啞々子 ああし 手代木(てしろぎ)──〕

〇〇一……遺句

夢のなか枯れ土器(かはらけ)の一つ飛ぶ

昭和五十七年十二月五日急逝、享年七十八

 俳人で、北海道出身。秋田県田沢湖近くの稲沢村で農業の傍ら句作を続けた。遺句は晩年、夫人の手代木かよ宛書簡中のもの。古民家を思わせるしっとりとした心象風景を描いている。

 

 

赤とん坊 あかとんぼう 〔藤井──〕

〇〇二……病床遺句

秒針に死ねない命持ちあぐみ

昭和五十四年一月十一日病没、享年七十八

 新川柳作家で、下関市出身。柳句歴六十年を超えるベテランらしく、自身の死へのおののきを時計の秒針に仮託し、反転させた生への思いを見事に吟じきっている。

 

 

秋を あきお 加倉井(かくらい)──〕

〇〇三……絶句

靄沈む峡の月夜の栗の花

〇〇四

じやがたらの花がぼつぼつ梅雨入かな

昭和六十三年六月二日病没、享年七十八

 俳人・建築美術家で、茨城県出身。左脳内出血のための突然死であり、この二句が絶句となった。両句とも古典俳句の枯れた重みが受け継がれた秀句である。

 

 

秋の坊 あきのぼう 〔寂玄(法号)

〇〇五……辞世

正月四日よろづ此世を去るによし

享保三(1718)年一月四日卒中死、享年未詳

 俳人で、加賀国鶴来の人。焦門で名だたる実力者。伝によると、正月四日に友人の李東が訪ねてきて歓談中、秋の坊は突如右の一句を口ずさんで息絶えた。李東は驚愕しつつも、

 いねつむと見せて失けり秋の坊

と即吟して悼み手向けた、という。

 

 

 あきら 三谷(みつたに)──〕

〇〇六……病床遺句

病める眼に白雲こぞり夏果つる

昭和五十三年十二月二十四日病没、享年六十七

 俳人で、現代俳句協会の初代会長。『実業之日本』編集者等を経た人だが、昭和十五年の京大俳句事件に連座し弾圧された筋金入りの俳人。右作品は病状が重篤となる前九月頃の作と思われる。

 

 

芥川龍之介 あくたがわりゅうのすけ 

〇〇七……絶句

水洟や鼻の先だけ暮れ残る

〇〇八

君が俥暗きをゆけば花火かな

昭和二年七月二十四日自殺、享年三十五

 小説家。第一句、覚悟して残した辞世句でないことは一読して明らか。それに比べ第二句は死相が見え隠れしている。そのはずで、自殺の直前伯母に担当医へ渡すことを依頼した短冊だった。

 

 

朝太郎 あさたろう 〔白石──〕

〇〇九……辞世

死を思う老残の影壁にあり

昭和四十九年六月一日病没、享年八十

 新川柳作家で、東京市出身。新聞・出版社等で活躍したジャーナリストでもある。さすが剣花坊門下の高潔寡黙な吟じ口、この最後の一句も死への直視であり、俳句に近い心象を示している。

 

 

朱鳥 あすか 〔野見山──〕

〇一〇……辞世

亡き母と普賢と見をる冬の夜

昭和四十五年二月二十六日病没、享年五十二

 俳人で、福岡県出身。初期の写生句から晩年は心象句へと転換。この辞世、自身が近く訪れる浄土の、普賢菩薩に化身した亡母にまみえる喜びすら感じさせる。

 

 

 あつし 〔安住──〕

〇一一……絶句

雪の降る町といふ唄ありし忘れたり

昭和六十三年七月八日病没、享年八十一

 俳人で、東京市出身。逓信省官吏等をつとめた。小説でいうなら完全なる私小説、つねに「私」を意識した吟詠に徹した。それにしても、なんという物悲しさを潜めた句であろうか。

 

 

あつゆき 〔松尾──〕

〇一二……遺句

なにもかもなくした手に四枚の爆死証明

昭和五十八年十月十日病死、享年七十九

 俳人で、長崎県出身。長崎商業学校の教員。昭和二十年八月九日の被爆で妻と三人の子を失い、自身も被爆後遺症で亡くなった。「四枚の爆死証明」に、自己を超越した限りない無念をぞ知る。

 

 

阿部みどり女 あべみどりじょ 

〇一三……絶句

握手してこぶしに秋の涙かな

昭和五十五年九月十日没、享年九十三

 俳人で、札幌市出身。老衰で天寿を全う。掲出は、花束を抱えて見舞いに来た弟子との会話から生まれた一句で、はからずも絶句に。感傷を乗り越えた清々しさが胸に響く。

 

 

飴ン坊 あめんぼう 〔近藤──〕

〇一四……病床遺句

黒船が何だ昭和八年だぞ

昭和八年二月十二日病没、享年五十五

 新川柳作家で、東京市出身。古くにラジオ等で口語川柳の指導に当たったプロの作家。病と死闘を続けながら日本の軍国化により風雲急になった国際情勢に勇ましく檄を飛ばしている。

 

 

亞郎 あろう 〔臼田──〕

〇一五……遺句

朝暾(てうとん)のぽかりと薫ずわが鶏冠(とさか) 

昭和二十六年十一月十一日急逝、享年七十三

 俳人で、北海道出身。自然派俳人を自負していたが、彼の作は難解句が多い。辞世の作句では、つとめて多くの人が理解できる名句を残すべきだ。次の一句も辞世に近い晩年作、饒舌である。

〇一六

鶏頭しよんぼり落葉時雨の黄昏るる

 

 

