ステップ2 狂詠の体あれこれ

 

 

古典狂歌の歴史についてざっと学びました。

次は、昔の狂歌はどんな態様で詠まれたかを知る必要があります。

一口に狂歌といっても、いろいろなな詠み口種別の集合体で、伝統的に受け継がれてきた系類というものがあります。それだけに詠み口の一つひとつについて、どんな特徴や内容をもつのか知っておくのも勉強になります。新狂歌作法に応用できるからです(狂歌の詠態は、ステップ5で扱う狂詠テクニックとは異なるものです)

まず最初、詠み口ではありませんが、現代流にレディファースト、狂詠の特異な存在であった「女流狂歌師」に焦点を当て、このステップの幕を開くことにします。

 

 

くノ一がよろめき詠みし婀娜(あだ) おのこ一匹ふるい

──殿御をしのぐもあり女流狂歌師

女狂歌師が世に現れたのは江戸、それも中期のことです。それまで女性は和歌をたしなんでも、俗垢にまみれた狂歌を詠むのははしたない行為と見られ女流狂歌師はほとんど存在しませんでした。

しかし狂壇の重しが上方から江戸に移るや、江戸っ子の気風(きつぷ)の好さが粋と色気をチラチラ発散させる女作者を認める風潮になる。狂歌集にも女名前の詠者ちらりほらりと見えはじますが上手ということになると数の上では比較にならないほど寂しいものでた。でも女らしい着想やきめ細やかな気配りは、立派に詠法の一つに数えられます。

意外に目立つのは夫婦狂歌師。亭主が狂歌詠みだとその薫陶を受け女房も、という例が多いのです。たとえば智恵内(ちえのない)()は元木阿弥の、(ふし)(まつの)嫁々(かか)は朱楽菅江の妻で名実ともに「おしどり一流した

●江戸女流狂歌師の作品

節松嫁々(ふしまつのかか )

 照る月の山ばかりかは里いものますのすみからすみのぼる影(徳和歌後万載集・巻三)

すは子

かきほより姿をちらとみけ猫のまたたび〳〵におもひみだるゝ(同右、巻九)

 

智恵(ちえの)内子(ないし  )

 箱入のおり姫なれどこのゆふべ天の川原(かはら)へくだりさうめん(万載狂歌集・巻四)

 玉子(たまごの)()久女(くじょ) 『吾妻曲狂歌文庫』

染まるやらちるやら木々ハらちもないいかに葉守の神無月とて

大坂屋かね女

秋の野のそよ〳〵風にさそはれてはきもあらはや寝みだるゝ露(同右、巻五)

恒子

人目をば忍びもあへず色つきて心かよはす御所かきのもと(同右、巻十二)

文莫女(ぶんばくじ )

 うかれめのつみもあさ日のかけ頼む二世の願にみせの苦はなし(同右、巻十六)

●遊女の狂歌作品

なかには江戸のあだ花であった遊女が残した作品もいくつか見えます。

 遊女はた巻 『吾妻曲狂歌文庫』

  天の戸もしばしなあけそきぬぎぬのこのあかつきをとこやみにして

 

こそ泥の仁義で()ろか(ほん)の歌 狂歌心ほんわかになる

──古歌から一部拝借「本歌取り」

「本歌取り」は、詠歌のうえで出所とする有名古歌の一部を借り、これを軸に、自詠の趣向を凝らしたり、情緒や想念の強調を図ったりする技法です。これはあくまでも和歌の文彩(修辞)法の一つであり狂歌の表現技術ではありませんから、詳解は歌学書に譲ることにしましょう。

これも本歌取り狂歌ともなると趣きが違ったものになってきます。狂詠の目的は滑稽道化(どうけ)内容に重きをくため、本擬歌との歌調の差異はきわめて大きく、場合によっては本歌取りの規範(その多くは藤原定家が定めたもの)すら無視されます。ということは、表現がかなり弄辞化されていることを意味します。事実、江戸・上方を問わず本歌取り狂歌がじつに多いのです。一例を有名作品から引くと、天明狂壇の雄、四方赤良の詠に、

 七へ八へ屁をこき井出の山吹のミのひとつたに出ぬそきよけれ

という、はなはだ尾籠な一首。これは「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」(兼明親王作『後拾遺和歌集』巻十九)の本歌取りで、極度に卑俗化しています。

 この作に限らず、本歌取り狂歌の多くは、本歌の残像の一片すらうかがえないほど戯歌へと改変されている。往昔、狂歌が詠み捨ての一過性文芸にすぎなかった事情を思えば、やむをえないことではあるのですが。 

 本歌取り狂歌で目につくのが「小倉百人一首」の模倣です。伝統の歌留多遊びを通して馴染深い歌揃いですから格好の対象でした。

 なお、本歌取り狂歌を作る要諦は次の三点に絞られます。

         本歌が多くの人に知られた有名歌であること。

         本歌取りであることがはっきりわかる歌体に整えること。

         しかも借辞句はできるだけ短いものにすること。(古典歌学の第一人者藤原清輔『奥義抄(おうぎしよう)』によると、本歌取りは「盗古歌証歌(こかぬすみあかしのうた)」としているくらいで、長すぎる借辞は泥棒歌になる)

