水国 すいこく 〔伊勢屋──〕

二二七……辞世

さ月来ぬ人も柳に倦みし頃

享保十九(1734)年五月八日没、享年五十三

 俳人で、江戸の人。家業は浅草大門通りの金物商。吉原が庭のような場所ゆえ、三浦屋の七代目高尾と浮名を流すなど放蕩を尽くした。「柳に倦みし」は往く身の花柳への名残である。

 

 

水巴 すいは 〔渡辺──〕

二二八……遺句

送り火のあとの月夜や松落葉

昭和二十一年八月十三日病没、享年六十四

 俳人で、東京市出身。父は画家、良家の出であった。俳句は鳴雪門人、虚子に師事したこともある。終戦間際に神奈川県鵠沼の疎開先で吟じた句だが、運命の行く末を暗示している。

 

 

杉田久女 すぎたひさじょ 

二二九……絶句

鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな

昭和二十一年一月二十一日没、享年五十五

 俳人で、鹿児島県出身。『ホトトギス』派の俳壇で才能を現した。掲出句は句集『菊ケ丘』最後の句。晩年は更年期うつ病で保養院入りしていた状態で、句作は見当たらない。

 

 

素十  すじゅう 〔高野──〕

二三〇……絶句

わが星のいづくにあるや天の川

昭和五十一年十月四日病没、享年八十三

 俳人で、茨城県出身。奈良医大教授などを歴任し、句は虚子の門を叩いた。句は昭和初期「純写生派」の旗手として活躍、壮大なコスモスに裏付けられた科学者らしい客観写実が輝いている。

 

 

 

静雲  せいうん 〔河野──〕

二三一……辞世

今年また俳句極楽地獄かな

昭和四十九年一月二十四日没、享年八十八

 俳人で、福岡市出身。時宗の学監のかたわら句作に励み、遊行の俳句詠みとして行脚を続ける。生前各地に建てられた句碑は百基を超える。年頭、句作を楽しみにしていた矢先の逝去であった。

 

 

井月  せいげつ 〔井上──〕

二三二……遺句

降るとまで人には見せて花曇

明治二十(1887)年三月十日没、享年六十六

 俳人で、越後長岡の人。信濃を中心に襤褸姿で遊行したことから「乞食井月」とささやかれた。行き倒れ姿を発見され、一杯の振舞い焼酎を口にして逝った。心景の美しい遺句である。

 

 

省二  せいじ 蛭子(えびす)──〕

二三三……辞世

生死関頭法師蝉音痴らし

昭和三十三年八月十六日没、享年七十

 俳人で、名古屋市出身。若くして古川柳に耽溺し、斯界の権威者となる。「貧乏にあきあきした日臍をみる」のような面白句を残した反面、掲出句のような凝りすぎの辞世を作っている。

 

 

清秋  せいしゅう 〔本多──〕

二三四……辞世

雨はれて蓮に真月の月夜かな

文化十四年五月十七日没、享年九十四

 俳人で、伊勢神戸の藩主。晩年は江戸高輪の下屋敷に隠居し俳諧三昧の生活に。辞世の一句、おっとりとした句体である。この人、長月庵の別号を持つが、「真月」は洒落だろうか。

 

 

青々  せいせい 〔松瀬──〕

二三五……絶句

月見して如来の月光三昧や

昭和十二年一月九日没、享年六十九

 俳人で、大阪市出身。『日本新聞』等に投句し頭角を現す。俳号に恥じず、さわやかな句をたくさん残している。没月の五日、仏典『華厳入法界品』を読み感銘を受け右掲句を吟じた。

 

 

青邨  せいそん 〔山口──〕

二三六……絶句

大寒の壁本の壁ひしひしと

昭和六十三年十二月十五日没、享年九十六

 俳人で、盛岡市出身。工学博士号を持つ鉱山学者である。オノマトペや音韻の冴えを示す句が少なくない。右の絶句にしても、何気ない叙景のうちに高度の文彩技巧が施されている。

 

 

青畝  せいほ 〔阿波野──〕

二三七……絶句

この鏡少しかしげば月満ちぬ

平成四年十二月二十二日没、享年九十三

 俳人で、奈良県出身。虚子に実力を認められ、『ホトトギス』の投句選者になった。子供が鏡をいたずらして新発見したときのように、ご老体らしからぬ新鮮な息吹が感じられる。

 

 

青峰  せいほう 〔嶋田──〕

二三八……絶句

一舟を窓にしてひたに黙ふかし

昭和十九年五月三十一日没、享年六十二

 俳人で、三重県出身。新興俳句の旗頭として活躍中の昭和十六年、時局に反するという理由で官憲に検挙された。拘置所で喀血、病態を悪化させて死去。掲出は『南総漁村断章』最終句。

 

 

瀬川菊次郎〔初代〕  せがわきくじろう 

二三九……遺句

此時に身のきはまりや夜の霜

宝暦六(1756)年閏十一月十三日急死、享年四十二

 歌舞伎役者で、雲州の人。京都で若衆方として初舞台。女形も演じ、濡事や愁嘆場を得手とした。江戸の中村座で出演後頓死のような形で亡くなり、本所押上の大雲寺に葬られた。

 

 

瀬川菊之丞〔初代〕  せがわきくのじょう 

二四〇……辞世

散りてゆく紅葉のはてや西の空

寛延二(1749)年九月三日没、享年五十七

 歌舞伎役者で、大坂の人。子供の頃は茶屋抱えの色子で、のちに女形となり立役者に出世した。生得の美貌と仕草の妙で鳴らし、辞世にも、触らなば落ちなんの嫋々とした風情を感じさせる。