安藤輝三 あんどうてるぞう 

〇一七……辞世

尊皇(そんのう)の義軍やぶれて(さみ)し春の雨

昭和十一年七月十二日刑死、享年三十二

 陸軍大尉で、昭和十一年に起きた二・二六事件の首謀者の一人。安藤ら十五人は銃殺刑に。天皇絶対制の時局下、尊皇のため戦った自分が処刑される義憤が溢れ出ている。

 

 

 

池田英泉 いけだえいせん 

〇一八……辞世

人またでゆきゝさむしや夏の原

嘉永元(1848)年八月二十六日没、享年五十九

 渓斎英泉の名号でも通じる浮世絵師。妖艶耽美の美人画で人気があった。幽冥訪れる夏原を一人行く孤独感がひしと迫り来る、まさに絵になる心境を描ききっている。

 

 

一三夫 いさお 〔藤田──〕

〇一九……遺句

意地だけで金もなければ墓もなし

昭和五十五年十月十一日病没、享年七十三

 新川柳作家で、東京市出身。コント作者、映画雑誌の編集記者などに就く。大衆相手の物書きを仕事としただけあって、平明でツボを心得た句に仕上がっている。

 

 

勇魚 いさな 〔八十島──〕

〇二〇……絶句

生作りめいて滝川豆腐くる

昭和十四年六月二十二日急逝、享年四十九

 新川柳作家で、東京市出身。家業の鯨鬚細工師を受け継ぐも、日本橋浜町育ちらしい柳号である。絶吟もまことに歯切れよし。「滝川豆腐」は心太突きでざるに盛る夏江戸の佳味だ。

 

 

石田あき子 いしだあきこ 

〇二一……遺句

一流星生きよといのち灯さるる

昭和五十年十月二十一日病没、享年五十九

 俳人で、埼玉県出身。石田波郷の妻、病身の波郷を献身的に看護した。夫の七回忌を前に、はかなく終えようとする自らの命に火をともす「一流星」とは、天国におわす夫の姿であろう。

 

 

泉鏡花 いずみきょうか 

〇二二……辞世

露草や赤のまんまもなつかしき

昭和十四年九月七日病没、享年六十七

 小説家で、耽美派浪漫主義の作家として知られる。言葉の錬金術を駆使した文豪にしては、拍子抜けするほどサラリとした回帰辞世だ。死に直面してなお句道の真髄を実践している。

 

 

井関三四郎 いぜきさんしろう 

〇二三……辞世

極楽へ一歩近づく笑顔する

昭和二十七年七月十八日病没、享年三十一

 新川柳作家で、愛媛県出身。県警巡査部長の職にあったが肺結核で療養の身に。この一句、素直すぎて穿ち不足の感があるが、若死にを余儀なくされる自身への精一杯の見得であったろう。

 

 

井泉水 いせんすい 〔荻原──〕

〇二四……絶句

美しき骨壺牡丹(かは)られている

〇二五

残る花はあろうかと見にいでて残る花のさかり

昭和五十一年五月二十日病没、享年九十一

 俳人で、東京市出身。俳壇の大先生だが、自由律・季題無用論を唱えて多くの俳人を敵に回した。吟じ口はあまりにも奔放に過ぎ、アマチュアが真似をすると独善という名の大怪我をする。

 

 

磯部百鱗 いそべひゃくりん 

〇二六……辞世

形こそ消ゆれ命は野に山に

明治三十九年四月十七日病没、享年七十一

 日本画家で、伊勢の出身。流麗な四条派の絵を描き、有職故実にも通じている。辞世は禅の悟りの言葉への表明そのものであり、主題や言葉使いの点で辞世句作りのお手本になろう。

 

 

伊丹万作 いたみまんさく 

〇二七……辞世

病臥九年更に一夏を耐えんとす

昭和二十一年九月二十一日病没、享年四十六

 映画監督・シナリオライターで、愛媛県出身。「知性派の監督」で鳴らした。坐禅すること九年で足を萎えさせた達磨大師に対し、俺のほうは病魔と闘って九年だよ、と禅問答を仕掛けている。

 

 

市川権十郎 いちかわごんじゅうろう 

〇二八……辞世

菊の根の土に戻るや別れ霜

明治三十七(1904)年三月二十七日病没、享年五十七

 歌舞伎役者で、「梨園の勇将」と称された。金に頓着しない「斯界第一の金欠家」でもある彼は、万物いずれ「土に戻る」という達観を生前すでに会得していたのである。

 

 

市川団十郎〔五代〕 いちかわだんじゅうろう 

〇二九……辞世

こがらしに雨もつ雲の行方かな

文化三(1806)年十月二十九日病没、享年六十六

 歌舞伎役者で、江戸の人。「花道のつらね」という号を持つ狂歌師でもある。いつ落ちるやも知れぬ「雨もつ雲」に喩え、人生の終焉をけれんなく伝えている。

 

 

市川団十郎〔七代〕 いちかわだんじゅうろう 

〇三〇……辞世

嗚呼(ああ)夢だ花の泊まりも七めぐり

安政六(1859)年三月二十三日病没、享年七十

 歌舞伎役者で、江戸の人。祖父五代目の血を引き狂歌もよくした。中句「花の泊まり」は華やかだった役者人生を回顧、結びの「七めぐり」とは七代目である自身を指した柳句風の感慨である。

 

 

移竹 いちく 〔田川──〕

〇三一……辞世

たんたんの色も侍るぞ種ふくべ

宝暦十(1760)年九月十三日没、享年五十一

 俳人で、京都の人。元禄の古風を慕う作が多く、去来と同格に扱われるほどの評価を得ている。「たんたんの」は、今様に表現するならだんだんのと濁って読んでも、また句味が出る。

 

 

