予守直氏(*氏名続くも略)&宝篋院殿将軍宣下記

候名 さぶらいな

〈侍名〉とも書く。禁裏を始め院宮・将軍家・公家・大名家、ときには身分を越えて富豪など、高貴家に仕える女子の名の総称である。古典では仮名書きの多いことが目立つ。

平安中期、朝廷女官のうち下臈に属する女房の呼び名が源である。本来の〈源氏名〉といわれる異名の源で、ゆりはな、やまぶき、かえで、まつしま、もみぢ等、花や自然にちなんだ〈雅名〉を兼ねた命名が目立つ。

鎌倉時代になると新大納言、権大納言典侍、新少将、新左衛門督、新按察典侍など「新」や「権」の字を冠するいかつい役職名が付加されるようになる。のちに将軍家、公家、大名家、富商などに仕える女子名へと呼称範囲が広まった。

参考

●女房/候名、按ひさしき、うれしき、ゆりはな、久、鶴抔様、皆候名也、&禁秘御抄階梯・下

侍品 さぶらいほん

サムライホンとも。封建階級制度の中での侍の品格・階位。侍としての格式。

次の引例は中国式にのっとった類別で、わが国の実情と合わない面が少なくないが、〈侍品〉の思想を理解するうえで役に立つ。

参考

●侍品のこと/『柳葊(りゆうあん)雑筆』に云ふ、『職原抄』に、親王・公卿・諸王・諸臣と人品を四等に分ち、また諸臣の中に一の人、公達、諸太夫、侍の四級を分てり。侍の内に五位・六位の下北面・諸司官人、親王、大臣以下諸家の恪勤(かくご)三等あり。また三等の内に譜第と放埓の二品あれば、侍の品六級と云ふべし。そもそも武士は源平両家に属せざるなく、皆子孫譜第と称す。鎌倉右大将、同右大臣、将相に昇るの後、諸太夫の後胤あるいは新加の輩、本秩を立て、自から昇進に列すと云へども、重代の武士(あながち)に差別を存せず。両家元諸太夫なり。その時已に肩を入れ一列の好みをなす故に、このほか本所の侍品あるひは諸道に列し、あるひは一芸を伝ふるの輩とあれば、侍と武士とはまた一等を分かつ。これ五百余年前の品級なり。&類聚近世風俗誌・四人事

侍名字 さぶらいみょうじ

サムライミョウジとも。由緒正しい武士の家柄。また、その名字。

──様 ──さま

いくつか複義があるが、人名関係に絞ると、名前の下添え敬称ということになる。

現代では、多くの下添え敬称は〈──様〉一本に統一化されつつある、といってよい。

参考

●さまと訓ず。今俗、天子、将軍を上様と称す。(もと)この字は俗に云ふやうなの意なり。似ると云ふ意もあり。しからば上様と云ひて当然にあらずといへども、時風に従ふのみ。しかれども様字を殿字より尊称とすに至る。けだし殿、様ともに書する時、真、行、草の字体をもつて上中下輩八、九階を分てり。また口に云ふ時は専ら様をさん、殿をどんと口称する事民間のみ。また士民ともに書簡等には様を称し、証文・券書の類には殿をもつてす。今世の風なり。&類聚近世風俗誌・四人事

様書き さまがき

書状で相手名前に「様」を付けた上書。

「なれぬ内は、をしなべて様書きたるべし」(色道大鏡・二)

左門 さもん

古代の官職名、左衛門の略。

のち月川左門など、通名に転化した。

「松平伊豆守、戸田左門上使と為り着陣以後は偏に兵粮攻の積り厳令有て、」(翁草・四十五)

左・右大臣 さ/ゆうだいじん

左大臣と右大臣と。ともに政務をつかさどる高官。☟左大臣 ☟右大臣

参考

●左右大臣/天孫降臨の時、天児屋根(あまのこやねの)命、天太玉(あまのふとだま)命、天照大神の勅を奉じて左右の扶翼となれり、これ左右大臣の始ならんか、但実に大臣の称ありしは成務天皇三年、竹内宿禰を大臣とせしに始まり、左右大臣は、孝徳天皇大化元年、安倍(あべの)(うち)麻呂(まろ)を左大臣とし、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣とせしを始とす、&明治節用大全

纂記 さんき

特定氏族の系譜・事跡を集めまとめた文書。『日本書紀』巻三十・持統天皇の条に「纂記」の語が見える。

参考

●釈紀または年中行事秘抄などに引たる、高橋氏文と云物あり、岩鹿六鴈命の裔の高橋氏の事を記せる文なるが、甚珍しき事実ども見え、余の書にも氏文てふ事の見えたるを思ふに、古はかゝる文の多かりと聞ゆ、(*注略)纂記といふ記の状も、大かた然る状の記にぞありけむ、大系図の巻首に、新編纂図云々とある纂図てふ号も、御紀に纂記とあるに倣へるならむかし、&古史徴・一・夏

参議 さんぎ

奈良時代に設けられた四位以上の令外官で、公家がつとめた。

明治に至り太政官制下、〈参議〉は左右大臣の次位(正三位相当)にあって大政に参与した。

参考

●参議/文武天皇大宝三年、始ておく、&明治節用大全●此頃ノ風説ニ伊藤参議ハ大久保参義ニ向ツテ僕不肖ニシテ素ヨリ参議ノ重任ニ当ルニ足ラズ、只閣下ノ驥尾ニ付キ駆馳奔走ノ用ニ供スルヲ以テ僕ノ本文トスベシ。故ニ断然参議ノ職ヲ去リ内務大輔ニ任ゼラレ、閣下ノ指示ヲ奉ジテ駑馬ノ労ヲ尽スハ平生ノ志願ナリト語ラレタル由。又大隈参議ガ先日早稲田ニ別荘ヲ経営セラレタルハ、近日政府上ニ於テ何カ御思召ニ称ハセラレザル事有ルニ因リ、退居ノ後ハ該所ニ於テ農業ニ従事セラルヽ御心組ナリシ処、昨今大久保公ノ御機嫌旧ニ復シタルニヤ、大隈公ハ大イニ御安心ナサレタト見ヘ、雉子橋辺ニ邸第ヲ御建築ノ真最中ナリトノ評判ナリ。&評論新聞・九三、明治九年五月

三称 さんしょう

人称代名詞の自称・対称・他称、ならびに指示代名詞の近称、中称、遠称をいう。いずれも人名に関わる。

三族 さんぞく

父・己・子の、直系三親族。

人によっては、父党、母党、妻党であると、異なる解釈をしている。

「さん」付け さんづけ

対人呼称の一で、原則として、相手が自分より同等か目上の場合に姓名に付けて使う。

現代口語では、平等意識の高まりから、国民は隔てなく〈「さん」付け〉が奨励されている。

三位 さんみ

古位階の第三等にある人。また、三位相当の官職にある人。

歌人名に「藤三位」などが見える。

三人称 さんにんしょう

〈第三人称〉〈他称〉とも。文法にいう、話し手や聞き手以外の人。

たとえば「彼」「だれ」「どなた」など。

 

 

字画命名 じかくめいめい

命名の対象となる文字判定により吉兆のある画数を割り出して用いる命名法。また、その名。

もっぱら〈姓名判断〉で用いる手法である。

「北原白秋、室生犀星等、いづれもその名前の字画を見るだけで、夫々の作者の特異な風貌から作品まで、歴々として表象に浮び上がつて来るのである。」(「名前の話」萩原朔太郎、日本の名随筆・別巻二十六)

仕官名 しかんめい

宮仕えで名乗る名。〈出仕名〉に同じ。☟出仕名

式部名 しきぶな

律令制下、文官人事等をつかさどった式部省の略。のちに人名の通称、とくに女官の俗称に用いられるようになった。

式部や和泉式部ら女子に限らず、竹内式部(神道家)といった男名にも使われている。

参考

●紫式部が事/紫式部といふ名は、実の名にはあらず、すべて女房に、式部、少納言、弁、右近などいふたぐひ、みないはゆる呼名(ヨビナ)也、こは初学のたるにまづいふ也、此の実の名は世につたはらず、総て古へ名高かりし女房、おほくは実の名は見えず、撰集どもにも、よび名をしるされたり、さて式部といふに、紫、和泉、小式部などあるは、式部といふが、あまた有て、まぎるゝ故に、わかむため也、そは或は其姓、或は父、また夫などの官、母の名など、たよりにまかせてよべたりしなり、清少納言、江侍従などは、清原大江の姓也、和泉式部は、和泉守道貞が妻也、小式部は、和泉式部が子也、伊勢ノ大輔は、伊勢ノ祭主輔親の女なり、大弐ノ三位は、太宰ノ大弐成章の妻也、さて紫式部も、もとは姓によりて、藤式部といへりしと也、そはとうしきぶとよむべし、江侍従もごうじゞうとよむべし、清少納言などの例也、ふぢしきぶ、えのじゞうなどは、よむべきにあらず、男にても、江帥、藤大納言、在中将などのたぐひ、みなこえによめり、&源氏物語玉の小櫛・一

地下名字 じげのみょうじ

「地下」とは昇殿を許されない六位以下の官人の総称。

鎌倉時代には地方官をさすようにもなった。また、公家の中でも清涼殿に昇殿を許されない格下者を「地下の公卿」といった。地方官を兼任する名主の中に、豪族武士の名字所有を真似て自らも名字を名乗りはじめるものが続出し、これを〈地下名字〉と称した。この趨勢に便乗して、〈偽系図屋〉という新商売が出現したのもこの頃のことである。

賜号 しごう

天皇はじめ貴人が臣下に、あるいは師が弟子に号を賜ること。また、その号。

ただし、語義は〈賜号〉であっても、必ずしも下賜されたものとは限らない。たとえば豊臣秀吉の羽柴姓は、目上の丹羽長秀のと柴田勝家のをとって自分で名乗ったもの、とされている。

参考

●西山/本は飯頼と称す、武田信玄の命により、飯頼をあらため、西山と号す、昌茂、甲州西山の庄を領地するゆへなり、&寛永諸家系図伝・二百二十●称号を諸家に賜るは、秀吉已前にはなしとかや、唐土に而も周の世までは、帝王の姓を臣下に給ふ事はなし、漢高祖、婁敬に劉氏を賜はりしより、唐の全□□遂に法となし給ひしとぞ、賢按、信長の姓を秀吉に給ひしにや、豊臣の先は平の秀吉とあり、&塩尻・七

師号 しごう

高僧の死後に徳をしのんで贈られる〈──師〉の号。

弘法大師はその代表である。

嗣号 しごう

一道の師匠などから雅号を受け継ぐこと。また、その号。

「為永春水とはあらはすものから、聊か思ふ由もあれば、嗣号の旨を(しる)さざりしに、」(貞操婦女八賢誌・四序)

諡号 しごう

〈諡名〉〈贈り名〉〈後の(いみな)〉とも。貴人や僧侶の死後に、その生前の徳を称えて贈る称号。

 諡号〉の形式や呼称規範は一定していない。たとえば「聖徳太子」は(うまや)(どの)皇子(みこ)の〈諡号〉である。

(*天平勝宝八年五月十九日)是の日、(みことのり)して曰はく、「太上天皇(*聖武)出家して仏に帰したまふ。更に(おくりな)(たてまつ)らず、所司知るべし」とのたまふ。(*読み下し)(続日本紀・十九・孝謙天皇)

参考

●帝王諡号/釈日本紀云。神武等諡号(オクリガウハ)者。淡海御船奉ツテベル也。此淡海真人(マヒト)御船といふ人は、養老六年に生れ、延暦四年に卒せられて、日本紀奏覧より後に生れし人なり。よつて神武天皇と細書せり。さらば諡号を後より追補せるなり。凡そ神武より桓武まで五十代は皆諡号有て、其中に聖武と孝謙は、御在世に奉りし尊号なりと、続日本紀に見えたり。さらば諡号にはあらざるなり。皇極、斉明は、一主重祚の両号なり。又平城は、ならと訓じて、大和の地名、嵯峨は、山城の地名なれば、これ皆旧都、又は離宮のありし所なり。よつて称し奉る。これより諡号は廃せり。淳和は、一院の号なり。諡にはあらず。されども又仁明、文徳の諡有り。清和、陽成は、又院号なり。光孝は、中興の帝にして、又諡を奉れり。宇多より以後は、又離宮を以て称せり。近世霊元院は、一院の号なり。中御門院は、仙洞即ち中御門の正路に相当れる故なりと云。桜町院は、仙洞を桜町の殿とす。此地は古へのさくら町たるによれぬと云。桃園院は、禁中常の御殿、桃園の正東に当れるとなり。桃園の旧跡は、山州名勝志等にて考へ見るべし。&它山石・三●明日御告示相成べき大行天皇の御諡号は明治天皇と御決定相成たり。&豊州新報・大正元年八月二十六日号外

字号 じごう

禅宗では〈道号〉〈別称偈〉ともいう。禅僧が得度のさい、師から法名のほかに別号として付けてもらう呼称。

たとえば一山一寧(一二四七~一三一七)という禅僧名は、上二字が〈字号〉で下二字は〈諱〉である。この諱の下字を生かし字略称とし、字号の頭に移す。つまり「寧一山」という三字が熟語として意味をもつ偈となり、これを称して〈字号偈〉と。中厳円月 (一三〇〇~一三七五)の場合の字号偈は、「月中厳」となる。

自号 じごう

自ら号すること。自分から名乗る号。

寺号 じごう

寺の名。寺院の号。

「法隆寺」「東海寺」といった名で、人の姓氏ともかかわりがある。☟山号

参考

●寺院の()、さらぬ(よろづ)の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、たゞ、ありのまゝに、やすく付けけるなり、この(ころ)は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし、人の名も、目なれぬ文字(もんじ)を付かんとする、益なき事なり、何事も、めづらしき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ、&徒然草・第百十六段

寺号の姓氏化 じごうのせいしか

左記のように、ゆかりの寺号を自分の姓氏とした例がいくつか散見できる。

「笠置軍事付陶山小見山夜討事/大将軍ニハ、大仏陸奥守貞直、同遠江守、普恩寺相模守、」(太平記・三)

参考

(*天正)十三年、根来寺破却の後、盛重、遠州浜松の御城下にいたり、大権現に拝謁するとき、盛重は、元根来寺の法師なり、今よりのち根来と称すべしと厳命あるにより姓とす、&寛永諸家系図伝・二百八十六・根来盛重

四股名 しこな

古くは〈醜名〉とも書いた。別に〈相撲名〉ともいう。相撲の力士の呼び名。

同音異字の「醜名」には四つも語義があるので、力士名の場合は、この〈四股名〉を使い分けたい。この類には山、川、海、谷など自然由来の接字が多く用いられてきた。しかし現代では「昇竜」「大鵬」など禽獣名が目立つ。

参考

●谷風梶之助/谷風は、生国奥州宮城野霞目村の農家の子なり、寛保三年庚午年八月八日に産る、幼名与四郎と呼びけり、幼稚の時より角抵をこのみ、十九歳にて初て秀の山と号り、後伊達が関森ゑもんと呼けり、(*中略)安永五年二十七歳、谷風梶之助と改名す、&百家琦行伝・二●薩州侯御抱の角力陣幕千年川山分の三人先達上京し、江戸の大関は阿州の鬼面山再勤にあらんとの風評あり。&江湖新聞・慶応四年閏四月三日

醜名 しこな

広義の〈醜名〉には、次の四義がある。

⑴自分の名を貶めた呼称。☟謙称

⑵他人が戯れに付けた異名。☟渾名

⑶相撲の力士名。☟四股名

 ⑷人が忌み嫌うような醜い名。

ここでは狭義の⑷に触れる。

往古、命名俗信において、鬼神の崇りを避ける目的のもと、生まれた子にわざと醜い名を付けたり、「(しこ)」の一字を加えるなどの慣わしがあった。それらを文献に垣間見ると、高田醜雄(日本書紀・二十五・孝徳)、稲蜂間首醜麻呂(続日本紀・二十三・淳仁)、卜部乙屎麻呂(三代実録・十七・清和)、巨勢朝臣屎子(三代実録・二十二・清和)などである。 ☟辟者(へきじや)

図▼寛政三年四月版大相撲の番付〔日本相撲協会蔵〕当時の力士の四股名が読み取れる。

 自己命名 じこめいめい

自分の名を自分で付けること。親や名付け親など他人によらない命名。

現代では、たとえ親が思い入れして付けた名であっても、本人が成人してからどうも気に入らず、〈自己命名〉による改名を申し出る人が増えているという。

氏氏名名 ししめいめい

天下には氏や名が幾多もあること。しかもそれらの氏名が、代々子孫へと受け継がれていくこと。

畳語用法により、その数の多さを強調した成語である。『古事記』下・允恭天皇の条にこの語が初出している。

参考

●さて其は其家に世々に伝はる故に、其名即又姓の如し、去れば名々と云は職々にて、即是も氏々と云にひとしきなり、&古事記伝・三十九

侍従 じじゅう

オモトビトマチギミと和訓。

律令制下、中務(なかつかさ)省に属し、天皇親衛をつとめた官職。

(ごうの)侍従、待宵小侍従など。

私称 ししょう

次の二義がある。

⑴自分だけが勝手に名乗ること。また、その名乗り。ときには命名の法度を無視する行為として、処罰されることもあった。

⑵賜姓や贈名などの公称と区別しての語。

参考

(*天平神護二年四月二十九日)(ひとり)男子(をのこご)有り。自ら聖武皇帝の皇子(みこ)にして、石上(いそのかみ)朝臣志斐弖(しひて)が生む所と(まう)す。(かむか)へ問ふに、果して是れ誣罔(ぶもう)なり。(みことのり)して遠流(をんる)に配したまふ。(*読み下し)&続日本紀・二十七・称徳天皇

指称 ししょう

人物を特定して指し示す呼び方。

自称 じしょう

人名に関わる〈自称〉には、次の二義がある。

⑴事実と異なる称号を自ら勝手に称すること。公に認められていない称。この場合、偽りとは限らず、軽い冗談での名乗りも含まれる。「自称東大卒」「自称新橋大学教授」などの類。

⑵自分自身を指し示す呼称。豊臣秀吉は、「太閤」を〈自称〉したことで、後世の国学者などから「関白の父を太閤というのだよ」と浅学の程をからかわれている。また、左記の引例もこの⑵に該当する。

参考

●陛下足下/(へい)とは高堂に(のぼ)る階段、即ちきざはしという字で、群臣が天子に対してワタクシと云ふべき際に、陛下の者と云つたのである。その自称を他称に変へて尊敬語として居るのは可笑(おかし)い、又足下と云ふのも貴君(あなた)の足の下に居る者と云ふ意で、自称であつたのを他称の敬語にしたのである。殿下閣下猊下榻下机下なども亦同じ誤りたる事を知らずに、一般の者が盲目的に使用して居るのだから、社会は痴呆(たわけ)の寄合いと云つてもよい&裸に虱なし・字義から云ふ屁理屈集

支証系図 ししょうけいず

正統の家系であることを傍証史料などで裏付けた系図。

〈偽系図〉などに対応して出来た言葉である。

参考

●我々家の事は、前に申ごとくにて候間、代々有之候得共、左様の支証系図、伊井にて失て無是非候、左候所に、おもひよらず我々家の古き支証ども、とくてうの依藤太郎左衛門持候よし承、いろ〳〵懇望し候へば、中々やすきこと候間、一通も残らずわたし候はんと直に申送候間、依藤支証と同心して、八幡の岩の坊に預け置候間、被官の内にて候、くり山がいのヘか両人に、一人のぼせ候はでは、取出候ならず候間、まち候へと申されて延引候、其後ほどなく依藤死去、彼跡むざと成来候まゝ、中々申出し候はで置候、(*中略)/天正拾六年八月吉日/因幡守入道定阿判 八十四歳書之&赤松記

自称代名詞 ししょうだいめいし

話し手や書き手が自身を指すのに用いる代名詞。

たとえば「私」「我」「自分」「おいどん」など。

私人 しじん

社会的・公共的立場から離れた一個人としての身分。「公人」に対応する言葉である。

「私人 国家、又ハ、社会ニ対シテ、一個人ノ称。(公人ニ対ス)(新編 大言海)

氏姓 しせい

ウジカバネとも読む。〈氏と(かばね)〉。

〈氏姓〉は〈姓氏〉とどう違うのか気になるところだが、語順を倒置しただけで語義に変わりはない、と解釈すべきだ。☟姓氏 ☟氏姓制度

参考

●姓氏と云ふ事/姓氏の二字ともに何れも、うぢとよむ字なれども、わけて委しくいふ時は、姓は朝臣、真人、宿禰、連等也、氏は源平等橘の類也、其の後其の子孫別に名乗る号は、氏を重ねたる也、源氏の内に新田氏、足利氏、畠山氏、細川氏、其の外品々あり、平氏の内にも、伊勢氏、織田氏、相馬氏、有川氏等あり、姓は木の根もとの如く、氏は枝葉の如し、&貞丈雑記・二

四姓 しせい

広義には「一国を代表する四大姓氏」をいい、この場合は〈四主姓〉ともいう。狭義には〈源平藤橘〉をさす。

日本で〈四姓〉というと、もっぱら源平藤橘をさすが、古代インドのカースト制度や中国、あるいは朝鮮など東アジアに広く存在した制である。たとえば中国唐代には「崔・盧・李・鄭」が四姓の制であった。

日本の四姓もこれにならって十三世紀頃に生じた概念だが、これは特段に制度化されたものではなく、単なる俗称にすぎない。☟源平藤橘

参考

●四姓といふ事は、天竺にある事なり、源平藤橘を四姓といひたるは、仏法を信ずるあまりに、何事も天竺の事をよしと思ひて、それに擬していへるなり、はてはかた田舎の人は、此四つより外に姓はなしと思ひて、外の姓の人も、皆此四つの内にあらためたれば、今はまことに此四つより外はなきやうになりたり、(*中略、姓氏の列記が続き)稲木、土形、大石などの類は、姓なりといふ事は大方はしらで、四姓の内になりたるおほかるべし、&南留別志・四

