明治時代2

 

 

149 艮の金神の世に成りたぞよ

──出口ナオ

三ぜん世界一度に咲く梅の花、(うしとら)金神の世にりたぞよ。梅で開いて松でめる、神国の世になりたぞよ。日本は神道(しんだう)構は行けぬ国であるぞ。外国は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にかされて、の毛まで抜かれてりても、まだが覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。では、国はちてはかんから、(おもて)に現れて、三千世界の立直(たてなほ)を致すぞ用意されよ。

&大本(おおもと)神論(しんろん)』明治二十五年旧正月初発、出口ナオ筆「筆先」より

出口(でぐち)ナオ(18361918)は宗教家。娘婿の王仁(おに)三郎とに大本教を開いた。

 明治二十五年正月京都府綾部で、大工の未亡人であった出口ナオは、突然神懸(かみがか)に入り「(うしとら)金神(こんしん)による世のて直しを教義とする新宗教を開いた。習合(しゆうごう)神道(しんとう)系「大本教」の誕生である。ナオは時を移さず布教活動に必要な教典「筆先」の執筆に懸り、「みろくの世」なる理想世界の到来を予言し

この御告げ、人の心をひきつける、なかなか達意の文章だ。「梅で開いて松で治める」などは、素人離れした文学的修辞である。外国人をケダモノ扱いした文言も、今日でこそ狂気の沙汰だが、当時の風潮からして暴言とはいいきれない。念意の助詞「ぞよ」の用法も説得効果をあげている。

娘婿の王仁三郎も布教に熱心な活動家で、二人が釈伏(しやくぶく)の柱となり、大本教を信者十六万人の大宗教に育て上げた。王仁三郎のほうは傍若無人といえる怪祖(カリスマ)で、そうした側面を語るような短歌を残している。

  日地月(につちげつ)せて作る団子胡麻書け(くら)王仁口(わにぐち)

 

 大正五年当時の出口ナオ

 

150 キビスカンカン イカイドンス

──横浜流行の俗謡

♪キビスカンカン イカイドンス キンギヨクレンスノ ソクレツポ スチヤンマンマン カンマイカイノ オツペラポーノ キンライライ アホーラシイヤオマヘンカ

&『横浜史年表』明治二十五年二月

このわけのわからない国籍不明語は、明治二十五年二月に社会問題化した政府による選挙干渉を風刺した流行歌詞である。最後に到ってやっと日本語らしいと気づく仕組みになっている。

二月十五日は衆議院議員の改選日だが、政府は事前に目に余る干渉に乗り出し、国民から「無政府以上の極悪政治」という非難の声が上がった。

 第一回衆議院総選挙〔Forthブログより〕

なにしろ憲法発布後間もないホヤホヤ立憲君主国のこと、官民ともに総選挙のセの字もわからない。選挙戦を巡り、各地で闘争事件が頻発した。巡査が気に入りの候補者に投票するよう勧誘したり、立候補者が役人を介して贈賄攻勢に出たり、買収がきかないと暴力沙汰の脅しもまかり通る。あげくの果て、佐賀では暴徒鎮圧のため一個中隊が差し向けられるという事態まで発生した。

まさしくアホーラシイヤオマヘンカを地でいったような世相。わが国に形だけでも公正選挙が定着するまでには長い道のりを要した。

 

151 まつたけひっくり返して大騒ぎ

♪豆腐のはじめは豆でーあるー

おーわり名古屋の大地震

まつたけひつくり返して大騒ぎー

いーもを食うこそ

 へがたれるー                              ──東京下町の伝承歌

年の始めのためしとて…で始まる唱歌「お正月」の替え歌である。半世紀を超える昔、東京下町の子供たちは、凧揚げに原っぱへ向かう道すがら、徒党を組んでこの歌をガナったものだ。空気は澄んでいるし、高層建物もほとんどなく、富士山がくっきり眼に移った。

「おーわり名古屋の大地震」つまり明治二十四年十月二十八日の濃尾地震(М8・4)が歌詞に見えることから、その後間もなく創作され、昭和中期頃まで歌い継がれた。往時の下町っ子なら誰でも知っている、息の長い替え歌である。

しかしこの歌、チト助平な大人なら、子供が歌うのにふさわしくない詞であるとすぐにわかる。「豆」(=陰核)と「まつたけ」(=陰茎)がセットになって「大地震」に揺すられるとなれば、意味するところは知れているし、加えて「へがたれるー」でバッチイ(しも)の事めている。おそらくド助平な大人が作ったものだろうが、子供らは無邪気に口ずさんで正月気分を味わっていた。

 明治二十四年の濃尾地震による名古屋市の被災

 

152 僕、めでたく死去しました。

 

──斉藤緑雨の自作死亡広告

&『東京朝日新聞』明治三十七年四月十四日

*斉藤(りよく)()(18671904)は作家・評論家。

 掲出は死期の間近いことを悟った緑雨が友人の馬場()(ちよう)らに託した黒枠広告つまり死亡広告。当時の世情からかんがみて、この有名作家の自家稿になるこの死亡広告は話題をさらった。

 緑雨は近代日本隋一といってよい箴言家(アフオリスト)で、数々の警世名句を世に送り出している。明治三十一年に万朝報社に入社、「眼前口頭」と題する欄記(コラム)でシニカルな警句を大量に吐き出した。この皮肉屋は、商売道具の中に自分の死まで組み込んで、文字通り殺し文句として使いきったのである。

 

153 東雲のストライキ、さりとはつらいね

──明治・大正・昭和と大流行した俗謡『東雲節』

♪何をくよ〳〵川端柳、コガルヽナントシヨ、水の流れを見てくらす、東雲のストライキ、さりとはつらいねつてなことおつしやいましたね。

&『明治年間流行唄』所収

 別名を〈ストライキ節〉とも。

明治も三十年代に入ると、日清戦争で勝利は得たものの膨大な戦費が国民生活を圧迫、労働者の多くは生活苦にあえいでいた。各地の工場では「同盟罷工」つまりストライキが続発し、重大な社会問題になった。こんな世情から生まれたのが〈東雲節〉である。

それにしてもこの歌の詞は、どこか投げやりでスキャンダラスな感じがする。娼妓のストライキという前代未聞の事件また奇なりで、歌は全国的に愛唱され、小学生まで口ずさんだという。