一茶 いっさ 〔小林──〕

〇三二……遺句

御仏は淋しき盆とおぼすらん

文政十(1827)年十一月十九日没、享年六十五

 俳人で、信濃の人。人世の生身の声を句に表す達人であった。この句は亡くなる年、柏原大火で田中に戻った盆の作で、音通のおかしみがうかがえる。死期を覚え土蔵に籠もったとき、

〇三三……辞世

たらいからたらいへうつるちんぷんかん

と、産湯から湯かんというたらいの二度使いも吟じている。

 

 

一四 いっし 〔西川──〕

〇三四……辞世

何悟る喝と一声(ひとこえ)秋の蝉

延享三年(1746)年九月十四日没、享年三十八

 俳人で、京都の人。俳人としての活動に見るべきものが少なく、臨終情報も未詳である。この辞世句、脆くもはかない自身の人生を秋蝉の姿に重ね合わすことで、一縷の心意気を示し見せた。

 

 

一笑 いっしょう 〔小杉──〕

〇三五……辞世

心から雪うつくしや西の雲

元禄元(1688)年十一月六日没、享年三十六

 俳人で、加賀金沢の人。翌二年、芭蕉は金沢訪問を機に若くして逝った一笑に追善句を供えている。辞世では、極楽浄土の雲の下なら新雪も見事だろう、とあの世への願望を込めている。

 

 

一石路 いっせきろ 〔栗林──〕

〇三六……病床遺句

鷲翔つて干潟夕べの潮みちくる

昭和三十六年五月二十五日病没、享年六十七

 俳人で、長野県出身。記者・論説委員などをつとめたマスコミ人である。かつて昭和十六年、プロレタリア俳句運動で検挙されたいきさつがあり、この動にして覇気に満ちた句も頷ける。

 

 

一筆坊 いっぴつぼう 〔谷──〕

〇三七……辞世

(ひや)し我が世ぞ筆に汲み(おは)

寛政八(1796)年八月十六日没、享年七十三

 俳人で、名古屋の人。人物については未詳部分が多い。この辞世句は、俳号の「一筆坊」にひっかけ、末期の水を含んだ筆に擬して自身の一生を顧み句を締めている。

 

 

一碧楼 いっぺきろう 〔中塚──〕

〇三八……絶句

病めば蒲団のそと冬海の青きを覚えて

昭和二十一年十二月三十一日病没、享年五十九

 俳人で、岡山県出身。新俳句運動のもと自由律句に徹した人。句の内容は秀逸も、句体が整わず、鑑賞する方も座り心地がよろしくない。自由律句なるものの命取りの欠陥である。

 

 

一斗 いっと 〔吉田──〕

〇三九……病床遺句

まだ生きているのにたかる顔の蝿

昭和三十六年九月十二日病没、享年七十

 新川柳作家で、東京市出身。本業の製薬会社役員のかたわら、下町組の柳句活動で知られる。それにつけてもこの一句、川柳の穿ちを超越し、旅立つ慟哭の死相を見せているではないか。

 

 

以南 いなん 〔山本──〕

〇四〇……辞世

世かわる我は死ぬる盆の月

寛政七(1795)年七月二十五日入水、享年六十

 俳人で、越後与町出身。良寛の父であり、天領の代官所名主と神職を業に。勤皇信奉を触れ歩いたことから幕府の弾圧にあい京都桂川に身を投げた。あと五十年遅くに生まれるべき人であった。

 

 

稲丸 いねまる 〔井上──〕

〇四一……辞世

けふよりはあのみちゆくそまんしゆ沙華

文化五(1808)年八月十五日病没、享年三十九

 俳人で、奥州津軽の人。剃髪し、京や攝津に庵を結ぶ。同侶の蝶鼠が居た丹波大久保の長楽寺へ長駕籠で着いたとたん成仏した。辞世はおそらく籠に揺られながら吟じたものであろう。

 

 

井上信子 いのうえのぶこ 

〇四二……辞世

草むしり無念無想の地を拡め

昭和三十三年四月十六日病没、享年八十八

 新川柳作家で、山口県出身。女流川柳作者の育成に尽力した。なるほど、雑草生い茂る地は雑念の象徴でもある。死への歩みを草むしりに喩えて、自らを彼岸で浄化したい希求と見た。

 

 

因石 いんせき 〔三谷──〕

〇四三……辞世

名もかへず花の浄土へ宿ばかり

明和二(1765)年三月二十八日没、享年六十七

 俳人で、京都の人。伝は詳しく残されていないが、程々の吟じ手であったようだ。「戒名も付けずに花の浄土へ居候に行くのはいささか虫がよすぎるかな」ほどのひょうきんな俳諧である。

 

 

羽紅 うこう 〔竹田──〕

〇四四……辞世

行雲(ゆくくも)にまて(つれ)だゝん時鳥

寛保三(1743)年閏四月三日没、享年五十七

 俳人で、京都の人。流れ去り行く雲を吐血しながら追いすがるホトトギスに自らの終焉を仮託している。なお同名の女流俳人に「羽紅」がいるが野沢凡兆の妻で辞世は見当たらない。

 

 

雨考 うこう 〔石川──〕

〇四五……辞世

白露におもへば長き我世かな

文政十(1827)年七月六日没、享年七十九

 俳人で、奥州須賀川の人。句集『青蔭集』には欧亜堂田善の銅版画が挿され価値を高めている。ただし、辞世句の方はやや退屈な締めの一句になってしまった。

 

 

宇考 うこう 〔佐々木──〕

〇四六……絶句

   有かたきみきをいただきて

うぐひすの鳴やわするゝ吾齢ひ

文政三(1820)年三月七日病没、享年八十二

 俳人で、羽前米沢の人。佐々木盛綱の末裔で土地の名家あった。晩年は中風にかかり病臥の身をかこっており、亡くなる前の二月、主君から見舞いの御酒を下賜されとき、この一句を吟詠した。