新狂歌では原則として本歌取りを対象としません。

 の理由は、本歌そのものがたとえ有名歌であっても、今日知る人は限られていて汎用性に欠けるからです。ただし、詠歌に併せ本歌が併記され即時に本歌取りであるとわかる場合、あるいは広く知れ渡った「百人一首」などは、この限りでないことにします。

【本歌取り狂歌の作品例】

●古歌より本歌取り

平秩東作

男なら出て見よ(らい)にいなびかり横にとぶ火の野辺(のべ)の夕立

←春日野の飛火の野守いでて見よいまいくかありて若菜摘みてむ/よみ人しらず、『古今集』巻一

 平秩東作 『古今狂歌袋』

  鴫ハミえねと西行の歌ゆえに目にたつ沢の秋の夕ぐれ

                                        宿屋飯盛

背も腹も(のみ)にくはれてかゆければよるの衣をかへしてぞ着る

←いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞ着る/小野小町(『古今集』恋二)

(はく)鯉館(りかん)(ぼう)(うん)

  不自由な旅にしあれば(しひ)の葉にめしもりあげてたのしみぞする

←家にあればけに盛るいひを草枕旅にしあれば椎の葉に盛る/有馬皇子(『万葉集』巻二)

●百人一首より本歌取り

由縁(ゆえん)(さい)(てい)(りゆう)

 天の原ふりさけ見ればいかのぼり雲の浪より出でし凧かも

←天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも/阿部仲麻呂

四方赤良

由良の戸を渡る舟人菓子を食べお茶の代りに塩水をのむ

←由良のとを渡る舟人かぢをたえ行衛も知らぬ恋のみちかな/曽根好忠

唐衣橘洲

まづひらく伊勢の大輔(たいふ)がはつ暦けふ九重(ここのへ)も花のお江戸も

←いにしへの奈良の都の八重さくらけふ九重ににほひぬるかな/伊勢 

 

狂歌師は行くさきざきが歌まくら 稚児(ちご)おやまあり男女(みなの)(がわ)あり

──四方山景色を茶化す「名所(などころ)詠み」

一般にいう名所(めいしよ)歌学用語では「などころ」と和語で呼んでいます。各地の名所はたいてい決められた「歌枕」という特定の枕詞(まくらことば)を使って歌の中へ誘導する役割をはたしています。名所は「()(りよ)歌」という旅情を詠んだ歌に付き物で

狂歌にも和歌同様、各地の名所や景観を主題にした作が少なくありません。もっとも狂歌の場合、名所といっても和歌のそれとは必ずしも一致しないし、歌枕形式も無視した作がたくさんあります。

●名所詠み狂歌の作品例

法蔵坊(ほうぞうぼう)(しん)(かい )

 機嫌よく旅に出雲の門出にさまがに祝ふ酒のさんしう(古今夷曲集・巻六)

加藤(えい)()(あん)

  江ノ島へ夫婦旅立つ道なれば焼餅坂は心して行け(我衣・巻十) 

伊勢村重安

やかずとも草の餅をば春日野の春なぐさみにもたせたらなん(古今夷曲集・巻一)

松永貞徳

北野辺しはす通れば借銭をおい松もありこうばいもあり(古今夷曲集・巻八)

斉藤徳元

はらみぬる女の腹かこゆるぎのいそぎひもときむめざはの里 (古今夷曲集・巻九)

馬塲(ばばの)(きん)(らち)

  雪ならばいくら酒手(さかて)をねだられん花の吹雪(ふぶき)の志賀の山駕(やまかご)(万代狂歌集・巻一)

智恵内侍

ただひとめ見しは初瀬の山おろしそれからぞっとひきし恋風(狂言鴬蛙集・巻十一)

平秩東作

ながれゆく蝋燭(ろうそく)の金がしいなあ一夜三百ごくの船(万載狂歌集・巻三) 

*隅田川花火の観衆が費消する一夜の蝋燭代が三百両に達するという話を踏まえて。

手柄(てがらの)岡持(おかもち)

  玉川を色なる女夫(めをと)越えぬれば白と赤とのはぎ見えにけり(理斎随筆・巻六) 

*六玉川のうち「野路の玉川」、萩の名所を脛にかけた詠。

 (きの)定丸(さだまる) 『吾妻曲狂歌文庫』

  大井川の水よりまさる大晦日丸はたかでもさすかこされす

かたにする三十一(みそひと)仕切る札なくば ごしちで流せ草の長うた

──五七の韻律美でつづる長歌(ちようか )

 古歌に短歌と長歌があるように、狂歌にも長歌作品にお目にかかることがあります三十一文字では言いたい内容を伝えきれない場合など、長歌仕立という手段をとるのが普通です。

しかし文字数に制限のない歌はとかく冗長になりがち。その所を防ぐためにも詠材と内容に吟味工夫が必要です。

ここでは狂歌の長歌、対照的な二例を引いておきます。前者は正統派、けれども温泉につかりながら口ずさむと単調な調べに眠くなってくるかも。後者のほうは古典とはいえませんが、明治生まれ横紙破りのバレ(破礼=卑猥)長歌。湯上りに一杯やりながらがピッタリの御肴歌ですぞ。

