江戸時代1

 

 

38 袖の下は取ってもよろしい

──徳川家康

すべての奉行たるもの賄賂(まいない)(ふけ)ること悪しきとは申しながら、あまりに物をとらざれば国中のもの(おのず)から親しみ寄付かずして善悪知れざるものなり、沙汰(さた)といふ文字は砂に石交(いしまじ)り見えざるを水にて洗ば石大小も皆知れて土は流れ、見えらざればふべきやうもなし、これによって奉仕があまりに賢人ぶりせば、沙汰もならず穿鑿(せんさく)すべきもなし、右の心得にて、大将のため悪しきことのたぐひになくばしからず。

&『名将言行録』徳川家康、岡谷繁実著

*徳川家康(いえやす)(15421616)は江戸幕府初代将軍。天下を統一し徳川家三〇〇年の基盤を築いた。

織田が搗き羽柴がこねし天下餅座して喰らふは徳川家康

天下の制覇を握った三人──織田信長、羽柴(豊臣)秀吉、徳川家康の命運を餅にたとえた落首で、よく引き合いに出される。こと思慮分別に長じた人物という点では家康である。しかし反面、家康は士農工商の身分制度を打ち出しながら、政策上「百姓は生かさず殺さず」飼い殺しにするというような、狡猾老獪な策士でもあった。

その一筋縄ではいかないタヌキぶりは、掲出のように賄賂論一つにもよく現れている。袖の下を使い遣われたほうもトボけて(ふところ)することを認めているのだ

この偏論を支持するのは危険である。役人どもが待ってましたとばかり図に乗り、官紀の乱脈化をより助長することになるからだ。たとえザル法であっても、贈収賄を禁ずる建前が存在すればブレーキ効果がある。後世、収賄の親玉となる老中田沼意次(おきつぐ)の出現までは、権現様とて見通せなかった。

 秘術カウンセラーポルポ村井さんのamebaブログより絵日記「神君狸親父」

 

39 一心こめて彫り上げたれば魂入って動くのか

──左甚五郎

甚五郎 おゝ この人形は誰が出した ハハア判つた さては嬶めが 俺を喜ばそうと思つてぢやな これいぢつてくれるな 手垢がつくわえ

「登りつめては命さえ 「あらぬ限りと身をつくし 魂籠めて銘作の 不思議や人形 生けるが如く

甚五 やアやア この人形は歩くわ 歩くわ

 「心ならずも立ち寄つて

甚五 やつぱり木に違いない さつても不思議な こりやどうぢや 

 「呆れてしばし詞なし

甚五 ハハア どうぞ太夫に生写しにしようと一心籠めて彫り上げたれば 魂入つて動くのか 「訝しさよと 立ちつ坐りつ面影の 「変らで 年は百年に なりぬるとも朽ぬ造り花           

常磐津「京人形」より

歌舞伎舞踊歌常磐津「京人形」から詞と唄の抄出である。かの左甚五郎が作った京人形に精魂が乗り移り踊りだす筋書きで、日本版「ピノキオ」といったところだ。

左甚五郎については、架空の人物とする説が有力である。日光東照宮の「眠り猫」をはじめ各地に伝説が多く、さらに生涯記録の時代が一個人の生涯年齢をはるかに超えている。同時に各地に何人もの甚五郎が輩出している、と史家は指摘する。

いったいに刀工正宗 や甚五郎など名匠には、超現実的な逸話が多く付きまとう。中・近世に「職人歌合」の催しが開かれているように、職人の地位が比較的高く、その世界での英雄を求めた風潮が格好の付いた伝説を生んだのではなかろうか。

甚五郎といえば、飲み助にとって見逃せない江戸川柳がある。

 甚五郎酒が好きかと御用聞き

もちろん「左利き」から左党をひっかけた(いい)である。

 日光東照宮の眠り猫。あまりにも見事な出来栄えから左甚五郎作とされている。

 

40 寄せ来る敵の頸をやれずんとキリシタン

──天草の籠城一揆軍

♪かゝれ かゝれ 寄衆(よせしゆ) もつこでかゝれ

寄衆 鉄砲の玉の やれあらんかぎりはか

どんどとなるは寄衆の 大筒(おおつつ)ならずとも

みしらしよ やれこちの小筒でか

あら有がたや 伴天連(ばてれん)のおかげで

寄衆の首を やれずんとキリシタン

&『島原天草日記』松平輝綱筆

キリシタン弾圧で名高い天草・島原の乱は、起こるべくして起きた。幕府の掃討作戦もさることながら、悪藩主の見本のような松倉父子(重政・勝家)を任命したのが間違いであった。史書にある新領主の虐政ぶりは身の毛のよだつものがある。

寛永十四年十月二十五日、島原の代官誅殺に始まった乱は幕府の派兵強圧によって度合いを強めていく。天草でも徹底抗戦体制をとり、島伝いに島原勢と合流、天草四郎を大将とする三万七千の一揆軍が原城に立て籠った。

十二月に入ると、城内から太鼓を打ち鳴らす響きが寄手陣に聞こえるようになる。掲出の俚謡を大勢で歌う様子も手に取るように伝わる。すわ、油断させておいて攻撃を仕掛ける策略ぞと、寄衆は警戒を強めた。

じつは籠城に疲れ果て死ぬ覚悟を決めた一揆勢が、まだ声の出るうちにと唱和したこの世での絶唱であった。「やれずんときりしたん」の希望が断たれただけに、軽妙な口合(洒落の古語)がかえって哀れをさそう。

 

41 都をば花なき里となしにけり 

──灰屋紹益

都をば花なき里となしにけり  

     吉野を死出の山に移して            

&羇旅漫録(きりよまんろく)曲亭(きよくてい)()(きん)

灰屋紹益(はいやしようえき)(161091)は江戸前期の京都の豪商・文人。吉野〔二代〕(160643)は京都島原の太夫。

二人の仲はつとに有名な話で、なかば伝説化され、後世の脚色も目立つ。

 二代・吉野太夫

 島原ピカ一の傾城吉野を見初めた灰屋は、金力に物を言わせて身請けし、洛北に居を構え夫婦の生活を始めた。吉野は紹益よりも四歳上の姉さん女房で、はたもうらやむ仲。ところが共白髪を見ることなく、吉野は病で急逝してしまう。紹益の悲嘆ぶりはひとかたでなく、掲出の一首を亡き妻に贈った。そのさいの模様を出典はこう述べている。

 或人云。吉野が屍を火葬して。紹益みずからこれを喰ひ尽しけり。紹益がよし野に愛着せることかくの如し。是よりして灰屋の家おとろへたりといふ。

それはそれはご愁傷様。けど紹益さんエ。お骨まで食うたあねエ。灰屋が灰を喰らうは共食いだァ。家運も何も傾くわけさね。なんせ『八犬伝』の馬琴先生が又聞きなすった語りだもの、話半分に聞いておかにやァなるめエて。

 

42 余と一柳侯とは僅々一万石の差なり

一柳侯と加州侯とは一〇〇万石余の差なり、余と一柳侯とは僅々一万石の差なり。我何ぞ侯を恐れんや。

&『想古録』一〇〇、山田三川編

原文にはこうある。「乞丐児(こつかいじ)橋下にふす、一柳(ひとつやなぎ)侯(一万石)警蹕(けいひつ)して橋上を過ぐ、乞丐笑て曰く、──と、亦一見識の言(石井俊助=報告)」。

吹けば飛ぶようなキリの一柳侯に対し、ピンの加賀前田侯は百万石余りの大身。その差に比べ自分と一柳侯とはたった一万石の差、大名面して大きな顔をしなさんな、と鼻息の荒い負け惜しみを言ったものである。

 この乞食の大見得は、ことわざにある「一寸の虫にも五分の魂」に相通ずるものがある。あるいは「匹夫も志を奪うべからず」の警句ともいえる。取るに足らない橋下の貧民にも、それなりの意地やプライドがあることを示していて愉快。比較の発想も奇抜で、数字のマジックを存分に生かした譬えである。

ちなみに一柳氏は本姓を越智(おち)といい、播磨小野藩から分家した大名で、正保元年の頃に一万石を()むと記録にある。日本一の小禄大名、せめて橋上を通るときぐらい威張って見せたかったのだろう。

