狂歌資料集

 鼠婚礼図 伊藤若冲画

 

 

1 狂歌の呼称

*掲出はすべて抄出である。

●古来狂歌名目之事

夷曲(ヒナブリ)(日本書紀)夷振(ヒナブリ)(平民伝)夷歌(ヒナウタ)(古今集)狂言歌(キヤウゲンウタ)(同上)狂歌(キヤウカ)(夷曲集・貞柳翁)()()(ウタ)(師説)戯歌(タハレウタ)(西行詞書)興歌(ケフカ)(純全意)如此名称異なりといへども、其意大底同じ事也、各其師家の称する所に随ふべし

&日々庵了山『狂歌詠法初心

●夷歌名目事

此歌の名目、いろいろにいひならはせり、舎人親王撰日本書紀には夷曲(ひなぶり)とあり、聖徳太子伝暦(平氏撰)には、夷振と下の字を書きかへ、えびすぶりとよませたり、古今和歌集の序には夷歌(えびすうた)と書けり、今の世には狂歌といふ、いつの程いひ出しけるとは、さだかにわきまへず侍り(中略)おしはかるに、夷曲の曲の字を、まぐるといふ訓あるによりて、正体の夷の字をわすれて曲の字をとり用ひ、枉歌(わうか)と誤りたるなるべし、しかるを又枉と狂と、草行にかく時字形似たれば、世俗又誤りて狂歌といひならはせるにや、畢竟物ぐるひなせる無念の事歟、

&生白堂行風編『後撰夷曲集』巻十

●狂歌

按ずるに、この説迂僻にして信用しがたし、古今集の誹諧歌、続詞花集の戯笑歌、その名目は異なれども、みな夷曲(ヒナブリ)歌也、後世これを狂歌といふよしは、夷曲の曲の字を枉に誤り、それを亦狂に誤り、夷の字を脱して狂歌と唱るにはあらじ、唐山に俳諧体の詩を狂句狂歌などといへり、明劉伯温が連珠に、狂歌之士、遣世若草萊いへるはこれなり、しかれば詩に狂歌あるに対して、和歌に亦狂歌といはんも嫌ひあらず、夷曲戯笑は天朝(ヒノモト)の名目也、俳諧狂歌は唐山の名目なり、もし異邦の名目をきらはゞ、古今集に誹諧(誹俳音通)歌を出されしを何とかいはん、よりて思ふに、夷曲歌を狂歌といはんも、嫌ふべきにあらず

&滝沢馬琴『燕石雑』巻二 

 

2 狂歌とは

*掲出はすべて抄出である。

●夷歌式

まことに此一筋天津神代より伝り侍れど、のぼれる代には、まれ〳〵よめりと見え侍るを、中比仏心宗の名僧我法の旨二三子に伝へんため、百首或はいろはの文字を頭にすゑて、数十首をつらね、源空、親鸞もかくのごとく念仏の正理をよめり、又平時頼百種をつらねて男女の教訓とせり、其後天正年中にすきものども出来て、和歌百首の古題に数人よみしより、寛文の今に至る、其間に夷歌にて世に鳴るもの道の記の歌、或は諸職を題にし、又は百首よめるたぐひ、数十人に及べり、其歌ども味ひ侍るに、秀句世話のみに力を入れ、興あらんとして、いにしへより歌に嫌ひ来る事をもわきまへず、猶実を失ふたぐひ数々見え侍り、古人の夷歌、近き代にも、法印玄旨、大納言光広卿、此さまかず〳〵つらね給へれど、稀にも失なき事は、断にも及ばず侍り、其外高きにもあれ、賎しきにもあれ、和歌わきまへし人の夷歌には、いさゝか見とがむる科侍らず

&生白堂行風編『後撰夷曲集』巻十

●総論

万葉集に戯咲歌といひ、古今集に俳諧歌といへる、この二つの風体なん、今いふ狂歌の父母のごとくこひしたふべかりける、万葉集の戯咲歌は丈夫の手ぶりにして雄々しくたけ高く、古今集の俳諧歌は手弱女の手ぶりにして、いとなごやかにみやびなるすがたなり、この故にこれをこれを父母のごとしといへり、猶今とても、戯咲歌とも俳諧かともいひてたりぬべきを、いつの比よりか狂歌といふ名はおこりけん、たしかにはしらずといへども、其名くれ竹の世にひろごり、青柳のいとしげくもて遊ぶともがらのおほくなりにしまに〳〵、しづたまき賎しき言の葉をもよみ天離(アマザカル)ひなびごとのよこなまれるをも、そがまゝにいひ出て、花のあした月のゆうべはさらなり下ざまの人のうたげの筵の戯ごとゝさへなれにしより、いよ〳〵歌ともきこえぬ俗言をしもよみいるゝを、人も愛おのれもよしとほこれるこそ、いとみだりなりけれ、(中略)今の世に狂歌といへるも、其さま同じからず、天爾乎葉をとゝのひ、仮字を正してよむ人あり、また狂歌といへる文字につきて、狂歌はくるひ歌なりと心得て、天爾乎葉語格はもとよりにて、仮字の定りあることをだにえしらぬ、かいなでの狂歌者流のともがらは、はふつたのおのがむき〳〵にして、むらぎもの心々によみ出れば、俗言のよこなまれる言もて、賎しくつたなく歌ともきこえぬ狂言をしもいひ出て、狂歌はかゝるものぞと思ひほこるもあり、かゝるしらべをみてはなま〳〵の歌よみなどは、狂歌はかゝる物ぞとひたむきに思ひけちて、歌にはあらぬものと心得よむ人をさへおとしめあなづるは、いとをかしからずや、是皆狂歌をくるひ歌也と思ひ誤るともがらの罪なりけり

&林国雄『興歌考』上

●狂歌の道

狂歌の道、未得卜養が後は、世にたえて唱る者もなかりけるに、橘洲のぬし、安永の比和歌の会ありしに、席上の人々をそゝのかして、戯れたる題出して、狂歌よませたるがはじめなり、ざれたるつくり名は、赤良のぬし、大根の太木などはじめられしなり、今狂歌角力とて物することは、天明のはじめ、普栗釣方といふ者、人々の歌をあつめて、赤良のぬしの判をこひて、甲乙のけぢめをしるし、木にゑりて出せるがおこりなり、そのかみかりそめにしいでたることのかうさまに世にはやりゆくやうにはなりたりとて、橘洲のぬし常にかたりてわらひ給ひき

&文々舎編?『狂歌百人一首』

 

3 狂歌作者

(ぎよう)月坊(がつぼう)

暁月坊は、定家卿の孫にて、為家卿のこなり、母は安嘉門院の四条と申て、後に阿仏尼と唱へたる人にて、十六夜日記の作者なり、ある人暁月坊にむかひて、そこの歌は、家がらにも似ず、あまりにも凡卑也などをこきつければ、

