昭和前期

 

 

202 酒は毒の中では一番いいものだ

──葛西善三の酒論

酒はいいものだ。実においしくって。毒の中では一番いいものだ。

&『漫談』葛西善蔵作

葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)(18871928)は小説家。心境小説の名手。

 酒瓶を目の前にしたどきの葛西善三は、まさに水を得た魚だ。

 善蔵は超の字のつく愛酒家だった。著作『湖畔手記』の中、箱根湯本の宿で「ここへ来て自分は毎晩一升近くの酒を飲んでゐる」と述懐。結局「毒の中では一番いいもの」に溺れすぎ、寿命を縮めてしまうのだが。

彼は、健康を害したので禁酒すると宣言した友人に、こうアドバイスしている。

 酒をやめるなんていけない。からだを悪くするのは自分が悪いからで、けっして酒に罪があるのじゃない。僕なんか、酒をやめるなんて僭越なことは、夢にも考えたことはないですな。酒をやめるなんて、思い上がった気持ちは絶対にいけません。僕なんか、もし酒で、腹をこわすようなことがあると「わしが悪かったのだ。許してくれ。お前に罪があるわけじゃないんだから…」と腹をさすりながら謝るんです。すると、大変気持ちがよくなる。(出典失念)

「寿命を縮めてしまう」の前言を訂正したい。葛西は最愛の酒に惚れ抜いて、心中したのである。

203 享楽座女優販売の宣言(資料のみ)

…私達は今まで先生という程の先生に就て何も教はつた事がありません。私達の芸術は、地の底から湧き出る清い泉のやうに、私達の胸の中からほとばしり出た自然の芸術です。…私達は一回の独唱に数千金を要求したと伝へられる某女史の肉声が、如何に遊蕩階級の讃美を(あがな)ふべく巧妙なるメロディーを現出し得たるかを知りません。唯野の鳥の如何(いか)に楽しく唄ひ(さへ)づるかを知つてゐます。又私達は入場料の高価なる事に於て、帝劇開業以来のレコードを破つた一ダンサーの不自然極まる軽業(かるわざ)()的演技が如何に知識階級の淫蕩的野心を満足すべく工風(くふう)鍛錬せられたるかを知りません。たゞ花より花に舞ひ狂ふ胡蝶の(おのづか)らなるその風情(ふぜい)に差す手引く手の巧みを超えた舞踊の(おく)()を学ぶ道を知つてゐます。

 『浅草底流記』添田唖蝉坊/添田知道共著の表紙〔1982年復刻版/刀水書房刊〕

私達は決してソンジヨソコラのドエライ女優さん方のやうに、やれ帝劇には出演するが公園には出演しないの、公園には出演しても待合には出入しないの、待合には出入しても淫売はしないの、淫売はしてもパンタライ社には出入しないのといふやうなきいた風なことは(まを)しません。私達は生活のためとあれば日本一の大劇場でも、場末の寄席でも、大道でも(もちろん四畳半のお座敷でも)平等一様に出演して私達の「芸術」を極めて安価お手軽に販売します。コケオドシや食はせ物でない、ほんとうの生きた血と涙との「芸術」が欲しい人は何時でもご遠慮なく御下命を願ひます。&『浅草底流記』うち「浅草は性欲の廃墟?」

*宣言と言うよりは宣伝である。しかも「享楽座」所属の「女優派出」という名の売春の出前を喧伝し、それを芸術と称しているのだからすさまじい。文中のパンタライ社はその派遣会社で、一時はかなり繁盛したらしい。

 

 

204 『グロテスク』急性発禁病のため新年号死亡御通知

   『グロテスク』新年号死亡御通知

愚息『グロテスク』新年号サンザン母親に生みの苦みを味はせ、漸く出産せし甲斐もなく、急性発禁病の為め、昭和三年十二月二十八日を以て長兄『グロテスク』十二月号の後を追い永眠仕り候(*中略)遺骸の儀は好都合にも所轄三田署に於て一年間保管の上荼毘に付してくれる事に相成り候へば、こればかりは光栄と存じ居り候。猶遺言状に依り、供花放鳥の類は一切御断り申上候へ共、第四子『グロテスク』二月号出産の場合は誕生祝として賑々しくご声援被下様願上置候

東京三田/喪主 グロテスク社/親戚代表 文芸市場社

──昭和三年十二月、新聞数紙に広告掲出

社会的にセンセーションを巻き起こした異色の広告である。大方のインテリ層は、発禁は不当であるとの『グロテスク』支持の態度をとり、社主梅原北明の当局への面当てに喝采を送った。

 風俗雑誌の死亡広告 〔風俗雑誌『グロテスク』、文芸市場社刊、昭和三年三月十二日〕 

梅原はボッカチョ原作『デカメロン』の翻訳で知られる。大正十三年、この好色ものが出版されると前宣伝も効いてベストセラーに。北明はその儲けを資金に雑誌『文芸市場』を創刊したが、放漫経営が基で行き詰まる。次に『変態資料』『明治性的珍聞史』などセックス本を刊行するが、いずれも発禁に処された。昭和三年秋に『グロテスク』を創刊、これも第三号が発禁処分を受けると、彼は半分ヤケになり、掲出の黒枠広告を発表したのである。

 権力体制側が出版物を発禁に処する行為そのものは、文化文明の否定につながる。発禁した当局の親玉が退官後に発禁本のストックを密かに持ち出し、アングラ筋へ売り渡し大儲けした、という黒い噂も流れた。

