明治時代 1

 

 

 

114 新聞発行は不埒(ふらち)の至り

 

──倒幕直後の言論弾圧記録

 

近来新聞紙類種々の名目にて陸続発行致し、頗る財利を貪り大に人心を狂惑動揺せしめ候条、不埒の至りに候。以来官許無之分は一切被禁候間屹度取糺可申旨御沙汰候事。/六月

 

&『市政日誌』明治元年六月五日

 

この一文は明治元年五月の町触れ(町奉行からの布告)を『市政日誌』が転載したものである。倒幕後わが国における、おそらく最初の公的言論界弾圧であろう。

 

明治元年は新聞各紙がこぞって呱々(ここ)の声をあげただ。二月二十三日、新政府の機関紙『太政官(だいじようかん)日誌』が誕生したのをはじめ、同月二十四日に『中外新聞』、四月三日に『江湖新聞』、(うるう)四月十一日に横浜の『もしほぐさ』などが相次いで発刊なっ

 

新聞の筆鋒は当然、時局批判や新政府攻撃にも及ぶ。当局も警戒して新聞の弾圧、無許可発行の禁止に乗り出す。さらに『江湖新聞』社主の福地源一郎が官軍を論評した「強弱論」で政府に捕らえられ、同紙が発行停止に処されたのを機に、出版書籍等の事前検閲制度も新設される。

 

ここに、保守路線を歩む政府側と新時代の先進を任ずるジャーナリストとの間で冷戦の幕が切って落とされた。以降わが国の言論界は、虚実の駆け引き攻防に揉まれ逞しく育っていくのである。

 

 

『太政官日誌』は慶応四年京都で発行された。〔日本大学法学部図書館蔵〕

 

 

 

 

 

115 猫が下駄はいて絞りのゆかたで来るものか

 

♪猫じゃ猫じゃとおっしゃいますが

 

猫が、猫が下駄はいて

 

絞りのゆかたでくるものか

 

   オッチョコチョイのチョイ

 

   オッチョコチョイのチョイ

 

                ──明治二年流行の俗謡

 

維新後の社会では、人事職業を動物に擬して冷やかす風潮があった。このオッチョコチョイ節でも芸者をして猫と称し、流行唄に乗せている。

 

猫と並んで、女郎の擬称は「キツネ」、いつ何時も人をだますから。高級官吏は判で押したようにナマズ髭をたくわえていたので「ナマズ」と蔑称した。木っ端役人のほうはドジョウ髭が象徴(シンボル)だったので「ドジョウ」。時代は下り漱石『坊ちやん』の主人公は校長をタヌキとんでいる。いずれも庶民階級から離れた世界でノホホンと暮らしている人種への、やっかみを込めた当てこすりであった

 

通称「猫じゃ猫じゃ」は維新直後に大流行。この歌に便乗し、次の「下戸じゃ下戸じゃ」なる替え歌が作られ、こちらも飲み仲間の流行歌になた。

 

♪下戸じゃ下戸じゃとおっしゃいますが/下戸が、下戸が一升樽かついで/前後も知らずに酔うものか/オッチョコチョイのチョイ/オッチョコチョイのチョイ

 

 

江戸端唄「猫じゃ猫じゃ」の色紙〔ブログ「日

 

本のあんな事こんな事」より〕

 

 

 

 

 

116 夜ごとのランプは金貨大減の害あり

 

一に毎夜金貨大減の害 二に国産の品を廃物となすの害 三に金貨の融通を妨るの害 四に農や工の職業を妨るの害 五に材木の値上下さするの害(中略) 十に全国終に火災を免れざるの害 十一に()(もと)を殖し増すの害 十二に市街村落終に荒土となすの害 十三に五盗倍増(ますますま)し殖すの害 十四に罪人を倍増さすの害 十五に眼力を損し傷むるの害 十六に家宅品物及び人の鼻目まで熏るの害(以上、各論見出し)

 

&『明治初年の愛国僧 佐田介石』浅野研真著

 

佐田(さだ)介石(かいせき)(181882)は浄土真宗の僧侶・仏教学者。

 

いつの世にも異質の文化や事物を排斥したがる人がいる。佐田介石という坊さんもその一人で、西洋文明の移入を狂信的といえるほど嫌悪した。西洋の科学技術が自国のものより優れているという事実が、価値観を超えて腹立たしく我慢ならないのだろう。

この「ランプ亡国論」十六章の見出し(ここでは一部割愛)を一覧しただけで、論拠もなければ理屈の筋目もない無茶論であること、すぐにわかる。彼にとってはたかがランプ一つであっても、日本の既存文化を破壊してしまう敵なのだ。

 

佐田介石墓所の案内板〔熊本市に所在、PIO21熊本経営塾ブログより〕

 

 さらに彼は、西洋化に伴い地動説が巷間に広まると、旧来の天動説が正しいことを明らかにしようと「視実等象儀」なる装置を作り公開した。これらからも彼の神がかりぶりがうかがえる。

 

彼はこのほかにも「鉄道亡国論」「牛乳大害論」、はては「蝙蝠傘大害論」などの珍説まで発表したというから半端ではい。介石もしタイムマシンで現代社会を訪れたら、まちがいなく発狂することだろう。

 

 

 

117 梅毒の害は眉を損し鼻を落とす

 

──梅毒予防の通達

 

ことわざに虱虫と負債は隠すに随つて殖ると、然れ共、この二の者は、猶執心之を秘し得べし。独り黴毒の害たる、愈秘して愈顕れ、眉を損し鼻を堕落し、盲となり聾となり、四肢不遂、骨折疼痛、終に死亡に至る、幾許ぞや。(中略)嗚呼何ぞ初め一人の医に示すのみで恥有て、他日衆人に示すの恥なきゃ。加之一身毒に感じ、之を妻妾に伝へ、之を子孫に伝ふ、何ぞ妻子の憐みなきや。夫黴毒の蔓延する基本、遊里より甚しきはなし。汝ら売色の身といへども、亦終身遊里に沈没する者に非ず。宜く身を愛し、生を全うし、以て予め前途の計をなすべし。(後略)/明治四年五月&小菅(こすげ)県(のち東京府へ編入)発令「売女に告諭」

 

 

往時の梅毒罹患者

 

 明治新政府は娼妓にまつわる梅毒予防施策の一環として、検梅つまり黴毒検査の奨励を各地方官に通達した。掲出は小菅県が関係方面や遊女宛告示用に配布したもの。この引用文について、出典である『明治事物起原』(第十三編「病医部」所収)の編著者石井研堂は、こう述べている。

 

 いかに漢語流行の時代とはいへ、遊女に読ませ諭さうとするに、どんな了簡にて、斯る六ケしき告諭文を出せしにや、当時の小役人の非常識、その心理知るべからざるなり。

 

誰もがそう思うだろう。随筆などとちがい公用文なのである。単に表現が不適切なだけでなく、余計なことを書きすぎる。もっと要点を簡潔に、要領よく述べれば、半分の文章量に縮まろう。明らかに小役人が自分の筆に酔いながら書いたものである。

 

 

 

118 ラシャメンの女陰に毛が無い

 

 か

 

♪さしみなア 今朝も料理は横浜で

 

オヤ サックリ

 

豚のうしろに小鍋だて

 

大将どんたくすりゃ

 

南京おけしがやってくる

 

ラシャメンおいどに毛が無いか

 

 オヤ サックリサックリ                           ──明治四年頃流行の俗謡

 

ラシャメンは西洋人の妾になった日本婦人をさす蔑称で、語源は書くのをはばかる類のものである。ラシャメンの初成りは、万延元年七月にオランダ領事某の思われ者となった、横浜本町の文吉の娘ちょうとされている。下田の「唐人お吉」は先輩洋妾だったが、彼女の頃はラシャメンの呼び名がまだなかった。明治になり開港場の横浜に外国人が居留するようになると、ラシャメンの数も自然に増えていく。

 

