ステップ3 新狂歌へのいざない

 

 

 このステップでは「新狂歌」を詠むにさいしての心得、ならびに新狂歌にはどんな効用があるかを案内します。

 

 

 へいせいの気を弾ませて詠むからは 浮世のシャクもかんらからから

──新狂歌は現代人向き狂歌である

新狂歌とは、古典狂歌のとっつきにくい点を全面的に改め、あらたに現代にマッチさせたスタイルの狂歌をいいます。

ステップ1で述べたように、旧来の狂歌は斜に構え、学識豊かなところを(てら)う風が目につきました。また一部には堂上和歌寄りの、俳諧歌かぶれした半端狂歌も見られます。これら要因が狂歌を衰えさせたネックになったことも指摘してきました。

新狂歌は、狂歌作りの旧弊と前近代的体質をかなぐり捨て、まったく発想を改めて出直すことにしたものです。その結果、次の十二条を作品作りの基本的指針と定めます。

    韻律は崩さない

    既存の慣行にこだわらない

    わかりやすく詠む

    はじめは質より量で詠む

    照れずに作ろう

    狂歌の分をわきまえる

    面白い内容にする

    持ち語彙は豊富に

    洋語・漢語は程ほどに

    世情を評し斬り捨てる

    個人攻撃はさける

    仕上げは入念に

以上に若干の補遺を加えてあります。各条の内容については成り行き上、次のステップ4で説明することにします。

新狂歌入門最大の目的は、一にも二にも「入りやすさ」にあります。つまり、誰にでもやさしく詠み始められる新しい狂歌です。

この十二条によって新狂歌詠を楽しめる道筋はつけられることでしょう。

狂歌には本来、魔力のようなものが秘められていて、ひとたび手を染めると、下手は下手なりに病み付きになり(荻生の体験告白である!)ますますのめりこんでしまいます。

狂歌はここに生まれ変わったのです。

あなたも、とにかく新狂歌に挑戦あれ。すべてはここから始まります。

 

狂歌詠み言の葉綾に織りなして 洒落臭(しやらくさ)笑みのつづれ仕立師

──狂歌作者は文学者ではない

狂歌は笑いの媒体であります。

この認識にたち、狂歌作者はまた、笑いを提供する芸人としての資質を備えていなければならないと思います。世にいう文学者や学者とは、かなりかけ離れた存在ということ。文学者を自認しているような人は新狂歌詠みは合いません。気位が邪魔をして、くだけた狂歌など詠みきれないでしょう。

古典狂歌作者の場合も、文学者気取りの人などほとんどいなかった、といってよいようで。いうなれば狂歌作者は、諧謔を生み出す職人兼芸人です。落語家や漫才師と同類の仕事人、と考えてよいでしょう。

では昔、狂歌師といわれた人たちは、自分たちをどう見つめていたでしょうか。

狂歌作者の大先輩にあたる暁月(ぎようがつ)(嘉暦三年=1328)という坊さん作者のことを編者未詳『狂歌百人一首』は次のように述べています。

暁月坊は、定家卿の孫にて、為家卿の子なり、母は安嘉門院の四条と申して、後に阿仏尼と唱へたる人にて、十六夜日記の作者なり、ある人暁月坊にむかひて、そこの歌は、家柄にも似ず、あまりにも凡卑也などをこきつければ、

  暁月に毛のむく〳〵と生えよかしさる歌よみと人にいはれん

と、己を猿に見立てた道化を詠んでしっぺ返しをしています。ここに狂歌作者があるべき本姿が見えると思います。

 時代は下って江戸中期、大家裏住(おおやのうらずみ)という市井の狂歌師を大田南畝こと四方赤良は著『仮名世説』上巻で次のように描いています。

 大家裏住は古き狂歌師なり(白子屋孫右衛門、江戸金吹町に住す)、狭き裏店に唐机をすゑて、書を見しなり(中略)定家卿の御遠忌ありときゝて、

   鶯も蛙も同じ歌仲間経よむもありたゞなくもあり

と、こちらは狂歌詠みを蛙にたとえ「ただ鳴く」歌仲間でもいいじゃないか、と達観しています。

 猪食たむくひ 大屋裏住 『狂歌譬喩節』

  ししくつたむくひにできし此子をば瓜坊さんとひとのいふらん

 しかし狂壇が賑わった頃の狂歌師等は、自ら卑下するほど落ちこぼれ組ではなかったようです。それどころか、下手な文士(黄表紙作者や戯作者など)らは足元にも及ばない教養人が少なくありませんでした。もっともこの教養の深さが狂歌詠みの墓穴を掘るという、皮肉な結果をもたらしたのですが。

