古代

 

1 女陰と合歓せん

──伊耶那岐(いざなぎの)(みこと)

ここにその(いも)伊耶那美(いざなみの)(みこと)()ひて()りたまはく「()が身は如何にか成れる」とのりたまへば、答白(こた)へたまはしく「()が身は成り成りて成り合はざる(ところ)一処在り」とこたへたまひき(ここ)伊耶那岐(いざなぎの)(みこと)()りたまはく「我が身は成り成りて成り余れる処一処在り、故、この我が身の成り余れる処を以て汝が身の成り合はざる処に刺し(ふた)ぎて、国土(くに)を生み成さむと()()ふ、生むこと奈何(いか)とのりたまへば、伊耶那美命「然善(しかよ)けむ」と答白へたまひき、爾に伊耶那岐命詔りたまはく「然らば吾と汝と是の(あめ)御柱(みばしら)を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひ()む」とのりたまひき。

&『古事記』上巻、太安万侶撰 

*原文は和訓真名。

日の本は女ならでは夜の明けぬ国。その男女和合の(はら)、伊耶那岐命と伊耶那美命は、わが国の創世神である神代(かみよ)七代(ななよ)(天地開闢(かいびやく)いらい七代続いた神神)の主役として古事記に描かれている。

肉体の一部が突き出て生れついた男神(おのこがみ)は、逆に一箇所が窪んで生れついた女神(めのこがみ)に、合体して国を成そうではないかともちかけた。女神に異論はなく、「然善けむ」との色よい返事だ。こうしてらかな合歓(ねむねむ)天地(あめつち)を揺るがせ、他の創世神と協力しあって日本の国土を生みたもうた。じつに明快そのもので具体的、しかも浪漫を秘めた創世の記である

これを、たかが神話と一笑に付すのはいかがなものか。古事記を成立させた語部(かたりべ)稗田(ひえだの)阿礼(あれ)と、筆録して上中下三巻にまとめた(おおの)安万侶(やすまろ)の労作のほどばれる

とにかく(たわ)ごとなどというちっぽけなものではない。国造りの壮大な男女(まぐ)(わい)のやりとりにまず敬意を表して、本の冒頭を飾ることにした。

 日本の創世神イザナギ・イザナミ二柱。

この二神は誰から生まれたか、などという野暮は言うまい

 

2 なんておもしろかろ、裸踊りは

 

──神神のはやし

あはれ あなおもしろ あなたのし あなさやけ をけ

&『古語拾遺』齋部(いんべの)弘成撰

*古底本『古事記』上巻から撰者の抄出である。

古事記によると、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟、須佐男命(すさのおのみこと)が父の伊耶那岐(いざなぎの)(みこと)に勘当され高天原(たかまがはら)にやって来た。彼はこの聖地ででも乱暴をはたらいたため、天照は弟を恐れ天岩戸(あまのいわと)ってしまう。とたんに世は暗闇に閉ざされた。八百万(やおよろず)の神神が鳩首の結果、石屋戸(いわやど)の前で呪術の神事を催すことになった

選ばれたのは天宇受売命(あまのうずめのみこと)で、伏せ桶の上でオッパイ露わ、足踏み鳴らしつつ衣の紐を解いて女陰(ほと)剥き出しに。このストリップショーに見物の神神は笑いこけ、はやしてる。何事か、と天照が石屋戸を細めに開いて外を覗き見たとたん、怪力自慢の手力男命(てぢからをのみこと)が石屋戸をいっきに開いたので、天照はふたたびその姿を現した

天地(あめつち)は輝く陽光を取りもどした。感動した神神は、掲出のを唱和して舞い踊った。「ああ、すばらしい。たのしい。こんなにも明るいよ、そら」と、ご来光を心から称えあったのである

平塚らいてう(18861971)女史の名言ではないが、まさに元始、女性は太陽であった

 しかるべき余談を一つ。

 上記のような背景から、天岩戸は古来、女陰の異名へと転じたのである。

 天岩戸の御扉ひらいて、それ出たまた出た、そう出ちやたまらぬ、上見て下見て八文ぢや、安いもんだ ──江戸の見世物口上

 天岩戸神社が鎮座する宮崎県天安〔Gigazineサイトより〕 

 

3 美人(をとめ)糞まみれの矢が女陰(ほと)を突き

──(おお)(もの)(ぬしの)(みこと)

