中世

 

 

21 そなたが腹の中いたときも朕は母をも寵愛した

──後深草上皇

我新枕は、故典侍大にしも習ひたりしかば、とにかくに人知れずおぼえしを、いまだ言ふかひなきほどの心地して、よろづ世の中つゝましくて明け暮れし程に、冬忠、雅忠などに(ぬし)づかれて、(ひま)をこそ人悪くうかゞひしか、腹の中にありしおりも、心もとなく、いつか〳〵と、手の内なりしより、さばくりつけてりし。

&『とはずがたり』巻三、後深草院二条作

後深草(ごふかくさ)天皇(12431304)は第八十九代。十六歳で弟の亀山天皇に譲位、持明院に移り院政を執る。

『とはずがたり』は後深草上皇の女房二条(中院大納言源雅忠(むすめ))による日記風回想自伝で、上皇から寵愛を受けた様子がつぶさに述べられている。

引用部を現代語で意訳しなおすと──私の初体験はそなたの母である亡き典侍(すけ)(だい)に手ほどきされた。彼女を好きであったが、まだ一人前でなかった私が恋心を告白するのに戸惑っているうち、大炊御門(おおいのみかど)冬忠や雅忠(作者の亡父)に奪われてしまった。そなたが母胎にいたときも、(乳母らに)抱かれていたときも、母親を愛し続けてきたのだよ。

すなわち上皇は、母親の典侍大と娘二条の二人を相手に肉体関係を結んだ。あろうことか、それを娘との睦言にのせた。下賎の譬えでいう「親子丼」だったと告げたのである。

性の乱脈が茶飯事の後宮の主とはいえ、寵妾にとって残酷な告白をしたものだ、と今日的倫理観で断ずるのは早い。当時の宮廷では乱交相姦など珍しくもなかったのだ。当の二条も上皇の心中を思いやる記述をしている。色情は血よりも濃し、か。

 『とはずがたり』写本の表紙、宮内庁書陵部蔵本

22 われ七生まで生まれ変り朝敵を滅ぼさん

──楠正季

七生(しちしよう)マデ只同ジ人間ニ生レテ朝敵ヲ(ほろぼ)サバヤトコソ存候(ぞんじそうら)ヘ。

&『太平記』巻二、伝 小島法師作

(くすのき)正季(まさすえ)(?~1336)は吉野朝時代の勤皇の武将。正成(まさしげ)の弟で、湊川の戦で兄と交刺自刃

兄正成が「(そもそも)最期ノ一念ニ依リテ、善悪ノ(しよう)ヲ引クト云ヘリ。九界(きうかい)ノ間ニ何カ御辺(ごへん)(ねがひ)ナル」と問うたのに対し、正季カラカラと打ち笑い答えた、とある。まさに死際の執念をこめた一語だ

正成・正季兄弟は、足利尊氏の幕府軍と戦い、湊川に敗死した。後醍醐天皇を護持したことから忠君烈士とあがめられる。なかんずく正季の臨終言は、後世にいたり「七生報国」という四字成語を生んで、後世、軍国日本を鼓舞するスローガンになった。あるいはまた、この兄弟はじめ正成の子の正行(まさつら)・正は、忠臣(かがみ)として戦時下の国民学校教科書にも登場している

 楠木正成の銅像〔東京都千代田区外苑に建立〕

出典の『太平記』はどうも楠側に肩入れしすぎで、高氏(尊氏)を頭から朝敵と決めつけている。公正とはいいがたい。悪逆非道をなした高師直(こうのもろなお)(尊氏の執事)ならいざ知らず、尊氏はなかなかの人格者で、史料においても好意的記述のものが少なくない。歴史発掘によってゆがめられた人物像を正すのも、後世人のつとめであろう。

 