●狂歌の長歌作品例

加保(かぼ)茶元(ちやのもと)(なり)

     伊豆国熱海御湯にまかりて

わきいつの あたみの御湯に きてみれは まへははるけき 沖津なみ とたりはたりと うちよせて うしろはたかき あしひきの やまひにこまる 人はかり 何とせんきに しやくつかへ ひせんかんかさ しつふかき おゐとあたりを さしやなき ねふかくみゆる ねふ川の せきもこん〳〵 こんとなく 狐の声と もろともに きくはたぬきの はらつゝみ ちゝとさひしき をりからは たゝのみくひに 日をおくり あしたは門に たちていつ 夕は庭に たちいてつ そこらしよなめく むすめらか ひよんなしやつらを うちみれは 真くろ鬼も 十八の にくからさりし すかたにと 人みないへと まことかや 人のいひつる つのさはふ いはに目はなの つきしこと はたすさましと みえつるは 雲の八重たつ 山の神 あれもたれにか 内義にと しはしまもれは 沖津藻を かしらにゆひて かるいしを きひすになして たちまふを 見るになくさむ かたそなき こしにさいたる たひかたな さひこおとりを おとりつゝ うしほ煮にせし ますみ鯛 あらかん舞を 見さいなと やう〳〵ひいふ みめくりの 日数すくれは はしり湯の 神のしるしと うれしくて 飛たつはかり あしはやめ 荷もちつくらひ この宿を うしろになして さらは おさらは

しなたてる草さへいくときく湯をも水にしなして立かへる哉(狂言鴬蛙集・巻十八)

南 翠

      道鏡ながうた

人ならば八寸九寸 馬ならば一尺余りと なりなりてなり余るべき もののふの男の物も 自から限りあるらし 神ながら定りあらんを むし芋の弓削の法師 道鏡がもてりし物は これよりは短かれ共 膝よりは長しと云へるを 春日べのお奈良の宮に かしこくも聞上(ききあげ)玉ひ ()脚にまながりみんと 其が膝を枕にせんと うちまきのうちの渡りに (つき)(こめ)のめし(まし)しより 紙屑の(はり)()のごとく 朝さればたたき見給ひ 花生の筒見るごとく 夕されば取なで給ひ 甚深(したたか)(なめ)ましにけり 寝る()不漏(おちず)所聞食(きこしめし)けり ()(めで)所聞(きこし)(ほど)に 斯く甞て寝座(ねまし)し間に 大蛇(おろち)すむ深き御谷(みたに)も みずち住む広き御池も 日にそへて流あせゆき (やう)々に水もかわきて 御つかれの重るまにま 大舟のたのむかひなく 御病(みやまひ)(とこ)()にしづみ 現世(うつしよ)を去まししかば 大蛇なす法師が物も (みづち)なす禅師が物も 隠るべき()()を失ひ 住とげん穴を離れて (うま)自物(じもの)膝もをれふし 鹿(しか)(じもの)足もなえはて 御墓辺(みはかべ)匍匐(はらばひ)しとふ 往昔(いにしへ)の大ものがたり きくもうたてし(驥尾(きび)団子(だんご)196号)

 須藤(すどう)南翠(なんすい)(光暉)は明治のジャーナリスト。彼には軟派系戯作風著作が多い。

 

 

ヘソばかりねらう雷公あざけるな 濡れては出来ぬ花火師もあり

──オチョクリで笑わせる「からかい歌」

(かみなり)さんは野暮なやつだよヘソばっかりねらう あたしなら三寸下ねらう…

という酒席俗謡があるようでして。歌意は説明するまでもありますまい。

ヘソ下といえば、雄 長老作のこんな狂歌もございます。

  そり落し(かしら)(じらみ)はなきとてもへそより下はいかにお比丘尼(古今夷曲集・巻九)

この一首、狂歌というよりバレ歌です。袈裟姿で股下三寸を露出しているような作で、尼さんいびりを露骨な心で詠んでいる。作者は建仁寺の住持である英雄長老、つまり野郎坊主だから問題ありなのです。現代ならばセクハラだと突き上げを食うこと必定でありましょう。

 (ゆう)長老(ちょうろう)() 『古今狂歌袋』

  金ひらふ夢ハゆめにて夢のうちにはこするとミし夢ハまさゆめ

 この人、宮中での連句例会に顔を出したり、歌壇の月次(つきなみ)歌合でも重きをしていました。狂歌の分野で後輩の面倒見がい人格者で、次のようなマトモ狂詠も残しています

  偽りのある世なりけり神無月貧乏神は身をも離れぬ

ヘソ下歌は、おそらく魔がさしたときの座興にちがいありません。

 からかい歌も軽くいなす程度ならご愛敬ですが、底意地悪く詠んではなりません。

 

おのが(つら)ひょっとこき見て(なぶ)るなら てんぐ鼻去りおかめ八目

──からかい歌の裏返し「自嘲歌」

「自嘲歌」すなわち内省を表した詠みです。自嘲の表現は捨て鉢になり歌意に破綻をきたしがち、だから和歌には向きません。しいてあげれば、山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ「貧窮問答の歌一首」と詞書(ことばがき)にある長歌(『万葉集』巻五)が該当しますが、よくよく目を通していくとみじめったらしい「愚痴歌」でしかないのです。

