大正時代

 

 

179 私を虐殺して下さる先生を見なければ不安です

──平塚らいてう

私は先生が御手を下して下さる日は無論覚悟して居ります。待って居ます。殺して頂きたい、虐殺して頂き度い。私を虐殺して下さる先生を見なければ不安です。殺して下さい。鉈に打たれて私の頭蓋骨が砕ける音を聞いたならば、最後の断末魔の一呼吸に迫ったならば、私のブレーンがつぶれて了ったならば、其時私は何とか一言でも先生に申上げることが出来よう、報いることが出来るでしょう。これより私には考えがありません。どうぞ虐殺して後に占有して下さい。私を愛してくださるなら、そうして占有していただき度い。お願いいたします。最後のみ手の下る日を待ちます。

&『日本語で生きる3・恋文から論文まで』瀬戸内晴美「新しい女の求婚の手紙」

平塚らいてう(18861971)から森田草平宛恋文の抄出である。明治四十一年らいてう二十三歳のとき、漱石の門人である森田と「閨秀文学会」知り合った。二人の愛は激しく燃え盛り、果ては心中未遂事件まで起こしている。

このラブレターの文面からも、らいてうの森田への思いのすさまじさがわかる。森田も憎からず思い、雑誌『青鞜』発刊(明治四十四年)に奔走する彼女を何かと励ました。しかし森田は優柔不断な性格で、気性の激しいらいてうとの仲は、未遂事件を境に急速に冷めていく。

 『青鞜』創刊号の表紙

 大正元年、らいてうは青鞜社社員の尾竹(こう)(きち)が入院している病院へ見舞いに出向いたとき、奥村博史と出会い相思相愛の仲となった。ところが紅吉も奥村に思いを寄せていた。三角関係になったと知ったらいてうはいったん奥村と手を切る。しかしらいてうはとうとう思慕に負け、『青鞜』の経営を伊藤()()に託し、奥村と同棲生活に入った。

 そこへもう一人の情熱家、田村俊子が加わり…。(次へ)

 

180 紅吉、おまいは可愛い

──田村俊子

紅吉、/おまいのからだは大きいね/Rと二人逢ったとき、/どつちがどつちを抱き締めるの。/Rがおまいを抱きしめるにしては、おまいのからだは、/あんまり、かさばり過ぎている。/(中略)紅吉、/でもおまいは可愛い。/おまいの態のうちに、/うぶな、かわいいところがあるのだよ。/重ねた両手をあめのやうにねぢつて、/大きな顔をうつむけて、/はにかみ笑いをした時さ。

&『逢ったあと』田村俊子

田村(たむら)俊子(としこ)(18841945)は小説家。奔放な生き方で話題をまいた。

 若かりし頃の田村俊子

「紅吉」とは尾竹(こう)(きち)こと富本一枝で、大柄だが文面からみて女役(ネコ)か。Rとは平塚らいてう、婦人解放運動の第一人者であった。田村にとってどちらも愛を分け合った者同士であり、紅吉に(なか)らやっかみの思いを込め、献詩形式のラブレターを発表した。

田村は『木乃伊(みいら)の口紅』『炮烙の刑』といった作品で、女らしい色気のあるデカダンスを描いてみせた。同性愛のみか男性遍歴も豊富で、なかでも妻子持ちの鈴木悦とのカナダ逃避行が話題をさらった。

田村の場合、作品を通して女性解放運動の片棒を担いだものの、結局は生身の男の味が忘れられず、青鞜仲間から半端者扱いを受け上海に渡り客死している。

こうした性的関係を知ることで、女の結社「青鞜」の息づかいもわかろうというもの。女性解放を叫ぶかたわら、性欲の吐け口を仲間に求め、修道尼院的文壇が誕生したのである。うがった見方をすれば、らいてうの「元始、女性は太陽であつた」の名言にも、どこか生臭さがただよう。

 

181 酒と女が中心……世紀末の浅草を活写(資料版)