ここに媛女(をとめ)在り、是を神の御子(みこ)といふ、その神の御子といふゆゑは、三島の湟咋(みぞくひ)(むすめ)、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、その容姿(かたち)麗美(うるわ)しければ、美和の(おお)(もの)(ぬしの)(みこと)見感(みめ)でて、その美人(をとめ)糞まる時に、丹塗(にぬり)()()りて、その糞まる溝より流れ下りて、その美人の女陰(ほと)を突きき、しかして、その美人驚きて、立ち走りいすすき、すなはち、その矢をもち来て、床の辺に置けば、たちまちに麗はしき壮夫(をとこ)になりぬ。

&『古事記』巻、太安万侶撰 

大久米彦(おおくめひこの)(みこと)が神武天皇に皇后となるべき乙女を媒介(なかだち)するときに申し上げた言葉で、(かわや)におけるバッチイ(つま)(とい)(情交相手の物色)の話である。

話の主人公である美和の大物主命は見目良い勢夜陀多良比売を見染め、彼女が大便を垂れる様子を見物に及んだ。ところが雲古は赤い矢に化けて溝を逆流し、比売の大事なところに突き刺さってしまう。びっくりした比売、その矢を持ってきて床に置いたところ、矢はたちどころに見目良い男に変身した、というのである。

 勢夜陀多良比売の女陰を突き刺す丹塗矢〔fc2ブログ「煩悩くん フルスロットル」より〕

この矢こそ女神が憧れてやまない象徴、男根にほかならない。このあと比売は男と一緒になり、子をもうけている。それにしても、美人の糞が男の一物と化し自分の陰部を突き刺す…なんという発想の奇抜さであろう。神々しいばかりのエログロ・ナンセンスではある。

こういう与太話を奏上した大久米命もさることながら、面白がって耳を傾けた神武帝も神武帝である。しかし考えるまでもなく、超現実的だからこそ神話なのだ。

 

4 女房の角に生えた双六盤?!

──大舎人(おおとねり)安倍(あべの)()臣子(そみのこ)祖父(おじ)

我妹子が額に生ふる双六の

           (ことひ)の牛の鞍の()(かさ)

 

&『万葉集』巻十六

詞書(ことばがき)に「無心所著(むしんしよじやく)の歌二首」とあり、掲出のものはうち一首である

無心所著とは、たがいに無関係の語同士を結び付けて詠み、わざと意味を通じなくする技法をいい、言語遊戯の一種だ。

引用歌の内容は、現代語で「女房の額に生えた双六盤の牡牛の鞍の上の腫れもの」だが、意味はさっぱりである。おぞましいニュアンスの妖歌、といったところか。

万葉巻十六には戯笑歌はじめいささか不真面目な雑歌が収められ、言葉を楽しませてくれる。たとえば、

一二の目のみにはあらず五六三四(ごろむさし)さへありけり双六の(さへ) 

無心所著(むしんしよじやく)は古語でいう「秘密語(ささめごと)」あるいは「無喘言(あとなしごと)」の意味を含み、そうした歌であることから「心の()く所無き歌」という解釈がとられている。

『万葉集』巻十六にはもう一首、

我が背子(せこ)(たふ)(さき)にする(つぶれ)(いし)の吉野の山

 に水魚(ひを)(さが)れる

と、都合二首の無心所著歌が収められているが、詠者の大舎人(おおとねり)安倍(あべの)()臣子(そみのこ)祖父(おじ)は、主君の「意味無き歌を詠んだ者には銭と(きぬ)を取らせよう」という求めに応じ即興で作った。おかげで銭二千文と帛を頂戴したという。この歌は完全に遊戯歌であり、支離滅裂な表現をわざわざ弄して奇矯ぶりを発揮している。(万葉集尼崎本 巻十六 彩牋墨書より巻頭言)

無心所著歌は万葉以後も詠み継がれ、現代なお散見できる。

 西欧でもこれに類するfatrasie(ファトラジー)と称する言語遊戯が存在する。たとえば次の例は、13世紀にフランスで流行した作品である(作者・訳者とも未詳)

  死んだ鮭が/星のめぐりを/罠で捕らえたとき/角笛の音が/雷の心臓を/酢につけて食べた

一見して支離滅裂な語句を意識的に弄し、ナンセンス振りを発揮している。

  

