江戸時代2

 

 

 76 南無阿弥陀ぶつとしずんで浮びけり

──永代橋崩落の落首

▽身延から七面堂ノ祖師が来て永代落てだゝぶだぶ〳〵

▽南無阿弥陀ぶつとしづんで浮ミけり橋より落た水しらぬ人

▽永代の咄しのたねの御祭りやだしはとんちき内はらんちき

&『藤岡屋日記』第二(文化四年)

文化四(1807)年八月十九日、江戸の大川(隅田川)に架かる永代橋が群衆の重みに耐えかね崩落するという事件が起こった。

おりしも雨で延びのびになっていた花火に黒山のような見物人が押しかけ、橋上は立錐の余地がない。そこへ将軍家親戚の一橋民部の行列がさしかかり、どけ、どかぬの騒ぎ。最中ついに橋げたが折れ、溺死者四百四十人を出したと記録にある。

掲出の三首はこの事件を扱った落首から抄出したものである。揃って他人の不孝を面白おかしくあげつらった嫌味な落首だ。読み手が顔をしかめてしまう低級な駄作ばかりである。

落首は本来、庶民の味方に立って社会の不条理を批判し、読む人に同感の念を呼び起こすべきもの。そこには江戸っ子が求めてやまぬ侠気(おとこぎ)が通ってしかるべきだ。右の落首どもはその期待を踏みにじってしまった。落首は総じて詠み人知らずが常道だが、だからといって無責任に、野放図に詠んでいいというものではない。

 永代橋崩落の有様

 

77 歌よみは下手こそよけれ

──宿屋飯盛

歌よみは下手こそよけれ天地(あめつち)

     動き(いだ)してたまるものか

&『狂歌才蔵(さいぞう)集』巻十二、四方赤良編

宿屋(やどやの)飯盛(めしもり)(15731830)は江戸後期の狂歌師。国学者石川雅望の狂号である。

『古今集』仮名序に「力も入れずして天地を動かし目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと…」と、選者紀貫之(きのつらゆき)和歌賛した一文がある。古今集といえば最初にまれた勅撰和歌集であり、格式の点で古典歌集随一の存在だ

 この序文を飯盛は「歌詠みは下手でちょうどよい。なまじ上手に詠んで天地が動き出したりしたらたまらない」と、冷やかした。この狂詠の主自身がよくなかった。飯盛は狂名にすぎず、じつは和漢の書に精通した市井の国学者(職業は旅籠屋の主人)として名を馳せた、石川(まさ)(もち)その人であったからだ

 石川雅望像 

この歌を目にした高名な国学者の平田(ひらた)(あつ)(たね)は激怒し、「歌道の神聖を侮辱するものであると非難した。ところが庶民感覚のほうは、面白がって狂歌師の肩をもったのである。篤胤先生の憤慨は空振りに終わり、飯盛の名前と作品は、以前にも増して高まったという。世の中、はからずも瓢箪から駒を出してくれたのである。

 

78 「この世のお名残 」に一言

──鶴屋南北

さて私事もとより老衰に及びますれば、皆様のご機嫌をも損なわぬうち、早よう冥土へ趣けと、これまでたびたび(ほとけ)菩薩(ぼさつ)の霊夢をりますれど、さすがは凡夫のあさましさに、たつて御辞退仕りますれど、定業(じようごう)しがたく、是非なく彼地(かのち)へ趣きますれば、にこれがこの世のお名残…

&寂光門松後万歳(しでのかどまつごまんざい)』鶴屋南北作の歌舞伎台本

鶴屋(つるや)南北(なんぼく)〔四代目〕(17551829)は江戸後期の歌舞伎作者。舞台構成の奇想と扇情的作風で鳴らす。

普通鶴屋南北というのは四代目をさす。三代目までは役者、五代目は「孫太郎南北」と呼ぶ。その四代目が掲出の自作台本中で自分の出棺と葬式の段取りを折り込んで、観客の度胆を抜いたのである。

代表作『東海道四谷怪談』や『天竺(てんじく)(とく)兵衛(べえ)(からくに)(ばなし)』で知られる南北は、奇抜な着想で舞台の演出効果を高め、見物客を大入りにする才能に長じていた。この台詞も発表と同時にたちまち江戸中の評判となり、棺()し物見たさに(みやこ)座に通う客も少なくない。

 鶴屋南北作の『東海道四谷怪談』より

客にすれば自分の冥土行きだと「縁起でもねえ」と青筋立てるが、他人の亡霊狂言ならゼニ払ってでも見たい。そんな野次馬根性を南北は見抜いて、揺さぶりをかけた。折もおり、こんな落首が現れた。

  都座に過ぎたるものが二ツあり延寿太夫に鶴屋南北

南北は棺桶挨拶をしてから十九年目に不帰の客に。台本(ほん)の面白さで観客を飽きさせない、プロ中のプロであった。

 

79 しわがよるほくろができる腰曲がる

──仙崖義梵

しわがよるほくろがでける腰曲がる 頭がはげるひげ白くなる

手は振るう足はよろつく歯は抜ける 耳は聞えず眼はうとくなる

身に添うは頭巾襟巻杖目鏡 たんぽおんじやくしゆびん孫の手

聞きたがる死にとむながる淋しがる 心は曲がる欲深くなる

くどくなる気短かになる愚痴になる 出しやばりたがる世話やきたがる

又しても同じ話に子を誉める 達者自慢に人はいやがる   

仙崖義梵(せんがいぎぼん)(17501837)は江戸後期の臨済宗妙心寺派の僧。

 仙崖義梵「老人六歌仙」の原画

 老いの醜さを絵になる戯歌に詠んでいる。それも態を変えること六度、六種の模様替え構成とした集だ。老いた者は身につまされる。若い人は、こんな年寄りにはなりたくないと心底思うことだろう。

まず第一歌で老化の特徴を列挙して導入を図り、第二歌へと引き継ぐ。第三歌で老人必携具を歌い、第四歌では老境心理を巧みに描写、その結果の精神的老残を第五歌で表現。そして第六歌、「達者自慢に人はいやがる」などは高齢化社会を皮肉っているような、心憎いばかりの結びである。六首のうち一首が欠けても「画竜点睛(がりようてんせい)を欠く」という出来ばえだ

 仙崖義梵は「西の一休さん」と呼ばれた高名な禅師である。諸国修行の後筑前博多の聖福寺住持となり、独特の水墨画で禅の悟りを描いてみせた。つまり掲出の戯歌と同様に、抽象的になりがちな内容のものを、わかりやすく具体的に表現する技法が得意であった。義梵の作品はいまも同寺に保存されているという。

 

80 坊ちゃん嬢ちゃん、飴買ってちょうだい

──江戸の飴売り唄

念仏飴売り

♪京の女郎に、吉原のはりをもたせて、長崎の衣裳でたちて、大坂の揚屋で遊ぶ夢を見た。あまいだ〳〵。いざ子供衆、合点か〳〵、かはしたまへ。

&職人尽(しよくにんづくし)絵詞(えことば)』山東京伝画文

山東(さんとう)京伝(きようでん)(17611816)は江戸後期の戯作者・浮世絵師。黄表紙作者としても活躍。

 詞の内容が幼児の理解の度を超えていて、飴屋が実際こんな口上で子供たちを集めたとは思えない。あるいは京伝の得意とする絵詞戯作の上での創作だろうか。

江戸の風俗文献を渉猟すると、飴売りとその商い口上が多いのに驚かされる。たとえば土手飴、お駒飴売り、唐人飴ホロホロ、飴の曲吹き、ヨカヨカ飴、飴売り取替(とつかえ)(べえ)など百出の賑やかさ。なかでも演出の奇抜さで知られた「お万が飴売り」もで色事を教えている。

 ♪可愛けりやこそ神田から通ふ。憎うて神田から通はりよか。お万が飴ぢやに一ツてふが四文じや。(『江戸行商百姿』花咲一男著)

この飴売りは女装で、百文以上買う客がいると右の詞を歌って踊ったという。

昔の子供らがマセてしまうのもうなずける。井戸端ではかみさん連が艶話(つやばなし)付け物売りがいかがわしいや歌を放吟する。夜は夜で(チヤン)(カア)字崩しが始まる。いやでも大人の世界がおっかぶさってきた。

 お万が飴売り

 

81 へへへへへ へへへへへへへ

──加保茶元成

へへへへへ へゝゝゝゝゝゝ へゝゝゝゝ 

へゝゝゝゝゝゝ へゝゝゝゝゝゝ      

&(とく)和歌後万載(わかごまんざい)集』四方(よもの)(あか)()