 このサックリ節の詞は、番外者を徹底的にいびろうとする下種(げす)根性がむき出しだ。往時、日本人の排他思想は、外国人をかく見る目を持たなかった。洋妾も美人であるほど反感が強く、市井からの敵にされた

 

「ラシャメン」という開化用語は、昭和も終戦頃まで用いられ、「毛唐」と並んで死語になるまで長くかかっている。

 

  西洋の客と契りてラシャメンは行衛も知らぬ恋の道かな(道百詠)

 

 

ラシャメンを演じる人形浄瑠璃も登場

 

 

 

119 散切頭をたたいてみれば文明開化の音がする

 

──開化都都逸

 

♪半髪頭をたたいてみれば、因循姑息の音がする

 

♪惣髪頭をたたいてみれば、王政復古の音がする

 

(じやん)(ぎり)頭をたたいてみれば、文明開化の音がする

 

&『新聞雑誌』明治四年八月

 

髪型をとらえてその人のタイプを判じた、開化都々逸三連詠である。断髪については次の一文がある。

 

 開国以来、欧米の文化といふ大嵐は、他のものに先だちて先づ国民の頭上を襲ひ、数百年来頭上を飾りしチョン髷を吹き飛ばして痕跡をも止めず、その初めは、諸藩の様式調練者の頭上に、隠然其気圧を低下し、明治維新の声をきいて、狂風の勢あり、官府の干渉、先覚者の勧誘にて、新頭容を現出せり。(明治事物起原・上)

 

 

渡米前の岩倉使節団。中央の岩倉具視を除い

 

て全員がすでに断髪姿である(明治六年)

 

 官府の干渉、明治政府が強いた断髪脱刀令には、不定見で進取気取りの地方役人が最初に飛びついた。滋賀県など一部の県では、なんとチョンマゲに課税までしている。頭にくるぜとボヤきながらも、ジャンギリ頭にせざるを得なかったようだ。次のような作者未詳の開化詠も見つかった。

 

  礼服の帽子を取ればあたまかずチョンマゲ野郎二つ三つ四つ

 

 

 

120 牛鍋食わねばひらけぬやつ

 

──仮名垣魯文

 

天地ハ万物の父母。人ハ万物の霊。故ゆゑに五穀草木鳥獣魚肉。是がの食となるハ自然の理にしてこれを食ふこそ人の性なり。昔々の里諺に。盲丈爺のたぬき汁。因果応報穢を浄むる。かち〳〵山の切火打。あら玉うさぎも吸物で。味を志め々の喰初に。そろ〳〵開花し西洋料理その効能も深見草。(中略) (うし)(なべ)喰はねば開化(ひらけ)ぬやつ。

 

&牛店(うしみせ)雑談 安愚楽鍋(あぐらなべ)』仮名垣魯文作

 

仮名垣魯(がなかきろ)(ぶん)(182994)近代最後の職業戯作者。出典で一躍人気作家になった。

 

江戸時代以前に四つ足の肉を食うことは、社会通念上の禁忌であり、犯してはならない生活則であった。獣肉を食うと死後、(けだもの)に転生するという仏教思想のためだ

 

明治新政府は開国を急ぐあまり、西洋文明の移入をやみくもに推進した。それに伴い多くの既成概念が打破され、大和文化のいくつもが衰退へと向かった。世を挙げてのカルチャーショックの到来である。

 

和食一辺倒の食生活も一新されつつあった。その急先鋒として登場したのが、ネギ入りで美味、体の滋養となる牛鍋だ。

 

 

『暗愚楽鍋』挿絵で、牛肉を食う書生

 

 魯文は牛鍋文化を巧みにカリカチュア化し一編の佳篇に仕上げた。「(うし)(なべ)喰はねば開化(ひらけ)ぬやつ。」とは、まさに時代のバスに乗り遅れるな、の忠告である

 

魯文は式亭三馬の影響を強く受け、また浄瑠璃詞独特の○止め体を表記に踏襲。いっぽう、当世代人にも読みやすく理解しやすい近代文で表現する努力も試みている。彼をもって、古典戯作の時代は幕を閉じたのである。

 

 

 

 

 

121 生を見たがる馬鹿な役人

 

──梅毒検査の風刺狂歌

 

絵ニ(カイ)タ枕草子ヲ(ヤメ)ニシテ(ナマ)ヲ見タガル馬鹿ナ役人

 

&『新聞雑誌』第六十一号、明治五年九月

 

同紙記事に「大阪南北両新地ノ売女黴毒検査ノ儀兎角折合カネ府命仁恵ノ旨趣ニ悖ル者多シトゾ同府新町廓内越後町会議所ヘ左ノ狂歌一首ヲ張付タル由、──」とある。

 

女医などまずいなかった時代のこと、役得の男官医が公認ノゾキを愉しんでいたに違いない。薩長のゴロツキ集団と悪評高かった明治新政府は、開化期に諸愚政を布き庶民を苦しめたが、この検黴制度はそうした悪政の最たるものであった。

 

 

京都駆黴院〔京都国立近代美術館蔵〕明治三年七月に祇園幸道に療病館の名称で開設された。

 

 床の上では男を手玉に取るアバズレといえども、玉門を開き丹念に見せるのはさすがに抵抗を感じた。当時、無知な女たちには「検黴などといって陰中から真珠を採られる、そんなことになったら命が縮まる」といつた浮説が流れたという。

 

この梅毒伝染予防という名目の検査に抗議、廃業したいという女も少なからず出て楼主を困らせた。梅毒持なら客の男のほうにも多かったはず、しかし女医による野郎の検チン制度というのは聞いたことがない。この点でも不公平である。

 

 

 

 

 

122 生血をもって国に報いるのかいな

 

──徴兵に関する告諭の読み違え

 

天地ノ間一事一物トシテ税アラザルハナシ、則人タル者固ヨリ心力ヲ尽シ国ニ報セザルベカラズ西人之ヲ称シテ血税ト云フ。其生血ヲ以テ国ニ報ユルノ謂ナリ。

 

明治五年十二月一日発令、太政官「徴兵告諭」

 

この官製の一文に接し国民は色めきたった。石井研堂著『明治事物起原』第十二編軍事部の「徴兵令」と題する文から引用してみよう。

 

 兵士の義務を血税と、文学的に書けり、当時の人よく文章を咀嚼せずただ血税の二字だけに目を付け、「これ壮丁を病院に送りて、いき血を絞る悪法なり」と煽動する者もあり、遂に百姓一揆の原因の一部をなせり。

 

たしかに、文章担当官が下手に文学的表現を弄したがために生じた誤解である。一部には「逆さに吊るし生き血を絞り取って西洋人に飲ませるそうだ」との流言も走ったと。

 

公用文の場合、文学的表現や不適切文言は書かない決りである。最近の例だが、ある地方自治体の告知文に「付近には文化人も大勢居を構えており、」(傍点は編者(おぎゆう))というのがあった。公用文に対する認識不足の点で、一世紀以前に比べ五十歩百歩である。

 

 

徴兵制度に対抗すべく徴兵逃れの知恵を授ける出版物もあらわれた。

 

 

 

123 痴意ちいぱっぱあ、聞けども解りゃせん

 

──服部撫松

 

()つ其の舞踏や、紀州(みかん)(ぶね)の醜態(俗謡「かつぽれ」)有らず、また觝力(すまふ)(じん)()(やう)(じん)らず、(わづか)に舞ひ、足軽く踏み、不倒(ふたう)(おう)(玩具「起上り小法師」)の微酔を帯ぶるに髣髴(はうふつ)たり、惜しい哉、其の歌、蚯蚓(みみず)の鳴くが如く、伯労の(さへづ)るが如く、()()〳〵、巴啞(ぱあ)〳〵、聞けども解すべからず、真個(まさ)に之を毛唐人の(うは)(ごと)()ふ。

 

&『東京新繁昌記』後編第一「舞踏」、服部撫松著

 

*服部()(しよう)(18411908)開化期の文筆家で造語修辞の祖。

 