  暁月に毛のむく〳〵とはえよかしさる歌よみと人にいはれん

といひければ、その人いふことなかりけるとなん、嘉暦三年十一月八日に身まかられし終焉の歌、

むとせあまりよとせの冬の長き夜にうきよの夢を見はてぬるかな

浄土宗にてありけるとぞ、酒百首の作あり、蟻虱百首といふ物もありけるよしつたへたれどいまだ見ず

&文々舎編?『狂歌百人一首』

石田未(いしだみ)(とく)

 石田未得は東武狂歌の魁祖たり、吾吟集は、慶安二年の自選七百首、句々金玉の声あり、今東都に狂歌を弄んだ人、これか此翁を貴ざらんと、其集の奥に回文一首をよみて、遠くあがめ侍りし、

  すがたうるめあてまぶかに未得よくとみにかふまてあめる歌かず

&浜辺黒人編『狂歌栗廼(くりの)下風(したかぜ)

半井卜(なからいぼく)(よう)

凡昔より戯によみたる歌又前の人を嘲り笑ひたる狂歌のたぐひ、古き物語草紙に記しおきたるは、みな俳諧なり、然れども古き狂歌は、詞いやしからず、きたなきことをいはず、父子兄弟の中にても、唱ふるに聊かさはることなし、近き世に、江戸の医師卜養といひし者、狂歌にたくみなりしも、世の諺になれたることどもを戯に云ひかなへて、をかしきこと多きのみにて、詞いやしからず、やさしきすがたなれば、その品下らず、猶俳諧のたぐひなるべきか

&梅窓『独語(ひとりごと)

豊蔵坊(ほうぞうぼう)(しん)(かい)由縁(ゆえん)(さい)(てい)(りゆう)

八幡山豊蔵坊信海法印は、そのかみ狂歌にほまれ高く、世に仰ぎ侍りけるも夢と過て、去年の秋末の十三日、なゝそぢの忌にあたりければ、石清水の末を汲て、いにしへを思ふ人々、手向をなし侍りぬ、由縁斎貞柳信乗の翁は、信海の骨髄を受伝へ、又世にその名をいちじるしく、狂歌の道ます〳〵盛むなりしが、これも又今年八月中の五日、二五の年回になり侍ぬ、惜いかな、ともにむかし〳〵の噺となりて、狂歌のみ人口に残り侍る、今も其流れを汲む人多しといへども、狂歌をあだ口のやうに心得て、両翁の風体をうしなひ侍る人すくなからず、…/宝暦第八戌寅年正月/一本亭芙蓉花題

&由縁斎貞柳追悼集『狂歌拾遺(いえ)土産(づと)』序

一本亭(いつぽんてい)芙蓉(ふよう)()

 浪華の一本亭芙蓉花は、狂歌に名あり、ことし(壬寅)あづまに下りて、浅草観世音の堂に、一つの絵馬をさゝぐ、自ら宝珠をゑがきて、かたはらに狂歌をそへたり、

  みがいたらみがいたゞけはひかるなりせうね玉でも何の玉でも

ある日何ものがしたりけん、一首の落首をなしおけり、

  みがいてもみがいただけはひかるまじこんな狂歌の性根玉では

&大田南畝『俗耳(ぞくじ)鼓吹(こすい)

四方(よもの)(あか)()大田(おおた)南畝(なんぽ)

当時御勘定所を勤める太田直次郎といえる、若き時狂歌に名高く、狂名は四方の赤良といえる、或いは寝惚先生といいしが、今はさる事もせざりしが、ひと年御用にて上方へまかりしに、□宿移りなんとせしに、入相ごろ駕にたくわえし火消えぬれば、あたりの町家へ火をもらいに僕を寄せけるに、かの家に両三人あつまり居て、「あれは寝惚先生とて東都にて狂歌に名高き人なり。火を乞わば狂歌にてもいたさるべき事なり、『火は出ず候』と答えよ」とて、その通り答えければ、赤良、矢立取出し、

  入相にかねの火入れをつき出せばいずくの里もひはくるゝなり

かく(したた)め置きて行き過ぎしとなん。上方にても殊にこの狂歌を感じ、都鄙の口ずさみとなりにける。(*現代表記)

&根岸(やす)(もり)『耳袋』巻七

大屋(おおやの)(うら)(ずみ)

大屋裏住は古き狂歌師なり(白子屋孫右衛門、江戸金吹町に住す)、狭き裏店に唐机をすゑて、書をみしなり、(中略)定家卿の御遠忌ありときゝて、

  鶯も蛙もおなじ歌仲間経よむもありたゞなくもあり

この歌ある搢紳家にきこえて、萩の屋の号を賜り、筆を染めさせ給ふ、今の世に狂歌師の号の、何の屋〳〵といへるはじめといふべし

&大田南畝『仮名世説(せせつ)』上

(もと)木網(もくあみ)智恵内(ちえのない)()

 金子喜三郎正雄は用命を喜又といふ、武蔵松山人也、狂歌に名を得て、狂歌堂木阿弥と号せり、手爾乎波の学に通て、詞の本末一巻をあらはす、山桜をよめるうたに、

  山桜さけば白雲散れば雪花見てくらす張るぞすくなき

 黒木うりのかたかける画に

  朝まだき道もたら〳〵くろぎうりくらきに牛や引出すらん

 富士の賛

  ふじのねの雲の衣をふきはらひすそのを見するあしたかの山

天明元年四月十日、角田川わたりの水神の森にて、かしらおろして、渡辺嵩松と名のりける時、

  けふよりも衣はそめつ墨田川ながれわたりに世をわたらばや

木阿弥が妻も、ちゑのないしとて、狂歌くちとくよめり、ある日鉄砲洲にすめる人がとぶらひこしに、木阿弥たがひて家にあらざりければ、

  てつはう洲おとにきこえしたまの客亭主の留守はねらひそれたか

また信濃国よりめしおける下男の三六といへるが、しひていとまをこへりしに、

  そろばんのたま〳〵おきしさぶろくがくにへかへるはにくの十八

&高田与清(ともきよ)擁書(ようしよ)漫筆』巻四

朱楽菅江(あけらかんこう)

 朱楽菅江は、市谷二十騎町にすめる御手先与力なり、もと内山先生に学びて本歌をよみし人なり、はじめの名を景基といひしが、家基公の御諱を避て景貫と改む、(中略)菅江といふ名は、はじめ俳名を貫立といひし故、皆人貫公々々とよびしを、菅江と書したり、中頃菅江の名憚りあるべき歟とて、漢江と改めしが、日光の宮(公遵親王)の聞き給ひて、菅江にても苦しかるまじと仰せられしより、又もとのごとく菅江と書したり、是に朱楽の字を加ふる事は、安永の頃我やどにてもろ人酒をのみし時、戯れに行灯の紙に、我のみひとりあけら菅江と書しを始とす

&大田南畝『奴師労之(やつこだこ)