加保茶元成(かぼちやのもとなり)(?~1828)は天明狂歌師の一人で、江戸吉原の妓楼主。

掲出狂歌の詞書(ことばがき)に「ある人の放屁しけるをかたへの人わらふあまりに回文の歌よめといひければ」と、他人のプー調法に悪乗りした体を装っている。たしかに上から読んでもからんでも同じ音になる回文ではるが、出来は「なァんだ」程度のもの。コロンブスの卵ではないが発想の奇抜さだけが取柄といえる。

加保茶元成 絵師未詳 四代続いており初代を加保茶市兵衛といった。

 元成には、回文ではないがほかに似たような歌、  

(もも)ももも又桃ももも(もも)ももも百桃股(もももももも)の文字もこもごも

これまたユニークな作である。言葉遊びもここまで徹底するとほほえましくなる。

ところで元成の妻も木綿子(ゆうし)と号する女流狂歌師。二人は吉原で大文字屋楼を経営するかたわら狂歌作りにいそしんだ。ほかにおしどり狂歌師としては、元木網(もとのもくあみ)知恵(ちえの)内子(ないし)朱楽管(あけらかんこう)節松嫁々(ふしまつのかか)棟上(むねあげの)高見(たかみ)(あか)(じみの)衣紋(えもん)らがいる。

この人たちの狂号だけでも愉快になるが、作品群の扉を開けてみると、驚天動地の笑いの世界が待っている。

 

82 ホラも飲ませる千住の大酒飲会

──『藤岡屋日記』文化十二(1815)年十

  月二十一日、第三より現代語訳

千住一丁目の中屋六右衛門宅で還暦祝いの賀酒飲みくらべが催された。

酒三升五合飲む 新吉原仲の町 伊勢屋言慶 六十二歳/同四升余り 馬喰町 大坂屋長兵衛四十歳/同四升五合 千住掃部宿 市兵衛 一升五合入り万寿無量の杯に三杯飲む/同九升一合 千住宿 松勘 五合入りの厳島、七合入りの鎌倉、九合入りの江ノ島、一升五合入りの万寿無量、二升五合入りの緑毛の亀、三升入りの丹頂鶴、すべてを飲む/同七升五合 下野小山宿 佐兵衛/小杯にて数飲み、その後万寿無量で飲む。 吉原仲の町 大野屋茂兵衛/同三升 御蔵前森田町出入 左官正太/万寿で飲む 千住掃部宿 石屋市兵衛/水三升・醤油一升・酢一升・酒一升、大門長次郎 合わせて四升を三味線で拍子をとりながら飲む(*後略)

この席には亀田鵬斎・谷写山などなどが招かれ見物した。これを「新酒戦水鳥記」という。大田蜀山人はこのことを聞き狂歌を詠んだ。詞書(ことばがき)ともども紹介すると、

  地黄坊樽次と池上某と酒の戦ひせしは慶安二年のことニなん、今年千寿の和たり、中六ぬし六十の賀に酒戦を催せしときゝて、

 よろこびのやすきといへる年の名を

 本卦がゑりの酒にこそくめ(*後略)

 『後水鳥記』の挿絵

 史料等で「千住の酒合戦」と喧伝されている催しである。蜀山人自ら著作『一話

一言』中で実際に見聞した記事「後水鳥記」を書いている。ほかにも平秩東作らの

見聞記がいくつもあり、さらにかわら板等でも伝えられている。

 しかし、そのいずれもが内容に食い違いが見える。たとえば、蜀山人が出席した

かどうかはさておいても、肝心の飲酒成績が、出典によりかなり異なっている。ま

た、主催者・中屋六右衛門は六十賀(還暦)ではなく七十賀(古希)の時、とする異

説もあるなど、史料による内容の食い違いが目立つ。したがって、研究者間でこの

酒飲会記録に対する信頼性はかなり低い。

 なお『酒大学林』に関連事項を詳しく述べてある。

 

83 晴 夫婦で月見 晩に三回戦

──小林一茶

 (筆注=文化十三年正月)二十一 晴 墓詣 夜雪 交合/(筆注=同年八月)六 晴 巳刻雨 

キク月水 弁天詣/七 晴 (中略)菊女赤川ニ入/八 晴 菊女帰ル 夜五交合/十二 晴 夜三交/十五 晴 婦夫月見 三交/十六 晴 (中略)三交/十七 晴 墓詣 夜三交/十八 晴 夜三交/十九 晴 三交/二十 晴 三交/二十一 晴(中略)四交

&『七番日記』文化十三年、小林一茶記

*小林一茶(17631827)は江戸後期の信州を拠点とした俳人。庶民派の朴訥な作風でしられる。

文化十三年というと一茶五十四歳の年、それが三十歳の妻と若者も真っ青、爬虫類かと思うような房事ご多忙である。妻のお菊さんが生理で致せずじまいの八月六日から三日ぶりに抱いた夜など、五回戦に及んだと!さすがに九日~十一日の三日間は休戦したものの、十五日からは続けて七日間、日に三交は果たすという性豪ぶりだ。なんとも生臭い匂いのプンプンする日記である。

 一茶句碑「大それた 花火の音も 祭哉」一茶『七番日記』より〔長野県信濃町・落合神社〕

一茶はなぜ女体抱擁に邁進したか。二つの理由が伝えられている。一つ、彼は思春期以降の四十年間、女体に飢え続けてきた。それが自分の自由にできる妻を得て一挙に爆発した。もう一つは、老いのため早く子宝を得たかった。そこで強精剤のご厄介になるという涙ぐましい努力までしている。二年ほどのち菊女はやっと懐妊する。数撃ちが過ぎ精が薄れてしまったのも確かであろう。

この日記を初めて読んだとき、一茶の温和な俳風との差異に、禁断の閨房を覗き見したような感じで失笑がこぼれた。

 

84 あっ冷たい、体中がベトベトする

──歌川豊国の春画

かうなれば仏でもゆうれいでもこたえられぬ。…これさ、きつなよ。おめへにやとふからほれていたヨ。アッつめてへ……なんだか体中がべと〳〵する。

&逢夜鳫(あうよかり)の声歌川豊国画文

歌川(うたがわ)豊国(とよくに)〔初代〕(17691825)は江戸後期の浮世絵師。歌川派を打ち立てた。

いかつい葬式人夫が、生前目をつけていた美しい娘の死体を湯灌場で素裸にし、思いを遂げながら(むくろ)に語りかけるである。絵筆ともに達者な売れっ子の豊国が、趣向を凝らして描いた春画の一枚だ

このような屍姦(ネクロフイリア)シーンは(あぶな)()でも売れ筋だから、絵師たちがって手がけ、行している。たとえば『栄花二代男』では坊主が潅頂を装っての屍姦、『通ぞく堪鹿軍団』ではこれも坊主が遊女の死体を姦淫、近代では伊藤晴雨の坊主が墓地で新仏(にいほとけ)の娘を掘り出しているの図美女を助平坊主や隠亡(おんぼう)が犯すという凄愴なモチーフは、描くほうも見るほうも、人間のしい好奇心を満足させるものらしい

出典『逢夜鳫の声』は、他にも三人の男を相手にする淫乱後家、下毛の手入れをする宿場女郎、一物を起立させつつ女湯を覗く中間、間夫(まぶ)が芸者の内股に彫り物をしているなど、ご馳走絵の画集になっているで、この書名からして「アウッ()がりの声

 『逢夜鳫の声』うちの一点

 

85 ちょぼくれちょんがれ

──二世桜田治助

♪やれどらが如来 やれ ヨウヤレ〳〵〳〵〳〵 ちよぼくれちよんがれ そも〳〵私ちが すつぺらぽんの のつぺらぽんの すつぺらぼんと ぼうずになつたいわれ因縁 聞いてもくんねえ しかも十四のその春初めて 一軒隣のそのまた隣の いつちくたつちく太右衛門どんの おんばさんとちよぼくれ 色のいの字の味を覚えて 裏のかみさん 向こうのおばさん お松さんにお竹さん 椎茸さんに干瓢さんと 触り次第に おててん枕でやつた揚句が 女郎と出かけて ヤレ〳〵畜生め そこらでやらかせ…

&常磐津、二世桜田治助作「うかれ坊主」

桜田(さくらだ)()(すけ)〔二世〕(17681829)は江戸後期の歌舞伎台本作者。

「うかれ坊主」の原曲は文化八年三月、市村座で三代目坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)大切所(おおぎりしよ)作事(さごと)「七枚続花の絵姿」の七変化一場面として踊ったもの。後世、昭和四年月に代目尾上菊五郎が歌舞伎座公演のため清元に直している