 

 

右近 うこん 〔早川──〕

〇四七……辞世

しのこした事はあしたにして眠る

昭和四十四年十一月十八日病没、享年七十三

 新川柳作家で、東京市出身。戦前は神奈川県国府津に在住、京浜川柳界で活躍した。見事なまでにわかりやすい口語吟であり、柳句初心者のお手本になる一句といえる。

 

 

雅楽王 うたおう 〔島田──〕

〇四八……辞世

魂を鞘におさめて征きました

昭和十七年病没、享年五十五

 新川柳作家で、出身地および命日は未詳、樺太通運社長。大正十一年の新川柳勃興期に既成柳檀に対抗して指導的活動をした。過去形の結びとしたのは、強烈な残像を残すためである。

 

 

内田百閒 うちだひゃっけん 

〇四九……遺句

蝙蝠に夕闇浅し町明かり

昭和四十六年四月二十日没、享年八十一

 随筆家で、東京市出身。『百鬼園随筆』で知られる当代髄一の書き手であった。「夏宵の訪れの遅さに加え、町の明かりが蝙蝠の往き交いを邪魔しているよ」が句意、絵になる一句だ。

 

 

梅の門 うめのもん 〔金尾──〕

〇五〇……辞世

鶯にだまされてゆく浄土かな

昭和五十五年十二月九日病没、享年八十

 俳人で、富山県出身。家業の「富山の薬売り」で旅しながら句作に打ち込んだ。お迎えの夢見る耳に透き通るホウホケキョウは、まさに極楽へといざなう使者の声として聞こえたことであろう。

 

 

雲鈴 うんれい 〔吉井──〕

〇五一……遺句

出替に行くや浄土の今参り

享保二(1717)年二月二日没、享年七十八

 俳人で、奥州南部の人。南部藩士だったが、許六、支考に教えを乞い開眼、諸国を吟遊して歩く。この辞世句、いつ、どこで往き倒れても悔いなしという覚悟を示している。

 

 

 

曰人 えつじん 〔遠藤──〕

〇五二……辞世

土金や息はたえても月日あり

天保七(1836)年四月二十日没、享年七十九

 俳人で、仙台の人。書をよくし、奇趣漫筆に富んだ『続三十里』の自作本で知られる。句は狂句に近い作品が目立ち、この辞世もまた新鮮な驚きに満ち、現代の新川柳としても通用する。

 

 

延寿太夫〔四代〕 えんじゅだゆう 〔斎藤──〕

〇五三……辞世

気はかろし接木仕遂げてひぢ枕

明治三十七(1904)年三月八日没、享年七十三

 清元家元で江戸の人。名匠として一世を風靡した。「接木仕遂げて」とは、五世(昭和十八年に八十一歳で没)に家元継承芸のすべてを伝授し終え、肩の荷を下ろしたおりの感慨であろう。

 

 

延清 えんせい 〔志水──〕

〇五四……辞世

いつとても息引とるが身の歳暮

享保十九(1734)年五月十六日没、享年六十九

 俳人で、京都の人。後に出家して日柳と号した。良く評して泰然自若、悪く言うなら強気な見得がうかがえる。この手の辞世句は一歩誤ると嫌味になるので、気をつけよう。

 

 

燕説 えんせつ 〔無外坊──〕

〇五五……辞世

此界に二度と用なし秋の風

寛保三(1743)年九月十九日没、享年七十三

 俳人で、美濃大垣の人。露川の門人で、師と共に諸国を吟遊した。苦労を重ねたせいか句風も辛口だ。辞世もつらかった浮世に投げつけた捨て台詞と見て取れる。

 

 

 

 

鴎沙 おうしゃ 〔伊村──〕

〇五六……辞世

世の中の硯一と目に今日の月

寛政八(1796)年八月十六日没、享年七十三

 俳人で、尾張名古屋の人。書家としても知られ、『古硯』などの関連著作がある。墨筆に関する句作が目立ち、この辞世も書道への愛着を墨絵の如くに深く感じさせる。

 

 

奥州 おうしゅう 

〇五七……辞世

恋しくば我塚でなけほとゝぎす

生没年未詳

 遊女で、江戸吉原は三浦屋の名妓。俳諧をよくし、単なる女郎でない逸話も残す。辞世の句は、美声の代償に血を吐き続けるというホトトギスに仮託し、苦界に身を沈めた身を絶唱した。

 

 

王城 おうじょう 〔田中──〕

〇五八……遺句

み仏に鴨の湖あり浮御堂

昭和十四年十月二十六日没、享年五十四

 俳人で、京都市出身。京都俳壇の実力者で、名所俳句の吟じ手であった。遺句も鴨川を「鴨の(うみ)」とあえて大和言葉で表現し、仏道帰依による成仏を願っている。

 

 

鶯塘 おうとう 〔武田──〕

〇五九……辞世

夏影を命と抱いて寝る夜かな

昭和十年五月三十一日没、享年六十五

 俳人で、東京市出身。宮家家令の家に生まれ、本人はジャーナリストとして活躍。亡くなったのは新暦でまだ春の時期、夏影を投じる前に彼岸へ旅立ってしまった。

 

 

桜坡子 おうはし 〔大橋──〕

〇六〇……絶句

かくも名に咲きて野牡丹濃むらさき

昭和四十六年十月三十一日没、享年七十六

 俳人で、滋賀県出身。高野山雨月観月句会のあと風邪をこじらせ急逝した。自然を愛でてやまない名吟で、図らずも最後を飾るための自らへの供花となった。

 

 