 

 

瀬川菊之丞〔二代〕  せがわきくのじょう 

二四一……辞世

一行の文となりてや帰る雁

安永二(1773)年閏三月十三日没、享年三十三

 歌舞伎役者で、武州王子の人。五歳のときに初代の養子となる。「路考」の俳号を持ち吟句を嗜んだ。句にある「一行の文」とはもちろん戒名を指し、義父と並んで大雲寺に葬られた。

 

 

瀬川菊之丞〔三代〕  せがわきくのじょう 

二四二……辞世

ありがたきみくにの春にあはんとて

文化七(1810)年十二月四日没、享年六十

 歌舞伎役者で、大坂の人。浜村屋を名乗り、美貌の名優のため年収千八百五十両に及び「浜村屋大明神様」と異名された。辞世を見ると一月早く逝ったようで、同じく大雲寺に眠っている。

 

 

瀬川菊之丞〔四代〕  せがわきくのじょう 

二四三……辞世

たもつ間もおもへばわづか雪仏

文化九(1812)年閏十一月二十九日没、享年三十一

 歌舞伎役者で、江戸の人。娘役・女房役を好くこなし、若女形の上手の誉れを得たものの夭折した。辞世句にも短命の嘆きが現れている。この人も菩提寺の大雲寺に墓がある。

 

 

瀬川菊之丞〔五代〕  せがわきくのじょう 

二四四……辞世

影のさまに我は暮れけり花ひと木

天保三(1832)年一月七日没、享年三十一

 歌舞伎役者で、江戸の人。十六歳のとき「一谷二葉軍記」で玉織姫役を好演して以来、立女形の名声を高めた。歴代のうち、この五代目が辞世句としては歴代中最も筋が良い。墓所は大雲寺。

 

 

石鼎  せきてい 〔原──〕

二四五……遺句

松朽葉かからぬ五百木なかりけり

昭和二十六年十二月二十日病没、享年六十五

 俳人で、島根県出身。診療所員を経て新聞投句の撰者に。一時遊行吟に身を投じたこともある。遺句は湘南二宮に身を潜めた家の庭先で、松の朽葉に人の世の無常を投影させたものである。

 

 

千空  せんくう 〔成田──〕

二四六……絶句

寒夕焼に焼き滅ぼさん癌の身は

平成二十年十一月十七日病没、享年八十六

 俳人で、青森県出身。肺結核の療養を余儀なくされた青年時代句作に入り俳句一筋に生きた人。大新聞の俳壇で選者も勤めた。この絶句──というより今生の絶唱、すさまじさが迸っている。

 

 

遷子  せんし 〔相馬──〕

二四七……病床遺句

冬麗の微塵となりて去らんとす

昭和五十一年一月十九日病没、享年六十七

 俳人で、長野県出身。郷土の佐久とその自然を深く愛した人。遺句は他にもあるものの、この一句は古武士切腹時の超然たる心境を見たようで、生半可の覚悟でない臨死を吟じている。

 

 

善静  ぜんせい 土岐(とき)──〕

二四八……辞世

見たきかな今年(はちす)は彼の岸に

明治三十九年六月五日没、享年五十七

 連歌師で、江戸の人。浄土真宗の僧で、晩年は浅草善光寺に隠居。連歌をはじめ俳諧、茶道、香道と手を染めた。辞世は道楽三昧の後の静けさ、淡々とした心境であったろう。

 

 

沾徳  せんとく 〔水間──〕

二四九……辞世

こは(あす)を待氷室の宿なりけり

享保十一(1726)年六月三十日没、享年六十五

 俳人で、江戸の人。四十七士の大高源吾らに俳諧を教え、当時の江戸俳壇では人気があった。この句が描写しているように、死ぬることとは真夏をも凍らす異界の冷気なのであろう。

 

 

沾圃〔初世〕  せんぽ 〔服部──〕

二五〇……辞世

おいたけて入奥涼し道の風

享保十五(1730)年六月十四日没、享年未詳

 俳人で、江戸の人。宝生流家元十世の能役者、幕府のお抱え。俳諧は蕉門にあった。たまさか前項掲出の沾徳の辞世と句想の源が似通っており、黄泉で交友を深めているかもしれない。

 

 

川柳〔初世〕  せんりゅう 柄井(からい)──〕

二五一……辞世

木枯やあとで芽をふけ川柳(かわやなぎ)

                              寛政二(1790)年九月二十三日没、享年七十三

 前句付点者で、江戸の人。雑俳の点者から発起し、前句付点者の第一人者に。その入選句を集成した『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』によりわが国川柳の始祖とされている。この辞世句は解説無用の有名である。

 

 

川柳〔二世〕  せんりゅう 柄井(からい)──〕

二五二……辞世

花程に身は惜しまれず散る柳

文政元(1818)年十月十七日没、享年六十四

 古川柳評者で、江戸の人。初代の長男で武家勤めをし、晩年に社中の営になる草庵に隠棲した。初世の柳句精神をしっかり受け止め、辞世も見劣りしない出来である。

 

 

川柳〔三世〕  せんりゅう 柄井(からい)──〕

二五三……辞世

蓮の葉の露と消えゆく我身哉

文政十(1827)年六月二日没、享年五十二

 古川柳評者で、江戸の人。初世の三男、五男説、二世の息という説もあり、定かでない。社中で揉め事を起こすなどして句作も少ない。辞世を見る限り、芯のない凡作が多かったようだ。

 

 

