昔名 むかしな

〈旧名〉に同じも、古語。☟旧名

無尸 むかばね

〈無姓〉とも書く。古代、尸をもたなかった姓。

無尸であるのにはいくつか理由があるが、体制的には律令下、奴婢つまり賎民階級のみが無尸とされ、彼らを〈無尸者〉と総称した。

『姓名録抄』無尸姓、『拾芥抄』姓尸録無尸姓などにこれの例を列挙してある。たとえば、品治(ホンジ)()(サム)十市(トイチ)早可(ハヤカ)(マコト)など。無尸の者は籍帳(じやくちよう)に「弓削部(ゆげべ)品治(ホンジ)」などと記入されることもあるが、この場合の──部は便宜上の部属名であって、姓氏を示すものではない。

参考

●神代には、唯二人の子なりけめども、その子孫さま〴〵生れもてきて其末々、或国王大臣、或民百姓となるぞかし、いやしく世の為無益の人は、田を作人につかへなどせしより、氏なき者に成来けり、今も我等事は、わづかに父の世ばかりこそ知侍れ、二三代の祖の事などは、つやつやしらねば、終に我子孫は必定氏なき民とおなじ者になりぬべし、&難太平記

無記名 むきめい

文書等に氏名を記さないこと。

「武蔵」姓 むさしせい

史上、人に〈武蔵〉と賜姓された例が記録されている。剣豪の宮本武蔵()の時代よりもはるかに以前のことである。

参考

●たけしばのをのこに、いけらん世のかぎり、武蔵の国をあづけとらせて、おほやけごともなさせじ、たゞ宮に、その国をあづけ奉らせ給ふよしの宣旨下りにければ、此家を内裏のごとくつくりて、すませ奉りける家を、宮などうせ給ひにければ寺になしたるを、たけしば寺といふなり、その宮のうみ給へるこどもは、やがてむさしといふ姓をえてなんありける、&更級日記

無氏無苗 むしむみょう

氏も苗字ももたないこと。つまり名だけを名乗った人。

国民皆姓までの庶民は、総じて〈無苗無氏〉であった。☟無名無氏

無姓 むせい

氏姓を持たないこと。また、その人。

(*天平宝字元年四月)その戸籍(こじやく)に、()(せい)と族の字とを記するは、理に於て(おだひ)にあらず。改め正すべし。(*読み下し)(続日本紀・二十・孝謙天皇)

無籍者 むせきしゃ

国籍や戸籍のない人。

多くの場合、不明者は幼児に多かったので〈無籍児〉とも。

無名 むみょう

無名(むめい)〉に同じ。☟無名(むめい)

無名字① むみょうじ

古代、元から苗字のないこと。また、その人。

これは〈名字〉がないというだけのことで、姓氏も持たない、という意味ではない。

参考

●いにしへは姓と氏とのみあり、苗字は近き世に始まれり、苗字なき世には、諸国も苗字なし、苗字始りてよりは、京貫の人もあるなり、&南留別志の弁

無名字② むみょうじ

江戸時代以降の場合は〈無苗字〉とも書く。

事情により苗字を持たないこと。また、その人。

参考

●六七百年以降は、苗字といふものいで来つゝ、氏と苗字と混雑して、姓を唱ることのなければ、姓氏はありてもなきが如し、しかはあれども昔姓氏の正しきときにも、稀には姓のなきもあり、そは無姓者某と書たり、三代実録四十九仁和二年冬十月の条下云、三日戌午、勅无姓者、其名清実、賜姓滋水朝臣、貫右京一条これなり、清実元来姓なきにあらず、十ケ年以前、罪ありて属籍を削られ、その身庶人になりしかば、姓氏なし、この日賜りし、滋水は氏なり、朝臣は姓なり、又聞見の随記録するに、姓氏のしれざるものは不知姓某と書ことあり、中右記大治五年十一月の条二十三日云々、常陸清原近宗、安房不知姓実信云々是なり、右に見えたる清原は氏なり、清原氏は真人の姓なれども、この時世は苗字を唱るものも多くなりしかば、氏のみ唱て姓を省くが恒になりぬ、&玄同放言・三上・姓名謂称

無苗無氏 むみょうむし

苗字も姓ももたない者。〈無名字〉の意味を強めた語でもある。

江戸時代までの庶民階級は、まさに〈無苗無氏〉の一大集団で、通名だけが識別呼称のよりどころであった。

無名 むめい

ムミョウから発した近・現代語。〈無名〉には、次の二義がある。

 ⑴無名(むみよう)」に同じ。☟無名

⑵世間に名が知られていないこと。また、その名。

参考

●青森県の内津軽郡は、随分五穀ともによく登る土地柄なれど、其他は荒蕪地が多く気候は寒むし、百姓等は不便勝ちだと申しますが、中にも三戸郡北郡などは、耕作より漁猟の方が利があるとて打捨て置くゆへ、瘠地はます〳〵荒れ果て辺鄙な所なれば、土人も多くは東京といふ都はどちらの方角にあたるか、空空寂々に日を送るゆへ、其風俗も余程古代の有様にて、婦人は常に風呂敷のやうなものを被り、衣は白布を着て汚れても洗濯する様子も見えず、村中で文字を少し読むものは、お寺の坊さんと邑役人一両輩に過ぎず。実に驚くべきは、一家内にて主人一名だけは何の某と名乗れども、兄弟姉妹などは名をつけぬ風習ありて、平常は互ひに誰の伯父さん、どこの伯母さんと呼んでいる故、先年県庁にて人別を調べられる時、其不都合がありましたが、近頃追々小学校が取建になつたお蔭で、鄙陋な風俗が去りましたと、坂井次といふお方から申越しました。&郵便報知新聞・明治八年十月十七日

無名氏 むめいし

〈失名氏〉〈某氏〉とも。名前のわからないときなど、その人をさしていう代名詞。

「無名氏の作にも随分善いのがあるから中々馬鹿に出来ない。」(吾輩は猫である・二、夏目漱石)

村上源氏 むらかみげんじ

村上天皇の子孫から出た源氏。

具平親王の子の源師房が〈村上源氏〉の始祖で、院政以後の廷臣として栄える。久我(こが)中院(なかのいん)、北畠、岩倉などの諸氏に分かれた。

 むらじ

古代の姓の一。

(おみ)の次位にあり、主として神別の諸氏が称した。大伴、物部、弓削、服部、玉造などの有力豪族が多い。ときに天武天皇は、乱れた姓制度の改革断行で知られている。

その一環として、天皇は三次にわたる〈「連」賜姓〉を行った。すなわち、第一次に十四人、第二次に三十八人、第三次に十四人というように、朝廷における指導層固め廷臣の増強を図っている。

