木卯 もくう 〔高屋──〕  

四四一……遺句

ちるものとさだまる秋の柳かな

天保十三(1842)年七月十八日没、享年五十九

 戯作者・狂歌師・狂句作者で、江戸の人。世に知られた柳亭種彦のほうが通りはよい。狂句では下町で立評者として鳴らした。辞世も、さすが戯作者らしく洒脱の風情のなか卒なく吟じている。

 

 

黙池 もくち 〔中島──〕  

四四二……遺句

すゝきふく風もやみけり秋の暮

明治十四(1881)年八月十五日没、享年未詳

 俳人で、京都の人。吟友らと地方へ小旅行に出かけ、かなりの酒客振りを発揮したらしい。しかし、いったん筆を取ると酔気を念力で吹き飛ばし、風格に満ちた作品を生み出したという。

 

 

黙朗 もくろう (こし)(ごう)──〕  

四四三……遺句

やつとひとりになれたデスマスクの笑い

平成八年五月二十日没、享年八十四

 新川柳作家で、函館市出身。吟社「川柳あきあじ」を創設し代表に。「共感度の高い川柳作り」をモットーとし、この遺句にも、劇画の一コマを見るような親しみが湧く。

 

 

百樹 ももき 〔花岡──〕  

四四四……辞世

芒原幼名を呼ぶ父母の声

昭和二十一年二月二十七日没、享年六十八

 

 新川柳作家で、長野県出身。蚕種の行商をしつつ全国を廻る。前句付の趣味を生かし旅先で普及につとめた。ちなみに幼少時の愛称が桃太郎、これで辞世句の意味が生き返った。

 

 

木国 もっこく 〔田村──〕  

四四五……絶句

墳の杜よぎれるときのほととぎす

昭和三十九年六月六日没、享年七十五

 俳人で、和歌山県出身。新聞記者時代、時の文人らとの交遊が多かった。ジャーナリストらしく修辞文彩に神経を使ってある。「墳の杜」とは墓地、ホトトギスを黄泉の国の使者に見立てた。

 

 

木歩 もっぽ 〔富田──〕  

四四六……絶句

夜釣の灯なつかしく水の闇を過ぐ

大正十二年九月一日横死、享年二十六

 俳人で、東京市出身。家は貧しい上、自身も身体不自由児であった。辛苦独学しつつ境涯俳人として精進。亡くなる一ヶ月前、隅田川遊山のこの作を最後に、関東大震災で犠牲になった。

 

 

木綿 もめん   

四四七……辞世

雲晴れて誠の空や蝉の声

天明八(1788)年五月二十九日没、享年未詳

 古川柳作者で、江戸の人。呉陵軒可有(あるべし)という柳号も持ち謎めいた人物である。苗字がなく学識豊かであることから、大店の旦那か坊さんではなかろうか。

 

 

守武 もりたけ   

四四八……辞世

朝顔にけふは見ゆらん我が世かな

天文十八(1549)年八月八日没、享年七十七

 連歌師・俳諧師で、伊勢国の人。伊勢内宮神官の出自である。連歌における煩雑な仕来りを打破し、俳諧を独立句とさせた功労者の一人。この俳諧師の作品には和歌の雅が漂っている。

 

 

 

野径 やけい 〔田村──〕  

四四九……辞世

わか水やふゆはくすりにむすびしお

元文五(1740)年一月三日没、享年七十八

 俳人で、江戸の人。大手呉服商越後屋の番頭を勤め、日本橋から深川の芭蕉庵へ通い俳諧の教えを受けた。野波らと有名な俳書『炭俵』を共著している。辞世は直近の作であろう。

 

 

夜叉郎 やしゃろう 〔伊東──〕  

四五〇……辞世

病人の見ておく医者の鼻の穴

大正十五年九月九日没、享年三十八

 歌人・新川柳作家で、東京市出身。柳界の大立者久良岐の門下で異才を認められた人。川柳にポエジィ精神を吹き込んだ「川柳詩」を提唱した。辞世は、長屋の熊八連が作りそうな句である。

 

 