           ──添田啞蝉坊

浅草のカフエーといへば「オリエント」といふ。女給の波濤(はたう)に「(うる)はしの浅草、わが浅草。」の匂ひがない。お兼、お秀、等々々。卓子(テーブル)の長い行列が荒涼としてゐる。/「(くわう)(やう)(けん)」。古い広養軒である。美人で売る広養軒である。お松、時子、菊枝、信子……無事に飲んで、ジロ〳〵彼女等の顔を眺めるところである。左様(さやう)、もう十五年も前の話になるな、こゝのお絹さんがヒロインで、騒がれたのは。恋の曲芸と冒険で浮名をうたはれたものだ。だが今は丸髷(まるまげ)を結つて「奥さん」になりすましている。広養軒にはこないだまで、そのお絹さんにソツクリな女給がゐて、その鼻の格好(かつかう)を誇つてゐたが、到頭(たうとう)お嫁に行つたさうだ。/「ロツク」。──帝国館の地階、六区の岩窟(ロツク)だ。今、浅草のカフエーの中心はこゝいらにあるらしい。まアあの狭い石段を下りて行つて見たまへ。穴ぐらの周壁(しうへき)と、真ン中に、ボツクス、ボックス、ボツクス。その中に埋まると、頭までかくれてしまふ。その風も通さぬ穴に、此の熱いのにみんな汗を流して沈没してゐるではないか。御苦労様なことだ。此の地底の突き当たりに、稲荷大明神を(まつ)つてあるといふインチキさ加減はどふだ。かほるに弓子に、愛子に、×子×子と、何だか知らぬが色ンな女が居るよ。/「ジヤポン」享楽の殿堂と自称する。東京倶楽部の下だ。器具調度が(こころよ)いといふ。/「バツト」昔の石村(いしむら)だ。これは階上だ。二十人程の女給さんをねめるよりも、階下の人の激流を眺めたまへ。/観音劇場前の、「今半(いまはん)」に「(ぐわ)(りう)(けん)」。昔は流行つたこともあつたツけが。/「ニユーオリエント」。中井桜渓(あうけい)のカフエー春秋座が消逸(せういつ)したあとの、新しい名だ。/「パウリスタ」。コーヒー屋のパウリスタで()ればいゝものを。暗い(へき)(しよく)照明の底で、腐つたピアノが(つぶや)いてゐたが、階下は(めい)々と白色電灯を(かがや)かして民衆食堂と銘を打つた。時流(じりう)(すく)はうといふのだらう。だがそれにしても()だ三割方高い。/「ちんやバー」。至極(しごく)無事なカフエーで食堂で(きつ)茶店(ちやてん)だ。「よか(らう)」は時代の波に取り残されてゐる。/オリエントの並びに「開花(かいくわ)」「世界(せかい)」「(はち)(すずめ)」。浅倉屋(あさくらや)書店の裏手に、オリエントにゐたかほるの「カオルの酒場」。毛利の横の不愉快極まる「花園(はなぞの)」。その前の「カモメ」。/これは正確にはカフエーではないが、本郷バー裏通りの、二(ひん)洋食「竹林(ちくりん)」。自慢のビフテキとカツレツ二品を専門といふ看板だ。テキ六十銭、カツ三十銭、私は特に美味(おいし)いとは思はなかつたが、静かな此の家の気分を愛することが出来る。小さな間口に、六つの(ていぶる)。もの静かな女給が一人。落付いて飲むにもいゝかもしれない。飲食店がどこでもデパートのやうな不体裁(ふていさい)を競つてゐる中に、流行を狙ふこともなく、特に二品(ふたしな)標榜(へうぼう)して、地味(ぢみ)にやつてゐるこゝのオヤヂの抉マガリは買つてやつてもいゝ。/雷門(かみなりもん)から駒形平行かう左側の「エビス」。雑然たる客の種類。銘酒屋のやうな気分。椅子のあしの(あひだ)のダンス。&『浅草底流記』吼へろカフエー

 浅草活動写真街(浅草六区)

 

182 都の横っちょの早稲田の藪に

──早大応援歌の替歌

♪都の横っちょの早稲田のやぶに/そびゆるトタン屋根は我等が下宿/我等が日頃のまかないを知るや/三銭の煮豆に五厘の豆腐/経済を忘れぬ下宿のおかみ/朝から夜までソロバンはじく/ヤセタ ヤセタ ヤセタ ヤセタ/ ヤセタ ヤセタ 死んだ

&『日本故事物語』池田弥三郎著

原歌は「都の西北早稲田の杜に…」で始まる有名歌、詞を改めて紹介するまでもなかろう。この早大応援歌は、同学出身で文学者・歌人の相馬御風(ぎよふう)の作詞。後年、フランス文学者の辰野(ゆたか)(東大出身)は、この歌詞に次の奇天烈(きてれつ)な賛辞を呈している。

 とても作ったなどという人間わざでない。つまずいて、ころんで、拾いあてたとでも評すべき天衣無縫の名作だ。

と、聞きようによっては嫌味と取れるホメ殺しだ。同歌が学内になじんだ頃、学生によって掲出のパロディ詞が作られた。

キャンパス近くに建ち並ぶ下宿屋に不満タラタラの若者が、存分に悪態をついている。ろくなものも食わず、青白い顔をして、下宿のおかみや娘に付け入るスキがないか虎視眈々と狙う与太学生は、この擬作にわが意を得たりと拍手喝采を送ったことだろう。つまずいて、ころんで、拾いあてたとでも評すべき天衣無縫の迷作である。