六樹(ろくじゆ)(えん)(宿屋(やどや))飯盛(めしもり)の伝

飯盛は、東都霊岸島に住して、氏は石川名は雅望、別号を六樹園とよぶ、五老先生といふはこれなり、(中略)ひととせあるやんごとなき御かたに、都より歌人の御くだりまし〳〵ければ、人々に御ほせて、和歌の会をぞせられける、ひめもす御うた合せあり、ことはてゝさま〴〵の御ものがたりになりける時、みやこ人のたまひけるは、東都にて和学に秀てたらんはたれ人にかと、とひたまへば、やかたの殿の御こたへに、わが国のことゞもよくきらめたらんものは、石川雅望といふものにとゞまり候、かのものゝあらはしつるふみどもをみるに、げしがたきことをもよくときわきて候へば、かれが上をこゆべき人、外にはあらじとおもひ給へてはべりとぞおほせける、都人かさねて、からくにのせうせちぶみのことよくわきまへつるは、何ものかととひ給ふ、御そばにありつる人すゝみいでゝ、せうせちの書は五老山人と申ものよくあきらめさぶらひぬと申す、都人またおほせけるは、東都に六樹園といふ狂歌の師ありて、弟子三千にあまるときゝしが、実にさいふものありつるかととひ給ふ、此ときすゑの坐にをりつるさぶらひおそるおそるはひいでゝ、その石川雅  望とおほせられしは六樹園がことにて、五老先生と同人にてはべりとのべければ、都の御方おおきにおどろかせたまひ、ねがはくはその人のかきたらんもの、みやこのつとにもとめたしとのたまふ、殿はたちまちおほせこゝろへはべりぬとて、やがて御つかひを六樹園へぞ下されける、その夜亥のこくばかりにつかひの人はかへりけり、殿はそがまゝにふばこおしひにき見たまへば、ふたひらのたんざくに、

  うぐひすとかはづがうたふこゑきけばひるの長うた夜のみじか歌

  たけのこをほらんとせしを秋までにのばしてつえにきるも孝行

都の御かたはいふもさらなり、ありあふひと〴〵もかんじあへり、賞賛のこゑやまざりけり、此たんざく、ひとひらは都の御かた申こひ玉ひて、またなきものにおぼしてもてかへられける、又ひとひらは、このみたちにのこりて、まれ人のきますときは、をり〳〵とうでゝ御ものがたりありけるとなん

&八島春信『狂歌奇人譚(きじんたん)』初篇上

北川(きたがわ)(鹿(しか)都部(つべ))真顔(まがお)

 北川真顔は、江戸数奇屋河岸にすめり、はじめ落書体の狂歌をもて、その名高うきこえしに、後には風体を変て、万葉古今の俳諧歌をおこせり、類題俳諧歌集六巻をあらはして、世人のまなこをひらかしむ、和唐の学にわたりて文かくわざに妙なり、号をば狂歌堂、四方歌垣、俳諧歌場などといへり、家集七巻芦荻集となづく、軸々金玉声あり

&高田与清(ともきよ)擁書(ようしよ)漫筆』巻三

●真顔と飯盛

其後これ(狂歌)をもて業としたるものは真顔なり、別号を俳諧歌場また四方歌垣などゝいへり、俳諧歌場はおほけなく、歌垣は日本紀に見えたるを、いかに心得ひがめてかかる名をつけることぞ、いとおかし(中略)真顔おのれ高くかまへて、より偽りごとして社中の愚物を欺けり、飯盛は大言して人を誹る本性にて、世に一ふし新奇をとなヘむとて、狂歌は俳諧歌にはあらず、落首体より出たる物なりとて、其徒をして卑しきことをむねと詠せたり、近頃真顔が、俳諧歌の宗匠号を得たる時、飯盛をも勧めて、宗匠号を願ひ申さしめしに、俳諧歌ととなへざれば其号を許されがたきよしなれば、それに随ひて宗匠号を受たり、かねての大言虚談となりて、世人の物わらいひとなりぬ

&喜多村信節(のぶよ)『嬉遊笑覧』巻三

●狂歌師寸描㈠

酒の上熟寐は、歌名のはじめにして、大根太木は狂歌の歳旦摺物のはじめなり、二人とも先立てうせぬれば、木あみ、菅江、橘洲、赤良が門人の盛りなるをみるに及ばず、木あみはよき男にして、すみをぬきたるあとさだかに、常に居士衣のごとき物を著て、紫の服紗に包みし物を背負てあるけり、其頃本芝二丁目の三河屋半兵衛といへる本屋、剃髪して歯を黒く染め、青き道服を著たり、色黒くふとしりたる男也、狂名を浜辺の黒人とよぶ、人皆歯までの黒人とあだ名せり、此人狂歌の点をして、半紙にすりて出す、板料をとるを入花といへり(今の狂歌の点料を入花といふのはじめ也)、時の諺に、木網は、兼好を一へん湯がきたるやうなり、黒人は文覚を油揚にしるが如しといへり

&大田南畝『奴師労之(やつこだこ)

●狂歌師寸描㈡

天明のはじめより東都にもっぱら狂歌流行しけるが、いろ〳〵おもしろき俗諺をもって歌名として、四茂野阿加良、阿気羅観江、知恵の内侍など名乗りて、集会などもありし由。四茂野阿加良などはその道の宗匠といいし由。右狂歌は万載集などいへる板本にあれば漏らしぬ。阿加良が親友の七十の賀の歌などはおもしろきゆえにこゝにしるしぬ。

  七ツやを十あつめたるよわいにてぶち殺しても死なぬなりけり

阿気羅観江、よし原に遊びて居続けなどして帰らざりければ、その妻よめるよし、

  飛鳥川内は野となれ山桜ちらずば寐には帰らざらまし

吉原町に春は中の町に桜を植えて遊人をあつむる事なれ。右桜をよみ入れて、根にかえらじの心、おもしろきゆえこゝにしるしぬ。(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻三

 

4 狂歌と逸話

●日本国賛歌

ゆるぐともよもやぬけじのかなめいし鹿島の神のあらんかぎりは

右一首、延宝六年伊勢暦巻首所載之、大日本国賛歌也

&小山田与清(ともきよ)『こよみうた』

●園池三位卿

いにしへの事にや、京都に浦井何某といへる町人と、又鍼医に何とやらんいふものと、園池三位卿と、三人常々花鳥風月の友なりしが、或時浦井より医者のもとへ鯉魚を送りけるを、此医又園池殿へ進上せり、園池殿にも、見事なる鯉なればとて、また浦井が方へ給はりぬ、浦井は我もとより送りし魚なれば、能く見覚えたるや、彼鍼医を招き、某こゝろざしてまゐらせたる鯉を、料理はなさで園池殿へは送り給うふといへば、医も驚き、何として知れたるといふに、右の由を話て笑ひける、此事三位殿聞給ひ浦井に見せよとて、

  はり先にかゝりし魚をその池へはなせばもとの浦井へぞ行

&新井白蛾『牛馬問』巻三

●寺田宮内と賛

巻路地家の内寺田宮内は、興歌に名を得たり、或武家へ不図訪けるに、其家の子息、絵を半ば書所也、寺田を見付て、此画に賛をと望まるゝを、ゑは蔓のみ出来て、未何とも知れざれば、猶予して有しに、頻に乞はれける故、其さま瓜の蔓と見ゆるに任せ、瓜の蔓にと五文字を申出ければ、忽其蔓を蒲萄に替て、いかに〳〵と責らるゝに、とりあへず、

