空華 くうげ 〔斎藤──〕

一二三……絶句

十薬の今日詠はねば悔のこす

昭和二十五年一月四日病没、享年三十一

 俳人で、神奈川県出身。肺結核で療養の甲斐なく亡くなった。『空華句集』には諦観で片付けるわけにはいかない、読む者が鳥肌の立つような、無念やるかたない作品が目立つ。

 

 

草田男 くさだお 〔中村──〕

 

一二四……絶句

 

折々己れにおどろく噴水時の中

昭和五十八年八月五日病没、享年八十二

 俳人で、中国福建省履門の日本領事館で生まれた。彼の「降る雪や明治は遠くなりにけり」は名句だが、この辞世は草田男吟の中でも極め付けの自己中心句。褒める気にはならない。

 

 

楠本憲吉 くすもとけんきち 

一二五……病床遺句

失いしことば失いしまま師走

昭和六十三年十二月十七日病没、享年六十五

 俳人・随筆家で、大阪府出身。仕事は料亭の番頭さん。タレント志向の強い人で、テレビ等でも顔を売る。食道がんという業病が洒脱な人に泣き言じみた一句を残させた。

 

 

国夫 くにお 〔中島──〕

一二六……辞世

男じゃと言わせぬ今日の痛みかな

昭和四十五年十二月五日没、享年七十一

 新川柳作家で、富山県出身の陸軍大尉。戦後リアリズム自由律句を提唱、これを「魔の詩」と称した。自由律とはいえ口語句であり、十七音の韻律を守り続けているのは好感が持てる。

 

 

句仏 くぶつ 〔大谷──〕

一二七……絶句

喰ひ慣れし葛も名残や松過ぎぬ

昭和十八年二月六日病没、享年六十八

 俳人で、京都府出身。東本願寺の第二十三世法主、伯爵。生涯に二万句を作り、京都における名門俳人として名高い。病人食の葛湯をすすっていた松の内過ぎの頃の作であろう。

 

 

久保田米僊 くぼたべいせん 

一二八……辞世

郭公(ほととぎす)その暁の沙羅双樹

明治三十九(1906)年五月十八日病没、享年五十五

 挿絵画家で、京都市出身。『国民新聞』等明治時局漫画の雄である。病を得て一物が勃起しなくなったのを知るや、掲出句をセガレのための悼辞として吟じた、という。愉快な人だ。

 

 

久良伎 くらき 〔阪井──〕

一二九……辞世

川柳の壁疎開の躄しかと抱く

昭和二十年四月三日病没、享年七十六

 新川柳作家で、横浜市出身。近代柳壇の最長老格で、新聞記者や短歌選者を経て川柳界に入り発展に寄与した。東京向島の三囲(みめぐり)神社に「広重の雪に山野は暮かかり」の句碑が建てられている。

 

 

栗原亮一 くりはらりょういち 

一三〇……辞世

花に月に別れて遠き旅路哉

明治四十四年三月十三日病没、享年五十七

 政党政治家で、三重県出身。自由民権論者で、反政府の言論活動で活躍も四十二年、議員涜職の獄に連座させられた。この一句に、小事にこだわらない大人物の面影がしのばれる。

 

 

 

圭岳 けいがく 〔岡本──〕

一三一……病床遺句

かくて冬妻にゆづらん吾がいのち

昭和四十五年十二月十五日病没、享年八十七

 俳人で、大阪市出身。「ホトトギス」系の新興俳句運動に身を投じた。右掲句を吟じたとき八十六歳の高齢にもかかわらず、まだ妻に寿命のお釣りを譲るつもり、さすがに浪花っ子である。

 

 

桂郎 けいろう 〔石川──〕

一三二……病床遺句

柚子釜の香をありありと病臥かな

昭和五十年十一月七日病没、享年六十六

 俳人・編集者で、東京市出身。個性を表に出しきる我の強い人であったようだ。おれはまだ生きているんだ、と鼻に物を言わせる柚子の香は、一服の清涼剤か、はたまた罪作りな毒薬か。

 

 

珪琳 けいりん 〔松木──〕

一三三……辞世

果は皆仏の道へ落葉哉

寛保二(1742)年六月二十八日没、享年六十三

 俳人で、甲斐国の人。「精出せば氷る間もなし水車」といった教訓句に冴えを見せ、子弟の啓蒙に一役買った。辞世も仏教的諦観の教訓句を取り入れたもので、季語がずれているしチト抹香臭い。

 

 

径童〔一世〕 けいどう〔一睡庵──〕

一三四……辞世

死ぬる目は尚面白し閑古鳥

生没年、享年等未詳

 俳人で、京都の人。氏姓等つまびらかでない。宝暦初(1751~)年壮年で没した。句集は見当たらないが二世を育てている。辞世句を見ると、洒脱な人であったようだ。

 

 

径童〔二世〕 けいどう 〔佐々木──〕

一三五……辞世

故郷(こきょう)への晴れや卯月の花鳥も

天明七(1781)年四月七日没、享年七十

 俳人で、京都の人。初世に入門し、師の没後に二世を継いだ。この辞世句、あたかも酩酊しつつ浮かれ半分に吟じた様子が窺え、終焉を告げるには凡庸な作に終わっている。

 