 ところで、数多い狂歌詠みの中には、ほんの一握りですが、専業狂歌師を目指した人もいます。江戸でその嚆矢となったのが浜辺(はまべの)黒人(くろひと)。彼は天明狂歌集を刊行するなど商才に長けていましたが、やがて狂歌ブームに便乗し、やがて入花(にゅうか)という点料制度を設け荒稼ぎしました。

 これは市井の人々を対象に新作狂歌を公募し、点料(指南料)をとって作品を講評したり、優秀作に賞の金品を与える商い。また彼は芝連という狂歌連を主催し、狂歌の普及にのっとった入花稼ぎにも熱心でした。すなわち黒人は、文学者とは対極のなかなかの商売人であったようです。

 浜辺黒人 『吾妻曲狂歌文庫』

  くひたらぬうハさもきかず唐大和たったひとつのもちの月影

 

似非(えせ)詠みが子曰(しえつ)よ故事よと先走り ()めど()でずに狂歌追いやる

──狂歌衰退は衒学走(しつたかぶ)りが主因

現代、狂歌は世間からまったく影をひそめてしまいました。新聞・雑誌の投稿欄に狂壇は皆無であるし、結社の存在や狂詠会が催されたというニュースも耳にすることがありません。

原因はいったい何なのでしょうか。わが国短文芸の権威である鈴木棠三氏は、著『狂歌鑑賞辞典』(東京堂出版刊)の「はしがき」で次のように書いています。

かつては庶民文芸の一半を占めた狂歌であるが、こんにちではほとんど顧みられなくなっている、その原因は何によるか。川柳のような、文学的素養を必要としないインスタント文芸と異なり、狂歌は古典文学の教養が無いと、作ることも味わうことも難しい。狂歌が単なる「ユーモア和歌」でないゆえんである。

もう一例、同様の見解を引いてみましょう。出典は『日本古典文学大系57 川柳/狂歌集』(岩波書店刊)における、浜田義一郎氏の解説文です。

狂歌と並んで広範な庶民に愛好され、少しく早く流行期に入った川柳は、その後消長はあったが今もなお全国に多数の作者群をもつのに反し、狂歌は大正の頃まで余喘(よぜん)を保った、現在ではく廃絶してしまった。これはらく詩形の長短と文学としての性格の相違に起因すると思われる。十七字をまとめも、これを三十一字にするためには修練を要するし、また古典和歌の伝統をっているだけに、これを戯画化するにもなお相当の教養を必要とするので畢竟大衆のものり得ないのだった。

  お二方は、狂歌を衰退させたのは背景の教養が障害になったからだ、という点で意見が一致しています。かくいう花酒爺も、その点ではまったく同感です。

 要するに、古典や漢籍の文学知識等を幅広く身に付けていないと狂歌作りは難しい。鑑賞するほうも同様。したがって、古典文学志向が薄れている現代では、作ったり読んだりする人の数が極度に少なくなり、文芸の一分野として成り立たなくなっている、という見方に落ち着くわけです。

 最盛期の天明狂歌などを振り返っても、難しすぎて理解できにくい作が少なくありません。問題作をいくつか引き出してみましょう。

  のぼりては又きく事もかたな鍛冶らい国としを待つぞ久しき/四方赤良(万歳狂歌集・巻七)

は、総じて比較的わかりやすいとされる赤良詠にもかかわらず、上方浄瑠璃の造詣を要するうえ刀剣の知識も併せもっていないと理解しがたい一首です。

 江戸狂歌では本歌取りや本歌捩りがやたらに多いのも問題。

もとよりも塵に交はる神じやとてあくたれものとなさせ給ふな/くれ竹世艶(徳和歌後万載集・巻十五)

の一首は女流作者だからか、和泉式部作のさして有名でもない歌(風雅和歌集)から取っていて、並みの現代人なら理解が半減してしまいましょう。

  治まれる御代(みよ)(いさ)めの(つづみ)にもこけかうとなく鳥ぞかしこき/朱楽菅江(狂言鴬蛙集・巻九)

この一首は『和漢朗詠集』帝王に所収の小野国風作漢詩句の捩りで、これまた鑑賞者泣かせの詠です。似たような衒学嗜好の江戸狂歌は他にも腐るほどありますが、紙数の都合で道草ばかり食っているわけにもいきません。

