ステップ4 新狂歌作法

 

 

新狂歌作詠五つのポイント

 

一、       こみいった背景事情を抜きに

 

二、       言辞(げんじ)(わざ)(修辞や言葉遊びなど)は程ほどに

 

三、       卑俗語をもふんだんに使い

 

四、       できるだけやさしい表現で

 

五、       新しい感覚で詠む。

 

 

五七五(ごしちご)の韻はみだりに崩すなよ

自由律では狂文に()

──新狂歌作り十二条 ①韻律は崩さない

現代短歌界に目立つ自由律は、新狂歌では禁物です。

古来つちかわれてきた五七調三十一(みそひと)文字(もんじ)の韻律はきわめて優美な表現方法です。それを無視した自由律は、いかに内容が()(いで)ていようが、古典歌学いうところの「韻塞(いんふた)ぎ」になっていること自体で、もはや短歌と呼べないシロモノになり下がっているのです。

メジャー新聞掲載の歌壇で、ひどいのになると七字余り、八字余りを目にすることがあります。これ、軍服を目一杯勲章で飾り俺は偉いんだと嘯いている軍人の発想と変りありません。

先人が残してくれた五七五七七の韻は、下手な内容をも引き立ててくれます。この恩恵にあずからないという手はありません。NHKラジオ放送で人気を得た「ケータイ短歌」でも三十一文字の決まりをほぼ守っています。人にお礼の挨拶を述べるときは、必ず腰を折ってお辞儀をするのと同じことですよ。

新狂歌では、五七五七七の韻律をかならず守ってください。そのために、この主題を第一条に据えました。

ついでながら、字余りは一字余りが許容限度で、字足らずは文句なしに不可。まず、このルールが守れないようだったら、新狂歌とは縁がないものと思ってください。

次は狂号のように目立たない狂歌師、()(だの)(ひと)(なり)が詠んだ一首。出戻りでしょうか、疵物となった女に言い寄り肘鉄を食らった哀歓をうたっていますが、流れるような韻律でつづられた見事な作品です。

 多田人成 『吾妻曲狂歌文庫』

  いひよればひんとはねたるかけ茶碗つぎめのあハぬ身こそつらけれ

参考までに、古文の一節をも掲げておきましょう。

     字余之事 

三十一字にあまる事、作例おほしといへども、ことさらよしなき時は、あますべからざるか、忠仁公、

  年ふればよはひは老いぬしかはあれど花をしみれば物思ひもなし

といへるは、面白ければ左右におよばず、よしなきときに、たけを高くみせんがため、このみてあます人あり、いかにぞや、是を中飽病といましめたり(田畑武辰著『耳底記別録』巻九)

 

媾合(まぐわい)やお鳴良(なら)もサラリ披露せよ 人のやらないこと詠むでなし

──新狂歌作り十二条 ②既存の慣行にこだわらない

旧来の狂歌は形式上、およそ五系統に分けることができます。

㈠ 本歌取り

㈡ 本歌捩り

㈢ 言葉遊びに重点を置いた詠。 

㈣ 心象を柱に表現する「心の狂」の詠。

㈤ その他の詠

また、和歌の区分主題に沿っても五系統に分類できます。

   四季それぞれの歌

   羈旅・哀傷歌

   恋歌

   儀礼歌(賀歌・神祇歌・釈教歌)

   雑歌

右の分類はいちおう方便上のものです。なかには二~三分野にまたがって混然と詠まれたものも少なくない。いずれにしても言葉遊びと文彩(修辞)技法が少なからず用いられています。

これら諸形式に加え、卑語や俗語も十二分に使われ、内容のおかしさを増幅させています。以上を総括して狂歌の技巧が構築されるわけ。しかし狂歌の技巧はあくまでも表現上の手段であって、狂詠の目的とするところではありません。

狂歌のねらいは世情人事の「茶化し」にあり、そして内容に含まれる笑いの濃さで勝負する。この辺の呼吸を先人に代弁してもらいましょう。

狂歌といふもの、時に臨みて読むなり、たゞおかしきふしによみて、少しいやしきかたによむを、かへつてよきなりと幽斎公も仰せられし、去年の夏郭公の題にて、

  夏の夜はほとゝぎすにぞくらはるゝ蚊帳へも入らず待とせしまに(松永貞徳『長頭丸随筆』) 