『姓名録抄』ならびに『拾芥抄』には、それぞれおびただしい数の連姓を列挙している。

参考

●連姓は、いと古き姓なることは既云り、連は牟良自(ムラジ)と訓、群主(ムレウシ)の意にて、其群の中の主と云意也と師(*本居宣長)のいはれき、げに然なり、臣達のむねとせし氏々に太古は賜へる姓なりける、さるから皇別の氏々に賜へること多からねばならにや、姓氏録皇別に連姓を負へる氏十九氏ならではあることなし、臣姓を負へる皇別の氏々は四十八氏あり、こをもて臣姓は皇別に賜ひ、連姓は神別に賜ひし太古の制の遺れるを知るべし、(*割注略)こたび連姓を臣姓の下に序次せしものは、太古の制にしたがへるもの也、&姓序考・連

 

 

──め 

人の名前や代名詞の下に付けて、悪し様にののしるようなときに使う言葉。その粗っぽさが逆に売りになっている。

参考

●目の称のこと/今の雑言に他を卑しめあるひは(にく)んで云ふ時、専らがきめ、野郎め、まぬけめ、ぢゞひめ、ばゞあめ等、あるひは名の下に目を連ね云ふこと、諸国ともこれあり。某め、雑目等なり。けだし雑人(ぞうにん)の言にして書に筆すにあらず、文には用ひず。&類聚近世風俗誌・四・人事

 めい

刀剣や器物などに工匠の名を刻み付けたもの。また、その工匠名。

「しゃれかうべに玄房といふ銘をかいて、興福寺の庭におとし、」(平家物語・七)

名印 めいいん

姓名等を刻した印鑑。

「これは何年の何月に見せに来りし絵なりと、真偽を鑑定せし名印を始め、」(形影夜話・上)

名家 めいか

〈名家〉には、次の三義がある。

⑴名望の高い家柄。

「八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流の名家也」(太平記・七新田義貞賜綸旨事)

⑵公家の家格の一つ。文筆に秀でた家柄で、大納言までの道が開けている。

「公家にいふは、左右の弁韓クラビトを経歴シテ、次第に昇進の家々也、」(倭訓栞・前編三十一・米)

⑶一道一芸に優れた人。達人。

「名家ト云ハ、昔ハ武家ノ与力ノヤウナル者ニテ、内舎人ナドノ内ヨリモ、文学カ歌学カ、何ニテモ一芸ニ勝ルヽ名ニヨリテ、家ヲ立テ直参ニナル、其家ヲ名家ト云、」(職元秘抄)

名家十六軒 めいかじゅうろっけん

〈名家〉の⑵に該当する家格の公家十六軒をいう。

参考

●名家十六軒と申は、勧修寺、万里小路、甘露寺、小川坊城、清閑寺、葉室、以上勧修寺家、日野、烏丸、中御門、勧修寺家、広橋、竹屋、勘ケ由小路、柳原、三室戸、日野西、裏松、以上日野家、此十六軒なり、右之本家は日野勧修寺也、真夏冬嗣の御流也、此中に、竹屋、中御門、三室戸、勘ケ由小路、日野西、裏松は家弱し、余は各本家並として等同なり、頭之弁を兼て大納言に任じ、極老従一位に叙する也、&光台一覧・三

名家諸大夫 めいかしょだいぶ

公家家格の〈名家〉のうち摂関家に仕えることのできる家格の家。

四辻・鷲尾・山科などの家。

名鑑 めいかん

人名を集め目的等の別に整理して掲げた名簿。

名義 めいぎ

〈名号〉とも。公式な名称として表示されているもの。

「二人比丘尼……この書は、題号の名義にあらず、」(弁疑書目録・上)

名義人 めいぎにん

法律行為などで、表立って名前を表している人。

名号 めいごう

〈名称〉に同じ。☟人名 ☟名称

名札 めいさつ

ナフダとも。名前を記した札。

名刺 めいし

カードに氏名、肩書、住所などを印刷したもの。

初対面者に挨拶とともに差し出し、自分の名前などの忘備や宣伝材料に利用する。

明治新姓 めいじしんせい

維新期に国民改正をめぐる、わが国姓名制度の一連の改革をさす。

江戸幕府が幕を閉じると同時に、士農工商の身分制度が廃止され、帯刀が禁じられ、断髪が奨励された。いずれも国民にとって青天の霹靂ともいえる革新である。そして、いわゆる〈明治新姓〉が断行され、それまで〈苗字〉をもつことのなかった多くの庶民和と惑わせたのである。

事の始めは、明治三年九月十九日に発令された「自今平民名字被差許事」なる太政官布告である。いらい朝令暮改ともいえる紆余曲折を経て、明治八年二月十三日、国民皆姓の決定打といえる「太政官布告第二二号」に至るのであるが、一連の経緯は本書年表を参照していただきたい。☟国民皆姓

名称 めいしょう

人の呼名。名前。

物姪をも含め、語義範囲が広い。☟人名

名数 めいすう

数字を冠し同類の人名等を集めた呼称。

☟人名レファレンス資料人名に関する名数

名姓 めいせい

〈姓名〉の倒置語。

「旧門人二十余人の名姓を書し、楮泉六十余金を封して送り呉れ、」(中江兆民、一年有半・二)

名簿 めいぼ

古語でミョウブと発した。人の住所・氏名等を書き連ねた帳簿。

「名簿に載っている電話番号が違っていた場合、これまたツミだ。」(名簿パトロール、佐久間英、日本の名随筆・別巻二十六)

命名 めいめい

〈名付け〉とも。人物や物事に特定の言葉または語を付けること。また、付けた名。

〈命名〉の対象が人であるときは〈人名〉とか〈人の名〉といい、物であるときは〈物名〉〈物の名〉という。これを〈命名の二大別〉あるいは〈命名二大系統〉といっている。すなわち「人名」や「物名」は、命名先が人なのか物なのか別していない、単なる〈名〉や〈名称〉よりも明快な用語である。

命名では、人、物、事物と呼称とが、客観的に結びついていることが要件になる。言い換えると、識別記号としての客観性が付与されていないと、命名とはいえないのである。たとえば極端な難読氏名や作字名は、客観的呼称としての機能を失っているので、本来の命名であるとはいえない。また「命名」という語義は、複雑多様な枝分かれ概念の集成によって成り立つ。本書収載のおびただしい数の言語概念(ロゴス)も、けっきょくは「命名」の一語に収斂されてしまう。