川柳〔四世〕  せんりゅう 〔人見──〕

二五四……辞世

香のあるを思ひ出にして翻の梅

天保十五(1844)年二月五日没、享年六十七

 古川柳評者で、江戸の人。二世の門人で、江戸南町奉行支配の与力同心をつとめる。四世襲名の披露は料亭河内屋で盛大に行われ、二昼夜かけて評者十三名による寄句一万を数えた。

*両日の寄席句は厳選の上『柳多留』八二・八三篇に修められている。

 

 

川柳〔五世〕  せんりゅう 〔水谷──〕

二五五……辞世

愛されし雅を思い出に散る柳

安政五(1858)年八月十六日没、享年七十二

 古川柳作者で、江戸の人。佃島の漁師の出だが、博学で才知に富み名主になっている。天保八年に五世を引き継ぐ。辞世に柳の一文字を入れる技、先人に名句が続いただけに苦労したであろう。

*六世川柳、辞世に該当する句は見当たらない。

 

 

川柳〔七世〕  せんりゅう 〔広島──〕

二五六……辞世

戸締りを頼むぞ我は先に寝る

明治二十四(1891)年九月七日没、享年六十七

 古川柳作者で、江戸の人。煙草屋からこの道に入り、前句付排除による独立柳句の普及につとめた功績は大きい。辞世に見るように、裏長屋のご隠居が気さくに作った風が共感を呼ぶ。

 

 

川柳〔八世〕  せんりゅう 〔大久保──〕

二五七……辞世

散るもよし柳の風にまかせた身

明治二十五(1892)年十月一日没、享年七十二

 狂句作者で、武州の人。幼児に江戸へ出て、幕臣の家を継いだ。明治期特有の呼称である「柳風狂句」の黄金期を築いた人である。辞世は、可もなく不可もなし、といったところか。

 

 

川柳〔九世〕  せんりゅう 〔前島──〕

二五八……辞世

誘はれて行くのは今ぞ花の旅

明治三十七(1904)年四月十一日没、享年七十

 狂句作者で、江戸の人。投書子、記者を経て柳風狂句を手がけ、斯界の重鎮に。当時寂れ果て無縁塚となっていた初代の墓を再整備している。辞世で柳の字が消え、いささか寂しい気がする。

 

 

川柳〔十世〕  せんりゅう 〔平井──〕

二五九……辞世

残す名は花根に帰る吉野町

昭和三年八月十一日没、享年八十

 狂句選者で、江戸の人。明治になって浅草区役所の役人となり、後に代書屋(行政書士)の傍ら投句選者などをつとめた。句中「吉野町」とは地元浅草の町名、背景を知らないとつまらない句だ。

 

 

川柳〔十一世〕  せんりゅう 〔小林──〕

二六〇……遺句

虫の居所も定まれば人も飽き

大正六 (1917)年五月十六日没、享年五十三

 川柳作家で、江戸の人。近代、深川須崎で酒屋を営んだ。手の付けられない放蕩者だったが、父に柳句作りを勧められ、面白さにのめりこんだ。掲出は浮気に半生を費やした自嘲の句である。

*十二世川柳の辞世句は見当たらない。

 

 

川柳〔十三世〕  せんりゅう 〔柄井亭──〕

二六一……辞世

時ならぬ風に柳の幹は折れ

昭和三十年三月一日没、享年八十

 川柳作家で、東京市出身。千住警察署の警部補をつとめた。久しぶりに「柳」が復帰し新芽を吹いた。「時ならぬ風」とは知る人ぞ知る個人的事情だろう。辞世では避けて通りたい。

 

 

 

宗因  そういん 〔西山──〕

二六二……遺句

何も早や楊梅の核昔口

天和二(1682)年三月二十八日没、享年七十八

 連歌俳諧師で、肥後八代の人。肥後侯の家臣で、主君に従い山城伏見に住む。壇林風の第一人者。掲出は遺句といっても俳諧を止め連歌一筋に復帰したときの俳諧との決別の作である。

 

 

宋屋  そうおく 〔望月──〕

二六三……辞世

西へ行く彼岸さくらや道案内(あない)

                                明和三(1766)年三月十二日没、享年七十九

 俳人で、京都の人。巴人の跡を継いで一門を引き受け京都俳壇の雄として活躍した俳匠である。辞世吟の時期といい「彼岸さくら」といい、そして死化粧といい、ぴったり嵌っている。

 

 

宗鑑  そうかん 〔山崎──〕

二六四……絶句

鶯の鳴ねをあげよ米の春

天文二十二(1553)年十月二日没、享年八十九

 俳諧連歌師で、近江の人。近江源佐々木氏の出自。自身は出家し洛西は山崎に隠棲。連歌様式を改善し俗風を加え、俳諧を成立させた功労者である。「米の春」はもちろん稔りの秋のこと。

 

 

宗祇  そうぎ 飯尾(いのお)──〕

二六五……辞世

世をばふる更に時雨のやどりかな

文亀二(1502)年七月三十日没、享年八十二

 連歌師で、紀伊?近江?の人。連歌において天下第一の師匠と称された。香道に入れ込んだ風流の人でもある。病の重い床にあっても、自身の生死に頓着せず連歌を賦したという。

 

 

双魚  そうぎょ 〔長谷川──〕

二六六……遺句

死ぬときは謙三として去年(こぞ)今年(ことし)

                                    昭和六十二年十一月八日病没、享年八十九

 俳人で、岐阜県出身。薬学者であったが、俳句に没入したのは晩年になってから。死ぬときぐらい双魚を忘れて謙三(本名)という人間に立ち返りたい、という人間回帰が現れている。

 

 