*「ほととぎす」は女陰の異名の一。「待」は松と音通でいかつい男根の、これも異名。

松永貞徳 『国史肖像大成』5

 こうして、「すこしいやいき」詠がちょうどよいと言い切っています。狂詠ではいたずらに格好を付けお上品ぶった作品にするな、ということです。

では「すこしいやいき詠」の見本を掲げます。天明三大狂歌師の一人、朱楽菅江(あけらかんこう)が紅葉に仮託し、大坂新町遊廓において取った客の数で遊女の格付けを詠んだもの。いかにも遊び人として艶名をはせた菅江らしい、下卑た主題です。

 朱楽菅江 『吾妻曲狂歌文庫』

  紅葉々ハ千しほ百しほしほしみてからにしきとや人のミるらん 

*「しほ」は客と寝た回数。

 さて新狂歌では、以上のような形式論、狂歌論にとらわれずに、自由闊達に詠むことを基本姿勢とします。詠材や用語にも原則として制限を設けません。気の向くままに、のびのびと作ってみようではありませんか。

 

狂歌では学識(てら)うは半端者 教養などは犬の尿屎(ばりくそ)

──新狂歌作り十二条 ③わかりやすく詠む

ここでいう「わかりやすく詠む」とは、鑑賞相手の視点ですっきり理解できる内容にする、という意味です。

昔は狂歌師の衒い詠みが狂歌鑑賞の足を引っ張り衰退を早めさせた、と述べてきました。

狂歌を作品として発表する以上、必ず鑑賞者が存在します。その鑑賞者の理解の度を超えた難解な作品は、もはや狂歌とは呼びがたい。学識を振り回すのは作者の一方通行に終わり、自慰行為でしかないのです。二例を俎上に問題点を指摘してみます。

    四方赤良高田馬場にて十三夜より十七夜まて五夜の月見しときゝて

白鯉館卯雲

 団子(だんご)夜中(やちゆう)新月の色五ツさしすこしこけたは曇なりけり(万載狂歌集・巻五)

この一首、かなり難解です。初めて接してその場でよく理解できる人は、よほど学識豊か、ということになりましょう。

卯雲いわく、(赤良は)団子を供えつつ中秋の名月を愛でたようだが、(たと)えて五つ刺しの団子、五夜の月の中には雲がかかり、あたかも団子が少し焦げたように見えるのもあった、が歌意です。

まず、この作は漢詩取りになっています。『和漢朗詠集』上巻所収にもみられる白楽天の七言律詩、「八月十五日夜/禁中ニ独リ直シ 月ニ対シテ元九ヲ憶フ」(『白氏文集』巻十四)中の第三句、原文で「三五夜中新月色」からの(もじ)り取りという凝りよう。

歌意はというと、団子に五夜を掛け観月の串団子(一本に五つ刺し)としたところがミソなのですが、たいていの人は一目通してで首を振ってしまうことでしょう。

次は成句取りの例です。

     文月ついたち赤坂なる桐屋といへる家のあるじをはじめてとひはべりて

朱楽菅江

  秋もけふ小判のきりや一葉よりまづ落そめて蔵にみつ次(徳和歌後万載集・巻三)

では伝承成語「桐一葉に秋を知る」を知らないことには話になりません。

 また、当時流通の小判に金座創始者の後藤光次の名が刻印されている知識も必要。加えて文月(七月)一日が暦の上で秋の入り。そして蔵にみつ→満つ・光という、秋風と小判の縁語言い掛け構成を読み取って初めて「秋だもの桐屋の蔵には桐の葉と後藤光次名を彫った小判がどっさり満ちている」の歌意に落ち着くことになります。

 挙例二首とも詞書(ことばがき)が長いのも気にかかること。長い詞書を必要とするような詠は、えてして込み入った背景があるからで、それが詠にも反映され新狂歌向きでなくなります。詞書については追ってまた述べます。

 このように、古歌や漢詩を下敷きにしたり、さして有名でもない成句から取ったり捩ったりした古典作品が非常に多く目に付きます。

 新狂歌では、わかってもらえないなら仕方ない、という思い上がった詠み方は避けるべきです。

一般の常識に照らし合わせ、内容がすぐにわかる新狂歌作りを心がけようではありませんか。

逆の例として、誰が読んでもすんなり理解できるやさしい作品の見本を掲げておきましょう。

つふり光 『吾妻曲狂歌文庫』

母の乳ちちのすねこそ恋しけれひとりでくらふ事のならねば

 