ときに『旧約聖書』の一つ「ヨハネ福音伝」の冒頭句は「元始(はじめ)に言葉ありき」と告げている。万物の命名には、最初から言葉の用意が必要なのでである。

参考

●一村悉く魚の名を家号にした伊予の漁村/明治の初年に在名の禁が解かれて、次で戸籍に所謂姓氏を録せなければならぬことになつた時に、村々の役場ではそれは〳〵大騒動であつた。数百戸の無家号の人が兎に角何か名字を持たなければならぬことになつた。旧家の零落したもの又は本家の明白なるものは、勿論私には之を用ゐて居たのであるからして面倒はなかつたが、親代々の小百姓は皆困つた。多くは譜代の関係を辿つて出入の家から名字を貰った。又は相手方の故障を言はぬ限り其付近で聞えた名字を名乗つた。併しそんな考もないものは役場の吏員が付けてやつた。或ひは家の前に松の木があるから松下と付けろとか、山の入口にあるから谷口と名乗れとか、中には頓狂な村役人などがあつて、伊予の海岸の漁村などでは家々が魚の名を付けた。其隣村では野菜の名を名乗にしたとかいふ例がいくらもあつた。魚や野菜ならば珍しいから紛れもせぬが、松下とか谷口とかいふ類に至つては、実際昔松下村の地頭であつたり、谷口村の名主であつた家と、人から区別することが困難になつた。此に又第三次の大混乱をしたのであります。&名字の話 

命名、古代王朝 めいめい/こだいおうちょう

左記の引例にくわしい。

多くが神話的な背景から命名されている。非科学的な付会と言い切る前に、飛躍した発想すら感じられる、太古の浪漫を斟酌すべきであろう。

参考

●凡て古の御世々々の王等の御名に、種々の色あり、今茲に其大概をいはゞ三種なり、一には由縁に就て諸物名など以てつけられたる、二には居地名を以申せる、三には美称(ホメタタヘ)て付奉れるなり、王等のみならず、凡人の名どもゝ、大方此三種なり、さて此三色の例を一二づゝいはゞ、垂仁天皇の御子、火中に生坐し故に、本牟智和(ホムチワ)(ケノ)御子(ミコ)と著られ、景行天皇の御子、双生坐るを、父天皇(アヤシミ)坐て、(ウス)(コトアゲ)し給へりし故に、大碓(オホウスノ)小碓(ヲウスノ)命と申し、応神天皇は生坐し時に、御腕に(トモ)のごとくなる御肉の坐ける故に、大鞆和気(オホトモワケノ)命と申し、仁徳天皇と建内宿禰の子と、同日に生坐て、木兎(ツク)鷦鷯(サザキ)との祥ありしに因て、其祥を相易て、御子を大鷦鷯(サザキ)、建内宿禰の子を木兎と名け坐し、清寧天皇は生坐ながら、御白髪坐ける故に、白髪(シラガノ)命と申し、反正天皇は御歯の(クシ)びに坐しに因て、水歯(ミズハ)(ワケノ)命と申しゝが如きは、由縁の物名を取て著け奉りし証例なり、又聖徳太子は厩の戸にして生れましゝ故に、厩戸(ウマヤド)と申し、天武天皇の御子大伯(オホクノ)皇女と申しゝは、備前国の大伯海にして生坐しゝ故の御名なる、是等も処名ながら、猶由縁に就きたるなり、次に開化天皇の御孫、沙本毘古(サホピコノ)王の沙本に坐し、応神天皇の御子、宇遅能和紀(ウヂノワキ)郎子(イラツコ)の山城の宇遅に坐し、仁賢天皇の御子春日(カスガノ)山田郎女の春日に坐し、雄略天皇の大后、若日下(ワカクサカノ)王の河内の日下に坐る、又此天皇長谷(ハツセノ)宮に坐しゝ故に、大長(オオはツ)()若建(ワカダケノ)命と申し、安康天皇は石上穴穂(イソノカミノアナホノ)に坐る故に、穴穂(穴ホノ)命と申しゝ類は、皆居地名を以申せる証例なり、又舒明天皇の御子、蚊屋(カヤノ)皇子は、吉備国の蚊屋采女が腹、天智天皇の御子、伊賀(イガノ)皇子は、伊賀采女が腹より生坐る、此等は御母の本郷の名を取れる御名と聞えたり、(*割注は省略)&古事記伝・二十

命名遊び めいめいあそび 

名付けを言語遊戯化することを〈命名遊び〉と総称している。なかには商品名などのように、遊びを離れて商業目的に使われているものもあるが、それとて形態上は言葉遊びの要素を多分に含んでいる。

姓名はじめ物名・商品名などは、他の類似存在と個別化するために便宜的に付けられる符号でしかない。ところがこの符号、ひとたびマスコミで喧伝されたり当たりをとったりすると、人をたちまち有名にし、商品をヒットセラーに化けさせる。そして思わぬ「言霊(ことだま)の不可思議」を現代人に思い知らせてくれる。

現在、新生児の命名や商業ネーミングの実用書が何冊も出ているように、命名分野は間口が広く、庶民にとって格好の興味の対象となっている。さらに人は、単なる符号としての本来の姓名に満足せず、別に号や筆名、没後の戒名まで付けたがる。こうした曲折の過程で、遊びの要素がどんどん加味されることになる。

参考

●いろはのへとち左衛門/かたのごとく、人のもてはやす侍ありしが、いろはよりほかは、仮名書の文をさへ読むことなし、あるとき、()下人(げにん)まいりて、わが名をかへたきよし望みければ、例のいろはを(かたはら)におきて、「い兵衛(ひやうえ)と付けうかや、いや、それならば、ろ兵衛とやつけん、いや、は兵衛、に兵衛、ほ兵衛」と付くれども、「いや、ただ、いま少し長うて、はねた名を付きたう御座ある」ともうしたれば、「さらば、へとち左衛門と付けうず」といへり&醒睡笑・二

●古歌より拝借名(芸能人)

▽有馬稲子──有馬山いなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする(大弐三位)

▽天津乙女──天津風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ(僧正遍昭)

▽幾野道子──大江山いくのの道は遠ければまだふみも見ず天の橋立(小式部内侍)

▽霧立のぼる──村雨の露もまだひぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮(寂蓮法師)

▽小夜福子──み吉野の山の秋風小夜ふけて古里寒く衣うつなり(参議雅経)

●浅草芸者の源氏名(昭和)

歌丸 男女丸 文丸 らん丸 よし丸 ちか丸 栄丸 きく丸 太郎 秀太郎 扇太郎 一郎 次郎 駒次 五郎 光五郎 秀也 千也 君夫 省吉 正巳 &第十五回「浅草会」(昭和四十六年)発表

プロレスラーの二つ名

 (上田馬之助) 革命戦士(長州力) 涙のカリスマ(大仁田厚) 鉄人(ルー・テーズ) 黒い魔神(ボボ・ブラジル) 仮面貴族(ミル・マスカラス) 狂虎(タイガー・ジェット・シン) 銀髪鬼(フレッド・ブラッシー)

命名権 めいめいけん

新生児に名を付ける権利。

当然、誰が〈命名権〉をもつかが問題になるが、法律で特定されているわけでない。すなわち命名の過程よりも、命名された結果(命名権を濫用してないか、など)のほうが法律的には重要なのである。〈命名権者〉は一般に両親、あるいは親権者とされている。〈名付親〉に命名してもらう場合も、親の代行(契約行為)とみなされる。