東雲節の起源は二説ある。一つ、名古屋某楼の源氏名を東雲と称した女郎に、教会の外人宣教師がバックアップして廃娼運動を展開、裁判で勝訴した、という説。二つ、熊本は二本木遊廓にある東雲楼で、娼妓らが待遇改善を要求、実際にストを起こした、とする説。いずれにせよ、いったん廃娼し故郷に帰っても、手に職のない娼婦たちはたちまち生活に行き詰まり、またぞろ売笑の身に戻ってしまうケースが多かったようだ。

 うめ吉唄う『東雲節』も収録〔モバイルコロムビアのジャケット〕 

 ついでに東雲節(第二節以下)  を紹介しておこう。

♪蒸気は出てゆく煙は残る、コガルヽ何トシヨ、残る煙が癪の種、東雲のストライキ、さりとはつらいねつてなことおつしやいましたね。

♪色にそまるももとはと云へば、コガルヽ何トシヨ、浅い心の絵具皿、東雲のストライキ、さりとはつらいねつてなことおつしやいましたね。

♪口で云はれぬ人目もあれば、ワカレハ何トシヨ、あごで知らせて目で返事、東雲の明鴉、さりとはつらいねつてなことおつしやいましたね。

♪鐘が辛いか帰るが厭か、コガルヽ何トシヨ、帰る〳〵の声がいや、東雲のストライキ、さりとは辛いねつてなことおつしやいましたね。(以下、やや年代下がり)

♪主にや苦労を舌切雀、コガルヽ何トシヨ、糊をなめても添ふつもり、東雲のストライキ、さりとはつらいねつてなことおつしやいましたね。

♪羽織着せかけ袂を控へ、別れが何トシヨ、憎や夜明の鐘がなる、東雲の明鴉、さりとは辛いねつてなことおつしやいましたね。

♪未練のこして見送る主を、コガルヽ何トシヨ、憎や隠した曲り角、東雲のストライキ、さりとは辛いねつてなこと仰有いましたね

♪お前一人と定めておいて、コガルヽ何トシヨ、浮気や其の日の出来心、東雲のストライキ、さりとは辛いねつてなことおつしやいましたね。

 

154 女への極めつけ罵り言葉     

──泉 鏡花

じつとお君を見つめ、またゝきもしないで石のやうに立つて居たが、えッといふと(たふ)れるやうに前へのめつて、お君の(おび)(ぎは)をむづと取つた。怒りにつきあぐる声もしどろに、/「畜生、(がふ)畜生、(うぬ)まだ()げる気でいやあがるな、土女(どめ)(らう)め、!」と引まはして身体(からだ)捩向(ねぢむ)かして、また占めるやうに、頸を抱いた。

&『辰巳巷談 はがひじめ』第三十二 明治三十一年

()女郎(めろう)」とは、相手の女をありったけ罵るときに使った近代語である。文字面だけ追うと最低の卑俗語の印象だが、当時は浴びせられた方もさして気にしていなかったようだ。というのも、星降るほどに存在した罵詈雑言の一つにすぎなかったから。

 泉鏡花はこの程度の卑俗語は他の作品でもふんだんに使っている。言葉狩りなんて言う野暮は通用せず、また他人の罵り言葉などでいちいち目くじら立てていたら世渡りはできない時代であった。

 もうひとつ、主人公の男はお君なる芸者に暴力でねじ伏せている。この程度は「セクハラ」なんていう言葉のない時代の男女のしがらみ描写にすぎない。

 文科省やNHKやらが訳あり言葉だからと無闇に言葉を狩り込んだ結果、文筆表現に生々しさがなくなった。渡る世間は善鬼ばかりのギスギスした世の中は、もう御免である。

 あでやかさとともに気風の良さを看板にした往年の辰巳芸者

 

155 花の都はパリーかロンドンか、月が啼いたかほととぎす

──1946年二月、浅草金竜劇場「映画音楽年史」台本より

花の都はパリーかロンドンか、月が啼いたかほととぎす、フランスはパリーの町に今や起る怪事件、或は会社、銀行に、或はオペラ劇場に、或は富豪の邸宅をねらう、風の如き怪盗団、大胆というか、不敵というか、現場に残すはZの一文字、ここに名探偵ポーリン、これなる秘密をば解かんと致しまする。/謎は解けた。Zとは悪漢の団長ジゴマの頭文字であることを発見し彼等一味の捕縛に当らんと致しますが、ジゴマは巧みに変装して探偵の法網をくぐる。負けてはならじと名探偵もよく変装してこれに当たりますが、残念なる哉、名探偵ポーリンは敵の一弾を受けて倒れる。されば、後輩ニック・カーター探偵現れましてポーリンの手をしっかりと握り「御身倒るるとも我ここにあり、御身に代って悪漢を撃滅せん」と誓う。探偵勝つか、虚々実々、火華を散らす知恵くらべ。山雨まさに到らんとして風楼に満つ。果して勝利は正か邪か。前篇はポーりん探偵の巻、後篇はニック・カーターの巻。詳しくは言わぬが花の玉手箱。文明開化はエレキ応用、機械の回転につれまして大車輪申上げますれば、何卒絶大なる拍手ご喝采の内にご高覧願います。

&『活弁時代』に収載

 わが国に「活動写真」が入ってきた明治三十(1898)年頃から、無声の画面に説明を加える専門職が生まれ、これを「活弁」といった。初期の活弁の説明者を「口上屋」と称し、どこか演説調のこなれきっていない弁舌であった。しかしフィルムの輸入が増えだす三十三(1900)年頃から駒田好洋巡業隊といった巡回「弁士」の団体が生まれ、口演技術を磨き名調子の活弁ありとその名も広めた。

最初は短尺で上映時間二~三分間だったフィルムも、劇ものを収容できる十~十五分となり、つれて能弁な弁士を必要とした。同時に常設の活動小屋がいくつか出現する。たとえば当時進歩的といわれた浅草電気館の場合、長岡(大山)孝之という専属弁士を抱えている。

