ステップ1  古典狂歌をふりかえる

 

 

本編の後半で「新狂歌」という新しいジャンルの文芸に入りますが、その前準備に、古典狂歌についておよそのことを把握しておく必要があります。なぜなら、古典狂歌は狂詠の歩みそのものであり、新狂歌をしっかり支えてくれる土台だからです。

 

古典狂歌は史観的学識がないと理解しにくいという、確かに難しい面があります。それゆえ寂れてしまったのですが、その長い道程をたどることは、新狂歌が今、誕生する上で無駄にはなりますまい。

 

 

 

世の中を洒々(しやしや)りおどけて可笑(おか)る 三十一(みそひと)文字の有相(うそう)無相(むそう)よ 

                         ──狂歌とは何か。その原点をたずね

 

狂歌とは狂体(滑稽の風)の和歌を意味し、諧謔を生み出す三十一音節の短歌を中心に、ときには長歌をも含む古典詩の総称です。軽妙洒脱な表現を旨とし、横丁の熊八クラスの共感や笑いを得るため、落語並みに平俗な言葉をふんだんに使います。

歌俳用語には「風狂」といって、物狂いのこだわりを指す言葉があります。狂歌はまさにこの風狂の延長線上にある心得を軸として構成されています。俗にいう「おどけ」だの「()れ」を支える一種の興趣、とみてよろしでしょう

狂歌の呼び名はほかに夷歌(えびすうた)戯歌(ざれうた)夷振(えびすぶり)などがあり、場合によっては落はじめ道歌、教訓をも含め狂歌と総称することもあります。ただし、『古今和歌集』などに所収の誹諧歌(ひかいうた)(一般に「俳諧歌(はいかいうた)と表記)は和歌に含め、狂歌にあらずとされています。ちなみに喜多村(きたむら)(のぶ)()(国学者、17831856)は随筆『嬉遊笑覧』巻三で、

俳諧歌は古今集より聞えて、和歌の一体なり、俊頼朝臣無名抄に、是をざれごと歌とあり、又奥儀抄には、俳諧の字をわざことゝよませたり、又是を狂歌ともいふ、太平記などに落首あり、是また狂歌とはいへど、俳諧歌とは云ふべからず、されば狂歌とは広くいふ名にして、いずれの体をよみても、狂歌といはむに妨なし

と狂歌の語義の幅広さを例証し、さりながら狭義に俳諧歌と狂歌とはあくまでも一線を画して扱うべき、と述べています。

 話はとびますが、「狂歌の起源は古今の俳諧にあり」を主張して譲らなかった狂歌師がいます。

 江戸の狂歌師、鹿(しか)都部(つべの)真顔(まがお)(17531829)がその人で、天明狂壇の雄四方赤良の詠友で化政期狂壇の重鎮でした。彼はそれまで日蔭文芸であった狂歌を錦の衣裳で着飾らせ、俳諧起源説を唱えたのです。この権威信奉主義というか一つの見識でもあるのですが、大方は冷たい目で見られ、狂歌発祥の地である上方では「関東のええ格好師」とからかわれています。

 当時の上方狂壇において、狂歌は古典和歌から逸脱した存在であるとスッパリ割り切り、自分達の作品を「和歌にひれ伏すところの狂体」と位置づけてはばかりませんでした。さもありなん、狂歌師というと聞えはよいですが、過去に職業狂歌師というものはほんの一握りしかいなかったのです。狂歌師のほとんどは本職持ちで、「たかが狂歌」は余技の芸、道楽事にすぎませんでした。

 狂歌の歴史を紐解く上で、こうした背景事情はしっかりと認識しておく必要があります。

 

 

天地(あめつち)戯笑(おどけ)の歌の詠み()めは 苔むす(いわ)のさざれ石どき

──狂歌の起源は万葉「戯笑歌」

狂歌を近視眼的な理屈でなく遠眼鏡で眺めると、その起源など簡単に判明します。古今集どころかはるかに古い『万葉集』巻十六の戯笑(ぎしよう)()歌にたどり着くのです。

 元暦校本『万葉集』写本 本文読み下しの別提訓方式になっている。☞参考

大和~奈良時代に作られた、おどけた内容の和歌を総じて戯笑歌といっています。万葉巻十六はこの戯笑歌の宝庫で、作者の遊び心十分な作品群が、この寄席のような一巻を派手に賑わせています。万葉仮名を現代表記に仕立て直した上で、何首か引いてみましょう。

()(づみの)親王(みこ )

      家にありし(ひつ)(かぎ)刺し蔵めして恋の奴がつかみかかりて

児部(こべの)女王(おおきみ)

     うまし物いづくも飽かじを(さか)()らが(つの)のふくれにしぐひあひにけむ

長忌(ながのいみ)()()(きの)麻呂(まろ)

       さす鍋に湯沸かせ子ども櫟津(いちひつ)()(ばし)より来む狐に浴むさむ

境部(さかいべの)(おおきみ)

        虎に乗り古屋を越えて青淵に蛟竜(みつち)とり来む(つるぎ)太刀(たち)もが

大伴家持(おおとものやかもち)

        石麻呂に我物申す夏痩せに良しといふものそ(むなぎ)捕り召せ

高宮(たかみの)(おおきみ)

        皂莢(ざふけふ)に延ひおほとれる(くそ)(かづら)絶ゆることなく宮仕へせむ

いやはや、抒情詩人で三十六歌仙の雄である家持まで悪ノリし、夏やせして頼りない仲間に「うなぎでも食ったら」と茶化していますね。

 そうです、この時代、万葉歌人の詠の中に、狂詠心がすでに芽生えていたのです。彼らの遊興精神は、やがて平安時代に移ると、古今集の誹諧歌へと育ちます。すなわち、狂歌の発芽は後世に形をととのえる誹諧歌などよりはるかに先、万葉歌にあったこと疑いありません。

 

 

春なりと羽目をはずした歌鳥は こきんひかいとかしましく啼く

──狂歌誕生の母体は誹諧(ひかい)

『万葉集』戯笑歌を狂歌の父とすると、その母は『古今和歌集』の誹諧歌というのが古典狂歌史的見解です。誹諧歌とは、おどけを(もてあそ)ぶ詠み口の和歌、つまり正調から外れ、崩れた滑稽味をそなえた詠をいいます現代、一般にいう俳諧(はいかい)歌と同じで

古今集は延喜十三(913)年に成立、その巻十九は誹諧歌で埋めつくされています。ひらたくいえば、万葉戯笑歌の流れをくむ平安歌人の余興詠集、といったところです。

誹諧歌では言葉遊びの技法が目立ちはじめ、諧謔精神と並んで双方の切っても切れない結び付きを固めつつあったことが読み取れます。たとえば在原(ありわらの)棟梁(むねやな)の作(歌の巧拙は問いません) 

秋風にほころびぬらし藤袴つづりさせてふきりぎりす鳴く

では、「ほころび」とか「きりぎりす」(コオロギの古語)という歌語にない俗語を用い、掛詞(かけことば)縁語(えんご)とを言い掛け連想効果の妙を表しています

 当時「狂歌」の語は文献にまだ見えませんが、その体質は狂歌に一歩近づいていたといってよいでしょう。

 『古今和歌集』真名序(音表漢字文)

●誹諧歌の例

藤原兼輔

いつしかとまたく心を脛にあげて天の河原を今日や渡らむ(『古今和歌集』巻十九)

素性法師

山吹の花色衣ぬしやたれ問へどこたへずくちなしにして(同右)