 

月舟 げっしゅう 〔原──〕

一三六……病床遺句

病める身の呼ばるるまでや日南(ひなた)ぼこ

大正九(1920)年十一月十四日没、享年三十一

 俳人で、東京市出身。新聞・雑誌の投句選者として活躍した。「ホトトギス」寄りの写生句を得意とし、「リリリリリチチリリチチリリと虫」なるオノマトペ句をも作っている。

 

 

月草 げっそう 〔伊藤──〕

一三七……絶句

   八月十五日玉音をききつつ

秋暑くあめつち()ゆる思あり

     昭和二十一年四月十二日没、享年四十七 

俳人で、長野県出身。俳諧古句研究家でも知られ、作風も格調を重んじている。玉音放送(昭和二十年八月十五日)を主題とした数ある句の中で、高踏性という点で最高位にある一句である。

 

 

月斗 げっと 〔青木──〕

一三八……辞世

臨終の庭に鶯鳴きにけり

          昭和二十四年三月十七日病没、享年六十九 

俳人で、大阪市出身。虚子に勧められ『ホトトギス』選者となった大阪俳壇の雄である。掲出の一句は、具体的でわかりやすく、これこそ辞世句のお手本として広くお勧めしたい。

 

 

月嶺 げつれい 〔松田──〕

一三九……辞世

白雪にすべり落ちけりまつしぐら

大正八(1919)年一月二十二日没、享年四十

 俳人で、山形県出身。曹洞宗大学卒の印度哲学者。俳句は大須賀乙字に手ほどきを受けた。観念的・抽象的な言葉を避けて、絵に描いたような巧みな描写句は達者の証拠だ。

 

 

 げん 〔斎藤──〕

一四〇……遺句

死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒

昭和五十五年五月八日病没、享年六十五

 俳人で、北海道函館市出身。遺句集『無畔』には「死」をテーマにした作品がそこここにちりばめられ、「自ら生死の不思議を見つめた俳人」との評もうなずける。

 

 

剣狂児 けんきょうじ 〔大塚──〕

一四一……辞世

人生に八年貸して花の旅

昭和二十二年五月十九日病没、享年四十一

 新川柳作家で、埼玉県出身。川越市で歯科医を開いていた。人生五十年といわれた時代の名残り、数えで「八年貸して」供花に埋もれた無念さがひしと伝わってくる。

 

 

玄々一 げんげんいち 竹内(たけのうち)──〕

一四二……辞世

朝がほやしぼめば又の朝ぼらけ

文化元(1804)年八月二十五日没、享年六十三

 俳人で、播州高野の人。幼くして盲目になり、聞き書の著『俳家奇人談』三冊は人気作で妻に書かせたもの。花鳥風月を目明き以上鮮烈に句に映し出す名手であった。

 

 

原松 げんしょう 〔加藤──〕

一四三……辞世

墓原や秋の蛍の二つ三つ

寛保二(1742)年一月五日没、享年五十八

 禅僧の俳人で、江戸の人。其角に学び、京都で俳諧点者となる。亡くなった日、妙心寺の僧が訪れ骸骨の賛を乞われた原松は、右の辞世を吟じ終えるや、筆を投げうって息絶えたという。

 

 

弦太朗 げんたろう 〔光武──〕

一四四……病床遺句

生卵病めばかなしき咽喉仏

一四五

人の死へ書く一片の診断書

昭和五十六年三月四日病没、享年六十三

 新川柳作家で、佐賀県出身。医学博士、軍医等を経て開業医に。戦後、柳壇に投稿して作品および柳論を発表した。二句ともに病の床で吟じたもの、冷徹な目で自身の最期を見つめている。

 

 

剣珍坊 けんちんぼう 〔佐瀬──〕

一四六……遺句

七転び迄で草臥仕舞也

昭和十二年三月二十六日没、享年五十

 新川柳作家で、千葉県出身。大正川柳の発展に寄与し「柳壇の大番頭」といわれた。句は壮年の折ふと死を意識し、未来を見通して作った辞世句だといわれている。

 

 

源義 げんよし 〔角川──〕

一四七……辞世

後の月雨に終わるや足まくら

昭和五十年十月二十七日病没、享年五十八

 俳人で、富山県出身。国文学者、角川書店の創業者。俳句は折口信夫に師事したゆえか、民俗学色を呈した難解句が多い。辞世、孤高の姿勢に徹した重厚さが味わえる。

 

 

 

梧逸 ごいつ 〔遠藤──〕

一四八……絶句

朝日わが寝床を包む明の春

平成元年十二月七日没、享年九十五

 俳人で、岩手県出身。官僚の出で、地元前沢の名誉町民である。晩年は田舎の好々爺といった印象の人。自ら創刊した俳誌『みちのく』の平成二年三月号所収の絶句である。

 

 