夷歌(えびす)釣り秀歌名歌と欲かくな 雑魚(ざこ)九十九に鯛は一匹

──新狂歌作り十二条 ④はじめは質より量で詠む

天明期に名狂歌師といわれた社中長老の作でさえ、本当に珠玉の作品と呼べるものはそう多くはありません。ことに狂歌会や狂歌合の席上では、即詠に近いからか、これがあの人の作品?と首を傾げたくなる拙速作もあります。まして並級の狂歌作者のものは、見出し歌ではないが、全詠歌中佳作は数えるほどしかないと思ってよろしい。おなじみの花酒爺の見出し詠とてダボハゼ作品揃いですが、苦にすることなく続けてご披露いたします。

ときに、『狂歌書目集成』(菅竹浦編、臨川書店刊)という狂歌研究者間で重宝がられている狂歌集誌があります。昭和十一年に星野書店から刊行のものを復刻した書冊で、いわば近世狂歌集のガイドブックです(筆者は都立中央図書館で閲覧)。この本のページを繰ると、よくもこれほど…と驚くばかりに狂歌書冊がずらり並んでいる。いうならば、江戸時代に狂歌がいかに人気を集めていたかの証拠物件でもあります。

その数ある冊子の大半が三流、といっては失礼だろうか、名もろくに知られていない編者の手になる月並みな撰集です。それらマイナー書に収められた作品の程度も押して知るべし、といったところ。

参考までに、狂詠として致命的な欠陥のある作を三点、抜き出してお目にかけます。どこが致命傷になっているか、解説なしで、興味をもつ読者への宿題に呈しておきます。

 一周忌追善                                    里彦

読置し月は年〳〵かはらねと由縁さい〳〵同しからさる(狂歌机の塵・上方)

*ヒント=作者は鯛屋由縁斎の門弟である。 

 連日酒                                            嘉栗

 呑つゝけ日数もひいふうみいら取そのむかひさけ〳〵(狂歌たつの市・下、上方)

   立春                                十寸穂寿々き

 去年とりし一つの年も明しより二つか三つの春はきにけり(狂歌鸚鵡盃、江戸)

こうして、失敗作でありながら狂歌集にちゃんと収められているのです。まして新狂歌を始めたばかりの方は、未熟さを少しも恥かしがることはありません。

ともあれ数詠みして早くコツを体得し、少しずつ腕を上げていくにかぎります。

 

 

歌仙らは坊主も爺も恋を詠む 狂歌(ざれ)の八百かわゆいものよ

──新狂歌作り十二条 ⑤照れずに作ろう

のっけから遊びますが、『小倉百人一首』になじんだ人ならすぐわかるクイズを一つ呈します。以下、数字は歌番号、これらの主題は何か。

三、十三、十八、十九、二十、二十一、二十五、二十七、三十、三十八、三十九、四十、四十一、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、四十八、四十九、五十…まだまだ続くが、もう止めます。

答えは「恋歌」。百首中じつに四十三首も恋歌で占められています。まるで四季これ春まっさかりのついた歌ども、ですな。

うち二十一、素姓法師/八十二、道因法師/八十五、俊恵法師/八十六、西行法師の四名はいうまでもなく坊さん。ほかにトウ立つも(ソク)立たぬご老体も何人か恋歌を詠んでいます。言い換えると、恋したの、惚れたのが遊びの材料に利用されているわけで、まさに春情詠群を形作っています。

 西行法師 MOA美術館

また、五十一番、藤原実方の一首は、

 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじなもゆる思ひを

と、上三句の序詞に加え掛詞と縁語を言い掛けた遊戯歌になっていて、狂歌に一段と近づいています。

狂歌とて和歌を手本に言語遊戯化をたどった文芸だけに、恋歌に関しては負けずに多彩ですよ。狂歌は和歌ほど作法(さほう)縛りがないので、かなり大胆かつ奔放に、恋──というよりもお色気を強調することが許されるのです。有名狂歌集になると、和歌のそれ以上に、恋の部立に「○○に寄する恋」のよそえ詠題が目白押し、あたかも桃源郷へと迷い込んだかの感さえあるほどです。

というわけでして、狂詠に恥ずかしいとか照れは禁物です。

春先など気が浮きうきしてきたら、思いきって恋相手の裾まくり詠でも作って見ましょう、こんな調子で。      

松永貞徳

 居所(ゐどころ)をまくり上げても何かせん穴のはたのみのぞく身なれば(古今夷曲集・巻七)

                     石田未得

 なにはめのはらむ子だねの冬こもりいまは春べとつはるこのはら(吾吟我集・序の詠)

 寄枕絵祝                               あけら菅江

 床もはやおさまりてよいきみか代はもういく千代といはふ枕絵(狂歌若葉集・上)

 

 