 紀貫之

あひ見まくほしは数なくありながら人につきなみまどひこそすれ(同右)

(おおし)河内躬(こうちのみ)(つね )

   いとはるるわが身は春の駒なれやのがひがてらに放ち捨てつる(同右)

夷曲(ひなぶり)夷歌(いか)興歌(きようか)()()(うた) うたい慣れずにその賑わす

──「狂歌」の呼称誕生する

「狂歌」という言葉が文献に現れるのは、平安から鎌倉時代に移る頃のこと。その最も古い記述は、藤原定家の日記『名月記』建久二(1191)年閏十二月四日の条に見えます。原漢文を読み下すと、

 一条殿参る。昨日の仰せに依りてなり。夜に入り百首を詠まる。事(おわ)りて当座に狂歌有り。深更、相共に帰家す。

とあり、狂歌が余興に詠まれたことが記してあります。歌聖らとて、息抜きに狂歌に打ち興じた様がうかがえてほほえましいですね。これは煩雑な諸則で固められた歌道に縛られず、狂歌が自由闊達に詠むことのできることをも暗示しています。

 藤原定家は「歌聖」とうたわれた

さて鎌倉時代も中期あたり、狂歌の呼称は殿(てん)(しよう)(びと)から町人まで広がっていきます狂歌の枝葉である落道歌も盛んになり、あるいは歴史物語説話などにも狂歌入逸話が登場するなど、中世日本文学をより多彩なものにしています

 狂歌の名が現れたところで、由来をたずねてみるのも一興でしょう。じつは狂歌の名称起原については諸説あるのですが、参考までに資料集〔1狂歌の呼称〕(112ページ)に三説を引いておきます。どの説が正しいのか今なお結論が出ていません。

●草創期の狂歌作品例

                                       藤原定家

 霜月にしものふるこそたうりなれなと十月にしうはふらぬそ(新旧狂歌俳諧聞書)

                                       藤原俊成

 十月にしうはふらぬとだれか誰かいふしくれはしうとよまぬものかは(新旧狂歌俳諧聞書)

文覚(もんがく)上人

世中に地頭ぬす人なかりせば人の心はのどけからまし(今物語)

(みなもと)(なか)(つな  )

   伊勢ムシャハミナヒオドシノヨロヒキテウジノアジロニカヽリケルカナ(平家物語・巻四)

高駿河守

多ク共四十八ニハヨモ過ジ阿弥陀ガ峯ニトモス篝火(太平記・巻十七)

兼好法師

かづらきや花のさかりをよそに見て心そらなるみねの白雲(兼好法師集)

慶運

あま衣春くる空の朝なぎに袖師の浦は霞こめつゝ(慶運法師百首)

 

 

(ぎよう)(げつ)()のぴかぴかと映えよかし 照る歌詠みと人にいわれん

──戯歌中興の祖について

(ぎよう)月房(がつぼう)()は狂歌師の祖とされている人です。が、彼以前に誹諧歌がすでに存在し、「狂歌師」の称も江戸時代まで存在しなかったわけですから、物の本のように「狂歌師の祖」ではなくて「戯歌(ざれうた)中興の祖」と形容するのが正しいでしょう

暁月房とは法号であって、誰あろう、藤原氏族の公卿で歌人、連歌師として名声を馳せた冷泉(れいぜい)(ため)(もり)(12651328)その人です。

 暁月坊()『古今狂歌袋』

  春暮れし昨日の酒の目覚めかしら今日はうつきになりにけるかな

この人が戯れに詠んだ次の一首はあまりにも有名、

 暁月に毛のむく〳〵と生えよかしさるうたよみと人にいはれん

と、「この坊主頭に毛が生えてきたら和歌からサル(猿侯去るの音通洒落)歌詠みよとの噂が人の口にのぼろうものを」の意を込め、相手のお節介を茶化しています(くわしくは資料〔3狂歌作者〕113ページ)。茶化しついでに花酒爺も右の見出し詠で暁月法師の作品を捩り亦茶化ししてみたしだいです。

 この一首から彼は酒好きだったことがわかります。暁月の有名歌集の一つに『狂歌酒百首』(正称は「狂歌酔吟藁百首」)があり、うち「春十五首」の中から冒頭七首を次に掲げてみます。

  けふといへはまためつらしき味酒のみは酔なから春は来にけり

  色香をも知る人かたきむめ酒はすきものならてたれかのむへき

  霞たつなにはわたりのゐなかさけたか梅壺にいれてのむらむ

  三日の日の酒にうかへる花の名のもゝたひけふはのむへかりけり

  のむ酒のかすみのひかりあけ暮て花にゑひぬる名をもたつらむ

  春ふかきかめ山とののみやこさけはなたてまつる人やのむらん

  このもとにさけひつれたる酒ゑひは猿のはなみる心地こそすれ

 

 

麿(まろ)が身は(たか)くも貧しこの憂さを はき捨てやりて狂い詠みせん

──貧乏公卿の慰み狂歌

鎌倉時代に蕾をつけた狂歌は、室町期に入って第一次ブームというべき開花を見るに至りますが、家集など記録に残されているものはきわめて少ない。というのも当時、狂歌は本歌道から邪道扱いされていたからです。本歌崇拝のあまり狂歌の多くは「詠み捨て」が常識とされ、一人前に記録を残すなど許されないこと。本歌の権勢の前に狂歌は冷や飯食いに甘んじていたのです。

こうした事情をよそに、狂詠そのものは内容の愉しさで人々の関心をひきつけていました。殿上においてすら、折ふし内裏(だいり)狂歌合(きようかあわせ)が非公式に催されくらいですなかには永正五年狂歌合(きようかあわせ)のように貧乏公卿が寄り合い()(すさ)びに詠じた作品が記録された数少ない例があります。この歌合(うたあわせ)は、永正五(1508)年正月二日に某公卿の私邸で開かれたもので十番二十首が現存。内容は和歌とも狂歌ともどっちつかずの風が目立ちますが、狂詠未熟期の即席量産歌である点やむをえないと思います。

以下、見本用に三番までの六首だけ、(はん)()(優劣判定の短評)抜きで掲げておきます。

    一番 左

 今朝てらす日なたほかうに貧法の神代の春やたちかへるらん

     同 右

 ふるとしのたゝみたゝきてしきをんか風呂のほこりも春や立らん

    二番 左

 春立といふはかりにや三さいのときもかすみて今朝はみゆらん

     同 右

 節分にはけそこなひてふるころもきたる春こそおかしかりけれ

    三番 左

 御礼とてむれつゝ人のくるのみそあたら閑居の春にはありける

     同 右

 今は世にめたと酔たる我なれとさけかなけれは断酒をそする

 

 

柿なんどへたに付きつつ(くた)れども 落ちて味出す栗の実のよき

──狂歌に技巧を教えた栗本(くりのもと)連歌

室町時代の文芸は、連歌(れんが)に代表されるといってよいほど連歌の隆盛が目立ちます。そして和歌に誹諧歌が生じたように、連歌にも諧謔をそなえ誹諧体の作が現れ、これを「俳諧の連歌」といっています

俳諧の連歌は、歌人等の歌道外の余興として狂歌同様に読み捨てにされましたが、一方では一段俗っぽい狂歌にも少なからず影響を与えました。

平安末期に普及し始めた連歌は、鎌倉時代に入り二流派に分化します。本歌すなわち和歌寄りの「有心(うしん)柿本(かきのもと)」と俳諧りの「無心(むしん)連歌=栗本(くりのもと)衆」の両派室町時代に飯尾宗祇(いのおそうぎ)(14211502)という傑出した連歌師が現われ、斯界を統一する以前のことです。