大場美夜子 おおばみやこ 

〇六一……遺句

新緑の吾が棲む杜を夢に見き

昭和六十三年五月十一日病没、享年八十

 女流俳人で、栃木県出身。東京杉並の大宮八幡、横浜三渓園、富山県滑川の三箇所に句碑を従え眠っている。いずれも句作にゆかりが深く、森に囲まれ永眠にふさわしい地である。

 

 

大前田英五郎 おおまえだえいごろう 〔田島──〕

〇六二……辞世

あらうれし行くさきとほき死出の旅

明治七(1874)年二月二十六日病没、享年八十二

 侠客で、上州勢多郡大前田の人。現前橋市の雷電山にこの辞世の句碑が建っている。借辞まみれの稚拙な大見得吟だが、不文律破壊の自由律句よりはまだまし、というものだ。

 

 

岡野包秀 おかのかねひで 

〇六三……辞世

そのにほひ雪のあしたの野梅哉

〇六四

世やいのち咲く野にかゝる世やいのち

元禄十六(1703)年二月四日自刃、享年二十四

 赤穂四十七士の一人。評判の美男で、歌舞伎台本でも脚色されている。句作にも巧みであった。第一句は老成した吟、第二句は勇み足の若作りな句と、双方の掛け持ちが面白い。

 

 

乙字 おつじ 〔大須賀──〕

〇六五……病床遺句

干足袋の日南に氷る寒さかな

大正九(1920)年一月二十日病没、享年四十

 俳人で、福島県出身。自由律俳人で、俳論も少なからず発表してきた。俳号人気先行型の人で作品は入選洩れが少なからずあり、自由律句・字余り句が目立つ独善の一面をさらけ出している。

 

 

乙郎 おつろう 〔那須──〕

〇六六……絶句

春暮れて命の果のあらしかな

平成元年九月十六日病没、享年四十

 俳人で、京都市出身。地元京都で俳人育成に尽力した。死に臨みながら心の乱れを打ち消そうとする思いが表れている。気取ることなく、好感の持てる一句だ。

 

 

鬼貫 おにつら 〔上島──〕

〇六七……辞世

夢返せ烏の覚ます霧の月

元文三(1783)年八月二日病没、享年七十八

 俳人で、伊丹の人。「東の芭蕉、西の鬼貫」とも「悟りの俳人」ともいわれた。「夢返せ」の上句が西方浄土の静謐を恫喝しているような、生きのよさを感じさせる。

 

 

尾上菊五郎〔五代〕 おのえきくごろう 

〇六八……辞世

散る梅に見上る空の月清し

明治三十六(1903)年二月十八日没、享年六十

 歌舞伎役者。俳名「梅幸」で知られた明治の名優で、辞世句「散る梅」はその縁語である。ただし出来のほうは、通俗的な散漫さが拭いきれない素人句のままだ。

 

 

温亭 おんてい 〔篠原──〕

〇六九……遺句

初蝉か我庭に来て鳴き初めし

大正十五(1926)年九月二日病没、享年五十四

 俳人で、熊本県出身。ダリア栽培の職人としても知られる。小柄で寡黙、柔和な人。その人柄が遺句にもよく現れていて、句材に派手なダリアを選ばず初蝉としたのは正解であった。

 

 

女乞丐 おんなこっかい 

〇七〇……辞世

蚊にいとひいぬにくはれるかばねかな

俗名、生没年等未詳

 宝暦年間(1751~64)豊後国池泉寺門前の砂上に、辞世の偈(漢詩)、和歌、俳諧を指先で書き付けた女乞食がいたという。零落の身であったろう、女人らしい句に物の哀れをひしと感じる。

 

 

 

介我 かいが 〔佐保──〕

〇七一……遺句

おもしろや左右の使の飛ぶほたる

享保三 (1718)年六月十八日没、享年六十七

 俳人で、奈良の人。二十六歳で江戸に出て俳匠として名を挙げた。夏夜に妖しい光を交差させる蛍を提灯持つ使者に見立てた。幽冥半ばでの心のゆとりがこの名句を生み出したのであろう。

 

 

槐太 かいた 〔下村──〕

〇七二……辞世

明日の昨日がない今日の海の香

昭和四十一年十二月二十五日没、享年五十六

 俳人で、大阪市出身。感性溢れる妖艶な詩なども作っている。昭和二十七年、俳壇から遠ざかり、国語研究に没頭。やや回りくどいが、言葉遊びの手法を印象付ける一句である。

 

 

拐童 かいどう 〔清原──〕

〇七三……絶句

松浦川雨月の千鳥二三声

昭和二十三年五月十六日病没、享年六十七

 俳人で、福岡県出身の新聞社社員。俳句は虚子に師事した。虚子は拐童を、清貧に甘んじ身を持すること高い人、と高く買っている。「松浦川」は佐賀県北部を流れる川。

 

 

加賀 かが 〔細川──〕

〇七四……絶句

顔ひとつわれに近づく秋のくれ

平成元年一月二十五日病没、享年六十五

 俳人で、石川県出身。不慮の事故で脳挫傷の致命傷を負った。身の上に起こる奇禍を予見したような絶句である。「顔一つ」とは、親族の面影か、はたまた吟友の友二の顔か。

 

 

赤黄男 かきお 〔富沢──〕

〇七五……絶句

切株に 人語は遠くなりにけり

昭和三十七年三月七日病没、享年五十九

 俳人で、愛媛県出身。「モダニズム俳句」という新興俳句を実践した。この絶句は通夜・告別式のとき、自筆短冊をご遺族がお棺に立てかけ、野辺の別れの言葉としたという。

 

 

