輩行 はいこう

〈排行〉とも書く。親子・兄弟・姉妹同士などで年齢順による数の称呼。出生順による兄弟・姉妹の名付け。

中国から渡来した命名慣習がわが国に根を下ろしたもの。俗にいう太郎、次郎、三郎の類である。たとえば武田信玄は信虎の長男なので太郎、信繁は次男なので二郎。織田信長は信秀の三男なので三郎と通名を貰った。

兄弟姉妹大人数の昔、輩行の描写は、『宇津保物語』藤原君の巻はじめ、古典諸本を賑わせている。☟阿邪名 ☟輩行ノ仮名

参考

●武家官位ノ事/大太郎、小太郎、孫二郎、彦三郎、又太郎、余次郎、先次郎、後三郎ナド聞エシハ、其比ニハ太郎ヨリ次第ニカゾヘテ、十郎ニ至リヌレバ、又トモ余トモ加ヘヨビテ、太郎ガ子ヲ小太郎トイヒ、其子ヲ孫太郎トイヒ、又其子ヲ彦太郎トモイヒ、大トイヒ、先トイヒ、後トイフガ如クニ称シタレバ、人の召名(ヨビナ)ト云モノモ、近代ノ如ク、其義ナキコトニハナカリシナリ、&白石小品●日本に於ける昔の命名慣習/日本の太郎次郎も、恰も唐朝文明の輸入の際でありましたからして、支那風を真似たのであります。其以前はどんな風に呼んで居つたか、明白ではありませぬが、皇族の字として稚郎子(わかいらつこ)(なかの)大兄(おほえ)などゝ称へたのを見ると、略々想像することが出来るのであります。太郎時郎等の漢音の行はれた後も、女子に就いては久しい間此風がありました。例へば長女は大子(おほいこ)、次女は中子(なかつこ)、三女は三子(みつこ)、四女は四子(よつこ)と呼んだ様であります。女に就いては殊に名を呼ぶのを避けたらしく思はれます。十女十一女に至つては何と呼んだか。今日の文書には残って居ないけれども、何等かの方法によつて名以外のものを呼んだに違ひがない。男はもし腹違ひなどが多くして、十郎以上になれば、十一郎十次郎とも呼べば、又は余一余二とも呼んだのであります。那須与一は、真田与一は、与の字を書いたけれども実は余一で、十一男の事であります。戸隠山で鬼女を退治した平惟茂を余五(よご)将軍と呼ぶのは、祖父貞盛の養子となって、長幼の順序が十五番目であつたからであります。&名字の話

俳号 はいごう

俳諧作者としての雅号。

〈俳号〉には別に俳優の名も含めて称しているが、その場合は〈俳名〉とするのが正しい。☟俳名

輩行ノ仮名 はいこうのけみょう

〈輩行〉とは、単に親子兄弟等の長幼順を示す符号的な存在で、これは名前とはいえない、とする学説がある。この説に従うなら、輩行=名の関係が崩れ、正しくは〈輩行ノ仮名〉としなければならない。

しかし一方では、単純に輩行も名前とみなすべきだ、という説もある。この場合の例で、(熊谷)次郎(なお)(ざね)は明らかに〈複名〉ということになり、「輩行ノ仮名」という用語は無視してよいことになる。

昔も今も、「太郎」「次郎」という飾り気なしの単名をもつ人たちは大勢存在するわけで、この人たちにとって立派な本名であり、中国伝来だからといって仮名扱いされるいわれはないのである。

参考

●平維茂罰藤原諸任語第五/今昔、実方中将ト云フ人、陸奥守ニ成テ、其ノ国ニ下タリケルヲ、(*中略)其ノ国ニ平維茂ト云者有ケリ、此ハ丹波守平貞盛ト云ケル兵ノ弟ニ、武蔵権守重成ト云ガ子、上総守兼忠ガ太郎也、其ヲ曾祖伯父貞盛ガ甥并甥ガ子ナドヲ皆取リ集テ、養子ニシケルニ、此ノ維茂ハ甥ナルニ、亦中ニ年若カリケレバ、十五郎ニ立テ養子ニシケレバ、字ヲ余五君トハ云ケル也、&今昔物語・二十五●余一/むかしは第一の子を太郎、つぎを次郎といひ、それより、三郎、四郎と十郎まで名づけ、十一人めより余一、余二と次第に名くることなり、十は成数なれば、十郎よりはあまりといふ意なるべし、盛衰記に、金子十郎家忠の弟金子与一、那須十郎資隆の弟那須与一なり、余を与に作るは仮借なり、平惟茂を余五将軍といふも、十五郎たる故なり、源義経は第八子なるを九郎判官といへるは、八郎為朝の成行よからざれば、八郎をいみて九郎としたりとかや、曽我兄弟の、兄を十郎、弟を五郎といふも、わけあることなり、むかしは兄弟の排行正しかるうちに、たま〳〵みだれたりとおもふには、みな故あることなり、&三養雑記・三

廃姓 はいせい

自分の意思で姓を廃止すること。

私的に通用させるならともかく、国民改姓の現代にあって、〈廃姓〉は公的に認められていない。

引例の(宮武)外骨の場合は、例によって面白半分のイタズラ宣言であろう。

参考

●廃姓広告/人類が社会的動物となつて以来、交際上の必要で、お互に「名」といふ符号を附けることになつた、(自分で自分の身に符号を附けて居るのは動物中、人類ばかりであるやうだ)それから社会が段々と進歩して、種族が出来た上、家系に重きを置くやうに成つたので、遂に「姓」とか「氏」とか云ふものが出来たのである/これを冷静に考へて見ると、人類が各々「名」といふ符号を附けて居る事は、相互に便宜であり必要であるが、「姓」とか「氏」とかは無くても好いものである、(現にわが国には姓のない御方がある*荻生注=天皇家をさす)抑も種族といふ観念が生じたのは、利己排他がモトで、此思想から戦闘が起るのであり、家系を重んずるといふ観念から差別心が出来たのである、されば苟も新思想家を以て世間に立たうとする者は、その伝統的因習に囚はれないで、断然、断乎、この姓氏を廃棄すべしであらうと信ずる/然し、其新思想家諸氏が姓氏を廃棄すると否とは諸氏の自由であり賢愚であるのだが、斯く唱道する予は「隗より始む」の例で、今後「宮武」といふ姓を用ゐない事にした、それには右に述べる理由の外、「宮武」といふ文字そのものが嫌ひなのである、「宮」とは迷信的の文字であり、階級的の称呼である、(此外に「宮」を男根切断の義にも使ふ、これもイヤだ)次に「武」は武道武術の武であり、武威武力の武であつて、予の最も嫌ひな武断政治の武である、それから「宮武」の二字は何を意味するのであるか、それも判明しない、斯かるイヤな文字を我名の上に冠するのは、予の不快とする所であり、又無意義な事であると思ふ、その上同姓者の中には予の嫌ひな人物も亦少なくない。/彼是の旁々で予は今後「宮武」の姓を用ゐない事にした、現代の法制上、戸籍には「宮武外骨」とあり、諸官省からは宮武外骨と呼ばれるであらうが、それは彼等の御勝手であり、又此方も法治国民の一員たる以上は、無法に反抗もしないが、それでも自己署名の場合には「宮武」の二字を小さく書くつもりである/右の次第であるから、今後予に宛てる郵便物の表書には、単に「外骨様」と書くか、それがアマリ簡単でヘンだと感ずるのならば「半狂堂外骨先生」でもよろしい、此事を承知の上で故らに「宮武外骨」と書いて来たと認定すへき郵書に対しては返信をしない、又対座の際に「宮武さん」と呼ばれても応答しないことにした/但し此宣言が弘く世間に知られない間は已むを得ないから、外骨の上に(宮武)と括弧を附けて置く、早く天下の外骨に成りたいものである(*以上、原文にある傍点各種は省いてある)&一癖随筆、(宮武)外骨

 俳名 はいみょう

ハイメイとも発する。〈俳号〉とも。俳人としての名。俳句を作るときの号。

原則、二文字で音読とする。別に、俳人でもないのに、通人を自認する者が伊達に付ける風潮もあった。

また俳優の間にも単に俳優というだけで俳号が流行し、初代団十郎の「才牛」、二代団十郎の「栢莚」、四・五代半四郎の「杜若」などが有名である。

参考

●松尾桃青/松尾忠左衛門は、伊賀上野藤堂何某の近臣なり、(*中略)深川に庵を結ぶに、みづから芭蕉を植て楽しむ、これより世に挙げて芭蕉庵と称す、泊船堂、無明庵、蓑虫庵、瓢中庵の諸号あり、初の名を宗房といへり、後桃青と改む、又杖銭子、是仏坊等の諸号あり、&俳家奇人談・中●市川海老蔵は、(*中略)俳道に心をゆだね、大坂なる椎が本旧徳翁才麿の門に遊びて、俳名を才牛と号し、&長春随筆・坤

百姓 はくせい

百姓(ひやくせい)〉の古語。☟百姓(ひやくせい)

(*和銅三年七月七日)京の裏の百姓(はくせい)に、()ごとに(もみ)(こく)を給ふ。(*読み下し)(続日本紀・五・元明天皇)

土師 はじ

ハニシともいう。古来の氏姓の一。大和朝廷で総裁や土器政策などに従事した職業姓。

参考

●同二十八年、(みかど)(*垂仁)弟倭彦(おととやまとひこ)(みこと)(こう)じ給ふ、葬するに近習(きんじゆ)のもの(いき)ながら(みささぎ)のめぐりに埋め立つ、数日(すじつ)不死(しなず)、昼夜悲しみ()く、帝(かな)しみて曰、是ならはしといへども礼にあらず、自今以後殉死を止めよと、同三十二年、()()()(*帝の皇后)薨じ給ふ、野見(のみ)宿禰葬儀をはかりて、土偶人(つちにんぎよう)を始て作り、殉死に代る、帝其功を感じ、土師(はじ)の姓を給ふ、これ殉死を禁ぜらるゝ始めなり、&理斎随筆・後・十九

罵称 ばしょう

人をののしるときの称名。

「馬鹿野郎」「間抜け」「頓馬」などはその典型の通称である。

裸名 はだかな

実名。本姓名。戸籍どおりの氏名。

すなわち、通称や別号などを排除した、飾り気のない名前である。

「神戸の奉行伊藤俊輔(*のち博文)といへる人は、以前ヨウロツパ得遊学し、」(もしほ草・明治二年二月十九日)

八姓 ばっしょう

八色(やくさ)(かばね)〉に同じ。

八省百官 はつしょうひゃっかん

律令制下、太政官内に設けられた八省官の官職名。〈百官〉は数の多さを表したもの。

参考

●八省百官/孝徳天皇大化五年二月、博士高向(たかむくの)玄理(はるまさ)、釈僧旻に詔して、八省百官を置かる、&明治節用大全

罰名 ばつみょう

バツナとも。罪を犯したものに罰として与える名。

〈罰名〉には、いわゆる〈卑称〉の類が多い。

『続日本紀』孝謙の条に多夫礼(たふれ)麻度比(まどひ)()()()などの罰名が見える。

参考

(*引例の承前。孝謙天皇が)黄文(きふみの)王に賜りし(ばつ)(みやう)多夫礼(たふれ)(たふれ)なり、今()に、たはけといふにおなじかるべし、道王の罰名、麻度比(まどひ)(まどひ)なり、今()に、まごつきなどいふ類なるべし、角足(つぬたり)が罰名、乃呂志(のろし)遅鈍(ちどん)の義なり、今()に、のろまといふにおなじかるべし、&玄同放言・三・人事二

母方姓の名乗り ははかたせいのなのり

母方の姓を自分の氏姓として用いること。

常識的な父方の姓を引き継がず、諸般の事情により、母方姓を受け継ぐこともある。

『続日本紀』二十七・称徳、同三十九・桓武、同四十・桓武などに事例が載っている。

 

「藤井/勝重(*中略)いとけなふして父吉政におくれ、称号をわきまへず、このゆゑに母氏をとりて藤井と称す、」(寛永諸家系図伝・百九十六)

省名 はぶきな

名を省いて用いること。また、その名。☟(つづめ)()

参考

●壺井翁撰述の書に、坪井安 (*義智)著とあり、いかなる書式にや、安を字とはいかゞ、常に安左衛門と名のられし故にや、近代二字の姓を一字に切て書事はまゝあり、是以姓を私に切はいかゞなれ共、唐人風に一字姓にしたき心より書くなるべし、可然事共不覚、いはんや名の字を切るは、一向論に及ばず、察するに山崎嘉右衛門、朱熹に習て字似たるゆゑか、山崎嘉と書れしに元づいて、安と書れしものか、壺井翁程の達人も、かゝる誤あるにや、&秋斎閑語・一

祝 はふり

古代姓の一で、神職をつかさどる集団が用いた。

『古事記』ほか諸本に紹介されている。

参考

御上(ミカミノ)(ハフリ)、御上は、和名抄に、近江国野洲郡三上郷是なり、(*中略)祝は波布理(ハフリ)と訓、山城国相楽郷名祝園、此記に波布理(ハフリ)曽能(ソノ)と書り、又和名抄に、祝人波布理とあり、神功紀に小竹(シヌノ)(ハフリ)天野(アマヌノ)(ハフリ)など見ゆ、(*中略)さて此御上祝は、たゞ御上社の(ハフリ)部と云とは、いさゝか異にして、上巻に、胸形君等(モチ)伊都久(イツク)三前大神者也、などある類なれば姓なり、姓氏録に、鴨部(ハフリ)、紀祝、波多祝、三歳祝など云姓もある、其類なるべし、(*割注は省略)&古事記伝・二十二

早口名 はやくちな

言葉遊びの早口にもてはやされた名。

発音しにくい人名称呼の代表に、古くから「法性寺入道の舌捩り」が有名である。

藤原忠通(一〇九七~一一六四)は、大治三(一一二八)年太政大臣に任ぜられていらい、何度か関白となり、藤原一族の長者として権勢を極めた人物である。のち大臣職を嫡子基実に譲り、別業法性寺に隠居。応保二(一一六二)年、六十六歳の時に入道し円観を名乗った。こうした経歴から彼の通称を「法性寺(ほつしようじ)入道(にゆうどう)前関白(さきのかんぱく)太政(だじよう)大臣(だいじん)」という。しかし長ながしいうえ、きわめて発音しにくい呼称で、そのため次のような敬卑混交の舌捩りが後世に作られている。

法性寺の入道さきの関白太政大臣さん、法性寺の入道前の関白太政大臣めといふと腹を立てなさるによつて、今から法性寺の入道前の太政大臣さんと申しませうなア、法性寺の入道前の関白太政大臣さん&『皇都午睡』

隼人 はやと

ハヤヒトと発し、〈薩摩隼人〉とも。古代の九州南部で勢力を伸ばした豪族の称。のち中央に服属し、宮門警護などにあたった。

(*和銅二年十月二十六日)薩摩(さつまの)隼人(はやと)、郡司已下一百八十八人入朝(みかどまいり)す。(*読み下し)(続日本紀・四・元明天皇)

流行名 はやりな

その時どきに流行した名。

昭和二十七年春に菊田一夫作・NHK連続ラジオドラマ「君の名は」が放送されると、そのヒロイン「氏家真知子」の名にあやかって、全国の新生児に真知子の名付けが大流行した。また昭和三十三年十一月、正田美智子さん(現皇后)が皇太子妃に決定と発表されてから御成婚に至る数年、女児に美智子という名が激増した。大衆はこういう流行名にいかに弱いか、証明したようなケースである。

参考

●高知県下にては、近頃産児に名を命ずるに男子なれば自由太郎、自由吉、自治之助、又女子なれば、お自由、或はお自治抔と自由自治の名を呼ぶもの多しと、同地因り出京せし人の話&朝野新聞・明治十五年七月二十二日