舞台は江戸の賑わう往来。薄物を身にまとっただけの願人坊主が門前の天水桶の陰から現れ、手桶片手に踊りだす。そのとき掲出詞を口ずさむ。(しも)ったを早口でまくして、人だかりからを恵んでもらう

珍妙なこの詞は、当時流行の「チョボクレ」と「まぜこぜ節」という二つの俗謡を一緒にした滑稽語りである。坊主の瓢軽(ひようきん)な踊とあいまって、集った見物人を哄笑さそった。

往時の願人坊主や門付芸人などは、若い自分にさんざん道楽したあげく身を持ち崩した者が少なくなかった。乞食坊主に身を落としても、俗ッ気が抜けきれないでいる。「うかれ坊主」は、そうした下層社会に生活する者の体臭をよく伝えている。

 

86 寄ってらっしゃい、ぽちゃぽちゃのお千代だよ

──舟饅頭の呼び込み

エンお千代ォ、寄つていきねいなァ、こう、ぽちや〳〵のお千代ォ、だによォ、こう、そこに立つてると、辻番から棒が出るによォ、こう、雨が降るか風が吹けばの、永久橋の下へ付けるわなァ、こう、寄つていきねいなァ、こう、ぽちや〳〵のお千代ォ

&只今御笑(ただいまおわらい)(ぐさ)』二世 瀬川如犀(せがわじよこう)

この世の地獄に身を沈めた女の絶唱を聞くようである。肌から異様な臭気が立ち上り、鼻が梅毒で欠けはじめた「ぽちや〳〵のお千代ォ」に、業を負った娼婦の必死の叫びが込められている。

江戸は大川(隅田川)筋。饅頭(まんじゆう)を売る名目で小に乗り、その実相手の船に乗り移って春をひさぐ「(ふな)饅頭(まんじゆう)」という私娼がいた。その一群の中にお千代という美女がて有名になり、彼女の名が舟売女(ふなばいた)の総称にまでなった

 吉原の太鼓持が演じたお千代船

 明和頃お千代舟の相場は三十二文程度、夜鷹よりいくらかましな下饅頭売りの、最下級娼婦であった。古川柳にも、

 お千代舟沖までこぐは馴染なり

とあり、商売気質を示している。大川は中洲脇の永久橋 (永代橋)辺から客を拾い、中州一周で事を済ますのが定番コース。これも馴染客だと船頭に沖までこがせて時間延長し、たっぷりサービスしたという。

 お千代舟苫をしき寝のかぢ枕

 

87 京の人、都言葉と自慢が可笑

──江戸小唄

♪京の人 (みやこ)言葉と自慢が可笑(おか)し 男のくせに何ぢややら そうじやさかいの 行きんかの けたいな奴じやほておけの すこい小僧よと生ぬるく 女なりけり都鳥 ありやなしやの隅田川 洗つてみたい江戸の水

&『小唄江戸散歩』平山建編著

江戸者のこのおちゃらかしに、京の人はこんな詞で応酬している。

♪江戸の人 (あづま)言葉と自慢が可笑し 女子(をなご)くせに何ぢややら 馬鹿な(つら)だのべらぼうだの 頓馬(とんま)間抜が洒落(しやれ)るなど 面見やがれとはしたなく 男なりけり(とり)がなく 東言葉を今日加茂川で 洗ってみたいの水(出典は掲出に同じ)

おそらく同一人物の作であろう、小唄同士の応酬というのもめずらしい。

昔は東西の土地柄や気質が、今と比べはるかに対極の特徴を見せていた。引用二例の場合は、小唄によって東西の言葉の相違を浮き出させている。江戸から京坂へ往復するにも水杯を交わした時代のこと、各国のお国柄が他国者の興味を引いた。西と東といえば、こんな小唄もある。

♪さるほどに これまた西行の坊様が 富士の白肌眺めんと 風呂敷背負つて杖ついて笠きて 西へ行くべき西行が 何故に東へ下らんす

 往時、江戸小唄で知られた市丸姐さん。ルーサイトギャラリーのホームページより

 

88 コレさむらい、何もこわい事アねえ

──大道薬売り口上

江州とりえ元の宿ク、あり川市兵へ、うそときよごんを云ハぬ。なんでもかでもまん病にきく、別してたんせきの根ヲきる。此ねりやく、是ほどヅゝハ振廻ウ、なめて見さつしやい。コレさむらい、どくじやあねヱによ、何もこわエ事アねヱ。サア子供は此薬を(けつ)る、師しょう様からけつヲとられていたくねえ、サア銭があらばかわつしやれ、ぜにがなくばこんど御ざい、鳥居がかんばんじや。

&『風流浮世くらべ』風落著山人(ふらつきさんじん)

古今東西、薬売りは大道商売の主流を占め、ありとあらゆる種類の売薬が現れては消えた。クスリと称してもわけのわからない調合物、それを原価の九層倍どころか数十倍の値で売る、泥棒のような商売である。

有名なところでは、次の「陣中膏ガマのあぶら売り」が、調子のよい口上で知られている。

……このあぶらをしぼるには四面に鏡を張り、下へ金網をしいた箱の中にこのガマを入れる。ガマは鏡に写るおのれの姿におのれと驚き、タラーリ、タラーリとあぶら汗を流す。……

 筑波山名物の蝦蟇の油祀り(現代)

「神教丸」なるものも江戸に出現したいかがわしい売薬である。売詞(タンカバイ)もひどいもので、まず「まん病にきく」と誇大宣伝している。浪人者崩れの薬屋とはいえ見物の武士になめた口の利き方をしている。気の強い相手だったら一刀両断だ。子供を相手に、(しゆ)(どう)稚児(ちご)でもあるかの伝法を告げる。子供に聞かれ親は困る。毒にこそなれ薬にならない口上だ。

 

89 女同士夫婦の如く抱きあい… 

──天狗小僧寅吉談

○問いていわく 女島はここよりいずれの方にある国にて、その国のありさまはいかにありしぞ/寅吉いわく 女島は日本より海上四百里ばかりの東方にあり。(中略)さて女ばかりの国ゆえに男を欲しがり、もし漂着する男あれば、みなみな内寄りて食うよしなり。懐妊するには、笹葉を束ねたるをおのおの手に持ちて、西の方に向い拝し、女同士互に夫婦の如く抱きあいて(はら)むよしなり。ただし、たいていそのときはきまりありとぞ。この国に十日ばかりも隠れいて様子を見たりしなり。

&仙境(せんきよう)異聞(いぶん)上・二巻、平田篤胤筆

平田(ひらた)(あつ)(たね)(17761843)は江戸後期の国学者。実践的神道思想を体系化した。

  文政三年秋、天狗小僧寅吉という超能力を持つ十五歳の少年が江戸中の評判になった。寅吉は失せ物探しや富くじの番号を次つぎに当てて注目された。篤胤はじめ山崎美成(よししげ)佐藤信淵(のぶひろ)といった学識者までがならぬ興味を抱いた篤胤は国学仲間の屋代(やしろ)(りん)()に誘われ美の住いを訪れ、使いを出して評判の寅吉を呼び出した。そのおりの問答記録集が『仙境異聞』である

内容は俗界を離れた感霊異境の見聞という触れ込み。たとえば女の霊の行方、仙人の年齢の数え方、金毘羅様の実名、夜の国の事などについて質問し、寅吉が丁寧に答えている。

 この本をざっと拾い読みしてみたが、言っていることは荒唐無稽の域を出ない。ただし、十五歳の少年とは思えない体験知識が少なからず盛り込まれている。その異能(オカルト)ぶりに当代のインテリ連が振り回され、感じ入って記録にとどめている点が今つ納得いかず、創られた神がかりの感を強めた

 

90 重ねた罪の重さ、恐れ入ります

──鼠小僧次郎吉

私儀十年以前巳年以来、処々武家屋敷二十八ケ所、度数三十二度、塀を乗り越え又は通用門より紛れ入り、長局(ながつぼね)(おく)(むき)へ忍び入り、(中略)凡そ金高三千百二十一両二分、銭九貫二百六十文、銀四匁三分のうち、古金五両、銭七百文は取り捨て、其余は残らず酒食遊興、又は博打を渡世同様に致し、在方処へも持参、残らず使ひ捨て候始末、重々不届至極の段恐れ入り奉り候 以上