香以 こうい 〔細木──〕

一四九……遺句

おのれにもあきての上かやれ芭蕉

明治三(1870)年八月十日没、享年四十五

 俳人・狂歌師で、江戸の人。狂号を「香以山人」と称した。江戸の粋人連中「十八大通」でも名の知られた一人だが、道楽が過ぎて破産。狂歌でなく句で最後を飾ったところが彼らしい。

 

 

好啓 こうけい 〔田中──〕

一五〇……辞世

枯華微笑 仏とおなじ息をする

平成十年三月一日没、享年八十四

 新川柳作家で、京都府福知山出身。川柳ではNHK学園の講師なども勤めた。句意の練達といい撰語の妙といい、これぞプロの作品、といえる辞世である。

 

 

紅山 こうざん 〔池上──〕

一五一……辞世

是非もなや名はあげぬれど草の露

生没年未詳

 俳人で、播州赤穂の人。四十七士の萱野三平の実兄で、旗本の水野家に仕えた武士。没したのは享保頃(1716~36)か。名を挙げた弟に先立てたれた悔しさがにじんでいる。

 

 

紅石 こうせき 〔島──〕

一五二……遺句

塹壕にいとしや命抱いて寝る

昭和十三年九月八日戦死、享年三十一

 新川柳作家で、横浜市出身。家業の米穀商のかたわら川柳を嗜む。召集で戦地に赴いても作句を怠らず、いくつもの戦地吟を発表し「戦場詩人」の愛称を付けられた。戦場吟の名句である。

 

 

紅葉 こうよう 〔尾崎──〕

一五三……絶句

紅葉は露のひぬまぞおもしろき

明治三十六年十月三十日病没、享年三十七

 小説家で、江戸の人。人ぞ知る明治の文豪である。小説執筆のかたわらの作句は文字通り「余技俳句」であった。それでいてこの辞世句、自号を巧みに織り込み不滅の名作にしている。

 

 

紅緑 こうろく 〔佐藤──〕

一五四……遺句

ものぐさといふは気儘や家頭巾

昭和二十四年六月三日没、享年七十六

 作家・俳人で、青森県弘前市出身。虚子と親交を結びながら作句の手ほどきを受けた。ただ掲出の遺句は、いわゆる説明句になっており、この人の力量を半減させているのが残念だ。

 

 

五休 ごきゅう 〔岡本──〕

一五五……辞世

陽炎(かげろふ)や其の更衣(かへごろも)遠からず

明治二十四(1891)年八月二十四日没、享年六十九

 俳人で、伊勢の人。江戸に出て花街に住みつき、句作に励んだ。没後門人が、向島三囲(みめぐり)神社境内に右の句碑を建てた。「更衣」とは経帷子(死装束)を身にまとうことを指している。

 

 

古郷 こきょう 〔村山──〕

一五六……絶句

梅雨の夜やうやくに二十句となりぬ

昭和六十年八月一日病没、享年七十七

 俳人で、京都市出身。亡くなる数日前、闘病先の病院で句作の依頼を引き受けた後の吟である。几帳面な性格がうかがえ、淡々とした物静かな様子がかえって哀感を誘う。

 

 

黒露 こくろ 〔山口──〕

一五七……辞世

今はまで源氏もとしもみをつくし

明和四(1767)年十二月十日没、享年八十二

 俳人で、江戸の人。婿入り先で放蕩の末破産し、江戸を追い出された。改心して駿河と甲府の地で句作に励む。国学にも造詣のあったことが辞世にうかがえる。

 

 

伍健 ごけん 〔前田──〕

一五八……遺句

片言の如くノリトはうやうやし

昭和三十五年二月十一日病没、享年七十

 新川柳作家で、高松市出身。松山市に移り伊豆鉄道の社員に。大正期、愛媛柳界の第一人者とうたわれた。右掲句に見るように、万人に理解され愛されるやさしい作風に徹した。

 

 

胡枝花 こしか 〔高木──〕

一五九……辞世

見かえれば雨ばかりなり(つばくらめ)

                                    昭和十八年四月二十八日戦死、享年四十四

 新川柳作家で、東京市出身。読売新聞社員、東京の柳壇で活躍。昭和十八年、内閣より海軍官報の編集責任者を命じられセレベス島に赴任、上陸直前に米潜水艦の攻撃を受け散華した。

 

 

孤悠 こゆう 〔大竹──〕

一六〇……遺句

句の道の子等を支へに老の冬

昭和五十四年十一月十八日病没、享年八十四

 俳人で、茨城県日立市出身。終始一貫して季語を超越した「季感」を持論として主張した。この一句、夭折したお嬢さんを悼みつつ、真摯に、言葉を飾らずに吟じている。

 

 

五所平之助 ごしょへいのすけ 

一六一……遺句

花おぼろほとけ誘ふ散歩道

昭和五十六年五月一日病没、享年七十九

 映画監督で、東京市出身。「五所亭」の号を持つ俳人としても知られる。晩年は静岡県伊豆に隠棲し、他界する数日前に右掲の一句を残している。死に瀕しても風雅な心を失わない人であった。

 

 

敲石 こせき 〔中村──〕

一六二……辞世

ちぎりおく松や幾とせわかみどり

天明八(1788)年七月没、享年九十五

 連歌師で、武州の人。埼玉郡谷原村の村長をつとめた。元禄九年生れではないという説もあり、享年は疑問である。辞世句を見る限り、かなり句作慣れしていることがわかる。

 