草城  そうじょう 〔日野──〕

二六七……病床遺句

高熱の鶴青空に漂えり

昭和三十一年一月二十九日病没、享年五十四

 俳人で、京都市出身。新興俳句の旗手として台頭したものの、虚弱体質で半生の多くを闘病生活で過ごす。作品も病苦を訴える嘆き節が目立ち、鑑賞者は足早に素通りしてしまおう。

 

 

蒼石  そうせき 〔松村──〕

二六八……遺句

短夜はむかしの夢のつづきかな

昭和五十七年一月八日病没、享年九十四

 俳人で、滋賀県出身。十七歳で俳句の道に入り、美しい心象風景の描き手として定評があった。静寂そのものに包まれた人生の飾り気のない終焉が見て取れる。

 

 

漱石  そうせき 〔夏目──〕

二六九……絶句

僧のくれし此饅頭の丸きかな

二七〇……絶句

有る程の菊拠げ入れよ棺の中

大正五(1916)年十二月九日病没、享年五十

 小説家で、江戸の人。押しも押されぬ明治の文豪である。俳句は虚子との出会いがきっかけだったようだ。第二句はつとに知られる有名句で、庶民レベルで満点を付けたい傑作である。

 

 

草堂 そうどう 〔山口──〕

二七一……辞世

散る花の宙にしばしの行方かな

昭和六十年三月三日病没、享年八十七

 俳人で、大阪市出身。草堂にとって俳句は「生きる証」であった。句集『南風』所収「山墓の道」の十句が遺句で、うち掲出作が命の終わりをよく見つめ最も辞世の一句にふさわしい。

 

 

素琴  そきん 〔志田──〕

二七二……遺句

鳴き捨てて行く馬淋し枯野原

昭和二十一年一月十七日病没、享年六十九

 俳人で、富山県出身。俳諧史により文学博士号を取得し、大学の教壇でも俳文学を教えた。遺句は、芭蕉が吟じた死に際の原風景を今様に再現させたような一句である。

 

 

鼠骨  そこつ 〔寒川──〕

二七三……辞世

秋風や無尽蔵中無一物

昭和二十九年八月十八日没、享年八十 

 俳人で、愛媛県出身。編集記者をつとめながら子規に俳句を学んだ。師が病死するまで看病したのもこの人である。文字列中に禅問答の喝を見出すような形而上学的な辞世句だ。

 

 

素人閑  そじんかん 〔山口──〕

二七四……遺句

閑素とは藤村流の秋言葉

昭和六十一年十二月十三日病没、享年八十二

 作家・俳人で、熊本県出身。詩や民謡詞も手がけ、庶民的な口語調表現で広く人気を得ていた。掲出の句も言葉遊びにいう「ものは付け」をあしらったもので、自号から一字を折り込んである。

 

 

蘇堂  そどう 〔伊藤──〕

二七五……辞世

音もなく池のうたかた一つ消え

昭和二十四年六月没、享年六十四

 新川柳作家で、山形県出身。大正十一年、第二回川柳作家番付で西方の横綱に推挙された実力者。この辞世、切字はなくとも俳諧精神で作られたこと明らかな名句ある。

 

 

曾北  そほく 〔世木──〕

二七六……辞世

空々と物のにほひや月の梅

寛保三(1743)年二月五日没、享年六十四

 俳匠で、伊勢の人。涼蒐門下で、師亡き後一門を率い、伊勢俳諧の隆昌に尽力した。この世に居ては届くはずのない月に咲く梅の香を「空々と」と縁語で形容したところが心憎い出来だ。

 

 

 

太祇  たいぎ (たん)──〕

二七七……遺句

盗人に鐘つく寺や冬木立

明和八(1771)年八月九日没、享年六十三

 俳人で、江戸の人。僧籍から還俗して京都島原の遊廓内に庵を結ぶ。俳諧と酒をこよなく愛した。遺句は、昏の鐘が盗賊に仕事時間だよ、と告げているという面白い発想だ。

 

 

大梅  たいばい 〔児島──〕

二七八……辞世

七十やあやめの中の枯尾花

天保十二(1841)年五月二十九日没、享年七十

 俳人で、江戸の人。蔵前で札差を営み、俳諧、儒学、詩文を嗜む道楽三昧の旦那衆であった。家業を傾け、晩年は小さな菓子屋に。若い女客に埋もれた自分を自嘲した店頭描写句である。

 

 

高尾〔二代〕  たかお 

二七九……辞世

寒風にもろくも落る紅葉かな

万治三(1660)年十二月五日没、享年未詳

 遊女で、下野国の人。江戸吉原の義楼三浦屋の抱えで、万治年中(1658~61)に二代高尾太夫に。風姿絶世とうたわれ、諸芸をよくした。その物故に関しては諸説があり謎である。

 

 

たかし  〔松本──〕

二八〇……絶句

霜解けの猫の雑巾濡縁に

昭和三十一年五月十一日病没、享年五十一

 俳人で、東京市出身。宝生流の能役者の家に生まれたが、虚弱体質のため演能を断念、俳句作りに没入した。世に迎合する時事俳句を作らなかった数少ない一人であった。

 

 

多架志  たかし 〔安土──〕

二八一……辞世

しづかなるゆふべのいのりいととんぼ

昭和五十九年八月二十三日病没、享年三十七

 俳人で、京都市出身。神学者・クリスチャン。癌による車椅子生活での懸命な闘病だったという。この辞世句、神不在である筆生の心にも、信仰の何たるかを訴えてやまない。

 

 

高杉晋作  たかすぎしんさく 

二八二……辞世

おもしろきこともなき世をおもしろく

慶応三年四月十四日病没、享年二十九

 勤皇志士で、長州萩の人。奇兵隊の隊長を務たが肺病を患い下関で療養生活を送る。辞世句は連歌の対吟で、晋作に続いて傍で見取った野村望東尼が「すみなすものは心なりげり」と付けた。