5 法師が頭を御開門に入れ給いたり

──孝謙女帝

彼女体ノ御門ハ天平宝字二年春ノ比。涅槃(ねはん)経文(きようもん)ノ御罰ヲ蒙リ給ヒテ。彼御開門ハ(もろもろ)ノ法師ノ物ヲ入テ。御意ヲ行シ御座(おわし)ケルヲリフシノ事ニテアリケルニ。コノ道鏡。御門ノ近キ辺ノ御持仏堂ニアリケレバ。又例ノ如クニ彼法師ガ頭ヲ。御開門ニ入給タリケルニ。其内ハ都卒ノ内院ノ四十九院ノ浄土ニテ見ヘケル事コソ。末代マデノ世話(がたり)ニテ。不思議ノ中ノ不思議ナリケレ。

&『水鏡』中山忠親著、前田家本

弓削道鏡(ゆげのどうきよう)(?~772)は奈良時代の僧。称徳女帝(重祚前は孝謙天皇)に寵愛され太政大臣禅師、のち法王に。

 孝謙天皇像

道鏡の雄物(ゆうぶつ)と孝謙帝の広開(ひろぼぼ)伝説は、大部分が後世の捏造であり、虚飾に満ちた作り話である。ただし二人とも、色情狂に近い好色家であったことは事実のようだ。

掲出はレッキとした史書からの引用。道鏡の頭ごと広大な御開門に収めてしまう情景など、エロチシズムを通りこして勇壮でさえある。末番句集『誹風末摘花』にも

  道鏡が出るまで牛蒡洗ふやう

との句があり、二人を冷やかしているし、源顕兼著の『古事談』の一部に「称徳天皇、道鏡之陰、なほ不足に思し召して菟薯(とろろ)を以て陰形と()す」と述べている。こうなるともう観念の産物、どちらがデカイか、など問題ではあるまい。

下賎の男が高貴な女性を存分に犯すこの種の話が、『チャタレー夫人の恋人』よりも千二百年も昔の事であると知るにつけ、日本の性文化はきわめて早熟だったと思う。いずれにせよ、道鏡といい帝政ロシアの怪僧ラスプーチンといい、坊主には助平で食わせ者が多い。

 

6 月の障りが八十三と申すにぽたりと落ちれば

──弘法の母御

「いかに大師なればとて。父が種を下ろし。母が胎内(はら)を借りてこそ。末世の能化(のうけ)とはなるべけれ。うき世に一人ある母を。いそぎ寺へ上がれとはのうて。里に下れとは情ない。」とて。涙をお流しある。大師そのとき。「不孝にて申すではなし。」七丈の袈裟を脱ぎ下ろし。岩の上に敷きたまひて。「これをお越しあれ。」となり。母御はわが子の袈裟なれば。何の仔細あるべきとて。むんずとお越しあれば。四十一にて止まりし月の障りが。八十三と申すに。けしつぶと落つれば。袈裟は火炎となって天へ上がる。それよりも大師、しやうさい浄土にて。三世の諸仏を集め。両界くそんの曼陀羅(まんだら)を作り。七々四十九日の御弔いあれば。大師の母御。煩悩の人界を離れ。弥勒菩薩(みろくぼさつ)とおなりある。

〔説教節『刈萱(かるかや)』〕

説教節は中・近世仏教の説教を背景に形を整えた語り物である。(ささら)を鳴らしながらの門付け芸から興行規模に発展した。

「刈萱」で語られる弘法大師(空海)の母は、女人禁制の高野へ入山しようとする。大師の困惑に対しこの母は、「わが子のいる山へ、上らぬことの腹立ちや」と駄々をこねるが、結局は大師の機転で入山でき、面妖な結末のオマケまでつく。

 弘法大師が母御を弔うため建立した慈尊院 (和歌山県高野町)

面妖といえば、超現実的な不思議が次から次へと起こる。母御が腹立ちまぎれに傍の石を(ねじ)ったら、捩り石になった。火の雨が降ったので母をかばったら隠し岩が生じた。四十二年間も閉じていた老婆の月経が回復しポタポタ落ち始めた……。中国四大奇書の一つ『聊斎志異(りようさいしい)』も顔負けの神通力物語だ。弘法大師なる一人の教祖を無知蒙昧な信徒らに絶対視させるために作り上げた罪作りな虚像なのである。

 

 

7 九十九歳婆に惚れられた色男

──在原業平

百年(ももとせ)一年(ひととせ)足らぬつくも髪

     われを恋ふらしおもかげにみゆ

&『伊勢物語』六十三・つくも髪 

在原(ありわらの)業平(なりひら)(825880)は平安初期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。