23 何が院だ、犬じゃないのかい

──土岐頼遠

此比(このごろ)洛中ニテ、頼遠ナドヲ(おろ)スベキ者ハヲ、如何ナル馬鹿者ゾ。(中略)何ニ院ト云フカ、犬ト云フカ、犬ナラバ射テ落サン。

&『太平記』巻二十三、伝 小島法師作

土岐(とき)頼遠(よりとお)(?~1342)は南北朝時代の武将。奇矯な言動で社会を騒がせた。

バサラは婆沙羅とも書く。派手で奇を衒い、良識と秩序を破壊する言動をとることの、中世における流行語である。守護職にあった佐々木道誉と並んで、土岐頼遠も典型的なバサラ国主であった。

康永元年(興国三年)九月のこと、樋口東洞院筋の辻で光厳天皇の行列に行きあった馬上の頼遠は、下馬の礼をとるよう申し渡された。ところが彼は素直に従おうとせず、院を馬鹿者呼ばわりし、犬とののしった。あげくに上皇の牛車(ぎつしや)に矢を射けてしまう

この狼藉に対し、幕府は罪をただすから出頭せよと命じた。頼遠はこれまたすっぽかして美濃へ逐電、反乱体制をととのえにかかった。が、結局は捕らえられ斬首されてしまう。

この一件での頼遠、比叡芝原で坐酒にしたたか酔った上での所業とされているが、管巻く相手が悪すぎた。この世の中では反体制者は理由・動機など不問、誅せられる仕組みになっている。肩をゆすって恫喝(おどし)をかけるなら、しっかり相手を見てから、だ。

 土岐頼遠、美濃国青野原にて南朝方北畠軍と遭遇し合戦に〔『太平記絵巻』巻十九 青野原軍事付曩沙背水事、国立歴史民俗博物館蔵〕

 

24 釈迦といういたずらもの

──一休

釈迦といふいたずらものが世に出でて

     おほくの者をまよはするかな

&『一休水鏡』一休宗純家集

一休宗純(いっきゆうそうじゆん)(13941481)は室町中期の禅僧。頓知話などであまねく知られている。

同書にはまた「南無釈迦じや娑婆じや地獄じや苦じや楽じやだうじやかうじやといふが愚かじや」と、言葉遊びにのせた一首も載せてある。

痛快じゃ! たいていの人が訳もなくありがたがって崇める釈迦や仏法を、一休は真正面からからかってみせた。仏教を私利私欲の道具にしか利用しない末世坊主どもには、さぞ耳の痛い詠であろう。五百年以上も経た現世、仏教堕落に匙を投げた一人の無信心者は、よくぞ言ってくれましたと、拍手喝采を送りたい。

 一休像。風体を一切気にしない一休にして、はじめて着飾らない道歌が詠じられる。

 禅問答や頓知話で知られた一休は、自ら「風狂の狂客」と称した。その生涯を通じて求道と批判の精神を忘れず、汚濁にまみれた権力にの戦いを挑み続けた。彼の我欲を捨て去った姿勢は、単なる布教巡礼の徒でしかないいわゆる上人・高僧どもと比べ、はるかに次元の高みにあった。

一見狂歌風のこうした道歌も、一休の並なみならぬ修行で得た悟りと見た。生ぬるい堂宇法話などには覗い知れない求道の厳しさすら感じられるではないか。

 

25 女人の身は諸仏に捨てられし身にて

──蓮如

女人ノ身ハ、十方三世ノ諸仏ニモステラレヌル身ニテ候ヲ、阿弥陀如来ナレバコソ、カタジケナクモタスケマシ〳〵候ヘ、ソノユヘハ、女人ノ身ハイカニ真実心ニナリタリトイフトモ、ウタガヒノ心フカクシテ、又物ナンドノイマハシクオモフ心ハ、サラニウセガタクオボエ候。

&『蓮如御文章(ごぶんしよう)文明五年、吉崎にて筆

蓮如(れんによ)(141599)は室町後期の真宗の僧で、本願寺第八代法主。

古来の仏教観によると、女人は五種の障礙(しようげ)つ。よって梵天(ぼんてん)(のう)(たい)(しやく)(てん)魔王(まおう)(てん)(りん)(じよう)(おう)それに仏身にはなり得ない、と。蓮如の掲出の御文にある「十方三世ノ諸仏」にも見捨てられた、浮かばれない身分なのである。女はこの世では結界えて禁制の寺院に入ることはできないし、死んだあと仏身になれないわけだ