しかし狂歌だと話は別。自分自身を必要以上にいためつけあざ笑う様が、読む者の共感を誘う場合が多いからです。これにかかわる好例を一首示しましょう。

林 子平

 親もなく妻なし子なし板木なし金もなければ死にたくもなし

林子(はやしし)(へい)(17381793)は長崎に遊学のおり海外事情をつぶさに修め、また北方の脅威も唱えました。その集成として『海国兵談』および『三国通覧図説』を著したのですが、前者は貧苦中に成し遂げた十六巻に及ぶ労作です。

しかし寛政四(1792)年、老中松平定信は「虚構妄説いたずらに人心を(みだす)るものとして板木を没収、子平は蟄居を命じられました。そのさいの救いがたい絶望感を自嘲を込めてじたので

彼はこの一首にちなんで六無斎(右掲歌中の「なし」六件にちなむ)と号し、意地を貫いて一歩たりとも戸外へ出ることなく、翌年六月二十一日、無念の思いを抱いて悶死しています。無い無い尽くしの五十六年の生涯を一首の自嘲歌に示し、狂歌の幅の広さがその受け皿になった傑作です。

 林子平 賛は大槻盤渓

 

口喧嘩遠巻きに見聴きして愉し とばっちりなく見料もただ

──相手の出鼻をくじく茶化し詠

皇国歌を巡り本居宣長対上田秋成の論争はよく知られています。まずは材料の提示から始めましょう。

おのが像の上に書きしとぞ。

 敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花 

とはいかに〳〵。おのが像の上には、尊大の親玉なり。そこで「敷島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」とこたへた。「いまからか」と云て笑ひし也。(上田秋成著『胆大小心録』)

とのことで、宣長先生作の有名歌を俎上に上げ秋成先生がこれを茶化しています。

 二人は論敵同士でした。古代音韻と「日の神」こと天照大神の解釈をめぐりしばしば論争、互いに譲らず国学界の注目を浴びる。この秋成の宣長批判もそうした敵愾心の延長のようなもので、いささか子供じみた(あげつ)らいという気がしないでもりません

 狂歌は相手をからかったり茶化したりするのに格好の媒体である。狂歌を利用することで、自分が半分遊び心であることを相手に知らしめます。このワンクッションを置くことで論争も角が立たずにすむのです。

落首も大半が相手批判ですが、狂詠を通して大勢の人の共感を得、味方に引き入れられるという強味がある。

また、茶化し詠では「借辞詠」が目立ちます。右掲の引例のように、相手の言葉尻をとらえる鸚鵡返しにうまく使うと効果的です。

茶化しの例をもう一首。

 山道高彦(やまみちのたかひこ) 『吾妻曲狂歌文庫』

  橋の名の柳がもとにつくだ船かけて四ツ手をあげ汐の魚

 佃島通いの船で四ツ手網を上げると上げ潮に乗って魚がたくさん取れた…一見、何の変哲もない情景描写です。しかし場所は色町で名高い柳橋のほとり。そして「あげ汐」つまり灯篭の謂と知れば、ごっそり獲れる魚は助平な男どもであることがすぐわかります。

 ときに上の肖像から推しはかり見ると、この狂歌師は武家でありながら男色系ではないか、気になるところです。こういう余計な想像をめぐらすのも、また狂歌の愉しみの一つといえましょう。

 

とろかしの手管(てくだ)(つか)ったありんす語 (いら)わですむか狂歌詠む身が

──(くるわ)言葉を茶化した狂歌

                                     よみ人しらず

お富士さん霞の衣ぬぎなんし雪の肌へがみたふおざんす(甲子夜話・巻七十一)

早鞆布刈(はやとものめかり )

  おいらんにさういひんすよ過ぎんすよ酔なんしたらたゞおきんせん(万載狂歌 

 集・巻十一)

筒井鑾渓(つついらんけい)

   いぎりすもふらんすも皆里なまり度々来るはいやでありんす(零砕雑筆・巻二)

これらはいずれも江戸吉原を中心に用いられた廓言葉の揚げ足取りをした作。廓言葉については、庄司勝富編『北女閭(ほくじよろ)起原に、

総て廓と(なずく)には、(さと)(なまり)違ひた(ことば)あり、わきて武陽の北廓なる里語(さとことば)は、ひときは耳多し、老人のいへるは、これなる里は、いかなる国よりれる女にも、此詞は、(いなか)ぬけて、より居たる女と同じ聞ゆ意味を考て、いひらしたる事也とぞ

と、廓言葉が必要に迫られて出来たものであることを解明しています。

 間向成嘘言吐図(まむきになつてうそをつくづ)、『ありんす国人の饒舌』十四傾城腹の内より、芝全交作、北尾重政画

廓言葉は、いってみれば女郎衆の商売用隠語ですから、狂歌も遊女仕立ての詠になります。これまた妙味ある特徴で、引用三首のうち第二番歌など、禿(かむろ)の廓口調を借辞して作っています。