 活動写真の興行成績は弁士の名調子に負うところが大きかった。〔㈱松田映画社サイトより〕

 活動写真の評判は弁士の説明に負うところが大きい。口演力のある弁士は各館から引っ張りだこで、山野一郎、土屋松涛、尾上松之助、染井三郎、松井翠声といった初期の有名弁士が誕生した。

彼らの前説などは今でもいくつか記録に残されている。まず前口上で客の興味をひきつけ、中に二段構えの本説明があり、仕舞口上で笑いや涙を誘う。内容こそ時代がかっているものの、観客を飽きさせない配慮、しかも間をもたせるための工夫のあとが随所にうかがえる。

 

156 善いと云うのはライオンばかり

──皮道人作詞

♪日本全国特約組んで/広く売る店その数知れず/旨い儲けは先づ捨置いて/そこはいづれも皆客の為め/まゝよ〳〵で勉強するも/頼む(ところ)信用(しんよ)が資本/世には歯磨数ある中に/獅子の商標つきたる品は/古来(まれ)なる秘法を用ひ/売れる筈だよ効能(ききめ)ちがう/使人々□□ばなし/()いと()ふのはライオンばかり ライオン歯磨の広告〕

&『時事新報』明治三十三年十月十八日掲出

掲出歌の崩し前の原詞「雪の進軍」(永井建子(たけし)が日清戦争従軍中に作詞)第一節は、

♪雪の進軍氷をふんで/どれが河やら道さへ知れず/馬は斃れる捨てゝもおけず/此処は何処(いずく)ぞ皆敵の国/まゝよ大胆一吹(いつぷく)やれば/頼みすくなや煙草が二本

日清戦争の終結が明治二十八年五月、その後数年間この歌が流行した。ライオン歯磨の替え歌は宣伝効果を狙ったもので、現今ならコマーシャルソングといったところ。タイミングも程ほどよかった。

 明治時代ライオン歯磨の新聞広告〔明治四十二年十一月五日 大阪毎日新聞〕

ラジオもまだなかった時代、口コミ五年で原歌がやっと普及した頃であり、幸いメロディも忘れられていない。広告に載ったこのパロディ詞は、曲に合わせて消費者が口ずさみ、製品の売上げ増に寄与した。

広告業界ではこの種の手法を「便乗広告」と呼んでいる。今のような著作権や広告倫理規定などといった制約がなかった時代だったから、自由に借用掲出できた。百獣の王、やはりしたたかである。

 

157 (わが子の数は)取り調べて奏上いたします

*明治天皇が松方正義の艶福ぶりを耳にされ、「そのほう子は幾人あるか」とのご下問に、松方お答えして、

いずれ取り調べまして、奏上いたします。

&『近代日本性豪伝』末永勝介著

松方(まつかた)正義(まさよし)(18351924)政治家・財界人。金本位制の確立に貢献した。

「英雄色を好む」とは使い古された表現だが、明治の指導者層には好色漢が多かった。権力と金力を武器に、当たるを幸い女たちの裾をまくりにまくった。なかでも伊藤博文と松方は双璧であったようだ。

万事に派手な伊藤の艶聞は枚挙にいとまがないが、松方は慎重な漁色家、ムッツリ助平の股座(またぐら)行脚(あんぎや)を知る人は多くない。本人ひた隠しに隠そうとするから明治帝も興味をつのり召されたのであろう

松方はお答え申さずじまいであったが、当然のこと。いくら今上のご下問とはいえ、律儀に奏上しかねるたぐいの事柄である。で、記録史料などを参考にすると、彼は本妻ならびに妾ら二十四人との間に、子と孫だけで百数十人の後裔をもうけたようである。

明治という時代は、条件に恵まれさえすれば、男が男たる存在を遺憾なく発揮できた。女権とやらに縛り付けられることもなく、善悪併せ呑んで大事を成し遂げることの出来る、うらやむべき時代であった。

 盛装の松方正義

 

158 私が死んでも豆腐屋のお爺さんが死んだも同じ事

──樋口一葉

私が死んでもナニ裏店の豆腐屋のお爺さんが死んだも同じ事だから別に騒がない方がよい。

&『女学世界』明治四十一年月号、三宅花圃談

樋口(ひぐち)一葉(いちよう)(187296)は明治の女流作家。「にごりえ」「たけくらべ」などの作品で有名。

二十五歳で不帰の客となった「薄幸の女流作家」のイメージを壊すような所業かしらん。一葉ファンの方、どこぞの裏店(うらだな)住まいの馬の骨がアラ探しと、大目に見てほしい。 

掲出の発言が真実だとすると、一葉の社会人感覚は落第レベルである。「裏店の豆腐屋のお爺さん」を(テン)から見下した言い草は、彼女の尊大ぶりを見せけている。ただ、三宅花圃による又聞き話だけに、あるいは聞き違いや表現の齟齬もあろうか、という点だけがいである

 『一葉』鏑木清方画(東京芸術大学蔵)

 さて、「にごりえ」のお力や「たけくらべ」の美登利の強気な女侠気は、作者一葉の鼻っ柱の強さの投影ではなかろうか。一葉が村上浪六に借金を申し込んでナシのつぶてを食らったときの、口汚い誹謗(水の上日記)は、彼女の性格的欠陥を示したものではなかろうか。とすると、名もない裏店の爺さんをコケにする発言も考えられるわけだ。人の本性などというものは、誤った思い入れにより創られた像ほど立派なものではない。

 

159 蓄妾届

     蓄妾届

第三大区十五小区青山南町一丁目…東京府士族 石井政義姉  由  喜  

 明治二十九年八月二十八二ケ月

右之者、今般妾に貰受申候間、此段御届申上候也

第三部華族 従三位  橋本実梁㊞

明治二十九年八月七日

宮内卿  徳大寺実則殿

&『明治事物起原』第一編人事部に所収

近世近代、妾を囲うことは金のある男の特権として公的にも認められていた。囲うほうも囲われるほうも、公序良俗に反するとか人権侵害だとか差別云々などの意識はもたない。この「蓄妾届」が、事務手続きさえ踏めば、世間にはばかることなく妾持ちになれることを裏付けている。文明開化などと騒いでいても、旧弊の多くは改められはしなかった。