 

205 スカートが短いともっとエロ

──高見順

スカートがもう少し短いともっとエロなのだが。

&『故旧忘れ得べき』高見順著

高見(たかみ)(じゆん)(190765)は小説家・詩人。詩集『死の淵より』は文壇に衝撃を与えた。

昭和初期、世相に退廃ムードのただよった一時期があり、これを「エログロ・ナンセンス時代」と称した。女優の望月優子は著『紅団のあのころ』の中で、「オペラ(筆注=当時人気の浅草オペラ)華やかなりし頃が終り、全国的にエロ・グロ・ナンセンスの流行が風びした時代で…」と回想している。

この風潮は昭和五、六年頃に頂点を迎える。背景には大量の失業者を生んだ世界不況と、生活権を守ろうと叫ぶ労働運動の激化、これらに対抗する官憲の弾圧で、社会全体がヤケのヤンパチ状態に陥っていた。巷にはチャールストン風エロ・レビューが登場し、カフェでは脂粉まみれの女給が客を挑発、ゾッキ本やエロ行進曲が人気をさらった。

エロ風俗の過激化に当局も手を焼く。警視庁は取締りの一環として「股下三寸未満、もしくは肉色のズロースを使用するべからず」との苦肉の通達を関係方面に発した。

 べからずを脱がせた下にエロがあり 待也

 エログロまみれの「赤玉」のチラシ・昭和初期

 

206 決定版「妻惚(さいのろ)憲法」

第一条  朝ハ妻ノ目覚メザル内ニ起出テ、炊事万端ヲ調フベシ。 

第二条  (タマタマ)、妻の調理セシ料理、味フヲタルトキハソノ美味ナル事ヲ言葉ヲシテ賞揚スベキモノナリ

第三条   妻ノ欲求スル物ハ、其ノ物品タルト何タルトヲ問ハズ、直チニ調ヘ与フベキモノナリ。(以降の各条省略)

&『現代ユウモア全集』第二十四巻「命のばし」、昭和五年刊

 妻惚(さいのろ)の意味がわからないという読者もいようから、昭和初期の辞書である上田景二編『模範新語通語大辞典』より抄出しておく。

 サイノロジー サイコロジー(心理学)をもぢれる通語(つうご)にして、細君にノロイことを云ひ、サイノロ又はサイノロジストは細君にノロイ男の称なり

要するに、妻に甘くて言いなりになる夫のこと。言語学者の金田一(きんだいち)京助博士が大正初期に造語したと伝えられている

現代ではよほどの年配者でないと使わない、死語になりかけたことばである。意味あいもいささか変化して、「女房をのろけ自慢するキザなやつ」をさす場合が多い。

 〔教えて!gooサイト「恐妻家はしあわせ?」より〕

どっちにしてもサイノロは「亭主関白」の対語である。亭主が家長として権力を握っていた戦前までは、それなりに希少価値のある新鮮な流行語であった。しかし性差別撤廃が叫ばれ女房連が強くなった現在、サイノロジストの新鮮味は失せてしまった。

 

207 カフエー改良策十綱〔題名〕

一、二十歳未満の者は女給たることを得ず(二条は省略)/三、流浪女給の徹底的取締/四、女給と客との対談厳禁/五、客との外出は一切厳禁/六、チップ全廃/七、カフェー重税賦課/八、エロ女給は厳罰に処すること/九、若い男女の入店を制限する/十、女は二十五才、男は三十才まで自分の生れ故郷に止って働くこと

&『都新聞』昭和六年六月二十二日、警視庁風紀係長宛て投書

当時のカフエーは現代の大衆キャバレーのようなもので、客席に女給をはべらせ洋酒・洋食の相伴をした。カフエー第一号は、明治四十四年三月に東京京橋日吉町、国民新聞社前に開店の「プランタン」とされている。同店の盛況に刺激され、各地に雨後のタケノコのようにカフエーを名乗る店が出来た。

「むかし恋しい銀座の柳…」と西条八十が作詞したのも、よきカフエー時代を偲んでのこと。やがて大阪のカフエー資本が東京へ出張(でば)り、客寄せにエロサービス攻勢を仕掛ける。すでにファシズムが台頭、人々は暗い世相から逃れようと、ネオンと脂粉の歓楽境カフエーへと走った

その筋も取締りを強化した。新聞・雑誌にも「カフエー亡国論」が目立つ。掲出はそんな風潮に悪乗りした投書の一つである。ご同輩諸氏よ、投書子の十項を守るような味気のないカフエーに、あなたは足を運びますか。いつの世にも、お節介な朴念仁(ぼくねんじん)がいるものだ。

 『モダン恋愛デパート』山内一煥著、昭和六年 なんと精虫クンが力泳している表紙

 

208 僕がファシストであることを宣言する

──直木三十五

僕が一九三二年より一九三三年までファシストであることを、万国に対し宣言する。(中略)僕の『戦争と花』をファシズムだとか──君らがさういふつもりなら、ファシスト位にはいつでもなってやる。それで、一、二、三ん、僕は、一九三二年中の有効期間を以て、左翼に対し、ここに闘争を開始する。さあ出て来い、寄らば斬るぞ。何うだ、怖いだらう、と万国へ宣言する。