 ちなみに江戸の狂歌師には飲む、打つ、買うの三拍子揃いという道楽者が多く、なかには加保茶元成のように妓楼主というその道の真玄人もいました。

 

 

おもねりやうつけもの石ドッコイショ もちゃげる人のやれ軽きこと

──へつらいのおかしみ「おもねり歌」

おべっかと狂歌とを結びつけた場合、曽呂利新左衛門(生没年未詳)の逸話ほど適例はほかにないでしょう。

 御秘蔵の御庭の松は枯にけり千代のよはひを君にゆづりて(大郷(おおさと)信斎著『道聴塗説(どうちようとせつ))

 右出典の記述をかいつまんで解説しますと──太閤秘蔵の松が枯れてしまった。秀吉、不吉の前兆でなければよいがと気にやんでいるおりもおり、居あわせた御伽衆の曽呂利はニヤニヤ笑っている。秀吉は「予の悲嘆をあざ笑うとは、無礼者めが!」と猿面を真っ赤にし目を吊り上げた。新左衛門は、すかさず引用歌を短冊に書いて見せたところ、主君の機嫌がたちどころに直った、と伝えられています。

 この歯の浮くようなおもねりは曽呂利の十八番とするところ。彼の逸話集である『曽呂利狂歌咄』を見ても、似たような話が掃いて捨てるほど載っています。

 彼は持ち前の機知を存分に発揮し太守のご機嫌取りに専心しました。曽呂利が残したと伝えられる辞世までが阿諛(ドツコイシヨ)に徹していて、読むほうが面映く感じるほどです。

  御威勢で三千世界手に入らば極楽浄土われにたまわれ

 

 八百のまっ赤な舌で白きって 腹まっ黒に詠むははったり

──詠み捨て笑い捨ての妙「法螺(ほら)歌」

狂歌にはさまざまな種別系統があります。

たとえば生き様を茶化したもの、時局批判の落首、有名人の失策をからかった作、秀歌有名句の捩り、(もの)(のな)折込歌など。次の法螺歌は遊び心を誇張した歌、ということになりましょう

                                    よみ人しらず

 富士の嶺をしぜん枕にせん人の足をば伸ばす武蔵野の原(堀川狂歌集・下巻)

 法螺話を狂歌に仕立てたもので、読者の笑いを誘い愉しませる作品。読者を一読して笑いに誘い込むには、それなりの工夫と頓知と奇抜な発想の冴えが要求されます。

 江戸狂歌師育ての親といわれる内山椿軒も、唐衣橘洲や四方赤良など弟子を集めて狂歌サロンを開き、珍歌妙詞を披露しあっています。とにかく一過性の笑いだけで内容のないものが多いのはたしか。熱を入れて詠む者もいなかったようで、かなりの傑作といえどもまともな記録にも残されていません。

 極大と対比させ、極微の世界を詠じた法螺歌も一首紹介しておきます。

普阿弥作

  けしつぶの中くりあけて堂を建て一間かこうて手習いをせん

 

閨事(ねやごと)も「川の字崩し」とささやけば 埴生(はにゆう)の宿の(よる)も楽し

──遠回しにうたう婉曲表現

物事、ことに(しも)ったことなど、直裁に言い表すと露骨になる場合があるものですね。このようなとき、遠回しな言い方をして語感を和らげる「婉曲表現」というテクニックを使うと便利です

たとえば性行為を表すのに「男女の営み」とか、もっとぼかして「枕を交わす」といった言葉を使います。後者の語なら、女性でもさして抵抗感なく口にできるわけです。文彩(修辞)には「婉曲法」という表現技術があり、婉曲表現はこれに言語遊戯の「連想遊び」の要素を加味したものです。

右の掲出歌もその伝で作ったもの。「川の字」とは、子を中に挟んだ若夫婦の寝室を描写した言葉。この字を崩してしまうのですから、有様のほど、ご想像くだされ。 

さて、『万載狂歌集』から二三、例を引いてみましょう。

朱楽菅江

棹姫のわらひかけつゝ山のはをあらはす方に春や立つらん(巻一)

この歌で棹姫(佐保姫の同音異義語)は、江戸俗語で川舟営業の売笑婦「舟饅頭」をさしています。

四方赤良

  煩悩の犬もありけは朧夜のぼう〳〵眉にあふそうれしき(巻十一)

こちらは下等街娼の夜鷹(ぼうぼう眉)が辻でむつけき客(煩悩の犬)をくわえ込む様子を婉曲に描いています。

新酒

(はく)鯉館(りかん)(ぼう)(うん )

  痔のことしなさけ所のいたミよりはしりといへる船のつきしは(巻五)

 詠題を「新酒」としてあるように、痔の痛みをなんと伊丹産の新酒船という場違いな対象にひっかけて詠んでしまった。婉曲表現の逆をいく、露悪表現とでもいいたい手法ですな。情どころは男女の局部をさす遠回し表現によく使われます。

 算木有政という狂歌師は、きわどい色事をソフトに言い換える技に長じています。次の一首のように、後家と出会ったときの情交模様をそれとなく刀と鞘に仮託し遠回しに読みきっています。