角上 かくじょう 潦游院(りょうゆういん)──〕

〇七六……遺句

大きなるくさめ一つ秋のくれ

延享四(1747)年五月八日病没、享年八十四

 俳人で、近江堅田本福寺の住職。蕉門の俳人でもあり、義仲寺に芭蕉翁行状碑を立てている。掲出は没する前年作の遺句で、いわゆる山寺の和尚さんを髣髴させる佳句である。

 

 

格堂 かくどう 〔赤木──〕

〇七七……絶句

生きて世に一灯を守る子規忌かな

昭和二十三年十二月一日病没、享年六十九

 俳人で、岡山市出身。子規の弟子で、師の薫陶が深かったことを思わせる句である。俳壇の座を巡るいざこざに嫌気がさして見切りをつけ、晩年は句作の発表がない。

 

 

加倉井信子 かくらいのぶこ 

〇七八……遺句

存らふる力たのみに七草粥

平成元年六月十九日病没、享年七十

 俳人で、加倉井秋をの妻。肺癌のため入退院を繰り返しながら夫に一年遅れて黄泉の人となった。この遺句は没年春の七草のとき吟じたものであろう。

 

 

角恋坊 かくれんぼう 〔高木──〕

〇七九……辞世

やがて散る花なり芥子のほろほろと

〇八〇

おもしろや草葉のかげにかくれん坊

昭和三十七年三月七日病没、享年五十九

 新川柳作家で、東京市出身。職業は醸造関係の業界紙を発行、かたわら東京新川柳を興隆させた一人でもある。右の辞世句から三月七日は「ほろほろ忌」として故人を偲ぶ慣わしになっている。

 

 

荷十 かじゅう 〔森井──〕

〇八一……辞世 

死ねば秋虫の鳴いてる旅の空

昭和二十三年七月二十七日病没、享年六十三

 新川柳作家で、東京市出身。前柳号を「六畳坊」と称した。わかりやすい句作を実践している人だが、せっかくの辞世はピンボケ作で穿ちに乏しく、この人らしくない。

 

 

かけい 〔加藤──〕

〇八二……絶句

絶命や何をあわてて雁帰る

昭和五十八年三月四日病没、享年八十三

 俳人で、名古屋出身。三月一日に死期を悟り「絶命」連作四句を吟じた。残る三句は、

〇八三  絶命をのどの氷片喝采す

〇八四  絶命の深き眼窩にすみれ咲く

〇八五  うぐひすやわが絶命も妙なるかな

 

 

可笑 かしょう 〔大石──〕

〇八六……辞世

花の雲空も名残りになりにけり

元禄十六年二月四日自刃、享年四十五

 播州赤穂藩国家老で、四十七士の親玉、通称「大石内蔵助」で知られる。俳諧は嵐雪高弟の白峰に就いて学んだ、と。句作のレベルは季語押し付けが嫌味、「昼行灯」押して図るべし、である。

 

 

瓜人 かじん (あい)生垣(おいがき)──〕

〇八七……遺句

春寒に入れたり迷路に又入れり

昭和六十年二月七日病没、享年八十七

 俳人で、兵庫県出身。仙境句といわれる枯れた句が目立つ。掲出の辞世は心象の入り組んだ難解句である。末永く鑑賞してもらう辞世という観点からは、褒められる作とはいえない。

 

 

花人 かじん 〔高梨──〕

〇八八……病床遺句

汗に汚るる護符勿体なし治りたし

昭和四十九年六月十七日病没、享年七十

 俳人で、千葉県?出身か。俳号の読み、命日等は未詳。心の奥底に諦観がどっしり根を下ろし、守り札に寄せた、まったく飾る所の見当たらない作で好感が持てる。

 

 

歌川 かせん

〇八九……辞世

おく底もしれぬ寒さや海の音

安永六(1777)年七月没、享年六十一

 江戸中期の元遊女で、越前荒町屋某楼の抱え。「早瀬川」の源氏名を持つ。遊女俳諧師としては北国随一とうたわれた。晩年は薙髪して生家の村に戻り、小庵を結んで過ごした。見事な辞世だ。

 

 

片岡市蔵〔三代〕 かたおかいちぞう

〇九〇……辞世

無雑作に散り果てにけり銀杏の葉

明治三十九(1906)年十二月十一日没、享年五十六

歌舞伎役者で、大阪市出身。上の辞世の句残す。まったく無造作に吟じきった一句である。句意や音のつながりもよく、素人はこういう無難な句を参考に辞世を作るとよい。

 

 

勝木正雄 かつきまさお

〇九一……辞世

弾一つあたり候怱々頓首

明治三十七年(月日未詳)戦死、享年三十

 陸軍軍曹で、金沢市出身。日露戦争のとき沙河(中国奉天市の南)の役に出陣し戦死した。機知に富み肝っ玉の太い人で、深手を負いながらもこの狂句を物した。

 

 

葛三 かつさん 〔倉田──〕

〇九二……辞世

身の上の夏や蓮の一枚葉

文政元(1818)年六月十二日没、享年五十七

 俳人で、信州の人。松代真田家の家臣という出自である。「(はちす)の一枚葉」は涼と暑との境界であり、浄土と俗世との境目でもある。吟者はどうやらそのあたりで遊んでいるらしい。

 

 

葛飾北斎 かつしかほくさい

〇九三……辞世

人またでゆく気さんじや夏の原

嘉永二(1849)年四月十八日没、享年九十

 浮世絵師で、江戸郊外本所生まれの人。絵師としては超有名、引越魔としても知られた。初夏の野原へ昼幽霊狩りにでも出かけるような気さくな辞世句である。

 

 

加藤知世子 かとうちよこ 

〇九四……遺句 

頬杖ながし青林檎ひとつ置き

昭和六十一年一月三日没、享年七十六

 俳人で、新潟県出身。加藤楸邨夫人である。「頬杖」は思索する人の象徴であるが、彼女に自嘲的な句が多いのは、頬杖しながらの内省に多くの時間を費やしたからではなかろうか。