  瓜の蔓に茄子はならぬ浮世とてぶどう見事に遊ばされたり

ともうしければ、各宮内が頓才を感ず

&神沢貞幹『翁草』巻五十六

●道灌歌の事

太田道灌は文武の将たる由。最愛の美童二人ありて、その寵甲乙なかりしに、或日両童側にありしに、風来たりて落葉の、美童の袖に止まりしを、道灌扇をもってこれを払いけるに、一人の童、いささか寵をねためる色のありしかば、道灌一首詠じける。

  ひとりには塵をもおかじひとりにはあらき風にもあてじとぞおもう

かく詠じけるとなり。おもしろきうたゆえこゝに留めぬ。(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻三

●狂歌滑稽の事

安永寛政のころ、狂名もとの木阿弥と名乗りて狂歌をよめる賎民ありしが、麻布の稲荷へ、人の形をえがきて眼へ釘をさしあるをみて、

  目を書きて祈らば鼻の穴二つ耳でなければきく事はなし

と書きて札を下げければ、あけの日、右の人形の耳へ釘をさしけるゆえ、

眼を耳にかえす〴〵もうつ釘は(つんぼう)ほどもなおきかぬなり

と又々札を下げければ、このたびは絵をやめて、藁人形へ一面に釘をさしけるゆえ、

  稲荷山聞かぬ祈りに打つ釘はぬかにゆかりの藁の人形

と札をさげければ、その後は右の形も見えずなりぬと。(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻四

●日野資枝卿歌の事

或人のもとに、日野大納言(すけ)()卿の自筆の歌ありしが、

  雲霧は風にまかせて月ひとり心高くや空にすむらん

おもしろき歌なればこゝにしるしぬ。「資枝の詠歌はいずれも趣向おもしろき事」と、人の語りし。一二首をもこゝにしるしぬ。

  五月雨  昨日今日雲には風の添いながら日影も洩らぬ五月雨の空

    納 涼  

帰りての宿のあつさの思われてふくるもしらず遊ぶ川の面(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻

戯歌(ざれうた)にて狸妖を退けし由の事

京都にて隠逸を事とせる縫庵といえる者、隠宅の庭に狸ならん、折々腹鼓など打つ音しければ、縫庵琴を引寄せて右鼓に合せて弾じける。一首のざれ歌をよめる、

  やよやたぬまし鼓うて琴ひかん我琴ひかばまし鼓うて

そのほど近きに住める加茂の社司に信頼とていえるありしが、

  ほうしよくたぬ鼓うてわたつみのおきな琴ひけ我笛ふかん

かく詠吟なしければ、その後は狸の鼓うつ事やみけるとなり。(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻五

●内山伝曹座頭に代り詠める歌の事

伝曹(内山伝蔵、号は賀邸)は宝暦盟和のころ、和学にくわしきとて世に称誉なせしが、詠歌もはなはだ達者にて、狂歌もおもしろし。或時座頭に代りて、

  せめてめの一つなりとも星月夜鎌くらやみをゆきの下みち(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻七

●玉川さらし(ふんどし)の狂歌

蜀山人四方赤良、ある年の初春に、年始の往来をうるさしとて、穿きも馴れぬ草鞋に六郷の雨をうらみ、着もならはぬ桐油合羽に霽れゆく富峰の斜陽(ゆうひ)を睨みて、玉川のあたりに旅せしことありき。その時に手箱のなかりければ、蝋燭箱の明きたるを用いひて、こは何とやらん、湯殿の片隅に置く箱の心地するもをかしとて、その蓋に例の狂歌を書きつけける。

  玉川にさらす褌のさら〳〵に汚なき箱と思ふべからず

&『今昔狂歌叢書』

●売茶翁の狂歌

茶銭は、黄金百鎰より半銭まではくれ次第、たゞ呑み勝手、たゞよりはまけ申さずと、

  達摩さへおあしで渡る難波江の流を汲める老の吾身ぞ

&司馬(しば)江漢(こうかん)春波楼(しゆんぱろう)筆記』

●赤穂の義士大高源吾が小木刀の事

赤穂の義士大高源吾、復讐の前は身を(しのび)で、按摩医者となり、米沢町の裏家に住ける。其時常に木作にて、身の無き小脇指を差し、所々に療治に往たり。其木太刀に、自詠の一首を彫作る。

  人きればをれもしなねばなりませぬそれで御無事な木脇指さす

此歌を(あじわひ)ても、始終思はかりたる志は知るべし。但当年見し人の感慨深からざりしにや。(現代表記)

&松浦(まつら)静山(せいざん)甲子(かつし)夜話(やわ)』巻一

●茶山の狂歌

人みな菅茶山の詩人なるを知りて、狂歌を善くするを知らず、茶山元来洒落の人なり、其の詩を善くせしは云ふまでもなけれども、兼て狂歌をも詠みしなり、其書生を戒むる狂歌に、

燗鍋で酒飲む人は多けれど本よむ人はチロリとも見ず

又備後の海にては春先温暖の候となれば、鯛海上に浮上がりて浮泳す、漁人云ふ、これ海底に大なる酒甕あり、鯛これに酔て浮遊するなりと、茶山又曰く、

此底に酒甕ありと聞くからに浮鯛よりはコチヤ沈み鯛

&山田三川編『想古録

 

5 誹諧歌

●誹諧歌・俳諧歌作品

*出典明示のないものは『古今和歌集』巻十九所収のもの。

藤原兼輔

いつしかとまたく心を脛にあげて天の河原を今日や渡らむ

さぬき

ねぎごとをさのみ聞きけむ(やしろ)こそはては嘆きの森となるらめ

よみ人しらず

梅の花見にこそきつれ鶯のひとくひとくといとひしもをる

素性法師

山吹の花色衣ぬしやたれ問へどこたへずくちなしにして

紀 有朋

あひ見まくほしは数なくありながら人につきなみまどひこそすれ

紀 貫之

うきことを思ひつらねてかりがねのなきこそわたれ秋のよなよな(『古今和歌集』巻一)

大河内躬恒

いとはるるわが身は春の駒なれやのがひがてらに放ち捨てつる

空人法師

おそろしや木曾のかけぢの丸木橋ふみするたびにおちぬべきかな(『千載和歌集』巻十八)

兼好法師

かづらきや花のさかりをよそに見て心そらなるみねの白雲(『兼好法師集』)

慶 運

あま衣春くる空の朝なぎに袖師の裏は霞こめつゝ(『慶運法師百首』)

正 徹

なべて世にふるや霰もあら玉の年の光をしくかとぞ見る(『永享九年正徹詠草』)

              細川幽斎

寄鳥恋

鷲さへもこゐに思ひをかけぬれば空とぶ鳥も落ちるためしを(『玄旨百首』)