&四代目石川(はじめ)口演「講談 鼠小僧」口書

(ねずみ)小僧(こぞう)次郎(じろ)(きち)(?~1832)江戸後期の盗賊。小説・戯曲などの題材に。

鼠小僧を義賊にデッチあげたのは後世作家の罪である。大衆の心情におもねるため、鼠小僧は大名屋敷や富商から盗んだ大金を貧民に分かち与えた、として描かれた。しかし事実は掲出のとおりで、盗んだ金はすべて自分の遊興に注ぎ込んだ、ケチな悪党であった。

 石川一の講談は、鼠小僧のありのままの姿を粉飾せずに口演した点で好感がもてる。しかも『御仕置類例集』など公的な記録資料を挿入して事実を固めているところなど、講談師らしからぬ良心的態度といえる。

 今なお削られ続ける鼠小僧の墓石

次郎吉は天保二年八月十二日に斬首の刑に処せられたあと、千住小塚ッ原で三日間晒され、両国の回向院(えこういん)に葬られた。ここの墓地の石碑は俗に「鼠塚」と呼ばれるようになり、その石碑のカケラを持っていると勝負事のツキが回ってくる、という噂がた。そのため石碑を欠き取って持ち去る者が絶えず、寺では碑を何度も建て替えたという。この盗人は賭け事の因習まで後世汚点残した。

 

91 詩を作らざる者は野卑なり

──広瀬淡窓

吾子試ニ読書ノ人ノ中ニ於テ、詩ヲ作ル人ト、詩ヲ好マザル人ト、異ナル所アルヲ見ルベシ。詩ヲ作ル人ハ温潤ナリ、詩ヲ好マザル人ハ刻薄ナリ、詩ヲ作ル者ハ通達ナリ、詩ヲ作ラザル者ハ偏僻ナリ、詩ヲ作ル者ハ文雅ナリ、詩ヲ作ラザル者ハ野卑ナリ。

&(たん)(そう)詩話(しわ)』広瀬淡窓筆 

広瀬淡窓(ひろせたんそう)(17821856)江戸後期の儒学者・漢詩人。塾舎(かん)()を創設。

 広瀬淡窓像

淡窓は咸宜園で師と仰ぐ者三千人を育てた。彼、十二歳にして太宰府の菅廟に謁し、七律一首を賦す。その作を一読した尾張公の儒臣紀平洲(きのへいしゆう)は、「七十未だ世上此の天才あるを聞かず」と激賞した。儒門において名をしただけでなく、漢詩文にも天賦を示した人であった

 その淡窓が主張する掲出の詩話に接したとき、たいていの人は首をかしげ、がっかりさせられるにちがいない。内容が独善にすぎ、偏僻かつ次元が低いからだ。詩ヲ作ラザル者ハ人ニ非ズとこき下ろされているようで、不愉快ですらある。淡窓はその見解の根拠ぐらい示すべきであった。理由もなく詩人独尊を(うた)ったところで、健常思考の人から、偏屈な狂人扱いされるのがオチである

彼が言いたいのは詰まるところ、詩心をもちなさい、であろう。しかしそれすら、詩に関心のない者には現実知らずの寝言に聞こえる。世の中、言動一にした高邁な人にはなかなかめぐり会えないものだ。

 

92 大嫌い仏坊主に薩摩芋

──藤田東湖

大嫌ひ仏坊主に薩摩芋

     のらくら者に利口ぶる人    

&松鶴楼(しようかくろう)筆談』作者未詳

藤田(ふじた)東湖(とうこ)(180655)は幕末の水戸藩士。水戸学の才子。

出典には次のようにある。

 藤田東湖ある年の良夜に、烈公(徳川(なり)(あき))宴を好文亭に開き給ひ、東湖を召され汝一首の和歌を詠ぜよとありければ、東湖臣誠に歌よむことを能せず。大嫌ひなりと申し上げしかば、公其大嫌ひを、和歌となさば如何と仰せあり。東湖とりあへず「──」とよみければ、公大に笑ひたまひ、予も亦これは大嫌ひなりと宣ひけるとなり。

文政十二年正月、新藩主斉昭を戴いた水戸藩では、士民に文武を奨励する新政をしいた。水戸学の創始者藤田幽谷(ゆうこく)の息である東湖も藩閣に列し敏腕を振るうことになる。掲出は烈公に拝謁したおりの逸話であるのことだ

東湖は漢詩もよくする豪傑肌で、学者にありがちな(おもね)りをせない。殿様の前でもメリハリをつけノーとはっきり言う男である。和歌嫌いを表明した東湖へ意地の悪い注文を出した藩侯に、胸のすくような(たわむ)れ歌を返し場を和らげている

 藤田東湖の銅像〔「幕末と明治の博物館」茨城県東茨城郡大洗町〕

 

93 じじいめが死ぬ、万歳々々

──鶴屋南北

 是なるお寺のゆかん場なんどは、武田の番匠飛騨ンの内匠(たくみ)が立たる所のゆかんばにて、一本の卒塔婆が一仏一体、誠に因果の守り神、二本のそとばが人面獣心、三本のそとばはおんば三途の川原に譬へンたり、四本のそとばで死かね申せば、五本のそとばでごほりや〳〵と痰が手伝ひ、六本のそとばが六字の名号、七本のそとばが八苦のくるしみ、九本のそとばが苦痛のお仕舞ひ、十本のそとばでじゞいがとふ〳〵ごねられけるは、誠にめでとうなられるん「ウンといふてたえられける、是からそろ〳〵万歳「ハアまんざい〳〵ヤレ万歳

&寂光(しでの)門松後(かどまつご)万歳(まんざい)鶴屋南北自作の死亡広告(一枚刷り)より文言

 代表作『東海道四谷怪談』で知られる鶴屋南北(17551829)は、奇抜な着想で舞台の演出効果を高め、客を大入りにする才をもつ歌舞伎作者であった。

 彼の葬儀は天保元 (1830)年正月に行われたが、そのさい弔問客に配られた『寂光(しでの)門松後(かどまつご)万歳(まんざい)』なる刷り物は、なんと目出たかるべき恵方万歳の文句を自分の往生にすり替えた捩りになっていた。

 この刷り物は、南北が生前すでに用意し、葬儀の参列者に手渡すように指示したものであるという。それにしても、新年早々なんとも面妖な万歳詞に出くわし、会葬の人々は多

分に面食らったことだろう。

こんな茶目っ気たっぷりな南北だけに、江戸っ子の受けは良く、次のような落首まで現れている。

 都座に過ぎたる物が二ツあり延寿太夫に鶴屋南北

 中央に立つ人物が鶴屋南北〔絵本『於染久松色讀販』〕

 

94 遊里通用の「ありんす言葉」でありんす

江戸時代に遊里・遊廓で遊女が使った業界独特の隠語を〈遊里詞〉が代表した。ほかに〈(くるわ)(ことば)〉〈遊里(さと)(なまり)〉〈遊里語(ゆうりご)〉〈遊女(ゆうじよ)(ことば)〉また〈ありんす(ことば)〉〈浮世(うきよ)(ことば)〉など別名異称がいくつもある。

 遊里詞については、庄司勝富編『北女閭(ほくじよろ)起原』が、

 すべて廓と(なずく)る所には、(さと)(なまり)とて外所と違ひたる詞あり、わきて武陽の北廓なる里語(さとことば)は、ひときは耳だちたる事多し、或老人のいへるは、爰なる里語は、いかなる遠国より来れる女にても、此詞を遣ふときは、(いなか)の訛りぬけて、元より居たる女と同じ事に聞ゆ、此意味を考へて、いひならしたる事也とぞ

と、遊里詞が必要に迫られて出来たものであることを傍証している。

 遊里詞のうち、たいていの(くるわ)同士が共用できたのが「あちき」「なんす」「ありんす」など一部の詞。他によく使われてるものに「ようす」「きいした」「じれつたふす」などがある。さらに例示にもあるように、廓世界だけで通じる隠語も考案され、言葉遊び的感覚を発揮しながら用いられた。遊里詞は天保期(183044)を境に衰微していき、明治時代にはほとんど死語化している。

 不思議な国のありんす 〔間向成嘘言吐図(まむきになつてうそをつくづ)、『ありんす国人の饒舌』十四傾城腹の内より、芝全交作、北尾重政画〕 この図は裏面のもう一枚と対になっており、ありんす言葉の特徴を引き出し見本版として皮肉っている。

 