要するに、仏教は男性本位の宗教で、女性は穢れ多いものゆえ仏門の徒たるを得ず、と根本から差別の態度をとっている。各宗派ともこの教義は外さず、そのうえで「善男善女」の名のもとに信仰を促し広めている。女性方、この大いなる矛盾をいかがお考えか。

 叡山や高野山は典型的な女人禁制の結界の場

 蓮如は御文においてまた、「女人ノ身ハ(*中略)無間地獄ニオチン身ナレドモ」阿弥陀如来の御手により救われる、と強調している。御仏の名のもとに、教義を都合のいいようにこじつけ解釈し、済度(さいど)などと抜かしているのだ。古今の上人とか聖人などという布教屋は物事の本質を洞察しうる哲学を持ち合わせておらず、その言動は得てしてこんな程度のものでしかない。

 

26 さあ、なんと読む?

──雪舟

子子子子子子子子子子子子

&『せつしう草双紙集』十一、鳥居清倍ほか画文

雪舟等楊(せつしゆうとうよう)(14201506)は室町後期の画僧。水墨画に傑出。

謎解きを二段構えですることになる。第一、掲出歌の読み方のタネ明かし。出典の末尾にこうある。

 雪舟しばらく黙然して、かくぞ読みける

()(この)()()()()()(しの)()()(し  )

()/と十二いろ読みける時、御感なゝめならずとなり、此時より雪舟が誉高し

雪舟、唐土(もろこし)から帰朝したことを天子が聞き及んで、「そちは絵のほか狂詩にもたしなみありと聞いているが」との御下問に、雪舟が答えて才を示した、ということになっている

第二のドンデン返し。この言語遊戯歌、じつは雪舟の時代よりも六百年も前に()(のの)(たかむら)(802852)という漢詩人が作って発表済みなのである。説話本『宇治拾遺物語』巻三・十七条に載っている。

篁の故事から盗み取ったか、雪舟の手柄話になっている。もし事実なら、ネズミ絵で名高い彼の名が「泥舟」になるような小細工だ。

 雪舟、泣きねずみの画

 

27 佐保姫が立ったままおしっこ、春だよなあ

──有名連歌の吟句初め    

 春

霞の衣すそはぬれけり

           佐保姫の春立ながら尿(しと)をして   

&『新撰 (いぬ)筑波(つくば)集』山崎宗鑑編

山崎(やまざき)宗鑑(そうかん)(14661553)は室町末期の俳諧連歌師で、談林俳諧の祖。

宗鑑が編んだ『犬筑波集』は、天文頃までに詠まれた俳諧連歌(俳諧発句の付句)集である。その第一歌は、「霞の衣の裾がぬれてるよ、佐保姫(春をつかさどる女神)が立小便をなさったので」の意味である。「霞の衣」「佐保姫」「春立つ」はすべて縁語関係にある歌語。滑稽味のうちに意味深長な付句の妙を漂わせている。

「佐保姫」松岡映丘画

 俳諧連歌は、和歌から分岐した室町期今様の滑稽俳諧を趣きとした短文芸である。『新撰筑波集』撰者で連歌の正統派を任ずる飯尾宗祇らが、連歌を芸術域まで高めようとする機運のあるなかで、宗鑑や荒木田守武らは卑俗語を惜しみなく使いこなし、連俳としての独立をめざした。五七五の俳句は、まさにこの両名が基礎作りをしたといってよい。

掲出歌を一読してわかるように、平易な表現で卑語や通俗語を巧みに用い、一見して野卑な印象すら与える。しかしながら、お上品に構えた和歌には見られない、新鮮な息吹きが感じられるではないか。

 