 乞食(『和漢三才図会』(正徳21712)年)より)

 

43 おれが酔死したら、こぼれ酒が飲める酒屋の庭の桶の下に埋めよ

──守屋仙庵

……黒塗りの大盞を分収してこそ三浦の樽あけとはいはるゝぞかし それほどにこそおはせずとも かほどのことにやみ〳〵とよはり給ふ口おしさよと申せば 醒安いきの下より申やう 何と申ぞ毛蔵坊彼樽明けにさめやすおとるべきにてあらねども 池上殿の大盞はいなかまでもかくれなし はゞ広ふそこふかくものゝ上手が木うすにつくつたる大盞にてたゞなかをとほされ なんぼうくるしいとはしらざるや またさめやすにてあればこそ御前にてかくものは申せと だん〳〵によはりによはりしが

  我しなば酒やの庭の桶の下 われてしずくのもりやせんもし

とはよみけれども 前後もしらぬふぜいなり

&『水鳥記』池上文庫本(1941年刊)より抄出

*守屋仙庵は大師河原酒合戦(慶安三年との説あり)で樽次軍の雄も、あえなく討死にする。もちろん出典に登場の架空の人物である。

 出典『水鳥記』は、地黄坊樽次こと茨木春朔著の仮名草子、二巻二冊。寛文七年刊。慶安元年に武州大師河原で催された大酒戦の模様を記した伝記とはいえ、、書誌分類上は一種の戯作かつ偽書である。自述・他述不明の戦記でしかも偽書まがい、そのうえ正本二冊、巻物一巻、写本の数も多いとあって、内容の事実の程は大幅に割り引いて考察する必要があろう。

 引用したのは、樽次側副大将である醒安こと守屋仙庵が善戦むなしく酔死する場面。彼は自分の本姓名を狂歌に巧みに折り込み辞世とした。飲兵衛にとってはうらやましいかぎりの死に様であり、また手本にしたくなるような名辞世である。

 大師河原酒合戦=慶安代酒戦図〔『近世奇跡考』より

 

44 吉田通れば二階から招く

──千姫

♪吉田通れば二階から招く

 しかも鹿の子の振袖で                               巷間伝承詞

千姫(せんひめ)(15971666)は江戸幕府二代将軍秀忠の娘。豊臣秀頼と政略結婚させられた。

悲劇の女として歴史に名をとどめた千姫には、謎めいた流説があれこれとりざたされている。豊臣秀頼十一歳に将軍秀忠の長女千姫が政略により嫁したのは、わずか七歳の時であった。

大坂城内では、姑の淀殿は幼い嫁をいびり通しであった、いや、わが子のように大事に育てた、など相反する双説もあり。加えて、夏の陣で落城のさい猛火の中を千姫救出に向かったのは坂崎出羽野守真盛だ、いや堀内氏久であった、などという諸説の食い違い見られる。

 錦絵に描かれた千姫〔月岡芳年画〕

 やがて千姫は本多忠刻と再婚し、夫の死後に落飾して天寿院を名乗り、旗本所有の吉田屋敷へと移る。そこでは彼女の猟奇的かつ好色きわまる言動が、たちまち噂になって広まった。男を見さかいなくくわえこむ乱行の女主人公として、である。

こちらは後世人が興味半分にデッチあげた偽説に過ぎない、とするのが常識。そうであって欲しいものだ。さもないと、薄幸であった千姫はあまりにも救われない。

 

45 大名に盗人多し

──板倉重矩

我れつら〳〵おもふに、大名に盗人多し、下土民の善あるをあげずしてすつるは、是れ人の善を盗むにあらずや、親族朋友にも善あるを称せずして過ぐるは、是れも人の善を盗むなり、中にも君たる人は下の善をあぐべき職に有り、是れ天より命ぜられたる任なり、人の善を盗みて天命の任をかくは盗人の大きなるものなり。

&『常山紀談』板倉重矩、湯浅常山著 

板倉重矩(いたくらしげのり)(161773)は江戸前期の老中で、下野国烏山藩主。大坂定番を経て一時京都所司代に。

重矩は初代京都所司代を勤めた伊賀守勝重の孫で、父は内膳正重昌。重矩は隻眼(かため)ズン胴という見えのしない外見に似ず、有徳賢才の聞こえが高かった。逸話も多い人で、なかでも文五年正月二日夜、落雷にあって炎上した烏山内で郎党名た貝合せを用い、その符合をもって被災民を無事誘導した話は有名

 板倉重矩像

 彼は根っから曲がったことの嫌いな人だった。たまたま腹に据えかねる(ほこ)先が、領民を苦しめ逸楽をむさぼっている大名に向けられた。掲出はそうした姿勢を糾弾した一文で、『常山紀談』からの引用である

将軍家や諸大名ら権力体制を民衆が批判した落書・落首は数多いが、重矩自身が大名であり、権力を握る立場にありながら他の大名連を批評したケースは珍しい。ことに家来や領民の善行を無視するのは盗みに等しい、との手厳しい指摘は注目に値する。

時に現代、この文中の大名を「大臣」に差し替えてみても、充分に意が通じると思うが、いかが。

 

46 「たわけ」という言葉は百姓のこと

──熊沢蕃山

百姓は愚にして自分の所有せる田畠を子孫にわかち与えるがため、つひにはいづれも自立しがたく(*中略)世間にたはけといふ言葉は、百姓の上より出し、田分にて侯。

&(しゅう)()和書(わしよ)』熊沢蕃山著

 熊沢蕃山(くまざわばんざん)(161991)は江戸前期の儒学者。備前岡山藩藩儒・農政学者。

蕃山は岡山藩儒で池田光政侯を助け、仁政をしかせた影武者、とされている。その本人は自究の学問集成『集義和書』において、百姓どもの救いがたい愚鈍さを指摘した。彼の篤実な人となりを知る者は、この一文に接して違和感を覚え、戸惑ったことだろう。

往時の百姓は、泥と人肥にまみれ一日十数時間も肉体を酷使した。牛馬並みの労作に耐えなくては、年貢を納め、一家が食っていけない。ために人間としての行き方を自省したり、学問を身につけるなどとは縁がなかった。そんな百姓を蕃山は容赦なく「たわけ」と切って捨てたのだ。

家康ならびに秀忠に仕えた本多正信も自著『本佐録』の中で「百姓は財のあまらぬやう不足なきやう治めること道なり」と述べている。偉そうな物言いはしても、為政者や学者にとっての百姓は、単なる米作道具でしかなかった。

 保身の屁理屈が先走り、正しい認識が等閑(なおざり)にされた世界では、米麦が豊かに実り続けることなどない。

 熊沢蕃山像

 

47 恋しい吉三郎さんに会うための火付け

──八百屋お七

さもあらば(火事になったら)吉三良殿にあひ見る事のたねとも成なん

&好色五人女第四、井原西鶴著

*八百屋お七=江戸初期、半伝説化した放火犯の少女。

八百屋お七が「さもあらば」と思った火事とは、天和二年(1682)十二月、江戸は駒込大円寺から出火した大火をさす。この時お七や家族は無事に指ケ谷町円乗寺に難を逃れ、お七自身も寺小姓の吉三郎と逢瀬を愉しむことができた。そこで西鶴言うところの「よしなき出来ごころ」によって放火を思い立つに至る。

明けて天和三年三月、強風が江戸に吹き荒ぶ晩、お七は付火に走った。しかし火は燃え広がることなく消し止められ、お七は現行犯で捕らえられた。同月二十九日、お七と同一人かどうか不明だが、「志ち」という女が火付けの罪により、市中引き回しのうえ鈴ケ森で火あぶりの刑に処せられている。

八百屋お七〔広重画〕

 お七ものは『好色五人女』はじめ浄瑠璃や歌祭文で語られ、全国に広まった。相手の美童吉三郎はお七の処刑を知るや前髪を落とし出家したことになっている。これも別に円乗寺の寺小姓左兵衛が吉三郎だとする説もあり、事実は謎に包まれたままである。

 