 

 

高野佐吉郎  たかのさきちろう 

二八三……辞世

楽しみや冥土の鬼と一勝負

明治十七(1884)年九月没、享年八十二

 剣道家で、武蔵国秩父の人。小野派一刀流を修め、山鹿素性門で軍楽も学ぶ。のち大宮郷で道場を開いた。ご愛嬌吟ともいえるこの辞世から見て、句作は余技に過ぎなかったようだ。

 

 

高橋淡路女 たかはしあわじじょ  

二八四……絶句

あめつちにひれふすこころ淑気満つ

昭和三十年三月十三日病没、享年六十五

 俳人で、兵庫県出身。結婚後一年で夫と死別、幼児と老母を抱え生涯貧困と戦った。しかし「人妻の風邪声艶にきこえけり」といった官能的な句も残したのは、さすがに女性ならでは、である。

 

 

滝井孝作  たきいこうさく 

二八五……絶句

秋の風味けはしや薬かみにけり

昭和五十九年十一月二十一日病没、享年九十

 私小説作家で、岐阜県出身。折柴という俳号をもつ俳人でもあったが、むしろ文士として名が通った。無骨のまま老境を迎えるとこういう句が出来るのだよ、と語っているようだ。

 

 

卓池 たくち 〔池内──〕

二八六……辞世

いざさらばむかひ次第に月の宿

弘化三(1846)年八月十一日没、享年七十九

 俳人で、三河国岡崎の人。紺屋を営むかたわら、俳諧を暁台と士朗に就いて学んだ。余命いくばくもないことを知ったのは中秋の名月間近のこと、死出の旅路を月に託して吟じた。

 

 

たけし 池内(いけのうち)──〕

二八七……絶句

病床にかくの如くに冬日射す

昭和四十九年十二月二十五日没、享年八十五

 俳人で、松山市出身。宝生流謡曲の家柄、虚子宅に居候しつつ句作の教えを受けた。字余り皆無の作者として知られる。絶句も折り目正しく、端正な人柄がしのばれる。

 

 

 たけし 〔秋沢──〕

二八八……病床遺句

入道雲癒えよ生きよと窓覗く

昭和六十三年病没、享年八十二

 俳人で、高知県出身。山形に移り、同県高校で教鞭をとる。詳しい伝は残されていない。右の一句、魂はすでに体を離れ、入道雲に乗り移って自身を客観的に激励している。

 

 

竹下しづの女 たけしたしづのじょ

二八九……絶句

蛾の眼すら羞ぢらふばかり(ふみ)を書く

昭和二十六年八月三日没、享年六十四

 俳人で、福岡県出身。杉田久女らと女流俳句の黄金期を築いた。次も絶句の一句で、やはり蛾を対象に吟じている。

 ペンが生む字句が楽しと蛾が挑む

 

 

竹田出雲〔初世〕 たけだいずも

二九〇……辞世

影涼し水に弥勒の腹袋

宝暦六(1756)年十月二十一日没、享年六十四

 浄瑠璃作者で、大坂の人。通称「元祖出雲」といわれ、当代の人気作家であった。千前軒の俳号を持ち、俳諧をよくした。この辞世にも演出効果満点の写実の冴えがうかがえる。

 

 

竹本政太夫 たけもとまさだゆう

二九一……辞世

逃水の行衛はいづこ枯尾花

延享元(1744)年七月二十五日没、享年五十四

 浄瑠璃太夫で、大坂の人。二世竹本義太夫を称し、中紅屋(なかもみや)の通称で呼ばれた。竹本座を率いた太夫で、辞世の出来から俳諧もかなり年季を積んでいることが見て取れる。

 

 

竹本大和太夫 たけもとやまとだゆう

二九二……辞世

折るゝとも響きは残れ雪の竹

明和三(1766)年十一月八日没、享年六十五

 浄瑠璃太夫で、大坂の人。江戸へ下って竹本座に出演。芸名の竹本により舞台の豊竹座、竹本座にちなんで辞世にも「竹」の一字を織り込むなど、あやかり芸の細やかなところを見せている。

 

 

蛇笏 たくち 〔飯田──〕

二九三……絶句

誰彼もあらず一天自尊の秋

昭和三十七年十月三日没、享年七十七

 俳人で、山梨県出身。さる文芸評論家は、蛇笏の句を評するに芭蕉をもってきても不当ではない、と言い切った。だがこの辞世、大上段に構えすぎて凡庸は近寄りがたい、というのが本音だ。

 

 

他石 たせき (にな)(がわ)──〕

二九四……辞世

執る筆のはじめて涼し槙の雨

昭和十年十二月二十一日没、享年六十八

 俳人で、静岡県出身。県内私鉄の専務をつとめた。句作に磨きをかける一方で、俳諧史の研究に没頭、業績を残している。死の直前、ようやく精神的達観に近づいた自身を見定めた。

 

 

忠知 ただとも 〔神野──〕

二九五……辞世

霜月やあるはなきの影法師

延宝四(1676)年十一月二十七日没、享年五十二

 俳人で、江戸の人。同時代の後輩である芭蕉が宗鑑・宗因と並んで高く評価した徘諧師であった。「元旦や何にたとへん朝ぼらけ」というよく知られた賀の句をも吟じている。

 

 

辰之助 たつのすけ 〔石橋──〕

二九六……遺句

ついに入院わが四十の酷暑かな

昭和二十三年八月二十一日病没、享年三十九

 俳人で、東京市出身。映画館の撮影技師で生計を立てる傍ら、句作を始める。戦後、民主主義俳句に手を染め始めたおりの絶命であった。右掲の一句、絶望感を鑑賞者の胸に突きつけている。