出典は漢文体で書かれた見聞記である。掲出部分はそのうち洋館(鹿鳴館はまだ出来ていない)で行なわれた夜会、つまりダンスパーティを実地見聞したもの。

 

「カッポレのように浮かれ騒ぐ様子はない」「相撲甚句の陽気なはしゃぎはない」けれども「チイチイパアパア、毛唐の…云々」と描写している。「毛唐の寝言」とは、往時に「わけの分らない戯言(ざれごと)」の代名詞であった。要するに、文明開化の先端を行く夜会の様子を茶化している

 

当時は西欧語も日本人にとっては異質の文化で、なじめないのは致し方なかろう。西洋人にしても日本語はチンプンカンプン、お互い様だ。

 

けれども漢語また外国語で、日本人がこの時代、漢語をシャニムニ使いまくっている。もう、単なる流行の枠を外れて、漢語を使わないものは文明人にあらず、という有様だ。この出典の著者も漢語にイカれたすえ、漢文体を得々と披露している。まさに、目クソ鼻クソを笑う、である。

 

 

六花亭(本社工場は北海道)の菓子「チイチイパッパ」包装紙

 

 

 

 

 

124 口の減らぬが新聞の種さ

 

──岸田吟香

 

あけぼの新聞ハ昨日から売出すと申す引札が廻ッたゆゑ、昼頃に薬研堀へ買ひに往と、ヘイ本局が駿河台でまだ刷り上て参りませぬ、大かた今晩までにハ出来上がりませうと思ひます、それじやアゆふぼの新聞と直に名を替へたのか子、イエ日報社も前月の初めごろハ配達が翌日に成ッた事があッたけれど東京昨日新聞とも改名しなかッたそうで御座ります、口のへらねエ男だ、口の減らぬが新聞の種さ、口が減ると売れが減り升。

 

&『東京日日新聞』明治八年一月三日

 

岸田吟(きしだぎん)(こう)(18331905)は新聞記者。自家製目薬「精錡(せいき)(すい)」の販売も手がけた。

 

 

岸田が主筆をつとめた頃の東京日日(七百三十六号)

 

 吟香が東京日日新聞の主筆時代に、同紙に載せた読み物記事である。当時の新聞は全部が全部、堅苦しい文語体で書かれていた。その旧弊を吟香が打ち破って口語体記事を書き始めたとき、言論界は沸きに沸いた。しゃべり言葉がそのまま地の文章にされた!じつに画期的なことだったのである。この言文一致に、のち評論家としてデビューした徳富蘇峰も「驚き入った名文」と、冷やかし半分にほめている。

 

やがて同紙は二代目主筆の福地桜痴(おうち)に引き継がれ、吟の庶民寄り健筆は寄稿家立場でますます磨きがかかる。然、読者間に「吟ファン」が増えていき、「吟さん」「吟大将」と名指しでファンレターまがいの投書も目立つ。たとえば、

 

 吟さんの書いたものなら、私どもの餓鬼にも能く読めるだんべいから買って読ませてまさァ

 

といった肩入れもあり、同紙の部数拡張に貢献した。

 

 

 

 

 

125 共に夫婦の道を守ること

 

──森有礼夫妻の結婚契約書

 

第一条 自分以後森有礼は広瀬阿常を其妻とし、広瀬阿常は森有礼を其夫となすこと/第二条 為約の双方存命して、此約定を廃棄せざる間は共に余念なく相敬し相愛して、夫婦の道を守ること/第三条 有礼阿常夫妻の共有し又共有すべき品に就ては相方合意の上ならでは、他人の貸借或は売買の役を為さざること

 

右に掲ぐる所の約定を為し、一方犯すに於ては、他の一方是を官に訴へて相当の公裁を願うふことを得べし/明治八年二月六日

 

&『話の大辞典』2、日置昌一・日置英剛編著

 

(もり)有礼(ありのり)(184789)政治家・外交官。西洋かぶれの言動が禍いし、国粋主義者に暗殺された。

 

森有礼よくいえば進取の人、悪くいえば新しがりの出しゃ張りだった。そのうえ極度に西洋かぶれし、西洋通を鼻にかけていたから、社会の反目を買った。たとえば、日本語表記はローマ字に切り替えよ、など途方もない提案をし、世間の爪弾きにあっている。けっきょく目立ちすぎ、国粋主義者の手にかかり命を落としている。見かけほど(文部大臣を経験)利口な人ではなかったようだ。

 

森は明六社社長時代のこの日、洋式の結婚式と披露パーティを行なった。これが開化風のハイカラ結婚式だったから、世間に賛否両論の話題をまいた。そして夫婦間で結婚契約書というべき約定書を取り交わしている。西洋のどこぞの国の慣習を取り入れたらしい。夫婦署名の後、立ち会った証人として福沢諭吉が署名している。森としては得意の絶頂にあったろう。

 

結婚の約定などは、鴛鴦(えんおう)の契りの既成事実いささかちがい、なんら意味をさない。夫婦間がめてしまったら一片の反古でしかなくなる。

 

 

約定書を交わしたころの森有礼

 

 

 

126 ふっくりぼぼにどぶろくの味

 

──新門辰五郎の辞世

 

思ひおく鮪の刺身(ふぐと)(じる)

 

     ふつくりぼぼにどぶろくの味 

 

新門辰五郎(しんもんたつごろう)(180075)は幕末の火消し頭取。侠客としても鳴らした。

 

 

親分の座を占めたころの辰五郎

 

 辰五郎の名を出すと泣く子も黙る、といわれた大親分、明治八年九月十九日に享年七十六で世を去った。掲出は、その時の辞世と伝えられている。当時の庶民の贅沢が詠み込まれた、飾り気のない秀逸な作である。

 

それにしても「ふつくりぼぼ」には恐れ入った。女陰名を並べた平安時代の俗謡はあるが(8参照)三十一文字(みそひともじ)では狂歌にすら先例がない。そのふっくりぼぼの味を思い出しながら大往生を遂げるとは、男冥利に尽きる死に様である

 

辰五郎には十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)という、当代一のパトロンが後ろついていた。娘を慶喜の側室に差し出し、そのおかげで江戸市中で権勢を振るったのである。たかがの親方が、江戸の居宅とは別に原町二条下に豪勢な邸宅を構え、大坂堂島にも別邸を設けて、それぞれに妾を住まわせた。ふっくりぼぼにうつつを抜かす俗物には違いないが、同俗物がうらやむほど恵まれた生涯であった。

 

 

 

 

 

127 女猫よーお転びよ

 

──擬子守唄の雑謡詞

 

♪女ン猫ヨー お転びヨ

 

今夜の泊まりは何処へ行コ

 

伊勢山(あたり)りか 神奈川か

 

()()目的(めあて)で何ン成と

 

権妻 細君 (しよう)が殖え 

 

女ン猫ヨー お転びヨ

 

&『仮名読新聞』明治九年二月五日、投書

 

江戸子守唄の詞は「ねんねんヨー オコロリヨー 坊やのお守りは何処へ行たー…、これの替え歌である。詞には猫=芸者、楮ァ幣=紙幣、権妻=妾といった、開化新語がはめ込まれている。これら新語は『安愚楽鍋』(129参照)で魯文らが流行らせた。

 

魯文は同志を募り明治八年十一月、文明開化の新時代に即応した新聞『仮名読新聞』を横浜で発行。彼は編集責任者となり、自作品を含め、面白おかしく読める紙面づくりにつとめた。読者の共鳴反応はすばやく、掲出のような投書作品が舞い込む。

 

投書反応は紙価を測るバロメーターである。魯文も投書子の存在を意識して、彼らの質疑にきちんと対応している。たとえば、

 

 浄瑠璃や端唄の替え唄は、紙(ふた)で、猫や(ごん)(ちやん)には解るか知らぬが、賢気(かたぎ)な女房、娘や、(わし)のような頑固(かたくな)にはらぬから廃止(やめ)ろとのお(さし)()し当社の新聞は、貴婦(あなた)方御怜悧(りこう)様を導く(など)と申効能はありません…