 飯尾宗祇 北九州市命のたび博物館蔵

ちなみに宗祇の有名狂詠を一首、掲げてみましょう。

  音に聞有馬の出湯は薬にてこしをれ歌のあつまりそする

栗本衆の連歌は、言葉遊びの技法やきわどい表現を使って、広く大衆の支持を得ました。その代表的作品集といえるのが、編者未詳の『竹馬(ちくば)狂吟集』十巻で。とにかく、邪道扱いの俳諧の連歌に集ったのは画期的なことでた。

それからほぼ半世紀後、俳諧の連歌中興の祖である山崎宗鑑(?~1540)により『新撰(いぬ)筑波(つくば)集』がまれます。一巻のみですが、初期の発句付(ほつくつけ)()集でもあり、きわめて希少価値が高いものです。これら栗本の流れを汲む連歌の吟詠が、狂歌妙味を引き出す文彩(修辞)上の技巧を教えるに至りました。作品を読むと、詩体は違っても狂歌の親戚筋にあたることがよくわかります。ただし、連歌論(かなり複雑です)にまで手を伸ばすわけにはいきませんので、ここでは作品紹介等は控えます。

 山崎宗鑑は足利将軍家に仕官した後に出家、山崎に隠棲。「竹林の愚人」を自称した。

 

 

風来の狂客ありと知らしめし 頓知才知は一休みもせず

──圧巻、一休のいたずら道歌

一休宗純(13941481)は室町後期の禅僧で、頓知話などであまねく知られています。彼は言葉遊びにのせた道歌作りが巧みで、その詠は誰が賞してもわかりやすい。たとえば『一休水鏡』という自家集には、

 釈迦といふいたずらものが世に出でて多くの者を迷はするかな

 南無釈迦じや娑婆じや地獄じや苦じや楽じやだうじやかうじやといふが愚かじや

痛快じゃ! たいていの人が訳もなくありがたがって崇める釈迦や仏法を、一休は道歌で真正面からからかってみせました。仏教を私利私欲にしか利用しない拝金主義の末世坊主どもには、ことさら耳の痛い詠でありましょう。

 一休宗純は風狂の禅師としてつとに知られた

道歌は仏法の教えや道徳などを垂れるための短歌で、いわば説法とか法話の凝縮版といったところ。奈良時代には堂宇などで詠まれていましたが、ほとんどが抹香臭い類で、いただけるものじゃありません。しかし禅宗の僧のなかには一休弟子の蜷川(にながわ)智蘊(ちうん)のように禅問答の知恵を生かし、悟道みにみこなす者がました。

一休自らは「風狂の狂客(きようかく)」を名乗り、生涯を通じて求道と批評の精神をって、汚濁にまみれた権威主義(どう)戦いを挑み続けました。道歌には一休詠のような、下手な狂歌よりも楽しめるものも存在するのでちなみに仮名草子『一休なし』には興味深い詠がたくさん載せてあります。たとえば、

 有漏路より無漏路へかへる一休雨ふらばふれ風ふかばふけ

 よの中は月にむらくもはなに風近衛とのには左近なりけり

 桜ちる木のした風はさむからて空にしられぬ雪ぞふりける

 

 

長老(ちようろう)(さん)()ふざけて(ゆう)()とに 策伝(さくでん)ありやいかに(ゆう)(さい)

──狂歌を流行らせた先駆者たち

安土桃山時代は、中世末期と近世初頭をつなぐ狂歌壇形成の端境期にあったといえます。

狂歌はすでに上方にとどまらず、全国規模で広まりをみせ、公卿から武家、僧侶などの(もてあそ)ぶところとなっています。町人による落への参加も散見できます

見出し詠は当時活躍した名だたる狂歌作者五人の名を折り込んだもの。それぞれの略伝に作品一首を添えて掲げてみましょう。

一、細川(ふじ)(たか)玄旨幽(げんしゆう)(さい) (15341610) 

武将、歌人、茶人。信長、秀吉、家康の三代に仕えた重鎮。近世歌学の祖と称され、狂歌もよくした。

 鷲さへもこゐにおもひをかけぬれば

とぶ鳥も落るためしを(『玄旨百首』)

 細川幽斎は狂歌においても卓越した詠み手であった

二、(ゆう)長老(ちようろう)(えい)()(よう)(ゆう)(15471602)

  臨済宗僧侶、連歌師、狂歌作者。俗姓は武田、細川幽斎の甥。近世狂歌の祖とする者もいる。

   ひんほうの神を入れしと戸をたてゝよく〳〵みれば我身なりけり(『雄長老狂歌』)

三、安楽(あんらく)(あん)策伝(さくでん)(15541642)

  浄土宗僧侶、茶人、狂歌作者。落語の原点といわれる笑話集『醒睡(せいすい)(しよう)』の作者でもある。

   ほの〳〵と見る色あかし柿のもとにすむ人丸が錦うちきて(『策伝和尚送答控』)

四、本因坊算(ほんいんぼうさん)()(生没年未詳も安土桃山時代の人)

  日蓮宗僧侶(法印)、棋士(囲碁の名人)で本因坊初世。狂歌もよくした。次は彼の辞世詠である。

   碁なりせばこうをたてゝも生べきに死ぬる道には手もなかりけり(『古今夷曲集』)

五、藤本(大村)(ゆう)()(16471726)

  医師、漢詩作者、狂歌作者。『春駒狂歌集』の家集あり、江戸狂歌の先駆者。

   あら玉の年の初めに仕合(しあはせ)のまさるめてたや春の駒込

 

 

門奥に点取る(やから)ごされ 長頭風てい徳やおおきに

 

──上方狂壇を席捲した貞門

江戸時代に入るとそれまで異端視され続けてきた狂歌が、上方を中心に文芸の一端として認められる傾向が強まります。背景には戦乱の心配がなくなり落ち着いてきた世情があります。つれて通俗性が強いため詠み捨てであった狂歌作品もやっと陽の目を見て、記録され出版されるようになりました。のみならず、狂歌同好会のような寄合も各地に出現します。

江戸前期、狂壇の根拠地は京・大坂にありました。その中心人物が連歌師の松永貞徳(1571~1653)です。俳諧の連歌普及を推進した彼は、貞門一派を率い、俗語をふんだんに用いて詠むという新風を吹き込み、名声をより高いものにしました。この貞徳流俳諧道に多くの俳人が賛同し、短詩界における貞門一派の勢力はますます強固になっていくのです。

 月 松永貞徳 『集外三十六歌仙』

  雲とみへずこよひの月にうからましよしや吉野の桜なりとも

貞徳はひとかどの人物にふさわしく、門下や後輩の面倒見がよかった、と伝えられています。たとえば、俳諧仲間が自作の批評を請うとき、作品の奥に狂歌を詠んで点を取る(評する)といった、芸の細かいところをみせているのです。

上方狂歌の古典である『古今(ここん)()曲集(きよくしゆう)((せい)白堂(はくどう)行風(ぎようふう))巻九に次の贈答がみえます。

誹諧連歌百韻点取の奥に                                    日能法師

 書付る此はいかいはやれずのこたけのなければつゞられもせず

  返し                          貞徳 

  たけのある此俳諧をかきつけてやぶれずのこといふは盗人

    同じ点取の奥に                                                                                          玄札