&『読売新聞』昭和七年一月一日

直木(なおき)三十五(さんじゆうご)(18911934)は小説家。大衆文学で業績を残す。

掲出はもちろん戯文である。直木は昭和七年元旦の読売紙上で、一年間ファシストになると宣言した。この文章がジョークであるのはすぐわかる。しかし頭の中がコンクリート詰めの軍部連には、戯文を解し笑い飛ばすだけの脳ミソも度量もない。三十五は結局、呼び出されて今後、事穏やかに運ぶという誓いの一札を取られた。

 三十五歳頃の直木三十五

 直木賞の冠者(オナー)になったこの作家、頭の回転が速いだけでなく、短く、やさしく、わかりやすい文章を書く、つまりは名文家である。しかも、ここぞという場合はくだけた人柄を発揮する。文中「一、二、三ん」とあるが、彼が好んで使った間投詞

三十一歳で文筆活動をはじめたとき、筆名を「三十一」とした。翌年には「三十二」に、さらに翌翌年には「三十三」。三十四はとばし。五年目の「三十五」からやっと落ち着いた。洒落ッ気たっぷりの愉快な人物であったらしい。一、二、三ん、先生にこれだけ肩入れしたんだ、僕はナオキストであることを宣言する。直木賞ぐらい呉れてもよかろ、アハハ。

 

209 小林多喜二よ、いのちはないものと覚悟していろ

──築地署特高課員中川某

小林多喜二のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。こんど連絡があったら、そのことだけははっきり小林に伝えておいてくれ。──いいか。われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは逆賊だ。そんな逆賊はつかまえしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ。小林多喜二もつかまったが最後いのちはないものと覚悟をしていろと、きみから伝えておいてくれ。

&『われらの陣頭に倒れた小林多喜二』江口渙著

小林(こばやし)多喜二(たきじ)(190333)は作家。高名な共産主義者。

ファッショ体制下の国家では、たとえ個人がいかに正論を述べても、国益に反するとみなされたら抹殺される。ときには、かけがえの無い生命までも、だ。小林多喜二の場合はその典型的な例である。

泣く子も黙る築地署特高課員が闘争中の多喜二を逮捕したのは昭和八年二月二十日。署に連行された彼は、課員らの人間とは思えない拷問で十日間痛めつけられ、殺された。自宅に戻された遺体のむごさに、母堂セキは狂ったように慟哭したという。

全身いたるところに拷問の痕が残る小林多喜二の遺体

 この悲劇は仕組まれたものであった、という説がある。

掲出は小林が逮捕される前の潜伏中に、殺害犯の一人である中川成夫特高課員が、日本プロレタリア作家同盟委員長の江口渙にしゃべった言葉である。天皇の名のもとに、こうして共産主義者はじめ反体制派と目される人物が狩り出され、ひどい目にあい、ときには命を奪われた。小林のケースなどは、中川発言からも明かなように警察組織による計画殺人であった。

 

210 ズロースさえはいていたら、に便乗

&チラシ・昭和八年頃

 事の発端は白木屋火災である。

 昭和七年十二月十六日午前九時三十分、東京日本橋の百貨店白木屋から出火、猛火につつまれ女店員ら十四名が死亡。女店員らは窓際のロープ伝いに降りるさい、裾の乱れを気にしたため墜落死するという災難にあった。じつは当時彼女ら、腰巻の下はスッポンポンであった。

 世人はこの事件の教訓として、「ズロースを

はいていれば助かったのに」と評した。

  翌昭和八年、その白木屋が刷った「ホーマーズロース」売り出しのチラシ。言葉の継ぎようがないしたたかな商魂である。

 

211 桂春団治の臨終(トリ)一席(オチ)

これでイガン免職や。

&『にっぽん奇行・奇才逸話事典』紀田順一郎編

(かつら)春団(はるだん)()(18811934)は大阪の落語家。平成八年「上方演芸の殿堂」入り。

 晩年の初代春団治

 春団治五十四歳、胃がんで死す。落語家らしく極め付きのオチで成仏した。

落語家という仕事師、人を笑わせるのが商売である。突拍子もない迷言漫語が付いて回り、それをまたネタに飯を食っている。言わせてもらえば、どこまでが本音なのか皆目わからない。そのため本書でも噺家相手の材料はつとめてさけている。が、春団治の死に際の一言は駄洒落なんてものではない。オチも通り越し、プロとしての鬼気迫る気迫すら感じる。つつしんで頂戴に及んだ。

この人、芸達者なのはもちろんだが、無茶のほうでも鳴らした。寄席をサボって女と待合にシケこんだり、喧嘩の相手がよく見たら師匠(桂文治)だったなんて失敗もやらかしている。大正五年、妻子を捨ててさる金満家の後家のもとに走った。その一件がスキャンダルになると、(くだり)(にわか)噺に仕立ててレコードに吹き込みヒットさせている。憎めないしたたかさをもった芸人であった。

 

212 北朝の今日この頃、無念の極み

──熊沢寛道

ご先祖様の事を思い、今日未だ至誠の士あり、今夜の(うたげ)に座すことをうとき、過分でる。ご先祖様も定めし、地満足であろうと思う。それにつけても北朝の今日この頃、思えば無念の極みである。

&『世界評論』昭和二十五年、川合貞吉「熊沢天皇擁立秘話」

*熊沢天皇こと熊沢(くまざわ)(ひろ)(みち)(18881966)は南朝崇拝者。天皇を自称し政府などに上奏文を送る。

時は前後するが終戦の翌年、熊沢は南朝最後の後亀山天皇から十八代目の直系子孫であると名乗りをあげた。GHQへ直訴し、現天皇はニセ者だから自分を皇位に据えるよう命令して欲しい、と。この一件は昭和二十一年一月十八日、米占領軍機関紙『星条旗(スターズアンドストライプス)』に掲載され、日本のマスコミも報道、センセーションを捲き起こした