腹 はら

人名に関した〈腹〉には、次の二義がある。

⑴上代称で、先祖を同じくする氏・氏族。

⑵系図に用いる数詞。「両家の家譜二腹」のように表す。

参考

●氏族を腹といへる事/書紀清寧天皇御巻に、其原所生星川皇子とある腹は氏族のこと也、宇遅(ウヂ)もしくは宇賀良(宇ガラ)など訓べし、又欽明天皇御巻に、諱腹、推古天皇御巻に、八腹臣等などあるも皆然り、続紀にも三十二に、大職冠、本ノ姓ハ大中臣ノ氏、然ルニ天知天皇ノ御代ニ、藤原ノ姓ヲ賜リテ、内大臣ニ成給フ、&玉勝間・十四●はらむ/系図をいふに何腹といふ事、日本紀続日本紀などに見えたり、母家によりて士族の別れをいふ辞也、&倭訓栞・前編・波

半家 はんけ

〈凡家〉とも当てる。堂上家の家格の一で、衣紋道や陰陽道など特殊な任にあたった。

高倉、冨小路、五辻、竹内、高辻、東坊城など諸家があった。

参考

●公家衆に家業ある事并羽林名家半家新家/百三十六家の堂上方に、羽林名家の二ありて、羽林は武家の如く、少将中将よりのぼり、名家は大中少の弁よりすゝまるゝ也、半家新家は、共に本家に准じ昇進ありて、数百年、各官位昇進改変なし、&類例略要集

汎称 はんしょう

同じ類の名をくくっていうこと。また、その名。☟総称

万姓 ばんせい

本来の意味は「万民」。転じて、「万余の姓氏」をも兼ねる。

「天長の万世、其の淵源(ばるか)なり、是を(かみの)(よのまき)に考るに、或は神号より出たるあり、」(玄同放言・三・人事二)

反切人名 はんせつじんめい

和語で〈かえしな〉とも。「反切」そのものは、中国古典『韻鏡』に見る漢字音を示す方法の一つである。中国から伝わった手法として、奈良時代には模倣学習の試行錯誤を重ね、やがて平安時代にはわが国に合った反切が作られるようになった。

たとえば、「あらうみ」は母音音節を前置音節と結合させ、「あるみ」と反切同化するなどの言語操作が見られる。そして半切の人名化が創案され、姓名判断等に応用されるなど普及した。☟反名

参考

(*頭注)字をかへすといふ事は、二字の音を一ツにして、一字の音にする事也、たとへば貞丈の二字をかへせば(チヤウ)となる也、韻鏡と云書を以て字をかへす也、其かへしやうは韻学者の知る事なり、/義朝、切堯ノ字トナル、又義朝ノ切トシテ、サカサマニカヘセバ智ノ字トナル、堯モ智モ吉字也、然レドモ源義朝ハ、父為義ヲ殺シテ、其後家僕長田庄司ガ為ニ殺サレタリ、名乗ノ字、吉トテモ心正シカラズ、身直ナラネバ、ワザワヒニ逢也、名乗字ノ吉凶ニヨラヌコト也、&貞丈雑記・二・人名

 

 

──彦 ──ひこ

古くに〈──日子〉〈──比古〉との表記も。男子に対する美称の下付け名。

記紀に「(あめ)(わか)日子(ひこ)」「阿被比古(あわひこ)」「磐余彦(いわれひこ)」などが見える。

美号 びごう

美しい号。〈美称〉にほぼ同じ。☟美称

卑称 ひしょう

〈賎称〉とも。自分や他人を卑しめた呼名。「美称」に対する言葉。

多くは渾名の類で、木下藤吉郎を「猿面冠者」、徳川家康を「後家盗人」と呼ぶ例である。☟賎称

避称 ひしょう

実氏名の称呼を避けること。また、その氏名。

〈避称〉の端的な例としては、「三条の大臣」「蛎殻町の旦那」のように、地名に代える場合が多い。☟実名敬避

美称 びしょう

褒め称えて呼ぶ名。

古くは〈(あめの)──〉の冠が代表的だが、〈──彦〉や〈──姫〉なども美称に入る。近世以後は洒落た名前の意味あいが強く、語義が広まっている。

当初(そのかみ)、大連と大臣の美称を(かづけ)させ玉ひしとき、彼も此も、おなじ(となへ)にはあるべからず、」(玄同放言・三・人事二)

卑姓 ひせい

賎しい姓。

古代の〈賎称〉の名残りである場合が多い。

参考

●薩摩領日向国高岡の郷に、牛糞姓の人あり、国初に忠久(*島津)に随ひて鎌倉より来りし人十家ばかりある中の一家なりといふ、珍しき姓なり、太宰春台の漫筆に、往昔鎌倉の頃に牛糞氏あり、漢土の馬矢姓相似たる事なりと見えたり、()()の牛糞氏なるべし、&北窓瑣談・一

筆頭人 ひっとうにん

戸籍法により「戸籍の筆頭に記載した者」。すなわち〈戸籍筆頭者〉。

筆名 ひつめい

〈作名〉〈作家名〉〈筆号〉〈ペンネーム〉などとも。

筆者としての別名・雅号をいう。

実名を用いるのは好ましくないなどの理由で、文士はもっぱら〈筆名〉を用い、実名使用は珍しいくらいである。

実名付きの筆名辞典といった専門書まで出ているので、改めて例示までもなかろう。

なお、日本文学の古典作家について筆名を云々するのに「ペンネーム」を乱発している教授先生がいるが、場違いというものである。

「大学に入って小説など書きだそうとしたところ、筆名はぜひつけようと思った。そのほうが文学者らしいし、斎藤宗吉という本名が嫌いでもあった。」(ペン・ネーム、北杜夫、日本の名随筆・別巻二十六)

筆名の類型 ひつめいのるいけい

筆名を作りたいときの参考に荻生が編成してみた(芸名等も含む)

⑴アナグラム型

 ☟アナグラム

⑵一字残し型

十返舎一九(市九)、正岡子規(常規)、山岡鉄舟(鉄太郎)、山本有三()

⑶異表記型

 サトウ・ハチロー(佐藤八郎)戸山(とやま)ヽ山(ちゆうざん)(

山正一)、吉田良子(イーデス・ハンソン)

⑷語呂合せ型

 高浜虚子()、二葉亭四命(長谷川辰之助)

 ←くたばってしまえ、松根東洋城(豊次郎)

⑸自己特性型

 直木三十五←三五歳で筆名の変更をストップ 宿屋飯盛り←石川雅望←宿屋の亭主、六無斎←林子平←無い々尽くし

⑹詞章由縁型

細川幽斎(藤孝)←隔簾湿布帛、当暑涼幽斎、

木戸松菊(孝允)←松菊荒三径、図書共五車、

⑺自然回帰型

 柄井川柳(正道)、樋口一葉(夏子)、横瀬夜雨(虎寿)

⑻字捩り型

 木々高太郎(林髞)、宮川鰻魚(渡辺兼次郎)←鰻屋の亭主、増田喜頓(木村肇)←喜劇王バクスター・キートンにちなむ

⑼先人摸擬型

 生得大酒(狂歌師)←聖徳太子、丸木砂土(秦豊吉)←マルキ・ド・サド、司馬遼太郎(福田定一)←司馬遷

⑽対称型

 損軒(貝原益軒の旧号)、実森大←大森実、

 南田洋子(北田洋子)

⑾地名由来型

 佐久間象山←信州象山、田能村竹田←豊前竹田、大町桂月←土佐桂浜

⑿本名伸縮型

 長谷川伸(伸二郎)、岡本喜八(喜八郎)、河内桃子(大河内桃子)

⒀本名転読型

 高村光太郎(こうたろう)(みつたろう)、菊池(かん)(ひろし)

松本(せい)(ちよう)(きよはる)

⒁連想想起型

 岡麓(三郎)、畠芋之助(泉鏡花の別号)、美空ひばり(加藤和枝)

──人 ひと

古代訓で〈毘登(ひと)〉などと当てる。

古代雑姓の一。

『新撰姓氏録』未定雑姓に「狛人」「国背宍人」「神人」などが見える。

参考

(*宝亀元年九月三日)また、去る天平勝宝九歳、(おふと)(ふひと)(かばね)を改めて並に毘登(ひと)()すを(もち)て、彼此分ち難く、氏族混雑(こんざふ)す。事に於て(おだひ)にあらず。(もと)の字に従うべし。(*読み下し)&続日本紀・三十・称徳天皇

人改 ひとあらため

戸籍調べ。人別改め。

人の名 ひとのな

〈人名〉の訓読。☟人名

人名狂歌 ひとのなきょうか

和歌・狂歌・俳句等の各(かむり)((かしら))など特定の箇所に配置された文字頭音をつづると、それだけで意味のある語句となるものを「折句」という。

〈人名狂歌〉では、単独または複数の人名を詠み込む折句技法をいう。おもに人物批評の手段として古くから用いられ、ことに落首に目立つ。

【例】

●古典狂歌より/豊臣「秀頼」▽せめて世に命のあらば又も見ん秀頼様の花のかほばせ(よみ人しらず)&『大坂物語』上/団十郎に▽我等代々団十郎ひいきにて生国は花の江戸のまん中(つぶり光)&『狂歌才蔵集』巻十三 

*歌舞伎役者の五世市川団十郎は狂号を「花道(はなみちの)つらね」と称した狂歌師仲間でもあり、その名にちなんだ一首に詠みあげている。/和泉式部▽無遠慮に男はどうもゆかれまじ和泉式部のお開帳には(樋口関月)&『万載狂歌集』巻十五 *荻生まとめ。京都市中京区の誠心院は和泉式部の菩提寺で、同寺保存の秘物などを拝観させる恒例があった。「お開帳」は怪しからぬことに通じる洒落である。●落首より/▽信長はいまみてあらや飯羽間城を明智とつげのくし原&『甲陽軍鑑』五一/▽田沼れて薬を盛るが馬鹿林たつた三日でさじのかきあげ&『田沼狂書』/▽仕置立せずとも御代は松平ここに伊豆とも死出の供せよ&『落首類纂』 *荻生まとめ

一人一名主義 ひとりいちめいしゅぎ

個人の本名は一つの名に限る、とした布告。

明治五年八月、太政官布告によって〈複名〉や〈改称〉を禁じた定めである。

複雑怪奇ともいえる従来の人名を簡素化し、かつ、万民平等に扱おうというのが、時の政府の建前であった。

卑弥呼 ひみこ

三世紀の邪馬台国(やまたいこく)の女王の名。

すなわち、大和撫子としての親称「──子」をもつ最も古い名である。

──姫 ──ひめ

〈──媛〉〈──比売〉とも。上代に始まる、女子への美称。

木花開耶(このはなさくやひめ)」「磐長媛(いわながひめ)」などであるが、「郎女(いらつめ)」や「乙女」「(むすめ)」など末尾が〈──め〉をも含めると数がぐんと増える。

参考

比売(ヒメ)比古(ヒコ)に対て、女を美て云称にて、()は産巣日などの()の意なり、(*中略)()は女なり、&古事記伝・五●女にひめといふこと/神代には一般に女の名を何ヒメといひて、貴賎の別なし、近古に至り姫宮と唱ふるは皇女に限り、姫君といふは将軍家及摂家の女に限ることゝなれり、&明治節用大全

卑名 ひめい

賎しい名。

たいていは自分の名をへりくだっていうときに用いる。

「一方にはまた卑名も少しは人にしらるゝことゝなつた」(思出の記、徳富蘆花)

秘名 ひめい

名を秘すこと。また、その名。

別に、公表していないいかがわしい名、の含みもある。

美名 びめい

〈美称〉とも。美しい名。優れた名号。☟美称

「学者はこの椎の葉にさまざまの美名を与えるであらう。」(侏儒の言葉、芥川竜之介)

姫刀禰 ひめとね

〈命婦〉の古語。☟命婦

石川(いしかわの)姫刀禰など。

百姓 ひゃくせい

古代、一般の人民をさした総称。

〈百姓〉の名の由来は、古代に人民総てが何らかの氏族に属し、姓名を名乗っていたことによる。

参考

●百敷事/或人説、百姓トハ本朝源平藤橘四姓分レテ百姓ト成ル、其内二十氏ハ公家、八十氏ハ武家也、ヨリテ物武(モノノフノ)八十(ヤソ)(ウジ)ナンド云ト、又此由注セル物モ侍リ、然共難信用説也、物武八十氏ハ、サモコソ侍ラメ、百姓ト云事、日本ニ云始ムル詞ニ非ズ、漢朝ヨり起テ、多ク文ニ載タリ、争カ本朝四姓百ニ分ルヽニ依テ百姓ト云ハンヤ、(*中略)順和名ニ所載スル既五百ニ余リ、六百ニ及ベリ、&塵添壒囊(じんてんあいのう)抄・七

百名 ひゃくめい

一名を祖に、おびただしい数の名をあわせもつこと。また、その人物等。

引例の伝説人獣カッパのように、民族分野では伝説的半人名に関し、全国規模で多彩な資料が集められる。

参考

●肥後の国の熊本にては、土俗ガハツパと呼べるとぞ、按ずるにガハッパ、カツパ共に川ワツパの中略にして、正しくいはゞ川童の訛なるべし、又川太郎と呼べるは、すべて物の(くわい)なるを太郎とよべるは我が俗の常にて、水属の物いと多かる中、此の物は一種の怪物にして、其の妖、他物に比すべきなければ、川太郎の名はおはしゝならむ、又因幡の土俗、川小坊主といひ、伊勢の白子の土人、川原小僧といへるも又、川太郎と同意なり、肥州佐賀にて川僧といへるは、小文字を略したるにて、共に同意なり、又紀伊、土佐、長門萩などにてエンカウとよべるは、猴に似たる由の名にて、出羽庄内にてカハダロウ、播磨姫路にてガアタロウ、土佐にて又カダロウなどよべるは、共に川太郎の訛にて、近江彦根にてガハタ、越後柴田にてカハダなどいへるは又川太郎の下略なり、越中にてガハラ、薩摩にてガハロなどよべるも、&さへづり草・松の落葉

百官 ひゃっかん

〈百官群臣〉とも。官人や諸家家臣らの総称。肩書きをもつ人々で賑わうさま。

「即在朝の百官自ら奮発し、内は皇上の御徳化を輔け奉り外ハ皇威を万国に張り、」(太政官日誌・三、慶応四年二月)

百官名 ひゃっかんな

人の官名をもって通称とした命名法。

主水、外記、織部、内匠、式部など実数では百を優に超える。さらに地域や時代によって、京百官、鎌倉百官、東百官、相馬百官などに分かれ、それぞれ呼称範囲が異なる。いわば古代における官職名総覧である。

参考

●百官名とて、中務、式部、治部、民部、刑部、大蔵、掃部、織部、主水、外記、内記、大学、蔵人などの名をつくるも、右にいふごとく、官名を盗みたる也、世俗に是らの類をば百官名といひ、何左衛門、何右衛門、何兵衛などは、官名にあらずと心得たる人もあり、をかしき事也、&四季草・秋草上・姓名●京鎌倉の百官/京鎌倉の百官のこと、又鎌倉の百官といふは、左膳、頼母、伊織、求女などと申すをいふ、その外にもおほし、これは京官の図書、内匠などいふ呼名よりおこれり、むかし鎌倉の繁昌しけるとき、京百官に紛らかして、かくはよばれしとなり、&羅月庵国書漫抄・五

兵衛 ひょうえ

律令制下、兵武省詰めの官職名。

のち岡田兵部など、通名に転化する。

表徳号 ひょうとくごう

略して〈表徳〉とも。次の二義がある。

⑴徳行を表す号。

⑵〈雅号〉〈渾名〉などで、通人めかしたもの。

「今此もとに表徳号というは名と字との外に別に立るが、」(史記抄・十・呉太伯世家)

「評判」としての名 ひょうばんとしてのな

人間の行為は社会の照魔鏡に反映され、良きにつけ悪しきにつけ、評判が立つ。そうした世間の風評は、〈名聞(みようもん)〉とか〈声名〉という形で本人に跳ね返ってくる。そこで〈評判〉の別儀を含む名呼称を具体的に列挙してみた。