命名行為 めいめいこうい

〈名付け〉を構えて表現した言葉。☟名付け

人や事物に名を与えることが〈命名行為〉である。

つまり命名行為は、人間が人や物などに適切な語を当て、孤立した呼称を付けて他と区別させるということの、包括的な手段をさしている。そして当然のことだが、命名行為ができるのは人間だけである。人が命名するときは、既存の語彙の中から適切な言葉を選び、あるいは組み合わせて、呼び名としての体裁を整える。その結果、名付けられた対象は、空間と時間との広がりにあって伝播され、人々に認識され、やがて呼称として定着する。

村に、一人の男がいた。生来の怠け者で、面倒臭がり屋で、横のものを縦にしようともしない。親が付けてくれた庄助という本名があるのだが、いつしか周りから「物臭太郎」と渾名を付けられ、村中の人から本名でなく「物臭太郎」で呼ばれるようになった。

こうした場合、本来の「庄助」よりも「物臭太郎」のほうが呼称として機能が勝っていることになる。命名行為の結果は情報量に大きく左右されるという譬えである。

参考

●今の世人の名の事/近き世の人の名には、名に似つかはしからぬ字をつくこと多し、又すべて名の訓は、よのつねならぬがおほきうちに、近きころの名には、ことにあやしき字、あやしき訓有て、いかにともよみがたきぞ多く見ゆる、すべて名は、いかにもやすらかなるもじの、訓のよくしられたるこそよけれ、これに名といふは、いはゆる名乗実名也、某右衛門某兵衛のたぐひの名りことにはあらず、さて又其人の性といふ物にあはせて、名をつくるはいふにもたらぬ愚なるならひ也、すべて人に火性水性など、性といふことはさらになきことなり、又名のもじの反切といふことをえらぶも、いと愚也、反切といふものは、たゞ字の音をさとさむ料にこそあれ、いかでかは人の名、これにあづからむ、&玉勝間・十四

命名札 めいめいさつ

子の名前を書いた半紙。

命名式のとき、神棚の前などに貼っておく。

命名式 めいめいしき

新生児の名付け祝い。

子供が社会的認知を受ける儀式で、わが国では産後七日目に行うのが普通である。

身分が高い家柄ほど故実にのっとった格式のもとに執り行った。

参考

●太政官記事。一月二十七日/此日皇女御降誕第七日ニ当ルヲ以テ、午前第十時賢所皇霊神殿御祭典アリテ、皇女御降誕、並御名薫子(シゲコ)ト称セラル旨ヲ告ゲ玉フ。畢リテ第十一時、親王、三職、式部頭、宮内省勅任官、及麝香間詰ヲ御前ニ召シ、酺宴ヲ賜フ。太政大臣祝詞並勅答。(*後略)&東京日日新聞・明治八年一月二十九日

命名者 めいめいしゃ

〈名付け親〉に同じも、現代語。☟名付け親

命名心理 めいめいしんり

命名するときの心の動き。

〈名付け〉をめぐって、さまざまな態様が考えられる。

「濁音を避けようとするのは日本人の語感の伝統である。この点では女性の命名は伝統的なところも見せている。」(名前、外山滋比古、日本の名随筆・別巻二十六)

命名の範囲と系統 めいめいのはんいとけいとう

現在すでに、森羅万象大半の事物を対象に名付けがすみ、〈呼称〉もしくは〈名詞〉として存在する。

命名分野においても呼称の整理が進み、なかでも「人名」と「地名」はその区分が個別に及んでいるため、種類の多さでは他に抜き出ている。識別化情報処理が生んだ結果である。

例として、生物界で鳥類を例に引くと、その個体数は全世界の人口数をはるかに超えている。しかし鳥類は固有名詞をもたないから、類→目→科→属→といった生物学分類法に従っての一般名詞だけですみ、その数も限りがある。

ところが個別標識をもつ人名や地名の場合は、事情が大きく異なる。古代、集団社会での名付けは敬神行為に結びついていたことが、古代、各地で編纂された風土記によって断片的に語られている。また〈盟神(くか)探湯(たち)〉に見るように、命名行為は冒してはならない聖域でもあったのである。

ここで命名の範囲について触れてみたい。

〈命名範囲〉つまり呼称の対象は、すでに多様な分野に見られ、限りなく増殖しつつある。参考までに、人名以外のそれら主なものを五十音順に列挙してみよう。

家=加盟、家号

階級=族称、属称

会社=社名、社号、企業名

学者=学位、博士号

学徒=修士号、博士号

活字=字号

神=神号

官職=官号、官名、つかさ名

器物の部分=名所

脚本=大名題、芝居名

行政=都道府県名、市名、郡名、町名、村名、町所(ちようどころ)、在所名、字名(あざ)

刑罰=刑名、罰名

国家=国名、国号

爵位=爵号

職業=職名、職種名、

書籍文章=書名、文献名、資料名、史料名、題目、題号、題章、表題、タイトル、編題、章題、外薟、外題

商家=商号、屋号、暖簾名

芝居=外題

商品=商品名、銘柄、ネーミング、ブランド

生産物=品名

中国=唐名、漢名

寺=寺号、寺名、山号

堂=堂号、堂名

道徳徳目

年=年号、暦号

土地=地名、郷土名、故郷名

犯罪=罪名、刑名

船舶=船号、船名

病=病名、疾病名、傷病名

やまとことば=大和詞、和訓、和名

命名法 めいめいほう

名付けの方法。

「私は若い頃、父の命名法が気に入らず、いい加減な名前のつけ方をするものだと不平であった。」(名前談義、井本農一、日本の名随筆・別巻二十六)

召名 めしな

朝廷女官の呼名をさす。

『類聚符宣抄』八・任府事、『吾妻鏡』四・元暦二年五月九日の条などにこの語が見える。

 

 

文字名 もじな

名前を文字で書き表すこと。また、その名。

名は本来、音声で呼ばれたもので、文字表記はその後に付け加えられた称呼手段である。こうした音声名に対し、表意を兼ねた漢字などの表記をさす場合に〈文字名〉の語を用いる。当然、文字名としての範囲をどう決めるかも問題になる。