業平は秀歌を残した歌人というよりも色好みの美男子というイメージのほうが強い。この伝承は、業平の和歌入り伝記である『伊勢物語』がもたらした影響によるもので、後世の文学文芸の引き合いによく利用されている。

掲出歌はその物語集の「つくも髪」からの抄出。前後の筋書は省略するが、要するに、在五(ざいご)中将こと業平がいかに情が細やかで、女を見捨てぬ心の持ち主であったか。たとえ百歳に一歳足りない九十九髪の女心すら惹き寄せる魅力に満ちている、という色男のモテモテぶりを描いている。夢のような観念の産物を現実に照応させているわけである。

業平は確かに女漁りにかけてはマメな男で、彼を思慕した老婆が、

  さむしろに衣かたしき今宵もや恋しき人にあはでのみ寝む

の一首を詠じたところ、その心情や捨ておくにしのびないとして、当夜に同衾している。歌道上手もさることながら、色道においても劣らず達人であったようだ。

 在原業平(狩野探幽画『三十六歌仙額』より在原業平)

 

8 目からススキが生えた人、その名は小野小町

──小野小町の伝説

  秋風の打ふくごとにあなめ〳〵をのとはいはじ(すすき)生ひけり

人夢ニ野途に目より薄生ひたる人有。小野小町ト称ス。此詠歌。夢覚て尋見、髑髏(どくろ)一つ有。目より薄出たり。其髑髏取閑所ヘ置、云々。小野(しかばね)ト知、云々。

&『袋草紙』上巻、藤原清輔著

*小野小町(生没年未詳)、平安前期の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人で、恋歌に傑出。原文の一部は漢文、読み下しに改変した。

有名な謡曲「通小町(かよいこまち)」は、清輔のこの小町伝説をもとに観阿弥が改作したもの。深草の四位少将の霊が小町の死後も彼女の成仏を邪魔する物語である。

 能の演目「通小町」に登場する小野小町

 市原野の薄原から小町作の掲出歌が怨めしげに聞こえ、彼女の菩提(ぼだい)(とむら)うため某僧が現地を訪ねる。そこで野ざらしの小町の髑髏の目穴から薄が生え出ているのを見てとる。いわば亡霊怪談だ。

平安末期の歌人清輔が著した『袋草紙』は、奥の深い歌学書として定評がある。ことに上巻は、歌会の次第、和歌の故実・書誌、希代和歌などの構成。希代和歌には神仏や亡霊に関する珍しい歌が何首も集められ、掲出もその一首である。

巷説の伝でゆくと、小町はよくよく穴に縁の深い(ひと)だ。いや話は逆で、『袋草紙』の髑髏の目穴が後世の「穴無し小町」という尾ひれを付けさせたのかもしれない。江戸の古川柳集『柳多留』にも、

 百夜目は何をかくさう穴がなし

 野晒しで見れば小町も穴だらけ

 

9 この鬱積、逃がれる処なし

──菅原道真

   偶作

病は衰老を追ひて到る

愁は謫居(たくきよ)(もとめ)(きた)

此の(あだ)、逃るるに処なし

観音(くわんおむ)、念ずること一回

&『菅家後集』菅原道真の詩文集

*菅原道真(845903)平安前期の学者・政治家で、学問の神様に。

道真、延喜元年に藤原時平の讒言により太宰府へ流される。以降、失意と怨念の日々に明け暮れ、延喜三年二月、配所において孤独のうちに死す。その寸前の一月、掲出の一篇を作って、彼の数ある詩文集の最後を飾った。

 この詩は「衰、老、病」の三つを山にたとえ、死の賊がやって来ても逃げ場もない、と詠じている。惨めな末路を呪っているがごとき、やりきれない印象の準絶筆(絶筆は詩「摘居春雪」)だ。

道真の死後、都を中心に疫病が蔓延し、旱魃・落雷などの自然災害、あるいは内裏や公家に不幸な出来事が頻発した。これらは不運な目にあわせた道真の怨霊の祟りだとのうわさが流れた。

 怨霊に化身し柘榴を口から吐き出しながら禍を振りまく道真を描いた古絵巻

 あわてたのは朝廷で、醍醐天皇は延喜二十三年に道真を生前の右大臣に復帰させ、正二位を贈っている。

その醍醐帝また、つねに道真の亡霊に悩まされ続けた。結果、清涼殿での落雷騒ぎで寝込んでしまい、とうとう悶死のような崩御だったという。

 