 算木有政 『吾妻曲狂歌文庫』

  やうやうとたづねあふても後家鞘のながしミじかしあはぬこい口

 

 

まっとうに生きる道はと人問わば すっとん狂か答え詠むなり

──遣り取りの摩擦を愉しむ「滑稽問答歌」

謎入り尻取り和歌の一形態で、一方が構えて問うと相手も機知を盛り込んだ歌で答える形式のものを「問答歌」といっています。最古は万葉集で、この形式を部立とした組歌が収められているほど。

問答歌は中世に入るとしだいに技巧を取り入れはじめ、『拾遺和歌集』が編まれた寛弘二 (1005)年、秀句を踏まえ滑稽味を盛り込んだ、つまり言語遊戯化したものに変容しています。やがて禅問答にちなみ、「無理問答」や「贈答狂歌」を生み出す遠祖といえなくもないわけです。

●滑稽問答歌の例

一休と蜷川智蘊(にながわちうん)(?~1448)の滑稽問答歌(抄出)

蜷 一文や二文は何と思ふなよ阿弥陀も(ぜに)で光る世の中

休 金持を十人寄せてよく見れば中の五人は無学文盲

蜷 盲人はあるく道には迷ふとも色の道には迷はざりけり

休 両眼は明らかなれど悲しきは(おな)に目のなき人もあるなり

蜷 両親(ふたおや)を敬ひ仰ぐものならばうちわも丸くをさまるぞかし

休 父母(ちちはは)につかふ扇のかなめから次第〳〵に末広うなる

蜷 恐ろしき鬼のすみかをたずぬれば邪見(じやけん)な人の胸に住むなり

休 世の人がぢやけんをぬいてかゝるとも我がうけんの(さや)にをさめよ

(日本文学遊戯大全)

 一休禅師木像(重文) 一休寺蔵

 

 

酒飲めばおのず心もすきだらけ 貧乏神と差しつ差されつ

──酒と飲ン兵衛は狂詠にぴったり

上詠は、既出「橘洲の酔心爛漫たる狂歌」の一首、

  酒飲めばおのづ心も春めきて借金とりもうぐひすの声

の本歌取り(このような古典狂歌からの本歌取りは珍しい例)です。

 こと酒と酒飲みは狂歌の詠材にぴったり。この双方いずれかをを詠んでいない狂歌集など無い、といってよいくらいです。あまりに例が多いのでいちいち引くまでもありませんが、一篇だけ異色の組歌作品を紹介しておきます。

 細川幽斎作の歌文集『(しゆう)妙集(みようしゆう)』より、

  酒徳の歌                                                     細川幽斎

一切のその味ひをわけぬれは酒をは不死の薬とそいふ

二くさをもわすれて人に近づくは酒にましたる(なかだち)はなし

三宝の慈悲よりおこる酒なれは猶も貴く思ひのむへし

四らすして上戸を笑ふ下戸はたゝ酒酔よりもおかしかりけり

五戒とて酒をきらふもいはれあり酔狂するによりてなりけり

六根の罪をもとかもわするゝは酒にましたる極楽はなし

七なとをおきて飲むこそ無用なれ人のくれたる酒ないとひそ

八相の慈悲よりおこる酒なれは酒にましたる徳方はなし

九れすして上戸をわらふ下戸はたゝ酒を惜しむかひけう成けり

十善の王位も我ももろともにおもふも酒の威徳なりけり

百まてもなからふ我身いつもたゝ酒のみてこそ楽をする人

千秋や万歳なとゝ祝へとも酒なき時はさひしかりけり

 

人の色春また春で閨房(ねや)ぬらし 春歌遊蕩めるめでたさ

──色詠みもまた極意のうち

春歌は性愛の謳歌、遊蕩は人好んで尽きることのない趣き。歌詠む者も春に目覚めた若者のように、生き生きと歌いあげる…。

春歌のよいところは気取りや(てら)いのないことです。詠者自ら裸になって歓喜やらはにかみやらを表し、遠回しに三十一文字の言の葉の世界に遊弋(ゆうよく)します。まさに四季これ春のみ、の情感を込めて。

さて春歌の場合、和歌と狂歌といった分類はさして意味がありません。閨における男と女(とは限らないが)のように、相身渾然とし、交わるところ大きいからです。

●春歌詠作品

伝 一休

恋といふその水上を尋ぬればばりくそ穴の二つなりけり(万載狂歌集・巻十一)

松永貞徳

居所(いどころ)をまくり上げても何かせん穴のはたのみのぞく身なれば(古今夷曲集・巻七)

*「居所」とは尻をさす女房言葉。

石田未得

なにはめのはらむ子だねの冬こもりいまは春べとつはるこのはら(吾吟我集・序の詠)

三条西公条(きんえだ )

 男をばせぬといふ御比丘尼の孕むに似にたる竹の自然子(じねんご)(玉吟抄・八十三番)

                    ()(みの)(すぐ)(ね )

 あら玉の門より開く扇子屋の末広かりに声も立春(狂歌若葉集・下巻)