家……家名、名跡

身分を超えて……潜名、淫名

悪いほう……悪名、醜名、臭名、浮名

良いほう……芳名、美名、令名、佳名

罪業……賎名、貶名

手柄……功名

武勇……驍名、武名、烈名

無実……冤名

汚辱……汚名

とどろき……知名、雷名

高まり……高名、有名、著名

虚勢……虚名、空名

蘇生……宿名

淫情……浮名、艶名、浮気名

目立ち……顕名

兵部 ひょうぶ

律令制の八省の一、兵部省に属した官人。後に武士名に組み込まれた。

伊達騒動で悪玉にされた伊達兵部宗勝が知られている。

表面称 ひょうめんしょう

表立って公にする呼称。

〈表面称〉はもっぱら通称がほとんどで、百姓や町人は実名や隠し苗字を持っていても、表に出すことはなかった。町方諸帳でも通称だけの記載でも事足りた。

表紋 ひょうもん

新に改変し作り直した家紋の意味だが、語義は曖昧である。

平安末あたりから流行りだした。

参考

●ひようもん/平家物語に狂紋と書り、大双紙に素襖にいへり、今家紋のかへ紋を、ひようもんといふは、此義なるや、或は表紋の字にて、物につけて表する也ともいへり、されば物見に出るあまたの車をわかつに、紋をもてせるより始るといふ、&倭訓栞・前編二十五・比

拾い名 ひろいな

拾い子に〈拾い親〉が付ける名。

厄年生まれの子のいる家、次々に子が出来てもみな早世してしまう家で行う「拾い子」という俗習がある。子供を一度捨てておき、他人に拾ってもらってから貰い返して育てる。こうすることで子は無事に育つと信じられていた。ここで拾い親は子に「捨」の一字を名前につけて〈拾い名〉とするのである。豊臣秀頼の幼名「(ひろい)」であったのはあまりにも有名だ。捨吉・捨五郎などの名も、こうした因習によるものが多い。

 

 

ファーストネーム first name

英語で、名。

ファミリーネーム()やミドルネーム(洗礼名など)に対する呼称である。

ファミリネーム family name

英語で、「姓」を指す呼称。団体の特称として使われることもある。

夫婦同姓 ふうふどうせい

〈夫婦同苗字〉〈夫姓襲名〉とも。夫婦ともに同じ姓を名乗ること。婚姻後の妻が夫姓を名乗ること。

日本人の氏族や家は、太古の昔から家父長制という太い柱によって支えられてきた。同時に、家号としての姓氏の存続は、一家で守るべき絶対的な要件であった。

こうした背景から、嫁入りした女は嫁ぎ先の姓を名乗る不文律が課せられ、夫婦同姓であることは社会的に当然のこととして受け入れられた。

もちろん江戸時代以前にも、「夫婦別姓」とした例が少なくない。しかしそうした場合は、ほとんどが特殊事情による例外で、社会が制度的に容認したことにはならない。

明治新政府は、朝令暮改ともいえる戸籍制度の改変に着手したが、その過程においても、夫婦同姓の伝統だけは変えようとしなかった。この精神は明治三十一年に成った明治民法にも生かされ、妻は嫁いだ家の姓を名乗ることを明文化している。夫婦同姓の原則はその後も生かされており、昭和二十二年の新民法によっても受け継がれ、夫婦そのものを一種の法人格とみなして、どちらかの姓を名乗り、夫婦別姓とすることを認めていない。

夫婦同姓とするか夫婦別姓とするかは、国民の総意に達するまで、まだまだ時間がかかることになろう。

夫婦別姓 ふうふべっせい

〈夫婦別苗字〉とも。妻側から見て〈夫姓不称〉ともいう。夫婦別に姓(苗字)を名乗ること。〈夫婦同姓〉に対応する用語である。

日本の氏姓制度では古くから〈夫姓襲名〉が建前になっていて、明治三一年の民法・戸籍法に基づき、〈夫婦別姓〉は認められず異端視されてきた。しかし現代、男女平等思想の高まりとともに、妻側から夫婦別姓を実践する人たちが増えている。

ただし現行戸籍法では、婚姻継続中は戸籍上夫婦別姓が認められていない。すなわち、婚姻に伴いひとたび夫姓に入籍した以上、形のうえで離婚届を出さない限り、復姓はできないことになっている。☟夫姓不称

奉行 ぶぎょう

武家職制で、政務を分掌して専任する職名。

鎌倉・室町時代には評定衆・引付衆の名であったが、江戸時代に〈奉行〉の名で職制が確立。町奉行、勘定奉行、公事奉行、寺社奉行、納戸奉行などさまざまな部門が奉行職に割り当てられた。ちなみに応永・永享以前は〈奉行人〉と称していた。

参考

●およそ奉行人は、天下の公事を執り行う職たるによりて、政道の善悪をもととして、これによるべし、いかにも心正直にして、私を存ぜず黒白をわきまえ、文筆に達し理非にまかせて、贔屓をいたさざらんをよき奉行とは称すべし、これによりて、あやまりあらん奉行人をば、ながく召しつかわるべからざるよし貞永の式目にのせられ侍り、両方の支証をとり合せ究決せられて、理ある方へ付けられたるをもとの給人として難渋をいたさんをば、別して罪科に処せらるべし、いわんや奉行人として存知ながらとりあげ披露せんは、大なる越度たるべし、&樵談治要

複合名字 ふくごうみょうじ

本家から分かれて庶流となるさい、本名字から新名字に変わるのでなく、〈本家名字〉と〈新名字〉とを重複して用いる習いがある。こうした名字の名乗を〈複合名字〉という。

たとえば鎌倉時代、総領家である新田氏からは岩松、大島、堀口など庶子家が流れているが、これらは新名字の上に新田を冠し、それぞれ「新田岩松」「新田大島」「新田堀口」と呼んでいる。また武田氏も庶流竹田氏を生んでおり、「武田一条」「武田板垣」「武田逸見」などと呼ばれている。というのも、新名字だけでは世の通りがよくなく、そこで知名度の高い本家名字を抱き合わせたのであろう。

しかしこうした複合名字も、時代とともに庶流の自立性が高まるにつれ、本家名字を冠する垣根が取り払われ、「岩松」「堀口」「逸見」など〈単名字〉へと脱皮していくのである。

復氏 ふくし

氏を一度改めた人が以前の氏に復すること。また、その氏。

「〔第九十五条 生存配偶者の復氏届〕民法第七百五十一条第一項の規定によつて婚姻前の氏に復しようとする者は、その旨を届け出なければならない。」(戸籍法・第十節)

復称 ふくしょう

変更した氏名を元に戻すこと。また、戻した氏名。

「かくて二月十二日和宮東城に於て婚姻の大礼在らせられ御台所と称せしが後謂(ゆえ)ありて和宮と復称せり」(近世紀聞二・一、染崎延房)

複称 ふくしょう

一つの称呼で複数の意味をもつもの。また別に、一人で複数の姓氏をもつこと。

たとえば、「大将」には、〈複称〉として次の五義がある。

⑴一軍を指揮統率する者。「源氏の方の(さぶらい)大将海野の弥平四郎」

⑵律令下、近衛府の左右の長官。

⑶旧陸海軍で最高位にあった武官。

⑷一群の頭目。「餓鬼大将」

⑸からかい半分の二人称。「おい、大将!」

復姓 ふくせい

〈復名字〉とも。元の姓に戻ること。また、元の姓。☟復名字

たいていは〈削名字〉の罰をうけ、やがて〈復名字〉つまり〈復姓〉に至る例が多い。

「保科氏を松平氏に復姓したのは翌九年とされてゐる。」(耳を掻きつつ・三・牛小屋討入、長谷川伸)

参考

●加藤/正次 信長につかへしときは、竹本と号す、(*中略)永禄十一年、参州にいたり、大権現(*徳川家康)に謁見し奉る時、鈞命をかうふり、竹本をあらため、ふたゝび加藤と称す、&寛永諸家系図伝・二百十二●松平の大小名の復姓/明治元年正月二十七日の朝命に、『徳川慶喜謀反に付ては、松平の苗字を称し居候族は、向後大小名共、速に各本姓に復し候様可仕、御沙汰候事』/これまでは、国主大藩も、皆松平の称号を賜はるを栄とせしなりき。然るに、今日朝命を拝し、尚松平姓を称するは逆賊者の味方と見らるゝ如き嫌あり、譜代諸侯の中にても、最も、松平姓に因縁の深き、大河内、久松、大給、本荘の諸氏、我遅れじと改称せり、殊に笑うべきは、微々たる一藩士すら、松の字を嫌ひ、わざ〳〵祖先の故姓を捜索して、改姓したる者さへありし。&明治事物起原・上

複姓 ふくせい

古代、氏と家とを連称した姓。〈複合名字〉と混同しやすいが、意味が異なるので用法に注意が必要である。

〈複姓〉は、本の姓に賜姓を付け加えるなど、中国の複姓制度に倣ったものが、大化改新の後、同一氏族内家柄の分別法に用いられるようになった。南北朝期から室町期にかけて盛んに行なわれ、諸本にいろいろな例が載っている。

参考

●また所謂複姓も多有を、その複姓の後、姓を偏に(ナノ)りたるも有が、異姓のごと聞ゆること、(*中略)例を挙げれば、中臣大家連、中臣殖栗連、物部韓国連、物部依羅連、佐伯日奉連など云類は、中臣物部佐伯はもとよりの姓、大家殖栗韓国依羅日奉などは、謂有て後に賜へる複姓なれば、正しくは右の如く複ねて称るを、後姓を偏に称りて大宅連、殖栗連、韓国連、依羅連、日奉連などのみ云るもいと多かり、よく心得ずては、思ひ紛ふこと有れば、此も等閑に思ふこと勿れ、&古史徴・一夏●

藤原恵美押勝といへるは、姓を二つかさねたるなり、備前の王藤内、又安藤といふも同じ事なり、小河の系図の内に、小河垣谷とかさねてなのるあり、苗字をかさねたるためし、昔はあるなり、&南留別志・二

復名字 ふくみょうじ

〈復姓〉に同じ。☟復姓

参考

永禄十一年十二月、是ヨり先御曩祖ノ御称号、徳川氏ニ復シ玉フト雖ドモ、此冬源義昭ヘ此事ヲ達シ給フ、十二年正月、将軍義昭、近衛関白藤原前久ニ依テ、徳川氏ニ復シ給フ云々&大三州志・八 *傍線部は荻生。家康の遠祖義季は、源義家の曽孫で徳川四郎と名乗っていた。その後いつしか家康の代まで松平姓を称するようになったが、永禄九年十二月二十九日に従五位下三河守に叙せられるとともに、旧苗徳川に復したことをさしている(創業記考異・一)。よって本出典の「永禄十一年」とあるのは誤りである。

複名 ふくめい

語義をふくらませて〈複名習俗〉とも。

一人物が本姓名以外にいくつもの呼称を併せもつこと。

人名の種類・形態つまり〈複名〉を類語辞典から拾い出して列挙してみると、次のように多彩なのである。

 姓名/姓氏/姓/本姓/氏/苗字/家号/屋号/本名/実名/仮名/通称/通名/幼名/諱(いみな)/字(あざな)/謚(おくりな)/号/変名/雅号/俳名/賜号/賜姓/筆名/柳号/狂号/ペンネーム/道号/法号/戒名……

これら一つ一つの定義が異なり、日本人の複名化を助長してきたわけである。たとえば、俳人の松尾芭蕉は名号の多いことで有名であり、ほぼ使用順に挙げてみると、宗房を始めとし桃青、芭蕉、釣月軒、泊船堂、夭々軒、坐興庵、栩々斎、花桃天、華桃園、芭蕉洞、芭蕉翁、芭蕉庵、風羅房、是仏房、素宣、鳳尾、羊角、羽扇、土屎。読本作者で有名な滝沢馬琴も同様で、本名のほか字、通称、号から没後の法名まで入れると、なんと三十五種を名乗った。

現代人は〈一人一名主義〉に慣れているので、別称をもっていても雅号と筆名、それに愛称を含めた渾名程度で、復名数もずっと少ない。

参考

●第二十三岡持翁卒去/(*文化十年)五月二十日、平荷翁没死、深川浄心寺に葬す、行年七十九歳、秋田侯の士にて、俗称平沢平格、戯名喜三次、又亀山人、朋誠堂と号す、狂歌に手柄岡持の名あり、俳諧に月成、狂詩に韓長齢、また天寿といふ、晩年仕を辞して、剃髪して後、苦なき人となりしと戯れて、自ら平荷と名づく、喜三次の戯号は芍薬亭長根に譲らる、&豊芥子日記・上●〔名号〕本姓、源。滝沢氏。名、興邦、のち解。幼名、倉蔵。字、吉甫。通称、左七郎・左吉・瑣吉・清右衛門・篁民。号、曲亭馬琴・著作堂主人・蓑笠漁隠・飯台陳人・玄同陳人・魁蕾子・斎・烏水・山梁・貫淵・信天翁・閑斎・愚山人・逸竹斎達竹・傀儡子・玉亭子・清友・大栄山人・無名子・狂斎・彫窩主人・笠翁。法号、著作堂隠誉蓑笠居士。&国書人名辞典「曲亭馬琴」より

複名の禁止 ふくめいのきんし

明治五年五月七日の太政官布告第一四九号により、「今より一名たるべきこと」と、従来の〈複名習俗〉が禁じられた。この令により、たとえば吉之助を外して西郷隆盛に、利助を外して伊藤博文に、釜次郎を外して榎本武揚にと、公的には〈一人一名主義〉が徹底された。

父兄制 ふけいせい

家系がもっぱら父方の系統で相続される氏族制度。

不敬の表記 ふけいのひょうき

台頭(たいとう)〉とも。ここでいうのは、自称を先に、貴人や目上の名前を後に据える表記法。

非礼・不敬に当るとして、〈台頭〉は戦前厳しく戒められた。引例は、皇道派の本家本元が無知だったために犯した、言い逃れのきかないミスである。

参考

●府下中野町の皇道実行会では今回戸山原に皇祖皇宗明治天皇を奉祀する神宮(*明治神宮)を建設する事となり本四日地鎮祭並報告祭を執行する筈で昨三日の二三新聞紙上に広告を出したが、其文中に「本部及皇祖皇宗明治天皇を奉ずる新宮建設の為め云々」の文字が有つたので、乃木会員其他の有志は「本部を主として、皇祖、皇宗、明治天皇を従として天下に公告する広告文に書くのは不敬である」と非難してゐる。宮内省中の物議の種にもなつてゐるが実行会でも弁明の必要が有らう。&万朝報・大正二年十月

不詳の名 ふしょうのな

滝沢馬琴の随筆『玄同放言』のみに出てくる語である。この場合、「悪」という冠称の不詳は、未詳の意味よりは、「わけがわからないまま通用するようになった渾名」の意味に近い。

参考

(不詳の名、承前)保元建保の間、悪左府、悪七別当、悪右衛門督、悪源太、悪七兵衛、悪禅師など、みづから如此名告(しかなの)るにあらず、時人、その暴悪非義を憎みて、悪字を(おは)せしなり、また天正中に、赤井悪右衛門あり、こは自称なるべし、又按ずるに、源義平ぬしの外に、悪源太と呼れし武士あり、江濃記(かうのうき)に、土岐氏の事を記せし段に、伯耆十郎頼藤(ヨリフヂ)、頼藤弟、悪源太頼遠(ヨリトホ)、数度高名比類ナシ、オゴリノアマリ、康永ノ比、院ノ御所ノ御幸ニ参会(マイリアヒ)、狼藉シテ身ヲ失ヒシカバ、其弟、周崔坊入道頼明ニ、美濃ノ守護ヲ賜ル、といへり、(*割注はすべて略)&玄同放言・三・人事二

不浄名 ふじょうめい

(へき)(じや)(めい)〉とも。穢れをあらわす名。不浄な呼び名。

昔の人が忌み嫌わわれる〈不浄名〉をあえて付けたのは、大別して次の二つの事由による。

⑴除厄・攘災のため

⑵「罰名」を科すため ☟罰名

歌仙の紀貫之が幼名を「阿子久曽(アコクソ)」、俗にいうなら「屎坊主」と付けられていたことはあまり知られていない。不浄名ならほかにも、『万葉集』を紐解けばいくつも見られる。が、男の子ならイザ知らず女子名に毛屎、小屎、町屎女、三屎売、玉門売といった不浄名がさしたる抵抗もなく付けられていたのである。