10 女陰名は「つらたり…」

──催馬楽「陰名(くぼのな)

   陰名

〽陰の名をば (なに)とか言ふ 

陰の名をば 何とか言ふ

つらたり けふくなう たもろ

つらたり けふくなう たもろ

&古俗謡『催馬楽』

*詞の作者は未詳。

催馬楽は平安時代の雅楽系楽曲の一つに組み込まれたが、時とともに民衆に広く愛唱される。つまり奈良時代に現れた〈風俗(ふぞく)歌〉を、平安時代に入ってから俗謡集として手を加えられ成ったのが〈催馬楽〉である。9世紀から10世紀前半にかけて隆盛になった。

しかし元をただせば雅楽の系統を汲み、語源に馬子唄(前張(さいばり))の意味がある反面、土臭さが残っているという多様性をもつ。鎌倉時代に現れる組歌の母体でもある。ハレの日などに人々が集い、笛・(しよう)和琴(わごん)などの楽器を伴奏に鳴らしながら唱和する。

掲出の主題は「陰名」すなわち女の隠し処である。陰はくぼんでいるところ、女陰をさす。当時の三つの異名(俗称)をあげつらね歌謡詞に仕立てた。

一見露骨ではあるが、じつは素朴な呪術歌なのだ。「陰名」は酒宴のほか神事や労働のおりにも歌われた。男たちに混じり女も口ずさんだろうと想像できる。集団で睦み合う前の前戯的役割も果たしたのではなかろうか。

 女陰は近代に「谷地(やち)」との別称になる。その底はいつも潤んでいる。

 

11 斬られた頭つないで今一戦だ

──平将門

斬られし我五体、何れの処にか有るらん。此に来れ、(かしら)ついで今一戦(ひといくさ)せん。

&『将門伝説』梶原正昭・矢代和夫共著

(たいらの)将門(まさかど)(?~940)平安中期の関東武将。一時は北関東を掌握、自ら新皇を称し専横を尽くしたが、平貞盛に討たれた。

国に楯つき横暴の限りを尽くした将門は、天慶三年二月、平貞盛・藤原秀郷の連合軍により猿島の北山(茨城県)で討たれた。将門の首は京都に送られ、朝廷はこれを東市で晒し首とした。しかし首は三ヶ月の間腐りもせず、目を見開き歯をむいて、夜な夜な掲出の言葉を吠え続けたという。ある夜、通りすがりの者この声を聞いて、

  将門は米かみよりぞ斬られける俵藤太(秀郷)がはかりごとにて

と詠んで献じたら、首はカラカラと打ち笑い、静かに目を閉じたそうだ。将門の無念を知るものに出会い、やっと成仏できたのだろう。

 将門は侠気に富み、波乱の生涯を送っただけに伝説が多い。斬首のあと、首は東国に飛び帰ったとする死後霊験談もいくつか作られた。そのせいか将門の首を祀る社が現在何か所かに残っている。たとえば東京では日本橋の兜神社、新宿の筑土八幡宮、大手町の将門首塚などだ。ともあれこの怨霊首伝説、絵になる怪談ではある。

 将門鎮魂の碑 (東京都千代田区神田)

 

12 われ死ぬときは娘宮達を皆道連れにする

──花山天皇

われ死ぬるものならば、まづこの(むすめ)宮達をなん、(いみ)のうちに皆とり持ちて行くべき。

&『栄花物語』巻八、編者未詳

花山(かざん)天皇(9681008)は第六十五代。『拾遺和歌集』の撰者である。

病重く余命いくばくもないと知った天皇は、「朕が薨じたら娘達を四十九日のうちに皆あの世へ連れて行く」とのたまわったのだから、こと穏やかでない。四人の娘達は、なすすべもなく嘆き暮らした。

天皇の()言葉は二通りに解釈できる。女宮たちへの独占愛が昂じ、自分の後を追って欲しいという身勝手な遺言。もう一つは、自分の死後娘らの行く末を案じての親心である。『栄花物語』における前後の記述から見て、後者のほうと解すべきだろう。

 宴に打ち興じる花山帝(剃髪姿)

 天皇は後ろ楯であった藤原伊尹(これただ)(天皇外戚の祖父)を失い、さらに女御(にようご)(寵姫)忯子(きし)に先立たれて悲しみに打ち沈む。そんななか、藤原道すすめで出家すると、道は自分の孫に当たる懐仁(やすひと)親王を即位(一条天皇)させた。つまり道兼は花山帝を追い出しを謀ってペテンにかけたのである。