華族の特権を笠に着た乱脈さは眼に余るものがあった。芸者狂いや複数の蓄妾などはまだいいほうで、人妻や娘を手当たり次第犯す不届き者もいる。刀を捨てた武士の才女らをおもちゃにした例も少なくない。

 無題

  士族は()上り族はぬれてばかり(開化時事川柳)

他の華族Bに妾を寝取られた華族Aが、「東京府華族Bが今般自分の妻を離別し、兼て馴染の神楽坂芸妓小代七(Aの妾)を金五百円にて買収、邸内に引取候段…」と、漫画にもならない間抜けな提訴に及んだ一件もある。無為徒食の者共はろくなことをしない。

 

160 大倉に米は沢山ありながら

米高く貧苦に迫る細民を

三井など等は何も岩崎

大倉に米は沢山ありながら

     人に遣るのはとんと渋沢

&『東京朝日新聞』明治三十年十一月二十日

どちらも十一月十八日に浅草区(旧東京市の一区)役所の人民控え室に貼り付けられた落首である。落首は世相の鏡。米びつに蓄え米のない困窮庶民の怒りが込められている。

三井は総合コンツェルンを形成しはじめた財閥、岩崎は三井に対抗する現三菱系財閥、大倉は軍御用商人から伸びた財閥、そして渋沢は多角事業経営で財界にのし上がった実業家である。どれも庶民から見れば富を収奪し独り占めする大資本家で、目の敵とする存在だ。しかしこうした庶民の怒りや不満も、しょせんは犬の遠吠えでしかない。

 時代は下がるが大正七年富山に端を発したコメ騒動は全国に飛び火した。絵の凧はあれよあれよと上昇する米価を描いたもの。

米価騰貴をめぐり、近代日本では三回の大規模米騒動が発生している。明治二十二年の富山市に端を発する全国的米騒動、明治三十年の中部日本から拡大していった各地の米騒動、大正七年の史上最大といわれる民衆暴動化米騒動である。これらの事件では、公安の名目のもとに多くの細民が検挙され、官憲による弱者いじめがエスカレートしていく。

 

161 古今集はくだらぬ集だ

──正岡子規

貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知らぬこと…

&『日本新聞』明治三十一年二月十四日に寄稿「再び歌よみに与ふる書」

正岡(まさおか)子規(しき)(18671902)は俳人・歌人。

 『再び歌よみに与ふる書』青空文庫本

子規は日本新聞に十回連載の「歌よみに与ふる書」シリーズで、まず近代歌壇の不振を嘆き、次いで古今集と宮廷派歌人を徹底的に攻撃した。さらに古今の流れを継ぐ桂園派批判にホコ先を向け、その頂点にあった香川景樹(かげき)を「古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申も無候。俗な歌の多きは無論に候」と酷評を加えている

 浅学の徒が見てもかなり的外れな攻撃だ。歌道における古今集の存在感はいまなお圧巻で、歌人にとって父祖の集であることを多くの歌学者が認めている。景樹にしても、平易に努めた歌風は高く評価され、「海内、翁の門人のあらざる国一つとしてなし」と弟子に言わしめたほど人気があった。

子規は万葉集によって歌道に開眼し、写実短歌で独自の作風を築いた。秀歌も多いと思う。が、彼は極論を弄し、自分にそぐわない詠風は敵に廻して独善を誇示している。ホトトギスは何も竹の里だけで啼くわけでないことに気づくべきであった。

 

162 不信心の第一は坊主

──清沢満之

世の中で、不信心の第一は坊主、その次は坊主に近い在家の人、坊主に縁の遠いものほど厚信のやうに見える。

&『清沢先生言行録』清沢満之著

清沢満之(きよざわまんし)(18631903)は真宗大谷派の僧。精神主義に徹し、教団の改新を唱えた。

清沢の一言は一見同職攻撃だが、その言わんとするところは真理を洞察し、痛烈である。近代仏教界の堕落を端的に表現し、耳の痛い宗教屋も少なくなかろう。

 仏教界は狂っている。西を向いても東を見ても、拝金餓鬼坊主だらけである。金満家と見ると下らない戒名一丁にン百万も吹っかける。シタリ面して説いた偽善の法話をCDだかにに吹き込み、通販ルートで釣って儲ける。しこたま稼いでも、宗教法人だから税金の優遇を甘受できる。外車を乗り回し、妾を囲い、左団扇の殿様暮らし。さらに法話会とかを催し宗徒を集め、聞いた風なご高説を垂れて喜捨を掻っさらう。

もう救いようのない末世で、心ある善男善女は仏教界に愛想をつかしている。宗教の存在は人の心の支えに必要だが、布教者が腐っていては何をかいわんや。坊主どもがこの世から消滅したら、社会はかなり清潔になるはずだ。それこそ衆生イライラの原因が一つ減り、心の救済になるにちがいない。

 清沢満之とその書

 

163 獣語の研究進歩し小学校に獣語科あり

──20世紀の予言

人と獣との会話自在、獣語の研究進歩して、小学校に獣語科あり、人と犬、猫、猿とは自由に対話することを得るに至り、従つて下女・下男の地位は多く犬によりて占められ、犬が人の使いに歩く世となるべし。

&『報知新聞』明治三十四年一月三日

「二十世紀の予言」として報知に一月二・三日に二十三項目にわたる未来予測が掲載されたのは1901年、つまり20世紀幕開けの年であった。したがって正しくは「二十一世紀の予言」とすべき。これはデスクの勘違いであろう。

中身に目を通して感心した。二十三項目の予言は、大半が的中か準的中しているのだ。たとえば「無線電信及び電話」「遠距離の写真」「七日間世界一周」「暑寒知らず」「写真電話」「電気の世界」「鉄道の速力」「自動車の世」「市街鉄道」「電気の輸送」などの事項はぴたり的中。ただし、掲出項をはじめ「買物便法」「暴風を防ぐ」「人の身幹」など、いささか勇み足がすぎ笑止な予想も見受けられる。

さて現実に、21世紀を迎えたわれわれが、22世紀の未来社会を予測した場合の成績はどうであろうか。科学技術の進歩は幾何級数ペースである。コンピュータを駆使したところで、20世紀組の予測成績に兜を脱ぐのではなかろうか。