現代、万一に女陰名などを付けられた女性は、役所に改名を申し出れば即刻、受理される。☟辟邪名

参考

●屎といふ本名/平安朝時代には人名に屎()といふ字を付ける事が流行した、屎麿、屎根、屎成、中屎、稲屎、馬屎などいふのである、有名な紀貫之も幼名を「阿古屎(あこくそ)(まる)」と呼んで居た、後世の熊楠、常楠、米楠などいふ人名の楠は屎の転で、古名では熊屎、常屎、米屎なりとの説もある/『北窻瑣談』に「薩摩領日向国高岡の郷に牛糞姓の人あり」と見えて居るが、此牛糞などは、祖先の人名が姓に転じたのであらふと思ふ/却説、何が故に斯かる不浄不潔の名を付けたかと言ふに、これは屎の字を名に付けると、其子が無病長生するといふ迷信から起つたのである、其迷信は不浄の屎が魔除けに成り、疫病神駆逐の禁厭に成ると思つて居たからである(*以上、傍点の類は省略)&奇態流行史、(宮武)外骨

藤原氏 ふじわらし

天智天皇八年十月、内大臣中臣鎌足の(むらじ)に〈藤原氏〉を賜ったのを祖とする。

このとき鎌足は病重態にあり、天皇は大海人(おおあまの)皇子(おうじ)を遣わして見舞ったうえ、藤原氏姓とともに、当時最高官位の「大職官」をも与えている。鎌足は翌日亡くなった。鎌足の子の不比等(ふひと)は、娘の宮子を文武天皇の后とし、後の聖武天皇を生ませるなどして、朝廷とのつながりを強化する基をつくった。以後、藤原氏は四姓のうちでも群を抜いて繁栄していく。

ちなみに藤原氏の出所は大和国の一地名であった。

ここでちょっと横道にそれてみよう。

この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば     藤原道長

権勢を天下に示した藤原道長(ふじわらのみちなが)の、驕りもまた頂点にあったときの詠である。二十六歳の若さで(ごん)大納言に任ぜられてからの道長は、兄道隆・道兼の物故に伴い出世の道が開けた。すかさず甥伊周(これちか)の政治的野心をくじき、さらに朝廷および自身の姻戚関係を固めるなどして、ついに従一位太政大臣にまで栄達する。道長の娘のうち彰子(あきこ)が太皇太后に、妍子(よしこ)が皇太后に、威子(たけこ)が中宮になり、三后の父として、飛ぶ鳥をも落とす権力と名声を掌中に収めたのである。

右引用歌は寛仁二(一〇一八)年、威子を中宮に冊立(さくりつ)したときに詠んだ有名な一首。これ見よがしの詠風は、歌道を外れた品性のない作に(おとし)めている。道長自身は優れた歌人として評価されてはいるが、権力に溺れきった姿勢が、歌人として二流にとどまらせてしまった。

参考

●藤原氏にも、鎌足公の子孫ならざるあり、藤原朝臣弟貞卿(おとさだけう)是なり、続紀二十四廃帝紀、天平宝字七年、冬十月丙戌、参議礼部卿、従三位、藤原朝臣弟貞薨、弟貞者、平城朝左大臣、長屋王子也、(*中略、引用が続く)かゝれば弟貞卿の藤原氏なるは、(ハハ)(カタ)の姓なり、こは皇別の藤氏といふべし、&玄同放言・三・人事二

夫姓襲名 ふせいしゅうめい

女性が結婚して戸籍上は夫の姓を名乗ること。

〈夫婦別姓〉に対応した言葉である。☟改正戸籍法

夫姓不称 ふせいふしょう

〈夫婦別姓〉にほぼ同じ。☟夫婦別姓

父方か母方か、官職位階の上位を採った結果、妻系を名乗る次第もあったのである。

参考

●女は他姓に嫁すと雖も、夫の姓尸を称する事なし、我が姓尸を称することは、たれもしりたることなれど、今の世下ざまの風、衣服の紋など夫の紋を用ふる様なれば、こゝろえがへるものと、筆のついでにかき付くるなり、過ぎし文政五年の御叙位の御位記のうつしをみしに、御台様の御位記は、従三位藤原寔子とあり、御簾中様のは、無位喬子女王とありしにて、あきらけくしるべし、されどその蔭は、高きによる習ひにて、たとへば父は大臣にて、夫納言なれば、父の蔭によるべし、父納言にて夫大臣ならば、夫の蔭によるべきなり、&後松日記・四

譜代 ふだい

次の三字義がある。

⑴代々その家号・血統告を継ぐこと。

⑵臣卒が代々、同じ主家に仕えること。また、その臣下。

⑶「譜代大名」の下略。

左記の引例は⑵の場合である。

参考

●ただし譜代という名は、元これ衛府の兵士に起れり。そも〳〵軍団の兵士、京上して諸衛府に恪勤止、老ひて郷里に帰り、またその子をもつて兵士たらしめ、年次(ねんばん)に従ひ京上し、諸衛府に番す。遂に郷里の戸籍にも、衛府の番帳にも、父子・孫・曾孫相続いで、兵士・衛士の譜に次第交代するを栄として、譜代の兵士と称せしなり。あるいは兵士、軍功によつて勲位を賜はり、六等に至つては従五位下に准ずべし。その子、すでにその父の蔭をもつて課戸(かこ)に入らず。&類聚近世風俗誌・四・人事

譜第 ふだい

カバネツイデノフミと古訓する。〈系譜図〉の古名。

『日本書紀』顕宗天皇の条にこの語が初出。貴人・有力者の古式系図であろう。

二つ名 ふたつな

〈異名〉〈別名〉〈渾名〉など、語義範囲がかなり広い。近代まで通用、今では半死語になっている。

「その名七と喚び、権と叫び長と叫び、種々の諢名(ふたつな)有、」(都繁昌記・乞食)

符牒 ふちょう

〈譜牒〉とも書く。 古く『延喜式』二十八・兵部省や『史記』太子公自序などにこの語が見える。姓氏学でいう〈符牒〉とは、系図全体の体系をさす術語であるが、今ではほとんど使われていない。

参考

●譜牒ノ重ズベキ事/符牒の重ずべき事、何士普が家規に詳なり、異邦に、清明三月節句其祖を祭る時、本家支流皆会し、各対する所の系図を出して其族長に見せしむ、若収蔵疎にして、物に穢し、文字を廃毀する事あれば、懲誡して改めしむ、又不肖の輩、己が家系を他に売、或は自ら贋りて、庶を以て嫡子とし、支流を紊乱するものあれば、下臣に告て刑に処と見へたり、げにも家譜は、其氏姓本源を記し、祖父の実事を編し、後世の証とするものなれば、家々重貴とすべき事なり、故に我国古へ、勅して諸家の譜牒を召て、是を治部省に覈さしめ、中務省に呈し、図書寮に蔵しむ、家にも亦是を記して蔵め、子孫に伝えし、氏上嫡家支庶をすべて、各其家を保しめ、高卑紊れざらしむ、戦国に及んで、本支の分を失ひしより、妄作のもの多く、あらぬ人の裔など書間々あり、&塩尻・一

普通人名詞 ふつうじんめいし

かつては人名であったものが普通名詞化した類を〈普通人名詞〉といっている。

一種の転称であり、数が多い。ために、好事家の(宮武)外骨は、これの小辞典まで編んでいるので、その冒頭部を紹介してみよう。

参考

●普通人名詞/単独の人名が普通名詞に変りしものを茲に付載す、然し沢庵、友禅、市松等は一般に沢庵漬、友禅染、市松形の義に使用し居るを以て、この類は本篇に収めて茲に入れず、人名冠の下に事物の名詞の付ける語のみを集めしなり、但し其道の人々は、例せば下駄屋にて利休、豆腐屋にて隠元と、単に人名のみを呼べるもあれど、そは一般的にあらざるを以て、下駄を加へ豆を加へて茲に入れたり/此篇は擬人名の材料蒐集の際、別に略記し置けるものより特に一百を撰抜せしなり、漏らしたる語多く、又気付かずして漏れたる語多かるべし

敦盛草(あつもりさう) 紫色の花咲く草を云ふ、熊谷草の花に似て小さきもの故に熊谷直実との縁にて敦盛草と云ふなり/隠元豆(いんげんまめ) 日本黄檗宗の祖隠元禅師が明国より渡来の際、持ち来りて初めて種を蒔きしと言伝ふる豆を云ふ/一中節(いつちうぶし) 天和の頃、京の都一中といへる人の唄ひ初めし俗曲の名称なり、今尚行はる、家元に菅野と宇治あり/一閑張(いつかんばり) 京都の飛来一閑といへる者の発明せし木地に紙を張りて漆を塗りたる器物を云ふなり/岩井櫛(いはゐぐし) 安永の頃、女形俳優岩井半四郎の好みにて神田庄作といへる者が作りし浅黄塗りの櫛を云ふ&日本擬人名辞書

仏号 ぶつごう

〈仏名〉に同じ。☟仏名

復古名 ふっこな

昔風な命名をすること。また、その名。

たとえば近時、百済系の女名「あぐり」が流行ったことがあった。今時、小野小町、和泉しきぶ、などの実名も存在するという。男でも書家に道風の号は人気筋だそうだ。

仏名 ふつみょう

〈仏号〉とも。仏の名号で、意味する範囲が広い。

「散花の僧、仏名を唱ふる事一度、先に列を離れ本座に着き、仏名を申す」(西宮記・十一)

不定称 ふていしょう

不特定の人をさす代名詞。

「だれ」「どなた」「どちら様」など。

史 ふひと

フンビトとも。古代、記録を司った職名「文人(ふみひと)」から転じた姓。

担当したのは漢字に通じた帰化人が多い。(藤原)不比等(ふひと)のなと同音なので、敬避して紆余屈折の末〈史〉の表記に落ち着いた。

参考

●史/史は書人の意なり、布美比等訓べし、又淡海公の名、史なりしを不比等とも書りしかば、美を省きて布比登とも訓べしと師はいはれき、&姓序考

ブラックリスト blacklist

明治語で〈黒表〉と和訳。要注意人物の一覧表をいう。

「警察には、ブラックリストで、○○名簿とか、△△常習者名簿とか、××要注意者名簿とか、それはそれは、マトモな人間には想像もつかないようないろいろの名簿があるらしい。」(名簿パトロール、佐久間英、日本の名随筆・別巻二十六)

フルネーム full name

氏名の全部。ファミリーネーム、ミドルネーム、ネームを合わせた人名。 

分限帳 ぶんげんちょう

〈侍帳〉〈着到帳〉とも。戦国大名が家臣の氏名、所領、扶持高、軍役割当てなどを列記した家臣簿。

分籍 ぶんせき

成人に達した者が、親の戸籍から抜けて自分の戸籍をもつこと。また、その手続き。

独身者が〈分籍〉した場合は、いわゆる〈一人戸籍〉となり、筆頭者も本人ということになる。

 

 

──部 ──べ

「部」とは、律令前に伴造(とものみやつこ)らに統率された職業集団をいう。これからいくつもの〈──部〉の集団呼称が生まれた。

たとえば特殊種族で構成された「佐伯部」、居住地を示した「飛鳥部」、職業由来の「機織部」などといった集団に分かれたが、七世紀後半には自然消滅した。『続日本紀』や『三代実録』等に例が多出している。

陛下 へいか

天皇を中心に皇族への敬称。

参考

●陛下の称/天子を陛下と称し奉ることは史記に秦の李斯事を議る時始皇を称して陛下といひしに始まる、&明治節用大全

平氏 へいし

訓じて(たいら)氏。〈平氏〉の由来は平安京の本訓タヒラによるという。☟(たいら)

参考

●平氏/天長二年閏七月桓武天皇の皇子、葛原親王の嫡子高棟(だかむね)王に、始て平朝臣の姓を賜ふ、&明治節用大全

平衆 へいしゅう

藤原・源氏からの庶流のうち、官位のない家筋の総称。

平家分脈の諸家ではないので、誤りのないように。

参考

●諸家之中、平と申衆中は、花園園家、橋本三条家、園池、外山日野家、星岡、池尻勧修寺家、芝山、穂波、岡崎(*中略)藤原源家の庶流、家筋に依て役も無之故、平と申なり、此五十軒の昇進は、つよきは従五位下侍従より中少将を申、散三位にて宰相の缺を待、大中納言にも任じ、正二位申家も有、これは此中の第一なり、&光台一覧・三

併称 へいしょう

〈並称〉とも書く。合わせて呼ぶこと。並べ呼ぶ名。

平氏四流 へいしよんりゅう

  桓武平氏、②仁明平氏、③文徳平氏、

  光孝平氏、の四流をいう。

なかでも〈桓武平氏〉は最も栄えた。

平民 へいみん

明治期、官位のない民。また、華族・士族でない身分の者。

「哲学者の言葉を平民に解る様に翻訳して見ると、」(思ひ出す事など・二十七)

平民籍 へいみんせき

明治期、平民である族籍。

平民苗字許容令 へいみんみょうじきょようれい

明治三年九月十九日発令、平民も苗字を用いてよろしい、という太政官令をいう。

この時点では許可だけで、まだ強制に至っていない。そのため、のち八年発令のほうは〈平民苗字必称令〉と使い分けている。

参考

●御布告写/自今平民苗字被差許候事。&太政官日誌・明治三年九月十九日

平民苗字必称令 へいみんみょうじひっしょうれ

明治八年二月十三日、太政官例による平民の苗字称呼の強制令をいう。

明治政府による徴税、徴兵の基盤となる戸籍台帳作成の急務に追われての発令であった。☟国民皆姓

参考

●明治三年九月十九日平民の苗字を差許されたり、従前は功労などありて、特別に藩主の許可を得し者即ち苗字御免の者の外は、苗字を称することを得ざりしなり、然るに今、この新法出づ、されども、永く苗字無きに慣れたる町人百姓は進んで之を称せんとする程の熱心も無かりし、依て、八年二月十三日、太政官令にて、自今必ず苗字を相唱ふ可く、尤も祖先以来苗字不分明の向は新たに苗字を設く可しと、強制的に苗字必称の事とせり。当時、著者(*石井研堂)の父は、町の什町といふを勤めたりしが、区内細民の請に応じ、苗字を選びてやりしことを、微かに記憶せり、即ち種々の苗字を選び尽して後煎茶の銘を取りて、甲に青柳乙に喜撰丙丁鷹爪宇治といふ様に命じ、茶銘尽きて、徳川四天王の酒井榊原井伊本多など命けしに、その内の一人、恐る〳〵『彼様な勿体ない苗字を付けましても、お上から御咎めは無いでせうか』と訝り問ひ、父が、必ず心配なき由を諭したりき、今にして回顧すれば、これ予が十一歳の時なりしならん。&明治事物起原・上

──兵衛 へえ

往時、五衛府のうち左右兵衛府につとめた官人の職名が、後に通称に転じたもの。

たとえば安兵衛・権兵衛・甚兵衛など、現代でもときおり見かけるほど歴程が長く、また一般化が著しい。

民俗学者の柳田国男は、その理由を引例のように説明している。

参考

●何左衛門何兵衛なる通称の多い理由/何左衛門何兵衛の通称の多い理由は、略々想像が出来るであらうと思ふ。只尉といふ文字は何時となく取落してしまつたけれども、つい近来迄表立つた場合には尉の字をくつゝけたのです。四五百年来の太郎左衛門三郎兵衛は、言ふまでもなく朝廷から授けられたものではありませぬ。親が其名であつたから倅も差支ないことゝ思ひ、隣村の地主がそれであつたから自分もそれにしよう位に、だん〳〵自分で勝手につける事になつてしまつて、三万の太郎左衛門、五万の三郎兵衛を生ずるに至つたのであります。/明治維新の行政庁は、名義を正すの目的を以て、斯くの如き官名の僭称の嫌ある字は一時禁ぜられたことがあります。其後何時となく其禁は解けたけれども、今日源在(げんざい)(もん)文恵茂(ぶんえも)(なに)(べえ)などいふ通称を持つた四十五十の年輩の人があるのは、全く其禁令の結果文字だけを取換へたものである。&名字の話