28 我こそは毘沙門の生まれ変り

──上杉謙信

我ある故に毘沙門も用ひらるれ、我なくば毘沙門も何かせん、我毘沙門を再度拝せば、毘沙門も我を五十度か三十度拝せらるべし、我を毘沙門と思うて、我が前にて神文させよ。

&『雨窓間話』松平定信著

上杉(うえすぎ)(けん)(しん)(153078)は戦国時代の武将で、越後の領主。

仏教の宇宙観では中央に座する須弥山(しゆみせん)があり、その中腹北方の守護神が毘沙門天である。財宝を守ってくれる武神で、七福神の一体としてもなじみ深い

謙信は生涯独身を通したが、「毘沙門と結婚した男」と後世に皮肉られている。その帰依ぶりは尋常でなく狂信的といえた。信心つのりついに自ら毘沙門天の化身と信ずるに到った。自分の身を毘沙門天と信じ敬うならば、朝廷はじめ幕府、また越後の領地を守護してやろう、とまでのたまわっている。

有名な川中島(長野市)の戦いにおいても、信玄が孫子の句から取った「疾如徐如侵掠如不動如」を旗印としたのに対し、謙信は「毘」一文字の軍旗を立てている。まさに陽ならびに陰の守護神同士の対決であるかのよう。

周知の通り、川中島合戦は事実上、武田軍勢の勝利で決着をみた。謙信もし信心などに心を奪われず、現実を踏まえた戦法で臨んでいたら、あるいは結果は逆転していたかもしれない。

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29 珍しき肴だ、祝い酒用のな

──織田信長

珍しき肴あり、今一献あるべき…。此御肴にては下戸も上戸も押なべて、ただ食べよ…。何れも数年苦労を致し、勲功重畳するによりて、斯様の肴を以つて酒宴に及ぶ事、誠に大慶是に過ぎず。

&信長記(しんちようき)』巻七、小瀬甫庵著

織田(おだ)信長(のぶなが)(153482)は安土桃山時代の武将。東海地方を統一した雄。

 尾張の覇者信長は、天下統一をめざし勢力を拡大、天正元年には足利義昭を追放して室町幕府を倒した。邪魔な存在であった浅井・朝倉をも滅ぼした彼は、天正二年の正月を浮いた気分で迎える。すでに前年十二月下旬から参加の大小名が岐阜城に参集。新年を迎えるや、信長に戦勝の祝辞を述べた。つれて振舞い酒、ということになる。

 紙本著色織田信長像〔狩野元秀画、長興寺蔵〕

大広間での酒宴がたけなわになる頃を見はからって、信長は掲出のような挨拶を述べたあと、三方に載せた黒塗りの箱を中央に据えさせた。一同が何だろうと見守るうち、小坊主が箱の蓋を取り中身を披露する。

そこには、なんと髑髏(されこうべ)三つ。金銀の箔濃(はくだみ)を施され、義景(よしかげ)(朝倉左京大夫)、久政(浅井下野守)、長政(子息の浅井備前守)との札が付けられていた。

この髑髏(写本によっては塩漬けの生首)を肴とした酒宴は、信長に手向かうものは皆こういう姿になる、という恫喝にほかならない。いかにも信長らしい意表をついた演出であった。

 

30 千代のよわいを君にゆずりて

──曽呂利新左衛門

御秘蔵の御庭の松は枯れにけり

     千代のよはひを君にゆづりて

&道聴塗説(どうちようとせつ)』大郷信斎著

()()()新左(しんざ)衛門(えもん)(生没年未詳)は豊臣秀吉の御伽衆。数多くの逸話がある。

太閤秘蔵の松が枯れてしまった。秀吉、不吉の前兆でなければよいがと気にやんでいる折もおり、居合わせた曽呂利はニヤニヤ笑っている。秀吉は「無礼者めが!」と目を吊り上げた。新左衛門、すかさず掲出の一首を短冊に書いて示し見せたところ、主君の機嫌がたちどころに直ったという。

 『曽呂利新左衛門笑話』(南図生著、大学館刊、一九一四年・五版)には数々の曽呂利笑話が収められている。

この歯の浮くようなおべっか使いは、曽呂利の十八番(おはこ)とするところ。御伽衆役目恥じず、おもねりの逸話がいて捨てるほどある。彼は持ち前の機知を存分に発揮し、太守のご機嫌取りに専心した。そうした態度は、皇帝に絶対的な服従を尽くす中国の宦官に似て、知る人によっては虫酸を走らせる。