  はいかいの功なり名とげ給ひなば我にも天の道を教へよ

      返し                                                                               ていとく

  (あつ)(はれ)やか程功なるはいかいの(てん)()の道には身退くなり

 これら例からも、貞徳の人となりがしのばれるではありませんか。それかあらぬか、貞門には北村季吟、安原貞室、松江重頼、野々口立圃(りゆうほ)半井卜(なからいぼく)(よう)ら粒いの俳人が弟子として名を連ねています

 さて、頭掲の拙作一首はあえて感心できない「(てら)い詠み」の見本用に披露しました(くわしくは192ぺージ参照)

理由を説明する前に必要な用語の注釈を加えておきます。

 点取り……詠草の奥付で評点を加えてその俳諧・連歌作品の批評をすること。貞徳は狂歌でそれをなしている。

 ごさん……貞徳著の俳諧式目『俳諧御傘(ごさん)』を指している

 長頭………貞徳の身体的特徴で、号の一つに「長頭丸」がある。

 この三語は互いに言い掛けの縁語関係にありますが、貞徳に関する右の知識をもたない人にとって、掲出歌は何を言っているのか不明でありましょう。このような自分本位の作品は、基本的におすすめできません。

 

 

あきまへんおめでたいやの雑魚三千 浪花で売れず江戸に食われる

──貞柳一門と浪花狂壇の盛衰

貞門一派が築いた上方狂歌は、門下の生白堂行風や宝蔵坊信海らを中心に狂歌集の板行という具体的な形で受け継がれました。信海には永田貞柳(16541734)という大坂出身の一番弟子がいて、信海没後に上方狂歌の拠点を京都から大坂に移し浪花狂壇を確立しています。

貞柳は御堂前の菓子屋「鯛屋」出身で、父(定因)や弟(貞峨)も俳諧・狂歌詠みという良血一統。とくにこの人、長男であったが家業よりも狂詠に熱を上げ、終に家業を捨て、僧体をなして狂歌道に邁進するといった異端ぶりを示しています。

あるとき奈良の詠友、墨屋古梅園が大墨を御所に献上することになりました。これを耳にした貞柳、

月ならで雲の上まですみのぼるこれはいかなるゆゑんなるらん

の一首を献詠。すると、やんごとなき筋から見事なりとお褒めにあずかり、これを記念して「油煙斎」と号した。いらい彼は鯛屋貞柳、または油煙斎(由縁斎とも表記)貞柳の名で親しまれています。

貞柳の偉いところは、それまで公卿、武家、僧侶といった学林派特権階級の文芸だった狂歌を、大坂という庶民の町にふさわしく民衆に溶け込ませた点にあります。

彼は師、信海の教訓である「狂歌を読むはただ箔の小袖に縄帯せるを風体と定めて学べよ」をもって浪花狂歌の哲学とし、門派普及をはかりました。この言葉のもつ意味は、「箔の小袖とは本歌や古語、縄帯とは俗諺俳語也」との認識にたったうえでのこと。しかし言の葉として格好は良くても、この教義は大衆にとって難しすぎました。信海の教え、貞柳自らは会得したものの、結果的に一人相撲に終わってしまうのです。

 永田貞柳の墓碑 大阪市天王寺区 光伝寺

  名にしおはこゝも安楽浄土ぞと願いの糸をかくる青柳

ときに貞柳は門弟三千を擁したと伝えられています。その中には木端(ぼくたん)芙蓉(ふよう)()といった名だたる高弟をはじめ、広島の貞佐、近江八幡の千賀、名古屋の(べい)()など東海から九州にまで貞徳の息のかかった弟子が多かった。千という数もあながち誇張とは言いれないほどでた。しかし狂歌作者として通用したのはほんの一握りの門弟にません

筆者蔵の狂歌文献資料中、浪花狂壇にかかわる作品の大半は読むに堪えない未熟な歌です。そうした低調に加え門弟同士の派閥争いがが禍いして、浪花狂歌は江戸中期頃までに弱体化をたどり、新興の江戸狂歌に取って代わられることになります。

●江戸初期の浪花狂歌の作品

宝蔵坊信海

手習の道にかなへと我ことし筆試る六十の春(狂歌秋の花)

由縁斎貞柳

秋の田のかりほの菴は朽すして千歳の後も猶聞えけり(由縁斎狂歌犬百人一首)

                                                   般若坊

津の国のありまの出湯はくすりにてこしおれうたの数そあつまる(新撰狂歌集)

沢庵和尚

あいうへて梢になりしかきくけこ御いんしんこそつうじたりけれ(古今夷曲集)

栗柯亭(りつかてい)木端(ぼくたん )

 としの内に春の手つけをはやかけて引渡したる山のはかすみ(狂歌手なれの鏡)

                                        戸田水月(すいげつ)

 子の日にはあらて鼠のすむ方の千代のためしを引やしつらん(きやうか円)

                                                                                 (こう)雲亭(うんてい)華産(かさん )

 わひことを言ふた昨日は小声にて今朝ものまうの調子高さよ(狂歌ならひの岡)

                                                                               瓢箪坊

南無阿弥陀いまそうき世のつるきれてみのなるはてはころりへうたむ(狂歌藻塩

草・上)

 

 

 

十五夜の見とくな月にぼく酔うて 酒飲んだよう芙蓉花も笑む

──在野の風来詠に徹した孤狼の詠み手たち

江戸初期から中期にかけ、忘れてならない一匹狼の狂歌師が三名います。未得、卜養、芙蓉花の面々ですが、花酒爺は上のような名入れの茶化し詠をいたずらしてみました。右三名も流派や狂歌連に属することはありませんでした。なかなか個性の強い人たちですから、大樹に寄り添うをよしとしません。門派にかかわらず、本職の余技に狂詠を愉しんだ風流の士という共通点があります。

各人の横顔は文献に託しましょう。資料集〔3狂歌作者〕113ページにくわしいので参考にしてください。

一、石田()(とく)(15871669)

俳人(貞徳門)、著作に『吾吟我集』ほか多数。卜養と並び江戸狂歌二大家として知られた。

二、半井卜養(なからいぼくよう)(16071678)

  幕府のお抱え医師で俳人(名目は貞徳門)。著作に『卜養狂歌集』ほか。

三、一本亭(いつぽんてい)芙蓉(ふよう)()(17211783)

  浪花の文人で絵も巧み。のち江戸に漫遊、江戸狂歌師との交遊も多かった。

 半井卜養() 『古今狂歌袋』

  借銭をせなかにせたら老か身ハ年くれすとも物くれよかし

 

 

今日もまた興がのっての座興なら すっとん狂に詠むも一興

──天明狂歌の胎動「狂歌会」

安永から天明の頃(17721789)、浪花狂歌はまだかげりを見せず、西日本において意気盛んなところをみせていました。しかしながら、どこかねちっこい詠風の歯切れの悪さは、江戸狂壇の歓迎するところではなく、学び得るところとて少なかった。この風潮は逆に、江戸前の気風(きつぷ)のよい詠風を引き立たせる役回りとなったのです。江戸狂歌隆盛の機は熟していました

おりしも、国学・漢学者で和歌に造詣の深かった内山椿軒(ちんけん)(賀邸、17231788)の門下には若く好学の才子がつどいました。のちに狂壇で名を馳せる三名(いずれも幕臣)、すなわち和歌に秀でた(から)(ごろも)(きつ)(しゆう)(17431802)、狂詩ですでに異才の名を高めていた四方(よもの)(あか)()(17491823)、よく学びよく遊べの秀才である朱楽菅江(あけらかんこう)(17381798)の顔も見えます。彼らはしばしば狂歌会を開いては狂詠に打ち興じました。