 

 

霞夫 かふ 〔芦田──〕

〇九五……辞世

死なば世に冬のこぬまと言ひおけり

天明四(1784)年九月二十九日没、享年三十六

 俳人で、但馬国出石材木町の人。薬種を商う豪商であった。蕉村に師事し経済的に後援、俳画にも秀出ていた。死出の旅路は万物色づく秋のうちに、という壮年で逝く臨終願望は果たされた。

 

 

臥風 がふう 〔川本──〕

〇九六……病床遺句

初春の点滴軽快におどり込む

昭和五十七年十二月六日没、享年八十三

 俳人で、愛媛県出身。松山高校の教員を経て愛媛大学教授をつとめた。透き通るような抒情句が多く見られる。管を伝わり身に滴り入る点滴液にすら、美的感性の目を向けている。

 

 

華芳 かほう 〔本多──〕

〇九七……遺句

生きてよし死ねばさばさば世話はなし

昭和十七年病没(生年、命日等は未詳)

 新川柳作家で、北米川柳界の長老格。ワシントン州やシャトル市で川柳普及に貢献。太平洋戦争中の昭和十七年にハート山日系人収容所で病死。七回忌(1948年)には、全米の吟社から寄せられた醵金によりキャピタルヒル墓地に右の句碑が建てられた。

 

 

可明 かめい 〔青砥──〕

〇九八……病床遺句

金魚死んだまま退院も近くなり

昭和四十二年九月十九日没、享年七十二

 俳人で、島根県松江の出身。地方柳界の発展に尽くしたモデル的人物である。闘病生活でもはや見る影もなくなった己を、かつては華やかに動き回っていた金魚に投影している。

 

 

鴨平 かもへい 〔今井──〕

〇九九……遺句

杖曳けば悪鬼の相のすでになし

昭和三十九年二月十日没、享年六十五

 新川柳作家で、岐阜県出身。青果商社の重役。革新川柳の普及に尽力したが、柳体の規範は崩すことなく守り続けた。この一句、病で変身した自身を冷徹に見つた。無季俳句としても通用する。

 

 

河井継之助 かわいつぐのすけ 

一〇〇……遺句

八十里腰ぬけ武士の越す峠

慶応四(1868)年八月十六日没、享年四十二

 幕末の長岡藩家老。同年五月北陸討幕軍の侵攻にあい、継之助らは長岡城奪還に成功も、自身は被弾して深手を負う。戸板搬送で会津へ向かうさい、国境の八十里峠でこの自嘲句を残した。

 

 

竿秋 かんしゅう 〔橋本/松木──〕

一〇一……辞世

名月のあとにも胸のひかり哉

安永元(1772)年九月十一日没、享年八十八

 俳人で、京都の人。師の淡々が離京するさい点印家譜を贈られ、意志を継いで職業点者として自立した。優れた門人の数も多かったことをこの辞世句が表明している。

 

 

乾什 かんじゅう 〔岩本──〕

一〇二……辞世

雪解けや八十年の作りもの

宝暦九(1759)年十二月十七日没、享年八十

 俳人で、江戸の人。営む商売が破産して俳門に入った。弟子に別掲の「竹婦人」がいて、門下に彩りを添えている。この一句、自身を雪だるまに見立てた発想が面白く、辞世の名句である。

 

 

 

其香 きこう 〔本多──〕

一〇三……辞世

咲けば散る身の行末や花世界

文政六(1823)年五月二日没、享年五十二

 俳人で、伊勢の人。伊勢神戸藩主本多清秋の六男。俳諧は父から手ほどきを受けた。辞世の結句「花世界」は描写が今一つ散漫ないわゆる殿様吟、筆者なら「枯たより」とする。

 

 

岸田眠女 きしだみんじょ 

一〇四……遺句

春浅くまだ行き逢えぬひとはどこ

平成十八年十二月十七日病没、享年七十六

 女優・エッセイストで、東京市出身。俳号「眠女」はニックネームのムーミンをもじって付けたものであろう。女性らしい肌理細やかな心情を発露した遺句である。

 

 

喜舟 きしゅう 〔野村──〕

一〇五……絶句

すさまじや寒夕月に星一つ

昭和五十八年一月十二日没、享年九十六

 俳人で、金沢市出身者。句作歴七十年に及ぶ大ベテランらしく、長寿での大往生である。しかし、句に浮かぶ宵の明星を思わせるような人生ではなく、三等星程度の地味な存在の人であった。

 

 

鬼城 きじょう 〔村上──〕

一〇六……辞世

冬ざれや戦あきて鳴く烏

昭和十三年九月十七日病没、享年七十三

 俳人で、江戸小石川生まれ。群馬県の高崎裁判所書記のかたわら虚子門で句作に励む。よく「現代の一茶」といわれるが、万物を灰色風景に溶融させてしまう深刻な写生句が目立つ。

 

 

葵水 きすい 〔垂井──〕

一〇七……遺句

鈴虫に死ぬべき覚悟うかがえず

昭和四十八年十一月一日事故死、享年五十二

 新川柳作家で、和歌山市出身。葵水で四代続く俳人の家系をもつ。会社重役の職にあったが、交通事故で死去した。『垂井葵水遺句集』から奇禍を投影させたような作が絶句に選ばれている。

 

 

其梅 きばい 〔野村──〕

一〇八……辞世

願くば無為の都を住所(すみところ)

                 天明八(1788)年二月十二日没、享年七十

 俳人で、京都の人。早川丈石の門人。可もなく不可もなし、といった水準の句が多い。辞世句は、自身を純粋に昇華できる場としての死後世界を求めたものである。

 