 以上と関連して、詠み手の狂詠姿勢が当然問われることになります。狂歌一つ詠むのに必要以上に格好を付けて詠むという一種の権威主義が、です。

 ステップ1で触れたように、宿屋飯盛と対決した鹿都部真顔は、狂歌をことさら和歌に近づけて体裁よく作る「俳諧歌」に転向、呼び名まで変えてしまいました。お上品ぶった(かみしも)詠みなため、思い切った諧謔精神が失われ、紋切り型で面白味のない詠になってしまう。事実、例を挙げるまでもなく、真顔晩年の作は味気ない駄作が目につくのです。

 こうした無意味な権威付けによって、狂歌鑑賞の妙味が薄れ、結果的に衰退の足を引っ張る一因になってしまったのです。

 以上の問題点を総括し、新狂歌の進むべき道をまとめてみます。ただしいずれも原則であり、理解の助けになる場合は臨機応変に配慮することも大事です。

一、  新狂歌を読む側にたって、理解の邪魔になる背景事情や知識などはつとめて省いた内容にする。

二、  本歌取りや本歌捩り詠は原則として対象としない。

三、  「釈教歌」「道歌」など宗教色を帯びた事柄は詠まない。

四、  お堅い一方で、諧謔不足の作は敬遠せよ。

五、  常に不特定多数の読み手がいることを意識して作れ。

 

 

人も歌も素直がよかれ愛されて 笑顔みちみち福々も手に              

──素直詠み古典狂歌の作例

これで新狂歌の進むべき道筋は決まりました。

古典狂歌の中にも、現代に生きる私たちが鑑賞して内容が手に取るようにわかる作品も少なくありません。これらの狂歌は例外なく、学識教養に邪魔されることなく、素直に詠まれているのが共通点で、平成狂歌作りのためにも参考になりましょう。

まだ適切な用語がないので、仮に「素直詠み狂歌」とでも名付けておきます。

ここに代表的な作例を拾い出してみますが、なにしろ数が多いので、詠み初め上五が「あ行」のものに限定します。

●素直詠み狂歌の例     

  元木阿弥

汗水を流して習ふ剣術の役にもたたぬ御世ぞめでたき(徳和歌後万載集・巻七)

二歩(にふの)(ただ)(とり)

  あらためて孝を尽すも不孝なり大事の父母の肝や潰さん (才和歌集・巻十二)

四方赤良

いか程の南無題目を出されてもよむが妙法蓮華きやう歌師(楽郊紀聞・巻十一)

浅草(あさくさの)干則(ぼしのり)

  いざ飲まんあたらし肴今年酒酌は女房のちと古くとも(万代狂歌集・巻三)

(ゆうの)長老(ちようろう)

  王ゆゑに歩をも馬をもたて置きてかくきやうのほかに使ふ金銀(醒睡笑・巻四)

覚芝和尚

女ほどめでたきものは又も無し釈迦も達磨もひよいひよいと産む(近世畸人伝・巻三)

三条西公条

飢死もまた酔死も討死にも恋死もいや死なば空死(そらじに)(玉吟抄)

 三条西公条 後奈良天皇賛 二尊院蔵

以下、レイアウト崩れのため空白

 

江戸前の鯔背(いなせ)がさよりいかばかり ダボハゼ詠みにかますべらぼう

──狂歌は、はたして滅び去ったか

狂歌は言葉を洒落て読むもの。

洒落を(かも)すのは(いき)(ごころ)。粋心とは心意気、心栄えです。心栄えはというと、気持ちの余裕(ゆとり)から生じるもののはず。

たとえばす、夕涼みがてら川端柳のもととか、黒塀に寄りかかり、新内流しに聞きほれるといった風情……。粋心なくて出来る真似じゃない。見方によってはヒマカキやムダの塊なのだから。

 飲みながら狂歌会 『北斎漫画』より

科学技術の進歩とやらで、現代では合理化と機能優先の社会構造になってます。物事すべからく余裕がなくなり、物理的にも精神的にも、ムダな隙間を埋め尽くそうと世の中全体が狂奔しています。空間には高層建物が林立し、古く良き町名を廃し所番地で規格整理された町並みを、車が制限速度オーバーで突っ走り、人々は早足でコセコセと動き回る…。