参考

●昨年末神戸市平野雪御所の海運組合書記長末兼湊氏が名は判り易いがよいと○を「すなほ」と読ませ次男に名づけ届出た処、本籍の役場からも居留地の市役所からも神戸区裁判所からもそれは文字でないと刎ねつけられた事件は、一方更に進んで法廷に其れを争ふと共に文学上の問題として二十一日文部省国語調査会に其判断を求めて来た。/○は文字であるか符号であるか同会は直に調査に着手した処、文字であるといふ説が有力である。役場、市役所、裁判所は戸籍法第五十五条に「姓名は字画明瞭に」とあるを楯に康煕字典を論拠として「○は一の符号に過ぎぬ」と主張するが、末兼氏は徳川時代に出版された「音訓正誤いろは節用大成」に基き○を円の意味で用ゐやうとして居る。/それに対し保科同会主任は語る「文字は或言葉を現はしたものか、さもなくば発音を記したのでそれが読めなければならぬ。然しそれに古字もあれば新字もある。略字も文字であるから字引にばかり頼つて解決しやうとするのは稍理屈に堕ちて居る」と猶も研究を進めて居る。/久しく印刷局に勤めて居た支那文学の大家高田忠周氏の説によると「○は円の古字なのに説文が落しているのは間違つて居る」と。○はエン、マルシ、マドカ、アマネシ等とも読める。処が茲に字として読み然も同じ届けを受理した実例が大正五年十一月十七日に長崎県北松浦郡江迎村にある。/江迎村役場は同村一九三徳田真寿氏が三女に○子と名づけ届出たのを受付け、長崎区裁判所は其戸籍抄本を認めて居る。&都新聞・大正十年六月二十二日

元の名 もとのな

改名等の以前の名。

 もん

〈家紋〉に同じ。☟家紋

参考

●一家の紋の事/紋といふは、衣服に五所に付るをのみ紋と云にはあらず、都て物の模様を紋といふなり、(*中略)武家の紋は旗幕の目印也、是は保元平治の戦の頃より始りし事か、後世に至り旗幕ならで、衣服に紋付る事に成し也、&四季草・秋草・衣服・中●一つの物体は一族を統括し個々の変化が各家を表はす/右の次第であるから、今日人の背中を見て家柄を想像することなどは先づ不能となつたけれども、それでも猶此間に、多少の意味と趣味とを認めることが出来る。幕末の学者で栗原柳庵(信充)といふ人は、五人も七人も初めてのお客が訪問した時に、名札と紋所とを引き比べて「あなたが何さんですな」と言ひ当てたといふことである。/成程高橋とか和田とかいふ名字が平凡であるが如く、酸漿や木瓜のやうな有り触れた紋では如何ともすることが出来ぬが、何か一所、形か物体かに特色のある紋なら、自然に家の由来を仮定せしむる材料となるのである。/こゝに自分は形と物体といふことを言つたが、曾て近年の紋帳にある四五百種の紋について分類を試みて見たのに、其種類の存外に単純であることを感じた。即ち僅々数十種の物体を十数通りに変形させたのが今日の紋である。例へ衛ば井筒ならば井筒を菱にもすれば丸の中にも入れ、輪違ひにもすれば四つ合せもするといふ様に、一つの紋を如何程にも変へて行くのである。是は徳川家の葵の紋が、主たる御分家筋は勿論、酒井にも松平にも共通であつて、只其形状及び組合せの変化によつて、家々を分つのを見ても容易に想像せらるゝ如く、(*後略) &名字の話

紋印 もんいん

識別記号としての紋。

〈家紋〉だが、語義が狭くなる。引例は称呼の面でも幕末の騒然とした模様を伝えている。

参考

●百姓町人共、聊之由緒ヲ以テ、宮堂上方ヘ入込、用達又ハ館入抔相唱へ、提灯等ニ御用ト記シ、或ハ紋印ヲ付ケ、権威ガマシキ振舞イタシ候者、往々有之哉ニ相聞エ、兼テ御布令ノ趣モ弁ヘナガラ右様之所為不届ノ至ニ候、若以来相改メザル者ハ見付次第召捕ヘ、御詮儀可有之候、屹度相心得候様被仰出候事。&太政官日誌・四六・慶応四年七月

門院号 もんいんごう

和語で〈(かど)の名〉と。天皇の母・三后・皇女に付ける尊号。

諸説が伝えられているが、大内裏の十二の門院名から命名されたという説が有力である。

参考

●門院の号/貝原氏の和事始には、後朱雀天皇の皇后陽明門院に始まると書けれど、後一条天皇の万寿二年に、太皇太后(一条天皇の后)の上東門院と号せられたる方なるべし、又皇后に非ずして門院号を称せしは、白河天皇の皇女にて加茂斎院准三后たりし、郁芳門院に始まる。&明治節用大全

紋紙 もんがみ

江戸後期にはやった博打「紋付(もんづけ)」に使う、役者等有名人の紋を入れた遊具。参加者は登場人物の家紋を当てる。

図▼笠森お仙の紋紙〔賭博史、(宮武)外骨著〕

 *創作遊びの作品である。

 紋章 もんしょう

人名関連では、〈家紋〉にほぼ同じ。

一家の象徴、という特段の意味を込めた語である。

門跡 もんぜき

皇子や公家が住む寺院、またその住職をいう。

宇多天皇が出家し仁和寺入りしたのを始めとする。室町時代・江戸時代に格式が制度化され、かなり権勢を振るった。

参考

●宇多天皇釈門に入り、御(むろ)を仁和寺に(つく)(ましま)す。其の後当寺を御門跡と称す。(言ふ心は御門の跡なり)凡そ皇子落飾したまふを、法親王と号す。(つい)で皆な御門跡と名づく。〈*読み下し〉&和漢三才図会・九

紋所 もんどころ

〈家紋〉に同じ。☟家紋

「上杉様、其時之御褒美に、杉田因幡に、(*中略)紋所被下候、」(深谷記)

主水 もんど

宮内省主水司の官職名で、後に武士の通称に転じた。

時代小説『旗本退屈男』の「早乙女主水之介」が知られている。

「野々村主水、川尻与兵衛、かくのごとく仰付られ、信長は日々御弓衆御責子にて御鷹つかはされ候き、」(信長公記・十三)

参考

●主水/水をもゐといふは、我長いにしへよりの言にして、万葉集等に多く見えはべる、もともゐとりと訓じて水取の意なり、然るを転語してもうどゝ訓じ、亦夫よりもんどゝいふ、もとりのつかさと歌書にはかけり&塩尻・一

門葉 もんよう

「血脈」とも。血統のつながり。姓氏の筋。

 

 

八色ノ姓 やくさのかばね

天武天皇の十三年十月一日、天皇が定めた尸制度における八種の姓。すなわち、真人(まひと)朝臣(あそみ)宿禰(すくね)(いみ)()道師(みちのし)(おみ)(むらじ)稲置(いなぎ)

『日本書紀』二十九・天武天皇冬十月己卯朔の条に記事が見える。

役者名 やくしゃめい

〈俳名〉とも。歌舞伎を中心とした役者の名。

たとえば江戸時代の名優といわれた役者を挙げると、その名は初代市川団十郎、初代瀬川菊之丞、三代目阪東三津五郎、五代目松本幸四郎、三代目中村歌右衛門、五代目岩井半四郎、三代目尾上菊五郎など。