95 超長魔羅の持ち主、見世物に

──藤岡屋由蔵

&『藤岡屋日記』天保六(1835)年閏七月、第十より現代語訳

村上大和守知行所、野州都賀郡池森村/百姓初五郎方に同居、山川検校弟子の按摩(あんま) 長悦 二十歳(茂吉郎の忰、盲人とのこと)/後見人 初五郎、元・次郎兵衛

仁木太郎知行所、同村、百姓 金兵衛/戸田長門守領分、同郡栃木町、百姓伝兵衛店 注次郎/同、喜七店香具師 紋次

長悦は人も知る知恵遅れですが、そのうえ眼病にかかり盲目になりました。同郡鹿沼宿の座頭(*剃髪した盲人をさす一般称)仲間に加わり、按摩の稽古に励み、叔父の初五郎方に寄宿していました。もともと病弱で何かと不自由なのに、陰茎肥大という奇病を患っています。

初五郎も甥を哀れんで村医に診てもらい、薬もあれこれ試しましたが、少しも効果がありません。十五、六歳になると、もう薬も効かないと断念。初五郎ある日、隣村へ用があり出かけたところ、留守中に長悦、男根をいじりますが、ナント引き伸ばすと(ひたい)(ぎわ)まで伸びるではありませんか。長悦自らすっかり仰天してしまい、初五郎が戻るとありのままを打ち明けました。

話におどろくまもなく、またまた長悦、こんどは初五郎の目の前で男根を引き伸ばして見せましたから、よくよく納得。そのときから長悦、たびたび伸ばしては見せびらかすようになりました。初五郎も困りはて、「長悦よ、魔羅延ばしはもういい加減に止めなさい。もし世間に知れたら事だよ。病が進んでお前は死ぬかもしれないし、両親を恥ずかしい目にあわすことになる。親戚付合いもできなくなり、物笑いになるのがオチ、これからは慎みなさい」と言い含めます。

そうこうしているうち、去年二月七日に初五郎は用事で近在へ出向き、三日間滞在して戻りました。が、長悦の姿は見えず、隣家の者に尋ねると、「金兵衛さんと注次郎さんがやってきて、長悦を馬に乗せ連れ出しましたよ」とのこと。初五郎不審に思い、今度は金兵衛を訪ねて問いただしたところ、「紋次のところへ按摩に出かけました」といいます。そこで初五郎は栃木町まで出向き、紋次なる者を訪れますと、彼は香具師が商売で最近、どこぞへ仕事に出かけあいにく留守中。初五郎さらに長悦の行方を探ったところ、七月十六日に栃木町で、大掛かりな菰張り小屋を補修し、仰々しい看板を掲げ、三味線・胡弓・太鼓など鳴り物入り囃子で客寄せし、木戸銭を取る見世物があると知りました。とても評判になっているそうで。

初五郎心当たりがあり、とにかく現地へ行って見ますと、その見世物に出ている異形の者は紛れもなく長悦です。聞けば小屋の主人の注次郎、口入屋(*人手の斡旋業者)という話。長悦を引き取らせてほしいと注次郎に掛け合ったものの取りあってもらえず、ぜひもなくいったん村に帰ります。さらに金兵衛や注次郎と交渉しますがラチが明きません。

初五郎としてもこれほど無法はないと思い、紋次・金兵衛・注次郎を村役人預けとし、七月十八日に至って、内藤隼人正に訴え出たところ、願いを受け付けられ、追って沙汰する旨を伝えられ、それまで村に戻り待機するよう申し付けられております。

 日記所収の挿絵

*医事に詳しい知人の話では、陰囊肥大症はよくある例だが、陰茎肥大は症例がかなり少ないとのこと。まして額際まで伸びるなど考えられないそうである。

*それにしても「長悦」とは、作為がプンプン臭う名付けをしたものである。

 

96 家主は店子の尻で…

──古川柳

(いえ) (ぬし) (たな) () の 尻 で 餅 を 搗 き    

江戸伝承

近世・近代、家庭の雪隠壺に溜った糞尿は、価値ある商品であった。江戸はじめ各地町方の大家は店子の便所を取り仕切り、これを汚穢屋(おわいや)った。ワイヤは江戸の場合、葛西あたりから馬に桶をいてきたり、掘割をでやってきたりした

 江戸の掘割往来で活躍した肥舟〔江東区深川「江戸資料館」に展示〕

 大家はオワイヤと契約し、店子の肥代として、現金か野菜の礼物を毎年暮れに一括受け取りする。オワイヤは肥一荷幾らで農家に売り、農家はそれを作物の人肥に使った。フーンと感心するような経済需給の関係だ。大家はこの権益で正月に餅を搗けたのである。

こうなると、たかが糞、されどクソだ。大家にとり雲古様さま。他人をうっかり「糞ッたれ」などと罵倒しようものならバッチーが当たる。

おかげで大江戸は、往時人肥を利用せず市街に垂れ流しのパリやロンドンなど外国の都会に比べ、はるかに清ケツな町であった、と物の本がウンチクを傾けている。駄洒落がきついとフンガイめさるな。

 

97 のらくら者、ごろつきの居所はない

──ないない尽し「苗売り」

♪苗や苗や苗はよしか。初物の茄子(なすび)がない。隠元(いんげん)豆のもやしがない。白粉(おしろい)あんまり塗り手がない。浄瑠璃(じやうるり)寄場(よせば)がない。女所帯はおきてがない。抱えた子どものやり場がない。地面も下て引合ない。船宿一人もお客がない。屋敷も町普請(ふしん)がない。職人仕事渡世がない。書下れど手がない。世間にっから(おあし)がないから仕方がない。商売には元手がない。賽銭少ない、札売れない。のらくらごろつき居所ない御上(おかみ)は改革おひまがない。この筋御慈悲の種まけば、やがてみのらぬ事はない。 

& 天保改革の頃の流行り唄「苗売り」

天保十二年から十四年にかけて老中水野忠邦(ただくに)が断行した「天保の改革」は、奢侈(しやし)し倹約をとする過度の引き締め政策であった。ガタた幕府財政再建がねらいも、結果は万民の首をきつく締め上げる、恐怖政治に近いものとなった。しかも忠邦は、自分が実践する儒教的禁欲主義を官民にあまねく押し付けた

世上に怨嗟の声が絶え間なくあがり、人びとは彼をして「人面獣心、古今の悪玉」との悪評を下す。江戸の町角に次のような落首も貼られた。

  世の中の垢を余りに洗張り地の弱りしはあくが強いか

  白河の水清すぎて魚すめずもとの濁りの田沼恋しき

掲出の「苗売り」の苗はナイに近い発音、つまり「無い」にひっかけた音通洒落である。詞の中で「ない」の具体例をいくつも重ねて無いない尽しに仕立て、最後の一句で庶民いじめの手を緩めよと訴え締めくくっている。垢を洗い清めた水ののきれいな手による幕政は、かえってドブ水のような悪臭を湧きたたせてしまった。

 人生ははかないはずなのに…〔東京・青山霊園〕筆者の蛇足です

 

98 各楼の銀燭星の如く弦声人を鼓す

──漢文調の遊里評判記

若し夫れ暮靄柳を抹し、黄昏(タンヤ)灯火(アンドウ)(のぼ)すや、楼の銀燭星の如く、弦声(スガガキ)人をす。四角の鶏卵世見ず此の境晦夜(かいや)を開く。娼妓陳列してく。大は正面、妓は壁に籬闌(マガキ)に分れ坐す魚貫して漸く格子の外に蟻附す。(中略)酔歩浪々として、了鬟(カムロ)前を擁し幇間(タイコモチ)を押し、(さわ)ぎて過ぐる者は客の楼に上がるなり。(らく)(しん)水を出で、天女空より墜つ姿()()整斉(せいせい)として()近づくべからず。

&『江戸繁昌記』初編「吉原」、寺門静軒著

寺門(てらかど)(せい)(けん)(17961868)は江戸後期の儒学者・随筆家。この書は退廃的であるとして幕府からにらまれた。

結論を先に言おう。江戸吉原の表情を描くのに漢文調(読み下し)は似合わない。百千の美辞麗句を並べても和文の敵ではない。江戸の風物詩を書くのに日本人が漢文に事借りるのは衒いすぎで、味がなくなる。