 

後川 ごせん 〔小寺──〕

一六三……辞世

年の内の春にもあへぬ命かな

寛政十一(1799)年二月没、享年未詳

 俳人で、金沢の人。父も俳人、希因。俳諧は父および蝶夢に学んだ。「年の内の春」をどう解釈したらよいのか。一見やさしそうで難しい句である。

 

 

孤村 こそん 柳下(やぎした)──〕

一六四……辞世

芙蓉咲く日夕べに死ぬるかな

大正九(1920)年八月三十一日没、享年三十八

 俳人で、東京市出身。伝は多く残されてない。辞世句において、「日」をどう読むか。では明らかな字足らとなり論外、あしたでよいのだろうか。

 

 

後藤栖子 ごとうせいこ 

一六五……病床遺句

病みぬいて鎮守の森の木の実降る

平成二十年一月二日病没、享年六十六

 日本画家・俳人で、山形県出身。二十六歳で乳癌を告げられて以来四十年に及ぶ記録破りの闘病生活を続けたという。こうした人生を知ると、生半可な辞世評など書く気にならなくなる。

 

 

護物 ごぶつ 〔谷川──〕

一六六……辞世

啼もせで蓼に果つるか蓼の虫

弘化元(1844)年七月二十八日没、享年七十三

 俳人で、伊勢の人。長じて江戸に居を構え、俳諧中心に注釈書や研究書などの著作を多く物した。蓼は住みにくい浮世の暗示で、ちっぽけな自分を蓼食う虫に見立てた。

 

 

呉陵軒 ごりょうけん 

一六七……辞世

雲晴れて誠の空や蝉の声

天明八(1788)年五月二十九日没、享年未詳

 旧柳句吟者で、江戸の人。明和二(1765)年、川柳評万句合から選んだ句で『誹風柳多留』をまとめて板行した。失礼ながら、撰者としては一流でも、実作となると?が付く。

 

 

言水 ごんすい 〔池西──〕

一六八……遺句

行く先も又行く先もでくのぼう

享保七(1722)年九月二十四日没、享年七十三

 俳人で、奈良の人。有名な「木枯の果はありけり海の音」の一句が名句と評され、「木枯の言水」の異名を高めた。この一句、じっくり鑑賞すると木枯句の類型であることがわかる。

 

 

 

西鶴 さいかく 〔井原──〕

一六九……辞世

浮世の月見過ごしにけり末二年

元禄六(1693)年八月十日没、享年五十二

 物語作者・俳人で、大坂の人。好色物等で有名、俳諧も日に四千句を吟じた。これだけの異才が死に際を看取る人もなく淋しく逝った。西鶴、病を覚えた晩年、つれない世の中に見切りをつけたような句だ。

 

 

彩史 さいし 神生(かみお)──〕

一七〇……病床遺句

妻の血液()われには()はず冴返る

昭和四十一年六月十七日病没、享年五十四

 俳人で、東京市出身。自ら「ロマンの残党」を称するように、甘美な抒情句が目に付く。この一句、いかが評価したらよいのか。辞世句の観点で見た場合、論評は避けて通りたい作品だ。

 

 

在色 ざいしき 〔野口──〕

一七一……辞世

墓の霜当座斗りぞ白宇留里

享保四(1719)年九月十五日没、享年七十七

 俳人で、遠州の人。材木商で財を成し、江戸へ出て芭蕉の経済的後援者となる。晩年は故郷の草崎村に帰り、悠々自適の生活に。句にある「白宇留里」とは、白瓜の訛語か。

 

 

西武 さいむ 〔山本──〕

一七二……辞世

夜の明けて花にひらくや浄土門

延宝六(1678)年二月十八日没、享年七十三

 俳人で、京都の人。綿布商のかたわら、松本(さだ)(のり)門下で俳諧を学ぶ。四十九歳のとき俳諧点者宗匠となった。宗門辞世のよくある特徴として、やや押し付けがましいのが気になる。

 

 

さかえ 〔赤城──〕

一七三……遺句

未知のふかさへ寒暁みひらく子の瞳

昭和四十二年一月二日没、享年八十三

 俳人で、広島市出身。病院経営も、病身が続いた。社会性の高い民衆句・リアリズム句に傾倒。この遺句も、心象が鮮やかだけに、修辞の衒いすぎが目障りでならない。

 

 

坂野積善 さかのせきぜん 

一七四……絶句

鶯に見舞ひうけたり枕元

明治四十(1907)年二月四日没、享年八十一

 演劇評論家で、江戸の人。自らも役者や劇場興行を手がけ「演劇の生字引」といわれた。洒々落々な人柄が、やさしくわかりやすい吟じ口の、最期を飾ったこの一句によく現れている。

 

 

左言 さげん 〔井関──〕 

一七五……絶句

雪折をはかなき占と知る夜かな

天明九(1789)年閏四月九日没、享年未詳

 俳人で、摂州池田の人。酒造を業とした。几董に俳諧を学ぶ。師とは天明八年春に吉野に吟遊した仲で、その十月に几董が没すると深く嘆き右の一句を贈り、彼も後を追うように翌年死去した。