●俳諧

俳諧は和歌の一体なり、古今集に見えたり、史記の滑稽伝の注に姚察が説を載せて、滑稽は俳諧の如しと云へり、俳諧は、他はたはむれごとをいひて人を悦ばせ、人の心にかなふを云ふなり、古今集には、俳諧の俳の字を誹に作れり、誹の字は謗の字と連ねて、誹謗はそしる義なるを、俳の字にかへて用ふること、如何なる故といふことを知らず、誹の字と俳の字と、音も義も大に異なるを、通はし用ふること字書にみえず、恐くは古今集の誤りならん

&梅窓『独語』

●藤六が事

今はむかし、とうろく(藤原輔相)といふ歌よみありけり、げすのいへにて入てひともなかりけるをりを見つけて入にけり、なべにあるものをすくひけるほどに、家のあるじの女、水をくみておほぢのかたよりきてみれば、かくすくひくへば、いかにかく人もなきところにいりてかくはする、物をばまゐるぞ、あなうたてや、藤六にこそいましけれ、さらば歌よみ給へといひければ、

  むかしよりあみだほとけのちかひにてにゆるものをばすくふとぞしる

&編者未詳『宇治拾遺物語』巻三

 

6 頓知詠

●悪女歌の事

或人、妻をむかえけるに一眼にてありしかば、その夫、物うき事に言いのゝしりければ、かの妻、かくなん。

  みめよきは夫の為のふた眼なり女房は家のかためなりけり

その夫も理に伏し、かたらい栄えるとなり。(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻一

●橘氏狂歌の事

橘宗仙院は狂歌の才ある由聞えし。一とせ隅田川御成りの御伴にて、射留の矢を御小人のたずねありけるを見て、

  いにしえは子をたずねける隅田川いまは小人がお矢をたずぬる

当意即妙の才なりと人のかたりぬ。(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻三

●連歌師滑稽の事

浩修といへる連歌師、人の夢が退くを乞いけるに、忘れてすぎぬれば、いかにもおもしろく目出度きことをと、せちに乞いければ、歌を読みて送りけるとぞ。

  亀に櫛こうがいの愁いあり用に立たざる君は千代まで(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻四

●視水谷実業卿狂歌奇瑞の事

清水谷実業卿は元禄享保のころの人なりとや。禁中宿直の翌日朝、相宿直の公卿寝起きに、ふと着服を左前になし甚だ心にかけ給うを、実業「それは心にかくる事にあらず、めでたきことなり」と申されしを、かの公卿、「いかなればかく(のたも)う」とありし時、実業の狂歌に、

  左まえみぎりはあとに()右左(ゆうさ)の拝舞の稽古やがて昇進 

よみて与えしに、そのあけの年、かの公卿果して昇進ありしとや。(*現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻九

●中根半七、狂歌にて出身の事

先年、御祐筆の中根半七、五十年勤めて出進せざりしかば、歳末に述懐の狂歌をよめり。

  筆とりて天窓(あたま)かく山五十年男なりやこ(ナカ)ね半七

翌年出身せしとぞ。(現代表記)

&松浦(まつら)静山(せいざん)甲子(かつし)夜話(やわ)』巻二

●上杉鷹山、年始に人の過失を慰る事

上杉家、年始祝膳に、大根漬を大く一切(ひときれ)にして設るを、重き祝いとすることの由。これ音通にて、(ひと)(きれ)の香物とい云とぞ。一年庖丁の小吏、誤りて取落として膳を進めしかば、速に有司その罪を論ぜり。時は鷹山の代中なりしが、其ことよしともあしゝとも挨拶なく、傍の硯引寄て、

  治れる御代のためしにかうの物ひときれさへもわすれられにけり

と書て有司に授けられ、目出たし々々と云ながら奥に入られしとぞ。

&松浦(まつら)静山(せいざん)甲子(かつし)夜話(やわ)』巻十七

 

7 題詠

●題とりの事

往古の狂歌は、時の興にふれていひ出せるのみにて、題とりてよむまでの事はなし、中古雄長老松永貞徳など、堀川百種をよみそめしより、近来はもはら題詠する事になれり、題詠は狂歌もよし、されど本歌題にて読みすゆれば、狂歌は自由自在なり、

&唐衣橘洲『狂歌初心抄』

●題即興の論並に讃の論

狂歌に題を出して詠事、僻事なりとをしへ給ふ人もあれど、往昔の論はしばらくさし置、近世は和歌にも各題の歌を専とす、詞書の歌はまれなり、狂歌も和歌の一体なれば、和歌の式捨べきやうなし、専ら題をよく詠べし、題の歌ならでは沈思もなきものなり、

&江月翁了山『狂歌詠方初心

●おた福桜の歌の事

いつのころにや、六位の蔵人のよめるよし。或日右蔵人、二条家へまかりてけるに、何か案じ入り給える様子ゆえ、その事を伺いしに、このころ禁中のお慰みに難題を出して歌よむ事なりしが、おたふく桜といえる題をとりて、案ずるよし。「汝もよむまじきや」とありければ、しばし考えて、

  谷あいに裂ける桜は色白く両方たかし花ひきくして

かくよみければ、二条殿も殊無う感じ給しとなり。(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻五

●細川幽斎狂歌即答の事

予がもとへ来れる正逸といえる導引の賎僧あり。もとより文盲無骨にて、そのいうところ取るにたらざれど、ある時話しけるは、太閤秀吉の前に細川幽斎、金森法印いま一人侍座せるに、太閤いわく、「吹けどもふけずすれどもすれず」という題にて前を付け、歌詠め」とありしに、一人、

  わらわれて数珠うちきってちからなくするもすられず吹きも吹かれず

金森法印は、

笛竹のわれてさゝらになりもせず吹きもふかれずすれどすられず

と詠みければ、「幽斎いかに」とありしに、「いずれもおもしろし。我らは一向に埒なき趣向ゆえ申し出さんもおこなれど、かくもあるべきや」と、

  すりこ木と火吹き竹とを取り違えふくも吹かれずするもすられず

と詠ぜし由。滑稽の所、幽斎その要を得たりと見ゆ。しかれどこの事、軍談の書、古記にも見あたらず、前に言える賎僧の物語なれば、その誤りもあるべけれど、聞くまゝをこゝにしるしぬ。

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻八

 

8 狂詠法

(詠むコツ)

狂歌といふもの、時に臨みて読なり、たゞおかしきふしによみて、すこしいやしきかたによむを、かへつてよきなりと幽斎公も仰せられし、去年の夏郭公の題にて、

  夏の夜はほとゝぎすにぞくらはるゝ蚊帳へも入らず待とせしまに

&松永貞徳『長頭丸随筆』

(道歌のすすめ)      

                                         永田柳因

(永田貞柳)世にいます時、狂歌をよまんひとは、たとひ二十一代集をそらんずる共、一文不智のひやうきんらしく口ずさみて、あま入道無智の輩の耳をもよろこばしめ、古事連歌のふりをせずして、たゞ一向に道歌を宗とすべしとなんいひおけるをしへにしたがひて、