こんな余裕のない世の中に洒落だの粋だは、生れるべくもないし通用もしないわけでして。生活が便利になった分、人間の心のほうは貧しくなった。都市の集合住宅では隣近所でも挨拶一つ交わさないとか。貧貪な心から、一見ムダの塊のような、それでいて贅沢道楽の狂歌が生れるわけもない。…とマア思うのだが、どんなものでしょうか。狂歌が世の中から追い出されたのか、自ら逃げ出したのかは知らないが、今の世情に迎え入れられなくなったことだけは確かです。

ちなみに短詩文芸の仲間、小唄に目を転じてみましょう。小唄は狂歌以上に粋の世界での道楽です。ところがこちらは、今なお各地に吟社が存在し、同好の士が集い詞作を楽しんでいる。うらやましいことに、無粋なカタカナ言葉など入り込ませない、純日本風の文芸殿堂を構えているのです。

似たようなことは都々逸にもいえ、宴会や結社で小粋な新作を披露しあっているじゃありませんか。こんな事実を見るにつけ、独り狂歌だけが廃れた原因を世情に転嫁するのは誤りと気づくわけです。

狂歌の場合、幸い衰退の原因がわかりかけてきた。ならばその病巣を摘出し去って、再生を図ればよいではないか。そう簡単に問屋が卸してくれるとは期待していませんが、不可能ではありますまい。

狂歌を新たに世の中に甦らせよう──この目的に荻生はのっています。

 

千万の()れ歌詠みよ(よみがえ) 黄泉(よみ)よりれはた詠み

──狂歌の潜在愛好者は少なくない

新世紀に入り、懐古趣味(レトロ)ブームが静かに進行しているとか。高齢者の人口構成が高まり、昔の良品逸品の真価が見直されているせいもありましょう。

狂歌とて、言ってみれば文芸の骨董品ですがね。一時は光り輝いたこともある古物でして。めぼしい図書館へ行くと、骨董価値の高い拾いものがゴロゴロしています。ブツ(刊行物)は他の分野に比べ確かに少ないが、年代物(旧時代の書冊)が多く希少価値があります。それらから名品といわれるものを渉猟する愉しみは格別です。

自分で狂歌を作らなくても、鑑賞の楽しみがございます。本によってはけっこう手垢で汚れているものがあり、熱心な同好の士がいることを伝えてくれて心強い限りです。

在野の狂歌研究者は、数こそ少ないでしょうが、それだけに奥の深い究めに取りかかっていると思います。花酒爺もそうした「狂歌横好き族」の一人、いくばくかの作品と資料にしがみついて、道楽半分に没頭しております。ただ現在のところ狂歌の商業専門誌は皆無で、同好者同士の交流も閉ざされたままであり、残念でなりません。しかしながら、刊行物ことに古典関係の書誌では、狂歌作品を引用している場合が意外に多いのです。かつての狂歌流行の残光のなせる業でしょうが、それだけに今なお引用価値が認められ関心が寄せられている証左だと思います。

TPOを心得た狂歌の引用は、文章に活力と潤いを同時に与える効用をもつ微苦笑起爆剤にもなります。読者のほうも引用を通して狂歌の妙味が再発見でき相乗効果が高まりましょう。

こうした状況を見ると、狂歌は死に体を装ってはいるが、じつは日本人の心の中に生きながらえ、迎え入れられるだけの素地がある。そして何かのきっかけで、熟した狂歌心が開化し、再ブームに湧くことなきに非もあらず、と独り思い入れているしだいです。

 

 

権高(したたか)美女(シヤン)匹夫(ひつぷ)落とすほど 手間はかからじ狂歌作りは

                          ──みんなが作れるやさしい「新狂歌」

狂歌を作るということは、みなさんが考えているほど難しいことではありません。たぶん難しかろう、という先入観が邪魔をしているにすぎないと思います。

最初から上手に詠もうとか、下手に作って他人に笑われやしないか、などと考えないこと。表現技巧などもかなぐり捨てて、すなおに詠むことから始めましょう。何首か作る数を重ねていくうち、作る要領が自然に身についてくる。狂歌にかぎらず、なんの稽古事でもそんなものではないでしょうか。

卑近な例を一つ紹介しておきます。

新門辰五郎(1800~1875)といえば、名を聞いただけで泣く子も黙った火消し頭取の大親分、侠客としても名を馳せました。この人、明治八年九月十九日に享年七十六で世を去った。亡くなるとき、次の辞世を詠んでいます。