西東(にしひがし)遠く近くと眺むれど 茶室の賛は句よてまえやれ

──新狂歌作り十二条 ⑥狂歌の()をわきまえる

新狂歌作り第二条では、既存の慣行にこだわらず何でも詠みこなそう、と主張しました。ところが本条では、「狂歌の分をわきまえる」がテーマになっている。言っていることが矛盾しているではないか、と思われるかも知れません。じつは、こういうことです。

過去に存在した短詩系文芸で狂歌ほど万能型なものはない。詠材や主題の対象と範囲、用語に用法、どれをとっても他から抜き出て多様です。

いっぽう短歌はどうか。こちらは花鳥風月の叙情詠みといえます。俳諧つまり発句は(わび)だの(さび)といった心象の表明であり、都々逸は恋情の訴求であり、川柳は穿ちの活写です。それぞれ作法や守備範囲がほぼ定まっている。自体の持ち前を崩すことなく、他文芸との競合もほとんど見られません。相互秩序が確立しているのです。

 ころが独り狂歌だけは、「茶化しの描写」という、たいへん大きな融通性を具えている。一面においてとらえどころのない表現形式でもあるわけでして、他文芸の領域に食い込んでいる部分も少なくありません。裏を返すと、他文芸の特色に染まりやすく、越境もしやすいという弱点を抱えているわけ。したがって、うっかり野放図に詠むと、いつの間にか和歌寄りになっていて、どこか構えたところが生じ面白味を失う。あるいは、言うところの「心の狂」を意識する余り、詠風が発句的になってしまう。さらに抽象的な言葉の多用で、一部の現代詩に垣間見るように、何をいいたいのか内容が把握できない半端が生じます。

こんなケースもあります。川柳子が狂歌を作る場合、初めのうちは「腰折れ詠み」といって、上三句と下二句がすんなりつながらない。極端な場合は、上三句だけで下二句は蛇足、つまり川柳吟に逆戻りしてしまう誤りを冒すことがあります。

新狂歌では、他文芸と同化の弾みがついて、どっちつかずの半端な狂詠にならないよう気をつけよう。

これが「狂歌の分をわきまえる」ことの本義です。そして半端読みを避けるには、沢山の新旧作品に接し、一首でも多く作り、狂歌の本質的な間口と奥行きを探りながら狂歌の分を体験で覚えこんでしまうことが大切です。

 

隙あらば語呂(ごろ)(もじ)りで洒落(しやれ)のめし 裳裾(もすそ)硬けりゃおちょくりさすれ

──新狂歌作り十二条 ⑦面白い内容にする

この条のテーマ「面白い内容にする」は、簡単なようで難しい。意味の膨らみが大きいうえ、面白さとは何か、人によって実感尺度が違うからです。ならば客観的に常識に訴えられる作例で示しましょうか。

まず詠材から入ってみます。狂詠の対象となる材料は無尽蔵にありますが、面白さにつなげるには、誰もがよく知っている身近な物事を選ぶに限ります。

(ぎよう)月房(がつぼう)こと冷泉為守は本書でこれまでに何度か紹介しおなじみと思いますが、かの有名な才女である阿仏尼の息子で、胎動期狂歌の父祖でもある人です。彼は禁中の歌会で横紙破りな詠風が咎められ落第、憤激に耐えず遁世し狂歌道一筋に邁進しました。そのあげく異色作を数多残していますが、「虱百首」 (臥雲日件録抜尤)はその最右翼といえるでしょう。うち三首、

 しらみ子の身の行末をたずぬれば爪の先こそ墓どころなれ

 蚤虱声振りたてゝ泣くならばわがふところはむさし野の原

 かりそめに紙子に住むなまごしらみ回れば遠しくくられはせず

 いかが、面白い歌でしょうが。それにしても虱だけ取上げて百首とは、よくも詠んだものですね。

 往昔、貴族から庶民まで不潔な生活環境で暮らしていたから、虱は歓迎されざる人生の伴侶、生活点描虫でした。この定数狂歌の虱歌を鑑賞すると、作者は虱に愛着すら覚えていたように思えますよ。虱という嫌われ物を手を変え品を変えして詠み尽くした。狂歌にピッタリの詠材を手際よく詠みきった才知のほどがうかがえます。