赤良はその様子を『奴師労之(やつこだこ)』で次のように述べています

江戸にて狂歌の会といふものを始めてせしは、四ツ谷忍原横丁に住める小嶋橘洲なり、そのとき会せし者わずかに四五人なりき、大根(おおねの)(ふと)()馬蹄(ばてい)大屋(おおやの)(うら)(ずみ)東作(とうさく)、四方赤良等なり

 顔合わせで人は人を呼び、やがて狂歌合に進展。記録に残された「明和十五番狂歌合」は、天明狂壇並びに江戸狂歌連(四谷連、山手連、堺町連、吉原連など)を成立させる推進力となったことで評価されています。

 ちなみに当時、「江戸狂歌三長老」といえば橘洲、赤良、菅江を指し、「狂歌四天王」とは宿屋(やどやの)飯盛(めしもり)鹿(しか)都部(つべの)真顔(まがお)つむり光馬場(ばばの)(きん)(らち)をいいました。

●天明狂歌師の作品

唐衣橘州

命こそ()(もう)に似たれなんのそのいさ(ふぐ)くひに雪のふるまひ(狂歌若葉集)

四方赤良

世の中は色と酒とがかたきなりどふぞ敵にめぐりあひたい(巴人集拾遺)

朱楽菅江

さかづきもさかなも水にながるゝはほろくゝゑい和九年母のかほ(万載狂歌集・巻二)

元木網(もとのもくあ )

 ふんどしがとけさうらうといふ声はわれに夜這の二人あるかも(万載狂歌集・巻十二)

平秩(へづつ)東作(とうさく) 

山のはに華ぢや雲ぢやとあらそひの中へ出る日や埒をあけぼの(万載狂歌集・巻一)

鹿(しか)都部(つべの)真顔(まがお)

  かたつぶり先から(つの)(いだ)すともやはりこちらは丸く寝ていん(万代狂歌集・巻六)

宿屋(やどやの)飯盛(めしもり)

  掛取りに尻尾をだにも出さじとや逃げて王子の狐火を見る(万代狂歌集・巻四)

つむり光

聞きし事尻へ抜くればほととぎすいつも初音の心地こそすれ(万代狂歌集・巻二)

 

 

()ヘのミと月経(つきのさわり)が喧嘩かい ケツ捲りせず仲直りせよ

──橘洲・赤良御両所の反目

一口に狂歌といっても詠風は人により大きな差異を生じます。一門の門弟は師の詠風に染まりがちですから、狂歌師匠が群居する狂壇にあって、門戸主義と派閥が生じて不思議はありません。天明狂壇とて例外にあらず。有名狂歌師を頂点とする結社がひしめきあって弟子取り競争に狂奔していたのです。

事実、()(ぐりの)釣方(つりかた)編『狂歌知足振(しつたかぶり)』という江戸狂歌師名寄せ(人名簿)によると、流派結社の多いのに驚ろかされます。橘洲の四谷連、赤良の山手連、菅江の朱楽連はどれも武士階級中心の結社、町人の多いのは元木網(もとのもくあみ)の落栗連、大屋(おおやの)(うら)(ずみ)らの本町連、宿屋(やどやの)飯盛(めしもり)伯楽(ばくろう)連、浜辺(はまべの)黒人(くろひと)の芝連、鹿(しか)()(べの)真顔(まがお)のスキヤ連などが連らなっています

流儀をめぐって結社同士の対立もありました。たとえば寛政になってからの話ですが、狂歌を「俳諧歌」と言い換え矜持を示すスキヤ連と、対抗して狂歌の生命は諧謔の笑いにありとする伯楽連とは、終始犬猿の仲であったと伝えられています。

対立といえば、橘洲と赤良という狂壇親玉同士の不仲も語り草になっています。

橘洲は内山椿軒門下の優等生で、和歌を詠ませたら同門で右に出る者がいない、と評判でした。狂詠においても当然、おとなしく格調高い詠み口となる。本人は「臨期変約恋」の詠題のもと、

 今さらに雲の下帯ひきしめて月のさはりの空ごとぞうき

と詠んだ一首が、下ネタを扱ったにもかかわらずきれいに詠みこなしている、と先生(椿軒)から褒められたことを自慢に思っています。

いっぽう赤良は、思い切りのよい詠み口、しかも言葉の弄し方が際立った上手です。頭の回転が速く学識に裏付けられた点も強みで(筆名、大田蜀山人として高名)、秀作の多さでは本邦随一といってよいでしょう。こちらはというと、「放屁百首歌の中に款冬(やまぶき)」の題で、

 七へ八へへをこき井出の山吹のミのひとつたに出ぬそきよけれ

同じ下種(げす)詠みでも両者は静と動、端正と奔放、水と油の対比が見られるではありませんか。これでは溶け合うはずがないわけ

そこへもってきて、橘洲は赤良の存在を無視した形で、天明三年正月『狂歌若葉集』を先発で板行。等格の相手に先を越されたとあっては、赤良とて手をこまぬいているわけにはいきません。追い討ちをかけるように『万載狂歌集』をまとめて出しました。

 唐衣橘洲 『後編狂歌五十人一首』

  世にたつハくるしかりけり腰屏風まがりなりにハおりかゝめども

しかし内容は後者のほうが格段に優れ、売れ行きでも差をつけています。これらの差は双方の溝をますます深める結果にもつながりました。両者の冷戦状態はしばらく続きましたが、仲立ちする人がいて、天明五年八月に手打ちとなりケリがついています。

天明狂歌を隆盛に導いた御両所のつまらぬイザコザは、御二方を共に尊敬してやまない花酒爺にとりたいへん残念な出来事でなりません。

 

 

唐衣ほつれはすれど(うた)(あや) うめえ一詠みうぐいす呼ぶ

──橘洲の酔心爛漫たる狂歌

橘洲は細川幽斎らの、くだけたなかにも格調ある詠風を範としていました。江戸狂歌に端正かつ典雅な趣きを添え、和歌に一歩近づくことで狂歌の格の向上を図ったわけ。彼の力量を知る格好の一首があります。

  酒のめばおのづ心も春めきて借金とりもうぐひすの声

クセがなく、技巧も程ほどに抑えた橘洲の秀作です。飲ン兵衛の心をくすぐる温かみが伝わってますね。わかりやすくて狂歌作りをめざす人のお手本になる一首。橘洲狂歌の魅力がここにあります。

しかしながら橘洲のこの存念は、歌意を軽んじ表現の面白味だけを重視するあまり、技巧に走った天明狂歌長老派とのあいだに衝突の結果を招くのです。つまりは狂壇の一方の雄、四方赤良や朱楽菅江らと対立、冷えきった関係に入ります。なお悪いことに、自分で編んだ『狂歌若葉集』は編集内容が生一本にすぎたため、その板行は商業的に失敗でした。多くの秀歌を残したわりに、橘洲の知名度は長老一派の連中に一歩譲る結果となってしまったのです。

橘洲自身、板行のカン所は何であったか心得ていたと思います。しかし彼は、めざとい商売人であるよりもうぐひすの声を選んだのでした。

ときに、この人の狂号「唐衣橘洲」には由来があります。時代はさかのぼり在原業平(ありわらのなりひら)(825880)が三河の八橋(やつはし)で詠んだ有名な()(りよ)歌があります。「かきつたといふ五文字を句の首に据ゑて旅の心を詠まんとて詠める」の詞書(ことばがき)のもと、