48 五十四歳まで相手にした女三千七百四十二人

──伝 在原業平

「雲に(かけ)はしとは、むかし天へも流星(よばひ)(ひと)ありや、一年(ひととせ)一夜(ひとよ)のほし、雨ふりてあはぬ時のこころは」と、遠き所までを悲しみ、こころと恋に責められ、五十四歳までにたはぶれし女三千七百四十二人、小人(せうじん)(若衆)のもてあそび七百二十五人、手日記にしる。井筒(ゐづつ)によりてうなゐごより已来(このかた)、腎水をかへほして、さても命はある物か。

&『好色一代男』巻一、井原西鶴著

 『好色一代男』巻六、初版本より

漁色家として名高い在原業平をさした一文。『好色一代男』でこれから始まる物語の主人公世之介の生涯を暗示した伏線である。

右の文中「手日記にしる」とは、西鶴が用いた出典の御伽草子『磯崎』を示し、その文中にまた業平が生涯に契った女は「三千七百余人」との表現をいっている。

それにしても、世にいうところの「千人斬り」など小さい小さい、といっているような途方もない数である。中国における大陸的表現「後宮三千人」も真っ青だ。大法螺もこう大きく吹かれると、貧相な実績しかない男どもはただただ感心するしかない。

 

49 一茎ずつかつがせたり

──北島雪山

(魔羅を)馬鹿どもに一茎づゝかつがせたり。

&『近世名家書画談』北島雪山、安西於菟(おと)

北島(きたじま)雪山(せつざん)(163697)は江戸前期の書家・文人画家・儒学者。

雪山、長崎で富貴だがいささか嬌奢ぶりの家に、即席の揮毫(きごう)を求められ赴いた。美酒佳肴の宴席が設けられたうえ、慰み女まで相伴している。席上、亭主から早速ながら一筆をと促された。

先生、主客は三名いるから三紙を()べよと申し入れ。やおら大筆を墨にひたし、一紙ごとに陰茎を一器ずつ大写して三名に与えた。その屋敷からの帰途、天潴(てんき)先生なる知人に行き会い、掲出の言を吐いて大笑したという。

 雪山は江戸時代に唐風書道の礎を築いた人で、門人に細井広沢らがおり、この逸話も広沢が天潴先生から聞いた仕立てになっている。雪山とにかく名うての奇行の人で、かねてから贅好みの富者に一矢酬いんと思っていたおりの、降って湧いたような機会に乗じての悪戯であった。

展紙というから相当大きな紙にデカデカと一物を描いたわけだ。馬鹿どもも、また先生の悪趣味(ひとかつぎ)が、と知ってのうえで押し戴いた。相手また風流でなかったら演じられない芸当である。

 「行書十字」雪山北島三立書

 

50 卑しい出の男の娘を嫁になんかできるか

──新井白石

吾は只書を読まんが為にこゝに来るのみ、彼等如き鄙夫(ひふ)(むすめ)(めと)るべきにず。

&閑散(かんさん)余録(よろく)南川金渓(みなみかわきんけい)

新井(あらい)白石(はくせき)(16571725)は江戸中期の朱子学者・漢詩人。

栴檀(せんだん)は双葉より芳し」をでいった白、評判の天才は英才教育で磨きがかかり、長じて和漢洋にわたる碩学として注目された。

  貧しかった青年時代の白石は、書物を借読するため豪商の河村(ずい)(けん)しばしば立ち寄った

瑞賢は彼只者ならずと高く買っていた。白石二十六歳のおり、瑞賢は先立った長男の子つまり孫娘を、三千両相当の地所を添える条件で嫁にどうか、と人を介して縁談を持ちかける。その話に、白石は掲出の憎まれ口をもって答えた。ただし彼は、自分が大儒となった場合、この途方もない持参金付きの女房を持つことで名に傷がつこう、と釈明もしている。

 白石の断りに瑞賢がどう反応したかは記されていない。しかし、並の親権者であったら「口はばったいことを抜かす若造だ」くらいの不快の意を示すところだ。見渡すに、偉大な学者として知られた人物には、どこか世俗感覚から浮き上がった、自己本位の生硬さが身についていると思う。

 

51 人は慈悲の心をもって生類をあわれみなさい

──徳川綱吉

一、     捨子有之侯ハヽ、早速不及届、其所之者いたハり置、直ニ養候か、又ハ望之者有之候ハヽ可遣候、急度不及付届候事

一、鳥類・畜類、人の疵付侯様成ハ、唯今迄之通可相届候、其外友くひ又ハおのれと痛煩候計にてハ不及届候、随分致養育、主有之候ハヽ、返可申事(*中二条略)

一、     犬計に不限、惣て生類人々慈悲の心を本といたし、あはれミ候儀肝要事

貞享四年四月(綱吉)発令

徳川(とくがわ)(つな)(よし)(16461709)は第五代将軍。この生類憐みの令や悪貨乱発など悪政をしいた。

「犬公方」の悪名を天下にとどろかせた徳川綱吉

 歴史に汚点を投じた「生類憐みの令」だが、見てのとおり、条文そのものはおかしなところなどない常識的な内容である。生き物に憐みをかけるという思想も異常ではない。しかし、為政者がこの方針を曲解し、運用を極度に誤ったがために、犬猫などを大切に扱う余り人の命を粗末にする悪法に堕ちてしまった。

綱吉は生母桂昌院が帰依する隆光なる坊主から、嗣子の生まれないのは生前の殺傷の報い、生類とくに将軍(いぬ)年生れにちなみ犬を大事に、とたきつけられた。ただちに、犬を死傷させたら死罪か遠島という不文律にしてしまう。実、噛みいた犬をった町人が首をられた、とい恐怖政治が始まった。江戸の町々には野良犬があふれ、人の食い物を奪い、捨て子を噛み殺しても、人間はなすすべがかった

 

動物愛護の名のもと、その実個人的に男児出生の念願達成という利己欲に駆られ、庶民社会に多大な犠牲を強いた。犬公方、人界地獄から這い上がれまい。

 

52 そのいんぱくの下が極楽浄土じゃ

──鳴神上人

鳴神 ドレ〴〵、じ脈をとつてみやう。ハテ、むく〳〵としたものじや。コレが乳で、その下がきゆう尾、かの病の凝ってゐるところじや。オヽさつきよりよつぽどくつろいだわいのう。こレこのきゆうびの下のコレこゝを、ずい分といふぞや。それから下がしんけつ、ほぞとも臍ともいふところじや。このほぞの左右が天すう、ナントよい気持ちか、ほぞからちよつと間をおいて気海、気海から丹田、その下がいんぱく、そのいんぱくの下が、極楽浄土じや。

絶間 あれ、お師匠さま。お師匠様、もうお許しくださりませ。

&雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)』市川団十郎作の歌舞伎台詞

市川(いちかわ)団十郎(だんじゆうろう)〔初代〕(16601704)は歌舞伎役者で市川家の宗家。荒事師の開祖でもある。

 四幕目「雲の絶間姫」における鳴神上人〔雷神不動北山桜〕

 能楽「一角仙人」から材を取って初代市川団十郎が脚本化した台詞で、歌舞伎十八番の一つである。

鳴神上人は天上に戒壇を設けるよう帝に求めたが応じてもらえない。上人は怒り、滝壺にすべての竜神を封じ込めたため雨が降らず、民百姓が難儀する。朝廷では美女の雲の絶間姫を差し向け、色気で上人の法力を失わせ、隙に乗じて竜神を逃がし雨を降らす。掲出は姫が上人を誘惑する場面で、感じた上人が漏らした台詞だ。

 女の色香に迷い堕落していく破戒僧が暗示的に描かれている。ことに手を抜かない女体まさぐりの描写がおかしみをさそう。久米仙人や志賀寺上人とはまた一味違った写実的趣きがよい。

荒事の創始者である初代の台本(ほん)だけあって、「荒れ」の所業も目にく。ところが現実は皮肉なもの、宝永元年二月江戸市村座の舞台に出演中、暴漢生島半六荒仕事によって団十郎は昇天してしまった。

 

 