 

 

純米酒「猫芸者」カップ酒のラベル〔山梨県・

 

笹一酒造㈱〕

 

 

 

 

 

128 女房はカーッと太い角を出し

 

──与太記事

 

八丁堀はひやうきん者がでるところか、毎日のやうに妙なのが現ハれます。これは岡崎町一丁目の金子平助の後家お初で、十三になる娘もあるいい年の婆ッちい、たまたま葛西のオワイヤでいやに臭ひのある鳥蔵といふ男とクサイ仲になり、鳥蔵は家に女房も子もあるといふのにお初の家に入りびたりゆへ、鳥蔵の女房はカーッと太いツノを出し、あの野郎に小便たれたのが(こや)てたまらない

 

から、セッチンづめ掛けあひをしてやろふと、葛西からクソ骨おって出てきてみると、いつかお初と鳥蔵は行方知れず、そこで昨日大もんちやくだと探訪者が話しましたから、こんな屁のやうなことでもちョッと書きたてました。

 

&『読売新聞』明治九年八月二十六日

 

この一文、新聞とは思えないほどのくだけようである。文章表現が規格化され、お行儀がよすぎて物足りない現代の新聞記事に比べ雲泥の差だ。報道ネタから言い回しまで、井戸端会議の内容をそっくり移してきたよう。記者は「屁のようなこと」と屁りくだっているが、どうしてどうして、個性的でプーッと吹き出してしまう。

 

もともと気の置けない時代、世間も当節のようにギスギスしていなかった。八公熊公は貧乏人同士で助け合うという、下町人情でつながれた連帯感が生きていた。今はどうだ、下町にも缶詰住宅(マンシヨン)が建ち並び、住民同士、隣近所の顔もろくすっぽ知らない。いい意味での噂話に花を咲かせる機会も薄れている

 

他人の噂話やアラ探しは、共同体社会での社交上の必要悪のようなものである。当事者はそれでウップンを晴らし、ストレスを解消させる。屁のような噂をされても目くじら立てない。井戸端会議とて捨てたものではなかったのだ。

 

 

女同士の気もたせな風情を巧みに描いた上村松園「春宵」

 

 

 

 

 

129 遊んで暮らすがご執心なら文学者となれ

 

──三文字屋金平作

 

棚から落ちる牡丹餅(ぼたもち)を待つものよ、唐様(からやう)に巧みなる三代目よ、浮木(ふぼく)をさがす盲目(めくら)の亀よ、人参呑んで首くくらんとする白痴漢(たはけもの)よ、鰯の頭を信心するお悧巧(りこう)連よ、雲に登るを願う蚯蚓(みみず)(ともがら)よ、水に(うつ)る月を奪はんとする山猿よ、無芸無能食も垂れ総身(そうみ)に知恵の廻りかぬる男よ、木によりて魚を求め草を打て蛇に驚く狼狽者(うろたへもの)よ、白粉(おしろい)(むせ)て成仏せん事を願ふ(えん)治郎(じろう)よ、鏡と(にら)(くら)をして(あご)をなでる唐琴屋(からことや)よ、惣て世間一切の善男子若し遊んで暮すが御執心ならば直ちにお宗旨を変へて文学者となれ

 

&『為文学者経』

 

金平先生、世に言う落ちこぼれ、半端野郎を相手に、食い詰めたら文士になれ、とけしかけている。文中挙例のような、救いようのない連中尽しに仕立てた。

 

 

自らの文学書生体験を通して著した坪内雄蔵(逍遥)著『当世書生気質』

 

『為文学者経』は別題を『文学者となる法』ともいい、内田()(あん)(18681929)が三文字屋金平なる匿名戯号を使い明治二十四年四月に発表した。弄辞と譬えたっぷりのこの一文(掲出は書き出し)に対する反響は大きく、文学青年らは喝采を送り、文士連中は顔をしかめた。

 

文豪を自認する某長老などは、ふざけるのもいい加減にしろと、頭に湯気を立てて怒ったという。が、戯文は戯文なのだ。そのところを忘れてカッカするようでは、金平先生言うところの狼狽者(うろたへもの)と変わりないのではないか。

 

 

 

 

 

130 かかさのベッチョなんちょうだ

 

──左義長のわらべ歌

 

♪三九郎 三九郎

 

かかさのベッチョなんちょうだ

 

まありまありに毛が生えて

 

なかちょっと ちょぼくんだ

 

長野県東筑摩郡辺の伝承歌

 

卑猥無比の恐るべき童唄である。もし幼児にあれこれ聞かれたら、親は何と答えたらいいのか。童唄にも淫歌じみた詞がいくつか存在するが、女性器をこれほど生なましく表現したものはあるまい。性神を祀る俗信は全国各地に散見でき、長野県も比較的多いほうである。詞の「三九郎」にはいわれがある。信州で小正月の火祭りを祝う左義長(さぎちよう)という道祖神の地方名なのである。地元では三九と呼ぶ(たきぎ)を持ち寄って燃やしながら、このを唱和、焼団子を食う。ベッチョの意味がまだわからない幼童も加わって歌うのだから、異様な雰囲気であろう

 

 

松本地方に今なお残る「三九郎やぐら焚き」

 

 長野県に隣接の群馬県にも、性神を崇める遺蹟が点在する。たとえば名だたる(こん)(せい)明神を始め福森神社、琴平神社があり、多野郡鬼石町には、その名もズバリ麻良諏訪(まらすわ)と称する社がチン座まします。古民謡の詞に性を取り込んだものが多いのも、人の三原欲望(食・民・性)にのっとったものである。

 

 

 

 

 

131 太鼓が鳴つたら賑やかだんベー

 

──三遊亭万橘

 

♪太鼓が鳴つたら賑やかだんベー、本当にさうなら済まないヨ、こらしやうのどッこいしやう、へら〳〵へら、へらへツたら、へら〳〵へ 

 

&『明治奇聞』第二篇に所収

 

 この踊りはいわゆる「太鼓踊り」で、明治

 

十年過ぎに落語家の三遊亭万橘が演じて大流

 

行した。やがて太鼓持などが座敷芸で演じ、

 

その奇天烈ぶりたちまち全国的に普及した。

 

 言ってみれば「バカバカしい踊り唄」だけ

 

が売りの大衆芸能である。ところがバカ受け

 

し、この出し物がかかると寄席は満員札止め

 

になったという。

 

 色里で太鼓持が演じるおどけ詞章を「太鼓持詞」といった。これは公娼制度の消滅とともにすたれ、現代では太鼓持そのものが姿を消しつつある。ちなみに斯界の古典『吉原大全』に次の一文が見える。

 

太鼓持といへるものは、いち座のもよほし、客の心をうけ、女郎の気をはかり、茶屋、船宿までにも心をそへて座のしめらぬやうに取はやすをもつて太鼓の名あり。きてん才覚なみ〳〵なることにあらず、初回はもちろん、なじみの方へいたりても、太鼓あるひはげいしやなどつれずしてかなはぬ事なり。

 

 

ヘラヘラ坊万橘の高座チラシ

 

 

 

 

 

132 嬶が流れる、大変だ

 

(かかあ)が流れる大変だ大変だ

 

&『朝野新聞』明治十二年十二月二十四日

 

 同紙記事に「東京下りにて新京極の寄席へ出勤する落語家某は、「──」と駈け廻る故、西京に海嘯(つなみ)がありもせまいに、何をふてるか、変な男も有れるものだと、…

 

この落語家、遊蕩がすぎ借金で首が回らなくなり、とうとう女房を抵当になにがしかの金を借りた。しかし返済できず、このままだと期限の大晦日に女房が流れてしまう、と騒いだ。

 

 

「古くからある質屋の店構え」〔ウィキペディアより〕

 

 いくら夫唱婦随の時代とはいえ、女房を品物並に質草とは、と現代人なら首をかしげる。しかし下世話に「女房を質に置いてでも」という慣用句があるように、女房質の例には事かかなかった。質草にワイフを差し出すほうもおかしいが、こうした人倫背反をなかば認めていた社会制度のほうにも罪がある。