 早稲田は鶴巻町界隈の学生街(近代)

 

183 読者は目を疑いつつペテンにかかる

──ホシノゴール〔東京朝日新聞・大正二年二月十八日掲載広告〕

 この求婚広告の写真入、しかもスコブル付きの美人である。それに満で芳紀十六歳、銀行には十年信託とはいえ、一万円という高額持参金付きだ……と、読者は垂涎して吊書を詠み進める。が、まもなくオヤと首をかしげることになる。

  ナーンだ、星製薬の性病治療薬「ホシノゴノール」の広告じゃないか。

 美人の花嫁イメージに、チグハグナ性病の組み合わせときた。

 裏切られた読者のショックはじつに大きい。今ならメーカーはもちろんのこと、新聞社にも抗議が殺到することだろう。巧妙な騙しの手口である。

 

184 この絵に鹿児島市民の怒りも大噴火

──時事漫画〔読売新聞・大正三年一月十四日〕

 この年の一月十二日、鹿児島県の桜島が噴火し、鹿児島市などが甚大な被害を被った。

 こうした不幸のさなかにおちゃらけた漫画を載せるとはけしからん、との抗議が新聞社に殺到したという。タイミングが悪かっただけに、桜島大根の屁ひりユーモアも通用しなかったようだ。

  最近(2015年一月七日)起きたフランス新聞社襲撃テロ事件(いわゆるシャルリー・エブド襲撃テロ事件)は、他人事でない。現代であれば頭に血の上った鹿児島市民が読売支局を襲わないとは限らない。万一テロ事件が起きても、大半の国民は新聞社側に同情の目を向けるなど味方することはないであろう。マスコミは民衆をなめてかかってはならない。

 

185 俳優は露出症で変態心理の持主だ

──小林一三

俳優を志すほどの者は、いづれも一種の露出症とも云ふべき変態心理の持主で、舞台に立つて大勢に自分を見せたい、見て貰ひたいと思ふ下心があればこそ俳優にならうとするのである。

&『映画演劇の進むべき道』小林一三著

*小林一三(18781953)実業家。

 この小林の俳優観に不快に思わない演劇人・俳優は居るまい。江戸時代の「役者は河原乞食」とした観念を引きずっているようなもの。芸能関係とは縁の深い東宝を経営したり宝塚少女歌劇団を創設した人の言葉とは思えない。

 小林は阪急電鉄を設立、東京電力も経営する一流の事業家だが、偏見専断はまだしも、二枚舌使いの役者でもある。たとえば宝塚の合言葉になっている「清く、正しく、美しく」はこの人が発案したもの。いっぽう、伝統芸能である三味線音楽を「花柳音楽」とくさし、歌舞伎を現代の国民に合わないとけなしている。演劇や俳優を温かく見守る度量は持ち合わせていなかった(くわしくは『大阪毎日新聞』大正三年十二月八日・九日にレファレンス)

小林の言動を知るにつけ、江戸時代の豪商、紀伊国屋文左衛門を連想してしまう。札ビラ切って粋がってはいるものの、実は野暮の骨頂といった人種。ゆえに小林は今様文左衛門であって、粋な役どころにはまりはしない。

 

186 女には勲章をぶら下げて喜ぶような馬鹿はいない

──福田英子

男は駄目だよ。位階や勲章に目がくらむからね。そこへ行くと女には勲章をぶら下げて喜ぶような馬鹿はいないから頼もしいよ。

&『明治快女伝』森まゆみ

 福田(ふくだ)英子(ひで)18651927)は社会運動家。社会主義婦人誌『世界婦人』を創刊。

 福田英子

よく言ってくれますなァ。男の一人として反論の仕様がない。本当のところだからね。ただし、男のすべてが勲章下げて喜ぶ馬鹿ばかりではない。勲章を呉れるというのに辞退した、作家や落語家だっているんだ。その人たちは「勲章を頂戴するほどお目出度くなし」という一家言を持っているのさ。

福田英子は生涯を婦人啓蒙運動に捧げた、地味ではあるが反骨の闘士であった。明治十八年に大阪事件で女国事犯として連座投獄されたが、出獄後大阪事件の首魁大井憲太郎と一緒になった。やがて大井は、英子と長男を見捨てて去った。二十五年に福田友作と再婚、八年後に死別。男運にまったく恵まれず、大井のような一見闘士風の中身凡夫を信用しなくなっていた。