53 空井戸へ飛びそこないし蛙よ、己は

──上島鬼貫

から井戸へ飛びそこなひし蛙よな         鬼貫

&大悟(たいご)物狂(ものぐるい)鬼貫自撰集

上島(うえじま)(おに)(つら)(16611738)は江戸中期の俳人、伊丹風の中堅として活躍

鬼貫は初期作品集『大悟物狂』が板行された元禄三年にまだ三十歳、芭蕉をしゃにむに追いかけていた。掲出句も芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の捩りである。負う立場の自分を意識し、さらに自身を蛙に見立て、なんと己は空井戸すら飛びそこなったものよ、と自嘲している。

のちに「東の芭蕉、西の鬼貫」という世評もうなずけるほど、芭蕉レベルに最も近づいた俳人である。それだけに作品に芭蕉の影響を受けていることは否めないし、この一句もまた、鬼貫の偽りない真情を吐露したもの。『大悟物狂』は述懐する。

 猶深き奥もやあらんと、延宝九年の比より骨髄にとをりて物みな心にそむく事なく、やゝ五とせを経て貞享二年の春、まことの他に俳諧なしとおもひもうけしより、…

と、二十六歳で早くもまことの道を悟った。その豁然開眼の趣きは禅の道に通じるものがある。

 四天王寺前にある鬼貫の墓所〔大阪市の観光PRサイトより〕

 

54 そばへ来やがると、大どぶへ投げ込むぞ

──花川戸の助六

ここな、ドブ板野郎の、たれ味噌野郎の、出がらし野郎の、そばかす野郎め。引込みやがらねへか。わるくそばへきやがると、大どぶへさらい込むぞ。

&助六(すけろく)由縁(ゆかりの)江戸(えど)(ざくら)津打(つうち)()兵衛(へえ)作の歌舞伎台本

(はな)川戸(かわど)助六(すけろく)こと曽我五郎(そがのごろう)は、江戸巷間の伝説的人物。実在したともいわれている。

歌舞伎十八番の一、時代世話物。花川戸助六こと曽我五郎は、盗まれた名刀友切丸を捜すため吉原へ出入りする。馴染みの傾城、三浦屋の揚巻に横恋慕する髭の意休に喧嘩を売るとき、掲出の啖呵を切った。やがて意休の抜いた刀が友切丸であることを知り、意休を討って刀を奪い返す。

 助六を演じるのは初代市川団十郎、相手役の揚巻に扮するのは岩井半四郎。

 江戸っ子はこうじゃなくちゃいけねえ、と感じ入らせる、威勢のよい伝法だ。相手に浴びせる罵言が小気味よい。

助六はまた、敵役のかんぺら門兵衛らに名前を問い詰められたときも、「見かけは小さな野郎だが肝が大きい。遠くは八王子の炭焼売炭の歯っかけぢゞい、近くは三谷の古やりて梅干婆アに至るまで、茶飲み話の喧嘩沙汰、(おとこ)(だて)の無尽のかけ捨て、つひに引けを取ったことのねえ男だ。」と、ポンポンと弾いている。

火事と喧嘩は江戸の華、その江戸っ子に笑われるようなとろい啖呵を書いたら飯の食い上げ、歌舞伎作者もきつい仕事師なのだ。

 

55 おれの悪筆は唐なみの悪筆だ

──荻生徂徠

足下(おまえ)(筆注=細井広沢)は成るほど能書家なれども、日本の能書家なり。余は悪筆なれども、唐の悪筆なり。

&『想古録』一七六条、山田三川編

荻生徂徠(おぎゆうそらい)(16661728)は江戸中期の儒学者。古学派を開いた。

 出典は状況をこう述べている。

 細井広沢(筆注=江戸中期の儒学者で書家)、物徂徠と善し、  広沢常に徂徠の書の拙きを苦にし、或時、足下は悪筆なれば、少しく手習されては如何、と忠告しけるに、徂徠は平然として、──。と負け吝みの説を吐てその忠告を受付ざりし、去れど広沢の直言は徂徠の脳裏に徹したるか、其後窃かに習字に心を傾け、大いに進歩の効を見るに至りけるとぞ(柳田正斎=報告)

この一文から、徂徠が我の強い性格であったことがわかる。自分の欠点への指摘に対しても、天下の能筆家を相手にスケールの大きな開き直りを演じた。しかし徂徠の偉いところは、その場かぎりの単なる負け惜しみにとどめなかったこと。自分の至らなさを正すため、悪筆矯正に精励した。ひとかどの人物はやはりどこかがちがう。

 

56 非人を人類に扱うとはあきれた世の中よ

国家の法禁ゆるき故に、非人を以て人類に混ずる誠に痛ましき世のありさまなり。

&独語(どくご)』太宰春台著

太宰(だざい)(しゆん)(だい)(16801747)江戸中期の儒学者、徂徠の門弟。著『経済論』は高く評価された。

原善(念斎)著『先哲(せんてつ)叢談(そうだん)』が春台について次の逸話を紹介している。

春台よく笛を吹く。是時に当つて、東叡法王(筆注=上野寛永寺の法親王)音律を好む。春台が音に妙なるを聞き、嘗て使を遣わして之を召す。春台辞して曰く、余は儒生なり。若し儒を以て召さるれば則ち駕を俟たず。其私嗜の末枝を以て王門の伶人と為るは余欲せざるなりと。此より終に復笛を吹かず。

この引用から察しがつくように、春台は相当に融通の利かない堅物だったらしい。その性格を裏付けるかのように、狙門中でも礼を重んずるに目立った存在であった。

それだけに、人間として最低限の礼節をも捨て去り、四つ足のように野放図に生きる非人乞食の存在が我慢できなかったのであろう。それにしても「非人は人類にあらず」とは、臆面もなくのたまわったものである。この一言、とかく独りよがりな儒者が市井の人びとに小馬鹿にされた側面をも見せつけている。

 太宰春台の墓所案内板〔東京都台東区浅草・天眼寺〕

 

57 ひよつと舌が廻り出すと矢も楯もたまらぬ

──二代目市川団十郎

(さて)(この)(くすり)第一の奇妙(きめう)には、舌の廻ることが銭ごまが跣足(はだし)で逃げる。ひよつと舌が廻り出すと矢も楯もたまらぬぢや。そりや〳〵〳〵そりや〳〵廻つてきたは、廻つて来るは、あわや(のど)、さたらな舌にかげさしおん、たまの二ツは(くちびる)軽重(けいぢう)かいごふ(さはやか)に、あかさたなはまやらわ、をこそとのほもよろお、一ツべぎべぎにぎほし、はじかみ(ぼん)まめ盆米ぼんごぼう、(つみ)(たて)つみ豆つみ山椒(さんしよ)書写山(しよしやざん)(しや)僧正(そうじやう)こゞめなま(がみ)小米(こごめ)のこま噛みこん小米のこなまがみ、繻子(しゆす)緋繻子ひじゆす繻子(しゆ)(ちん)、親も嘉兵(かへ)()子も嘉兵衛、親嘉兵衛子嘉兵衛子嘉兵衛親嘉兵衛、…

&『歌舞伎年代記』市川家十八番の内

市川(いちかわ)団十郎(だんじゆうろう)〔二代目〕(16881758)は江戸中期の歌舞伎役者。

二代目団十郎の労作として知られる名セリフである。「外郎売り」のセリフは千七百字に及ぶが、そのうちから早口言葉のヤマ場を抄出してみた。これだけの長広舌(ちようこうぜつ)、しかも早言葉をトチらずにしゃべりきるのは、いかにプロとはいえ並みの技ではない。

 もう一つの評価は、早口の語句(パラグラ)()がそれぞれ独立した口上の集成になっていること。「此薬第一の奇妙には…」から始まり「ホヽ敬って、ういらう(いら)つしやりませぬか」に至るまで、相当数の早口章句が挿入してある。なかでも「繻子緋繻子ひじゆす繻子繻珍」や、掲出外だが「たァぷぽヽ、ちりから〳〵つッたッぽ、たぽ〳〵干だこ」などは付け焼刃の練習程度では舌足らずになってしまうだろう。

聞くところによると、放送局アナウンサーやアナウンサー養成学校でも、この種の台詞をテキストに使用しているという。二代目のこのアイデア、市川家の名を古今東西に広めるのに貢献した。