 現代、バンダイ発売の本格的な未来予測可能という携帯型液晶玩具「未来予測機 ミライスコープ」。旧時代をイメージしたイラストがきまっている。

 

164 ハイカラ野郎の、ペテン師の

ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、モヽンガーの、岡つ引きの、わん〳〵鳴けば、犬も同然な奴とでも云ふがいゝ。

&『坊つちやん』九、夏目漱石作

夏目漱(なつめそう)(せき)(18671916)は小説家。右作品や『吾輩は猫である』などと並んで有名な作品。

江戸っ子教師の主人公が、赴任した田舎の中学で、同僚のヤマアラシに宴席での演説原稿の評を求められる。坊つちやんは一箇所「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」と指摘、例として掲出の言い回しをあげた。

ちとオッチョコチョイで負け惜しみが強く、喧嘩好き。頭の回転が速くて、ボキャブラリーも豊富。そんな坊つちやんの江戸っ子気質を漱石は達者に描いた。山嵐や野だ公のような田舎教師は、坊つちやんの口からポンポンとびだす江戸弁の歯切れのよさに、しばしカルチャーショックを受けてしまう。

江戸の下町っ子にとって、親しい仲間内での悪態やからかいは挨拶のようなものだった。「べらぼうめ」「唐変木」「てめぇのしゃっ面」といった卑俗語がふんだんに使われ、相手も負けじとやり返す。八熊連中から子供たちまで、こうしたやりとりを愉しむ風情すらあった。ストレス解消の連帯感があった。今日日(きようび)は、悪態一つ気ままに口に出来ない。

 『坊つちやん』は一九九七年、スペイン語にも訳され紹介されている(現代企画室刊)

 

165 嘘だと思うなら死んでみろ

──尾崎紅葉の臨終言

どうせ命がないものが、もだえ苦しんで二時間や三時間生きながらえて何になるものか。そんなことをいうのは、死んだことがないからだ。嘘だと思うなら死んでみろ。

&『人間臨終図鑑』Ⅰ・尾崎紅葉、山田風太

尾崎紅葉(おざきこうよう)(18671903)小説家。『金色夜叉』など傑作を残す。

 尾崎紅葉

紅葉は息を引き取る前日、胃がんの激痛に堪えかね、モルヒネを大量に注射して楽に往かせてくれと医者に頼んだ。それは殺人行為につながるからと医者が断ると、掲出のような駄々をこねた。

紅葉のこの飾り気のない死に際を生なましく描いた筆者の態度は好ましい。言葉に真実味があるからだ。「嘘だと思うなら死んでみろ」は、もちろん苦しい息の下での言葉の綾。だがせっぱ詰まった絶叫とも見て取れる。作り事でない死に面と向かって吐いた本音なのだろう。

伝えられている歴史上の有名人の往生際や臨終言というものは、「まさか」と思えるような虚飾や作為にまみれている、といってよい。苦しい状況では口にできそうもないことを平気で言わせている。その死に立会いもしない伝記作家や史家たちが、あとで勝手に脚色したり体裁をとりつくろった、ご立派最期が目立つのである。その手の締めくくりは迫真力に欠け、読んでいてうんざりする。故人に対しても失礼だ。

 

166 おしりが破けた

おしりが破けたよ!

&『増補 一平全集』第十六巻、岡本一平著

岡本(おかもと)かの子(18891939)は歌人・小説家。一平は夫。

 岡本一平とかの子夫妻

 かの子が初潮を見たとき、まだ月経の何であるかを知らない彼女はそう叫んだという。頑是ない少女にはあわててしまう出来事だろう。驚天動地のショックぶりが見て取れる。

月経についての最初の記述は『古事記』中巻にある。(やまと)(たけるの)(みこと)懸想した美夜受比売(みやずひめ)ったとき、比売(おすい)の部分に血が付いているのに気づき、こう歌っている。

 ひさかたの 天の()具山(ぐやま) ()(かま)に さ渡る(くひ) 弱細(ひはぼそ) 手弱(たわや)(かいな)を ()かむとは (あれ) はすれど さ寝る無とはは思へど ()()せる (おすひ)の裾に 月立ちにけり

共寝をしたいのに、衣の裾に経血がついているのを見ては、(うと)ましくての気にならないよ、と苦言を呈したのである。つまり月経は、禁忌すべからざるものであった

近代の名評論家長谷川(によ)()(かん)は、いみじくも喝破している、「女は月経に支配せられ、男は月給に支配らる」と。

 

167 樺太が半分になつた上に償金が一文も取れねえ  

                                      ──熊 公

何だ馬鹿〳〵しい、樺太が半分になつた上に償金が一文も取れネーといふぢやネーか(オイ)ら昨晩号外を見てから腹が立忌々(いまいま)しくの目も合はなかた、一体政府は何でアンナに弱かたのか薩張(さつば)合点が行かネー、アンナ事なら己らア稼人(かせぎにん)(せがれ)を二人戦争に遣つて殺してしまうんぢやネーンだ、糞ツアレ程譲る位なら樺太なんざア丸で貰はネー方が余程気が利いて居らア(けへ)ちまへ〳〵ケチな捕虜の食料に熨斗(のし)でもけて返上だ、ヘン

&『東京朝日新聞』明治三十八年九月一日

日露戦争には勝ったものの、樺太(からふと)つまりサハリン分割にまつわる日本政府の弱腰外交とロシアのしたたかぶりに腹をてた、熊仕立の社説である。当時の国民感情を巧みに代弁している

戦前の日本地図で樺太は北緯五〇度線により北はロシア領、南は日本領に二分され、日本領には樺太庁所在地の豊原(とよはら)市(現ユージノ・サハリンスク市)が存在していた。

樺太は元オロッコ族、アイヌ民族の原住地であったが近世、日本人による発見と進出で領有権を獲得した。しかし安政元年の日露通商条約の協定以降は、千島列島獲得の交換交渉を通じ、日露戦後のポーツマス条約に基づき、北緯五〇度で両国二分割の形をとる。

そして太平洋戦争、日本の敗戦濃厚と見るや、ソ連が火事場泥棒よろしく参戦。戦後のサンフランシスコ講和条約の協定で、樺太を中心とする北方領土はソ連に奪い取られてしまった。最初に樺太を探検踏破した功労者の間宮林蔵も、泉下で歯軋りしつつくやしがっていよう。