 やすし 〔上野──〕  

四五一……絶句

紅梅の色の変るを()でにけり

昭和四十八年二月二十一日没、享年五十四

 俳人で、横浜市出身。虚子の六女と結婚し、渡満して俳句に手を染めた。戦後帰国すると虚子から手ほどきを受け、ホトトギスの新感覚派と期待された。右、明らかに死を自覚しての句である。

 

 

夜半 やはん 〔後藤──〕  

四五二……辞世

風鈴の音には容喙(ようかい)せぬつもり

昭和五十一年八月二十九日没、享年八十一

 俳人で、大阪市出身。北浜の証券会社社員のかたわら、父親から句作の指導を受ける。句は風物に潜むロマンの抒情性を引き出すのに巧み。だか辞世の「容喙」表現には違和感がある。

 

 

山岡鉄舟 やまおかてっしゅう   

四五三……辞世

腹いたや苦しき中に明けがらす

明治二十一(1888)年七月十九日病没、享年五十三

政治家で、江戸の人。剣・禅・筆の達人といわれている。句作の素養はないと見てよかろう。暴飲暴食がたたり、胃癌で死んだ。豪傑も夜っぴて苦しみ眠れぬまま明け方を迎えた。

 

 

山座円次郎 やまざえんじろう   

四五四……絶句

浅ましき凡夫の声や青嵐

大正三(1914)年四月二十八日没、享年四十九

 外交官で、福岡県出身。赴任先の北京で客死した。死に際に和歌を詠み、詩を吟じ、右記の句を残して大往生した。およそ辞世らしくない事離れ作品である。

 

 

山口波津女 やまぐちはつじょ   

四五五……絶句

絶えもせず吾が庭に咲く曼珠沙華

昭和六十年六月十七日没、享年七十八

 俳人で、大阪市出身。誓子の妻で、夫の療養中はとことん尽くす。作品も心温まる抒情を表現するに巧みであった。この絶句も自分の寿命を自覚し、彼岸花への思いに駆られている。

 

 

山国兵部 やまくにひょうぶ   

四五六……辞世

いざゝらば冥途の鬼と一いくさ

慶応元(1865)年二月四日刑死、享年七十三

 水戸藩世臣で、常陸国の人。海防派の志士であった。武田耕雲斎らと天狗党の乱を画策し、その罪により加賀敦賀で斬首に処せられた。物見遊山にでも出かけるかのような無骨な辞世句である。

 

 

山本健吉 やまもとけんきち   

四五七……辞世

こぶし咲く昨日の今日となりしかな

昭和六十三年五月七日病没、享年八十一

 文芸評論家・俳人で、長崎県出身。改造社で雑誌『俳句研究』編集に携わる。辞世は知人の追悼句会で作った句を覚えていたものだという。俳句が表しうる美意識を存分にさらけ出している。

 

 

山本有三 やまもとゆうぞう   

四五八……病床遺句

今ここで死んでたまるか七日くる

昭和四十九年一月四日病没、享年八十六

 作家で、栃木県出身。足跡を辿ると頑固一徹者であったことがわかる。辞世にもその性格が現れていて、一月七日の七草の日に娑婆へ化けて出てやる、とのたまわった。

 

 

也有 やゆう 〔横井──〕  

四五九……辞世

短夜やわれにはかなきゆめさめぬ

天明三(1783)年六月没、享年八十二

 俳人で、名古屋の人。名古屋藩で千三百石を禄する重臣であった。文雅を好む俳諧師として天下に名を知らしめた。「化物の正体見たり枯尾花」の名句などを残している。

 

 

 

裕計 ゆうけい 〔多田──〕  

四六〇……辞世

死の夢に蛍なだれてゐたりけり

昭和五十五年七月八日没、享年六十八

 作家・俳人で、福井県出身。上海から帰国した戦後、波郷らと俳誌『鶴』を刊行し同人に。自ら発光する能力を失いかけた蛍を自己に重ね合わせたこの辞世、やりきれなさが尾を引いている。

 

 