 二代目団十郎が演じた外郎売り

 

58 早口でしゃべりまくれ「こんきょう寺」

&寛延三(1750)年刊、松川勾当・安永勾当が共編の琴歌集『琴線和歌の糸』巻三

「こんきやう寺」は漢字で「言興寺」と書き、早口仕立である。団十郎の「ういらう売」とともに早口の引き合いによく出されるが、作者や成立は定かでない。

「ういらう売」は評判作であるが欠点もある。それはストーリー性のない売言葉が続き、既成の早口の寄せ集めという点である。これに対し「こんきやう寺」のほうは、節付けで歌う詞のため律動感があり、全体に筋のある物語に構成され、しかも早口言葉に独創的な工夫がみられる。

双方に対照の妙があり、鑑賞の興を引く。

こんきやう寺(全詞)

さるほどに、こんきやう寺のこんきやう門きやう法印が座の真中(まんなか)につゝと出て、こんきやう寺のこんきやう門きやう法印が、法力をあらまし御目に掛け奉る、御宝前にやがて壇をぞ飾りける、百八の灯明(とうみやう)の油には、(しろ)胡麻(ごま)からやら、黒胡麻からやら、()胡麻(ごま)からやら、犬胡麻からやら、胡麻から胡麻からひ胡麻から、真胡麻からの油を立てられたり、さて(にふ)(もく)には珍しや、一反(いつぺん)へぎ長へぎ(ぼし)生姜(はじかみ)木天蓼(またたび)つみ(たで)(つぶ)山椒(さんしやう)撫子(なでしこ)()石竹(せきちく)、きく切りきく切り三きく切り、是を併せて六きく切り、切つて掛けたる幣帛は、大奉書(おおぼうしよ)中奉書(ちうぼうしよ)小奉書(こぼうしよ)、さて又本尊にかけられしは、のら如来のら如来三如来六如来、これを併せて十二のら如来、又それを併せて二十四のら如来の真言(しんごん)に、向ひの長押(なげし)長長刀(ながなぎなた)は、誰が長長押の長長刀ぞ、兵部(ひやうぶ)が前を刑部(ぎやうぶ)が通る、表部が屏風(びやうぶ)を刑部が持たずば、坊主に買はせてしやうぶが坊主の屏風にしよ、向ひの山のつる〳〵〳〵〳〵(くび)は、白鶴頸か(あい)鶴頸か、(まつ)(くろ)黒々鶴頸をひつ立て振立て祈れども、少しも(しるし)はなかりけり、僧は大きに赤面(せきめん)して、重ねて奇特(きとく)を見せんとて、袈裟(けさ)も衣もおっとりと置いてな、殿様の長袴(ながはかま)、若殿様の()長袴、武具(ぶぐ)馬具(ばぐ)〳〵三武具馬具、これを併せて六武具馬具、お(しき)(ばし)百八十(ぜん)天目(てんもく)百盃茶百盃、棒八百本(たて)並べ、責めかけ飲みかけ祈れども、されども験はなかりけり、僧は大きに怒りをなし、げに我とても上方(かみがた)僧、書写山(しよしやさん)社僧の(そう)名代(みやうだい)、今日の奏者(そうしや)は書写ぢやぞ〳〵、しよざいも世帯者も(これ)までかと、(しやく)(ぢやう)がら〳〵ざく〳〵と、振りかけ〳〵祈れども、ちっともそつとも(げん)もなし、いで法華(ほつけ)経にて祈らんと、妙法蓮華経陀羅尼(だらに)品第二十六祈りける、げに御経(おんきやう)功力(くりき)にや、大願(たいぐわん)成就(じやうじゆ)有難しと、僧は(くぐ)(にく)い潜り窓潜って、裏の古胡桃(ふるくるみ)の木の古切口(ふるきりくち)古枝(ふるえだ)の、引抜(ひきぬ)き難いを引抜いて、新茶(しんちや)立てう茶立てうあを茶立てう茶立てう、()(ちや)立てう茶たてうと、はつおのしよらちはらりるれろ &『日本歌謡集成』巻七

 

59 主人であるおれが留守だといっているんだよ

──井上蘭台

主人が自ら不在と云ふに何の偽りが之れあらん。

&『想古録』一〇二四条、山田三川編

井上(いのうえ)(らん)(たい)(170561)は江戸中期の儒学者。博識で知られた。

収載の一文は次のとおり。

 井上蘭台は折衷学派中の巨擘(きよはく)にて、門下よりは井上金峨、渋井太室等の鴻儒を出せ台素行奇骨ありて、人に交るに追従の事を言ず、門戸をして読書するときは、来客を謝絶して面会せず、戸外より先生ご在宅なりやと訪ふものあれば、自ら客には今日は不在なりと云はれたり、中に戯言(じようだん)(やめ)られてけてさるべし、と頼むあれば、蘭台弥々音声をげて、──とて、悠々然読書を()めざりしと云へり。(赤井厳三=報告)

蘭台は江戸の人だが、招かれて備前岡山藩の儒学教授になったほどの人物。並外れた耽読癖とオトボケ居留守は広く知れ渡っていた。引用のように「隠れるように居留守を使う」なんて言う半端ではない。その変人ぶりは堂に入っていた。また、本を手にするや無我の境地に至り、夜も床をのべて寝ることを忘れ、たいていは机にもたれたまま眠ってしまう。こういう人に読んでもらえば、書物も冥利に尽きるだろう。

 蘭台井上先生之墓〔東京都台東区谷中墓地〕

 

60 「かんかんのう」珍紛漢

♪かんかんのう きゅうれんす きゅう

 わきゅうできゅう さんしょならえ 

 さいほうしーかんさん びんびん た

 いたいやんろ めんこがくわくで きゅうれんそ                   

江戸中期の俗謡 

日本語ではなく中国語らしくもない。朝鮮の言葉でもないようだ…。得体の知れないこの詞は誰もがそう思うはずだ。この国籍不明語、じつは唐人歌で、その音を真似て日本で流行った歌詞だ。ただしこの歌を紹介した出典はいくつもあり、聞き取り記録のためか、収載本によって歌詞は異なることを断っておきたい。

長崎に唐人屋敷が設けられた江戸中期、清国から伝わってきた「九連環」という歌詞を日本人が模写して広めた。発音が原音に比べ大幅に改変されているため、この詞の通り読み上げても中国人にも意味が通じない。

 原詞付きの「かんかんのう」は、文政頃紹介された長崎の「看看踊り」に端を発し、幕末にかけ全国的に広まった。

 原歌の意味は、

 あなたにもらった九連環(九つの輪から出来ている知恵の輪)を両手で抱え持ってはきたが、解くにも解けず、切ろうにも切れない。男女の縁は容易に切れない。(『うたでつづる明治の世相』上、大久保慈泉編著)

昭和も中頃まで、珍紛漢紛のことを「唐人(または毛唐) の寝言」と言っていたが、こういう場合をさす。こんな歌詞が流行る世の中、あまり感心できない。

 

61 年寄は刀を伴の者に預け腰軽に歩きたい

──秋元涼朝

年寄は刀を差すも大儀なれば、刀をば両人に預け腰軽に歩行す。

&『徳川名臣名君言行録』秋元涼朝、岡谷(しげ)(ざね)

秋元(あきもと)(すけ)(とも)(171775)は江戸中期の元老中で、武州川越藩主。在任中に不適任を理由に老中の座から追放されている。

出典は「信を腹中に置く」と題し次のように述べている。

 涼朝、長田治部大夫、古田八右衛門二人を

徒士(かち)の中より中小姓に挙げ、致仕は必ず一人ずつ連れける。八右衛門は本流の法をめ、治部大夫山の捕手でたり。二人無下無骨の者共なりが、一人不虞ふるなりとて、豊州貞行の刀を八右衛門に、伯州の刀を治部大夫に賜り、「──」と、の人々に語りけるとぞ、云々。

 二本差しは武士の魂

武士が帯刀をサボる!じつに土性ッ骨のない殿さまだ。いくら太平の世で致仕(役目から引退すること)したとはいえ、元老中で、高禄を()む身ではないか。それが二人の用心棒に刀を預け、まだ五十代なのに身が軽くなったとほくそ笑んでいる。