時さかのぼり昭和十年、一部の右翼シンパは熊沢天皇を擁立する運動を企てた。東京の某邸に熊沢は迎えられ彼は天顔をほころばせて掲出の挨拶を述べた。五百数十年もたってから「北朝」呼ばわりもないと思うが、狂信者というのはやはり常識の枠では収まらない。

 終戦直後は、熊沢にならって「自称天皇」ラッシュが到来した。同じ熊沢一門で、寛道のほか四人が自称して現れた。ほかにも愛知県の外村天皇、岡山県の酒本天皇、鹿児島県の長浜天皇、新潟県では佐渡天皇なんていうのも名乗り出ている。

 皇統の家系だと主張する熊沢寛道

 

213 ペニス笠さし ホーデン連れて

ペニス笠さし ホーデン連れて 行くぞヴァギナの ふるさとへ

──北原白秋作、伝承

北原(きたはら)(はく)(しゆう)(18851942)は詩人・歌人。感性豊かな名作を数多く残した。

二十六音都々逸仕立て、白秋したたかに酔ったおりの作と伝えられている。簡明にして直截、あまりにもアッケラカンとしていてさほどエロを感じさせない。本人も酔い醒めてから穴があったら入りたい気分であったろう。天才詩人が()(すさ)びにこういう()れ歌をる、微笑ましいことだ

 煩悩に身を焼く高僧とて春歌を詠む。天文十年『多聞院日記』より、

 (いぬ)の時()の時までも掻くせずり毛つび思へばおへまさるなり

近世俳諧の祖、松永貞徳の春詠のうち最もお下劣な一首、応永三年『貞徳狂歌之詠草』より、

  またぐらの内まではひる炬燵火をししぼぼすると見てやおはする

女性とて春情催せば例外ではない。才媛の名歌にそれを見た。与謝野(よさの)(あき)()作、『明星』明治三十四年七月号より、

  下京や紅屋の門をくぐりたる男可愛ゆし春の夜の月

右、「紅屋の門」は月経中の女陰の比喩。

 

214 このお帽子、宅は目がないンざますのよ

 『東京パック』昭和十一年二月号の表紙、小野佐世男画(原画はカラー)

 この表紙画、奇しくも天下を震撼させた二・二・六事件の直前発行というタイミングになっている。

 すでに軍部におけるファッショ化の進行を懸念し、時の批評誌『東京パック』はファッションにひっかけて風刺した。鉄兜型に軍艦型、そぞれの帽子が陸海軍の軍備強化を暗示している。

このように、時代の流れの様子を絵や文章に仮託するジャンルを「時局もの」という。そして『東京パック』は戦前の時局をつねに先取りするモダン雑誌として、長い間巷間の人気に支えられていた。

 

215 あんたはシマァトなシタイルで町に車を走らせ

──女給某の恋文

拝啓ノブレバ一筆進上申上候。あたい今、小紫さんの部屋で一緒に寝ていますの。あんたは夜明けに帰って、いま頃はもうシマァトなシタイルで町に車を走らせているのでしょ。小紫さんときたらずいぶんあたいを可愛がるの。こら、お前はあのウンテンシとあまり気分だしすぎるぞ、なんてゆうのよ。されば故に、私も小紫さんにいい男の客出来ると多少ヤケまし。とは云い決して二人は肉体テキには何でもないのでし。ただせいすんの問(ママ)でしょ、でも私はあんたをうらむわよ。古今の和歌にもあるように、月は無うけれどコラ月よりあなたはまだ無よ。では、これでおしき筆とめませ

&『雑学(おんな)学』西沢爽著

この珍無類賞ものラブレターは、昭和十一年に交通事故死したタクシー運転手の懐ろから出てきた数通のうち一通であるという。この運転手、遊廓で馴染になった女郎の懸想文を交通安全の守り札なみに扱ったのだろうが、意は天に通じなかったようだ。

世間一般の婦女子が出すラブレターとちがい、女郎文は営業用の殺し文句でつづられる。猫なで声、コケよがりと同様の伝で、馴染客を引き寄せるための販売促進用具に過ぎない。客のほうも心得たもので、また仮想文か、ぐらいの気持ちで屑籠へ放り込むのが普通だ。 

掲出の艶書は、一読のとたん吹き出してしまう。尋常小学校をやっと出た程度の(ひと)であろうが、本人は懸命に書いたにちがいない。運転手氏も、彼女のドングリ眼だか、紅ボッテリホッペだか、赤い唇にキラリ光る金歯だかを思い浮かべ、独りニヤついているうちハンドル操作を誤り天しただろう。ツキい無情なだよ、おさん。

 昭和初期、カフェーの女給たち

 

216 ぐでぐで、ぼろぼろ

──種田山頭火

ほろほろ、ふらふら、

ぐでぐで、ごろごろ、

ぼろぼろ、最後がどろどろ

&『どうしやうもない私 山頭火伝』岩川隆著

種田山頭(たねださんとう)()(18821940)は俳人。放浪中に作った独自の自由律作品が評価された。

歌俳の韻律形式美こそわが国短文学の原点と考える荻生にとって、正直なところ、山頭火のような定律を無視した句は、いかんとも正道とは認めがたい。ことにつけ「自由」を標榜したがる近・現代の歌俳の類は、独善が突っ走り短歌・俳句とは呼べないシロモノが目立つ。