屋号 やごう

商家または俳優の称号。家号。

商家では越後屋や豊島屋の類、室町期に始まった。俳優なら「沢村屋」「成田屋」の類で、襲名制である。

「昨日、某奸魁たる石炭屋多右衛門、糸屋勘助、芝屋祐次郎等を搦捕て、裁判所の獄にこめられけるとぞ。」(もしほ草・慶応四年閏四月二十一日)

参考

●商売の屋号/柳葊雑筆に出せる京都東西市廛の図(後嵯峨天皇以前のものと云)に畿内ノ屋、東海道ノ屋、西街道ノ屋、などありて畿内ノ屋の内に山城ノ屋、大和ノ屋、又西街道ノ屋の内に大宰府ノ屋などあれば古き事なり但古制は山城ノ屋は山城の産物、大和ノ屋は大和の産物を売るなり、&明治節用大全

家号 やごう

〈屋号〉に同じで、当て字。☟屋号

夜叉名 やしゃな

〈忌名〉の一つで、夜叉の二字を用いた命名。

男子なら彦夜叉・鬼夜叉など、女子なら福代夜叉・夜叉御前など。

図▼平将門の娘如蔵院を見立てた滝夜叉〔相馬古内裏、歌川邦芳画〕滝夜叉は蝦蟇から授かった妖術を用いて大髑髏に化身し、父の敵である宿敵を悩ませる。

 揶称 やしょう

他人をからかうときの別名。

「能天気」「タレ目」「屁理屈屋」の類。☟蔑称

八十氏 やそうじ

多くある氏族。

古語「八十」は、あまたの、という意味の接辞である。

参考

●ものゝふのやそうぢがは/ものゝふのやそ宇治河のあじろ木にいざよふ波の行ゑしらずも/顕昭云、ものゝふとは、人の総名也、人の姓はおほかれば、八十氏といふ也、百姓といふもおほかる数也、八十といふは、陰の数の満也、是を略して、ものゝふといはねど、やそうぢ人ともいふ也、&袖中抄・十九

家主 やぬし

次の二義がある。

⑴一家の長。戸主。

⑵貸家の持ち主。店主(たなぬし)

引例は⑵の場合である。

参考

●家主/戸籍等には家主と書く。すなはち家守なり。私には大屋とも云ふ。家主の数、江戸惣じて二万零一百十七人。/地主の地面を支配し、地代、店賃を店子より集めて地主に収め、公用、町用を勤め、自身番所に出て非常を守るを職とす。&類従近世風俗氏・四・人事

大和名 やまとな

〈倭名〉とも書き、〈和名(わみよう)〉と別し、〈やまとな〉と仮名書も。和風の名。日本名。

「やまとなにいひにくき事をこそそへてはよめ」(順集)

 

 

遊女名 ゆうじょめい

〈遊君名〉〈廓名(くるわな)〉とも。中古期から江戸期の遊女(あそびめ)が営業用に付けた名。

遊女といっても、(しら)拍子(びようし)比丘尼(びくに)傀儡(くぐつ)、傾城、辻姫、慰女(なぐさめ)、鳥追などさまざまな種類の売笑婦が出ており、それぞれ観音、白女、如意、孤蘇、喜々楽といった特異な営業名を張って商売していた。なかでも新吉原の〈遊女名〉は数の多さで圧巻だが、細見や洒落本に多出しているので、あえて書き出すまでのこともなかろう。

なお、一部の文献に〈源氏名〉と混用しているのは誤りで、源氏名のほうは芸妓が主流、双方別系の用語である。

「亭子のみかど(*宇多天皇)河じりにおはしましにけり、うかれめに、志ろといふもの有けり、」(大和物語・下)

参考

●新吉原江戸町松葉屋半右衛門抱、瀬川といふ傾城は、十ケ年以来は、五丁町に並ぶ方なき全盛なり、(*中略)寛文の頃には、小紫は能く和歌の道に達し、不断敷島の道を尋ね、風雅にして心やさしく、世上こぞつて、偏に石山寺の観世音にて、源氏六十帖編集したる紫式部にも似たりとて、其名を小紫と号けしとなり、&当世武野俗談・新吉原松葉屋瀬川

有職読み ゆうそくよみ

古語で、〈名、字音〉に同じ。本来なら名乗り読みすべき称を音読すること。☟名、字音

靱負 ゆきえ

ユゲイ、ユキオイとも。上代に王族の親衛士、律令制下では衛門府詰めの官職名。

のち森重靱負、山口靱負などがあり、やがて通名に転化した。

湯起請 ゆきしょう

盟神探湯(くがたち)〉の後世俗称。

●日本紀竟宴歌/この歌允恭天皇の御時、万民の姓氏のみだれ、真偽わかちがたかりしを、熱湯を探らせ、俗に云湯起請なり、真偽を正し給ひし事をよめるなり、かばねとよめるは姓の事なり、&安齊随筆・前編一・姓ノ字訓

 

幼児の賎称 ようじのせんしょう

幼児にあえて賎しい名を付けること。また、その名。

多幸ならびに厄落としの俗信による。

参考

●俗間に幼児のよくそだつまじなひとて、犬牛猪などの字をよぶことなり、○今按ずるに、日本にかぎらず異邦にもこれあり、司馬相如、小名犬子、楊雄子、小名童烏、其余袁虎、桓豹、白象、狗児、(*中略)賎物を小名として長育するの説もとより妄なり、永叔是を暁らざるにはあらず、たゞにこれを設けて浮屠をあざむく戯とするのみ、&公益俗説弁・後編四一

洋風名 ようふうめい

洋風の名。

森鴎外は子供たち全員に洋風名を付けたことでも知られている。長男が於菟(おと)(オットー)、次男が不律(ふりつ)(フリッツ)、三男が(るい)(ルイ)、長女が茉莉(まり)(マリー)、次女が杏奴(あんぬ)(アンヌ)などで、この命名方式は他の親族にも及んでいる。

幼名 ようみょう

ヨウメイとも。〈幼名(おささな)〉に同じ。☟幼名(おさなな)

参考

●小字、わらはな、これは幼少なる時の名なり、今俗には若名といへり、唐人の紀事の中にも小名録一巻有りて、古今の人の幼名を出せり、又宋にも小字録あり、しかれば小名小字はかよはしても互に云ふなるべし、&類聚名物考・三

揚名 ようめい

作名(つくりな)〉に同じも、こちらは漢語。普段使われることは少ない。☟作名

横系図 よこけいず

張り合わせた紙を用い、右から左へと系譜を記した図。

親子孫関係を一覧する場合など、系線を下へと張り出すのが容易で、それなりに便利である。ただし現今は、通常系図〈竪系図〉の変形として縦書きのものを踏襲し、横の流れへと移し変えたものが主流になっている。