花山院は絶望し、熊野那智へ入山し三年間密教修行に励んだ。京都へ戻った院は御人柄がすっかり変わり、あれこれ奇行に走るようになっていた。

 

13 「いわしみず」まいらぬ人なし

伝 和泉式部

日の本にはやらせ給ふいわし水

     まいらぬ人はあらじとぞ思ふ       

&『年中故事』玉田永教著

和泉式部(いずみしきぶ)(生没年未詳)は平安中期の女流歌人。冷泉天皇の皇后に仕えた。敦道(あつみち)親王との恋愛記録『和泉式部日記』で有名。

イワシは大昔から大衆魚であり、この歌の背景である平安時代には、むしろ卑賤の食魚とされていた。イワシは(いや)しに通ずるから、というのが理由であった。下等の魚とされていたが、栄養豊富なことで認められていて、たまにはやんごとなき人たちの食膳にも上がったようだ。

和泉式部像

「千年に一人の歌詠み」などと、すでに才媛として名を高めていた和泉式部もイワシが大好物で、すすんで食べていた。これを見た者が驚き笑ったので、彼女は即座に掲出の(もの)(のな)折込歌を詠んで応酬した。いわし水は石清水八幡宮をさす。双方の音通を秀句(洒落)仕立ての折句としたのである。

 さて、この出典著者の玉田永教を信用しないわけではないが、この歌が本当に和泉式部詠なのかどうか、ひっかかった。彼女の詠風に今一なじまない気がしたからだ。そこで念のため、角川書店刊『新編 国歌大観』を調べてみたが、該当歌の収載は見当たらなかった。玉田の創作の可能性もある。真実のほどはイワシに聞いておくれ、である。

 

14 清少納言なんて小利口ぶった女にすぎない

──紫式部

清少納言(せいしやうなごん)こそ、したり顔にいみじうはべりける人、さばかりさかしだち、真名(まんな)書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり、かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみはべれば、(えん)になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのずからさるあるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし、そのあだになりぬるひとのはて、いかでかはよくはべらむ。

&『紫式部日記』紫式部記

(むらさき)式部(しきぶ)(9781016)平安後期の女官で女流作家。著作『源氏物語』はあまりにも有名である。

同時代に活躍した才女の和泉式部、(大江)匡衡(まさひら)衛門こと赤染衛門(あかぞめえもん)、それに清少納言を評した部分から。前二者に対しては軽いジャブ程度であった批判が、清少納言に及ぶと強烈なパンチに変化している。ライバル意識まる出し、激情の趣くままに筆を走らせている。

 紫式部日記絵巻〔五島美術館蔵〕 

 紫式部は『源氏物語』で流麗繊細な文体を用い、「もののあはれ」を描いた。が、清少納言のほうも随筆『枕草子』において、理知的気品にみちた「をかし」の世界を描写している。文章の達者という点では、清少納言のほうに軍配が上がるというのが大方の古典通の見解である。

紫女史はその文章上手を「得意になって漢字など書き散らしている」とののしった。もう対抗意識を超えた、憎悪すら感じられる紅い舌鋒である。

この一文は彼女の栄誉に一抹の翳りを投じてしまった。顔を合わせれば他人の噂話や陰口に時間をつぶす、現代の「フツーのおばさん」となんら変わりない素顔を見せつけてくれたのである。

 

15 この世は私の思うがままだ

──藤原道長

この世をば我が世とぞ思ふ望月の

    かけたることもなしと思へば

&『大鏡』『栄花物語』など

藤原道長(ふじわらのみちなが)(9661027)は平安中期の廷臣・政治家。藤原氏全盛期の頂点に立った。

権勢を天下に示した道長の、驕りもまた頂点にあったときの詠である。二十六歳の若さで(ごん)大納言に任ぜられてからの道長は、兄道隆・道兼の物故に伴い出世の道が開けた。

すかさず甥伊周(これちか)の政治的野心をくじき、さらに朝廷および自身の姻戚関係を固めるなどして、ついに従一位太政大臣にまで栄達する。娘のうち彰子(あきこ)が太皇太后に、妍子(よしこ)が皇太后に、威子(たけこ)が中宮になり、三后の父として、飛ぶ鳥をも落とす権力と名声を掌中に収めた

引用歌は寛仁二年、威子を中宮に冊立(さくりつ)したときに詠んだ有名な一首。これ見よがしの詠風は、歌道を外れた品性のない作に(おとし)めている。道長自身は優れた歌人として評価されてはいるが、権力に溺れきった姿勢が、歌人として二流にとどまらせてしまった。