 

質入された女房や娘の末路はたいてい知れていた。質屋の狒狒親父の慰みものにされたすえ、淫売屋に転売されるのが落ち。噺家連のでたらめぶりは語り草にされているが、女房を流しては落ちにもなるまい。

 

 

 

 

 

133 日本政府の管下にあるを好まず

 

──日本政府脱管届

 

謹で申上候私共儀従来より日本政府の管下にありて法律の保護を受け法律の権利を得法律の義務を尽し居りたれども現時に至り大に覚悟する所ありて日本政府の管下にあるを好まず今後法律の保護を受けず法律の権利を取らず法律の義務を尽さず断然脱管致度御認可奉仰候/以上/地球上自由生/栗村寛亮・宮地茂平/明治十四年十一月八日/日本政府太政大臣 三条実美殿

 

&『東京朝日新聞』明治十四年十一月十六日

 

いつの世にも常識のラチをはみ出た奇ッ怪な言動をとり、世間を騒がせるヤカラが絶えない。この日本政府脱管届を提出した両名もその類だ。

 

茨城県民の二人は最初、届を茨城県庁へ持ち込んだが、もちろん県知事が受理し中央政府へお伺いを立てるわけがない。届けは県の下部レベルで握り潰され、まもなく水戸警察署の知るところとなって、二人は署へ拘引された。結果、栗村は願下げにより放免されたが、宮地のほうは抵抗でもしたのだろう、懲役百日のお灸をすえられた。

 

お二人さんの行為は、単なる茶目ッ気から出たものと善意に解釈したいところだが、それはならない重大な意味を含んでいる。もし、こうした届が審議に持ち出されでもしたら、脱国籍を願う不満分子が増殖する。人口減少が進み、税金を納めようとしない者だらけになれば国家成立が危機に陥り、また国土は法律無視の連中に占拠され無法地帯化しよう。こんな目茶苦茶なテーマではSF作家も取り上げまい。

 

 

134 町人の賎夫に身を任せる女にあらず                   

 

──元士族の妻女

 

貴様の如き町人の賎夫へ身を任せる女にあらざれば、今日より断然離縁する者也。

 

&『東京日日新聞』明治十六年一月十五日

 

同日同紙が伝えるところによると、元伊達藩某家の娘が縁あって城下の商人大塚家へ嫁いだ。一月四日年始礼のさい、主人留守中の大塚の家に士族の山内某が訪れ、振舞い酒に酔ったあげく、お手前の如き武家の娘御が町人風情に(かた)づかれるとは理不尽なこと、と身分不相応を強調し嘆いてせた。女房のほうも日が経つにつれ、わが身の不幸よと思い込むようになり、山内のすすめに従って、掲出文面の離縁状を亭主に突きつけた、というしだい

 

 

明治時代の漢文調三行半〔ブログ「町人思案橋・クイズ集」より〕

 

 この一件、二つの事柄で椿事たらしめている。一つ、妻のほうから夫に三行半(みくだりはん)したこと。妻は夫に従うものという既成概念が逆転したところに、ニュースとしての価値が生じた

 

二つ、身分の差別を正面切って打ち出したこと。大政奉還とともに四民平等がうたわれたにもかかわらず、十六年たってなお武民の差別を誇示した点が異常であった。それにつけても「女心は秋の風」と、大塚氏もしみじみ感じたことだろう。

 

 

 

 

 

135 神がかり「神代復古請願書」

 

──檄文

 

第一条 上代復古ノ請願ハ、国柱タル皇統ハ 万代歴然トシテ更ニ叡慮ヲ 煩ハセズ、従テ国民ハ一ノ苦民無ク、悉ク安寧快楽ニシテ、富国強兵ヲ旨トスル請願ナレバ、全国ノ有志同盟連署ヲ以テ出願スベキ事。/第二条 一日早ク神代ニ服スレバ、国民一般一日早ク幸福ヲ受ルモノナレバ、相互ニ同盟有志ヲ募ルヲ専ラトス可キ事。(*中略)第十条 神代復古ノ請願ヲ拒ムモノハ我神国人民ト見做ス可カラザル事。

 

小林与平『神代復古請願』明治十八年

 

*小林与平については伝未詳も徳島県の出身らしい。

 

明治十八年、小林与平・与兵衛父子は国学神道説に基づいた神代復古請願運動を企て、同二十一年二月に天皇へ請願の予定でいた。ところが治安維持上問題ありと当局が却下、立ち消えに終わった。その間小林は東京赤坂に発起人事務所を設け、有志を募っている。有志からは毎月会費を徴収して、与平は「先進者」と自称する教祖に収まろうとした。

 

神代復古運動の目的や内容は抽象的な輪郭だけで、具体性に欠ける。一見して一狂信者の独善的着想の域を出ていない。こんな低レベルの請願書をもって、天皇や政府を動かし、民衆を味方に付けられると思い込んでいたのだから呆れる。

 

要するに小林らは、国粋主義を利用した新興宗教で一旗上げようともくろんだ山師にすぎない。第十条に、そんな小ずるい意図が覗き見える。政府や国民は、彼らがなめてかかったほど甘くはなかった。まさに教祖笛吹けど天の岩戸開かず、凡神すら踊ろうとしなかったのである。

 

なおこれの背景については『阿波学会研究紀要』が詳しい。

 

 

八百万の神々〔「草莽全国地方議員の会」ホームページより〕

 

 

136 どうぢや恐れ入りましたか仮名の怪

──かなのくわい

 明治十六(1883)年十月に、国語表記革新派のあいだで、かな文字だけで文章をつづろうと主張する結社「かなのくわい」が発足した。この試みは社会の猛反発を受けやがて立ち消えてしまったが、発表時点ではあれやこれや社会戯評の好材料にされた。

次の一文はその一つ、少々長いが史料価値があるので全文を掲出することにする。

&『東京日日新聞』明治十六年十月三十一日

此頃興りしかなのくわいの事に付ては、有益無益の論ともに在りて未だ其帰着を知らず、されども斯く議論の囂しきは結句同会の為に喜ぶべき事にして、我々も真に平一面のかなの世とならば、随分ともに便利なる事も有るべしと思はる、夫に付き仮名にて事の間違ひ氏一つの咄あり、其昔(うつぼ)太夫と云ふ浄瑠璃語りが京都にありし時、或日宿にて自己が床本(ゆかぼん)の仮名の句続きの所に朱墨にて句読(くとう)()り読合して居たるを、折ふし来合せし或数珠屋の主人が見て嘲笑ひ、己が職業にする語り本に朱点を付て、それに便りて語るとは太夫にも似ぬ未熟の事かなと云ふ、靭は否左にあらず、己が職業となれば何事にも念に念を入るゝが好し、此の朱点も強ち此に便るとにはあらねど、万一の失錯をせぬ為にと家業を大事と心掛るからなりと云ひたれども彼の客は頻に打消して益々笑ひて止まず、靭も後には心中に怒りたれども、愛敬を売る商売なればと其場は扨て止みぬ、されども此事肚の裏に残りたれば、其より程経て彼の数珠屋ヘ書面にて、小生余儀なき方より相頼まれ候に付、日蓮宗の数珠二つに折りてくびに懸ける程の物、早々御調製下されたしと(わざ)と仮名にて書送れり、主人は二つに折りてくびに懸るとは大層大きな物かなと思ひたれども、注文なれば早速(つく)りて靭方へ遣りしに、靭は見るより其数珠を持て数珠屋へ来り主人に遇ひて、あれ程書面にてお頼み申せしに我等が注文とは違ひ、()ないな百万遍繰る様なものを拵へておこされては()もならぬと云ふ、主人は不審して否ソレは注文通りじゃ、併し若し達て此が間違と云はしやるなら、貴公が贈り来された書面を見せうと彼の手紙を出し、コレ見なはれ此の通り二つに折りてくびに懸ると有るでは無いかと云ふ時、靭は手を拍きてソレ見なされ、我等が先頃床本の仮名の句続きに朱墨を(うつ)たは此所の事、我等は二つに折りて首に懸るでは無く、二つに折り手首に懸ると云ふ積りじや、自分が商売の注文を受て不審なのを誂へ主へ問合せもせず、自儘に拵へたは貴公の誤り、早々手首に懸るやう製り直しておこしなされと数珠屋の主人を遣り付て、前の意趣を晴したりと云ふ事あり、此等はかなの世の中とならば随分困る間違ひなるべしと云ふ時、机辺に来りし一封の投書あり、披き見れば此頃かなのくわい云々、小生も至極面白き事に思ひ其法に拠りて昨日一篇の文を綴りたり。