 

君尾 きみお 

一〇九……辞世

白梅でちよつと一杯や死出の旅

大正七年二月没、享年七十五

 京都祇園の芸妓。雁金文吉という侠客を父に持ち、幕末に勤皇の志士連中から贔屓にされたため「勤皇芸者」の異名を持つ。生き様をよく表した伝法な辞世句である。

 

 

去音 きょおん 〔高屋──〕

一一〇……辞世

夢か葉か散るしやらくさし最後の屁

寛延二(1749)年十一月十日没、享年六十三

 俳人で、京都の人。「俳諧の源は滑稽にあり」という本義を全うしたような句だ。「しやらくさし」という掛詞を兼ねた縁語が小気味よく効いて、鼬のような人物を想像し失笑してしまう。

 

 

暁水 ぎょうすい 〔森川──〕

一一一……遺句

死にそなふ電話一本梅雨はじめ

昭和五十一年六月十五日病没、享年七十四

 俳人で、大阪市出身。大酒飲み、腕の立つ表具師ではなかったようで、生涯貧苦と戦った。掲出は十五作の遺句のうちの一つ。ド根性も消え失せた浪花者の哀歓を誘う秀作である。

 

 

鏡太郎 きょうたろう 〔高橋──〕

一一二……絶句

山椒魚棲む山また山を恋ふるがに

昭和三十七年六月二十二日没、享年四十九

 俳人で、大阪市出身。晩年は貧窮に身をやつし、知人らに電車賃ねだりまでしたようだ。東京四谷で事故で入院中に死亡。純粋な心象描写と巧みな副詞止めが効いて名句である。

 

 

曲斎 きょくさい 〔原田──〕

一一三……辞世

暁や水観ずれば蓮の音

明治七(1874)年七月二十九日没、享年五十八

 俳人で、周防徳山の人。蕉風復古を主張し師(十世有青)から破門されている。俳諧研究に没入し一家言持っていた。弄辞上の謎を仕掛けた含むところの多い辞世である。

 

 

玉成 ぎょくせい 呉山堂(ござんどう)──〕

一一四……辞世

涼さやぽくり隠るゝ都鳥

明治三十一年五月没、享年六十余

 俳人で、江戸の人。世の俳諧宗匠連中は貪婪だからと付き合いをしなかった気骨の人。晩年は千住に居を構えたというから、晩春の荒川に遊ぶ都鳥(浜千鳥)を眺めながらの往生だったであろう。

 

 

虚舟 きょしゅう 〔黒瀬──〕

一一五……辞世

底ぬけや返らぬ旅の頭陀(づた)(ぶくろ)

                 明治六(1873)年六月十六日没、享年八十

 俳人で、京都の人。簡単な伝しか残されていない。川柳としてでも通用する穿ちの効いた面白い句である。ちなみに梵語「頭陀」には捨てる落とすなくすといった意味がある。

 

 

虚子 きょし 〔高浜──〕

一一六……絶句

春の山屍うめて空しかり

昭和三十四年四月八日病没、享年八十五

 俳人で、愛媛県松山市出身。俳誌『ホトトギス』主幹。「花鳥諷詠」を唱え、教えた弟子も多かった。不帰となる前三月三十一日に鎌倉の句会で吟じたこの句が最後となった。

 

 

去来 きょらい 〔向井──〕

一一七……絶句

有明にふり向きがたき寒さかな

宝永元(1704)年九月十日病没、享年五十四

 俳人で、肥前長崎の人。宮中御用儒医の家柄も、芭蕉に師事し「西三十三か国の俳諧奉行」と言わしめた実力の持ち主である。掲出は『去来発句集』に載る最終句である。

 

 

許六 きょろく 〔森川──〕

一一八……辞世

茶の花の香や冬枯の興聖寺

正徳五(1715)年八月二十六日没、享年六十

 俳人で、江州彦根の人。井伊家藩士のかたわら俳句をたしなみ、芭蕉晩年に教えを乞うた高弟である。許六自身晩年は剃髪し、仏法や寺院を吟じた句がちらほら目立つようになった。

 

 

其柳 きりゅう 〔菅野──〕

一一九……遺句

救われた漁夫と一生陽に焼ける

昭和五十一年十一月没、享年七十九

 新川柳作家で、山形県出身。生涯に県内各地に四基の記念碑を建てている。記録は未詳だが、遺句によると水難に遭い救われたようだ。こういう個人的な訳有りの材料は辞世では避けたい。

 

 

吟霞 ぎんか 〔堀内──〕

一二〇……辞世

借銭の淵から天上辰の秋

天明四(1784)年八月一日没、享年六十一

 俳人で、京都の人。極端な状況対比の妙をもって、借金地獄から逃れられる喜びを訴えている。辞世といっても湿っぽい作品だけではないことを教えてくれる一句だ。

 

 

琴荘 きんそう 〔大野──〕

一二一……絶句

むし暑さ寝た子をおこす友が来る

昭和三十二年十月八日病没、享年六十二

 新川柳作家で、東京市出身。含蓄のある格調高い句風をもって都柳檀で活躍した。体調すぐれず禁酒でも誓ったのか、そこへ飲み仲間が冷えたビール瓶を下げてやってきた……。

 

 

琴風 きんぷう 〔河東──〕

一二二……辞世

一息にこの味ひぞ春の水

享保十一(1726)年二月七日没、享年八十八

 俳人で、摂津の人。俳諧を其角に学び、師の紹介で磐城平城主の内藤露沾の家臣となった。長寿しかも米寿を全うしての末期の水の味わい。まさに辞世句中の辞世句といった傑作である。

*琴風の氏姓は出典で異なり、河東のほかに篠田、柳川が用いられている。