  ついしやれたことを手向けに申なり釈迦に狂歌じやとはおもへども

&由縁斎貞柳追善集『狂歌拾遺家土産(づと)』下

(狂歌の習こと)

問て云、別の習ひなしとは、狂歌には何の習こともなきや、答えて云、いにしへの狂歌は、和歌の達人当座の興によみ給ふ事多し、中にも暁月坊雄長老は、専狂歌の達人にして、自歌学に達したる上なれば、和歌の外に別に狂歌の教を建給はず、ゆえに歌学にゆづりて、別の習ひ候はずといへり、然れども連俳にも或は題発句、六義の品、または有心体、幽玄体等其外種々の掟ありて師伝とす、狂歌にかぎり習有ましきにや、由縁斎、予に授る一巻の中に、貞徳信海の口説並に貞徳自筆の一巻、又は狂歌系図の奥書等にあらかじめ其数有といへ共、今爰に之を略す

&永田柳因『狂歌落葉嚢(おちばぶくろ)』付録

●日野資枝歌の不審答えの事

「忍ぶ恋」の題にて、資枝詠みいでありし歌に、

  すえついに人もゆるさぬ契りあれと思うが中はなおしのびつゝ

この「と」の字、濁りて「ど」と解する人もあり、すみて「と」なりという者、江戸門人の内あまた論じ合いければ、資枝へ承りに遣しければ、その答えに、「ととも、どとも、解する人の心次第にてよし」との答えなり。「門人の意気をもそこなわず歌の意にも害なきおもしろき答えなり」と人の語りぬ。(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻八

 

9 狂詠の禁忌

●禁忌遠慮の事

凡婚姻慶賀に、歌を詠て贈るには、随分禁忌の詞を吟味して、さし合のなきやうに詠べし、挨拶の歌なども同じ事なり、歌はすこしおとりたりとも、忌嫌いのなきを専とす、常々心にかけて、人々の心にさはる詞を吟味すへし

&江月翁了山『狂歌詠方初心式』

(禁忌の事例)

ある人、子をうしなふこと五六人に及びしが、妻又ただならず、すでに月みちておのこをまうけたり、夫婦はいふに及ばず、親類こぞりてよろこびあひける処に、隣の隠居の禅門よろこびに来て、此子は幾久しくかみもかたかるべし、歌をよみていはひ侍らんとて、

  緑子のかみの固さは石仏いのちながさを弥陀にあやかれ

といひ出たりければ、家うち上しも、にがりかへりてものいふ人なし、此禅門はたと思ひあたりて、さらばめでたくよみなをさんとて、

  おやよりもさきだちのぶる竹の子のはやしに入りてみるうちのほど

此歌いよ〳〵いま〳〵しくて、中違ひけり

     ○

ある侍、緋縅の鎧を威立て、その祝ひにとて人々よびあつめて物しけるに、禁忽の人歌をよみけり

  緋縅のよろひのさねをかた糸のわたかみとりて打きられけり

うちきられの字さし合て、あるじ不興せしとかや

              &瓢水子松雲処士(浅井了意)『曽呂利狂歌咄』巻四

●酒宴の席好物を禁ずる歌の事

何人のざれ歌なるや、配席(きん)好物(こうもつ)の歌とて人の話けるが、いさゝかその理もあればこゝにしるしぬ。

  酒は燗肴は火とり酌はたぼ狆猫婆々子も出ぬがよし

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻十

 

10 狂詠の贈答歌

●狂歌

正親町従一以前権大納言藤原公道卿は、狂歌を好みてよみ給へり、自ら其狂歌を集め、自注を加へて、雅筵酔狂集と名付られしを、今天明三年正月刊行せり、或人談で曰く、公道卿狂歌を好みよみたまひければ、霊元院御製の狂歌を下し給ひけり、

  公卿ならばよむ言の葉のおほき町狂歌ばかりはいちい(一位)らぬもの

お返し公道公

いちいらぬ物と思へど狂歌さへえよまぬ公家の世におほき町

&伊勢貞丈『安斎随筆』前巻五

(雄長老と細川玄旨)

     玄旨法院丹後籠城の時風の心ち以外にしてをやかてくすりさうたうしてやまひいへたりしを雄長老きゝたまひてちやつほをおくられしつほのくちに書付たまふ狂歌

わつらひは玄旨となをる幽斎のなをもこゝろは長岡のきやう

     玄旨かへし

返歌には

ちやつとつまらぬつほなれとくちをはられていはれさりけり

&『雄長老狂歌』

(安楽庵策伝と烏丸光広)

     烏丸大納言へ菓子三種こほりさたうやうかんみつから送りまいらせし時

                                    伝

言葉をやうかんすれはみつからはこほりざたうや道のくらさよ

光広

みつからのちからを見せてやうかんにあつかりけるも沙唐つきのふ

&『策伝和尚送答控』

●賎婦答歌の事

寛政四年のころ、青山下野守家士、在所より往来の折から、木曽路寝覚の里に足を休め、名におう蕎麦など食しけるに、給仕の女、その面に蕎麦かすといえる物多くありしを、

  名にめでゝ木曽路の(いも)がそばかすは寝覚の床のあかにやありなん

かくよみて書き付あたえければ、かの女憤りける気色して勝手へ入りしが、程なく返しとおぼしく書き付けたるもの持ち来りしゆえ、これを見るに、

  蕎麦かすはしずが寝顔に留め置きてよい子を君に奉りぬる

とありければ、人の代りてよみたるか、当意即妙のところ感じ恥じはべりしと、右家士のゆかりある人話しければ書き留めぬ。(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻四

●長寿の人狂歌の事

安永のころまで存在ありし増上寺方丈、寿算八九十歳なりし。海老の絵に賛をなし給う。

  この海老の越のなりまでいきたくば食をひかえてひとり寝をせよ

とありしを、小川喜内といえるこれも八十余りなりしが、右の賛へ、

  この海老の腰の也までいきにけり食もひかえずひとり寝もせず(現代表記)

&根岸鎮衛(やすもり)『耳袋』巻七

●狂歌問答    

                    服部倥斎筆     

寛政のころ、松平出羽守の家中に、萩野記内と云へる人あり、号を孔平信と云ひ又鳩谷とも云ひ、極めて風流洒落の人なり、平素奴僕(しもべ)に一の風呂敷包を持たせ、其の風呂敷包のうちには、虫喰ひたる反古紙の裏に書き集めたる近作の詩文と、糊と刷毛と握飯とを入れ置けり、握飯は腹の減りたるときの用意にして、糊と刷毛とは到る処の神社仏閣へ、孔平信の称号(となへ)を貼付くる為に所持する物なり、或る日水茶屋に腰打掛けて休らひ居る間に、(くだん)の風呂敷包を何者かに盗み去られしかば、驚き其辺を捜しけるに、包は無くて一枚の落書(おとしぶみ)あり、是れ蓋し賊の残し置ける者なり、信取り上げて読み下すに、