かみやさえもんといふだいめうあるひでいりのかみやさえもんをめしてさえもんがいへのはんしにはすじやうあしきものおほくかみのようをなさぬがおほしこれにはまい〳〵よもこまることありとまをさるさえもんおそれいりてさえもんがいへのはんしにすじやうあしきものおほくかみのようをなさぬがおほしとはぶねんのいたりいごきつとこころづけまをすべしといふさえもんををかしくいやわがいふはんしははんしなりそのはうのいふはんしにあらずかみのようとはかみのようなりかみのようのことにあらずとまをされければさえもんはじめてあんしんしてごぜんをしりぞきたりといふ。

とは書て見たれど此では何だか解らぬやうだ、此は「神谷左衛門と云ふ大名或日出入の紙屋佐右衛門を召して、左衛門が家の藩士には素性悪しき者多く上の用をなさぬが多し、此には毎々予も困る事ありと申さる、佐右衛門恐入りて、佐右衛門が家の半紙に素性悪しき物多く、紙の用をなさぬが多しとは無念の至り、以後はきつと心付け申すべしと云ふ左衛門可笑しく、いや我が云ふ藩士は藩士なり其方の云ふ半紙にあらず、上の用とは上の用なり、紙の用の事にあらずと申されければ、佐右衛門始めて安心して御前を退きたりと云ふ」斯う云ふ事なり、かう書く方が何だか解り好い様


 


137 中国、韓国は日本の評価に比肩せず

 

──福沢諭吉の論

 

輔車(ほしや)唇歯(しんし)とは隣国相助くるの(たとえ)なれども、今の支那朝鮮は日本国のために一毫(いちごう)の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するがに、時にを同一視し、支韓を評するの日本に命ずるの意味きに非ず。ば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の(たの)きものあらざれ、西洋の人は日本も亦無法律の国かと疑ひ支那朝鮮の人が惑溺深くして科学の何ものたるらざれば、西洋の学者は日本も亦陰陽五行の国かと思ひ支那人が卑屈にしてらざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮国に人をするの酷なるあれば、日本人も亦共無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を(かぞう)れば枚挙(いとま)あらず。

 

&『時事新報』明治十八年三月十六日

 

福沢(ふくざわ)()(きち)(18351901)は教育家。慶応義塾を創設。

 

著『学問ノススメ』や『西洋事情』で、福沢は文明開化の先端を行く知識人、というイメージが定着しているが、これは歪んだ人物観だ。西洋かぶれした偏狭な視野しかもたぬ俗物に過ぎないことを、この一文が証明している。

 

 論旨を大約すると、近隣の清国・朝鮮は野蛮で遅れた国だから早いうち手を切り、欧米諸国と手を結んで文明先進国の仲間入りをすべき、というのだ。掲出はその一部分だが、時代背景事情を勘案してもひどい偏見なのがわかる。

 

時同じくして、民権派は人道無視の欧米帝国主義に抗すべく、亜細亜の連帯を強化する「興亜」に志向していた。片や福沢ら『時事新報』を論壇とする亜細亜分割派は、日本以外のアジア民族を無視することで、西欧列強国へのアプローチを図ったのである。

 

慶応大学に在学中のアジア留学生諸君、「人ノ上ニ人ヲ造ラズ…」と良いふりこいた塾祖の人となりを評価しなおすべきだ。

 

 

福沢諭吉著『西洋事情』表紙

 

 

 

 

 

138 こんな(なまず)自由の鉄拳でヤッツケロ

 

♪月よ花よと眺むるうちに いつか身にし

 

 む 秋の風コラサノサ 月は武蔵野まん

 

 丸く 治まる明治の世は豊か それでも

 

 お米は 下落(さがら)ない 下た目に出る

 

 ダレ うさぎの耳より鼻の下 八字のお

 

 ひげは立派だが (ごん)の猫をれ ま

 

 たたび遊びの湯治場は 箱根七湯伊豆熱

 

 海 伊香保や鎌倉大磯と カバンの中か

 

 ら惜気なく つかんでパパとまき散らす

 

 神功皇后や恵比須さん(筆注=ともに紙幣の肖

 

 像) どうして製造できるのか 細民泣か

 

 して絞りたる(中略) 

 

 はじめて迷いの夢さめて 後悔したとて間

 

 に 合はぬ 落ぶれ果つるも自己(おの)

 

 不義の富貴の天罰で ざまをみろよ気味

 

 がよい 

 

 こんな鯰(筆注=高級官員の擬称)は我々が

 

 自由の鉄拳で ヤッツケロー                 ──明治十九年頃流行 

 

 古今を通じ官僕の評判はえてしてよろしくないが、ことに明治時代の官紀の乱れは眼に余るものがあったようだ。奉仕の意義を吐き違えた出鱈目さが詞からもうかがえる。

 

 

鯰絵「しんよし原大なまづゆらひ」

 

鯰は地震の元凶というだけでなく、ひげを蓄え威張り散らす官員の象徴として庶民から嫌われた。

 

 鯰どもが世に跋扈(ばつこ)して狂態をさらすテーマは、落に都々逸に俗謡にと枚挙にいとまがない。次掲の大津絵「これ鯰さん」も同類のからかいである。

 

 ♪これ鯰さん 月給どんどん(つこ)おくれ わたしがからだをあげつめて いものせたり芝居へは 欠かさず陽気なことばかり お寝間のしつこいはやれやれずつなえなめにして 末始終新宅権的(ごんてき)()と異名付けさせ にやんこ(芸者)の位を逃れたい  

 

──明治十五年頃の流行唄

 

官吏や警官が国民から目の敵にされたのは、仕事もろくにしないで空威張りする、という理由だけではない。公僕への面当てを通しての、じつは政府への抗議でもあった。

 

 

 

139 酔ふては枕す、窈窕たる美人の膝

 

   飲某楼                                 ──伊藤博文詞

 

豪気堂々大空に横たはる

 

日東誰か帝威をして(さかん)ならしむ

 

高楼傾け尽くす三杯の酒

 

天下の英雄眼中に在り

 

酔ふては枕す窈窕(ようちよう)たる美人の膝

 

()めては握る堂々たる天下の権(読み下し)

 

&『酒の詩集』富士正晴編

 

伊藤(いとう)博文(ひろぶみ)(18411909)は政治家、初代総理。満州視察中に暗殺された。

 

漢詩に素養のない者でも、紋切り型で表現力の乏しい、味のない詩であることがわかる。読んで心の中に感じさせるものが何もないのである。しかもこの人、内外に浮説艶聞をとどろかせているから、また軽薄な自己宣伝が始まった、くらいにしか評価してもらえない。 

 

吉田松陰教える松下村塾時代の博文は、秀才の多い中で今一つパッとしなかったという。ただし女にかけては当時から凄腕で、左手で書を置くと右手はもう女の裾にかかっている、と噂された。美人の膝枕で吟詠する天下の英雄の図、公にとってまさに面目躍如たるものがあったろう。

 

政治家としての手腕は、点数をつけたら八十点といったところか。立憲制を主導し、議会政治を確立した功績もあって、明治天皇のご信任は厚かったようである。まあ合格点くらいはやれると思うが、中江兆民のように、博文という人物をまるで買っていない者もいる。その話は次条に譲ろう。