賜姓 しせい

まれには〈贈姓〉ともいう。天皇や主君から姓を賜ること。また、賜った姓。「姓」とはいえ、名前も含まれ、氏名と姓名との総称である。したがって意味する範囲は広い。

古代、臣下が褒賞の対象である賜姓を受けることは、それ自体が大変名誉なことで、今俗にいう「箔が付く」ことであった。『続日本紀』や『日本後紀』といった古書にも「賜姓」の記事が多く見られる。賜姓の件数がめっきり減り始めるのは、平安時代中期以降のことである。皇族の一部は寺院の門跡などに天下りしているが、もはや記録にとどめるまでの事でもないほど、衰退していたのである。しかし江戸時代、徳川家(とくせんけ)の賜姓おすそ分けは滑稽なほど意欲的であった。たとえば『武鑑』によると、幕末時点での「松平」(徳川家康の本家筋)賜姓の諸家は五七家に達し、徳川家がいかにこの旧姓を乱発していたかがわかる。

参考

●公孫於是脱離天磐座、排天八重雲、稜威道別云々、而天降之也云々、其猿田彦神者、則到伊勢之狭長田五十鈴川上、即天鈿女命随猿田彦所乞、遂以侍送焉、時皇孫勅天鈿女命、汝宣以所顕神名為姓氏焉、因賜猿女君之号、故猿女君等男女皆呼為君、是其縁也、とみえたるぞ、姓氏を賜へる事の始めなるべし、&氏族雑考・上

賜姓、一代限り しせい/いちだいかぎり

当代限り有効という条件付きの氏姓。

橘三千代への「橘」賜姓がその代表事例で、天平八(七三六)年に葛城王と佐為王(ともに三千代の息)は臣籍降下を願い出て、母に賜与された〈一代限り〉橘姓が共に継承され、それぞれ橘諸兄、橘佐為を名乗っている。

参考

●宝亀二年五月戊子、外従五位下栗原勝乙妹女、勲十等栗原勝浄足、賜姓宿禰、並止其身、&続日本紀・三十一・光仁

賜姓、氏併贈 しせい/うじへいぞう

姓と同時に氏もあわせて贈られること。また、その姓氏。

こうした例も間々あり、たとえば『続日本紀』だけでも賀茂朝臣、百済朝臣、広篠連、出水連、下毛野朝臣、大神朝臣などが見える。

賜姓、帰化人へ しせい/きかじんへ

上代、各代天皇は渡来人に対し帰化をねぎらって姓名を贈った。個人にではなく、複数の人たちにまとめて同姓を賜る例が多い。

「河上忌寸」「吉智首」「山瀬忌寸」「百済公」「清澄造」といった氏姓など、『続日本紀』九・聖武天皇の条はじめ諸本が多くの事例を紹介している。

賜姓、皇子へ しせい/こうしへ

皇子、皇孫の臣籍降下に伴い、天皇から賜姓をいただくこと。また、その賜姓。

嵯峨天皇の賜姓がこれの始まりである。☟嵯峨源氏

参考

(*〈嵯峨源氏〉項の引例文に続いて)桓武ノ御子葛原(かづらはらの)親王ノ男、高棟(こうむね)(たひら)ノ姓ヲ給ル。平城ノ御子阿保(あほの)親王ノ男、行平(ゆきひら)業平(なりひら)在原(ありはら)ノ姓ヲ給ルコトモ此後ノコトナレド、コレハタマ〳〵ノ儀也。弘仁以後代々ノ御(のち)ハミナ(みなもとの)姓ヲ給シナリ、親王ノ宣旨ヲ(かうぶ)ル人ハ(さい)不才(ふさい)ニヨラズ、国々ニ封戸(ふこ)ナド立ラレテ、世ノツヒヘナリシカバ、人臣ニツラネ宦学(ミヤヅカヘシモノマナビ)シテ(てう)(よう)ニカナヒ、(うつは)ニシタガヒ昇進スベキ御ヲキテナルベシ。姓ヲ給ル人ハ(ぢき)ニ四位ニ叙ス(皇子皇孫ニトリテノ事也)、当君ノハ三位ナルベシト云、(*注略)カクテ代々ノアヒダ姓ヲ給シ人百十余人モアリヤケン。シカレド他流ノ源氏、大臣以上ニイタリテ二代ト相続スル人ノ今マデキコエヌコソイカナルユエナラン、オボツカナケレ。嵯峨ノ御子姓ヲ給シ人二十一人、此ノ中、大臣ニノボル人、(ときは)ノ左大臣兼大将、(まこと)ノ左大臣、(とほる)ノ左大臣。仁明ノ御子ニ姓ヲ給人十三人。大臣ニノボル人、(まさる)ノ右大臣、(ひかる)ノ右大臣兼大将、文徳ノ御子二姓ヲ給人十二人。&神皇正統記・村上

賜姓、孤児へ しせい/こじへ

『続日本紀』や『日本後紀』などに、捨て子や引取り養子など孤児への賜姓例が見える。

賜姓、醜姓 しせい/しゅうせい

〈賜醜姓〉とも。人が忌み嫌うような氏姓をあえて付ける命名行為。また、その氏姓。

背景には、〈醜名〉の場合と同様に、厄除きの俗信がある。別に刑罰としての奪姓に加え、新たに醜姓命名を命じた例もある。『続日本紀』に例示が多く、「大伴古麻呂」「多治比犢養」「杖下死」「乃呂志」「穢麻呂」などが見える。

賜姓、女子へ しせい/じょしへ

皇女や皇位の女官への賜姓。

「家原音那」「山田御井宿禰」「水海連」などの例が『続日本紀』に見える。

賜姓、除籍者 しせい/じょせきしゃ

罪を犯すなどして除籍した者に、代わりの名を賜ること。また、その姓氏。

与えられるのは例外なく、事実上の〈罰名〉である。

参考

●罪人変姓名/案に、古へより罪過有人は、或はその姓名を改めて、是を恥辱しむる事有、僧は俗姓名を付る事も律令の定めなり、是等の事、時により人にしたがふことなり、一定の法にはあらず、&類聚名物考・姓氏九

賜姓、代替願 しせい/だいたいねがい

かつて賜わった姓に不都合が生じたなどの理由で、改賜姓を願い出て許された例もある(続日本紀・孝謙天皇、天平宝字二年六月二十五日)

賜姓、同一姓 しせい/どういつせい

複数の者が、同姓の賜姓を賜うこと。また、その姓氏。

延暦二四年二月十五日、桓武天皇が百二人の皇子らに臣籍降下に伴う賜姓を行ったとき、清海真人が十六人も出たという。

賜姓、同時改名 しせい/どうじかいみょう

賜姓の時に改名も行うこと。

たいていは自主改名でなく、上意による。

参考

●隆景(*中略)最前秀吉公ヘ為人質、能良源五郎、金山孫市、両人ヲ差上サセ給ヘドモ、是ハ軽々シキ者共ナレバトテ、四郎殿元綱ヲ小早川ト名乗セ給ヒ被差上、御元服ノコト、秀吉公ヘ被仰シニ、藤ノ字ト被進、小早川藤四郎秀包ニ成ラセ給ヒシ、&毛利家記・一

賜姓、奴婢へ しせい/ぬひへ

奴婢への賜姓も、しばしばあった。『続日本紀』諸巻に、「官婢に高市姓」「中宮職奴に大養徳忌寸姓」「大坂玉造人に大友史姓」など賜わったと記録されている。

賜姓、褒賞 しせい/ほうしょう

功労を挙げた者に報いるための賜姓。

この類は多いはずなのだが、勅令に関しては文献にあまり目立たない。『続日本紀』一・文武天皇三年正月癸未、勤公につとめた薬官に連姓を賜わったと、初期の例が見える。

賜姓、没後 しせい/ぼつご

『日本書紀』三十・持統、十年五月の条に「忌寸」没後賜姓の記事が載っているほか、諸本に散見できる。

賜姓、無姓者 しせい/むせいしゃ

無姓であった者に姓を賜うこと。

『続日本紀』十六・聖武天皇天平十七年五月二日の条に、七国の無姓の者に望むところの姓を与えたとある。

賜姓降下 しせいこうか

〈臣籍降下〉に同じ。

氏姓制度 しせいせいど

大和朝廷が氏姓の整備を通して支配体制の強化を図った制度を〈氏姓制度〉いう。

大化改新前に、朝廷は中央貴族と地方豪族に対し、政治上に占める地位、社会的身分の尊卑に応じて氏と姓を与え、国家身分を示させ、同時に特定官職を独占させた。原始的な血縁集団が、氏姓制度を通じて国家体制に取り込まれることになったわけだ。

このことが図らずも臣下として雲上人崇拝思想を生み出し、さらには朝廷の権勢固めに役立つ結果になったのである。

氏姓制度が確立を見たのは五世紀中と見られているが、大化改新後は朝廷の律令制度化に伴い、個人の能力が重視されるようになり、形骸体制にすぎない氏姓制度は崩壊していく。

氏姓と渡来人 しせいととらいじん

渡来人と帰化人の氏姓に関しては、『新撰姓氏録』の「諸蕃」にくわしい。これによると、渡来人の系統には秦氏系の「己智(こち)」、倭漢系の「坂上」、高麗王の末裔「高麗」「高」などが賜姓されている。

また江戸時代に編まれた『長崎実録大成』十には、「日本居住唐人之事」と立項して、長崎地方における高寿覚→深見をはじめ陳九官→穎川官兵衛祖、林公淡→林道栄祖、欧陽雲台→陽総右衛門祖などたくさんの氏名が列挙してある。

賜姓の却下 しせいのきゃくか

賜姓願出人になにらかの理由ありの場合、却下されることもあった。

『続日本紀』巻十七・聖武天皇天平十九年十月三日の条に、御方(おかたの)大野(おほの)が賜姓を願ったのに対し、天皇は(みことのり)してこれを許さなかった、とある。

氏姓の大略 しせいのたいりゃく

日本の氏姓の総数は、『日本苗字大辞典』(芳文館)の収載二十九万余を数える。

しかし平安初期に成った『新撰(しんせん)(しよう)氏録(じろく)』によると、有力氏族は千百八十二氏を数えるにすぎない。また引例に見る『氏族考』によると、古代の全氏姓は三千氏に足りなかった(氏の発祥は四世紀末と見られている)。それまで創氏が盛んだった江戸時代になっても、万余を数えるには到らなかったであろう。

それが明治維新の国民皆姓の実施で、おびただしい氏が新に創造され、現在ではその種類において世界一といわれる氏姓大国になったのである。

参考

●古へより以降、国史諸書に見えたる氏姓の大略を考へ試むるに、凡そ皇別の氏姓は、真人五十六、朝臣百四十八、宿禰五十一、忌寸三、臣百二十一、連四十、造十三、国造五十八、公百三十五、別三十九、直十七、稲置五、県主四、首三十六、祝一、史四、我孫一、椋人一、人二、勝一、無尸四十五、総て七百八十氏、(*中略)神別の氏姓は、朝臣五十五、大朝臣一、宿禰百二十、大宿禰一、忌寸十一、臣十九、連二百五十三、造四十五、国造八十八、公三十一、直八十、稲置一、県主十四、首五十三、祝四、我孫一、人四、勝三、神主六、使主一、村主一、無尸百二、凡八百九十五氏、(*中略)蕃別の氏姓は、朝臣二十、宿禰九十五、忌寸七十八、大忌寸一、道師四、臣二、連百四十七、造七十一、直三十七、県主一、首三十三、史四十七、曰佐九、、人八、勝二十五使主六、村主三十、王四、伎一、漢人一、无尸六十六、総て七百十氏、(*中略)未定の氏姓は、真人三十六、朝臣四十三、宿禰七十三、忌寸十九、道師一、臣三十八、連七十一、造二十八、国造二、公十九、直十八、稲置四、県主九、首三十一、祝一、史九、我孫二、椋人三、勝三、村主二、无尸七十一、総て四百八十七氏、(*中略)などにて、上に挙たる総数凡二千八百九十八氏ばかりにもやなりぬらん、なほ諸書に散見せるものもあまたあるべけれど、そは次に記しそふべし、&氏族雑考・下

士籍 しせき

〈士分〉〈士分格〉とも。士族身分上の籍。

「士籍 シセキ サムライノカクシキ」(荻田嘯、新令字解)

死籍 しせき

地獄で閻魔大王が備え付けたという、死者名を記した帳簿。転じて、「死」そのものをさす語に。

『性霊集』や『本朝文粋』などに見える。

氏賎 しせん

〈奴婢〉に同じ。『三代格』などに見える。

始祖 しそ

一系の元祖。先祖。

士族 しぞく

明治維新後に、かつて武士階級にあった者に与えられた身分を示す呼称。華族の次に位し、まさしく封建制度の後遺症といえた。

「一門以下平士ニ至ル迄総テ士族ト可称事、但家禄御定之振合ニ基キ給禄適宜改革可致候、」(行政官達、明治二年六月二十五日)

氏族 しぞく

古語で〈うから〉〈やから〉などとも。同一先祖から出た一族。一氏に属する人たち。

「氏族 氏ノ中ノ、モノドモ。ウカラ。ヤカラ。」(新編 大言海)

次第名 しだいな

〈輩行ノ仮名〉とも。兄弟の生まれた順がわかる名付け。また、その名。

太郎→次郎→三郎が一般的である。☟輩行ノ仮名

仕出名 しだしな

凝った名。新趣向の名。

人名・物名双方に用いた。今では死語になっている。

下名 したな

正式ではない名。〈通称〉に近い意味がある。

下の名 したのな

〈氏名〉の下、つまり〈名〉。

広義の人名と明確に区別し、名だけを取り上げる必要から出来た言葉である。

「本田作左衛門の下の名が作左に約まった」のように使う。

七族 しちぞく

漢語に由来し、曾祖から祖、父、自分、子、孫、曾孫まで七代にわたる称。

実印 しついん

重要書類などに押印する、責任を負うための印鑑。普通、印鑑証明書が交付される対象となる印象である。

実称 じっしょう

本来の呼称。人名の場合、〈実名〉が該当する。

失姓 しっせい

姓氏を失うこと。また、その人。

代々の姓氏や家号は、長い歴程のなかで消失することもありうる。たとえば戦乱で一家が離散したり、当主が出家したり、〈奪姓〉の罰を受けたり、庶民に下って名前だけになったりする〈失姓〉の事態が起こりうる。

昔はこうした状況にあっても、あえて〈復姓〉しなかった人も少なくなかったはずである。

面白い意見があるので、引いておこう。

参考

●姓氏を失したる人は、藤原を称すべし、民間凡そ卑に至りても、神別、皇別、諸蕃の三姓にもるゝ人はあらざる也、世におちぶれて、先祖の氏をしらざるは多し、かゝる人、もし氏を称せずして叶はぬ事あらば、藤原氏をおして称しては難なかるべきにや、如何となれば、今世故ありて官位を賜はる時に、その姓氏を失してしらざる人には、宣旨に藤原の某と書き下さるゝこと也と、されば氏をしらざる人は、藤原を称して難なかるべしと思はる、と或人云へり、&夏山雑談・五

執柄三家 しっぺいさんけ

〈凡家〉とも。公家のうち執柄家である閑院、久我、花山院をさす。

参考

●三家、閑院・久我・花山院、凡執柄家に次て三家と云、凡家とも称し侍る事、公家中において、取分規模の流也、(*中略)此三胤の正嫡たるにおいては、官加階の昇進、弱年なれども、傍親に超越して前途に滞らず、太政大臣則闕の官にものぼり侍る、頗抜群の佳名也、されば大臣家を清花と号す、&公武大体略記

失名 しつめい

名前が不明なこと。名を忘れてしまうこと。

「失名 生命ノ、分明ナラヌコト、佚名。」(新編 大言海)

実名 じつめい

古くはジツミョウともいった。戸籍に載った実際の名乗り。

〈実名〉は、筋からいって、公的に認められる唯一の名のはずである。しかしこれも、〈実名一本主義〉が徹底する明治初頭まで、〈実名〉といっても名の上に氏や姓が冠せられる表記が多かった。たとえば大久保利通の場合、公式文書では「藤原朝臣利通」と古風な方式を踏襲していた。☟本名

「上様御実名家達(イヘサト)様と奉称旨、御旗本御家人中へ可被達候事。/五月」(中外新聞・慶応四年五月二十三日)

参考

●或人ノ実名ヲ、道長ト名乗モノアリ。或人難ジテ云、是全ク御堂殿(*藤原道長)ノ御諱也。庶下ニテ是ヲ名ノルハ、甚シキ不敬也ト。其人余(*村松延年)ニ問、改替ンヤ否ヤ。吾答云、更ルニ及バジ。七百年以前ノ、関白公の御名、今ノ世庶賎ノ者憚更ルハ、却テ僭也。殊ニ格式ノ書ニモ、天子ノ御諱サヘ、五世ヲ過ヌレバ、諱ニ不及由、況ヤ七百年前の三公ヲヤ。日本人文盲ナレバ、格式ノ書ヲサヘ不見、人ヲ難ズルコト、不学ヨり出ルコトナリ。&()谷芻(こくすう)(げん)

 実名一本主義 じつめいいっぽんしゅぎ

国民のすべてが、登録した氏姓のみ公的に認められるとする施策を〈実名一本主義〉という。ただし、通称・号・渾名などの異名・偽名・変名などは公認外の存在である。

〈実名一本主義〉は、明治五年五月十七日の太政官布告いらい、現在に至り実施適用されている。

参考

●第一 通称ヲ廃シ実名ノミヲ可用事/第二亦官位ヲ以テ通称ニ換ル等ノ弊モ矯シ、上下一般実名ノミヲ可用事。/軍務官判事 森金之丞/姓名ハ本ト各人ヲ分別スルノミノ者ナリ。然ルニ本邦従来通称実名ト云フ二者アリ、通称ハ何兵衛何左衛門等ノ類是ナリ。然ルニ今其本源ヲ尋ヌルニ、多クハ皆官命ナリ、或ハ又間々異称ヲ有スルモアリ、其官ニ非ズシテ之ヲ称シ、其実名ヲ用ヒズシテ異称ヲ設ル等其不経ナル固ヨリ論ヲ俟タズ。又官位五位以上ニ至テハ、其国守国介ニ非ズシテ濫リニ某ノ守、某ノ介抔ト称シ、譬ヘバ大和守ト称スル者モ真ニ大和国ニ守タル者ニ非ザルノ類比々是ナリ。其他某ノ四位、某ノ五位抔ト其位ヲ以テ其通称ニ換へ、偶同姓同位ノ者在之時ハ、称呼混淆シテ何人タルヲ弁識シ難キニ至レリ。是皆実名ヲ不用ノ故ナリ、且又実名ハ其字数モ簡約ナレドモ、通称ニ至テハ或ハ一字、或ハ二字或ハ又五六字ヲ要スル者アリ、実ニ煩雑無紀ノ至リト云フベシ。故ニ以来一切通称ヲ廃シ、亦官位ヲ以通称ニ換ル等ノ弊モ廃シ、貴賎上下都テ実名ノミ相用候片可然奉存候。&議案録一・明治二年三月

実名敬避 じつめいけいひ

ジツミョウノケイヒとも発する。〈名の敬避〉とも。〈実名〉をひた隠しにし、公表しない習俗。本人だけでなく、他人もその人の実名に触れるのを禁忌とした。

この背景には、実名を他人にやたらに教えると、厄神の崇りがある。あるいは、名を教えることによって、悪用されたり偽称され被害を受ける恐れがある、といった事情による。よって、昔の人の実名は、両親や近親者しか知らないのが普通であった。表立った呼称として別に通称や雅号で呼ばれたのである。

ことに貴人の名を直称したりすることは、悪口を言うのと同等以上に罪悪視され、なにかと話題を呼んだりした。あるいは接頭語や接尾語付きの代称、たとえば昔であれば「太閤殿下」とか「(あがた)()のうし」(賀茂真淵)、今なら「先生」とか「先輩」といった敬称で事はすむ。

なかでも極端なのが平安時代の女房の実名。通称や女房名は明らかになっていても、実名はまったく知られていない例がきわめて多い。というのも、実名は女の貞操と同等なぐらい秘匿して大切に扱うもの、という思想があったためである。

こうして長い歴史で続いた〈実名敬避〉の習俗も、明治六年三月二十八日太政官布告第一一七号により、排除すべしとの施策となって改められた。☟仮名

参考

●二十日 庚辰/(*以下、平政子が頼家に訓戒を与えるくだり)いかにいはんや源氏等は幕下の一族、北条はわが親戚なり、よつて先人しきりに芳情を施され、常に座右に招かしめたまふ、しかるに今かの輩等(やつばら)においては優賞なく、あまりさへ皆実名を()ばしめたまふの間、おのおのもつて恨みを(のこ)すの由、その聞えあり、所詮事において用意せしめたまはば、末代といへども濫吹(らんすい)の儀あるべからざるの旨、諷諫(ふうかん)の御詞を尽さると、云々&吾妻鏡・十六、建久十年八月

失名氏 しつめいし

〈無名氏〉〈(なにがし)()〉とも。

氏名が不明の人に対して便宜上用いる代称。

投稿や近代小説などに散見できる。

実名主義 じつめいしゅぎ

〈実名一本主義〉に同じ。

左記引例にある忠臣蔵も、それまで登場人物や舞台設定すべてを架空に仕立てるのが常道であった。☟実名一本主義

参考

●近日猿若町三丁目森田座ニ於テ忠臣蔵ノ技ヲ演ジ、先般官諭ノ告ヲ奉ジ、浅野内匠守ヲ始メ、大石内蔵之助、其他義士ノ輩総テ実名ヲ唱フル由。サスガ高名ノ座元評判ノ名優打合セタルコトニテ、定テ観客モ多カルベシ、望ラクハ従来ノ狂言十二段等ノ切組ヲ除キ、成丈実録ニヨリ、顛末ヲ謬ラヌヤウ興行イタシナバ、観客モ一層勧懲ノ心ヲ生ジ、大ニ評判ヲ取ルベシト、或人投書ノ侭ヲ記セリ、&新聞雑誌・四十一・明治五年四月