同時代、太鼓持が盛んに歌った「大尽舞」の一詞章を紹介しておくので、和漢文の味わいの差異を較べていただきたい。

♪清少納言がよまれたる 春曙とハ面白や なん〳〵たるすががきに かん〳〵たる買い手衆が花を飾りて 初買いによせくる廓ハ どんどめく いづれどんどやさぎのくび 襟を長くしてぞめくにぞ 太夫格子も繁昌に さん茶うむ茶も賑やかに もん〳〵〳〵と呼ぶ子供(筆注=禿(かむろ)) たつきもしらぬ山口三浦の大釣壺 手つつこむちろりのかんばやし 夫ハ角町の名物 ハヽホヽ 大尽舞を見さいなア その次の大じん(筆注=ここで客側別人の詞に代わる) &守貞漫稿(もりさだまんこう)』巻二十三、喜田川守貞著

 吉原の賑わい〔『あづまの花 江戸繪部類』国立国会図書館蔵〕

 

99 見よ、鬼気迫るこの雪景色を

──歌川広重画

 平清盛が福原の館で保元・平治の乱で敗れた亡者と遭遇する怪異図である。ここではあえてモノクロームを採用した。

 しんしんと降り積もった雪景色のそこここに髑髏に変化(へんげ)した怨霊の相がのぞいている。静かな光景だけに、鬼気迫る名景ではないか。

 これ以上の説明は控える。代りに画像を拡大して次ページに載せるとしよう。

 これまた「名景」なり〔平清盛怪異を見る図(浮世絵)、歌川広重画・1845年〕

 

100 何事も不幸を喜ぶべからず

──山岡鉄舟の自己訓戒

うそいふべからず。君の恩、師の恩、人の恩を忘るべからず。神仏並びに長者を粗末にすべからず。幼者をあなどるべからず。己に心よからざることは他人に求むべからず。腹を立つるは道にあらず。何事も不幸を喜ぶべからず。         

山岡鉄舟「修身二十則」より

山岡(やまおか)(てつ)(しゆう)(183688)は幕末の幕臣、明治天皇の侍従。剣の達人でもあった。

 鉄舟若冠十五歳の時壁書とした自戒である。のち無刀流を創始し、剣を持たずとも精気で相手を倒す術を会得した。禅修行でも一名を為し得たほどだから、人倫を説くに適任といってよい。

さて、「修身」と聞くと鳥肌がたつ、という文化人さんが多い世の中だ。確かに背景には、軍国主義や教育勅語がチラつくが、だからといって排除すべき不適切語だとはいえない。

 山岡鉄舟の写真

孝悌、友愛、仁慈、信実、礼敬、義勇などの徳目は、人が生きるうえで欠かすことのできない理念である。しかし今日、言葉が上滑りし、修身は「道徳教育」とかにすり替えられた。その結果やいかに。

鉄舟修身はべからずの集、ネガティブな結辞で固めている。これらを「うそをいうべし。師、親、人の恩は忘れろ…」のようにポジティブに捩ったらどうだろうか。そのまま現代の人心を示現しているように思えてならない。修身を(テン)から忌み嫌うような短絡的思考の主は、修身(みをおさめ)いるとはけっしていえまい。

 

101 多く稼いで、銭を少なく使い

──二宮金次郎

多く稼いで、銭を少なく使い、多く薪を取って焚くことは少なくする。是を富の大本、布告の達者といふ。然るに世の人これを吝嗇(りんしよく)といひ、又強欲といふ。是心得違いなり。

&二宮(にのみや)(おう)夜話(やわ)』二宮金次郎著

二宮(にのみや)(きん)次郎(じろう)(17871856)は江戸後期の篤農家。尊徳と号す。

心得違いなのはかくいう二宮翁のほうで、社会経済の仕組みをまったく理解していない。もし社会全体がお説どおり、入るを増やし(いず)したら、結果はどうなるか。流通資本は停滞し、経済そのものが活力を失い衰退する。科学・文化への悪影響もり知れない。やはり視野の狭い農本主義者の言い分で、ケチな思想と断言できる。 

二宮よりも百年も前、太宰春台という儒学者がいた (56参照)。並みの儒者ではなく、近代経済学に通じ、鋭い先見の明をもっていた。彼は当時、ケインズ理論を先取りしたような卓越した貨幣主義経済観を自著『経済録』で発表、思想界の注目をひいている。春台なら同じテーマでも「大きく儲けた者は大きく使え」と主張するに違いない。

昔の国民学校の校庭には、たいてい尊徳の銅像が建っていて、生徒は登退校時に頭を下げさせられたし、修身科では彼を「偉い人」と教え込んだ。文部省もまた、たいそうな心得違いをしたものだ。

 二宮尊徳の銅像は現在各校から撤去され残り少なくなっているという。

 

102 俺は欲深いから道を誤った

──勝小吉

第一に利欲は絶つべし。夢にも見ることなかれ。俺は多欲だから今の姿になった。是が手本だ。(中略)女には気を付くべし。油断すると家を破る。(中略)人をばうらむものではない。みんなこつちのわるいとおもう心がかんじんだ。それもおれにはできなかった。おれほどのばか者はめったにあるまいよ。はなしてきかせるから、よくよくいましめにするがいいぜ。がきのじぶんより悪いやからとばかり交わって、わるさばかりして、おふくろをこまらせた。……

&夢酔(むすい)(どく)(げん)』勝小吉著

(かつ)小吉(こきち)(180250)江戸後期の旗本。三十七歳で家督を息の麟太郎(海舟)に譲り隠居、夢酔と号した。

勝海舟の実父が書き残した家訓書である。小吉は四十二歳の時に鶯谷に庵を結び、自分の自由奔放な生き様を振り返って、子孫への戒めを出典にまとめた。全篇いささかの飾り気もなく、裏店の俗言のまま、放逸な生活が生々しくつづられている。

彼は四十石取り小普請組と小録だが身分は旗本である。が、妾腹の三男という吹けば飛ぶような立場に反抗し、一生を庶民として過した。喧嘩好き。吉原通いの明け暮れ。城内御金蔵破りの前科。それに父から伝授の剣技が加わり、若くしていっぱしのワルとなった。

 そんな無頼三昧(ざんまい)の日々を(かえり)みて、こういうくだらない生涯を送ってはならない、と子孫に伝え遺す気になった。この書物はまた、都市の遊び人に落ちた武士の生活態度や処世術がうかがえる読物である

後に子母沢(しもざわ)は、この古老の著聞を土台にして小説『おとこ鷹』ならびに『父子鷹』を書き上げ、作家としての地歩を固めている。

 「喧嘩侍」の異名もある勝小吉は伝記本にもなっている。

 

103 毛唐人なそと茶にして上きせん

──時局の道化狂歌(落首)

毛唐人なそと茶にして上きせん

     四はいばかりで寝つかれもせず

&『当世流行どふ化狂歌』、嘉永六年六月、木版摺物

*上きせん=上等煎茶の銘柄「正喜撰」を来航の蒸気船にかけた語呂合わせ。

嘉永六年六月三日、浦賀に来航したペリーの軍船団(蒸気船二隻、軍艦二隻)は、鎖国による太平の夢をむさぼる日本人にとり驚天動地の出来事であった。日本側にはこの強圧入港を阻止する武力がなかっただけに、衝撃はことさら大きい。同時に庶民がいち早く反応を示している。

この事件は「黒船来航」として落首をはじめ百人一首捩り版、漢詩、謡曲、講釈あるいは大津絵やチョボクレなどの格好の素材となった。川柳にも、

 武具馬具屋アメリカ様とそつといい

 アメリカが来ても日本はつつがなし 

兵学者で砲学塾を開いていた佐久間象山は、筒(大砲)一つ持たない日本の実情を憂慮、国難にさいし情報収集に奔走した。この有能の士も、のちに体制側石頭どもに誤解され、攘夷派の手で暗殺されている。

われわれ現代人とて、異星人が大型UFО軍団で地球に着たらどうか。ペリーどころの騒ぎではなかったろう。

 黒船「サスケハナ」の木版画〔東京都品川区・船の科学館蔵〕

 

104 九条どのお目がさめたか井伊きみだ

──桜田門外の変直後の落首

九条どのお目がさめたか井伊きみだ

     ちんちん掃部の首がないぞよ 

*九条=関白九条(くじよう)(ひさ)(さだ)、公武合体の推進派統領。井伊、掃部=掃部頭(かもんのかみ)井伊(いい)直弼(なおすけ)

安政七年三月三日雪の朝、江戸城桜田門外において、大老井伊直弼がその弾圧策に抗した水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。井伊は孝明天皇の朝命を拒み、安政の大獄で反対派の一掃を図るなど専断ぶりを発揮したため、身から出たサビとの評もたった。

それにしても後味の悪い、蒙昧な()れ歌である。事件の背景事情を読み取ろうともせず、噂話をタネ井伊らを極悪人と決めつけ、野次馬根性で意地悪く死者をからかっている。救いようのない愚民の一面を見せつけた落首なのである