『紫式部日記』には、道長が自分の『源氏物語』に関心を寄せていると書いてある。紫式部という才女も彰子の侍女の一人であるから、道長としても鼻高々であったであろう。

土御門殿釣殿に立つ藤原道長〔『紫式部日記絵巻』より〕

 

16 あんな息子は水責めで殺してしまえ

──熊野の別当(弁慶の父)

さては鬼神ござんなれ、彼奴(きやつ)(筆注=わが子、長じての弁慶)を置きては、仏法の仇となりなん、水の底に柴漬(ふしづけ)にもし、新参に(はりつけ)にもせん。

&義経記(ぎけいき)』巻第三

*熊野の別当は作中人物で弁慶の実父。武蔵坊(むさしぼう)弁慶(べんけい)(?~1189)は鎌倉初期の僧。幼名鬼若丸、のち義経に仕え武名をあげた。

父の別当は六十一歳、母の女房は十九歳。予定月に生れ落ちず、十八か月目に生まれたのが鬼若丸、のちの弁慶だ。出だしから怪物であった。

女房が妊娠し腹が目立つようになると、別当は老年になって子を設けるとはうれしいこと、と期待していた。が、超妊娠期を経て生まれた男の子は、髪黒ぐろと歯も生えそろった、二、三歳に見える異形であった。使いの者がこの旨別当に知らせると、非情なことに、わが子殺しを命じたのである。

 長じた鬼若丸、暴れ大鯉を退治〔歌川国芳画〕

結局、山の井の三位(さんみ)の奥方という弁慶にとって叔母に当たる婦人が、別当を説き伏せ、自分がこの子を養育すると約束して引き取り幼児は事なきを得た。この叔母君は、母胎に八十年間も過した武内宿禰(たけうちのすくね)の例をあげるなど、名説得役を演じている。

鬼若の命は風前の灯であったわけだ。もし彼が父親の命令どおり抹殺されていたら、京五条橋上での義経との劇的な出会いも、衣川での奮戦もあらず、また『義経記』も書かれなかったであろう。

 

17 平家一門でない者は人非人

──平時忠

この一門にあらざらん者は人非人たるべし。

&『平家物語』巻一

平時忠(たいらのときただ)(113081)は平安末期の武将。権大納言として権勢をふるう。

驕れる平家を代弁した一言だ。時忠、妹の滋子(しげこ)(建春門院)が後白河天皇の女御(にようご)に、もう一人の妹時子が平清盛に嫁したことから権力を掌中に収め、掲出の不遜な放言をなす。彼は関白でもない単なる(ごんの)大納(だいな)(ごん)(現代ならヒラ大臣)なのに、「(へい)関白」と称されるほど権力をふるった。しかしその晩年は、壇ノ浦の戦の後能登に流され客死しているように、これまた平氏一門の末路を暗示したものだった。

 出典の『平家物語』は単なる軍記物ではない。平家一門の興亡を文学的に描き、世の無常を示した点で圧巻。その書き出しは美文の典型としてあまねく知られている。

  祇園精舎(しようじや)の鐘のこゑ、諸行無常のひびきあり。沙羅(しやら)双樹(そうじゆ)の花の色、盛者(じようじや)必衰のことわりをあらわす。おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

「平曲」小秘事の一曲「祇園精舎」を聞くと、平家をめぐる命運の無常が、いっそう寂莫たる想いで迫ってくる。

 壇ノ浦合戦絵巻より

 

18 言い寄って来ない男なんか、角三つ生えた鬼になれ

──平安女の恨み節

♪我を頼めて来ぬ男 (つぬ)三つ生ひたる鬼になれ さて人に(うと)まれよ 霜雪霰降る水田(みづた)の鳥となれ さて足(つめた)かれ 池の(うきくさ)となりねかし と揺りかう揺り揺られ(あり)

&梁塵秘抄(りようじんひしよう)』後白河法皇撰

情をかけてくれた男が自分の許へ通って来なくなった。女心も知らで、心変わりした冷たい男が恨めしい。いっそ角が三つ生えた鬼になってしまえ、人にも嫌われるがよい…。色事が思い通りに運ばない憤懣を、精一杯の怨念を込めて女が唄う。

 