実名秘匿 じつめいひとく

実名を隠し公表しないこと。☟実名敬避

氏譜 しぶ

漢語において氏族の系譜。

治部 じぶ

律令制下、治部省の官人をさす呼称。

のち通名に転化し、石田三成の治部少輔が有名である。

諡法 しほう

漢語で、〈諡号〉を付けること。また、その付け方。

「周よりこのかた諡といふことありて、諡法おこる」(制度通・七)

死亡者 しぼうしゃ

法制後において、死亡した人。また、その氏名。

 死亡者アリたるときは、届出義務者が其死亡を知りたる日より五日以内に(中略)之を届出つることを要す」(戸籍法・百二十五条、明治三十一年制定)

賜名字 しみょうじ

貴人から名字を賜ること。また、その名字。

〈賜名字〉は本来〈賜姓〉とは異なるものだが、姓と名字が古くから混用されている実情から、両者とも用法上は同化しているとみなしてよい。字義解釈としては、『元服方式』に見える「又主君の御一字を押領して名乗る事も有」としたあたりが実際的であろう。 

徳川幕府の「松平」〈賜苗字〉乱発は、史上の笑い種になっている。☟賜姓

四民 しみん

封建制度下、人をその身分や職業により士・農・工・商の四階級に分けたこと。また、その呼称。

氏名 しめい

氏名(うじな)〉の音読みで、近代以降の呼称。☟氏名(うじな)

指名 しめい

〈名指し〉とも。特定の人を指定すること。

「指名された女給が来て、青年に微笑んで見せてから左衛子に会釈し、」(大仏次郎、帰郷・夜の鳥)

賜名 しめい

シミョウとも音読する。貴人から名を賜ること。また、その名。

〈実名敬避〉の縁辺に位置する行為である。

『古事記』中・神武天皇の条に、天皇(神倭(かむやまと)伊波礼(いはれ)()(この)命)は亀の背に乗った釣り人に仕官を命じ、「(さお)根津日子(ねつひこ)」の名を与えた。〈賜名〉の初出である。

封建制度下での「賜名」は、単なる命名行為から離れて、与える者と頂く者という、身分格差の象徴として認識された。古典に腐るほど例が多出しているのも、その現れであるといえる。

参考

●足利殿東国下向事付時行滅亡事/諸卿議奏有テ、急足利宰相高氏卿ヲ討手ニ可被下ニ定リケリ、(*中略)忝モ天子ノ御諱ノ字ヲ被下テ、高氏ト名ノラレケル高ノ字ヲ改メテ、尊ノ字ニゾ被成ケル、&太平記・三十三●千住の辺に御放鷹ありし時、餌まき孫右衛門といふが、鳥飼の事、殊に高手なりしが、渠に宣ひしは、今日は殊更に鶴を手に入度と仰られしに、孫右衛門、平生傲言の者なりしが、今日は某力をつくし候はんには、たやすく御手に入べしと放言せしが、果して御手に入たり、(*徳川家斉)公大に悦ばせ玉ひ、げに高名空しからずとて賞し玉ひ、此ごろ歌舞伎役者に、歌右衛門といふが世に上手なるよし、汝も歌右衛門と名乗るべしと命ありて、その名を拝領せしと、後までも人々に誇れりとぞ、&文恭院殿御実紀付録・三

賜名、醜名 しめい/しゅうめい

罪を犯した者に、懲罰として〈醜名〉を賜ること。また、その名。

『続日本紀』の記述には「──虫」すなわち同義の「──融」と称した例が多出していて、見せしめとして通称化している感すらある。たとえば有名な和気広虫が流刑に伴い「法均広融売」(『日本後記』では別部狭虫)と醜名化されたのをはじめ、「忌部首融麻呂」「若湯坐宿禰子融」「小野融女」など、いずれも融の字をムシと訓じ読ませている。

自銘 じめい

自分で書き記した名前。

〈署名〉にほぼ同じだが、〈自銘〉には自称の意味も含まれる。

「誠に海月の中うちと、いふべき人品故に、その名を、無頼先生と、自銘(しめい)の散人、」(教訓乗合船・一・六十六部の話)

氏名権 しめいけん

人は自分の氏名の専用を他の何人からも不当に侵害されてはならない、とする権利。

法的に人格権の一と認められている。

氏名点呼 しめいてんこ

列席者やメンバーなどの氏名を順に読み上げ、出席を取ったりすること。

「氏名点呼 人衆ニ対シテ、其人ノ姓名ヲ、順次ニ呼ビ上ゲテ、点検スルコト。」(新編 大言海)

賜紋 しもん

権力者が自家の家紋を臣下に賜わること。

室町幕府あたりから、豪族等が系統的に何の関係もない家臣に家紋を押し付け、同党意識を芽生えさせ、忠誠を誓わせる風潮が目立っている。あるいは毛利家のように、朝廷から禁紋である〈菊桐紋〉の使用を勅許された例もある。

釈号 しゃくごう

略して〈釈〉とも。僧が姓の代わりに用いる号。

釈迦の弟子、の意が込められている。

「僧ノ姓ヲスベテ釈トイフコトハ、道安ヨリ始マル」(善庵随筆・二) *釈号を付けて「釈道庵」が全名となる。

綽号 しゃくごう

渾号(こんごう)〉とも。〈渾名〉に同じ。☟渾名

爵号 しゃくごう

近代に、爵位の称号。

〈爵号〉は明治憲法により、勅使をもって賜与された栄典の一つである。華族等を対象に、公・侯・伯・子・男の五等に分けられた。

借名 しゃくみょう

シャクメイとも発する。過去の有名人から借用した名付け。また、その名。

普通は音通をもとに表記違いとするのが妥当。氏名そっくり借りる例もあるが、これだと盗用の疑いがかけられることもある。〈借名〉にはそれなりの動機があり、このあたりを調べてみるのも興味深い。

参考

●勢南御出馬所々合戦事同秀吉武勇事/扨モ此度木下ガ働、信長公大ニ御感ノタマヒケルハ、今日(*永禄十二年八月二十七日)藤吉ガ手ヲ負ナガラ門ヲ破テ責入タル様、誠ニ古ノ朝伊名三郎義秀が勇力ニモ劣ルマジキ剛ノ者ナリトゾ褒仰ラレケル、藤吉是ヲ忝存ケレバ、是ヨリ頓テ義秀ノ名乗ヲ打返シ秀義ト名乗ル、サリナガラ義ノ字ハ、公方様(*足利義昭)御諱ノ字ナレバ、憚アリトテ文字ヲカヘ、木下藤吉郎秀吉ト名乗ケルハ、此時ヨリノ事也ケリ、 &総見記・八●続日本紀に、孔子釈迦などいふ人あり、八幡太郎、賀茂次郎、新羅三郎、八幡六郎、舎那王、観音遊女の名の類いとおほし、&松屋筆記・二

社交名 しゃこうめい

三業地関係をはじめ接客業に従事する女性の営業用名。

亜矢、めぐみ、リリーなど多彩である。

衆称 しゅうしょう

もろもろの名前。

諸名が寄せ集められた状態を示す。物名名寄に多く見られるが、人名にも用いられることがある。

就籍 しゅうせき

人事用語で、戸籍を新に取得すること。

それまで本籍をもたなかった者が、改めて戸籍に就くことをいう。

十大姓 じゅうだいせい

①鈴木、②佐藤、③田中、④山本、⑤渡辺、⑥高橋、⑦小林、⑧中村、⑨伊藤、⑩斉藤

これらが佐久間ランキングによる十大姓の順位である (日本人の姓、佐久間英著、六芸書房刊)。わが国総人口の一割は〈十大姓〉で占めるといわれている。

住民登録 じゅうみんとうろく

法律上は〈日本人の住所に関する登録〉といっている。市区町村の住民が登録して居住関係を明かにすること。また、その手続き。

〈住民登録〉を済ませることで〈住民票〉交付の資格が得られ、成人なら選挙権も発生する。

住民票 じゅうみんひょう

市区町村の住民個々に氏名、出生年月日、性別、世帯関係、戸籍の表示、住所などを記載した公文書。

〈住民票〉を役所で綴じたものを〈住民基本台帳〉といっている。

襲名 しゅうめい

親の名を子が、師匠の名を弟子が継ぐこと。

襲名した人物系は、「初代」「二世」「三代目」など序数詞を冠して〈代号〉をはっきりさせるのが原則である。

襲名は、被襲名者が死亡したり隠居したりした場合に、名跡の引継ぎという意味を込めて、襲名披露などの儀式を伴って執り行われる。歌舞伎界、相撲界、花柳界、芸能界、職人あるいは任侠の世界で襲名が盛んである。

正規の襲名とはいえないが、徳川家では家康が幼名を竹千代と呼んだのにちなんで、後裔の家光、家治、家綱らも竹千代を襲っている。☟片名

参考

●いにしへは同じ御名を、幾代もつがせたまへりと見ゆ、其の証は大己貴命素戔鳴尊の御子なるに、神代の巻に、素戔鳴尊六代の孫、大己貴命とあり、第四代彦火々出見尊の御名、神武天皇襲せ給ひて、彦火々出見尊と申奉れば、瓊々杵尊より後は同じ御一名にて、幾世続きましませしやらんも、しるべからず、又事代主命は、大己貴の御子にして、地神第二代吾勝尊の御時の神なるに、其の御女五十鈴姫尊、神武天皇の后宮に立たせ玉ふ、この事代主命、初代の事代主命にてはあるべからず、上も下も父祖の名を襲ひ用ふる事、上世より吾邦の国風にして、おほけなきたとへながら、ちかき世にも初代の藤四郎、二代の藤四郎、永正の助定、天正の助定などいへるごとくなるべし、&ありのまゝ・一

襲名の称 しゅうめいのしょう

襲名に使う「代」か「世」かを問う、助数詞についての意味論である。

一般に芸能関係者は「代」、工匠関係者は「世」というように、職別に応じ分け用いているが、現実は混用しているのが常である。

参考

●世代ノ字、唐ノ世ニ世民ノ字ヲ諱ミ、世ノ字ヲスベテ代ノ字ニ、書キ改メシヨリシテ、混同セシナラン、父子相継曰世トイヒ、兄弟不相為後ナドイヘバ、父子相継ハ世トイフベシ、兄弟相及ハ代トイフベシ、世トイフベカラズ。&善庵随筆・一

襲名披露 しゅうめいひろう

〈名披露〉に同じ。

「新宿の新歌舞伎座で、大々的襲名(しふめい)披露(ひろう)の看板を掛けて、一ト月ぶつ通して語ることになつてゐるんだ」(下村千秋、天国の記録・六)

宗門改め しゅうもんあらため

切支丹禁圧のため江戸幕府が寛永十八(一六四一)年に始めた検察制度。

切支丹奉行等は諸国領民の宗旨を踏絵や寺請いなどの手段によって調べ、「宗門人別帳」に記載して宗旨を証明させた。

宗門人別張 しゅうもんにんべつちょう

江戸時代、寺ごとに備え付けが義務化された檀徒一人一人の宗派戸籍簿。

切支丹弾圧の必要から設けられた制度で、宝暦十二年六月に最初の帳がまとめられた。檀徒は勝手に宗派を変えることは認められず、厳しく監視された。

守護 しゅご

中世、一地域の統括支配者。官職名「守護職」にあった者も含めた呼称である。

「人にておはします御所は、ぽんしよぴらとがしゆごなるじだいに、」(どちりなきりしたん・六)

殊号 しゅごう

優れた号。目立つ名称。

漢名であり、すでに死語になっている。

主膳 しゅぜん

律令制下、春宮(とうぐう)坊に属した配膳官(毒見役)を主膳監という。のち長野主膳など、通名に転化した。

入内名 じゅだいめい

皇后、中宮、女御らが内裏に参入したとき付ける呼称。

〈入内名〉は女房名に比べ、佳名をより入念に選んで用いた。藤壺(栄花物語・六)、浅緑(栄花物語・十四)、雛鳥(浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」)など。

出産同時命名 しゅっさんどうじめいめい

出産と時を同じくして命名すること。

新生児の命名は〈御七夜〉あたりに行うのが普通であるが、地方によっては出産同時命名という例外もある。奄美の与論島などにこれの例が見られる。

出仕名 しゅっしめい

〈仕官名〉とも。宮仕えの名。民間から役人になったときに特別に付けた名。

左記引例のように、歌人の下田歌子(平尾セキ子)は賜号でもある「うた」の出仕名で宮中に仕えている。

参考

●平尾氏(セキ)と云ひ、後改めて歌なる者は、元岩邑藩士平尾鍒蔵の女にして、元高田藩東条琴台の孫なり。岩邑に生る四五才の頃より怜悧にして常に三十一言を口占し、十才の頃に及んで、一日に一百首の探題を詠ずること容易なり。去りし明治三庚午の年、東京へ出て専ら和歌漢学を研窮せり。去年壬申の十月、宮内省へ出仕を命ぜられ、初めて参朝の日、歌を奉れとあり、又種々の賜物ありけるに、/敷島の道をそれとも沸かぬ身に危くわたる雲のかけ橋(*後略)&郵便報知新聞・明治六年九月十三日

出生名 しゅっしょうめい

〈乳名〉〈おさな名〉〈小字〉〈わらわ名〉〈若名〉など別称がいくつもある。本人が出生したとき付けられた名。今では出生届とともに登録された名。

現代では名前の変更届があって受理されないかぎり、出生名がそのまま戸籍名となって一生付いてまわる。

出世名 しゅっせめい

本人の出世につれて名前が変わっていくこと。また、その名ども。

〈出世名〉は、人は出世につれてその名もらしきものにならなければならない、という儒教的発想による。昔、出世魚や出世鶯を生み出した命名思想に一脈通じるものがある。

その代表的な例が豊臣秀吉で、幼名の日吉丸に始まり木下藤吉郎→木下藤吉郎秀吉→羽柴藤吉郎秀吉→羽柴筑前守秀吉→藤原秀吉→豊臣秀吉と名前のほうは小刻みに出世している。

「そこまで聞いたとき、ぼくらは質問した。『女性を、少女といい、娘と呼び、以下、年を経るにつれて中年増、大年増、婆あ、梅干婆あ、鬼婆あと呼びかえて行くのはよいことだと思います。三歳の女の子も女性、九十婆あも女性じゃ、なんだか物足りませんね』」(「改名は三文の得」井上ひさし、日本の名随筆・別巻二十六)

主馬 しゅめ

律令制下、春宮(とうぐう)坊に属した主馬署は皇太子の乗馬をつかさどった官職。

のち遠藤主馬など、通名に転化した。

修理 しゅり

律令制下、皇居等の修理・造営にあたった官人の職名。

この役職名が後に通名に使われるようになった。幕末の開国論者、佐久間象山は佐久間修理でも通った。

準無名 じゅんむめい

未定着の用語である。代称を用いた、〈無名〉といってよい人名。

たとえば古文書では、具体的な女子名を挙げず、「誰某の(むすめ)」「女子、云々」とした表記がふつうであった。江戸時代の権威ある系譜集『寛政重修諸家譜』などはこの表記に徹していた。

──女 ──じょ

女流俳人などの下付け号。

「すて女」「うめ女」「市女」といったように、名の下に〈──女〉の一文字を付け加えるならいは、今でも閨秀歌人らに受け継がれている。また、とせめ、はつめ、ふみめ、といった平仮名名も〈──女〉の派生である。

姓 しょう

呉音のショウはセイ(漢音)に通じ、語義は同じ。☟(せい)

参考

●いやしき人のはらに生れ給へるみかどの御子、三春といふさうを給はりて、わかきときより、くにををさめ、位まさり、とくのたかくなるまで、めもまうけず、つかひ人もつかはぬ人あり、&空穂物語・藤原の君

称 しょう

和訓でトナエとも。呼び名全般をさす広義の用語。〈称名〉〈称呼〉〈称号〉など縁辺語も多い。

──丈 ──じょう

年長者や歌舞伎役者の芸名に下付けするみなし敬称。

参考

●丈と云ふ事/(*中略)皇国の今俗常にこれを云はず、ただ芝居俳優および浄瑠璃太夫等に物を贈る書にのみ某丈と書く、あるひは幟等を贈り、その幟に大書して某丈と書すことになれり、&類聚近世風俗誌・四・人事

──尉 ──じょう

判官をさす古語。ジョウと発しても、役職の部署や等級により「允」「丞」の字をも当てて使い分けた。

後に地方武官の官職通称に用いられる。

参考

●地方の豪族武士の称呼/之に反して地方の豪族武士なるものは、その実力に於ては優に京官を驚かすに足るものがあつたけれども、その官階は気の毒な程低い。是が中央政府の地方を制馭した政策であつて、非常に功労がない限りは関東八州などに住んで居つた大地主は、何遍京都ヘ参勤しても父又は祖父の任ぜられたより以上の官に、任ぜられる見込は殆となかつた。即ち家々には栄誉の極点、昔の語で言へば前途といふものがあつて、通例(じやう)といふ武官に任ぜられる事であります。右衛門尉・左衛門尉、右兵衛尉・左兵衛尉といふものが其実空官であつたけれども、地方の武士を奨励する唯一の栄典であつたのです。それでも地方人は素朴なもので、之を貰ふ為に如何なる労をも辞せぬといふ傾きがあつたので、頼朝が鎌倉に幕府を開いてからは、地方人の任官を非常に制限して、必ず将軍を経由して上奏しなければ任命せられてはならぬことに定めました。故に本家の家督相続人一人を除く外は、相応な家柄の息子でも、矢張り只の次郎三郎で一生を終ることになつたのであります。さうなって来ると、有名無実の一微官たる左衛門尉・右衛門尉も愈々以て涙のこぼれる程有難いものとなり、従つて国に帰つて若し既に左衛門尉となつてゐる太郎殿を、太郎左衛門尉と呼ばずに間違へて、たゞ、太郎殿と呼ばうものなら、勿論決闘位は申し込んだのであります。&名字の話

称謂 しょうい

呼名・称え・名称などの総称。称呼。

「然れども異邦異なるより称謂も相違あれば、」(授業編・十)

生涯人名 しょうがいじんめい

一生付いてまわる人名。つまり公的には〈本名〉。☟本名

将軍 しょうぐん

軍兵を統率・指揮する軍官。「征夷将軍」のように、往時は任官の場合にも語義を拡大して用いた。

参考

●将軍/崇神天皇十年九月、大彦命を北陸に、(たけ)()川別(かはわけ)を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣し、各軍に将として四方の国々に遣はし、戎夷を平げしむ、これ将軍の始なり、&明治節用大全

将監 しょうげん

官職の一つで、近衛府の判官(じよう)

のち香川将監など、通名に転化した。

称呼 しょうこ

〈呼び名〉〈名〉〈称号〉の類。

これら全体をさす言葉である。☟名称

称号 しょうごう

〈称号〉には、次の二義がある。

⑴称え。名。☟名称

⑵名字。苗字。☟名字 

 

〈称号〉は皇族から上人の屋号まで、きわめて幅広く用いられている、いわば汎称である。もうひとつの特色、〈称号〉は今日では苗字と頭角に認識されている。

左記引例のように、称号は人を尊ぶ名字であると言い切っているが、あながちそうともいえない。今日では、称号をより拡大解釈し、右⑴の語義としても通用している。すなわち、⑵は⑴に含まれる狭義なのである。

参考

●和俗家の称号を名字と呼/和俗、家の称号を名字と呼、是を近世名と字との事と心得、あたらぬ事として、苗字などと書は、却て誤れるにや、是は中頃、武家出身せし者、其郷里本貫の名田の字を呼しより名字と云、天野北条等のごとし、人の名と字にてはなし、たとへば居所を以て呼も同じけれど、是は其人を尊んでの事なり、一条殿、九条殿、鎌倉殿等なり、公家衆の称号、花山院、徳大寺なんど申も、花山院氏、徳大寺氏と云事、更になし、近世名字に氏を添て、武田氏、長尾氏なんどゝ云も、古書にはなき事なり、この頃は又これを姓と書く、林家の学士を姓は林など記せり、いざや姓氏は、むかしより勅授にて、今は私に姓とも氏ともいはんは、いとも忌憚べき事なり、&塩尻・一

商号 しょうごう

商人が営業用に用いる号。

なかには自分の氏名をそのまま当てたり、姓を冠して「中田屋商店」のように用いる例も。

称呼敬避 しょうこけいひ

〈実名敬避〉に同じも、より漠然とした表現である。☟実名敬避

称呼の従礼 しょうこのじゅうれい

勅命により、臣民の名・(あざな)の称を礼法に従わせること。

たとえば「清水の(親分)」とか「法生寺(ほつしようじ)殿」などのように、場所や代称で指示することも礼法の一つであった。引例は、礼典に照らし合わせて、国主等の名や真人等の字の名乗りをを禁じた勅である。

参考

(神護景雲二年五月三日)(みことのり)したまはく、「国に入りて(いみな)を問ふは、先に聞くこと有り。(いはん)や、(りやう)に従ふに、何ぞ(かつ)て避くること無けんや。(このころ)諸司の入奏(にふそふ)せる名籍(みやうじやく)を見るに、或は国主、国継の名を以て、朝に向ひて名を奏す。寒心せざるべけんや。或は真人(まひと)朝臣(あそみ)を取りて(あざな)を立て、氏を以て字と()す。是れ姓を(をか)すに近し。(また)仏、菩薩と聖賢の(みな)を用いる。(ぶん)(けん)を経る毎に(こころ)に安からず。今より以後(のち)、更に然ること()かるべし。昔、里を勝母と(なづ)けて曽子(そうし)入らず。其れ此の如き等の類、先より著しきこと有る者は、亦即ち改め換へ、努めて礼典に従へ」とのたまふ。(*読み下し)&続日本紀・二十九・称徳天皇

称氏 しょうし

〈氏〉を称えること。また、その氏。

小字 しょうじ

幼いときの名。男児の太郎君、牛若、千麻呂、女児のかぐや、あてき、三姫などが該当する。☟幼名

「小字、わらはな、童名、小字、これは幼名なる時の名なり」(類聚名物考・姓氏部七・名字諡号)