 

 

種茅 たねじ 〔原田──〕

二九七……絶句

刈萱にこの急知らす夕べかな

昭和六十一年三月一日没、享年九十

 俳人で、東京市出身。晩年は角川書店で歳時記編纂にかかわる。句の「刈萱」は俳号の一字「茅」を刈る=今生の決別、つまり謎句とも解釈できるプロの作品である。

 

 

民夫 たみお 〔北野──〕

二九八……辞世

入る順序次はわれなり墓洗ふ

昭和六十三年年十月十一日没、享年七十九

 俳人・作家で、東京市出身。みすず書房のオーナーで、雑誌『万禄』の雑詠撰者をつとめたこともある。句意の筋道が通り、すんなり理解できる素人好みの辞世句である。

 

 

檀一雄 だんかずお 〔池内──〕

二九九……絶句

モガリ笛/いく夜もがらせ/花ニ逢はん

昭和五十一年一月二日病没、享年六十四

 作家で、山梨県出身。太宰治や坂口安吾の跡を継ぐ無頼派作家として知られた人。さて自由詩なら兎も角、俳句にまで手を伸ばすのはやめたほうがよかった、といえる作だ。

 

 

旦藁 たんこう 〔杉田──〕

三〇〇……辞世

今日は猶真桑も涼し畠の月

生没年未詳、享年七十位?

 俳人で、名古屋の人。えび屋なる菓子屋を営んだ。芭蕉に学んだ尾張俳壇の雄。曲水の宴を開いたというから、和歌の嗜みもあったようだ。辞世として軽く流した、という風情が見事。

 

 

団水 だんすい 〔北条──〕

三〇一……辞世

おぼろおぼろ引べき胸の月清し

正徳元(1711)年一月四日没、享年四十九

 俳人で、大坂の人。西鶴の一番弟子としてつとに知られる。辞世、米粉を練りに練った月見団子の風情をかもしている。重ね詞の音律も見事で、上句字余りもまったく苦にならない。

 

 

淡々 たんたん 〔松本──〕

三〇二……遺句

朝霜や(つえ)で画きし富士の山

宝暦十一(1761)年十一月二日没、享年八十八

 俳人で、大坂の人。芭蕉、其角荷師事して徘諧の腕を磨く。門人多数を擁した俳匠でもあり、やさしい作風から世間の評判もよかった。右句も、つい真似して発しみたくなる名句である。

 

 

 

稚魚 ちぎょ 〔岸田──〕

三〇三……病床遺句

死ぬること幸ひ銀河流れをり

昭和六十三年十一月二十四日没、享年七十

 俳人で、東京市出身。家業は酒屋で、生涯俳句を旨とした。都会的センシティブな句作が目立つ。都会人が憧れる銀河をモチーフに、スマートに吟じきった決別の一句である。

 

 

竹婦人 ちくふじん 〔岩本──〕

三〇四……辞世

雪解や八十年のつくりもの

宝暦九(1759)年二月十七日没、享年八十

 浄瑠璃作者・俳諧師で、江戸の人。吉原江戸町一丁目で天満屋という妓楼を営んだ。が、道楽が過ぎて破産、晩年は剃髪して隠居に入った。粋人らしく含蓄のある辞世句である。

 

 

竹堂 ちくどう 〔杉井──〕

三〇五……辞世

短夜やかくても同じ鐘の声

文政八(1825)年五月没、享年三十

 俳人で、江戸の人。書と絵の方面で名を上げ、早世したせいもあり、俳諧では無名に等しい。だがこの辞世、生半可な素養では作りえない秀作である。

 

 

竹冷 ちくれい 〔角田──〕

三〇六……絶句

心得ぬ予が留守を斯く寒襲ふ

大正八(1919)年三月二十一日没、享年六十四

 俳人・政治家で、駿河国の人。代言人(弁護士)から政界入りし、衆議院議員に。作品を垣間見ると新旧字余り文彩、何でもこなす人だ。そうした器用さがこの辞世にも現れている。

 

 

鳥酔 ちょうすい 〔白井──〕

三〇七……絶句

濃きうすき雲を得てほとゝぎす

明和六(1769)年四月四日没、享年六十九

 俳人で、上総国の人。世襲の代官職に就いたものの、俳諧に凝りすぎ、職務怠慢のかどで免職に。江戸に移って名を成し、西下して吟遊三昧にふける風流人であった。

 

 

蝶羅 ちょうら 〔下郷──〕

三〇八……辞世

極楽といふてねるやは蚊帳のうち

安永五(1776)年五月六日没、享年五十四

 俳人で、尾張の人。造り酒屋のかたわら、横井也有らに俳諧を学ぶ。嵐亭と連れ立ち芭蕉の奥の細道足跡を遊行している。妻もと女も「蚊の声もかなしき蚊帳のあたり哉」と吟じた。

 

 

調和 ちぎょ 〔岩本──〕

三〇九……辞世

此一句衆議判なし木からしの

正徳五(1715)年十月十七日没、享年七十八

 俳人で、奥州の人。江戸へ出て俳諧に没頭する。俳匠として多くの門人を育てた。老いさらばえての辞世句だから他の先生方も点数の付けようがなかろう、と半ばへりくだっている。

 

 

超波 ちょうは 〔清水──〕

三一〇……辞世

荒海へ船から投げる氷かな

元文五(1740)年七月十二日没、享年三十六

 俳人で、江戸の人。味噌商のかたわら俳諧を学び、江戸座俳風で注目された。辞世、荒海とは冥界、そんな中へ一片の氷のように自分が放り込まれたところで世の無常は変らぬよ、と。