辟邪名 へきじゃめい

「辟邪」とは心がねじけていることをさすが、これを避けるための名、いわば厄除け名を〈辟邪名〉としている。

紀貫之は幼名を「吾子久曽(あこくそ)」と付けられたが、これは悪神も避けて通れとばかり、魔除けのためにつけた〈不浄名〉で、俗信帰依による辟邪名であった。古代遊女のなかには「戸々(べべ)」と女陰を直称する辟邪名を売り物にした者もいた。

別号 べつごう

別の称号。別称。☟別名

「詩と云ふも、或は芝居と云ふも、この悲酸のうちに籠る快感の別号に過ぎん」(草枕・十二、夏目漱石)

別戸籍 べつこせき

世帯が分かれて、元の戸籍から別に設けられた戸籍。

別称 べっしょう

別の呼び名。〈別名〉よりも広義である。

蔑称 べっしょう

他人の名前や言動を下げすさんで口にする言葉。感情的な悪口。

別当 べつとう

鎌倉幕府の政所(まんどころ)長官。

別当典侍などの称も。

別名 べつみょう

ベツメイとも。〈本名〉以外の呼び名。

学者が用いた唐風の字、やんごとなき人たちの官職名、地方豪族に多い土地付け輩行名など、別名の成り立ちにはそれなりの特色が見られる。

参考

●これは名二つ有るをいふ、たとへば同人異名有る人あり、または名をかへし人を物にしたるに、二所三所に見えしに三の名有るもありて、その人は異ならざるもあり、又は伝への異にして二名有るもありしなり、たとへば宇治山の吉撰を基泉と同人なりともいひ、或は別人といふが如きも有り、又は西行法師を中頃は円信上人といひしを、初めは佐藤兵衛憲清といひしが如し、僧正遍照を俗にては吉岑宗貞といへるが如きも有り、これはいとまぎらはし、此にその中にとりて、伝への意にして名二つ有るをもはらのせたり、神代記に八千矛神に七名有るが如きをいふなり、別号といへるに似たり、&類聚名物考・三

部札 べのふだ

〈戸籍〉〈籍帳〉とも当てる。ヘジャク、ヘノフミタとも発する。古代の戸籍のこと。

弁 べん

律令制下、官職名の一つ。

「弁のきみ、まんどころにつきて、けいしどもにこの事おほせたまふ」(宇津保物語・嵯峨院)

偏諱頂戴 へんきちょうだい

〈一字拝領〉に同じ。☟一字拝領

変称 へんしょう

代称(かえな)〉に同じ。☟代称(かえな)

「アル名ニ代フル名。変称。」(新編大言海・代名)

変姓 へんせい

〈改姓〉に同じ。

「是等の変姓は、或は自ら願ひ或は上命にて賜はることもあらんと雖ども、」(福沢諭吉、文明論の概略・五の九)

貶姓 へんせい

姓を貶めて改めること。また、その姓。

天皇名による「改姓」の一端ではあるが、〈貶姓〉は処罰・制裁を加えるための〈賜姓〉とみなすことができる。

貶姓例は古代・中世に集中し数も少ないが、恐らく初出になろう、『日本書紀』十三・允恭の条に、允恭天皇の皇后とは知らずに庭園でからかった闘鶏(つけの)国造が、無礼のかどで死一等を減じられ貶姓処分された記事が載っている。

和気清麻呂の貶姓の例も有名だ。神護景雲三年、それまで藤野和気真人姓を名乗っていた清麻呂は、称徳女帝の命に従わず怒りにふれて、姓を「別部」へと貶姓され、実名清麻呂も「(きたな)麻呂」へと罰名されて、さらには身分も無位の庶民に落とされた。

参考

●我国古へ、姓につきたる尸寵臣宿禰の類なりあり、是を以て姓の高卑を成せり、されば官人罪あれば、尸を卑したまふ事あり、&塩尻・五十二

ペンネーム penname

英語で〈筆名〉のこと。☟筆名

参考

●ペンネームの始/近年は、文学者の文学名を、雅号と言はずして、ペンネームと言えり。その実は、雅号とペンネームと、截然たる区別もなし。ただ、ペンネームの方は、ハイカラなれども不雅なることだけか確かなり。&明治事物起原・上・第八編

貶名 へんみょう

貶名(けなしな)〉とも。他人が品性を貶めるために付ける名。

古代に刑罰として適用した例もある。

変名 へんめい

ヘンミョウとも。訓じて〈変わり名〉とも。本姓名を隠し他の名前を付けること。また、その名。

〈変名〉は自分の意思で名を変えた場合にいう。法に触れて賎称に改めさせられたり、他人から強要されて変える場合は〈改名〉という。姓名学者にも混用している人がいるので、一言触れておきたい。幕末維新の動乱期には、刺客の目を逃れるため、いくつかの変名を辿る事例が続出した。バレない名付けとするため、少しでも手掛かりを残さないよう、各人それなり自称に苦労したようである。

有名なところでは、伊藤博文→越智斧太郎・花山春太郎・林宇一・吉村莊蔵、井上馨→志道聞多・春山花輔・山田新助・今出頑八・高田春太郎など八種、坂本竜馬→才谷梅太郎のみ、高杉晋作→谷潜蔵・谷梅之助・備後屋助一郎など多数、吉田松陰→瓜中万二・松野他三郎などがいる。

参考

●四月二日、板橋御本営ヲ発シ、同五日、有馬、上田両人、越ケ谷弾ヨリ兵ヲ潜メテ急ニ流山ノ賊ヲ襲フ、賊徒狼狽シ為ス所ヲ不知、悉ク兵器ヲ献ジ降伏ス、賊徒大久保大和(本名近藤勇)ヲ捕ヘテ御本営ヘ送ル、&太政官日誌・十三・慶応四年閏四月

 

 

法諱 ほうき

出家後の諱。

宗派によって命名方式が異なるが、〈法名〉にほぼ同じと見てよい。〈法諱〉例として如真・源空・浄智真など。

法号 ほうごう

〈法号〉には、次の三義がある。

⑴僧侶としての号。受戒時に師から授けられる。〈法名(ほうみよう)〉〈法師名〉とも。

⑵死者への贈り名。☟戒名

⑶武家が隠居して仏門入りしたときの名。(上杉)謙信(輝虎)(武田)信玄(晴信)など、本名よりも法号のほうが通りのよい例もある。☟隠居名

房号 ぼうごう

「──房」の型をとる号。

発生は平安期の法師名で、止宿する房名から転化したもの。〈房号〉では弁慶こと武蔵が有名だが、南北朝期あたりから一般化し、三巴・雁月といった雅号代わりのものも見られる。

奉公名 ほうこうめい

奉公人に付けられた名。

たいていは通称を軸に、呼びやすいよう変えてある。「松どん」「お竹」などと、奉公人らしさも表れている。

放氏 ほうし

(とり)()〉とも。氏人としての資格を奪われ氏族から追放されること。

惣領家の意にそぐわない者への制裁措置で、〈放氏〉させられると、当然、元の姓氏名は名乗れなくなる。除族に加えて実質的な〈削名字〉という二重罰である。

平安時代から鎌倉時代にかけて、氏長としての惣領家の権威が高まるにつれ、一族の団結を乱す者に対し制裁としてこの「放氏」が発動された。たとえば明徳四年十月の下総香取社では、神敵に加担し惣領家に謀反行動をとったとして、香取兼持一族が朝命により放氏処分にあっている。☟削名字

法師名 ほうしな

〈法名〉に同じ。☟法名別に童名〈──法師〉をさす。

たとえば織田家では、信長が吉法師、子の信忠・孫の信秀ともに三法師である

冒称 ぼうしょう

他人の称号をひそかに盗んで自分の称号にしてしまうこと。また、その称号。

参考

(*宝亀十年九月十七日)(みことのり)したまはく、「(ほふし)(あま)の名、多く死ぬる者を冒し、心に(けん)(ぐい)を挟みて憲章を犯し乱す。就中(なかんづく)(すこぶ)智行(ちぎやう)(ともがら)有り。若し(にはか)改革(あらた)めば、還りて緇侶(しりよ)(はづかし)めむ。見数(けんす)(しら)べて、(もは)公験(くげむ)を与ふべし。今より以後(のち)、更に然あらしむること(なか)れ」とのたまふ。(*読み下し)&続日本紀・三十五・光仁天皇

冒姓 ぼうせい

自分の姓を他人の姓にすり替えてしまうこと。貴人の姓を借り偽ること。

『漢書』五十五・列伝に見えることから、渡来語のままわが国で広まり、未消化のままやがて消滅した言葉である。

参考

●按に、冒姓とは、我本姓をすてゝ、人の異姓に改むるを冒姓といふなり、或は蒙氏ともいひて、蒙は冒也とも注したれば、相通ひてかうふる意より出たり、師古が注の意によれば、かりに人の帽子を借りてかうふりたるが如きをいふなり、&類聚名物考・姓氏九

法名 ほうみょう

〈法号〉に同じ。☟法号

仏門に入った女子では法号よりも〈法名〉と称することが多く、別に〈尼号〉ともいう。この場合、妙、貞、秀の字の付く名が圧倒的に多い。

参考

●為守、ふかく上人の権化を信じ、偏に極楽の往生をねがひて、二心なく念仏しけるが、おなじくは出家の本意を遂げはやと思けるに、関東の免許なかりければ、在俗の形ながら法名をつき、戒をうけ袈裟をたもつべきよし、上人にのぞみ申入ければその志を哀みて、(*中略)尊願といふ法名をくだされにけり、&法然上人行状画図・二十八●院号/天子崩後ニ、院号ヲ奉ルコトハ、朱雀院ニ昉ルヨシ、古事談ニ見ユ。今ハ民間マデモ、浮屠氏ニヨリ院号ヲ授ルコトニナリヌ。人死擦レバ、法名或ハ戒名ト称シテ。仏氏ヨリ諡ノ如キモノヲ授ク。何ノ謂ト云コトモナシ。又官位アル人死スレバ、法名ニ官ヲ書スニ、前某守、前某輔、前某允ナド、皆前字ヲ加フ。生前ニ官ニ非ルヲ、前ノ官ニスルコト、仏氏ハ人外ナレバ是非ニ不及。其子孫タル人、朝廷ヲ不憚、僧徒ノ意ニ随フ、文盲トヤ云ン。無礼トヤ云ン。余リナル事也。此事、常陸ノ長勝寺長州和尚ハ、博学ノ人ユエ談タレバ、我モ予テ然面ヘリ。故字ヲ加ヘテ好ランカト云シマヽ、不如ニハ不如ト答ケレバ、始テ領解セリト云レシ。黄檗高泉和尚外国ヨリ持来リシ母ノ神主ニ、長令嬬人神主ト題セリト、高泉ニ随身セシ僧ノ語リシ。亡者ニ戒名付ルコトハ、異邦ニモ仏法ニモ無コト也、徂徠先生云ヘリ、近来此方ニテ売僧等ノ始シコトナルベシ。&仙台間語・第二

芳名 ほうめい

他人の名を敬って呼ぶこと。また、その名。美称である。

邦名 ほうめい

人名では、日本での名。〈日本名〉〈和名〉。

冒名 ぼうめい

広く、先人の名を引き継ぐこと。名を冒すこと。また、その名。

帆書き ほがき

相合傘に書き込むいたずら書き。

仲のよい二人の間柄をひやかし、傘下に連名を書着込むのが一般化している。。

ぼかし名 ぼかしな

実名をはっきりいわず、洒落やたとえなどを引いて遠回しに名前を表現すること。また、その名。

「おゝ、二つ(どもえ)の紋だな。大星だか由良之助だかで、鼻を衝く鬱陶(うつたう)しい巴の紋も、此処へ来ると、木曽殿の寵愛を思出させるから奥床しい。」(眉かくしの霊・二、泉鏡花)

彫名 ほりな

遊女や情婦(おもわれもの)が思い入れした男の名を肌に彫る。これを〈彫名〉といって、女の(みさお)立ての勲章のように扱っていた。動機は遊びでない純粋なものであるににしても、見方によっては余興の要素が見え隠れする。

●思う女の紋所/        この頃の彫り物には、画というものはありませんで、皆文字でありました。男に書かせて、その筆跡を遊女が自ら彫る──というのは大分凝ったやり方のようになっておりました。それは、

 勘兵衛といふものに    カンサマ(いのち)

 徳右衛門といふものに   トクサマ命

 九郎兵衛といふものに   クロサマ命

 川といふかへ名ある人に  カハサマ命

 重といふかへ名ある人に  シゲサマ命

という風に、男の名の頭字を命という字と続けて彫り入れる。また模様を替えては、

 十兵衛といふに      二五命

 九兵衛といふに      三三命

 三右衛門といふに     山 命

 藤兵衛といふに      フヂ命

 平兵衛といふに      ヒラ命

 清右衛門といふに     キヨ命

という風に彫り要れる。この命という字を添えるのは、「命に替へて」──または「命限りに」といったような心持の表示であります。

&三田村鳶魚全集・江戸ッ子

本貫地 ほんかんち

一族発祥の地。

当地を最初に開いて住み着いた人が〈本貫〉となる。地名とのかかわりが大きく、〈本貫地〉を調べることで、武家出自の意外な事実が判明することが少なくない。

本系帳 ほんけいちょう

略して〈本系〉とも。始祖ならびに別祖など一門の全統を記載した文書。

天平宝字五年、すでに『中臣本系帳』が成り朝廷に貢進していることから、古くに存在したものであることがわかる。

本氏 ほんし

ホンウジとも。氏から分脈し呼称を異にした家筋から見た本の氏。

参考

●問フ、然ラバタトヘバ、佐々木氏ノ人ニ附テ云ハヾ、源ハ唯其本氏ト云ハンヤ、曰然リ、本姓ハ源氏ニテ、後分レテ今姓佐々木氏ニナリタルナリ、氏ヨり氏ノ別レシナリ、姓ヨリ氏ニ分レシニ非ズ、佐々木ヨリ又分レテ、黒田、京極、朽木、松下、木村、橋本、三井等、其外色々ノ諸氏トナル、タトヒイクツニ分レテモ、皆ヤハリ同前ニテ、氏ヨリ氏ノワカレシニテ、姓ヨリ氏ノ分レシニ非ズ、ソレ故段々右ニ云如ク、源平藤橘ノ類、皆ヤハリ氏ナル故ニ、佐々木佐渡守源某ナドヽ、氏ヲ二ツアゲテ書クベキ様、決シテ無シ、モシ又源平藤橘ノ類ハ、弥氏ニハ非ズ、姓ナリト思はヾ、猶サラ男子ノ姓ヲ称スルコト、元来曾テ無キ法ナル上ヘ、氏ト姓トヲ連ネテ題署スルコト、ナホサラ決シテ無キコトナリ、&過庭紀談・三

本姓 ほんせい

〈本姓〉には、次の二義がある。

⑴本家の姓。生家の名字。

「発揚し隣丈の行により抵触し後本姓に復する人もあり、」(授業編・序説)

⑵本氏名。☟本名

 「実は国の基が私の本姓で、(*中略)仮に深谷梅次郎と改名して、」(雪中梅・下八、末広鉄腸)

本籍 ほんせき

旧称は〈原籍〉ともいった。戸籍が存在する所在地。

○都道府県市町村地番で表示される。この地を〈本籍地〉という。

○原則として、現住所とは関係なしに国内どこへでも置くことができ、転籍も自由である。

○戸籍には筆頭者等身分関係の氏名が特定され、表示される。

○戸籍の編成は、〈本籍地〉の市町村長が任に当たる。

本名 ほんみょう

ホンメイとも。本来の名。実名。

別名、雅号、筆名などに対応して用いる。

「三浦介とは名のらで、本名を三浦の荒次郎義澄とこそなのれ、」(平家物語・八・征夷将軍院宣)