 氏 しょうじ

古代の姓と氏。『新撰姓氏録』にある千百八十二氏を対象とした場合に用いる用語。

現代にいう〈(せい)()〉とは別義である。

少将 しょうしょう

左・右近衛府で、中将の次官に位置する官職。下萌(したもえの)少将など、女房〈召名〉の一つでもある。

参考

●少将/其の職掌中将に同じく、五位殿上人の中譜第の公達と為る者之に任ず。四位に叙す時、職を去る。但し叙留者は是殊恩なり。三位の少将は執柄の息常に之れに任ぜらる。(*読み下し)&和漢三才図会・九

上姓 じょうしょう

尊い血統の家。素性の高い人。

〈下姓〉に対応する語である。

少輔 しょうすけ

「少」のみは、官職で大中小の最下位をさす。

ふつう少弐、少将、少納言などの接辞が補われる。〈少輔〉では少輔命婦など、女子名も少なくない。

象徴名 しょうちょうめい

特定の人物や人物の属性を一般的な名詞で指称する用法。またその名。

場合によっては〈代称〉そのものである。

象徴名の例を挙げると、「陛下」は天皇のみの指称。「太閤」といえば、ほぼ豊臣秀吉をさす。「──姫」といえば深窓のお嬢さんをさし、「太郎」は多くの場合長男坊の象徴である。このように、直接に名前を挙げなくとも、表現中の言葉の綾で、だれのことをいっているのか類推できるのが象徴名の特質である。☟代称

少納言 しょうなごん

スナイモノモウスツカサと和訓。律令制下、太政官に属する官職名。

少納言典侍など、女房〈召名〉の一つでもある。

商人帯刀 しょうにんたいとう

帯刀制限下で、商人が帯刀できる特殊な例をいう。

参考

●市民帯剣のこと/『柳葊雑筆』にいう、商人は刀を帯するのみ。太刀を帯することなし。「職人尽」の画にても知るべし。応仁兵乱後、商人みな僭上して兵士のごとく太刀を佩き、弓箭(きゆうせん)()り、軍役に従ふこと、堺の菜屋・京の茶屋のごとし。天和三年、令せられてすべて町人の二刀を帯することを止められしと聞けり、云々。こゝに刀と云ふは脇差にて、太刀と云ふはかたなのことなるべし。&類聚近世風俗誌・四・人事

勝復 しょうふく

〈勝復〉本来の意味は「仕返し」である。ちなみに『管職秘言』に「勝復とは、勝敗に由て儺を服するの如きことあるを云」とある。転じては、陰陽道〈名占〉の用語の一で、父字から母字を生じさせる用字転換の法をさす。

参考

●勝復之事/先祖ヨリ用ヒ来リタル字、其人ノ性ニアハザルアリ、仮令バ木性ノ人ニ、歯音金ノ文字ヲ父字トナス時、名乗ノ父字ヨリ其人ノ性ヲ克ス是凶ナリ、然ドモ此文字ヲ父字ニセネバナラズトアラバ、此父字ニ生ゼラルヽ所ノ唇音ノ文字ヲ母字ニ用レバ、母字ヲ父字ヨリ生ズルヲ以テ、父字ノ気、自トヨハリテ、其人ノ性ヲ克スル事カナハズ、其上此母字ヨリ其人ノ性ヲ生ズルナリ、是負ベキ所ノ者、復テ勝ト云ヲ以テ、勝復ト云ナリ、例シテ云ハヾ、木性ノ人ノ名乗ニ数敷(カズノブ)ト云ガ如シ、是数ノ字ハ歯音ニシテ金ナリ、此金ヨリ性ノ木ヲ剋ス、然ドモ数ノ字、先祖ヨリノ通リ字ナルヲ以テ父字ニ用フ、故ニ母字ニ敷ノ水字ヲ用テ、父ノ金気ヲ奪フナリ、是ヲ以テ其人ノ本性ヲ克スル事アタハザルナリ、&韻鏡諸抄大成・六

称名 しょうめい

名を称えること。また、称えた名。☟名乗り

定紋 じょうもん

その家々に定まっている紋。すなわち、家紋。

参考

●家の定紋といふ物は、本は旗幕などに付るしるし也、素襖直垂小袖などには、家の紋付る事もあり、外の紋付る事もあり、&貞丈雑記・三・小袖

庄屋 しょうや

江戸幕府や領主に任じられた一村落の長。

営農事務を中心に統括を委任され、地元の名望家が選ばれた。

上臈名 じょうろうめい

朝廷女官には上臈、小上臈、中臈、下臈などの階級がある。

「上臈」とは上臈女房の略で、最高位の二位、三位の典侍など身分の高い女官を差す古語。その呼称の総称が〈上臈名〉である。

参考

 一、さるべき人々の召つかふべき女房のしだい、上らうをさなゝをよぶべし、たとへばちや〳〵、あちや、五ゐなどよぶたぐひなるべし、唯上らうともいふべし、(*このあと各位女官の呼び方の決まりを述べている) &大上臈御名之事

女官名 じょかんめい

宮中に勤める女子官職の総名。

近世にも用いられてはいるが、近代語といってよいであろう。(なる)子、(さと)子、(なる)子といった「公家読み」名、あるいは由紀子、美年(みね)子、伊沙子など二音二字名が多く、これらがモダン名として一般婦女子にももてはやされた。

参考

●お局の整理/極内密に協議中/(*中略)即ち其数に於て皇后宮付高等女官の一名多きは、典侍の上に勅任一等の尚侍一名存する為にて其他は同一人員となり居り、且又官等に於ても典侍の二等官若くは三等官、俸給に於ても一級四千二百円、二級三千七百円といふ風に両官付女官の待遇は毫も区別を存せず一律に取扱ふ事となり居れるが、其実際の人員に於ては目下皇太后宮付女官は高等官二十四名、判任官三十余名なるも皇后宮付女官は東宮妃殿下御当時の其の儘にて万里小路、正親町、吉見、富田、三善、生源寺の六女宮の外に安達、烏丸の二御用掛と判任女官十名あるのみにて、而も此等の人々は尚未だ典侍、掌侍、権掌侍等の官命を拝し居らず、 &東京朝日新聞、大正二年五月十二日

職名 しょくめい

職行上の名を総じたもの。

──社長、──理事、──店長の類である。

女子名 じょしめい

〈女名〉〈女の名〉〈女名前〉〈女性名〉〈婦人名〉の総称。

〈女子名〉は形態・種類がじつに多様であるわりに、研究者の数はごく一部にかぎられている。研究の手掛りになる史料が男子のそれに比べ、はるかに少ないのが主因と思われる。しかも時代変遷がはげしく、確と体系付けるにはとらえどころがない。古名の場合、とんでもない当て字読みが多く、半端な知識ではついていけない。などなどのネックが横たわっている。

ちなみに古典では、具体的な〈女子名〉は軽視されてきた。たとえば『寛政重修諸家譜』では具体的な女子名にはいっさい触れず、「──(のむすめ)」「──妻」「──母」それに「女子」ですませている。

参考

●婦人の名、ふるくは某刀自、某女、某子、某虫などいふぞおほかる、庶人には、某女といふ名多く見ゆ、されども名によりて、尊卑のけじめありしにはあらず、続紀に、夫人正三位県犬養宿禰広刀自、従四位上和気朝臣広虫、従四位下久米連若女など、いとおほかリ、又無為の人にも、藤原朝臣数子、紀朝臣若子などあり、さはいへど皇女たちは、皆某子といへば自尊、某女といふは自卑きがごとし、さて字音によむ名も、一字名も、又三字四字のも、又男の名とひとしきも、又今世とをさをさからはぬもあるなり、(*中略)古の婦人に、紫式部、清少納言、或は紀伊丹後などいふは、皆呼名なり、かくて後にいたりては、ひたすらに某子とのみ名づくる事にはなりたり、されば今世に婦人の名にさへあれば、呼名にも子の字をつくべきと思ふはかたよれり、まして字音の名に子の字をつけて、たとへば楊子席子とやうにいふは、かたはらいたきわざなりけり、 &名字弁

女子名、──上 じょしめい/──うえ

昔、貴人の妻の名に付けた尊称。「葵の」「紫の」など。

女子名、江戸時代 じょしめい/えどじだい

江戸時代の女名は、ひらがな二音節という共通特性を持っている。てふ・ひさ・はる・きよ・わか、など枚挙にいとまがない。

しかし、女名に「お──」を冠らせる主題には数十もの文献が言及しているのに、このひらがな二音節の由来について触れたものはほとんど見当たらない。出典はやや古いが、『大上臈御名之事』に、女房同士は幼名を呼び合うべし、として、「をさな名少々/ちや〳〵 あちや かゝ とゝ あこ あか あと こゝ ちやち つま あや よゝ」を列挙している。

女子名、お── じょしめい/お──

女名の上に付け親愛と敬称の意味を兼ねた「お」の字。

漢字で「小」「御」「阿」などみなオと発する。発祥は鎌倉末期と見られている。近代まで、二音節の女子名に付けたのが特徴である。

中世に女房(ことば)から派生したとする説が有力であるが、なかには『南留別志』巻二のように、「今時の女の名は、太平記のお妻始めなり」とする説もある。

参考

●女名ノ上ニオヲツクルガ如キ、モトソノ君ニ対シテ妃妾ノ類、召シツカハルヽモノヲ崇シニ起ル、尋常ノ女ニオ字ヲツクベキヨシナシ、シカレドモ凡コノ類、今ニハカニ改メントスルハ亦不可ナリ、タヾソノ始ヲ精シクスルノミ、&名言通・下五二●男女の名昔やうにつくはひが事なること/女の名、歌よむ人は、なに子といふを、みやびたりとこゝろえて、たれも〳〵、なに子くれ子とぞいふなる、いにしへにこそ、さやうの名はみゆれ、今の世はなべてのふりにあらねば、わろきこと、なに彦くれ麻呂のごとし、しかのみならず、大同弘仁のころよりは、皇后内親王女王のみ名、なに子くれ子といふにさだまれるやうになりぬれば、下ざまの人は、心してさる名はつくまじきことぞかし、&松の落葉・四●女の名にの字を用ふること/太平記に、菊亭殿に御妻(おさい)とてみめかたち類ひなく云々とあるを始とす、&明治節用大全

女子名、阿── じょしめい/お──

「阿」はオと発し、女子名に冠して用いた昔の当て字である。☟「女子名、お──」

(たまたま)惰性と称する者は、飢ゑて牛肉店に至つて、一鍋(いつくわ)の焼肉と二合の鬼殺しとに飽き、()んで楊花(ヲンナダユウ)(ヨセ)に至り、竹本の()(こま)と清元の()(はな)とを聞いて帰るに過ぎざるのみ。」(東京新繁昌記・初編・学校、服部誠一)

参考

●今婦人ノ名ニ、阿ノ字ヲ冠ラシムルコトハ、タトヘバ政子ト云テ、おまさト云ガゴトシ、太平記ニ、高師秋ガ、菊亭殿ニ在シ阿才ト云女ヲ奪シ事アレバ、四五百年以降ノコトヽ見エタリ、今ノ清ニテモ、女ヲ呼ブニ阿ヲ付ルト云、(*中略)其詳ナルハ此方ニテ知レヌコトナレバ、昔ヨリ読来リシ如ク、ア戎ト読テ、人ノ耳ヲ驚カサヌガヨシ、、阿難尊者ヲ屋難尊者、阿弥陀仏ヲあツみた仏トハ云レヌ也、和読要領ニモ、義ニ興ヌコトハ、人ノ聞ヲ驚サヾルガヨキト云、&撈海一得・下

女子名、往古 じょしめい/おうこ

出典は数多いが、比較的まとまりのよい一書から引用する。

参考

●婦人の名、ふるくは某刀自、某女、某子、某虫などいふぞおほかる、庶人には、某女といふ名多く見ゆ、されども名によりて、尊卑のけぢめありしにはあらず、続紀に、夫人正三位県犬養宿禰広刀自、従四位上和気朝臣広虫、従四位下久米連若女など、いとおほかり、又無位の人にも、藤原朝臣数子、紀朝臣若子などあり、さはいへど皇女たちは、皆某子といへば自尊、某女といふは自卑きがごとし、さて字音によむ名も、一字名も、又三字四字のも、又男の名とひとしきも、又今世とをさをさかかはらぬもあるなり、(*中略)古の婦人に、紫式部、清少納言、或は紀伊丹後などいふは、皆呼名(*通称の意)なり、かくて後にいたりては、ひたすらに某子とのみ名づくる事にはなりたり、されば今世に婦人の名にさへあれば、呼名にも子の字をつくべきと思ふはかたよれり、まして字音の名に子の字をつけて、たとへば楊子席子とやうにいふは、かたはらいたきわざなりけり、&名字弁・女子名

女子名、奥の代称 じょしめい/おくのだいしょ

貴人の妻をさす代称は多彩で〈奥〉〈奥方〉〈御台〉〈局〉〈政所〉〈北政所〉〈北の方〉〈御台所〉などがある。

女子名、男風 じょしめい/おとこふう

男子名に近い印象の女子名。

性別呼称がまだ分化していない上代・古代に目立つ。(いし)()菩岐々(ほきき)那古若(なごわか)などかその例である。

参考

●ふるき女の名/伊勢斎宮寮頭藤原相通といひしものゝ妻を、藤原の小忌古曾と云けるよし、古右記に見えたり、水戸城下吉田社の文書のうちに、字男と云女の名あり、仮名には、あさをとこと書たり、今の世にては、おかしき名なるべし、&年山紀聞・三

女子名、官職由来 じょしめい/かんしょくゆらい

官職によって命名の女子名。

もっぱら通名として用いられ、実名が表に出ることはめったになかった。これには御台所、北の方、北政所、──局などがある。

女子名、小── じょしめい/こ──

名の上に「小」を冠する女子名。

古来朝廷での命名法の一で、帝の寵愛を受けた上臈らに用いられた。ときにはその官職上の地位によって小宰相、小侍従、小左衛門、のように、それぞれ「大──」に対応して名付けられた。

女子名、──子 じょしめい/──こ

女子の名の最後に付ける接尾辞。

往古、男女に関わらず親から子への慈しみを表す文字として用いられた。

これの由来をたどると、異なる初出説がいくつもあって、紛らわしい。『塩尻』巻八十六によると、仁明天皇皇女、正子内親王を〈──子〉と呼んだのに始まるとしているが、女子の赤猪子、安見子のように、男子名を含めてそれよりはるかに古くから用いられており、嚆矢を特定できるものではない(掲出の三例文を見てもそれぞれ初見が異なる)

いずれにしても、当初の女子名「──子」は、貴人の子女に対する尊称、それも公式名として用いられたようである。

幕末・明治維新期には幾子(イク)、八重子(ヤエ)、市子(イチ)などのように仮名二文字名に子を添え、もっぱら貴人や高級武士の女子名に使われ、熊八連の娘にこれを命名することはなかった。

しかし明治の人名改革に伴って、明治憲法公布の二十二年あたりから、女子名にも水平化という現象が現れた。どこか洒落ていて象徴的な「──子」が普及し始めたのである。「──子」は明治から大正、大正から昭和へと時代を追って増加し続け、昭和三十五年には使用率約五割を占めるピークを迎えた。

なお「──子」は、古代はもちろん現代、男子の命名にも使われている。☟──子、男子名 ☟「子」離れ現象

参考

●すべて高貴の婦女の名には、多く子の字をつけらる、これもふるき例にや、日本紀用明紀に、葛城直磐女広子とあり、これや古記に見えつる始めなるべし、&它山石・初編十五●女に子と唱ふこと/宣化天皇の皇子火焔(ほのほほ)の母、大河内稚子媛(わかごひめ)を始とす、&明治節用大全 

女子名、──御前 じょしめい/──ごぜん

貴人の婦人等に親愛を込めていう呼称。

引例のような「静御前」が最も有名である。

参考

●淡州に来由の知れぬ古墳あり、其の塚の四面、木を植ゑて籬とす、其の木、郷人むろと号す、此の木、牛の鼻穴に貫き用ひる木なり、故に或る牛飼の男、これを切りて家に帰りぬ、その夕より口ばしりて心つねならず、人々問ふ事あれば、我はこれ静なり、この郎、みだりに我が家の木を切りとる狼藉なりと答う、聞く人不審し、静とは何人なるや、誰とはおろか九郎義経の妾静なりと答ふ、里人の曰く、然らば聞及ぶ舞の上手なり、一さし御振舞候はゞ、皆人疑ひ申すまじ、さなくば正シキ(いつは)りならんといへば、&牛馬問・一

女子名、──こそ じょしめい/──ごそ

古くに女子を卑しめて、「こそ」を下付けした名。

参考

●こそ 何こそ/女の何こそといふ名あり、或人は(クソ)の意にていやしめて付ともいへり、古今集の作者にはすでにくそといへる名も有、うつほ物語にたゞこその君といふあり、&類聚名物考・姓氏八

女子名、「子」抜き じょしめい/こぬき

わが国女子名の舞台で主役の人気を保ち続けてきた「──子」も、昭和三十年代あたりから現代的でみやびた名前に取って代わられる。そうした中でも明美、真由美、ゆかり、香織、美穂といった名が妍を競うようになった。

そして昭和四十三年を境に、「子」をしたがえた名は、ついにトップの座を奪われ、やがて衰退への道をたどることになる。

女子名、住居由来 じょしめい/じゅうきょゆら

住んでいた地名にちなんで付けられた女子名。

歴史的にも有名な「淀殿」(童名は茶々)は、秀吉から淀城を与えられて住んだことから、こう呼ばれた。しかし大坂城二の丸に移ると「二の丸殿」と変わり、さらに伏見城西の丸に移り住むと「西の丸殿」と称された。

女子名、珍名 じょしめい/ちんめい

珍奇にとんだ女子名。

参考

●女房の名のめづらしきをかきつらねたり、寿抄並野槌には、其名義未詳由をいへり、踏雪抄に貞徳説として、膝幸(ヒザサチ)愫槌(コトツチ)胞腹(ハウハラ)乙牛(オトウシ)などの義をつけたり、穿鑿の義なればさして師説とも信用しがたけれど、しばらく略して記し侍り云々、&徒然草文段抄・四

女子名、──ひめ じょしめい/──ひめ

「──ひめ」という類型の女子名 

下付は媛、姫、比米などを当てる。これの例は枚挙にいとまがない 

参考

●陸奥胆沢(いさは)郡西根何度いへる(やま)(さと)では、丁女(むすめ)を姫と呼び、嫁を姫子とよび、また三十、四十と年高き女を御子(おんご)姫子(ひめこ)と呼ぶなり、&筆のまに〳〵・四●女にひめといふこと/神代には一般に女の名を何ヒメといひて、貴賎の別なし、近古に至り姫宮と唱ふるは皇女に限り、姫君といふは将軍家及摂家の女に限ることゝなれり&明治節用大全

女子名、ひらがな二文字 じょしめい/ひらがなふたもじ

〈一字二音節型〉とも。平仮名二文字の女子名 

あき、はる、なつ、ふゆ、かめ、つる等おびただしい数、というよりは近世までこれが常識であった。今でも年輩女性の名に時おり見かける。

「そでといふ女つかひたる人に、その女につけていふ、/人しれぬわがものおもひの涙をば袖につけてぞみすべかりける、」(信明集)

女子名、父兄借名 じょしめい/ふけいしゃくめい

父兄や夫などの官名から借りた女子名。

平安時代以降に多出している。

参考

●寵/すべて女のよび名は、さらぬもあれど、大かたは父か夫かの官名をよばるゝが多し、小児もしりたる百人一首の中なる女のよび名は、伊勢は、伊勢守継蔭の女なり、右近は、右近の少将季縄の女なり、和泉は、和泉守道貞の妻なり、大弐三位は、太宰大弐成章の妻なり、赤染右衛門は、赤染時用の女なり、小式部内侍は、和泉式部の女なり、伊勢大輔は、伊勢祭主輔親の女なり、清少納言は、清原元輔の女なり、相模は、相模守公資の妻なり、周防内侍は、周防守継仲の女なり、紀伊は、紀伊守重経の妹なり、&傍廂・前篇

女子名、わらべ名 じょしめい/わらべな

朝廷や貴人に仕え雑用を受け持つ少女に付けられた侍名。

平安時代には女官らを中心に比較的優雅な名が付けられた。

参考

●そのとし(*正暦三年)のうちに、はせでらにまいらせ給ぬ、(*東三条院、藤原詮子)御ともには、(*中略)としごろさぶらへるも、さらぬも、あま十人ばかりさぶらひふ、みゆきとてわらはにてさふらひしが、御ともにあまになりしかば、りはだとつけさせ給へり、わらはべとしごろつかはせ給はざりしも、いまぞおほくまいりあつまりたれば、ほめき、すいき、はなこ、しきみなど、さま〴〵つけさせたまえり、&栄花物語・四・見はてぬ夢

所生の氏 しょせいのうじ

本人を生んだ両親の氏。実父母の氏。

〈所生の氏〉は、結婚した妻が夫の氏か婚前の氏かを問題にする場合などに用いる用語である。明治初期の太政官令に散見できる。

除籍 じょせき

古くはジョシャクともいった。戸籍台帳などから当人の氏名や記録を取り除くこと。

法律上の身分行為によって、一つの戸籍から他の戸籍へと移ったり、死亡に伴って籍から除外されることである。たとえば、引越しで他の市町村に移って転籍した場合も、原籍から見ると〈除籍〉となる。

〈除籍簿(除籍謄本)〉は、八十年間は除籍年月日順にとじて保存される。

除籍謄本 じょせき

戸籍に載った人物が結婚したり死亡した場合に、籍から抜け出ることになり、これを記録した公文書を〈除籍謄本〉といっている。

除籍には謄本と抄本とがある。

初祖 しょそ

家系や血統の初代。

「清弁菩薩は三論宗の初祖にて、諸法の無相なる理を宣給ふ」(太平記・二十四)

除族 じょぞく

近代、華・士族の人が犯罪などにより族身分から除かれ平民へと格下げされること。

諸大夫 しょだいぶ

親王・摂関・公家に仕え家司(けいし)に任じられた四位・五位の官人。

朝廷から宣旨を受け公卿に次ぐ家柄にあった。

参考

●諸大夫/諸大夫は正従五位の上下に相当す。四位の者あり、四品の諸大夫と称す。此号執柄より起り、執柄家及び大臣に候し、彼の家司職事に補して、家僕に列なる輩の後胤なり。今多くは武家に有り、最も摂家・清華及び門主の家司を諸大夫と称す。(*読み下し)&和漢三才図会・九