入 安

こんといひてこぬ夜つもりのうらみにてもあな恋しやとまつふくりかな(入安狂歌百首)

山中通常

長老の吹く貝吹けば女ども参る心はふぐりそそめき(かさぬ草紙)

寄枕絵祝                               朱楽菅江 

 

床もはやおさまりてよいきみか代はもういく千代といはふ枕絵(万載狂歌集・巻十)

よみ人しらず

せんずりは隅田の川の渡し舟棹をにぎつてかわをあちこち(江戸伝承)

 油杜氏祢り方(あぶらとうじのねりかた) 『吾妻曲狂歌文庫』

  また若き身をやつしろの紙子にハうつて付たる世をしのぶ摺

*この一首、衆道趣味の作者自身が相手の稚児に送った恋文とされている。このように、狂歌は惚れた相手に思いのたけを伝える媒体としても活用された。

 

(ひんがし)は世辞の軽きに満ちるも 西じゃ辞世の一首重たし

──狂歌で残した辞世もある

辞世詠は死に臨んで詠むものですから、大半の辞世は肩肘張り、斜に構え、暗然とした内容のものです。残された者にとって心の重くなるようなものが目立ちます。かといって、辞世が不要との理屈にはならないわけで。辞世で最期の大見得を切った作すらあります。

自分の一生にしかるべくケレン味がなかったら、誰も辞世など詠みはしません。そのケレン味を最大限に発揮し、人世そのものを茶化した狂歌体の辞世も残されています。

故人には失礼ながら失笑保障付きの詠ばかり、拙書『辞世千人一首』(左記ナビ)などからの抄出です。

【狂歌による辞世詠】

豊蔵坊信海

(貞享五年=1688年没、年六十三)

塵の世を出ては箒もすてゝむけり其後にむすぶ蓮花合掌

走帆堂靜(そうはんどうせい)(ほ )

                     (享保十六年=1731年没、年七十一)

夢の世や電光ちよろりなき人はひか〳〵ひかる仏とやなる

由縁斎貞柳

                   (享保十九年=1734年没、年八十一)

百にても同じ浮世に同じ花月はまんまる雪はしろたへ

(きの) 海音(かいお)

                       (寛保二年=1742年没、年八十)

しるしらぬ人を狂歌に笑わせしその返報にないてたまはれ

(かねの) 成木(なるき)

                                         (江戸中期の人)

今は世につながぬ糸としら露のわが身をぬける玉のを柳

楊果亭(ようかてい)(りつ)(きゆう)

                              (江戸中期の人)

焔魔王のおめしは辞儀もなるまいそしたい〳〵にはちがまはれば

(すい)簾網女(れんのあみめ)

                                         (江戸中期の人)

ふしの粉のふしぬる日よりおはぐろのかねてなからん身とはしりにき

栗柯亭木端

                              (安永二年=1773年没、年六十四)

五戒までせんとたもちて生れ来て百や二百で死んだらば損

大木戸黒牛

                              (天明三年=1783年没、年六十三)

生きているうちは何かと神仏聖もいかい世話でござった

浜辺黒人

                   (寛政二年=1790年没、年七十四)

黒人が黄色な人にならんとて浜辺を捨てて川岸をゆく

         (じよ)棗亭(そうてい)(りつ)(どう)

                              (寛政三年=1791年没、年七十二) 

たれとても死ぬるものとはしりながら猶うらめしき浅黄上下

四方赤良

                              (文政六年=1823年没、年七十五)

生すぎて七十五年食いつぶしかぎりしられぬ天地(あめつち)の恩

 元の杢阿弥 図は自画像

  あな涼し浮世のあかをぬぎすてて西に行く実はもとのもくあみ

 

 

世のワルめそこへ直れと熊ッ八 言の刃ふるい落首掲げり

──庶民のうっぷん晴らし「落首」

落首は風刺や批判を込めた匿名原則の戯笑歌で、狂歌とは姉妹関係にあるものです。

その時代の出来事を反映させた庶民による時事狂歌ともいえますが、その実落首の多くは、特定の有名人物を攻撃する道具に弄されているといってよいでしょう。人物評落首の作者には、よみ人しらずの立場をよいことに、相手人物に対し無責任に過激な嘲笑を浴びせるものが少なくありません。なかには目を覆いたくなるほど悪意をむき出しにしたものもあります。たとえば、

 九条殿お目が醒めたか井伊きみだちんちん掃部(かもん)の首がないぞよ

は、桜田門外の変直後の落首。九条は関白九条尚定(ひささだ)で公武合体の推進派。井伊、掃部は掃部頭井伊(いい)(なお)(すけ)

安政七年三月三日雪の朝、江戸城桜田門外において、大老井伊直弼がその弾圧策に抗した水戸・薩摩の浪士らに暗殺されました。井伊は孝明天皇の朝命を拒み、安政の大獄で反対派の一掃を計るなど専断ぶりを発揮したため、身から出たサビとの評もたちます。

 それにしても後味の悪い、蒙昧(もうまい)()れ歌ですね。事件の背景事情を読み取ろうともせず、人の噂をタネに井伊らを極悪人と決めつけ、底意地の悪い野次馬根性で死者をからかっている。救いようのない愚民の一面を見せつけた一首だと思いません