図▼横系図のモデル〔日本の姓氏大総鑑・斯波氏、ライフ出版〕

 世継ノ名 よつぎのな

家督を相続する者の名。

術語として特に意味があるわけではなく、一般的な言葉である。

参考

●淡海公継四家語第二/今昔、淡海公ト申ス大臣御マシケリ、実ノ御名ハ、不比等ト申ス、(*中略)四人ノ御子ノ太郎ノ大臣ハ、祖ノ御家ヨリハ南ニ住ミ給ケレバ、南家ト名付タリ、二郎ノ大臣ハ、祖ノ御家ヨリハ北ニ住ミ給ヘレバ、北家ト名付タリ、三郎ノ式部卿ハ、官ノ式部卿ナレバ、式家ト名付タリ、四郎ノ左京ノ大夫ハ、官ノ左京ノ大夫ナレバ、京家ト 名付タリ、&今昔物語・二十二

呼び捨て よびすて

相手の名を敬称など付けずにそのまま呼ぶこと。また、その名。

普通、親密な間では呼び捨ては失礼に当らない。しかし対人呼称として、ときには相手を侮蔑したり礼を失することになりかねないので、用い方には気をつけるべきである。

呼名 よびな

〈呼名〉には、広義と狭義の二義がある。

⑴広義には、本名を除く「人名」を包括的にいう場合の用語。字・号・別称・仮名あるいは渾名など、どれをも包含したもので、用法に特に規範のようなものはない。

⑵狭義には、朝廷女官の通り名。いわゆる〈女房名〉のこと。☟女房名

右の⑴と⑵とは重複する面もあり、語義的な線引きは曖昧である。

参考

●よびな/呼号の義、仮名ともいふ、実名に対す、今の受領の号も多くは呼名と等しく揚名の官也、通俗左右衛門、兵衛の如き源平藤橘をもて冠らしむ、平内左衛門の如きは内舎人を兼ねたるの称也、&和訓栞・前編与

よみ人しらず よみひとしらず

〈詠者不明〉とも。歌集等で、和歌の詠み手が不明のとき記載する言葉。別に、作者名を明らかにしたくない場合にも使われる。

参考

●作者の名/歌の集に、天皇は御名をかゝぬはいふまでもなし、大臣も名をかゝぬはさる事なり、親王は御名をかけれど、みことあれば紛れなし、&傍廂・前

不可読名 よめないな

漢字人名のうち、かなりのものが難読もしくは〈不可読名〉である。このうちの大部分が〈同字異音訓〉によるもので、漢字の読みの多様性が禍しているわけである。

しかし一部には、まったく手に負えない読外漢字(国字が中心)による呼称というものがある。

こうした類、現代でこそ戸籍名登録でハネられてしまうが、昔は実際に存在したようで、引例の(宮武)外骨が辟易しつつも報じている。☟難読姓氏

参考

●読めない字の本名/昔は深見重左衛門貞国とか、荻生総右衛門茂卿とかいふ如く、俗称と通名の二つがあり、町人百姓にも通称と公儀名の二つがあつたが、明治初年に戸籍法が改まつて、本名一つを届出させる事に成り、伊藤俊介が博文と称し、大隈八太郎が重信と改めるなど、太郎吉作平蔵衛門は卑俗なりとして、昔、諱とか字とかいつたやうな名乗にする事が、当時の知識階級に行はれたのである、ところが段々嵩じて、井上頼国と書いては人々が読み易いとて国の字をの字に書き、小杉村とか久保田米(*規格外漢字。ムムム二を「参」の形にしたもの)といふ如き普通の字でないものを名乗にする者もあり、果は康煕字典や玉篇などから、人々の読めない字を撰り出し、それを我子の名に付けて、お父さんは学者であつたらしいと、後の人にも評されやうといふツモリで、普通の字引にも活字にもない難字を用ゐる事がはやり、それが明治三十年前後には最も甚だしく行はれた/「アナタのお名前は何とよみますか」と()かれて「アキラといひます」とか「ユタカとよみます」とか答へて、本人までがチョット反身になるのもあり、近頃は恥入りの態度で時代錯誤の名を付けてくれた親を恨むやうな者もある&奇態流行

 

 

ラストネーム last name

英名で「フルネーム」中の最後にくる名。

ファミリーネームといわれているものがこれに相当する。

日本人でも「マサコ・アンジェラ・タケウチ」といった表記で通す場合に適用される。

落款 らっかん

漢語〈落成款式〉の略。書画の完成時に自身で姓名を署し、さらに字号・年月・識語などを記入すること。また、それらの標識全般を含め〈落款〉。と称している。

わが国では大和朝廷時代に移入したものの、普及したのは鎌倉時代以降である。落款は〈花押〉と並び自身を表明する重要な手段である。

「又其観音の像を見る。落款に曰く、寛文丙午歳、季春望日、烟霞比丘逸然焚盥敬写。自年六十有六」(屠赤瑣々録・一)

図▼遊び心たっぷりの落緩

 

 

略押 りゃくおう

花押を簡略化したもの。

正規の花押を用いるほど重要でない文書、あるいは先陣などで用いられた。

略系図 りゃくけいず

単に〈略系〉とも。略式にした系図。

自身からの、または当主からの直系に範囲を絞ってまとめた系図をいう。

参考

●家計附録序説/当家の系図、上西入道(*義重)以来、累代其世次を親ら記し置れし家譜一軸、(*中略)幸に一族西谷が家より、略系一巻を呈せり、是を古系図と云、其後かの系本に拠りて是を修補し、加るに後事以てして、別に一編を作りて家に蔵む、これを巨細系図と云、今に於て当家の事実を考へ見るべきもの、わずかに此二本のみにして、つぶさに歴世の遺美を聞く事を得ず、&新井家系

略号 りゃくごう

人名を略した号。号の略称。〈略称〉の一部であるが、略号は一定期間常用した雅号をさす。

次のようにいくつか異なったタイプがある。

りんたろう→森鴎外、びめう→山田美妙、むらさき→正岡子規、わくらば→横瀬夜雨、しぶ六→堺利彦、ゆめみる人→石川啄木、ぶらぶら男→坪内逍遥、蘿月→萩原蘿月、鷹→木村鷹太郎、驢阿吽生→内田魯庵、お玉杓子→福沢諭吉、すの字→鈴木春浦、う・ま→植村正久、ひな子→樋口一葉、ノンコ→伊藤左千夫、ミ、ネ→磯貝雲峯、ヘルン→小泉八雲、ドクトル・カイネ→石橋忍月、スパイМ→飯塚盈延、AB子→徳富蘆花、KO生→小山内薫、G・T→高橋五郎