 戦後間もない昭和二十二年、早くから北海道根室市の市民らによって北方領土返還運が展開されている。

 

168 歌子と繁子は黒田の薄野呂を笑いける

──醜聞記事

歌子と(しげ)が元の身体(からだ)にしてせと叫ぶべきときはたりぬ元より黒田(筆注=清隆)には()の愛情く只(これ)を色に(いざの)て其の懐中物をねじ取るにありしかば、モウ好分と思う頃歌子と繁子は黒田に無心を吹きかけぬ、(中略)一夕(いつせき)歓夢(かんむ)万円にするとはからかぬ相場かなと万円に負けてと頼みも歌子はイツカナ聞き入れず万円が一文引けても承知せずと(中略)三井銀行より金を借りて売淫料五万円は(ようや)歌子の手に渡しぬ歌子此の五万円を山分けにして二千円は子の手に、万朝報ユスリ記者にも少なからぬ御礼をやり長きをペロリ黒田の薄野呂(うすのろ)を笑いける。

&『妖婦下田歌子「平民新聞」より』山本博雄編

平民新聞は明治四十年二月二十四日~四月十三日に「妖婦下田歌子」と題する醜聞記事を連載した。出典はその復刻版、掲出はうち一編「売淫料五万円」からの抄出である。

事の真偽は別として、記事は悪意と中傷で埋め尽くされている。表現の俗悪さも今では三流週刊誌にすら見られらいほど過激だ。

平民新聞は、元万朝報社員の幸徳秋水と堺利彦が創刊、主筆に荒畑(あらはた)寒村を迎えてスタートした新興紙である。スタッフあろうことか「万朝報とする悪徳新聞」とこきろしている。まるで親を口汚くののしる不良息子にて、ちるところまでちたり、のがする

ヤリ玉に挙げられた下田歌子(18541936)は、人物事典では教育者で実践女学校の創設者、学習院女学部長と肩書きは立派だ。しかし派手好みでしたたかな女傑であった。黒田清隆はじめ伊藤博文、井上(かおる)山県(やまがた)(あり)(とも)ら好色元老とを通じ手玉にとったことも明らかにされている。

 出身地の岐阜県岩村市岩村城下に立つ下田歌子の銅像

 

169 凌雲閣が崩れたら

──藪野椋十

凌雲閣!なる程丁度十二階ある。一体何の為めに建てたものじゃろうか。滅法に高いものじゃ。少し歪んでいる様じゃ。筋金が打ってある。これは剣呑(けんのん)じゃ。()が崩れたらどんなじゃろう。考えて見てもぞっとする。さすがに東京者は(たん)が据っているわい、あの危険物(あぶないもの)を取払わせずに、平気での近所に住んでいるのは。もっとも博覧会は東京に雨が降らぬものとして建てたそうじゃから、この十二階も地震のない国の積りじゃったろう

&『東京見物』藪野椋十

藪野(やぶの)(むく)(じゆう)こと渋川(しぶかわ)(げん)()(18721926)は新聞人・作家・奇書収集家。

 関東大震災で崩壊する前の凌雲閣(絵はがき)

 凌雲閣は明治二十三年十月、浅草千束町に落成した。高さ約六七メートル、総一二階あることから「十二階」と総称され、たちまち東京名物になった。もちろん日本一の高層建物である。

藪野は「東京見物」という小品のなかで、初めて凌雲閣を見物したお上りさんに掲出の感想を言わせている。実際に見料一銭を払って十二階の望遠鏡で町を眼下に見下ろすと目を回すほどだったという。当然誰もが、地震で倒壊しないかと心配した。

凌雲閣は田舎のおっさんの心配どおり、大正十二年九月一日の関東大震災で崩壊した。八角形の総煉瓦造りの建物は、一瞬にして瓦礫の山と化したのである。三十三年間の名物も終に瓦解に至る。

落成当時の人気のほどを有名人の歌俳に見てみよう。

  これやこのピザの斜塔にあらねども凌雲閣は懐かしきかな/吉井勇

  時雨るるや層々暗き十二階/竜之介

 

170 短いもやしを見るたびにあなたの足を

──岡本一平

黒い大きなものを見るたびにあなたの瞳を思い出します。短いもやしを見るにつけあなたの足を思いだします。夜もよく寝られません。

&『にっぽん奇行・奇才逸話辞典』紀田順一郎編

岡本(おかもと)一平(いつぺい)(18861948)は漫画家。かの子の夫。

この恋文の全文を読む機会はなかったが、掲出部分に関する限り、漫画そのものの文章である。ラブレターありがちな斜に構えたところが少しもなく、心の趣くまま正直に告白しているのもよい。「あなたの足」を「短いもやし」にたとえた連想など、一平描くを地で行っている。並の者なら惚れた相手を(おもんばか)って、絶対とっていいほど使わない文言。通常の感覚、ありきたりの発想ではけない恋文

この口説きに心をかきたてられたわけではなかろうが、かの子二十歳のとき、品川の下宿に一平を迎え、長男太郎を妊娠のまま結婚にゴールインしている。しかし二人の結婚生活は、やがて傷つけ合いの修羅場と化す。一平は放蕩で家を空けるようになり、かの子はかの子で、早稲田大学の文学青年と浮気を始めたのである。明治の都々逸にいわく、

  死ぬの生きるの惚れたが筈も三年すぎれば唯の仲

 『新日本』大正四年十一月号に掲載、一平画の時事漫画

 

171 虱子をついに三百六十五頭生捕りました

──田中正造

至急御届け申上候。一昨夜来所々にて虱子十四、五疋発見いたし、昨夜足利に来り親族の手をかりて虱子の巣屈そふさく候処、彼れハ衣類のヌイメ竪横ニ潜伏せり。終ニ三百六十五頭生捕り候。随分の大騒ニ騒せました。さて先頃二回貴家に参上第一回の頃よりして下腹のへんかゆく候ニ付てハ、多分夜具及衣類ニ今ごろハ多くの悪魔を蕃植いたさせたりと存候間、右大至急御届け申上候間、草々御征伐のほどを奉願候。