曽呂利は太閤に見出される前は一介の(さや)であった。作った鞘に刀を入れたとき、そろりとはまることからこの二つ名を考えたとか。彼の残したと伝えられる辞世がまた、

  御威勢で三千世界手に入らば極楽浄土われにたまはれ

と、阿諛(あゆ)にソリ合わせたものであった。

 

 

 

 

 

31 秀吉の一言で光秀に叛心?

 

主君(筆注=織田信長)はむごい人也、我々骨命を捨てゝ苦戦し、大国を責め取りていつまでかくてあるべきぞ、讒言(ざんげん)のために一命を空しくすべし、随分御身を大切にせられよ。 &『改正 三河後風土記』羽柴秀吉

 

 本能寺の変で悪者にされた明智光秀だが、彼もし信長に仕えなかったら日本の歴

史は変わっていたであろう。それほど有能で切れ者の光秀が才を発揮するにつけ、

信長は不安と癇の昂ぶりを覚え、光秀を疎ましく思う。誰の目にも、主が臣につら

く当たっているのが見てとれた。

 そうしたおり、秀吉は光秀の耳へ掲出の文字通り「殺し文句」ををさりげなく吹

き込む。ただでさえ疑心暗鬼の思いに駆られていた光秀は、このささやきで謀反の

邪念を固めたという。

 明智光秀像

 ここで問題なのは、光秀が三日天下を取った後の秀吉の豹変振りである。本能寺

の変を知ると、毛利氏と手を結び、叛臣討伐の大義をかざして光秀を追討した。

  そして天正十年六月十四日、宇治の小栗栖(おぐるす)の百姓が敗死した光秀の首を持参したと

き、陣屋にいた秀吉は「明智よ、酬いは早かったのう」と首に語りかけた(『人間臨

終図鑑Ⅱ』山田風太郎著)。この二件における秀吉の言葉が真実であるとすると、太

閤は許しがたい策士で卑怯者ではなかろうか。

 

32 富士の嶺を枕に

──よみひと知らず

富士の嶺をしぜん枕にせん人の

     足をば伸ばす武蔵野の原     

&『堀川太郎百首題狂歌集』下巻、池田正式(まさのり)

──曽呂利新左衛門

天と地を団子に丸めて飲む人を

     鼻毛の先で突きとばしけり

──伝 秀吉主催のホラ歌大会にて

狂歌にもさまざまな種別がある。たとえば生活ぶりを茶化したもの、時局批判の落首、有名人をからかった作品、洒落で有名句の捩り、物名折込み歌など。掲出は遊び心を託した狂歌、ご愛敬ものである。

二首ともホラ話を狂歌に仕立てた作品で、読者を笑いに引き込む効果がある。頓知と奇抜な発想の冴えがうかがえる。

 『堀川太郎百首題狂歌集』の表紙

 秀吉もこの種()歌会が好みで、曽呂利もしばしばかり出されていたようだ。後に江戸狂歌中興の祖といわれる椿軒(ちんけん)も、四方赤良や唐衣橘洲弟子を集めて狂歌サロンを開き、珍歌妙詞披露しあっている

極大と対比するような極微の世界を詠じたホラ歌も二首、紹介しておこう。

普阿弥

  けし粒の中くりあけて堂を建て一間かこうて手習をせん

よみひと知らず

  おし丸め虚空(こくう)をぐつとみければ須美(しゆみ)天地もさわらざりけり

 

33 へそより下はいかにお比丘尼

──雄 長老

剃り落し(かしら)(じらみ)はなきとても

     へそより下はいかにお比丘尼(びくに)

 