弓彦 ゆみひこ 〔白沢──〕  

四六一……辞世

さやうなら一語一語の冬の息

平成十八年二月八日病没、享年五十三

 俳人で、東京都出身。俳誌いくつかの同人で、俳句と仲間を愛した人であった。右の一句は辞世句の教科書に載せたいほどの秀作だ。人間賛歌を視点に説得力に満ち溢れているではないか。

 

 

夕爾 ゆうじ 〔木下──〕  

四六二……絶句

ひかりいでし雨の竪琴祭果つ

四六三

枯れいそぐものに月かくほそりけり

昭和四十八年月四日病没、享年五十

 詩人・俳人で、広島県出身。実家は薬局。読者の心を揺さぶる何冊もの詩句集を出した。右は絶句のうち二句、終焉で誰もが真似をしたくなるような、美しいリリシズムでつづられている。

 

 

友二 ゆうじ 〔石塚──〕  

四六四……遺句

花の色(つぼみ)にちらと冬椿

昭和六十一年二月八日病没、享年七十九

 作家・ジャーナリスト・俳人で、新潟県出身。三鬼に言わせるとこの人は「俳句で煮しめた顔」なのだそうだ。この高齢に似あわず含羞すらうかがえる感性吟は見事である。

 

 

 

夜嵐お絹 よらしおきぬ 〔原田きぬ〕  

四六五……辞世

夜嵐のさめて跡なし花の夢

明治二(1869)年二月二十日没、享年未詳

 維新期の毒婦で、相模国の女。美貌だが淫乱、芸者時代に旦那を毒殺し、小塚原で処刑された。そのとき吟じた辞世句と伝えられているが、色濃く脚色された人物なので真偽は不明である。

 

 

余子 よし 〔小杉──〕  

四六六……遺句

夏痩せの身の雲に入る一詩かな

昭和三十六年八月三日没、享年七十二

 俳人で、神奈川県出身。銀行員時代、銚子市に住みつく。人柄、句風ともに古風で恬淡、というのが大方の人物評であった。この一句も、しっとりと落ち着いた風雅すら感じさせる。

 

 

吉川英治 よしかわえいじ   

四六七……遺句

仏壇はあとのまつりをするところ

昭和三十七年九月七日病没、享年七十

 作家で、神奈川県出身。国民文学作家といわれ、作品の多くがヒットセラーになっている。万人にわかりやすく共感を呼ぶ句を遺したのもこの人らしい。

 

 

義恭 よしただ 〔海老名──〕  

四六八……辞世

迎ふるや月のゆくへの酉の雲

安政三(1856)年九月二十八日没、享年七十二

 連歌師で、佐渡の人。相川で地役人をつとめる。寝食を忘れてしまうほどの連歌好きで、歌道に長じていた。我を忘れ付句したくなるような情景を見事に吟じこなしている。

 

 

芳次郎 よしじろう 〔志摩──〕  

四六九……辞世

緑なす松やいのちの惜しからず

平成元年五月二十九日没、享年八十一

 俳人で、鹿児島県出身。大学教授をつとめる文学博士であった。しかし俳壇では「毒舌のシマヨシ」と毛嫌いされる面も。尊大と思えるようなこの辞世に性格が反映されている。

 

 

吉村昭 よしむらあきら   

四七〇……病床遺句

胃カメラをのんで炎天しかと生く

平成十九年七月三十一日没、享年七十九

 作家で、東京市出身。数多の文学章を受賞した硬派の小説家である。舌癌から転移が散り胃カメラ診断を受けるはめに。長い苦闘に堪えた意識の果て、涼しさを求めてやまなかったであろう。

 

 

 

来山 らいざん 〔小西──〕  

四七一……辞世

ほのかなる鶯きゝつ羅生門

享保元(1716)年十月三日没、享年六十三

 俳人で、大坂の人。薬種商を営み、「日本の李白」と称されたほど無類の酒好き。俳諧は宗因に師事し、浪花談林派の一角を築いた。なにやら面妖な伝説がかもす雰囲気の句だ。

 

 