福田女子ならずと、勲章や位階に名誉欲を満たしたがる同性に辟易(へきえき)しているる。俗物根性の強いほど、そんな見け倒しのオモチャを飾りたがるものなのです。

 

187 兄に捨てられるので芸者になる

──人生相談の投稿

お悩み──私は十六歳になる少女ですが、両親はなく、兄はいつも私に「芸者になれ」と言っております。今、ならなければ一生兄に捨てられますので、思案の結果、芸者になることに決めました。しかし私は声が悪いので、大変困っています。どうか、声のよくなる薬を詳しくお知らせ下さい。(伯耆吟子)

&『読売新聞』大正四年二月二十四日、読売婦人付録

*回答ともに『大正時代の身の上相談』カタログハウス刊より転載。

  お答え──声の悪いのを心配するよりも、芸者になることについてもっと心配することが必要です。あなたに芸者になることを強いるお兄さんは善い心ではありません。それゆえ兄さんに捨てられても、芸者になることを思いとどまって、奉公でもしたらどうでしょう。

 回答者も、いささかうんざり口調で答えているのが伝わる。十六歳であっても世間知らずなのは幼児並だ。

この兄妹、どこかしら淫靡な関係にあるような匂いがする。芸者になれと強要する兄と、捨てられるのを心配する妹。只仲ではないぞ、男と女の関係が出来ているのでは?と邪推したくなる相談内容である。

もっとも、兄といっても二タ通りある。血縁上の兄と、怖いヒモでつながったお兄さん。相談者の場合、淡たんと悪声だけを気にしているあたり、後者である可能性が大きい。いずれ、「身の下相談」に切り替わること、時間の問題のようだ。

 『大正時代の身の上相談』カタログハウス編

 

188 南無三! こりゃ卒倒もの「卒塔婆広告」だ

〔掲載紙未詳、大正四年閏四月、『新聞収録大正史』に収載〕

  書体に梵字を用いた経典文字列および「本田仙太郎合掌」の文字列のみ。

お経離れした無信心者にとっては、ただただ言葉を失うだけである。

 本田仙太郎、宮崎県の出身で、通称か号か不明も「合掌居士」と称されている。別に「日向鉄城」の筆名で著作もあるらしい。いずれにせよ、意図不明の全面広告を出すくらいだから田舎大尽なのであろう。

 

189  Madamの陰毛を撫でゝ居ると

──徳富蘆花

六月二十一日 奥に退き、浴衣で来たMadamを背から抱き、着物をまくり、肉肉相接、──到頭白蚊帳の外に押倒して温柔的交際。快美にたへずして細君声を出す。(中略)細君の十七以前に一番槍をつけた男の奴が憎い。無論羨ましいの意味である。/九月三日 Madamの陰毛を撫でゝ居ると、到頭欲を発し、後から犯す。精液がどろ〳〵。快甚(かいはなはだし)。/十月十四日 時過ぎ寝てから交合をはじめる。下腹の衝からはじまり、馬乗りになり、「下から持つ上げや何の事はなり、「座つてしませう」の提議のもとにBedに座はり、最後に両足をもたげ、膝折臀開きの姿勢で充分に射精する。

&『蘆花日記』大正五年、徳富蘆花記

徳富(とくとみ)蘆花(ろか)(18681927)は小説家。

 装丁は豪華七巻揃い(筑摩書房刊)だが…

人間からヒト科動物になった文豪ご夫妻の生々しい記録である。おかげで先生に後背位(おいぬどり)好みのあること、人が結婚時に非処女であったことまでわかってしまった。日記の性格から悪趣味とはいえまいが、ご本人は案外面白がっておりエロ話をするぐらいの気持ちで書いた節が

蘆花の筆まめなこと定評があり、膨大な量の『蘆花日記』にそれがうかがえる。夫人愛子をMadamと呼び、文中にもこの代名詞がうんざりするほど出てくる。もちろん日常の生活記録が主体だが、おりに触れて、Madamとのアケスケな性交渉も散見できる。例を挙げると「早暁交合」「その太腿を枕にして寝る」「ボボがしたいナ」「交合して精に潤ふ夢を見た」といった生臭い表現が随所に見られる。 

かの俳人一茶も一晩に三交したの四交したのと日記に書いている(77参照)。歴史上の有名人も、夜の素顔は隣の親仁並み、親しみを感じるではないか。

 

190 貫一の××は宮の××へと×××し

──尾崎新緑作

今月今夜の××を僕の×××で濡らしてみせよう/貫一さん!もう堪忍して/いや、堪忍できぬ。……貫一の××は宮の××へと×××し、あれといふ間もあらばこそ、帯は忽ち(さつ)解けて(まと)ふを、払ひつつ、貫一は宮に××せんと×××、びに打ち震××は渾々と(ますます)流れて、××せり。/あゝ、堪忍して!早く死にたい!