 思ひおく(まぐろ)の刺身河豚(ふぐと)(じる)ふつくりぼぼにどぶろくの味

これは辞世と同時に狂歌でもあります。死に際、当時の庶民の贅沢(ふつくりぼぼ=生きのよい女陰)を並べたてただけですが、惜別の心情が「思ひおく」の一語に集約され飾り気のない秀逸作に仕上がっています。

大親分とはいえ、たかが(とび)の親方で。物故する十年も前の江戸時代だったら最下級の階層。粗野で教養がなく、文盲(もじしらず)も多かった。ご当人が字を読み書きできたかどうかは知らないが、狂歌のキの字も知らなかったであろうに。それが最初で最後の一首を無難に詠みこなしているのです。

狂歌が当時の媒体としていかに価値が高い存在であったかの赤しだと思います。

 新門辰五郎 京都市文化市民局蔵

新狂歌作りはこの伝でよろしい。

  思ったままを素直に

  なるべく具体的に

  三十一文字の韻律を崩さずに詠む。

以上三点を心がけるだけ。この三か条が新狂歌作りの基本です。

いかがですか。新門辞世を真似して、身の回りの事柄を材料に、とにかく一首作ってごらんなさい。次に真似したものでなく自分独自の作品を作ってみたい──そうなったらしめたもの。新狂歌作りの第一関門突破です。

 

 

腹たたば拳はひっこめニタリ笑み すっとん狂か喧嘩をば売れ

──新狂歌はストレス解消の特効薬

最近は毎日の新聞やテレビに接するのがおっくうになるくらい、腹だたしく不愉快、真っ正直に生きるのが馬鹿らしくなる世の中です。悪者が大手を振ってのさばり、善良な小市民は小さくなって生きている。かといって、いちいち頭に血を上らせていたのでは身が持たない。生きていくのに何らかの自己防衛手段を身に付けないと、落ちこぼれたり切れたりしてしまいましょう。

この心配はいまも昔も変わりないはず。

昔の庶民は、「落首」という手段に訴えて、たまった鬱憤を晴らしています。狂詠をとおして体制側の権勢をぶった斬り、世情をおちょくることで溜飲を下げました。浮世の借りは皮肉の利子を付けてやり返す。ストレス解消に効き目があることを承知していたのです。

ただ、落首に問題がないわけではない。匿名の密詠という立場を逆用し、極端な個人攻撃に走った点がいただけないわけ。事件が起きると、真実の姿を見極めようともせず、風評などからいたずらに敵対視し、口汚くこき下ろす態度が目立つようになりました。すでに例示して触れたように、これは狂歌道にもとる、あってはならない行為です。新狂歌ではこんな安易な態度を防ぐため、匿名の隠れ詠みは厳に戒めます。

新狂歌作りは、イライラを三十一文字に託し発散させる点で、ストレス解消にピッタリ。

しかし残念なことに、今のところ作品を発表する場がありませんね。けれども、モバイルでの作品交換が待っていますよ。道楽として割り切り詠み溜めして、ある程度の分量がまとまったら、自費出版するという手もあります。同好の士を見つけ、誘い合って同人結社を創る愉しみもあるはず。その気になれば道はいくらでも開けると思います。

 

鶴亀や千代(ちよ)万代(よろずよ)()ぎ詠んで 御身(おみ)(よわい)も天が寿(ことほ)

──狂歌師は長寿者が多かった

狂歌作りはストレス解消になる、という論拠は、往時の各狂歌作者の天寿を見ても充分に証明しうることです。

とにかく長寿者揃い。主だった狂歌師のそれを列挙してみましょう。( )内は物故西暦年、享年を示します。

  雄 長老   (1602、五六)

  豊蔵房信海  (1688、六三)

  藤本由己   (1726、八〇)

  由縁斎貞柳  (1734、八一)

  栗柯亭木端  (1773、六四)

  一本亭芙蓉花 (1783、六三)

  白鯉館卯雲  (1783、七六)

  浜辺黒人   (1790、七四)

  朱楽菅江   (1800、六一)

  花道つらね  (1800、六六)

  知恵内侍   (1807、六三)

  節松嫁々   (1810、六六)

  もとの木網  (1811、八八)

  手柄岡持   (1813、七九)

  四方赤良   (1823、七五)

往時は人生五十年といわれ、乳幼児まで含めた平均寿命となると四十歳を割り込む時代すらありました。そんな事情を考えに入れると、狂歌師たちの長寿はまさに驚異的とさえいえます。