 話変わって『小倉百人一首』三一番歌は坂上(さかのうえの)是則(これのり)の詠で、

  朝ぼらけありあけの月と見るまでに吉野の里にふれる白雪

これを百人一首の捩り版『犬百人一首』で、作者の幽双庵は「坂上駕籠のり」に仮託して、次のガラリ一変した作に詠み替えている。

  朝出てありたけの銭のなきまでに吉野の遊山くらす駕籠のり

 つまり捩りによって生じる両詠の落差(文彩(修辞)用語でいう「摩擦」)が、狂詠ならではの面白味を演出しています。

 幽双庵『犬百人一首』

なお、荻生詠「捩りのめし百人一首抄」にも同じ本歌捩り八首を添えてあるので、お好みでご笑覧ください。

さて、右のように面白い内容にするということは、滑稽文芸に求められる最終目的でもあるのです。ただし、吹けば飛ぶような乾燥しきった滑稽ではなく、適度に湿り気を帯びていて、ねちっこく絡みつき、ほんわかと匂うがごとき滑稽こそ、新狂歌を支える滑稽なのです。

 

 

ボキャ貧は歌俳詠む身の命取り 総理がほどは事足りようが

──新狂歌作り十二条 ⑧持ち語彙は豊富に

平成十年、故小渕恵三首相はアメリカのマスコミに「冷めたピザ」とからかわれたのを受け、「私はボキャブラリー貧困だから」と自嘲。この話が広まると、こんどはこちらのマスコミだか好事家だかが飛びついて「ボキャ貧」なる流行語を作って広めた。ちなみに小渕さん、早稲田大学の雄弁会出身だとか。

  独りこの総理だけじゃありません。閣僚から大会社の社長さん、学校の国語教師、はてはコギャルに至るまで、ボキャ貧ぶりが目に余ります。財界人は金儲けに忙しく本をろくすっぽ読まない。若者達は言葉や文学離れで読書が苦手、劇画を見てパソコンのキーは叩いても、国語辞書など持ってないという人たちが増えているそうな。

新狂歌を作る人がこれでは困るわけ。常用語だけでなんとかお茶を濁せられる道歌や川柳などと違い、狂歌はしっかりした言語操作が武器となります。言辞を使いこなすには、雅語から卑俗語まで、さらには方言、隠語の類まで、言葉のストックが豊富であるほど戦力になります。

さて、「言葉」が出たところで()ってみますか。言葉自体にも何種もの類語のあることを古書が指摘している。『藻塩草』巻十六に「詞」と題し、

 詞玉 ことばをほめて云也(中略) ことば ことばの玉 こと葉のたね いふことの葉 ちゞのことのは ことのはの花 ことのは草 やちくさのことのは毎に なげのことのはの露 ことのははなげなる物 のこることのは ことのはのちり

と、古語の「ことば」にもこれだけ多彩な表現のあったことを教えてくれていますよ。こんなことは学校の国語ではけっして教えてくれませんし、どんな国語辞書にも載っていない。知識を広め、語彙を豊かにするには、一にも二にも本を多く読み、辞書をこまめに引くに限ります。

 自分の手持ち言辞が増えるほど、言語操作や弄辞の領域は広がっていきます。言葉のストックから適切語を引き出し、巧みに表現することで、狂詠の質を高められるのです。

 

カタカナ語歌俳をけがす夷語(いご)と知れ 言葉足らずや字余りも生む

 

──新狂歌作り十二条 ⑨洋語・漢語は程ほどに

若者を中心にすさまじいばかりの外来語の氾濫(ラッシュと書かないと古いかな)時代ですね。マスコミや官庁まで、日本語をレイプしたかのごときアチャラカ語が肩をゆすりながらはびこっています。おれは大和民族印、という年輩者はとてもついていけません。

西欧語が日本に本格的に移入されたのは、開化に伴う明治文化幕開けから。当時、狂歌はというと、ほとんど詠み手が消えていましたから、狂詠における外来語の使用を云々されることもなかったはず。また、狂歌に外来語を用いてはならないという決まりも見当たりません。しかし、自分で作品を手がけてみればすぐにわかることですが、狂歌に外来語を使わずにすむなら、それに越したことはないのです。

理由の第一。外来語やカタカナ言葉は狂歌の音韻体質になじまない。古風に言うなら「夷語(えびすことば)」だからです。けれども現に短歌にすら使われているじゃないか、という反論がありましょう。はてな、現代短歌は自由律とかで韻律は破壊するわ、片仮名は乱用するわで、すでに伝統和歌の嫡流とは呼べないシロモノに堕ちています。譬えるなら、父親が三味線で新内を語り流しているのに、そばで道楽息子が「俺はこっちが好きだから」とザンボを踊りまくっているようなもの。新狂歌はそんな外道の真似をせずともよいのです。