&古今夷曲(ここんいきよく)集』巻九、生白堂行風撰

(ゆう)長老(ちようろう)こと英甫(えいほ)永雄(ようゆう)(15471602)は安土桃山時代の僧で狂歌草創期に活躍した一人。

作者は建仁寺の住持である英雄長老の略号を借り狂号とした。伝によると、母方の伯父が細川幽斎とかで、文才の血を濃く引いている。近世狂歌の礎を築いた一人、なかなかの名物僧でもあった。

しかしこの狂歌、坊さんの作だから問題あり、なのだ。第一に、内容が低級で、狂歌というよりもバレ歌である。袈裟姿で股下三寸を露出しているような作品だ。第二に、女いびりの露骨な心で詠んでいる。締めの句、「お比丘尼」を「小坊主」と読み替えても通用する安易な歌だ。現代ならセクハラを意図したものと突き上げられても釈明の余地がないと思える。

 『古今狂歌袋』に収載の雄長老と次の狂歌、これも交合を主題にした下卑た一首。

金ひらふ/夢は/ゆめにて/夢のうちに/はこすると/みえし夢は/まさゆめ

 この人、宮中での連句例会などにも顔を出したり、歌壇の月次(つきなみ)歌合でも重きをしていた。狂歌の分野においても後輩の面倒見がよい。こんな傑作も残している。

偽りのある世なりけり神無月貧乏神は身をもはなれぬ

助平な二首は、たぶん魔がさした時の詠にちがいない。

 

34 絶景かな絶景かな。

──石川五右衛門

絶景かな〳〵。春の眺めは(あたい)千金とは、小せえ〳〵。この五右衛門の目から見れば、価両、万々両。日も西山に傾きて、雲と棚引く桜花(さくらばな)、あかね輝くこの風情(ふぜい)、ハテうららかな眺めじやなア。

&楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』近松(もん)(きよう)作の歌舞伎台本

*石川五右衛門(ごえもん)(?~1594)は安土桃山時代の盗賊の頭目。

日本一の大泥棒という客受けする材料だけに戯曲での類作が多い。掲出台詞も並木()(へい)原作『金門(きんもん)五三桐』を門喬が名題ごと改作したもの

五瓶作だと「春の眺めを価千金とは小さい譬へ。五右衛門が為にはこの価万両。最早日も西に傾き、誠に春の夕暮れの桜も、一入(ひとしお)〳〵。ハテ、らかな、めぢやなアと、今ひとつすっきりしない。セリフとしては改作のほうがずっと歯切れがよく、改作するならこのように、という手本になっている

 切手にもなった歌舞伎演目「楼門五三桐」の石川五右衛門

当該二幕目の場面は、南禅寺山門での真柴久吉との出会い。どてら姿で釜入り刑場へと曳かれて行く五右衛門とのやり取りの一部だ。大泥棒の貫禄よろしく、見得のほうも日本一(につぽんいち)した捨てゼリフである。流れるようなリズムに乗った、本邦の白眉といえる傑作だ

五右衛門の大盗賊たる勿体(もつたい)は、刑場のぞんでの、よく知られた次の辞世にもあらわれている。

  石川や浜の真砂(まさご)は尽くるとも世に盗人のは尽きまじ

 

 

35 つま故に盛りの花と思う身も

──一の台(正室、菊亭(むすめ)、享年三十四)

つま故に曇らぬ空に雨降りて白川草の露と消えけり

──お長(美濃・竹中与右衛門女、享年十八)

盛りなる梢の花は散り果てゝ消え残りける世の中ぞ憂き

──お辰(尾張・山口少雲女、享年十九)

つま故に盛りの花と思ふ身も吹かぬ嵐に散るぞ物憂き

*ほかに辞世の女二十七名。豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(156895)は秀吉の甥で、関白。自身の暴虐と秀頼誕生で自殺に追い込まれた。

文禄四年七月十五日、秀次は太閤の命令で幽閉先の高野山青巌寺において切腹した。理由は、伯父の前関白秀吉に謀反を企てたから。実は秀吉に実子秀頼が生れたため、わが子可愛さに疎んじられたというのが真相だ。