狂歌作りは人柄をおおらかにし、精神衛生管理上きわめて有効であることが実証されていると思います。なかには四方赤良のように、天寿全うの謝意を託し、

 生きすぎて七十五年食つぶしかぎりしられぬ天地(あめつち)

という素晴らしくも爽やかな辞世一首を残した人もいるのです。

 

半可でも(あやつ)遊べば悟るかも やまと言の葉奥の深さを

──狂歌は言葉遊びの玉手箱

言葉遊び(言語遊戯)は、言葉の発音、リズムね意味、連想などを弄し、さまざまな形に遊戯化表現するものです。意図的な言語操作を駆使し表現上の演出効果を高めるのが狙い。すなわち生のままの言葉をあれこれといじくり回し、諧謔の面白味を引き出す遊戯です。

日本語の表記や表現の多様性と奥行きの深さは、言葉を知的遊戯化するうえで恵まれた特性を備え、つれてこの遊びをたいへんバラエティに富んだものにしています。

数ある短詩系文芸のなかでも、狂歌ほど言葉遊びと深い係わりをもつものはほかにありません。狂歌は言葉遊びのモザイクで構成された三十一文字の遊辞苑であり、また宝庫でもあります。

思いつくまま拾いあげても折句、本歌取り、畳語、人名(ひとのな)、、無同字、掛詞(かけことば)、縁語、地口、語呂合わせ、(もじ)り、重言(じゆうげん)(たとえ)、謎掛、問答歌、舌捩りなど、言葉遊びの大部分の技法を展開する媒体になっているのがわかります。

また言葉遊びとは別に、文彩(修辞)の分野でも、各種の技法が用いられ表現効果を上げています。したがって著名な狂歌集ともなると、まさに日本語の言語操作(「弄辞」ともいう)の見本市と化す、といっても過言ではありません。

このような狂歌の言語遊戯化傾向は江戸狂歌、ことに天明狂歌において頂点に達しました。その代表選手といえるのが手柄岡持(黄表紙作者の朋誠堂喜三二と同一人物)で、家集『(われ)おもしろ』を紐解くと、作者自らすっかり遊びにのめりこんでしまった作品が目白押し。読む者をして顎が外れるほどおもしろがらせてくれます。一首だけ引いてみましょう。

 ももももももも又ももももももももももももものもじもこもごも

 れを表記しなおすと「(もも)も百、(もも)も股また桃も桃、百股桃の、文字も交々(こもごも)」という凝った表現になります。

 狂歌師は例外なく狂号を用いていますが、名付けだけ見ても楽しめるものが少なくありません。なかには狂号そのものが言葉遊びに仕立ててあるのも。たとえば江戸小川町に住む子子孫彦(本名は村岡孫右衛門)という人はコノコマゴヒコと発します。これは命名系言葉遊び「異読法」に沿った名付けですね。あまり傑作とはいえない次掲の狂詠よりも、名前のほうがよほど面白い、といえます。

 子子孫彦 『吾妻曲狂歌文庫』

  月雪のミたてもあまりしらじらししらけていはゞこれは卯花

 さて、こんな面白い言葉遊び歌等に呼び水されたら、花酒爺の競詠心も黙っちゃいられなくなる。ひとつ悪ノリして、拙くも二首詠んでみました。

     「荻生待也」の由来  

(もと)名は内山(うちやま)幸雄(ゆきお)解きえて「お灸、待ちや」にキュウを据えたり

 *音韻互換技法、いわゆる「アナグラム」を用い筆名にしてある。

     両国川開きの宵に

  百万の(うつ)け花火を仰ぎ見るコチャ二人限(しんねこ)(しも)ドウリ

 *七種類の言葉遊び技法と文彩技法を用いてある。

 なお、言葉遊び技法については、ステップ5であらましを説明します。

 

舌先が一寸(ちと)足らぬ十七(とな)川柳子 三十一(みそひと)文字は十四余(そよよ)(ふう)

──川柳の「穿(うが)ち」vs狂歌の「茶化し」

百万人の大衆文芸、川柳について。

川柳は十七音字の中に凝縮させた穿ちを持つもの。穿ちとは、斬新な機微をさす抽象的な言葉です。それだけに、川柳子の穿ちに対するこだわりは深いようで。江戸川柳の宝典『誹風 柳多留』に、