初発の神三柱 しょはつのかみさんはしら

『古事記』上・の冒頭部に、「天地(あめつち)初めて(あらは)れし時に、高天原(たかあまのはら)に成りし神の名は、天之(あめの)御中(みなか)主神(ぬしのかみ)高御産巣(たかみむす)(ひの)(かみ)神産(かむむす)(ひの)(かみ)、」とある。

諸蕃 しょばん

〈蕃別〉とも。『新撰姓氏録』に見られる分類のうち、古代、渡来人の子孫と称した士族。「漢氏」「秦氏」「百済氏」など。

除名 じょみょう

律令制付加刑の一で、罪を犯した官人から官職・官位すべてを六年間にわたり剥奪する定め。除名後は庶人と変わらぬ扱いになる。

庶民無苗字 しょみんむみょうじ

近世以前の社会制度下、庶民(農工商)は苗字を認めずとした原則。

参考

●古も中間(*ちゅうげん)は、苗字をなのらざりし也、武雑書札に、天文二年七月六日の首注文を記したるに、中間彦六と有て苗字なし、其外侍には苗字を書たり、&貞丈雑記・四役名●御公儀へ差上げる諸書付人別帳にも、何町何兵衛支配借家何屋何兵衛などゝ、上方の如く家号をしるさず、唯何町何兵衛店何兵衛と計りにて、筆数のすくなきを是とす、苗字を唱ふる町人も多くあれど、公儀へは通らず、よく〳〵由緒ある家ならでは、苗字を呼ことなし、夫故家名やら、苗字やら、通名やらわからぬ面白き呼名まゝあり、上方の料理屋の通名の如し、必竟は上へ通らぬことゆゑ出たらめの付次第なるべし、&皇都午睡・三編上

署名 しょめい

〈自署〉〈サイン〉とも。文書などに自筆で氏名を書き記すこと。また、自筆した氏名。

除名 じょめ 

不適もしくは欠格と認めた者の名を名簿や結社などから除くこと。

ジョミョウと発音すると、異義の用語になるので注意を。

参考

●東京中の男義太夫を網羅した義太夫因会はいままであまり振はなかつたが時勢の要求から愈大日本因会と改め、委員に都賀太夫、若太夫、港太夫、広兵衛、猿之助、鬼市を挙げ基本金を作つたうえ、先づ斯界の神聖を汚す者は除名処分を行ひ、一方慈善事業にも尽瘁する事となつた。(*後略)&都新聞・大正九年十二月十五日

署名押印 しょめいおういん 

文書等に〈署名〉したうえ印を押すこと。

署名より一段と丁寧な方法である。

「他人に代書させた場合には、代書した者が、その事由を記載して署名押印しなければならない。」(刑事訴訟規則六一条・二) 

──進 ──しん

中宮職や大膳職など、三等官の官名から通名に転じたもの。

水戸黄門の従者格さんは「渥美格之進」といった。

神官名 しんかんめい

地下人で許状を得て神官になった者が付けた苗字。

禰宜、松尾、立川、吉田、宮氏などがその例で、神事を執り行う場合はもっぱら〈神官名〉によった。荒木田・渡会といった名家については、神官名を云々しない。

次は神官名の世襲制を認めないとした布告の引きである。

参考

●御布告写/神社之儀ハ国家之宗祀ニテ、一人一家ノ私有スベキニ非ザルハ勿論ノ事ニ候処、中古以来大道ノ陵夷ニ随ヒ、神官社家ノ輩中ニハ、神世相伝由緒ノ向モ有之候得共、多クハ一時補任ノ社職其侭沿襲致シ、或ハ領家地頭世襲ニ因リ、終ニ一社ノ執務致居リ、其余村邑小邑小祠ノ社家等ニ至ル迄、総テ世襲ト相成リ、社人ヲ以テ家禄ト為シ、一己ノ私有ト相心得候儀天下一般ノ積習ニテ、神官ハ自然士民ノ別種ト相成リ、祭政一致ノ御政体ニ相悖リ、其弊害不尠候ニ付、今般御改正被為在、伊勢両宮世襲ノ神官ヲ初メ天下大小ノ神官社家ニ至ル迄、精撰補任可致旨被仰出候事。&太政官日誌・明治四年五月一四日

神祇の四姓 しんぎのしせい

代々神職世襲を認められた四氏姓。

参考

●今世ニイハユル、神祇ノ四姓トイフコトヲバ、早ク心得居ベキコトヂヤ、サテ其ノ四姓ト云フハ、王氏、中臣氏、斎部氏、卜部氏、コノ四姓ノ方々ガ、神祇祭祀ノ事に預ラルヽニ依ツテ、コレヲ神祇ノ四姓トハ申スノヂヤ、&俗神道大意・三

新家 しんけ

近世初め、新に立てられた公家の諸家。

松殿、平松、花園、樋口、塩小路などで、『職元尚支流』に「新家」として十九家が列挙してある。

神号 しんごう

〈神号〉には、次の二義がある。

⑴神格化して付けられた名。

源為朝→舜天太神、徳川家康→東照大権現など。

⑵神を敬うために付ける雅号。

皇大神、大御神、明神、天神、菩薩、今宮、若宮など。

なお⑵の場合、『日本書紀』一・神代上「開闢之初」の条に、「非常に尊い方はといい、それ以外はという」と、尊称の使い分けを示唆している。

「中古以来某権現或は牛頭天王などと称し其外仏語を以て神号に相称候神社少なからず候。」(中外新聞・慶応四年四月五日)

神号宣下 しんごうせんげ

史上の功績著しい人物などに、勅命により神号を賜ること。

物故者への勲章授与のようなものである。

「大江(*毛利)元就卿ヘ、己巳三月豊栄神社神号宣下ニ付、此度宣命使トシテ、五辻少弁山口藩邸へ被差遣。」(太政官日誌・明治三年九月十四日)

新戸籍 しんこせき

ここにいう新戸籍とは、明治五年二月一日に成った〈戸籍法改正令〉をさす。前後のいきさつは下記出典に詳しい。

参考

●因みに新戸籍以前のを付記すべし/維新前、人別と称せし戸籍は、極めて粗雑のものなりしが、明治四年四月五日、始めて全国一般戸籍法改正の令出で、翌五年二月一日以後、新戸籍編成のことゝなり、爾来大いに見るべきものとなれり。(*中略)幕府時代の制度として、男女とも、八歳以下の者は、各戸の人別中に入れず、まだ、一人口と見なさざりし、されば、明治二年に、紀州藩より差出せる、藩内の取調書を見ても、人口は、合計四十九万〇六百十一人、『旧制により、八歳以上の取調なり』と断われり、然るに、この松田町(*東京府神田松田町、承前)の、明治三年の戸籍は、八歳以下の者にても登録せり、その仕方書の内に、『一町内、出生死去有之度々、町年寄へ相届、町年寄是を中年寄へ申達、中年寄おひて、即座に記す、出生は、名前を書き、上へ年号月生と記す……』など、指示してあり、戸籍面にも、明治三午歳七歳など、八歳以下の幼者も見ゆ、但幼少に拘らず、生れ月日を記せるは、唯の一人も見えざれば、月日の記入は、新編成以後の者にだけ実行せしならん。/斯る風にて、漸進し、明治五年頃より、漸く全国の戸籍が、戸籍らしきものになれり、然るに、意外なるかな、政府にて、戸籍々々といひて、人民の生年月日などを調ぶるは、其真意が『未婚の女子を、外国に送り、西洋人の種取にするため也』とか、或は『ラシヤメンに売つてやる為めだ』などと愚にもつかぬ流言囂々、愚民を恐怖さする者有り、七年五月版〔開化の人口〕第四篇にも、/『戸籍を厳しく調べて、女の子を沢山に引集め、牝羊(ラシヤメン)にして、外国へ渡すとやら云ますそうだが……』とあるが、実に、四年九月中、備後福山管下の暴民一揆も、その原因はこゝにありし也。&明治事物起原・上・第二編

親称 しんしょう

仲間や家族が親しみを込めて呼ぶ名。

江戸語の「──公」や「──どん」、現代なら「──くん」「──ちゃん」など。

紳士録 しんしろく

名士らの略歴を集めた書冊。

「興信所などで出している紳士録・人名鑑などだと、おカネを出すと、紳士でなくとも載せてくれるか?」(名簿パトロール、佐久間英、日本の名随筆・別巻二十六)

壬申戸籍 じんしんこせき

〈新戸籍〉とも。干支が壬申に当る明治五年に太政官布告により施行された戸籍令。また、その戸籍。

現在、この布告内容の閲覧は原則として禁じられている。差別語が目立つから、という次元の低い理由からだそうである。☟新戸籍

臣姓 しんせい

朝臣あるいは幕臣、大名家臣の姓氏の総称。

「朝臣姓賜へるは、もと臣姓なりにして、」(姓序考・朝臣)

新生児命名 しんせいじめいめい

生まれた子に名を付けること。また、その名。「新生児」自体が現代用語であるから、〈本名〉もしくは〈戸籍名〉をさすことになる。

臣籍 しんせき

明治憲法下の皇室典範による、臣民としての身分・地位。

明治になってできた語であるが、古代までさかのぼり、「臣籍降下」のように敷衍して用いられることも少なくない。

「臣籍 ㈡皇族以外ノ、臣民ノ分限。」(新編 大言海)

臣籍降下と氏姓 しんせきこうかとしせい

皇族であった人が身分を失うことを〈皇籍離脱〉といい、これに伴い天皇の家臣として仕えることを〈臣籍降下〉という。

各代天皇を頂点とする天皇家では、子・孫・曽孫から末裔へと代々皇籍集団が膨らんでいく。皇親がやたらに増えていくわけで、限りある皇室財産の維持という点からすると、皇親増加は天皇家の経済圧迫現象でしかなく、歯止めをかけなければならない。なにしろ天皇位に付く皇族は理屈のうえで一人いればよいわけだ。なかんずく、皇子・皇女に恵まれた子福の天皇にとって、皇族の一部を勅命により臣籍降下させることは、避けて通れない道となった。五十人もの御子を設けた嵯峨天皇は、この事態収拾を強く自覚され、大人数の臣籍降下を英断されたことで知られている。天皇は皇子・皇女らに臣従の見返りとして、新しい氏を興すための賜姓を行い、かくして嵯峨源氏の誕生を見たのである。こうしてみると賜姓は単なる褒賞制度以前に、皇族整理の道具に利用された、ともいえる。

現代でも、皇室典範第十一条の定めにより、皇族の臣籍降下による簡素化が図られていて、すでに十一宮家が庶民へと天下りしている。

『新撰姓氏録』 しんせんしょうじろく

略して〈姓氏録〉で通る。

古代氏族の系譜を集成した古書。京・畿内に在籍の名家、豪族千百八十二氏について、出自や系統を親別、皇別、諸蕃等に分類して記述。嵯峨天皇の勅命により万多親王ら数人が弘仁六年に奏進した。全三十巻に目録一巻。☟神別 ☟皇別 ☟諸蕃

参考

●姓氏録/(*林)羅山先生の説に、此書もと大部なるが、いまはほろびて漸三冊の目録のみなりといはれき、そはこの書の序に、并目三十一巻、名新撰姓氏録とあるによられたる(アゲツラ)ひなれども、くはしくみれば、いまの一冊のうちに、右第五巻、右第六巻などあれば、いまのは合冊になれるにて疑ひなし、&筱舎漫筆・一

親族呼称 しんぞくこしょう

〈親族の名称〉とも。親族に呼びかける言葉。

「伯父様」「じいちゃん」「ママ」など。

親族卑称 しんぞくひしょう

自分の身内に対するへりくだった表現。あるいは身近な人間を親しみのあまり卑しめていう言葉。これらをひっくるめて〈親族卑称〉といっている。

参考

伝承の卑称 宿六、かかあ天下、鬼ババア、 惣領の甚六、うどの大木、百鳴り娘、粗大ごみ 

親等 しんとう

親族関係の近い・遠いを示す呼び名。また、その等級。 ☟付録親族系統と親等

親王復活 しんのうふっかつ

いったん臣籍降下し賜姓を受けた人が親王に復活すること。

〈親王復活〉の例は数のうえで珍しいが、ないわけではない。左記例のほかにも『皇胤紹運録』には宇多天皇が、『扶桑略記』二十七には源兼明が例に挙げられている。

参考

●大殿(*藤原兼通)おぼすやう、世の中もはかなきに、いかでこの右大臣(*藤原頼忠)いますこしなしあげて、わがかはりのそくをもゆづらんと覚したちて、たゞいまの左大臣兼明のおとゞときこゆる、延喜のみかど(*醍醐天皇)の御十六の宮におはします、それ御心ちなやましげなりときこしめして、もとのみこになしたてまつらせ給ひつ、さて左大臣には、小野宮の頼忠のおとゞをなしたてまつり給ひつ、&栄花物語・二・花山

新付 しんぷ

令制下、戸籍に新に登録すること。

『令義解』『三代実録』などにこの語が見える。

神別 しんべつ

『新撰姓氏録』の分類に基づく、古代の神々の子孫と称した氏族。

たとえば藤原氏の場合、天児屋根命(あまのこやねのみこと)をそとして記載されている。

臣民籍 しんみんせき

〈国籍〉に相当。

明治憲法下、国民としての身分・地位を保障するものであった。

神名 しんめい

ジンミョウとも。神の名 (神社の名でもある)

具体的な神名は『延喜式』中の「神明帳」などに載っており、現代でも関連書が多いので、そちらを参照していただきたい。なお、〈神名〉の初出は、引例の「番仁岐命(ほのににぎのみこと)」が初見である。

(ここ)(もち)て、番仁岐命(ほのににぎのみこと)、初めて高千穂(たかちほの)(みね)(くだ)りまし、(かむ)(やまとの)天皇(すめらみこと)(あき)津島(づしま)経暦()ましき、」(古事記・上)

参考

●ついでにいふ、大物主命を、オホモノヌシノミコトと読み、大国主命を、オホクニヌシノミコトとよむは非なり、大物主も、大国主も、すべておほなむちとよむべし、その明証(アカシ)は、新撰姓氏録に、大物知(オオモノチノ)命と書たり、譬ば、姓の村主(スグリ)を、と訓じたれば、大物主、大国主のも、の音なるを、に通はして、読べき理りなり、さてとかよへば、物主はむちなり、と横音亦かよへば、国主はもちなり、大をおほなとよむ、は大きなるの略字なり、こゝには大字に、なるのをこめて唱ふ、是読則(トクソク)なり、&玄同放言・三・人事二

人名 じんめい

個人の氏姓を含めた名。

人に限って付けられた名前(氏名)を〈人名〉と総称している。ほかに坂東太郎(利根川)とか沢庵(漬物)といった人名のようで人名でないものは、〈擬人名〉として人名から外すのが普通である。

親や名付け親が子に名前をつけるという行為は、人にとって最も普遍的かつ、神聖で運命的なものである。親は新生児の将来を見据えて、幸せを願ってあれこれ試行錯誤しながら名付けする。命名式のような通過儀礼は、それらの象徴と見てよい。

その人名の付け方も地域の習俗や社会制度により、あるいは時代によって異なった慣習として残されている。専門家は氏名を一見しただけで、出生地や兄弟関係がある程度わかるといわれる由縁である。たとえば江戸太郎という氏名には、「東京(江戸)で生まれるか育った長男坊」というイメージが浮かぶなど、名が体を現している一面がそなわっている。

人名、──こそ じんめい/──こそ

往古、人名に〈こそ〉をつけた慣習。

一般には敬称とされているが、強意の接辞であろう。江戸時代には例が見られず、中古の特殊な習いであったようだ。☟氏姓 ☟名

参考

●こそ/竹採物語に、糞をこそといへり、浜こそという童の名、袋草紙に見えたり、上東門院に侍るすまゐこそは金葉集に見え、右近君こそは源氏にみゆ、又北殿こそと侍り、藤原頼道の妻小忌古曾の名は九代実録に見ゆ、遊女記に見えたる神崎遊女の名に孤蘇とあるも是れなるべし、貫之が童名をあこくそといふに同じ、源氏の箋にこそとは官女をうやまうていふ詞也といへり、大和物語に西こそといへるは西殿をいへり、宇治拾遺に地蔵菩薩を地蔵こそといふが如し、&倭訓栞・前編・こそ

人名、古代名の類型 じんめい/こだいめいのるいけい

古代人名を二十項に類型化し系譜にまとめた発表がある。渡辺三男著『苗字名前家紋の基礎知識』という本から抄出させていただく。出典根拠や類例掲出なども詳しく述べられているので、同書を参照していただきたい。

⑴人の関係……播磨父麻呂、大枝真妹、藤原世継

⑵居処……笠御室、間人御厩、田口館子

⑶動物……石川虫名、美濃玉虫、吉氏赤鳩

⑷植物……葛城福草、宮勝木実、吉備小梨

⑸鉱物……門部金、山田銀、神主真水

⑹天象……日之媛、藤原星雄、坂田雷、

⑺歳時……大宅年雄、中臣正月、藤原真夏

⑻方位……大伴東人、大和西麻呂、刈田貴多雄

⑼官職……伊余部馬飼、巨勢神前訳語、賀茂関守

⑽職業……大中臣魚取、藤原宅美、田中鍛師

⑾器物……石川楯、塩屋小戈、錦織壺

⑿服飾……土師冠、藤原鬘麻呂、当麻比礼

⒀地名……藤原吉野、上毛野大川、蘇我日向

⒁身体……白鳥頭麻呂、藤原額、太秦眉刀自

⒂動作……大伴談、境部毛津、賀茂助

⒃状態……宗形与呂志、文室布登吉、磯辺逆麻呂

⒄数量……鳥取部万、依羅五百世麻呂、多治比八千足

⒅神・儒・仏……難波吉師神、文釈迦、宮道阿弥陀

⒆抽象語……田中法麻呂、丹比礼麻呂、服部真福

⒇氏の縁語……橘諸兄、加茂大川、船小楫

人名、最古のもの じんめい/さいこのもの

最古の人名は、「稲荷山古墳出土鉄剣銘」に記された一連の人名を初出としている。この鉄剣は埼玉県行田市の埼玉古墳群から出土したもので、百十五文字が刻まれており、五世紀後半(学説によると四七一年)の印刻と見られている。

左記の和訓訳中「獲加多支鹵大王」は雄略天皇を指している、とする説が有力である。

辛亥(しんがい)の年七月中記す、()()()臣、上祖(じようそ)、名は意富比垝(オホヒコ)、其の子、多加利足尼(タカリノスクネ)、其の子、名は弖已(タカ)加利(リノ)(スク)()、其の子、名は多加披(タカハ)()()()、其の子、名は多沙鬼獲居(タサキワケ)、其の子、名は半弖比(はてヒ)、其の子、名は加差披余(かさヒヨ)、其の子、名は乎獲居(オワケ)臣、世々、(じよう)刀人(とうじん)(しゆ)()り、奉事(ほうじ)し来り今に至る、獲加多支鹵(ワカタケル)大王の寺、()鬼宮(きのみや)に在る時、吾、天下を左治氏、此の百錬(びやくれん)の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也

人名、地口言葉 じんめい/じぐちことば

地口言葉は洒落言葉に比べ、より早く江戸で成立した言葉遊びである。

参考

●人名の地口言葉▽酒でしんけん←武田信玄&でたらめ地口▽きめうほういん手のもとの小狐←九郎判官源義経&でたらめ地口▽包丁とぎまさ←北条時政&地口絵合▽串柿(くしがき)升注(ますし)()←楠正成&地口絵合▽くらがへの女郎あをざめ←熊谷次郎直実&地口絵合

人名、洒落言葉 じんめい/しゃれことば

洒落言葉は、江戸庶民が日常生活の句読点のように使いこなしていた。いや、庶民に限らず、武家でも洒落た名を付けたものが少なくない。

その一人が祐筆職世襲の御家人「中根半蔵」で、地味な仕事に五十年も勤めあげ、つらつら人生を振り返っていわく、「泣かねえ半蔵」と。(名君徳行録)

参考

●人名に関する洒落言葉▽ナニお気の毒の人丸様だ、イヤ四斗樽様が呆れらア&東海道中膝栗毛二編▽サア〳〵一ツ(のみ)のすくねと出やうか&にやんの事だ▽おめへなぜ今時分、きた山の武者所だ&(しげしげ)夜話(やわ) *荻生まとめ

人名、神称化 じんめい/しんしょうか

神名化けした人名。

俗信ゆかりの例が多い。

参考

●道鏡塚/下総国酒々井の駅なる牛頭天王の祭礼七月十七日なり、此の神輿をかつぐ者のはやし言葉に、「一丈八尺アラバチヲワツタ」と同音に云ひて、さて神体は石の男根にて、弓削道鏡を祭れるよしなり、此の地なほこれに似たる神体あるよしなれど、未だ詳からねば略す、按ずるに道鏡下野に終りをとりし故に、近国これらのもの多きなるべし、因みに記す、日本堤(*江戸、吉原大門へ続く山谷堀の土手名)より北の方の田野に、方二三間ばかりの地にさゝやかなる小塚あり、これをダウキヤウ塚と呼べり、余(*加藤雀庵)が幼きときまでは上にいへる如し、いまはその地及び小塚もありやなしや、おぼつかなけれど、なほ道鏡塚の名は存せり、&さへづり草・むしの夢●矢島の神霊/佐竹家の封出羽国秋田の太平山に鎮座の明神を、三吉大名神と号すと、俗には三助大名神とて、福の神と申伝ふ、毎月八日二十一日を縁日とす、&道聴塗説・二