この人、老中などとてもつとまる御仁でないからクビにされた。また、こんな手合いを名臣名君に奉るのだから、『名将言行録』の著者も甘いものだ。

 

62 河原者の姿なんか描きたくない

──鈴木晴信

我は大和絵師也、何ぞ河原ものゝかたちを()くにたへんや。

&『浮世絵類考』鈴木春信、大田南畝(なんぼ)

鈴木(すずき)(はる)(のぶ)(1725?~70)は江戸中期の浮世絵師。風俗錦絵の始祖とされている。

「河原者」は河原乞食ともいって、近世における芸能者の卑称であった。もともと中世に、河原に住みつき賎業に従う非人同様の連中をいい、江戸期も身分は士農工商の下、最下級格だった。辺りで説教、浄瑠璃、操り人形、からくりなどの興行を催したことから、庶民芸能に携わる関係者を河原者と代名詞化して呼んだ。

河原者は四民の下にいる制外者(にんがいもの)ということで、あらゆる面で人別の対象になっていた。

 春信の役者絵を拒んだ発言も、今日でこそ差別に映るが、当時ではごく当り前の認識で、常識の範囲内の表明であった。まして(こよみ)絵をきっかけに江戸浮世絵師仲間に頭角を現しつつあった春信のこと、ノッペリな役者など画筆の趣くところではなかったろう。

 その晴信も売れ筋の歌舞伎役者の河原者をば生活の支えに描いた

 時移り現代、首をかしげたくなるような現象が跋扈している。かつての河原者はテレビや舞台でわが世の春を(うた)い、大きな顔で利いた風を抜かしている。代議士に選ばれたり大都市の長になった奴もいる。時の移り変わりのいたずらで、一般人と立場が逆転してしまった。

 

63 あれ死にます死にます

──勝川春章

海女 わたしがたこだとじまんでいたが、おとこのたこに逢つたのは、はつもの、七十五日いきのびるはずが、あれしにます〳〵…

 なんと、此あしの(しめ)かげんハきついものであろふ。おれも人げんハはつもの…

 『謡曲色番組』勝川春章の謡曲捩り画文集

勝川(かつかわ)(しゆん)(しよう)(172692)は浮世絵師で、勝川派の祖。肉筆美人画は高く評価された。

春章、壺形の中に林の字を刻した印を用いたことから、又の名を壺屋春章とも云った。版画・肉筆画の大家。美人画や役者絵にも個性的な画風を示し、世間から「春章一幅値千金」(蘇軾(そしよく)の春夜詩「春宵一刻値千金」の捩り)との評判を得ている。

この絵師、謡曲を擬した一連の墨摺り本『謡曲色番組』をまとめた。余技に描いた秘画集だが、加茂・舟弁慶・養老などから多彩な擬化作品を物している。掲出はそのうち一作、「海士(あま)」の詞書(ことばがき)から抄出したもの。全裸の女体に醜怪な大蛸が絡みついた、人獣相姦の責め絵だ。

大人ならわかる、俗にいう名器「タコぼぼ」の戯画文付きである。惜しむらくは、(わけ)知り者が見れば迫力満点の絵だけで十分なのに、余分な詞書を付け足してあること。陳腐なおしゃべりが興を半分殺ぎとってしまった。まさに蛇足、イヤさ、蛸足だ。

 

64 地に松茸あり、股座にもあり 

──平賀源内

天に日月あれば人に両眼あり。地に松蕈(まつたけ)あれば股に彼物(かのもの)あり。其父を()といひ、母を於奈良といふ。鳴るは陽にして臭きは陰なり。陰陽相激し無中に有を生じて此物を産む。因つて(あざな)屁子(へのこ)といふ。(いとけなき)を指示といひ、又珍宝(ちんぽう)と呼ぶ。形備はりて其名を魔羅と呼び、号を天礼菟久(てれつく)と称し、また作蔵と異名す。万葉集に(つぬ)布具礼(ふくれ)と読めるも、疑ふらくは此物ならん()。漢にては(せい)といひ、また(きゆう)(尸に求)といひ、(ちよう)(尸に吊)といひ陰茎といひ玉茎といひ、(にく)()と呼び、中霊(ちうれい)(なづ)け、俗話にては鶏巴(きいは)といひ、紅毛(おらんだ)にては呂留(りよる)といふ。男たる人ごとに此物のあらざるはなし。

&痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)』平賀源内作(書き出し)

風来(ふうらい)山人(さんじん)こと平賀源内(ひらがげんない)(172879)は江戸中期の博物学者・文人。著作も多い。

単なるエロ談義ではない。オチンチン一つ取上げても源内の博覧強記がうかがえる。毎日何度か手を触れ、銭湯では他人様の持ち物に感心したりするが、これほど異名チン称の類があるとは知らなかった。

 源内は物理学、化学、薬学、鉱物学など科学分野をはじめ、陶芸から文芸全般に至るまでを究めた天才であった。「日本のダ・ヴィンチ」という冠称もうなずける。

彼は談義本でも異色の作品群を残し、『根南志具佐(ねなしぐさ)』『風流志道軒伝』などがよく知られている。この『痿陰隠逸伝』は、『放屁論』や『里のをだ巻評』などと並んで、没後に『風来六部集』にまとめて板行されている。

また死後十年ほどして、竹窓檪斎(ちくそうれきさい)老人なる者が『平賀鳩渓実記』という源内についての創作伝記を出している。亡き源内が竹窓 の夢枕に立ち、世の才子の戒めにしてほしいと頼むので執筆した、といっている。モデル小説も少なからず書かれている、わが国を代表する文化人であった。

 痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)』所収の合本、風来山人著『長枕褥合戦』

 

65 一升酒かい。この先生は下戸だから菓子を上げな

──中井竹山

中井兄弟、酒量に富み、一飲三升坐作(すこし)も変ぜず、某儒竹山を訪ふ、竹山問ふ、先生酒を嗜む乎、儒答ふ、一升適度なりと、竹山急に後を顧み婢を呼て曰く、──と、儒驚いて舌を巻く。(塩谷宕陰)

&『想古録』六九条、山田三川編

中井(なかい)竹山(ちくざん)(17301804)は江戸中期の儒学者。懐徳堂の学主。

世の中には恐るべき大酒飲みがいるものだ。近代美術の雄、岡倉天心も二升の晩酌を欠かさなかったとか。天心は常々「一升ぐらいの酒を飲んで酔うようだったら俺の席には出るな」と豪語していた。

 斗酒辞さずの中井竹山

 その門下生であつた頃の横山大観、まだ酒に弱く、天心先生に徹底的に鍛えられた。その結果、大観の弟子竹越真三夫が書生に雇われるさい、生真面目な彼に「酒もたばこものまない男にろくな奴はいない。絵なんか描けるか」と叱咤するまでになった。大観も晩年、その酒豪ぶりで多くのエピソードを生んでいる。

他人様よりわずかに量をゆく程度で付き合い酒が飲める(つら)をする、己が恥ずかしくなってきた。

 

66 金毘羅こんぴら、おれの小便でも飲め

──難船の田中某

斯る国事に従ふ時、風波の難を守り呉てこそ日本の神なるに、今日の仕合にては有難きこと少しもなし、金毘羅金毘羅耳を(そばだ)てて聞け、汝は何の神力が有る、我が小便でも飲め。

&『想古録』二二六条、山田三川編

この掲出原文は、「文化中、露船蝦夷地に(あだ)しければ、会津侯に命じて唐太島を守らしめらる、其の衛士渡海のとき、暴風起こりて船舶を覆さんとす、其組の兵士等神に祈り、仏に念じ、或は金毘羅の号を唱へて生たる心地もなかりしに、其手の隊長田中某、大いに怒りて舷頭(ふなばた)に突立ち、──(蓮沼顕蔵=報告)」と、間接話法で述べてある。