&『新続続 金色夜又』尾崎新緑作

紅葉の読売新聞連載小説『金色夜叉』は未完である。宮から貫一に宛てた「人には草花の枯れたるほどにも思はれ候はぬ(はかな)さなど考へす〴〵情無く相成候て、心ならぬ未練も出で申候」という手紙文で終わっている。紅葉このから胃がんの発作に襲われ、を中断しつつも『続金色夜叉』『続々──』そして『新続──』を中途まで書いて発表したが、明治三十六年くなった

 正規本『金色夜叉』 熱海の景〔武内桂舟画〕

 新緑先生とやらが代打の『新続続 金色夜又』を上梓したのが大正五年。紅葉ものの「その後のお話」を踏襲したまではご愛敬。文章はまずまず、筋書きもどうにか格好をつけて進んでいく。

ところが巻末に近づくと筆運びが怪しくなる。宮への思いに駆られた貫一は、成金趣向で建てた豪邸に、宮に容姿の似た女を三十人も集め、夜な夜な性の饗宴に耽る。文中、伏字(ふせじ)がやけにらしい。でも作者は律義者らしくこの偽作も未完で締めくくり、題名も「夜」ならぬ「夜」と意味深である。

 

191 私自身罪人の頭だ

──有馬四郎助

私は君だけが罪人だとは思っていない。私自身罪人の頭だ。

&『人物叢書 有馬四郎助』三吉明著

有馬四郎助(ありましろすけ)(18641934)は典獄。監獄改善を推進、少年免囚保護事業を指導。

泣かせる殺し文句とはこのような言葉だ。有馬の心情こめた説諭には、凶悪な殺人犯ですらコロリと参ってしまったという。

近代日本で悪人・罪人は法権力をもって叩きのめすのが常道であった。その体制下で、囚徒に対し人間尊重の態度で接すること自体、典獄として冒険的行為であった。それを有馬は、極悪人も人なりの観点で、看守と囚人との垣根を取り払うことに努力し、慈愛の心で遇したのである。書けば簡単なようだが、なかなかできることではなく、そこに彼の偉大さがあった。

 関東大震災のとき、有馬所長以下職員は小菅刑務所(東京拘置所)に収監中の囚人一三〇〇名を全員無事に救出したエピソードで有名。油彩画の中央が有馬所長

有馬は京都府警巡査を経ておもに監獄畑を歩き、警視庁典獄となった。次いで監獄局に勤め、やがてキリスト教に目覚めて受洗。さらに流刑囚も青くなる網走監獄所長に就く。ここで彼は、囚人らと人間愛に基づく付き合いに徹したのである。有馬の執務行為は行刑官の手本として国際的にも高く評価され、日本の法曹界に「罪を憎んで人を憎まず」という改革思想を植えつけた。

 

192 ピカソより俺のほうがよっぽど大芸術家

──北大路魯山人

ピカソと逢ってきたがあんなのはニースあたりのゴロツキの親分みたいなものだ。ピカソの陶器なんてものは、およそ芸術家の作品といえるものではない。俺の方がよっぽど大芸術家だということがわかったよ。

&『日本希人・稀人辞典』祖田浩一編

北大路(きたおおじ)魯山人(ろさんじん)(18831959)は陶芸家・画家・料理研究家。

 北大路魯山人

ピカソというと神様のように信奉する人が多い日本で、これはまた思い切った痛評である。ピカソの作品のいったいどこが優れているのかわかりもしないくせに、「これぞホントの芸術」などと抜かしおる文化人どもにショックを与えたようだ。かく申す本人(おぎゆう)も、見ていてなんら感動が湧かず、切りり細工の出来損ないのようなピカソの絵のどこ芸術なのか理解できないのだから、ゴメンナサイだ。

 魯山人という人も曲者だ。自分の作品こそ最高という信念をけっして曲げず、他人の作品をナッテナイかのようにけなし続けた。鼻もちならない天狗を振りかざし、周囲から爪弾きにされた。その人となりを良く言う他人がほとんどいない人物も珍しい。

で、魯山人の手がけた作品はどうなのか。はたしてご当人のたまうように「大芸術家」なのか、あの世へ行ったらピカソに聞いてみたいものだ。「あんなのは日本で一人善がっていた道化じゃよ」なんておっしゃるかもしれん。

 