 行脚放浪姿の山頭火

 山頭火が傑出した近代俳人と評価されているのは、その横紙破りな人柄の喧伝に負うところが大きいからではなかろうか。乞食(こつじき)行脚(あんぎや)、漂白遍路、斗酒鯨飲どれもがプチブル市民には手の届かない所作で、作句環境の妙も加わり美化の対象になっている

掲出作も俳句とは認めがたいが、一篇の詩としてなら立派なもの。彼の人生の大半はアルコールで燃焼し尽した、の感がある。この詩も目で追っていくうちに、巧みな擬音効果により、酔いどれへの深淵へとはまり込んでゆく。

彼はまた「一合は一合の不幸、一升は一升の不幸」などと愉快な酔漢駄洒落も吐いている。生涯風漂の人であった。

 

217 ポンとけりゃニャンとなく

    山寺の和尚さん     

越後わらべ歌(久保田宵二改詞)

♪山寺の和尚さんは

(まり)はけりたし鞠はなし

猫を紙袋(かんぶくろ)につめこんで

ポンとけりゃニャンとなく

  ニャンがニャンと鳴く ヨーイヨイ           

            ──昭和十二年新盤

久保田宵二(くぼたしようじ)(18991947)は作詞家。

掲出詞のあと、作曲家服部良一作のスキャット囃子(はやし)が続き、リズミカルに歌えて、ホンワカ気分になれる童謡である。ところがこのは猫いじめそのものを意味する。現代こんな歌詞を発表しようものなら、ペット愛好家や動物愛護団体からクレームがつくことまちがいない。ただしこれの第節の原は、良寛の作と伝えられるわ「山中の唄」を久保田宵二がリライトしたものである

 仙涯義梵画「猫に紙袋図」〔 福岡市美術館蔵〕

「猫に紙袋」という俚諺がある。猫の頭から紙袋をかむせると、猫は前へ進むことができず、袋をはずそうと後ずさりする。そこからジリジリと後退する様のたとえに用いられる「猫の眼のように光る」という成句表現もある。猫は暗みでも視覚を頼りに行動するので、紙袋で目隠しされると動きがとれない。しかも猫のヒゲは触覚レーダーの役目も果たすため、紙袋に閉じ込められると機能しなくなる。そのうえ蹴とばされいじめられたら、化けて出るぞよ。

 

218 あのネーおっさん

──高瀬実乗の口癖

あのネーおっさん、わしゃかーなわんよ。 

昭和十五年から大流行

高瀬実乗(たかせみのる)(18901947)は喜劇俳優。映画では道化役で出演。

 天性の道化顔、高瀬実乗

 高瀬は新派のドサ回りを転々としてから大正四年に映画界入りした。珍無類の扮装とドジョウ髭に加え、どことなくスットボケた表情・口ぶりで、幅広い年齢層のファンを獲得した庶民派俳優であった。

この「わしゃかーなわんよ」のセリフは、太平洋戦争前年に彼がとばしたもの。子供たちも両親や先生から小言を食らうと、すかさず「あのねー…」とやって赤い舌を出したり。今日の線香花火的流行語とちがって、三~四年も命脈を保ったロングラン流行語となる。

当時、高瀬と並んでエノケンやロッパも庶民の人気者で、このお笑いトリオは銀幕でもよく競演した。しかし戦争がたけなわになるにつれ、オフザケは時局に反するというお達しが出て、喜劇は影が薄れていく。高瀬のトレードギャグも原則的使用禁止となり、街には代わって殺伐とした号令が飛び交う。カーキ色をした戦時国家は国民から笑いも取りあげたのだ。

 

219 三十二点の国民服に

   点数の歌                             加藤芳雄作詞

♪三十二点の国民服に

 胸のハンケチただ一点

 何処へ行くにも立派なもんだ

 年より点数五点上

 無駄にゃすまいぞ 点数 点数

 大事に使うも国のため

──昭和十七年、衣料切符点数制啓蒙の作品

物資不足にあえぐ戦時政策の一環として、衣料切符制は昭和十七年二月から始まった衣料品の消費規制である。これの実施に伴い政府はまず標語を公募。次はその特選入賞作品である。この標語を読めば、衣料切符制の内容をだいたい理解してもらえると思う。

一、注意してよく読め違反をするな。二、切符持たねば買へない衣料。三、切るな自分で切符は店へ。四、親しい仲でも譲れぬ切符。五、一家の総点一家で自由。六、計画立てて切符を使へ。七、品は充分買溜するな。八、余した点数それだけ奉公。九、二度は呉れぬぞなくすな切符。十、使用済んでも捨てるな用紙。

さて問題は、こんな衣料切符の点数制は歌謡の素材になどなりはしない、ということである。消費規制そのものが生活上の暗い材料であり、どう譲っても歌にして口ずさむ気にならない性質のものだ。荻生はまだ学童だったが、もちろんこの歌やメロディを聞いた覚えはない。

 衣料切符点数制を報じる新聞〔『朝日新聞』昭和十七年一月二十日〕

 

220 戦艦はたたきこわしその材料で空軍を作れ

──大西滝次郎

上は内閣総理大臣、海軍大臣、企画院総裁、その他もろもろの「長」と称する奴らは、単なる「書類ブローカー」にすぎない。こういうやつらは、百害あって一利ない。すみやかに戦争指導の局面から消えてもらいたい。それから戦艦はたたきこわして、その材料で空軍をつくれ。海軍は空軍となるべきである。