 ら衣つつ馴れにしましあればるばる来ぬるびをしぞ思ふ

 (『古今和歌集』巻九、傍点は荻生)

の毎句冠折句詠がそれ。業平が八橋で観賞した「かきつばた」の一語が各句頭に無理なく折り込まれている言語遊戯歌です。そこで師の内山椿軒が愛弟子のために、右の名歌に思い入れよろしく授けた狂号が「唐衣橘洲」でした。この一事からも、師がこの弟子をいかに高く買っていたかが偲ばれます。

 

四方の垢せんじてのめど舌足らず 赤ら朱らと酔うもせんなし

──赤良の作品はお手本揃い

全時代通して狂詠の格と力量を合わせ頂点をなした狂歌師は誰か──答えは四方赤良(通名は大田蜀山人)にほかならず、ということになりましょう。彼の高名ぶりを披露する逸話があります。

  安永六(1777)年、俳人の大島(りよう)()が『蓼太句集』の序文を乞いに、酒を本携え赤宅を訪れました。そのさい蓼太は、

 高き名のひゞきは四方にわき出て赤ら〳〵と子ともまて知る

の自作を披露し、赤良を感心させたといいます。時に赤良まだ二十九歳、片や蓼太は六十歳で俳壇では長老格の扱い。この一件をして赤良の人気のほどが察せられますよね。

 四方赤良こと大田南畝(蜀山人)については、狂歌関係書を中心に評伝等ですでに十二分に書かれているので、出がらし書きの愚はさけましょう。

一言だけ述べますと、天明狂壇の第一人者であるから、彼の作品は一級品揃いなこと言うまでもありません。学があるにもかかわらずそれを衒い示さず、屈託のない詠み口に好感がもてます。

 四方赤良 北尾政演画『吾妻曲狂歌文庫』

  あなうなぎいづくの山のいもとせをさかれて後に身をこがすとは

以下作品の一部を列挙しますが、普段狂歌に触れることの少ない読者にも、内容の面白さを味わっていただけるはずです。いずれも赤良自身が編んだ『万載狂歌集』の所収。

     小むすめのはねつくを見て

  はこの子のひとこにふたこ見わたせはよめ御にいつかならん娘子(巻一)

     月前風

  酔さめの心も月の縁さきに風のかけたるひとえ物かな(巻五)

     馬喰町旅宿

  夢むすぶ浅草まくら柳こり花のお江戸に旅寐せしかな(巻八)

     男色

  女郎花(おみなへし)なまめきたてる前よりもうしろめたしや藤はかま腰(巻十一)

     (本歌取り)

  いたづらに過る月日もおもしろし花見てばかりくらされぬ世は(巻十五)

 

 

江戸焦がし天上天下ゆるがすは 花火か雷か熱き狂歌か

──群雄割拠の江戸狂壇

天明から文化・文政の頃にかけ、江戸狂歌は盛りの頂点を迎えます。わかりやすくスパッとした粋な詠み口は庶民の歓迎するところで、各地に結社が生じ群小の狂歌会が催されました。

そうなると当然、狂歌詠みの上手つまり狂歌師のもとには教えを乞う門弟がたくさん集まり、その数が人気を測る尺度とされます。江戸の主だった狂歌師は狂歌指導だけで食っていけました。なかには点取り(評点の高い作品に景品などを出す)に長け、これを半ば商売にして安くはない教授料や点料を稼ぎまくるいかがわしい師匠まで現われています。

広い江戸には落首詠みが道楽という一種のマニアもいて、世の不条理や著名人の失策を落首であげつらっています。彼らまた、たいていは狂詠連に属し、狂歌の手ほどきを受けた者が多かったのです。

ではここで、狂歌集などによく顔を出す有名狂歌師の作品をざっと眺めてみましょう。端止め手の方にもわかりやすいように、平易な詠を選びました。

●江戸狂歌師の作品例

つむりの光

わがうき名閻魔の帳にかゝれんと思へばまさか恋も死なれず(狂歌才蔵集)

 つむり光の筆跡 『絵本譬喩節』序

酒上(さけのうえ)不埒(のふらち)

  婚礼も作者の世話でできぬるはこれ草本(くさほん)のゑにしなるらん(徳和歌後万載集・巻十一)

                                      馬場金埒(ばばのきんらち)

  花はみなおろし大根(だいこ)となりぬらし鰹に似たる今朝の横雲(狂言鴬蛙集)

                               大屋裏住(おおやのうらずみ)

  此家はたとへのふしの火うち箱かまちてうつて目から火が出る(万載狂歌集・巻十五)

(はま)(べの)(くろ)(ひ )

 ほとゝぎす富士と筑波の天秤に両国橋をかけたかとなく(徳和歌後万載集・巻二)

                                  手柄岡持(てがらのおかもち)

 水心なければ質も流されて(あわせ)のぬきできるもきられず(狂歌才蔵集・巻三)

山手(やまての)白人(しろひと)

 につこりと山も笑うてけさは又きげんよし野の春は来にけり(徳和歌後万載集・巻一)

花道(はなみちの)つらね

たのしみは春の桜に秋の月夫婦中よく三度くふめし(万載狂歌集・巻十三) 

 花道つらね 『狂歌五十人一首』右掲歌

この狂号は歌舞伎役者の五代目市川団十郎のもの。

 

 

もとなりは狂歌へたでも嫁がよし 女郎をつるに稼ぐうらなり

 ──こんな異色の狂歌師も

 加保茶元成(かぼちやのもとなり)(?~1828)は天明狂歌師の一人で江戸吉原の妓楼主という変り種でした。

 まず、この人が作った異色の一首を見てみましょう。

加保茶元成

へへへへへへゝゝゝゝゝゝへゝゝゝゝ 

へゝゝゝゝゝゝへゝゝゝゝゝゝ(徳和歌後万載集)

掲出狂歌の詞書(ことばがき)に「ある人の放屁しけるをかたへの人わらふあまりに回文の歌よめといひければ」と、他人のプー調法に悪乗りした体を装い作った作品。たしかに上から読んでも下から読んでも同じ音になる回文ではありますが、出来た作は「なァんだ」程度のもの。コロンブスの卵ではありませんが、発想の奇抜さだけが取柄です

歌意など一昨日来いとばかり、言葉遊びもここまで徹底するとほほえましくすらなりますね。

ところで元成の妻も木綿子(ゆうし)と号する女流狂歌師です詠歌の上手という点では亭主を尻に敷きっぱなし。二人は吉原で大文字屋楼を経営するかたわら狂歌作りにいそしみましたちなみに43ページの長歌体狂歌「伊豆国熱海御湯にまかりて」と題した一首も元成の作です。

 加保茶元成 絵師未詳

四代続いたので初代を加保茶市兵衛といった。

 女郎屋主人だけでなく、遊女のなかにも太夫級になると教養人がいて、狂歌詠みも何人かいました。

 遊女歌姫 『吾妻狂歌文庫』

ふるかゞみ施主にハつかじかくばかりわかれにつらき鐘としりせば

 四天王の一人である馬場金埒は、本業が数寄屋橋の金貸しという異色の存在。銭屋金埒でも通り、とうとう由来を狂号にしてしまいました。

 馬場金埒 『吾妻狂歌文庫』

  我心あけてミせたき折々ハ胸に穴ある島もなつかし

当時、安南国(ベトナム)の人たちを胸に穴を開けた穿胸国人と異端視。金埒は、それを商売の銭通しに見立てこの一首を茶化し詠みしています。

変り種のとどめは、尻焼猿人。画家で知られた酒井抱一その人で、なんと姫路城主酒井忠以の弟という身分にありました。

(しり)(やけの)猿人(さるんど) 『吾妻曲狂歌文庫』

  御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の王と見ゆらん

 