193 不平不満を満載した異色の雑誌

&『不平』紙に掲出の広告、大正七年八月創刊号

 不平不満を主題に扱った雑誌というだけでも異色なのに、広告そのものが情報発信の爆弾になっている。あらゆる見出しに個性的な暴言が踊り狂い、かつ、今でいう差別用語・不快用語が襤褸のように垂れ下がっている。まさに不平の鬼獄を感じさせるではないか。

 

194 お艶殺しの犯人は その名を渡辺乙松と

──渡辺乙松

♪夢か現か恐ろしや 世に殺人の大罪を 帝都に長くうたわれし お艶殺しの犯人は その名を渡辺乙松と 世の人々に知れ渡る(中略)かの三菱で見し月も 今宵の月の変らねど 因果は巡る小車の 今は獄屋に月を見る 幽明境を隔つれど 草葉の蔭に亡き艶が 今宵の月を見つるらん

&『定本 犯罪紳士録』小沢信男著

口説歌または口説節とは、明治から大正にかけ流行した俗謡の一つである。単調なメロディに載せ五七調の韻を踏んで歌う長編の叙事詩歌。有名な『金色夜叉』の「熱海の海岸散歩する…」も演歌調口説歌だ。

掲出は殺人罪無期懲役囚が作った詞。明治四十三年十一月十一日、三菱ケ原(現丸の内オフィス街一帯)に若い女の死体が発見された。被害者は土田つや(十九)と判明、遺体は残忍な手口により強姦殺人後に遺棄されたもの。事件は一時迷宮入りしたものの、十年後の大正九年に強盗犯渡辺が逮捕され、余罪を追及したところ、つや殺しを自供した。

 明治末期の三菱ケ原より東京駅を望む

 渡辺の供述によると、つやとは恋仲で心中するつもりが、自分だけ遅れをとったとか。その後も(シラ)切り通して自己弁護に徹している。彼の罪の意識が希薄なことは、こんなを作ること自体で明らか。理的葛藤や反省どころか、一篇の歌詞で世間の注目を浴び、殺人というおぞましい行為を美化しようとさえした。

 

195 予自ら旋毛曲りの奇人と信じ

──(宮武)外骨

奇を(てら)は真の人ではない、真の貴人は天稟(てんぴん)天性旋毛(つむじ)曲りが、科学的神秘的に発達したければならぬ、それで自然に価値あ諷刺(ふうし)価値ある滑稽が出するのである。予は自ら旋毛曲りをもってじ、そのヒネクレ根性を一の生命としているで、自らは真の人と信じているのである。

そもそもこの世では奇人と凡人といずれが最も必要であるかと云うに、社会組織の経験から云えば凡人が必要であり、緯線(いせん)からいえば人が必要である。

&『宮武外骨之著作集』予は危険人物なり

宮武外(みやたけがい)(こつ)(18671955)はジャーナリスト・新聞史家。異色の作品群で知られた。

外骨が自己宣伝するまでもなく、彼を知る者で奇人にあらずなどという人は一人もいまい。

もともと切れる天資のうえ博覧強記、加えて「旋毛曲り」ぶりが目立つから、凡人の器に収まりきれない。やることなすこと奇矯に映った。

  外骨は明治三十四年に大阪で『滑稽新聞』を創刊して注目され、大いに気を吐いた。いくつか意表をつく出版も手がけたが、過激な攻撃で当局から要注意人物としてにらまれていた。

 大正五年上京、そのときの住居の庵号が「半狂堂」。のち明治文化の研究に没頭のかたわら、博報堂の瀬木博尚社長をたきつけて、東京帝大内に「明治新聞雑誌文庫」付設の資金を寄付させている。どうしてどうして、まっとうな紳士も及ばない見識を備えていた。

その著作も『筆禍史』『明治密偵史』『売春婦異名集』など型破り。論説も「政教文芸の起源はことごとく猥褻なり」と断ずるなど、耳目を引いた。奇人といっても「偉大なる」の形容が付く奇人であった。

 

196 其の呼込み声雀に似たり(資料のみ)         

──松崎天民筆

 其十二階下に来た最初の夜、彼は私娼窟の関門と云ふべき八百屋横丁から、広い通りの貝殻横丁に出て、更に国技新道桜新道を経て、五区の芸妓屋新道に近い都新道を一周し、懐中寒いのに金自由新道の狭い暗路を辿って、十字街の猿之助横丁に立つた。

 雨にけぶる十二階下の風景

同じ十二階下と云つても、上中下の別は家にもある、雇女(でかた)にもある、これだけ歩くに二時間を要して、呼ばれた家の前には立止まりもし、中に入つて茶を飲んだりもした。「新聞縦覧所」とした街頭は、道行く人にも夫と判る、梅村、秋元、春の家など。