 

 

伊藤博文は初代総理というだけで旧千円札の肖像になった。

 

 

 

 

 

140 (博文は)宰相者の資にあらず

 

──中江兆民の博文評

 

大勲位(筆注=伊藤の官位)はまことに翩々たる好才子なり。その漢学は悪詩を作るだけの資本あり。その洋学は目録を暗記するだけの下地あり。これすでに大いに他の元老を凌轢(りょうれき)に無語らしむるに足るしかのみならず弁ありて一時を糊塗するに余あり。しかれどもこれ要するに記室なり。翰林なり、宰相者のにあらず。(中略)一言これを断ずれば野心あまりありて胆識足らず、内閣書記官長にとどまらしめば、まさにそのところを得たらんなり。

 

&『一年有半』中江兆民著

 

中江(なかえ)(ちよう)(みん)(18471901)は自由民権の思想家。明治藩閥政治を批判し続けた。

 

 

中江兆民。大の写真嫌いで二枚だけ残された写真のうち一葉。

 

 伊藤博文は幕末の一時期(文久三年~元治元年)ロンドンに洋行、そのため英語力はかなりのもの、と一般に思われていた。一方、渡仏してフランス語を本格的に学んだ兆民は、哲学書も原書で読める語学力を身につけ、伊藤の英語を「レッテルが読める程度」と見破っていた。兆民はまた、周防出身で藩閥の力をかり初代総理の座に着いた博文を苦にがしく思っていた。それがきつい人物評に現れている。

 

西洋翰林思想の洗礼を受け哲学・史学・文学に深い造詣のある兆民からみると、何やらメッキ部分の目立つ宰相が頼りなく思えたであろうことは、内閣書記長官どまりと皮肉ったことばからも察知できる。

 

兆民は『一年有半』の執筆にかかった頃、すでに喉頭がんが進行していた。が、痛烈な病魔にもめげず、自由党とその御用「政友会」を痛烈に批判し続けた。伊藤はというと、夜ごと女たちを肉布団に組み敷いていた。天は不公平ないたずらをするものだ。

 

 

 

 

 

141 吾等のラブは情欲以外に立てり

 

──北村透谷の手紙

 

Dearest  4/9/1887/拝啓 君も御承知の如く日本人のラブの仕方は、実に都合の能き(御手前主義)訳に出来て居ります、彼らは情欲に由つてラブし、情欲に由つて離るゝ者にしあれば、其手軽るき事御手玉(ヲテダマ)を取るが如し、吾等のラブは情欲以外に立てり、心を愛し望みを愛す、吾等は彼等情欲ラブよりも()ソツと強ラブの力をもり、吾等は今尚ワンボデイたらざるも、常にもはや一所にあるが如き思ひり、吾等は世に恐るべき敵なきラブの堅城きたり、(中略)君よ請ふ生をラブせよ、生も此身のあらん限りは君をラブす可し、(後略)

 

&『北村透谷全集』石坂ミナ宛書簡集

 

北村(きたむら)透谷(とうこく)(186894)は詩人・評論家。

 

透谷十九歳、神奈川県議会の速記者時代に出した求婚の手紙。相手は石塚昌孝(三多摩自由党の領袖(りようしゆう))の娘ミナ、二人はやがて結婚に至る。

 

 

北村透谷とミナ夫人

 

 この恋文、時代がかっているのはやむをえないにしても、おそろしく理屈っぽくて無機的だ。引用は書き出し部分で、このあと長ったらしい恋愛(ラブ)論が続く。一読してわかるのは、乾いた抽象語の羅列であり、肝心なウェット感性語がほとんど見当たらないこと。およそ恋文らしくないラブレターである。こんな調子でラブコールしても、今時の恋人の心はとらえられないという見本である

 

もっともミナは、透谷と一緒になり一女をもうけている。けれども「恋は盲目」とはいえ、ラブレターに感動してその気になったとは思えない。

 

透谷は亡くなる二年前、恋愛至上宣言の書といえる『厭世詩家と女性』を発表している。彼もし世間の俗風にまみれた恋、情欲に濡れたラブを体験していたら、自ら命を絶たずにすんだかもしれない。

 

 

 

 

 

142 天子様が絹布の法被を下さ

 

 る

 

──庶民の声

 

十一日には天子様が「けんぷ(絹布)のはっぴ(法被)を下さるのだ…」

 

&『東京朝日新聞』明治二十二年二月七日

 

社説

 

当日付によると、明治憲法の発布を「裏店(うらだな)住居のワカラズヤ共が天皇が絹布の法被を下賜されると勘違いして騒いでいる、と前騒動を伝えている。欽定憲法は明治二十二年二月十一日紀元節の日に発布、同時に衆議院議員選挙法も公布され、翌二十三年七月一日に第一回の総選挙が行われた

 

新聞言うところのワカラズヤ庶民には、憲法とか選挙といった新語の意味がチンプンカンプンである。裏店連中どころか、政府の顧問官という地位にある者ですら「マグナカルタとは如何なる歌牌(カルタ)であるか」と問う始末であったという社説もうんざり気味

 

 ()れ憲法の事之を詳く説かんには中々一日や二日の社説にて済むべき事に非ず今は唯最もアラメなるところを述べて世の尚ほ知らざる熊八連に告るのみ其詳しきを知らんと欲ば請ふ十一日以後東京朝日新聞を読め 

 

と、ピシャリ締めくくっている。

 

 

憲法発布略図 〔楊洲周延画の錦絵〕

 

 

 

 

 

143 オッペケペッポーペッポッポー

 

──若宮万次郎作詞・川上音二郎歌曲

 

♪権利幸福きらいな人に/自由湯をば飲ましたい/オッペケペッポーペッポッポー/かたい上下(かみくも)(かど)とれて/「マテル」「ズボン」に人力車/粋な束髪ボンネット/貴女に伸士のいでたちで/ 外部(うわべ)を飾はよいけれど/政治の思想が欠乏だ/天地の真理がわからない/心に自由の種を蒔け/オッペケペ オッペケペッポーペッポッポー

 

 

「オッペケペー節」というと、演歌師川上音二郎を連想するほど有名だが、初期作品の作詞者が若宮万次郎(伝未詳)なのを知る人は少ない。若宮の詞を川上が手直しし、鋭い社会時評の演歌に仕上げ、自ら演じて大衆の喝采を得た。

 

川上は夫人の音奴とともに、プロの芸人として一座を率い成功した人物だが、そのキャリアが只者でない。彼は常づね過激な言辞もって官憲を存分に攻撃したため、処罰や投獄の明け暮れで、検挙じつに百七十回、入獄も二十四回に及んだと記録にある。芸人らしからぬ筋金入りの硬骨漢であった。

 

掲出詞の囃子詞「オッペケペッポー」は、単なるナンセンスワードではない。音韻のニュアンスから判じられるように、相手をおちょくる意味が込められている。すなわち、能もないのに空威張りする役人、同様にオイコラと偉ぶる巡査、西洋文明に盲目的に悪乗りする知識階級などへの、アカンベエであった。

 

 

 

 

 

144 品物は出回るべき娼況なれど

 

     娼 況

 

こゝ(もと)米価非常の騰貴に影響を及ぼし各地とも随分に品物は出回るべき娼況なれど彼のケ年へ主非常の弱気を含み従来(まがき)にて五百円以上踏込んで買出せし程代物昨今三百円どまり位となり随って小格子マバラ連も同様前借金出し惜みの姿にて二百円止り百二三十円内外の引なり(もつと)売物は上物相変らず払底にて中物下物は大坂紀州西京岐阜等に沢山在荷(ありに)は見ゆれど何分前借金折合纏まらず一寸こゝまち模様にて手放し()ね双方白眼合(にらみあひ)娼況なるが追々米価低落の勢に連れ此の先いか変動現はすやもれず

 

&『東京朝日新聞』明治二十三年七月二十二日

 