人名、魔除け じんめい/まよけ

魔除けに利用の人名。俗信にちなんだ人名。

参考

●風邪除の「久松るす」/八百屋お七の演劇が大当りの時に流行した風邪(感冒症)を「お七かぜ」と呼んだのは江戸の昔のことであるが、明治二十三年の冬より翌年の春にかけて流行した悪性風邪を「お染風」といつた、お染とは伝染病の染によつた名であるといふに、これを演劇のお染と見て、お染ならば久松が居なければ来ない筈だと、何人が言出した事か、当時戸外に「久松るす」の札を貼付する事が盛んであつた、また大正七年にも同様の事が愚民間に流行した&奇態流行史

人名外漢字 じんめいがいかんじ

人名(姓氏を含む)に法律で定められた常用漢字、人名用漢字以外の漢字を用いること。また、その漢字。

昔からの珍姓や珍名が尾を引いて、いまだに消滅しない外漢字氏名がときおり見つかる。たとえば、()(せん)()(けつ)(やく)などは、たいていが他の漢字との合成で姓氏となっており、異読化されているので正しい読みは手に負えない。それでも名前の難読ほうは時代趨勢で残りわずかだが、難読姓氏が皆無になるのはいつのことであろうか。

人名改変の仕置 じんめいかいへんのしおき

犯罪者に対する仕置の一つに、次のような氏名の改変、奪取がある。

  奪姓……姓を奪うこと ☟奪姓

  除籍……人別長から除籍すること

  除名……名簿等から氏名を外すこと ☟除名

  貶姓(へんせい)……姓を(おとし)める ☟貶姓

  賜醜姓……醜い姓を課す ☟賜姓、醜姓

  改名……強制的に改名させること。

古来、名前には霊力が宿っていると信じられていたから、こうした制裁はかなり犯罪防止効果があった。

人名学 じんめいがく

人名を研究対象にする学問。

ただし、欧米ではAnthroponomastikとして学問体系が確立しているが、日本ではいまだ公式学問名として認められていない。その証拠に『広辞苑』にこの語は見当たらないし、図書館分類書誌『日本十進分類法』九版にも〈人名学〉の表記はないのである。

すなわち研究分野として、いまだに私学の範疇にとどまっているわけで、日本人名の半端でない難しさを物語っていよう。

人名漢字 じんめいかんしょう

〈人名用漢字〉に同じ。

人名冠称 じんめいかんしょう

人の姓名を冠した物の名。

この類は、お吉地蔵、源五郎鮒、宗十郎頭巾、源氏蛍、沢庵漬など身の回りにたくさん存在する。☟擬人名

参考

●東海道処々ニテノ咄シニハ、専ラ又昔ノ大陰暦ニ返ルト云ヘリ。或ハ某県ハ既ニ其布令アリシト云ヒ、或ハ伊勢大神宮ノ神託アリシ抔評判セリ、大抵ミナ大陰暦トハ云ハズシテ徳川暦ト唱ヘリ。三州ヨリ道連ニ成リシ者咄ノ序ニ云ヘリ、東京ノ親類ノ所ニ行キテ云々ノ用ヲ達シテ、又国ヘ帰リテ年ヲ取ルト、其日数ナキヲ以テ是ヲ問詰レバ、是モ又徳川ノ正月ヲ云ナリト答フ。(*抄出)&東京日日新聞・明治七年一月六日

人名辞書 じんめいじしょ

〈人名辞典〉とも。古今の著名人等の略伝などを記して集成した辞書。

人名辞書では『大日本人名辞書』(中村正直撰、同書刊行会編、講談社・明治十九年四月刊)がわが国斯界の魁を成した大書である。

 人名茶化し じんめいちゃかし

人名を名指しで揶揄する戯文をいう。

引例の(宮武)外骨は自由奔放な筆致で、この種のくだけた文章家では第一人者といえよう。

参考

●日本一偉い人/現今日本で政友会の原敬(はらけい)でも、国民党の犬飼(いぬかひ)()でも、憲政会の加藤高名(かうめい)でも、表面立つて楯突くことは出来ず、寺内正毅(せいき)も後藤新平(しんぺい)仲小路(なかせうじ)(れん)も、さては枢密院の伊藤巳代(みよ)()も金子堅太郎も末松(けん)(ちよう)も、皆其前に平身低頭しなければならぬのは山県有朋(やまがたありとも)である、山県は実に日本で一番偉い人であらう、然し此日本で一番偉い山県も、その(めかけ)貞子(さだこ)には羽掻いしめにされて、どんな無理難題でも唯々(ゐゐ)諾々(だくだく)として居るから、山県よりも貞子の方が偉いやうで、貞子こそ日本一の偉い人のやうに思はれるが、さて其貞子よりも偉いのは、貞子のおツ母さんたる講談師松林(はく)()の女房である、幾ら貞子が公爵夫人だと威張った処が、おツ母ざんの前に出てはヤハリ頭が上らぬのである、これでは松林伯知の女房こそ日本一の偉い人であるやうだが、元来伯知の女房だから、亭主たる伯知には頭が上がらない、さうして見ると日本で一番偉い人は松林伯知といふ事になるではないか、然るに伯知は渋沢栄一の贔負(ひいき)を受けて、いつも多くの幣帛(へいはく)を貰って居るので、渋沢の前へ出ると伯知は平蜘蛛の如くである、さうして見ると日本で一番偉い人は渋沢栄一だと云ふ事になるが、何がさて渋沢も山県の前へ出ては一文の値打もなく、平身低頭で山県を崇敬し(たてまつ)らねばならぬのである、さうだとすると、ヤツパリ山県有朋が日本一の偉い人かネー、ハヽア&裸に虱なし

人名の吉凶 じんめいのきっきょう

人の名前でその人の吉凶を占うこと。また、その人名。☟姓名判断

参考

●陰陽のかみ安部泰親と云ふ者申しけるは、かほどの智者の、明雲と名をつき給ふ事こそ心得ね、上には日月の光をならべ、下には雲有りと難じける事、&平家物語評判・二ノ上

人名の誤読許容 じんめいのごどくきょよう

日本人の人名は、難読性もしくは異読性を備えた漢字で付ける以上、読み違えられても黙認してしまうという考え方をいう。

織田信長という氏名を叩き台にしてみよう。この信長という名はノブナガと読むのが正しい、と誰もが思っている。ところが太田牛一が著した一代記『信長公記』はシンチョウコウキと読むのが正しい。これは著者が主君の実名直称を憚って音読に差し替えたのであるが、そんな事情を知らない熊八連は、さてノブナガなのか、シンチョウなのか、と迷ってしまう。

「徳川家」にしたところで、トクガワケというのと、トクセンケというのと二通りがまかり通っている。じつに厄介な話だ。

こうした例はほかにいくらでもある。誤読は漢字を使った日本人名の宿命なのである。自分の名前を正しく発してもらいたいならば、名刺などできちんと振り仮名をつけておく配慮が必要である。

また、読みは終始一貫して同一であること。これを怠った本人は、誤読されたからと、文句の言える筋合いではないであろう。

人名の名字化 じんめいのみょうじか

人名史の長い過程の中では、思いがけないことも突発的に起こりうる。当初は人名だったものが、後に名字化した例もまれには生じている。

参考

●四座並喜多座の始等之事/観世太夫は、伊賀の服部一党の者也、足利将軍東山殿(*義政)に仕へて、観阿弥と云同朋也、渠に仰て猿楽の業を学び始め勤しむ、其子世阿弥、其子音阿弥と続きて、同朋にて是を相勤、其子俗にして、観世三十郎と号し、猿楽と成て今春が聟と也、いよ〳〵芸術熟し、子孫相続す、&倭楽伝記・二

 

人名の名数 じんめいのめいすう

人名にちなんだ名数。「三筆」「五摂家」など。

後掲の「人名レファレンス資料人名関連名数一覧」を参照。

人名簿 じんめいぼ

〈人名帳〉〈人名録〉とも。人名を記した帳簿。

目的や区分法などでさまざまなものがある。

人名もどき じんめいもどき 

ある共通の特徴・特質を持つ人たち(ときには物)に象徴として与える名付け遊びをいう。

たとえば田舎者には「田吾作」と、いかにも個人名であるかのように慣用的にらしき名を付けている。〈人名もどき〉は、差別用語などという文化破壊への偏見が存在しなかった時代の、万人共通の洒落でもあった。

参考

●伝承の人名もどき/見物左衛門(狂言シテ役)、ぐづろ左衛門(狂言ツレ役)、義左衛門(大儀に殉じた者)、土左衛門(水死人)、干左衛門(餓死者)、犬左衛門(素浪人)、只右衛門(もぐりの見物人)、癇太郎(潤症の強い子)、狼之助(凶悪な侍や僧)、艶二郎(うぬぼれ男)、源四郎(ごまかし野郎)、無太郎(金なし男)、佐平次(出しゃばり者)、折助(武家の中間)、三助(湯屋の垢こすり)、福助(飾り物のような若旦那)(ごん)助(下僕)、権八(居候)才六(ぜいろく)(上方者への卑称)、       お三どん(飯炊き女)、お(きん)(持参金付きの嫁)、                 おりん(悋気強い女) *荻生まとめ

人名用漢字 じんめいようかんじ

戸籍上の人名に使用できる漢字。

昭和二十六年五月、〈人名用漢字別表〉として当用漢字に九十二字を加えて発表。以降数次にわたり法務省により改変通達を経ており、いまだ仕様枠が確定していない。こうした規範施策としての信頼性を欠くため、人名用漢字廃止論を唱える人すら出てきている。

さて現在、新たに命名に用いることのできる漢字は、戸籍法ならびに同施行規則によって、常用漢字と人名用漢字の中から選ぶことになっている。しかし人名に複雑な表記体系の漢字を用いる以上、厄介な問題をいくつも抱えている。

たとえば、正字、俗字、誤字の判別と適用の可否。これらを正字に訂正し、通用字体とする作業。通用字体の柱となる正字体についても、常用漢字・規則別表第二の文字、康煕字典体、漢和辞典の正字体など、これらのどれを採って通用させるのか。さらに、異体字ではないか、シンニョウやクサカンムリの取り扱いなどもチェックしなければならない。こうした一連の煩雑な作業を通して法務省が求めるような通用字体に仕上げることは、国民の誰しもが出来るとは限らない。いや、サジを投げてしまう人のほうが多いであろう。

そのため、人名の通用漢字として登録するうえで、誤った字体や範囲外漢字は市区町村の役所で訂正処理することになっている(法務省民事局長、第五二〇〇号通達)。すなわち役所では、いくつものルールに従ったマニュアルに基づいて、届出の文字がふさわしいかどうかチェックし、訂正して、その結果を届出人に知らせるのである。

結論として、新生児命名の場合、常用漢字ならびに人名用漢字の範囲内であれば、届出にそって登録される。しかし、特異な文字や読みの文字を使う場合は、前もって戸籍係員に相談することをおすすめする。

後掲の「人名レファレンス資料人名用漢字」を参照。

人名用漢字の見直し じんめいようかんじのみなおし

平成十六年七月、法相の諮問機関の法制審議会では、市民からの意見を基に、人名用漢字の加除など見直しに着手した。

このさい、人名用にふさわしくないとして反対意見の出たワースト5に、糞、屍、呪、癌、姦の漢字が選ばれ外されることになった。

後掲の「人名レファレンス資料人名用漢字」

その後平成二十三年一月にも改定が繰り返されている。

人名録 じんめいろく

「紳士録」とも。著名人の略伝をまとめた書冊。

「それにしても、ああいう人名録は、載せてほしがる人物を、どうやつて探し、どういうふうに選ぶのだろう?」(人名録の話、堀淳一、日本の名随筆・別巻二十六)

 

 

数字の訓 すうじのよみ

昔から漢数字の読みには一定の慣用があり、それを命名に応用して役立たせよう。

左記引例を読むと、古来の和訓の論理的な知恵が詰まっていることに驚かされる。ともあれ実用的である。

参考

●数字の訓/数字の訓み方、倍数のものへ同じ声の訓みをつけたるは、殊更なしゝにや、将たま〳〵さやうになりしにや、何れにしてもよく整ひたるものなり、先一をひとといひて、其の倍数の二をひの同音にてふたと呼び、三をといひて、其の倍数の六をの同音にてと呼び、四をといひて、その倍数の八をの同音にてと呼び、五をいつといひて、其の倍数の十をの同音にてとをと呼びたり、この間(なな)(ここの)とは対数なきゆゑ、姑く判のものとすべし、此の数の言葉は、何れも箇の字の意味なるを付けて、物の数を呼ぶ例なるが、独十のみはを添へず、或る人の曰はく、「つゞやはたち」のつゞは、十箇の意なりと、或は然るべし、其の二十をはたといふは、十を二つ重ねたるにて、ふたなるべきを、斯くいひ替へたるにて、はたちといふ詞のは、一つ二つのと同じく箇の字の意なるべし、さて又二十より以上は、十をとをといはずして、ふたそぢみそぢとやうにと呼びたり、是も如何なるいはれにて斯くいふや知らざれども、(なな)(ここの)()とを前の八つの数に合はすれば、五十音中の羅行を除きて、程よく彼此を取り合はせたる如く思はるゝなり、更に識者に就きて其の誤りをも正すべけれども、先は余が思ふ所を記し置くこと爾り&塵塚談、「燕石十種」一

据判 すえばん

〈花押〉に同じ。☟花押

菅原 すがわら

古代賜姓の一。有名な菅原道真の姓。

参考

●菅原/桓武天皇の延暦二十二年、河内国土師宿禰清負、始めて菅原の朝臣の姓を給う。(*読み下し)&和漢三才図会・九

宿禰 すくね

八色(やくさ)(かばね)」の第三。

旧姓〈(むらじ)〉の者を対象に賜姓された。

武内宿禰がよく知られているが、『姓名録抄』には漢人(アヤムト)、井原、常世(トコヨ)、大日子、伯耆(ハハキ)など二百数十も宿禰の付く尸が列挙してある。

参考

●宿禰姓は、天武朝廷の詔に、八色姓を改定め賜へるとき、三曰宿禰とみえたり、もとは称言なりしを、此御代に姓にせられし也、宿禰は古事記下巻遠飛鳥宮の段穴穂御子の御歌に、須久泥(スクネ)とみえたれば然訓べし、宝亀四年五月辛巳、足尼為宿禰とみえたれば旧は足尼といへりし也、&姓序考●第三/(宿禰(スクネ))は、補佐(すけ)なり、(いかに)となれば、くゑ(かへし)なり、と横音かよへり、よりてすくゑを、すくねと唱ふ、即すけなり、この姓源は(すくな)彦名(びこなの)(みこと)より出たり、(*文中割注は省略)&玄同放言・三・人事二

 村主 すぐり

清音でスクリとも。〈村主〉は古代の姓の一、当時の朝鮮語で村長を意味した。

渡来系の諸氏の間で制度化された。

参考

●すぐり/日本紀に村主をよめり、韓語に村をすぎとよめり、ぐり反ぎれなれば同語なり、&和訓栞・中篇十一・須●村主(スクリ)錦織(ニシコリ) ()佐 穴太(アナフ) (シモ) 高安下(タカヤスシモ) 芦屋(アシヤ) 古市(フルイチ) 志賀穴太(シカノアナヲ)&姓名録抄

──助 すけ

〈──介〉〈──佐〉〈──輔〉〈──亮〉〈──祐〉ほか、いくつもの当て字がある。

律令制下、四等官の第二位の官職名だったものが名前に転じた。厳密にいえば、省の寮が「助」、衛門府等が「佐」、省官が「輔」のように区別できるが、江戸時代になると、字義など関係なしに音通だけで命名された。百姓・町人に目立つ命名類型である。

皇── すめら──

天皇や皇室に敬意を込めて冠する接頭語。

(すめら)御祖(みおや)」「(すめら)御国(みくに)」など。

受領名 ずりょうめい

たとえば「武蔵守」のように、事実とは関係なく国主を許されたかのように私称すること。また、その名。

一種の自己誇張を伴った詐称である。

 

 

姓 せい

古くにカバネといった。ショウとも発す。

語義の広狭の順に、一族。家系。血筋。名字。氏。

現代では〈苗字〉または〈氏〉と見てよい。

古代に通用したカバネとは意味合いが異なるので、使い分ける必要がある。

往古、〈姓〉は氏単位で定められた階層序列の象徴であり、天皇の支配下にある総てのものが名乗るべき呼称とされた。天皇からカバネを与えられない庶民階級は高市、馬飼、桑原などカバネを含まない姓で呼ばれた。

大化頃には、地方豪族の姓の登録が朝命により義務化されている。☟(かばね)

 

参考

●平家ノ世盛ニ、源ノ頼朝流人ノ身トシテ、関東ニ居ス、平氏ノ盛ト云ヒ、頼朝無力ノ事ト云ヒ、一トシテ用処ナシトイヘドモ、元来皇孫タリシニ依テ、関東諸士是レヲ用フ、其ノ弟九郎義経奥州ニ住ミ、微妙ノ若者ナレドモ、大国ノ主タル秀衡、是レヲ崇メテ大将トセリ、其ノ外世々史官の書載ル処、皆以テ氏姓ヲ以テ種子トセリ、&足利治乱記・上●水戸の家臣中山備前守の従者に、扇谷八兵衛といへるあり、其の所持の刀を主人不図目にとまり、強に望まれし事三四度に及びしかど、承引せざりしかば、自分の刀を給はり、金十両礼物ものせんとてありしかど、たとひ命は失ふ共、許させ給へと辞せしかど、主人立腹甚だしくて閉門させられしに、心安き傍輩訪ひて、かほど迄の粗増(アラマシ)はいかさまゆえあらんと、詞をちかひて尋ねければ、左あらば語らん、自は上杉憲政の嫡孫にして、此の刀は四代持伝へし扇谷の姓号は、鎌倉に仮住居せし在名なりと、くはしくいひし、此の事主人もひそかに聞き給ひて、八兵衛を呼出し、事の子細を問ひ給へども、頭をさげいらへず、其の様宰相公聞し召して、八兵衛を下座にひけるや、上座にむかひ問へよと仰せられし、其の様にもてなし、上座に直りゐさいに申侍りしとなん、宰相公も対座にて御逢有りて、御懇の仰共にて、我領地の内に在宅あられよとて、御城下近き所にて、二百石たまはりしとなん、&犬著聞集・崇行篇

清花 せいか

公家家格の一つ。

〈清華〉に比べると家格や官職の点で見劣る。

参考

●成親卿流罪事/去承安二年七月二十一日ニ従二位シ給シ時モ、(*藤原成親)資賢兼雅ヲ越給キ、資賢ハ、古人ノ宿老ニテ御坐キ、兼雅ハ、清花英才ノ人ニヤ越ラレ給モ不便也トゾ人々申ケル、&源平盛衰記・七

清華 せいが

公家の家格の一で、摂家の次、大臣家の上に位する家格。太政大臣まで昇りうる家柄で、例文のように九家が〈清華家〉にあった。

参考

●清華と申は、転法輪、三条、菊亭、大炊御門、花山院、特大寺、西園寺、醍醐、久我、広幡、九軒なり、此中三条、菊亭、大炊御門、三家は格高し、花山院、特大寺、西園寺、醍醐は中なり、此七軒は藤原なり、久我、広幡は格ひきし、親王家の落の庶子にて源姓なり、(*中略)摂家の内にこそ凡人なれ、清花も花族の公達と称せられて、いや高き御家也、しかし今日にても、親王家男子方多くて、大納言を申、大将をかねて大臣にいたる人は、皆清華と申もの也、それ故何時増申べきも清花はしれ不申候、&光台一覧・三

姓氏 せいし

〈姓尸〉とも書く。音訓でショウジとも。

姓と氏。〈氏姓(かばねうじ)〉に同じ。

この主題をめぐる表記や語釈は、出典により著しく差異がある。加えて和漢の諸説入り乱れ、研究家も追求に半ばサジを投げている。☟氏姓

参考

●姓氏ノ事/今ノ人、通ジテイフハ、源、平、藤、橘ハ姓ナリ、足利、北条、斉藤、楠等ノゴトキハ、姓ヨリワカレテ氏ナリト云、ソレ故某姓某氏ト記ス、シカレドモ古ヘカクノゴトクニワカツコト見エズ、姓氏録ニハ、皆姓ヲ載セタレドモ、其書ヲ名付ケテ姓氏録ト云、源家平家ヲ又源氏平氏トモ云、シカレバ姓ヲ通ジテ氏トモ云ベシ、足利北条等ノ称号ヲ氏ト云コトハ、古書ニハ見エズ、&制度通・十●姓尸/姓尸ノコト、古来諸説紛々不一定。高階真人、藤原朝臣ト云フ、高階、藤原姓ト云ヒ、真人、朝臣ヲ尸ト云フ。国史、尸ヲ不用。万多親王新撰姓尸録、尸ヲ用ユ。史文ニハ姓カバネト訓ス。氏ウヂト訓ス。氏ウヂト訓ス。姓尸ト用ルトキハ、姓ウヂ、尸カバネト訓スト見ユ。如史文ナレバ姓、氏、族トテ、姓ハ大ウヂ、氏ハ小ウヂ、姓ハ本、氏ハ末、族ハ氏ヨり分タルヲ自ラ称スル也。姓ハ女所生、祖父子孫相生ズル也、氏モト姓氏ノ義ニ非ズ。山ヲ横ニ書ル字ニテ、崩ルト訓スル字ニテ、蜀山ノ崩ルヽ音ノ、数百里ニ聞シヨリ、姓ヨリ数百氏ノ分ルニ仮テ、横山ニ一画ヲ加テ、姓氏ト連用スルコト、説文趙箋ニ見ユ。&仙台間語・第二●姓氏/安康天皇四年、氏姓の混乱して其実を失ふことを憂ひ玉ひ、味橿(あまかしのをか)に至て各神に盟ひ探湯(くかたち)して、其氏姓の真偽を定めらる、これ姓氏を定めたまひし始なり、&明治節用大全

姓氏、近世武家 せいし/きんせいぶけ

参考

●近世武家姓氏/飯尾は三善の姓なり、多賀は中原姓、松田は藤原、上野は源姓、和田は源氏、宇喜田は三宅姓、柴田は平家、山中は橘氏、田中は橘氏、堀尾は在原姓、高橋は大蔵姓、滝川は源氏、吉田は源、佐佐木族、大塚は平、鈴木は穂積、菅沼は源氏、宮崎は藤原、塀和は源氏、薬師寺は橘氏、芳賀は清原氏、佐治は平氏、布施は三善氏、船田は平家、右は近世武家の姓氏、実録に依て記之、此外石田三成は藤原、大谷吉隆は高階氏なりし、 (*割注はすべて略)&塩尻・六