「ちよいと君、寄り給へ、洋服君」

「あら、おまはりさんの萩原さん」

「お髭さん、お髭の旦那、ちよいとウ」

「眼鏡の方、ビールの看板、広告の看板」

「貴君、お入りなさいよ、達磨さん」

「高帽の方、丸い方、すました方よウ」

「お遊びなさいよ、ちよいと、洋杖(ステツキ)の方」

「親分、あら親分、大丸組の親分てば」

 (中略)

「お寄んなさいな、ちよいと、ラブしてよ」

「ちよいと、ちよいと、ジゴマの旦那」

彼は十二階下を一周している間に、白粉の女からこんな風に呼止められた。制服の巡査を嫌って、其の佩剣の響と靴の音とを、何ものより怯ぢ恐れて居る癖に、普通の男と見れば、彼等は安心して、こんな言葉を妙な語調(アクセント)で浴びせ掛ける。其の声、宛然(さながら)雀の如う。&『淪落の女』

 

197 妻秋子を喜んで進上しよう

──波多野春房

(筆注=有島武郎(たけお)が)それほど気に入った秋子なら、喜んで進上しよう。だが、俺(筆注=波多野春房)は商人だ。ただで提供はしない。あいつを十数年扶養してきたんだから代金として一万円よこせ。

&『明治怪女伝』森まゆみ著

 *波多野(はたの)春房(はるふさ)は秋子の夫。生没年等未詳。

作家の有島武郎と波多野秋子の二人は大正十二年、軽井沢の別荘で心中しているが、その直接の動機は春房のこの一言であったという。

 有島は貴公子然とした容貌とダンディズムをそなえた有名作家のため、女優や有閑マダムらの出入りが絶えなかった。そんななかで人妻秋子との恋慕は本物に育って行った。秋子が有島に惹かれていくぶん、夫との仲は冷えていくのに時間はかからなかった。

 悲劇の主人公となった有島武郎

春房は秋子の様子に気づき、詰問した結果、有島との関係を知るところとなった。そこで有島を呼び出し、掲出のことばを投げつけたのである。二人は金銭で解決するという不純な方法を拒み、死を選んだ。

妻を寝取られた亭主は悔しいにちがいない。が、自分にも妻を繋ぎとめられなかった一半の責任がある。姦婦を揶揄するような戯れ歌がある。

  わが妻を人の()るとてごとにへらぬものなりなにしからん(教月法師作、奈良絵本『磯崎』)

 

198 四十五十は洟垂れ小僧

四十五十は洟垂(はなた)れ小僧、男盛りは八九十。

──大倉喜八郎晩年の口ぐせ、巷間伝承

大倉(おおくら)喜八郎(きはちろう)(18371928)は実業家。大倉財閥の基盤を築いた。

大倉翁に限っては、この垂訓も納得がいく。本稿を書くにあたり二冊の大倉喜八郎伝に目を通したが、内一冊『(なまず) 大倉喜八郎』の著者である大倉雄二は、喜八郎なんと八十二歳の時に出生した妾腹の子だという。オッタマゲタ!

大倉はやることなすことスケールが大きかった。なにしろ鰹節(かつぶし)屋のデッチ小僧からき上げ、一代で大財閥を築き巨富を得たのであるから凡人ではない。然、敵も沢山つくり、反目や策謀の修羅場も巧みにくぐり抜けてきた。

近代まれに見る怪物だから、人物評価も振幅が大きい。激賞組の旗手は幸田露伴で、「木にたとえれば四千年の大樹」と。嘲罵組の代表は高村光太郎で、「金口を吸うグロテスクな鯰」と。双方とも的外れな評だと思う。断片的評などではとうてい表現しきれない、懐ろの深い人物だからである。

 大倉一族の博物館「大倉集古館」〔東京都港区〕

 

199 ……ひょごつく兵庫の兵庫

──日本一の長名さん

一丁ぎり二丁ぎり、丁々ぎりの長三郎、長太郎(たろ)の長次郎、金助・紋助・半相川(あいかわ)・白川ターズノミ、じゃんみんじゃんみんじゃんまん坊の、天目もくのもくぞう坊(途中四十三字分割愛)てえたらばあたら、てえてえからりのてえからり、すってんからりのノッペクロー、やりからまァどをつん出した、棒で縄ァつっぺいだ、髯さ団子を突っ刺した、てぐつくはぐつくひいれえれえと、文福茶釜に毛が生えた、すってんでれつくベーこの(つうのう)きんぎらめめずの首の骨、ひょごつく兵庫兵庫の守