 

 

千代尼 ちよに

三一一……辞世

月も見て我はこの世をかしく哉

安永四(1775)年九月八日没、享年七十三

 俳人で、加賀国の人。通称を「加賀の千代」と使用され、名句を数多く世に送り出した才媛であった。「かしく」は女子書簡の結辞で、この世を恐れ入りつつ去りまする、程度の意味である。

 

 

千里 ちり 〔苗村──〕

三一二……遺句

新米や茶粥喰ふて高まくら

享保元(1716)年七月十八日没、享年六十九

 俳人で、大和国の人。故郷を離れ江戸に出て、芭蕉の教えを受ける。師と共に「野ざらし紀行」に吟行した。この句は貧窮をかこちつも、茶粥に武士ならぬ俳人の見得を示威している。

 

 

 

鶴沢文蔵〔五代〕 つるさわぶんぞう

三一三……辞世

世を去りて無量寿得たり今日の旅

明治三十四(1901)年二月九日没、享年六十二

 浄瑠璃三味線方で、江戸の人。巧者の弾き手として東京の舞台で出演してきた。大変な大酒飲みで知られ、辞世でも無量寿 (一説に三升入り大杯)と永遠の寿とを洒落のめした句を吟じた。

 

 

 

貞兼 ていけん 〔藤谷──〕

三一四……辞世

月は弥陀ぼさつや二十御来迎

元禄十四(1701)年十月二十七日没、享年八十七

 俳人で、京都の人。貞徳の門人である。伝はほとんど残されていない。辞世についての私見、抹香臭さが強すぎ俗臭にまみれた身にはとても就いていけない。

 

 

貞佐 ていさ 〔桑岡──〕

三一五……辞世

中椀の白粥みてり十三夜

享保十九(1734)年九月十二日没、享年六十三

 俳人で、江戸の人。俳諧は十五歳のとき其角に師事し、赤穂浪士に句を教えたり親交を結んだりした。辞世句、ハッとするほど鮮明な情景描写だ。名人の手にかかると月の印象もこうなる。

 

 

貞佐 ていさ 〔中川──〕

三一六……辞世

跡はみづとしの瀬を行く千鳥哉

延享四(1747)年十二月六日没、享年六十八

 狂歌師・俳匠で、京都の人。垂加流神道の信奉者でもあった。さすが狂歌詠の手錬らしく、「みづ」を核とした掛詞に縁語を引き掛け、この世に別れる餞の言葉としている。

*二人の貞佐がいたので混同しないようにご注意を。

 

 

貞之 ていし 〔神戸──〕

三一七……辞世

朝がほは久しきものよ五十年

元禄十三(1702)年三月四日没、享年五十

 俳匠で、京都の人。俳諧を西武に学び、雑俳の主流である前句付点者を仕事とした。辞世句は、寿命を感じてじっくり見る朝顔はいとおしさすら感じられるほどだ、といった感慨である。

 

 

悌二郎 ていじろう 〔篠田──〕

三一八……絶句

朝よりの深き曇りに(もず)の声

昭和六十一年四月二十一日没、享年八十六

 俳人で、東京市出身。三越に永年勤続のかたわら句作に励む。ウェットでロマンに飛んだ句風を持ち味とした。右の一句は死への旅立ちを意識してない頃の風吟である。

 

 

笛我 てきが 〔大木──〕

三一九……遺句

コーヒーが旨い夜氷の肩を寄せ

昭和四十五年四月二十四日病没、享年六十五

 新川柳作者で、東京市出身。鉄鋼商社の社長をつとめ、東都で「川柳長屋連」での常連。木場育ちのせいか、作品はさっぱりとしていて歯切れがよい。

 

 

轍士 てきし 〔高島──〕

三二〇……辞世

麦のほに尾を隠さばや老狐

宝永四(1707)年没、享年未詳

 俳匠で、大坂の人。宗因門下で著作が多く、江戸にも来遊したことがある。俳人を遊女に見立てた『花見車』といった類も板行し、辞世からも一見してひょうきんな人だったようだ。

 

 

寺山修司 てらやましゅうじ

三二一……絶句

頬かすめとぶせきれいや愛欲す

昭和五十八年五月四日病没、享年四十七

 詩人・劇作家で、青森県出身。多彩な人で物書きから競馬評論まで幅広く手がけた。世に「言葉の錬金術師」と評され、小気味よくパンチを効かせた辞世にも才能の高さがしのばれる。

 

 

照雄 てるお 〔香西──〕

三二二……絶句

   海市氏納骨

骨納めて湧く峰雲も男の墓標

昭和六十二年六月二十五日病没、享年六十九

 俳人で、香川県出身。俳誌の編集に携わった。右掲は友の岡田海市が亡くなった翌年の命日に捧げた追悼句。友情の絆をことさら大事にした高潔な人であったという。

 

 

展宏 てんこう 〔川崎──〕

三二三……病床遺句

壊れやすきもののはじめの桜貝

平成二十一年一月十六日病没、享年八十二

 俳人・国文学者で、広島県出身。大新聞で俳壇選者をつとめた。はにかみに溢れた美しい辞世である。この人が俳壇名うての酒豪だったとは、信じがたいほど繊細な句だ。

 

 

天姥 てんば 〔天野──〕

三二四……辞世

花の願ひ花野の露となる身哉

文政六(1823)年八月没、享年八十三

 俳人で、信州の人。俳諧は江戸へ出て白雄について学ぶ。師と共に北陸から関西へ俳諧行脚にも出ている。この、触らなば落ちなんといった風情の句は、遊行による精神保養の賜物であろう。