 天下に好色非道との悪名をとどろかせた豊臣秀次

 誅殺のさいの太閤は悪鬼そのもので、連座の名目のもと秀次の臣下や女たちをことごとく処刑した。妻妾三十名は辞世を残しており、これを信長・秀吉に仕えたことのある太田牛一が『大かうさまぐんきのうち』に記録している。掲出はその冒頭三首である。

秀次の実際の蓄妾数はもっと多いはずで、彼の女好きを裏付けている。この大勢の女子を死に追いやった秀吉も秀吉だが、道連れの凶運をつくってしまった秀次もだらしがない。女たちにちやほやされた坊ちゃん(なよ)(すけ)だから、助命工作の才覚も浮かばなかった

歌集は、稚拙な詠が目立つものの、迫真の絶唱の集成でもある。「殺生関白」の汚名を冠せられた秀次の魂は永遠に浮かばれまい。

 

36 切りとった鼻の数、合わせて一二四五名分

──吉川広家

請取申鼻数之事、合千弐百四拾五者、(たしか)ニ請取申候也、恐々謹言

九月十七日                           早川主馬頭  長政(花押)

吉川蔵人殿 御陣所

&吉川(きつかわ)家文書』大日本古文書わけ第九

吉川(きつかわ)広家(ひろいえ)(15611625)は戦国・江戸初期の武将。毛利軍先鋒に立ち朝鮮役に従軍した。

人間の知恵というものは、常軌を逸したおぞましい場合にも遺憾なく発揮される。この「鼻請取状」がその好例だ。

慶長二年、秀吉命令で朝鮮へ進攻した日本軍は、各地で殺戮をほしいままにした。向かう先々で朝鮮兵の死骸が山をなした。国内であれば敵将兵の首級(しるし)を取って戦を競うのが常道だが、海をへだてた国でのこと、何千何万もの首を日数かけて本国へ送るわけにはいかない。そこで打ち首や死体から鼻や耳をそいで塩漬けにし、軍目付のもとへ提出することにした。軍目付、掲出文書の場合なら早川長政が員数を確認したうえで、鼻取状を交付したのである

こうなると鼻や耳の数そのものが戦功の判定基準になり、恩賞に影響する。個別の戦果などつぶさに調べることのできない外地でのこと、婦女子を含めた一般民衆まで「鼻そぎ」の対象にされてしまった。こうした悪知恵の使い方は、魔王すら瞠目させるものがある。

 鼻塚施餓鬼供養も行われる耳塚=鼻塚(京都市東山区茶屋町)

 

37 怖うはない、せめてわらわの手で死化粧を

──おあん

子どもあつまりて、おあん様むかし物がたりなされませといへば、おれが親父は山田玄暦というて、石田治部少輔殿に奉公し、あふみのひこ根に居られたが、そののち治部どの御謀反の時、美濃の国おほ垣のしろへこもりて、我々みな〳〵一所に、御城にゐておじやつたが、不思議な事がおじやつた、よな〳〵九ツ時分に、たれともなく、男女三十人ほどのこゑにて、田中兵部殿のう、田中兵部殿のうとうめきて、そのあとにて、わつというて泣く声が、よな〳〵しておじやつた、おどましや〳〵、そらおそろしうおじやつた、

&おあむ物語』戦記

*山田去暦(むすめ)筆の記録に未伝絵師による挿絵

 『おあむ物語』は慶長五(1600)年、関ヶ原の役で石田三成軍が籠る大垣城において、おあんという女が体験した見聞記である。

 おあんは城内で討ち取った敵首を検分し、白歯のままだと鉄漿(おはぐろ)をつけ死化粧を施してやる。当時は女だけでなく武士も鉄漿染めを流行の美粧とし、染めずの首は鉄漿をつけ髪の毛を調えることで、雑兵でも功名が高まったという。物語の文中、おあんは

 しら()(くび)は、おはぐろつけて(たま)はれと、たのまれて、おじやつたが、首もこはいも

 のでは、あらない、その首どもの()くさき中に、()たこと おじやつた

と書いている。戦国の世の婦人(たをやめ)の、なんと勇壮であったことよ。