 

日の本の内外(うちそと)(えびす)ざわめきて 恵比寿歌めも尻に火がつく

──江戸狂歌と狂歌師の後退

天明の年号が寛政に変わると、いうところの寛政の改革なる幕政刷新が断行されます。音頭をとったのは老中松平定信で、儒教精神をもってその倹約に徹した施策下、奢侈の風を一掃するという理由で、狂歌もまた目の敵にされました。おりしも、

 世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといふて夜も寐られず

の一落首が文武を奨励する幕政を批判。これが幕臣の身である四方赤良の作である、という噂がたちました。そのため赤良は取締りの任にある御徒歩士頭に尋問を受けるはめになったのですが、自分の作ではないと強く否定しています。もし彼の詠でなければとんだ濡れ衣なわけで、この一件で狂壇に嫌気がさし、離れ去っていきます。

あたら天与の才もここに至り()がれてしまったわけです

 つれてこの時期に幕府への遠慮がそうさせたのでしょう、武士の狂歌作者や戯作者が相次いで第一線から身を引いています。やがて江戸狂壇は飯盛、真顔、光、金埒の町人四天王の時代に入りました。幕府の目を盗んで狂歌本の板行も盛ん、狂歌熱にまだ衰えの様子はありません。

こうしたおり、飯盛と真顔の対立が生じたのです。

言葉遊びや弄辞の諧謔あっての狂歌である、とする飯盛に対し、真顔は狂歌の俳諧歌寄り、すなわち品格を重んじた詠こそ狂歌道の帰着であるという主張を譲りません。この辺のいきさつは物の本に詳しいので省きますが、両者の敵対は人びとを興冷めに陥れ、狂歌離れにも影響を与えたはずです。この二人は仲直りしないまま文政末に物故し、また天明期に名をあげた狂歌師の多くも化政期を過ぎる頃には亡くなっています。

天保年代以降の江戸狂壇は、(さか)(づきの)米人(こめんど)三陀(さんだ)()法師浅草(あさくさ)(あん)市人(いちんど)(しやく)薬亭(やくてい)長根(ながね)下手(へたの)内匠(たくみ)らが支えましたが、往時の活気はすでに消滅してしまいました

嘉永に入ると、世情がにわかにあわただしくなります。ペリーらの外国船入港は国勢を脅かし、開国か攘夷かをめぐり争いを展開しつつ幕末を迎えていきます。ために人心も狂歌を愉しむ余裕などなくし、代わって幕政やら外国の侵入やらを槍玉にあげる落首(項を改めて述べましょう)が爆発的に増えています。たとえば左掲のかわら版では、狂歌をマンガにしたような絵がもてはやされ、庶民の鬱憤を晴らしました。

そして幕末に至ると、かつて天下を謳歌した狂歌は見る影もなく寂れ、狂歌作者そのものも物好きと評される存在でしかなくなってしまうのです

 

 

あわれなりきょうかあすかのそのいのち くたばりもせずうかばれもせず

──近代狂歌作品に見る余喘

幕末から明治初期、狂歌は半ば死に体をさ

らしたようなもの。作者もほとんど姿を見せなくなっています。狂歌本版行もすたれ、作っても発表の場がありません。

しかしながら明治八、九年あたりから一握りの狂歌愛好者が新聞、雑誌への投稿という形で息をつかせていました。世襲の判者である四世絵馬屋、二世琴通舎、文の屋といった面々が月次(つきなみ)会を率いて活躍。一は天明ぶり復活を思わせる賑わいを見せました。投稿作品も時事詠みの投稿を中心に落首が多く、江戸期の洒落た本格派はもう影が薄れています

そうしたなかでの作品の一部を掲げておきましょう。時事詠であるという不利を除けば、狂詠の面白味はまだ失われたわけでなく、鑑賞に十分堪えうる質的内容をもったものも少なくありません。

●明治狂歌の例

案山子

斬髪の中にチョン髷二つ三つなおあまりける昔なりけり(幕末明治風俗逸話事典)

仮名垣魯文

肥ゆえのやつれと知らでよそ目にはうさん臭しと嗅ぎつけやせん(同右)

                                      よみ人しらず

渡り行く先はいろはの加奈(かな)()とて船には(えい)もせず京美人(大阪朝日新聞・明治四年十一月投稿) 

*わが国初の渡米女子留学生一行を詠材としている。                (落首)

思いきや親にもかくす身のほとを月々三度しらるべしとは(『開化新題詠集』) 

*明治初年、娼妓の黴毒検査を詠んだもの。ほと=女陰。                                         (投書)

                                      よみ人しらず

相性にめぐる兎の七ツ目に当る黄金をトリ年の春(童戯百人一首) 

*明治六年の兎ブームに寄せて。

岩井麻呂こと梅亭金鵞

世の中のことは()東京(どけ)()四角より人は笑顔を見する団団(まるまる)(団団珍聞・明治十年四月創刊号) 

*絵入新聞である同紙へ寄せた祝賀歌。作者は幕末明治の戯文家。

  (さい)(たんの)()                                             真木痴囊(まきちのう )

 雑煮腹はるの放屁(おなら)のおとし玉まず明けまして臭き奥の間(驥尾(きび)(だん)()一六六号) 

*出典は明治十一年十月創刊、団団の姉妹紙。

 『驥尾団子』復刻版(柏書房刊)

 

 

へんてこりん三十一(みそひと)文字の合の子は 短歌にあらず狂歌でもなし

──近代・現代の滑稽短歌

短歌のうち滑稽で卑俗な内容のものを「滑稽短歌」と呼んでいますが、なんのことはない、当世俳諧歌そのものです。ただこの称は近代になってから現れています。

滑稽短歌は狂歌に近い存在であるものの、狂歌のように表現上の技巧を重視したものではなく、内容的に諧謔の短歌をさすわけ。

滑稽短歌の元始は、狂歌と同胎の『古今和歌集』巻十九所収の誹諧歌です。なかでもくだけた作品、たとえば、

よみ人しらず

  梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくといとひしも居る

とか、あるいはまた、

(おおし)河内(こうちの)()(つね)

  睦言(むつごと)もまだ尽きなくに明けぬめりいづらは秋の長してふ夜は

といったところは典型的な滑稽短歌といえます。

 とはいえ、まだ狂歌に不慣れな人たちに、狂歌なのか滑稽短歌なのか判定は難しいでしょう。慣れるにしたがい判別できるようになりますが、詠歌の中に卑俗語が入っていたら狂歌である、という見分け方も一つの方法です。

 近世黎明期になると、引例は省きますが、細川玄旨幽斎のいくつかの作のように、風体は狂歌、実は滑稽短歌といったものもあります。しかし江戸時代では狂歌一辺倒の感があり、よしんば滑稽短歌であっても狂歌の呼称中に組み込まれています。

 近代以降はこれが逆となるのです。「狂歌」の呼称は大正時代を境に衰微し、代わりに滑稽短歌がもてはやされてくる。現代ではこの裏返し傾向がいっそう強まり、実質狂歌も滑稽短歌一色に塗り替えられています。