  風呂敷を沖津白波たつた今追ふてや君がころげ行くらん

奴僕之を聞き、憎き賊の振舞なりとて、其近郊(ちかま)の樹の陰、森の中を探しけるも、賊の影だに見えざりければ、やがて鼻紙取出し、

  此辺(ここいら)に置いたは置いた初下部おきまどはせる白波のわざ

と書きて樹の枝に結付け居るところへ、信も来合せ、面白しと筆執りて、

言の葉と刷毛はかはらて返せかしたとひ包に見込ありとも

斯く書き添へて暫しあちこちと遊び歩き、其の帰さ、路に再び其処に至り見しに、不思議や風呂敷包は木の枝に下がり、一首の返歌さへ添へてありけり、

  かねてより実のなきものと思へども虫喰ふ反古はしわくこそあれ

太平の世の中は、盗賊(ぬすびと)に至るまで、往々奇異なる振舞ありて可笑し

&山田三川『想古録』1

 

11狂歌の会

●序                                                    唐衣橘洲

岷江はじめ觴をうかぶる計なるも、楚に入て底なし、予額髪の頃より、和歌を賀邸(*内山椿軒)先生に学び、はたちばかりより、戯歌の癖ありて、しかも貞柳卜養が風を庶幾せず、たゞに暁月の高古なる、幽斎の温賀なる、未得が俊辺、白玉翁の清爽なる姿をしたひ、ことにつけつゝ、口あみをになひ出し侍りし中に、臨期変約恋といふことを、

  今さらにに雲の下帯ひきしめて月のさはりの空ごとぞうき

とよみて先生に見せ侍りしに、此うた流俗のものにあらず、深く狂歌の趣を得たりと、ほと〳〵賞し給へりしは、三十年あまりの、むかしなりけり

其頃は友とする人、わずかに二人三人にて、月に花に予がもとにつどひて、莫逆の媒とし侍りしに、四方赤良は、予が詩友にありしが来たりて、おほよそ狂詠は、時の興によりてよむなるを、ことがましく、つとひをなして、よむしれものこそをこなれ、我もいざしれものゝなかま入せんと、大根太木てふものを、ともなひ来たり、太木また木網智恵の内子をいざなひ来たれば、平秩東作、浜辺黒人など、類をもてあつまるに、二とせばかりを経て、朱楽菅江また入来る、是又賀邸先生の門にして、和歌は予が兄也、和歌の力もて、狂歌おのづから秀たり、かの人々、より〳〵、予がもとあるは木あみが菴につどひて、狂詠やうやくおこらんとす、赤良もとより、高名の俊傑にして、其戸を東にひらき、菅江は北におこり、木網南にそばだち、予もまたゆくりなく、西によりて、ともに狂詠の旗上げせしより、真顔、飯盛、金埒、光の輩、ついでおこり、是を四天皇と称せしも、飯盛は事ありて詠をとゞめ、光ははやく黄泉の客となり、金埒は其業によりて詠を専とせず、真顔ひとり四方歌垣となのりて、今東都に跋扈し威霊盛んなり、まことに草鞋(わらんじ)大王なり、又一己の豪傑ならずや、是につぎて、名だゝるもの浅草に市人、玉池に三陀羅をはじめとして、枚挙するにいとまあらず、ついで尾陽上毛駿相奥羽総房常越より、其外の国々のすき人、日を追ひ月を越て盛んなり、かく世にひろごれるは、じつに朱楽菅江が、いさをしにして、予はたゞ陳渉が旗上のみなり、されど又臭きを追ふの徒、すくなからざる中に、尾陽はすべて、予が門葉のみにして、他の指揮をうけざるは、まさに雪丸、田鶴丸、玉湧金成、桃吉有丈の諸秀才、よく衆をいざなふゆえなるべし、この頃東都の諸大人の、余国の歌に評するにも、尾陽を甲とし、上毛駿河これにつぐと聞はべるに、予鼻うごめく計なるは、げに我をおこす輩といふべし、こたび玉湧翁、此冊子を人に託して、四方の諸君の詠をこひ弄花集と題して、序を予に求む、もとよりいなむべきにもあらねば、繁文のつたなきをかへりみず、筆を酔竹庵にとるなるべし、寛政九丁巳仲夏

&篠野玉涌編『弄花集』序

 

12狂歌の風義

●流儀立べき事

狂歌に限りて流義といふ事はあるまじけれど、各宗匠の好む所によりて、門弟の人々自然に師の風調移る也、しかれば流義はなけれども、風義は有といふもの也、それも一概にはいひがたけれど、いはゆる三十体又は六体の内にても宗匠の好む所の風は、自然と歌数も多く詠出るもの也、いづれをよしといひ、いづれをあしとせん、只稽古する人も、をのれ〳〵が好む宗匠を撰て師伝を受くべし、其風儀の荒増は、

     半井卜養風

  布袋殿しんかんしんとして御座る内にははいもひもしんも有

     生白堂行風風

  一番の風の手なみに雪氷川下さして雑乱(サラ)〳〵〳〵〳〵

     豊蔵坊信海風

  何にやら似たもの人のあだ口はまことに浮世の嵯峨の松茸

     由縁斎貞柳風

  おもへどもいむとていはぬ妼がそなたにむきて誰をまつたけ

     如雲舎紫笛風

  ほうろくと同じ家宅の人心気をいるも有ほうずるも有

     落首雑談風

  木綿物著たる男はさもなくて絹きる人の欲のふかさよ

此外、口合の詞にて一首を仕立、又は物の名の詠方のやうに題の物を切入、人の名をてにをはに用ゆる一体もあれど、好しからぬ風義なり

&日々庵了仙『狂歌詠方初心式』

 

13四方赤良の狂歌文集『奴師労之(やつこだこ)』より抄出

●奴だこは、鳶だこの形をうつして、足を尻尾にしたるもをかし、是は安永の始より出来たり、その頃木室(キムロ)(バウ)(ウン)(二鐘亭と号す、後白鯉館と改む)発句に、

  初午や地に白狐天にやつこだこ

●夏の頃、枝豆を(あり)きながら喰ふは、明和の頃、三ツ又に築出しの新地出来し時より也、誰やらが句に、

  冬はなく夏は中洲の涼かな

椿(チン)軒先生(内山伝蔵)の狂歌に、

  大橋のある上にまたかけたかと鳴くやなかずに行くほとゝぎす

此地を三ツ又富永町と名づく、深川の名主の持なりき、わづかに十九年にして、元のごとくの川となれり、朱楽菅江(山崎氏)著すところの大抵御覧といふ小本にくはし、是中洲の実録なり

●明和のはじめまで、「針がね〳〵、二尺壱文、針がね」とよびて、江戸中を売ありく老父あり、予が若き時、牛込に居りしに、此辺へは毎月十九日に来りし也、風説には、此老父隠密を聞出す役にて、江戸中を一日づゝめぐるといへり