&『二一世紀の思想人 田中正造』小松裕著

田中(たなか)正造(しようぞう)(18411913)は明治の民権家・政党政治家。足尾鉱毒問題を糾弾。

硬骨漢を看板にしたような風貌の田中正造 

明治四十一年一月十六日付け、逸見斧吉・菊枝夫妻宛書簡の一部である。田中は甥の原田定助の家で、素っ裸になりシラミ退治に奮戦。その何日か前に泊まった逸見家へこの手紙を出した。

田中正造という人物には、憂国の政治家で正義を貫く硬骨漢、というイメージがある。百年も前に足尾銅山が垂れ流す鉱毒に義憤を覚え、公害排除の急先鋒として活動した人物だ。ただ議会では民主的解決がみられず、絶望した彼は、明治三十四年十二月行幸中の天皇に直訴に及ぶ。有言実行、信念を曲げることのない熱血の士であった。

 そうした正造に、シラミ退治の様子をつぶさに書き送るユーモアのセンスがあるとは思いも寄らなかった。几帳面でもある。この一書により、彼の人間の幅の広さを改めて思い知らされた。「三百六十五頭生捕り候」といった大仰な表現も、受信する者の心をなごませる効果がある。こういう人こそ、真の人間政治家というのであろう。

 

172 掻いてもらえばねー、福の神

びんづるさんはネー、ちよいとネー、痛いところを撫でればネー、ちよいとネー、治るネー、ちよいとネー、ビリケンさんはネー、足の裏をばネー ちよいとネー、掻いてもらえばネー、ちよいとネー、福の神ネー、ちよいとネー

&『明治秘話』石田竜城著 

明治の末、アメリカからわが国の民衆に幸福をもたらす神像という触れ込みで、図のような奇天烈(きてれつ)な人形が輸入された。広めたのは東京京橋の菓子商文明堂の主人で、店頭にべたところたちまち評判になった。

 このビリケン、日本風に装い替えしたものまで現れ、花柳界のきれいどころが崇拝するところとなった。掲出の詞は、某書生が作った読売の文句である。ビリケンに招福を叶えてもらうには、縁起棚に飾って御供物を並べ、三拝のあと次の呪文を唱える。

 南無ビリケン様さまどうぞ娼売繁昌不見転(みずてん)安穏に今日亦大のお客をお授けさるうに……その礼にあなたの足の裏を沢山掻いてさしあげます。

ということで、実際にビリケンの足裏を掻くと、霊験あらたかと喧伝された。一種の狂信フィーバーといったところか。日本古来の「なでぼとけ」鬢頭廬(びんづる)様は、さぞ膨れっ面だったろう。

 金メッキで陶製の縁起物「ビリケン」

 

173 予の如き不平家またあるま

古往近来東洋泰西三千十万億土予の如き不平家またあるまじ。(読み下し)

&『後のかたみ』秋水自選の漢詩集

(こう)(とく)秋水(しゆうすい)(18711911)は新聞記者。高名な社会主義者で、大逆事件の主犯とみなされ死刑に。

秋水さすがはジャーナリスト、己をよくわきまえていた。見方によっては、その四十年の生涯は、不平につぐ不平で成り立っていたといってよい。

秋水は幕末の民権論者であった中江兆民に師事し、人権の擁護を踏まえつつ社会主義思想に走った。万朝報時代、()の記者に社会主義者ありと名をとどろかせていた。日本近代史を賑わせたこの人は、いかなる逆境にもめげず、徹頭徹尾、軍国主義国家への体制批判を吐露し続ける。その熱血ほとばしると勢いの止まるところを知らず、終に自ら墓穴を掘るに至ったが、筋金入りのその名は史書に永遠に刻まれることになった

 明治三十四年に堺利彦と設立した『平民新聞』社屋前で。

 秋水のプロフィルは四角四面な思想家に止まらない。酒を愛する漢詩人という一面もそなえ、「春夜」と題する一篇に、

 沈々たる春夜に 漏声伝わる/風は簾瓏(れんろう)を払うて 興憐れむべし/酒を挙げて(とずか)に見る 深陰の外/一朶(いちだ)の花影 月嬋娟(げつせんけん)(読み下し)

 

174 彗星と地球がブッかる

──ゼムの広告文

そらッ/彗星と地球がブッかる/世界の全滅?/人間はどうなる?/サア大変々々/一分一秒猶予はできぬ/霊薬ゼムの用意はよい?/早く飲め早く/タッタ一粒ゼムを/懐中良薬口中香錠ゼム  

&『東京朝日新聞』明治四十三年五月二十日に掲出

天変地異は科学知識の乏しかった時代の大衆を社会混乱におとしいれる強烈なパンチといえた。明治四十三年五月十九日、ハレー彗星の地球大接近現象もその例に洩れない。

彗星の尾が大気に触れ発光する現象を、地球に衝突するとか、高熱で地上のあらゆるものが焼き尽くされるとか、空気が蒸発して無くなる、あるいは彗星の尾に含まれる有毒ガスに触れた動物は笑い死するなど、デマや憶説が飛び交う。国民の多くは生きた心地もしないほどパニックに襲われた。

こうした人心の乱れをつく便乗広告も現れる。まだ広告の倫理規定も誇大広告の自主規制もなかった時代のこと、人の弱みに突けこんだ無法な広告がまかり通っていたのである。

ゼムの広告も、一錠のめば災難から逃れられるかのような印象を与えるペテン広告である。金儲けのためには手段を選ばず、消費者の混乱も知ったことではない、とする悪徳商人が跋扈(ばつこ)した時代でもあった。

 保阪嘉内(岩手県出身)が描いたハレー彗星のスケッチ

 

175 マムシもびっくりの似顔絵ですぞ

&『すきなみち』(宮武)外骨著に再所収、画家は未詳〕

 明治の翻訳小説家として有名な黒岩涙香(18621920)は新聞社の万朝報社長でもあった。その人となりを外骨は自著『明治恐喝史』のなかでこう酷評している。

 蝮の周六とは東京人が彼を呼ぶ渾名である、この渾名一つで彼の性格、彼の閲歴

を明かに表示して居る、彼は実に新聞界に於ける脅喝取材の親玉と云ふべき悪漢で

ある、其成功と云ふのも要するにユスリの成功である、今日全国到る所に脅喝を専

業とする悪新聞記者が多いのもツマリは蝮の周六がその俑を作つたのである、故に

彼周六は世間を害せし大なる毒蛇と云はねばならぬ

 さすが毒舌をもって高名なる外骨先生、うがった人物評を下したものだ。しかし

両奇人を見比べた場合、涙香がマムシなら外骨はガラガラヘビだ。毒の効いた筆法

にかけてはともに相譲らぬとみている。

  お二方を尊敬してやまない筆生としては、あの世で共食いなどなさらぬように、と願うばかり。

 