&『特攻長官 大西滝次郎』生出寿著

大西(おおにし)(たき)次郎(じろう)(18911945)海軍中将。フィリッピン沖廻船で特攻作戦を展開、敗戦時に自決。

長官という高位にある者とはいえ、一つまちがえば首がとぶ大胆な発言だ。昭和十七年五月、大西は「国策研究会」という団体会合の席上、政・官・財界人及び陸・海軍の将官らを前にブチ上げた。ご意見中の「長と称するやつら」に聞えたら、ただではすまない過激ぶりだ。一座はしらけきったが、これは大西の持論であり、彼を知る人は「また始まったか」と苦笑したという。

戦艦をつぶして代わりに空軍(航空機部隊)を作れというのは、戦局を有利に転じるための卓見であった。往時の海軍では巨艦巨砲主義が戦略の主流であったから、これまた大方が異端視するところであった。

ところが大西発言から一ヶ月とたたないミッドウェー海戦で、日本海軍は米連合艦隊により手痛い損害を受けた。彼我の航空戦力の差が、戦果の差に現れたのである。大西は口利きこそ乱暴だが、大局の動きを的確に見据えることのできる名将であった。

 大西中将の遺書(後半部分)

 

221 可愛いスーチャンと泣き別れ

可愛いスーチャン  

     ──作詞者未詳

一、     お国のためとは言いながら/人の嫌がる軍隊に/志願で出てくるバカもいる/可愛いスーチャンと泣き別れ

二、     朝は早よから起こされて/ぞう巾がけやら掃きそうじ/イヤな上等兵にゃいじめられ/泣く泣く送る日の長さ

太平洋戦争中に流行

&『日本流行歌史』中、古茂田信男ほか編

兵隊ソングは太平洋戦争中に陸海軍兵士の間で歌われた流行歌である。掲出詞のほかにも、中国方面の兵隊による「(もう)(きよう)節」、別名を「海軍小唄」った「ズンドコ節」、特攻隊の愛唱歌「特攻隊節」、海軍航空隊員が歌った「ダンチョネ節」、幅広く歌われた「軍隊ストトン節」などがよく知られている

 

無題

 

 兵隊ソングの多くの詞が、明日の命も知れぬ男たちのなかば哀切、なかばヤケッパチな真情を吐露している。数多い兵隊のなかには作詞の才に長じたものもおり、折ふし作ったのであろう、ほとんどが作詞者のわからない作である。商業ベースで作ったものでないだけに、ケレンのない素直な作風なのが特徴である。 

 

兵隊ソング、じつは怨み節でもある。吹けば飛ぶような一兵卒が、軍隊という全体主義機構の中で、精一杯にあがらう自己表現なのだ。兵隊経験こそないが、折ふし出征兵士を送り出した元小国民にとって、兵隊ソングは離れた存在ではない。

 

 

 

 

 

222 ガダルカナル島を徹し他に転進 

 

ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は、昨年八月以降引き続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し激戦敢闘克く敵戦力を撃摧しつつありしが、其の目的を達成せるに依り二月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり。

 

──昭和十八年二月九日大本営発表

 

&『昭和史全記録』昭和十八年、毎日新聞社刊

 

右の引用に続いて出典は次のように述べている。

 

 一万一千人あまりの「撤退」が「転進」とされたのである。ガダルカナル島を巡る戦闘で、日本軍の損害は上陸兵力三万千四人中死者二万八百人。そのうち純戦死者は約六千人で、残りは餓死とマラリアによる病死であった。

 

と、悲惨な敗走であったことを書き加えている。

 

戦後、大本営発表がウソ八百で固められていたことが明らかとなり、国民から非難の声があがったことがある。担当した軍部の連中は、国民の目を耳を欺くためにニセ情報を流し続けた。「撤退」を「転進」にすり替えるぐらいは朝飯前で、日本軍の戦果は針小棒大に、受けた損害は過小評価しなおして発表するのが常であった。

ここで「200ラヂオ文明の原理」を思い起こしてみたい。ラジオを武器に、体制側が大衆操作をしでかす危険があるとした、室伏の先見の明ある意見である。大本営発表は、はからずもその理論を実地で証明してしまった。

 無題

 兵隊ソングの多くの詞が、明日の命も知れぬ男たちのなかば哀切、なかばヤケッパチな真情を吐露している。数多い兵隊のなかには作詞の才に長じたものもおり、折ふし作ったのであろう、ほとんどが作詞者のわからない作である。商業ベースで作ったものでないだけに、ケレンのない素直な作風なのが特徴である。 

兵隊ソング、じつは怨み節でもある。吹けば飛ぶような一兵卒が、軍隊という全体主義機構の中で、精一杯にあがらう自己表現なのだ。兵隊経験こそないが、折ふし出征兵士を送り出した元小国民にとって、兵隊ソングは離れた存在ではない。

 

222 ガダルカナル島を徹し他に転進 

ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は、昨年八月以降引き続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し激戦敢闘克く敵戦力を撃摧しつつありしが、其の目的を達成せるに依り二月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり。

──昭和十八年二月九日大本営発表

&『昭和史全記録』昭和十八年、毎日新聞社刊

上の引用に続いて出典は次のように述べている。

 一万一千人あまりの「撤退」が「転進」とされたのである。ガダルカナル島を巡る戦闘で、日本軍の損害は上陸兵力三万千四人中死者二万八百人。そのうち純戦死者は約六千人で、残りは餓死とマラリアによる病死であった。