 

 

小波 さざなみ 〔巌谷──〕

一七六……遺句

あれあれと狐指さす枯野かな

一七七……絶句

極楽の乗物や是桐一葉

昭和八年九月五日没、享年七十三

 童話文学者・俳人で、東京市出身。遺句・絶句ともにひょうきんではあるものの、本来俳句の諧謔を軸にツボを心得た作である。児童文学の雄だけに事の本質をやさしく表現できる人であった。

 

 

砂人 さじん (えびす)──〕

一七八……辞世

岐路いくたびわが生涯も風の中

昭和五十四年一月十日没、享年七十

 新川柳作家で、大阪市出身。柳誌『番傘』主幹をつとめた。この辞世、切字こそないが俳句としても通用する心象を描いており、十七字の生涯回顧に淡々とした想念が込められている。

 

 

沢田正二郎 さわだしょうじろう 

一七九……遺句

何処(いずこ)かで囃子の声す耳の(やみ)

                      昭和四年三月四日没、享年三十八

 新国劇俳優で、東京市出身。大阪弁天座で「月形半平太」が大当たりした。東京の新橋演舞場で風邪をこじらせ、さらに中耳炎が悪化して命を奪われた。もの哀しい一句である。

 

 

沢村宗十郎〔初代〕 さわむらそうじゅうろう 

一八〇……辞世

元朝のこころわするな死出の旅

宝暦六(1756)年一月三日没、享年七十二

 歌舞伎役者で、江戸の人。俳名を訥子といい、当代一の名優とうたわれ名義八代の祖である。辞世、正月に立てた誓いもむなしく、黄泉興行への自戒としている。

 

 

沢村宗十郎〔三代〕 さわむらそうじゅうろう 

一八一……辞世

あぢきなや浮世の人に別れ霜

享和元(1801)年三月二十七日没、享年四十九

 歌舞伎役者で、江戸の人。二代の次男である。辞世作りは初代の意を踏襲したものであろう。凡作だが、平易なのは辞世の道に叶っている。

 

 

沢村宗十郎〔四代〕 さわむらそうじゅうろう 

一八二……辞世

雪道やあとへひかるゝ(さか)草鞋

文化九(1812)年十二月八日病没、享年二十九

 歌舞伎役者で、江戸の人。三代の長男である。奥州や名古屋など地方巡業で江戸歌舞伎を広めた。辞世は、夭折の運命を呪ったもので、父の作句レベルを超えている。

 

 

沢村宗十郎〔五代〕 さわむらそうじゅうろう 

一八三……辞世

きえる霜此世の役のをはりかな

嘉永六(1853)年十一月十五日病没、享年五十二

 歌舞伎役者で、江戸の人。大坂興行での「お染七変化」で当りを取った。名古屋巡業中に病で倒れ、上の辞世を残す。茶の湯や俳諧を嗜み、役者らしい辞世に好感がもてる。

 

 

山雨楼 さんうろう 〔福田──〕

一八四……辞世

何負けてたまるか目に見えぬ菌

昭和二十八年一月十三日病没、享年六十九

 新川柳作家で、岡山県出身。国鉄職員から国立国会図書館職員に。長年にわたり肺結核との闘病生活を続け、掲出句もその血のにじむような記録の一端を飾っている。

 

 

三鬼 さんき 〔西東──〕

一八五……病床遺句

春を病み松の根つ子も見飽きたり

昭和三十七年四月一日病没、享年六十一

 俳人で、岡山県出身。病院勤務の歯科医のかたわら句作を始めた。亡くなる前年、胃癌の摘出手術を受けている。句中「松の根つこ」とは、しぶとく醜い病魔の暗示であろう。

 

 

三川 さんせん 〔上原──〕

一八六……病床遺句

秋近き風が吹くなり橋の上

明治四十(1906)年六月二十五日病没、享年四十二

 俳人で、信州の人。故郷で教員をつとめた。明治三十一年に『新俳句』を共著している。この頃から肺を患い、北里病院で長い療養生活を送り、この句等を遺した。

 

 

三汀 さんてい 〔久米──〕

一八七……辞世

紅椿敗けずに置いて婦人帽

昭和二十七年三月一日没、享年五十七

 小説家・劇作家で、長野県出身。三汀は久米正雄の俳号である。都会感覚の洒落た句風に彼の異才が見える。この辞世句にしても、よもや辞世?と想わせる鮮烈なイメージが塗り込められている。

 

 

山頭火 さんとうか 〔種田──〕

一八八……絶句

春の山からころころ石ころ

昭和十五年十月十一日酔死、享年五十八

 俳人で、山口県出身。近代随一の放縦な吟遊詩人として知られる。句風も天衣無縫の自由律で、しかも一句一句に並みの俳人が束になっても太刀打ちできない文彩世界を構築している。自由律派はろくな句を残さないが、この人だけは例外だ。

 

 