本名字 ほんみょうじ

もとからの名字。

とくに清和源氏の庶流に用いることが多い。この一門では、惣領家による苗字名乗の制限にあい源姓を名乗れなくなった者が多い。たとえば足利、新田、武田といった庶流家がそれで、これらが総領家となりさらに分領した者たちが新名字を名乗るに及んで、もとの足利、新田、武田といった〈本名字〉を使い分ける必要から自然発生したのである。

 

 

──前 ──まえ

昔、貴婦人名の後に付け尊敬を示した接尾辞。

「玉藻前は鳥羽院(あるいは近衛院)の侍女だったが、才色無双の美女で、全身から光をはなってあたりを照らすので、」(日本風流誇示物語・狐の浴場、田辺貞之助)

参考

●葵のまへの事/中宮(*高倉后の平徳子)の御かたに候はれける女房のめしつかひける上童、思はざる外、れうがん(*高倉天皇の)に、しせきする事有けり、(*中略)此人女御きさき共もてなされ、国母仙院ともあふがれなんずとて、其名をあふひのまへと申ければ、&平家物語・六

勝 まさる

古代氏姓の一。

『新撰姓氏録』に「秦勝」「木勝」などが見えるが、いずれもカチと音読みするのが原則。

しかし国学者の本居宣長は、引例のようにマサと訓読みが正しいと主張している。

参考

●賜姓は賜号とこそあるべけれ、禹豆麻佐は、姓には非ず、此後も姓はなほ秦なるをや、さて此号の意、禹豆は、今言にも物を多く積たる貌などを、宇豆高しと云に合へり、万葉十五に、名爾於布奈流門能宇頭之保爾と居るも、高き潮ときこゆ、母利と云るも、盛又森などの意と、同く通ひて聞ゆ、麻佐は即百八十種勝部とある勝なるべし、姓氏録諸蕃に勝と云姓もあり、又上勝、不破勝、茨田勝など、尸にもありて、即秦勝と云もあり、是らみな加知(カチ)と訓は誤にて、麻佐(マサ)と訓むべきなり、其は韓国にて一種の号にぞありけむ、其に此方にて勝字を用るは、麻佐流と云訓を取たる借字なるべし、さて禹豆麻佐に、太秦の字を書は何時(イズレノトキ)よりのことならむ、&古事記伝・三十三

又名 またのな

上代表記で〈更名〉。〈二つ名〉とも。

もう一つの名。別名。

「哀れと薄命といふ言葉はつまり胡蝶の又の名です」(胡蝶・三、山田美妙)

末裔 まつえい

バツエイとも発し、〈末代〉〈末葉〉ともいう。

定まった血筋を伝える子孫。

参考

●紀州熊野の奥に、代々惟盛某と云ふ民人有りて、其の部類をのづから一村をなせし、南竜院殿(*紀伊藩祖の徳川頼宣)御代にゆいしょを御尋有りて、然らば小松と名乗れとて、今に小松加兵衛とて、其の所を諸役免除にて有る由を、榊原玄甫書きしなり、&白石先生紳書・九

真人 まひと

古訓でマウトという。古代姓の一。〈八色(やくさ)(かばね)〉の第一位。

天武十三年十月一日、当初〈真人〉は継体以降の諸天皇を祖とする「(きみ)」姓の豪族十三氏に対し、後に臣籍降下のおり与えられた。その十三氏とは守山(もりやまの)(きみ)(みちの)公、高橋公、三国公、(たい)(まの)公、茨城(むばらきの)公、丹比(たぢひの)公、猪名(いなの)公、坂田公、羽田(はたの)公、息長(おきながの)公、酒人(さかひとの)公、山道(やまぢの)公(日本書紀・二十九・天武)で、すべて皇籍にある者であった。

参考

●天武の御代の制、真人第一、朝臣第二にて、皇族に真人を賜ひ、貴族に朝臣を賜ひしに、拾芥抄に載せたる次序を見れば、いつしか第一を朝臣とし、第二を真人とせり、源藤を始め、皇族も貴族も多く朝臣なるからに、次序を換たるものなるべし、されば後世といへども、かくの如く姓にも尊卑の別をせぬにはあらねど、まづは姓はたゞ氏に属るのみのものとなれるゆゑに、氏にひかれて藤源などの尸はおのづから尊とく、其外の尸はおのづから卑くなれるなるべし、&標注職原抄別記・下

──丸 まる

〈麻呂〉から転化した接尾名。

平安中期には男女両用の一人称であったが、しだいに鬼丸とか牛若丸のように男子用の童名付けに用いられるようになった。

たとえば、加藤清正←夜叉、今川義元←芳菊、伊達政宗←梵天

麻呂 まろ

〈麻侶〉、〈麿〉(国字)とも表記。〈麻呂〉には、次の三義がある。

⑴平安時代以後に使われた一人称で、われ・わたくし。この場合、〈麿〉の字を当てることが多く、公家など貴人がもっぱら用いた。

「あな心う、まろもおなじ人ぞ」(源氏物語・若紫)

⑵人名の下付け称で、〈──麻呂〉の形をとる。源は動物に由来の庶民名であったとの説もあるが、定かではない。和気清麻呂をはじめ桑名倭麻呂、紀小鯖麻呂などの貴人名として古典に残されている。

⑶後に子供や猿楽師、呪術者など特殊な職業人を〈──丸〉と呼ぶようになった。仁王丸、小野福丸、牛若丸など成人しても童名呼称のまま通した。

参考

●いにしへの人は、某麻呂といふ名多し、自称してまろといふも、まろはもとより自称なるにつきて、人の名にもおほくつくか、人の名に多かるゆゑ、自称ともなれるか、もとすえは、しらねど、ひとつ根ざしの詞にはあるべし、近ごろまでは、天子の自称のやうに心えをりつるを、学問の道あきらかになりて、今はさしもあらぬにや、牛飼は、後々までも、丸といふ名つくうへに、天平勝宝の東大寺の奴婢籍にも、某丸といふ名多かり、&年々随筆・一●舟の名を何丸といふ事/船の名を何丸となづくる事、或人の説に、まろはもと卑下の詞にて、みづからの事を、まろといへるは、我といふ義にて、後世俗にいふ、拙者私などいへると同意なり、さる故に、みづからの名を何麿、某丸と称せしも、卑下の称なるを、後には親しみていふ詞となりて、草刈鎌を鎌丸といひし事、万葉集の歌にあり、&傍廂(かたびさし)・後篇

 

 

造酒 みき

古代官制下、酒造に従事した職能官人名。

のち伊丹造酒之助、平手造酒など通名に転化した。

親王 みこ

〈王〉と表記することも。古語で、天皇の子。

本居宣長の説では、〈親王〉名は乳母の氏の名から取ることが習慣になっていたという。

(*養老三年十月)今、(ふたり)親王(みこ)は、宗室(そうしつ)の年長にて、(われ)に在りても既に重し。(まこと)に褒章を加へて深く(せい)()すべし。(*読み下し)(続日本紀・八・元正天皇)

命/尊 みこと

まれには語源〈御言〉と表記する。上代語で、神や貴人に対する尊敬語。神名に下付けして用いる。

〈尊〉のほうが〈命〉理も上位とされている。宗教的対象として、〈神名〉を敬避する思想が背景にある。

「至つて貴きを尊と云う。自余を命と云う。並に美挙等と訓ふ也」(古事記・神代記上)

御民 みたみ

 皇に対する、人民の自称。

個人が自称する場合は、「御民われ」とするのが一般的である。

「御民われ生けるしるしあり天地の栄ゆる時に逢へらく思へば」(万葉集・九九六)

道師 みちのし

古代姓の一。〈八色(やくさ)(かばね)〉の第五位。

〈道師〉は、技芸をつかさどった諸氏との伝えがある。典拠に不明なところが多く、〈幻の古姓〉などといわれている。

参考

●みちのし/道師とかけり、天武天皇の時八姓を立て、天下の氏姓を混同したまへり、その第五なり、或の説に、神道王道を教ふるの師といふことなりといへり、されど国史及姓氏録などに此かばねは見えず、&倭訓栞・中二十五・美

ミドルネーム middle name

英語で〈中間名〉のこと。第二の洗礼名。

御名 みな

オンナとも発する。高貴な人の氏名をさす敬いの言葉。

源氏 みなもとし

(みなもと)〉と一字でも。音読みでゲンジと発する。☟源氏(げんじ)

参考

源氏(みなもとし)/嵯峨天皇の弘仁五年、皇子(まこと)に初めて源氏を賜う。其の後亦皇子に源氏を賜う。人多く之有り。(*読み下し)&和漢三才図会・九

源姓 みなもとせい

源の賜姓。〈源氏〉にほぼ同じ。

参考

●源賀ノコト/北魏ノ時、源賀ニ始テ源姓ヲ給フ、源賀ハ本魏ノ皇族ニテ、源ヲ同フスルニ因テ、始テ源姓ヲ給フコト、源賀ガ伝ニ在リ、本朝ニテ源氏ハ、皆皇族ヨリ出ヅ、同一義ナリ、&秉燭譚・二 ☟源氏(げんじ)

宮家号 みやけごう

〈宮号〉とも。勅命により独立した皇族に与えらる号。

現代なら三笠宮、常陸宮、秋篠宮など、いわば天皇家構成の家号である。

造 みやっこ

古代姓の一。朝廷もしくは地方において各部民を統括した〈伴造(とものみやつこ)〉が名乗った姓。

八色(やくさ)(かばね)〉のとき多くは新に〈(むらじ)〉と賜姓された。宮の子つまり〈氏子〉が語源といわれている。

〈──造〉の形をとる姓は多数あり、幡文(ハタム)八坂(ヤサカ)神私(カンサイチ)櫛代(クシロ)猪名部(イナヘ)などといった諸称が『姓名録抄』や『拾芥抄』姓尸録に見える。

参考

(ミヤツコ)は、(みや)(つかさ)なるべし、かこ相通、下略なり、又字義に(より)(とけ)ば、みやはみやびの下略、即秀なり、は助辞なり、こか相通は、かどの下略、即才なり、秀才を、(ここ)にはみやつこといふ、下なる礼記の文に()て見つべし、又職の造に二(しな)あり、国造(くにのみやつこ)(ともの)(みやつこ)是なり、伴造ハ、部官奴(とものみやつこ)なるべし、&玄同放言・三・二人事

雅名 みやびな

〈雅号〉に同じも、女子名の場合は〈雅名〉の称を使うことが多い。

百合花・朝霞・たまゆら等が一例。

名号 みょうごう

〈尊号〉ともいう。本来〈名号〉は仏・菩薩・聖人の称号。転じて官名等の一部に組み込むようになった。

諸本に「我閉連(あべのむらじ)阿弥陀」「文忌寸(ふみのいみき)釈加(さか)」「衣縫(きぬぬひの)(みやつこ)孔子(くし)」などの名が見える。

参考

(ひそか)ニ惟ルニ、太政大臣ノ名号、因テ来ル所ヲ原ヌルニ、昔在親王ヲ以知太政官事トシ、又皇太子ヲ以太政大臣トナスハ、是他日天位ヲ嗣ガシム可キ人ヲシテ、太政ニ歴試セシムルノミ。故ニ知ル太政ノ政字ハ、元是天子親政の政字ナルコトヲ。&評論新聞・七・明治八年五月

名字/苗字 みょうじ

まず〈名字〉の表記、諸文献に見えるのは中世までで、江戸時代以降は〈苗字〉を用いるのが通例である。「苗」の文字に血筋の意味があることから用いたのであろう。

これは典拠に応じた結論であるので、今や苗のミョウが常用漢字外の音訓だからといって、この表記を無視することはできない。ちなみに「苗字帯刀」とは書くが名字帯刀とは書かない。双方、時代に応じて使い分けるべきなのである。

古代、名字は私称による〈氏名(うじのな)〉にすぎなかったが、時代とともに字義が膨らみ、他称が新たに付け加えられる。はては氏や姓と混用されるようになって、きわめて複雑かつ扱いにくい用語になってしまった。これも人名関係の苗字として、系統別に分類整理することで、ほぼ次の七義にまとめることができる。

⑴古代における氏名(うじのな)。氏と姓の両機能をもった呼称でもある。ほとんどが天皇から賜姓されたもので (帰化人の従前襲姓を除く)、〈名字持ち〉こそ地位の象徴であった。

古代の姓であった〈(かばね)〉はしだいに独自の性質を失い、氏の中に同化吸収されて、氏をもって〈(せい)〉と呼ぶようになった。言い換えると、「氏」は古代の姓氏のことで、名字は近世以後の姓氏と見てよい。☟賜姓。

⑵同族の氏から分脈した家。血縁を共にする同属集団。たとえば、源氏から分かれた新田氏・足利氏など。

〈家〉という組織体を示す。中世、地方豪族を中心に出自を誇りあう傾向が強まり、自集団の氏から名門姓氏へと乗り換えて、これを濫用し自称する者が増えた結果、称呼系統の一部に破綻をきたした。この類は鎌倉時代の地方通史『吾妻鏡』に事例が頻出している。☟氏集団

⑶代々の一家に引き継がれてきた〈私称〉の家の名。また、その家人の名。☟家名

すなわち姓名の上半分の呼称で、「苗」の字は祖先につながる血族という意味があり、〈姓氏〉とは別のものである。奈良時代の「名字」は万民が名乗り、姓名のように機能していた。しかし室町時代になると、庶民が名字を持つことはほとんど無くなり、氏の存在が浮き上がってくる。

江戸時代、庶民は苗字帯刀を許されず、これが大衆の苗字離れに拍車をかけた。また、苗字は当初一代限りの称であったが、後に〈家号〉のように代々世襲されるようになったのも、大きな特徴である。

さらに、苗字を名乗っていた一族の長も、公人としての立場では本姓を用いた。すなわち「氏」は公称用であり、「苗字」は私称用であった。たとえば、徳川家康が対朝廷関係の公文書では「源朝臣」を称したのが、その例である。

「自分の苗字よりも、もっと難しい苗字があることを発見して、私は何となく安心した。」(あくたがわ/父のこと、芥川比呂志、日本の名随筆・別巻二十六)

⑷個人の実名。通称や号などに対して称した。〈名乗り〉にほぼ同じ。

「又名字と云は、名乗を云なり、今、武家には称号在名を名字と云り、理にかなはぬ事なれども、錯を以て錯に就て云習はせる事也、」(清原宣賢式目抄・十五条)

⑸俗にいう〈姓名〉に同じ。☟姓名

 「向かいの在所は何と申ぞ「入間の宿でござる「かたがたの御名字は「イヤ名もなひ者でござる(入間側・虎明本狂言)

⑹ 職業集団、身分階級集団等の呼称。

⑺ 仏や菩薩の〈名号〉。☟名号

参考

苗字(ミヤウジ)と云は、うぢ也、たとへば伊勢細川畠山などの類也、苗字といふ子細は、稲麦などの生へ初の時を(ナエ)と云、其如く、先祖は其家々の苗の如し、其先祖の名乗り始たる氏なる故苗字ト云也、&貞丈雑記・二・人名●苗字といふ事は、室町家の比より起れり、カマクラの代には、それ〴〵の住所にしたがひて、和田ともいひ、三裏とも称し、朝比奈ともなのりしを、太平記の比より、あらぬ国に住みながら、仁木細川佐々木などいひたり、是よりしておのづから姓はかくれゆきたるなり、&南留別志・五●和俗家の称号を名字と呼/和族、家の称号を名字と呼、是を近世名と字との事と心得、あたらぬ事として、苗字などと書は、却て誤れるにや、是は中頃、武家出身せし者、其郷里本貫の名田の字を呼しより名字と云、天野北条等のごとし、人の名と字にてはなし、たとへば居所を以て呼も同じけれど、是は其人を尊んでの事なり、一条殿、九条殿、鎌倉殿等なり、公家衆の称号、花山院、徳大寺なんど申も、花山院氏、徳大寺氏と云事、更になし、近世名字に氏を添て、武田氏、長尾氏なんど申も、古書には無き事なり、この頃は又これを姓と書く、林家の学士を姓は林など紀せり、イザや姓氏は、むかしより勅授にて、今は私に姓とも氏ともいはんは、いとも忌憚すべき事なり、&塩尻・一●片田舎に、初めてゆかりのもとに人行くを、名のりに行く、また名字名のるといふこともあり、三河国衣の里の臼曳謠に「(かど)に立てたは、どなたの手跡、名字名のれよ聟にとろ」とうたふは、錦木の余風うつれる世に歌ひし一ふしならむか、名字といふ事はよしある事なり、(*中略)その臼曳謠も名字のみ名乗りたりとも、姓は類多ければ名字とうたひしは名のことにて、はやくよりうたひ来つる唄ならむかし、なめて片田舎には古き事いと多し、&筆のまに〳〵・四