 柄杓売なんにもないを汲んでみせ

という絵に描いたような一句があります。(わげ)(もの)売りが手振りで実演をして見せ「漏りません」を強調するが、その裏に客にとって「なんにもないを汲んで見せても本当は漏れるのでは」という疑いがひそんでいます。この落差のおかしみを十七音に示したところに穿ちの真骨頂があります。本句では単に柄杓売りを材料にしただけですが、川柳発想の根源は穿ちのみであり、これの応用展開によりすべての川柳が作られています。

 川柳の穿ちの強みは、超時代の次元で通用する点にありましょう。右の江戸時代に生れた一句は、現代人が鑑賞しても通用するおかしみを表しています。

しかし現代川柳の場合、時事中心の一過性作品が余りにも多すぎます。その句作が生れた時点に生きる人が鑑賞すれば気のきいた穿ちも、やがて時代が隔たれば面白味も薄れてしまう。この一過性は時事を扱った短詩文芸の宿命で、時事に負うところの大きい川柳は、汎時代性という点でハンディキャップを負っていることになります。せっかく作ってもすぐにゴミ箱ポイ、の運命にあるのです。

 現代川柳が飽きられつつあるという現象も、この辺に大きな理由があると思います。さらに川柳は、わずか十七音字の中に極度に切り詰めた言葉を圧縮して封じ込む。余裕がないから助詞の使い方一つで、作品を生かしも殺しもする。文法にかなり精通していないと致命的な誤りを起こしかねません。

 では、狂歌はどうでしょうか。こちらは一言で言うと「茶化し」の文芸です。三十一音節と定形枠に余裕があるから、初心者でも表現の冒険ができます。

とくに新狂歌では背景の学識を排除してあるわけですから、身の回りの事を詠材に、のびのびと作ることができます。

 さて、川柳と狂歌。十七音字に三十一音字。穿ちに対し茶化し。諧謔を展開する仲間であっても大きく異なります。どちらがすぐれているかを独断するのは愚の骨頂というもの。将棋と囲碁の優劣を論じ合うようなものですから。そうではなくて、どちらが自分の好みに合うか、これをもって選択肢とすべきです。

 ところで見出し詠を今一度ご覧頂きたい。数字を弄しすぎてしまったわけですが、これだけの内容を十七音字の範囲で表現するのは不可能です。ここに三十一音字詠の余裕の差、特徴と魅力があります。

 

 

土地高で江戸っ子逃げたこの街は おらが国さの神田だんべえ

──「茶化し」は笑いの導火線

ここで「茶化し」とはどういうことか考えてみましょう。

「茶化し」は茶化すという動詞が名詞化した言葉で。古語で「茶にする」といい、東京語では「おちゃらかす」といっています。

意味は、相手をなぶり、小馬鹿にすること。

狂歌では、この「茶化し」精神が原点になっています。ただし、懐ろの深いおちゃらけですから、単なる駄洒落などとちがい笑いを誘発する効果が大きいのです。

見出し詠(作品集の「神田」より)を叩き台に注釈を展開してみましょう。

昔は神田生れはチャキチャキ江戸っ子の代名詞でした。神田川で産湯を使った三代目以降の御仁ともなれば、他人も一目置く。粋でいなせで喧嘩ッ早くて、そのくせ情にもろい。銭湯(ゆうや)と祭りが大好き。宵越しのゼニはもたず、貧乏にもなれっこ、ときています。

だから狂歌や川柳で格好の題材になった。ところが戦後を境に東京の様相は一変しちまいました。

ご存知、地方の人たちが大挙して上京し住み着く。近時はバブル期の地上げなどで、東京は逆に土着の東京人を都外へ追い出す結果に。地方出身の土地成金や金満家連中が東京を買い占めたような按配になったのです。

  まさしく東京ッ子の都落ちじゃねェか。そんな人たちは、やりきれなさで一杯だぜ、と悔しがる。ここは一番、江戸っ子の端くれとして狂歌でも詠んで世の中を茶化し、腹の虫を治めるしかあるまいて。

「神田」は在郷に見られる「神田(しんでん)」の(いい)でもある。音通を弄することで田舎者へのおちゃらけをかまし、じつは鬱積した憤懣を吐き出した一首なんですぞ。

 

 

ちび筆や紙すら無くもでかし読み 貧せど鈍にならぬ狂歌師

──狂詠は知恵が元手で金要らず

過去に詠まれた狂歌作品の99%は短歌であり、長歌や異体歌(ほとんどが二十六文字)はきわめて珍しいわけで。なかでも貧窮の身を嘆じた希少な長歌が一首あるのでお目にかけましょう。