三箱 さんはこ 〔座禅堂──〕

一八九……辞世

真ツ直に跡ふり向かず浄土道

安政五(1858)年夏病没、享年未詳

 狂句師で、江戸の人。狂句(川柳の別称)やモノハ付の点者として知られる。句作も今でいう時事川柳を手がけた。没年に大流行したコロリ(コレラ)であっさり逝ってしまった。

 

 

杉風 さんぷう 〔杉山──〕

一九〇……絶句

瘠顔に団扇をかざし絶し息

享保十七(1732)年六月十三日没、享年八十六

 俳人で、江戸の人。蕉門十哲のうちでも、芭蕉が「東三十三カ国の俳諧奉行」と評した実力者。辞世は臨終の自分自身を予見して写生した、身の毛がよだつような句である。

 

 

三遊亭円朝 さんゆうていえんちょう 

一九一……辞世

耳しいて聞きさだめけり露の音

明治三十三(1900)年八月十一日没、享年六十二

 落語家で、江戸の人。「三遊派の大師匠」といわれた名人、怪談噺で有名に。晩年、進行性難聴で悩み、辞世も来るべき日のために以前から用意してあったという。

 

 

三遊亭円遊 さんゆうていえんゆう 

一九二……辞世

ちりぎはも賑やかでありはなの山

明治四十(1907)年十一月没、享年未詳

 落語家で、江戸の人。「ステテコの円遊」といわれ、おどけ仕草で寄席の人気者になった。辞世にも満都に笑いを振りまいた芸人の自負が満ち溢れている。

 

 

 

只丸 しがん 〔弄松閣──〕

一九三……辞世

陸を思ふ鴨やなにはの水ばなれ

正徳二 (1712)年十一月二日没、享年七十三

 俳人・僧侶で、京都の人。二条本誓寺内福昌庵の住職から浪花谷町の欣浄寺住職に。「弄松閣」は冠称用の俳号である。辞世句は、俗世を離れ彼岸へ飛び立つ鴨になぞらえた自分を吟じた。

 

 

子規 しき 〔正岡──〕

一九四……病床遺句

糸瓜咲いて淡のつまりし仏かな

明治三十五(1902)年九月十九日病没、享年三十六

 俳人で、愛媛県出身。俳句革新運動の旗振りであった。肺結核で死去する際、他にも自己破滅型の類題二句を残している。

 をとゝひの糸瓜の水も取らざりき

 淡一斗糸瓜の水も間にあはず

 

 

梓月 しげつ 〔籾山──〕

一九五……病床遺句

夜を春にねらるるはずの注射かな

昭和三十三年六月二十八日病没、享年七十八

 俳人で、東京市出身。飛脚問屋に入婿し、のち虚子から書店を譲り受け経営者に。文芸書中心に扱った籾山書店である。掲出句には、死を穏やかに迎えたいとの希求が漲っている。

 

 

自在庵祇徳〔初世〕 じざいあんぎとく 

一九六……辞世

空さへてもときし道を帰るなり

宝暦四(1754)年十一月二十四日没、享年未詳

 俳人で、江戸の人。墓のある押上(墨田区)大雲寺辺では宗匠として有名だったらしいが、伝は逸散して残っていない。この辞世には引導僧の説法のようなやさしさが溢れている。

 

 

紫水 しすい 〔北田──〕

一九七……辞世

涼しさや山是山水是水

昭和十九年十一月十八日没、享年七十三

 実業家・俳人で、千葉県出身。東大卒、ドイツへ留学し彼地出経済博士号を取得し、帰国してからは実業家に。掲出はおよそ辞世らしくない句で、暑さしのぎの縁台吟といったところ。

 

 

地蔵尊 じぞうそん 〔松原──〕

一九八……病床遺句

癒えたしと泪眼にする小夜時雨

昭和四十八年十月七日病没、享年七十六

 俳人で、富山県出身。仕事は証券マンとして活躍した。この遺句、生に決別しなければならない間際の限りないセンチメンタリズムを感じさせる。句体の整えも秀逸である。

 

 

十口 じつこう 〔広瀬──〕

一九九……絶句

親類へ医者がさゝやく袖しぐれ

寛政三(1791)年七月二十一日没、享年六十九

 俳人で、京都の人。俳諧関連の著作を主として活躍した俳匠である。掲出は、自分の臨終を見越して描いた客観句で、「袖しぐれ」の締めが情景を活写じつに見事だ。

 

 

柴田白葉女 しばたはくようじょ 

二〇〇……遺句

藤棚の下にひとりの浄土かな

昭和五十九年年六月二十五日没、享年七十七

 俳人で、千葉県出身。亡くなったのは、市川市の自宅で強盗に襲われ殺害されたため。己の身に降りかかる惨事を予見すべくもなく、静心のまま成仏を願っていただけに、痛ましさが募る。

 

 

四明 しめい 〔中川──〕

二〇一……絶句

遺言書けば風薫り涙滂沱なり

大正六(1917)年五月十六日病没、享年六十八

 俳人で、京都市出身。学芸畑を歩んだ人。京都の風物を愛した句作が多い。掲出は、夭折した愛娘の追悼句会に出句されたもの。「滂沱(ぼうだ)」という耳慣れない漢語使いは明治流行の残骸だろう。