雷石 らいせき 〔安田──〕  

四七二……辞世

此日こそ死なば今年は雪の花

明治十六(1883)年十一月十一日没、享年七十四

 俳人で、甲斐国の人。田安府の医官で法橋の位にあった。俳人の漫々の子息である。甲府勤番の武田浪に勤皇の大義を説いた硬骨漢であり、辞世にもそうした気骨がうかがえる。

 

 

蘿月 らげつ 〔萩原──〕  

四七三……辞世

雪の上にほこりがたまる生きて居ればこそ

昭和三十六年二月十七日病没、享年七十七

 俳人で、神奈川県出身。大学等で講師をつとめる。口語調の自由律句に傾倒した。「ダイナマイト」とか「狼」と渾名されているくらいであり、自己主張の強い人であった。

 

 

裸馬 らば (すが)──〕  

四七四……絶句

壮者なり眉目に年も押詰まり

昭和四十六年二月十八日没、享年八十七

 俳人で、秋田県出身。古河鉱業の大阪支店長のキャリアをもつ。山梨県川口湖畔に記念研修館と句碑が建っている。八十七歳、若者をもしのぐ元気を自認していたようだ。

 

 

嵐雪 らんせつ 〔服部──〕  

四七五……辞世

一葉散る咄一葉散る風の上

宝永四(1707)年十月十三日没、享年五十四

 俳人で、江戸の人。蕉門十哲でも其角と並んで筆頭に位する。足軽の出自ゆえ器が小さいとか、諸説混在して来歴に未詳が多い。ちなみに許六は嵐雪の人柄に酷評を下している。

 

 

鸞動 らんどう 〔古沢──〕  

四七六……辞世

音は常盤しばし紅葉ぬ松の蔦

貞享三(1686)年七月三十日没、享年二十二

 俳人で、摂津国伊丹の人。俳諧を宗旦に学び一集を編もうとしたが、病で夭折した。師は彼を悼んで『野梅集』と題して刊行。鬼貫とも親交があり、彼のために不二の句を残している。

 

 

 

理一 りいち 〔津久井──〕  

四七七……病床遺句

羨道(えんだう)をゆきふところの捜神記(さうしんぎ)

 

昭和六十三年八月二十五日病没、享年七十七

 俳人で、栃木県出身。出版人で、二度にわたる検挙を体験。句は誓子に師事し、プロレタリア俳人・作家としての地歩を固めた。しかし辞世句は辞書頼りの衒学句、敬遠されるのがオチだ。

 

 

龍雨 りゅうう 〔増田──〕  

四七八……絶句

繭玉やかすむと見えて雪催ひ

昭和九年十二月三日没、享年六十一

 俳人で、京都市出身。東京に出て俳諧を雪中庵雀志に学ぶ。その十二世を継ぎ多くの後輩を育てた。風格に満ちた温雅な人物で、『龍雨俳話』の著作などで知られた。

 

 

柳芽 りゅうが 〔木津──〕  

四七九……絶句

夕富士や春一番のふきかえし

昭和五十三年三月九日没、享年八十六

 俳人で、東京市出身。根っからの江戸っ子らしく、気風のよい句作を標榜した。戦中戦後は八王子に移り、富士を讃じ吟じている。辞世も季節の移ろいを感じさせる秀句だ。

 

 

龍吟 りゅうぎん 〔岡田──〕  

四八〇……辞世

花若葉月雪もみな阿弥陀仏

明治三十七年十月十三日没、享年未詳

 俳人で、江戸の人。家は徳川家御用達の商人、福地桜痴らと東京日日新聞の創設に加わった。江戸世界の事情通でもあった。仏教への信心深さがなせる業か、折伏姿勢が表に出ている。

 

 

柳史 りゅうし 〔赤松──〕  

四八一……絶句

生きているしるし夜目にも灯が見える

昭和四十九年九月十五日没、享年七十四

 俳人画家で、香川県出身。俳画協会創立理事長の任にあり、俳画誌『砂丘』を出している。「世の中の横幅知らぬ燕かな」など、絵に描ける情景をとらえるのに巧みだ。

 

 