歌謡好きな後白河法皇が勅撰した『梁塵秘抄』は、平安末期に流行した今様歌の選集である。この集が成立した治承三年ごろは、「保元の乱」や「平治の乱」など源平相争った動乱が一段落ついた時期。庶民は不安と無常感にさいなまれ、せめてもの慰みにいくつもの流行歌を作り、それを口ずさんだ。現存する五百六十詞のほとんどが七五調で、やさしく歌いやすいものである。

ここに掲げた詞が歌われた時代は、冒頭句にもあるように、古代の「通い婚」の名残りが見受けられる。封建制度下で女が束縛されるようになる以前の時代で、制度的に男女平等に近かった。女が男に対して言いたい放題を歌に託せたのである。

 撰者の後白河法皇

 

19 いざ一番という時に、一発こきやがって!

                                                                                           ──藤原忠家

今は昔、藤大納言忠家といひける人、いまだ殿上人におはしける時、美々(びび)しき色好みなりける女房と物いひて、夜更くる程に、月は昼よりも明かりけるに堪へかねて、御簾(みす)を打ち(かづ)きて長押(なげし)の上にのぼりて、肩をかきて引き寄せられける程に、髪を振りかけて、「あな、あさまし」といひて、くるめきけるほどに、いと高く鳴らしてけり、女房はいふにも堪へず、くたくたとして寄り臥しにけり、この大納言、「心憂き事にもあひぬるものかな、世にありて何にかはせん、出家せん」とて、御簾の裾を少しかき上げて、ぬき足をして「疑ひなく出家せん」と思ひて、二間ばかりは行く程に、「そもそもその女房過ちせんからに出家すべきやうはある」と思ふ心またつきて、たたたたと走り出でられにけり。

&宇治(うじ)拾遺(しゆうい)物語』巻三・二

 『宇治拾遺物語』藤大納言忠家、は一九七編の説話からなる雑纂本である。そのうち「物いふ女放屁の事」。同所にはこうした下ネタ話も何話かある。たとえば成らぬ恋を思い切るため女の屎笥(くそばこ)を取り寄せ、臭気ならぬ香気を嗅いで失敗した男の話(巻三第十八条)など、面妖な話もある。

 さて、情事に及ぶ寸前、燃える身を捩じらせた女が物の弾みで一発プッとやらかしたら、男はどう反応するか。忠家という男はその幸運?に恵まれた。結果、女房はくたくたとその場に臥してしまったのはわかるとして、不可解なのは忠家の態度である。衝撃を受けておおいに悩み、坊主になろうと御簾を出てしまう。出家は思いとどまったもののタタタタと逃げ出す。

なんとも情けない殿(てん)上人(しようびと)だ。女のほうは身の置き所もない恥ずかしい思いであったろう。それを知りつつ立ち去ってしまった。「気にしなさんな。そんなことは屁のカッパだよ」ぐらいのお愛想を言い、情事続行と情けをかけてやるのが男だろうに。

 平安時代の樋箱(屎笥)

 

20 菩薩の私が犯されてあげよう

──親鸞の夢の中で

行者宿報設女犯

我成玉女身被犯

一生之間能荘厳

臨終引導生極楽

&親鸞夢記(しんらんむき)』親鸞筆

 *親鸞(11731262)鎌倉初期の僧で浄土真宗の開祖。

 親鸞の夢の中での女犯を記した部分が載る。

(建長二年、高田専修寺蔵)

「親鸞よ、前世の報いで女犯を為すなら、菩薩の私が玉女(いいおんな)になって犯されてあげる。そして一生の間お前に付きまとい、臨終を極楽浄土で迎えさせてあげよう」比叡六角堂に百日籠りした親鸞が性の煩悩に苦しむ姿に、観世音菩薩が夢のお告げをのたまわったという。下種(げす)な言葉に(いいか)えるなら、親鸞が夢の中で観音様を強姦する切望を表している。

「巫山の夢」という中国の故事がある。四川・湖北の境を流れる名峡で昔、()の懐王が昼寝をしつつ美しい神女に出会い枕を交わした夢を見る。快感にしびれ、事を終えたとたん、あとに残ったのは夢精にまみれた不快感だけであった、と。

われわれ庶民の男とて男女合歓(まぐわい)の夢は見る。が、それはなかなか応じてくれない恋人とか、小股の切れ上がった好い女が対象である。観音菩薩や神女など、とてももったいなくて()(ごめ)にするなど夢想だにつかない。親鸞ほどの御上人様ともなると夢での情事相手までケタが違う。恐れ入りました。