と、悲惨な敗走であったことを書き加えている。

戦後、大本営発表がウソ八百で固められていたことが明らかとなり、国民から非難の声があがったことがある。担当した軍部の連中は、国民の目を耳を欺くためにニセ情報を流し続けた。「撤退」を「転進」にすり替えるぐらいは朝飯前で、日本軍の戦果は針小棒大に、受けた損害は過小評価しなおして発表するのが常であった。

ここで「200ラヂオ文明の原理」を思い起こしてみたい。ラジオを武器に、体制側が大衆操作をしでかす危険があるとした、室伏の先見の明ある意見である。大本営発表は、はからずもその理論を実地で証明してしまった。

 絵に描いた餅「万年御馳走」

 

224 世の中は星にいかりに闇に顔

 世の中は星にいかりに闇に顔

      馬鹿者のみが行列に立つ

──戦時中に流行の今様落首

&『暗黒日記』昭和十八年十二月、清沢洌(きよさわきよし)より

清沢洌(18901945)はジャーナリスト・外交史研究家で、私評論の形で書いた「暗黒日誌」に引用歌前後をこう述べている。

 「星、碇、顔、闇、列」の世の中だ。「──」という歌が流行している……闇は普通の現象だ。闇をやらないでは一日もおれない。そこで一般にこれを「国民相場」といい、「闇の公定」という。需用供給の関係で自然に認められたる相場が出てもいるのである。

 落首の五つの縁語を挙げて闇市場を象徴させているが、うち星は停電、(いかり)は海軍(闇物資の供給元)を暗示、あとは説明までもなかろう。統制経済下でも、軍部や要領のよい連中は闇で逆に潤い、か弱い国民は泣きを見る、という現実を自嘲した狂歌である。

 まっとうな公定価格物資を手に入れるには、行列待ちが普通だった。配給タバコや鮮魚などはもちろん、雑炊食堂、国民酒場でも長い行列ができた。行列の割り込みや列の崩れに備えて、すばしっこい子供が並び役に使われたものである。

 長野県における主要食品の闇相場〔昭和十九~二十年、県立歴史館まとめ〕

 

225 人雷、神雷で微塵に引導をわたす

──頭山満

米英の狐狸どもをやっつけるのを商売のようにして来たわしじゃ。大事な時に風邪などひいてしまったが、けだもの文明のやつばらがのめのめとやって来よったとなると、これだけはどうでもみなに伝えて欲しいものじゃ。よいか、日本は神国じゃ。何千年、何万年前から神国としてちゃんと備わったものがあったから、どんな国泥棒の野望も潰されおった。われわれがこうして生きておるのもすべて大御心(おおみこころ)によるものじゃ。(中略)人雷、神雷で微塵に引導をわたすのじゃ。これだけでよい。あとのことはもう言わんでよい。そうじゃろう。

&『朝日新聞』昭和十九年二月六日

頭山(とうやま)(みつる)(18551944)は国粋主義者で、玄洋社頭領。

頭山は壮士連中の親分から右翼結社玄洋社のボスに収まった。泣く子も黙る怪物であった。その言動は極右に徹し、彼が行くところ国粋の華で埋め尽くそうと務めた。掲出は頭山発言の一部だけだが、それでもカリスマ特有の神がかり的修辞が読み取れる。

時は昭和十九年二月。太平洋戦争で日本の敗色が濃く映っていた。洞察力のある一部の人たちは、「この戦いは日本が負ける」と見ていた。その期に及んで、頭山は神国盲信の垂訓をぶち上げたのである。

国策としては、「皇国必勝」の遠吠えに一段と活を入れる必要に迫られていた。そこで朝日新聞は協力姿勢を示し、頭山の長ったらしい談話を掲載した。

当時の国民感情からみて、この発言が大衆操作の一環であることを見抜く者は少ない。言論統制のもと、ひたすら必勝を信じ込ませる「国民洗脳」に、頭山のような役者の出番はうってつけであった。「どんな国泥棒の野望も潰されおった」も強力な殺し文句であったこと、間違いない。

 「東洋の英傑」との評価もある遠山満

 

226 戦時の名寂句

雑 炊 に 非 力 な が ら も 笑 い け り        虚子

高浜(たかはま)虚子(きよし)(18741959)は俳人。花鳥諷詠に名句を残す。

太平洋戦争末期の発句である。戦時の生活体験をもつ人たちにとって身につまされる、川柳色の濃い句だ。

日本が敗色を濃くするにつれ、すべての物資、なかでも食糧の欠乏が目立つようになった。雑炊はその象徴で、米を通常米飯の約三倍量の水で炊き上げたもの。いってみれば「増水がゆ」である。この中にわずかな野菜と煮干のような安魚を入れ、代用醤油で薄く味付けをする。

やがて米の欠配が慢性化し、都市部の一般家庭では雑炊すら口にできなくなった。昭和十九年春、全国的に雑炊を専門に食わせる「雑炊食堂」が出現。一杯二十銭ナリ。人びとが開店一時間も前から長蛇の列を作る光景が繰り広げられた。

 雑炊食堂の行列〔『毎日新聞社』提供、昭和十九年撮影〕

 朝日新聞発表の「雑炊規格」によると、一食あたり米四勺(70ml)使用が基準。ところが時がたつにつれ、食堂の雑炊中の米粒が数えられるほど白湯に近いシロモノになる。本土空襲はひどくなるわ、空腹は満たされないわで、国民は非力な笑いすら失っていた。