理由の第二。歌体の調整に厄介。カタカナ語を引き込むことによって、日本語としての文脈膠着力が弱められ、はては字余り、字足らず発生の恐れが高まってしまいます。

理由の第三。冗長になりがちなカタカナ語の侵入によって、言語操作の許容量が狭められ、仕上がりに不自然さや無理が生じやすくなる。

以上の三点が根拠です。が、これはあくまで原則論、ということにしておきましょう。まれにはカタカナ語を使ったおかげで、狂詠内容がかえって面白味を増した、ということもありうるからです。

  似たような問題に漢語の乱用があります。広義には外来語である漢語もまた「夷語」なのですぞ。狂歌の主役は大和言葉、つまり和語でなくてはなりません。

五七調の和歌韻律は、和語によって成しうることを忘れてもらっては困ります。本来、大和言葉だけでつづるべき性質の文芸なんです。そののほうが効果的な場合に限って、漢語を使うことが許されはしますが。

以上を取りまとめ、狂歌用語としての使用優先順位を整理すると、

大和言葉>漢語>外来語などカタカナ語

ということになります。

 

浮世にはピンと聴き耳立てるべし これぞの応えポンと(いず)るぞ

──新狂歌作り十二条 ⑩世情を評し斬り捨てる

狂歌は落首としての側面的機能をもちますから、作る側は世の中の動きに敏感でなくてはなりません。ここで落首とは何か、改めて説明しておきましょう。

落首は風刺や批判を込めた、たいていは匿名の戯笑歌で、狂歌とは姉妹関係にあります。往時の捨て札、落とし文、瓦版投書などのうち、散文形式のものを「落書」、韻文形式のものを「落首」といっています。

落首は世情が不安定で、物ものしい事件が沢山起こる時期ほど量産されてきました。世の中の照魔鏡、といったところ。人びとは事件への関心を示すとともに、ウップンの吐け口を狂詠に託しました。これを人目につく場所に掲げ、同調者の共感を得る訴えかけをしたのです。ただし落首は匿名が原則ですから、野放図な無責任もついて回ります。そして詠材が人物評になっている場合が目立つのです。なかには危険思想の伝播に悪用したり、個人への陰険な中傷を見よがしにさらけ出す例も少なくなかった。すでに指摘したように、悪ノリの結果、救いようのないほど堕落した内容のものもあり、これがまた嘆かわしいことに目立ちます。この類の落首は、すでにヒネクレ病んで暗い印象しか与えず、読み手を愉しませるという狂歌道から逸脱しているわけ。だからいけない。

新狂歌では、対象者が公人(閣僚大臣や議員など)である場合を例外に、個人攻撃は厳しく戒めます。

新狂歌でいう落首は、つまるところ個人攻

撃を除いた時事詠である、と考えてもらってよろしいのです。

もう一つ、落首は時事詠という性質から、あくまで当座に限っての命。時がたつほど茶化しの面白味は失せ、やがて忘れられる宿命にあります。この真理はしっかり銘記しておくべきです。

参考までに、たかだか十数年前後以前に詠んだ時事テーマの拙作群を掲げるので、今やいかに色あせてしまったか、理解していただきましょう(すべて荻生作)

●新狂歌「時事詠」十首   

電波猿芝居

 喚問で赤面づらが(しら)じらし七十五日で赤い舌出す

     GDP続落

 国力が落ちよが滑ろうがわしゃ知らん愛国心はとうに質入れ

     偶成

 商品券良い子ねんねの飴呉れて半端行政(たみ)になめらる

     心にもないことを

 長生きがお荷物になる世の中で百歳老をかつぐお目出た

     介護士を制度化

 世間では介護カイゴと大騒ぎいともはかない御身(おみ)と知ってか

 *カイゴ=蚕の訛でもある。

      帝釈昇天

 こち寅はフーテン連がかがみ去り渥美涙で男はつらいよ

     毎度お騒がせ

 オウムなる六道化(りくどうけ)(ちよう)()翔けて鸚鵡返しの(ポア)を振りまく

     秋彼岸、霊園茶屋話から

 こりゃしたり代行(だまし)墓参(まいり)が来よったぞさて婆さんや化けに出るかや

     南無パンダ仏

 俗人(ひと)の死はお骨拾えばそれまでよパンダ崩御で騒ぐマスコミ

     南無妙ニャン蓮華経

 我輩をさんざ(あそ)んでペット捨てまとめ処分(ごろし)じゃかニャワンわい

 