 

 

若沙 じゃくさ 〔中村──〕

二〇二……遺句

暦日の膏雨降りそめ水草生ふ

昭和五十三年一月二十八日没、享年八十四

 俳人で、愛知県出身。職業は外科医師。心の奥襞まで抉り出すような句風が目立つ。長雨続きで辟易した気持ちが「水草生ふ」にほどよく収斂されている。

 

 

雀郎 じゃくろう 〔前田──〕

二〇三……遺句

一生を一間足りない家に住み

昭和三十五年一月二十七日病没、享年六十二

 俳人で、栃木県出身。NHKラジオ俳句講座で指導放送した実力者。「俳諧の平句の心持に立って川柳する」が持論であった。この遺句も、狭いながらも楽しい我が家、を主題としている。

 

 

 しゅう 〔西垣──〕

二〇四……遺句

夏ぶとん折り腹の上父の歳

昭和五十三年年八月一日病没、享年五十九

 俳人で、大阪市出身。国文学者・学芸員。俳句と詩を両立させようと努力した人として定評がある。自分も敬愛する父の歳まで生きてきた、という感慨が腹掛け夏ぶとんに染み付いている。

 

 

秋桜子 しゅうおうし 〔水原──〕

二〇五……絶句

紫陽花や水辺の夕餉早きかな

昭和五十六年七月十七日病没、享年八十八

 俳人で、東京市出身。職業は産婦人科医。『ホトトギス』系の重鎮であった。虚子の写生句を批判し、喧嘩別れしている。「水辺」とは千葉県の潮来を指し、夕闇迫る田園風景を点描したもの。

 

 

周魚 しゅうぎょ 〔村田──〕

二〇六……辞世

花生けて己れ一人の座を悟る

昭和四十二年四月十一日病没、享年七十七

 新川柳作家で、東京市出身。薬学士『薬業の友』主筆のかたわら、新興川柳の波に押し流されることなく伝統川柳の牙城を守りぬいた。辞世は、この生き様にふさわしい名吟である。

 

 

舟月 しゅうげつ 〔石原──〕

二〇七……辞世

秋旦わが命運を尊とめる

昭和五十九年九月十三日病没、享年九十二

 俳人で、山梨県出身。産業組合の理事等を歴任。飯田蛇笏の門人、格調を重視した句作を旨とする。辞世句は明治気骨の人らしく、重々しい漢語調で吟じている。

 

 

秋色 しゅうしょく 〔小川──〕

二〇八……辞世

見し夢のさめても色の杜若

享保十 (1725)年四月十九日没、享年五十七

 女流俳人で、江戸の人。実名は小川おあき。江戸小網町で大坂屋という菓子屋の娘である。名句「井戸端の桜あぶなし酒の酔」でつとに知られる。華麗で線細な花の散り際を思わせる一句だ。

 

 

楸邨 しゅうそん 〔加藤──〕

二〇九……遺句

青きものはるかなるものいや遠き

昭和平成五年七月三日病没、享年八十八

 俳人で、東京市出身。教員のかたわら句作に励んだ。辞世句は、入院先病院の看護婦に贈ったものという。死の世界の入口を透き通るほど見つめたイメージ句である。

 

 

秋風 しゅうふう 〔三井──〕

二一〇……辞世

夕けふり身は立枯のみねの松

享保二(1717)年九月三日没、享年七十二

俳人で、京都の人。江戸時代初期の豪商として鳴らした。俳諧は西山宗因に学ぶ。辞世句に関し「此秋この──」と表記している文献もあるが、そんな座りの悪い句を吟ずるわけがない。

 

 

春草 しゅんそう 〔長谷川──〕

二一一……絶句

すずしさや命を聴ける指の先

昭和九年九月十一日病没、享年四十五

 俳人で、東京市出身。銀座の割烹「はせ川」主人。俳句は水巴に教えを乞い、旦那芸を超えたレベルにある。辞世、板前の命といえる指先の感覚により、逝く日の近いことを自覚している。

 

 

春帆 しゅんぱん 〔富森──〕

二一二……辞世

寒鳥の身はむしらるゝ行衛哉

元禄十六(1703)年二月四日切腹、享年三十四

 俳人で、播州赤穂の人。四十七士の一人で、禄三百石を拝す。俳諧は大高源吾(子葉=次項)に学んだ。無念さのひしと感じられる句ではあるが、仇討ち成就の喜びも隠されている。

 

 

子葉 しよう 〔大高──〕

二一三……辞世

梅でのむ茶屋もあるべし死出の山

元禄十六(1703)年二月四日切腹、享年三十二

 俳人で、播州赤穂の人。四十七士の一人で、二十五石五人扶持の藩士。俳諧は沾徳に学んだ。辞世句から、遊山にでも出かけるように、覚悟はすっかり出来た上で討入りに加わっている。

 

 