「娼況」とはうがった言葉だが、昭和三十二年四月一日売春防止法が施行になるまで新聞・雑誌に散見できた。今ではもちろん死語になっている。

 

米や小豆などではない。生身の娼妓の抱え相場を商況に仮託して情報提供するという、見事なまでの野次馬根性に恐れ入るばかりである。文面からわかるように、娼妓の人格はまったく無視され、単なるブツとして扱われている。チト口滑らし程度のことで目くじらたてる現今ウーマンリブ派のご婦人連には、見るも汚らわしい記事であろう。

 

 

東京は墨東、玉ノ井遊郭の女たち(明治末期)

 

 ときに明治二十二年二月の憲法発布の頃から、廃娼への世論が高まった。消極的姿勢の東京府よりも、神奈川県や群馬県などの地方議会で娼妓存廃が熱心に討議された。廃娼とはいえ今日的な人権擁護の観点からでなく、楼主に家畜並みに扱われる娼婦の悲惨さが社会同情を促したのである。しかしその後六十年余り、娼売が潰されることはなかった。

 

145 衆議院とか貴族院とかいうお寺

 

          ──新聞の与太記事

 

国会様といふのは神様かヱ仏様かヱ、知れたこと日本は神国神様さ、さうして何処に其のお社殿(やしろ)が出来たんです、お宮はソレアノ内幸町よ、(そん)なら君のいふのは違ふよ、なぜデモ内幸町に今度出来たのは衆議院とか貴族院とかいふおだといふぢやないか

 

&『東京朝日新聞』明治二十三年十一月二十六日

 

「憲法とは何ぞや」と同様、内幸町(東京都千代田区)に新設なった貴族・衆議両院について、庶民のトンチンカン問答風にまとめた漫文記事である。あげくに院号付きだからお寺

 

だ、というオチまでついている。

 

明治天皇は二十三年十一月二十五日に初の帝国議会を召集され、八字髭を捻った両院議員が黒塗りの人力車を連らねて参集した。

 

 

第一回「帝国議会衆議院之図」錦絵

 

 東朝十二月六日付の記事には、

 

 今日も亦お祭り議場とならんかと危めるに果していろ〳〵の異事現はれぬ書き並ぶれば左の如し浅間(あさま)〳〵

 

とあり、十文字信介衆議院議員が三十五分遅れの開会を「全国人民を欺くもの」と大喝一叫したこと、井上角五郎議員が動議無用と騒ぐ数名の議員に対し「黙れ、角五郎が言ふ処を聞け」と怒号したことなど、騒然とした議会幕開けを報道している。

 

日本国名物、国会伏魔殿演出の猿芝居は、どうやら2世紀を乗り越えて続く伝統(ロングラン)と見た。

 

 

 

 

 

146 (日本は)景色も小さく人間の心も小さい

 

──勝海舟

 

俺はいつたい日本の名勝や絶景は嫌ひだ。みな規模が小さくてよくない。こころみに支那へ行つて揚子河口に臨むと、実に大海のやうに思はれる。また、米国へ行つて金門にはいつても気分が清々とする。/国が小さければ、景色も小さく、人間の心も小さい。旧幕時代でも、御改革とか御倹約とかいふと、一番早く結果の(あら)れるのは、小大名名ほど手間れる、

 

&氷川(ひかわ)清話(せいわ)』勝海舟著

 

勝海舟(かつかいしゆう)(182399)は幕末の旗本・明治の政治家。

 

海舟の『氷川清話』には、随所に独断と偏見に満ちた偏見が述べられている。彼はジョン万次郎らと幕末に渡米し、欧米感覚を身につけたという意識過剰に陥った。その進取気取りが禍いし、掲出のように母なる日本を叩き、同胞を頭から卑下してみせた。

 

現代の知ったかぶり屋のジャパンバッシングを先取りしたような言辞に、こちとら小さくて結構、「手にしやがれ」と尻をまくりたくなる。揚子江畔が気に入りなら彼地に居を構え、大造りで味も素っ気もない風景を見て暮らすことだ。自国に居座って大きな面をし、大人(たいじん)ぶることはない

 

この種の放言は、個人としての好き嫌いを超えている。近隣相愛、同胞互助という良俗に努めている国民をないがしろにする発言だからだ。祖国を(おとし)め同胞をあざけりたければ、日本を退去し外国でほざいて欲しい。それにしても勝海舟、大人物と喧伝されているにしては小さい、小さい。102に登場の彼の父、小吉のほうがはるかに大人物であった。

 

 

反米嫌日戦線「狼」(反共有理)〔シーサーブログより〕*孫引きしてごめんなさい。

 

 

 

147 スリスリとスリ寄る馬鹿に

 

よみ人おおし

 

スリスリとスリ寄る馬鹿にスラレ阿呆 ボタハタキかお軽買ひか

 

金時計金時計よと騒ぐステツキ ひげもメツキかそつと唾吐く

 

ぬすつとのならひはかなしスリだこを 水洩る米のなきぞ悲しき

 

&『掏摸スリ和歌集』明治二十四年刊

 

題名は『狂歌才和歌集』のもじり。内容から見て狂歌集の偽書仕立て。歌体をなしてない駄作ばかりだが、三首を抜書きしてみた。

 第一歌、ボタハタキ=懐中物のスリ取りで、スリの基本。お軽買い=女の櫛やかんざしの抜き取り。ともに初心わざである。第二歌掏り取った金時計がメッキなのに、被害者のステッキ紳士は金だ金だと大げさにわめいている、と皮肉りの寸景。第三歌は、太田道灌の作歌(じつは古歌の類歌)のもじりである。

 

無題

 

 作品の質はさておいて、稀覯(きこう)本に属する集だ。作者達がいま少し狂歌作法を身につけていたら、と惜しまれる着想が少なくない。詠が一般のにはこなしえない独自の世界のものだけに、もっと神経を行き届け仕上げてしかった

 

なかに一首だけ、合格点をあげてよい狂詠が目に付いた。これとて、用語・用法に品のないのが玉に瑕、だが。

 

  たはむれに女房(すけ)の懐さぐりなば 軽きてナゲシ解き噛

 

 

 

 

 

148 妾こそは女権拡張に熱心なる女浪人ぞ

 

──大和屋民子

 

耳ある人は善く聞けよ、童こそは女権拡張に熱心なる東洋の女浪人大和家民子なり、本日(十一日)午後一時より飾磨町御幸町智法寺に於て腐敗男子の退治、女子めざましの大慷慨演説会を開くにつき、駁撃は御勝手次第、有志の諸氏来会あれ

 

女浪人自称の大和家民子街頭演説会より

 

&『国民新聞』明治二十四年二月十七日

 

*大和家民子(生没年未詳)は富山県出身で本名を中川かる(当時三十)といった。

 

同紙報によると、この女壮士は二月十一日、兵庫県飾東郡飾磨町で人力車に乗り掲出の予告をぶち上げた。「其時女子の身形(みなり)は海老茶のフランネルの衣服に小倉の着し、白木綿にて後はちまき玉襷をなし、右手に木刀を持ちに車を止め、車上ちて声張り上げ」という。

 

時は明治憲法が発布されて間もなく、各地で民権運動が高まりつつあった。女壮士による弁論会も散見でき、紅気炎吐露はさして珍しくない。問題は弁舌の内容から発生した。

 

野次馬連は「駁撃(バクゲキ)」をバクエキと聞き違えたのである。博奕(バクエキ)すなわちバクチ漢語そこバクチ好きな野郎共のこと、それ今日は女弁士が胴元となりご開帳が始まるの、やれ博打必勝法の演説会だのと勝手に誤解し、大枚二銭傍聴料を払い、われもわれもと五百人も参集した。

 

結果、男達は男尊女卑の撤廃や廃娼論を聞かされ、肝心の博打は音沙汰なし。明治の漢語流行が生んだ喜劇図であった。

 

 

帯の「浪人結び」は女にも。まさか女権拡張を意図したわけではあるまい。