 仕上げ推敲()助詞(てにをは)使いに気を配り 歌意かゆければ今一度かけ

──新狂歌作り十二条 ⑪仕上げは入念に

定形定数音短詩の歌俳は、言葉の凝縮を見せ場とする舞台。ここでの役者の台詞は極度に節約され、冗長は許されません。

狂歌においても、表現に締まりがなく内容が退屈に思える作は、えてして冗長です。ことに無名の作者の詠は投げやり、いや、詠みやりの態がまざまざ。作品で何を言いたいのか、肝心の焦点がボケているものが多い。いくら詠み捨ての文芸とはいえ、そうした捨て鉢な態度で作られては狂歌の名が泣こう、というものです。

ここで推敲の手抜きをしたために、うっかりミスをおかした作例をお目にかけましょう。

 豊年雪丸(ほうねんのゆきまろ) 『吾妻曲狂歌文庫』

  としの坂のぼる車のわがよはひ油断をしても跡へもどらず *第四句「油断」の語義掛りと第五句の結語との文脈関係から、第四句は「油断をせぬに」と打ち消しにしなければならない。

ときに新狂歌の場合、初心者のうちは数詠みに徹すべし、とすすめてきました。この数詠みとは、手当たり次第粗雑に作ってよい、ということとは違います。

一作一作について、材料を選び、切り口を案じ、展開の方法を考え、技巧によるメリハリを吟味し、丁寧に仕上げる、という過程を経ての量産をいっています。

作詠が慣れるにしたがって、これら段取りは自然に身についてくるものです。だから入門時の詠み慣れが必要なのです。

初心にかえって一首詠んでみます。

 難産の出そうで出ない苦しみを痛いほど知るヘボ狂歌詠み

 

 

重宝な「言葉の綾」の筆捌き 屁理屈出張り道理引っ込む

──新狂歌作り十二条 ⑫文彩技を磨こう

狂詠では、言葉遊びと並んで数多存在する文彩(修辞)技も駆使されるのが普通です。

すでに述べてきたように、言葉遊びは言語の意図的な操作による遊戯です。いっぽう文彩(レトリック)もまた、言語操作に基づく文章の表現技術。ともに言語を弄する点で変わりありませんから、共通する面の広がりも大きいわけ。

文彩というと、難しそうな学術的印象を受けますが、けっしてそんなことはありません。言葉自体、用いられた時点で数ある文彩技の束縛を受ける宿命を負っているのです。たとえば昭和一桁生れ世代が昔、学校で最初に習った、

サイタ、サイタ、サクラガ、サイタ。

という単純な文章ですら、すでに倒置法、叙次法(展開法)、畳語法という三つの文彩の機能で成り立っています。文彩という言葉など意識しなくとも、われわれが話したり書いたりする文章は必ず、複数の文彩技を使って表現しているのです。

  では古典狂歌の一首を再度引いてざっと検証してみましょう。

 『万載狂歌集』巻一の一番歌である、

  春たちける日よめる              貞徳

  さほ姫のすそ吹返しやはらかなけしきをそゝと見する春風

では、なんと見立、機先法、擬態法、擬人法、名所、希薄法、代称法、感嘆法、美化法(または婉曲法)、隠喩法、体言止、さらに、狂歌全般に適用しうる韻律といった多様な文彩技が用いられています。作者は文彩そのものをさほど意識しなくても、習熟かつ卓越した妙技により、各種文彩の賑々しい展開を披露しているのです。

 松永貞徳 絵師未詳

言葉遊びや文彩といった言語操作の裏には、多くの場合、俗に言う屁理屈が隠されているわけで。この屁理屈を正当化するために、いわゆる付会(こじつけ)技が避けて通れない過程となり、そこに生じる落差(ギヤツプ)が滑稽を引き出すのです。その一例、四方赤良の詠、

 世の中は色と酒とがかたきなりどふぞ敵にめぐりあひたい(巴人集拾遺)

において、色と酒は俗説どおり、身を滅ぼす元凶。その忌むべき敵にあえて「めぐりあひたい」という、大好きな物事への裏返しの心情(文彩にいう「入間詞」または「逆説」)が、この屁理屈秀逸作品を鑑賞するポイントになります。

 言葉とは、まつたく重宝なものですね。そして言い回しとは、よく化け得るものだ、と思いませんか。

 

 

補遺に──新狂歌作法上の寸感

 

 

垂乳根(たらちね)言の葉詠みに甘辛く にっこりがしたりおふくろの味

──古語は歌俳の母性語

現代に甦った新狂歌だからといって、古語の使用に制限を加える必要はありません。

古語の多くは大和言葉を母体としたものであるゆえ、歌俳系の詠吟にぴったりなじみ、用い方一つで宝石のようなきらめきに輝きます。机上に古語辞典の一冊は必要です。

また、詠体を文語にするか口語にするかも、こだわる必要はありません。花酒爺の場合は、内容に応じて使い分けています。

たとえば、カタカナ語を用いるような今様詠では、現代語で表現してみるなど適性も考えてみましょう。

 