●滑稽短歌の作品例

樋口一葉

行く水もうきなも何か木の葉舟ながるるままにまかせてをみむ(1892年『恋の歌』)

 (写真)                

山田稲子

今まても老せぬ人のおもかけをとむる鏡もある世なりけり(1893年『千代田歌集』第三編)

与謝野鉄幹

泡ふきて、横さにわしる、蟹の子も、世をいきどほる、ともにやあるらむ。(1896年『東西南北』)

天田愚庵

正岡はまさきくてあるか柿の実のあまさともいはずしぶきとも言はず(1897年『愚庵和歌』)

与謝野晶子

くろ髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる(1901年『みだれ髪』)

山川登美子

見じ聞かじさてはたのまじあこがれじ武蔵のあなた十里におちよ(1905年『恋衣』)

若山牧水

ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな(1908年『海の声』)

森 鴎外

火の消えし灰の窪みにすべり落ちて一寸法師目を(みは)りをり(1909年『沙羅の木』)

石川硺木

「さばかりの事に死ぬるや」/「さばかりの事に生くるや」/止せ止せ問答(もんだふ)(1910年『一握の砂』)

 *異体の狂歌である。

岡本かの子

愛らしき男よけふもいそ〳〵と妻待つ門へよくぞかへれる(1912年『かろきねたみ』)

北原白秋

ろくろ見るろくろが廻るただうれし陶器師(すゑものつくり)はろくろ廻せる(1921年『雀の卵』)

吉井 勇

たはむれに百虫荘と名づけけりわれをも虫のなかにかぞへて(1934年『人間経』)

 吉井勇は愛酒歌人としても知られていた。

 

 

相手居ず一人相撲の狂歌詠み 千秋楽も四股の地団駄

──現代は狂歌不毛か

現代は公開された新作の狂歌作品を目にすることがほとんどないといってよいでしょう。

江戸狂歌が隆盛を極めた天明期には及ぶべくもないのはもちろん、衰退途上にあった明治時代と比べても、狂詠活動は無に等しいと思います。感心させられるような狂歌作者も、荻生の知るかぎり一人も見当たらなくなりました(物故者ですが、寺山修司は数少ないその一人)。同じ短文芸でも川柳が今日的人気を得ているのとくらべ対照的です。

百万人の文芸といわれているほど川柳が手軽になじめるのと異なり、狂歌の場合は、歌道の基本を身につけていないとよい作品を生み出しにくいのは確かです。しかし案ずるより生むが易し、見よう見真似の初歩作品であっても、かなりのレベルまで上達する可能性があります。

 狂詠成立の根元に必要とされた教養が邪魔をしたのは確かでしょう。横丁の熊ッ八に和歌の素養、古典籍の知識を求めたところで、落語ではないが「たらちね」のお笑いぐさに終わるのがオチです。古典文学志向の薄れている現代ではなおさら、文芸の一分野として成りがたいものになっているのが偽りないところです。

盛りの頃の天明狂歌を振り返ってみても、確かに浜田論(èページ)に見るとおり、背景知識を知らないと難しすぎてついていけない作が少なくない。しかし衰退の大きな理由ではあるが、原因のすべてではないのです。

およそ文学文芸の各分野には、時代の波にのった生き様というものがあります。今時の短歌や詩を古典作品と見比べてみてください。独り歩きが目につくはずです。

短歌では自由律とかが横行し、和歌伝統の韻律美の片鱗すらうかがえなくなりました。大方の現代詩に至っては、詩心不在、感性も排除、乾燥しきった難解語の羅列ではないですか。それでもドッコイ生きながらえている。俗物が身を飾るため勲章をぶら下げて喜ぶのと心底は同じで、現代詩人のマスターベーション傾向であるにしても(いずれ姿を消すことになりましょうが)、今のところ命脈を保っています。レッテルがまだはげ落ちていないから、まだ悪貨に良貨が駆逐されていないからですよ。

往時の狂歌はどうでしたでしょうか。一首詠むにも学識やら故実やらの裏付(その実は衒い)を披露し格好を付ける。これでは大衆の心情から遊離するのは当然、狂歌師は自分で自分の首を絞めてしまったのです。まして万事に(こら)のなくなった現代社会あって教養とか縁辺知識をまとわせていたのでは受け入れられようはありませんや

いま一度繰り返します。狂歌作りにおいて知識や教養は部分であり、すべてではないのです。

狂歌の持ち味は詠にうたわれた諧謔の精神に尽きます。これは知識や教養とは切り離して考えるべき課題でして。みんなが理解できるようなやさしい表現で、すなおに愉しめる──そんな狂歌があっても不思議でないはず。

これが「新狂歌」なんです。

古典狂歌を現代にマッチさせ、ケータイを用いる万人向けに仕立て直した「新狂歌」なら、あなたも比較的短期間のうちにマスターし、新しい狂詠を愉しむことができましょう。それを鑑賞しうる人たちもまた増えるはずです。

先に掲げた唐衣橘洲の詠、「酒のめばおのづ心も春めきて借金とりもうぐひすの声」は平成狂歌としてでも通じる名歌です。彼の教養や博識がなんら邪魔しておらず、表現も平明。それだけに掛詞(かけことば)縁語言い掛けの面白がすんなり理解でき狂詠の生命とする諧謔精神も十二分に発揮。彼の作にはほかにも似たような秀歌たくさん存在します

では「作者の教養が鑑賞者の理解の邪魔をする」とはどんな場合をいうのか。具体的な作例を俎上にあげ明らかにしてみましょう。

 

宿屋飯盛

歌よみは下手こそよけれ天地(あめつち)

     動き(いだ)してたまるものかは

 (狂歌才蔵集巻十二)

 

まず、読者の皆さんに問います。

飯盛のこの一首をあなたはすんなりと理解されたでしょうか。いちおうやさしい言葉で詠まれてはいますが、初めて接する方は、何を言いたいのか歌意がよく理解できないだろう、と愚察します。

順を追って説明しましょう。

『古今和歌集』仮名序に選者の一人紀貫之筆による「力も入れずして天地(あめつち)を動かし目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ…」という和歌をじた一文があります。古今集といえば最初に編まれた勅撰和歌集であり、格式の点で古典歌集中随一の存在。この序文を飯盛は「歌詠みは下手でちょうどよい。なまじ上手に詠んで天地が動き出したりしたらたまらない」と冷やかしてしまったのです

この狂詠の主がよくなかった。飯盛は狂号にすぎず、じつは和漢の書に精通した市井(職業は旅籠屋の主人)の国学者として名を馳せた石川雅望(まさもち)その人なのです。この狂歌を目にしたこれまた高名な国学者の平田(あつ)(たね)は激怒し、「道の神聖を侮辱するもの」と非難しました。ところが庶民感覚のほうは面白がって狂歌師のを持ったので。篤胤先生の憤慨は空振りに終り、飯盛の名前と作品は以前にも増して人気になったといいます

さて、飯盛の一首は古今集序の言葉を知っていてはじめて狂歌としての面白さが味わえますよね。しかし一般の人たちで古今集の序言まで頭に入れている人など少ないでしょう。ということは、せっかく平易に詠んだこの詠も、ごく限られた知識人の間でしか生きないことになる。まして熊八連にとっては珍紛漢紛。学のあるご隠居か貸本屋から話を聞いて、やっと解釈のメドが立つことになるのです。

飯盛はなまじ学識を踏まえて詠んだがために、やさしく詠んだつもりの作品を台無しにしてしまったわけ。あたら教養が邪魔をしたのです。

 宿屋飯盛こと石川雅望