 

 

 

東吾 とうご 〔幡谷──〕

三二五……絶句

江津湖見ず会うは訣れの秋日暮

昭和六十二年六月二十一日没、享年七十三

 俳人・書誌家で、三重県出身。「俳句の生き字引」「俳壇の怪物」と称された博識の持主であった。掲出は、絶句の吟題「阿蘇絶勝」うちの一句である。

 

 

兜子 とうし 〔赤尾──〕

三二六……辞世

心中にひらく雪景色また鬼景

昭和五十六年三月十七日自殺、享年五十六

 俳人で、兵庫県出身。家業は材木問屋、毎日新聞に永続勤務した。定年退職した翌年のことで、自らに訣別を課した心境は「鬼景」そのもの、はたで計り知れるものではない。

 

 

烏頭子 とうし 〔軽部──〕

三二七……遺句

はへよたてよ緑陰の尻砂にまみれ

昭和三十八年九月二十日病没、享年七十二

 俳人・内科医で、茨城県出身。土浦市の内科医であったが、酒豪のためか胃癌により生を閉じた。病床で苦しむ自分を医者らしい冷徹な眼をもって茶化している。

 

 

豆秋 とうしゅう 〔須崎──〕

三二八……辞世

短冊のけいこでもして死を待とう

昭和三十六年五月四日病没、享年五十六

 新川柳作者で、香川県出身。句作において、いわゆる「豆秋調」という独自の飄逸に味を出した。なんと天真爛漫で、万人が口にしたくなるような辞世ではないか。

 

 

東順 とうじゅん 〔竹下──〕

三二九……辞世

死症には千ぐさの露の験もなし

元禄六(1693)年八月二十九日没、享年七十三

 俳人で、近江の人。江戸へ出て医者になり、藩侯から扶持を受けている。死に際に震える手で「七十三歳の老医みづから何の薬をかたのまんや」と前書きして、この辞世を遺した。

 

 

時実新子 ときざねしんこ

三三〇……遺句

墓の下の男の下に眠りたや

平成十九年三月十日病没、享年七十八

 新川柳作家で、岡山県出身。新川柳界では当代一の売れっ子女流であった。右の遺句といい「二人から一人になりぬ豆の花」の一句といい、男の芯を固くさせる名句をたくさん残した。

 

 

都牛 とぎゅう 〔高橋──〕

三三一……辞世

何のまゝ残る葉もなし秋の風

寛延二(1749)年八月十五日没、享年四十四

 俳人で、京都の人。詳しい伝記等は残されていない。物故したのは中秋だが、初冬の寒々とした原風景を活写している。魂は一足先に彼岸へと飛んでいたのであろう。

 

 

徳元 とくげん 〔斎藤──〕

三三二……辞世

いまゝではいきたはごとをつきみかな

正保四(1647)年八月二十八日没、享年八十八

 歌人・俳人で、岐阜の人。小田秀信の祐筆として二千石を領した。のちに頭を丸め徳元と号し、江戸へ出て和歌・俳諧を修めた。辞世句を仮名書きしたところなど、歌詠みならではの手癖とみた。

 

 

杜口 とこう〔神沢──〕

三三三……辞世

辞世とはすなわち迷い唯死なん

寛政七(1795)年二月十一日没、享年八十六

 俳匠で、京都の人。京都町奉行神沢家に養子入りし跡を継いだが、やがて辞して俳匠への道を選んだ。この一句、辞世句を残したい者にとって、とらえ方により毒にも薬にもなる作だ。

 

 

年尾 としお 〔高浜──〕

三三四……辞世

流星の尾の切れたるは何ごとぞ                                                                                                                                                                    

昭和五十四年十月二十六日病没、享年七十八

 俳人で、東京市出身。高浜虚子の長男、サラリーマンを経て、句は父から手ほどきを受けた。父の重い名の陰にあって、それをはね除けるような鮮烈なイメージを覚えさせる辞世である。

 

 

杜藻 とそう 〔京極──〕

三三五……病床遺句

摩訶般若波羅蜜多心経秋一つ

昭和六十年十月病没、享年九十一

 実業家・俳人で、鳥取県出身。運送会社経営の傍ら句作に走る。この一句は人によって評価が大きく分かれるところ。無信心者にとっては押し付けがましい折伏姿勢が嫌味だ。

 

 

吐天 とてん 〔内藤──〕

三三六……絶句

障子張りぬくし純の白さにつつまれて

昭和五十一年六月十二日病没、享年七十六

 俳人で、名古屋市出身。俳人以外にも堀口大学ら詩人と交流があった。自由詩の断章としてなら通用しようが、俳句としては字余りが目立ち過ぎ、どうにも座り心地が悪い。

 

 

富森正因 とみもりまさより

三三七……辞世

飛びこんで手にも止らぬ霰かな

元禄十六(1703)年二月四日切腹、享年三十四

 赤穂四十七士の一人で、播州赤穂藩士。切腹当日白無垢の帷子を着して果てた。右は討ち入り当日の吟句である。自分を取るに足りない霰に喩えたが、衆を為して青天の霹靂を示した。

 

 

以之 ともゆき 〔丹羽──〕

三三八……辞世

俳人はすてるほどあり秋の月

宝暦九年(1759)年没、享年未詳

 俳人で、名古屋の人。医者であり、俳諧は支考に学んだ。平家琵琶や茶道にも通じた風流の人であった。臨死においても自分を客観視し、句輩を嘲笑するだけの余裕がこの辞世句に現れている。