176 春三月縊り残され

春三月(くび)りのこされ花に舞う    大杉栄

&『人と思想 大杉栄』高野澄著

大杉(おおすぎ)(さかえ)(18851923)は社会運動家。逞しい無政府主義者であった。

明治四十三年六月に起きた大逆事件では、天皇暗殺をくわだてたかどで二十四名の社会主義者や無政府主義者が逮捕された。幸徳秋水ら十二名は翌四十四年一月に処刑。大杉も連座して拘留されたが、きわどくも前年十一月に出所している。

十二名の死刑執行を耳にしたとき、大杉は自嘲をこめてこの一句を作った。いやな時代の、不安な社会相を反映させたような句だ。絞首を免れた安堵どころか、一人残されたわが身を呪っているようではないか。大杉は手記『続獄中日記』でこう述べている。

 僕は自分が監獄でできあがつた人間だということを明らかに自覚している。入獄以前の僕は、おそらくまだどうにでも造り直せる、あるいはまだ碌にはできていなかつた、ふやふや人間だつたのだ。

この骨っぽいマルキシストも、関東大震災のおり、内妻伊藤野枝と共に、右翼の手で虐殺されてしまった。掲出句はその不運を告げる狂句であったのだ。

 大杉栄殺害を報じる新聞記事

 177「焼酎甲類」とはペンキ語にしてペテン語             荻生筆                                                    

好きな麦焼酎や芋焼酎を()るとき、壜を見るにつけ不愉快でならない。「焼酎乙類」のラベル表示が、だ。飲用アルコールを水で薄めただけの味も素っ気もないシロモノが類で、レッキとした昔ながらの焼酎が類だとは!

 甲乙の語義については、『広辞苑』に「①甲と乙。すぐれていることと劣っていること。まさりおとり。優劣。」とある。ほかの国語辞書も同様の語義を述べてある。正しい日本語にあって、「甲は優れ、乙は劣る」の意味であること、疑う余地がない。

 この序列が焼酎業界ではひっくり返っている。悪貨が良貨を駆逐──いやさ、悪酒が良酒を追い出そうとする底意地悪さが見えミエ。常識が通用しない「不当表示」の最たるものだと思う。いささかでも頭に血のめぐる飲んだくれなら、この影には業界の黒幕パワーによる裏工作のあったことは、容易に想像がつく。その辺のいきさつを『近代日本食文化年表』、明治四十三年〔1910〕の条から引用すると、

 新式焼酎、焼酎甲類を発売。/明治末になるとアルコールの生産が過剰になり、そのアルコールを使っていろいろな酒を造ることが研究された。アルコールに水を混和したものを焼酎として認めてもらうよう運動し、焼酎甲類が生れる。

とあり、古い話であることがわかる。いまさらクダを巻いても仕様がないが、問題はその後の政府の対応に納得がいかないのだ。

 以降乙類の団体は、この甲乙の呼称を不当とし、改善を申し入れた。しかし、甲類側が既得権とやらを主張したのだろう、政府は黙視したまま現在に至っている。ただ昭和三十八年、酒税法の準則である「酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律施行規則」の定めにより、乙類は「本格焼酎」と表示してよいことになった。やっと陽の目にあえーぞな、モシ。と思ったもつかの間、甲類に対しては「ホワイトリカー」と表示してよいと認めてしまったのである。

 日本蒸留酒酒造組合サイト「焼酎Square」より

「本格焼酎」対「ホワイトリカー」。語感にどこか古臭さを帯びた前者に対し、現代的でしゃれた感覚を想起させる後者。ネーミング論から判じても、後者のほうが若者受けする秀作である。安上がりで酔えさえすればよい、という酒味オンチ連は、ホワイトリカーの語感に酔わされ、甲類ブームを生んでメーカーをニンマリさせた。乙類組はここでまたもや、甲類組の資本力と戦略上手と智恵に差をつけられた。なんのことはない、俗にいう「仏作って魂入れず」という結果に終わってしまったわけだ。

 悪酒のほうが威張ってるなんて、ショーチューできねえ。乙類メーカーの皆さん、もっとしっかり頑張ってくれないと、本格派飲ン兵衛としても、応援の張り合いがなくなりますよ。

 花冷えぞおいどんと呑め芋の酒   待也

 &『酒大学林』第三部15章より

 

178 野球は巾着切の遊戯

──新渡戸稲造

野球という遊戯は悪く云へば、巾着切の遊戯、相手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、塁を盗まうなど目を四方八方に配り神経鋭くしてやる遊びである。

&『東京朝日新聞』明治四十四年八月二十九日、新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)「野球と其害毒」

新渡戸稲造(18621933)といえば旧制第一高等学校(現東大教養学部)の校長で、五千円札の肖像にもなっている紳士である。

 そのエライサンが「野球と其害毒」という東朝の連載読物の談話で、流行し始めた野球と野球部学生を徹底的にコキおろした。掲出のように、詭弁を弄しての攻撃である。ところが批判内容が過熱化するに従い、東朝の読者が増え実販部数も伸びている。

 野球嫌いのシンボルマーク?

 ここが新聞社の付け目で、社会部長渋川(げん)()計略によるヤラセであった。野球が読者の野次馬根性をあおる格好の材料にされたのだ。東朝も新渡戸さんもエゲツない手を使ったものである。

さて現代。毎年高校野球シーズンになると朝日はがぜん色めきたち、かなりの紙面をその報道に割く。野球にまったく興味をもたない筆生のような読者にとっては「たかがガキの玉遊び」のために割高な新聞代を払わせられていることになる。時代が変わったのだから変節に甘んじてもよろしい、とでもいうのだろうか。