 桜田門外之変図〔茨城県立図書館蔵〕

 同様の例は他にも沢山ある。たとえば、幕末の思想家横井小楠(しようなん)の場合がそれ。彼は国事に奔走し熱心に開国の必要性を説いたが、これは国体をないがしろにする暴論とみなされ、明治二年に旧攘夷派によってとうとう暗殺された。

 そのとき小楠を(そし)る悪質な落り出されている。

  よこい(横井)ばる奴こそ天はのがさんよ(参与)さても見ぐるしい(四位)今日の死にやう

 

105 ヘエあっさりと代って

──牛太郎の口上

へェあつさりとあつさりと。代つて代わつて。

&『絵本 江戸風俗往来』下編雑「夜鷹」、

菊池貴一郎画文

菊池(きくち)()一郎(いちろう)(生没年未詳)幕末・明治の絵師。四代広重を名乗る。

これの前後の文は、

 また夜鷹と客と(ささや)つつ、快楽未だ半途(なかば)ならざるに、夜鷹の付き添うギュウ俚言する男声く、「──」とりに促され、腹立ちをえて打ち鳴らして薦垂れの外へづるや…

とある。

 辻君と蕎麦屋〔豊国画〕

俗に言う「廻し」の回転を速めるために、夜鷹を取り仕切る兄さん連がアコギな口を差しはさむ。女は一晩に数十人をこなすセックスマシン、客は気を遣らずのうちに、ドブ臭い女体から離される。そこでは人格の一切を否定した性の地獄図が展開された。

 私事ながら不肖、終戦後の洲崎パラダイス(東京都江東区)や売春防止法直前の鳩の街(東京都墨田区)での苦にがしい光景を思い出す。同じ体験のご同輩も多いはず。若さのエネルギーとは恐ろしいもので、今考えると鳥肌立つ思いのする行為も平気でやってのけた。「味も素っ気もないセックスなんて」と思うのは、それだけ自分が年をとっている証拠だ。

 

106 借金皆済まで冷飯たべるべき

──諸戸清六

第三条  温かき飯は食うに手間取り時間を空費す。今日以後、借金皆済まで冷飯たべるべきこと。それも茶漬たるべきこと。

   (中略)

第十一条 家の付近に竹木縄類が落ちておれば、それを拾いあつめ宅に持ち帰つて何かに利用すること。

諸戸清六「大借金皆済のため二十ケ条」

諸戸清六(もろとせいろく)(18461906)は伊勢桑名出身の豪商。

 清六が十七歳の時、父は商売に失敗し大借金を残した。清六の第一に偉いところは、安易に相続放棄をせず、一切合財を引き継いだこと。同時に「大借金を返し、天下一の金満家になっちゃる」と決意、二十ケ条の自家訓を定めた。うち二ケ条を掲出したが、残る各条も同様のケチケチ作戦で自分を律している。

 諸戸清六

 この男は徹底した吝嗇を実行し、持ち前の商才を発揮し、若くして富商への道をたどる。最初は小搗米屋にすぎなかったが、明治十年西南の役の米価高騰に便乗して大儲けした。続いて明治政府の紙幣乱発に伴う打歩差益に着目、紙幣を買い占めて巨利を得た。さらに山林投資でも資産を増やすなど、「やりての清六」の名を高めた。

しかし彼は、がめついだけの一介のお大尽ではない。後年教育事業に力を入れ、地元の振興にも巨額の寄付をするなど、篤志家でもあった。儲けを出し惜しみする今日的成功者とでは、人間のスケールがケタ違いだ。

 

107 今日三条木屋町で天誅を加えてやった

──自称 皇国忠義士

佐久間修理 此者元来西洋学を唱ひ、交易開港の説を主張し、枢機之方え立入、御国是を誤候罪捨置難く候処、(あまつさ)へ奸賊会津・彦根二藩中川宮と事をり、恐多くも九重御動座彦根城え移し奉り候儀昨今頻機会を候。大逆無道天地にらざる国賊に今日条木屋町にて天誅を加(おわんぬ)斬首・梟木懸け可き其儀(あたわ)ざるもの。/元治元年七月十一皇国忠義士

京都三条大橋に掲げられた榜書

佐久間(さくま)象山(しようざん)(181164)は思想家・兵学者。開国と公武合体を唱えて期待する勤王団体に暗殺された。

人間社会では百人集れば百の異なった考え方がある。極右があれば極左もあろう。それを自分に相反する言動だからと、実力行使で相手つぶしにかかったのでは、社会は成り立たない。

近代化黎明期の維新に、多くの有能の士が、単に思想上の反目というだけで、斬奸(ざんかん)の名のもと魔手に(たお)された。象もその一人である

 象山は信州松代藩士だったが、資源開発の役務上生じた農民とのいざこざや、同藩士らからの村八分に嫌気がさし、志するところあり江戸へ出て砲術指南所を開いた。ペリーが来航したときは、浦賀へ出向いて視察、藩主らに開国の急あることを説いている。

 晩年の佐久間象山

 象山は人も知る博識家かつ努力家で、ことに西洋事情に通暁していた。そうした知識を生かし幕府の海防顧問まで勤めた男が、売国奴にされ、凶刃に命を奪われたのである。先見の明ある愛国の士という点では、自称「皇国忠義士」などという吹けば飛ぶようなチンピラの比ではなかった。この人物誅殺は手痛い国家の損失であった。

 

108 府中か夢中で女郎衆にはまって

──道楽寺あほだら経

♪ヤレ〳〵〳〵〳〵ちょいとちょんがれ 今度此たび京屋の親父が 江戸見物にと 長さんや土さんクヤ〳〵なんぞと出かけた所が 府中か夢中で女郎衆にはまって どうしようこうしよでゐ続けいつまで やってもいられず ゑいやらやっとで 広いお江戸へ着はつひたが 三日や四日じや見物はすまない 宿屋の亭主をへったらやったらむしゆうに追出し はたごもやらずにゑばっていなさる ヤレ〳〵〳〵〳〵

&『随筆辞典』2、朝倉治彦編

*京屋の親仁=有栖(ありす)(がわ)宮、江戸見物=東征軍、長さん=長州軍、土さん=土佐軍、宿屋の亭主=徳川慶喜

あほだら経は、安永頃に某乞食坊主が門付(かどづけ)で広めた俗謡である。時事風刺をめた(たわむ)れ文句を、あたかもを読むかのように口誦した。初期のものは「仏説阿呆陀羅経」といったが、次第に願人坊主や僧形芸人の大道芸・になる。冠称のほうもおどけて「道楽寺」に付け直された。文化(どん)(りゆう)という説教坊主が巧みな芸披露し、あほだら経の普及に貢献したという

 仏説阿呆陀羅経を聞かせる芸人

 掲出は、幕末の風雲急を告げる時局を批判した主題になっているが、唱芸者は誰かわからない。*印の注に見るように、人物は見立になっていて、世の中をひっかき回す一部の連中の行動を面白おかしくおちゃらけている。彼ら底辺の芸人達は、失うと困るものなど持っていないから強い。大胆に、言いたいことを言えた。

一説によると、浪花節もあほだら経から分岐して出来たという。なお、小沢昭一著『日本の放浪芸』では、今もあほだら経を伝える放浪漫才師が紹介されている。

 

109 政事はみんな売切れました 

御政事売切れ申候

──慶応二年六月、南町奉行所門外の落書

慶応二年正月、のちに天下を揺るがす薩長同盟成る。七月には十四代将軍家茂(いえもち)が夭折し、十二月は孝明天皇の崩御(毒殺説も)で暮れる。まがまがしいことの多い年であった。

庶民にとっても大変な一年で、前年からの米価騰貴に加え、この年も凶作。悪徳商人は米価格を吊り上げ、江戸を中心に各地で窮民が暴動を起こした。ある史料は、江戸時代を通じ一揆が最も多かった年、としている。掲出落書には明日の生活もおぼつかない庶民の、幕府はもう頼りにならないという苛だちが読み取れる。

同年八月頃から江戸市中に流行った「ないない尽くし」も、せっぱ詰まった庶民生活を歌っている。

♪さてもない〳〵ないものは 油のねあげもほうづがない 二百()になつてはとぼされない そでもつけずにやねられない まつくらやみではおかれない ありあけとぼしちやたまらない おそばも五十()じやくわれない……

幕末の暗い世相を描いた戯画。初物価高騰を高く昇る凧になぞらえている。

 