 

せわしなく流し目くれて色めくな こてんこてんにくるわされるぞ

──古典狂歌鑑賞の要領

古典狂歌の真髄が堪能できるようになるまでには、それ相応の時間と修行が必要です。

次の三点に留意しましょう。

       三、四回詠んでみて、大意とともに、詠歌が何を言いたいのか把握する。

       じっくり時間をかけ、一語一句洩らさずに味わう。するとしだいに弄辞(文彩や言葉遊び)の面白さが見えてくる。

       机上には内容の詳しい国語辞書を常備し、不明語をこまめに引いて意味を理解する。できたら背景となる故事や周辺知識をも探ってみよう。

鑑賞にさいし、注釈付き解説書を読んで勉強するのも一つの手。古典狂歌の勉強は新狂歌作りの必須肥料となりましょう。

 

 

(つら)(がま)えあってもなきが(やつこ)でも (かみしも)ればめりはりはつく

──表記について留意したいこと

●旧仮名遣いを含め旧時代の表記法はさけ、たとえ古語を使う場合でも、読む人の理解を助けるため現代表記に改める。

●作者の意図どおりに読んでもらうためにも、必要に応じ振り仮名を付ける。ルビ振りの異音表記についてはもちろんのことである。

●数表記では原則として漢数字を用いる。ただし、西暦では20世紀のように算用数字を用いてもかまわない。

●用法上メリハリが付く場合は、特定語句を「 」を用いくくってよい。

●句読点や記号類(繰り返し符号も含む)は歌体を見苦しくするので、原則として使用しないこと。

 

幽霊の心で化かせ詞書(ことばがき) 裾もぼかせや付かず離れず

──詞書は短く、臨機応変に

狂歌の詠題や詞書は詠歌の単なる補佐役。付けるも付けずも作者の自由です。新狂歌に付ける場合は、次の点に注意しましょう。

         詠題は短く、具体的に。

         詞書も長いのは感心できない。興をそがれ、詠歌の新鮮味が半減してしまう。また長ったらしい詞書を要すること自体、込み入った内容であることを暗示しているわけで、この弊習はさけたい。

         詞書の表現はひとひねりが必要で、詠歌とは適当に距離を置くことが望ましい。とくに、詠歌の内容説明にならないよう気をつける。

 

 

 

歌ぼらけ匂いたたせよ絵にも描け ことば細工の(たくみ)の腕で

──「絵になる詠」を心がけよう

狂歌の内容は具体的であるほど好ましいのです。「絵に描いたような」表現の詠であれば理想的です。

一言お断りを。見出し詠の「歌ぼらけ」は辞書にない荻生の創作語で、朝ぼらけの謂。歌が生まれる間際、の意味を込めてあります。

新狂歌作りでは、場合によりこうした冒険を試みるのも一法です。

 

 

とっちめは皮肉一発玉はじき 矢数悪口むだ射ちと知れ

──皮肉こそ狂歌の表看板

皮肉とは──などと、ここで能書開陳でもないでしょう。拙作をもって代弁させることにします。

    面食い

 仲人のくどい才媛ブスとばれ写真も見ずにまたの機会に

この一首、上三句だけで独立した川柳になり得ます。このような中途切れの作詠を「腰折れ歌」と呼んでいますが、それを承知のうえであえて下二句を付け足し狂歌に仕立て直したものを「後句付」または「腰折れ受」といっています。

外道詠みに属するので初心者は真似しないでよろしい。

 

 

あざけりはのし付言葉でやり返せ 言い草仕合ここ一番ぞ

──やりとり絶妙「滑稽応酬歌」

今日、話のわからない官僚や市民団体が、やみくもに差別用語とやらを狩り出しています。そうした風潮に神経質になっていたのでは、新狂歌など作れるものではありません。無視してしまいましょう。

荻生の作品集「戯れ詠み仕合」は言葉狩り族に睨まれること必定の語句が目白押し。突き上げ覚悟の上での作品です。

 

 

春ぼンぼ色はにほへるちらと見せ おかきめされと筆さしまねく

──好色がたどり着く「バレ歌」

 バレは「破礼」の当て字そのもの、破廉恥なエロスの終着です。

 新狂歌作りで、バレ詠みは避けて通れない道。よほどの露骨表現でないかぎり、バレも公認としましょう。