 

227 呪詛で「驕敵撃滅」

驕敵を一挙撃滅/全国の神社で熱祷捧ぐ

&『朝日新聞』昭和十九年八月二十八日より見出し

今や戦局重大なり、神明奉仕の職にある者、愈々職務に奮励し驕敵の撃滅を祈願すべし

──内務大臣発令、右の記事より抄出

「苦しい時の神頼み」をまるで地でいったような、戦時下の統一宗教活動である。朝日記事によると、政府は全国一万六千の神官・神職を総動員して、驕敵である「鬼畜米英」の撃滅を祈願させた。戦局悪化打破のため、神力をもって敵を滅ぼそうという作戦指令だ。つまり政府のお偉いさん方は、呪術の念力で敵国を降伏させられると思い込んでいたわけである。

この宗教運動は日ごとに暴走の度を加える。翌二十年四月末、米大統領ルーズベルトが急死したが、当事者らはこれも挙国祈願の成果と盲信し、運動に弾みをつけていく。その頂点が、同年五月十五日靖国神社で催された「(こう)(てき)撃攘祈願祭」という大規模な呪詛集会である

 

撃つべき筆頭はルーズベルト『アサヒグラフ』昭和十九年三月一日号

 

宗教は精神活動にのみ拠り所をおくため、現実面での生産性は皆無であり、弾丸一発とて作り得ない。いっぽうアメリカでは、秘密兵器原爆の開発を済ませていた。彼我の戦争に対する姿勢の差も、勝敗を決定的なものにした。

 

228 見よ東条の禿頭、旭日高く輝けば

──「愛国行進曲」替歌、太平洋戦争末期に流行

♪見よ東条の禿頭/旭日高く輝けば/天地にピカリ反射する/ハエが止まってまた滑る/おお テカテカの禿頭/そびゆる富士も眩しがり/あの禿どけろとくやし泣き/雲に隠れて大むくれ

東条(とうじよう)英機(ひでき)(18841948)は軍陣・総理大臣。太平洋戦争の遂行責任を問われ死刑に。

 戦時亡霊の勲章がズラリ、偉いナ東条さん

 太平洋戦争中に歌われた国民歌謡「愛国行進曲」の替え歌である。原詞(森川幸雄作詞)第一節はは次のとおり。

 ♪見よ東海の空明けて/旭日(きよくじつ)高く輝けば/天地正気溌剌と/希望は踊る大八洲(おおやしま)/おお 晴朗雲に/(そび)ゆる富士姿こそ/金甌(きんおう)無欠るぎなき/わが日本の誇りなれ

時の東条首相は太平洋戦を推進させた統領として、国民の受けはよくなかった。「聖戦」の名のもと、悪化する戦況をしり目に食糧難、地方への疎開、戦災の不安など、国民に多大の犠牲を強いた。その跳ね返りが、トレードマーク化したオツムにちなみ「あの禿どけろ」の一語に集約されている。

その頃の東京の下町の学童なら、この詞を一度ならず口ずさんだもの。「見よ東条の…」とやらかすと、耳にした大人から「坊や、父ちゃんの…ぐらいにしておきな」と注意されたものである。小さな口にすら封印してしまう、いやな時代であった。

 

229 日本軍部指導者諸君へ

トルーマン大統領のメッセージ〔伝単・昭和二十年五月〕

 トルーマン大統領から日本国民へ、というよりは軍の幹部に対する戦争終結のための説得文。小見出しは冠にして楊を得た疑問系で結ばれている。

「伝単」とは、昭和十九年末から翌年終戦まで、米軍がB29戦略爆撃機で空から大量にばら撒いた戦略ビラである。ねらいは日本国民や兵士の戦意喪失にあった。

 これらは「紙の爆弾」ともいわれ、日本軍部は「謀略ビラ」であるとして、もみ消しに躍起になる。しかしビラの大半は当時の国民感情の意表をつくものが多く、不安に心が大きく揺さぶられた。

 

230 本土決戦は東条軍曹には及ばんことだ

──石原莞爾

かえって石井参謀に伝えなさい。東条軍曹なんかに戦争が出来るわけがない。わしの見通しに明らかに負けた。本土決戦なんぞというても、軍曹には及ばんことだ。

&『悲劇の将軍 石原莞爾』山口重次著

石原莞(いしはらかん)()(18891949)は陸軍軍人で中将。板垣大佐と組んで満州建国を推進。

 石原は悲願の満州建国を実現したさい、相棒の板垣大佐とのコンビで「智謀の石原、実行の板垣」と評された。スケールのでかい人であった。

 先輩の東条をコケにした石原莞爾

 昭和三年、関東軍主任参謀となるや、亜細亜の盟主としての日本を位置づけ、自身の史観思想を集成して『戦争史大観』を著す。己の理想の一端が満州国の誕生で実現、面目躍如たるものがあった。強烈な個性をもち敵も多かった。

掲出は、戦争も終結近いある日、東北軍管区報道部員の一中尉が石井参謀の命令で石原に戦局見通しの伺いに派遣された時、石原がその中尉に言った言葉である。

石原の東条嫌いは徹底していた。時の陸軍大臣で陸軍大将の位にあった東条を一挙に軍曹まで降格させ、「東条軍曹」と呼んではばからなかった。この人の敵対視ぶりは東条の耳にも達している。東条も石原をいびり、ポストは冷や飯食いに遇した。

こんな人間葛藤をよそに、戦局は敗北へとまっしぐらに突き進んでいたのである。