110 くさいものには紙をはれ

♪ヨイジャナイカ

エエジャナイカ

エエジャナイカ

くさいものには紙をはれ

やぶれたらまたはれ

エエじゃないか            

──幕末に大流行の俗謡

*流行地で詞が異なる。

慶応三年から翌年春にかけ、東海地方を中心に広がった民衆の乱舞狂躁行動が生じた。最初は名古屋辺で、天から伊勢神宮の御符が降ってくるという噂が流れた。それを拾うと吉事が起るというので、神符を示しながら踊り狂う。すると周りの者も次つぎとつられて踊に加わり、ときには万余の群集が神がかりにあつたように路上を練り歩いたと。たいていが異様な格好でエエジャナイカの唱え詞を合唱。あるときは詞に女陰の方言名が入り、それを女子供まで唱和したという。

エエジャナイカ〔豊饒御蔭参之図・歌川芳幾画〕

 この状況を現代の歴史書では「不可解な大衆フィーバー」などと書いているが、一種の集団ヒステリーであろう。勤王か佐幕かで殺し合いが日常化している世情のもと、人心の不安が昂じて巨大なストレスを生み、些細なきっかけで全国規模で一挙に爆発したようだ。

 現代といえども、緊張した世情が続くと、似たような椿事が再発しないとも限らない。

 

111 民草は踊り狂う「よいじゃないか」

──慶応三(1867)年十二月十四日、第百四十九より現代語訳 *承前の主題で、『藤岡屋日記』より。

御札天降り一件

東海道の沼津宿は先ごろから例の御札が降下しています。どの家も喜んでいるというのに、この宿の小間物屋・豊吉方にはまったく降ってきません。夫婦とも毎日このことを気にかけ、夫は「カカアの性格が良くないからだ」といい、妻は「なによ、亭主の心がけが悪いからよ」と譲らず、喧嘩ばかりしています。

そうこうするうち十二月十一日の朝、豊吉が雨戸を開きますと一陣の風が吹き込み、なにやら飛び込んできた。手に取って見ますと、これが和合神の御札ではありませんか。夫婦して歓喜し、その日のうちに経師屋に頼んで表具替えをしてもらいました。

翌十二日、近所親類を招いて飲めや唄えの大宴会となる。豊吉自身もたいそう酔って、わが娘の緋縮緬の襦袢を裸の身にまとい、絞りはなしのしごきを締め、足袋はだしで踊りだし、横丁から本通りの方へと踊りながら飛び出しました。その折もおり、「松平下総守様御通り、下に、下に」との掛け声のする中に飛び込んでしまった。追いかけてきた身内の者たちはびっくりして、引き留めようとして襦袢の袖をつかんだときは、もう殿様の御駕籠の真ン前。しかも引っ張られて袖が千切れ、弾みで豊吉のからだは駕籠によろよろと倒れかかる。それを駕籠脇に詰めた護衛士が抱え込もうとしたが時すでに遅く、駕籠へどうッと当ってしまいました。見ていた御供頭が二つ三つ殴りつけますと、豊吉ハッと夢から覚めたように、恐縮して平伏です。

御供の武士たちは烈火のごとく怒り、「無礼者、番小屋まで引っ立てい」とわめく。と、殿様は駕籠の中から「何者じゃ」と御尋ね。引き留めた者が、「小間物屋の豊吉と申す者にございます。なんでも御札の降下祝いに大酔し、かくなる御無礼に及んだとのことにござりまする」殿様、重ねて御尋ねになる、「途中、何やら大声で歌っているのが聞こえたが、何と申す歌か」御供、「上方で大流行の歌でございまして、」と小声になり、「恐れ入ります、

 おそゝに紙貼れ、やれたら又貼れ、

  よいじゃないかよいじゃないか

 入れりや其まゝ、よいじゃないかよいじゃないか

と申す歌にございます」と答えます。聞いて殿様、「苦しゅうない、高い声で申してみよ」と御注文。やむなく大きな声で申し上げると、殿様改めて「オソソとは何のことぞ」との御尋ね。共侍二人、顔を赤らめ恐縮し言いよどんでいると、「早く申し上げなされ」と、御家来衆が面白がってせきたてる。よんどころなく、「婦人の前をさす言葉にござります」すると、上役の一人が、「御前の御面前で、無礼な」と叱りつける。殿様、さらにお尋ねあるに、「御札とは何の札じゃ」家来、「ハッ。和合神の札でございます」下総守様続けて御尋ね、「和合神の札ならば、のう、唄ってみたくもなろうぞ」と、御一笑に付された御言葉。「その者、許してつかわせ」この御意によって豊吉、平伏して御礼申し上げました。

 ここで殿様、御供頭に「先刻余の駕籠に倒れ掛かったおり、留めた弾みに襦袢の袖が切れてしまったの。本人さぞ心面白うはなかろう。直してつかわせ」と仰せになります。おみす番(*衣装係か)の男、反物千疋の目録を下されました。想像もしなかった幸運に豊吉深く御礼申し上げている間に、殿様は御出立になりました、とさ。

 まったく、珍しいこともあるものでございますな。こんな世の中、あの唄でも唄って豊年踊りを楽しみながら、上方まで流行らせましょうぞ。

  降込し仕合夫婦和合神

       内もおさまり豊にて吉 

  其夜さはおそゝヘ紙も張らずして 

       重り合て能じやなひかへ〳〵

 御威光に免じ、礼状は略させていただきます。

十二月十四日 松崎旦那様/沼津宿・旅籠屋 与兵衛 

 

112 今じゃ愛想も継之助

 河井かわいと今朝まで想い

      今じゃ愛想も継之助   

──長岡遊廓楼主らによる落首

河井継之(かわいつぐの)(すけ)(182768)は幕末の越後長岡藩家老で、町奉行。藩政改革の旗手。

 継之助は風雲急な幕末の動きを察知し、越後長岡藩主に代わって、いくつかの藩政刷新を断行した。たとえば奥州有力藩と共同同盟を画策したり、高価格のガトリング砲を購入し海防に備えたりした。慶応三年十二月、町奉行に就いて手始めに行ったのが長岡遊廓の廃止であった。

遊里の城下町として栄えた長岡から紅灯を消し去ることは、楼主らには死活問題である。じつは河井奉行には、江戸詰めの若かりし頃、吉原通いご執心の前科がある。業者はそれを承知だ。いまさら偉そうになにが改革よと精一杯の皮肉を込めて、都々逸仕立ての落首を呈したのだ。

 なにしろ海千山千の楼主らが鳩首して作った一首、味のある作品に仕上がっている。たらしい相手の姓名を思う存分に茶化し、商売替えへの踏み台とした。色のはけ口を失った若者や旅人たちは、わが意を得たりとばかり口ずさんだことだろう。

 古今東西、食い気に色気の恨み、恐るべし。

 河合継之助

 

113 高座の上とて高くとまるべからず

──三遊亭円朝

一、嘘はつくべし理屈は言うべからず。

一、高座の上とて高くとまるべからず。

一、笑わるるとも(にく)まるるは(わろ)し。

一、その席によりて言う事に斟酌(しんしやく)あるべし。

一、前に出る者の言いたるくすぐりをあとへ出て言うべからず。

一、(あご)の掛け(がね)はずさすとも連中の取り決めにはふんどしを締めてかかるべし。

&『江戸よいとこ』星川清二著

三遊亭(さんゆうてい)(えん)(ちよう)(18381900)は近代随一の落語家。人情話と怪談の名人であった。

円朝が弟子に残したといわれる六ケ条の憲法は、一見奇異な印象を受けるが、かみしめて味わうと噺家にとってもっともな道理ばかりである。たとえば「嘘はつくべし…」は、お客を退屈させる理屈っぽい語りよりも、作り話でよいから席に縛り付けるような芸を心がけよ、ということだろう。

 落語家というと珍奇ブリッコが多いが、円朝は穏やかで律儀な人柄であったとか。弟子を叱るにも「お前さん、どうしてそういうことをするんです、いけないじゃありませんか」といった丁寧な口調であったと。だから弟子たちに尊敬され慕われた。この「円朝憲法」も一家の壁書として大切に守られてきた。

大政奉還の立役者山岡鉄舟は、円朝をことのほか贔屓にし、谷中初音町全生庵の円朝墓碑銘を円朝の生前に自筆して与えている。その戒名は「三遊亭円朝翁碑 無舌居士」とわかりやすく素直だ。坊主が学を衒い取って付けた戒名より、はるかに親しめる。

 円朝の石碑〔東京都台東区谷中墓地〕