姓氏、三別 せいし/さんべつ

『新撰姓氏録』において三別された神別・皇別・諸蕃をいう。『新撰姓氏録』から当該部分を原文のまま転載すると、

今依見進以類詮矣、本其元生、則有三体、(*中略)天神地祇之冑、謂之神別、天皇皇子之派、謂之皇別、大漢三韓之族、謂之諸蕃、所以別同異序前後、是為三体也、

参考

●氏は姓氏録に、皇別神別諸蕃(*原典記述順序の作為的改変。著者は極度の皇道派)と別たる如く、元来は氏の貴賎を分別あるを朝廷にして撰び給ひ、さて其人の品に叶へて、時々の職々に定おきて、八十伴男を治めしめ給ひ、或は殊更に由縁ありて功しかりし限は、生子の八十連属に其職を知らせ給ふ、神ながらなる御政の式なる、然るを後の御々世々に、氏の貴賎の差別なき、賎しき、漢国人の賢だてるを貴べる俗の此方にも漸々に移ろひて、上古の正き御政の御式は沿革(カハリ)たるが如くなれど、然すがに其趣は廃果ずて遣り行はるゝは、天の下に類なかるべし、抑この人品に貴賎の差別ありて、下の下までも其差別の在がまに〳〵、天の下に上なく貴き天皇の御心のまに〳〵、各々等が為には、善くも悪くも伏従い奉仕るぞ、&古史徴・一夏

 

姓氏、初見 せいし/しょけん

姓氏の古書初見については、左記を参照。

参考

●文は春秋左子伝に、天子因生以賜姓、胙之土而命之氏、と有に因て記されたるなり、さて皇国には、宇遅といひ加婆泥と云は、漢国にいはゆる姓氏とは甚く異にして、実は漢土にいはゆる姓氏ともに、皇国のいはゆる宇遅なり、彼国には加婆泥は無れば、此語に填べき文字なき故に、姑く姓字をも書来つれども正字には非ず、故古くは尸字骨字などを書るものなり、&古史徴・一夏

姓氏、数字入り せいし/すうじいり

一色、二宮、三笠、四日市、五島など枚挙にいとまがない。なかには五五五(こごもり)七五三(しめ)()二千六百年(ふじむね)などという難読姓氏もある。

日本の姓氏のうち、数字の付く姓氏は思いのほか多い。これは一数字に対し何通りもの読みがあり、それらを延べて扱う煩雑さ、多様性はすさまじいものがある。

姓氏尊重 せいしそんちょう

姓氏の大切さに思いを寄せ、大切に扱うこと。高位の家格・官位にある家ほど、尊重の傾向が強いこと、論を待たない。封建制社会での「姓氏尊重」思想は、体制側社会にとって必要欠くべからざる財産であり、ゆるぎない美徳であった。〈氏長者〉〈賜姓名〉といった制度は、そうした端的な例である。

参考

●此京家より氏爵を請へる文なり、京家は左兄大夫麻呂の後なり、麻呂は宇合の弟にて、淡海公(*藤原不比等)の四男なり、麻呂また藤原氏の別族にて、その官左京大夫なりし故に京家といふ、季永その子孫として父泰俊、爵を賜はれる後、漸く三十余年に及て、今春の運、既にその巡に当たれば、従五位下に叙せむ事を請へるものなり、これらの状共を長者の許に取集め、理にかなへるを奏して叙せらるゝ也、さるは六位以下は、単位なるゆゑに、重を承け、祭を行ふも先祖の為おもふてぶせなれば、五位以上にのぼり、氏系をして絶ざらしめ、氏族をして貴からしめむとてなりけり、&標註職原抄別記・下

姓氏の音訓 せいしのおんくん

古代姓氏について音読なのか訓読なのか迷う場合が少なくない。これらには慣行の読み方があるので、混用しないように気をつけなければならない。

〈古姓氏音訓〉の項に、これらの収載文献『姓名録抄』から分類と音訓法を一覧にまとめてある。

姓氏の書法 せいしのしょほう

往古、諸礼の規範に基づき公文書などに記す姓氏順の書き方。

例を挙げると、『職原抄』参議条には四位任官は「某朝臣」と、三位以上任官は「姓朝臣」と記すとある。

参考

●授位任官の日、人を喚ぶに名を先にして姓を後にすると、姓を先にし名を後にするなどの制あり、(*中略)是四位の上下に仍て其称を分ちたるにて、いまだ加婆禰の尊称なる旧制を失はざりしなり、&氏族雑考・上●姓尸書法/貞丈按に、省は式部省兵部省なり、式武省は文官の事を掌り、兵部省は武官の事を掌どる故に、位に叙したる人の姓名を書て、式部兵部へ授け下し給はるを下名といふなるべし、此書き様は職原抄の姓朝臣名朝臣の事とは違ひ、別の事なり、一に混ずべからず、下名の書様江次第にあり、略之、&安斎夜話・四

姓氏の人名化 せいしのじんめいか

古代、元は姓氏だったものが年月を経て自然に個人の名に転化したと思われる例がいくつかある。

引例のように、本人の乳母と深く関わりあう事実が興味を引く。。

参考

●継体天皇の御子、茨田大娘女は、御母茨田連氏の女、用明天皇の御子当麻王は、御母当麻蔵首氏の女なる、これらは御母の姓を取るか、(*中略)さて又やゝ後には、其乳母の姓を取て、御子の御名とせられし御制も有りき、文徳実録に、先朝之制、毎皇子生、以乳母姓為之名焉、故以神野為天皇諱と見えたる、此は嵯峨天皇御名神野と申せるは、御乳母の姓なりしことに就て云るなり、抑此制は、何れの御世より始まりしにかあらむ、上代よりも、希々には此例も有つるか、詳ならず、欽明天皇の御子たちなどよりして、姓と思はるゝ御名の多く見ゆるはこの例か、桓武平城などの御子たちの御名は、男女みな此なり、さて彼の嵯峨天皇の御名の外に、乳母の姓を取られたる証の物に見えたるは、天武天皇、初大海人(オホシアマ)皇子と申せしに、その崩りましゝ時に、大海宿禰蒭蒲といひし人の第一に誄奉りしことの見えたるは、御乳母の氏族と聞え、孝謙天皇、御名安倍と申せるに、安倍朝臣石井といふ御乳母見え、平城天皇、初御名小殿と申せるに、安倍小殿朝臣堺と云御乳母見え、桓武の皇女、朝原内親王の御乳母に、朝原忌寸大刀自と云ふが見えたる是らなり、&古事記伝・二十

姓氏の文字不画一 せいしのもじふかくいつ

名前というものは、もともと音標に仮の字を当てているのであるから、当て字が画一化されてないのは当然のこと、と表記の自由を是認する考え方がある。

姓名の音韻識別機能を中心にしたいささか乱暴な発想ではあるが、別項〈人名の誤読許容〉に一脈通じるところがあるといえよう。☟人名の誤読許容

参考

●姓名文字不画一/すべてこと葉かよへば、文字はいずれの文字をかきても、元より仮字なればよろし、されど古事記には此詞をば此仮字、日本紀には彼詞には彼仮字、とやうにその書毎におのづから分別もありげなれど、おのれいまだ一々にはおしきはめず、そも〳〵姓名などは、彼此自他混同すまじき為に、其名目もあるものならむに、こと葉かよへばとて、いづれの文字書きてもよろしといふべからずとおもへど、それはた通はしかけるあり、&難波江・六

姓氏のランキング せいしのらんきんぐ

日本人の姓氏を多い順にランク付けた結果が、これまで何例か発表されている。最新のものは平成十二年、コンピュータにより集計した「岸・丹羽ランキング」が広く知られており、その結果から上位二十位までを掲げると、

①佐藤 ②鈴木 ③高橋 ④田中 ⑤渡辺 ⑥山本 ⑦伊藤 ⑧中村 ⑨小林 ⑩加藤 ⑪吉田 ⑫山田 ⑬佐々木 ⑭斎藤 ⑮山口 ⑯松本 ⑰井上 ⑱林 ⑲木村 ⑳清水

姓氏の濫用 せいしのらんよう

多くの者が高名姓氏を名乗り、本来の氏姓制度を混乱させた事態は、歴史上何例か見えている。☟盟神探湯

参考

●百姓といふ説/允恭天皇の御宇、諸臣に勅して、湯をさぐり神に誓はしめて、姓氏をたゞさる、其後万多親王、姓氏録を輯せられしまでは、猶いまだ一千一百八十二氏ありしが、世くだり人おとろえて、己が姓氏を取うしなひ、源平藤橘の四姓ならでは、なきやうに覚え、我こそ其人の季なりと偽り、系図などを妄作し、みづからあざむき、他にてらふもの多しとなん、&広益俗説弁・十九雑類

正称 せいしょう

正式の名前。

姓称 せいしょう

血筋や家柄の呼称。

成人名 せいじんめい

〈元服名〉〈烏帽子名〉に同じ。

成人になって改名すること。また、そのとき付けた名。☟元服名

生前戒名 せいぜんかいみょう

〈逆名〉とも。自分の意思で生前に戒名を用意しておくこと。また、その戒名。

坊主とは関係なく、「大居士」だろうと「天院」だろうと勝手に付けられるのが魅力である。

たとえば明治の文豪徳富蘇峰は、泉下を予定した多磨霊園の墓石に、自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」なる愉快な〈生前戒名〉を刻んだ。☟逆名

姓帯「族」字 せいたいぞくじ

〈族字〉とも。上代、帰化人らを対象に、姓に「族」の字を付けた戸籍。集団名の一である。『続修東大寺正倉院文書』十一・計帳断簡の条に、具体的な姓帯族字例がいくつか載っている。

戸主智緑年伍拾漆歳左足不便残疾頸黒子

女出雲臣族御衣売年参拾参歳丁女右頸黒子

なお、〈族字〉は引例のような経緯から生じた。

参考

●此族字は、今世に現存れる大宝の戸籍どもを考ふるに、物部連の戸籍には、其氏人を物部連族某、また出雲臣の氏人をば、出雲臣族某と記す例なれば、新に帰化て、未だ姓氏なき蕃人の戸籍には、某族と記さるゝは穏かならぬ故に、改めて姓を賜はんとの詔なり、上に除族字と云は、戸主になりたる上より云るものなるべし、&氏族雑考・上

姓帯「部」字 せいたいへじ

〈部字〉とも。上代、帰化人らを対象に、姓に「部」の字を付けた戸籍。集団名の一である。『姓名録抄』()の条に秦人、葛原ね小人(チヒサコ)阿刀(アト)、石(ハギ)などの姓が列挙してある。これらの下に「部」字が付いた。

正名 せいな

セイミョウとも。〈実名〉に同じ。〈仮名(かりのな)〉に対応した言葉。☟実名

姓譜 せいふ

姓氏の系統を書いた文書。

〈系譜〉とは別しての呼称である。

性別不明名 せいべつふめいな

男女どちらにも属する類の名。

人の名は、音韻や文字から男女の性別が判じとれるのが普通であるが、なかには性別が不明なものもある。たとえば忍、栞、初音、尚江、一枝、一美、静生といった類。戦時中、こういう名を持った女性のところへ召集令状が舞い込んだ、という実話すらある。

姓名 せいめい

(かばね)と名。苗字と名前。氏名。☟氏名

〈姓名〉は大宝律令制定後になって、古くからの姓制が衰退してから使われはじめた言葉である。この背景には百姓といわれるほど姓名の多様化があった。加えて「氏名」と「姓名」との混在濫用があり、氏名を総括する概念として姓名が用いられたのである。

若独(なんじひと)横字(ヨコモジ)を以て姓名を記するや。(いやし)くも其の字を用ゆる者は、漢学の徒たるを(まぬか)れず。」(東京神繁盛気・初編・学校、服部誠一)

姓名改称 せいめいかいしょう

〈姓名〉を新しいものに変えること。また、その姓名。

なお、略して〈改称〉という場合もあるが、これだと改ためたのがが姓だけなのか、名前だけなのか、あるいはその両方なのかわからない。きちんと「改姓」「改名」「姓名改称」のように使い分けるべきである。

参考

●姓名改称の禁/明治五年八月二十四日、華族より平民に至る迄、自今苗字名並に家号とも改称相成らず、但し同苗同名等にて余儀なく差支有之分は、華族及奏任以上は伺ひ出づべく、其余は各官庁に於て事実取調べの上聞届申すべし、との布達出づ。かく姓名は、改めることを禁ずる大方針なるも、たとへば、同姓名の為めに、屢郵便物や電報の誤配の為めに損害を来し、或はたとへば五郎兵衛、明治右衛門の名のものが、神官僧侶となり、この俗名にては、教導上差支へる時は、篤と其事実を取調べて、許否を決するの類なり。&明治事物起原・上

姓名学 せいめいがく

姓名について、科学的かつ体系的に研究する学問。

〈姓名学〉の分野は、一般に姓名判断に似たようなもの、という誤った認識しかもたれていない。加えて、いわゆる私学が目立ち、公開講座もまれで、学問として市民権を得るには今ひとつ、といったところである。

「ある日、私は大阪在住の姓名学を学んだという女性とあった。その人は人の名前の画数(かくすう)を勝手に数えては、」(名前について、佐藤愛子、日本の名随筆・別巻二十六)

姓名称謂 せいめいしょうい

姓名を通して背景の時代をうかがい知ること。

姓名には生まれるべくして生まれた時代相というものがあり、当代の姓名傾向を手がかりに、逆にある姓名から在世の時代や地方特性を類推するという、一種の論理学的な手法である。

参考

●姓名称謂/古書を読むに、時世は定かならずとも、人の姓名によりて、その時世も、大かたは推しはからるゝものになん、さればいにしへの人の名を、今より見れば、異なりとおもへども、当時はその名を同じうするものゝ、いと多なるも、今人の名に、某右衛門、某兵衛など、同郷合壁に、同名のもの多かるをもて、推して知るべし、大約六史に見はれたる搢紳に、同名多かる中にも、馬養は、巨勢朝臣馬養、伊与部連馬養、藤原朝臣宇合、小野朝臣馬養、文忌寸馬養、調連馬養、猪名真人馬養、粟田朝臣馬養、船木直馬養、この他猶あるべし、(*各出典略解注は省略)&玄同放言・下

姓名多称 せいめいたしょう

一人の人物がいろいろな種類の名前をもっているという概念を表す言葉。意味の上で〈複名〉をも含む。☟複名

参考

●自堕落先生は江戸の人なり、元禄十三年庚辰五月三日生る。初名は伊三郎、成長して山崎三左エ門平相如といふ、十六歳にて初めて仕官し、三十八歳にて五君に仕ふ、遁于世て俊明、字は桓と改め、不量軒と号し、庵を無思庵と号し、斎を捨楽斎とし、坊を確蓮坊と云ふ、&金曽木

姓名の読み違え せいめいのよみちがえ

漢字の姓名を音訓いずれかで読み違えること。☟人名の誤読許容

参考

●姓名よみ声の相違/浅井無覚翁は大()刑部といはれし也、今は大(タニ)といふ、信(カツ)を信()といひならはしきたれり、此るい多かるべし、石田三(ナリ)とよみきれたり、ミツヒラ也と、成島道範はいふよしなり、 (*中略)中村(モン)荷斎を、これまた今は字によりてブンカサイとよむ、門嘉斎とかきたる書あり、昔のとなへはモンカサイなればなり、&蘿月菴国書漫抄・三

姓名判断 せいめいはんだん

人名(姓名)の音や画数などの配合により、その人の運勢や適職を判断すること。

業者は姓名の天運、人運、地運、外運、総運の五運をもって判断する。〈姓名判断〉は多分に形而上的であるため、信じる側、信じない側の二極に分かれている。信じる側は女性が断然多い。なお、姓名判断による改名希望は、「改名のための正当な理由」として認められていないのは、もちろんである。

引例のうち前のほうは、明治の姓名判断屋の手口を披露して面白い。また、後の引例の著者(宮武)外骨は廃姓宣言をしたくらいの人だから、姓名判断など笑止の沙汰、と一笑に付している。なるほど、理屈のうえでは納得のいく文章で締めている。

参考

●姓名判断/不幸不運続きの人が、『僕は、どうしてこんなに、マイナスが続くのだらう、名前が悪いのか知ら、一つ見て貰はう』とて、姓名判断屋にゆき、鑑定を頼む、すると判断屋は、或る書物を一冊出し、二三回繙き見て、後、『あなたの、今の名前では、もツとひどい不幸無運が来ませう、悪くすると、三年目には、大切な人が、亡くなりませう』とおどかす、此方は迷ひ居るなれば、強く胸を撃たれ、終に、姓に叶ひたる新らしき名を付けて給はれと、新名を択ぶことまで頼むに至る。判断屋は、古書物一冊を持ち出し、之を数回ひねくりたる上、秀康とか、正明とか択び、之を命名書と印刷しある奉書に清書して渡す、上なるは、秀吉と家康より、下なるは、正成と孔明より、一字づゝ捕り集めたるなれど、その事は口にせず、終に、区役所に出す改名願まで、草案を立て、法律を潜りて成功する其くゞる道を伝授し、定価三円五十銭を請求して、改名劇は、こゝに一巻の終りを告ぐ。&明治事物起原・上●吉凶を説く姓名判断/人一代の運命は其姓名の字画や意義によつて支配せらるものであると号して、大正三四年の頃、姓名判断といふ事が流行し、成功した学者偉人、失敗した政客悪人など、古人の姓名を標準とするのみで、学理上の根拠なき囈語を並べ哲名術といふ学名らしき名をつけて吉凶禍福を説き、人を迷はせて改名せしむるなどの愚かな事もあつた/世間には同姓同名の人で、その運勢の相違する実例が多くある、それを知って居れば、こんな理由なき誤託に迷はされる事はないのである&奇態流行史

清和源氏 せいわげんじ

清和天皇の皇子らが賜姓により源氏を名乗った系統。

事実上は孫の経基王が源姓を賜ったのに始まり、後裔の源頼朝が武家政権の基盤を築いた。〈清和源氏〉の諸流を見ると、清和直系の満政流・満季流・満快流をはじめ、源満仲を祖とする頼光流・頼親流、源頼信を祖とする頼清流・頼季流など十一流にわたっている。

籍 せき

〈戸籍〉の略。

籍帳 せきちょう

ジャクチョウとも。〈戸籍簿〉に同じ。

『続日本紀』各条にたまに出てくる。

世称 せしょう

〈俗姓〉とも。世間が呼びならわしている姓。

「空海ともうせしはさぬきの国たどの郡、父のぜじやうはさいき氏、」(浄瑠璃「弘法大師之御本地」)

是定 ぜじょう

古代、〈氏人〉の叙位にさいし〈氏長者〉に成り代わり、他氏の者が上申すること。また、その代理の者。

往古の記録では、王氏と橘氏はじめ一部の限られた氏族に〈是定〉の代行があった。後世に転じて、是を代行しうる氏長者、あるいは官職や地位昇進に候補者を推薦する行為をさすようになる。

参考

●ぜぢやう/是定のよみ也、(*中略)小右記に、王氏是定とみゆ、職原抄に、凡称氏長者、王氏源氏藤氏橘氏有此号、王氏者往古之例、親王為其長とみゆ、されば、是定は、氏の長者たるをいふにや、&倭訓栞・前編十三・世

拙者 せつしゃ

近世、武士が自分をへりくだっていった自称。

参考 

●拙者/俗間通用の語、及び往来の手簡(しゆかん)(とう)には、自己(おのれ)の事を拙者と云、これ国俗の造語(ざうご)ならんと(おも)ひしに。異邦(いはう)にても用る事なり。(はん)安人(あんじん)閑居(かんきよ)の賦、及び朱子文集も、拙者の字見えたり。&它山石・四

摂政 せつしょう

君主に代わって国政を執る官職名。

〈摂政〉には、聖徳太子いらい皇族が任じてきたが、清和天皇幼少時に藤原良房が就いてから幕末まで、藤原氏が専任するようになった。明治以後は皇室典範の定めにより、皇族が摂政に当たることになった。

参考

●摂政/仲哀天皇崩じて応神天皇尚幼なり、よりて御母神功皇后天下の政を聞き玉ふ、これ摂政の始なるべし、而して摂政の名は推古天皇の時、皇姪厩戸皇子の太子として摂政せられしを始とす、又人臣の摂政は、清和天皇九歳にて即位し玉ひ、外祖父藤原良房摂政せしを始とす、&明治節用大全

僭号 せんごう

〈僭称〉に同じ。☟僭称

賎称 せんしょう

相手をさげすみ見下して呼ぶ名称。

賎称の多くは渾名化けして残される。戦時中、東条大将を「東条軍曹」など軽んじた悪口を言った例もある。

僭称 せんしょう

身分を越えた称号を勝手に付けること。また、その称号。

博士号など取得していないのに、自分では「○○博士」と名乗る類がこれに当る。

「既に博覧会の名籍にも、松平修理太夫源茂久琉球統括の王殿下と記せり。」(公私雑報・慶応四年五月十二日)

「英語の仁田山がドクトル僭称の一件、」(社会百面相・学生、内田魯庵)

参考

●余(*曲亭馬琴)も亦とし(ごろ)不審(いぶかしく)思ひたりしに、(*承前で、一休が後小松帝二の宮と自称したことについて)件の落欵(らくくわん)(けみ)すれば、その事なしといふべからず、(いか)にとなれば、和尚道徳高しといふとも、天子の落胤ならずして、自天下老和尚と(となへ)んこと、もとも僭称(せんしよう)なればなり、&玄同放言・二・人事一

先生 せんせい

古語でセンショウ。狭義に〈先生号〉とも。指導的立場にある人への敬称。

律令時代は四姓の氏人をさして「(とう)先生(せんしやう)」「(げん)先生(せんしやう)」「(へい)先生(せんしやう)」「(きつ)先生(せんしやう)」と敬称の目的で呼んだ。もっとも最近では、代議士を名指して「汚職専科の先生」などと他人を揶揄したときに用い、かつての敬称としての箔が薄れている。