柳亭燕枝 りゅうていえんし 〔増田──〕  

四八二……辞世

動くもの終りはありて(こぶ)(やなぎ)

 

明治三十三(1900)年十二月三日没、享年六十二

 落語家で、江戸?の人。辞世句のうち「瘤柳」の背景事情は部外者にはわからない。じつは動脈瘤を患い死因にもなっている。訳知らずの人には不可解な句で、辞世としては失格である。

 

 

立圃 りゅうほ 〔野々口──〕  

四八三……辞世

月雪の三句目を今しる世哉

寛文九年九月二十五日没、享年七十五

 俳人で、丹波国の人。雛人形の細工師、紅染の匠という器用さを持ち、句も風格あり、加えて俳画の名人でもあった。辞世は逆修(自身の生前葬)のおり立句したものである。

 

 

涼宇 りょうう 〔根岸──〕  

四八四……辞世

暁の浪に別るゝ千鳥哉

寛政六(1794)年十一月五日没、享年六十二

 俳人で、武蔵国の人。青梅の豪農の出で、二条家から「花の下」の栄称を賜るほどの名吟家に。門人ら集い右の辞世の元涼宇の遺稿を集め『千鳥集』を編纂したことは、つとに知られている。

 

 

良寛 りょうかん 〔山本──〕  

四八五……絶句

うらを見せおもてを見せてちるもみち

天保二(1831)年一月六日没、享年七十四

 俳人で、越後国の人。禅門に入り修業を重ねた。慈愛に満ちた平明な句作は多くの人に口ずさまれてきた。死に臨む心境の深さをこうも優しい言葉でつづられると、凡才は筆を投げてしまう。

 

 

蓼太 りょうた 〔大島──〕  

四八六……遺句

あら蓑の藁の青みやはつ時雨

天明七(1787)年九月七日病没、享年七十

 俳人で、信濃国の人。雪中庵三世を自称する風流を解した真の俳人。俳諧の堕落を嘆き、蕉風への回帰を提唱した気骨の人でもある。辞世、雨中を行く旅人の原風景が押し迫る。

 

 

涼菟 りょうと 〔岩田──〕  

四八七……辞世

かつてんしや其暁のほとゝぎす

享保二(1717)年四月二十八日没、享年五十九

 俳人で、伊勢国の人。伊勢山の神職で、蕉門で俳諧を学んだ。軽妙洒脱な誹風を旨とし人は「伊勢派」と呼んだ。師の終焉を知り門人が辞世を望んだとき、眼を開けて右の一句を吟詠した、と。

 

 

林火 りんか 〔大野──〕  

四八八……辞世

残る露残る露にしへいざなへり

四八九

萩明り師のふところにいるごとく

四九〇

先師の萩盛りの頃や我が死ぬ日

昭和五十七年十二月三日没、享年七十八

 俳人で、横浜市出身。彼の「辞世三句」である。師は臼田亜浪。

 

 

麟太 りんた 〔川端──〕  

四九一……遺句

虹を着て希望は一歩先を行く

昭和六十二年六月二十一日病没、享年六十八

 俳人で、札幌市出身。北海道俳壇の指導者として注目された。句風は口語による「庶民のうたごえ」を旨とし、優しい感性での教訓に啓蒙振りの一端を見ることができる。

 

 

 

零余子 れいよし 〔長谷川──〕  

四九二……辞世

枇杷の核西に転びて旅終へし

昭和三年七月二十七日病没、享年四十二

 俳人で、群馬県出身。夫人はかな女。大正十五年に「立体俳句論」を提唱。ホトトギス派に見られる平面描写に立体的躍動感を与えたもの。辞世を見ても動く心象が手に取るようにわかる。

 

 

礫川 れきせん 〔氏姓未詳〕  

四九三……辞世

咲もよしちるも芳野の山ざくら

生没年・享年とも未詳も天保時代の没

 俳人で、江戸の人。初代川柳の高弟で、桜木連、蓬莱連に名を連ね、川柳の名点者として名を上げた。人の命運は天運に任せるといった死生観は、禅の悟道に一脈通じるものがある。

 

 