名字、字入り みょうじ/あざないり

特定の人を、苗字と字とを混在させて呼ぶこと。また、その呼称。

参考

●苗字と字、一字づゝよぶ/今俗に、菱善、近五などいふたぐひに、家名と俗字とを一字づゝよぶ事、中昔よりの事なり、康富記云、今夜飯新許会、可出之三首、内々受指南云々、此飯新は、足利の家臣飯尾新左衛門尉なり、いにしへの曾丹(*丹後掾曽祢好忠)もそのたぐひなるべし、&隣女晤言・一

名字、官職名由来 みょうじ/かんしょくめいゆらい

官職にちなんで開発者が命名した名字。

その名字の祖が官人であり、職名を名字にした場合が多い。財務の大蔵、工匠の工藤、祭宮司からの斎藤、地方官の小弐などである。地方官職から出た神田・宮地・税所といった名字も含まれる。

参考

●為憲(*中略)木工の助の工の字と、藤原の藤の字をあはせて、はじめて工藤と号す、&寛永諸家系図伝・二百三十三・伊東●棚守将監屋敷/当家は大宮の棚守職にして、舞方を兼司り、往々従五位下に叙せることありき、本の氏は佐伯にて、苗字を野坂と呼けるに、いつのころよりか、その職名を用ひける、&厳島図会・三●姓と官職とをとりて称号とする事/その人の姓に、官職を取りそへて称号とする事は、上古にはなかりしかども、中古よりこの事出来たり、たとへば菅三品とは、菅原氏の三位なればり、大和物語に野大弐と見えしは、小野好古は、太宰大弐なりしかばいふの類ひいと多し、&類聚名物考・姓氏九 

名字、奇異なもの みょうじ/きいなもの

常識的に見て奇異な苗字。

左記引例のように、型破りな苗字(実際は名前)が存在した。

参考

●苗字/往古(いにしへ)は、人の名も今には同じからで、或は文字の音をもてしるし、或は文字の音と訓とをもて合わせしるし、その人の随意記しにければ、文字の数も定らず、五十四代仁明天皇の御代より、今の代の人の如く、多くは文字の訓を取て、二字を用ひることにはなりぬと、神皇正統記にしるされたり、将安康雄略以降、三公百官、草木魚鳥をもて名とするありけり、その十が二三をいはゞ、雄略より、推古の間、大臣に真鳥(マトリ)馬子(ウマコ)等あり、仁賢天皇の四年、(シビノ)臣謀反によつて誅に伏す、元明天皇の和銅元年四月、従五位下柿本(サル)卒、孝謙の御時に、柿本枝成、文徳の御時に、橘百枝、南淵氷河、清和の御時に、卜部乙屎麻呂、下野の屎子等あり、みな是国史に載る所也、この余、木兎、魚飼、犬飼、堅魚、真鯨等、勝ていふべからず、亦数十代の御代を経て、正親院の永禄の比より、諸国の武士等に、奇異なる名おほかり、その十が二三をいはゞ、山中鹿之助幸盛、秋宅庵ノ助、寺本生死ノ介、尤道理ノ助、藪中荊ノ介、小倉鼠ノ介、山上狼右衛門、以上尼子家臣 この余、朝倉家の十八村党、河野家の十八森党、大内家の十本杉党、吉見家の八谷党、尼子家の九牛士、里見家の八犬士、枚挙に遑あらず、こはみな軍陣に臨て、名告ぐるとき、敵にわが名をおぼえさせん為也とぞ、先生には武備あまりありて文備なし、その名の野なる、心ざまの猛きさへ推てしらる、&燕石雑志・一

名字、器物名由来 みょうじ/きぶつめいゆらい

器物にちなんで命名した名/苗字。

参考

●樽屋藤左衛門といふは、水野右衛門大夫忠政が七男弥大夫忠頼が子なり、はじめは弥吉康忠といふ、長篠の役に酒樽を奉りしかば、織田右府におくらせられ、右府大に喜び樽とよばれしより、氏を樽と改め、遠州町々の支配を命ぜられしが、(*後略)&東照宮御実紀付録・六●山彦鳥羽が三弦/山彦源四郎は、江戸節三弦の元祖なり、尤も名人にして、山彦と云ふは三味線の名なり、源四郎は十寸見を名乗る、渠が家に山彦と名付けし三味線ありしゆえ、名字と号、&当世武野俗談

名字、公家の称号 みょうじ/くげのしょうごう

公家の家名には九条、二条、一条など地名に由来のものが少なくない。これは一種の通姓化であり、本来の名字とは云いがたいものである。そこで家格を示すにふさわしい、「近衛」とか「鷹司」のような呼称への改称が必要になってくる。この場合の呼称を特に〈名字〉といっている。☟公家の系統と家名

名字、芸名襲俗 みょうじ/げいめいしゅうぞく

芸能者らが代々それとわかる家名字を襲うこと。また、その名字。

参考

●四座并喜多座の始等之事/観世太夫は、伊賀の服部一党の者也、足利将軍東山殿(*義政)に仕えて、観阿弥と云同朋也、渠に仰て猿楽の業を学び始め勤しむ、其子世阿弥、其子音阿弥と続て、同朋にて是を相勤、其子俗にして、観世三十郎と号し、猿楽と成て金春が聟と成、いよ〳〵芸術熟し、子孫相続す&倭学伝記・二

名字、国名由来 みょうじ/こくめいゆらい

国名にちなんでもっぱら統治者らが命名した名字。

参考

●伊豆早雲平氏茂由来之事/聞しはむかし、いせ新九郎氏茂といふ侍、遠国より来て、伊豆の国を切て取りよし、いひ伝ふといへども、多説有ていづれ知がたし、(*中略)此人の先祖を尋るに、むかしいせの国に、伊勢いせのかみ平氏貞といふ侍あり、小松内大臣重盛公より十五代の後胤たり、国の名をあざなの上におく事、侍の名誉といへり、&北条五代記・一●菊池武経滅亡事/日向国高知保に、甲斐大和守親宣、同民部大輔親直といふ者あり、&菊池伝記・三

名字、事象由縁 みょうじ/じしょうゆかり

ある出来事がきっかけで縁のある名を付けること。また、その名。

参考

●大神宮勅使附緒方三郎責平家事/惟義ニハ兄弟三人有ケルガ、次郎ハ死ニヌ、太郎名生三郎、尾形ト云二人ガ中ニ、此三郎ハ蛇ノ子ノ末ヲ継ベキ験ニヤアリケン、後ニ身ニ蛇ノ尾ノ形ト鱗ノ有ケレバ、尾形ノ三郎ト云、&源平盛衰記・三十三●木下藤吉郎出身由来事

/抑此藤吉郎ハ、イカナル者ゾト尋聞クニ、(*中略)其母或時、懐中ニ日輪ノ入ト云夢ヲ見テ、即胎娠シタリケルガ、大樹ノ下ニテ出産ス、其故ニ稚名ヲ日吉ト云ヒ、氏ヲ木下ト号スト云へリ、&総見記・四

苗字、儒者の称号 みょうじ/じゅしゃのしょうごう

江戸時代の儒者が命名した苗字。

さすがに唐風の苗字をつける者が多かったが、こうしたエセ文化に引例文の筆者新井白蛾のように、手厳しい批判がうかがえる。

参考

 或人の曰く、本朝の近代の俗、詩文等を作為し、遽に唐人の姓名に似ん事をおもひ、氏を一字にして通用す、滔々として皆是れなり、此の事如何、(*以上は質疑)曰く、足下の言しかり、顧るに華人は姓を称す、其の姓単なるもの多し、又微生、端木、新垣、長桑、子桑、叔梁、楽正、巫馬、司馬、歐陽、匠麗の如き、複姓も又多し、又俟力伐、俟伏斤、可地延、可朱渾の類ひ、三字姓もあれども、今日本の近代の如く、杜撰に略称する事を不聞也、馬は単姓、司馬巫馬は複姓なり、若し一字を省ひて馬といはば、何の別つ所あらん、楽は単姓、楽正は複姓、一字を省ひて楽といはば、是れ又何の分つ所を以てせん、是れ上の一字を省くべからず、下の一字を去るべからず、本朝の近代を見るに、譬へば望月といふ氏、月何某と書きては唐めかぬとて、望何某と書く、又上柳といふは、上何某と書きては、唐風に似ずとて柳何某と書く類ひ、かぞふるにいとまあらず、是れ上下の文字、心まゝに取用ひて定りもなし、たとひ姓名の華人に似たり共、自ら作るもの醜態ならば、妙絶と見る人もあるまじ、扨て姓は、先祖の相生根元也、氏は子孫出生を別つなり、姓の枝の如し、本調姓はすくなく、氏のわりかゝる所多し、其の文字をかくして、先祖を乱す事あるべからず、譬へば新田、新山、新村、新川、新関、新庄、新井の如き、各々由つて出る所有るべし、然るをなべて一字を捨て、新何某といはば、何の氏族の出所を別たん、殆ど狼藉に似たるものか、&牛馬問

名字、荘園名由来 みょうじ/しょうえんめいゆらい

所属した荘園名にちなんだ名字。

地方豪族に多く見られるタイプで、荘園武士の発達は持ちつ持たれつの関係にあり、畠山、三浦、北ノ庄といった荘園命名もその名残りである。

名字、匠号襲俗 みょうじ/しょうごうしゅうぞく

刀工など工芸者一族が冠字等を世襲すること。また、その一字。

参考

●本阿弥家の事/本阿弥家の元祖、妙本と云者也、本姓菅原氏也、松田を以名字とす、相州鎌倉に居住し、天性刀剣を上る術を得たり、足利将軍尊氏命に依て、京師に来る、鎌倉の松葉ケ谷日静上人は、尊氏の叔父也、是へ帰して法名を授られ、妙本阿弥と号す、是に依て、本光此業を用る、文明年中赤松氏有故に付て、将軍義教大に怒り、此ときに本阿弥清、信を獄舎に入、時に日親上人と獄屋に入、互に獄舎の内にて被説し日親上人の説法に帰依し、其後二人ともに獄舎を出る、清信入道して、日親上人に法名を得て、本光と号す、元祖妙本此本光、何れも、本字を付て、刀業に秀たる故に、松田と不号して、以来本阿弥氏と称により、これより光の字を以て一族の冠字とす、今の三郎兵衛家也、&温知柳営秘鑑・六

名字、植物名由来 みょうじ/しょくぶつめいゆらい

植物名にちなんで命名した名字。

参考

●主上御夢事付楠事/(*後醍醐天皇は)当寺衆成就房律師ヲ被召、若此辺ニ、楠ト被云武士ヤ有ト御尋有ケレバ、近キ傍ニ、左様名字付タル者アリトモ未承及候、河内国金剛山ノ西ニコソ、楠多門正成トテ、弓矢取テ名ヲ得タル者ハ候ナレ、&太平記・三

名字、地名由来 みょうじ/ちめいゆらい

地名にちなんで命名した名字。

湧泉のあるところから「和泉」、井戸にちなんで「井上」なども含めると、この類は非常に多い。

参考

●藤原は地名なり、大和国高市郡大原村是なりと云り、さもあるべし、&古事記伝・三十四●同国(*近江国)京極家同浅井氏由来事/扨又京極家ハ、佐々木四郎高綱ノ子孫ニテ、(*中略)其家ヲ京極ト号ス、京極六角ノ称号ハ、皆在京ノ宅地ノ名ナリ、 &総見記・六●世にことなる名字称号などは、大かた郷里の地名なり、和田の親族に、朝比奈の三郎といふは、人よく其名をしれり、こは和名抄安房国の郡名に、朝夷と書て、あさひなとよめる有、そこを領せられしにや、&閑田次筆・一・紀実

名字、動物名由来 みょうじ/どうぶつめいゆら

動物名にちなんで命名した名字。

この類も少なくない。『先哲叢談』後編三に「鷹見夾鳩」の条、同後編八に「竜草盧」の条で、由来が記してある。

名字、仏語由来 みょうじ/ぶつごゆらい

仏語にちなんで命名した名字。

羯摩(カツマ)乗親は、きはめて面打の上手なれども、ひとゝせに一つは打ず、性酒をこのみて、酔て舞ふことを楽しむ、」(雲萍雑志・一)

名字、方位由来 みょうじ/ほういゆらい

方位等によって命名した名字。

方向から東野、南田、北沢。位置関係から上池、田中、下村など。

苗字、屋号移称 みょうじ/やごういしょう

商家などで従来屋号として使っていた呼称を、そのまま苗字にすること。

明治の国民皆姓のとき、地方では紺屋、油屋、湯屋、弓屋、銭屋、絹屋、米屋など屋号を苗字とした例が散見できた。

妙字 みょうじ

〈妙号〉とも。女子の法諱、または戒名に付ける号の一。

「西浄永信女」の類。

名字朝臣 みょうじあそん

ミョウジアソミとも発する。別して「名朝臣(なあそん)」とも。☟名朝臣

苗字許可令 みょうじきょかれい

明治三年九月四日、太政官から布告の「自今平民苗字被差許事」をさす。

これは平民の側から見て〈苗字強制の布告〉とも称され、国民改姓の実施がいかに抵抗の大きなものであったかをあからさまに物語っている。

名字切 みょうじきり

実名を考案して与えること。

二つ三つ候補を作っておき、相手に選ばせる方法もとられた。古くから伝わるが、明治の国民改姓を機に爆発的に流行った。

「官務礼に来候、予対面、大沢孫三郎名字切之事申候了、」(言継卿記・大永八年正月五日)

苗字公称の義務 みょうじこうしょうのぎむ

明治八年二月十三日、公的に苗字を名乗ることが国民の義務になった。

それまでは単なる苗字許可制という、消極的な発令に過ぎなかった。☟苗字許可令

名字籠 みょうじこめ

恨みをもつ相手の名前を書いた紙札を堂内に籠めて、呪いを掛けること。また、その紙札。

〈実名忌避〉とは対照的な実名顕示ともいえる俗信行為で、近代まで慣習として残る地方があった。

苗字御免 みょうじごめん

江戸時代に、庶民が〈苗字名乗〉を許可されること。

功績の著しい者に、幕府は例外的に御免状を与えた。

「出精相勤め候に付、為御褒美苗字御免被成」(町年寄名主諸願申渡・寛政二年四月)

名字詐称 みょうじさしょう

貴種の名字を詐称すること。

戦国時代、牢人者の間で目立ったという。

名字定 みょうじさだめ

〈名付け〉に同じ。

この場合の「名字」は〈名字/苗字〉の⑷に該当する。☟名付け

苗字実名主義 みょうじじつめいしゅぎ

明治四年十月、官員はすべて苗字を実名で表記すべしと規定された。官員が率先して国民に範を垂れよ、との配慮である。

名字衆 みょうじしゅう

〈名字族〉ともいう。同一名字をもつ者の集団。

職業集団的な固めが〈名字衆〉の特徴で、たとえば祭祀の吉田氏、鉄砲衆の種子島氏、水軍の松浦氏などである。室町時代から戦国期にかけ、地方の武士団間で、名字を介して団結を固めるという、一種の血盟集団的な発生を見た。紀州では盛んな結成を見て、隅田党の隅田氏、源氏系の松岡氏などがよく知られている。