略称 りゃくしょう

(つづ)め名〉とも。

長い人名、ことに欧米人名の和訓に用いることが多い。

ただしこの場合、その名前の知名度の高いことが要件となる。たとえば、マ(ッカーサー)元帥・ケ(ヘレン・ケラー)女史・ヴァ(イニング)夫人の類は、戦後の新聞雑誌を賑わせた。

略譜 りゃくふ

目的に合わせ、重点的に記した系譜。

略名 りゃくめい

〈略称〉にほぼ同じ。略式の名称。

柳号 りゅうごう

川柳子が用いる号。

良称 りょうしょう

〈佳名〉に同じ。☟佳名

リングネーム ring name

ボクサーやレスラーの職業名。

 

 

類称 るいしょう

同類の呼び名。似たような名前。

 

 

麗称 れいしょう

〈佳名〉に同じ。☟佳名

霊名 れいみょう

レイメイとも。切支丹に授けられた名。

戦国期の日本人入信者は洗礼を受けるわけだが、そのさい〈霊名〉も付けてもらった。有名なところでは「小西アウグスティーノ行長」をはじめ「大村バルトロメ純忠」、女子では「細川(明智)ガラシャ」「内藤ジュリア」などが知られている。

歴名 れきみょう

レキメイ、リャクミョウとも。複数の人の名前を順次書き連ねること。また、列記した名前。

ふつう官人名や兵卒名などを〈歴名帳〉または〈歴名簿〉というものに連署する。

連署 れんじょ

〈連判〉とも。複数の人が姓名を連ね署名すること。また、その文書。

「討死にせんと思て過去帳に入たりし連署の兵百十三人、」(太平記・二十六)

連判 れんぱん

〈連署〉に同じ。

これを名寄せしたものが「連判状」である。☟連署

連名 れんめい

レンミョウとも。複数の人が名を連ねること。また、名を並べ「連名帳」に記すこと。

 

 

籠名 ろうみょう

呪名(のろいな)〉とも。神仏前に相手の名を書いた書札を籠めて呪をかけること。また、その名。

寛正頃の『大乗院寺社雑事記』や『多聞院日記』永禄十二年五月十八日の条などに見える。

 

 

吾── われ──

古語の第一人称をさす代名詞。

(わが)()」「()()」「(あが)背子(せこ)」など。

──若 ──わか

諸家で使用する小者への下付け称。

参考

●公方様の御小者の名は何若と付くる也、諸家とても同前歟、走衆故実に御小者千若とあり、永禄十一年朝倉義景亭へ御成記に、御小者右ノサキ熊若鶴若、左ノサキ梅若千若とあり、&貞丈雑記・四

若子 わかご

〈みどり子〉とも。往昔、命名がすむまでの赤子の仮の呼名。

若名 わかな

若い時に付けていた名。

「われわれ年もなかば更け、若名にてもいかがに候、」(醒睡笑・二)

 わけ

〈和気〉とも表記する。律令制の姓の一。

皇族称号から発祥した氏、つまり高貴な血を別けた人たちを示す。地方官の職を任じた家柄に多く見られ()()別、()(ぬの)別、鎌倉(かまくらの)別といった地名を冠して用いたのが特色である。

参考

●和気は国造稲置などの類にて、諸国処々にありて、上として其地を治むる人を云、名義は吾君兄(ワギエ)の意なるべし、凡て諸の尸、みな崇めて呼称なり、(*文中割注を省略)&古事記伝・二十六

和号 わごう

「和──」を冠し、ほかの呼名と合成しての敬称。

〈和号〉の手法は、古典文学の世界を華やかに彩る効果を生んだ。

参考

和上臈(わじやうろう)和御前(わごぜ)()殿(どの)といふ事は、その人をうやまひていふ事也、和は日本の号なり、人の貴賎は姓氏によることなり、往古は異国の人多く日本に来り姓を賜りしなり、されば上姓の人を、日本の氏なりとうやまひて、和上臈、和殿、和主といゝしより起りたる事なり、わしは私の略といえども和氏(わし)なり、おらも()()なり、わごれも和御料(わごりやう)なり、西国にて人をさして和次郎(わじろう)といえるも、和氏郎なるべし、&一挙博覧・一・二十六

倭の五王 わのごおう

南朝の宋に対し遣使し朝貢した五人の倭国王、(さん)(ちん)(せい)(こう)()をいう。

 

通説によると、仁徳・反正・允恭・安康・雄略の各天皇を比定している、と。〈倭の五王〉の名はいずれも称賛の「讃」、武勇の「武」のように、好字をもって選ばれている。

 

和風諡号 わふうしごう

奈良時代後半、一部の歴代天皇に贈られた謚。

当然、大和言葉でつづられ、たとえば、欽明天皇をアメクニオシハルキヒロニハ、天武天皇をアマノヌナハラオキノマヒトといった例である。

和洋混名 わようこんめい

上の名か下の名が洋名の氏名。

外国人と結婚した人や外国籍の人、あるいはリングネームなどに多く見られる。モルガンお雪、ディビッド石井、ジャイアント馬場といった類。

参考

●お雪と三百万円/米国の富豪モルガン氏が仏国に客死したので米国の新聞紙はお雪夫人の写真を掲げたり大々的にお雪に関する記事を記載して「豪商の娘」だとか「有名な刀鍛冶の家に生れた非常な美人」などゝ書きたてゝゐる由だ、それでモルガン氏の遺産百六十四万五千弗は大部分お雪の手に帰するだらうと云ふ事だ。&読売新聞・大正四年七月十六日

童名 わらわな

若名(わかな)〉〈小字(こあざな)〉とも別称する。〈幼名(おさなな)〉に同じ。元服名をつける前の通称。

〈童名〉は中国での慣習であったものが、嵯峨天皇の時代にわが国に移入されたという説がある。また、菅原道真の「阿呼(おこ)」という同名がわが国の初見である、とする説もある。中世の童名にどんなものがあるかというと、

あま、つぶね、やや、菊姫、春王、石堂丸などで、男女児どちらか不明のものも少なくないのも特徴である。☟幼名(おさなな)

「わらはなむぎといひける人にすみけるを」(兼輔集の詞書 

参考

●古は小童にをさな名あり、わらは名とも云ひ、元服已前の名也、何丸何千代丸などゝ云ふ名也、是貴賎ともに同じ、元服の日、何太郎、名次郎と名のりて、実名を付くるなり、今世は赤子の時より、何太郎、何次郎、何之丞、何之助などゝ名づくる也、何太郎、何次郎はえぼし名とて、元服の日より名のる、是古風也、助丞などは官名の字也、&四季草・秋草上・姓名●童名に箱王春王鬼王などいへるは、古は三世王五世王などの姓を賜はるは、多くは元服して賜はれるなるべし、童部の時はいまだ諸王なれば何王と称したるが、凡人の家にも移りたるならんと思はる、&南留別志・一

 われ

自身を指す第一人称。漢語風文語として近代に中核をなした。