錬太郎 れんたろう 〔土岐──〕  

四九四……辞世

麦焦がし地獄顔して主たり

昭和五十二年七月十四日病没、享年五十六

 俳人で、北海道新十津川町出身。僧籍にあり、草城に師事した。句風は、流麗なロマンチシズムを謳歌している。「麦焦がし」とは大麦を材料とした素朴な菓子で、夏の風物詩である。

 

 

 

三浦浪兮女 みうらろうけいじょ   

四九五……絶句

つく息の雲ともなるか月こよい

元治元(1864)年十月十六日没、享年三十二

 女流俳人で、奥州の人。長じて江戸へ出て逸淵に師事。大力豪胆な女傑としても噂の高い人だった。辞世、剛の内に軟を優しく包み込んだ佳句である。

 

 

呂丸 ろがん 〔近藤──〕  

四九六……辞世

消安し都の土ぞ春の雪

元禄六(1693)年二月二日客死、享年三十六

 俳人で、出羽国の人。羽黒山麓で染物屋を業とした。芭蕉は奥の細道行脚で呂丸を訪ねている。芭蕉を羽黒三山に案内してその門人に。やがて江戸経由で西行し、京都巡りで支考宅に寄宿したが、急病にかかり右辞世を残して他界した。

 

 

六之 ろくし 〔川崎──〕  

四九七……辞世

粟の飯さめて七十五年哉

明治十四(1881)年八月十六日没、享年七十五

 俳人で、尾張国の人。尾張藩藩士、俳号は麦水だが、剃髪して六之と称し通名にしていた。浮世絵も抑止、美政の雅号もある。振り返ってみて、どこか物足りなかった人生を述懐している。

 

 

六厘坊 ろくりんぼう 〔小島──〕  

四九八……辞世

この道のよしや黄泉に通ふとも

明治四十二年五月十六日病没、享年二十一

 新川柳作家で、大阪市出身。家は銀行経営など資産家であった。若い頃俳句に投句したものの入選ほとんどなく、川柳を選んだだ結果、大阪柳壇の若手旗手として名を馳せる。夭折した。

 

 

露月 ろげつ 〔石井──〕  

四九九……絶句

なほ白し花野にさらす馬の骨

昭和三年九月十八日卒中死、享年五十六

 俳人で、秋田県出身。郷里で開業医を開き、俳句は子規に師事した。壮大かつ荒削りな句風から「俳壇の惑星」の異称を貰う。死というものの現実の姿を浮き彫りにした辞世句である。

 

 

露伴 ろはん 〔幸田─〕  

五〇〇……辞世

水無月や与助は居ぬか泥鰌売

昭和二十二年七月三十日病没、享年八十

 作家・史学家・俳人で、江戸の人。家業は幕府のおもて坊主集、その血筋を受け有職故実や遊芸に長じた文豪である。俳人としては群れを嫌う一匹狼で、この辞世が横紙破りなのも頷ける。

 

 

 

渡辺桂子 わたなべけいこ   

五〇一……遺句

ほのぼのと雛の夜明けぞわが夜明け

昭和五十九年七月病没、享年八十三

 俳人で、東京市出身。水巴の妻。俳句は夫がよき師であった。夫の没後、俳誌『曲水』の代表を三十年も続けたことは特筆ものだ。右の一句、目の不自由な身を死の境地で逆手に取っている。

 

 

和友 わゆう 〔高村──〕  

五〇二……辞世

わがとしもよそしの花のあげく哉

元禄五年一月十八日没、享年四十四

 俳人で、京都の人。立圃の門人であるが、伝はほとんど未詳である。「四十路の花」とは、散りかけたしおれ花のこと。世は無常、もののあわれの深さを吟じている。

 

 

吾亦紅 われもこう 〔米沢──〕  

五〇三……遺句

梅雨晴れや今も師恩にひたり居り

昭和六十一年七月三日病没、享年八十五

 俳人で、長崎市出身。造船技師の職にあった。句は古武士を思わせる骨太な作が多い。「師恩」とは師事した秋桜子へのもの、わが身のことよりも師を崇拝する作品が少なくない。