    述懐                                      鈍奈(どんな)法師

思ふこと かなはねばこそ うき世とは かねて存じて 居りぬれど やゝそろばんの けたちがひ 二六時中に かねほしと まなくひまなく ふじのねの もえつくとはに 思へども もつてのほかに さぶろくの ゆきや氷に とぢられて はたらくことも かたをなみ あしずりしつゝ なにしかも 人をうらみん さりながら ふつまりなりし 年のくれ たゞかけこひの かほをみて なきぬべらなり 後悔の かへらぬながら くりことを たゆる時なく かくなはに 思ひみだれて 勘定の たらぬがちなる 足引の 山した水の にげかくれ 戸棚の中に ひとり居て あはれ〳〵と なけきあまり せんすべなみに よこにねにけり

    反歌

八重(むぐら)おほかる宿の冬がれもなどかけこひにさはらざりけん(徳和歌後万載集・巻十三)

 往時の狂歌師は、たいていが貧乏暮らしに甘んじていました。

天明頃の狂歌作者の場合、学識豊かな武士が目立ちますが、幕臣にしろ藩士にしろ下級武士が余技に詠んでいた場合が多い。生活は楽ではなく、貧をかこつ主題の作も少なくありませんでした。町人作者とて同様で、質屋、貸本屋、湯屋、大家等が、しがない商売の片手間に狂詠を楽しんでいたのです。

昔は出版に伴う印税収入とか著作権といった制度がなかったから、本を出しても無料奉仕に近かった。が、収入は無くとも嬉々として作詠にいそしみ、板行にも喜んで協力したのです。彼らは貧しくとも狂歌を愛し、作品に打ち込んでいました。すでに述べたように、狂歌師の没年は並べて高く、その大きな理由に精神的健康が挙げられます。

まといつく貧乏神も気にすることなく、貧しさをせせら笑ったような狂歌師もいました。江戸後期の狂歌師で戯作者(本業は蘭学者)森羅万象亭(しんらまんぞうてい)(本名は森島中良、別狂号を(たけ)(つえの)()(がる))がその人。平賀源内の門人で愛酒家でもありました。

 万象亭 『吾妻曲狂歌文庫』

  千金の花のうハはとミゆるかな小粒となりてふれる春雨(千両に比べ一分金は下級遊女しか買えぬはした金、おいらんなど夢で、春雨が降るようにちんまりとした女郎買いだよなあ)

狂歌作りは生きる目標を与えてくれ、人生に励みをもたらし、ボケを予防してくれます。同好の士も少なくなかったから、社中などでの交流を通して、張り合いのある生活が送れ、孤老に陥ることもなかったでありましょう。

新狂歌作りは、ケータイを持たないときでも、紙と鉛筆があれば誰でも、どこででも没頭できます。市井の人、貧大衆、そして高齢者にピッタリの知的道楽なのです。

 

(すい)(あく)()無頼(ぶらい)珍紛(ちんぷん) 漢だらけ 世に狂詠の種は尽きまじ

──新狂歌は永遠なり

新狂歌では既述のように個人攻撃は厳禁ですが、じつは落首としての機能も兼ね備えている点を見逃せません。

落首は人事(ひとごと)に寄せて詠むのが普通で、落首が増えるのは世の中が悪くなっている証拠でもありました。現代なら落首の代わりに新聞・雑誌の投稿欄が、庶民の批判やウップンのぶちまけ場になり、賑わいをみせています。

狂歌に比べ落首のほうは、世情に対する切り口が強烈で、表現も過激に走りやすい。それだけに物故者への冒涜や現世人への見当外れな個人攻撃という、危険な方向に走りやすい。こんなことは狂詠といえども冒してはならないタブーなのです。

この不文律を守りさえすれば、新狂歌による社会批判は十分に新規文芸になりうるわけで。新狂歌がマスコミで市民権を得るようになったら、おそらく投稿論壇に新風を巻き起こすことになりましょう。

さて、いつの世にも悪党や市民生活を脅かすはみ出し者が絶えません。ということは、オーバーに表現すれば、人類が存続する以上、新狂歌のネタは尽きないのです。

新狂歌をもって世の中の不条理を茶化しあげつらうことのできる、若く新鮮な狂歌師の出現を期待してやみません

 『狂歌百鬼夜興』より