田中は文句を叫ぶなり海中へ放尿した。そのとたん船は岩礁に突き当たって微塵に砕けたが、同時に大波が押し寄せて、全員を波上に乗せ荒磯へ無事に打ち上げた。

金毘羅は讃岐国(香川県)那珂郡の(ぞう)頭山(ずさん)に祀られる信仰対象である。その背景には「金毘羅参詣船」の就航があり、海難防止の守り神として崇められている。

昔は神仏に対する冒涜は絶対的な禁忌であった。田中某のヤケッパチで捨て身の開き直りが、かえって幸運を招いた、ということにしておこう。俗信がらみは良しにつけ悪しきにつけ話題を生み出すものだ。

 金毘羅船。「こんぴら船々」はもともと航海安全を祈念した祭唄である。

 

67 酒飲めばおのず心も春めきて

──唐衣橘洲

酒のめばおのづ心も春めきて

     借金とりもうぐひすの声

&『狂歌若葉集』唐衣橘洲編

(から)(ころも)(きつ)(しゆう)(17431802)は天明狂壇における指導的立場にあった狂歌師。

クセが目立たず、技巧も程ほどに抑えた秀作である。飲ン兵衛の心をくすぐる温かみが伝わってくる。わかりやすいのもよい。橘洲狂歌の魅力がこの一首に凝縮されている。

彼は細川幽斎らの、比較的くだけた調子の歌を範とした。江戸狂歌に端正かつ典雅な趣きを添え、和歌に一歩近づくことで狂歌の向上をめざしたのである。

この橘洲の意図は、歌意の面白みを重視するあまり技巧偏重に走った天明狂歌長老派と衝突の結果を招く。狂壇の一方の雄、四方赤良や朱楽管江らと対立、冷戦状態に入った。なお悪いことに、橘洲が編んだ『狂歌若葉集』は編集内容が生一本に過ぎたため、刊行は商業的に失敗に終わった。数多くの秀作を残したわりに、橘洲の知名度は、天明長老派の連中に一歩譲る結果に終わった。

橘洲自身、ヒットセラーが何たるかは心得ていたと思う。しかし彼は、商売人であるよりは、うぐひすの声を選んだのである。

 『狂歌五十人一首・後編』の冒頭を飾る橘洲

 

68 田沼はいくつ、三十七つ 

──田沼家からかいの俗謡

♪七ツ星(筆注=田沼家の家紋)切付けたら長者になろな、田沼はいくつ、三十七ツ、まだ年は若いな、此の子を切つて()野子(のこ)をおさへて、対馬にだかしよ、御目付はどこへ、あぶながって茶を(のみ)に、中の間の縁で、すべつてころんで油あせたらした、(その)(あと)どうした、田沼もいぬと、頼母(たのも)もいぬと、みんなにげてしまつた

&三田村(みたむら)鳶魚(えんぎよ)全集』第十八巻・有職鎌倉山

田沼意知(たぬまおきとも)(174984)は江戸中期の若年寄。父の意次(おきつぐ)と共に幕閣に列した。

悪名高い田沼意知の頓死を揶揄した替え歌で、原歌は「お月さんいくつ、十三七ツ…」という例の手鞠唄である。田沼意知は意次の嫡男で、彼また父親同様に収賄政治をほしいままにし、贅沢な生活を送っていた。

 田沼意知像

 意知は江戸城から帰邸のとき、新番士佐野善右衛門政言(まさこと)二十八歳に斬りつけられた。佐野は猟官運動で多額の金品を贈ったにもかかわらず重用されずじまいで、怨みの刃傷に及んだのだ。大目付の松平対馬守(ただ)(さと)が政言を押さえたが、意知は悲鳴をあげ逃げまどう醜態をさらす。意知は結局、出血過多のため天明四年四月二日、事件後十日目に死亡、佐野は切腹させられた。

田沼父子二代にわたる腐敗政治に江戸市民らはうんざりしていた。善右衛門が「世直し大明神」と崇められるいっぽう、意知は権高のくせに武士の風上にも置けぬ狼狽者よ、と落首などでも嘲笑されている。

  金とりて田沼るゝ身のにくさゆゑ命捨てゝもさのみおしまん

 

69 月雪花の興あれば飲む

                              ──大田蜀山人

一、     酒は飲むべし飲むべからず

一、     節句祝儀には飲む

一、     珍客あれば飲む

一、     肴あれば飲む

一、     月雪花の興あれば飲む

一、     二日酔の醒を解くには飲む

一、     このほか群飲候遊長夜の宴終日の宴を禁ず

&『日本酒仙伝』篠原文雄著

大田(おおた)(しよく)山人(さんじん)(17491823)は江戸後期の文人・狂歌師。四方(よもの)(あか)()の狂号でも有名。

タバコのみの禁煙宣言と飲ン兵衛の禁酒宣言ほど当てにならないものはない。前の晩へべれけまで飲み、二日酔の頭を抱え「今晩だけは飲むまい」と自分に誓っても、夕方には赤提灯の前を素通りできないでいる。

蜀山人の禁酒壁書は左党の心情を言い得て妙である。一見、七項にわたり誓いをたててはあるが、そのじつ飲む機会を得る逃げ道だらけになっている。いつでも酒杯が重ねられ、条項に違反することがない。こういう自戒なら上戸は大歓迎だ。

 大田南畝像鳥文斎栄之画(文化十一年)、国立博物館蔵 

 蜀山人はまた、次のような有名歌をも詠んでいる。

  わが禁酒破れ衣となりにけりさしてもらはうついでもらはう

 酒に目のない彼は、さらに次の漢詩で独酌の楽しみを吟じている。

 花の酒は瓢箪、月の酒は徳利に風情あり/雨の日の新酒、雪の夜は古酒独り飲みて興起こり/暖より冷を好むを、真の酒客というべし(読み下し) 

 

70 芸者は小万、狂歌ならおれ

──大田蜀山人

詩は詩仏

書は米庵に

狂歌乃公(おれ)

芸者小万に

料理八百善

&『日本奇談逸話大辞典』志村有弘・松本寧至編

*大田蜀山人=前項を参照。

山谷堀の花形芸者小万は、美貌と勇み肌に加え芸達者でもあったが、顔立ちが整いすぎて冷たい感じを客に与える。そのため人気が落ち始め、本人もそのことを気にしていた。たまたま料亭の八百善で同席の蜀山人に落ち目をボヤいたところ、蜀山は小満の三味線の胴裏へ掲出賛を書いて呈した。

文中「詩仏」は大窪詩仏、「米庵」は市川米庵、「乃公」は蜀山本人、それに小万、八百善と当代一流尽しだ。しかも文化人として高名な蜀山自筆の戯賛だけに価値がある。小万の身にもハクが付いて人気回復、目出度しメデタシとなった。

この時代、自分を出す場合は卑下するのが謙譲の美徳でる。しかし蜀山人つまり四方赤良は、あえて「狂歌なら俺は一流」と広言して示したのである。それも一流とは一言も書かずにさらりと流した。さすが文筆の戯れにかけては大家だけあって、嫌味もケレンも感じさせない自己宣伝である。

 蜀山人は八百善で文人らとよく会食した。図では右端が蜀山人

 

71 相合傘で隅田川の土手を行くお二人さん

「相合傘」とは、訳ありの男女が一つ傘に寄り添って道を行く風情をいう。転じて、開いた唐傘の柄の両脇に男女の名前を書き込むいたずら書きへと意味が移った。これを絵画用語で「帆書」という。「相思傘」ともいう。

 すでに出来た仲の二人をはじめ、男女のペアをからかう落書きなどに人気がある。あるいは「相合傘・浮名・三囲神社」のネタで三題話も作れよう。

 江戸生(えどうまれ)(うわ)(きの)(かば)(やき)』より山東京伝作・画〕 俳人其角の雨乞い発句で知られた向島・三囲(みめぐり)神社前の風情。艶二郎にはいわゆる伝家の京伝鼻が描かれ、しどけた女の腰巻と同様にだらしなく浮名の褌を垂らし歩きしている。

 