参考

●皇国にて先生号の起原/皇国にて学士儒生を尊崇して、先生と称する事は、南淵漢人(なぶちのからひと)ぞその始也ける、&它山石・一

先祖 せんぞ

家系上の先代。

かつて最先代の祖をいみしたが、今では過去に先行する累代の人たちをいう。

仙洞 せんとう

譲位後の天皇、すなわち太上天皇をさす別称。

参考

●富家語抄云、()に天子をもたせられねば、仙洞とは申さず。本院の、一院の、又は新院などゝ申すなり。次第は先づ法皇、仙洞、一院、古院、新院なりと云。輝星按に承久の頃は一院後鳥羽、中院土御門、新院順徳、一院を本院とも称せり。&它山石・二

仙人号 せんにんごう

〈道士号〉とも。遁世したときに付ける号。伝説上の仙人の名。

参考

●果心居士/果心居士は大和の者にて、桑山丹後守在所のものなり、幼少にて高野に住す、天性術を得たり、形を徳利の内へ入れ、また大塔へ縄をうちかけて上がる、これより山を追出、方々術をしてありくなり、&遠碧軒記・上の三

賎名 ぜんみょう

最近はセンメイと発する。賎しい名。また、賎しい階級の人の名。

参考

●賎しき人の名/(*中略)往古の人の呼名粗しらる。少しも位階など給はるべき人程の人は、姓と名とをいひしと見えたり、尤も常の呼名と別に、実名として名告るは、遥に後の事也。往古は名告の外に呼名有事なし、&勇魚鳥・初編上

賎民 ぜんみん

往古、賎しい身分とされた階層の人たち。

たとえば奈良時代、綾戸、雑戸、家人、公奴婢、私奴婢の五民は〈賎民〉に位置づけられていた。そして〈賎民〉には、氏が与えられないのが特色であった。

全名 ぜんめい

古くにゼンミョウとも呼んだ。〈片名〉に対応する場合の言葉で、世襲名によらず独立した個人名であるときに用いる。

〈全名〉の例として、『太政官日誌』八十一に明治改元時、新政府を組織する諸公名が列挙して載せてある。いわく、岩倉右兵衛督具視、正親町三条前大納言実愛、徳大寺大納言実則、万里小路中納言博房など。

前名 ぜんめい

古くにゼンミョウとも。かつて用いた名。

改名などする前の名。

先名後姓 せんめいごせい

名を先に、姓氏を後にする用法。また。その姓名。

氏名を書いたり述べたりする場合、姓を先に名を後にするのが現代の常識である。これが往昔、皇官位の貴人を敬って呼ぶ場合に順序を倒置する用法があった。

参考

●人をよぶをり又はものにかきしるすに、さきの人をうやまはんには、名をさきに姓を後にすべし、(*中略、公式令の漢文が続く)いにしへのさまをしりてよ、すなはち続日本紀の詔詞に、佐伯今毛人宿禰、大伴宿禰益立とみえ、続日本後紀の詔詞に、藤原常嗣朝臣、小野朝臣篁と見えたるなど、みな四位と五位とのけぢめにて、公式令に以外、云々とある、みさだめになん、授任の日ならぬをり、朝廷にてのことなり、あだし処にてはことなることも令に見えたるがごとし、さて姓のみならず、官をも位をもうやまひては、名の後につらねてぞいひける、其の例は源氏物語の須磨の巻に、かの行平の中納言といひ、ます鏡おどろの下の巻に、有家の二位定家の中将といへるこれなり、&松の落葉・四

洗礼名 せんれいめい

英語でChristian nameという。ここでは、日本人がキリスト教に入信し、洗礼を受けたときに授けられる名。

古くは細川忠興の妻、明智ガラシア(光秀の)の名が知られている。

 

 

贈位 ぞうい

人物に対し、生前の勲功をたたえ死後に位階を贈ること。また、その位階。

参考

●乃木大将贈位なし/乃木大将の三周年に際し、贈位の御沙汰を奏請すべきや否やに突き、政府に於ては慎重なる協議の結果此際何等の御沙汰を奏請せざることに決したりと。/右は故大将の忠勇義烈は史上の遺芳として百世に亘り廟食すべきも、一代の武勲功業に対して贈位あるは未だ其期早からずや、今後故大将の遺勲が年代を重ね更に国民的忠義思想の感化力を認めし適当の場合迄、贈位の御儀は保留あるも遅かるまじといふにあり。&東京日日新聞、大正四年九月十九日●斯の遺勲 斯の遺徳/織田信長公には正一位/大演習に際し関係地方の国家功労者に対する贈位の御沙汰は予記の通り十七日午前十時宮内省にて発表されたるが、(*中略)贈位の筆頭は織田信長公であるが、公は人も知る如く今回の演習地たる近江の十八城を下して京都に入るや、朝儀の衰微を嘆き、皇居の造営を営むなど一意皇室の為めに尽したる功労に依り御贈位になったのであらうと思はれる、正一位を贈られた光栄者は豊臣秀吉、徳川家康の二公と今回の信長公の三人だけである。&読売新聞、大正六年十一月十八日

宗家 そうか

〈惣家〉とも。一族や一門の中心的家筋。

贈官 ぞうかん

国家の功労者等に官位を賜ること。

明治時代、猟官運動を促進する元となった。

参考

●贈官(*中略)文武天皇の大宝元年、大納言正広王大伴の御幸の宿禰薨ず。右大臣を贈りたまう。此れ官位を贈るの始めなり。(*読み下し)&和漢三才図会・九

僧号 そうごう

〈僧名〉〈出家名〉とも。僧になって付ける名。☟僧名

参考

●久安六年九月十二日、生年十八歳にして、西塔黒谷の慈眼房叡空の廬にいたりぬ、(*中略)まことにこれ法然道理のひじりなりと随喜して、法然房と号し、実名は源光の上の字と、叡空の下の字をとりて、源空とぞつけられける、&法然上人行状画図・三

雑戸 ぞうこ

ザッコとも発する。律令官制下で、品部系統に属する渡来人系手工業従事者の総称。

参考

●正七位上(やま)(しろの)甲作(よろひつくり)(かく)小友(せういう)ら二十一人、訴へて雑戸(ざふこ)(ゆる)される。山背甲作の四字を除き、改めて(かく)の姓を賜う。(*読み下し)&続日本紀・元正天皇、霊亀二年八月二十一日

贈号 ぞうごう

貴人雅号を贈ること。また、その号。

「諡号」にほぼ同じ。☟諡号

贈諡 ぞうし

死者に〈(おくりな)〉すること。また、その〈諡号〉。

創氏改名 そうしかいめい

熟語としては、日本に帰化した外国人が新しく氏を興し名を設けること。また、その氏名。

歴史用語としては、往時の日本政府が植民地拡大を狙い、内外の朝鮮人に日本式姓名に改めるよう強制した政策をいう。

さらに広義には、戦時下の洋風芸名の強制改名をも含む。たとえば、歌手のディック・ミネは、軍部の指令で「三根耕一」に変えさせられた。古川ロッパも名のカタカナが仮想敵国名あつかいされて「緑波」に改名させられ、日記の中で憤慨している。

総称 そうしょう

〈汎称〉とも。似たような氏名をまとめ一名で言い表すこと。また、その呼び名。

贈姓 ぞうせい

天皇・主君から姓を贈られること。

「百武」「伊木」といった姓は、戦国期に戦功あった家臣に新しく贈られた姓、または押し付けられた姓として知られている。☟賜姓

送籍 そうせき

〈戸籍謄本〉の別称。

造籍 ぞうせき

無籍者を対象に戸籍を整備すること。また、その造られた戸籍。

古くは、天平宝字二(七五八)年に「養老律令」により広く造籍されたのが始まり。この結果、女子や乳幼児のみ入籍者が数多く発見された。

江戸時代末期には、騒乱や浪人、あるいは無籍の流浪民増加などで無籍者が増え、幕府も手を焼いていた。

相通名 そうつうみょう

人名の変更技法の一。読みの全部または一部を保ち、漢字音訓で捩り残す。

古くは、小野妹子(イモコ)が「因高(インコウ)」と漢名に擬して用いた例が知られている。

僧の官位 そうのかんい

僧が官位に叙せられること。また、その官位。

参考

●僧官位/白河院の永保三年二月仁和寺の性信を以て二品に叙せらる。性信は三条帝第四子なり。僧位を賜うは此れに始まる。後又仁和寺を以テ一品と為す。(*読み下し)&和漢三才図会・九

僧の官名 そうのかんめい

僧に与えられる官名。

参考

●僧の官名をもて呼名とする事/僧の名に官名を用ゐて、呼名とするは、寛平法皇(*宇多)の御時より初るといひ伝へたれども、これもさだかなるしるしなし、まづ今も大小納言宰相中将、あるは八省のかみの治部卿宮内卿などゝいふの類ひ、いと多し、&類聚名物考・姓氏八

僧の苗字付け そうのみょうじづけ

江戸時代には、僧籍にありながら「釈竺」とか「浮屠」といった苗字を称える者もいたと記録にある。

明治の新氏名制度では、朝令暮改の末、僧侶にも姓を名乗ることが義務付けられた。超俗身分はは苗字など持たないという僧もいたが、太政官布告には抗しがたく、釈、無着、冥加など仏門にちなんだ姓が付けられるようになった。

参考

●入道したるものゝ、姓氏を名のる事はなき事なり、入道は僧なるゆゑ、官も僧官なり、国初の頃までは、医師の苗字をのぞきたるなり、寛永の頃より、苗字をいひいで、元禄の頃よりは、院号も苗字をつけて名のる、大かたは玄関につめたる、文盲男に問ひつめられたるより、名乗初めたるなるべし、&南留別志・一●僧侶の苗字/明治五年九月十四日、教部省の布達にて、自今、僧侶の苗字相まうけ、在職中の者は、某寺住職某氏氏名と相称うべきことにせしが、何か不都合のことにても発見せしか、翌六年四月十四日に、この不達を取消せり。併し、その後又、復活して僧侶に苗字有るべき布達出でしなり。&明治事物起原・上

僧への賜姓 そうへのしせい

『続日本紀』一・二文武天皇の条に、僧侶への賜姓について二、三の記述が見える。☟僧の苗字付け

相馬百官 そうまひゃくかん

〈相馬百官〉の語の由来は未詳である。左記出典にもその点の説明を欠いている。ほかの文献にも該当する言葉が見当たらない。

管見するに、、平将門が天慶(二年)の乱を起こした後、制圧先の下総国猿島に「相馬御所」なる摸擬皇居を構えた。ここで将門は新皇を自称し、京都御所に倣って相馬公家という名の家臣団をもつ。これらの家来に与えた職業姓が「相馬百官」ではなかろうか。

左記引例のように、列挙してある内容を一見すると、どれもが奇を衒った姓ばかりであることに苦笑させられる。

参考

●百官名の類に、相馬百官と俗称する、その百官名の順に、(いさめ) 勇人(いさめ) 勇馬(いさめ) 武人(いさめ) 五百人(いほと) 夷則(いのり) 意気揚(いきよう) ()(をり)(*後略。優に百を超える数の名が五十音順に列挙してある)&日用重宝記・二・名字俗名の事

草名 そうみょう

ソウナとも訓じる。〈草名〉は、文書等に書かれた草書体の署名。〈花押〉の一筆法である。☟花押

総名 そうみょう

同種同類の人名を一括しての呼び方。

僧無姓 そうむせい

僧が姓を持たないことを熟語化して〈僧無姓〉といった。

僧名 そうめい

ソウミョウとも。僧侶の名。あるいは、法会招請される僧の〈交名(きようみよう)〉。

参考

●相州藤沢ノ道場ハ、一遍上人ノ御建立ノ地也、一遍ト申ハ、先祖通信ノ孫、別府七郎左衛門通広ノ子、智真坊ト云也、故不断申通ジケル通治(*河野)モ、ユカリノ色ノ藤沢ニ参テ、落飾ノ由ヲ望申ケル、(*中略)此時迄随逐シケル者、久万太郎左衛門尉通賢ナルガ、倩案ズルニ、如此已断タルヲ継、興漸廃事ハ、併是藤沢ノ上人ノ御指南故也、吾以不肖身此便ヲ仕事、頗天之幸也、我上人ノ御弟子ト成テ、結縁分ノ上ニテ大恩奉報バヤトテ、鬂髪払去テ、名ヲバ万阿弥陀仏ト賜ケレバ、二人禿丁黒衣ヲバ著作錦衣故郷ヘ帰ケル、&予章記

惣領家 そうりょうけ

古くに、家名すなわち正式の名字を継承する本家。〈分家〉と分けての称である。

惣領家の名字は庶子家(分家)には安易に与えないとする不文律があった。

蘇我氏 そがし

上代の有力氏族の一。

〈蘇我氏〉は大和国高市郡蘇我を本拠地とし、武内宿禰を祖とするが、嫡流は「石川朝臣」を名乗った。六世紀前半、蘇我稲目は中央政権に乗り出し、蘇我氏の存在を広めたことから「蘇我氏中興の祖」といわれている。

続氏 ぞくし

〈継氏〉とも。藤原氏族で懲戒処分の一として氏人の資格を剥奪されていた者が、その資格を回復すること。

つまり「放氏」あっての続氏であり、放氏されてもたいていはやがて続氏が許され、放氏が見せしめのための処罰にすぎないことを示している。与奪の令は興福寺・春日大社の名のもとに行われた。『勘仲記』弘安七年十月十五日の条などに関連記事が見える。

俗姓 ぞくしょう

ゾクセイとも読む。二義がある。

⑴僧侶が俗人であったときの苗字。〈俗姓(ぞくせい)〉とも。

⑵世間で俗に称している氏姓や家柄。

参考

●熊野の別当乱行の事/義経の御内に聞えたる一人当千の剛の者あり、ぞくしやうを尋ぬるに、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の後胤、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とぞ申しける、&義経記・三

俗称 ぞくしょう

〈俗名〉とも。世俗間で通じる名称。通称。別に、僧侶が出家する前の名。

「一方は銑三郎といふ俗称だから銑さん銑さんと云つた」(満韓ところどころ・十、夏目漱石)

参考

●酔っぱらいの俗称/赤人 アルコール漬け 今猩々 うわばみ (えい)(すけ) 猿猴坊(えんこうぼう) (かす)()らい 亀の子連中 金時の火事見舞 下卑蔵(げびぞう) 酒亀 酒田権兵衛 酒腹 酒乞食 酒大将 左党 (ざる) 猿丸 (じや) 蛇の子孫 蛇之助 蛇平 十徳先生 上戸 猩々 猩々顔 生得大酒 酔翁 ずぶ七 ずぶ六 底無し 食印(たべじるし) だりもくり 樽抱き 樽抜き 徳利狂人 トラ 泥 泥坊 ドロンケン (どん)太郎(たろう) 奈良漬 飲み株 飲み助 飲太郎兵衛(のんだらべえ) 飲太郎 飲ン兵衛 左 左利き 瓢箪(ひようたん)(まくら) (ぼう)(だら) 飯嫌い 飯弁慶 茹で蛸 酔助 (よい)(てき) 酔たん坊 李白 (わに)の口 *荻生まとめ

族称 ぞくしょう

明治時代に定められた国民の階級制度上の呼称。

〈華族〉〈士族〉〈平民〉の三族があり、四民平等の建前とは矛盾したものであった。

俗の名 ぞくのな

〈俗名〉に同じ。☟俗名

「此山中(やまなか)の侘住居(すまゐ)。遁世してより若干(そくばく)の月日。いつにも今の法名だに。知りて呼ぶ人なし。まして俗の名──若葉……他人の名か。」(二人比丘尼・色懺悔、尾崎紅葉)

族譜 ぞくふ

〈家譜〉に同じ 

俗名 ぞくみょう

ゾクメイとも。ゾクノナとも。〈俗名〉には、次の三義がある。

⑴通称。☟俗称

⑵僧になる前の俗世間での名。

⑶在家信徒の生前の名。

左記引例は俗名とは何か、全体像を把握するうえで役立つと思えるので、いささか長いが、紹介しておこう。

参考

●安楽、死刑におよびてのちも、逆鱗なほやまずして、かさねて弟子のとがを、師匠におよぼされ、度縁をめし、俗名をくだされて、遠流の科にさだめらる、藤井の元彦云々、&法然上人行状画図・三十三●今時の俗名といふものは、人の実名は、かりにも他より呼ぶべきものならねば、輩行と成功との二ツをもて称へし物也、其の輩行といふは兄を太郎といひ、つぎを二郎といひ、三郎、四郎ついでの儘によぶ事也、十郎より上は余一余二なとぞいひけらし、今昔物語に、其ノ国ニ平維茂ト云フ者アリケリ、此レハ丹波守平貞盛と云ヒケル兵ノ弟ニ、武蔵権守重成ト云フガ子、上総兼忠ガ太郎也、ソレヲ曽祖父伯父貞盛ガ甥并甥子ナドヲミナ取集メテ養子ニシケルニ、此ノ維茂甥子ナルニ、亦中ニモ年若カリケレバ十五郎ニ立テ養子ニシケレバ、字ヲ余五君トハ云ヒケル也とあり、真田与一浅利与一などいふもこれか、これら必ずしも十余子とはみえざれなれど、余五のやうなる子細ありもやしけん、その程すでに、曽我十郎は兄にて五郎は弟なるたぐひあれば、この余一も輩行のみだれたるにもあらんかし、成功とは上条にいへるごとく、物をいだして四府の尉諸司の三分になりて、その官命をなのる也、かくてその族々に、太郎、二郎、兵衛、衛門ありて、他氏他族と参会しても、さらぬをりも何事につけてもまぎらはしき故、その上に姓の一もじをそへて、藤太郎、源二郎、清兵衛、宗左衛門などやうに名乗りたる物にて、今時の名はこの姿なり、さてもなほおなじ名の多かるほどに、居所の地名をそへてよぶ、新庄にすむ藤太郎は新庄藤太郎、山田にをる源二郎は山田源二郎也、これすなはち今の名苗字なり、元弘建武よりは、成功の事は絶えはてたれど、代々に官申したる家は、父祖のなのりしままに名じょうもしつらむ、さらぬ者も僣上して兵衛、衛門とつきもしたらん、乱世にて誰とがむる者もなきゆえなり、応仁以後にいたりては、何事も旧き蹤うしなひはてつる世なれば、上の一もじを姓といふ事も、下は輩行官名とも、何ともしらで、ただ人の名はかうやうの物ぞと心得てなのりしほどに、上の一もじ姓ならぬもいできたる也、されば世の中のうつり来しにしたがひて、成功の実もうせ、輩行の序もみだれて、そのかみのやうにうるはしくこそあらねど、きと由緒ある事にて、今においてはうけばりたる名乗に、これを置きては何かはあらん、しかるを此の頃の学者たち、さるゆえよしはしらずやあらん、世に俗名と称ふれば、ひたすら俗なりと心えて、歌よ消息よと人のがりやるにも、これをいみさけて、人の実名書きちらすこそ、さもこちなくうたてき事なれ、そも〳〵これは皇国の学するともがらのみにもあらず、儒者とある人たちの漢文にかゝむにも、いとよろしき称呼なるを、さる事のきこえぬはくちをしき事也、&年々随筆・三

俗名放棄 ぞくみょうほうき

「俗名」⑴を捨てて暮らすこと。

平家の落人に目立った。

参考

●越中国に一村平家の余類ばかり住める所あり、其の村の人俗名なし、今に名乗をもつて称する事なり、加賀守殿へ毎年目見えする時も、皆名乗をもちて謁する事なり、重の字をなのる人多し、此の村無役にて、只(かみ)の乗馬の老いたるを預け給はりて、飼ひ立つる事を勤めるばかりなりとぞ、&譚海・四

賊名 ぞくめい

賊徒に付けられた名。盗賊や反逆者の呼称。

帥 そち

ソツとも。古代官制下、太宰(だざいの)(そち)もしくは(ごんの)(そち)の略称。

典侍といった称が見える。

卒族 ぞくめい

明治二年十二月の藩制改革と同時に、足軽など下級武士に対する新族称。

官令に「旧来、同心ノ輩ハ、卒ト称ス可キ事」とある。

祖名相続 そめいそうぞく

〈祖名継承〉とも。父祖の名を相続すること。家を継ぎ家名を末代まで保つこと。

尊号 そんごう

〈尊号〉には、次の二義がある。

⑴〈尊称〉に同じ。☟尊称

⑵天皇とその親族への尊称。

(*天平宝字二年八月)是の日、百官と(そう)(がう)とは朝堂に詣でて表を奉り、(*孝謙と光明子に)上台、中台の尊号を(たてまつ)る。(*読み下し)(続日本紀・二十一・淳仁天皇)

尊号追崇 そんごうついそう

天皇・皇族に皇孫らが〈尊号〉を贈ること。

『続日本紀』二十一・淳仁天皇の条に、草壁皇子に「長岡天皇」を追崇。この例は天皇号追崇の初見である。

尊諡奉上 そんしほうじょう

天皇・皇族に臣下から〈諡号〉を奉ること。

史書ではめったに見られない例で、次は光仁天皇に朝臣が尊諡を贈って追福したもの。

(*延暦元年正月六日、光仁天皇崩御の翌年)正三位藤原朝臣小黒(おぐろ)麻呂、誄人(るいにん)を率いて(しのひこと)奉り、尊諡を(たてまつ)りて天宗高(あめのむねたか)(つがす)天皇(すめらみこと)(まう)す。(*読み下し)(続日本紀・三十六・桓武天皇)

尊称 そんしょう

〈敬称〉とも。〈尊号〉⑴に同じ。また、尊敬の念をこめた名称。☟敬称

『尊卑分脈』 そんぴぶんみゃく

四姓はじめわが国の主な諸氏の系図集。応永の頃に成る。従一位左大臣の同院公定著、巻数は不定。現存のものは室町以降に加除が繰り返されている。現代、〈尊卑分脈〉は成語化していて、〈系譜〉の代名詞であるかのように用いられている。