名字状 みょうじじょう

偏諱(へんき)〉の際に贈り主から与えられる文書。☟偏諱

苗字帯刀 みょうじたいとう

江戸時代に、苗字を名乗り、大小の太刀を差すこと。

〈苗字帯刀〉は武士の特権を誇示する言葉であった。しかし幕末に近づくと、自然発生的に、農民が私的な場では苗字を名乗り、旅立ちのとき一本差を許されることがあった。一揆の抑止など一種のお目こぼしであるが、この場合でも苗字は許されても帯刀もというわけにはいかず、どちらか一方だけ許可された。

このような苗字帯刀を原則崩壊という面からみなして、これを〈苗字帯刀の制限〉という語に置き換えて表現されることもある。

参考

●町人刀差候儀差免候事/覚/一、御扶持之町人刀差候儀御免之事、但、法体之ものハ無用之事、/附、召連候下人、是又刀無用之事、/右之通、従御公儀御扶持被下候町人可申渡候以上、申三月、&徳川禁令考・巻四十九・寛文八年申三月

苗字帯刀御免 みょうじたいとうごめん

江戸時代、農工商階級の者が〈苗字帯刀〉を許されること。

士分でない者が苗字帯刀することは法度であった。しかし幕府や藩が特別に功績ありと認めた者に対しては、これを許した。史実を顧みると、医師・村役人・相撲取りらが御免対象の常連で、ほかに孝行息子、一揆の阻止者、御用金の多額貢納者も目立った。

ただし貢献度の軽重によって、一代限りか永代かの条件を付けた。幕末の物資窮乏時には、金銭穀物の貢納が大きい者に濫りに苗字帯刀を与えるなど、いわば闇取引を行う藩も出ている。文久三年信州の松本藩では、財政難の助けにと、献納金四十両で苗字を領民に売り渡していた記録が残されている。

いずれにしても〈苗字帯刀御免〉は人口に多数を占める地方庶民・農民とのかかわりが深く、その歴史的背景事情を知ることは姓名学でも興味ある分野の一つになっている。その意味で、民俗学者の柳田国男の次の一文も、やや長いが、示唆に富んだ内容である。

参考

●苗字帯刀御免/中世の社会組織に於ては、所謂在名の使用は、或領地を持つて居ることの徴であつた。従つて単純なる土民は、苗字といふものは無かった筈である。地侍を唯の百姓にした結果は即ち在名の禁止であつた。在名の禁止は原則としては明治の初年まで続いて居つた。明白に土地草分の旧家であつても、特許無しにこれを傘提灯にも書き込むことは出来なかつた。その使用を許さるゝとなれば、多くの富豪は、甘んじて巨額の御用金に応じたのである。帯刀も亦同じことで、最早抜いて犬を切ることも出来ぬやうな農家の主人が、矢張公然と刀を帯ぶることを、此上も無き面目と考へたのである。/そこで人気の悪い地方では、何の素性も知れぬ馬の骨が、吝嗇貪欲乃至は幸運に依つて、一門の旧家であるが如く反りかへつて歩くと、後ろ指をさす者などもあつたか知らぬが、実は今日の如く経済上の移動の激烈でない時代に於ては、やはり従来苗字を用ゐ大小を帯びる身分であつたものゝ子孫が、多数この特権にありついて新たに大いに喜んだと謂ふことになるのである。言葉を換へて謂へば、昔の地侍に近い生活に戻るといふことを、最も熱心に希望したものは、嘗てこれを失つて悲んだ者の曾孫玄孫で、彼等の血の中には、依然中世の武家の熱情が、久しく眠つて居て遂に覚めたのである。/稀には左様で無い成り上りものゝ例もあるにしても、少なくも近世農民の社会に於ける一般の好尚の、家名即ち地侍に近い生活を保つことに、その中心を置いたことは事実である。今以て地方を歩けば、旦那大家と謂ふものゝ地位が、庶民の羨望の的であって、一代で身上を作つたものゝ器量と才覚では、到底これと競争も出来ず、本人たちも亦仮令隆々たる家運を誇ることは出来ぬ迄も、依然としてわが格式に相応した一段と高尚なる道徳率を守つて、常に郷党の精神的生活を代表せんとする概のあるのは、成程前代の遺風と謂へば遺風であるが、まだ〳〵日本の他の諸国の模倣を許さゞる、一つの特色となつて居るのである。/此場合に於て、苦労をして偽系図を注文し、乃至は或時代の洪水大火に紛失したなどと謂ふ言ひ訳をするのは、無用千万な話である。時勢が進めば次男三男の分家の殖えるのは当然のことで、本家で無ければ昔からの系図はありやうがない。仮に昔はあつても、幼小なる戸主又は学問の嫌ひな人が一代出れば、昔の固有名詞などは忘れて了ふのが当然で、先祖の固有名詞の有無に依つて、家の年齢を証明せんとしたのが、最初から誤りであつたと思ふ。ことに八幡太郎とか頼政とかいふ様な、最も熟知せられたる前代人と系図で繋がうするのは、その動機の如何を問はず、常に子供らしい空想であつたと謂はねばならぬ。/それよりも何よりも、吾々が深く考へて見ねばならぬことは、吾々の中には、一戸として先祖無しに初まつた家の無いことであつて、その先祖の中には不幸にして記録に書き残されず、又は幸ひにして戦場に於て華々しい最後を遂げなかつたにも拘らず、人間として最も正しく、日本人として最も立派な武家兼農家の主が、古今千年の間に何千人何万人あつたか分らぬといふことである。外国人等が屡々日本の人は農民までが勇敢である、忠誠であると批評するのは、吾々の目から観れば滑稽千万なることである。独り殺伐なる戦闘事業に於てのみならず、更に又平和の技術に於て、学問に於て、容易く志を立て、数へれば必ず或発達を観るのは、仮令系図の証明が無くとも、又一人の昔知られたる先祖が存在せずとも、必ず由つて来る所のあることは、田舎の歴史を観るものゝ確信せずに居られぬことであつて、吾々が徒に国の古いのを誇るのでは無く、世界の中何れの部分の人間にも、真似る事の出来ぬ隠れたる遺伝のあることを信ずるが為に、初めて此国の永続と謂ふことが、何よりも大事な問題となるのである。&名字の話

苗字帯刀の禁 みょうじたいとうのきん

享和元年七月、江戸幕府が発した、百姓・町人の苗字帯刀禁止の御触書。

領主や地頭に対し、近時やたらに増えている知行所の百姓、町人の苗字帯刀を取り締まるよう、左記のように通達している。

参考

●百姓町人苗字帯刀之儀ニ付御触書/松平伊豆守殿御渡/百姓町人苗字相名乗並み致帯刀候儀、其所之領主地頭より差免候儀ハ格別、用向等相達候迚、御料所ハ勿論、地頭之者より猥ニ苗字を名乗らせ帯刀致させ候儀ハ有之間敷事ニ候間、堅可為無用候、&徳川禁令考・巻四十四・享和元酉年七月十九日

苗字帯刀廃止 みょうじたいとうはいし

明治二年一月の〈苗字帯刀廃止令〉のこと。

ただし、この段階では百姓、町人に限ってのことで、武士に適用されたわけではなかった。武士の身分が実質的に崩れ去るのは、翌々明治四年の〈廃藩置県〉からである。

参考

●府藩県管轄之地、百姓町人共、旧幕府ヨリ苗字帯刀差免、或ハ扶持遣シ、諸役免除等申付候儀、一切廃止被仰出候事。&太政官日誌・明治二年一月九日

名字名乗 みょうじなのり

中世、武士が戦場で互に家柄や名前を叫び告げること。

〈名字名乗〉は戦場での美風とされたほか、相手をたじろがせ、後で敵の首級(しるし)の識別するのに役立った。

名字名乗の制限 みょうじなのりのせいげん

名家の惣領家がその呼称を制限すること。

頼朝が〈源〉姓を直系の者にしか使用許可しなかったのが典型的な例で、こうなると制限というよりは独占である。北条氏でも、惣領家の嫡流のみに〈北条〉を名乗らせた。背景には、有名姓氏の濫用に備え、自姓の権威を保持するという事情があった。

名字盗 みょうじぬすみ

他人の名字や姓名を盗むこと。また、その者。

☟姓名詐称

「誠の仁田が面を見せ、名字盗みを面縛させん、松明出せ、」(曾我会稽山・四、浄瑠璃)

名字の家 みょうじのいえ

中・近世、在所で名字をもつ家。

しかし歴然とした郷士ら〈在名家〉にとどまらす、村役人など、従来名字の無かった者が勝手に名字名乗るものが続出し、秩序を乱した様子を伝える古文書も少なくない。☟在名

名字の親 みょうじのおや

婿養子入りした者にとっての、家名を継いだ養子先の親。その家の名字も受け継ぐことからの言葉である。

名字の元祖 みょうじのがんそ

〈名字の祖〉とも。一家の元祖。その名字の始祖。

「此人宇野といふ所を知行し、宇野名字の元祖なり、」(赤松記)

名字の侍 みょうじのさぶらい

ミョウジノサムライとも。由緒ある氏や家柄の侍。

偽系図や名字盗が横行した結果、けじめをつける言葉として生まれた。

名字の世襲 みょうじのせしゅう

一族の名字を代々引き継ぐこと。

名字は一代限りのものでなく、家督の相続とあわせて、一族一家が絶やすことなく受け継ぐことが大原則である。公家社会・武家社会で、〈名字の世襲〉がいかに大切に扱われてきたか、時代小説ですら重きを置いて描かれている。

名字ノ贈与 みょうじのぞうよ

〈名字贈与〉とも。大名や領主が家臣らに自分の名字を与えること。

〈一字賜姓〉という慣行とは別に、こちらは自流をそのまま与えてしまう点で異なる。たとえば、太閤となった秀吉は、諸藩の大名に使い古した名字の「羽柴」を濫贈。使う使わないは別として、その数三十件に及んだことが記録されている。

名字ノ地 みょうじのち

〈名字地〉〈懸命ノ地〉とも。

世襲で名乗った名字が発生した地名。支配してきた土地。

往古、姓は地名に深く関係し、所領地などにちなんで命名することが少なくなかった。そのため出自を明らかにすることは身分の証明になり、土地の占有権を主張する基にもなった。よって名字発祥の地を〈名字ノ地〉と呼んで重要視するようになった。

武田といえば甲斐国、金田一といえば南部といったつながりが、このことを示している。

名字ノ拝領 みょうじのはいりょう

〈名字拝領〉とも。〈名字ノ贈与〉を贈られる立場からいった言葉。これをたいへんな名誉とした。☟名字ノ贈与

参考

●信長鷹狩を好み、日毎に狩に出給ふに、一日もおこたらず、わら沓をわれととりはく様にして物せしが、かしこさ人に優れぬれば、次第にときめき、ずさなどもちて、木下藤吉郎となんよばれし、其比信長の心に叶ひのゝしる柴田修理勝家、丹羽越前守長秀とかやいひしかば、其人の名字を一字づゝたまはらんとて、丹羽の羽に柴田の柴をそへ、羽柴筑前守と改給しと也、&豊鑑・一・長浜真砂

名字の文字替え みょうじのもじがえ

名字の音を残し通音で文字だけ変えること。

占いや縁起かつぎを中心に変更した例がほとんどである。

『寛永諸家系図伝』各条に土居→土井、片切→片桐、木田見→喜多見といった例が見える。

参考

●吉川先祖之事/吉河(キツカハ)三郎常吉、法名本無、此人駿河国吉河ノ邑ニ被居住、故ニ吉河ヲ称号トス、始吉香(キツカ)、或ハ()(カハ)、或ハ吉河ナド、時ニ依テ書タリシガ、後ニ吉川ヲ用ヒ来レリ、自是代々以吉河称之、&陰徳太平記・十六

苗字必称令 みょうじひっしょうれい

明治八年二月十三日発令の太政官令を〈苗字必称令〉といった。☟国民皆姓

苗字不称 みょうじふしょう

江戸時代の農工商人のように、名字を称えないこと。

たとえ〈隠し名字〉を持っていても、公式には通用せず、世間体をはばかり自称することもなかった。

参考

(*江戸では)御公儀へ差上る諸書付人別張にも、何町何兵衛支配借家何屋何兵衛などゝ、上方の如く家号をしるさず、唯何町何兵衛店何兵衛と計りにて、筆数の少なきを是とす、苗字を唱ふる町人も多くあれど、公儀へは通らず、よく〳〵由緒ある家ならでは、苗字を呼ぶことなし、夫故家名やら、苗字やら、通名やらわからぬ面白き呼名まゝあり、上方の料理屋の通名の如し、必竟は上へ通らぬことゆゑ、出たらめの付次第なるべし、&皇都午睡・三編上

苗字変更、現戸籍法 みょうじへんこう/げんこせきほう

人はさまざまな理由や都合で、苗字の変更を希望する。

現在、民法に従って、結婚、離婚、養子縁組の場合に苗字は変更できる。しかしそれ以外のケースでは、〈戸籍法〉に基づいて、苗字の変更には次の「やむをえない事由」という実務的な要件が付いてまわる。その事由の当否はお役所仕事にゆだねられたのである。

⑴其の苗字を名のることが本人に有害であるばあい(天狗、赤鬼などの珍奇な苗字など)

⑵識別機能が十分でない場合(南風化(はいばら)(おおち)のような難読の苗字)

⑶通用長きにわたる、いわゆる通姓があるばあい。

⑷身分の発生、変動に準じるばあい(内縁の妻や子が死亡した夫や父の苗字を望むときなど)

名姓 みょうせい

メイセイとも。〈姓名(せいめい)〉の倒置で、同じ意味である。

「場を開くに先だつこと旬有余日、先づ一大招牌(せうはい)及び劇子(ヤクシヤ)の名姓を屋上に掲ぐ。」(西京伝新記・二編・四劇場、菊池三渓)

名跡 みょうせき

苗字の跡目。また、それを引き継ぐこと。

「武士の御一家おほければ、傾城の子にめうせきをつがすなんどゝいふ事は、」(けいせい手管三味線・三の三)

名籍 みょうせき

名帳(みようちよう)〉あるいは〈戸籍〉の総称。

「かの嶋にあがりて松の(もと)をけづりつゝ自ら名籍(みやうせき)をかき給けり」(源平盛衰記・四十)

名詮自性 みょうせんじしょう

名実(めいじつ)一体(いつたい)〉とも。「名は体を現す」という格言の四字成語。仏教でいう「名前はそのものの本姓をいい表す」(唯識論)という思想から出た言葉である。

「かといってその頃は、まだ頭のどこかに「名は体を現わす」式の〈名詮自性〉の考え方、いわば一種の「言霊(ことだま)信仰」が根強く残っていて、」(改名は三文の得、井上ひさし、日本の名随筆・別巻二十六)

名帳 みょうちょう

〈名簿〉の旧称。

「名帳 ㈠名ヲ列記シタル帳簿。名簿。」(新編 大言海)

名簿 みょうぶ

名書(ながき)〉ともいった。古代から中世にかけて、わが国で独自に整備された名簿制度。

古語の名札から転じた言葉である。この場合、現代風にメイボとは読まない。師弟関係・臣従関係などの名簿作成が規定されていて、これの提出行為を形式上〈名簿(みようぶ)奉呈〉と称している。換言すれば、名簿奉呈は一種の誓約行為であった。

命婦 みょうぶ

平安中期以後、朝廷の後宮に侍する女房らの総称。

平安歌人の兵衛命婦や小馬命婦がよく知られる。地方によっては神女・巫女のことも〈命婦〉と称した。

民籍 みんせき

次の二義がある。

⑴明治時代、平民の籍をいう。

⑵戸籍の旧称。

民籍編入 みんせきへんにゅう

それまで人別から外されていた身分の者(無籍者)が、新たに「平民戸籍」に編入されること。明治四年八月の布告による。

参考

●御布告写/穢多非人等之称被廃候条、自今身分職業共、平民同様タルベキ事。&太政官日誌・明治四年八月二十七日

民部 みんぶ

律令制下、民部省詰め官人の職名。

のち柏木民部・鈴鹿民部など通名に転化した。