 同様の例は他にも沢山あります。その一つ、幕末の思想家横井小楠(しようなん)の場合。彼は国事に奔走し開国の必要性を熱心に説いたのですが、これが国体をないがしろにする暴論とみなされ、明治二年に旧攘夷派によって暗殺されました。そのおり小楠を(そし)る悪質な落首が張り出されたのです

  よこい(横井)ばるやつこそ天はのがさんよ(参与)さても見ぐるしい(四位)今日の死にやう

狂歌や言語遊戯にだって倫理は存在するのです。右二首の例は徹底した個人攻撃で、もう「遊び」の領域を逸脱しています。

狂歌作者は心すべきことで、攻撃的な落首などに入れ込むくらいならバレ歌でも詠んだほうがまだ可愛気があるというものです。

なお落首では時事が背景になりますから、かかわる縁辺知識がないと鑑賞の余地がないし、一過性の詠がほとんどで時代が過ぎれば内容が色あせてしまいます。狂歌とは一線を画して扱うべき性質のものです。

そのため新狂歌では、詠者名入りの純粋時事詠を例外に、落首を作品対象から外します。

 

言の葉を有体(ありてい)自然に詠むならば 栴檀(せんだん)ならずと二葉芳し

 

──無名狂歌師が詠んだ有名歌

  日の本は天の岩戸の昔より女ならでは夜の明けぬ国

 これは巷間に広く伝えられ多くの人が知っている名狂歌でしょう。しかし、作者が六朶(ろくだ)(えん)二葉(ふたば)(安政五年にコレラで没、享年未詳)であることはほとんど知られていませんし、ホウ、そんな狂歌師がいたのか、ぐらい無名に近い人です。

 六朶園は江戸霊岸島は櫛屋の出身、別の狂号を「栴檀(せんだんの)二葉(ふたば)」と称しました。狂歌を宿屋飯盛こと石川雅望に学び、漢詩も賦すなど器用なところがありましたが、狂歌作品は十把一からげ級が目立ちます

ところが上掲の錦絵のように男ぶりがよく女のあしらい方も達者な点を見込まれ、また縁もあって吉原江戸町の妓楼主人におさまっている。

 そういうことなら、「女ならでは夜の明けぬ国」も本人が実感を吐露した一首としてうなずけるではないですか。いずれにせよ、やさしく素直な詠み口で、秀歌に列せられる作品です。

 このケースは作者の人格を作品が飛び越え光り輝いた珍妙な例です。いや、さすが餅屋は餅屋と言い直すべきか。二葉は生涯に駄作を何首作ったか知りませんが、現代まで百五十年にもわたり人口に膾炙されてきたこの一首で溜飲を下げたことでしょう。

 六朶園二葉の錦絵 絵の人物は二葉本人のものではなく七代市川団十郎、賛が二葉の書いたもの、とする見方もある。

 

生き様を上下(かみしも)に詠む道歌でも ひねくれ者は裾まくり詠む

──道歌にも狂歌に近い作がある

道歌というと堅苦しい修身的な詠が多く、毛嫌いされるのが普通です。これとて例外が付き、狂歌寄りの作品もあります。たとえば『一休ばなし』に収められた一休の諸作品は、分類上道歌に属しますが、明らかに狂歌といっていいものが多くを占めています。

ここでぜひ紹介の価値のある類題詠六首連をあげておきましょう。

  老人六歌仙                                   仙崖義梵

しわがよるほくろがでける腰曲がる頭がはげるひげ白くなる

手は振るう足はよろつく歯は抜ける耳は聞えず眼はうとくなる

身に添うは頭巾襟巻杖目鏡たんぽおんじやくしゆびん孫の手

聞きたがる死にとむながる淋しがる心は曲がる欲深くなる

くどくなる気短になる愚痴になる出しやばりたがる世話やきたがる

又しても同じ話に子を誉める達者自慢に人はいやがる   

 仙崖義梵(せんがいぎぼん)(17501837)は江戸後期の臨済宗妙心寺派の僧です。

老いの醜さを超時代的な絵になる戯歌に詠んで秀逸。それも態を変えること六度、六首のオムニバス構成とした集です。老いた者は身につまされる。若い人は、こんな年寄りにはなりたくないと心底思うことでしょう。

まず第一歌で老化の特徴を列挙して導入を図り、第二歌へと引き継ぐ。第三歌で老人必携具を歌い、第四歌では老境心理を巧みに描写、その結果の精神的老残を第五歌で表現。そして第六歌、「達者自慢に人はいやがる」などは高齢化社会を皮肉っているような、心憎いばかりの結び。六首のうち一首が欠けても「画竜点睛(がりようてんせい)を欠く」という出来ばえとは思いませんか

仙崖義梵は「西の一休さん」と呼ばれた高名な禅師です。諸国修行の後筑前博多の聖福寺住持となり、独特の水墨画で禅の悟りを描いてみせました。つまり掲出の戯歌と同様に、抽象的になりがちな内容のものを、わかりやすく具体的に表現する技法が得意でした。義梵の作品はいまも同寺に保管されているそうです。