鐘一路 しょういちろ 〔甲田──〕

二一四……遺句

汗一念大山詣われのみかは

昭和五十五年五月十四日急死、享年七十五

 俳人で、千葉県出身。東京市職員・中央公論社役員などをつとめた。出勤途上、地下鉄構内で急逝冠不全で急逝。大山詣は富士山信仰の講連、なにやら面妖な命運を漂わせた句だ。

 

 

松後 しょうご 〔佐々木──〕

二一五……辞世

比叡もけふ雲なき空や更衣

寛政十(1798)年四月三日没、享年六十七

 俳人で、備前岡山の人。富商で藩に貢献するところ大きく、ために名字帯刀を許された。俳諧はじめ茶道、香道にも手を染めた。

更衣(かえごろも)」は経帷子(死装束)のこと、「比叡」は寺院聖地を指す。

 

 

筲人 しょうじん 〔阿部──〕

二一六……辞世

九旬の無為をさげすみ雁帰る

昭和四十三年八月九日病没、享年六十八

俳人で、東京市出身。句作の保守性を打破したような作品で知られ、辞世句にもその片鱗が覗える。しかし後世人の鑑賞に備えて、難解すぎるのは辞世句向きでないと知り置く必要がある。

 

 

丈石 じょうせき 〔早川──〕

二一七……辞世

極楽に誕生の日はけふなれや

安永八(1779)年七月二十一日没、享年八十五

 俳人で、京都の人。俳諧関係書を数多く手がけた俳匠である。剃髪して宗順と号した。坊さんらしく、極楽で呱々の声を上げるのだと辞世句で張り切っている。

 

 

城太郎 じょうたろう 〔八幡──〕

二一八……遺句

旅おもふわれも法師や西行忌

昭和六十年病没、享年七十二

 俳人で、神奈川県出身。禅宗の僧侶。俳句は草城門で学んだ。今日寺僧のなかでは珍しく私欲がなく、多くの俳人等に慕われた。ここにいう「旅」とは、文字通り西方浄土への旅路を指す。

 

 

松浜 しょうひん 〔岡本──〕

二一九……絶句

門の歯朶三日の土に落ちてあり

昭和十四年八月十六日没、享年六十

 俳人で、大坂の人。若いとき『ホトトギス』誌の会計横領という不祥事を起こしたが、よく立ち直って句作に励んだ。掲出は難解句だが、まだ死を意識しない絶句ゆえ致し方なかろう。

 

 

松鱸 しょうろ 〔板倉──〕

二二〇……辞世

それ爰が憚りと()る雪達磨

嘉永六(1853)年十二月二十六日没、享年未詳

 狂句作者で、飛騨高山の人。長じて江戸へ出て町医者を開業、傍ら二世川柳門人となった。のち高山に戻り、狂句を鼓吹した。狂句とはいえ誹風そのもので、読んで愉快な自嘲の句である。

 

 

常和 じょうわ 下郷(しもさと)──〕

二二一……絶句

如月やあたらしき笠きて帰る

天明五(1785)年二月二日急死、享年七十一

 俳人で、尾張鳴海の人。俳諧は横井也有について学んだ。二月一日、隠居所で常和七十の賀の宴を子息が催し、右の一句を物した。しかしその翌日急死、脳卒中か食中毒にやられたか。

 

 

白雄 しらお 加舎(かや)──〕

二二二……絶句

鶏の(はし)に氷こぼるゝ菜屑かな

寛政三(1791)年九月十三日没、享年五十四

 俳人で、信州上田の人。生涯を独身で通した孤高の蕉風俳人である。それにしてもこの絶句、伝統の「さびのこころ」を懐深く遵守し、かつ、鮮やかに描ききっていることよ。

 

 

二柳 じりゅう 〔勝見──〕

二二三……遺句

うかうかと生てしも夜の蟋蟀(きりぎりす)

               享和三(1803)年三月二十八日没、享年八十一

 俳人で、加賀山中の人。蕉風の師である希因らに学び、四国を中心に吟遊行脚した。自分の一生を振り返り、寒さにおののくコオロギのようだったと自省を込め述懐している。

 

 

二呂三 じろぞう 〔深山──〕

二二四……辞世

まだ続くよろこび今日の握手する

昭和五十五年三月十五日没、享年七十九

 新川柳作家で、東京市出身。幼児から伯父に俳句の手ほどきを受け、長じて新川柳の世界に転向。老衰で亡くなったそうで、じわじわと迫り来るあの世行きを半ば茶化しながら迎えたようだ。

 

 

 しん 〔高木──〕

二二五……辞世

おいでおいでよと幽霊の長廊下

平成五年二月二日没、享年九十二

 新川柳作家で、東京市出身。日本画を嗜んでいたが、父の角恋坊の死をきっかけに柳壇入りした。昭和二十九年「全国奇人会」が開かれたさい、柳界の奇人に選ばれた。なるほど、の柳句だ。

 

 

新蝉 しんぜん 〔大村──〕

二二六……遺句

生甲斐のなき世死に甲斐更になし

昭和三十年没、享年七十

 新川柳作家で、鳥取県出身。柳界の世話役として先輩を立て後輩の面倒見が良く人望があった。そうした几帳面な人にとって、不条理が大手を振って歩くこの世は住みにくかったに違いない。