72 わしが寝ころぶのを見たければ風邪を引いたとき

──横綱、谷風

わしを土俵の上で倒すことは誰にもできまい。わしが寝ころんだのを見たければ、風邪でも引いて寝ている時に来るがよい。  

巷間伝承

谷風梶之助(たにかぜかじのすけ)(175095)は江戸後期の力士、第四代横綱。強い相撲取りの代名詞にまでなった。

 谷風の錦絵

谷風は陸奥国宮城郡霞目村(現仙台市)の農夫出身。江戸力士の関ノ戸憶右衛門(二代伊勢ノ海)の仙台巡業中に見出され、十九歳で深川八幡興行の初土俵を踏む。寛政元年、三十九歳のとき横綱免許を得て、名目上は第四代、実質上は初代の横綱となった(初代~三代は架空人物)。身長一八九センチ、体重一六九キロのアンコ型大兵。

 とにかく強い力士であった。七場所連続無敗の記録が二回あり、講談などで語り継がれ、錦絵や肖像画に描かれる人気者であった。

彼が掲出のことばを吐いたため、当時の流感を「谷風邪」と呼ぶようになった、との俗説は疑わしい。後世人のデッチあげだろう。むしろ寛政七年正月大流行のインフルエンザがもとで彼が死亡したことから、谷風邪と名付けられたというのが真実だろう。

好敵手の小野川が谷風を倒したとき、四方赤良はこう狂詠している。

  谷風は負けた負けたと小野川がかつをよりねの高いとり沙汰

 

73 夫婦仲よく三度くう飯

──花道つらね

たのしみは春の桜に秋の月

     夫婦中よく三度くふめし

&『万歳狂歌集』巻十三

花道つらねという狂号は、高名な歌舞伎役者五代目市川団十郎(17411806)のもの。別号を白猿、また三升の俳名でも知られる。天明狂壇では堺町連の中核として活躍し、四方赤良(大田南畝)らとも親交が厚かった。

 『古今狂歌袋・後編』を飾る花道つらね 

 本書収載の数ある殺し文句のなかで、最も風流かつ穏やかな内容だ。一読して何の変哲もない狂歌だが、「春の桜に秋の月」という風雅の道をとらえ、夫婦そろって三度三度の飯が食えることへの小市民的な感謝の気持ちが込められている。

 

74 女郎買いたい、一体好色

  ──婆訶那(ばかな)国道(こくど)()法師(ぼうし)

   &『仏説阿保多羅経狂作天口斎編撰』  

♪女郎買いたい、一体好色、全体野良、皆これ幼少から、育ちが悪いから、小便垂りや、可哀相に、(ばば)すりや、可憐(いとんぼ)に、(はな)()りや、(ねず)り込み、つまみ食いや、買い食らいは、年中年百(ねんびやく)、商売同然、それから、段々こうじ、小遣(こづかい)(ぜに)や、端銭(はしたぜに)は、常住不断、ひっ掛けちょい掛け、くすね込み、御法度の穴一(あないち)、六道、宝引(ほうびき)、ばっかりして、終いにゃ、喧嘩口論、近所町内、友達が、どやどや出て失せ、おらが(どたま)、叩いたぜ、ど突いたぜ、堪忍ならん、料簡せんぞ、何じゃかんじゃと言ふてうせ、さりとは困りいり、親達も、ほっこりして、寺屋へ追いやれば、手習いは、さらさいで、ど(たま)ばっかり掻いておる、そのくせ、()()で、しゃっ(つら)まで、真っ黒けに、ちぎるような、(あお)(ばな)垂れ、牛のような、(よだれ)()り、さすがの、親衆も愛想も小想(こそう)も、尽き果て、為事(しよこと)なしに、奉公さしや、夜尿(よばり)こき、盗み食いで、三日目や、四日目に、ぽい出され、行先や、さんざん骨灰(こつぱい)、方々遍歴、うろうろするうち、どうやらこうやらありつき、ほどなく、元服して、半年ほど、辛抱すりゃ、味噌汁がすっ天辺(てつぺん)へ、飛び上がり、それから、城の馬場(ばんば)浜々(はまばま)(そう)()夜発(やほつ)(つじ)(ぎみ)様々(さまざま)、修業して、密屋(こそや)へはまり込み、まず最初編笠、梅ケ枝、勝曼坂(しよまんざか)、髭剃り、難波(なんば)新地(じんち)、引っ張り込み、尼寺、馬場先(ばばさき)、茶屋小屋、踏み倒し、彼方(あちや)から催促すりゃ、盆屋(ぼんや)からねだり込み、親方、これを聞いて、おおきに立腹、にわかに、帳面見りゃ、十両ほどだだぼだ、請人を、早々呼んで、右の次第、逐一語れば、請人は、驚き、惣々(そうぞう)顔を見合わして、びっくり、仰天、一言(いちごん)の申し訳、これなく、謝りて、ど()めを、引っ立て帰り、この由、告ぐれば、親さえ愛想尽き、着のままで、勘当する、一家(いつけ)親類、さっぱり義絶、友達の、(とこ)いでも、鼻の先で、挨拶する、(かか)までが、同じように、面付(つらつき)が、とんと()うない、時分でも、茶漬一杯、食わんかと、()かさず、彼方(あつちや)向いて、()イでも大事無い、事ばかり、まごまごして居や、取り付く島さえ、手持ち無くうじうじしおしお、早々(そうそう)、出て、彼方(あつちや)()ても、此方(こちや)()ても、何処(どこ)()てもいっこう益体(やくたい)、さすがのどさ()も、はじめて思い知り、詮方(せんかた)尽き、長町(ながまち)のぐれ宿(やど)い、はまり込み、(かん)のうち、真っ裸で、三日ほど、米踏みや、脚気(かつけ)踏出し、油()めに、()てみりゃ、けんぺき、風邪引いて失せ、揚句にゃ、皮癬(ひぜん)掻いて、おどもりや、(かん)()病んで、骨々(ほねぼね)疼き回り、夜も昼もうんうん、きやきや言うてばっかり、食らい(もん)も、()食らわず、宿銭も無ければ、宿屋から、叩き出す、うろうろきょろきょろ、小便さえ、出かねて、涙ばかり、こぼして、ちんばひいたり、いざったり、みなこれ、心から、五尺の体が、いまさら、邪魔になって、死ぬるのもいやなり、僭上(せんじよう)詰まり、橋の上に、米俵一枚着て、永々煩いました、一銭二銭御報謝(ごほうしや)と、吠え(づら)構えて、御助けなされて、下三貘三、(ぼん)(ない) 

  これをまとめた戯作者が「訳」としてはいるが、きわめて読みづらい。現代表記の必要から、荻生があえて改変。京阪地方の生のままの俗語がたくさん使ってあるのにも注目したい。この例はかなりの長文ではあるが、人一倍記憶力に優れた彼ら盲目の法師ら、この程度の詞章の暗記はまったく苦にしないという。

 江戸時代の願人坊主

 

75 顔を正しなさい。女は笑うものではありません。

──古賀精里

婦人の大笑するときは、(おもて)を正して女は笑ふものに非ず、また、外出せんとする時は、女は外に出るものに非ず。

&『想古録』二九九条、山田三川編

古賀(こが)精里(せいり)(17501817)は江戸後期の儒学者で、寛政三博士の一人。

いかにも謹厳実直な道学者先生の垂訓だ。

が、こんな注文をつけられて女性は生きていけない、とは今日的感覚での反論である。平塚らいてう女史が「元始、女性は太陽であつた」とのたまうまで、女たちは男に絶対的服従を強いられる従属関係にあった。

精里の婦訓程度の事、昔は女のたしなみとして常識であった。貝原益軒の『女大学』はじめ各種の婦女(きん)(もう)書では、女の行動規範を微に入り細にわたって律している。なかには「房事の最中、いかに快感を覚えようと春叫(よがり)をあげてはならない」とか「夫の死に際に、望まれたら共に死ぬのが婦の道である」といった残酷な心得すら見られる。

今日日(きようび)、この類の事を口にするだけで、女性蔑視だ男女差別だと噛みつかれてしまう。「このオカチメンコめ」と口を滑らせただけで、セクハラよ、と訴えられるご時世だ。野郎共にとつて、じつに住みにくい時代になったもの。若い男子が中性化しているのも、むべなるかな。

 その名も婦道神社は東大阪市上石切町に鎮座し、弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)を祭神とする。