&『民間伝承』十一巻一号、岩手県下閉伊郡川井村で採取の早物語の一節

なんと二百六十字に及ぶ長名である。もちろん実際に名付けられたわけではなく、民族口承の架空名に過ぎない。

長い名前といえば落語に出てくる『寿限無(じゆげむ)』がよく知られ、「寿限無寿限無、後光のすりきれ、…ポンポコナア久命長久命の長助」が全部で百十二。つまり掲出のの倍以上の長さで、これは日本一の長名ということになる。

わが子に命名する場合、長寿にちなんだ目出度い名を付けたいのが親心である。昔の人の名に○寿や○千代といった類が多いのもそんな理由による。長い名を付けるのも同じ伝で、長命にあやかったものである。

また、長名の特徴のもう一つは、たいていが早口ことばになっていること。長い名だからすばやく言ってのけなくてはならない。そのためわざわざ舌をかみそうな語句を継ぎ足して、しゃべりにくいように工夫してある。これらは音声言語遊戯の妙であり、庶民好みの面白さをそなえている。

 おそらく日本一長い駅名ではなかろうか。

 

200 ラジオ文明と呼びなす時代がきた

──室伏高信の評論

ラヂオ文明とわれ〳〵が呼びなすべきところの時代がきた。それは一つの革命である。(*中略)そしてまたラヂオの発達とともにしばしば一人のものが語りて世界の他の凡てのものが耳を傾けることさへも想像されるのである。ナポレオンと雖もその号令の及ぶところは数十万の兵士であつたのに対して、ラヂオ放送局の壇上に立つものはいまや世界を彼の聴手として立つことが可能なのである。Eliteの時代がきたのである。少数の選まれたるものが笛吹き、民衆の駄馬が踊るのである。

&『改造』大正十四年七月号

室伏(むろぶせ)高信(こうしん)(18921970)は評論家。民衆政治を高揚したデモクラットであった。

大正十四年三月一日、わが国初のラジオ放送が始まり、同年内の受信契約者数は、東京・大阪・名古屋のみ開局であったが併せて二〇万件に達している。

放送開始と同時に、室伏は表題の論文を雑誌『改造』に発表。掲出はそのうち結論部分である。

室伏はラヂオ放送の社会的役割を論じ、それの私物化に危機感を表明してる。当時、新しい文明の利器出現ということでラジオ賛辞一色の時期に、たいへん度胸のいる発言をしたもので、彼の先見の明というか洞察力は見事というしかない。

ラジオの出現により体制者(エリート)にとって大衆操作の有力な武器が与えられたという趣旨は、草創期マスコミ論にしては、未来を踏まえた卓見であった

論壇には室伏論を文明の便益に反目する迷論、と(そし)るものもいた。が、見るがよい。ヒットラーはラジオ放送を駆使し、民衆をナチズムの洗礼に浴させた。なかんずく太平洋戦争中の日本国民は、大本営のウソ八百ラジオ放送を信じ、必勝の名に踊らされたのであった

 ラジオ聞く人々〔東京放送局いよいよ仮放送を開始、『時事新報』大正十四年三月二十九日〕ラジオに驚き聞き入る人々が吹出しの効果とあいまって見事に活写されている。吹出しを生かしたチラシ広告

 

201 責め絵師と蛸女房のしがらみ         

──伊藤晴雨

惚れてもいない女を十年も持っていたのは、女房のが「(たこ)」のせいであった。

&今昔愚談(ぼくのおもいでばなし)

伊藤(いとう)晴雨(せいう)(18821962)は風俗画家・風俗考証家。

 女体の責め絵といえば晴雨を連想するほど近代大和絵では有名な存在で、彼の原

画は好事家の垂涎(すいぜん)の的となっている。晴雨は十六の時に責め道具で悶え苦しむ女体美

に開眼、実地のいたぶりをもって切磋琢磨のすえ、責め絵縛り絵を次々と描き続け

た筆生も複製ものを何点か見たが、マゾヒズムの妖美に息を呑む思いをした覚えが

ある。

    晴雨とモデルお兼との仲はよく知られている。お兼は美しいが淫婦で評判、アブノーマルな画材としてはうってつけで、晴雨は気分が乗ると絵筆を放って彼女を組み敷いた。お兼は晴雨と別れた後、竹久夢二の想い女になっている。晴雨は次にモデル佐原キセと共寝の間柄となる。

 お兼をモデルにした晴雨の責め絵

 伝によるとキセは日本的美人で、晴雨に「惚れてもいない」と強がりを言わせた

ご当人だ。美人で蛸持ちときてはさすがの晴雨もポイと捨てるわけにもいかず、十

年一緒にいて二人の子供までもうけている。仕事と女の二股をかけた、うらやむべ

き仕放題人生であった。