●馬鹿ものの事を十九日とよびしは、牛込赤城の縁日十九日也、其頃赤城に山猫といふ娼婦ありしが、此処にていひ出せし隠名と云へり、ばかと書て十九日といふ字体にちかき故ともいへり

●明和九年壬辰二月二十九日の大火の時、通塩町に大島蓼太といへる俳諧宗匠あり、(称雪中庵)火さかんになりし時、文台に草稿を載せ、茶鑵に白湯を入れて心静に立のき、深川六間堀要津寺の庵にゆきて、文台を直しおき、発句をして、火のために問来る人をとゞめて一夜に百韻を満てしといふ、今はかばかりの宗匠もありやなしや、その発句、

  緋ざくらを忘れて青き柳かな

●予が牛込にありし時、此蓼太、清水の藩の谷田貝左伝次といへるものをナカダチとして、酒一陶をたづさへ来りて、

  高き名のひゞきは四方にわき出て赤ら〳〵と子どもまてしる

といへる狂歌を持来れり、其後深川要津寺に毎月蓮花会といへる会ありしが、招かれてゆきしに、一席皆禁酒なれども、ひそかに蓮社の禁をゆるして、酒などすゝめたりき

●木室七左衛門(初名庄左衛門 後改七左衛門)卯雲はもと御徒目付也、延享年中八月十五夜、殿中にて板倉氏、細川侯を害せし時、細川の紋九曜の星なれば、

  明月やけふ近星も間にあはず

といふ句を戯れにせしが、其句ひろまりて迷惑せしといへり、其後小普請方にうつれり、一とせ浜御殿に俊明院様(徳川家治)成らせられし時、其頃の若年寄松平摂津守、浜御殿のうち船番所といふ所の柳蔭に立ちとゞまりて眺望し給ふ時、卯雲たゞちに御傍にすゝみて、「今日はよき天気也、御発句はなきや」と問ければ、ふところ紙に矢立の筆もて書つけて給ふ発句、

  しばしとて日かげをつくる柳哉

それより御屋敷(やしき)にも立入りて、したしくまゐりけるとなん

江戸にて、狂歌の会といふものを始てせしは、四谷忍原横町に住める小島橘洲なり(源之助と称す、田安府の小十人なり)、其とき会せしものわずかに四五人なりき、大根太木(山田屋半右衛門といへる町人、辻番請負なり、飯田町中坂下に住す、松本氏、俳命雁奴)、馬蹄(後に飛鹿の馬蹄と号す、咲山氏、田安府の士なり)、大屋裏住(金吹町の大家なり、後萩の屋と号す)、東作(四谷内藤宿の煙草屋なり、稲毛屋金右衛門といふ、へづゝ東作なり)、四方赤良(予、大田覃はじめは赤人といひしが、後に赤良と改む)等なり、其うち大根太木、きり金を請とりに市令の腰掛にありて、かたへに湖月抄をよむえせものありしを尋ぬれば、大野屋喜三郎といへるものにて、京橋北紺屋町の湯屋なり、是もとの木あみ事なり、此妻もまた狂歌をたしなみて智恵内子といへり、それより四方赤良を 尋ね来り、太木もくあみともなひて橘洲をとひしなり、橘洲の唐衣といへる号を付しは、椿軒先生なり

 

14狂歌集

(狂歌の集)

狂歌の集を見合べきことなり、古き集は、

  堀川百首狂歌集 冊 八百種

  古今夷曲集 二冊 浪花 

  後撰夷曲集 七冊 後二冊直、選者同前

  吾吟我集 二冊 東都 未得

&四方赤良ほか編『狂歌はまのきさご』

●初心に見るべき事之書

雅筵酔狂習(正親町家集御自注アリ)、古今夷曲集(行風撰)、後撰夷曲集(行風) 、未得吾吟集、貞柳狂歌集(七部)、百子撰集、李郷選集(二部)、木端撰集(六部)、紫笛撰集、芙蓉花撰集(二部)、鈍永撰集(二部)、走帆乗合船、暁月坊酒百首、雄長老百首、貞徳百首、卜養集(二部)、餅百首

&日々庵了仙『狂歌詠方初心式』

(江戸狂歌の諸集)

万載習徳和歌後万載集は、須磨屋伊八が板なり、才蔵集は蔦屋重次郎が板なり万載集よりさきに、唐衣橘洲、若葉集を選ぶ、其後朱楽菅江が故混馬鹿集(本名狂言鴬蛙集)あり、是を狂歌集のはじめとして、其のちの集ども数知らず、

&大田南畝『奴師労之(やつこだこ)

 

15狂歌関係書誌(荻生編)

㈠狂歌の概観(総記・起源・沿革など)

●『狂文狂歌集』林若樹解説、「日本名著全集」第十九巻、同刊行会

 *昭和四年の刊行だが、近世狂歌史を知る格好の解説付きである。

●『初期狂歌集』野間光辰編・解題、「近世文芸叢刊」第七巻、般庵野間光辰先生華甲記念会

●『川柳/狂歌集』杉本長重・浜田義一郎校注・解説、「日本古典文学大系」57、岩波書店

●『七十一番職人歌合せ/新撰狂歌集/古今夷曲集』高橋喜一・塩村耕校注、「新日本古典文学大系」61、岩波書店

 *「狂歌略史」が併せて収めてある。

●『川柳/狂歌』浜田義一郎・森川昭編、「鑑賞日本古典文学」第三十一巻、角川書店

㈡狂歌集誌

●『狂歌書目集成』竹浦編、臨川書店

 *昭和十一年に星野書店刊の同題書を復刻、狂歌集案内の希少本である。

㈢狂歌師閲歴

●『狂歌知足振(しつたかぶり)・付録』普栗釣方編、「近世人名録集成」3

 *江戸と方角分狂歌師の略伝を載せる。

●『評判狂歌 俳優(わざおぎ)風』四方赤良・唐衣橘洲・朱楽菅江版、「演劇文庫2」

 大正三年、演劇珍書刊行会

●『狂歌人物誌』絵馬額輔著、「江戸文学類従」昭和四年、同刊行会

●『狂歌人名辞書』狩野快庵編、臨川書店

 *昭和三年、文行堂・広田書店刊の復刻版。収載三千名を超える労作だが、記述や編成にかなりの不備があり、他書との校合が必要である。

㈣本歌の集成

 *わが国において有力狂歌集中で発表された作品は、次の五撰集によりほぼ網羅されているとみてよい。

●『未刊上方狂歌集成』真鍋広済編、清文堂出版

●『初期狂歌集』*㈠に同じ

●『狂歌大観』第1巻本篇・第2巻参考篇、同刊行会編、明治書院

●『近世上方狂歌叢書』一~十二巻、西島孜哉編、近世上方狂歌研究会・和泉書院

●『江戸狂歌本選集』第1~5巻、同刊行会編、東京堂出版

 *江戸板行の主要狂歌集の大半が収められている。

 

本書に関する参考文献・出典は、とくに都度掲出で明示されていない場合は、右掲の各書を利用してあります。